【陰謀論】フラットアースを優しく論破するスレ 第18日
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そして水は>>807の川に戻る
>2.(古代中国の用法)川。
>・易水、淮水 易水(読み)えきすい
kotobank.jp/word/%E6%98%93%E6%B0%B4-444135
中国河北省易県の付近から発し、大清河に合流する川。
三源あって北易水(濡水)、南易水、中易水(武水)に区別され、通常は中易水をさす。
えきすい【易水】
teba.huraibou.com/glossary/ippan/04e/0557.html
中国,河北省西部にある河川。
中・北・南易水の三水があるが,通常は中易水をさす。イー-シュイ。 淮河
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%AE%E6%B2%B3
淮河(わいが、拼音: Huái Hé)は、中華人民共和国を流れる川の一つで、長江・黄河に次ぐ第三の大河。
古くは「河」が黄河の固有名詞であったので、淮水と呼んだ。
淮河は、黄河と長江の間を東西に流れており、下流にある湖で二手に分かれ、放水路は黄海に注ぎ、本流は長江につながっている。
その下流は平坦な低地を通っており、流路が複雑なため洪水を起こしやすく非常に治水が難しい。
このため「壊河(ピンインではHuài Hé)」の異名がある。 華北と華南の境界
淮河および秦嶺山脈を結ぶ線(秦嶺・淮河線)を境に、中国の南北では地理や気象条件などが異なり、伝統的に華北と華南の境界線とみなされている。
華北と華南の境界とされてきたことから、文化などに各種の差異がみられる。 おもしれ〜よなぁ
川(巛)という意味の一文字
河(黄河)
江(長江)
水(易水、淮水) ず〜っと言葉遊びと煽ってくる奴も実はこっそり調べてるんだろ?w
こんな面白いこと調べない方がおかしいからなw え〜っと、黄河が世界5位の長さで、長江が世界3位の長さの川なら
黄河と長江の間を淮水が持つ数字は「4」のはずだよな?
そして地球のへそは琵琶湖線にある
これはどういうことだ?w ×黄河と長江の間を淮水が
〇黄河と長江の間を流れる淮水が
だけど中立は地獄だと言ったばかり
琵琶湖=中立=神(金)なら、人が選ぶ銅とは違う
「ツクツクボウシ」と「クツクツボウシ」でもそれは分かってる
琵琶湖(近江国)ではインターネットには接続出来ない プーマの初代マークはD(4)の穴を通るピューマ(アメリカライオン/メスライオン)
オスライオンではその穴は通れない >>823
>>861
あっ黄河って5位じゃなくて6位の方が正しいっぽい
ちゃんとwikiも参照すべきだったな
黄河
ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3
>世界では6番目の長さである。
世界一長い川ベスト10
world-note.com/world-longest-rivers/ だから淮水(わいが)が「4」って話は無し
「4人目」はキリストで、キリストは銅のはずだから、中間の淮水がキリスト(4人目)は無しよな うんうん
つまり!!! 琵琶湖はやはり金鳥(鶏)ってことかな!!! >>865
なるほど、4位だけ三位一体か 神っぽいね
ミシシッピ・ミズーリ・ジェファーソン (レッドロック)
ミシシッピ川について知りませんでした16の事実
ja.yourtripagent.com/16-facts-you-never-knew-about-mississippi-river-4559
ミズーリ州 - ジェファーソン(レッドロック)川と組み合わせて、米国と北米で最長の河川システムと世界で4番目に長い支流を作り出します。 流石にこの辺にしとこう!!!
明日は琵琶湖だよ!!!
ここが重要なんだ!!! なるほど、嫌儲テレグラム勢(タルタリアジャパン)の隠語にミズーリ州(水売り衆)ってのがあるな
火男火売神社の対だろう
水商売にも繋がりそうだ >>864
前スレのDの穴(ディアナ)の考察
kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sky/1703629061/563-587
↑
この「あえ」→「ria」→「入り江」→「入り海」や、
>>842の
鳰(カイツブリ)の「水に入る鳥」という意味と、琵琶湖は古くから「鳰(にお)の海」といわれることを合わせて考えれば、 まあ俺が明日書く情報が無けりゃ無理だがな!!! アーッハッハッハ!!! 青火がコキ捨てたティッシュの中身なんて誰も見てねえよw 琵琶湖に浮かぶ日本のへそ、竹生島
ameblo.jp/motocosmos/entry-12279766116.html
