石田三成の挙兵 ★9
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>>100
既に内通している吉川がそんな真似するわけないと思うんだけど……
自分はなぜ大垣城に福原や熊谷、それに秋月ら一部を残して石田らが向かったのかと思う
石田らがいなくなったら最早大垣はおしまいでしょ
ましてや外郭を焼いてるから防御機能も低下してる
何で城に兵力を残さずに向かわなかったんだろ
福原らは捨て殺しにする気だったのかな? >>101
吉川が内通していることと、南宮山勢になんの連絡も入れていないことは全く別の話。
仮に内通していなくても動けないじゃないかという話で。
普通に考えれば、内通していない場合の南宮山勢の動きはガラ空きになった大垣城の救援に入るというもの。
後詰めたる南宮山勢のそもそものタスクはそれなんだから、東軍の背後を襲ってほしいならそれを伝えておかないと。
個人的には、小早川迎撃説より大垣撤退説のほうが濃厚だと思っている。そちらのほうが動きに説明がつく。 ここは専門家気取りの気持ち悪いのは数人いるな
少なくとも3人予備軍2人といったとこか
そこそこ史料や研究本などもかじっているのは認めるが
考察力や分析力はお粗末で妄想充満なので所詮架空戦記や3流小説レベルの
便所の落書きをつらつらと長文で垂れ流すんだから
余程する事がなくて暇な無職のおっさんか年金暮らしの爺さんだろう >>103
君には匿名掲示板はまだ早い
インスタグラムにでも行ったほうがいいぞ
LINEは古いらしいしXもダメらしい >>102
大垣撤退ねぇ…、佐和山に後退して戦線縮小、
南下する前田も西進する東軍も佐和山で効率的に引き付ける、
手としてはありうるけど、戦力比率の悪化した第二の大垣にしかならんと思うけどなぁ…、
前田、秀忠合流でしょ、
南宮山毛利は不戦でこそこそ逃げるだろうし。
とりあえず松尾山奪還して、
松尾山・南宮山・大垣ラインで食い止める算段じゃないかなぁ。
垂井赤坂に東軍を押し込めるというかんじで。 岐阜落とされて大津で交戦中のところを大垣見捨てて瀬田まで撤退すると
佐和山が孤立する
清洲を攻撃するか、せめて岐阜に後詰めしとけばよかったのに
松尾山獲られてあわてて大垣を出て野戦決戦に持ち込まれてる
このへんのセンスのなさよな 三方ヶ原がよく引き合いに出されるよな
家康を引き摺り出した信玄
三成らを引き摺り出した家康
三方ヶ原の焦点は研究によって堀江城かもしれないと言われるが
何にしても相手を心理的に追い込み出撃させる方法論自体は変わらない >>105
・南宮山勢に連絡をしていない
・外曲輪(城外陣地)を焼いている≒大垣城に戻すつもりがない
・松尾山を攻撃する割には背後(赤坂方面)への警戒が非常に薄い
・そもそも、城攻めを行うというのに陣地化を行っていない
とても何らかの戦略を持って戦おうとしているようには見えないのよ。
松尾山からの攻撃に警戒しながら撤退中に、赤坂方面からの東軍に追いつかれて潰走したというのが一番自然に見える。 >>110
ああなったらもう佐和山まで逃れてそこで徹底抗戦して後詰決戦しかない
大津城と田辺城は落としてるんだから、後詰は来れるし
大垣城を派手に焼いてひたすら走れば良かったのに
小早川が松尾山から出てくるかもしれないけど、さすがに全て追撃するのは無理でしょ 橋陽介は小早川秀秋がどう来たか、そして三成達の逃走経路に注目してる。つまり三成達は既に佐和山が落ちてるか少なくとも窮地にあると思ってたという
三成は集められるだけの戦力を大垣に集中させたので反面他の拠点は手薄になってたはず。現実佐和山には石田軍二千人程度しかいなかった。そのど真ん前を小早川軍が何もせず通過してきたとは考え難い。だから佐和山への再結集が選択肢から消えていたんじゃないか
三成らの戦略は「まず松尾山の小早川を後退させる」「攻めてくる東軍先手衆と戦争して損害を与える」「膠着状態にしてから佐和山の状況を確認する」とこんなところだったんだろう >>110
好意的に解釈すると、松尾山を東軍方が抑えると
