石田三成の挙兵 ★9
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豊臣家と毛利家はだいぶ前から反家康計画を練ってたからここの連携は非常に効果的だった
だが豊臣奉行衆は景勝と連絡する手段が全く無かったのでここの連絡は西軍決起後でも想定すらされてなかった
そして景勝も具体的な対家康戦略を持たず「自分と徳川が戦争になれば誰かが立ち上がるだろう」程度の考えだったので中央との連絡路を絶った、元取次の石田三成とすら連絡してないから(三成が親家康に転んだからかもしれないが)
だから景勝には大した展望無く偶機に賭けた戦でありその為に戦略は破綻していた、それで誤った情報を信じて負けたと 確かに毛利だけは動き出しがかなり的確なんだよな。
初手大坂城をあっという間に占拠から、阿波讃岐を落として瀬戸内海の航路を確立。
瀬田に防衛戦を構築し、伊勢攻略着手。
このあとのグダグタは評価できないが、ここまでであれば割と意図の理解できる動きをしている。
故に、やはり一連の関ヶ原の首謀者は、少なくとも前半は毛利主体と言わざるを得ない。
石田三成は、前半戦がうまくいくのを見て、急遽各地に書状をばら撒いた、故に空手形と無策が多い感じ。 毛利はまあわかる
能力もないし準備も杜撰だがワンチャン確かにあった
上杉はマジで謎
540度回って西軍誘引のために徳川と示しあわせて挙兵したのかってくらい 安国寺「春頃に福原広俊や堅田元慶を木津留守居として置いたのは大坂城西の丸にその人数を入れるためだった」
毛利秀元、吉川広家、宍戸元続「は?そんな話全然知らんけど」 上杉もようわからんな、一度上洛は承諾しながら先に讒言者を究明しろとか
家中をまとめないといけない領内仕置きのため秋まで待ってくれとかいって
結局日限切られたので上洛できんとかいって会津攻めとなるし。
家中や領内のことなら直江がほとんどしてるので在国必須でもないだろうし
讒言者とは自信の言い分に自信があるなら堂々と上洛して
対決すればよかろうに
上杉贔屓の研究者などは滅びの美学とか名門の意地とか
家康の専横にたいする義戦とか賛美してるが
現実的でないし書状を見てもどうもそんなにご立派なお考えとも思われず
説得力に欠ける 毛利秀元を養子として迎えていたが、実子藤七郎が生まれたので秀元に分地をせねばならなくなった。しかし周防・長門では話がまとまらず、徳川に調停を頼むという忸怩たる結果に終わった。
そこで分地の問題、そして一族内の時限爆弾というべき吉川侍従を大人しくさせるべき解決法として、瀬戸内の覇権確立を思い立ったのである 4月27日付島津義久宛義弘書状
「伊那圖書頭殿并御奉行中よりも、使者を被相添、去月(去カ)十日伏見御打立、会津へ下向候、
必六月上旬の頃ニ可為上洛候条、御返事申はなされ候ハヽ、依其返事内府様御馬可被出ニ御定候」
4月下旬の時点で景勝は6月上旬に上洛すると返答したが、家康は納得せず会津征伐を決定している
この島津の話が本当で1ヶ月余りの猶予も許されないとなると景勝がごねるのもまあ無理ないかな
事を構えたくないなら何を差し置いてでもすぐさま上洛すべきだったとは
思うけど、景勝は家康に許す気がないと見て取ったんじゃないかね >>868
魚津在城衆十二名連署状からもそうだし、
滅びの美学というか武家の面子が第一みたいなのが上杉の家風としか思えんけど。
魚津城衆も景勝も上杉のためなら死ぬのも滅亡するのも構わないみたいなこと言ってるやん。 >>868
結論は至ってシンプルで景勝の謀反が事実だったのよ。景勝は本気で越後を取り戻すべく軍拡を進めていてその結果徳川と戦争になる事も覚悟していた