先日の大人の遠足で、琵琶湖に浮かぶ日本のへそ、竹生島に念願かなって初上陸しました。
聖地巡景・滋賀 竹生島
omouhana.com/2017/08/24/%E7%AB%B9%E7%94%9F%E5%B3%B6/
琵琶湖は日本の「へそ」といってもいい湖です。
その琵琶湖の中にもさらにへそがあります、それが「竹生島」(ちくぶじま)。
竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立ったアマテラスより
「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」
というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。 インドの「サラスヴァーティー」、宗像三女神の「市杵島比売命」(いちきしまひめのみこと)と習合される弁財天。
宝厳寺は安芸の厳島、相模の江ノ島と並んで三大弁財天と呼ばれています。 二つの峰を持つ小さな島は、まるで湖面に浮かぶ古墳のよう。
「月も日も波間に浮かぶ竹生島 船に宝をつむ心地して」
神の眠る、神秘の島を後にしました。 第三十番 宝厳寺(ほうごんじ) の御詠歌
www.facebook.com/goeikajyunrei/photos/a.1850605055262302/2225962274393243/
月も日も波間に浮かぶ竹生島
船に宝を積むここちして
<御詠歌の意味>
謡曲『竹生島』に「月海上に出でては波間を兎が走るか面白の島の景色也」と謳われています。
月の兎が降りてきたことは福徳の御利益を表す表現です。
弁天様・観音様の住む不思議な島、これが竹生島です。
日の光月の光に照らされて、湖に浮かぶ竹生島はまるで七福神の宝船のようにさえ思えると詠っているのです。 (「慈悲の道」)より 竹生島詣で
noriquo.jugem.jp/?eid=279
ここは琵琶湖に浮かぶ竹生島に建つ竹生島神社。
おんな一人旅です。
竹生島は日本のへそ、世界の中心だと唱える人もあるそうです。
とても霊妙な雰囲気の場所でした。
厳島、江ノ島と並ぶ日本三大弁財天のひとつなのですが
厳島や江ノ島には書かれていないのに
竹生島には「厳島、江ノ島と並ぶ日本三大弁財天のひとつ」と
あちこちに書かれてあるところを見ると
竹生島を知る人がそれだけ少ないのだろうと思います。
たしかに他の二つの弁財天と比べると辺鄙な場所にあります。
三大弁財天参拝は念願でしたが、竹生島が最後になったのも
この辺鄙さのためかもしれません。 >>875の続き
>その中でも特に宝厳寺は歴史が古いので「大弁財天」を名乗っているようです。
竹生島宝厳寺弁才天堂
www.jalan.net/kankou/spt_guide000000203518/kuchikomi/
日本三弁財天のひとつ
日本三弁財天の中では一番古いため、ここだけ「大」が付いて大弁財天と呼ばれます。
【滋賀】びわ湖に浮かぶ弁才天と観音のお寺 宝厳寺 レポート
www.e-horindo.com/haikan/otera/1670/
宝厳寺 本堂(弁才天堂)
大弁才天
日本三大弁財天の1つ。
その中で最も古い弁才天。
そのため「大」の字をつけ
大弁才天と称します。 全てが別格! やっぱり凄かった 竹生島A
ameblo.jp/magatama8823/entry-12769100695.html
弁財天堂前の不動明王様
前回来た時に、不動明王様について全く知りませんでしたが、何故かとても心に残り、すっとお姿を思い出せた不動明王様。
今回来ても、やっぱりとっても好きです。
大らかというか、スケールが大きいというか、宇宙の中心の大日如来様の化身(仮の姿)というのが相応しい感じです。
琵琶湖に浮かぶ日本のへそ、竹生島の不動明王様だからでしょうか。
東寺の大日如来様を彷彿とさせます。 沈黙の旅1 竹生島編
www.ne.jp/asahi/endows/page/page026.html
生まれてこの方、1週間も喋らなかったことはない。1週間も人に会わないこともなかった。
しかし、今回は、この1週間完全な沈黙が守れるかどうかで、今後の声の良し悪しが決まると医師に云われれば、なんとしても沈黙を守るしかない。
しかし、鬱々と家に居るのは気が重い。
で、退屈せずに1週間の沈黙を守るには一人旅が一番と、医師にも許可を得て旅に出ることにした。
そして、余り思慮もなく決めた静養の地は、琵琶湖であった。 琵琶湖は外周235キロもある日本最大の古代湖。
日本のヘソに位置し、さらにその湖のヘソに竹生島があるそうだ。
日本を人間の体に例えると、琵琶湖は子宮だという人もいる。
能楽師にとって声は命だから、その再生の旅に母なる島に帰るのは図らずも実にぴったりである。 俺が明日書くことはこれで大体予想できるだろう?
