石田三成の挙兵 ★7
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
ずっと長文頑張ってたのに新スレになったらパッタリ書かなくなってて草
飽きたの? >>5
まあ語ることもなくなったんでしょ。
三成は空気、輝元は無能、西軍には万にひとつの勝ち目もないで結論なんだから。 関東で謎の大地震が起きて会津征伐軍に甚大な被害が出たら勝てるかもしれない 岐阜城後詰決戦案なら勝算も出てくる。
瀬田で迎え撃つつもりが家康も前田も来ないので東進したところに東軍先発隊が清洲に来た。
そこの対処及び事前の対応想定がだめだったわけ。 いうて大垣岐阜合わせて二万少しで東軍先手衆は四万もあるんだぜ
あの辺りは川こそあるけど渡河地点も多いから戦略は自由
最初から美濃に大軍置いてないとどうしようもできん >>9
内ヶ島氏をディスるのはやめてさしあげろ
>>11
岐阜城後詰決戦よりも大垣城後詰決戦のほうがまだ少ないながらも可能性あったかと。
9月8日~9月12日は僅か5日間とはいえ西軍が東軍を数で上回っているし、
9月13日から後でも、野戦陣地の東軍と半数は大垣城の西軍ならまだ関ヶ原よりは戦いになる。
なにより南宮山勢が動かない理由付けが出来なくなる。
そうなると数万同士の正面からの戦いだから「紛れ」が起こる可能性は十分にある。 その場その時に相手方の人数なんかわかるのか?
物見、優秀すぎだろ 大垣衆以外は安国寺と長束が指揮官なんだが動かなかった
まぁ動いたところでどこ狙うのよって感じはあるからな 岐阜城後詰決戦で西軍の全力をもって東軍先鋒を壊滅せるのが最後の勝ち筋
もっと前の時系列に改変していいなら他にもやりようあるだろうけど岐阜城陥落したらもうやりようがない。 >>12
大垣は小城なんで西軍も城の周りに築城陣地築いて布陣してたから防御力に期待できないよ。 この手のIFて相手だけがなんの対処もせずに史実通りに動くのが前提なので暫くしたら飽きてくるんだよなあ >>16
それは何をどうやっても兵力不足で無理。
最低でも宇喜多隊が合流しないといけないけど、史実でそれは岐阜城陥落後。
>>17
まあ関ヶ原で野戦陣地すらなく追撃戦かつ挟撃という戦いにもならない状況よりはマシでしょ。 三成は豊臣を守るためによくやった
結果は出せなかったが 関ヶ原がなくても各個撃破で徳川幕府は成立していた。
そして、偉大な日本の英雄として名を刻んだだろう。三成の偉業と言えばそれを阻止したこと。家康の素顔を隠せないくらいに後生にわたって丸裸にしたこと。温和で我慢強く義理堅い英雄を演出出来ないまでにね。 岐阜城ってマジで斜面に造ってあるからな
あんなところに籠城はできん
それに籠ったところで大垣に人が足りないことは秀信だって知らされてたろうから包囲された時点で詰み、そりゃ打って出て奇跡の勝利を狙うしかないわ
秀信の知るところではないが犬山城と竹ヶ鼻が東軍に内通してるから東軍の勝ちは揺るがないんだが
美濃方面に兵を置かなかった時点で決着はついてた 周囲の国人衆に見限られたら織田秀信はオシマイなんだよなぁ
敵、しかも大軍が押し寄せてる中籠城なんて腑抜けたことしたら周囲の全拠点が徳川に寝返るだろうしそうなったらどーすんの?って話
しかも籠城戦は基本救援かしろだけで耐え得る事を前提としないと出来ない訳でそれも怪しいのにいきなり籠城とかできないだろう もうすぐ60歳の家康にとって最大の脅威は時間だった
各個撃破はどうしても時間と労力がかかり、家康としては無視できないリスクがあった
反家康勢力が結集したうえで、三成を1日で倒すだけで全員に勝ったことにできる関ヶ原は
日本史上もっともコスパのいい戦であり、家康の最大の脅威を克服させたと言える
三成の偉業と言えば、100石を超える大名も三成を遥かに上回る武力や智略を持つ大名も
自分の敗北で一瞬にして無力化してみせたことだろう 家康が国松を殺して豊臣を断絶させたことも知らないのか 三成は豊臣を守ろうとしたその性根や行動は立派
ただし実力が全く追い付いていない
軍事的には無能なんだから家康を打倒するのに武力討伐はあかん
やるなら暗殺しかない 西軍の関ケ原は毛利輝元の胸先三寸
石田三成がどうあがいても無理よ
輝元がどう動くかでしか変わらない >>34
毛利輝元からしたら最適解は、上杉討伐を中止に追い込み、西国を抑えて東西で膠着状態に持っていって「そろそろ手打ちにしましょう」とすること。
なので徳川の撃滅を謀る三成達の思う通りには動かないよ。 結構矛盾してるけどな
家康を攻めないと家康が降参するわけないんだから
じゃあ上杉にやってもらうのかといえば上杉と通信出来てないのに焦りが無い
東海一の弓取相手に何してたんだか 毛利が讃岐、阿波、伊予、豊後への大規模派兵をしているが、戦後、石治少は、これらの領有を認めてやるのか?あくまで拒否して次は毛利家を相手にする戦いが続行されるのかが課題になる
一方、武蔵一国に減封された徳川氏は息を吹き返す絶好の機会となり >>36
割とこの考察が妥当
梯子外された感の上杉討伐軍がそのまま徳川と西上してくるパターンはあまり読んでなかったのかそこはギャンブルだったのかは知らんけど やはり、岐阜城が2日、大垣城が1日で落ちたのが西軍にとって完全に想定外だったのでは?
城攻めってもっと日数がかかるのが常識で、同時期でも伏見城は2000人で4万人を相手に2週間守り、
大津城は3000人で1.5万人を相手に1週間守った。
岐阜城は6000人いて3.5万人を相手、しかも大垣城に1~2万人の後詰め。
大垣城は2万人いて8万人を相手、南宮山に2.5万の後詰め。
どちらも、普通に考えれば劣勢とはいえ1日や2日で落ちるとは思わんよ。
……1週間伸びたらなにか出来るかと言われるとなんとも言えないけど。 東軍は1日でも早く岐阜城を落として、次に1日でも早く三成を殺したいと士気は最高潮だったが
西軍は1日でも早く返り咲きたい石田派を除けば、必死に籠城したり城攻めする動機がなかった 岐阜城が1日で落ちた衝撃で吉川は家康との内通を再開させてしまい南宮山軍が無力化、輝元も腰が引けて岐阜城瞬殺が起きたら西軍の勝ち目はゼロ。
なんで岐阜城が短期で落ちたかというと主な原因は秀信が渡河防衛戦に撃って出てしまい敗北して籠城前に7・8割りの兵が逃げたから。
なら秀信に最初から籠城してもらえば常識程度の日数は稼げたかもしれない。そのうちに兵力かき集めて後詰決戦で東軍先鋒やぶってどうにかしましょうって案
もっと前の日にち改変するなら大津や安濃津や田辺なんて抑えの兵だけにして全軍で渡河防衛戦とかいろいろあるだろうけどIFのタイムリミットは岐阜城陥落だよねって話。 岐阜城の西軍が援軍を期待していた犬山城に籠城中の諸侯が
既に井伊直政と内応していた時点で戦う前から短期決着が決定していた >>44
犬山城の兵力でどうにかなるなら、大垣城からの援軍でもどうにかなったはず。
結果はあっさり蹴散らされたどころか、逆撃食らって川すら超えられて赤坂にまで進出される体たらく。
西軍は、兵力の大小以前にそもそもが戦に弱いのよ。 l_i_t_e(邪魔という方は左記をNGお願いします)
友人に紹介して追加で¥4000を入手できる!
https://i.imgur.com/XM74SVC.jpg >>37
一日でも早く奉行に返り咲きたい立場の三成が後方を無視してでも徳川への攻撃最優先を主張すれば
三成は私利私欲を優先している、三成が返り咲き目的で仕組んだ私戦ではないかと西軍諸大名の中に疑念が生まれる
西軍としては何よりもまず、三成のための戦ではないことを証明する必要があるから
三成の主張を無視して畿内や西国固めを優先するのは仕方がないこと
とはいえ三成が美濃方面に居座れば、どうやっても疑念が生まれることは避けられない
結局のところ、三成が西軍の戦略や士気を引っ張る重荷になってしまっていた あんまり語られんが宇喜多の思惑がかなり重要なんだよな 西軍勝利の際に最初に問題になるのは小早川秀秋への播磨加増により、宇喜多家への加増すべき土地が東も西も適当なところが見当たらないと言うことである。 そもそも伊勢を抑える必要あったのか?
あの軍勢が最初から美濃にいればかなり違った上に、
岐阜城が落ちてもなお2週間ほっつき歩いていたわけで。 そこら辺は三成にはどうしようもない
輝元たちの思惑が外れてる
その思惑とは何なんだよっていうとまるでわからん
西軍には豊臣がついてるんだから東軍先手衆も豊臣の意向を気にするとすれば時間がかかると踏んだのかもしれない。ところが東軍は豊臣より徳川の指示を優先したので計画が狂った 三成本人に武功がないのだから石田兵も実戦経験ないよね
左近はさっさとやられちゃったし勝てるわけがない >>51
もともと西軍首脳は家康が北伊勢を通て東海道を攻め上がってくると想定してる東海道主戦論やでな。当然に主力を置くでしょ。
結果的に決戦の主役になってしまった三成ら中山道方面軍は実は副戦線なのよ。 家康の西上ありき岐阜城攻略ありき関ヶ原の合戦ありきといった後世から見た考察ありきならどうとでも言えるよな
伊勢攻略は目的じゃないが手段としては別におかしくもない ただ吉川広家の様に戦略的価値を見出せない者が居たのも事実 毛利一門はそもそも戦意があったのか?輝元の意向で皆動いてただけ? そりゃ戦意無しに四国打ち行ったり城攻めしたりする奴はいないし 政争の延長線上が関ヶ原やしな
自民党総裁選みたいなものじゃないの
ガチなんだがガチでもないみたいなよくわからん戦い 中央政界での主導権を得られればそれでよかったのでは
なので上方を制圧して家康派(主流派)の勢力を削げればそれでよかった
しかし思った以上に家康派の結束が固く反攻されて和睦に走ったと 秀頼を監禁したように見える状況にしちゃったから嫌悪感で東軍の結束が固くなっちゃったんじゃねえの
自業自得 家康派の結束が固かったというより
むしろ奉行の権勢欲が露骨過ぎて叩かれた 小牧長久手から何を学んだのか。
伊勢尾張美濃が主戦場になるのはわかりきってるだろ、
そこで伊勢重視で美濃軽視がおかしいんだわ。 西軍の戦略ってどのように建てられてたんだろうな
あれだけこだわってたんだからやっぱり合議制だったんかねえ まぁ安直な推測だと増田長束が自領の安全化計るために伊勢主攻としたんだろうけど。
仮定の話だけど福島、田中が西軍側に与した場合、
東軍先発隊集結地は刈谷か吉田になる。
その場合早期に美濃衆、石田、小西、宇喜多先鋒明石掃部、尾張衆あたりが清洲に集結し、
尾三国境付近か三河が主戦場となり、
浜松辺りでの決戦を想定していた西軍の構想に近いものになる。
福島が味方するだけでも初期の東西戦力比も逆転する。
結果論的にはなにがなんでも福島を味方にしていれば
かなり推移、結果が変わったと思う。 三成と仲悪くて家康と縁辺関係にある福島正則が味方になるなんてあり得ないのにな
せめて福島家の反正則派と繋がっていれば良かったんだろうが 当時は合議制と言っても情報の精度も悪く立場も様々で忌憚ない意見で有益な議論が出来てたとも思えない
合議制そのものが組織が分裂しない為の意見の擦り合せみたいなものだしね 一応、岐阜城攻め直前まで福島正則に西軍入りの説得をしてはいたそうだね。
その窓口に三成を置いた時点で詰んでるが。
それこそあり得ない仮定としてだが、総大将の毛利輝元が最前線まで出てきて、
福島正則に頭を下げればワンチャンあったかもしれないが。 合議制つったって首脳陣が揃って会議できたのって伏見城を落とした後だけだからね
その時点では岐阜城がああなるなんて想像できないだろう 家康は勝手してる、掟に逆らって縁辺してる、一味徒党を組ませてる、
っていってる西軍に家康と親しくして徳川と縁辺してる福島正則がつく訳が無い
となると反正則派の誰かさんにお話してたはずだが結局袖にされたのか 三成と福島は別に絶対的敵対でも無かっただろ
近くはないが絶縁レベルの遠さでもない
正則は清正や長政に近いから政治的には対立かもしれんが好き嫌いとはまた別の次元の話だろ
とにかく私怨でもブッ殺すってのは清正vs行長の軸での話 福島みたいな短気、粗暴なカスに重要な所領を任せた秀吉が悪い
三成という忠臣に尾張を与えて大老にしておけば豊臣家は安泰だった 西軍のちぐはぐ感って、変な例えになるかもしれないけど、
毛利輝元は囲碁をやりたい(やっていた)のに石田三成は将棋をやり始めた。
徳川家康は即座に将棋の応手を始めてゲームは将棋になってるのに、
囲碁しか教わってない毛利輝元は囲碁をやり続けた。
こんなイメージなのよ。
なお、石田三成の将棋は下手だった模様。 後世からすると輝元はアホだなあで終わるが当時からすれば分からないからな。やはり大将は有能を担保する実績がなきゃならない。三成だって文官としては有能でも軍事では未知数だった。 小早川に関白にするから同心しろ、だもんな。仮に勝利したら一番の殊勲者は毛利なはずなのに。 福島正則は三成襲撃事件のメンバーだし徳川と縁辺してる。秀頼がついてようが西軍には乗らないでしょ
少なくとも相当攻め立てないと何もしてない時に内通とか起こらんと思うが 福島はアホだから秀頼が関ヶ原本陣に動座すれば動けなくなるんじゃないか?逆に発狂するかな?秀頼も最後まで人形だったなあ。彼の辞世の句すらないんだろ? 秀頼が関ヶ原に居たところで粉砕されるだけ、というかむしろ家康からすりゃ願ったり叶ったりだろう
卑劣な西軍の犠牲ってことで終わりだし
正則は岐阜城攻めではまず竹ヶ鼻を落として後詰を難しくしたり兵の疲労具合をみてたりとどちらかというと知略たる大将だった >>79
0か100かじゃなく何かしら繋がり作っておくのは大事だろ
どこかの瞬間で日和ってくれるだけでもいいしな >>81
福島正則は、良くも悪くも直情的なんよね
酔って家来切腹させて、酔いがさめてからぺしゃんこって逸話が
秀頼が戦場に居ると認識したら、全ての根回し無視して寝返りかねんよ、そういう人 まあ司馬遼太郎の小説の世界の福島正則はそうなだろうな 福島は酒癖は悪いかもしれんが通常時は案外と普通じゃないの
もっと面倒くさそうな大名はいっぱい居るとおもうしな
正則は気質が猛将っていうよりも豊臣家中で特段何の才も無いから槍働きに存在価値を見出したようなものだと思う 福島は槍働きも兵站支援も何でもできる万能型だよ
単に石田の暴走に振り回された被害者というだけ いろいろエピソードに事足りないが福島は政治がまるで読めない。感情だけでぶん回した武将。まあ、それが彼の良さであっても大名になると命取りになった。
やっばり華麗なる無能として名を残した理由だよ。 その点、家康は感情を押し殺して生き抜いた武将だよ。さんざん不条理を押し付けられたが腹で泣いて受け入てきた。
ひとたらし言われた秀吉をも騙し通せた演技派でもある。 まずかなりドライに自分の立場を理解してる
大坂に人を送って豊臣家の意向を確認するとかしてない。福島は徳川と縁戚なので反家康を掲げる西軍が勝ったら良くて減封悪くて切腹だろうという派閥や思想を勘案していたのは間違いない
岐阜城攻略戦では小説では池田輝政と軍功争いしたと思われてるけど史料では逆で輝政や先手衆と話し合った連携だったことがわかってる
確かに軍監の本多忠勝・井伊直政が苦言を呈する程の俊足で進んではいるがこれは軍功に焦ったのではなく西軍の美濃方面軍が少ない事を知ってその内に叩きたいという戦略的な理由だろう。竹ヶ鼻陥落、織田軍撃滅で気が大きくなった直政は即刻岐阜城を落とそうと提案したけど輝政正則は兵が疲れてるから翌日にしようと主張したという >>690
完全に感情だけで動いてる為に、普通の人から見ると意味不明のエピソードを沢山
残してますよね。
例えば関ヶ原直後に、徳川直臣伊那の切腹を家康に要求した事件
当人は武士の面子かもしれないが、この時点ですでに事実上徳川に臣従してる訳
ですからね。
建前で行くと、徳川と福島は対等、福島の家来と家康の直臣の伊那の命は等価に
成る訳ですが
これって直前の裏切りの功績だいなしにしてる訳で >>92
姻戚いうても徳川の養女を息子の嫁にしただけ
これって冷静に見ると、家康が豊臣子飼いの福島正則を寝返らせるにあたって
養女を人質に出したでしかない
内応した人は、当然後で処分される事が怖いのでこういう形の人質要求される事は
良くある
たださあ、この人って伊那切腹事件でも良く分かる様に感情暴走したら止まらないからな。
秀頼着陣でどう動くのかは謎としか言えん 正直、大坂の陣で豊臣方につかなかった時点で福島正則の忠義なんて信じられん。
安芸備後が大坂方に付けば、その隣の周防長門は元西軍総大将の毛利輝元の領地。
一気に西国に緊張が走って安穏と大坂城を攻めていられなくなる。
もちろん毛利は必死に徳川に土下座するだろうけど、この時点で無実でも、毛利を信用出来ないだろうし、
ましてや実際に毛利は佐野を送り込んでいるのだから疑惑は更に深まる。 >>95
秀吉が主家の織田の家督を三法師から都合のいい信雄に変えて、また秀信に戻したりとコロコロ変えてるから豊臣家に忠義を求めるのがおかしいかもしれない >>94
それを西軍が糾弾してるんだから正則にとっちゃたかがで済むものじゃない
少なくとも関ヶ原において正則は理性的に動いてるしそこに感情的なものは見当たらないよってだけ >>95
淀・秀頼は現場の言うことを全く聞かない人間だと福島も理解しているからな
素人のその日の気分で戦うか講和かが決まるのでは、浪人でもなければやってられない
三成もそうだが素人が偉そうに現場に口を出しても上手くいかない
素人がプロを無視して引っ掻き回す豊臣末期の風潮が福島には耐えられなかった 今治民なんだが福島正則の痕跡が全くないのは何でやろな
朝鮮出兵に絡んでたら何かしらその名残りが残ってても良いんだが >>99
やっぱり、江戸時代評判悪かったんだろうと思うな
だって清須って一番重要な拠点で、大量の軍需品あったんだしさ
一番重要な要塞の司令官が敵を引き入れたたんだぞ、山海関の呉三桂みたいだ
そりゃあ、江戸時代評判良く成る訳ないじゃん、一番重要な拠点の守将の裏切りなんて「 >>100
話が見えない
クラスでハブられるケースだな
>>99
そりゃ今治統治を任されて10年もせずに清須行き
しかも今治統治中は秀吉の全国平定と唐入りの最中だったから
今治の国造りの実績は上げにくかったからじゃないか
地元に集中できるのは天下泰平じゃないと厳しい 大谷吉継が三成に誘われて一時しゅんじゅうする下りは創作なんかな?三成はあの通りの性格だが何故か一部の近しい人間には慕われてんだよな。しかも人格者。不思議だ。 人間は合う合わないあるからな。昔からそれは同じか。 >>100
よく勘違いされるけど、当時の豊臣にとって最大の脅威は西国だった
朝鮮での酷使に不満を抱いた西国大名が謀反を起こす可能性が高かったからね
西国大名が謀反を起こして畿内に攻め込んできた場合は、
福島が清州の軍需物資を渡して、他の東海大名や徳川と共に西進して謀反鎮圧を実行するんだよ
むしろ一番重要な要塞の司令官が西軍という敵を引き入れなかったのだから
福島は謀反鎮圧という任務に忠実だったと言える >>105
いや、それなら西国側に有力諸将を置けよと。
現にあっという間に大坂城を毛利輝元ごときに占拠されたじゃん。 当然一次史料に三成が吉継を誘ったなんてのは載ってなくて司馬遼太郎の創作な訳だが
真田にも佐竹にも上杉にも島津にも誘いを掛けてない三成が吉継には誘いをかけましたってのはおかしな話 >>106
西国の防波堤だったはずの宇喜多が裏切って毛利の謀反に迎合したからな
奉行の内通と宇喜多の寝返りで豊臣の西国防衛体制は崩壊し
毛利は容易く謀反を起こして畿内に攻め込むことができてしまった
福島たちが素早く駆け付けて謀反を鎮圧したからいいものの
豊臣への忠義も何もない奉行の内通と宇喜多の寝返りは許されることではない >>102
三成は、確かに色んな逸話聞いた感じでは人望がある人ではないよね。
でも現職の奉行なんだし、切り崩し工作が可能だと思うのなら家康が切り崩してるだろ
良くある現象なんだけど、三成みたいな人間は普段疎遠だろうがそうすべきと思うとかまわず
弁護したりするからね
三成に好意的な大名が、豊臣政権では新参とか外様が多い時点で推察可能かと
佐竹とか津軽とか、宇喜多とかね。逆に自分たちは贔屓されるべきって思ってる人たちには
おおむね嫌われてる >>106
宇喜多と小早川の二人の養子で挟む形だぞ?当時。
猶、当時陸上での補給限界は200キロとか「これ以上だと補給部隊の消費で意味がない」
言われてる。
江戸、清須の距離考えると清須の福島が西軍についたら家康は兵糧の不安で東海道には
出られない。 むしろ西軍の西国大名は朝鮮での消耗を抱えた状態で遠征を強行しており
東軍と違って豊臣家からの軍資金・兵糧の提供もないため
西軍本隊は兵糧の不安で東海道どころか岐阜にも出られない状態だった
福島も西軍が補給限界で進軍できないことは知っているのだから
清州から謀反鎮圧に向かえばいいだけだった 西軍には豊臣軍がついてるんだから当然資金兵糧も支援受けてるぞ
ていうか大坂城守護に毛利が入ってるんだから金も米も西軍のものだろうに 忠臣三成は豊臣の金銀に手をつけなかった
清廉すぎた >>111
そんなので良いのなら毛利秀元も吉川広家も秀吉の娘婿だぞ?
ちなみにそれぞれ秀吉の養女だが、毛利秀元のほうは豊臣秀長の実子、吉川広家のほうは宇喜多秀家の実姉だ。 酔って虎になるエピソードはあれど政治的な扱いと立ち回りに限れば
福島正則は豊臣政権を支えた官僚のひとりで間違いない
何と言っても彼の出世は秀次切腹の死者を大過なく務め上げたことによるわけで
徳川との接近も太閤の遺言が家康が政治向きのトップと取れる内容な訳でおかしくない
豊臣政権に忠実なら徳川を仮想敵として陰謀や軍事クーデターで追い落とさなきゃいけない
と思い込んでしまうと異常・意味不明となるかもだが
>>93
それは「この時点で」「事実上臣従」という歴史の流れを加味してるから
当時の人間は別に豊臣vs徳川という戦いとは認識してないので
その事件は豊臣家臣同士の面目の問題から起きたことでしかない そもそも政権の秩序を問答無用でぶっ壊した挙句、政権崩壊の引き金を引いた
西軍の方が悪酔いしてたとしか思えん、素面でやったならなおさら酷い >>117
京の人間は豊臣vs徳川と認識してるんだよなぁ
だから最後は秀頼が家康に降伏して終結してる 秀頼が味方したところで西軍が反乱軍であることには変わりないしね >>119
またいつもの通り主語がでかいね
公家の日記にそうとも取れる記述があると言うことであって
それ以上のことを断定するのはあまり行儀が良くないよ 当時の人間は〜とかいって誤った情報を言ってるから訂正しただけ
京では西軍=京衆=秀頼様つまり豊臣公儀軍とみなしてる。ま、豊臣が西軍に反抗してない以上自然な道理なんだが
対する東軍はこれで豊臣を見限って徳川についた
だから戦後豊臣が解体されても文句言う奴居なかったし大坂の陣では誰も味方しなかった >>113
よく勘違いされているが、西軍には豊臣家からの軍資金・兵糧の提供はない
大坂を占拠はしたが、金も米も西軍のものになったわけでも何でもない
三成が軍資金・兵糧の不足を訴えて提供を求める手紙が残っているが無視されている
それに比べると家康は豊臣家から黄金2万両と米2万石を貰っており
兵站面では東軍が圧倒的に有利な状況だった 前スレであったな。
毛利の動員兵数が石高から比べて多すぎるんちゃうか?って話。
確かに1万石250人の計算だと、毛利は3万人が妥当なのが大坂城や大津城併せて5~6万と過大。
比較すると石高相応だと徳川は6.4万人、宇喜多は1.4万人、石田三成や福島正則、黒田長政等の20万石級は5000人前後で妥当。
毛利ともうひとつ、小早川(石高相応0.9万人、実数1.5万人)だけが過大になってるのは、
当時は自軍の兵数を大きく見せて仲間を募るため、戦後は徳川方が強大な敵を倒したのを喧伝するためではなかろうか? そして、ここに西軍の本当のトップが誰かという答えが隠されていると思う。
すなわち石田三成や奉行衆ではなく、毛利輝元で確定かと。
仮に毛利の過大な兵力が偽情報だったとしても、頑張ってかき集めたのだとしても、
徳川6万人に対抗する兵力を用意できる毛利こそが、
少なくとも西国を支配するに値する盟主であると知らしめることを目的としたのだろう。
三成や奉行衆にはそもそも兵力がないのだからそんなことはできない。従って毛利こそが西軍の黒幕で間違いないかと。 >>124
なってない訳ないんだよなぁ
西軍には豊臣軍が従軍してる。弓鉄炮隊や秀頼馬廻衆がね
豊臣家が金出してなけりゃこいつら何食ってたんだ?ってなる
また西軍の首謀者が豊臣家なら確かに金や食糧を出さないという事はできるが毛利や奉行による制圧があったなら金や食糧を出さないなんて出来るわけが無い
当然大坂城のつまり豊臣家の資材は西軍に投入されていた 政権の主導争いが戦いの原因だろ。大多数の大名にとってそれはどうでもよかった。
奉行集が主導してあるべき統治に戻そうが家康主体の豊臣政権であろうが関心ない。
興味あるのは自家の存続と領地の紛争だけ。たとえるなら現代の自分だけよければ、目先の金だけに関心があるのに似ている。
それがあるから西軍の戦意が大して上がらなかった。
東軍の一部は三成憎しで突っ走る福島がいた。 >>125
吉川に限らず毛利の家臣たちは文禄でも慶長でも渡海して過酷な戦闘をしている
そこからろくな恩賞もなく再び過大な兵役を負わされて東征を命じられれば
毛利の家臣たちが不満を爆発させて徳川との戦闘を拒絶するのも当然だろう
輝元が毛利家中の実態を無視した過大な動員をしたことが西軍の崩壊を招いたと言える >>129
過大な動員?
上杉征伐参加予定の兵力転用したんじゃないの?
秀包あたりは国許に増援要請したっぽいけど。 どこの家も大きな合戦にでもなれば資産持ち出し要素が大きく負担も大変だろな
毛利はもう経済負担がどうこう言っとる場合じゃないやろ
石見銀山と瀬戸内利権などの収益がやっぱり大きかったんだろな >>130
そもそも毛利に会津征伐参加要請とかあったんかな
不要だし無意味じゃないの? >>132
吉川が恵瓊から大坂に戻るよう輝元の命令を伝えられたのならば、
少なくとも吉川は上杉征伐参加予定だったんじゃないの?
長曾我部、鍋島なんかも少なくとも愛知川越えてどこかへ行こうとしてたわけでしょ、
上杉征伐参加以外にないと思うが。
まぁ西国衆は江戸で後詰待機とかだった可能性はあるけど。 慶長5年6月25日付兼松正吉宛長束・増田・玄以連署状
今度東海道金松又四郎出陣、人数四拾人、馬三疋事、
如帳面兵粮・馬飼料慥可被計渡候、
若雨降於逗留者、応日数可被相渡候、
則右米・大豆公儀御算用ニ可被相立候間、
其主人請取を可被取置候、恐々謹言、
少なくとも上杉征伐参加衆の東海道での兵糧補給は豊臣負担のようで、
場所は、
近江草津で二日分、担当新庄直忠・駒井重勝、
伊勢亀山で二日分、同岡本次兵衛、
尾張熱田で二日分、同福島正則、
三河嵩山で二日分、同田中吉政、
遠江見付で一日分、同堀尾忠氏、
駿河島田で一日分、同山内一豊、
駿河駿府で一日分、同中村一氏、
駿河神原で二日分、同中村一氏、
箱根から先はどうなってるんだと思うが、徳川が用意するのか
徳川領入った途端自前になるのか。 >>132
安国寺も吉川も会津征伐に参陣する予定だったよ
会津征伐に際して輝元が安国寺を慰労して銀子を送ったなんて書状もある
(慶長5年)6月14日付安国寺恵瓊宛毛利輝元書状
今度関東御下事、御大儀御辛労中々不及言悟候、併為家被思召如此候段、感入候、
仍銀子三百枚令進之候間、此者可申候、目出度御帰陣待存候、恐々謹言、 >>125
毛利の石高に付いては、関ヶ原後に旧毛利領にはいった大名の石高を見ても相当な手加減が
行なわれてたと考えるべきかと。
毛利は、本能寺の変の時に太閤を追撃してないと言う恩を豊臣家に着せてますし。
多分、毛利120万石は表向きで実収は五割増しの180万石くらいはあったんじゃないかな
動員した兵力から考えればそのくらいの実力はある >>119
前の年の伏見城入城で「天下様になりたもう」だもん
実質あの時点で徳川のクーデター >>137
それ公家の日記だろ
それだけで豊臣家も朝廷も含めて徳川のクーデターとやらを認めてしまったと考えていいんだなw 大坂城の西の丸に天守閣築いたのは誰でしたかねえ
それで誰かさんは忠臣とか
家康さん持ち上げるために無理な理論はやめましょうね
石田三成こそが豊臣家の忠臣です >>137
豊臣家には冷静さや忍耐力というものがないんだよな
秀次が聚楽第で政務をしたり、家康が伏見城で政務をしただけで
「天下様になりたもう」とか騒ぎだして、パニックを引き起こす
これでは政権が存続できなくなるのも当然だろう
扇動した三成の罪も重大だが、豊臣家はもっと冷静になって三成の扇動を無視するべきだった >>138
書いてたの豊臣と親しい貴族じゃなかったか
そいつらが見て西軍が豊臣公儀公認ってのはそれなり以上の意味があるだろう >>141
違うよ、出典は多聞院日記
慶長4年閏3月14日条
「十三日午刻家康伏見之本丸へ被入由候、天下殿ニ被成候、目出候」 >>139
忠臣ってのは普通政権事業を妨害なんかしないし、政権から役職解任を
申し渡されたら素直に従って、武力による役職復帰行動なんかしないと思う
家康がどうとか、加藤や福島の行動と比べてとかじゃなくて、根本的に
忠義からの行動とは思えないよ、忠臣だったらやっちゃダメな事ばかりしてるじゃないか 当時は三成たちが謀反を起こして大坂城を攻撃する可能性があったので
そういう場合は家康が西ノ丸の天守で指揮を執って謀反を鎮圧する手筈だった >>144
天守ってのは基本城主が居る場所だからね。
自分が秀頼より偉いって示威行動だよ。
というか、伏見入城もだけどここまでやらかしたら止まれないよね。
普通にこの時点で家康急死とかしたらそのまま徳川討伐軍が編成されて改易でしょ 曹操だって魏王にはなったけど、洛陽に宮殿建てた訳ではない
西の丸天守は明らかな挑発でしょ、激怒した大名が挙兵する事を期待してる 豊臣家は秀吉死後も日本の全てを支配する覇王気取りだからね
西ノ丸天守は豊臣家が現実に気付いて態度を改めるチャンスだったのに
豊臣家はチャンスを棒に振って秀吉時代のようなノリで暴れ始めた
家康が気を遣う性格だったから15年ほど存続させてもらえたけど
普通に1600年時点でそのまま豊臣討伐軍が編成されて改易でしょ まあ三成が挙兵して豊臣政権が事実上瓦解して戦国時代に戻る可能性は一時存在した。その流れを食い止めたのが偉大な福島正則だった。 >>149
まあ福島云々はおいといてだ、西軍首脳部の連中は自分達の挙兵が
豊臣政権にどういう影響をもたらすのかってのをちゃんと考えてたのかね?とは思う
なんか徳川に各個撃破されるのを恐れてた、とか前スレだかにあったけどさ、
そりゃ確かに御家を背負った武士団の長としては御家大事ってのはわかるよ、
でもそれって豊臣御為とか豊臣政権存続になんか関係あるのかね?って話ではある
藤原氏も執権北条氏も朝廷や鎌倉を繁栄させただろ、大伴や橘氏、和田や三浦氏に
なって政権の礎になる覚悟でも決めればよかったものを、位には思うな、宇喜多や奉行には
毛利とか上杉は立場的にそんなもの求める方が間違ってるから別にいいけど >>151
西軍を構成する最大のファクターである毛利家が、そもそも豊臣家に尽くす気も、尽くす義理もない。
もし西軍が勝てば毛利が徳川の代わりになっただけだから、最初から詰んでる。
まあ、家康と違ってヌルい輝元だから、大坂の陣が発生せずに豊臣家自体はもっと続いたと思うが。 毛利輝元は、割と粛清する危ないやつやぞ?
関ヶ原で負けて防長2カ国になったことすら利用してリストラをおこない、
当主に権力を集めて中央集権化を完成させた、割と非道なやつだ。 秀吉時代に防長2カ国にしておけば
関ヶ原前に当主に権力を集めて中央集権化を完成させられたから
毛利に100万石を与えた秀吉が悪いな
どうで輝元は肝心な戦場には出陣しないのだから
思い切って叩けば秀吉は輝元を屈服させて防長2カ国に減封できたはず >>155
駄目だよ、秀吉は九州征伐を行う頃には既に唐入りという一大プロジェクトを行う予定だから
西国の雄であり、初期から秀吉に協調姿勢を見せていた毛利を削る暇はない
戦力的な点でも小大名を乱立させてちびちび軍勢を出させるより、大大名がまとめてどん!