上洛延期なんて北条もやってる謀反人の定型句みたいなもん。景勝は軍事が終了するまでの時間稼ぎとして上洛を呑んだに過ぎない。逆に家康が時限をしたのはその内心を読んでたから 景勝の行動を追うとまず景勝は神指城を造りだした。これは公儀の許しがあったらしく多くの資材が集まってる。しかしその神指城は関ヶ原のときに殆ど手付かずという有様。集めた資材はどこへと言えば景勝は「秋までに城砦を完成させろ」という書状を出してる。つまり神指城建造を名目に集めた資材を城砦整備に流用していた。神指城は軍事的な要素が見当たらないので公儀への目眩しにもなる
ところがそんな小細工が通用する訳もなく景勝を警戒していた堀秀治がこの事実を突き止めて徳川家康に報告してしまう。家康から上洛を求められた景勝は四月までの上洛を約束するがこれを反故にする。伊奈ら使者が問い糺しにくると今度は六月を約束するが家康も騙されず征伐を開始する 承兌書状によれば訴人は堀秀治で景勝の軍備拡張(城砦建造、領内整備)が問題になっていて最早上洛して謝罪するしかないと言われてる訳でどう見ても訴人の糾明なんぞの段階じゃない
つまり景勝書状は「こういう筋書きでいくからお前たちも間違っても公儀に討伐されるなんて言うなよ」っていう口裏合わせみたいなもんだろう 輝元や三成が挙兵した際に確か「天下の謀逆が露見した」とか言ってた日記があったけど、この場合どちらが「謀逆」に当たるのか >>864
この馬鹿の豊臣が反家康という主張無視されてて笑う >>875
舜旧記7月15日条
「謀逆露顕、伏見城内府家康軍兵楯籠」
・白峰氏→伏見籠城は家康家臣による豊臣公儀への反逆
・大日本史料の注釈→「徳川氏の諸将等変を聞き伏見城に拠る」
つまり西軍による反逆と見做してる 最上や村上や溝口が上杉の軍道整備の懸念を訴えるならまだわかるが、
堀は直接は関係ないと思うがなぁ。
米の持ち逃げの逆恨みとしか思えん。 でもさ、その堀家に米を高利で貸し付け、期日がくると厳しく
支払いを督促というのは恨まれても仕方ないとも思うけどな そう考えると上杉が越後に米残していってれば
上杉征伐は起きなかった可能性が高いってことか? 無理でしょ
上杉景勝って自己陶酔型のアタオカだし
情勢が情勢なんだからさっさと上洛していたら済んだ話なのに 上杉が主張する上洛免除はともかく軍備増強は言い訳できないと思うんだが そもそも御掟に不誠実な申し立てをする者があった場合は双方を呼び寄せて
必ず究明するべきであるって書かれてるし、景勝が上洛渋ってる時点でマズいだろ 戦国板でもここだけはスクリプト嵐の中で上位を維持しているな。
書込内容の水準はアレだが住人の皆さんの熱意には敬服する。 >>885
こういう奴にじゃあ高水準の書き込みとやらを頼むって言うとだんまりなのつまらんわ いい感じのサンドバッグになってる愛妾君がこのスレには居るからね >>886
高いか低いかはともかく、
弥次馬軍談よりはもう少し地に足の着いた議題は提供できるかな。
関ヶ原のような大戦に当たっては当然ながら各大名とも所領から物資・人員の臨時徴発を行なっている筈。
その徴発規定や定例(臨時ではない)税制に対する位置付けを幾つか例示して頂けるとありがたい。
よく「〇〇氏は苛政」「△△氏は善政」などと云う話は聞く(石田は善政とも)が、
それを定量的に比較してみたいと考えている。
>>882
軍備増強って、朝日軍道建設以外の具体的なものが見えてこないんだが。
堀のでっちあげ、逆恨みじゃない具体的なものでもあるの? >>889
戦国時代って募兵しなくても2万3万集められるのかよ恐ろしいな 軍備増強については会津国替えで石高倍増したからね、
公儀の軍役に応じられるよう義務として