まあ具体的な内容は分からないだろうがね ∞∞∞
83
ヤミ
ミヤ
宮
子
ね
=24
8x3 𓅪𓆗プスケント
ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97…
古代エジプトのファラオが着用した紅白の冠
下エジプトの冠デシュレトと上エジプトの冠であるヘジェトという二つの冠を組み合わせて作られているためファラオの二重冠とも呼ばれる
パロ
8。o
大家 ペルアア
oo8
#規矩 γΓ 33 8 ∞
#淡 アハ
#琵琶 ヒハ
https://i.imgur.com/X3e7y7a.jpg
https://i.imgur.com/tY8VpWT.jpg 琵琶湖は鶏ね
鳥は恐竜が進化したものだから、爬虫類に繋がって、竜と蛇にも繋がります 今日は本の内容を貼るだけにしよう
量が多いからな
言葉遊びと連想ゲームをするのは明日だ
まずは、参考にする本の記述を抜粋する 『思考の紋章学』澁澤龍彦
「ランプの廻転」から抜粋
私が数多くの鏡花作品のなかでも、とりわけて『草迷宮』の一篇を愛しているのは、
その作品全体が、なお廻転する迷宮のような印象を私にあたえてやまないからである。
私の印象には、むろん、作品の中で重要な象徴的役割をはたす、
あの手毬のイメージが重なっていることもいっておかねばならぬだろう。
『草迷宮』の粗筋をざっと説明すれば、
物語の主人公ともいうべき人物は、子供のころ、いまは亡き母から聞いた手毬唄を、
ふたたび聞きたいという夢のような熱望に駆られて、日本全国を行脚している青年、葉越明である。
明はたまたま、三浦半島の葉山に近い秋谷海岸にきて、
川に浮かぶ手毬を発見し、あるいは手毬の持主に会えるのではないかという期待のもとに、
そのまま秋谷の資産家の空き別荘、いわゆる秋谷屋敷に逗留することになる。 この秋谷屋敷で、彼はあたかも『稲生物怪録』の平太郎少年が経験したような、
化けものの執拗な来襲を受けねばならなくなるである。
迷宮のアナロジーでいえば、ここにミノタウロスが棲んでいるのだ。
そして、たしかにミノタウロスは棲んでいたし、アリアドネ―は糸玉ならぬ手毬をもって、若いテーセウスたる明をここへ導いたのであった。
秋谷屋敷の迷宮は、むろん、クレタ島のそれのように幾何学的な石造建築ではなく、
いかにも鏡花世界にふさわしい、鬱蒼たる植物の繁茂した、小川の水の豊かに流れる湘南の一隅である。ごく近くに海さえある。
しかし、それが迷宮としての特徴の一つ一つを具えていることに変わりはなくて、私はむしろ、そのことに驚きの念を禁じ得ないほどだ。 まず第一に、旅人の遍歴があり、遍歴する旅人の目的として、迷宮の中心に到達しようという意志がある。
次に、迷宮の中心に到達するために必要な、イニシエーションとしての試練があり、中心の部屋には怪物がいる。
これだけでも迷宮成立のための条件は十分に満たされていると思われるのに、
さらにアリアドネ―の糸玉の代替物と見なして差支えない、手毬のシンボルがある。
ギリシアのヴァリアントでは、アリアドネーがあたえるのは光り輝く王冠だったというから、この方が手毬に一層近いのかもしれない。
手毬は時に緑色の珠になったり、光ながら飛ぶ螢になったりして、明らかに廻転する迷宮の全体を象徴しているかのようだ。 ただ、この明というテーセウスは奇妙なテーセウスで、
甘んじて試験を受けたはよいが、ミノタウロスを殺そうともせず、
アリアドネ―と手をたずさえてナクソス島へ遁走しようともしない。
あろうことか、幕切れには眠りこんでしまうので、そもそも迷宮から脱出する意志がまるでないのである。
旅人が脱出することを欲しない迷宮。
これがおそらく、鏡花のつくりあげた迷宮の、その他多くのそれと決定的に異なった一点であろう。 『ホフマンスタールと迷宮体験』のなかで、マルセル・ブリヨンは次のように述べている。
「迷宮に入りこむ旅人にとって、目的は中心の部屋、密儀の地下室へ到達することである。
しかし、ひとたび到達したとき、彼はそこから脱出し、外部世界にふたたび戻らねばならぬ。
つまり、新しく誕生するわけだ。
これが密儀宗教、すべての宗教の行うことであって、ここでは迷宮への旅は、
人間が新しくなって生まれ出る変身のための、必要欠くべからざる過程と見なされているのだ。
旅が難儀をきわめ、障害の数が多ければ多いほど、それだけ信者の変化も大きく、
この巡回のイニシエーションの過程で、大きく変化した新しい自我を獲得するのである。」 『草迷宮』の主人公は、『稲生物怪録』の豪胆な少年のように、化けものと積極的に戦う気持は毛頭なく、
したがって、イニシエーションの試練を受けても、それによって生まれ変る、つまり、一人前の大人になるということがないのである。
彼は障害を乗り越えて「新しい自我を獲得する」どころか、永遠の母性憧憬という夢のなかに、その自我をぬくぬくと眠らせたままでおくのだから。
化けものも、これでは張り合いがなくて退散せざるを得ないだろう。 ここで明らかになるのは、秋谷屋敷という一つの迷宮世界、一つの魔圏が、主人公たる明の退行の夢の世界でしかなかった、ということだろう。
またしても同心円のイメージが現れる。
