石田三成の挙兵 ★9
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>>961
西軍が伊勢方面を攻めた理由は8月5日付真田昌幸宛石田三成書状に書かれてるよ
「もし済まずにおいては清州へ勢州へ一所に成り候て行に及ぶべく候」
清洲城の開城交渉が不首尾に終わった場合、西軍は美濃口と伊勢口から一所になって清洲城を攻め落とすつもりである
西軍の武将程度が伊勢の重要性に気付くわけがない
せいぜい北と西から尾張を挟み撃ちにする程度しか考えられないだろうと思ってはいたけどね
そもそも伊勢攻略部隊は8月5日に鈴鹿峠を越えてから鈍重な行軍を続けて、大将格の長束や恵瓊は東軍来襲の虚報で退陣するなど
全く軍勢として役に立っていない 毛利秀元には家督交代、宗家との絶縁料として伊勢40万石を与える予定だったのである 西笑承兌書状には「景勝公が上洛を延ばしてるのが悪い、早く上洛しないと危ない」とあるのでおそらく景勝は四月までの上洛を約束してそれを反故にしたと思われる。約束を果たさないのは明らかに謀反の前兆だから家康が「次に上洛が無かったら即座に攻撃するよう態勢を整えろ」と命令するのは至極当然(例えば謀反を企んでなかった前田利長は上洛を断固拒否しつつ家臣を上方に送って釈明に尽くしてる)
秀頼が反対した理由は「反家康決起の口実作り」という直球やもしくは家康が重要案件を豊臣家に諮問しなくなった事が癪に触ったのかもしれない
本来は豊臣家こそ豊臣公儀の頂点であって徳川家康という重臣とは言え外様が勝手に天下を差配するのは僭越と思ったか 石田三成が無能かどうかなんて話は大好きなスレ民は伊勢方面軍の大将が長束という軍事的にはやべー奴なのにはあんま興味ないのか言及しないのよね 増田=無能
浅野=親徳川
前田玄以=空気
石田=無能
長束=無能
詰んでる >>964
少なくとも石田、秀信は第二次小牧長久手できるような行動をしている。
犬山に美濃衆入れて、さらに石田秀信で尾張進出しようとしていた、
その矢先に市橋徳永らが福束攻めてきて
尾張進出は有耶無耶になった。
伊勢から同時進行で長島落としてたら石田の絵図通りになっていた。
しかし実際は安濃津落としたが岐阜落とされてどうにもならなくなった。 >>967
備口人数からは伊勢の大将は輝元じゃないかと思うが。
長束は城加番扱いになってる。
美濃口は石田、北陸は大谷ではないか。
あくまで備口人数みた感じではね、実際はわからんが。 >>968
前田玄以は空気というか求められた仕事だけするタイプ
だから西軍蜂起の最初だけ奉行連盟に名前貸したけどそれ以降は粛々と自分の仕事をしてた >>969
第二次小牧長久手できるような行動とは? >>966
秀頼にそこまでの判断能力があったならば、自分の意思で征伐中止を叫んでいたら良かったのに >>966の彼によると秀頼は天才少年らしいからな
現代なら小学2年生のガキが知行宛行から改易、派兵まで全て主導してやってのけたらしいよ >>964
一次資料を否定したら何も始まらないのは承知の上で、
西軍の戦略として語られるもの殆どが石田三成書状で、他の裏付けがないのが気になる。
他の首脳陣の書状は感状(過去)とか、現状報告(現在)ばかりなのに、
三成な書状だけ「これからの計画」「褒美の確約」が目立つ。
しかも、ほとんど他の首脳陣とは別行動しているにもかかわらず。 それは美濃方面の司令官が三成だったから仕方ないんじゃないの?