石高に応じた人数や武器は揃えなきゃいかんやろ
表向き神指原の新城工事を隠れ蓑にして伊達との国境の城や白河口の城の
修築工事などを進めたのはどうかとは思うが。 ただでいいから陣借りして働かせてくれ、ただ、手柄があったら仕官や報酬を検討してください的な参戦はあった。しかしせいぜい数百人レベルでは。そういう飛び入り参加をまとめる専門の侍大将も大名家にはいた。 最初から難癖つけて潰すつもりだったから上洛しなかったとかならともかく
とりあえず話聞かないと判断しようがないから上洛してくれと何度も交渉してるのよな
それをのらりくらりと躱して戦争体制整えてるのなんか秀吉と北条みたいだわ もし朝日軍道建設を軍備増強と言っているなら、
軍道完成に一年掛かってるなら景勝まだ大坂か伏見にいる時に着工してるよね、
なんでその時に言わんって話。
まぁ景勝もその時に奉行衆か家康に城普請、軍道建設すると言っておけば問題なかったろうに、
たしかにこれでは疑心を持たれるわな。 何も知らん西笑承兌すら「上洛して誠意を見せないととんでもないことになるぞ」と送るくらいなんで景勝の野心は完全に露見してたのは間違いない。同じように堀秀治に訴えられた前田利長は無実だったから助かったが 具体的に景勝の軍事行動を挙げると
慶長五年二月二日に景勝は岩井・安田・大石に対して陸奥仙道筋の城砦を春夏までに完成させろと命令しまた三月二十日には赤津の拠点再築を進めている。同時に武具収集・交通網整備を進めまた牢人衆を集め組外衆を編成する
仙道筋を固めてるのはおそらく伊達政宗対策で戦争準備なのは明らか。景勝謀反のとばっちりを恐れて三月には藤田信吉が出奔し家康に報告、また景勝の越後への野心を確信する堀秀治は証拠を押さえてこれも家康に報告したという流れになる 史料によると上杉はコメだけではなく耕作人まで會津に連れて行ってしまったそうだが、
戦後処分でそれらがどうなったかは気になる 出典は恐らく白峰氏の論文だろうけど、その2月2日付安田・岩井・大石宛景勝書状
も読んでみたが、確かに景勝がこの時期領内の普請に注力してたのは間違いない
2月2日付安田・岩井・大石宛景勝書状
「并普請作事去年申付候通、急度成就専一候、仙道筋城々普請春夏之間相究、其地普請可申付候之由、遣書状候条早々相届、可成其心得候」
伊達への備えのためだったのはそうなんだろうけど、白峰氏はそれを伊達攻めのためだったとは言ってないな
3月21日付秀忠宛景勝書状
「然ハ其元御普請以下被仰付由尤存候」
景勝がどこまで報告していたかは不明だけど、普請については一応徳川方に
報告はしていて、この時点では秀忠もそれを尤もなことだと了承はしている >>899
訂正
○3月21日付景勝宛秀忠書状
✕3月21日付秀忠宛景勝書状 秀忠が景勝に会津の領内普請尤もと認めるその書状を送った
3月21日の翌22日に上杉を出奔した藤田信吉が
會津不穏の情勢を訴えに江戸城の秀忠の基に飛びこんでくるんだよな 上杉が会津に国替になった理由が、伊達の監視だとすると、
会津の東、伊達領方面の仙道筋の城砦の普請は、
むしろ豊臣の意向に沿ったものじゃないの?
だからそれについて>>899のように尤存候なんじゃないの?
じゃあなにが問題だったかということになる。 >>903
秀忠が把握していることを上洛して言うのか?
そんな舐めくさったこと言われりゃ上杉もブチ切れるだろう。 >>904
「申請内容は了解しました。ではこの書類を持って三番窓口に行って申請内容を説明して下さい。」
令和の御世にもそんなことは多々ありそうな、、、 >>905
秀忠の返答はほぼ豊臣公儀のそれと同じだよ
銀行の整理券じゃないんだから そもそも上杉は8月は何してたんだ?