南宮山はいつ退路を絶たれてもおかしくない状況になるわけで、
ついでにいうと大垣・南宮山の西軍は近江佐和山方面への連絡が絶たれかねないのと同時に山中村の大谷らも壊滅の危機となる。
早急に対応するしかないので大垣から主力をもって
松尾山の秀秋を撃滅し、そのまま松尾山に布陣。
松尾山、南宮山、大垣のラインで東軍を垂井赤坂に封じ込める。
大垣を放棄するわけではないので守備隊5〜7000残してるし、
南宮山部隊への連絡もしなかった。
南宮山は西軍方と認識してるので垂井方面から東軍の進出があれば側面攻撃するだろうと思っていた。
こんなかんじかな、好意的解釈すると。
どのみち南宮山毛利不戦と前田、秀忠到着すれば
西軍に勝ち目はない。
ワンチャンあるとすれば伊勢部隊、瀬田守備隊、大谷らが到着した時点でなにかしら動くくらいしかないと考える。
鳶ヶ巣山砦奇襲みたく、虚空蔵山北方占領とかすれば面白かったかも。 家康が来た以上は輝元出馬での決戦しか西軍にはもう手がないでな。
手がないっていうか元々いずれはどこかで決戦しなくてはいけない構造だから輝元と合流するために後退するのは軍事行動としてごく自然。 家康赤坂着陣でそれまで赤坂にいた軍勢が元々一部の兵が駐屯していた
南宮山近くの青野ヶ原まで進出したからね
東軍に察知されないよう移動しないと山中、関ケ原方面に先回り出来ない
山中村から中山道沿いに退却するにしても難所の今須峠を越えるまでは
細道が続き大軍が一気に退却するのは不可能
未明に西軍移動をしった家康が即座に先手衆に追撃命令を出したのも
おそらくそのことを考慮に入れてかと シンプルに赤坂と大垣で正面決戦じゃあかんかったのか?
南宮山勢到着時は西軍のほうが多いわけだし、家康到着で逆転したとは言え、
東軍7万人対西軍6万人ならほぼ互角と言って良い兵数差。 >>116
そういう判断が出来ない子なんです
「おまえは頭はいいが勇気が足りず決断できない、
あとみんなおまえのこと嫌ってるからしゃしゃり出ないで裏方やってろ」
ってわざわざ友達が言ってくれてるのに無視して失敗してる男、
それが三成 人の上に立ったことのない奴がいくら批評しようとね… ここのレベルもだいぶ落ちたな
112:高橋本だけしか読んでない受け売り馬鹿
113、114:架空戦記、ゲーム脳レベルのバカ
115:長文知ったかバカ、こいつのせいで1日過疎った
116:シンプルイズベスト馬鹿、脳が弱く複雑なことは考えられないだけ
117:ソースが大河ドラマか小説の身の程知らず馬鹿
118:三成はおろか117以下の身の程知らず馬鹿パート2
119、120:二重投稿する電子機器に慣れてないアナログ結果論認知症爺
121:自己紹介乙の一人ブーメランバカ >>116
赤坂は野戦築城で陣城化されてる。
これを正面攻撃しても不利なだけ。
賤ヶ岳の柴田本隊や長篠の武田に近くなる。 同じく東軍も数万が籠ってる大垣攻城しても損害が累積するだけ。
正攻法では対峙睨み合いとなる。 >>121
三成の場合、人の上に立ったといっても、あれは秀吉の威光があったから、だしな
秀吉がいなくなったらああいう結果になったし >>113
秀忠の軍勢は中山道から強行軍を重ねてきたから、すぐには使えないだろう
前田の軍勢は数がどれくらいくるかだが >>119 >>120
昌幸宛三成書状
「長岡忠興の糞野郎に遺恨がある」
「忠興の親父幽斎は流罪にした」
三成の鬱憤を晴らすためには意味がありました ただでさえ食糧の足りない大垣は松尾山取られたら終了だから絶対に看過できない。しかし西軍は大垣に人を集め過ぎて他の拠点は殆どノーガード
本来なら輝元が来ないといけないけど家康が来るという確信が無ければやってこれない上にもう降参ムード
三成にはどうしようもないよ。詰んでる 勝算は乏しいけど、大垣は捨てて佐和山に撤退
そこで田辺、大津、伊勢の西軍に後詰させて決戦するしかないと思う
あるいは瀬田で対峙して、持久戦に持ち込む
少ししたら冬になるし >>132
よく佐和山佐和山言われるけど、そこって三成の居城というだけで別に戦略的には価値なくね?
