石田三成の挙兵 ★9
最上が上杉に難癖つけた軍道建設ってこれのことか?
朝日軍道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E8%BB%8D%E9%81%93
場所的には村上領と最上領の境目みたいだが、
上杉が飛地の庄内行くには道は必要だろ? これ、リンクの通りだと最上の主張は難癖でもなく正当だと思うけど、どうなんだろう。
平和に使うなら、現在ある道を馬が通れるように秘密裏に行う必要はなさそうだが。実際に軍事行動にも使用されてるし。 會津と荘内を隔てるは最上侍従24万石。上杉にとって最上領併呑は一番にやるべき路線である。徳川もそれを見抜いていたのか、南下はないと考えていた >813-814
江戸時代でも山奥の更に奥の土地は所有権が結構グレーだったからこの当時はもっと曖昧だろうな >>814
飛地なんだからある道使うなら最上領通るしかないんじゃないの?
で、最上が通行の許可出すなら通れるんだろうけど、
山形あたりの地理は詳しくないけど、
米沢から庄内酒田方面行くには山形城下を通らなきゃならないのと違う?よくわからんけど。
それを最上が許可しない、あるいは許可しないと思ったから軍道作ったとわたしは見るけど。
関ヶ原の時でも東軍が岡崎城下通る時書状で通行許可求めてたとこみると
城下を他大名家が通るのは敏感になるんじゃないかと思う。 最上が通行の許可出さなかったら中央(豊臣政権)に訴えて
解決を計れってのが惣無事令なんで
飛び地をつなげなきゃっていう発想は戦国時代的なんだよね
だから朝日軍道の整備は豊臣政権的には余裕でアウトで
どうしてもやりたいってんなら許可を得てからやりなさいって話
上杉がその辺のロジックを理解してなかったのか
意図的に無視したのかは判断が分かれるところだけど 徳川は上杉の南下はあり得るとみてたよ
だから抑えを用意していた
というか最上併合できたとしても
徳川が生きてればそんなの無意味なんだから上杉は最上とかと遊んでる暇はなかった 抑えの結城秀康は実際にはどれくらいの戦力で備えてたのだろう
前に2万人という書き込みを見たが本当なら上杉佐竹でも抜けなそう >>820
さすがに最上領は制圧したいんじゃねーかな、いくら軍道を作ったとはいえ
それに抑えの兵を残したという事は、逆に言えば大規模侵攻をする気はないという事だ
ならば旧領越後を奪回するなどして、領地拡大の既成事実を積み重ねようとする可能性もある
大体家康が生きてようと、この時点では東軍先発隊崩壊があり得ない訳ではないし、
東軍が(可能かは置いといて)軍事的か政治的に屈服すれば徳川の存在など放置してもよい
極端な話、関東征伐なんて西軍が勝利すれば後回しでもいいんだしな
見通しが甘い?諸侯の大半が長期戦を想定してるんだからそんな事を言われても困る
いっちゃなんだが景勝の戦略眼や戦術眼なんてそう大したものではないだろ 阿部哲人氏だったかな?
1次資料から上杉の目標はあくまで最上の服属させることで
滅ぼすつもりはなかったのではないかと考察してたのは >>823
直江兼続が慶長5年9月15日付秋山伊賀宛書状で「畑谷城で江口父子をはじめ500人を撫で斬りにしたぜ」ってほざいてる
書状あったでしょ。あれ城兵だけでなく周りの領民も皆殺しにしたらしいけど、そんな真似して最上が即座に服属するとでも?
実際、どこの城も降伏するどころかさらに抵抗を激しくして、上杉軍は2万も率いていながら、山形城の主力すら出てくる前の
出城でみんなつまづいて撤退する羽目になっている
どこを見たらそんな考察になるのか? 直江兼続には兵隊を進退させることが重荷だったのである >>823
まぁ一次史料だと最上屈服させて味方につけるとかそんなんばっかだからね。言うこときいてくれればOKそのための脅しが最上攻めみたいな 上杉が西軍の状況を知る連絡路は真田領か佐竹領しかない。その内真田領は沼田を支配する真田信幸が密かに東軍に通じてるので連絡不能、そこを往還する事は出来ない。佐竹は当初は東軍か西軍かわからなかったが家康からの人質提出を拒絶して手切となったのでやはり連絡路にならない
だから上杉は「西軍が豊臣秀頼と共に決起、伏見城が陥落」「家康は豊臣公儀より追放されて軍事行動不能」という情報しか掴んでなかった。この状況なら最上や伊達を攻撃して領国を拡げるのは普通の行動、というかきたるべき徳川挟撃戦の為には必須だろう。その裏で岐阜が落ちて西軍が虫の息なんてわからないんだし 9月3日付本庄繁長宛直江兼続書状によると、最上とは一応交渉を続けるが
ダラダラ引き延ばすようなら外聞のためにも最上領へ一働きする
伊達とはもし政宗から手切れを言ってきたとしても、使者を遣わして交渉を
継続するとあるので、最上攻めは伊達への牽制の意味合いも強かったんだよな 8月中旬の時点で最上は戸沢らと起請文交わしてるのに無駄なことを……
それに上杉とは荘内をめぐり十五里ヶ原、豊臣に対しては秀次事件のことがあるんだから、味方なんかするわけないとわからないのかな? >>827
「家康は豊臣公儀より追放されて軍事行動不能」
は?
誰がそんなこと言ってたの?
西軍は五大老解任なんて宣言したかな? >>829
その意味で言えば、なんで小早川秀秋が西軍に味方すると思ったかも謎だよな。
まあ、百歩譲って毛利には隆景のことと旧領復帰のことで義理があったかもしれないが、
豊臣なんて秀次事件と朝鮮の役の2度にわたって領地を没収してきた怨敵じゃん。
なんならその実行犯は両方とも石田三成というね。 家康が毛利石田連合の豊臣新公儀政権樹立で8月以降軍事行動不能に
なったというのは白峰氏の新説本に出ているな、東軍諸将に連日のように
指令は出してるしトンデモ説でしかないが
確かイエズス会の記録に上方の豊臣公儀より家康に行動停止の命が下り
家康が江戸より動かなかったのはそのせいだという意味の記述があったと思う
いうまでもなく単なる風説、伝聞で事実とははるかに乖離しているが
白峰氏が狂喜して何かの論文か著作(新視点関ケ原合戦だったか?)
に取り上げてたと思う 8月のいつか忘れたけど、榊原が秋田に「今回の挙兵した天下の公儀」だった?
そんな文言があったとは思うけど、それ以外は特に西軍を政権として認めた一次史料も無いよね? そもそも上杉の最上征伐はだらしない
いや志村が凄すぎるのか?
長谷堂城でわずか1000で半月も持ちこたえたんだし
しかも一切の後詰なしで >>833
8月24日付遠藤慶隆宛榊原康政書状
「此度別心之衆始終天下之仕置可被成候哉」
今回別心の衆が始終天下の仕置をできるだろうか
前にも言ったけどこの「哉」は反語表現だから榊原は西軍には天下の仕置はできないと言ってるんだよ
白峰氏はこれを以て西軍が天下の仕置をしていることを徳川方が認めていたと言ってるけど首肯しかねる >>834
一次史料を研究した高橋明ら福大史学によると
出陣前の直江から力攻めする気が無い降伏を促す書状が散見される
城攻めには不向きな後方にある管沢山へ登り山形城への示威が目的
上杉や注視していた伊達の一次史料には攻めた形跡が殆ど見られない
最上伊達を巻き込んだ江戸攻めが目標だったので兵を失う訳にはいかなかった >>824
一撃必殺で畑谷城撫で斬り
山形囲めば最上は屈服すると睨んでたんじゃないか?
そのうえで最上が降伏すれば伊達も従えられると
確か直江兼続書状でそんなニュアンスがあったはず
予想に反して義光が強固に抵抗して戦略意図が崩れたけど 先代のときあれだけ精強だった上杉の兵が景勝の代になると見る影もないな 景勝が指揮した大坂冬の陣はそこそこ見せ場があったらしい。 秀康は来て欲しかっただろうな
本当かどうかわからんが退屈だから一戦さしようぜかかってこいやと戦書景勝に送りつけたそうだし
秀康の采配見たかったわ >>839
いや、先代の頃も特に精強というほどのことはない。
関東ではコロコロ負けている。
強いて云うなら「潰滅に至る前に逃げ時を見極めるのが上手かった」。
「越後上杉」が本当に強力だったのは上杉房定の時代。
景勝とも先代とも何の繋がりも無い本物の越後上杉だが。
>>830
内府違いの条々がそれ
現実はさておき景勝の知り得た情報で言えば
・豊臣家が毛利輝元を総守護に任命して『内府違いの条々』で家康を弾劾(これで家康は豊臣公儀から追放された)
・西軍は伏見城を攻撃してこれを陥落させその勢いのまま伊勢を制圧
・これに対して家康は江戸に入って動かない
なので「豊臣公儀からパージされて求心力を失った家康が江戸で困り果てて動けない」という見立てはそこまで奇想天外じゃない。福島正則らが一致団結して岐阜を落としてるなんて分かるわけもない >>844
前田利家が生きていた最後の頃でさえ、4大老揃っての弾劾に失敗してるのに、
前田が徳川に屈服し、上杉が国元に戻っている状態でそんな都合の良い話にはならん。
せいぜい、上杉征伐の隙に毛利が反旗を翻したかという程度でしかないよ。 >>836
敵の大名を無傷であるいは軽傷で従属させるなんて相当時間かかることだよ
かなり圧倒的な実力差がないと不可能
直江兼続ってかなり過大評価されてない?
名将とはとても思えない >>835
その書状の「哉」だけど、つまり「今回挙兵した西軍に天下のまつりごとを見ることができるのだろうか」であり、
榊原は西軍を「天下の政権」とは認めていて、要はそれらが政治をとることができるのか? と疑問視していたとみることができるのでは? 別心の衆て呼んでるやん
どうみても政権とはみなしてない 榊原康政は大刑少とともに備前中納言の騒動仲裁をしていたが、家康から江戸召喚されて不首尾に終わった 上杉は畿内と連携なんか取れてなかったんじゃねーかな
そういうとこあるよね織田の時も滅びの美学とかに浸ってたし 石田三成との交信が8月中旬から全然確認できないしな
いくら東軍が主要街道を抑えていたとしても少し酷すぎる
敗報も9月22日あたりに噂で舞い込んできたらしいし 備前中納言が主将となり、石治少、長大、小摂、大刑少らが指揮を採らば、苦戦は必至。それより明朝陣を払い、途中佐和山を屠り、大坂表にて毛利勢と決戦し、諸将の妻子を解放せん 景勝の戦略は当時の上杉が掴んでた情報からするとおかしな話じゃない。西軍が大坂を制圧して徳川は反撃もしてないんだから周辺の脅威を打破して来るべき決戦に備えた。西軍から挟撃のロードマップが渡されるのを待ってたんだろう
その頃には既に岐阜城が落ちて西軍が虫の息とは思っても見なかった。仕方ないことだけど 確か来次氏秀書状だったかな
おかしい内容ばかりの書状だから、景勝は偽情報でも信じてたのか 会津は徳川と真田を敵に回すと完全な陸の孤島なんで正確な情報は望むべくもなく そもそも直江兼続とか上杉景勝は目前の危機を前にして、これから関東に攻め入るとか
伊達や最上を協力させるとか、捕らぬ狸の皮算用しまくってるんだよな…… ここのスレ民はポジショントークなどを考え無い人が多いからな
良く言えば純情 悪く言えば世間知らず 上杉なんか速攻で土下座外交に転ぶし景勝と兼続もその程度 今まで景勝と兼続は有能だと思ってたけど、幻想だったのか。でも家を滅ぼしてないから無能でも無いな。
輝元と同程度の有能さで、家康と争える器量が無かっただけくらいの理解で良いのかな? >>861
正直なところ輝元以下かと。
というか、西軍の多くは輝元以下の動きしかしてない。
輝元が凄いとかではなく、輝元含めて尽くろくな動きをしていない。 そもそも家康会津に行ったから軍を催すチャンス!だから伏見攻めた
程度の事から始まってんだもの、計画性は殆ど無いんで雑は雑。