しかも今度は、すべての物語の時間がヴェクトルを逆にして、明の夢に向かって収斂するのだ。
いや、明の夢が大きくふくれあがって、すべての物語の時間を呑みこんでしまったのだといってもよい。
その夢のなかで、明は幼児になっている。
明の寝顔を眺めて、魔界の美女が
「まあ、稚児の昔にかへって、乳を求めて、……あれ、目を覚す……」
というのは、そのためだ。 明の側に、迷宮から脱出する意志がなかったのも、化けものと戦う気持がなかったのも、考えてみれば道理というべきであろう。
彼はみずからすすんで、迷宮という一つの退行の夢の中に落ちこんだのだから。
テーセウスのように、首尾よく迷宮から脱出することが出来た者は、えらばれた少数者であり、この上ない幸運に恵まれた者であろう。
誰でもが、このような幸運に恵まれているとはかぎらないし、神々に愛されているともかぎらない。
少なくともアリアドネ―にめぐり遭うのは、稀有な僥倖であろう。
神々に愛されない不幸な者は、いっかな迷宮から脱出することを得ず、永遠に不毛な彷徨をつづけなければならないのである。 とはいえ、この永遠の不毛な彷徨を、いつ終るともなき豊かな体験に一変させる方途はないものであろうか。
おそらく、たった一つだけあるのだ。
しかし、これも望んで手に入れられるというような種類のものではない。
それは何かというと、少なくとも生涯に一度、たぶん大人になる前、
迷宮の中心の部屋に到達したことがあるという、何物によっても揺るがされることのない確信である。
この確信によって、迷宮の灰色の歩廊の堂々めぐりも、彼にとっては少しも苦痛ではないものとなる。
迷宮の中心の部屋に何があるかを、彼は知りすぎるほど知っているのだ。
かくて迷宮を出たがらないテーセウスは、アリアドネ―の糸を掴んでは放し、また掴んでは放す。まるで遊んでいるかのようだ。
すでに迷宮は彼にとって、そこへ行けば必ずアリアドネ―の幻影を呼び起こすことが可能な、一種の棲み心地よい場所となっているかのごとくである。 カフカの『巣』という、地底の迷宮を描いた小説のなかに、次のような一節がある。
「ここにこそ、半ば平和に眠り、半ば楽しく目ざめながら、私が歩廊のなかで過ごす快い時間の意義がある。
これらの歩廊は、のびのびと身体を伸ばしたり、子供のように転げまわったり、
うっとり横たわったり、満ち足りて眠りこんだりするために、私の身体にぴったり合うように造られているのだ。」
これはあたかも母胎内の感覚であり、
カフカにとっての迷宮がすでに、自分の喜ばしい孤独を保障するための、一種の小さな隠れ家になっているということを明かすものだろう。
極小の迷宮とは、もしかしたら母胎そのものなのかもしれない。 もしテーセウスのように迷宮から脱出することが、新しく誕生することだったのだとすれば、どうしても迷宮と母胎は同一化されざるを得ないだろう。
迷宮と母胎とは、しばしば螺旋のサインによって表現されているともいう。
ところで、母胎のなかで息苦しく窒息しそうな感覚は、鏡花にはまるで縁のないものだった。
このあたりが鏡花をして、あのプラハの独身者から大きく隔たらしめるところの眼目であろう。
鏡花の迷宮が、その核に母胎のイメージを保持しながら、
小さく凝縮したかと思うと、次には大きくふくれあがる、伸縮自在の同心円の迷宮だったことは、私がこれまで再三にわたって指摘してきたところである。 『思考の紋章学』澁澤龍彦
「夢について」から抜粋
熱病で死んだ僧興義が一匹の鯉と化し、琵琶湖の水中を泳ぎまわる幻想をほしいままにして、ふたたび眠りから覚めたように生き返ったという、
上田秋成の『夢応の鯉魚』における周知の顚末は、いかにも夢に似ているが、厳密にいえば夢ではないのかもしれない。
ひとが死んで四十九日は、その魂がただちにあの世へ行ってしまうのではなく、
幽明の間にふらふらとさまよっているので、もしかしたら生き返った興義の魂も、その三日におよぶ彷徨のあいだに、みずから魚と化した幻想を体験したかもしれないからだ。
仏説にいう中有なるものを、作者たる秋成が信じていたことは疑いないように思われる。
よく見られる野梅堂版の挿絵には、俎板の上でまさに切られんとしている鯉の口から、小人のような僧形の男が吐息とともに逃れ出したところが描いてあって、
中有の夢にせよ本有の夢にせよ、夢において魂が肉体から離脱するということには、本質的に何ら変りがないように思われる。 さて、その夢についてであるが、
『夢応の鯉魚』の物語では、病気になった興義が息たえてから三日目に、忽然と生き返り、
驚きあやしむ弟子たちを前にして、自分が味わった奇怪な夢の体験を語るという仕組みになっている。
夢であることがはっきり読者に伝わるように叙述されている。
ところで、秋成の九篇の短篇を現代語訳(という言葉では適当でないかもしれないが)した石川淳氏の『新釈雨月物語』では、
この物語の順序が完全に逆転し、
夢は夢として語られず、断わりなしに、現実から夢の世界にずかずか踏みこんでゆくような具合に、物語の時間が進行するのである。
俎板の上で「わっ」と叫んで跳ねあがった瞬間、「和尚さま、お気がつきましたか」と周囲の弟子たちにいわせる筆法である。