の方が指揮系統の問題等を考えても効率がいいからな
まあその辺言うと統一国家による統制された軍の創設が一番効率いいのだが、
それを実行すると国を一から作り直すようなもんだからさすがに時間がかかりすぎるので…… つかさ、毛利に恩が有るのは分かるけど徳川残した意味が良く分からんよな。
元々の構想は、尾張伊勢の織田信雄を旧徳川領に、徳川を北条領にだったらしいが。
もう少し徳川の勢力弱める方法あったろうに 家康が居なくても結局他の大老に簒奪されただろう
幼君で親族の当てになる勢力もいないで100万石諸侯がいくつもいる状態ではね 徳川と婚姻で結びついて毛利・上杉のような100万石諸侯を潰していく
関ヶ原前の状況が豊臣政権が生き残る唯一の道だったんだよな
もちろん秀吉時代の栄華はなくなるが、それは秀吉が死んだ時点であきらめなければいけないこと
それを奉行連中が自分たちが権勢を握れないという私欲丸出しの暴走で潰した
秀吉はもっと奉行の力を弱めるべきだった 奉行衆の力を弱めたところで、関ヶ原の首謀者は毛利なんだから意味はない。
ぶっちゃけ上杉(直江)がなにを考えて徳川に喧嘩を売ったのかさっぱりだが、
徳川が北に向かうあの時が、毛利にとって唯一の機会だから奉行衆がいなくても関ヶ原、というか大坂及び伏見の占拠は発生した。 >>160
仕方ないと思うぞ、あの場合上杉はああ動くしかないですよ。
徳川と険悪なのは昔からだし、その徳川が露骨に伊達を味方にしてる。
単純に徳川に味方して傘下になっても領地が安堵される事はないでしょう。
転封しようにも、120万石相当の空き地がないからね、福島正則みたいな言いがかり改易かと >>157
そりゃ秀吉視点では家康は純粋な外様じゃないもの、秀吉の義弟だからな
織田や徳川と違って一門が薄く、譜代の存在しない豊臣にとって姻族は貴重な身内枠だから
ある程度重用せざるを得ない、しかも徳川は関東を単独でさばけるレベルで家臣が豊富だ
徳川を優遇して身内に取り込む事は豊臣の弱点をカバーするという点でも重要だ
どう考えても毛利より扱いを軽くする理由がないよ 上杉は謙信以来の部下になめられたら終わり方の統治法だから常にツッパッてないとイケンし
ツッパってればあの状況でも藤田くらいしか離脱者が出ないで家中一致団結しちゃうヤバい家だからしょうがない 基本的に秀吉の義理の〇〇って信用できん。
一時は自身の子とした実の甥を切腹に追い込んだし、ホラ吹きのフロイスだから信用ならんが兄弟姉妹を処刑した話もある。
てか、秀次事件の駒姫の件だけで、全ての大名からの豊臣家に対する信頼は地に落ちたろ。 秀吉は目的のためには親族も冷徹に扱うし、親しかった人たちとも関係が悪化すると手のひらを返す
妹を離縁させて家康と政略結婚
母親も人質として送り込む
幼少から可愛がってた甥は自害に追い込む
同僚だった神子田や尾藤にはひどい仕打ち
黒田如水も晩年は遠ざけた 平家ですら滅んだのだから秀吉は不安だったろうな。平家と違い豊臣一門が薄すぎる。秀吉は誓紙で大名を縛ろうとしたが普通に当てが外れてるし。利家は義理を果たそうとしたが。 家康が豊臣に大阪城からの移封と淀の人質を要求したのが現実。武力に劣れば政権を譲るし権力の象徴の城から去るのが道理。その力の均衡がまだビミョーだったのが関ヶ原だった。 毛利が本気出してればああはならないね。大体、決戦があるのに戦力を大阪に残してるのはありえない。増田やら含め残らず出張るべきだろう。 石田三成は自分の能力をわきまえられない身の程知らずだったが、豊臣家を守ろうとした忠心は本物であった
奸臣徳川家康を打倒するために立ち上がったのは間違っていない >>170
一概にそうとはいえない。
「大坂城を押さえている」という事実のみが西軍の正当性の根拠になっている以上、
毛利輝元が大坂城から出るわけにはいかない。
輝元が出るなら代わりに誰か東軍側の人間を退けられる西軍の有力諸将を入れとかなきゃならんが、
そんな人材がいるなら普通に前線に立たせたほうが良いし。
戦場では無能で役立たないが、ネームバリューがある輝元の一番良い使い方は、やはり大坂城に置いておくこと。 家康だって当初は関東から動かなかったわけだからね
最初から決戦指向でなかったのはどちらも同じ
結局岐阜城落城がターニングポイントといういつもの話に戻る >>174
大垣城方面の司令官は長束と恵瓊だぞ
三成はただの下っ端 本来は司令官でも何でもない下っ端の三成を司令官どころか総大将に仕立てて
一戦で総大将を撃破したことにして残りの西軍大名を強制的に負けに持ち込んだ東軍の戦略がすごいんだよな
残りの西軍大名には三成より強い大名が大勢いるのに
下っ端ひとり倒すだけで将棋の王将を取ったかのように問答無用の勝負ありに持ち込んだ 関ヶ原戦役があんなにあっけなく終わったのは一にも二にも言い出しっぺ総大将の毛利がヘタレたからでしょ
三成宇喜多小西大谷ら実際に戦った連中は徳川と毛利の手打ちのための捨て石にされた
天下を二分するほどの大乱起こしといてあれほど情けなく恥ずかしい負け方した総大将は歴史上唯一無二だと思う 家康の何がすごいって腹黒い。あのひょっとこ成り上がりの秀吉に言いくるめられて形仲良しに。宴会では家康が百姓の姿してドジョウすくいやったとか。
千姫も嫁に出しておきながらの苛烈なる造反。三成は有能でも家康とでは武将として修羅場が全然違う。三成は黒田如水を参謀にしたらまた違っただろう。 >>180
そういうバカがハードワークしてるだけのスレだから >>178
そりゃここで勝ち目のない戦いをして何もかも失うよりは、自分の取り分が残っている内に
逃げ遅れたバカを人身御供にして生き残る方が賢いからね
御家大事という観点で見た場合、輝元の行動は正しいとしか言いようがない
ここで戦闘続行を選択して御家を滅亡させてしまったら、それこそ御家を必死に繋いできた
ご先祖に対して申し訳が立たんだろう >>177
家康毛利奉行大坂城、みんなの利害が一致したんだよ
三成に全部おっかぶせて始末して手打ちにしたんだよ
そういう意味では三成は豊臣の忠臣 最近はテルが首謀者で吉次が三成誘ってなんか劣勢になったからケツまくって三成の首差し出したってのが定説なんだっけ だから結局家康も悪いのかも知れんが同じくらいに悪いのが毛利でこれは西軍好きの人も認識を改めたほうがいい
毛利は担ぎ上げられたお人好しなどでは全くなかった
当たり前だがどちらも本質的には豊臣家への忠義など二の次三の次で自家の生き残りと利害が最優先
三成はそのせめぎ合いの狭間で押し潰されたちょっと可哀想な犠牲者
三成の子供たちへの扱い見ると家康はもしかしてその辺の機微をわかっていたのかも 三成は軍才を云々する状況でも立場でも無かった
一万少しの手勢で四万以上の東軍に打ち勝つのは難しい >>187
奉行は奉行で既得権益維持のために大大名をうまい事利用しようって思惑が透けてるけどな
秀吉程の実力も権威もないのに、大大名をコントロールしようとしてしっぺ返しされただけだろ
事情はどうあれ、自業自得感は否めない >>187
言うても、毛利勢は割と頑張ってないか?
大坂城を占拠して大坂を押さえ、伏見城を落とし京を押さえ、
安濃津城を落として伊勢を押さえ、1手遅かったが大津城を落とした。
石田三成達より余程働いていると思うんだが。
それはそれとして、そこまでやって何故家康に所領安堵されると思ったし。 >>190
実際は表向きは所領安堵ってだけで、最初から所領半減で和睦したって話もあるそうだ
ただし、どうも毛利は巻き込まれた被害者と言い訳してたらしく、家康が大坂城に入ったら
毛利が確信犯だった証拠がボロボロ出てきて「何やっとんじゃ」となってさらに減封されたとか 拘束されて土地取られて出家させられた蜂須賀・生駒のこと考えればはい無罪放免なんてなる訳ないからね
命が助かったならいいものよ >>191
大坂城から輝元の花押が入った諸将への廻状が大量に発見されたってのは吉川家譜所収の10月2日付
吉川広家宛黒田長政書状にある話だけど、光成氏が史料批判を行っていて偽書の可能性を指摘してる
原本が伝来してる前後の書状と突き合わせると矛盾点も見受けられるし、まあ十中八九創作だと思うよ 輝元の朱印状が偽書はさすがに無理があるだろ……
戦国時代板で輝元くさすと必ずなんか出てくる人かな 毛利が、自分の領土拡大に勤しんだのは石田三成にとって誤算だったのかな。
それとも、承知の上で組んだのかな。 西軍の決起が(彼らが考えるより)支持されなかったという最大の誤算に比べたら
毛利の動きなんて誤差の範囲内でしょ もし三成が関ヶ原敗戦後に佐和山まで逃れてたら籠城してそこで討たれてたかな?
それとも佐和山を捨てて大坂に行って再戦を期した? >>194
何言ってんの?
偽書だと指摘されてるのは吉川家譜所収の10月2日付吉川広家宛黒田長政書状だよ
その書状の中で大坂城で大量の輝元の花押入りの廻状が発見されたとあるけど、
この黒田書状は偽書の可能性が高いからこの話は創作じゃないかということ 毛利の変節はすぐにわかるし
そうなりゃ大坂には戻れまい >>164
というか、藤田の経歴調べたら本当に食えないよ、真田以上と言うべきか。
関東の土豪で諸勢力を渡り歩き自分の所領を守る、最後に上杉に付くんだけどここでしくじり
領地失い越後に落ちる
つまり独立した陰謀家で上杉家臣というより上杉の同盟者の認識なんだろね
上杉負けると思ったから寝返ったと >>190
だよねえ、家康が約束守る訳が無いのは明白だろうに。
チェザーレボルジアのマジョ―ネの乱思い出した。チェザーレは反乱起こした傭兵隊長たちに
甘い顔見せて露骨に引き抜きをしようとしたんだよね。
その一方で軍資金をどんどん使い自軍を強化して脅す。
敵の結束を崩したら、本領安堵の約束なんて反故にして全員殺害 多分さあ、家康の当初の目論見は毛利本家取り潰しで吉川に毛利領の一部をあげる
だったんだと思うな。
そして吉川が受けたら本家を売って大名成り上がりの屑の評判が確定するので
後はなんか口実つけて改易
口先だけ甘い事いうて、全部毛利領没収。露骨やけどこれで騙される馬鹿要るもんなあ >>183
ギャンブルで破滅するタイプの考えだね。
毛利は優勢なら徳川滅ぼして、領地の分け前貰う気だったんでしょ、つまり銃口向けてる
更に、本領安堵なんかしたら家康死後に復讐されるかもしれんやん。
現に太閤が徳川の降伏受け入れたからこういう事態になってるのに
毛利輝元って本当にお坊っちゃん、自分が何をしたか理解してない >>203
アホかお前は、沈没確定の泥船にしがみつくバカがどこにいる
さっさと降りたから生き残れたんだろうが、しがみついてあがいた奉行はほぼ破滅だぞ
負け試合なら責任を適当に周りに押し付けて手じまいするのは当たり前だろ
落とし所って言葉の意味を少しは理解した方がいいぞ >>203
損切できないやつが身を滅ぼす
損切できれば再起も可能になる
まあ輝元はアコギすぎて引くレベルだが 例えで言うなら口喧嘩レベルで抑えたから和睦も有り得たわけで手を出せばもうごめんなさいしても許されないからな
家康が賢いのは毛利を存続させたほうが統治の観点からも良いと判断した所
家康もまだこの段階では存命中に徳川の権力を固めれるとは思ってなかったと思う
結果的にもスピード優先で手堅くまとめて幕府を開いたのは秀逸だと思う 徳川に親しい蜂須賀・生駒領を占領して
徳川に親しい加藤領を攻撃して
徳川に親しい藤堂領で一揆を誘発して
徳川に親しい黒田領に大友義統を送り込む
ここまでケンカ売っておいて本領安堵とか信じてたなら馬鹿丸出し。普通に考えて「生命までは取らない」と約束してくれたら御の字
もしくは「全部秀頼に命令された」とでも言って豊臣を売ったか。豊臣を主犯にすれば徳川は天下を手に入れられるから売値はそこそこあったろうが 結局関ヶ原の後は自ら戦わずに済んでるからな
その辺のやり残しが大坂の陣に出てくるイメージ 毛利は伏見攻城の主力ではない、瀬田で砦作ってた。
大谷らを北陸に送らなかった場合、
瀬田で前田と対陣になった可能性はゼロではない。 毛利は伏見攻城の主力ではない、瀬田で砦作ってた。
大谷らを北陸に送らなかった場合、
瀬田で前田と対陣になった可能性はゼロではない。 戦国時代板404エラーになってるけど履歴から読み込みはできるんだな
書き込みもできるかな? 輝元も家臣団も毛利の存亡を賭けた戦いはしないという共通認識はある
分かりやすく言うなら、あくまでもゲームの範疇として真剣に勝ちに行く方針だよ
東軍が本気で攻めてきた以上は生き残るための降伏しかない 現実的な問題として関ヶ原は毛利の大乱で三成だの吉継だのはその指揮官の一人でしかない
だからなぜって話になるとどうしても総大将の責任になる 増田長盛は大坂城から出てないんだけど毛利に拘束されてたんじゃないかとか言われてて可哀想 実際、関ヶ原で「もしも」を語ろうとしても、そのための兵力も権力も持ってるのが毛利だからなあ。
結局毛利を、無能ムーブをかました輝元をどう動かすかで話すしかない。 しかし毛利にこの戦を天下分け目の決戦だと強く認識させる=毛利に天下への野心を持たせる
のとほぼ同義だから、安易にこのIFにするのもそれはそれで困る
実際奉行や宇喜多は戦力としての毛利にはそりゃ期待していただろうが、
毛利に豊臣政権や天下をどうこうして欲しかった訳ではないだろうし
でも輝元を史実のような地方大名程度の器の小物にすると領地拡大に走る…ジレンマだな しかし毛利にこの戦を天下分け目の決戦だと強く認識させる=毛利に天下への野心を持たせる
のとほぼ同義だから、安易にこのIFにするのもそれはそれで困る
実際奉行や宇喜多は戦力としての毛利にはそりゃ期待していただろうが、
毛利に豊臣政権や天下をどうこうして欲しかった訳ではないだろうし
でも輝元を史実のような地方大名程度の器の小物にすると領地拡大に走る…ジレンマだな 徳川と戦争するって時に天下を狙ってなかったなら単なるバカ
万が一負けたら下手すりゃ首が落ちますがな 西軍大名の大半は
石田派閥傘下ではなく家康本隊に抵抗しなければ、御免なさいで許してもらえる
と考えていたからな
負けたら首が落ちると考えていたら西軍大名だって必死に戦う
毛利に限らず大多数がそう考えていないから短期に決着したわけ >>221
加えて毛利は事前交渉と大坂城という手土産があったからな。
壊滅するまで戦う必然性はなかった。
もし徳川が秀頼の首と引き換えなんて言ったら、喜んで本丸を攻めて差し出しただろうな。 輝元は見せしめに首ちょんぱでよかったろ
36万石は過分だ >>223
減封処分で留めて秀就の家督継承を認めれば、毛利関係者が表立って(裏向きは知らん)
反抗してくる可能性が大幅に減少するし、西軍関係者が減封とはいえのうのうと生き延びた
毛利に対してヘイトを向けるかもしれないからいい事づくめだよ
繰り返し表立って反抗するならともかく、一度目なら場合によっては罰を与えるだけにして
許した方がよいように思う、寛大さを示す意味でも >>223
それをやったら兵力を丸々残している毛利が全力で抵抗することになる。
しかも毛利の頭が無能の輝元が秀元(秀就はまだ幼少)に変わる分、毛利が強化された状態になる。
しかも、間違いなく島津や上杉、その他の西軍方だった大名は家を残すために反旗を翻すし、
豊臣が完全に徳川の傘下になってない状況下でそうなったら戦乱の世に逆戻り。
徳川としてもそれは避けたいはずだから、毛利がぎりぎり飲める防長2カ国はいい塩梅だよ。 豊臣政権の大老で西軍総大将のくせに戦わなかった毛利が大幅減封だけ?
八丈島の宇喜多前中納言が可哀想だよ >>226
だったらいつまでも逃げてねえで徳川に頭下げに来いって話だ
領地経営からも、御家を背負った大名としての務めも、敗戦の責任も取らずに逃げた癖に
可哀想も何もない、御家存続の為徳川にに下げたくない頭下げた輝元や景勝の方がまだマシだ
大体、秀家は後に縁者である前田家が大名に復帰しないか?って仲介を買って出たのに
断固拒否する大馬鹿者だぞ、息子や親族の推薦すらしないんだから意味がわからん
本当に可哀想なのは、必死に御家を大きくしたのにも関わらず、息子が我儘なせいで
御家が潰れた挙句、再び復興する好機を不意にされた父の直家だよ 当主だけではなく交渉役たるべき筆頭家老が逐電してるようじゃ
戦後交渉もおぼつかないだろうしな
秀家と明石全登の逃げっぷりは異常だよ 豊臣家が西軍に与した以上逃げるしかなかったんだろ。豊臣一門衆筆頭の宇喜多秀家が西軍についたのは豊臣家からの命令だったかもしれんがその豊臣が徳川に降伏した以上責任取らされるのは秀家になる。同じ一門衆の小早川秀秋は早々に徳川に降伏してるし >>229
秀家が意地を張ってるだけ
晩年の帰国も断ってるのに援助だけは受けてるんだから
豊臣家も関係なくなってるのに >>226
戦わずにさっさと大坂城を明け渡したから減封だけなんだよ。
輝元は凡庸だけど、駄目とわかれば徹底的に下手に出る程度には道理を弁えていた。 そもそも関ヶ原は、豊臣家にとっても毛利にとっても自分の存亡を賭ける戦いではない
そこを三成も秀家も根本的に勘違いしていた 宇喜多や大谷が奉行毛利についた動機は何だったんだろうな 感情的な動機ならまず家康への憎悪
宇喜多秀家はいわゆる宇喜多騒動で家中が割れてこれを仲裁したのが家康、そして騒動の中心派閥は家康を頼って徳川に仕官した。これのみで騒動の黒幕が家康だ、って話になる訳じゃないが秀家がそう思っても不思議じゃない
大谷吉継が家康を憎んだのもこれが理由。吉継は徳川家臣榊原康政と共に宇喜多騒動の仲裁をしていた。とこらが康政は仲裁に夢中になり自国経営を放置、結果家康から「謝礼でも欲しいのか」と説教を喰らい仲裁から降りてしまう。そしたらそれを聞いた吉継は公儀の為に尽力してるのにカネ目的と思われてたのかと憤激してしまった。これで家康を憎み関ヶ原に至ったと徳川は推察してる >>234
大谷はどちらかというと首謀者側。
宇喜多秀家、というか宇喜多家は毛利家や斉藤家に負けず劣らずに下剋上の申し子。
毛利輝元と同じく、この機会に権力に食い込もうとするのはまあ普通の行動。 >>235
お家騒動を徳川にかき回されたという意味ではで言えば毛利家も同じだな。
毛利のほうは更に事情が複雑(ある意味では単純)で、
・豊臣家→毛利秀元優位の裁定
・奉行衆→毛利輝元優位の裁定
・徳川家→吉川広家優位の裁定
これがそのまんま関ヶ原での家中の立ち位置に繋がっている。 >>235
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1599/17-6-1/20/0020?m=all&s=0018&n=20
この「慶長見聞書」まるまる信じてるのか
へえ 天下とかその前に前田が屈服させられ反対もいた中上杉征伐が家康の独断で決行された
他の五大老がやべぇ次うちだって思ってこのタイミングで決起しても不思議じゃない 惣無事令違反の上杉放置はそのまま豊臣政権の終わりを意味するから
上杉を討伐した上で秀頼を推戴し続けるのが豊臣政権のためだったが西軍挙兵と豊臣家の優柔不断で政権終了 家康が秀吉と同時に死んでいたら良かっただけの話
そうすれば豊臣政権は石田三成という忠臣に支えられて永続できた 豊臣が徳川に救援要請しなかった時点で滅亡は確定してた
豊臣家に公儀としての実力が無かった事に気付かなかったのは痛い >>241
その僅か数年の小早川隆景、豊臣秀吉、前田利家のところに徳川家康が混じっていたら、
はたして秀忠で家康と同じように出来たかどうか、確かに面白いIFになるな。
徳川、前田、上杉、毛利、宇喜多。加えて小早川と豊臣。
次世代同士の争いなら、それぞれにチャンスがあった気がする。
ただし地盤の弱い石田三成にはノーチャンス。 >>243
豊臣政権が西軍の挙兵のせいで徳川の立場や権威を保証できないと証明してしまったんだよね
家康って今川時代からそうだけど、所属先が御家の立場を保証してくれないとはっきりすると
「じゃあ、もういいですよね」ってなるんだよ(目先の利益で寝返るタイプではない)
秀吉はなんだかんだその辺理解していて、家康の権威と立場を整えることで
家康を豊臣政権に繋ぎとめるのに成功してたんだけどな、西軍が全部パアにしてしまった >>245
いうて、毛利も宇喜多も島津も長宗我部も秀吉に無理やり従わせられてただけで、
眼の前にのし上がるためのチャンスがあれば豊臣なんて利用するだけでどうでもいいでしょ。
宇喜多は親族だからというなら、徳川も毛利も前田も織田も全部豊臣の親戚なわけで、
というか本当に血の繋がる親族の関白秀次が切腹、秀秋が地方送りの時点で誰が豊臣なんかに忠誠誓うのよと。 この時豊臣の親戚っていうと宇喜多秀家と小早川秀秋、あとは木下一族しかおらんからな。有力外様に囲まれて最後の賭けに出たんだろうが中途半端に延命したのが良くなかった
西軍が諸将の妻子を人質にして大坂にいた大名は身柄を拘束されて処分までされてるんだから大人しく西軍の総大将は豊臣ですといって腹切っておくべきだった。それならまだ格は落ちなかった >>241
秀吉が生まれなければよかっただけの話だな
おまえの論法なら >>234
一次史料ではないが当代記だと家康に近しい大谷は宇喜多騒動の際に秀家に道理があると主張し、家康は家老
たちを擁護したことにより大谷が家康を批判したとあり、これを契機に大谷が家康から離叛したとしてるな
「自去る年大谷刑部少内府公江別して忠信、然而此度謀叛之事如何となれは、去比浮田中納言家老之衆と
為主従間有云事、大谷者中納言理を専被云立、内府公彼家老之者被介法、此儀に付て大谷批據を申之由依宣如此」 石田三成は結果が全く出せずに敗将となったから悪く言われてもしゃーない
しかし豊家を守ろうとした忠臣であった
これは家康の孫が言っている史実である >>250
Xこれは家康の孫が言っている史実である
○これは家康の孫の感想である
エンターテイメント作家の司馬遼太郎の感想であるに等しい 豊臣を守ろうとすれば、自分が負けても豊臣が即滅亡することがないように配慮する義務を負う
特に西軍は官僚が中心の集団なのでこの思考から逃れられない
その結果、士気が中途半端になり風向きが悪くなるとすぐにあきらめてしまう
むしろ戦で重要なのは豊臣を守らないことであり
自分が勝って権勢を握れないなら豊臣など一緒に滅んでしまえという覚悟こそが必要だった
西軍には豊臣を守らないという覚悟がなかった 豊臣家が家康憎しで協力しているとはいえ公儀としての力は弱い
そもそも豊臣家の求心力に問題があるし >>253
>豊臣家が家康憎しで協力しているとはいえ
どうする家康でやりそうなダメ創作シナリオ 豊臣にとって赤の他人謂わば異物でしかない家康を豊臣家が信用する訳もない >>255
秀頼以外の豊臣家にとって赤の他人じゃない奴って誰ですか?
秀吉に譜代なんている訳ないから家臣団は全員赤の他人ですし、
養子猶子も血がつながってないから当然赤の他人、輝元なんて問題外
徳川家が関係性考えると一番マシですらありますけど
少なくとも赤の他人でしかない輝元や三成らを信用する理由が一切ありませんね 関係性考えたら一番マシなのは宇喜多秀家
むしろ家康は最悪の部類 政権での役割といい秀頼との関係といい家康より宇喜多秀家のがマシとする根拠がわからん >>257
関ケ原後の秀家の動きを見て、『本当に』秀家がマシだと思えるのか?
敗戦の責任も取らずに逃亡して(奉行でさえ死んだり改易を受けてケジメをつけた)
領地に対する責任も取らず(尻ぬぐいをする羽目になったのは小早川秀秋)
御家を守る気もなく(この件に関しては輝元の方が遥かに立派)
じゃあ豊臣に殉ずる気があるのかと言われればそれもない(無駄に長生き)
割と真面目に言うが、こいつ人の上に立つ奴としてみたら失格レベルだぞ
大坂城落城しても追い腹切るどころか抗議一つせず平然と生活してるからな
私は西軍の豊臣御為なんてただの自己正当化の嘘っぱちだと思ってるが、
秀家は一番その建前を重視しなきゃいけない人間なんじゃないのか?
秀吉の猶子にまでなっといて、何の責任も取らず、豊臣の礎になる気もなければ、
秀頼に代わって犠牲になる気もない、こんな奴をよく持ち上げられるなと逆に感心するわ 勘違いされがちだが関ヶ原時の家康と秀頼は殆ど赤の他人だぞ。考えてみ?死んだ親父の死んだ妹の夫なんだぜ。しかもその間には子供がいない、というか家康は旭との結婚にあたって子供が産まれない事を条件の一つにしてるから
だから秀吉は家康と淀君を結婚させようとしたけどこれも豊臣側の反対でお流れ、つまり家康は単なる有力外様大名でしかない
秀頼と千姫が婚姻すれば家康も縁戚に列する、逆に言えば家康を縁戚から排除する機会はここしか無い 血の繋がりで言えばこんな順だけどほぼ唯一の血族を切腹させてるんだから無意味だわな。
そして意外にも、毛利が割と近い位置にいた。
3親等の血族 豊臣秀次
(1親等の法定血族 宇喜多秀家、小早川秀秋)
2親等の姻族 徳川家康
3親等の姻族 毛利秀元
姻族の3親等 小早川秀秋 秀吉は五大老五奉行の合議なんて全く決めていない
むしろ政務を執る権利は家康だけに与えており
奉行連中や秀家・輝元などに執政権など一切与えていなかった
それに不満を持った連中が暴れたのが関ヶ原というだけ 毛利や宇喜多の繋がりなどは所詮秀吉の代限りのものでしかない
後継者とされた秀頼と唯一直接縁戚関係を結び外戚として将来にわたる地位を約束されていたのは徳川のみ
他は傅役という家臣の立場で前田がいた程度で毛利上杉宇喜多は大老とは言え秀頼の代では完全にその他大勢の他人扱い
つまり世襲政権に必要不可欠な主家との運命共同体メンバーに秀吉が選んだのはまず第一に徳川と辛うじて前田
毛利上杉宇喜多などは政権安定のためにゆくゆく滅ぼされるか勢力削減されて当然の存在でしかなかった
秀吉の徳川への優遇を見てその将来を予見できたからこそ毛利も上杉も宇喜多も危機感をもち
秀吉の遺志を踏みにじって兵乱を起こしたと考えるほうがしっくりくる >>262
秀吉の遺言なんて家康含め誰も守ってないぞ
例えば家康は伏見で政務を見るはずが向島に退去した後大坂城で政務を見てる、とかな
時節柄仕方ない流れだがつまり秀吉の遺言は絶対視されるものではなくて都合の良い時に使われるだけの落書 豊臣一門衆筆頭は宇喜多秀家、ついで小早川秀秋
秀家は秀吉の娘を正室にしている、秀秋は秀吉の養子として育てられてきた義理の息子
家康は秀吉の妹の元夫でしかも子供がいないので秀吉死後は豊臣とは他人同然。朝日姫との結婚の条件で子供は産まれない産まれても嫡男にはならない事を秀吉に呑ませたから家康からすれば当然の成り行きなんだけどね 何親等だとか血縁の近さとかより秀吉が秀頼のために誰をどのように配置したか
そのことのほうが重要でその観点で見れば家康を秀頼の最も強力な後ろ盾にしようとしていたのは明らか
単に警戒してるから外戚として繋ぎ止めようとしていただけでないのは
当時公武で最も最高位で唯一の大臣職かつ朝議主宰権もある内大臣に推挙していることでもわかる
公家武家含めて家康より高位の者はおらず空位だった関白に最も近い立場で明らかに秀吉の代わりだった
毛利上杉宇喜多は官位では中納言に過ぎず官位を序列にしていた豊臣政権では本来合議などできるような関係ではない >>267
伏見から移動したから遺言を破ったとか本気で言ってるの? 秀吉の遺言なるものは多過ぎる上に矛盾してるものまであるから要は時の権力者が自分の決定の大義名分に都合よく使えるツールに過ぎない。反故にしたからといって何か問題があるわけでもない
要は権力を握ってしまえば後はどうとでもなる というか、この時代の血の繋がりなんて、ましてや養子なんて紙切れよりも弱い縁でしかない。
血の繋がった親殺し、子殺し、兄弟殺しが当たり前の時代ぞ?
当の徳川家康自身が実子を、豊臣秀吉が養子(甥)を殺ししてるわけで。
あの辺りなら親子間では武田斎藤、兄弟間では今川織田と、本当に血縁なんて無意味だわな。 血縁は当時から重視されてる。ていうかそうでないと秀頼が天下人になる道理が完全に消失する
秀吉の子で豊臣氏の頭領だから次期天下人なんだろう、ってなる訳でそうでないなら生まれた瞬間から秀頼は天下人たる資格は無かったということになる >>275
血縁そのものなんて重視されてないよ。
そもそも秀吉が関白になれたのは近衛前久の猶子になったから関白になれたのであって、
公家と血が繋がっていたから関白になれたわけではない。
もっと言えば近衛前久の猶子になれたのも、逆らうことが困難な最大の勢力となったからであり、
秀頼が取り敢えず天下人だったのも、その最大勢力を継ぐであろうということだけ。
現に、継ぐまで保たないとわかった瞬間から、豊臣家なんて無視して水面下の争いの後、関ケ原に繋がったわけで。 >>276
絶対視されてないからと言って、血縁に意味がないというのも随分乱暴な意見だと思うがな
血統はそりゃどうしようもない時はあるが、繋がっているに越したことはないだろう
それに一族同士の殺し合いが当たり前って、そりゃ戦国以前も以後もそうだし全否定はせんが、
だからってむやみやたらにするもんでもないぞ、あくまで管理、整理、制御するものであって
血縁は決して無視・軽視していいもんなんかじゃない
そもそも一門同士の殺し合いってのは『どっちが勝っても血統(御家)が残る』からするもんで
むしろ血縁を重視しているからこそ起きるもんだぞ
一門を壊滅に追い込んだ秀吉や頼朝はすぐに御家が詰んだが、執権北条や足利、徳川は
一門という血統をうまく利用して長期政権を作り上げた、そう考えれば血統はそれなりに重視すべきだろう >>276
重視されてるじゃん。羽柴秀吉というだけでは関白になれなかったんだから >>277
この辺は考えの違いだと思うが、自分はやはり血縁にそこまでの意味はないという考えかな。
意味があるのは血縁ではなく家名(御家)。
血を残すのではなく家名を残すからこそ、養子なんてことができるわけで。
もちろん1番手っ取り早い家の後継者という意味では血に意味はあるけど、
そこに御家を支配する力がなければ血なんてなんの意味もない。
それと一族同士の殺し合いはそんな高尚なものではなく、単に自分が御家の頂点でありたいだけだ。
御家のためならどちらかが黙って下れという話だし、どんな家であろうと御家騒動でプラスになるケースなんて殆どない。 豊臣氏でみると一門衆筆頭は秀吉の義理の息子、宇喜多秀家。ついで秀吉の養子だった小早川秀秋
家康はその下ということになる。一門じゃないから当たり前だが >>278
されてないよ。
重視されたのは「家名」であり「血縁」ではない。 >>279
うーん、ちょっと誤解してそうだけど、御家騒動が基本マイナスなのはそりゃそうだよ
ただ、御家滅亡よりは遥かにマシだろうといってるだけの話なんだが
だから秀次事件はマイナスなんだよ、御家騒動を防ごうとして御家滅亡では何の意味もない
それならどっちが勝っても御家が残るという意味で秀次一族を残した方がマシだったって話
そして御家を残すという意味ではやはり血統というものはあった方がいい、ないよりは
後、別に力なんて持たなくてもいい、むしろ力が無くても御家を残す保障として血が必要であり
権力を失っても権威が残るってのはまさにそういう事なんだよ
権力はなくても血統による権威は残ってる方が神輿としては都合がいいのだから 血縁関係が重視されてないなんていう珍説は捨てとけ。秀頼のために秀次殺した秀吉を日本開闢以来のサイコ野郎にでもする気なのか
血縁は非常に重要な要素で故に家があるし一族がある。血縁無しの実力組織なんて忍者くらいじゃないの 宇喜多秀家はあんなんでも秀吉の息子として最高級の扱いを受けてるんだ。朝鮮出兵では秀吉に代わる総大将で明征服の暁には日本か朝鮮の関白になる予定だった(家康や利家はこうした恩恵を受ける予定は無かった) 秀家のいいところ…子沢山だったから大名としての一番大事な責務は一応果たしてる点かな
ただ、本人が宇喜多という御家存続に興味もなけりゃ、豊臣という御家に殉ずる気もないという
無責任さが大問題なのよな、家中統制も下手だし領地にこだわってる訳でも無いし 仮に秀家が豊臣家を代表する人だったとしたら、ますます毛利の下で西軍に参加したのはまずいだろ。
総大将にならなければ。、 >>282
血縁は無いよりあったほうが良いけど、敵味方の判定において、当てになるもんではないってことだよ。
少なくとも御家と権勢より優先順位は下がる。
あなたの言う通り、御家存続のためには御家騒動も仕方ないケースがあると言うのがまさにそれで、
血よりも家が優先された結果なわけで、どちらが残ったほうが御家存続に繋がるか、言い換えれば力が残るか。
もっと単純に同盟したり軍門に降るにしても、弱小無名の親族よりは強大な名家の他人でしょ?
>>283
うん、割とサイコだよ。
サイコというか老い……、お気に入りのために他者に酷く当たる、痴呆老人そのものの行動してるのよ。
本当に血縁を残したいなら、あんな行動は取らない。 >>285
正確には朝鮮には秀勝か秀家を置くとしか言ってないけどね
笠谷氏はこの時期秀吉が朝鮮を「国内」と見做してたから関白と書かなかったと言ってるが正否の程は分からん
天正20年5月18日付秀次宛秀吉朱印状
「高麗之儀者、岐阜宰相欤、不然者備前宰相可被置候」
当該書状では明の関白は秀次、日本の関白は秀保か秀家にすると言っていて、しっかり「関白」と書かれてる
笠谷氏の考察が正しいかは知らんけど、何らかの意図があって朝鮮だけ関白と書かなかった可能性は考えられるな
「大唐関白右如被仰候、秀次江可被為譲候」
「日本関白ハ大和中納言・備前宰相両人之内、覚悟次㐧可被仰出事」 宇喜多秀家・小早川秀秋・大谷吉継は全員高台院と繋がりが深いので高台院からの要請という可能性もある
どのみち彼らからすれば家康という異物を排除することで自分達の立場を確立させたかったんだろう。豊臣に縁もゆかりも無い家康が豊臣公儀を握ったら徳川閥で固めるのは明らか。そうなる前に徳川の力を根絶せめて削ぎ落とし豊臣を第一位にする必要があった なんだか大分離れてしまったけど、言いたいのは
・豊臣家との婚姻、養子等による親戚関係は豊臣家に忠誠を誓う、あるいは豊臣家の差配を約束するものにはなり得ない。
・血縁関係ですら、秀次切腹、朝鮮送りで病死の秀勝、同時期に不審死した上葬儀もなかった秀保の処遇を考えると、当てにならない。
なので豊臣家の〇〇なので豊臣家のために、という論はほとんど意味をなさないということなのよ。 >>290
その考え方自体が間違っていると思う、秀吉の末期の行動を見る限り本音は
徳川を豊臣に取り込みたいじゃ無いのかな、早い話が豊徳合体
だから政権内で徳川がトップになってもらわないとむしろ困る
要は藤原氏になってほしいんだよ、そして朝廷はまさにその成功例だ
つまりこの場合は豊臣政権を徳川とイコールで考えなければならない
だから自分は西軍挙兵を『豊臣御為』という観点からは全く評価できないんだよ
彼らのやっている事は秩序破壊行為としか認識できない(実際豊臣政権は崩壊した)
諸侯の『御家大事』という点なら挙兵するのは勝手だが、それは豊臣御為とか政権存続とは
全く別の話になってしまうわけで 家康を豊臣に取り込もうにも家康はそれを朝日姫との婚姻で拒否してる。だから朝日姫との間に子供は産まれなかったし養子もいれなかった
そしてその事を一番知ってるのは豊臣家でだから豊臣家は家康を否定して追放しようとした。秀吉の遺言が効力を持たない事を使って >>290
秀頼の誕生によって秀吉からすれば、むしろ縁もゆかりもある養子連中は邪魔になったと言える
だからこそ秀吉は秀次を粛清して、秀秋も改易にするなど一掃を図った
秀家は猶子だから粛清こそしないが、朝鮮を任せるだとか言っていた頃に比べれば
大老最低格にして徳川や前田の指示を受けるように言い聞かせるなど明らかに格下げしていた
秀頼の誕生によって、秀吉は徳川に豊臣公儀を任せ一体化させて
養子・猶子の力を根絶せめて削ぎ落とし豊臣を第一位にする必要があったと言える 晩年の秀吉は秀頼第一主義
秀頼の邪魔になるか役立つかで采配してる
生母の淀にとっても徳川は妹の嫁ぎ先で秀忠は義弟になるし千姫は姪になるので徳川とは重縁になる
徳川と縁を切りたければ秀頼の婚約を破棄するのが一番わかり易い 秀吉が石田三成に関東を与えていたら問題なかった
全ては秀吉の失敗 ちょっと詳しい人にお聞きします
慶長5年8月18日に戸沢政盛が最上義光に宛てた起請文なんですが、あれ原文だと「上様、中納言様」になってますよね?
これってもしかして、どちらが勝利した場合でもどうとでも受け取れるように戸沢は出したと考えていいんですか?