家康が撤退したのが7月末
最上に攻め込んだのが9月初旬
1か月もの間、何してたの?
8月5日付本庄繁長宛直江兼続書状では、「佐竹から昨日使者が来た。家康から人質を
出せと言われたが拒否して手切れした。だから我々に加勢してくれることは間違いない」
とか書いてるんだから、佐竹の加勢を得てさっさと関東に攻め入ったら良かったのに
何で伊達や最上まで加える必要があったんだ…… 結城秀康軍が2万もいたそうだから上杉佐竹だけでは抜けないと思ったのだろう
そもそも佐竹が味方になるかというのは置いておいて 秀康に加えて8月23日までは秀忠もまだ宇都宮に滞陣してるしね
家康も江戸城で徳川250万石の兵が井伊、本多以外ほとんど関東に
残っていて背後に伊達、最上もいる以上は
上杉、佐竹だけで攻め込むのは無謀だろうな
宇都宮城の前に最前線の大関氏の黒羽城の攻略が必要だが
家康はこの城を重要視して家臣の岡部長盛を入城させているし
万一攻められても城の周りに大軍を展開できる那須平原が開けており
宇都宮から後詰めの軍とで挟み撃ちというのも考えていたと思う 景勝は言われてるほど愚直な男じゃない。むしろ腹黒い、梟将と言える。そもそも秀忠の出した普請の許可は神指城の事を指していた可能性が高い
それを利用して領内整備を進めてる訳で謀叛と言われても仕方がない(本当に野心が無ければそもそも上洛して弁明してるだろうから謀叛は真実だったと言える)
そして時間稼ぎが不可能となると景勝は家康を挑発した。何故かと言えば「豊臣家に喧嘩を売ったのではなく徳川家康に喧嘩を売った」と論点をすり替えた。この意を豊臣家が汲んで秀頼・茶々・北政所が会津征伐に反対した事で現代まで「家康は会津征伐を強行した」と言われてるんだから割と凄い人間だったんじゃないか。尤も大戦略を見通す力が無かった結果負けたんだが 結局、長生きが勝つということかな
家康に対抗できるような器がもう、慶長5年にはいない 秀吉の征伐軍に唯一打撃を与えたのが家康だしな
北条も島津も長宗我部もまともにやりあえてすらいない >>907
景勝の掴んでいた情報では「豊臣が家康を追放」「伏見が落城」「家康は江戸から動かない」で止まってる。なら上方の西軍が徳川攻撃を決定してから動いても遅くはない、その前に最上か伊達を征服しておこうという考えだろう。むしろ先走ってお手つきする方が拙いとみたか
それで上方からの連絡を心待ちにしてたんだろうがその時にはとっくに西軍が詰まされてた。家康の方が遥かに強かったという結論 >>907
最上義光から上杉宛書状では、嫡子義康を人質に出し、
最上勢は外様の家臣並に奉公するから最上攻撃は止めて欲しいと言われ、
人質提出を待ったが8月20日から9月初旬まで待っても
一向にやってこないから、攻撃に踏み切ってる。
半月の空費は最上義光の書状のせい >>907
その書状の宛先は岩井信能だな
人質供出の拒否まではいいとして、この時点ではまだ手切れにはなってない
きっと手切れになるであろうことを直江に訴えている
手切れ不可避なので上杉の加勢が必要だと佐竹から要請があり、直江はそれを快諾したって内容だよ >>911
その観点で言えば、「毛利は残った」という小説を思い出したな。
関ヶ原からスタートして、徳川家康が亡くなるまで毛利家を維持して生き残りを目指す輝元の話。
表紙のバカ殿具合に反して、なかなか面白い作品だよ。 >>907
ごめん、岩井だったね
あれ、訳間違えたかな?
「佐竹より使者、昨日罷り超し候。内府より証人を請われ候共、ふっと申し切り候の状
定めし手切れ之有るべく候。左様に候はば、御加勢申し受けたきとのことに候条。此儀は深々と
請け合ひ使者返し申候」 >>917
「定而手切可有之候」
定而だからきっととか必ずの意味で未来のことを指している
更にここでの「可」は推量を表すからまだ手切れにはなってないよ
手切れになりそうだから佐竹は上杉の加勢を受けたいとのことで、直江はそれを承諾したという意味になる 輝元と景勝
どちらがマシだったんだろうか
ゲームではなぜか景勝が物凄く評価されてて輝元は悲惨な能力に落ち着いているけど 景勝は状況から仕方がない面がある。徳川家康が劣勢とはいえそこに腹背に敵を抱えながら突撃というのは余りにも投機的で常識的に考えれば上方と足並み揃えて攻撃する事になる。沼田の真田信幸が敵に回った以上景勝の力を超えたところで趨勢が決まったのだから関ヶ原に限れば景勝の能力は云々出来ない(そもそも越後に未練を持つなって話だが)
輝元は擁護出来ない。美濃への陣張り決めたのこいつだろうし >>919
能力的には目くそ鼻くそ
ただ景勝は大河&マンガ補正があって
輝元は人格がクズというマイナス補正が 全員輝元以下の働きしかできない西軍はある意味すごいと思う 景勝は花の慶次、真田太平記、天地人(特に空想革籠原合戦で東征軍を
壊滅させ颯爽と馬上より命乞いする家康を見下ろすシーン)などで格好よく
描かれてるからな。
輝元は担がれた飾り物大将、人は良いがお調子者、戦略を誤り
敗戦を三成に責任転嫁して淀殿よりビンタくらう羨ましいではなく
情けない武将などあまりよく描かれてないね 景勝は能力値70で輝元は50のイメージなんだよな
最近の信長の野望は案外まともな採点してる 景勝は統率戦闘は80ちょうどでいいけど知略50政治60くらいなイメージ
能力的にはリトル勝頼みたいな 素の能力だけで言うなら景勝>>輝元くらいの圧倒的大差があると思う。
奉行衆や宇喜多なんかと比べても輝元が1段くらい落ちる感じ。
だけど、上杉征伐から一連の関ヶ原に限るなら、輝元>景勝>奉行衆という感じ。、 だからだ、静かに、丁重に、治部少のめい福を祈ってやってくれまいか >>928
丁度ノブヤボ過大過小スレでも
景勝輝元どっちかマシか話してて草 景勝の戦略は戦国時代では有効だったのよ。「自分が動けば他の誰かも動く」、てか上杉謙信がそういう戦略を好んでた。実際豊臣や毛利が呼応して動いた訳だからね。ただ純粋に徳川家康の方が強過ぎて景勝の能力を超えた状況になってしまった >>914
西軍はその最上といい清洲の福島といい
まんまと東軍の時間稼ぎに嵌ってるね。
あ、上田の昌幸も数日時間稼ぎしたか。
これいずれも時間稼ぎしてなかったら戦局変わってたかもしれんなぁ。
最上は伊達からの援軍間に合わない可能性高いでしょ、
清洲は早期陥落の可能性あり、
秀忠隊は関ヶ原に間に合ったかもしれない。 伊達、堀も上方加担を表明して時間稼ぎしてんね
徳川の指示と確認できるのは福島だけだけど まあ時間稼ぎは大なり小なりやってるよな
前田も上方へ奉公すると言いながら、芳春院が人質に取られてるせいか丹羽領に兵を出したと三成を困惑させてるし >>932
> 「自分が動けば他の誰かも動く」、てか上杉謙信がそういう戦略を好んでた。
でも謙信和尚、
「他の誰かが動いても自分は動かない」を常用したおかげで
自分が動いてもだぁれも動いてくれなくなって関東で負けちゃいましたよね、、、 そもそも美濃方面に兵を送らなかった毛利輝元に問題あるんだがね >>938
あれなんでなのかな
丹後も伊勢、近江も未平定だったからか 輝元は家康と直接対決までは考えてなかったんじゃないの