つまり、興義がそれまで死んで夢をみていたことは、ここで初めて読者に明かされるのだ。
現実と夢のあいだの垣根を取りはらい、小説の内部に流れる時間を緊迫したものとするために、石川氏の改変した方法がはなはだ有効であるのは申すまでもあるまい。 私には、しかし、ここで秋成方式と淳方式との優劣を論ずる興味はまったくなくて、
むしろ興味の中心は、一般的な夢の叙述法ということにある。
いずれの場合にも、夢と現実のつながり具合が問題だったのである。
近代小説家ではない秋成は、夢と現実のスムースな接合をあっさりあきらめて、もっぱら夢を夢として語ることしか考えてないが、
小説に関する方法意識の旺盛な石川氏には、どうしても夢と現実を切れ目なく、スムースにつなげたいという気持が強くあったようだ。
前者が夢を平然と括弧に入れてるとすれば、後者はその括弧を強引に外しているともいえる。 「われわれは想い出すことによってしか夢を知らない。何よりまず、夢とは想い出である」
というヴァレリーの言葉が正しいとすれば、
もっとも素朴な夢の叙述法が、秋成の用いたような一種の回想形式、夢を括弧に入れる形式となるのは自然であろう。
これもヴァレリーの言葉だが、
夢とは
「それが不在のあいだだけ観察できる現象」
だからだ。 私たちが夢の空間にすっぽり包まれている時には、その世界が夢であるとは誰も思わず、現実にいるものと信じこんでいる。
夢の空間から排出されて、つまり目覚めることによって、初めて私たちは夢を夢として意識する。
私たちが知っている夢は、だから、ことごとく私たちが脱出したあとの空虚な空間、夢の抜け殻なのである。 たとえ私たちが夢のなかで夢をみていることを意識していたとしても、その事情は変わらないはずである。
それはおそらく、夢をみていることを意識している一つの夢なのであって、
そのひとは、意識している夢を現実と見なす錯誤に陥っているにちがいないからだ。
この意識を二重三重に複雑化しても、夢と現実の無限のいたちごっこに、私たちはとうてい敵すべくもないだろう。
夢の膜を破ってひょっこり首を出したつもりでも、そこは現実ではなく、またさらに大きな夢の膜の内部なのだから。
実際、抑鬱症の患者の夢には何重構造にもなった夢があるらしく、
「何か恐ろしくて目が覚めたと思ったら夢だった。また恐ろしくて目を覚ましたが、それもまた夢だった」
という場合があるそうである。 このように、夢がいわばタマネギ構造であることを認めるならば、現実そのものも、同じようにタマネギ構造であることを認めざるを得なくなろう。
すなわち、私たちが現に生きているこの現実を、真の現実と見なすべき決定的な根拠は何もないということだ。
目覚めているつもりでいても、たしかに目覚めているという証拠は何もない。
たとえば私は現在(一九七五年九月十八日午前三時十八分)、世の中のほとんどすべてのひとが寝静まっているとき、
わが家の書斎の机に向い、しきりに原稿用紙にペンを走らせつつ、夢と現実のいたちごっこに関する埒もない妄想を追っているところであるが、
この私が夢をみているのではないという証拠は一つもないのだし、
このペン、この原稿用紙が、夢のなかのペン、夢のなかの原稿用紙でないという証拠は一つもないのである。
いや、それどころか、興義が鯉の口から吐き出されたように、この私もいつか、澁澤龍彦という夢から決定的に吐き出されないという保証は何もないのだ。 荘周は蝶になった夢から覚めて、
「周の夢に胡蝶と為りしか、胡蝶の夢に周と為りしかを知らず」
といったが、
ここからごく自然にみちびき出されてくるのは、
「興義の夢に鯉魚と為りしか、鯉魚の夢に興義と為りしかを知らず」
というパロディーであろう。
古い荘周の寓話は、少なくとも感覚的には現在に生きているのである。 『夢応の鯉魚』にしても『今昔物語』にしても、あるいは『御伽婢子』にしても、いずれも純粋に日本種の物語ではなく、
元をただせば中国種の物語であるということは、とくに注意しておいてよいことだろうと思う。
ロジェ・カイヨワが『夢に起因する不確実性』のなかで驚嘆しているのだが、
メタフィジックへの志向を欠いた中国人の想像力は、あたかもギリシアの詭弁派かインドのジャイナ教徒のそれのように、
無限に入り組んだ論理やイメージのたわむれを作り出すことを好んだらしいのである。
私たちは、カイヨワとちがって東洋人であるから、
戦国時代の『荘子』や『列子』から漢魏六朝時代のいわゆる志怪小説、さらには唐代の伝奇小説にいたるまで、
そのなかに出てくる比喩や寓話により多く親しんでるはずであり、何もそれほど驚かなければならない必然性をかんじはしないが、
それでもヨーロッパ人に指摘されると、虚を衝かれたように、あらためてこれを見直してみたいような気になるから妙である。 中国人は合理主義者であり現実主義者であり、形而上学への志向を根本的に欠くといわれているが、
それだからこそ、その幾何学的精神をひたすらトポロジカルな面に発揮することができたのではなかったろうか。
私にはそんな気がしてならないのである。
パスカルを代表とするヨーロッパ人は、おしなべて無限の観念に畏怖をおぼえたが、
中国人はこれを「チェスの駒の組み合わせ」(カイヨワの表現)のように、あるいは鏡の反映のように、
どうやら楽しみながら複雑多岐にイメージ化することができたのだ。 漢字を発明したという一事をもってしても、中国人が他のどこの民族にもまして、気違いじみたイメージ主義者であることは明らかだろうが、
私はまた、一つの卑近な例として、あのチャイニーズ・ボックスと呼ばれる箱のことも述べておきたい。
箱の中から箱、またその箱の中から箱といった具合に、大小さまざまな箱を順次重ねて組み入れた、中国人の得意とする手品の箱である。
壺中天の故事や南柯の夢の故事も、また私がこれまで述べてきた夢における同心円構造も、すべてこれ、
大小の世界が入れ子になった、チャイニーズ・ボックスの応用でなくて何であろうか。
志怪小説や伝奇小説のなかに、このパターンに属する主題を扱った作品がいかに多いかを思えば、
この手品の箱こそ、中国人の想像力の特徴をもっとも明快に明かすものではないか、とも思われるのだ。 ついでにいっておけば、
中国人のユートピアへの到達方法が、ヨーロッパ人のそれのように海を越えたり宇宙空間を突っ切ったりすることを少しも必要とせず、
ただ洞穴や木の洞をひょいとくぐり抜けたり、壺のなかへひょいともぐりこんだりするだけで十分なのも、おそらく、このことと深い関係があるにちがいない。
桃源郷とは、現実と地つづきでありながら、しかも現実の裏側にある世界、
ちょうど私たちが「メビウスの帯」を指でなぞった時のようにして、到達することのできる場所なのではあるまいか。 それはともかく、
カイヨワが引用している『紅楼夢』第五十六回の賈宝玉の夢のエピソードは、
私にとってもはなはだ魅力的なので、どうしてもここに再録しておきたい誘惑に駆られる。
ただし、あまりに長すぎるので、私が適宜に省略して物語の粗筋だけを浮かびあがらせることにしよう。 「宝玉は眠りこんでしまうと、夢で自分の家の庭、大観園とそっくりな花園に入りこんでしまった。
おかしいな、と思っていると、向こうから近づいてくる娘たちも、自分の家の侍女たちにそっくりなのである。
侍女たちは笑いながら、『まあ宝玉さま、どうしてここへいらっしゃいました?』と声をかける。
そこで、『いや、散歩しているうちに、ひょっこりここへ出てしまったのですよ。ひとつ、お庭を案内してくれませんか』というと、
侍女たちは噴き出して、『あら、うちの宝玉さまだとばかり思っていたら、そうではないわ。宝玉さまの方がずっといい男だわ』といって行ってしまう。 宝玉は不審でならず、『いままでこんな扱いは受けたことがないのに、どうしてあの娘たちはあんな意地悪をするのだろう?』と思いながら、
どんどん歩いて中庭を通りすぎ、階段を上って部屋に入ると、その部屋の榻の上に、ひとりの若者が横になっているのが眼に入る。榻のそばには侍女たちがいて、針仕事をしている。」
「やがて若者が目を覚まして、こんなことを侍女のひとりにいう。
『ぼくはいま、とても変な夢をみたよ。どこかの花園へ入りこんでしまって、そこでお姉さんたちに出会ったのだけれど、みんなぼくを相手にしてくれないで、さっさと行ってしまった。
そこで部屋にゆくと、ぼくの榻に誰かが眠っているんだ』と。 宝玉はこれを聞くと、いきなり声をかけた、
『ぼくはあなたを探していたのですよ。あなたが宝玉さんでしたか』と。
すると若者も起きあがり、宝玉の手を握りしめて、
『やあ、あなたが宝玉さんか。やっぱり夢じゃなかったんだな』と叫ぶ。
そのとき、取次ぎの者が現れて、『お殿さまが宝玉さまをお呼びでございます』という。
二人はうろたえる。そこで宝玉は目を覚ます。」 カイヨワはこのテキストの最後の部分に修正を加えて、ようやく目覚めた宝玉をして、
さらに次のようにいわしめている。
「ぼくはいま、とても変な夢をみたよ。どこかの花園に入りこんでしまって、
そこでお姉さんたちに出会ったのだけれど、みんなぼくを相手にしないで……」と。
二つの鏡を向き合わせたような、眩暈のするような無限連続のイメージが浮かぶが、
一見したところ複雑のように見えて、そのじつ、このイメージは、それほど複雑ではないと私には思われる。 前に『今昔物語』の二人同夢の例をあげたけれども、この『紅楼夢』の夢では、逆に一人の自我が二つに分裂し、
その分裂した自我それぞれの夢が、相手の夢をおのれの夢の内部に併呑しようとしているにすぎないのである。
宝玉が見たように、夢のなかに自己の模像を見るということは、要するに夢そのものもまた、
現実の模像なのだということの比喩ではないかと私は思う。
現実と夢とは互いに自己の主観を主張して、互いに相手を滅ぼし去ろうとする。
もしかしたら、無力な私たちはただ、その現実と夢との葛藤に捲きこまれ、翻弄されているだけなのかもしれないのである。 すでに紀元前三百年に、荘周は自分が蝶になった夢をみたのだろうか、それとも蝶が自分になった夢をみたのだろうかという、
現実と夢の解釈に関するもっとも基本的な二律背反にぶつかったが、
この二律背反は今日でも、その強力な魔術的効果を少しも失っていないような気が私にはする。 たとえば、ボルヘスの『宮殿の寓話』という作品をごらんいただきたい。