大垣よりも人数入れられないし、そもそも抑えを置かれてスルーされたら何も出来ない。 普通に近畿防衛における中山道の要所でしょ。
抑えつけられてスルーされても抑えの分が目減りした東軍と大坂本軍の決戦になるだけだから損するわけじゃないし。
それでうまくいくか勝てる勝てないかみたいな話だったら岐阜城瞬殺でほぼ詰んでる状態だから語るのは無意味 現代人は結果が分かってるから勝った方が必勝で負けた方は必敗だった的な考察を書くのは誰でもできる簡単な作業 岐阜落城で毛利は和睦に方向転換し京極は大津籠城に向かった >>135
岐阜城が落ちた時点でどうやっても西軍が巻き返すのは難しい >>138
当時の毛利と京極も思ってたよ
簡単な作業と思ってるのも貴方の感想
感想はバンバン書いていいよ 現実はやってみないと分からないことばかりだからね
そういう後知恵考察は個人的に嫌い
貴方の人生だって分からないことばかりでしょ? 岐阜城が落ちた時点で巻き返す方法があるなら、>>140の貴方が挙げてみたらいいと思うよ
何かそんな方法がある?
頭がよさそうだから良い案が浮かびそう >>141
戦いは始まる前から勝敗は決まってる
これを否定するつもりはないが、関ヶ原は結局小早川が全て
小早川が西軍ならどうなってたかなんて想像の押し付け合いでしかない
負けた方は後知恵により後から敗因をいくらでも付加されがち 岐阜は大垣も佐和山も自在に狙える拠点となるのでそこを失ったのは痛い。ただそれ以上に「徳川軍は来ない」と踏んで西軍15万の兵力を北に7万伊勢に3万振った直後っていうタイミングの悪さが痛い。まぁ家康に見透かされてたんだろうが
三成や広家が主張した様にもっと美濃に兵を置いておくべきだった。ここから巻き返すなら大坂の輝元が豊臣軍率いて大垣付近に展開するしか無い
それでも徳川には勝てない可能性が高いけど。将としての器が違い過ぎる >>134
それで言うなら岐阜城や大垣城のほうがよほど要じゃないの。
佐和山城は山城の性質として、街道の監視は出来ても封鎖はできない。
しかも近江にかなり入りこまれて東軍が展開できるスペースを与えてしまうことになる。
その役目なら、米原をガッチガチに固めないと意味がないのよ。 別に小早川が寝返らなくても問題ないだろ
小早川が寝返って早期決着になったのは事実だけど
小早川が仮に寝返らずにそのままだとしても、あのままなら大垣城が兵糧枯渇して
西軍はやはり城から脱出して佐和山か瀬田を目指すしかないと思う
関ヶ原のあたりは雪が降るから、多少持ちこたえたら自然休戦になる可能性もあるし >>145
3行目以降は貴方の想像でしかないのでふーん、という感想しか湧いてこない これといって知識や構想は持ってないけどなんとなく納得いかないから噛みついてみたい 後知恵というよか岐阜取られた時点で戦略的にかなりキツいのは当時からも言われてるし
退くにしてもどこに退けというのか 岐阜陥落後にどうするかじゃなくて、
岐阜が落ちないような作戦を指向するのが一番。
犬山も西軍が押さえて第二次小牧長久手やる布石は敷いてる。
で、なぜ岐阜が落ちたかというと兵力が足りなかったから。