西国の覇者になれればよくて
徳川とか前田とか上杉とか三成とかのことは
やむなく手は貸すけどあとは勝手にやってって感じで 流石にそれは通らないくらい輝元だって分かってたろうし分かってないなら割とヤバい。確かに豊臣家が西軍のトップだから「その気は無かったが秀頼さまに命令されて仕方なく」と言い訳は出来るかもだけどそれで西国の親徳川派諸国併合まで認められる訳ないから(しかも豊臣家が「毛利に無理強いされた」と言い出したら改易まである)
あるとしたら家康が西軍に苦戦したところで和睦して豊臣秀頼を掲げて西軍を攻撃するとかいう裏切りかますしか無い 時系列を見ると、そもそも西軍にとって美濃戦線は予定外。
織田秀信をはじめ美濃衆が西軍についたのが8月初旬だけど、その時には既に西軍は伊勢に向かっている。 >>941
輝元、その位の事は普通にやりそうだけど
つーか逆に奉行も毛利が出すぎた真似するなら徳川と和睦すりゃいいだろぐらいに考えてそう
奉行が一番の望みは徳川滅亡ではなく、豊臣政権の運営権獲得なんだし >>943
でも、そのための手をなにか打ってたかというと……。
輝元はなんだかんだで徳川とのパイプは切っていない。
分からないのが増田長盛。
パイプを作って内通してたのかと思いきや、普通に改易されて高野山追放。 増田長盛については最初から反家康で家康に連絡していたのは情報工作だったという話だろう。こいつは三成謀反と言いながら豊臣軍や毛利軍が伏見を攻撃していることを黙ってたんだから。内通者面は出来んかった。おそらく許されたのは大坂城の金銀を家康に渡したとかそんな後ろ暗い取引の結果だろうさ >>938
個人的に妄想にすぎないが、あれはまず長束増田が
自領の安全を図りたかったことと、
輝元が伊勢に秀元を国替させるつもりだったんじゃないかという気がする。
それで大した東軍戦力いない伊勢に大軍送り込んで
敵戦力撃滅よりも、領地制圧を優先させた。
勝った後のこと考えるより勝つこと考えろと言いたい。 ただし、伊勢進攻も長島を落とすのであれば話は別。
長島から尾張にかなりの圧力を加えられる。
まぁ半端な戦力で長島が落とせるとは思わんけど。 輝元に実子が出来てから秀元の領地をどうするかは問題になっていた
そこで 長島は当時はがっつり島なんで水軍無しでは信長ですら落とせない難所で水軍用意して準備してで時間がかかる。
落とせない事はないが落としたころには関ヶ原おわって佐和山あたり攻められてそうやね。 >>950
ほとんど水軍を持っていない長島攻め当時の織田と、
毛利が自前の水軍を持ち、九鬼嘉隆がついた西軍とでは条件は違う。
むしろ伊勢湾沿岸に影響力を保持するなら、山奥の美濃なんかより伊勢のほうがよほど重要かと。 三奉行が7月17日付で真田に出してる書状
あれも意味不明だな
「家康が秀頼を見捨てて出馬した」
どこをどう見たらそういう発想になるんだ? 割れてる九鬼がどこまで有効に動けるか。瀬戸内から回してる村上待ちになるんでないかね
右往左往ばかりしてたグズな伊勢方面軍がなぜか有能になるちゅうIF付け加えないと早期長島攻めなんか実現しないからどうでもいいけど >>952
かなり説得力ある表現だな
浅野書状にあるように秀頼・茶々・北政所は会津征伐に反対していて家康を説得していた。その意見を無視して会津征伐を実行したわけで「秀頼さまを見捨てた」というのは正確な評と言える 会津征伐は早くに決まっていたみたいだがな
島津義弘書状では「内府様御馬出らるべく御定まり候」とあるし、卜斎記では「5月になりて景勝陣とひたすら用意。この節、日々、大小名出仕」
とある
景勝は家康を少し甘く見すぎてたんじゃないのか? >>954
秀頼が反対していたというのは何の史料?