上様→秀頼か家康の事
中納言→景勝か秀忠の事 >>299
確かにこの時期家康を上様とは呼ばないとして上様=秀頼、中納言=景勝もしくは輝元とする説も
あるみたいだけど、上杉博物館をはじめ一般的には上様=家康、中納言=秀忠と見るのが普通
ちなみにこの戸沢政盛起請文と同内容で8月13日付最上義光宛南部利直起請文、8月19日付最上義光宛本堂茂親起請文もある まあスレタイがそもそも間違ってるからどうにもならんよ。
石田三成の挙兵じゃないのだもの。
関ケ原の一連の流れは仮に三成が参加しなくても発生したし、西軍が近江を抑える段階で否応なく参加させられる。
大津城のように東軍として籠城する、西軍を通過させたあと、西軍を背後から襲うなどすれば爪痕は残せるけど。 >>302
石田三成の挙兵だと思わせたことこそが家康の勝因でしょ
反三成派はもちろん、そこまで反三成ではない東軍大名でも
三成個人の挙兵に過ぎない、三成だけを倒せば戦が終わると思えば安心して家康に協力できる
西軍大名の多くも石田三成の挙兵だという家康の主張を聞くことで
三成に責任を擦り付ける逃げ道ができて戦意を維持できなくなる
石田三成の挙兵だという主張が家康に勝利と天下をもたらしたのは間違いない https://i.imgur.com/s4XGZnb.jpg
ご家族等など紹介してプラス\4000×人数をゲット可能!
tk..tk [あぼーん用] 三成が大垣についたときの兵力は豊臣軍でパンプされてるから多いようにみえるが実際はそこまで兵力出せる訳もないし
仮に西軍入りを拒否しても大谷吉継に殺されてたろう 何言ってんの、当初は奉行が石田大谷挙兵を家康に報じてたでしょ、
で、その対応のためか口実か知らんが毛利が大坂入城の流れ。 正確には大谷吉継が病気で垂井にて休養、石田三成が代理を拒否してるというのが端緒
ていうかそもそも吉継三成挙兵って言っても何してたのって話になるし。伏見城を攻めたのは大坂の連中、三成たちに出来るのは精々シュプレヒコールあげるくらい?
となるとおそらく大谷吉継石田三成挙兵ってのは大坂で人質収監する為の嘘だろう。その嘘を伝えるなら別に三成が本当に挙兵する必要は無い >>305
大垣にいる豊臣勢は軍とは言えんよ
保科正光書状によると「其外秀頼様御馬廻衆も随一之衆五三輩楯篭候」とあり、馬廻衆の精鋭がわずか数人いるに過ぎない >>309
秀頼の意思がそこにあったかどうかの話なんかしてない
秀頼の命で大垣に籠ってようがいまいが、数人しかいないんだから軍という体をなしてない
そんな状況でパンプもクソもない >>311
書き方悪かったな
もちろん馬廻の数人だけが参戦してるとは思ってないよ
当然従者はいたと思うけど馬廻が率いる数なんてたかが知れてるし、馬廻数人なら数百人程度ってところじゃないかね
千人単位の兵が派兵されていたとは思えない
馬廻でも百人程の従者を連れてる者から一騎掛けみたいに二人程度の従者しか連れてないのもいる
どれくらいの兵が送られたかは不明だけど、いずれにせよ大した数ではなかったんじゃないかな 馬廻が来てるってことは秀頼が来てる事と同義なので士気を上げるための広告塔だった可能性もあるが、大垣という割と重要拠点に数百人しか送らんってことも無いだろう、というか実際弓鉄炮隊も送ってるし >>313
千人単位の馬廻衆がいるなら、当然七手組の誰か、それも複数が指揮してないとおかしなわけだが。
関ケ原の戦いの折、七手組は全員大坂城に詰めており、大垣方面で誰が指揮していたのかと。 七手組も大津城攻めたりしてたらしいしその流れなんかね 奉行衆が欲得で勝手に挙兵してるんだから馬廻りの一部が勝手に武功狙いで秀頼から離れてもおかしい話でもない
譜代とはいえ豊臣家は実質秀吉の一代だけだし 豊臣家は徳川幕府からの応援で内政が成り立ってたという話だから七手組も武勇の士ばかりで大した人物はいなかったんだろうな >>316
単なる一兵士なら兎も角馬廻だしそれはないかな
馬廻衆は親衛隊的ポジションで出世街道のエリートだけどだからこそ背負ってるものもある
つまり武功に逸って主人を見捨てる親衛隊を雇いたいって奴がいると思うか?って話 >>315
それって七手組の誰が参加してた?
もちろん、馬廻衆の兵の一部が参加したはあるだろうけど、
組織として参加したと言うならば、指揮官が誰ってところが重要なわけで。
これまで大津城攻略部隊の指揮官の名前に、郡、野々村、青木、中嶋、伊東、堀田、真野の名前を見たことはない。 秀頼馬廻衆で大津城攻めに参加したのは郡宗保と速水守久、伊東長実といった名前が伝わってるな
大垣にすら馬廻が送られてるとなると妥当なラインナップか? 秀吉時代の馬廻ならともかく秀頼の馬廻なんか将来不安だしな 主が危険な時の為に親衛隊がいるのに主を見捨てた親衛隊なんて雇う物好きいるのだろうか
相当世渡り上手くないと そもそも石田三成と毛利輝元が馬鹿なのでどうしようもない、西軍は
家康は三成や輝元の挙兵を読んでいてあえて挙兵させたとしか思えん
慶長5年7月21日付松井康之宛細川忠興書状で、忠興は「三成と輝元が組んで挙兵した。このようなことになるだろうと以前から私が思っていた通りになった
から、お前と魚住は丹後に移れ」
しかも、この書状では忠興が事前に黒田如水と相談していたとあるから、黒田如水も挙兵を見越していたことになる
細川忠興と黒田如水が挙兵を見越していて、家康が見越していないなど考えにくい
家康は挙兵を誘ったとしか思えん
三成と輝元の大バカ者はそれに見事にかかっただけ 大垣城には秀頼馬廻衆が入っていたがそいつらがどこの誰でどうなったのかはわからないのか
南宮山の豊臣家弓鉄炮隊に合流して逃げたのか関ヶ原でぶっ殺されたけど秀頼の馬廻を殺したとなるとマズいってことで隠蔽されたのか 誰だかわからん程度ならどうでもいいやつ立ったんだろうな
速水レベルなら隠すことはできない 大垣に居た弓鉄砲衆は犬山にいた衆が犬山開城で大垣に移動したんじゃないの?
だとするなら、岐阜陥落以前には犬山に入っていた可能性が高いと思う。 馬廻衆は大将がそこにいるようなもんだから秀頼馬廻衆がいると聞いてなんの動揺もなくこれを殲滅してみせたのが東軍諸将の内心を表してるな ソース忘れたけど、秀頼ってしかるべき年齢になるまで大坂城から出さない事に
なってるんじゃなかったっけ
だから秀頼が戦場に出ること自体がありえんし、馬廻衆を奉行が私的利用したとしか
考えてないんじゃないの ソース忘れたけど、秀頼ってしかるべき年齢になるまで大坂城から出さない事に
なってるんじゃなかったっけ
だから秀頼が戦場に出ること自体がありえんし、馬廻衆を奉行が私的利用したとしか
考えてないんじゃないの 結果的にそのまま滅亡してりゃ世話ないけどな
そんなもん臨機応変でしょ 秀頼直属の馬廻衆と公儀奉行衆では厳密には指揮権が異なるので
大坂城が安全で豊臣家から命令が動くだろうが奉行如きが命令したら確認とられるのが関の山では >>330
当主七歳で城から戦場最前線に放り出すのは無いわ、家康でさえ秀頼にそんな事しなかったぞ
大勢力に従属してる弱小大名の名目上当主とかならともかく、そうじゃないんだから
たかが家臣がそんな蛮行したらクズの極みだろう >>332
尼子の属国時代の毛利の当主がそれで死んでたよな。
子供を戦地に連れて行って首実検させたら倒れたって。 そもそも関ヶ原の時点では、もうすぐ60歳の家康は幼児の秀頼にとって脅威ではない
家康が何歳まで生きるかなんて西軍首謀者連中を含めて誰も知らない
単に三成や輝元が権勢を握るのに邪魔だから家康を排除したかっただけで
秀頼にとっての脅威だから家康を排除したかったわけではない
だから秀頼が出陣しないのは当たり前だろう 219 それでも動く名無し 2023/10/16(月) 18:26:51.53 ID:pA5+SQtP0
すっげぇかわいいのにおっぱいも綺麗で大きいし、尻もエロい
https://i.im;gur.com/gW3M6F6.jpg
https://i.im;gur.com/jQv1JNu.jpg
https://is;.gd/xkUfeT
620 名無しさん@ピンキー sage 2023/10/16(月) 21:36:57.85 ID:AS4vmq4R0
不朽の名作が復活していたので
https://i.im;gur.com/vgOZM4m.jpg
https://i.im;gur.com/83DLmpO.jpg
https://is;.gd/Q5ZYzk 毛利は西軍にはカウントしても、豊臣方にはカウントできない。
一番の理由が九州と四国に誰を向かわせたのかということ。
九州には大友、四国には村上。
つまり、秀吉が潰した勢力を復権させようと働きかけたわけだ。
この点だけ見ても、関ケ原時点では毛利は既に豊臣家に従うつもりがなかったのは明白。 輝元の目的は自分が安全な場所にいながら豊臣の支配体制を骨抜きにして
西国を自分の都合のいいように作り替えること
関ヶ原なんて東のことには興味ないし、何より豊臣家を守る気もない
そんなどうでもいいことに自分の命を賭けるわけにもいかない
だから東軍が東から迫ってくれば降伏しか選択肢はない まあ、目のつけどころは悪くなかった
輝ちゃん、ワンチャンあったで
家康が想定より強すぎて、西軍が聞いてたより遥かに弱かっただけで
やばくなったときのケツの捲りかたもギリ首の皮一枚繋がったわけだし
結果的にやらない方がマシだったにしろ
やろうとしたことは分かるし風呂敷の畳み方もまあわかる クーデターなどせずに前田家のように家康に屈服したほうがましだったよ 毛利は大名家として残すという最低限は出来たが見通しが大甘すぎたのは否定できない
下の上の結果 毛利は大名家として残すという最低限は出来たが見通しが大甘すぎたのは否定できない
下の上の結果 輝元の目的はかなり巨大なものだったのでは
まず豊臣家に「協力」して自分の格を上げる
家康に打ち勝つ事で家康に結ばされた「家康を父と思う」起請文を無効化して家康より上位に立つ
領土面では四国九州を併呑して秀吉に奪われた瀬戸内海交易権を取り戻す、ついでに毛利家の支配地域も増やす
実際大坂城を支配してるのは毛利軍な訳で徳川にさえ打ち勝てればその後の流れはお察しだろうし 三成の話なんざもう終わってるし
石田三成は美濃の一司令官で西軍総大将じゃありません、徳川と戦った時点で負け、負けた原因は西軍つまり毛利の初期戦略の誤りにある
だからどうしても盛り上がらないのはしゃーない いうても、岐阜城陥落前までの西軍の動きは悪くないと思うんだよな。
速攻で大坂城を押さえ、伏見を押さえ、瀬戸内を押さえ、越前方面は足止めし、伊勢をあらかた攻略。
岐阜城が1日(前日を含めて2日)で落ちなけりゃ、宇喜田隊の合流が叶って兵力は4万対4万の互角になってたし、
そうなれば伊勢方面軍は史実でも家康本体より先着してるのだから兵力で西軍優位になる。
なんなら大津城離反が無かった可能性すらあるし。
結局は岐阜城っていういつもの結論になるのかと。 岐阜城は攻撃される前に迎撃する城で防御力は無いからね。だから戦う前に人数が要る
置かなかった時点で勝負は決した 大坂城占拠して秀頼押さえて家康の弾劾状出せば会津征伐軍は身動きとれず瓦解するだろうって
戦前の大日本帝国ばりの希望的観測だな 戦前ではなく第二次大戦中だな
当時の大日本帝国はジリ貧で余裕ない中ですがった希望的観測だったが
西軍も政治的に追い込まれたまたまの機会に遭遇し希望的観測に引きずられて挙兵した観がある >>348
言うても岐阜城は、そこまで防御力がないわけじゃないぞ?
流石に2ヶ月も3ヶ月も保つ城ではないが、2,3日で落ちるような城でもない。
基本は政務どころの伏見城や、平城の大津城が岐阜城の3分の1の兵力で1~2週間保ったことを考えると、せめて同じくらいは保つと考えるのが普通。
後詰めもまだ来てないのに3倍以上の敵に野戦を仕掛けて6000人の兵の大半を霧散させ、
1箇所数百人で4つの登山口を守らないといけないような状態にした織田秀信がどう考えても無能過ぎたとしか。 岐阜城に比べたら平城の方がまだマシ。岐阜城は硬い岩山の上にあるからまず人が置けないし防御設備もお粗末。利点は見晴らしだけ
しかも東軍には元岐阜城主がついてるんだから岐阜城の弱点もモロバレ、ってなりゃ渡河してるところを攻撃するしかない
まぁ東軍には全部お見通しで「輝元が出てきても問題ない」とまで言い切られてる絶望的戦況です 岐阜城は金銘水って井戸があるけど水がほとんど出ないらしくて雨水を溜める穴みたいだな
井戸の説明板には岐阜城は水の確保に苦労したと書いてある 岐阜城険しいけど逆に言えば人員を配置出来ないもんな。平城なら防衛設備置いて人入れられるがあの斜面だとなぁ
それに秀信が余程のコミュ障じゃなきゃ後詰が難しいこともわかってたろ。大垣に二万人も無いんだから。東軍の方が数が多い現状岐阜城を巻かれたら大垣を空っぽにして後詰に来ないと勝てないけどその後詰が襲われるのも明らかだし 岐阜大垣を分断する竹ヶ鼻城が落ちたから後詰めも来れないしな
現に岐阜城攻められた時に三成らが救援しようとしたけど迎撃されてたどりつけなかった >>354
大垣に2万人いないなら尚更、数日中に1.4万人(宇喜多)の追加が来るのを待たずに突撃のほうがおかしい。
しかも水不足がというけど、流石に1週間も持たないほどではないし、
兵も万は無理でも6000人が置けないほどの小城ではない。
実際に、以前に孤立無援で落城した際は信長が攻めた時は14日、秀吉が攻めた時は13日保っている。 秀信は美濃衆の盟主ポジでしかないから
自分だけ岐阜城に籠もって諸城を見捨てるとかしたら
秀信に従ってる国衆が離反して軍が崩壊しかねんからな
秀信の石高と岐阜城に集結した戦力考えると自前の戦力は半分しかいないし >>356
当時の交通ではいつくるかなんてわからない
渡河という絶好の機会を捨てる理由には弱過ぎる
そして問題なのは岐阜城はおそらく六千は入らないんじゃないか。ほとんどは砦で分散されるし後は城下に待機することになろうが
そこに四万の兵が殺到すれば…死ぬのでは 秀信は暗愚なので自分が祖父の桶狭間のような大逆転勝利ができると妄想していた
自分の力量が理解できず信長気取りで戦に臨めば、結果は火を見るより明らかだった 東軍の方が遥かに大軍でここから逆転するにはせめて池田輝政を後退させるしかないもの。最初から大垣周辺に五万人とか居たら選択肢あったろうけど 東軍四万が清洲に到着してから美濃侵攻まで一週間は開いてたのにその間西軍で美濃に到着したのは宇喜多くらいか?
三成は恐慌状態だっただろうな >>349
それ後知恵な
クーデターなんていつもそんなもん
やってみないと誰が味方になるか分からん
終わった後は何とでも言えるから卑怯な結果論と紙一重だよ
純然たる戦力差が分かっていた太平洋戦争を挙げるのもナンセンス 本気でやるなら輝元本人が1万程度で大坂城制圧して同時に伏見城に全力で襲撃するくらいやれ 岐阜城に関しては色々言われてるけど正直答えの無い問題になってる。秀信にしても明確な失点は無いから >>352
正確には輝元が来ても大丈夫とは言ってないけどね
恐らく保科書状がソースだと思うけど、保科は後詰自体が難しいのではという見立てをしてる
そしてこれは岐阜城ではなく大垣城の話 >>364
秀信は西軍として戦ったことが明確な失点だろ
東軍が来るまでは東軍支持を打ち出せないとしても
東軍が来たらさっさと合流して関ヶ原で戦えばいいだけ
位置的にも京極や小早川よりも遥かに恵まれた場所にいて物理的な障害もなかった
東軍として関ヶ原を戦えば、さすが信長の孫だと評価を高めるチャンスだったのに
尾張が自分のものになるとか妄想を抱いて現実が見えない無能暗君で終わってしまった 伏見城に2週間も時間かけてる時点で西軍は終了してます
最早岐阜城以前の問題 >>367
確かにそこが問題だったね…
なんで西軍に属したんだろうか?尾張が貰えそうだったから?もしくは東軍に属すると最前線になってしまい東軍増援が来なければ死ぬしか無いからか
それで距離の近い西軍について西軍からの増援は無く、東軍先手衆数万に蹂躙とか皮肉 >>368
城攻めとしてはと遅いというほどではないし、むしろそこから岐阜城陥落までの3週間なにしてたのよって話で。
まあ、なにしてたって言えば、無意味に清須の福島正則の説得に時間をかけ、暇した兵力で伊勢なんか攻めてそれが戻ってこれなかったわけだけど。
関ヶ原の戦いの最大の失着はここ。
最初から清洲城を攻めていれば岐阜城とは逆に清洲城で西軍4万人対東軍6000人の構図が作れた。 東軍の状況を全く掴んでないから敵地とも言える尾張清須に簡単には踏み込めないだろ
清須に東軍の先方衆が現れて慌てふためくぐらいだし
タイミング次第じゃ清須攻め中に4万の軍勢から後詰め強襲くらって終わり 美濃にある程度以上の兵を入れておけばワンチャンあったんだが、それにしても東軍の動きを掴めてないのが痛過ぎた。諜報力に差があり過ぎる
真田信幸の裏切りが痛過ぎたのかもしれんが 散々ここでやったことまたやってる。
結論として岐阜での一週間程度の籠城は可能。
水の問題とか散々言ったのまた言われてる。
過去すれ落ちてて見れないかもだが。
https://itest.5ch.net/matsuri/test/read.cgi/sengoku/1574264307/ 散々ここでやったことまたやってる。
結論として岐阜での一週間程度の籠城は可能。
水の問題とか散々言ったのまた言われてる。
過去すれ落ちてて見れないかもだが。
https://itest.5ch.net/matsuri/test/read.cgi/sengoku/1574264307/ 岐阜は狭いのは山頂部だけで惣構自体は巨大すぎて
兵力が6000程度では少なすぎるのではないかというのが問題。 岐阜市の岐阜城発掘調査も遅々とではあるが進んでいる。
岐阜城行ったやつならわかるだろ、あれだけの水量のある小川みたいなのが居館跡後方に流れてただろ、
惣構の堀が水路だった可能性もある、
すぐ横は長良川。 岐阜城での籠城戦は無理だろう
大垣含めて人が居なさすぎる >>379
大垣に2万、岐阜城に6000、それにその近くの伊勢などに数万いるなら、大垣や岐阜に熟練した武将がいたならすぐには
さすがに抜けんよ、例えば石田三成が織田信長クラスの武将なら東軍がすぐに抜くのは絶対に無理だった 石田三成ですら岐阜城落としてそう
というのも東軍先手衆だけで四万以上いるから大垣からは後詰するのが非常に難しい
そして他の地方に出てる連中は最初から大垣に向かう事を計画してないと迅速に動けない。そいつらだって元々の作戦がある訳でそれを放棄して良いかどうか考えてから兵站を改めて作って大垣に向かうことになる(それをやらずに行くと徒に大垣城の米が消える)
後詰が難しいとなれば岐阜城は打って出るしか活路は無くなるしそうなりゃ東軍の勝利は確実。つまり最初から美濃を重視した戦略が必要だがならあのスカスカ具合はなんなのってことになり >>385
そりゃあ8月20日過ぎて東軍の体制整ったあとの岐阜城は誰がやっても無理ゲーよ。
問題なのは8月初旬、主だった勢力はまだ福島正則の6000しかいなかったときに西軍は軍勢を伊勢に向かわせてるのよ。
自領なので真っ先に福島正則が戻ってきたということは、東軍が次々と尾張に来るのはわかっているのになにやってんのかと。 そら帰ってきた連中は調略で寝返らせる気なんだから焦るわきゃない 毛利輝元が馬鹿だったと言えばそれまでなんだが
敢えてそこに合理性を見出せるか?美濃方面を軽視してるのは明らかなので西軍は東軍が迅速に攻めてくるとは考えて無かったのは確実(少なくとも数万もやってくるとは思ってない)
まず徳川は動けない、上杉と佐竹が敵だから下手な行軍は出来ないと踏んでいてもおかしくない。ってなると残りは東軍先手衆だけなんだが… 生駒利豊(小折城主)の書状によると、福島が清須に帰城する前に秀信と三成で木曽川越えして清須を奪取する予定だったらしい
利豊は秀信や三成から調略されたことを書中で述べてて、結局利豊は普段から福島
と懇意にしているので福島に味方することにしたと東軍についた経緯を説明している
福島がいつ清須に帰城したかは7月末(白峰説)や8月10日頃(本多説)があり不明だけど
三成らの木曽川越えが延引してる内に福島が清須に戻ってきたと利豊はその経緯を述べてる 西軍が何故伊勢に主力振ったのかまるでわからんけど、船で清洲を越えようとでも思ってたのか?
仮に美濃が落ちても大垣や佐和山で受ける計画が毛利が降りて御破算したのか? 松尾山を強奪した小早川を排除しようとして大垣城を出たら東軍に追撃されたってのが今の主流なの? >>386
状況が不味いってのはたとえわかって何とかしろって言うのは誰でも言える
具体的な方法論と実行力が無かっただけの話 犬山は押さえた、次は福島を味方にしよう、
尾張北部の寺に石田、秀信が禁制も出した、
もし福島が断れば兵力が集まり次第尾張に
攻め寄せよう、
こんなかんじだったと思われる。
そんな時に市橋、徳永の攻撃、
そして東軍先発隊の木曽川渡河からの岐阜城攻めに繋がる。 それからいしたは岐阜城の重要性は理解しており、
石田家臣兵1000を岐阜城に派遣している。
瑞龍寺砦に駐屯。
犬山も押さえたし小牧・長久手の再現できる方向には持っていっていた。
誤算は味方の兵が敵より少なかった、これに尽きる。
兵さえ多ければ渡河迎撃も選択肢に入る。 「東軍が戻ってきた」と思うのはその後の歴史を知ってるから
「東軍先鋒の調略が可能と思うはずがない」というのも同じく
福島が戻った時点ではあくまで「福島が領国に戻った」だけ
東軍先鋒がまとまって攻め寄せること自体が想定外だったんよ
短期決戦になると思ってなかったのは西軍だけじゃない
東軍先鋒がまとまったら鎧袖一触できるほどの戦力は西軍には元々ないもの >>395
そうなると、そもそもなんで挙兵したんだってことになるが?
後ろから脅かして上杉を間接的に救援するためだろ?
それはつまり東軍が戻ってくるという前提がなければ成り立たない。
毛利については輝元が無能だし東国はどうでも良いと言う考えだったかもしれん。
でも、石田や大谷、宇喜多らは違うだろ。 >>398
正気だよ。
というか、内府ちかひの条々の初っ端に、まさにそのことが書いてあるじゃん。
まさか、「家康が景勝を討ち果たそうとしてます」って文書を全国にばらまきながら挙兵して、
それはそれとして上杉は勝手に死んで下さいってわけじゃないでしょ。 毛利と奉行宇喜多らでは思惑も目的も一致しておらずバラバラだったってことか
西軍もあれもこれもと欲張りで贅沢な挙兵したもんだな >>399
ネタかと思って失礼した
内府違いのそれは「上杉助けるために挙兵します」という話じゃないよ
複数ある内府の罪の一つとして上がってるだけであくまで徳川の断罪が主
徳川に政権を束ねる正当性がないことを主張してる訳で
歴史上東軍に属した勢力がまとまって行動することを想定してた根拠にはならんよ
「最初から東軍先鋒が敵と想定してたとしたら西軍の行動はおかしい」のなら
「東軍先鋒がまとめて敵に回るとは想定してなかった」というただそれだけの話よ 東軍が西に戻ってきたということは上杉が東軍と戦わなかったということ
攻められた上杉本人が戦っていないのに
上杉より石高の低い大名や大老に奉行にも関係ない大名が戦う義理はない
奉行に返り咲きたい石田一派を除けば、西軍は東軍と戦う理由がなくなったと言える
石田一派を除く大多数の西軍大名にとって、東軍が戻ってくれば戦わないのは暗黙の了解だった 両方目標としてたんでしょ
西軍の目標は徳川の打倒、ただその為には上杉を救わねばならない。何故なら上杉が徳川に食われたら徳川の背後を脅かす存在は精々佐竹だけで徳川250万石の全力が突っ込んでくる
だから徳川打倒の為にはまず上杉救援が必須でありどっちが重要かといえばどちらも重要 >>393
歴史ではあまり取り上げられないけど関ヶ原の戦いで徳永寿昌と市橋長勝の二人が各地の城落としまくりなんだよな 西軍は上杉との連絡を計算に入れてない。幾ら間抜けでも戦ってから連絡路つくろうとは思わないだろう。上杉が無事ならそれでよくて積極的な攻撃は偶然起これば良いと思ってたのでは >>405
大坂で挙兵すれば半分程度は引き返してくるし、少なくとも追加で東国に諸大名が派遣されることはないくらいは考えてたのでは?
実際に大坂でいくつかの大名を足止めして西軍に組み込んでいるし。
そして流石に関東まで兵を派遣は無理だが、連絡路としての計算が、真田との交渉だろう。 >>406
三成が昌幸に送った書状に会津征伐に向かった諸侯はこちらの挙兵を聞いて
帰国してるとか書いた書状があるらしいからな
これだけだとリップサービスの可能性はあるが、なんか島津義弘の書状にも
関東から誰も戻ってこなくて、西軍首脳部が予想外だと慌てて会議をしてるとかあるらしいんで
全員味方になるは言い過ぎにしても、上杉征伐軍は崩壊してこちら側に組織だって
反抗してくる事はないというのは、西軍首脳部の中では大前提の話だったとみてよさそう
後々の展開知ってると、楽観論が過ぎて頭痛がしてくるレベルだが >>407
家康がもっと嫌われている、その差配に不満を持たれていると思って行動したものの、
蓋を開けてみれば結局半数以上は徳川についたという感じでは?
今、の日本の、前の選挙あたりで考えてみると良い。
自民党がこれだけ忌み嫌われていて、とりあえず対抗戦力っぽい立憲や維新があった。
だから選挙イケると思ったら惨敗したという感じ。 >>405
三成の真田宛書状、上杉の毛利、宇喜多への書状(届いておらず真田文書になぜかある)を知ってたらそんなこと言わん 上杉は残されてる書状からいきのいいことはたくさん言ってるんだけど、何もできてないんだよな
唯一、攻めやすそうと思って攻めた最上も初戦から大失敗だし >>408
そういうことだな
終わってから馬鹿とか無能というのは簡単だけど、リアルタイムで考えてたら予測は困難
そもそも、勝敗の読みよりも感情、面目や意地で行動するのが武士だし 挙兵してから上杉真田と連絡を取ろうとする泥縄
事前準備が出来てたのは毛利ぐらいで東日本には何の手当もしていないというのが西軍の正体 上杉が無事であればそれでよくて後は成り行きに任せてたんだろう。景勝も同じ目論見で家康に喧嘩売ってたようだし。そんな戦略眼でも通用したのが戦国時代だから
ただしそれが通用する時代は終わってた、ってことに豊臣含めて気付いてなかっただけで >>412
そう考えると、無能無能言われるけど毛利輝元は割としっかりしてるよな。
結果的に失敗に終わってるから有能ではないけど、
きちんと軍勢は整え、速攻で大坂城を奪取し、自軍は殆ど損なわずに旧領回復を餌に九州攻めや四国攻めを行い、
裏では徳川とのパイプも残して和戦両様の構えをとり、結局あれだけの戦でありながら重臣のひとりすら死んでいない。
他のいきあたりばったりな西軍諸将にくらべて、ここまできちんと準備して……全部失敗してるのが輝元クオリティだよなあ。 >>414
自分で書いててなんだが実際は輝元も準備不足の見切り発車になってるけどね
挙兵を知ってたのは安国寺恵瓊などの近臣のみ
吉川広家は無論のこと毛利秀元にも挙兵のことは知らせてなかったぽいし
毛利家中が輝元の無茶振りに対してまとまって動けたのは輝元の力量ではなくて小早川隆景などが作り上げた家臣団と家風によるものだろう
ソ連の遺産を食いつぶしてるプーチンみたいなもの
関ケ原後の輝元は家臣たちが言う事を聞かないと愚痴ってるから家臣団に権限を大きく奪われてる ただ野心は凄い。大坂の陣で家臣を大坂城に送ったのは毛利輝元ただ一人ぞ そもそも西軍(毛利)は楽観よ
西軍決起は見方によれば家康に上杉討伐軍を集結させて戦力整えた状態で後に引けない状況をお膳立てしたと言える
これで西軍討伐のリングに上がらないとか有り得ないんだよな >>407
義弘の書状でそんな内容のものあったっけ? >>419
横からだけど旧記雑録所収の7月29日付忠恒宛義弘書状だと思うよ
その部分だけ抜粋すると
「然者関東へ下着候御人衆者、一人も無上洛候間、彼表之様子兎角相聞不申候」
「兼又石治少事者、追付大垣へ下向候て、秀頼様へ御目見得可在之由候、畢竟諸式はか行不申ニ付而、被召出候と聞申候」
三成がその内に大垣へ下向してとあるけど大坂の誤記だな
そして色々上手くいかないので秀頼に召し出されたとあるが、実際は輝元に呼ばれて相談するということだろう
8月1日付大谷吉継宛毛利輝元書状に「治少夜前被罷越申談候、於様躰者自各可被申候」
とあるように、7月30日の晩に輝元は三成と談合したことが書かれてる >>407
結局政権首班だった徳川の正当性を崩せば
諸大名が離反してこちらに取り込めるという
見通しで西軍は動いてるのよね
結果的にはまさに見当はずれな楽観論なんだけど
実際その見通しで動いてて大規模な勢力が
上洛してくるとは想定してない 毛利はともかく、奉行連中は15年間も豊臣の威光を振りかざして生きてきた
自分が豊臣の威光を背にすれば、誰もが跪いて言うことを聞くのが当たり前という環境に慣れきってしまえば
大軍が上洛して自分たちを攻めてくるなんて奉行連中には想像もできないことだった >>420
ありがとう
輝元と三成の会談なんだな
宇喜多や長束らは伏見攻めしてるからまあそうか >>425
この会談で西軍は道を間違えた感じだな。
ここで伊勢攻めを選択出来るのは、毛利輝元に他ならないから、
美濃・尾張放置は毛利輝元の意向とみて間違いない。
軍勢がなければ、石田三成としては尾張の勢力に調略をかけるしか打てる手がなく、
無為に2週間以上も出来るわけのない福島正則の説得なんかやってたわけだ。 なんかおかしくない?仮に「一人も上洛してこない」が「西軍に味方する奴がいない」だとすると伊勢に八万送った戦略はそれを受けたのものになる
毛利輝元は何でそんな戦略決定したんだ?諸将が徳川ついてないなら兎も角こちらに同調してないなら美濃を押さえないとマズいのでは? >>427
個人的には「1人も大坂・伏見を奪回に来ない」の文脈ではないかとは思うけど、
専門家が「(西軍として)上洛してこない」と言ってるのならそうなんだろうな。
前者なら分からなくはないんだよ。
東軍が引き返して来ないなら今のうちに伊勢を抑える、というのも。
尾張を抑えるほうが良いとは思うけど、伊勢を抑えて西側を完全に固めるのも間違いとは思わない。
まあその場合、どれだけ諜報能力低いのよって話でもあるが。 東軍の支持が高いとして伊勢を押さえる理由って
思いつかないけど例えば美濃は半ば捨てて大坂から佐和山を防衛線とするとか?ただだとすると岐阜が落ちてあんな絶望してる説明ができなくなるのよね >>429
考えてみたんだが、地理の把握、認識の問題では?
西国の毛利輝元は、地図だけ見て不破の関さえ破られなければ良く、破られた場合は近江で止めれば良いと考え、
それより不破の関を迂回して伊勢路から回り込まれるほうが嫌だ、と考えたとか。
しかし近江本拠地のの三成からしてみれば、美濃にはいられたら岐阜城はポンコツなのを知っているし、
そこを取られたら近江に雪崩込まれるのを止めようがないのを理解しているから焦る、と。 >>430
吉川広家の証言ね
一 伏見之城へ人数差寄、責口被申付候刻、勢州へ可相働之旨、奉行衆相談被相究候、惣別濃州・北国両国之仕置堅被申付候てこそ尤ニ候、勢州さしむかひたる儀にも非候間出勢無詮候、雖然長(長束正家)大・安国寺被罷向、あの(阿濃)ゝ津近辺椋本と申所両人被陣取候、如何候哉、夜中我等陣所関ノ地蔵へ引取候、それより猶以敵味方覚相替候、其後又(伊勢)津ノ城可相寄之由被相催候、左候へハ大御所様被成御打上候者、大分之一戦可有之、前かとニ不数城乗崩候ても無詮候、万一手負死人罷成候者、一方御をくれニ罷成儀ニ候処、首尾不合行被仕、城被乗崩候へとも、手負死人候而人数半分ニ罷成、味方之覚莫太ニ罷易候事 7月29日時点での輝元と石田の会談は、
どうやって伏見を落とすか、の相談ではないかと思う。
敵が来ない?というのは、瀬田で迎え撃つつもりなのに来る気配がない、
ではないかと思う。
銃撃戦ばかりやって未だ伏見は落ちない。
モタモタしてれば伏見への後詰が来る、
あるいは>>431の吉川の言からだと、
敵の後詰が来ると思って瀬田で待ち構えていたが、
来ないので秀元・吉川は伊勢を制圧せよと言われた、
となるが、
伏見も落ちてないのに瀬田から伊勢に向かわせるとか
正気とは思えない。
伏見攻略後に伊勢制圧を指示された、ならわかるが。
文面からはまだ伏見落としてない時点っぽいんだよなぁ。 石田の備口人数の日付いつだっけ?
8月5日だっけ?
あれのことなら伏見落ちた後のことだと思うけど。 >>432
細かいことだが輝元と三成の会談は7月30日の晩
広家の証言を信じるなら431にある通り、伏見城の攻め口を申し付けられた際に伊勢攻めが決まったとあるから間違いなく落城前だよ
伊勢攻めはかなり早い段階で決定してて既定路線だったんだろう
8月4日付家臣宛広家書状に
「瀬田普請相調候て伊勢へ相越、陣取先々見合候へとの事ニ付而」
とあるから、実際の伊勢侵攻の指示については勿論伏見落城後のことだよ >>433
そう8月5日
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-1/22/0013?m=all&s=0013&n=20
同じ日付で真田に宛てた三成書状だと、ざっくりいえば「私は織田秀信と尾張に出張する方針です。福島がこっちにつかなかったら伊勢方面の味方と一緒になって清洲に軍事行動します」
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-1/22/0025?m=all&s=0013&n=20
翌日付けの同書状だと、明後日には三成自身が尾張に進出するとした上で、「尾州表へも輝元人数一万斗(ばかり)、吉川安国寺(が)召連、長大(長束)同道にて」
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-1/22/0026?m=all&s=0013&n=20
東海道が通る伊勢は重要だし、そもそも三成の認識(西軍首脳の総意?)としては伊勢方面に向かった軍勢も伊勢は通過点で、尾張への進軍を目的としていたっぽいね >>423
まさかそれが東軍先鋒結束への備えだと?