伊勢制圧は構わんが、不必要な大軍を投入して
肝心の美濃尾張戦線が崩壊した。 秀元が伊勢制圧にごねて伊勢制圧が数日遅れたのも結果としては痛かった。 8月22日付秋田実季佐々正孝書状
「岐阜之事も中納言殿無人にて御座候間、日数五十日と被相抱候事成間敷と風聞候事」
岐阜には人がいないのでと東軍側の人間も言ってるからなあ
それでも50日は保つだろうとの見立てをしてるからまさか一日で落ちるとは誰も思わんよね 美濃口二万五千七百人
ただしここには島津(軍役上五千人だが一千人程度)がいるため実際には二万人
これでバックに徳川がいる東軍先手衆と戦うのはキツ過ぎる。輝元は家康が伏見を助けなかったのを間違った受け取り方したのか 伊勢攻略はなんら間違っていないと思うが。
中山道と共に東海道を抑え、尾張を直接狙える状況にする事ができる。
他の人も言ってるけど、岐阜城の落城があまりにも早すぎた。
実際に孤立無援で2000人を切るような伏見城や大津城で1~2週間は保っているわけで。
一応は堅城と言われた岐阜城で6000人の兵力、加えて大垣城や犬山城にも兵がいる状況において、
たった2日で岐阜城が落ちて犬山城が孤立して大垣城が赤坂まで占領されると予想するのは難しい。 スレが荒廃しそうになったとたん急にハイレベルな書き込みのラッシュで
持ち直したなw
ガチ勢のお出ましか 岐阜に五千、大垣に一万五千で対する東軍が三万五千とかだから何が出来るって話になる
秀信も増援が無い事は知ってたろうしそうなるともう絶望的 >>159
攻城戦だと10倍近くの兵数差はよくあり、それでも1週間程度は保つのが普通。
犬山城含めて2万と3.5万、数日待っていれば宇喜多隊が合流してほぼ同数という状況で、
大垣勢を待たず突出して野戦を仕掛けて6000の兵をほぼ壊滅させて、
岐阜城の兵がほぼない状況で救援の大垣勢が各個撃破蹴散らされた挙げ句、
宇喜多合流で瞬間的に兵力が上回った(しかも陣地化がまだ)時点で赤坂の奪還をせず固められ、
南宮山勢が到着して、やはり一瞬兵力が上回ったときも何もせず。
勝つきないだろ? 上回ったといっても瞬間風速的なもので当時からすりゃわからん。東軍は真田信幸経由で備口人数書を手に入れてたからある程度アタリはついていて後は答え合わせで戦略を決定出来ただろうが
西軍には東軍の人数がわからんから一から情報収集しないといけない。結局それも十日は覚悟しないといけないだろうから万全を期せば間に合わない。「東軍の数は少ないはずだ!」で投機的決戦を仕掛けて大敗したらそれこそ一大事だし >>157
主攻方面を間違えてるという問題。
伊勢制圧が良い悪いの問題ではない。 小牧長久手でも秀吉も主力を伊勢には送っていない。
主力は尾張美濃、助攻として伊勢。
長島が簡単には抜けない以上伊勢に主力送るメリットは小さい。 >>162
そもそも史実だって兵数的にも伊勢は助攻でしょう。
本来なら、関ヶ原の戦いが起きたあたりの時期に、ようやく美濃(岐阜城)での本格的後詰め決戦という状況。
その時に伊勢が西軍か東軍かはえらい違いだよ。
石田三成が8月中旬まで清洲城を交渉で寝返らせようなんてバカなこと考えずに、