普通は宇喜多秀家がそれをやるべきだが、秀家は若く前年に御家騒動を起こしたせいか、そんな書状が余り確認できないし
よく見たら7月14日付直江兼続宛石田三成書状に「越後の儀は、上杉御本領に候間、中納言殿に下し置かれ候旨、秀頼公御内意に候」とあったね 佐竹義重が8歳の時に陸奥国衆の上遠野氏に対して書状を与えた記録があるけど、この時点で父親の義昭がまだ健在だから
やはり父親の後見があってのことだと思うし
秀頼の場合、後見が家康しかいないから、本当に独立独歩が7歳でできたのかどうか >>978
この義重の例って俺の後継者はこいつだからよろしくな、てぐらいの意味だと思う >>977
その7月14日付直江宛三成書状は続武者物語所収の書状だけど、同じく同書所収の6月30日付
直江宛三成書状と共に中村孝也氏や今井林太郎氏により疑義が呈されてるし当てにならんよ
周知の通り、真田家文書の三成書状では真田に護衛を頼み沼田経由で上杉との通信を試みようとしていた
わけで、事前盟約説の根拠となるこれらの書状とは内容も矛盾してるし偽書で間違いないでしょ あれ本当に偽書?
確かに疑いはあるみたいだけど
桐野作人、笠谷和比古らは確かに偽書の疑いはあるけど、それにしては三成書状で一致する点も見えるから、ということで
偽書かどうか、というニュアンスを付けてるよ
笠谷は三成がよく使う「天の与へ」がこの偽書とされる6月20日にもあるから、必ずしも偽書ではない、と言ってるみたいだし
笠谷はそれに加えて軍記大成にもあるから、と付け加えてる >>981
「天の与えた」は三成に限らず当時の書状でも散見される表現だよ
内容的に見てこの二通の写しは偽書の可能性大だと思うよ
(天正10年)6月10日付中川清秀宛羽柴秀吉書状
「明智久我其邊へ居陣候て、其国か河内へ欤、可相動旨風聞由候、哀さ様ニ動候
へかし、一騎懸にて不寄夜中可馳参候、天与所候間、罷出候へかしと所希候」
(天正10年)6月26日付滝川一益宛羽柴秀吉書状
「中国表儀、敵城数ヶ所責崩申ニ付而、毛利及迷惑、取巻候城十町十五町之間罷出候条、天之与儀候間、根切可申付与希處」
(天正14年)12月2日付吉川元春他宛豊臣秀吉書状
「嶋津豊後の国へ打入儀、誠天之与所にて候間、不退様ニ懸留」 前田玄以の肖像画を見たが、わりとでっかい顔面でケーシー高峰みたいで意外だった 笠谷氏はその後2022年発行の論争関ケ原合戦という新著で
6月20日三成書状を旧著では真文書として扱ったが虚妄と判断せざる得えないと
考えを改めてるね。
詳しくは著書にて確認していただくのが良いと思いますが
理由として三成が挙兵を打ち明けたのは7月10日頃の大谷が最初で
それ以前は7月30日真田宛書状から誰にも挙兵を打ち明けてなかった
毛利も安国寺、吉川を會津遠征に従軍させてることから7月10日頃
安国寺に挙兵を継げたのが最初で毛利も首謀者ではない、
7月12日家康家臣に三成、大谷不穏を通知した増田も同様
7月10日頃に初めて挙兵を表明した三成が6月の段階で
上杉に挙兵連絡はありえないという論旨のようです
個人的には6月20書状が偽文書という結論はその通りでしょうが、その7月30日三成書状で内府が
大坂にいるうちは(6月16日まで)諸将の心測りがたく打ち明けられなかったと
6月16日以前に翌月実現したような挙兵の計画はあったこと、
挙兵自体三成一人では不可能なので同氏の存在が考えられますが、7月15日島津義弘
書状で首謀者と挙げられている毛利、宇喜多、3奉行、三成、大谷、小西の8人に
おそらく安国寺は6月16日以前に一味同心し挙兵の決断を
していたのではないでしょうか。
なので毛利が安国寺、吉川を會津遠征に出発させたのは家康を油断させるための
擬態、安国寺が佐和山城を訪れたのは今後の打ち合わせのため、増田書状は
7月27日榊原書状により後日出されたと思われる
3奉行の家康上洛要請の書状とともに奉行は
家康の味方と思わせる擬装ではないかと思います。 >>981
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/8/0040?m=all&s=0040
秀頼「公」とある時点で眉唾なんだよね
書中に「宇佐美民部」が出てくるあたりがポイントじゃないか >>984
考えすぎで無理があるよ
偽書を偽書と見抜く術は、究極的には「匂い」なんだよ
あれ、これ安土桃山の書状じゃないぞって
もちろん研究者はそれじゃ困るから厳密な史料批判をするわけだけど
用語、文体からする「匂い」だと江戸中期くらいまでの偽書でしょ 秀頼が会津征伐に反対した時は家康もキレかけたろうな >>976
最初から西軍首脳部が美濃方面を軽んじて大して調略を行ってなかった結果皺寄せを三成が行ったという話なのでは。三成は西軍首脳部ほど家康を甘くみてなかった訳で美濃こそ最前線と思っていれば必死に領主たちの歓心を買おうとしてたはず もしかして秀頼(淀殿?)が上杉征伐に反対したのって、家康が大坂城空けたら馬鹿どもが反乱起こすんじゃないかって危惧してたからなんじゃね? そういう空気感は巷間あったんじゃないかね
景勝もその空気を読んで直接対決に舵をきったんだろうし
家康もわざわざ上総から鳥居元忠呼び寄せたんだし >>988
自分は逆に思えるけどな。
石田三成が甘い見通しで美濃に手を出して戦線を広げて、
勝手に窮地に陥ったのを西軍が仕方なく支援に行った構図に見える。 大坂にいた豊臣軍二万は何の為に居たのかって話よ。大坂城も守れないならそりゃ豊臣家は滅亡するわ 小田原征伐で北条氏政と氏直の直接動員した軍が3000とかだし完全に言うこときいてくれる数もそれくらいだったんじゃね
他の軍は家臣に任せてるから拒否されたり渋られると動かせないとか 石田勢が布陣した笹尾の傍に豊臣麾下の黄袰衆2000が布陣したとあるがどういう働きをしたのかまるで謎だ >>988
三成の書状を読んだことないのかな?
慶長5年8月6日付真田昌幸宛石田三成書状
「内府は会津や佐竹を敵として、わずかに3万の人数を持ち、分国に15の城を抱え、20日路を
上られることができるものであろうか」
「内府次第といっても、20年以来の太閤様の御恩を内府の去年1年の御恩に替えて、
しかも秀頼様を粗略にして、あまつさえ大坂に妻子を残している。そのうえ内府は諸大名
に温情をかけていないと聞いている。右のような分別もなく内府が自分の人数1万、上方勢
1万ばかりで上洛しても、尾張・三河の間で討ち取れることはまことに天の与えである。そうなれば、
会津や佐竹、貴殿は関東に袴を着て乱入できるでしょう」
家康が弱いとあえて味方に言ってるとしても、これは酷すぎる
三成は完全に家康をなめていたとしか思えない >>991
じゃあ前線を関ヶ原・鈴鹿に設定するのか?
それとも初期想定通りに瀬田で決戦するのか?
美濃には進出しないが伊勢は制圧するってのは意味がわからんのだわ。 毛利秀元らが鈴鹿峠を越えたのが8月5日
石田三成が大垣城に入ったのが8月9日
4日も何してたんだよ三成
少なくとも伊勢方面軍と同時に美濃に向かえばいいのに >>996
>>997
織田秀信が西軍についたことが公開され、美濃衆が西軍について美濃への進出が可能になったのは8月5日。
そこから準備すれば順当にそのくらいの日数にはなる。
7月末時点で西軍に付くかもわからない美濃を待って伊勢を放置するよりも、
それなりに手応えのある伊勢から攻略するのは何ら間違いではない。 備前中納言が主将となり、長大、石治少、大刑、島津惟新が指揮をとらば、苦戦は必至 このスレッドは1000を超えました。
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