瀬田は北陸道、東海道の要所で京に政権中枢がある以上外せない要所だよ
だからと言って東軍先鋒がまとまって徳川軍と一緒に上洛したら
防ぎ切ることができないのは歴史の証明通り
所謂武断派とか家康派とか小説で言われる東軍先鋒諸将が
最初から仮想敵だったというのは結果から逆算した想定だよ 四奉行はみんな近江やら丹波やらに拠点がある
それが伊勢注力に賛成したのは戦況有利と誤認していたのか輝元には逆らえなかったのか
後者だとしたら輝元は自分の指揮で負けておきながら奉行を生贄にして延命したことになるわけで戦国大名としては正しいけど人間としてはどうなんだろってことになるが >>435
なるほど、通過点ね、それなら合点がいく。
石田書状にあるのが西軍全体の作戦方針であるとするならば、
西軍は第二次小牧長久手のような情勢なるかもしれないことをある程度は想定していた。
ただし小牧長久手と違うのは、西軍主力の尾張への進軍ルートは伊勢経由の東海道であると。
だけど長島が敵方になった場合、あそこ簡単には落ちないから美濃、犬山の小牧長久手時の秀吉ルートのほうが無難なんだけどなぁ。
そして誤算は東軍の戦力が予想以上に多かったこと。
小牧山取られるどころか岐阜が落ちてしまい
防衛線崩壊、日和見の犬山詰衆も士気喪失、
赤坂に陣城作り出したしどうするかの劣勢状況に追い込まれてしまった。
こんな流れかな。
伊勢方面隊は大垣後詰南宮山布陣では史実通りなので、
敢えて竹鼻強襲からの岐阜攻城でも面白かったかも。
犬山詰め衆が岐阜後詰に入るか再び西軍側で岐阜攻城に加わるか。
まぁ常識的にいけば伊勢方面隊は無難に大垣後詰だろうけど。 赤坂の東軍が釣られて動けば大垣衆と挟撃とか面白いことになる、 輝元って足利義輝の偏諱を変えずにいたが
時の天下人秀吉あたりに文句を言われなかったのかね? 赤坂の東軍先発隊と大垣城の西軍が対峙してる状況。
ここで西軍伊勢方面隊は大垣からの援軍要請に応え
後詰として南宮山に布陣した。
まぁセオリー通りと言えばセオリー通りなんだけど、
陣城状態の赤坂、兵力差、
これを考慮した場合、この状況はどう変わる?
冷静に考えると何も変わらない。
まぁ大垣城の士気は後詰到着で上がるだろうことと、
佐和山方面への進出阻止にはなり、
史実のようになる。
家康、秀忠がいつ来るかはわからないけど、
赤坂の東軍釣り出して決戦に持ち込む方策があってもよかったように思う。
家康秀忠が来てしまったらもうどうにもならないし。 垂井まで取られてるから大垣を補給できんのよね
残りの道は佐和山を通るところでそこを小早川秀秋に潰されてジエンド
というか大垣への兵站すら考えてなかったという軽視の極み 山中村に大谷らが布陣してる間は南宮山南側経由で佐和山方面との連絡線は維持できる。
つまり9月13日までは問題ない。
現に瀬田守備隊の九州勢は大垣南方から大垣入城してる、
ただし、白瀬峠とかいう南方の峠越えて来てるんで
山中村通ってきたわけではないが。 >>441
秀元とが偏諱を受けてるから良いのでは?
家康だって秀忠が偏諱を受けてるけど秀康に改名したりはしていないし。
>>442
いや、変わらなくないよ。むしろ千載一遇のチャンス。
家康の赤坂布陣までの間は短いとはいえ西軍が東軍を兵力で上回った唯一の期間。
南宮山南側のラインが生きているので補給にもなんの問題もない。
問題はなぜここで攻撃を仕掛けなかったかってことだが……家康(東軍本体)の到着をもっと先と見ていたんだろうな。 九月十二日三成書状によると西軍は苅田も行ってないので食糧難に陥っていた。そうした士気低下も関係あったかもしれないけどそれよか垂井も取られてるのが戦略を難しくしたんじゃないか
赤坂を攻めれば垂井が、垂井を攻めれば赤坂が攻めてくるとすれば結構厄介だったのか
もしくは最早この戦争、勝敗は別として家康と決戦するしか終わらないと思ってたのか 8月22日付の井伊直政から本多正信ら宛の書状
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-2/27/0005?m=all&s=0004&n=20
緒戦の勝利と翌日の岐阜城攻撃を報じた上で、「此外羽左衛門大夫(福島正則)殿組之衆は明日先岐阜へ押詰候而羽三左衛門(池田輝政)殿組之衆惣構をも被破候はぎふの上のかち(徒歩)渡りを越佐和山へ働相上り可申の由今夜談合相定申候」とある
さらに、三成は岐阜周辺から川を越えて大垣城に逃げ込み、こちらに物見の一人も出してこないとし、「明日赤坂辺迄も押申候は大方佐和山へにけ(逃げ)入可申と何もわらい申事候」
東軍先遣部隊は大垣なんて無視して佐和山に直行する予定だったようだね
それ以前に西軍の想定より東軍の踏み込みが迅速だった
まあすべては結果論 賤ヶ岳や小牧長久手でもそうだったけど、
野戦築城した陣城に対する攻撃は余程の戦力差がないと
損害ばかりで突破ができない。
下手すると長篠みたいになる。
垂井〜赤坂間に東軍は布陣していたと思うけど、
だれがどこにというのはよくわからん。
赤坂は屏風絵かなんかに誇張はあるだろうけど
かなり立派な陣城が描かれている。
勝山を中心に円陣みたいなかんじだったかな。
膠着してても意味ないんだけど、
どうやって赤坂の東軍を釣り出すか、と、
東軍先発隊が家康の、家康到着まで動くな、
という指示をどこまで守るか、
この2点が鍵かなと思う。
家康秀忠に合流されたらもう打つ手はない。 まぁ佐和山攻撃する気満々だったけど、
石田が大垣にいると判れば大垣と対峙すべくの赤坂布陣じゃないのかな、
家康からは家康到着まで動くな言われてたみたいだし。 >>449
家康到着というか、家康と秀忠父子が到着するまでになってる
だけど9月1日付真田信幸宛で上方出馬を伝えてるから、ちょっと遅いな出陣
それにこの書状、「城を取り巻いて水攻めにする」とか訳わからないこと書いてるし >>447
これ見ると東軍先発隊の士気は相当高いよな
井伊・本多は家康の御意を得るためにも、岐阜城攻めの進軍を福島隊に続いて行いたいと意見したけど
諸将から全軍の進軍が終わり最後から来てくれればいいと強く言われたのでどうしようもないとあるもんな
すぐ戦況を注進しようにも先勢と3~4里は離れてるからどうしても遅くなるし一段と迷惑だと文句言ってるし >>450
当初水攻めの計画があったというだけの話でしょ
大垣城の水攻めについては9月1日付信之宛、同日付堀直寄宛家康書状の二通
にしか記述がなく、それ以降は触れられてないからすぐ中止になったと思われる >>451
「こっちも苦労してるので察してください(早く来て下さい~)」というのが分かる好史料よなw
これ読んで家康も重い腰を上げ、軽挙を牽制もするわけで 清洲を押さえてあれば岐阜でも大垣でも佐和山でも自由に戦争可能、その岐阜も押さえたなら尚のこと余裕だったろうし 大阪歴史博物館の関ヶ原合戦図屏風だったかな、
赤坂の陣城描かれてるの。 東軍先発隊は決死の覚悟で木曽川渡河する言ってるんだから戦意は高い。 >>446
刈田してどれくらい兵糧が確保できると思う?
また東軍が赤坂垂井まで進出してるのに、それを見逃してくれると思う?
あの9月12日書状は偽書じゃないかと思う
じゃないと三成があまりに愚かすぎることになる
「古今消息」にあるやつだし 実質関ヶ原の勝敗を決めたのは東軍先鋒衆だよ
家康としちゃ彼らがどうなっても東海筋で一戦挽回の余地はあるし最悪箱根で守りゃいい
西軍は家康を中央政権から追い落とし長期戦の構え
対して東軍先鋒がまとまって大きな動きを起こすならあの短い期間しかなかった
会津征伐後彼らが結束して動かず国許に帰ってしまったら
各個撃破やそれを避けて西軍に取り込まれざる得ない
黒田藤堂加藤ら西国に所領を持つ大名は他に道がなくなってしまうし
東海筋の福島池田以下も個別に西軍に対抗できる勢力ではない
長期化したら国許離れた軍勢の滞在の不満がたまる東海筋の大名と
国許の不安を抱える西国大名の足並みがいつまでも揃ってるとも限らない
東軍先鋒にはあの状況で短期決戦狙える立場と狙う理由があった
徳川に唆されたという側面だけ強調されがちだけど
その辺の政治的な判断力を無視したのが西軍の敗因じゃないかと >>457
東軍も普通に佐和山で苅田したって話あるし苅田出来るならやっといた方がいいのでは?
苅田しておけばまず食糧を確保出来るしまた敵が苅田によって食糧を確保するという手段を潰せる
西軍は苅田に及ばなかった、ということは東軍が大垣周辺の稲を奪って行ったわけで相対的に西軍は不利になる
おそらくは苅田に打って出たところを東軍に攻撃されるのを嫌がったんだろうが… >>458
たしかにそれはあるわな、西軍につくならまだしも、
東軍側に立つなら長期戦ならそうなる。
で、家康がちっとも来ないとなれば
劫の立て替えか!となる。
たしかに東軍先発隊の面々の勝ち筋は短期決戦となる。
家康の思惑は別にして。 刈田と言うけど、刈田ではすぐには、少なくとも1週間レベルの話では兵糧は増えんぞ?
稲は刈ってすぐ食べられるものじゃない。
個人単位では可能でも、軍勢の糧秣にするには時間がかかる。
月単位の行軍や籠城の食糧の足し、生産地の破壊など意味はあるけど、数日内の食糧の枯渇には無力。
むしろ刈田をするなら、その時点ではまだ決着に時間がかかるという認識だったということになる。 「石田三成は関ヶ原で徳川家康と決戦しようとした」という従来説からすると奇妙に感じるけど
「石田三成含め西軍は大垣城で東軍と戦おうとしたところ関ヶ原に引き摺り出された」という最新の学説からすると苅田しろってのは自然な主張
ただでさえいきなり数万の軍が滞在してその補給路もか細い中少しでも多くの兵糧を集めないと兵糧攻めにあってから米粒探しても遅い
苅田にも色々な手法があるけど少なくとも東軍に大垣周辺の食糧を押さえられるのは避けないといけない。ただでさえ補給面で強い東軍の戦略が広がってしまう。最悪大垣を捨てるにしても放ってはおけないんじゃないか 大垣は別に包囲されてるわけじゃないからそう問題ではないと思うが。
それよりも家康秀忠が到着するほうが問題。 垂井まで取られてるから割と問題だとは思うが…
徳川本隊到着もヤバいがそれよかこっちの方がマズい。補給戦が脆弱なまま攻撃を受けたらどうなるかは誰だって身にしみてわかってたろうし 長期戦を志していたなら苅田はしないといけないし
短期決戦なら敵の動きを待たずに攻めないといけない
西軍の戦略はなんていうか中途半端 家康は江戸から動いてないというのが前提みたいだったから
東軍の情報が無いどころか偽情報に踊らされてた節がある >>463
八月二十九日保科正光書状によると二十六日に東軍は大垣城に付け城を普請して仕寄たところ輝元への救援要請書状を持った使者を捕獲したってあるからこれが本当なら絶体絶命じゃなかろうか 下手すりゃ籠城って時に集められる食糧は全部集めないとダメだろう。朝鮮で何学んだのか >>470
刈田してたので東軍の攻撃への対応が出来ませんでした、とか笑い話にもならんぞ?
挑発目的で東軍が行うならともかく、大軍を目の前に展開された守備側のやることじゃないよ。 >>470
朝鮮の話は全然違うだろ…
頭おかしいのか? >>471
苅田は立派な軍事行動だよ
大垣の食糧が乏しくなるなんて三成でなくても分かるし東軍の方が数的優位に立つ可能性もわかるだろう。なら早い内に苅田をしないといけない
東軍に先にやられたらただでさえ不利な西軍が更に不利になるだけだよ 苅田なんて必要ならやればいいだけ。
岐阜陥落後については、家康秀忠が来る前にいかに
赤坂の東軍を殲滅するかが鍵。
家康秀忠が来ても無策のまま大垣で籠城するつもりなのか?
9月15日になれば松尾山の秀秋はなんとかするしかなくなる、
それは史実通りの手段でなくてもよいが、
史実通りの手段が無難だろう。
結果、史実通りの西軍壊滅。 垂井・赤坂・岐阜と点在してる東軍相手にどうやって戦えば良いのか
三面同時攻撃を仕掛けたいけどそんな余力はおそらく無いし
てなると
・徳川家康の到着を待って総力戦を仕掛けて勝っても負けてもそれで和睦する
・大垣城に全物資を集結させて要塞化し東軍を疲弊させ頃合いを見て攻撃する
・大垣佐和山では戯れに戦闘して西軍が支配してる伊勢で本格的な反抗作戦を行う
くらいしか思いつかないが >>745
それいずれもだめ。
上段は毛利が不戦を決め込んでいるので史実と変わらん、
中段は後詰のない籠城に勝ちはない、
毛利不戦、家康秀忠到着、勝ち目はない、
下段は毛利不戦、秀秋松尾山占拠、家康秀忠到着、前田南下、
離反が相次ぐ状況しか予想できない。
基本的に岐阜陥落で終了で、この後なんとかするには
赤坂の東軍を殲滅する以外にない。
なので一番無難なのは岐阜城後詰決戦案となる。 >>473
「刈田する」と言えば全自動で収穫されるわけじゃないぞ?
荒らすのではなく、兵糧として組み込むのならがっつり農作業をしないとならないが、
作業者と護衛でどれだけの兵を出せば良いのかと。
ちなみに当時は1人1日1kg消費するから、5万人を養うなら50トン必要になる。
大垣城から1平方キロメートルを刈田した場合、無駄なく取れたとして100トン。
2日分にしかならない。 無難ちゅうか岐阜城陥落で吉川広家と小早川秀秋が家康に土下座の使者送っちゃった後はもうどうしようもないでなぁ。輝元も完全にビビっちゃったみたいだし。
岐阜城を落とさせない最低でも瞬殺ではなく善戦させるあたりから始めないと話に居ならんよね。 一応当時のスレの岐阜城後詰決戦案のコピペ貼ろうか、スマホからは見れないし。 10 自分返信:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/22(日) 23:07:44.96 ID:RY9L1+tO [10/24]
以前のスレの岐阜城後詰決戦案まとめ
原案たる叩き台は以前のスレに出てた>>7
史実での岐阜城1日で落城の原因は暫定的に>>8の1
岐阜城早期落城させない為の手段が>7の当初よりの籠城方針及び籠城準備、野戦築城、
秀信の戦術面補佐及び援軍として島津義弘の派遣。
岐阜城の想定籠城期間は2週間。
その結果の日時、戦力想定は
8月21日に大垣より岐阜へ島津義弘1000を秀信の補佐と援軍として派遣。
岐阜城:秀信6000、石田援将河瀬、松田ら1000、島津義弘1000、計8000
大垣城:石田5700、小西5000、計10700
8月27日に宇喜多18000が大垣到着、
9月2日 大谷ら9600関ヶ原山中村着陣
9月1〜3日頃 白瀬峠経由ではなく関ヶ原、垂井経由で相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら(3000〜5000大垣入城
9月7日毛利秀元、吉川15000、安国寺1500、長束1000、長曾我部2100ら伊勢方面隊19600南宮山到着。
東軍先発隊はこの状況下でも木曽川渡河を敢行するであろうと想定。
渡河後東軍は岐阜城を包囲ないし対陣すると想定。
その後、西軍との後詰決戦に至れば>7の通り。
東軍先発隊が後詰決戦に応じる可能性の根拠としては>>8の2
戦力差により東軍先発隊が清洲に撤退するという合理的判断をする可能性はもちろんある。
その場合西軍は>>9の2のように改めて有力な戦力をもって木曽川渡河迎撃の布陣を取ることが可能になる。
その結果考えられるのは膠着か>>9の3
なので、西軍が勝てる公算が最も高いのは>7の後詰決戦に至った場合。
東軍先発隊が清洲に撤退、膠着化した場合は和睦が妥当か
東軍
史実通りの最速で家康本隊が清洲到着9月11日
岐阜城到着9月13日(江戸清洲間を11日間走らせたための休息1日とった)
史実通りの最速で秀忠の美濃到着は9月18日前後
家康本隊と秀忠隊がいない8月下旬〜9月上旬までに東軍先鋒隊を壊滅させることができれば西軍に勝ち目が出てくる
壊滅できなければ木曽川より西側から東軍を駆逐しての大軍による渡河防衛での膠着になる
8月下旬〜9月上旬までが勝負 10 自分返信:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/22(日) 23:07:44.96 ID:RY9L1+tO [10/24]
以前のスレの岐阜城後詰決戦案まとめ
原案たる叩き台は以前のスレに出てた>>7
史実での岐阜城1日で落城の原因は暫定的に>>8の1
岐阜城早期落城させない為の手段が>7の当初よりの籠城方針及び籠城準備、野戦築城、
秀信の戦術面補佐及び援軍として島津義弘の派遣。
岐阜城の想定籠城期間は2週間。
その結果の日時、戦力想定は
8月21日に大垣より岐阜へ島津義弘1000を秀信の補佐と援軍として派遣。
岐阜城:秀信6000、石田援将河瀬、松田ら1000、島津義弘1000、計8000
大垣城:石田5700、小西5000、計10700
8月27日に宇喜多18000が大垣到着、
9月2日 大谷ら9600関ヶ原山中村着陣
9月1〜3日頃 白瀬峠経由ではなく関ヶ原、垂井経由で相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら(3000〜5000大垣入城
9月7日毛利秀元、吉川15000、安国寺1500、長束1000、長曾我部2100ら伊勢方面隊19600南宮山到着。
東軍先発隊はこの状況下でも木曽川渡河を敢行するであろうと想定。
渡河後東軍は岐阜城を包囲ないし対陣すると想定。
その後、西軍との後詰決戦に至れば>7の通り。
東軍先発隊が後詰決戦に応じる可能性の根拠としては>>8の2
戦力差により東軍先発隊が清洲に撤退するという合理的判断をする可能性はもちろんある。
その場合西軍は>>9の2のように改めて有力な戦力をもって木曽川渡河迎撃の布陣を取ることが可能になる。
その結果考えられるのは膠着か>>9の3
なので、西軍が勝てる公算が最も高いのは>7の後詰決戦に至った場合。
東軍先発隊が清洲に撤退、膠着化した場合は和睦が妥当か
東軍
史実通りの最速で家康本隊が清洲到着9月11日
岐阜城到着9月13日(江戸清洲間を11日間走らせたための休息1日とった)
史実通りの最速で秀忠の美濃到着は9月18日前後
家康本隊と秀忠隊がいない8月下旬〜9月上旬までに東軍先鋒隊を壊滅させることができれば西軍に勝ち目が出てくる
壊滅できなければ木曽川より西側から東軍を駆逐しての大軍による渡河防衛での膠着になる
8月下旬〜9月上旬までが勝負 まぁそれもたしか、テルが急に名将英雄に目覚めるとか家康が天ぷらで死ぬとか突拍子もないIFはつまらないから、
なるべく史実を変えない時間もさかのぼらせないちゅう限定的な「お題」の下の案だからこうじゃなきゃいけないってわけでもないただの1案だけどね
いまさら刈田ただの補給だの言ってるよりは叩き台にいいかもしれん >>477
十分過ぎるだろ
大垣城囲まれたら後詰が来るまで耐えないといけないんだぞ >>483
囲まれたらもなにも、既に赤坂・垂井~岐阜まで封鎖されて南東方向の竹ヶ鼻城も落ちてるんだから半包囲状態だよ。
その敵の目の前にノコノコと農作業をしに、ただでさえ少ない兵を割いて出すのか? どのみち苅田はしないといけないだろ
大垣に食糧を集める為にも東軍に食糧を渡さない為にも
西軍によれば九月初期には兵力で東軍を上回った時期もあったので収穫するならその時、数で負けてる時には遺憾ながら農作物を破壊するしかない
それを何方ともやってないというのはかなり士気が低下してる証で三成が愚痴りたくなってもおかしくない >>485
刈田はしないといけないのではないのではなく、眼の前で自軍より多い相手と対陣中は出来ないんだって。
どのみち大垣城側は、8月20日頃までにやってないなら手遅れ。
まあ、その頃だと早稲でもない限り食えないわけだが。
西軍の兵力が上回った時期があるなら刈田の前に戦えよって話なわけで。 >>486
>西軍によれば九月初期には兵力で東軍を上回った時期もあったので収穫するならその時 吉川広家によれば「美濃の東軍は3万人、西軍はそれより遥かに多い」
保科正光によれば「大垣城に2万人、東軍は8万人」
お互いにサバを読んでいるのかもしれない。ただ広家によると「西軍はばらばらに散らばってる」とのことで実際かなり分散配置になってる。正光の書状は徳川本隊も勘定に入れてるなら計算は合う
実際には数的には拮抗してたのではないか >>486
だから三成も苅田しようって言ってるのでは?
三成は九月十二日書状で長束正家・安国寺恵瓊の姿勢を批判してる
苅田に出て東軍が妨害にくるならそのまま野戦に持ち込んでいけば戦況は動くしそれで稲が踏み潰されても東軍の収奪を防ぐという意味では無駄じゃない。だから取り敢えず戦えというのが三成だけどそれを正家らは却下し消極的だと
正家らを擁護すると多分彼らは散発的な戦果に意味は無く一大決戦を以って趨勢を決さんとしてたんじゃないか。それなら兵を徒に消耗するわけにはいかなかったろうし。ただやはり目標を見失ってる感は強い とりあえず、地図見て大垣、垂井、赤坂、竹華鼻、岐阜、揖斐川、長良川、木曽川の位置確認してほしい。
川は当時と流域が変わってる可能性留意。
石田書状で石田は苅田すればいくらでもあるといってるんだよ、
9月12日時点でもまだ稲はある。
それに大垣南方の東軍はそれほどいない。
稲葉に大垣南方に行くよう指示出てたけど、
郡上に帰っちゃったし。
てか岐阜落ちてからじゃ遅いんだよ、
赤坂の東軍殲滅する手段がないなら。 岐阜を重視しなかった西軍の初期戦略が全部を決めたようなもんで三成にはどうもできんだろう 刈田って、そもそも攻撃側が、籠城している守備側を城外に誘い出すためにやる手段じゃなかったかなあ……
自軍の兵糧調達のために刈田をするなんて初めて聞いたよ
ましてや大垣領は西軍の伊藤盛正の所領なのに、刈田なんかしたら伊藤が離反するんじゃないの?
9月12日の書状で三成は伊藤を「若輩」とか書いてなめてるけど 伊藤なんざ気にも留めないだろ。でなきゃ城から追い出して松尾山なんて戦略配置するかいな >>492
最近流行りの「戦国時代は現地調達が基本」説はお好きじゃない?刈田は収穫目的でやるならどこでやろうがおかしくないぞ。大垣城は西軍派の拠点だが東軍に取られたら意味ないからな 苅田等で大垣持久態勢を固めたとして、
それからどうするの?
家康到着、毛利不戦、秀秋松尾山占拠、秀忠到着、
状況は悪くなるばかりでなにも良くならないんよ、
例えばね、赤坂の北側には虚空蔵山っていう山がある。
ここを兵5000くらいで制圧したら面白くなるかも、
とかこういうのが必要なわけ。
大垣持久してどうすんのと。 >>494
現地調達の意味違うくないか?
あくまで現地の城や土豪、最悪農民の家一軒一軒から備蓄食料の徴発をすることでしょ。
現地調達が刈田だと言うなら、旧暦9月限定の狭すぎる戦術を兵糧の当てにする時点で詰んでる。
しかも、収穫に農具もなく、モミから玄米までの精米をどうする気なのよ?戦場なのよ?
1万人並べて皆でコキ箸でチマチマやれと? >>497
わたしは確認してないけど、
以前どうすれば西軍は勝てるかスレで、
大垣城内で脱穀だか精米してる描写のある絵だか屏風絵があるというカキコは見た。 おあむ物語だと大垣か佐和山で鉄砲玉作ってる描写があるでしょ?
脱穀精米くらいはしててもおかしくはないと思う。 9月12日とかもう勝ち目ないから何しようと無意味だよな
家康もう尾張に来てるぜ >>488
「味方人数ハはるはる多候、乍去いかニもかたまり不申候」はそう取ることもできなくはないけど、
「味方は人は多いがまとまりがない、団結していない」と訳すのが自然だろう
9月12日付三成書状の内容とも一致するし
東大史料編纂所や吉川史料館も物理的にばらばらと言うよりは、心理的に一致団結していないという見方をしてる 脱穀に時間が〜とか言うのは結構的外れ
慶長五年九月十二日時点で関ヶ原で決戦して趨勢が決すると思ってたのは徳川家康くらいで西軍は関ヶ原なんて大垣の補給路としか認識してない
十二日に書状を書いてる石田三成も当然十四日に関ヶ原まで行くとは夢にも思ってない。もっと言うとこの時家康が赤坂に向かって移動中ということも知らない
小説だと「石田三成は関ヶ原で徳川と決戦するつもり」と描写されるから脱穀が間に合わない云々と思うかもしれないが関ヶ原決戦は小早川秀秋が松尾山を占拠した結果発生したもので西軍の戦争計画には無い 関ヶ原本戦の2日前(9月12日)に大坂の増田長盛に出した書状
・赤坂に布陣してる東軍は何かを待っているらしい
・長束正家や安国寺恵瓊と軍議をしたが彼らの態度では戦に勝てるとは思えない
・陣中には増田は徳川と通じているとの風聞さえ流れている
・大津に籠城中の京極高次は見せしめのためにも徹底的に処分する必要がある
・頑張れば濃尾で20日以内に東軍を撃滅できるだろうがその前に味方に内訌が起きるだろう
・家康が西上してこない以上毛利輝元の出馬は不要というのは私も同感だ
・石田家の貯えはあらかた供出してしまった。今がまさに金を使うべき時なので
豊臣家の公金からいくらでも回して欲しい
・頼りにできそうなのは宇喜多秀家島津義弘小西行長ぐらいだ
長束正家や安国寺恵瓊や小早川秀秋はあてにならぬ 東軍は九月から何故か進軍せず動きを止めた。何故なのかわからないと三成は書いてるけど常識的に考えたら徳川本隊を待ってるのは明らか(ただし西軍は家康の動きを全く察知していない)
だから「苅田すべし」という三成の案は非常に現実的で奉行として鳴らした三成らしい戦略提案だと言える。集められる物資は集める必要があり、また万が一大垣を棄てることになったらその周辺の穀物がそのまま東軍の手に落ちるのは避けねばならないだろう
大垣領主が小言を言おうが構ってられる状況でも無いだろうし。そもそもここで負けたら大垣は東軍に取られる訳で 状況を整理すると、東軍は赤坂を陣城化し、西軍は大垣城に3万強が籠っている状況。
双方攻撃しても損害が出るだけの状況で、
双方とも相手を釣り出すか味方の更なる援軍到着を待つしかない状態。
ここに東軍に家康到着、そして松尾山を秀秋が占拠、
さらに毛利は不戦の密約。
ここで松尾山の秀秋に釣られた西軍が関ヶ原で野戦で撃滅され崩壊したという流れ。
大垣持久を強化しても膠着以上の良い状態には持っていけない。
では松尾山を放置して大垣に篭り続ければどうなるか、
赤坂から出撃した東軍と秀秋によって山中村の大谷らは高確率で壊滅、
大津城組は去就がわからんが、西軍に積極加担だとしても
木之本辺りに布陣するか佐和山に留まるか、
いずれにしてももはや西軍に主導権はなく、
離反の続出を止められない状況になると思われる。
秀忠が到着すれば大垣包囲に移行すると思われる。
田辺城組も敦賀に急行するよう指示して
果たして瓦解せずに前田を止められるかどうか、
岐阜陥落後は赤坂の東軍を殲滅しないと勝てない。 >>480
対岸に大兵力が積み上がると東軍先鋒は渡河しないでしょ
お互い命取りになりかねないので川を挟んで膠着する
でそうなると東軍は次に多方面からの味方の進軍を待つことになる
中山道を進む秀忠軍、北国街道を南下する利長軍
どちらも寡兵に足止めされた弱敵と過小評価されがちだけど
美濃に集結した西軍には防ぐ手がないよね
複数方面から万単位の侵攻をうけるって戦国時代後期の必敗パターンよね >>495
十二日時点で三成らは家康上洛を知らない訳で三成の戦略思想とこの後の戦略決定は別問題だぞ 三成って絶望的に軍事センスがないくせに
何故か大軍の指揮官にさせられてるよね
任命者を誤認させるなにかがあんのかね 7 自分:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/22(日) 23:05:09.12 ID:RY9L1+tO [7/24]
岐阜城後詰決戦の叩き台のプラン。
これを修正、補強していけばいいかんじのものができそうに思います。
以下コピペ。
403 返信:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/11(土) 21:01:03.29 ID:0UWAuM7R
>>374
長篠の合戦を例とすると長篠に武田の大軍が迫り寡兵だった長篠城はありとあらゆる通路を瓦礫で塞ぎ籠城して火縄で応戦。
そして籠城で時間稼ぎに成功して織田・徳川連合は設楽に到着。
織田・徳川連合はすぐには長篠城へは向かわず武田軍からは大軍だと見えないように丘陵地に兵を伏せ野戦築城。
そして夜間に別動隊を進軍させ夜明けと同時に奇襲して武田軍を翻弄。
痺れを切らした武田軍は織田・徳川連合本隊のいる設楽に進軍。
そして武田軍は大敗。
これを岐阜城で再現するには岐阜城で籠城させ時間稼ぎをして大垣城などから別動隊を編成して夜襲などを行い撹乱。
宇喜多や伊勢方面軍が到着したら岐阜城に向かい石田三成を使って三成を毛嫌いしている福島正則らを挑発。
岐阜城を囲う軍団と宇喜多石田軍に進軍してくる軍団に別れたら数の優位は西軍になるので迎撃。
部隊を分けずに動じなかったら岐阜城部隊と挟み撃ちにする。
そして東軍先鋒隊にもし勝つことができたなら東軍先鋒隊は退却することになる。
しかし木曽川を渡っているために渡河できる退路に東軍が殺到することになり大混乱。
甲冑来たまま深い河に入りまともに退却できなくなったり兵糧弾薬武具を脱ぎ捨てて泳いで逃げれば再軍備に時間がかかるようになる。
東軍に渡河させるのがデメリットじゃなく一網打尽にする千載一遇のチャンスにできる可能性がある。
そして東軍先鋒さえ壊滅させることができたなら徳川家康は江戸から出ることができなくなる。
岐阜城の合戦が西軍が勝つ最初で最後のチャンスだろう。 8 自分:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/22(日) 23:05:36.10 ID:RY9L1+tO [8/24]
■■1■■
史実での岐阜城は黒田、藤堂、田中の大垣からの後詰阻止隊を抜いたとして、
東軍21000〜23000対岐阜城2000〜3000.
それでも戦力比7〜11倍。単純に戦力比で落ちてもおかしくない計算。
それに加え敗走後の低士気状態、秀信の微妙采配、守備兵戦力分散、
ろくにしてないであろう籠城準備(野戦築城含む)
そりゃ1〜3日で落ちるだろう。
これを島津義弘1000を加え、8000で籠城準備もするなら落ちないか、落ちても東軍は甚大な損害を被ると見る。
29000対8000でも戦力比約4倍。この条件での攻城例がほとんどないように、一般的にこの戦力比、
守備兵数で力攻めは考えにくい。それでも力攻めするならその根拠を提示すべき。
■■2■■
798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 15:21:52.18 ID:aAd9kU2e [2/6]
それから8月19日付井伊直政、本多忠勝宛黒田長政、徳永寿昌、奥平貞治連署状からは
村越茂助の件もあってか木曽川渡河は成功しようが失敗しようが損害が多かろうが
相当の覚悟で敢行するつもりのよう。
木曽川渡河美濃進攻を「天下之勝負」と捉えているみたい。
なので、多少の戦力差(目安としては1.5倍くらいまでか?)なら後詰決戦に応じる可能性は
けっこうあるように思える。
もちろん合理的判断で清洲に撤退する可能性もある。五分五分と見る。
438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/19(火) 14:11:49.52 ID:KJmLICXK [1/3]
上のほうで東軍先鋒が大坂や大垣城より援軍来たら退くって言ってる人いるが
徳川家康文書の研究 中巻 8月22日付文書によると
井伊直政と本多忠勝の戦況報告では竹ヶ鼻城を落とし、
明日岐阜城を包囲して攻撃する予定であること、
来ないと思われるが万一大坂から後詰が来た場合は先にその援軍を抑えて大垣城を攻撃すると家康に送っている
もし大坂方から後詰が出たならば、岐阜は押し置き、まずは後詰の軍を食い止めて
大垣城に付け入って乗り崩す。
これも諸将は評議で一決した。
※付け入って とは、敗走する敵を追撃し、そのまま敵の城に攻め込む戦法
とある
岐阜城後詰め決戦は発生するよ 岐阜城は付け入り戦法されたからすぐ落ちた
225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/24(火) 16:59:58.46 ID:ex8un7Uh [2/2]
>>208
渡河前の黒田ら書状で決死の覚悟で渡河して攻め入ると書いており士気は高く
渡河直後の井伊書状で後詰が来たら先に後詰軍をやっつけて勢い大垣も乗り崩すと諸将が合意したと書いてあり後詰との決戦も作戦内
大垣攻防戦で伊勢方面軍全軍が後詰に来て後詰案を上回る戦力差になっても撤退してない
上記からの士気も高く想定内の後詰の情報が流れただけで早期撤退する要素は史料上は見られず
軍事的にもいったん対峙したなら織田信秀の井ノ口崩れのように追撃で大損害を受ける可能性ある地形で撤退も難易度が高いので
史料的にも軍事的にも後詰決戦が成立する可能性は高い。 9 自分:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/22(日) 23:06:50.40 ID:RY9L1+tO [9/24]
■■2■■
703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 13:14:03.72 ID:jiua8RjV [14/17]
岐阜城が落ちず秀信軍が無傷で健在
墨俣付け城も27日の宇喜多到着で攻めに転じることができるので付け城阻止
9月2日の大谷吉継ら到着で完全に上回ることができるので
木曽川の西から東軍を駆逐でき木曽川を挟んでの大軍による渡河防衛が完全に機能し
関ヶ原でのぶつかり合いが木曽川になり
大軍通しの戦いでも関ヶ原と違い渡河防衛では渡河部隊との少数の戦いになるから完全に膠着
後は大津城を降した名将の立花宗茂らも合流
膠着になると上杉が最上を降しフリーになり野心ギラギラの伊達もどうなるか…
■■3■■
810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 22:35:55.59 ID:aAd9kU2e [5/6]
それと木曽川挟んでの膠着状態になった場合、東軍はおそらく犬山城を狙ってくる。
西軍はすみやかに伊木山、鵜沼を占拠し野戦築城、犬山城にも援軍送って増強するべき。
対秀忠でおそらく最前線になる。
伊木山に毛利秀元&吉川広家、鵜沼に小西あたり配置するといいかも。
個人的には家康、秀忠が来る前に和睦するのを強く推したい。
812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 23:24:51.03 ID:aAd9kU2e [6/6]
東軍先発隊が清洲に撤退、膠着後西軍のなすべきことは木曽川渡河迎撃と秀忠迎撃。
正直兵力が足りない。
対前田は以前にも述べたように田辺城組を敦賀に5000、北ノ庄に1万ほど援軍派遣すればいいと思う。
前田利長は利政抜きでおそらく兵18000〜2万(丹羽3000を付け加えるなら21000〜23000)と思われるので、
北ノ庄の16000〜17000、敦賀5000で抑えられると思われる。
この情勢なら双方とも積極攻勢はしないと思われる。
おそらく北ノ庄で対陣。
大津組の立花、筑紫、小早川秀包計5000は美濃方面に向かうと思われるが
毛利元康はわからない。この情勢なら輝元、元康は美濃に出陣すべきだと思うが。
小早川秀秋の動向はまったくわからない。
輝元、元康美濃出陣ならなんとか兵力は足りる。 >>480の>7,8,9も貼っておきます。
>>508
そう、膠着してしまうと兵力少ない西軍は厳しい。
小牧・長久手時の家康ばりに適時適所で局地的勝利を積み重ねていくしかなくなる。
おそらく家康相手に西軍がそれやるのは無理だろう、
なので膠着化したら少しでもよい条件で和睦するしかないと思う。
となると岐阜城後詰決戦発生かつ勝利が、一番西軍勝利に近い状況だろうと思われる。 >>510
おそらく真実は逆だと思われる
西軍は美濃方面を全く重視してない。つまり三成は一番どうでもいいところに、ただそこが近いからという理由だけで配置されたんじゃないか
ところが結果的にそこが重要になってしまった >>514
そうなると、岐阜城陥落後から徳川に尻尾振り始めた毛利輝元・吉川広家は最適解なんだよなあ。
ただし、輝元、お前はやりすぎた。
九州に四国に大坂に畿内に伊勢と全部やっておいて無罪放免なわけなかろう。 「もしも家康が西軍に寝返ったら」てネタスレがあるけどガチでそれやってたのが輝元という
そうなると三成大谷宇喜多らがあまりに悲惨で哀れだから
従来説支持派としては三成が首謀者で毛利は担がれただけ和睦は吉川が勝手にやった
これを全力で主張し続けねばならないわけかな
それも徳川毛利の手打ちで創作されたお噺だとしたらさらに悲惨
上級の火遊びの尻拭いと責任転嫁を中下級が負わされるという現代でもよくある構図 結局岐阜陥落を受けて和睦(降伏)に方針転換した毛利の選択は正しい(というかやむを得ない)
ジリ貧の中でさらに策動した奉行には相応の末路が待ってたとも言える形
そもそも政治的な劣勢を軍事的に挽回というのが悪手なんよね >>492
9月3日付加藤貞泰・稲葉通重宛福島正則・池田輝政・本多忠勝・井伊直政連署状
「然者大柿城中ゟ苅田ニ罷出候間、稲葉甲斐守殿・貴所為押、うしき村・ほんてん村両所ニ御在陣可被成候」
大垣城中より刈田に出てきたので、それを押し返すため稲葉・加藤はうしき村と
ほんてん村に在陣してくれ、とあるように守備側が刈田する場合もあるみたいだな
大垣周辺で守備側による刈田が行われてたとすると、9月12日付三成書状の「ここで刈田すれば兵粮はいくらでも
あるのに敵を恐れて人を出さない」という発言も、刈田しようにも東軍に阻まれて上手くいかないと取る方が自然だな 苅田には収穫を強行して自分達の食糧を確保するという現地調達的手法と収穫物を汚損して敵の食糧源を破壊するという工作的手法、それを防ごうとしてきたところを迎撃するという挑発的手法、こんな感じに種々の狙いがあるもの
三成は苅田で食糧を集める気だったけどそれを東軍がみすみす見逃してくれるとは思ってない。思ってたら正家や恵瓊の判断を得ずに大垣衆だけで苅田に出てるだろう
こう見ると三成はかなり好戦的というか意欲的な戦術を選んだようだ。敵が動かないなら苅田に打って出る。敵が動かないなら糧食が集まる。動けばそこで戦争して戦局を揺らすと >>517
可哀想でもなんでもないよ。
資金(兵力)もないのに毛利というレバレッジを効かせて、諸大名の支持という先物取引をして大失敗したのが奉行衆なのだから。
むしろ毛利は多くを自己資金(自国兵)で賄っていたのだから、手仕舞いするにも自由があって当たり前。 >>519
訂正
>大垣城中より刈田に出てきたので、それを押し返すため稲葉・加藤はうしき村とほんてん村に在陣してくれ
↓
大垣城中より刈田に出てきたので、その抑えとして稲葉・加藤はうしき村とほんてん村に在陣してくれ >>519
うしきむら、ほんてんむらが気になって調べてみたんだけど誤認してた、大垣南方じゃなかった。
現瑞穂市牛牧、同瑞穂市本田だった。
場所的には大垣市東方で、
揖斐川長良川の間、墨俣の辺り。
わざわざ揖斐川渡って苅田するかぁ?