最初から尾張を力攻めというなら伊勢にいかず全力で清洲城が正解だったかもしれんが。 清洲を力攻めにしたところで落とせる訳ないから
石田三成が大垣についたのは八月十日だけど十四日には清洲に福島正則らが入城して三万人近くが配備されてる。つまり神の視点をもってしても四日しか余裕が無い
その視点を除いて考えても清洲ほどの城を美濃口二万人の総勢で攻めて落とせる訳ないしそうしてる内に東軍先手衆が後詰にきたらそこで決戦になる。犠牲者次第だけど美濃方面軍は致命的な打撃を受ける事は避けられない。下手すりゃ佐和山まで全部東軍の手に落ちてジエンドよ。そんな博打は打てない >>165
その場合は伊勢攻略をしない前提だから西軍の数は2万人じゃなく5万人、
いや、大津城の京極が離反前だから毛利元康や立花らも参加できて6.5万人だよ。
加えて岐阜城と犬山城が健在だから7.5万人ほどになる。
ただし、伊勢から近江を直接狙われる危険が常に付きまとうし、
西軍7.5万人で城に籠もる東軍4万人を簡単に短期でどうこうできないから結局持久戦。
ならば史実通りに伊勢、美濃を抑えて尾張を圧迫するほうが合理的。
……岐阜城がたったの2日で落ちなければな。 だいたい徳川を政権から弾劾した時点で
上杉討伐軍が家康から離反して帰洛するか、そのまま徳川討伐軍になる予定だったんだろうから
そうならなかった時点でだいたい詰んでるよね >>166
岐阜が落ちるのは仕方が無い。秀信は三成との会話で西軍の初期配置を知ってしまってるんだから
後詰が絶対来れない状況だから打って出るしかないわ >>164
秀元吉川安国寺長束で伊勢制圧するなら
鍋島長曾我部は美濃に送れよってことよ。
伊勢制圧が10日遅れても構わない。
鍋島長曾我部が犬山岐阜に詰めてるだけでも
おそらく結果は変わってる。
これで膠着化できればあとは小牧山先に占領した方が
尾張美濃戦線は有利になる。 そもそも西軍は満を持しての決起でもないからな
戦略にも多くの保険かけるだけの余力もない
毛利的には岐阜が簡単に早く落ちる想定はしてない
そもそも岐阜城がこれだけあっけなく落ちるなら西軍蜂起してないやろな 岐阜ってそんな大した城でもないし輝元の見込みがおかしい 大した城じゃなくても西軍側の前線になろうかという城があっけなく落とされるのが都合が悪いんよ 家康すら来てないのに岐阜城瞬殺なんて異常事態を予見するのはまぁ無理だろうなぁ 岐阜城の性質考えたら美濃口にもっと兵を置くか迅速に陣地変え出来るようにしとかないと徳川に攻められたら下手すると寝返るのがでるだろう
三成は僅か一万五千でよく守ったというべきじゃないか >>172
一応はかつての斎藤・織田の居城として堅城と名の通った城なわけで、
西国の輝元に実は大したことがないと分かれというのは無理がある。
自身の少し前までの居城、吉田郡山城くらいには耐えられると思うだろ。
これが例えば元城主の池田輝政に弱点を突かれて落城とかならまだわからなくはないが、
自分で野戦に出て将と兵を失って、各口に配備する兵が数百しかない状況に陥って陥落とか予想できるわけがない。 >>175
守った?いったい何から何を守れた?