6月9日付の来次書状では「内府は会津へ出陣するそうです。その際、秀頼様の出馬を申し出たそうですが、御馬廻衆が
拒絶したようです」とあるから、明らかに満7歳の子供の意思は無いでしょ 年次不明浅野幸長書状
秀頼が反対というのはこの5月26日と比定されている浅野幸長書状が出典だろうな
一 秀ョ樣御袋様より、内府樣御下候儀御留有度と御奉行衆爲御使就被仰付候、
内府樣へ奉行衆被參候へは御機嫌惡被成于今不被申出候○○○政所樣明廿七日○○○ 秀ョ樣爲御見廻大坂へ被成御下候はゝ、
是も御内儀者内府樣御留有度由にとの御下と申候事、
一 石治少子息隼人出陣に候へき者、此間爲何儀に候哉ん、佐和山騷申に付、治少者罷立候樣にと此程被仰出之由候事、
一 北國之儀彌相濟、御袋竝山大膳、前野對馬、山崎七衞門、土方但馬人貭江戶へはや御下し候、肥前殿御内加賀殿、
孫四郎殿は北國へ御下候、有之しまつも相濟申爲御禮五三日已前山大膳、土方但馬罷上候事
一 我等儀一昨日内府樣へ罷出候
頓而不着仕可申と何分可令得御意
淺左京 >>951
長島攻めようとしたら東軍に岐阜城落とされて急いで美濃へ反転してたじゃん
どのタイミングで攻撃するつもりなの? >>956
横からだけど>>623見てないんか?
というかあんた>>621でしょ
適当にレスする前によく読みなよ
あとその来次氏秀書状は6月10日付だね
これも前に言ったが当該書状は景勝の船頭が大坂で収集した情報で信憑性は比較的低い
後段では家康が清洲城を借りようとしたが福島が拒否したとか、高麗の人数が
壱岐や対馬に攻め込んだようだとか事実と乖離したようなことも記述されてる
恐らく巷間の風聞を持ち帰ったものだと思うよ 秀頼が西軍に付いて家康を攻撃しようとしたのが事実なら戦後領地を切り刻まれたのは残当ということになるけどいいのだろうか
戦国時代が終わって何年も経ってないのに家臣を裏切る主君なんかいらねえわってなるのは当たり前だし
戦後は東軍諸将の大半からも実力ある主君と認められてない >>958
伊勢ルートでの作戦立案するとすれば、
秀元吉川長束安国寺宇喜多長曾我部鍋島の西軍主力をもって、
九鬼熊野(堀内)淡路毛利水軍の協力の元、
桑名を進攻拠点とし長島を早期に強襲陥落し、
犬山岐阜大垣長島の線で尾張進攻できる体勢の構築が一期段階。
二期段階で小牧山守山方面、熱田鳴海方面制圧すれば
清洲辺りの西尾張は孤立化できる。
安濃津、松阪方面は抑えの兵だけ置いておけばいい。
どうせ伊勢には大した東軍戦力はいない。
秀元がごねてなければ秀元隊の伊勢到着は数日早くなる、タイムリミットは8月22日長島攻略。
最大の問題は水軍衆が間に合うかどうか。
安濃津力攻めするくらいなら長島強襲したほうが結果は変わってくるだろう。 >>960
前も挙げた史料だけどね
下記の末尾一文
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/18-1-1/45/0057?m=all&s=0056&n=20
慶長五年九月十五日に黒田如水が藤堂に宛てた書状
「一加主計(加藤清正)拙者(如水)事は、今度切取候分以内府様御取成を、秀頼様より拝領仕候様に井兵(井伊直政)被仰談御肝煎頼存候」
清正と如水が九州で切り取った土地については、家康様の取り成しで秀頼様から拝領できるように、井伊さんとよろしくやってね高虎さん
という内容
如水はぶんどった土地の「拝領」は「秀頼様」からされるという認識
「豊臣」と喧嘩しているなんて微塵も考えていないことが分かるでしょ >>962
じゃあ力のない主君を軟禁した西軍を撃破した功臣に論功として主君の領地を分配することは何も間違ってないな レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。