『宮殿の寓話』が中国の物語であり、そこに登場する黄帝が、道家思想の伝説的な始祖で、かつ夢を支配する予言者だったということは暗示的である。
ボルヘスの物語を要約すれば、或る日、黄帝が詩人を宮殿に招いて、みずから宮殿内を案内して歩く。
まっすぐ歩いているようでも、いつの間にか道が曲がって円形になってしまう庭園には、杜松の生垣とともに、金属の鏡が張りめぐらされ、まるで迷宮のようである。
二人は長いことかかって、その迷宮庭園をようやく抜け出ると、
次には多くの控えの間や、中庭や図書室を横切る。
水時計のある六角形の広間も通る。
白檀の小舟に乗って、きらきら波の立つ河も渡る。 やがて、さまざまな色をした、高く聳えるいくつもの塔のみえるところにくる。
その塔の最後から二番目の下にくると、詩人は一篇の短い詩を口ずさむ。
その詩は残っていないが、一行の作品だったとも、わずか一語から成っていたともいう者がある。
どんな内容の歌だったかというと、要するに、
この宏壮な宮殿の果てしない過去から現在までの一切の歴史、そこに住んだ一切の人間や動物や神や装飾品や付属物を、そのなかに歌いこんだ詩だったのである。
この詩を耳にすると、黄帝は、
Me has arrebatado el palacio!(わしの宮殿を盗みおったな!)
と叫んで、ただちに詩人の生命を奪ってしまった。
また一説には、詩人がその詩を口ずさんだとたん、宮殿は電光に撃たれたように消えてしまったともいう。 このボルヘスの作品において、詩と宮殿は等価のものであり、双方が並び立つことはできないという寓意はあまりにも明瞭であろう。
宮殿を存続させるべきならば、詩人は殺されなければならないし、詩が永遠の生命をもつならば、宮殿は滅びなければならないのである。
そしてこの場合、詩と宮殿の対立は、また夢と現実の対立と言い換えても差支えないであろう。
現実を存続させるべきならば、夢は殺されなければならないのだ。 夢をみることの好きなひとは、その夢が完成に近づけば近づくほど、黄帝の一喝を受けて、その生命を奪われる日の近づいたことを予感しなければなるまい。
夢をみることの好きなひとよ、
Me has arrebatado la realidad!(わしの現実を盗みおったな!)
という声が幻聴のごとく、諸君の耳には聞こえてこないだろうか。 貼りつけ終わり
アレゴリーは明日ね
蜘蛛の網(糸)は蜘蛛の巣とも言う(クモの網wikiより)
スティーブンキングのIT(イット)!!!ってな感じにやろうかね >>894
×光ながら飛ぶ螢になったりして、
〇光りながら飛ぶ螢になったりして、 書き込みがあると、いきなりやる気出して連投しまくるとかw 簡単なアレゴリーだ
なぜ分からん
なぜマトリックスは元来「母体・基盤」という意味なのか?
あの有名な映画から、「仮想現実」の代名詞にもなっているのはなぜか?
母とは包み込むアレゴリーだ
ツァラトゥストラはみなぎりふくらむ牝牛の乳房のように熟すことが「万全の準備」と語った
>>898のように、乳を求めているようでは迷宮は抜けられない
自分が牝牛の乳にならなければいけないんだ
神から見てイーオー(牝牛)になることで迷宮から脱出できる
ミルクは日本では精子の隠語、乳は父とも読む
犬夜叉の弥勒の妻は珊瑚
ワンピースのエネルの技は稲妻と書いて「サンゴ」と読む
「稲妻」はもともとは「稲夫」と書いた
妻は珊瑚であり、牝牛とは、弥勒(夫/ミルク神)の対のクルミである
そしてクルミ(包み)は母体のアレゴリー
クルミは、割るもの(悪者)、ヒール(正午) 三井寺について
www.shiga-miidera.or.jp/about/index.htm
・琵琶湖を見下ろす大寺
・苦難を乗り越えてきた不死鳥の寺
三井寺の本堂、金堂には、本尊として弥勒菩薩(みろくぼさつ)が祀られています 浪漫紀行・三井寺
鯉になった僧興義
www.shiga-miidera.or.jp/serialization/travel/113.htm
三井寺〜夢応の鯉魚(上田秋成『雨月物語』より)鯉魚とすべての生あるものの叫び
sanakajyuku.com/miidera/ 愛知学院大学図書館 e
www.lib.agu.ac.jp/yousojiten/e.htm
★1.絵に描かれた動物が抜け出て、生きた動物となる。
『雨月物語』巻之2「夢応の鯉魚」 延長(923〜931)の頃、三井寺に興義(こうぎ)という僧がいて、絵の名手だった。
仏像・山水・花鳥の絵も描いたが、とりわけ鯉魚の絵を得意とした。
彼は臨終に際し、鯉魚の絵数枚を琵琶湖に散らすと、鯉魚が紙絹から抜け出して泳いだ。そのため、興義の絵は現存しない。
愛知学院大学図書館 u
www.lib.agu.ac.jp/yousojiten/u.htm
★2.人間の魂が魚の中に入る。
『雨月物語』巻之2「夢応の鯉魚」 三井寺の僧・興義(こうぎ)は絵の名手で、特に鯉魚の絵が得意だった。
ある年、彼は病にかかり息絶え、三日後に蘇生したが、その間に彼の魂は身体から抜け出て、琵琶湖の鯉魚の中に入り、心のままに遊泳した。
鯉魚は漁夫によって釣り上げられ、あやうく膾にされそうになった時、
魂は再び興義の身体に戻った(興義の病気は治り、彼はその後長く生きて寿命を全うした)。 >>934
愛知学院大学図書館 u の続き
★4.大魚の腹の中の人。
『ヨナ書』 ヨナは嵐の海に投げこまれ、巨大な魚に呑まれた。
ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいて神に祈る。神が魚に命じ、ヨナを陸に吐き出させる。
ヨナは神の命令に従い、預言者となった
後に、イエス=キリストが自らの死と三日後の復活について、
「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、私も三日三晩、大地の中にいることになる」
と予告する(『マタイによる福音書』第12章)〕。 ★5.大魚の腹の中の像・人形。
『ピノキオ』(コローディ) ジェペット爺さんが作った人形ピノキオは、学校へ行く途中で教科書を売り払い、遊びに出かけて、行方知れずになる。
ジェペット爺さんはピノキオを捜して海に行き、フカに呑まれる。
ピノキオもさまざまな冒険の後にフカに呑まれ、フカの腹の中でピノキオとジェペット爺さんは再会する。 字が細くなったけどここ重要ね
昨日貼った「夢応の鯉魚」の話は明らかにキリストの復活のパロディーだよな?
そしてそれはもちろん、ヨナとピノキオにも繋がる ヘブライ語でヨナ=ハトなのも見逃せないよな?
創世記8章をヘブライ語原典から逐語訳してみました
wordbyword.holy.jp/li-genesis08.html#SubAdrR326C1
יונה (פירושונים)
he.wikipedia.org/wiki/%D7%99%D7%95%D7%A0%D7%94_(%D7%A4%D7%99%D7%A8%D7%95%D7%A9%D7%95%D7%A0%D7%99%D7%9D) 救いは、主にこそある
kobe-michael.org/topics/20140801.html
嘆く者
ヨナは神様の言いつけに逆らって逃げ出し、嵐にあって海の底深く沈み、「潮の流れがわたしを巻き込み、深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。
地の底まで沈み、地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。(ヨナ書2章7節)」と嘆きます。
預言者である彼の名「ヨナ」とは「ハト」という意味です。
クックと鳴くから鳥に九と書いて「鳩」となったそうですが、ヘブライ語の鳩=ヨナには、嘆くものという意味があります。 気付いてたか?
これ気付くか気付かないじゃ全然違うよ? そこからスムーズにガッツマン(4人目)に繋がるよな
ガッツの語源のおさらい
kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sky/1689912508/893-910 ベルセルクのガッツと狼の皮と、アレフと木星の惑星記号は「4」であり「21」 のおさらい
kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sky/1700216405/482-512
肉体(腸)であり、精神(心)である、それが4人目 のおさらい
kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sky/1700216405/978 そして「腸」という字は、月+昜(日光)
「昜」の考察は一昨日したばかりだな >>830-840 「昜」は縦にすると、
「日
5」
5は蒸気が日(8)に向かって登るのを妨げているサタン
そして、↓に書いてる通り、昜(陽)には「いつわる」の意味もある
昜(陽)の字のおさらい
kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sky/1697843870/408-422
いつわりの父、サタンのことだよな 偽りの乳のおさらい
kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sky/1701820724/560-567 ガッツ(ハート)といえば、>>944に書いてるようにベルセルクの主人公のガッツだ
ガッツが持ってる大剣は「ドラゴン殺し」だ
笑いの仮面を付けたキルバーンは「ドラゴンキラー」を自分の血液(魔界のマグマ)で溶かして消した
ドラゴン殺しも笑い(草/W)と対のアレゴリーなのは間違いないだろう
ガッツ自身はガッツマン(4人目)でハート(鳩/キリスト)のアレゴリーだが、
身に着けてる狼の皮や剣は逆の神殺しのアレゴリーってことだな 去年のまだフルCGと思ってないし、自我もあると思ってる時の考察で恥ずかしいけど、これも参照してね
ゲオルギウス(セント・ジョージ)のおさらい
lavender.5ch.net/test/read.cgi/min/1673042515/388-431
lavender.5ch.net/test/read.cgi/min/1673042515/510-518 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。