1万5千ってことは宇喜多到着前、岐阜城陥落時の話だろうけど、
岐阜城は守れないのはまだしも、あっさり川を超えられて赤坂まで一気に攻め込まれてるじゃん。
長良川、せめて揖斐川のラインは守らないと大垣城は死に城になってしまうわけで。 三成佐和山引退の1599年閏3月10日に三成が無事佐和山に下って行ったことを
心底喜び今後も三成と進退をともにするといった意味の家臣宛書状を書いている
大の三成党の織田秀信の岐阜城を落とされ秀信も高野山送りとなったのは
余りにも痛いよな
三成と秀信の交流は史料の上では病勝ちの秀信が真田信之領に湯治に行くことになり
その際に三成と信之が親友であることをしっている秀信が
三成に便宜を図ってくれるよう依頼し三成が信之との間を周旋した
ことくらいしかわからない。 慶長4年閏3月10日付瀧川周善軒宛織田秀信書状に三成と進退を共にするなんて文言あったか?
・「爰元無異儀相済、今朝治少澤山へ罷下候」
・「山之番之義、其外町口々之事、丈夫ニ申付候由尤候」
この二点のことしか書かれてないと思うけど
無事に済んで安堵したくらいのニュアンスで、秀信が心底喜んでるというのもここからは読み取れないね >>177
敵は約四万だぞ(正確には三万四千程度だがそこまでわかるわけない)大垣に集めた一万五千は美濃方面軍のほぼ全員な訳で敵はその倍以上いる
下手打てば美濃方面軍は壊滅して西軍はそこで終わってた訳だからまぁよくやった方じゃないか自軍の倍以上の敵相手でしかも狙うべき大将も居ない中で >>180
結果としてはよくやったとも見れるけど、
東軍が赤坂で留まらず、
赤坂辺りに大垣への抑えの部隊を残し佐和山進軍していた場合、
西軍の部隊配置上、佐和山まで陥落して
8月中に関ヶ原終わってた可能性もある。
無謀な突進に見えるかもだが、
京極と小早川秀秋の存在があり、
近江進軍は逆に東軍兵力が増える。 >>180
それを言うなら、西軍も大垣1.5万、岐阜6千、犬山5千の2.6万だし、宇喜多も近くまで来ているのに待たずに自滅。
秀信のせいとはいえ、味方の位置も把握できず戦端開いて立て続けの潰走でどこがよくやったというのか。
しかも、東軍が大垣からの救援の対応に長良川方面に割いたのは1万程度だぞ?
それを抜けなかったのは待ち構えるほうが有利だから仕方ないとして、
赤坂まで潰走して占領されるってどういうことよって話で。 >>182
まず宇喜多は計算に入れられない。そもそも宇喜多軍は伊勢口の担当だからいつ来るか何人来るかもわからない。当てにはならないし実際間に合わなかった
そんで竹ヶ鼻取られた時点で実は大垣詰んでるのよどこを通って行軍しても福島隊約一万五千の強撃を受ける。福島と戦うだけでも大垣を空にしないといけないのにその上岐阜の後詰なんて無理。せめて秀信が池田輝政隊迎撃を成功させていればだけど。こうなったら守る以外なんかあるか状態 >>183
味方がいつ来るか何人来るか、それも1週間後ならともかく2日後には到着しているレベルのことすらわからないなら、
敵の動向なんかもっとわからんだろ。そんなの戦う以前の問題だわな。
岐阜城に突然何万もの敵が現れました、驚いて突撃しました、壊滅しました。
慌てて状況もわからず岐阜に向かいました、待ち構えられて撃退されました、
なんの備えもしてないのに渡河をされて大垣城の首元まで迫られました。
三成達は戦の素人かな? 三成達にとって何が最悪なのか逆算すればいい。それは大垣が落ちることじゃないか?大垣には一万五千しかいない。東軍は三万から四万。最悪のシチュエーションは「岐阜を後詰しようとして迎撃されて失敗、大垣も落とされてました」これを避けるなら大垣に人を置くしかない。てなると後詰は絶望的になる。出せる兵は最大で一万程度で現実的には四千人居ればいい方。つまり実際の数値は西軍九千対東軍三万四千
これは無理。じゃあ一か八か美濃口が空になる覚悟で大博打うつか?ってそんな度胸は出せないだろ、精々アリバイの為後詰送って後は大垣を守るしかできん 三成に劉備くらいの人望あればねぇ・・・秀吉子飼いの武将で豊臣割った張本人ですやん。ハブられた末路 >>185
いや、その最悪のシチュエーションを見事にやらかしてるじゃん。
アリバイの後詰めなら、大垣守るために渡河阻止の準備くらいしておけよと。
大垣城が落ちてないのは、福島らが榊原に流石に窘められて一旦赤坂で足場固めしたからで、
良くて大垣落城、悪けりゃそのまま関ヶ原ぶち抜かれて近江までなだれ込まれてたわけで。
しかも、さっきからなんで東軍は来ている全軍、西軍は細分化していってるのさ?