わたしには大垣勢による岐阜強襲に対する備のように思える。 あと稲葉も貞通ではなく通重のほうだね、稲葉一族多くて誤認する。 >>523
なるほど、その可能性も考えられるね
しかしそれなら福島らはなぜ刈田で出てきたと言ったんだろうな
大規模な戦闘にはならないから心配するなよと加藤・稲葉両人を安心させるために言ったのかね
ちなみに管見では刈田が刈田狼藉以外の意味で使われてる書状は今まで見たことないな 苅田してたから苅田とわかったとしか言えないんじゃないか。少し兵を出したら退いたので追いはしなかったというだけで >>525
文禄の役で日本軍が漢城で苅田をやって食糧を集めましたってのがある >>527
当然それも刈田に入るでしょ
例をいくつか挙げると
(天正20年)10月19日付細川忠興他宛豊臣秀吉朱印状
「猶以昌原城留守居之儀、尤之仕様ニ候、与一郎・藤五郎・常陸両三人ハ何時も一所ニ相動、苅田以下申付、兵粮之蓄可仕事肝要候」
(文禄2年)1月11日付長束正家・石田正澄宛増田長盛・大谷吉継・石田三成・加藤光泰・前野長康連署状
「都ニハ先書ニも如申上候、去秋手前手前苅田以下たくわへ候兵粮、正月中ニ分可有之候」
これを踏まえた上で刈田が刈田狼藉以外の意味で使われている書状を見たことがないと言ってるんだけどね 犬山城は八月初頭までに家康に内通を約束してるから正直最初から当てにできる存在じゃないのよね そもそも9月12日書状は偽書の可能性あるからね、ほどほどに 偽書と断定できるわけでもないから
偽書に拘るのもほどほどにだな 偽書としてるのは白峰旬、真書と判断してるのは橋陽介だけど偽書説の根拠はよく読むと「文体が石田三成らしくない、三成は常に理論整然と強気な書状を残してる」という三成観によるもの
この点は九月十二日というのが三成最期の書状になったことを踏まえるとそんなにおかしなものじゃない。三成は西軍に何度も意見提起して却下され、そして危惧した事態が起きてる。なのに西軍は士気が低い。戦略もお粗末で展望が見えない、ていうかこの期に及んでまだ三成は軽んじられてる。この状況下で理論整然と強気でいられたら頭がどうかなってるんじゃないか?弱気になってクドクド愚痴を書いても仕方ないし実際それくらいしか出来ないもの。三成総大将説を推してる御仁には受け入れられないだろうが 話が飛んだり重複してくどいのがただの悪書とするか切羽詰まった臨場感と取るか。やでな 文言が当時の表現でないことも白峰氏は指摘してるな
「ものを待様ニ」、「遠慮深く候」、「ちゝミたる」とかね
この点は確かに当時の表現としては見ないものだし納得はできるかな
議論になってないところ見ると白峰説に賛同する研究者はあまりいないように見受けられる
まあ現状だと偽書説もありくらいのもので、真書として扱う研究者の方が多いんだろうな >>533
9月12日付書状に書かれている内容をもと「弱気になって~」などと推理ゴッコしてもしょうがないでしょ
個人的には真偽は半々と思ってるけどね
>>535
同感
あとやはり「拙子」の多用は気になる 白峰は研究過程は見るべきものが多い優秀な学者だけど西軍贔屓がすごすぎて結論が変になること多いのがね 表現が〜ってのは正直あんまアテにならんからな
白峰氏は直江状だとスルーしてるしそんなもん
拙子も使ってないなら兎も角三成が使ってる書状はあるわけで数に意味は無い
それに条数が多いってのも関ヶ原の九月十二日は三成が直面した最も困難な状況な訳でそれだけ書くのは当たり前。三成がいかにアスペのパッパラパーでもこの状況下で意地張ってたらそっちが異常ですわ しかし、14日の小早川秀秋松尾山占拠のあと、なんで大垣城の面々は、大垣城を捨てて関ヶ原に向かったんだろうかね?
城の防備は維持しつつ、元々は小早川と共に行動していた南宮山勢を向かわせるほうが理に適ってるはずなんだが。 >>539
秀元広家「うちらもう手打ちしてるんで」 >>540
三成達はそれを知らないわけだろ?
逆に、まるで夜逃げのような移動を見て、毛利吉川は完全に家康に降伏してしまったわけで。 >>538
ふ~ん
じゃあ、↓も三成の真書なんだろうなあ
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-3/33/0059?m=all&s=0059
感想よろしく >>539
小早川秀秋による松尾山占拠で退路を絶たれたから夜陰に紛れて逃げ出したんよ。佐和山まで逃げる途中なだけで別に関ヶ原で決戦するつもりもなくただ東軍に捕捉されただけ。(吉川書状) >>543
いや、当初は捕捉されてないでしょ。
わざわざ関ヶ原に陣を敷いたから捕捉されただけで。
小早川隊からの攻撃の直撃コースは、大谷隊以外は外れているから、そのまま撤退できた。 単純に逃げるんなら伊勢に向かって逃げればよかったんじゃないか >>539
九月十二日石田三成書状によると大垣の補給は近江に決まってた。その補給路の真ん前に松尾山はある
小早川秀秋はそれなり以上の軍勢を率いてるので大垣城は完全包囲されたに等しい
東軍先手衆が松尾山に到達するまでに逃げるか松尾山を落とす必要があった 三成小西宇喜多大谷で敗走するような厳しい戦いを経験しているのは朝鮮で明の主力の猛攻を一手に引き受けた小西くらいか
関ヶ原の際に小西の重臣たちは皆本国にいるのが謎だな >>538
あまり史料の原文に触れない人だと軽視するのも仕方がないけど、当時使われてた文言や表現かどうかは重要な判断材料の一つになる
これは白峰氏に限らず他の研究者も普通にやってること
何をもってスルーしてると言ってるのか知らんけど、直江状の文言に関しては白峰氏も先行研究に対して考察を加えたりしてるけどね
おおよそ先行研究で怪しい文言なんかは既に疑義が呈されてるからな
「可被尊意安候」とかね ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-1/20/0003?m=all&s=0003
上記の秀家、輝元の島津忠恒宛8月1日付書状には、忠恒に総動員した上で上洛せいとした上で、「玉薬御兵糧等之儀は従公儀(こうぎより)被仰付候条」と書いてある
西軍は(とくに遠国衆は)こういう太っ腹な態勢だったことが分かる
先の議論だと書状発送の前日に三成を大坂に召喚して会議してるわけで、大老奉行の総意として決まった方針であろうことも分かる
中国からやってきた毛利勢にも適用されたと考えるのが自然で、危ない刈田なんぞやりたくもなかろう
912文書が三成の真書だとすると、自分も(長束も)交えた決定にぶつくさ言っていることになる
繰り返すが、912文書の真贋は半々と思ってますけどね なぜ首魁の毛利に適応されると考えるのか
自分たちが優勢ならともかく 秀家のおかげで西軍こそ豊臣公儀軍と認知されたようなもの
当時の公家日記では西軍は「秀頼さま方」「京衆」と呼ばれてる。これは上方において西軍が公儀と認められたと認識されていたことを意味してる
正統性を与えたわけだ >>551
西軍という挙兵から壊滅までたった2・3ヵ月の集団が、その短い期間「公儀」だったか否かを論じる必要性をあまり感じないが >>551
西軍という挙兵から壊滅までたった2・3ヵ月の集団が、その短い期間「公儀」だったか否かを論じる必要性をあまり感じないが 九月十二日書状が真書とされる大きな理由は関ヶ原の毒が入ってないからだろ。江戸時代以降関ヶ原は神格化されて虚実交えた創作が作られたけどその多くは「石田三成は関ヶ原で決戦しようとしたが小早川秀秋の裏切りで負けた」というプロットで描かれ続けてる
だから偽書ならそうした内容を含んでいるだろうにそうしたところを思わせる内容が全く無い。というかむしろ一次史料に近しい内容になってる。偽書と断ずる証拠も無い以上信用されるのは当然か >>550
日本語くらいまともに使いなさい
論理も意味不明でーすよ
>>551
はあ
朝廷が西軍の公戦だと授権した行為はなにかありますか?
具体的な史料をよろしくね! >>554
915に西軍が大敗することを君は知っているからだろ
それと一次史料の意味を知らんようだし >>554
それに912文書を通し、原文で読んだことあるか?
ないだろ
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-3/37/0007?m=all&s=0004&n=20
「敵方へ人を付置聞申候、佐和山口より被出候衆の中大人数(軍勢)もち敵へ申語らるる子細候とて」
これ明らかに秀秋の裏切りのことだぞ
それを草を放つと下っぱの兵隊まで知って噂していた、ってことで
詳細は省くが、山中に出てきたから噂と違うじゃねーか、と話していたと聞いたという落ちではあるんだが >>557
資料の疑義とか以前の疑問なんだが、そこまで分かってなんで家康の動向がわかってないのよ?
別に家康本隊は大返しをしたわけでも、隠密行動したわけでもないのに。 家康は上洛にあたって自軍を少数に分けて目立たないようにしてる。白峰氏はこれを「豊臣公儀に追放されて軍事指揮権を喪失したことを自覚したから」と受け取ってるがむしろ西軍の警戒網にかからないようにしたと見るのが自然
その少し前に上杉との連絡を請け負った真田を秀忠軍に包囲させてるのもその一環だろう。そうなると上洛路に西軍の拠点は無いので西軍が家康上洛を掴めないのは当たり前 >>558
それこそが史料への疑いなんですよ
一条目に東軍はなにか待ってる様子だぞー、と書いてるんだが、そりゃ徳川本隊(もしくは増援)だろーw
912文書はね、結果を知っている人間からすると面白すぎるんですよ
作為的ともいえる
あとは微妙な用語
かといって偽書だと断定する明確な根拠もない
ただ、そもそも敵方に大津で奪われた書状とされてるのがなんとも >>555
別に朝廷に認められる必要は無いんだが
例えば徳川家康も西軍討伐にあたって朝廷から錦の御旗を貰ったりとかしとらんぞ
朝廷を絶対視するのは日本史を誤った目で見ることになるぞ 小早川秀秋については裏切りが噂されるのは当たり前で、本来秀秋は伏見攻めの後毛利軍と共に伊勢に行く予定だった。それを勝手に引き返して西軍の指揮を無視して遊んでる状況
こんな事してるやつが実は一途西軍なのなんて甘い話があるわけ無く良くて日和見悪けりゃ裏切る機会待ち、そりゃ噂にもなる
ただ秀秋は豊臣公儀でも相当の位があるので三成如きがどうこうできる筈もない。だから十二日書状でも配慮に配慮を重ねた表現してるんだろう
後世の三成だったら「秀秋裏切り」とはっきり書くんだろうが >>561
へえ
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-2/5/0066?m=all&s=0066
読めないだろうから書いてやるが、「いえやすあいづへちんたち(陣立)につきて、おみまいとしてくわんゆう寺(観修寺)おなしく右大弁御つかいにて、さらし百たん(反)たふ(給う)」
これが授権行為なんですよ、公戦の >>561
「例えば徳川家康も西軍討伐にあたって朝廷から錦の御旗を貰ったりとかしとらんぞ」
だって、会津征伐で既に貰ってるし
上杉景勝に味方した西軍を討伐するのに、改めて貰う必要があるのか?
むしろ、東軍討伐のためにもらう必要があるのは西軍だろ? 9月12日書状より、佐々正孝書状のほうが自分は気になる
あれ、かなり西軍の機密がだだもれしてるんだけど、どうやって知ったんだろうか? 石田三成は真田信幸に書状を送ってる。真田一族はお互いの意思を統一する機会が無かったので当主昌幸も信幸が徳川に就いた事を知らなかった
だから三成が昌幸に送った西軍の情報は悉く徳川に漏れた >>566
きみ北政所愛妾さんでしょ
根拠史料示してくれよ >>565
言うほど機密らしいことが書いてあるか?
8月22日までの経緯と各地の状況を秋田に報告してるだけじゃん >>567
七月三十日真田昌幸宛三成書状及び八月五日真田一族宛三成書状だが
信幸は家康に忠節を誓い七月二十四日には家康から書状を受け取ってる。ところが三成は変わらず信幸に書状を送っておりそこには警戒の色が無い そんな訳で西軍の機密情報は徳川に筒抜けだった
特に「誰が西軍なのか」「西軍はどの様に戦力配置をしたのか」が抜かれたのが痛い。西軍は誰が味方で誰が敵なのか判断に苦慮しているだけに
しかも割と重要なのは岐阜の織田秀信は兵を集められてないという事まで把握されてしまってる
一から手探りで諜報してる西軍と昌幸が教えてくれた情報の答え合わせしてる東軍では差が出て当然なんだけど >>570
だから保科書状はやけに正確な数が記載されていたのか 西軍の敗北から豊臣家の自滅は、秀吉のせいだよ
秀次事件でもう大名の心はみんな豊臣から離れていたとしか思えない
関ヶ原は豊臣家臣団の争いだといわれるけど、乱世を生きてきた奴らにはわかるやつにはどんな争いかわかっていたはずだし 三成が真田一族に送った備口人数書に各方面軍の人数が記されているしこれが徳川の元に届けられたのかもね。それによれば美濃は二万七千、伊勢が約八万となっている。となれば東軍先手衆が約四万で士気旺盛に進んで行ったのも頷ける
一番落としたい岐阜・大垣方面に伊勢から配置転換される前に進軍すれば勝ち確じゃん >>574
たしかにそれはあるかも。
手薄とわかれば木曽川渡河するわな、
犬山どころの話じゃない、
岐阜じゃー、ってなる。
ひょっとして犬山やめて岐阜にしたのはそれが原因か? 備口人数が信幸から徳川に渡って、茂助がそれ聞いて清洲に着くの間に合う?
もし間に合うなら多分それが犬山やめて
木曽川渡河からの岐阜攻めにした理由の可能性がけっこうある。 真田の諜報網が本家の昌幸と別家の信幸で共通なら信幸の手配次第で密書が昌幸に渡る前に東軍に情報が渡った可能性がある まあ小説レベルの話だが東軍が情報戦ではインチキレベルで圧倒しすぎなんで >>572
典型的な史学の知識がないアホのパターン 奉行はまだしも戦国史上有数の謀略家を祖とする毛利が情報戦で負けてるのが意外
西国者でもともと田舎の東国などに関心がないから諜報網作る気も必要も無かったんだろうがそれが仇になったか >>575
犬山衆は八月までに「大坂に人質がいるので西軍に逆らえない、徳川と戦うつもりはない」と家康に送った。それを受けて家康は八月八日に犬山衆に書状を送って内通を許可してる
ただし犬山衆は徳川に人質を送ると言った明確な証拠を出してないので家康はこの事を先手衆に伝えなかった。しかし犬山衆は約束を守って岐阜城の戦いでは兵を送らなかった >>576
七月三十日三成書状によると二十一日の昌幸書状が佐和山に届いたのが二十七日とのこと。とすると八月五日書状が昌幸のところに着いたのは十日か十一日だったはず。それが信幸のところに届いて江戸に送られた。上田から沼田、沼田から江戸は現代では歩いて一日掛かる。馬や飛脚を使ったとすると下手すると十三日の使者に間に合ってた可能性もある
どのみち十九日の岐阜城攻撃までにはこうした情報が役立ってた事は間違いないんじゃないか >>580
それは元就が現役だったとしても無理な話だ。
家康だって西国の状況を把握していた訳では無いし、400年以上前に500km~1000km先の勢力外に諜報網をもつなんて無理。
>>574
それか本当なら、戦犯は完全に三成じゃん。
完全に味方でない相手に詳細な情報教えるなんて利敵行為。
まさか、福島正則の説得でも似たようなことしてないだろうな? >>582
なんで信幸のとこに届くんだよ
アホらしい
ちなみに、次の日6日に出した書状では「追啓 豆州儀如何候哉、無心元候」と疑っている >>583
昌幸ですら信幸の裏切りを認識してなかったからしゃーない >>581
加藤貞泰は早々に弟を人質に出してるし、家康も貞泰が味方であることは福島に伝えてるけどね
まあ犬山衆も一枚岩ではなかったから、この時点では貞泰の下記書状の一連の行動が犬山衆の総意かというと違うけど
8月3日付加藤貞泰宛家康書状
「被入念使者、殊平内病中候之處、被差越候、祝着候」
平内=貞泰の弟・光直
8月12日付井伊直政・本多忠勝宛家康書状
「此者加藤左衛門尉長敷者候、然者犬山へ左衛門尉相籠付而、様子之儀申遣候、於其地羽左太令相談、可然様才覚尤候」
貞泰から家康のもとに来た使者を井伊・本多に遣わし、貞泰は犬山に籠城している
のでその様子を知らせると述べ、福島と協議して然るべき対応をするよう指示してる
あと8月8日付家康書状にそんな内容のものはないはずだけど説明頼む >>584
八月五日書状は信幸も宛先になってなかったか? >>587
なってるよ
逆に言えば信幸に別途送ってるわけじゃないわけだよ
誰かさんは昌幸が信幸が東軍についたのを知らなかったとか根拠レスで繰り返してるけどさ 信幸は沼田にいるんだから宛先になってるということは回覧されたってことじゃないの
信幸が最初から宛先になってなければ信幸が意思で送らないとダメだろうが 三成の書状は上田の昌幸から沼田の信幸に回されてたってことだな
昌幸が信幸の離反に気づいてない証拠と見られる
昌幸から三成に信幸離反の連絡が行ってないことも説の補強をしてる
昌幸改易後に信幸が入手した可能性もあるが、流石にそこまでは分からないし 昌幸の方針で双方に分かれたのなら信幸のことを西軍に知らせるわけないじゃん ていうか三成、七月三十日の時点で「豆州・左衛門尉殿、別紙を以って申し入るべく候」とかやってるし。その上で八月五日には信幸含めた真田家に書状送ってる。信幸が東軍だと知ったらこんな悠長なことするかな? >>591
>昌幸の方針で双方に分かれたのなら
その史料が無い 家中を二つに分けるのはどちらかが生き残る為であって自殺とは違うんだよなぁ。信幸が敵に回ったらそれを伝えない理由が無い >>592
きみは読み下しもできんのか
「といえども」が抜けてるよ
訳は「~するつもりだけれども」
もう史料いじるなよ >>594
長期戦になれば後で寝返ることもできるじゃん
家康ですら短期戦になるとは思っていなかったのだし そもそも論だけど、昌幸視点で西軍って全幅の信頼を置けるものなのか?という疑問はある
挙兵すら寝耳に水で、自分達にはロクに報告も無かった訳で
そんな奴らに手持ちのカードを全て見せるなんて出来るかどうかはちょっと疑問ではあるよ 京極高次や脇坂安元とはずっと連絡とってたみたいに内通者もいただろうし
○○日に大坂から下ってきた家臣が言うには~とみたいな感じで西軍の動きはかなりの確度でばんばん東軍諸将に伝わっててそれを家康に上げてて家康も情報ありがと~引き続き頼むみいたに返書だしてて
何なら東国の東軍と九州の東軍の家臣が大坂城下で落ち当て情報交換してまた戻ってくとかもやってたし。
信幸からの情報なんてその中の極一部やろ。鬼の首取ったように言われてもしらける。 >>597
「家康ですら短期戦になるとは思っていなかった」
そうかなあ
垂井や赤坂まで東軍が進出してたのは井伊直政からの書状で知ってたはずだし、
そこまで長引くとは考えてなかったんじゃないか?
小早川の調略も山岡道阿弥を通じて8月中旬から始めていたし 8月29日付の保科書状で「輝元が後詰に来ても失敗する」なんて断言してるくらいだし
浜松にいた保科がいうくらいだから、家康がそんなに危機感を持っていたとは思えないんだけど
秀忠の軍が遅れたのは確かに誤算だったと思うけど >>598
だったらそもそも西軍に参加したりはしないで佐竹の様に見た目中立を装い流れに任せるに決まってる
昌幸の拠点は全方位東軍に囲まれてる要は西軍の最前線になる。それにもかかわらず昌幸は西軍に就いたわけで西軍への期待と信頼が高い事を顕してる
ここで信幸つまり沼田が東軍だとすれば昌幸は全方位東軍に囲まれて絶体絶命だし上杉との連絡も果たせないので西軍での地位も低下してしまう 小説とか後代の史料で取り立てられてるから有名なだけで、リアルの昌幸の存在はそんなに
期待や信頼が高かったのかね?
三成が勝利の暁には信濃・甲斐を与えるとか言ってたらしいけど、あれは後代の史料が根拠だし 一応上杉との連絡路押さえてるからそれなりに価値はある。ただ信幸に裏切られていて役に立たなかっただけ。世知辛いが小名ではどうしようもない時がある というか昌幸が頑張っても、大垣城があの情勢ではどうにもならない
大垣城を放棄して佐和山に逃げる
あるいは瀬田に砦を築いていたというから、多分瀬田川を盾にして最後の決戦でもやらかす
つもりだったんじゃないのかな? あの川はさすがに渡河しにくいし
三成がなぜ山中で留まったのかわからないし、大垣にこのとき福原や熊谷、秋月らを
残しているから放棄する気もなかったと見える。つまり三成は戦下手としか思えない
このごに及んで既に詰んでいる大垣をなおも何とかしようとしたわけだし 松尾山を取られたことで全部がひっくり返ってしまった。三成も佐和山に帰ろうとしてないところを見ると近江への道は東軍に取られたとみてたのか >>603
期待する事と信用・信頼する事は違うだろう
例えば奉行と毛利の関係がそうだ、奉行は対徳川での戦力面では毛利に期待していたろうが、
(期待できないなら挙兵などしない)じゃあ毛利を信用・信頼していたか?となると微妙だ
家康も東軍の先行部隊が西軍に打撃を与えてくれる事を期待はしていただろうが、
じゃあ彼らを心から信頼・信用していたか?となるととてもそうは思えない
なら昌幸だって同じ事だろう、西軍の挙兵でいけ好かない徳川をやっつけてくれるかもしれない、
という期待はあったとしても、西軍が事前に昌幸に何の連絡も相談もせず事後報告という形に
なったのは事実だ、これは昌幸を信用していないと思われても仕方がない
勿論、信幸と徳川の関係を考えればリスクがある以上事後報告になるのはしょうがないが、
昌幸視点では西軍が自分に全幅の信用・信頼をしていない態度なのだから、保険として
手持ちのカードを全て見せないようにするのはそんなにおかしいことだとは思わないな 信幸離反は昌幸のカードになってないからね。むしろ爆弾になる。西軍が昌幸に上杉との連絡頼んでくるのは明らか、それが達成出来ない理由をどう説明するのか。しかも周りは全部東軍に囲まれてしまうのに?
西軍の事を信じてなかったら徳川にも西軍にも使者送って中立を装うだろう >>609
カードとして機能したじゃん、真田家は信幸ルートで生き残ったんだから
保険とはそういうものだ、極端な話をするのなら別に昌幸は死んだっていいのだし
西軍が敗北した以上はベストとは言わんが真田の御家は見事生き残った、万々歳じゃないか だとすると昌幸、とんでもない狂人になるな
信幸を真田家の後継にする為に三成も豊臣も信繁も己も捨てたアホ つまり保険とは「どっちが勝っても家が残る」ものであってどちらかのみに全てを賭けるのは保険とは言わない
真田に価値があるのは上杉と連絡出来るからなのにそれが不可能ってなれば昌幸に栄華は無いだろう。下手すりゃ徳川内通を疑われる 昌幸の意思で保険を作ったのかどうか
信幸の才覚で保険になったのなら息子にいいように使われるボケ老人よ >>604
いいえ、一次史料に信州、甲斐の国与えるとありますよ
一方で信幸は家康から信州の昌幸旧領をさっさか安堵されてます
あなたは認識が稚拙かつ適当に過ぎる >>611
西軍が勝ったら信幸を廃嫡するだけだろ、別に大したことではない
そもそも真田が生き残るなら徳川も豊臣も石田もどうでもいいだろ、割と真面目に言うが
まあ多分家康の事は気に入らなかったろうから西軍が勝つならそれに越したことはない位は
考えてるだろうが(だから西軍に味方した)全掛けする程には西軍を信用できなかったんだろう >>615
まあ、真田がどうこう以前に西軍総大将たる毛利からして両天秤にかけてるわけでして。 そもそも論として保険になってないんだよな
信幸が敵になると周囲全部敵の昌幸には何も出来ないから武功の立てようが無くなるし
三成は沼田越えが出来ると踏んで戦略構築してるのに実は出来ませんなんて詐欺みたいなもんだし >>617
いっちゃなんだが騙される方が悪いよそんなもん、仏の嘘は方便だし武士の嘘は武略の内だろ 多分信幸は昌幸に味方するみたいな嘘言ったんだろうな。確かに騙される方が悪い >>617
なにそのお粗末すぎる戦略。
真田が西軍についたところで、一瞬で踏み潰されるパターンだってあるのに。
だいたい、偉そうなことは西軍が木曽もしくは三河くらい落としてから言えと。
国をふたつもみっつも隔てた先の軍が助けに来てくれるわけもないんだから、
基本的には東軍につく、ワンチャン西軍に付けばラッキーくらいのもんだろ。 徳川は真田昌幸・信繁が西軍についた事を認識してる。昌幸が勝手に上田に帰ったことも証なんだろうけど信幸が報告したってのもあるんだろ
信幸は徳川に昌幸離反を伝えてるのに昌幸は西軍に信幸離反を伝えてない、って事からも昌幸の深謀遠慮って可能性は消えていくように感じる >>622
そりゃ三成だって奉行に戻れるなら戻りたいだろう
そして戦場で功績をあげれば復帰できる可能性はゼロではない(例:仙石秀久)
年齢考えても中央政界に権力者として返り咲けるラストチャンスだろうし そら色々あるだろう。例えば本拠地佐和山を大谷吉継に包囲されてるから拒否したら死ぬだろうし大坂には嫡男重家が人質同然、既に三成謀反の一報が騒がれてるから申し開きが出来るかもわからない
でもやはり大きいのは豊臣が西軍を支持していたことだろう。三成には野心は無い。こいつは単なる官僚で要は主人が言う事を実行しただけ。豊臣を見捨てて徳川家康に忠義を尽くすほど家康に親しくなかっただけよ >>624
主人である秀吉に唐入りの和議で虚偽の報告を行ってた奸臣定期 三成は何もやってないだろ
文禄の役ならむしろよく調整したほう >>626
それはない
さすがに三成を弁護しすぎだ >>625
石田や小西が日本の朝廷から秀次・家康・利家より高い官位を貰うことは不可能だろ
だからこそ石田や小西が秀次・家康・利家を超えるには明から官位を貰うしかない
そのためには明と和議を結ばなければ官位も貰えないわけ
実際に石田や小西は国王に次ぐ大都督の官位を明に請求している
石田からすれば秀吉を日本国王にしたうえで
自分たちがその下にいることは認めているから問題ないという認識だよ
そもそも関ヶ原を戦った根本的な動機だって
自分たちが家康より上位の存在であるべきだという自意識があるからであり
ある意味では唐入りでも関ヶ原でも石田たちの態度は一貫している 三成って朝鮮出兵でそんな大した事はしてないのではないか。戦況報告や秀吉の命令と現実の齟齬を糺したりはしてるし働いてない訳じゃないけど武将というより官僚としてしっかり仕事したって感が強い 三成が文禄の役でした事と言えば戦況報告、慶長の役では何の仕事もしてない。その頃は上杉の会津転封をしてたから
文禄での戦況報告も現実を詳しく書いてるだけで特段異質なものは確認されてない。確かに現地諸将が戦果を過大報告してる事を密告しなかったのは職責を果たしてないかもしれないがそんなことしたら何人首が(物理的に)飛ぶかわからんのだし 「豊臣」(がなにを指すのかいつも不明だが)なるものが西軍を支持していたとまだしれっと繰り返すのか
根拠出してねと言っているんだがなあ
片桐又七郎書上ってのを紹介しようか?
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/18-1-2/54/0019?m=all&s=0016&n=20
「関ヶ原御陣之節、片桐市正同主膳正、従大坂(おおさかより)以飛脚言上仕候は、関ヶ原御退治已後早速大坂え入御被遊候、右之一乱秀頼公少茂(すこしも)御存無之候、其上兄弟之者共秀吉公御遺言を相守罷在候上は、奉対御所様に違叛不奉存旨申上候」
これが秀頼、淀殿の公式見解ということになる
現存しない9月21日着の秀頼、淀殿書状もこんな内容だったろう >>533
白峰旬ここではよく論文貼られてるの読んでるが
史料の解釈というか結論がどうも恣意的なことある印象 時期を考えれば豊臣はそう言うしか無いだろ
九月十四日に吉川広家は徳川家康と総和談、二十五日には大坂城総守護役毛利輝元が大坂退城してる。この時点で豊臣の選択肢は「秀頼馬廻衆を集結させて徳川軍十万以上と決戦」か「全て三成のせいにして徳川と和睦」かの二者択一
ていうか毛利が八月には「全部安国寺と三成と吉継のせいで輝元は担がれただけ」って交渉の伏線張ってるのに豊臣は西軍壊滅後ってのが遅過ぎるな。余程西軍に自信があったんだろうが輝元の方が先が見えてやがる 家康と正面からやりあって勝てるとか三成は頭おかしいんでしょ
暗殺とかなぜ真剣に考えなかったのか >>636
その後の動向にしてもそうだよな。
毛利の潔いほどの土下座っぷりに対して、豊臣は勘違いを続けて最期のアレなんだから。 総大将の癖にヘタってんじゃねぇよってのは確かにそう
でも逆に言えば豊臣家の全てと安国寺恵瓊を生贄に博打打って負けただけで済ませたとも言える >>636
再度愛知県史と徳川家康文書の研究・中巻で確認してみたけど分からなかったんで、後学のために>>581の犬山衆
の内通を許可したとする8月8日付家康書状が誰宛なのかと、分かれば所蔵先か収録されてる史料名教えて
管見では8月8日付の家康書状は黒田長政宛と石川光吉宛の二通しか知らないが、内容はどちらも内通とは無関係だな 8月29日から北政所が移り住んでいた京都新城の城割りが始まった
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-2/32/0039?m=all&s=0039&n=20
言経は「京都城今日より破云々、禁裏御近所故也、珍重種々雑説物騒」と指摘している
9月12日までは工事が進んだようだが、初日には南の隅の石垣が崩され、儀礼的、公的には城が破却されたことになる
禁裏が近く、そこでの戦闘を恐れての行為なのだが、つまり西軍が立て籠ることを警戒したわけだ
北政所はてんで西軍に協力的ではないどころか、必死に中立をアピールしている
「豊臣」ってのがなにか知らないが、淀殿も北政所も西軍を支持した形跡はない ていうか毛利すら徳川と和睦の可能性を考えてんのに豊臣はのんびり西軍支持してる辺りに豊臣滅亡の理由が見えるな >>640
そういうレスしかできない
そういうレスをしないと気が済まない
おまえ、惨敗だな そもそも西軍は首脳部がバラバラ
増田は7月12日の時点で家康と内通してるし、毛利は岐阜が落ちたら腰砕けになるし
前田は大坂城の留守居と称して動かないし
島津は三成と親しかったから初めから西軍とされて、慶長5年7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状が根拠にされてるけど
確か生駒親正に宛てた「伏見城の在番やるはずだったのに」とか愚痴書いた書状があったから、やはり西軍に積極的に
協力したとは思えない
西軍は最初から詰んでる
核となるような器量人がいない >>646
その器量人とやらを全力で排除しようとしたのが西軍だからね、しょうがないね
だって秀吉死後で政権内最大の器量人って家康だもの
大体奉行は自分らを中心とした政権運営をしたいんだから、そんな器量人が家康以外に
存在したとしても、結局そいつを疎んじて排除対象にするだけだろう
要は彼ら視点では政権内で最大の器量人は自分達でなければならず、
自分達がいないと政権が詰む、位にしておかなきゃいかんって事だ(これはある意味成就したが) 豊臣家としては宇喜多秀家筆頭に秀頼馬廻衆や弓鉄砲隊まで与えて打倒徳川を目指したんだろうが
まさか毛利が途中で変節するとは思っても無かったろうな。増田長盛は大坂城から脱出しなかったけど一説には毛利に身柄を拘束されてた可能性もあるとかでだとしたら豊臣の大坂総守護役が突如徳川の番人に早変わりしたって訳で
結局外様大名にいいように弄ばれる運命だった 大阪城本丸に入れなかった毛利に豊臣家が味方に付いたという意識など無いだろう
他の西軍勢も頼りにならないし減封くらっても家名存続のために家康に鞍替えするのは道理 >>646
その割に義弘は事あるごとに義久・忠恒や国元の衆に至急人数を上洛させるようしつこく要請してるけどね
7月~9月上旬までの書状で10回くらいは言ってる
当初は上方忩劇によりとか伏見城攻めの人数が足りないからに始まり、これじゃ秀頼様に奉公できないとか、
長宗我部は軍役二千のところ五千、立花も千三百のところ四千の人数を率いて上洛してきたとか懸命に説得してる
まあ東軍西軍に関わらず自衛のために人数はいるに越したことはないが、積極的な姿勢だったと見ていいと思うけどね 島津義弘は朝鮮出兵で大遅参したから
今回はと焦っていたんだろう 義弘個人は積極的な姿勢だったと見ていいけど
島津の国元衆なんて豊臣に恨みしかないし
朝鮮出兵や庄内の乱で疲弊している状態では
義久・忠恒でなくても上洛拒否しか選択肢はなかった 勿論義弘のみが積極的で島津家として見たら非常に消極的
この時の義弘宛の忠恒らの返書は残ってないけど、なんやかんや理由つけて適当に返事してたんだろうな 輝元「秀頼さまが、お前たちが家康と仲良くするのはけしからんとおっしゃられた、領地没収改易処分とする」
蜂須賀、生駒「!?」
こんなん許されるかよ
しかも領地接収しに来たのは毛利軍、豊臣軍ですらない ところで生駒宛の義弘書状って何日だったかな?
ちょっと忘れたので >>656
年月日、宛先ともに不明だよ
薩藩旧記雑録には「義弘公御譜中ニ在之、七月十三日、御宛書生雅楽入様御報トアリ」と注釈がある ・西軍に豊臣家の軍隊送ってます
・西軍の指導者は豊臣家の奉行です
・公儀として改易命令出してます
・人質も全部西軍に渡してます
すまん、これで豊臣家は無関係です何も知らないんですって信じる奴いる?兵隊も部下も政治も人質もどうなってるか知りませんってもう軍事組織じゃないじゃん
あ、だから滅んだのか >>659
無関係です何も知らないんですでも天下人の家としては終わり
実際終わった
豊臣家の天下を続けたければもっと積極的に関わるしかなかった >>659
三奉行二大老が大坂城と秀頼淀の身柄抑えて勝手やっただけの話でしょ。
んで豊臣家が簡単にクーデター食らって好き勝手やられる無力無能をさらしたから軍事政権の長としてはあまりに頼りなしで徳川に政権が移っただけの話。 >>659
もう史料いちいち挙げないけど
秀頼様御馬廻衆の随一の衆五三輩、については保科書状にしか確認されない
西軍公儀派の白峰氏ですら「もしいたのなら」と距離をとっている
少なくともこの書状では秀秋が大垣に入城していると誤認されている
御弓鉄砲衆はいたにはいたのだろうが、三成の912書状が真ならば、安国寺らが手元に置こうとしていると愚痴るくらいで主体性はまったく発揮していない
ごく少数、独断で出ていったやつらがいたんじゃないかね
そもそも備口之人数で、攻め口に両衆の記載はない
大坂城に籠っているだけだ
なにより会津征伐は豊臣公儀の公戦として家康に刀や金、兵糧が贈られている
西軍にはこういう、授権した形跡が全くない
西軍蜂起については石田、大谷、安国寺の動きが発火点になったのは間違いないが、結局は反主流派の大老、奉行が各個撃破を恐れて一致したとしかいえないだろう
そこに秀頼や淀殿、北政所、ないしは家政機関の関与があった根拠はなにもない >>320
豊臣馬廻衆の話が出たのでだいぶ前の書き込みだけど指摘させてもらう
大津城の戦いで郡とか速水ら七手組の名前があるのは関原軍記大成
大津城の戦いの直後に書かれたとされる「関ヶ原御合戦之時大津城責之覚」にある参戦メンバーに七手組の名前はないよ
伊東長実の一族の伊藤(伊東)左馬助長孝の名前は確認できるけどね >>636
全て三成のせいにできたのは西軍に積極的なコミットをしなかったからだろ?
具体的な命令をしてしまってたらその選択肢はない
言い換えるとそもそも秀頼も淀も西軍を支持してないということ >>648
その「豊臣家」とは具体的には誰?
秀頼、淀、そのほか誰が具体的に宇喜多や馬廻に命を下したの? そもそも論として西軍首脳の増田長盛・長束正家・前田玄以は豊臣家の奉行なんだから豊臣家は西軍なんだよなぁ
奉行が主君の意向を無視して行動したら軍令違反で処刑しないといけないし処刑しないという事は追認したということになる。更に言えば主君を無視した奉行を他人に処罰されたらもう面子丸潰れ >>665
実質的には蔵入地の没収食らってるから毛利並の大減封なわけだがな。 豊臣秀頼は鳥居元忠を討ち取り伏見城を落とした褒賞として銀子・太刀・土地を与えてるからな
公儀として西軍を支持していたことは明らか >>668
豊臣家の領土ってのは功を立てた大名に加増するための領地でもあるわけで >>670
それを徳川が勝手にやった時点で、既に豊臣は敗者扱いなんだよ。 豊臣が西軍に加増した時点で秀頼は西軍支持必然西軍が公儀って話になるわな 武家政権で当主はガキで家臣団は貧弱って無理過ぎだろ >>667
そもそも論として東軍首脳は秀吉自ら伏見を任せた義弟で最高官位の家康なので豊臣家は東軍なのよ
あなたが奉行=豊臣家と認識するのも主張するのも自由だけどそれならそれを明かす史料をよろしくな >>676
その理屈なら大坂の陣は発生しないはずだが……。 家康は元義弟だろ
下手すりゃ秀吉の息子宇喜多秀家より遠縁じゃねえの >>676
日本語の講釈するとだな、奉行ってのは「奉じて行う」役職なんだ。つまり主人の命令を忠実に実行する役職。だから当初五奉行は自分達を大老(おとな)と主張して五大老のことを奉行と設定しようとしていただろう?奉行になると主人の命令に拘束されるが大老なら自分で政策決定出来るからね
しかし逆に言えば奉行の行動はそのまま主人の行動となる。もし奉行が主人の命令を無視した行動をしたらこれは重大な責任問題となり確実にクビが飛ぶ
だから奉行は関ヶ原でも忠実に主人の命令を実行してる。豊臣家が西軍に知行を与えてるのを見てもそれがわかるだろう 京極高次が東軍だったことも、淀殿や北政所が西軍支持でなかった一つの証左だろう
妻は淀殿妹の次、参議という重職で、領地こそ広くはないが大津という要衝を任されている
なおかつ、慶長5年の朝廷への正月参賀で秀頼名代を務めたのが高次だった
とはいっても血縁あっての立場なわけで、淀殿らの意向に逆らえるかというとね
淀殿、北政所が東西に対して中立だったということだよ >>679
筆頭主人(家康)が留守の間に元同僚が騒動起こしたから輝元を呼び寄せて勝手に物事を決める
いくら通信手段の乏しい時代でも、これはね、「クーデター」と言うんですよ >>681
豊臣を差し置いて幕府を開いたり、豊臣家当主を攻め滅ぼすのはクーデターとは言わないんですかね? >>682
ことの善悪なんて時代で変わるものに興味がないんでね
家康が宇喜多秀家追い出して大坂城西の丸に入ったのだってクーデターみたいなもんだろう
しかしだ、会津征伐は豊臣公儀の公戦であると豊臣家からも朝廷からも認められているだろ?
対して西軍にそういった類いはあったのかい?
事実として何があったかを知りたいんだよ
妄想の楼閣築いて「豊臣が家康嫌いだったから~」だの言う人いるでしょ? 西軍が出した知行宛行って二大老・四奉行連署で伏見城攻めに功のあった鈴木重朝と川口宗勝宛
後は二大老連署で同じく伏見城攻めの軍功を賞した鍋島勝茂・毛利吉政宛くらいか
単に千石(鍋島と毛利は三千石)与えると言ってるだけだから知行宛行と言うよりは感状と言った方が正しいかな 西軍の挙兵が秀頼と豊臣公儀から
意味を奪った
西軍挙兵まで皆んな秀頼立てて
遺言と政権の枠組みの中で
実権を奪い合うゲームをしていた
そこを逸脱したら一斉に叩かれる恐れがあり
その恐れがあるから家康だって例外ではなく
秀頼の最大の家臣として
政権の法度を破るものを討つという建前で動いてた
ところが毛利も奉行も武力で
秀頼の身柄抑えりゃ勝ち
って戦いを始めてしまった
結果秀頼は武力持つ者がなんとでもできる
トロフィーに過ぎなくなってしまい
西軍もより大きな武力に潰された >>684
鍋島と勝永のはこれね
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-1/19/0023?m=all&s=0003&n=20
秀頼様がたいそう喜んだそうだが、どんなもんだか
そもそも一部、用語に不審点がある
まあ輝元や三成の書状で使われているような文言もあるけど >>686
いや内容としては怪しい点はないよ
8月5日付鈴木重朝宛二大老・四奉行連署状の内容、文言とほぼ同じだからね
鍋島・毛利宛の連署状は鍋島直茂譜考補所収の写しだけど、鈴木重朝宛の連署状の方は原本がある >>686
慶長5年8月5日付鈴木重朝宛行二大老・四奉行連署状(日光雑賀家文書)
去々年以来、内府被背太閤様御置目、上巻誓帋被違、恣之働ニ付而、為可被相立御置目、被及鉾楯候、㐧一伏見御城
被仰置候御留守居を追出、関東之凡下・野人者共、御座所を踏荒候段、無是非次㐧ニ付而、今度堀際迄各被押詰、即時被乗崩、
大将鳥井彦右衛門を始而、八百余被討果之儀、無比類儀候、殊其方事、鳥井彦右衛門首を被討捕、御粉骨之至、秀頼様御感不斜候、
仍御太刀一腰・御馬代銀子拾枚、並御知行千石被宛行畢、猶以可被抽御忠功之由、被仰出之状如件、 >>687
そうなんだ
なら真なんだね
どうもありがとう&失敬しました
>>688
ああ、凡下、野人かあ
恥ずかしい 豊臣家が西軍ってのはもう確定したな
・西軍に豊臣軍(秀頼馬廻衆、弓鉄砲隊)を与える
・西軍に諸将の人質を預け交渉材料にさせる
・徳川派武将を改易、軍隊を没収する
・西軍派武将に褒賞(土地、資金)を与える
秀頼も「家康と親しいことは許さない」「家康の家臣を討ち取ったのは手柄」と話してるから豊臣家は完全に西軍支持してたわけだ
そして毛利がヘタって降りたらあわてて全部奉行が悪いと土下座して生き延びた。ある意味では輝元と同じことしただけ そういうことにしないといよいよ立つ瀬がないからねえ 豊臣家が西軍を成り行き上であれ支持した(ように見えた)のは有り得たかも知れない
豊臣公儀から追放されてなお軍事的に勝利したんだから家康が豊臣政権を超克して独自の政権をつくる
その決意をする契機になったし敵になった豊臣家は何されても文句は言えない
諸大名も家康が完全に独立した天下人になったと感じたからこそ関ヶ原後大坂ではなく江戸に先を争って伺候し
妻子を置き屋敷地を拝領したんだろうし
あんなの関ヶ原前では考えられなかったことでしょ
豊臣はまさに墓穴を掘ったわけだがそう追い込んだのは毛利と奉行なわけで
正しく毛利と奉行が豊臣政権を滅ぼしたと言えるな >>692
毛利にとっては、豊臣が滅ぶのはむしろ願ったり叶ったりだしな。
散々こき使われた豊臣を利用して権益拡大を目論むのはなにも間違っちゃいないし、
対徳川の敗北の落とし前は必要だが、豊臣に対して義理立て必要なんかどこにもない。 豊臣が西軍じゃなかったと主張する人は余りいない、何故ならそこから導かれる結論は豊臣家の滅亡だから
豊臣は西軍に軍事力を与え土地を与え金を与えてる。これらが全て秀頼の意思でないとなると豊臣家は軍事指揮権も知行権も資金管理も失っていたことになる。兵隊も土地も金も持ってない戦国大名なんて聞いたことない。つまり慶長五年七月十七日に豊臣家は滅亡したって結論になる
そうなるくらいならまだ西軍の総司令官してた方が格好はつくだろうさ >>694
いや、正しくそうだよ。
7月17日以前、豊臣秀吉逝去時に軍事指揮権も、知行権も、資金管理も失っている。
厳密に言えば軍事指揮権は徳川に、知行権と資金管理は奉行に取られている状況。 豊臣の行動が西軍そのものであってもそこに秀頼の意思があったかどうかはまた別問題
常識的に考えて数え年8才のクソガキが全て自らの意思でこれらのことを主導できるわけがない
秀吉が死んだ時点で豊臣は全て失ってたんだよな 結局のところ秀頼淀北政所が西軍を直接支持した史料は無いからねぇ。
西軍公儀論の白峰がいくらひっくり返しても出てこなかったものをその辺の西軍オタ程度じゃ見つけてこれんだろう。 豊臣家が西軍に肩入れして直接行動してたら少なくとも福島あたりはコロッと西軍についてるはず。 秀頼が支持したって史料は残ってるからな
そして重要なのは政治の世界で個人のお気持ちなんてハナクソほどの意味も無いってこと。政治は行動が2割結果が8割
秀頼・淀君・北政所が西軍を支持した事は明らかで実は内心は違うんですなんてのは意味が無い、どころか有害。公儀の頂点にいる者達が内心と違う事命令してました、なんて部下への背信以外何物でも無いからな。そんな上司につきたいマゾは居ないのよ >>698
それはあり得ない。福島正則は『秀吉の遺言に逆らって』徳川家康と縁戚になった謂わば豊臣を裏切った敵
豊臣が西軍に肩入れしてようが、否むしろ肩入れしてるからこそ徳川は裏切れない。豊臣に「徳川と親しくしたクズ」って討伐命令出てるような状況で豊臣につくわけが無いんだなこれが
豊臣が肩入れしてなかったら豊臣が「徳川と縁戚になっても問題無いよ」と言えば状況が変わったかもしれないが >>700
少しはイデオロギーを隠そうとは思わんのか 西軍は、豊臣家の為といいながら、豊臣家の為にならないことを連発してるからな。
毛利、上杉は自分たちの野心をむき出しにしてきてるし。両家とも豊臣家に尽くす義理はないけど。
豊臣家のために、なぜ、奉行たちは方向性が違う毛利たちと組んだのか。
特に毛利を大阪城に入れたのは罪が重い気が。 無いものは無いんだから喚いてもしょうがない。そういうことにしたい!って願望を前面に出されてもしらけるだけ。 内府違いの条々に堂々「家康は勝手に縁辺した」って書いてあるの知らない人が多過ぎる。結婚してない人は知らないかもだが結婚は一人では出来ません。つまり徳川と縁辺した相手も当然罪に問われてる
更に言えば秀頼は「家康と親しくした」として蜂須賀家政を改易にして領土は毛利が、軍は豊臣が預かると沙汰を下してる。つまり家康だけが敵じゃない。家康に親しい奴は全部豊臣の敵
こういう状況なのを知らないから「秀頼が西軍だと知ったら福島正則は西軍についてた」なんてお花畑な事を言えるんだろうがね
福島正則ら東軍諸将にとってもう秀頼なんかどうでもいい。なんなら討ち取っても良いくらい(秀頼の首で領土が貰えるから)重要なのは徳川家康を勝たせることで家康さえ勝てば自分達の未来も拓ける。西軍が勝ったら自分達は良くて蜂須賀・生駒並みで改易、悪けりゃ断首だからね
それがわからない奴は戦国時代生き残れません >>705
このアホの主張を認めると三成処分を家康と決めた北政所も内府違いで攻められてることになるな ちなみに秀頼は蜂須賀家政を「家康と親しい」として処罰したわけだが何故だろうか?確かに両者は親しいのだが
実は蜂須賀家は徳川家と縁戚関係にある。蜂須賀家政の子、至鎮の正室は徳川家康の養女である
さて、福島正則の養子もまた徳川家康の養女と結婚している。秀頼が西軍に与していたら正則は西軍だった、なんてのが如何に史料を無視した戯言かよくわかるんじゃなかろうか ぐだぐだ戯れ言連ねるよりさ
「秀頼が支持したって史料は残ってるからな」というならそれ示せばいいだけなんじゃないですかね
いつも逃げるだけだからまあ、期待はしてないですけど >>703
簡単な話。
毛利の兵力がなければそもそも戦いにすらならないから。
総兵力約10万(小早川除く)のうち、半数の5万が毛利勢なわけで。 >>708
もうとっくに出てるが八月五日鈴木重朝宛二大老四奉行書状で「秀頼が伏見城を攻め落とした事を褒めた」とあるのでもう西軍支持は揺るがないんだよなぁ。白峰氏も当然これを強く主張してる
秀頼は家康に親しい大名の土地を奪い、家康を攻撃した者に褒賞を与えてる。ここまでやって「秀頼は実は西軍を支持して無かった」というのは根拠の無い妄想と断じられてる
要は秀頼の内心を勝手に想像してるだけ。一次史料に残る秀頼は明確に徳川を攻撃してる
じゃあそれが本当に秀頼の預かり知らぬものだったとすると豊臣家は滅亡してたことになる、っていうだけ 三成は小早川秀秋の裏切りを知って松尾山に向かった、としてるけど、この場合、三成は秀秋を討つつもりだったの?
秀秋が裏切った時点で退路もヤバいんだから、一気に突破して佐和山に向かうのが良策だと思うんだけど……
垂井や赤坂まで奪われている大垣をなおも維持できるとか思ってたのかな?
それに、刈田の件もあるけど、大垣城の城兵が飢えていた可能性とかはないのかな?
いくら小早川秀秋の裏切りがあったとしても、あまりにあっさり決着がつきすぎている
大垣城兵が飢えていて体力的に問題があった可能性とかはないのかな? >>710
その「秀頼」って本当に秀頼なのかという話で。
幼子にそんな判断はできない。
淀や大野には元々そんな権限はない。
秀吉亡き後、例えば五大老である毛利の遺領問題を裁定したのは誰か。宇喜多騒動を裁定したのは誰か。
いずれも奉行衆と徳川が「豊臣の意」として裁定している。
その一方の徳川が東国に向かって不在の時に出された「秀頼」の書状となれば、誰が書いたか自ずと答えは出るというもの。 秀頼の花押なんて当然無いだろうけど、豊臣家の朱印は押されてるのかね >>710
慶長3年8月5日の五大老五奉行の起請文
(家康)一、御知行方之儀、秀頼様御成人候上、為御分別不被仰付以前ニ、不寄誰ニ御訴訟雖有之、一切不可申次之候、況手前之儀不可申上候、縦被下候共拝領仕間敷事
(他の大老)一、御知行方之儀、秀頼様御成人之上、為御分別不被仰付以前ニ、諸家御奉公之浅深二ヨリテ、御訴訟之子細モ有之ハ、公儀御為ニ候条、内府(徳川家康)并長衆五人致相談、多分二付而随其、可有其賞罰候、但、手前之儀者少モ申分無御座事
そもそも土地あてがいにおいて、ガキの判断や決裁は排除されてるんです
それからちょうど二年経っただけなのに、おかしいねえ >>706
内府違いの条々を読みなさい。内府違いの条々には「家康は三成を処分した悪い奴」なんて書いてないぞ
「年寄共之内、弐人被追籠候事」、年寄2人を逼塞させたとある。これは石田三成・浅野長政のこと
西軍は確かに頭が悪いがお前さんほどじゃない。「三成を処分した」なんて言えば毛利輝元や北政所、大谷吉継まで巻き込む事くらい分かってる
だから浅野長政の件も非難してる。この2件を裁いたのは徳川家康1人だからな >>689
確かに野人とかほとんど見ない文言だし不審に思うよな
凡下の方は割と見るんだけどね
(天正18年)3月5日付宇津木泰朝宛北条氏直朱印状
「此度候間、無二無三可走廻候、召連候侍・凡下迄も、此時相当之至于勵忠節者者、恩賞者可任望事」 >>712
幼児とかどうでもよくて史料では秀頼が西軍を支持して褒賞まで与えてるねってだけ
それが真実秀頼の意思じゃないとか妄想しだせばどこまでも疑えるし、それは無意味 ID:3m3yDomO
ID:tSHeKtLe
知能低すぎて多分同一人物 >>713
豊臣の印判も当然ないよ
仮に秀頼が発給した書状や印判状なら、大老や奉行衆は副状という形をとるだろうから、
同じ紙面に秀頼の印判と大老や奉行衆の花押、印判が押印されることはまずない
ちなみに秀頼発給の印判状に朱印状は生涯に一通もなく全て黒印状 >>717
あなたにもわかるようにはっきり言えば、奉行が「秀頼」と書いた書状を作成したということだよ。
そもそも家康や奉行にはその権限があるからな。
というか、そうでなかったら秀頼の幼少期に豊臣家の運営自体ができんよ。
そしてそのような事態に陥ってる時点で豊臣家は既に終わってるわけで。 >>720
家康が病死する。
……割と冗談ではなく、小早川隆景、豊臣秀吉、前田利家と立て続けに家康を止められる人物が亡くなったのが家康優位の根幹。
なので、同じ時期に家康も亡くなるようなことがあれば、秀忠ならまだ分からなかった。 >>720
最低限秀頼に徳川討伐の宣を出させる
これが絶対条件 >>721
だから「秀頼は西軍に味方した」って結論になるんだよね 「秀頼は幼児で〜」とか「秀頼の名前を奉行が語って〜」とか言ってる人は一種の自己撞着に陥ってる事に気付いてるのかな?
秀頼が幼児だから秀頼の命令として出された書状が信頼出来ないならもう豊臣が出す全ての書状は信頼出来ないことになる。仮に秀頼が頑張って命令書を書いたとしても「秀頼は幼児だから書かされた」だの「何書いてるか分かってなかった」だの言えば無効化されてしまう。つまり豊臣公儀の権威・法的根拠が消えてしまう
当時の諸将もこの問題に気付いてはいたがそれを無視してた。「秀頼さまが言った」と言えばそれは真と見做してた
それをここに来て都合良く「秀頼は幼児で〜」というのは論理的とは言えない。西軍すらそうした事は主張してないのはこういうことなんだな
秀頼が家康は許せんと言ったと史料に残ってるんだ。信じるしか無い。秀頼がそんな事を言ってない証拠なんてあるわけもないんだから。それが奉行の嘘と想像するのは勝手だし面白い想像だとは思うけど >>724
なにが「だから」になるのか分からん
「西軍が秀頼の名を使った」にしかならないようだが 秀頼=豊臣政権じゃないからな
秀頼が謀反軍に味方したのなら秀頼も謀反人になるだけや >>725
土地の宛がいについて秀頼はまだ発言権を持っていない
それを五大老五奉行で確認した起請文は示したでしょ?
武家にとって土地は何よりも重要なわけで、幼い秀頼の意思だと誰かが偽ることを警戒していたことになる
それなのに、二大老は「鳥居を討ち取ったこと、秀頼様も感じ入っている。よって金子と土地を与える~」というのはそもそもおかしいんだよ
それにだ
秀頼が幼いからこそ淀殿、北政所、側近の一次史料が大事になるが、西軍に肩入れしたものなど存在しない 北政所は中立工作を行ってるし、淀君は妹婿の京極高次に自儘にさせてるからな
京極は東軍が岐阜城を落とした後だとはいえ、あの場所で西軍に叛旗を翻すのはすごい度胸だわ そして一番厄介なのは「秀頼は幼児だからその言葉は無効」とすると豊臣公儀が消滅するという事実
例えば会津征伐は徳川家康が強行したという事実が確定する。秀頼が真に会津征伐を許した証拠とやらは存在しえない。こうしてまがりなりにも豊臣公儀が作った公儀性が豊臣家から消滅する、つまり豊臣公儀が消滅する事になる(もし称するなら「十人衆公儀」「徳川・前田連立公儀」あたりが正確なのか)
皮肉なのは豊臣公儀が「秀頼さまがこう仰った」と書状に記すのは秀頼を公儀の頂点に置きたいが為なのに、それを秀頼を守るべく破壊した豊臣家の選択なんだけど >>724
何故その結論に至る……。
豊臣を別格扱いしてるけど、こんな問題は戦国時代には至るところで起きてるんだよ。
跡継ぎが幼少、後見役を巡って親族や外戚や重臣が主導権争い、勝者が主家を乗っ取り。
他ならぬ豊臣家がそうやってのし上がった家だし、小早川(毛利)だってそうだ。 秀頼は家康と親しい事は許せない、鳥居元忠を討ったのは手柄と褒美に土地まで与えてる。この事実は非常に重い。下手に否定すれば豊臣家が公儀から消滅する
白峰氏は間違いなく秀頼の言葉と太鼓判を押してるがだとすれば秀頼は家康の事を嫌ってたんだろう。8歳の幼児にも好き嫌いはある。秀吉は秀頼に家康を父と思えと言い遺して死んだがこの遺言は果たされなかったようだ
ただ候補者が多過ぎる。家康と結婚せよとの遺言を拒否した淀君か、宇喜多秀家筆頭に親族まで西軍に参加させてる北政所か、徳川を敵視してる傅役衆か、はたまたその全部か >>730
子供の発言は何の意味も持たない時代
都合が悪い発言を聞くアホは居ない 歴史上、満で7歳の子供が政治的判断を下せた例はあるのかね?
確か佐竹義重が7歳か8歳の時に、陸奥国衆の上遠野氏に書状を送った例があるけど、あれは父の義昭がまだ存命だったからできたことだろうし
やはり秀吉が秀次や一門を残らずぶっ殺したのがまずかったとしか思えない むしろ幼児であることを言い訳にされているだけで
秀頼は完全に無能で阿呆な馬鹿殿だった
まだ子供だからと配慮したところで、結局は成人しても馬鹿殿は馬鹿殿のままだった
家康が政務をしているから豊臣政権はなんとか存続できただけで
その家康と手を切ると選択した時点で豊臣家が公儀から消滅するのは当然の結末だった >>679
それがわかってるなら秀吉亡き後政権筆頭の大老の命を奉じず自分たちで政治を行おうとしたのがおかしいのもわかってるよね
十人衆体制を命じた主君などいないのだから >>732
西軍がそう主張した史料はあるが秀頼自身がそんなこと言った史料があるのか 7歳の子供が書状書けるのか……
本人のは無いでしょ
確か来次氏秀が書いた書状があったような…… 淀・秀頼・奉行連中などは秀吉時代の感覚が身に染みついて忘れられない
自分たちが豊臣の威光を掲げれば、秀吉時代と同じ効果を持ち
秀頼が〜と言ったと主張すれば、秀吉が言ったのと同じ重さを持つと思い込んでいる
関ヶ原は家康が天下を取ろうとした戦というよりもむしろ
淀・秀頼・奉行連中が自分たちの誇大妄想を現実にしようとした戦というのが実態だった
秀吉時代の同じ栄華を実現できるという誇大妄想を輝元にいいように利用されたに過ぎない >>740
淀と秀頼を馬鹿どもと一緒にするのやめてくれる?
大坂の陣とは全く違う 淀君が奉行の反乱に反対だったのなら争乱なく輝元が大坂城に入れるとは思えないなぁ
個人の感想です その理屈からすると、西軍が非難している家康の大阪城での行動も全て淀殿が認定してることになり、西軍の主張の正当性がなくなるな。 血縁関係云々を言ったら北政所はバリバリの西軍になる。北政所から可愛がられたという秀家・秀秋は言うに及ばず木下一族の殆どが西軍に属してる。その中には伏見城で笠を掲げた木下勝俊も含まれるけど 淀殿は実際は家康側だったとも言われてるんだよな。
淀殿は城内の風紀に何かと口うるさい三成を
かなり煙たがってたと言われてる。
だから三成が死んでからは大阪城内の風紀が乱れまくって、
「三成がいた頃とは違って、城内の至る所で
こっそりセックスしてる男女がいる。嘆かわしい」
旨の内容を豊臣家臣が書いた日記が残ってる。 >>738
そう主張したんじゃなくて秀頼から言われたんだよ。これは否定できない事実
当時の豊臣公儀は建前でも秀頼の意見が尊重されてる。しかもそれは「秀頼さまが仰った」と言えばそれで根拠として成立してる。これが秀頼の意思がわからないから無効ってなれば家康の会津征伐から石田三成の処遇から全部無効になる
そしたら秀頼の存在理由が消える。だから秀頼が言ったという事実は否定できんのさ。これらを踏まえて論を立てると「秀吉が死んだ事で豊臣公儀は消滅し、秀頼とは無関係に次の天下人を狙って大名達が蠢いた」ということになるんだろうが つまりお袋様先生、秀頼乳飲み子なので淀の方の意というんだな?
たしかこないだのテレビでも秀頼が教えられた言葉を武将にかけていた >>720
散々言ってるやん、岐阜城後詰決戦と。
岐阜が落ちてからでは覆すのは難しい。
岐阜以降だと、こないだヒント出したけどだれも立案しないしね。 岐阜の後詰云々は三成の権限超えてる問題だから
どうもならん >>749
秀頼の意見が尊重されたのってなに?
そもそも秀頼の成人まで、秀吉遺言と没後の十人衆体制はそういう建て付けになっていないんだよ
尊重されるのは秀頼の「意思」ではなく「身の保全」
二次史料ではあるが、家康が会津征伐を押しきった理由に「上洛をしなかったから秀吉公は小田原を征伐した先例がある」という発言がある
秀頼の意見なんてこれっぽっちも顧みられず、むしろ秀吉時代の先例が重視されていたわけだ
その上で、いざ出陣となると秀頼は千畳敷まで出てきて武具や金銭兵糧を家康に、諸将の前で下賜する
(実際に秀頼や淀殿が会津征伐に賛成だったかどうかは分からないが)これによって会津征伐は豊臣公儀の公戦という資格を内外に示した
本丸に目付を置いている輝元らが「秀頼様がなんと言った」と言おうが、体制の建て付けとしても発言の真偽についてもおかしいこと 淀・秀頼は秀吉全盛期のような秀頼独裁体制をやりたいんだよ
五大老とか十人衆とかなんて淀・秀頼の誇大妄想にとっては邪魔でしかない
だから輝元らが「秀頼様がなんと言った」と言って体制の建て付けを無視することは
淀・秀頼のプライドをくすぐる上手い利用方法だと言える
とはいえどんなに上手い利用方法を駆使しても馬鹿の誇大妄想を元に進めることは
現実的には上手くいかずに破綻するというだけの話だ 33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/22(金) 17:12:56.70 ID:aQX2LtY/ [1/4]
後詰決戦案(岐阜城後詰決戦案)まとめ
作戦
清須城に調略をかけつつ美濃伊勢の防衛線を早急に構築し
その後は調略が成功したら三河まで進出し
調略が失敗したなら美濃伊勢両軍が一手になり清須城を攻略する。ここまでは史実と同じ(三成書状)
もし東軍が本格的な先制攻撃をして来たら最前線は籠城し防御に徹して後詰を待ち、
他の方面軍は即急に転進し後詰に向かい後詰にて敵を殲滅する
岐阜に来たら岐阜城後詰決戦。大垣、桑名方面、越前方面等々に来た場合も同様に後詰決戦を志向する
利点
少なくとも西軍最大の失態の岐阜城瞬殺は回避できる
徳川軍が合流する前の東軍先鋒軍をまず叩き先鋒軍、秀忠軍、家康軍と兵力分散の愚を犯してる東軍を各個撃破する戦略なので西軍の弱点の正面戦力不足を補える
相手の出方を見てから動くので西軍の弱点の情報不足を補える
事前に方針を確定させておくことで西軍の弱点の合議制ゆえのタイムロスを補える
東軍先鋒軍を引き込んでから討つ作戦なので簡単に撤退されるそもそも攻めてこない等の東軍の行動を制約できる
事前合意に基づいて半自動的に行われる作戦であり期間も比較的短いので毛利の心変わりや広家秀秋京極などが蠢動できる隙が少ない
史実からの変更点が小さいので不確定要素も少なく考察しやすい
興ざめする強引な西軍有利な設定も特には必要はない。
事前準備
前線の諸城は籠城に向けた準備を万全にする
各方面軍は即急に後詰に行く準備を怠らない事。
各軍の連絡連携は密に行うこと
前線の小城など彼我の戦力差が圧倒的不利の場合は時間稼ぎが可能と思われる次の拠点に移りなるべく戦力を減らさないようにすること
等々を事前に合意しておく 34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/22(金) 17:13:58.78 ID:aQX2LtY/ [2/4]
日程
7/30〜8/4
大坂城に西軍首脳部が再集結してるので作戦決定と前線諸将の合意を取り付けておく
8/5〜8/21
西軍の行動は史実とほぼ同じ。
必然的に東軍も史実をなぞる事になるので以後は岐阜城後詰決戦に焦点を絞る
8/22
東軍先鋒隊の渡河開始。
岐阜城は全力で籠城しつつ即時救援要請
竹ヶ鼻城、加賀野井城の将兵は即時救援要請、出来れば撤退し大垣の合流、(兵力1000前後)
8/23
岐阜城攻防戦開始。
大垣勢は前線まで出陣しつつも戦わず黒田藤堂隊を誘引
犬山城の石川以外の加藤、稲葉、竹内らはすでに内応しており戦力として期待できなので史実通り中村隊を誘引してもらう
伊勢方面軍の後発隊のうちの毛利秀元や長宗我部隊らは竹ヶ鼻城辺りからの第一報で転進準備、岐阜城からの救援要請で転進開始
先鋒隊の広家らはそのまま安濃津城の抑え
宇喜多隊は草津付近より大垣に直行
明石隊、東軍の動きを見ながら大垣に移動(史実と同じ)
8/24
伊勢方面軍より長束安国寺らも転進。以後他部隊も順次転進
8/25
宇喜多隊(10000)大垣に到着(明石隊を待たずに直行)
8/27
明石隊(6000)大垣に到着(史実と同じ)
9/1
毛利秀元隊(10000)長宗我部隊(4000)大垣に到着(史実7/29頃出立9/7到着より6日早いので)
9/2
東軍先鋒軍3万5千 対 西軍5万(後詰軍4万4千+岐阜城6千)で後詰決戦
岐阜城
秀信一手5300、石田加勢1000、計6300
大垣城
石田5700、小西2900+与力4000、島津1000、計13600
大垣城援軍
宇喜多10000、明石6000 計16000
後詰
秀元10000、長宗我部隊4000、計
合計49900
岐阜城が持つ期間が長ければそれだけ九州勢合流、伊勢方面軍後続合流などで兵力は増す。
岐阜城守備隊や伊勢方面軍転進隊の兵数は調整可能
その後の展望
敗れて退く先鋒隊を清須城まで追撃して清須城を囲む。
救援の家康軍を再度の後詰決戦でさらに破る。(兵力的には優位)
※もし家康が出てこなければ先鋒隊を見捨てた家康の求心力は大幅に低下し抗戦は難しくなる
敗れて撤退し秀忠軍と合流した家康軍をさらに破る。各個撃破の完成
後は煮るなり焼くなりなどが考えられる 35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/22(金) 17:14:53.78 ID:aQX2LtY/ [3/4]
Q、諸将が同意する可能性は
当時の人間の心の中までは見られないので確かなことは言えないがIFということで。
史実からの変更点は最小クラスで慎重論よりで博打的要素も少なく
当時としては常識的な後詰決戦であり大垣城後詰も発生しておりそれを早めようというだけのものなので他の案よりはハードルは低いと思われ
この程度が認められないな他の案はもっと認められないと思われ
Q、岐阜城がどのくらい待つか
岐阜城は編纂史料や絵図では大規模な城塞と書かれているが、
通常は廃城の資材は転用されてしまうので現在は本丸しか残っておらず疑問視されてる面もあったが
発掘調査で残存石垣などが発見され史料が正しいと証明され十分な防御力があったと予想される
当時の武将も「東軍本隊に攻められたら50日は持たないだろう」と落城を予想しながら短期で落ちるとは考えていな
なお岐阜城欠陥説は根拠が薄いので蒸し返さないものとす
他城を参考にすれば1週間から十日は持つと想定。
Q、東軍先鋒隊が岐阜城を損害度外視の力攻めをした場合は?
兵力的に岐阜城は短期間で落ちるだろうが損害が出て疲弊し半壊した岐阜城に寄る東軍と戦えるのでそれはそれで有利
Q、東軍が後詰決戦を避ける可能性は?
八月十九日付黒田長政・徳永寿昌・奥平貞治連書状
決死の覚悟で木曽川を越えて天下之勝負に決着をつける決意でいる
八月二十二日付井伊直政書状
来ないと思われるが、大阪から後詰が来たら岐阜に抑えを置いて
先に後詰を叩いてそのまま大垣を乗り崩すことを諸将は決議している
状況は多少違うが9/7に大垣城包囲戦の時に伊勢方面軍が南宮山に到着し
それ以上の兵力的劣勢(東軍先鋒隊3万5千、西軍6万)になっても先鋒軍は撤退してない
平野の奥に大河がある追撃のは絶好の地形なので撤退は難易度が高く
史実(の可能性が高い)では織田信秀が同地での撤退戦で大打撃を受けた井ノ口の戦いがある
等々、東軍先鋒の決意と士気は高く後詰と戦うことも想定しており兵力的劣勢でも引くことは無かったので
後詰軍が現れた若しくは報告があったとしても即引く可能性は低く後詰決戦は成立する可能性が高い
仮に撤退されても、東軍を退けた実績と宣伝効果と追撃による損害と
畿内を固める時間的猶予が得られるのでその後は優位に戦え、史実に比べればずいぶんとマシ
Q、3万5千対5万で西軍勝てんの?
分かりません
実戦派武将の集まりの東軍先鋒隊には質で大きく劣るので負けるかもしれません。ぶっちゃけ負けそう。
その場合でも岐阜城が想定最低限の1週間より持てば兵数をさらに増やす事は可能
つか合戦実戦でどうなるかは限られた史料上机上の空論にしかならないので
個人的には「史実より有利な状況を整える」でとどめたいと思います。 何のために勢田に砦を作ってたのよ
岐阜が落ちた際の防御線に使う気だったんじゃないのか?
そもそも岐阜城が落ちても、長良川と揖斐川があるんだから、あの2つの川を線にして防御陣をすぐに作らない
西軍は何してたんだと言いたくなる
そもそも大垣城はあの2つの川を防御線にして本陣にするつもりだったんじゃないのか? >>758
残念ながら、岐阜城の救援のために渡ろうとしたら阻止されて、そのまま敗走して赤坂まで攻め込まれたのよ。
主力は岐阜城を攻めているので、に川岸に展開していた東軍兵力は1万人もいなかった。
つまり西軍が出し惜しみをしたか、普通に軍として弱いか、どちらにしても駄目すぎてその後の戦略が全く立たない。 >>754
おまえ知能低いと思うから一回検査受けたほうがいいよ 当時の東軍書状に「あの辺りは簡単に渡河出来るから何処でも自由に攻撃出来ます」とあるので岐阜城は渡河部隊を叩きに行かないと勝ち目が無い
逆に西軍は防衛拠点を作ってもそこを無視されたら戦力を無駄に割くだけなので大垣に集めるしかない >>761
それ、佐々正孝書状だよね?
あの書状が出された時点ではまだ岐阜城は落ちてないし、あの書状の川は木曽川を指してなかったか? 東軍の長良川布陣の後詰阻止隊は、黒田、藤堂、田中、
西軍は岐阜への後詰として石田、小西、
墨俣守備に島津の陣容。
しかし石田先鋒が黒田藤堂田中に敗れたため大垣に撤退、という流れ。 美濃尾張は織田家の地盤で地縁のある武将が多いし徳川も情報を持ってるはず
渡河地点とか地勢は近江の石田や堺の小西は疎そう
東海から畿内は毛利あたりは土地勘が全く無いだろうから戦に消極的にもなりそうだ 岐阜城後詰決戦案はなるべく史実に沿って改変は最低限というお題の元に、
後手後手の西軍でも最初に言い含めて置けば攻められたらとりあえず守って味方待つ普遍的なありふれた戦法である後詰くらいで出来んだろ。ちゅうもうしょうがないから案だけど
本来西軍がやるべきだったのは木曽川渡河防衛決戦やでなぁ >>767
少し違う。犬山は尾張。
求められる、或いはやるべきは小牧・長久手の立ち回り。 小牧・長久手は、秀吉側が圧倒的大多数だったから、木曽川を超えて楽田まで進出して
あそこに本営を置ける余裕があった
関ヶ原だと兵力優位はないし三成の判断力じゃ立ち回りは無理でしょ そもそも、戦の経験があまりに豊富すぎて敗戦も何度も経験している横綱家康に、
せいぜい前頭か小結程度の三成が勝とうなんて無理すぎるんだよ
やるなら暗殺を真剣に考えるべきだった 岐阜も大垣も犬山もはなから捨てて全軍で関ヶ原に布陣
で勝てませんか >>767
岐阜城がああも簡単に落ちれば後手に回っても仕方ないでしょ
家康だってびっくりしたくらいだ 奉行連中は自分たちが幼児の威光を振りかざせば日本中の大名が平伏して
戦場でも全員が豊臣のために命がけの戦いを繰り広げるという誇大妄想に浸っており
あまりにも自信満々に自分たちの誇大妄想を主張していたため
家康本人も奉行連中が言うことは本当かもしれないと岐阜城が落ちるまで信じかけていた
そういう意味では岐阜城陥落は軍事的な意味以上に精神的な意味が大きかったと言える
岐阜城陥落によって奉行連中の誇大妄想が家康にばれてしまった 結論から言うと岐阜後詰は不可能。少なくとも三成には出来ないし輝元も出来なかったろう
まず東軍が岐阜を攻撃した八月二十二日時点で東軍先手衆は約四万、岐阜の織田秀信は六千、大垣は一万五千か二万五千という状況。問題は仮に秀信が岐阜城に籠ったとしても竹ヶ鼻城は開城するし犬山城は援軍を出さないこと。竹ヶ鼻が落ちると大垣衆が後詰に行こうとすると渡河中を強撃されてしまう。先手衆か大垣衆の倍は居るから岐阜を力攻めにしながら後詰を攻撃することも可能
また東軍は文字通り先手衆なのに対し大垣城は全力出撃が必須でつまり負けたら終わりの背水の陣、しかも仮に全力出撃して大垣を空城同然にすると東軍先手衆が後詰軍をスルーして大垣攻めを敢行する危険性もある。だから大垣にある程度以上の将兵を置かないといけない。これは厳しい 秀信に石田軍から1000が合流してるから7000だぞ >>775
そんなもん史実見ればわかるやん、
敵より少ない兵で後詰して勝算あるの?
実際石田小西は撃退され大垣に撤退している。
てかなんで伊勢方面隊の到着待たずに大垣だけで
岐阜の後詰しようとしてるの?あほなの? >>770
暗殺は、信憑性は微妙だけど家康かなり警戒してなかった?
上杉征伐で長束領通る時長束に招かれたけど
暗殺警戒して行かなかったとかなかったっけ? >>777
理由は至って単純で援軍が無いから
三成の思惑と逆に西軍は伊勢と加賀方面に主力を振ったので美濃方面への援軍は宇喜多隊一万のみ
そして三成には軍事指揮権が無いのでこの次の動きは西軍首脳部に書状を送り援軍を要請→首脳部が会議→伊勢及び北国方面軍より動ける軍団を抽出→美濃への兵站を作成→増援
だから三成にはどれだけの増援があるかわからないしいつになるかもわからないだろう。そしてそれは岐阜の織田秀信もおそらく知ってること >>773
逆に清須を先に落としていればどうなるのだろうか
東軍が来る前に 清洲はあの一帯を支配する超重要拠点だから落としてたら展望は変わってただろうけど、それと落とせたかどうかは全く別の話なんだよなぁ >>757
その8月22日付井伊直政書状の内容間違ってるな
福島隊が明日23日岐阜城へ押し詰め、池田隊が惣構を破れば岐阜城の上のかち渡りを越えて佐和山へ向かうこと
これが22日の晩に協議で決まったことで、後詰のことや大垣城攻めのことには全く触れられてない
8月24日付結城秀康宛福島正則書状に「今日各相談仕、明日佐和山表江相勤、重而御吉左右可申上候」
少なくとも8月24日までは福島らは大垣無視して佐和山へ向かう予定だったんだよ
その後、8月27日付池田輝政宛家康書状、同日付福島正則宛家康書状に
「我等父子を御待尤候」という指示があったので佐和山攻めはなくなったけど 佐和山ってもしかして攻撃し易いところにあるのか?木曽越えが出来なかったら美濃・佐和山攻撃に移る予定だったみたいだし
だとしたら尚のこと動けないというか、ここで総力決戦を選ぶのはかなりの大博打になるんじゃないか >>783
たしかに。仰る通りで、大垣城云々後詰云々は書かれていない。
何かを参照にしてるっぽい書き方だけど、
井伊直政の今朝の注進?別書状があるのか、
本多忠勝注進状的なものがあるのか、
石田が大垣に撤退したの知ってて大垣無視して
佐和山行くつもりだね、
石田を討つというより要衝確保優先の考えだね
東軍先発隊は。 惣構があるんだから町中でゲリラ戦やってもいいと思うけどな、
あるいは引き込んだうえで逆に町に火を放つとか。 現実問題、岐阜を後詰して決戦するしか無いんだけどこれはかなりのギャンブルで西軍は残存兵力を結集した決戦なのに対して東軍はまだ徳川軍が遊んでる状況、仮に大垣に兵を集めても佐和山を攻撃されたら挟撃される厄介な状況
東軍先手衆を攻撃するのが理想だが仮に負けたらピンピンしてる徳川軍に虐殺される正に乾坤一擲の大勝負 佐和山攻撃は東軍にとっても諸刃の剣だよ。
後方拠点は岐阜、竹鼻、犬山?
佐和山で半孤立状態になる。
それでも佐和山行くのは士気が高いというか、
まさに決死の覚悟なかんじ。
ただ、さすがに佐和山落ちれば西軍士気はガタ落ちだろうね、
離反続出、大津の京極と連携取れるか。 東軍拠点は美濃に点在してるのと竹ヶ鼻を落としてしまえばそこも使えるという判断なのでは
東軍が佐和山を攻撃したら大垣衆と伊勢衆は佐和山に向かうしかない、ここを落とされたら大垣が死ぬから見捨てられない
てことは岐阜城の後詰は無くなる。後詰無いまま織田秀信よ玉砕せよと言えるかどうか いや、そもそも大垣を無視して佐和山の攻撃なんかできんだろ。
大垣に西軍兵力釘付けにして佐和山攻めるほどには戦力差は開いていない。
佐和山に1万人程度送るとすれば、大津攻め部隊は5000人を抑えに残して1万人救援に行ける。
・東軍 赤坂3.5万、佐和山1万、岐阜抑え5000、徳川本隊4万(移動中)徳川秀忠隊3万(上田足止め?)
・西軍 大垣2.5万、佐和山1万、大津抑え5000、伊勢攻略隊2.5万(移動中)毛利輝元隊2万(大坂動かず?)
あとは大谷らの北国方面警戒隊と小早川秀秋の動向が不明だけど、
だいぶん複雑で膠着した状況にはなる。 時期によるだろうがおそらく難易度の問題に終始すると思う。織田秀信が動かなかったとして八月二十二日に東軍先手衆四万五千が岐阜城を包囲する。西軍は大垣城に一万五千、宇喜多隊が一万でいる。岐阜城が懸命に防戦するなら東軍はただちに竹ヶ鼻から佐和山攻撃隊を送る事になる。その数はおそらく二万五千程度
こうなると西軍の戦略は厳しい。佐和山が万が一落とされたら完全に詰みなので佐和山攻撃隊は迎撃しないといけない。しかしその数が大垣衆と同数程度だとすると大垣を捨てて佐和山に向かうしか無い。そうなれば岐阜の秀信は見殺し、救援不能は明らかで秀信は即座に降伏するだろう >>781
島左近の大筒砲筒があれば留守居しかいない清須なんて容易い
織田信秀を味方につけた翌日石田小西織田でそう攻め
清須をとれば西軍につく武将増えるだろう
勝てるうちに前線を獲っていく
出来れば岡崎浜松あたりまで 当時の佐和山には山のような金銀財宝が隠されているという噂があった
佐和山を攻撃して真偽を明らかにするとなれば
西軍大名の中にも確かめてみたいという誘惑に抗えない者が現れるだろう
佐和山に1万人の救援を送ったところで黄金の魔力にやられて
傍観するか東軍に寝返るものが続出して陥落することは避けれなかった なんか文章よく読まないひとが多いね、
>>783よく読んでみるといいよ。
というか8月22日付の井伊直政書状ね、
簡単に言うと、岐阜を落とせたら佐和山へ行く。 これ8月25日東軍先発隊そのまま佐和山進軍IFとか面白そうだなぁ、
山内が山中、関ヶ原、垂井を焼き払ってるわけでしょ、
赤坂あたりに大垣の抑えで1万くらい残したとしても
佐和山周辺にいる西軍は立花、瀬田守備隊くらい。
多分佐和山は岐阜同様すぐ落ちそう。
佐和山落ちれば前田もすぐ南下してきそうだし、
福島たちだけで関ヶ原勝っちゃうんじゃないかこれ。 >>793
その場合、東軍は4万5000を岐阜城2万と佐和山2.5万、もしくは岐阜城5000に大垣(赤坂か竹ヶ鼻かはともかく)に1.5万と佐和山2.5万になって、
西軍の大垣2.5万に対して大垣方面が厳しくならないか?
そして佐和山2.5万は史実の西軍大津隊1.5万人と対峙するけど、2~3日もかけてしまえば西軍の伊勢隊や大坂城の毛利本隊からの増援もあり得る。
伊勢隊、大津隊、毛利本隊の全てが遊兵化した史実が一番東軍にとって良い流れだと思うが。 追記。
遊兵化してるのは全て毛利勢中心であることを考えると、この時点で既に毛利は落とし所探してるのかもしれないけど、
一応真面目に戦うという前提で考えて。でないと話が進まない。
まあ、小早川と京極がこのタイミングで東軍に付けば普通に西軍は終わりはするが。 さすがに家康か秀忠抜きで大垣か佐和山まで落としたとなると
豊臣家の諸将の功績が大きすぎることをおもんばかったのだろうな
逆に深入りしすぎて思わぬ敗北をしても困る
8月24日軍議決定の翌日進撃は軍監の井伊、本多、藤堂当たりが止めたのでは
ないだろうか。
8月27日の家康書状で止めたというのは時系列が合わない
8月24日の安濃津城落城なども理由となったのかも 二十二日書状の内容からすると当初の岐阜城攻撃計画は「池田輝政が岐阜城を攻撃」「福島正則らはこれを援護し、池田隊が岐阜城の防御施設を突破したらただちに佐和山を攻撃する」という二段構えだったのでは?その意図は明らかで仮に岐阜城が堅固に守ったとしても佐和山を突かれたら大垣は後詰を出せない。後詰がないなら城は落ちる
それが岐阜城陥落後にまで延びたのはおそらく岐阜城が東軍の予想を遥かに超える脆弱な城だった結果、池田隊が惣構を突破するのが速すぎてならこのまま岐阜を落としてしまえと戦略変更されたからなのではないか 押し詰め、をどう解釈するかかなあ?
出撃不能なくらいに包囲するか、
城を落としてしまうか。
でも包囲したのち岐阜のすぐ北の長良川渡って福島隊だけ佐和山行くってのもおかしい気がする。 東軍は岐阜は人数不足、攻められたら保たない、後詰も難しいだろうと予測してたけど岐阜城が一日で落ちるとまでは思ってない。これは実際攻撃してる池田・福島も同じだったはず。てことは惣構を破ったら福島は佐和山攻めってのは岐阜は長期戦で落とすという初期段階の戦略だったのでは
戦ってみて織田は雑魚と気付いて作戦変更したなら福島正則が岐阜城攻撃してる理由が少し説明難しくなるし そういや佐和山で思い出したけど、
佐和山落ちたら秀秋多分佐和山行くよね?
早けりゃ8月27〜28日くらいに佐和山落ちてもおかしくないし。
岐阜落ちた佐和山落ちたじゃ吉川速攻黒田に和睦申し入れるだろうし、
これもう8月中に東軍先発隊大活躍で関ヶ原終わるよ。 東軍が佐和山を落としたら戦争が終わる可能性もあるが可能かどうか。佐和山は一応西軍拠点が近いから後詰はやりやすい
ただそれこそ東軍の狙いかもしれない。大垣城は小城と称されていて維持する理由は美濃方面軍を支えるしか無い。佐和山とどっちを優先するか… >>730
公儀は天下人個人ではなく天下を仕置きする政権だよ
秀頼個人の権限を制限したら無くなってしまうというものではないだろ ほぼほぼ勝ち決まってるのにそんな賭けのような攻勢しなくても >>751
いや東軍先鋒がまとまった時点で無理ゲーだよ >>754
であるなら毛利や奉行に権力与える西軍支持はあり得ないってことだな 岐阜攻撃時点ではまだ勝敗は見えてないから
岐阜城を攻め落とすのは既定路線とはいえそこから先をどうするかの大戦略は家康以外固まってなかったはず
佐和山を力攻めして落とすのか苅田放火するかわからんけど取り敢えず佐和山を攻撃すれば大垣衆は撤退するだろうし動揺が走るのも間違いない 3 自分:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/28(水) 20:21:07.25 ID:xFPcOePC [3/14]
8月20日時点での西軍戦力表
大垣城:石田5700、小西5000、島津1000、計11700
岐阜城:秀信+美濃衆6000、石田援将河瀬、松田ら1000、計7000
犬山城:石川貞清400?、稲葉貞通・稲葉典通1400、稲葉通重400、稲葉方通150?、
加藤貞泰1200?、関一政900?、竹中重門150?、大坂弓鉄炮衆2400?
計7000
伊勢桑名、長島周辺(推定):明石掃部3000〜8000(推定)、
おそらく南濃周辺:長島城への備えとして原勝胤(長頼)800
近江草津:宇喜多秀家10000〜15000、(宇喜多は明石掃部と足して総計18000)
伊勢国内:安濃津城攻略に向けて、安国寺恵瓊1500、長束正家1000、吉川広家ら5000、
後続として毛利秀元ら1万、長曾我部盛親2100、鍋島勝茂9800、堀内氏善300等約29700
その他伊勢の在番、守備隊等
滝川雄利400、山崎定勝400、中江直澄390、蒔田広定370あたり。
瀬田守備隊等
相良、秋月ら約6900、
美濃、近江周辺立花宗茂3900、
推定佐和山在番筑紫広門500、
あとはよくわからんが伊賀在番7000、新庄直頼とかのことかな?
大坂は輝元・元康15000、小早川秀包1000、増田3000、前田1000、
その他大坂城在番衆詳細不明ってとこかな。
秀信は渡河迎撃時の6530から少し割り引いて計算、そのまま計算なら秀信6330になる。
それと「9月3〜5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城(4000〜7000?)」
これは8月下旬以降、垂井〜赤坂を東軍に押さえられているため、
近江伊勢の白瀬峠を越えて大垣南方から入城という遠回りをしているようで、
東軍が垂井を押さえていないのなら2〜3日は到着が早くなる。
毛利は、毛利総兵力:41500(大津攻城時での計算)と仮定
毛利秀就10000(所在地不明)
毛利秀元&吉川広家15000(南宮山)
安国寺恵瓊1500(南宮山)
毛利元康10000(大津)
毛利輝元5000(大坂)
なので、秀就がどこにいるかにもよるけど、輝元が出陣しても兵は5000しかいない計算。
毛利約120万石で41500人動員ならけっこうがんばってるほうだとは思う。 8月27日〜28日あたりだと佐和山付近に急行できそうなのは、大垣に向かってる大谷ら9600、
大垣に向かってる瀬田守備隊4000〜7000、
美濃近江周辺の立花宗茂3900、
佐和山在番は石田父兄、筑紫広門で1500〜2500くらい?
こんなかんじ。 佐和山を攻撃される事の何が問題かと言うと石田三成には大垣衆の軍事命令権こそ有するが他方面軍は大坂の毛利輝元・増田長盛ら西軍首脳部の許しが無いと兵隊を集めることすら出来ない
つまり佐和山を福島正則が攻撃した場合三成は絶体絶命になってたかもしれない。ただその場合大垣放棄佐和山退却の命令が出てたかもしれなくて関ヶ原合戦は起きなかったかもしれん >>786
井伊は井伊直政文書集、本多は愛知県史と徳川家康文書の研究で確認してみたけどそのような書状はないな
その他の書状もざっと確認したがないね
誤読の可能性もあるかもしれないが出典が気になるな 正直岐阜城後詰決戦案はボクシングの試合観ながら
この右フックが効いてそこでもう勝ち目ないからそこにカウンター入れなきゃ
って言ってるような滑稽さを感じるんだが
そんな準備も技量も戦略もないからできなかったってことも
その気で動いてたら相手の動きも変わるってことも無視してる点で >>800
恐らく佐和山攻めに対する家康の承認が得られてなくて25日の出陣が見合せられたんだろう
8月22日付井伊直政書状の後段見ればわかると思うが、井伊・本多の意見が退けられてるように彼らに指揮統制する役割はない
佐和山攻めには家康の承認が必要なので、その返事を待つ時間がタイムラグになってるんだろう
8月27日付家康書状を以て佐和山攻めが中止になったんだから間違ってはないと思うけど 結果論だが西軍が勝つなら岐阜城を落としてはならなかったのは確か。だが岐阜城が落ちたのは西軍が美濃を軽視したからで正直どうしようもなかったのも事実
毛利輝元が「岐阜で家康に勝つか、さもなくば死」という決意で出撃しない限り成り立たない一大作戦でかなりの大博打、そんな度胸がこいつにあったかどうか というか美濃にそんな無茶な戦力集中したら東軍先鋒は突っ込んでこない
北陸の東軍が南下したら挟撃&畿内との連絡断たれて詰むぞ 伏見城攻めに手こずっていた七月下旬なんて家康が大名衆率いて西上してくるぞ~とビビって、瀬田に防衛線引くつもりだったんだから
それが家康はやってこずに拍子抜け
関ヶ原で決戦があったことを後世の人間は知っているから岐阜城がどうのというが、そういうIFに意味も面白味もないよ >>802
戦国古文書用語辞典(東京堂出版)によると、押詰→追い込む、締め付ける
城を落とすという意味で押詰が使われてるのは見たことないな
城を落とすは普通なら乗崩、乗取、乗捕、責落、攻落、責崩、攻崩 >>816
8月4日の福島、池田などへの家康書状に直政派遣するので家康出馬まで
すべて直政の指示にうようにとあるけど、その後8月8日病気になったので本多も派遣され
たとなった
>佐和山攻めには家康の承認が必要なので
木曽川を超えることも岐阜城攻めも家康の承認を得たわけではなく8月19日までに
清州に来た村越が家康出馬延引を伝えたので現地の武将が出馬を待たずに出撃の方針に変更
井伊、本多の到着を待ち軍議で確認の上でとなり8月20日に到着し最終決定という流れ
8月24日福島書状に翌日佐和山方面に出撃とあるのに家康の指示を待ったというのは
つじつまが合わない
(8月27日江戸から発送された書状が赤坂に届くのは8月末か9月初旬頃) 家康は東軍先手衆にかなり強い権限を与えてたみたい。つまり先手衆は家康の大戦略に沿う形ならいかなる判断をしても良かった
それが戦略の柔軟性を産んだ、ってのは軍事ではよくあることなんだろう。逆にヤバいのは現場に判断権がなくて何でも上にお伺い立てないといけないやつ >>821
確かに8月4日付の浅野や池田宛の家康書状で家康出馬前は何事も井伊の指図次第でと言ってる
しかし8月19日付黒田・徳永・奥平連署状では黒田らが井伊・本多を清須に呼び付けてるし、
8月22日付井伊書状では、岐阜攻めの際、井伊・本多が福島隊の後に進軍したいと言ったが却下されてる
白峰氏も指摘してるが、東軍先遣隊の立場がかなり強く福島や黒田は家康不在でも軍事作戦を決行できた
そして井伊・本多は軍勢を指揮統制できる立場にはなく、先遣隊の軍事行動の見届け役に過ぎないとも言ってる
なので井伊・本多が福島が主張する佐和山攻めをすんなり止められるとは思えんのよね
それでとりあえず家康の判断を待つからと福島の出陣を留めたんじゃないかと自分は推測した
日数的に22日付井伊書状の返事が27日の家康書状になり、井伊の注進を見て
佐和山攻めに同意できず軍事行動を控えるよう家康は指示したんじゃないかと なあ、だいぶん的外れなこと言っている自覚はあるが……福島正則は何も考えてないんじゃな?
石田三成憎しであやつの居城落とせれば良いだけで、そこに戦略的意図はなかったとか。 クーデターを起こされた東軍は大坂を目指す他ないわけで
その途上に敵がいるなら戦うのみとシンプルな戦略目標になってるだけでしょ 逆に言うとクーデターを起こした西軍は会津征伐軍の諸侯の寝返りを期待しているので
彼らに圧力をかける為に抵抗勢力を掃討し仕置きを重ねることで
政権としての統治実績を積み増してこちらの優位をアピールする必要がある
秀頼の名をやたらと振りかざしているのもそのせい >>826
会津征伐軍の寝返り
無理でしょ。征伐軍が到着する前に伊達政宗に白石城を落とされるような有様だし
それに窓口が三成とか相手に喧嘩売ってるとしか思えないよ
ただ、三成が真田に宛てた書状で、前田利長が裏切る予定とか、堀秀治が西軍とか
書いてるけど、あれは前田や堀から何らかの返答があったんだろうか? >>827
確か書状は前田は母親を人質にとられてるから徳川に従ってるが
心情的にはこちらの味方って内容だったと思うけど
こういう考えが根底にあるなら寝返りの可能性を西軍が考慮に入れるのもわかるでしょ
何しろ大坂を押さえて妻子の多くを人質にとっているのは西軍だし
細川が目の敵にされるのも人質の価値を大きく見積っていたと考えれば辻褄は合う
元から対立があったのは福島らも同じだけど
ガラシャを死なせてしまったことで和解の余地がなくなった 小早川秀秋が佐和山占拠する密約でもあったかな?
それで佐和山進軍やめて石田のいる大垣と対峙に変更した。
ところが佐和山は隙がなく占拠できない、
そうこうしてるうちに家康が赤坂到着。
そこで慌てて松尾山を占拠した。
まぁ妄想だよ。 8月25日予定通り佐和山進軍してたら福島らの活躍で8月中に関ヶ原終わった説。
山中まで行ったのなら佐和山はもうすぐ先。
史実でも佐和山1〜2日で落ちてるでしょ、
佐和山進軍してても歴史は変わったかも。 多数派工作についての楽観的な見通しは味方増やすためのホラって側面もあるが
西軍首脳は目の上のたんこぶである家康追い落としに躍起なので
他の大名も基本家康にはいやいや従ってるけどチャンスあれば裏切ると観てるんでしょ
でも実際には西軍の挙兵の方を暴挙と取る大名が多かった
まあ>>753もいうように自分らが参加してコンセンサス取って進んでた政治を
軍事行動でちゃぶ台返ししてるわけでそりゃ乱暴
実際これまでの流れ無視して「幼児が言ってるから」取り潰しってそりゃないぜ
普通の感覚なら付いてけない >>824
それは考えられない
もし三成が憎いなら大垣を総攻撃して三成を殺害ないし捕縛しようとするはず。更に岐阜城が脆弱とみるや佐和山攻撃を捨てて岐阜城攻撃に参加してる。明らかに戦略的思考を基に動いてる >>831
要は秀頼抱きかかえて「貴様ら頭下げろ」って言ってる構図そのまんまだからな
やってる事が時代劇に出てくる御家乗っ取りをたくらむ悪家老と何ら変わらない図だ 政権運営すらできない豊臣家が徳川を排除して何の得があるの? 政権運営できてないから得するんじゃないか
徳川に乗っ取られる前に そもそも石田にしろ長束にしろ増田にしろ前田玄以にしろ、出してる書状が少なすぎやしないか?
三奉行は中川とかに書状を出してるけど、東軍諸将にもっと書状を出して工作活動するとかなぜしなかった?
寝返りを期待するなら当然やらないといけないだろ >>833
三法師抱えて「貴様ら頭を下げろ」ってやったの誰でしたっけ……。 まあ東軍の武将は西軍からの勧誘の手紙は後難を恐れて処分されただろうしね
24時間寝ずの番を付けて保存した真田家のようなのはレアケース >>838
奉行ら西軍からの工作書状の多くは多分各大名が大勢が決した前後で
サッサと証拠隠滅してしまったんだろう。
勿論、真田みたいにこっそり残したり家臣が保存してた例もあるから
奉行からの動向も知れてる訳だが、もっと色々やってたろう。
各大名を西軍側に集約させ徳川を孤立化させたかった筈なんだから。
むしろそれすらしてなかったらいよいよ西軍というか奉行はアホばかりだよ。 そりゃ西軍からの書状なんて残すわけないし
徳川が証拠として押収したものなら残るだろうが西軍からの誘いなんて残しておいたら何を産むか分からん >>842
西軍でも毛利は西国中心に割と書状も頑張ってるんだよな。
軍も至る所に派遣し、大坂も伏見も安濃津も大津もきちんと落としてる。
だからこそ、なんでそれで家康に本領安堵で許してもらえると思ったし。 >>843
それ、表向きの話であって、実際は減封で手打ちになってたって話もあるからな
後、応仁の乱のように戦乱が長引けば徳川も毛利に対して妥協せざるを得ないだろう、
という読みはあったかもしれない、毛利は西国への優位性確保が第一目標だろうしな
結局の所、奉行の徳川排除運動が諸侯に支持されなかったのが痛すぎる
徳川をいくら批判をしたところで、反家康派を支持するなんてそう簡単にはならないしね
諸侯が奉行を支持しよう、と思えるようなアピールをしないとやはり厳しいだろう 秀吉の下で無茶苦茶やってきた奴らが支持されるわけがない…… 勝ち逃げ思考で成功してる人間と最大効率を求め失敗してる人間の違い
家康は前者だろ >>844
手打ちにするには安芸を残してないのはどうなんだって気もするが。
絶対安芸は手放したくなかったろ。
将来監視役の福島正則を告発して追い出すくらいには。
ってか、福島正則は監視役が監視されてんじゃねーよと。 輝元が西軍に与した理由は阿波・讃岐を併合したことからも明らかなので「豊臣に命令されて」が通用しないのも分かりきってた。ここから輝元が助かるためにはかなり重い処分を受けるしかない 三成が瀬田を防衛していた熊谷らを呼んだのが二十五日だっけ?大坂の許しを求めてたのか >>485
そらぁ、豊臣政権で徳川が遺言盾にしてデカイ顔で自分達奉行の権益損ねてる
それじゃ俺ら困って「豊臣御為」にならないから一緒にウゼぇ徳川追い出そうよ!とか
あと惣無事令でフラストレーション溜まってるんで、ひっくり返すために大老徳川潰そうや!
が、西軍の本音だから
そりゃ惣無事ひっくり返しはともかく実は奉行の権益守るために諸侯は軍を催せ、はねぇ… ふと思ったんだが、毛利ってこのタイミングで「豊臣」に反旗を翻していれば割といい感じになったのでは?
大坂城占拠後に、「皆で豊臣が勝手に決めた惣無事令無かったことにしようぜ」って書状バラまけば、
誰々のためではなく自分のために好き勝手する大名続出したような。
秀頼やっちゃえば正当性もなにも豊臣の後継者は皆無だし。 >>851
むしろ書状がなくても西軍の挙兵でそうなってる、毛利自体が瀬戸内周辺に兵を派遣してるし
上杉も最上を攻撃した他旧領の越後にも未練たらたらだし、東軍の伊達もやんちゃしてるし
下手したら毛利は徳川が戦乱に乗っかることを期待していた可能性すらあると思ってる
だって諸侯を圧倒的なカリスマと統率力でねじ伏せた英雄秀吉はもういないんだもの
戦国を生きた大名からすれば、好き勝手に領地拡大や政権運営ができる戦国時代の方が
よほどいいと思っても全然不思議ではない(織豊系大名は除く)
実際、宇喜多騒動や島津の伊集院殺害からの庄内の乱なんかはその辺の反動だと思う それが内府違いの条々なのでは
惣無事令は紛争は全て公儀が調停することを定めたけどこれには欠落がある、それは「公儀が紛争を起こしたらどうするのか?」という点
だから内府違いの条々が出されて西軍が豊臣公儀軍となった時に公豊臣公儀の法支配は崩れた。西軍は「お前は東軍だ、秀頼さまに逆らう賊軍だ」といえば公儀として仕置が出来る
ただ豊臣公儀が考えてなかったのは徳川が圧倒的に強かった事で家康自身が法となる嚆矢としてしまった 公儀は紛争を調停・鎮圧する立場なんだから起こすも何もないだろ、そりゃ討伐というんだ
私は西軍公儀説を完全否定はしないが、結論の東軍(徳川)の公儀性の否定・消失という
結論は支持できない、甘く見て西軍が東軍に対抗可能な公儀性(大義名分)がせいぜいだろう
そもそも豊臣が自主的に公儀権を発動できるなら大老・奉行は不要で豊臣家が執政を普通に
行えばいい訳で、それが無理なのは大老・奉行を定めた秀吉自身がよくわかっていただろう
奉行がその理屈でいけると本気で思ってたんなら、奉行は秩序紊乱者と言わざるを得ないぞ
豊臣家がどうしても徳川排除をしたいという(変な)前提なら秀頼の関白就任後、つまりは
秀頼が正式に政権を継承してから行うべきだ、それなら徳川を明確に討伐対象に出来る
ただし、大義名分として成立するという話だけで、勝敗はまた別の話だが 家康は秀吉に秀頼が成人するまでの期間だけ豊臣政権を任された
天下を取れたのは秀吉が死ぬまでの間だけ律儀者を演じられたから
徳川も中途半端に滅んでいたら秀吉に高待遇を受けてた癖に秀頼とその子供を殺した裏切り者と呼ばれてただろう
家が長く続くというのはそれだけお得って事 豊臣公儀が内府違いの条々だした結果西軍は一方的に東軍を攻撃出来るようになった。東軍は反豊臣軍いわば反乱軍なのだから。それで四国・九州では大規模な戦闘に発展してしまった
本来秀吉の惣無事令はこうした事態を治めるものだったはずで西軍の動きは明らかに惣無事令に反してる。もしかしたら輝元は憎い秀吉の作った法を秀頼に破壊させる事に一種のカタルシスを感じていたのかもしれない 三成も挙兵のタイミングってモノがあるだろ。上杉と征伐軍が開戦してから起こすのがセオリーだろ。戦略も下手こいたな。 三成というか大坂の三奉行と毛利輝元は上杉と共謀出来てる訳じゃないので景勝の内心を知らない
また距離も離れているから最悪戦端が開かれたと聞いて決起したら景勝は会津征伐先手衆が来ただけで降伏してました、伊達と最上が上杉仕置をして徳川軍含め東軍フルパワーで上洛してきます、って未来もある。だから上杉が戦う前に決起しないといけなかったんだろう まぁ前田征伐のあたりから、石田襲撃騒動のあたりからおかしくなってきたかな、
ざっくり言うと豊臣家臣同士の主導権争い、みたいなものなんだけど、
石田閉門?、襲撃した側はお咎めなし、
浅野長政蟄居、利長は大老のまま?よくわからんが。
3奉行、4、5?大老で奉行の補充はなし。
上杉前田は帰国、
それぞれが勝手しだして秀頼成人まで豊臣政権がもつかどうかも怪しい状況。
もはや公儀云々とかおまけレベルの大義だと思うけど。
さっさと徒党を組んだほうが有利な情勢。
で、最大勢力徳川に与した方が下馬評通り勝ちましたと。
ただ、結果論だけど、福島は豊臣を大事に思うなら
予定通り佐和山進軍して佐和山攻略していれば、
東軍先発隊の戦功だけで関ヶ原落着、
その後の発言力増大で豊臣安泰を図れたかもしれないとは思う。 >>856
それを言い出したら五大老連名の三成更迭の時点で「年寄為五人、 御算用聞候共、 相究候て」の遺言違反になるのでは? >>861
それだけではなく、毛利遺領問題に小早川の家臣団分裂、宇喜多騒動、島津庄内の乱など、
西軍の織豊系でない大名では秀吉が残した爆弾が次々炸裂しては奉行や徳川の介入を許してしまっている。
この時点でもはや、豊臣を中心にまとまるなんて考えはどの大名にもなかっただろう。
いかに傀儡を利用して名分を得て領土拡大を目指すか、というのが関ケ原の真相かと。 >>862
そりゃそうよ、だから内府違いの条々で家康を糾弾してる。西軍は「家康が秀吉の遺言を無視し秀頼を軽視してる」と主張する事で秀吉死後の事件全ての責任を家康に転嫁してるからね
要は無敵ってこと 秀吉が死んだ時点の家康は確かに暗躍しすぎだ。
だが
己より上位に豊臣家(秀頼と淀と奉行)が居て
戦国のならいでいつ潰されるか分からん状態で
蒲生も小早川も前田も亡い、同世代はほぼいない。
自分より下の世代の(家康からすれば)小物ばっかり。
あれ?自分が豊臣家を潰せばいいんじゃね?となる気持ちも理解できる。 秀吉が自分の思いつきでなんでもできる政治体制に仕立てあげといて
自分がダメになったら合議制にするってのは無茶すぎたんだよね
老中合議制の決定事項を大御所として追認する初期の江戸幕府が結果的にうまくいった >>867
諸大名も天下人秀吉の口や手、足として指示を出していた奉行の命令なら
最悪でも「秀吉の命令であるのなら仕方がない」と受け入れられただろうが、
秀吉が死んだ後では「なんで貴様らの命令を受けねばならんのだ」とはなるわな
というか、豊臣家の命令だったとしてもそう思ったかもしれない、秀吉は秀次事件において、
「豊臣家や関白が偉いんじゃない、秀吉が偉いんだ」って結論にしてしまったから
だから秀吉は徳川の権限を大きく高めて「豊臣政権を支持して政権内の権勢を高めた方が得だ」
って形にして、政権内最大勢力が政権を支持したくなるような風に持って行ったのだろう
ところが西軍が挙兵したことで、徳川が政権内での権勢を高めても御家安泰に繋がらない事を
最悪の形で証明してしまい秀吉が施した徳川の封印を開放してしまった、で結果は史実通り
ぶっちゃけこれなら西軍挙兵しない方が豊臣家視点では遥かにマシだっただろう >>861
よく勘違いされるけど、福島たち武断派は基本的に指示待ち人間であり
秀吉に言われたところに行って秀吉に言われた通りに戦うだけ
自分で勝手なところを攻めると秀吉に処罰されかねない人生を送っているので
逆に東軍先発隊の戦功だけで関ヶ原が落着するのは嫌なんだよ
むしろ岐阜城でも関ヶ原でも佐和山でも家康から攻めろという命令を欲しがっている
逆に文知派の方が自分たちこそ豊臣政権最高幹部であるというプライドがあるため
戦でも自分たちの判断を優先させたがる傾向がある
朝鮮での対立もこういった思想の違いが原因と言っても過言でない
豊臣を大事に思うとか豊臣安泰を図るとか以前の戦のルールに対する思想の問題といえる 思想とかどうでもよく裁量が出来る立場かどうかだけ
上にお伺いを立てる判断は政治的な思想も絡むからよくわからんけれど 石田三成を訴訟にみせかけて殺そうとしたり失敗するや家康の命を狙ってみたりと結構凄い連中だけどね武断派。公儀の法を理解しつつルールの盲点を突こうとしてる >>889
8月22日井伊直政書状でもお前らは後から来い言われたり、岐阜攻めることにしたから軍議するからさっさとお前らだけでも清洲に来い言われたり
秀信の処遇にしても福島あたりが主導してるでしょ、
天下の勝負に自分らで決着つける気でいるやん。
ただ、てはなぜ佐和山進軍予定をやめたのかがよくわからんが。 勝ち過ぎてるから抑えたのでは?楽勝過ぎて逆に危ないって東軍の書状にあったし勝って兜の緒を締めよの精神で垂井まで取ったら家康の指示を仰いだのでは。連戦連勝に浮かれて楽観的になり迂闊な行動で致命的敗北なんて古今東西よくある話でそれに学んだとすれば不可思議な動きではないのではないか 佐和山を落としたとして
その後どうしたらいいのかわからなくなってしまう >>872
岐阜攻めについては福島や黒田らが主導していたのは同意
>>823にも書いたが東軍先遣隊の立場は井伊・本多より上だったと思う
ただ秀信の処遇については8月24日付結城秀康宛福島正則書状に
「三郎殿御身命無異儀様ニと降参仕候ニ付而、井兵部少輔・本中務令談合、くるしかるましき由被申候ニ付而、
先尾州まて退申候」とあり、井伊・本多と協議した上での決定であって福島らの一存で決まったわけではない 岐阜攻め後の停滞は黒田経由で毛利から和議の申し入れがあったからと妄想してみる 普通に家康にちょっと待って僕すぐ行くからって言われたからでしょ。 >>875
秀信の処遇については池田家履歴略記 巻之三
愛知県史織豊3には、
池田と福島が揉めて井伊本多が仲裁した、
みたいなかんじに書かれてますね、
福島が岐阜は俺が受け取る、秀信の処遇も俺がするとか言って池田がブチ切れた、みたいな。 福島の書状では、秀信は近習数名に守られて寺に送られたとかなかったか? 福島と池田が争った、みたいな話あるけど発信源がわからん。正則は普通に輝政のこと褒めてるから 家康とまともにやりあって勝てると考える輝元や三成はやはりおかしい
秀吉すら勝てなかった男にこいつら程度で勝てるなら苦労ないわ
秀吉の遺言で輝元や景勝、秀家に具体的な内容が全くないのも、秀吉は利家以外では家康に勝てないとはなからわかっていたとしか思えない >>863
だとしたら結局は秀吉がこねた天下餅を家康が食ったってだけなんやな
それにしても朝鮮出兵を計画してるのに諸大名に爆弾仕込む秀吉も大概やな
外征と内戦同時にやる気なんかアイツ というか、蒲生や丹羽に跡継ぎが幼少だから、という理由で所領を大幅に削減してるくせに、自分とこが幼少の場合は「頼む」は余りに身勝手だわ
自分がやってきたことの所業に対する報いとしか思えん 912の三成書状では家康が既に近くまで来ていたことすら察知できてなかったみたいだけど、家康は江戸から出陣する際に
軍勢を連れて無かったのかな?
どんなに誤魔化しても普通はわかるでしょ?
長篠の武田勝頼も織田信長の接近に気づいてなかったみたいだけど、諜報とか全くしてないのか? 簡単に言うけど軍事衛星でも使うのかな。
長篠の時は信長が兵力隠す手立てをしたから馬鹿し合いに勝頼が負けただけ。
関ケ原では隠してないし何なら家康が大軍率いてもうじき来るぞを切り崩しの材料にしてるくらいなのに912号を信じるなら三成は何故か来ないと思ってる良く分からない状況。 この前発表された、宛先が切り取られた家康の新書状、ちょいと詳しいのが出たな
味方に繋ぎ止めるため、との専門家の話
ttps://news.yahoo.co.jp/articles/31c18e9c7b5891cd3b3a0c444d19588d7370b438
書状見やすいのはこれ
ttps://news.yahoo.co.jp/articles/4bb8073e492f666f3f1381cfdb1d4c3b77d856e6
読み解くと「岐阜落城付而飛脚祝着之至候、近々吉左右(朗報)申来候、上方早速可申付候条、可心安候、其表之儀、無油断様肝要候
恐々謹言
九月七日 家康(花押)」かな?
九月七日発出ってのがいろいろ謎だな、送った相手が誰かはともかく この書状は本物でしょうね、当時の家康が書状でよくつかう表現が多いですし。
ただ不思議なのは味方の武将に出すのであればもっと味方に有利な
情報開示があってもよさそうで
このころの東北の武将には京極高次が大津に籠城したことを伝えており
その京極高次や赤坂の武将には西上中で現在の到着地点を伝えています
(9月6日島田、9月7日中泉)これらの情報を伏せていることや上方のことに
ふれていることや其表之儀、無油断様肝要候との文言から
家康に味方の意を伝えているが全幅の信頼まではおけない
上方の西軍とみられている武将が本命で次点では田辺城攻囲中の西軍武将では
ないかと思います。
全くの当て推量ですが片桐、小出,増田など >>886
勝頼も三成も、予測とか来るとかいう危機感とかないのか?
それに東海道でどこに1万以上の兵を隠す手段があるの? >>885
九月一日に家康は江戸を発ったけどこの時の家康は「御忍びの躰」だったようで、軍勢をバラバラに分けて旗を絞り馬印も目立たないようにしてた
敵地を通るならまだしも味方の土地なので防諜も用意なので西軍の物見が気付かなくても仕方ない
また西軍の切り札は真田と佐竹なんだけど家康は秀忠に大軍と佐竹軍をつけて真田攻めさせることで両方を封じるという作戦に出てる。大軍に包囲された真田は身動きできず、佐竹もこれを観測するのみで家康の上洛を察知できなかった >>886
GPSなんて無いから斥候を使う。
そりゃ勝頼だって斥候くらいは放ってたと思うんだけど
斥候を全て織田方に討ち取られてたんだろうね。
それで斥候がなかなか戻って来ない事に勝頼が苛立って
軍を動かしてしまったんだろうね。 西軍首脳部の戦略が「家康が来たところで決戦」「家康が来ないうちに決戦」なのかわからない
折衷案的に「家康は来ないけど徳川軍は来るだろうからそれを待って決戦」と思ってたのか >>888
なるほどね
それだと宛先が切り取られている理由にもなりそう
転売される過程で切られただけかもしれんが >>891
GPSがないから斥候を使うってどういう意味ですか? >>892
挙兵前は多分、『徳川を豊臣政権から切り離して孤立させる』でほぼ確定だと思う
で、それが完全に失敗したと確定したのがおそらく岐阜陥落直前だから
下手すりゃタイミング的に明確に決まってなかった可能性すらあるな
ただし毛利だけは西軍自体に見切りをつけた感はある、その後大津攻略に全力を出してはいるが
あれ西軍の為というより、美濃方面に突出した毛利軍の撤退路確保の意味合いの方が強そう >>887の宛先は、小早川中納言殿、じゃない?
上方と其表とか近江うろついていたから
当てはまりそう。 >>887
徳川家康文書の研究にも収録されてる書状だね
翻刻は近々ではなく追々で、それ以外はあなたの翻刻した通り
同書の著者中村孝也氏は9月7日になってようやく岐阜落城の返書を出し、文面
も簡素なので東軍に与する遠方の大名に宛てたものだろうと推測してるな
9月7日付家康書状は当該書状も含め計9通ある
当該書状、稲葉貞通、稲葉道通、最上義光、京極高次、九鬼守隆(2通)、伊達政宗(2通) >>897
追々か、ご指摘ありがとう
収載されてるってことは原本が再発見されたってだけか
中村先生の解説には納得
岐阜落城を報じた上で、吉報がやってくるだろうと書いているのは先手に大垣攻めを許容していたのか
単なるお決まりの定型文なのか
まあ後者なんだろうね .
.
.
.
.
神子田正治・戸田勝隆・尾藤知宣・宮田光次
.
.
.
.
.
. >>898
よく使われる文言だし単なる定型文だと思うよ
記事にも「1899年と1916年に東京大史料編纂所が調査したとの記録があるが」
とあるし、ご指摘通り今回原本が再発見されたってことだね >>895
決戦を指向してたという発想がすでに違うんだろな
家康も政治的に孤立したら上洛どころじゃない
各地の家康派は難癖つけて潰して(蜂須賀のように)
自分たちとすり寄ってきた勢力で固めてから関東攻め
東軍先鋒が結束してそうはならなかった
その時点で損切りして生き延びたのが毛利
まだ勝てると踏んだか抵抗して滅んだのが石田 西軍首脳部は豊臣政権から切り離した状態でも家康が権力を持っているという発想がない
家康が奉行と同じように豊臣政権から切り離された状態では無力だと考えていた
三成たちは豊臣政権にどっぷりとつかり過ぎたせいで根本的な現実認識自体ができていない
悪く言えば頭がお花畑のまま突っ走ったのが関ヶ原だった >>902
これ家康自身がそう考えてた節があるから何とも言えんな
関ヶ原前の家康のいわゆる専横と批判される行動って、ほとんどが政権内での
影響力を高めることばかりだからな
つまり、政権の権威を失ったらまずいと他ならぬ家康自身がそう認識していた可能性が高い
勿論、家康が最終的に豊臣をどうするつもりだったかは議論の余地はあるが
少なくとも関ヶ原前の秀吉死亡直後といってもいい段階では、豊臣政権の権威を
むやみやたらに否定するのはデメリットでしかないだろう
だから奉行たちが家康と豊臣を政治的に切り離してしまえば……と考えるのはわからなくもない 豊臣政権から切り離した状態でも家康が権力を持っているというよりかは
西軍が家康を政権から切り離したつもりでもそうは受け取られなかったということでは
その辺の意識は伊奈事件に色濃く現れているんじゃないかと 大垣城って、東軍が垂井と赤坂に来た時点でどう考えても詰んでるよね?
三成はさっさとここを放棄しようとか考えなかったのかな?
あるいは大垣城で後詰決戦をやるつもりだったのか? 権力のない君主を味方にしただけで公儀になれるわけじゃないからな 最大の実力者の留守を狙い帝を取り込んだ平治の乱の源義朝、藤原信頼のように
思った人もいただろうね
ニ大老、三成入れて四奉行なので正当と見た人の方が多いのかもしれないが >>907
義朝と信頼はまだ、上皇と天皇を清盛に奪われたから正当性を失った
つまり、上皇と天皇を有効活用していたという点では三成らに勝る
三成らは秀頼を取り込んだとして、それで何か有効活用していたの?
たとえば、秀頼の花押付きの家康討伐令でも出させるとか
豊臣の金蔵から家康討伐のための金を出させるとか
全く手に入れた玉を有効活用できてないと思うんだけど 秀頼が感状書いて知行と金子下賜してるから豊臣家の蔵は西軍のものとなってたんだろう。ていうか仮に西軍が大坂城を武力制圧したなら豊臣家が蔵を守るなんて出来ない訳で米も金も西軍の思いのままよ。豊臣家が西軍の頭だったらそうはならないけど
増田長盛は徳川に金銀数千枚渡して身の安全と引き換えたって話があるがこれも本当に増田の金か怪しい 豊臣家は家康の会津出兵時には金も米も出したが西軍には出さなかったとも
いわれてるが実際はどうだったのかね
熱心なキリシタンの織田秀信は西軍に加担したころ宣教師に面会しており
イエズス会日本報告集によると豊臣秀頼より軍俵2000石から3000石が与えられ
更に秀頼を訪ねた際に金の延べ板200枚を下賜されそのうち2枚が修道院に送られたとある
国内の記録で上坂が確認できないので信憑性は疑問だけれども そういや増田は何がしたかったんだ
家康に通じる→大金と引き換えに命乞いして助かる→息子が徳川を裏切り豊臣について大坂の陣→戦後自害
こいつ何がしたかったのかよくわからん 増田長盛は七月十二日に徳川家康に書状を送ったけど同日に毛利輝元に上洛要請して十七日には内府違いの条々だから明らかに嘘言ってる。西軍決起を家康に「石田三成と大谷吉継が謀反した」程度の小規模反乱と思わせたかっただけでは
その後長盛から徳川への連絡が無くなってるから割と西軍の為に尽くしたんだろうけど >>907
西軍の方が大老奉行の数が多いっつったって
豊臣家と縁の深い徳川前田浅野抜きでは
御友達内閣やりたいのかなって思われても仕方ないよ 浅野…東軍で江戸城の留守居
増田…大坂に留まり西軍に付きつつ家康へ情報提供
前田…大坂に留まりつつ中立を守る
長束…西軍だが関ヶ原に参戦できず水口城で自刃
三成…関ヶ原で敗北し処刑
五奉行の動きがこれで、特に増田・前田・長束の現役三奉行は毛利輝元に大坂入りを要請しつつ後の動きはバラバラ
しかも毛利配下のはずの宍戸と吉川はといえば、榊原に近江から大坂に転身命令が出た事を報告してる
…これ輝元が行き当たりばったりで挙兵して、それ自体が三奉行も想定外の動きだったんじゃね?
三奉行らが「内府ちがひの条々」の宣言以降で連携取れてないし 9月14日の時点で三成は大垣城から出て松尾山に向かったよね?
その際、福原とか一部の大名を残したけど、まだ大垣が維持できると考えていたのかな?
それとも福原たちは捨て駒で見捨てたの? >>914
最初から毛利の狙いは西国で奉行の動きを利用しているだけ。
なので美濃以遠で家康とガチるつもりがないから、早い段階から落とし所探るために東軍と交渉している。
むしろ着地点も定めずに迷走重ねた奉行は何がしたかったのかと。 大垣城と南宮山で徳川軍を迎え撃つという初期戦略に変更は無い、だとしたらまず松尾山を大垣衆で総攻撃して陥落させる。そうなったら徳川軍は大垣か関ヶ原に来る。それを南宮山で迎え撃つ
松尾山を落としたら大垣衆は取って返して徳川軍の横を突く
こう見ると完璧なプランっぽく見えるかもしれない >>907
奉行は本人たちが政権最高幹部気取りをしているだけのあくまで単なる官僚なので
奉行が何人いようが正当も何もない
大老も例えば宇喜多は、秀吉から「こいつは未熟者なので徳川や前田や毛利の指導を受けること」と言いつける程度なので
宇喜多がいたところで正当も何もない
そもそも秀吉は、家康と利家がいないと豊臣の維持は無理と考えていたので
その他大勢が何人集まっても結局は秀吉が考えている通りに駄目だった どうせ読まんだろうから史料は省くが
西軍の最初の決戦戦略は7月下旬
家康の西上はいまだ聞かないが、大名衆を率いてやってくるだろう
そのときは輝元含めて瀬田(しかも川を背にする背水の陣)で迎え撃つ
淀城の改修も検討されていたようで、だいぶ押し込まれることを想定していた
家康が一ヶ月も動かなかったことはむしろ、西軍にとっては意外だったんだよ
のちの想定正面は浜松ないしは尾張に移り、ぐだぐだして本戦へ
とはいえ、西軍が当初覚悟していた想定よりは戦線を押し出していることが分かる >>919
同意。なぜか瀬田で迎え撃つつもりだったって部分をスルーしてるんだよね。
東西両軍が瀬田で対峙、その間石田は佐和山で籠城態勢、隙あらば瀬田の東軍背後を石田が襲う、
あるいは先に佐和山攻めるようなら佐和山城後詰決戦、
こんなかんじの構想だったんじゃないかと想像する。
ところがいつまで経っても東軍は来ないし伏見も落ちない、
痺れを切らした石田は上方へ、
の流れじゃないかと思う。 >>920
大垣を放棄すれば尾張進出への足掛かりは事実上なくなる。
長島はそう簡単には落ちないから伊勢から行くのは困難だし。 政権から切り離した家康の政治的孤立を狙った上で
挙兵当初と岐阜城攻めの頃じゃ状況が変わってるだけでしょ
家康の政治的な孤立化を前提にしないというのはつまり
伏見で会津征伐を決定したときのままの影響を維持してるってことで
数十万の会津征伐軍がそのまま反転してきたら
瀬田をいくら固めてもハナから勝負にはならない
従わない諸大名が離反して数が減りその対処のために押さえをおきながら進軍する
という想定でないとそもそも挙兵の戦略が成り立たない
家康が江戸から動かなかったのも当てが外れて決戦できなかったというのではなく
政治的な狙いが思ったより効果的で大規模な上洛軍が起こらなかったと理解してたんでしょ
東軍先鋒が岐阜を攻めずに国許に帰ったら実際そうなってた可能性もあるし >>923
時系列確認してる?
7月の話してるんだよ、輝元は秀元・吉川に
伏見攻めではなく瀬田の砦普請を命じてる。
石田も7月末まで佐和山にいる。 西軍の初期戦略が間違ってただけじゃないの
三成が真田昌幸に宛てた備口人数表によれば瀬田の防衛隊は六千九百十人、十分そうに見えて徳川軍とやり合うには少な過ぎる
垂井まで取られた八月末以降に頼るとしても大垣も佐和山もやられるだろうから追い詰められての最終決戦にしか使えん 7月26日付中川秀成宛の三奉行連署状にある記述だな
輝元は瀬田と守山の間に陣取り、東軍がどこから上ってきてもそこに輝元の
人数を差し向け、宇喜多・小早川は醍醐・山科・大津辺りに陣取るとある
日付不明の吉川広家書状(吉川家譜は7月26日付)に瀬田の砦普請のため伏見攻めしていた
中国衆が昨日瀬田へ到着し、それが完成すれば淀辺りにも普請するつもりだとある 西軍が対東軍戦略立てる上で瀬田含めた要塞群が
・佐和山まで取られたとしての最終防衛線
・東軍が遮二無二大坂を目指して来た場合の迎撃拠点
どっちの役割を想定してたのか >>927
伏見の後詰に対しての迎撃線じゃね?
伏見が落ちたあと西軍は東進を始めてるし、織田秀信の西軍入りもあって前線を押し上げた
岐阜城が落ちた後に瀬田まで下がらなかったのは伊勢の西軍本隊が間に合わないし石田隊だけ動いても連携が取れなくなるから >>928
追伸
東軍が佐和山を包囲したら瀬田の部隊を後詰に出せる
だから佐和山が落ちる事を前提にした陣形でもないんじゃね? 瀬田にいた連中って八月二十五日付で大垣に移動してるから大垣が攻められた時の予備兵力としても想定されてたのかもしれない
とはいえ関ヶ原で大垣衆全滅、毛利軍総降伏では瀬田の砦に籠るのは自殺と変わらないので造った意味はあんまり無かった >>925
徳川軍が丸々来るって想定じゃないからだろね
諸大名が味方すると数十万、徳川単独でも関東押さえに秀康置いた史実でさえ東海道中山道合わせたら6-7万
どちらにしても兵力足りない
諸大名が家康に背くものが出てもっと多くの方面を警戒する必要が出たら
上方に突出でから兵力はもっと減ってくる 質問なんだが西軍決起の段階で前田家が西軍に与する(消極的対立)とか考えはなかったんかね? まつを江戸に送ってしまってるやん、
利長もまつ人質に出したから動けない的な言い訳してなかったっけ。
で、利政が大坂の人質が云々言い出して
利長だけで再出陣。
あれ、前田は江戸と大坂両方に人質出してたってことか? 前田利長は妻が大坂、母が江戸にいる。だからかなり曖昧な立場に終始するのではないかって見方はあったらしい。ところが利長はただちに兵を集めて西軍の丹羽氏にぶつけて戦争してる。西軍としては一つ見込みが外れてしまった 弟が西軍についてるからな。きちんと保険は打ってある。 三成はなんだかんだ日本の歴史で負けたとは言え名を残せたが
あおりを食って死んだ多くの人々は気の毒ではあるね。
それは本当に思う。 利政の造反で利長は国許に引き返してるし利政の独断っぽいけどね。それで戦後利政は実質蟄居の身だし 上方にいた利長の母や重臣の人質は5月17日上方を発し6月6日江戸着
その代わりのように上方にいた肥前殿御内(利長正室)と利政は北陸に
返された(浅野幸長書状) >>938
白峰氏は浅野幸長書状にある肥前殿御内加賀殿を利家三女・摩阿姫としてるな 御内は御内儀、御内室を指すので利長正室でいいと思うけどね
秀吉側室の加賀殿は秀吉死後に万里小路充房に嫁いでいるので
会津出兵の際に加賀に返す意味はない
男子が生まれ充房と離別後に金沢に引き取られたのでこのことと混同されているか
充房の前妻も利長正室と同じ織田信長の娘なのでなにか勘違いされてるのではないかと思う 人質云々は措いておくとしても決起段階から前田が参加するなら
格的に当然盟主は前田になるから仮に勝てても前田の天下だし
事前の談合も家中がまとまっていない前田相手にしないといけない
密告されるリスクが増大する割には得る物が少なすぎやしないか 利長はダメでも利政は落とせると踏んでたのかもしれないがその見込みも大外れっていう >>867
秀吉が合議制?何言ってんの?十人衆体制は秀吉死後の成立 だよね家康、利家の双頭体制、あるいは序列3位が徳川秀忠、4位が前田利長
なので徳川、前田の双頭体制 十人衆合議は限りなく黒に近い灰色
秀吉の遺言に「些細は五人の衆に渡した」とあってその同日に十人衆合議制が起請文で確認されてるから
秀吉が最期の最後に家康を政権担当にするのを嫌がったのか、病気でおかしくなってたのか、五奉行がすり替えたのか、もうわからない まあ秀吉は各家に対して、死後に何をされても仕方ない所業をおこなってるからな。
少なくとも徳川、上杉、毛利、織田、長宗我部、島津、佐竹あたりは即座に反旗を翻してもよいだけの仕打ちを受けている。 >>940
普通はそう読むのが自然だよな
摩阿姫のこの時期の動向を加賀藩史料で確認してみたけどよくわからんな 加賀征伐と松の江戸入りって「家康の陰謀」というバイアスで語られるけど
告発者は増田長盛でがっつり奉行案件よね
そりゃ自分を告発した奉行が挙兵したら味方しないだろ >>950
まあ詫び入れ程度で済むとは思えん、最低でも頭丸めて隠居を申し出る位はしないとな
反徳川の意識がある奴の方がこの件に関しては『いらんことしやがって…!』って考えそうだし 加賀征伐は「前田利長無断帰国」「徳川家康暗殺計画」の二つがごっちゃになってるから割と複雑
流れとしては・前田利長、上杉景勝が帰国→重陽の節句で家康大坂へ→家康暗殺計画が露見→堀秀治、石田三成ら前田利長謀反を報告→増田長盛浅野長政謀反を報告
こんな流れ、で問題は家康を暗殺しようとした土方雄久は前田家の親戚(利長・利政の従兄弟)だったからこれがくっ付いて「前田利長は家康を暗殺して領土を拡大するつもりだった」というそれっぽいストーリーが出来てしまった 家康がとてつもない汚い野心家であることを否定しすぎていて草
三成も勿論糞だけど、家康も糞
ただし、家康は勝者、三成は敗者だから歴史の評価が分かれてるだけ
家康は豊臣家を潰した奸臣 前田利長の帰国が問題になったのは前田家の史料にも残ってるから何らかの法的不備があったのは確からしい。佐和山にいた三成が家康にした報告も三成が蟄居同然と考えると利長の帰国で家康暗殺計画ではなかったはず。もしかしたら前田と親しい浅野長政を政治的に追放させて自分が後釜に座ろうとしたのかもしれんけど
問題は増田長盛、こいつがどっちを報告したのかはわからない。家康暗殺計画か無断帰国か >>953
というかあのままなら家康だけではなく、前田、上杉、毛利も豊臣を潰すまでするかはともかく、
豊臣に抑え込まれた勢力圏の再確保に動き始めていたよ。
たまたま徳川が位置的に近い前田が先に屈伏そ、上杉が攻められ、毛利が西国の勢力拡大に向かう順番なだけで、
これが先に毛利が攻められてたら前田や上杉が周辺勢力の切り崩しに動いていただろう。
親族衆を自ら壊滅させ、幼少の子ども一人しかいない豊臣になんの遠慮をする必要がある? 幼い後継者を残して当主が死んだら、普通の戦国武将なら
誰もが脳裏に「下克上の好機!!!」って言葉が浮かぶもんだよな。 >>949
真田昌幸宛の書状を知らんのか?
三成は家康と細川忠興に個人的な怨恨を向けてる
まああの書状だと忠興に対する怨恨が根深いけど
わざわざ「遺恨がある」と書いてるくらいだし
忠興の妻ガラシャを殺したのも、三成の仕業だと思うわ
一次史料ではないけど、ガラシャの侍女だった女性が書いた「霜女覚書」では、三成の軍勢が屋敷を襲撃したと
書いてるし 霜女って覚書は「石田三成は西軍の総大将」と決まった時代に書かれたものだからそこには注意が必要。ただでさえ少ない石田軍が大坂城に行けた筈が無い。おそらくは三奉行の兵がやったんだろう >>958
あの覚書は経験者が書いたもので、成立もそこまで遅く無いはずだが……
一次史料では無いけど、三成が総大将と決まった、というには成立が少し早すぎる
石田が賊将扱いされだしたのは17世紀末からだし 霜女覚書は関ケ原より48年後の1648年2月19日にガラシャの孫、
当時の細川家当主光尚の求めに応じて提出したもので当事者の記録とはいえ
約半世紀も後に書かれたもの
三成を逆徒としたのは1673年武家事紀が初出だが
責任をすべて三成にかぶせるため挙兵の首謀者とするのはこの覚書以前から
行われていた様子で1614年10月13日島津家久書状に先年石田治部少輔が挙兵の節
、当の細川家の1632年忠興書状に三成畢竟不慮を仕出し候(挙兵の事)などの記述がある
なお細川屋敷を囲んだのは治部少輔方の兵とあり三成方の兵という意味で
石田家の兵というわけではないおそらく3奉行の兵と思われる >>960
その二つの書状は知らなかったけど、島津と細川が一次史料で認めてるのは「三成にかぶせる」は難しくないかな……
島津はまだ義弘が生きてるし まあ、秀次事件で身内であろうが意味はなく、更に駒姫の件で人質を出しても意味がないことが明確になった。
この時に主導したのが秀吉の命とは言え奉行衆なわけで。
その奉行衆が細川ガラシャを殺した時点でまたかとなり、西軍に大義なんてものはなくなった。 >>960
大野治房宛島津家久書状案は10月12日付 そもそも論として三成が佐和山から大坂に軍隊派遣して人質をどうこうしてたら豊臣は何してるのって話になる 秀頼を支えるべき親族、藩屏がいないのが本当に痛いな
秀次がいたらこんなこともないだろうに 矢口教授曰く秀次は太閤が命だけは助けるつもりだったのに無実の証明の為に
自害したんだとさ >>966
その説は最近よく聞くけど秀次の周りを粛清したのが説明しきれてないんよな >>966
矢口なんて聞いたことないな
そもそも、秀次が死去する数日前から秀次の家臣を殺し始めてるのに、どうして秀次だけ助けると言えるわけ?
秀次にしても、家臣が次々と殺されて自分だけ生き延びることができるとでも?
武田義信にしても、信玄が義信と和解するつもりだったとされてるけど、飯富・長坂・曽根と旗本80人をぶっ殺されて
残りを全て追放されて、生き延びたか?
そのあたり、矢口とかいう奴は何と言ってるの? 三成が謀反したって噂がたったのは確かだけど大坂で諸将の人質取るのはレベルが違う話
てかいって数千人くらいしか使えん三成にそんなことできてたら豊臣公儀の防衛体制ガバガバ過ぎる >>967
腹切ってもしょうがないくらいの待遇して勝手に死んじゃったつってもなぁという感想しか浮かばない説 根拠は主に2つ
1,7月12日の「秀次高野住山令」秀次を一定期間高野山に住まわせることを
前提に料理人などにも言及しており切腹させる意思なし、刀、脇差ノ携帯禁止は
自殺防止のため、福島正則らの使者は伏見高野山間は130キロ位で
険阻な山道を登ることもあり切腹前日の夜か7月15日当日朝(切腹は午前10時頃)でないと到着しない、
直後に切腹命令に変更された可能性は低いということらしい
7月13日の太閤記切腹命令書は偽書
一、召し使うことのできる者は、侍十人〔この内に〔坊主・台所人(料理人)を含む〕、下人・小者・下男五人を加え、十五人とする。
この他に小者を召し仕うことは一切禁止する。ただし、
出家の身となり袈裟を着ている以上は、
身分の上下にかかわらず、刀・脇差を携帯してはならない。
2,『御湯殿殿上日記』にむしつ(無実)ゆへ、かくの事候のよし申しなり
とあり無実なのでこのようになったとのことで無実の証に
自害したということらしい >>972
では駒姫を含む奥や女中の皆殺しはいったい何?
わざわざ秀次の首を目の前において処刑、どころか遺体を惨たらしく晒して秀次は無実でしたと? そもそもその根拠が脆弱だと言ってるんだがわざわざ提示されてもな… 脆弱でも無根拠というわけではなく誰も論破できてないよね >>975
つまりなんだ?
秀吉は秀次に切腹する必要はないと言いながら、その奥方や女中は会ったこともない側室を含めて皆殺しにしたと?
それが「本当」なら秀吉はとんだサイコパスだわな。
いや、確かにボケてそうなる可能性はあるが、これらに立ち会った奉行衆は素でそれを実行したわけだ。 仮に秀次が失脚してない状態で秀吉死去を迎えてたら、
家康の無断婚姻が発覚した時点で、秀次は厳しい罰を下してただろう。
というより家康は無断婚姻をしてなかった可能性が高い。
なぜ無断婚姻をやったかというと単純に秀頼体制を舐めてたから。
まだ幼い秀頼は家康に強い罰を直接命令出来ないし、生母の淀殿も
所詮は女だから家康に厳しい罰を下すほどの強い発言力は無い。
他の大老や奉行も意見が別れて家康に厳しい罰を下せない事が解ってた。
権力の空白期間は絶対に発生させちゃ駄目だったんだよ。
ルール違反をした家康を罰する事が出来る人がいなかったんだから。 なんかいつも利家の存在が無かった事になってるんよな 秀吉は天下を統一したらさっさと死んだら良かったかもな
あとは秀次が継承するか、鶴松を秀次が補佐して、鶴松が夭折したら秀次が継いで豊臣政権は結構存続したかもしれない
そもそも秀次が無能の根拠が初陣で家康に負けたから、だし >>970
自分の城に他家の軍(毛利)を入れてる時点でガバガバなんだけど…… 毛利軍入城自体は大坂城総守護なんで問題は無い
徳川家康が西ノ丸に入ったのと同じ理由だろうし 今川の寿桂尼みたいに、淀か高台院に秀頼が成人するまで指揮をとらせたら良かったような気がする >>977
無断婚姻は徳川家を守るためのもの
一番の大大名である徳川家を守るためには豊臣政権内でのトップを目指すしかない 福島正則や加藤清正などの豊臣恩顧も当然家康の野望は解ってたはず。
しかし家康は秀吉より二歳だけ年下だから、関ヶ原で勝って徳川の力が増大しても
家康はすぐに死ぬから徳川の力はすぐに弱くなると考えてたんだろう。
だったら今だけ徳川の味方をしておいてウザイ三成達を排除して、
家康死後は徳川から離れれば良いと考えてたんだろう。
家康が自分の年齢を上手く利用したと言える。
家康がもっと若ければ福島や加藤も家康には付かなかった可能性が高い。 西軍が軍事クーデターなんぞ起こさなければ、もう少し豊臣家は実権を失わずに長生きできたと思うけどな。
その後は、秀頼の才覚次第だけど。
豊臣政権に与えるダメージを考えずに、自分たちの実権を握ることを優先した西軍を無条件に豊臣家のために働いたというのは、ちょっと無理なような。 >>979
なにその理想の毛沢東はwあの人も建国宣言直後に死んでりゃ完璧な英雄だったと言われてるし
とはいえ秀次らの能力でその時期に秀吉が亡くなった場合政権保持出来るかは別問題そうな気がするがな
>>985
その時点では奉行は俺たちが政権担当するなら太閤殿下存命時と同じ(秀吉居ないから全然違う)、家康追い出して昔に戻すだけだから無問題!
毛利などは秀吉死んだし仮にも今秀吉の旧体制保持してる家康を追放かよしんば倒せたら、惣無事令なんてウザいのはチャラじゃ
程度の認識だから、豊臣政権の実質崩壊なんてこれっぽっちも考えてないか寧ろ目的なんで仕方ない。
多分秀頼は勿論、淀殿らや片桐など豊臣家内部もそこまでの認識にまだ関ヶ原の時には到ってたかは怪しい。
家康は流石に西軍挙兵時に豊臣体制の崩壊は感付いたろうけど。
>>972
「むしつ」じゃくて「むしち」だろ
そこを無実と訳したこと含めて色々批判されていて矢部からの反論も無いんで現時点では根拠が薄弱すぎる
お前が信じたいなら好きにしろだが、他人にそれを強要されても困りますって話
論破() 矢部本ではむしちになってるので972は単なる誤字
無実の訳で問題なし
ありもしない反論があったように捏造し
具体的な反論は何一つできない987は説得力ゼロ 秀次事件で秀次は無罪
それでその後に秀次の首の目の前で妻子や家臣一族を大虐殺
え…………無罪と違うの? 秀次は武功も多いけど、関東成敗の際に金沢文庫の書籍を聚楽第に移して、それを複製して公家にも配ったりした話がある
どうも、秀吉とは性格が違うから嫌われていたように感じる
秀吉にそもそも文化的な心や教養は無いし
五奉行もどちらかというと文化的な素養があったのは浅野長政くらいだし
そんな秀次を秀吉が助けたりするだろうか? >>989
ほんとそれ。
どんな「作文」よりも「事実(史実)」のほうが重い。
その事実までを否定するなら、妻子家臣の処刑がなかったという証拠か、
秀次だけ無実で他が処刑される罪状の証拠を上げてもらわないと。 秀次は無罪にするつもりだった
秀次が勝手に切腹した
秀次の妻子は、当時の人が言うこともはばかられるほど残虐に殺された
ただ屠られ、無造作に遺体は穴の中に放り込まれた
亡骸を引き取る事すら許されなかった
全員の遺体はその穴の中に入れられて、「秀次悪逆塚」と彫られた石だけが置かれた
世に言う畜生塚
はっきり言って信長の荒木一族の処刑より酷い
荒木一族の場合はまだ明確に謀反を起こして、しかも説得に行った奴らまで逃げ去るという前代未聞の行為をしたからだし
これで秀次を助けるつもりだといわれても……
奉行衆はそもそも何してたの?
こういう秀吉の行為を諫めることこそが側近としての役割のはずだが 奉行の役割は主人の命令を遂行する事で主人に諫言するのは職権を超越しとる 矢部氏の解釈は苦しいと思うぞ
むしち=無実は「不誠実」
不誠実だったから切腹させられました、と読むのが普通だろう >>993
史実かどうかは疑わしいが、信長の奉行の菅屋とか森とか福富とかは諫言したこともあるらしいが
職権を超えてるのか? 当時の秀吉の意に逆らうことは文字通り命がけ
どうしても従えない場合は面従腹背しかない
宗氏の朝鮮への道案内命令や小西、奉行衆の明との講和条件など む‐じつ【無実】
〘名〙 (形動)(古くは「むしつ」)
① 実質がないこと。事実がないこと。また、そのさま。
② 誠実な心がないこと。良い内容がないこと。また、そのさま。
③ 特に、罪に値する事実がないのに罪があるとされること。ぬれぎぬ。えんざい。無失。
※日葡辞書(1603‐04)「ヒトニ muxituo(ムシツヲ) イイ カクル〈訳〉虚偽の証言をする」
む‐じち【無実】
〘名〙 (「むしち」とも) =むじつ(無実)
日葡辞書にも現代と同じ用法の無実の意味もあることはある
ただあれだけの関係者を殺したことは事実だし、それを踏まえて読むならやはり秀次が不誠実故にと読むのが自然だな >>996
いうてもその秀吉の「許さん!死罪!」を遂行するのが奉行衆なのだから、諫言した奉行衆を引っ立てる組織なんてないぞ? なんで?奉行を更迭も処罰できないのか太閤は、怪しからん切腹じゃでおわり このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 67日 4時間 31分 46秒 5ちゃんねるの運営はUPLIFT会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《UPLIFT会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
4 USD/mon. から匿名でご購入いただけます。
▼ UPLIFT会員登録はこちら ▼
https://uplift.5ch.net/
▼ UPLIFTログインはこちら ▼
https://uplift.5ch.net/login レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。