少数の三成が勝てない戦いを頑張った!悪くない!って言いたいだけでしょ。 榊原は秀忠付きだが井伊、本多ということかな
大垣、佐和山を攻めず赤坂で対陣し軍事行動停止した事情は一次資料がなく不明
8月27日書状の家康の停止命令が届いたのは9月初旬だろうし >>188
東軍は細分化する意味が無いからな。西軍は大垣、岐阜と守るべき拠点が二つあってここに守備隊を置かない訳にいかない。だから守備隊の分数は減る。当たり前だよな
東軍はそういう背景が無いからどうでも動ける。極端な話岐阜を攻撃して逃げても良いし適当に囲んで大垣を叩きに行ってもいい。西軍にこいつらを割る方法は無いから。だから難しい局面なんだろってコト >>185
三成の西軍内での地位や立場が不明だから「何が最悪なのか」分からんでしょ
数的不利&渡河阻止失敗の時点で大垣に籠り続けるのは敵中孤立のリスクが増すばかりの悪手に見えるけど、当時の三成の立場上死んでも大垣以西に撤退できんかったのかも知れんし 三成の預かり知らぬ事だし三成の責任でもないが八月初頭の時点で犬山が東軍に寝返ってるのもキツい。当初の木曽川で東軍を防ぐ戦略が早くも破綻している >>193
明確に東軍に加担しようとしてるのは加藤だけでしょ、
他は日和見勝ち馬ライダー勢で。
最後の大垣城守備隊もそうだし、
戦況不利と見ると岐阜に戻らずどっか行っちまった佐藤もそうだし、
西軍優勢なら素知らぬ顔して西軍ヅラして居座ってる連中。
まぁそれが悪いとは言わない。
小身連中の処世術だし。 上有知城主佐藤方政は7月22日の新加納の合戦で奮戦しているし
一説には翌日岐阜城搦手で戦死、実際は岐阜城より落ち延び
大坂夏の陣で豊臣方に加わり戦死してるので
(清泰寺文書)(飛州志)(佐藤金森由緒書)(佐藤系図)
他の風見鶏連中と一緒にするのは酷では >>195
それはっきりしてないように思うんだけどなぁ、
後詰配置されてたのに戦闘もせずどこかに行ってしまった説をわたしは見てるけど。 >>194
一枚岩じゃない事が既にキツくないか?
大久保長安の八月二十一日書状だと犬山城の守備隊には家康からの朱印状が出されて実質的に降伏してる。ただでさえ東軍の大軍がやってくる時に犬山が降りてるのは割とマズいと思うが。まぁ三成にはどうしようもないが そもそも徳川家康と毛利輝元では、人間や経験、力量が違いすぎると思うが
当時の人々に家康と輝元は人間の面では互角という認識でもあったのか? 秀吉の家康と輝元の評価が雲泥
徳川家と毛利家の家格ならタメを張れるだろうが当主の扱いが違いすぎというか家康が飛び抜けてる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています