石田三成の挙兵 ★9
いちおつ
関ケ原で豊臣と徳川が戦った → ✕
西軍の総大将は石田三成 → ✕
戦闘開始後小早川秀秋がいきなり裏切った → ✕
石田三成は豊臣の忠臣 → そうかもしれないかそうでもない >戦闘開始後小早川秀秋がいきなり裏切った → ✕
いやいや白峰氏はイエズス会日本報告集に始まったと思う間もなく太閤様の妻の
甥など何人かが裏切り短時間のうちに内府様は勝利をおさめた、わずかの間に
奉行軍は総崩れとなった、仕組まれた裏切りにより一瞬にして全軍が敗れた
との記述や戦いを交えたとき(開戦時)小早川、脇坂、小川らが裏切り敵は敗軍
になり(9月17日松平家乗宛石川、彦坂書状)
即時に乗り崩され(9月17日吉川広家書状案)
即時に破り大勝利(9月20日近衛前久書状)
関ヶ原に将に陣を敷こうとしたところに小早川らが味方に付き敵敗軍(当代記)
などから開戦間もなく小早川寝返り西軍は短時間崩壊説を唱えられているよ。 >>5
前から疑問に思ってたけど、一次史料だと小早川、小川、脇坂の名はあるんだけど、
朽木と赤座の名が裏切り組の中に無いのは何故? 松平彦坂には確かなかったよね?
私の知らない一次史料にこの二人の名前があるのかな? >>6
朽木と赤座は一次史料には出てこないよ
石川・彦坂連署状だと小早川秀秋・脇坂安治・小川父子(祐忠・祐滋)の4人だね >>7
松平彦坂とか、他のおおかたの一次史料にもこの二人無いよね?
というか、三成が8月に真田に出した編成に関する書状でも、この二人の名前無かったよね?
なんで赤座と朽木の名が加わってるんだろ? 確かに一次史料には朽木、赤座の名はないですね、大谷勢と戦った
藤堂家の覚書にも脇坂、小川は出てきますが朽木、赤座の名はないですし
それでも後年の編纂書などには4家とも出てきます
調べた範囲内では当事者の記録として唯一関ケ原合戦にいた僧の覚書と称する
関ケ原合戦承及覚に峠(藤下)村に赤沢越中守(恐らく赤座の事)、脇坂、朽木
松尾山に小早川,小川が布陣していたとありますが、この記録は他の史料と一致するところも
ありますが内容的に関ケ原合戦始末記あたりを参考に書いたのではないかと思われ
信用できません。 それでは信頼できる初出はなにかと調べたところ、以前書かせていただいた
太田牛一の関ケ原合戦双紙(別名:内府公軍記)ではないかと思われます
この書は多くの関係者から聞き取りなどをし何回か加筆訂正され、
今の所成立順として栃山本→大和文華本→蓬左文庫本で最終的には
1607年に成立したもので寝返り者の名として栃山本には
小早川、脇坂、朽木、小河で大和文華本と蓬左文庫本には小早川、脇坂、朽木、小河に
赤座が追加されています
ただこの書は他の記録と付き合あせると後のものが正しく訂正されていることも
あれば後のものがかえって誤情報に変更されていることもあり、今の所
最初の栃山本がいちばん信憑性があるといわれています。
実際に朽木、赤座が参戦していたかはわかりませんが
後年の史料に朽木、赤座の名が出てくるのはこの記録が始まりではないかと
思われます。 関ヶ原始末記は信頼できない史料と見ていいのかな?
あれ確か酒井忠勝の編纂だよね
酒井は1586年生まれで関ヶ原にも秀忠軍に従軍していた経験者なんだけど >>4
正しい答えも書いといて欲しい
僕みたいな初心者のために >>12
関ケ原で豊臣と徳川が戦った → 関ヶ原で豊臣家家臣同士の内部抗争をした。
西軍の総大将は石田三成 →石田三成にはほとんど決定権がなかった
戦闘開始後小早川秀秋がいきなり裏切った → 小早川秀秋が裏切ったので迎撃or逃走しようとして戦闘が開始した
石田三成は豊臣の忠臣 → 秀頼どころか、故人秀吉の意に反する行動多数で忠臣とは言えない タイトル忘れたけど、関ケ原の本に、西軍蜂起は三成でなく、
秀家がやったって説があった 三成が立つまえに、
どっかで戦勝祈願?してるらしい
また、そこには北政所もいたと 寧の家康支持説が揺らぐ >>16
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/7/0017?m=all&s=0017
これ読む限りは北政所出てこないし、東殿(大谷母)名代の社参も別日だな
だいたい関東征伐のための必勝祈願でも問題ないし
舜ちゃんも淡々と出来事を記しているだけだ
7月1日説があるそうだが、ほかの写本でもあるのか? 大西氏は公戦である会津征伐に際して、儀礼的、形式的必要から宇喜多は豊国社での神馬立の儀式を行ったのではと言ってるね
また7月7日に豪姫や東殿による湯立神楽の奉納も西軍の必勝祈願と断定するには根拠が乏しいとも言ってる
確かに湯立神楽は特別な儀式ではないし当時の恒例行事みたいなもんだしな 確かに公儀の戦ではあるけれども奉行、豊臣家(淀殿、北政所)の反対を
振り切って強行したものだし、太閤の遺言で秀頼補佐の為大阪に詰めていた秀家を
強引に伏見に追い払い、宇喜多騒動で秀家に背いた家臣に寛大な処置をした
家康の戦の為に豊臣家の聖地である秀吉の神前で戦勝祈願するかな
10日後の7月15日島津義弘書状で豊臣家の為に上杉に味方すると相談して決した
首謀者グループ毛利、宇喜多、3奉行、小西、石田、大谷に名を連ねている宇喜多が
内府が大坂にいる頃から(6月16日まで)挙兵計画はあったという石田が動き出す
7月10日頃よりわずか5日前のこの時期に制軍挙兵計画を知らないということが
ありえるだろうか
7月上旬に毛利輝元の祐筆を安国寺の要請で大坂に送っているし
毛利の7月15日以降の素早い動きをみてもある程度事前に挙兵を計画していたと
思われ、毛利、宇喜多が會津出兵に武将の派遣という協力の姿勢を示し
帰国したのは(毛利は6月8日頃、宇喜多は不明だが6月8日には国元にいた)
家康を油断させるための擬態で7月に上坂するという挙兵計画の一端ではなかった
のではないだろうか。 7月ごろは何より会津征伐が優先される
会津征伐が重視されるからこそ隠れ蓑として有効とも言えるわけで
公式に認められた戦はそれだけ重い
東軍の結束と士気の高さもそこに由来する部分もあるんじゃないか 西軍が決起したのも会津征伐が公戦と認められちゃったからでもあるだろ 今の日本の政治家って楽だよな。いくら不正しても罰せられない。
他国に攻められる危険も少ない、対抗勢力による攻撃もない。
まさにやりたい放題、失策し放題。
民主主義最高じゃないか、超絶バカな国民はちゃっちいマスコミによる報道で洗脳し放題だしな。
戦国時代はなんだかんだリセットの嵐だし。
江戸時代ですら幕府によるお取りつぶしに怯えていた。
現代日本は悪人にとって最高な時代になった。
まさに天国。
それにしても先人が血で血を洗って作り上げた日本が外国人の流入でさらなる展開を見せるだろう。
内戦でも起こるのか、調和するのか全くわからないが。
先人には申し訳ないとしかいいようがない。 今の日本って人口どんどん減らして東京を中心とする都市国家を目指してるみたいだが。
それって金融サービス国家な。
ふと豊臣家に似てると思う。金は全国の代官から集まってくる。
しかし手持ちの軍隊が少ない。
徳川は金こそ豊臣に劣るが兵力が半端なかった。
日本もそうなるんじゃないか。世界から金をかき集めるが、軍隊もなければ農民もいない。
すっからかん。戦争しかけられたらめちゃくちゃもろいぞ。
ドローンみたいな無人兵器を大量に用意するのだろうか。
考えてなさそうだな。
豊臣がなんで徳川にひねられたかって結局、兵力不足だからね。
関が原の戦い後に全国の知行地をごっそり徳川にまきあげられた。
代官じゃなくて子飼いの大名の知行地ならああはならなかった。 >>19
「不屈の両殿」読んでも
島津の動きはようわからん
確か義久・忠恒は
義弘が勝手に西軍についたと批難しつつも
加藤清正からすれば国元でも島津忠長が小西救援して
「お前らも国元でも西軍に味方してただろ」って認識で 上杉討伐の際に
「上杉殿を説得しますので是非わたくしめをお供させて下され」
とか三成公に言われたら、徳川公は面喰っただろうね。 本来は会津征伐に反対するなら奉行の誰かがその動きをしなきゃいけないんだけどね
秀吉の遺言の一条のさげさやの躰で~っていうのはまさにこういう事態を想定しているのだろう >>25
確かに清正は11月25日付榊原康政宛の書状で、義久と忠恒は何も知らなかったと言っているが
宇土への後巻として島津忠長や新納忠元らを佐敷表に派兵しているじゃないかと非難してるね
後段で清正は上洛したら前後の様子を直接お話すると息巻いてるが、義久・忠恒は知らぬ存ぜぬ&秀頼のためで押し
通してるし、その後の対応みてもこの点については大した糺明がされてないようだし不問に付されたんだろうな 清正は庄内の乱で反乱側に通じてた事があるからね
小西救援はその事が尾を引いていたのかも
伊集院氏は降伏したので清正との通謀の新たな証人、書類などを握られてる事を
懸念し小西救援をあまり追及すると藪蛇になりそうなので取り下げたのかな 清正は島津ぶっ潰したいマンだから島津挑発するわ大げさに報告するわで島津征伐誘発しようとしてる感じよね。
庄内の乱での内情知ってる家康に見透かされてたから大事にはならなんだけど。 加藤清正からしたら
隣国に島津家が居座るのは嫌だろうけど
庄内の乱の支援は下手したら内政干渉で
そりゃ大老として家康怒るのもしゃーない 清正の庄内の乱での行動は理解不能
仲介の労をとるか島津本家に加勢するならともかく反乱側に回るのはわけわからん 妄想ですが
梅北一揆の時の遺恨できたとか?
関ヶ原あんまり関係ないが
庄内の乱の際に忠恒の戦下手を
「近ごろの若い者は」と嘆いてた義弘が
関ヶ原戦後処理で領土安堵勝ち取った後は
忠恒の事を「あなたは島津家の中興の祖」と掌返しで持ち上げてるの面白い 宇喜多騒動が家康の陰謀ってのは当時から囁かれていた噂で徳川も秀家の決起理由だと認識してる
豊臣からすれば家康が難癖つけて豊臣の力を削ってる様に見えてたんだろう 毛利も遺領問題で徳川に手を突っ込まれてるんだよな。
秀吉案 毛利秀元>吉川広家>毛利輝元
奉行案 毛利輝元>毛利秀元>吉川広家
家康案 吉川広家>毛利秀元>毛利輝元
そりゃあ毛利輝元は決起するし、吉川広家は徳川に付くわな。 成り上がりの家が代替わりでゴタゴタするのはよくある話でもある
前田家も利家が死んで利長が継いだが家中が上手く治まらず大阪から国元の戻る羽目になった上に手続きを怠ったために無断帰国の失態を犯してるし
ただ老臣と一門の多くにそっぽを向かれるのは秀家の力不足しかないわ そういや豊臣家も成り上がりだったわ
宇喜多騒動と関ケ原は似てるかも >>38
宇喜多については秀家より直家がなあ……。
あんなもん、直家による暗殺の恐怖と秀吉という絶対的な後ろ盾の両方が消えたら崩れるに決まっていると言うか。 >>36
看羊録にある記述だね
とても事実とは思えないけど当時そういう風聞があったことは分かる >>40
関ケ原の時点で秀家は28歳かな
若いとはいえ唐入りなども経験して分別もあるはずの年齢だし50万石の家の当主としての才覚が発揮できてないのは否めない
まあぶっちゃけ義父の秀吉あっての宇喜多家だったのかもしれんが 宇喜多秀家って首謀者の割には残っている一次史料が少なすぎやしないか? けっきょく秀家も輝元もあほだったのかも知れん
大将があほだと勝てん これはもう鉄板理論 >>44
首謀者をどういう意味で使ってるのか分からんが
秀家が火付け役だったとは到底思えない
史料貼ったでしょ?
処分もなんだかんだ穏便なもので、子孫はいまでも八丈島にいるそうだしなあ
慶長4年に家康が強引に大坂城に入った(すぐ西の丸へ)
追い出されたのは秀家だったが、さて
もうこの段階で家康一強は確定済み
前にも書いたが、各個撃破されると困るというのが決起衆の本音だろう
安国寺長老の動きがポイントなんでしょう 結局家康を暗殺するしかないんだよな勝てる方法
まともにやったら絶対に無理 毛利・宇喜多・前田見てると中央集権化ってくっそムズいんやな >>48
無能と名高い毛利輝元だけど、最終的には中央集権化に成功した点においては評価してもいいと思う。
あれだけ無能を晒した関ヶ原の敗北を利用してるのは釈然としないがw 中央集権という言葉は長年研究者の間でも謎とされていて
いくつもの仮説が生まれてきたな
真実がいつか解明される日が来るかもな 中央集権って言いたいだけで定義や中身が伴っていない感 >>52
近代の意味の中央集権と言うより、国人合議制からの脱却でしょ。
他の国人への命令権を得るのが第一段階。
いわゆる戦国大名化。
国人を領地から離して家臣として配置できるようになって完成。
その意味では織田家が早かったし、豊臣も徳川や上杉の転封を自由にやり始めた段階で成立。 織田の譜代を畿内各地に配置したことかな
どちらにしろ在地勢力を一度屈服させる必要がある 上杉も武田も河田長親や春日虎綱配置してるから別に織田が特別とは全く思わないな
時代も少し違うし 細川三好とかいるからな
秀吉の生前は絶対的だった豊臣も徳川が独立してるし主従の関係は実力と情勢次第 輝元が関ケ原後に中央集権化できてるかってーと支藩独立運動される程度にはできてないちゅう。たしかにましにはなったが。 極端に言えば一番いい中央集権化の方法は組織を縮小することだから。巨大組織を個人の力で動かす事は不可能でどうしても慣習や人間関係に縛られる。組織が小さくなれば必然的にリーダーに権限が集約して動かしやすくなる。改易や敗戦で却って中央集権化するのは道理 ヒデヨシくんは自分で形成した秀次&譜代の中央集権体制を自分でぶっ壊して外様合議にさせてんの草 日本国王:豊臣秀吉 王妃:北政所
神童世子、関白:豊臣秀頼
五大都督:小西行長、石田三成、増田長盛、大谷吉継、宇喜多秀家
十亜都督:家康、利家、羽柴秀保、秀秋、氏郷、輝元、平国保、隆景、有馬、宗
(1595年1月7日 明に提出した授職者請願者名簿:小西飛稟帖) >>62
内容自体はそれなりにマトモなんだよなこれ 都督指揮のメンバーは小西と疎遠な加藤清正や黒田長政を差し置いて
石田正澄や身内の小西主殿助や重臣小西末郷が入ってるのが面白い
まあ身内贔屓になるのはある程度しょうがないけど >>63
どこがまともなんだよ
関白が秀次ではなく秀頼になってるし、明らかに武家関白体制を自分たちから否定してるんじゃないか >>62
こりゃあ福島ら武断派が怒るわけだし、小早川秀秋が東軍につくのも当たり前だ。
しかも秀保はこの年に急死した上に葬儀すら禁じられ、秀秋は領地を没収後蔵入地の名目で奉行衆に奪われている。 五大都督:小西行長、石田三成、増田長盛、大谷吉継、宇喜多秀家
と1598年8月28日の輝元、4奉行起請文の5人を合わせた延べ10人
石田、増田は両方名を連ねてるので8人が
1600年7月15日の島津義弘書状の西軍挙兵首謀者グループの
輝元、宇喜多、三成を入れた4奉行、大谷、小西の8人とぴったり一致するね そういえば、明の宋応昌の『経略復国要偏』に「文禄3年(1594年)、小西行長は朝鮮出兵における対明和平工作を担当していたが、その際に秀吉嫡子を『日本国王世子』とし、関白の秀次をその下に置く要望書を明に提出した。行長はこれについて、『関白が秀次なのは動かせなくても、国際的に通用する日本国王を継承するのは秀頼である』と述べた」
なんてあるらしいな。これは小西の独断ではなく、奉行も絡んでいたのかな >>65
秀頼が産まれた時点で秀吉が秀頼を関白にしようとするのは明らかなので…武家関白制を否定して豊臣公儀は秀吉政権と明らかにしたのは秀吉なんだからその秀吉に仕えてる連中がそこに気を配らない筈がない >>65
この書状が真実だとしてこれは豊臣公儀の問題点があらわれてる。豊臣公儀とは関白が頭領なのか秀吉が頭領なのかという問題が あくまで「秀吉が統治するための機構」 であって、朝廷諸官の頂点の関白は朝廷を利用して統治するのに都合が良いから就いただけでそれ自体を秀吉は重視していない。
自ら初めて構築した武家関白制をあっさり崩壊させたのも、政権の根源は自分そのものにあるから秀次が死のうが関白の権威が墜ちようが構わない。
だからこそその秀吉の意を帯する奉行は秀吉を日本国王、秀頼を継承する世子と記す事が出来た。
だが余りに秀吉そのものに依拠したからこそ、秀吉没後豊臣という政体は崩壊する宿命にあった。崩壊を防ぎ完全に秀頼を政権の根源とするには成人した秀頼に直接秀吉が政権委譲をする以外無かったのに、秀吉がそれを待たずに死去したからに他ならない。
秀吉が老衰して無理やり秀頼を任官させた時、まだ幼児でしかないのに後陽成天皇は秀吉に「秀頼を関白にしてよい」と言ったという。直ぐにそれは豊臣側から辞退を申し出たというが後陽成天皇はどういう積もりだったんだろう。 話がやたら長いだけで論旨があいまいなのは痴呆老人の特徴
見た目はじじい頭脳は幼稚園児並ということだろう Amazonで入手可能な西軍武将最新研究書
「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇 (角川新書)
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「東国の雄」上杉景勝 謙信の後継者、屈すれども滅びず (角川新書)
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戦国の交渉人 外交僧の安国寺恵瓊の知られざる生涯 (歴史新書y)
洋泉社 253ページ ¥9,240 税込 そもそも秀次事件の後の秀吉はめちゃくちゃだろ
武家関白制を自分から破壊して、自身の独裁制に戻す
しかし自身の寿命を悟ったのか、「西国の侍は伏見に、東国の侍は大坂に詰めて
秀頼を盛り立てよ」とか言い出す
そして「五人の御家老、五人の奉行もこの時定まり候」とあるように、五大老五奉行制の
集団指導体制に移行する
自分が死ぬたった3年で次々と体制を改変してゆく
これじゃ後継体制が軌道に乗らずに崩壊するのは当たり前だ 公家の関白に拘泥する必要も無かった。関白は朝廷の要職で慣習含めて制約が強過ぎる >>76
アマゾン見てきたらたしかにその値がついているが
なんでこんなにプレミア価格になってんの?
戦国の交渉人 外交僧の安国寺恵瓊の知られざる生涯 (歴史新書y)
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三成の書状は完全に無視ですか、そうですか
家康のことを挙兵の後に「彼の仁」なんて書いてる時点で憎しみがなかったとは思えんけどね
まあ、あの書状を見る限りは、細川忠興に対する憎しみ>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>徳川家康に対する憎しみ
なのかな 憎しみがあろうがなかろうが、仲が良かろうが悪かろうが、立場によって対立するときは対立する。
例えば東西の総大将である徳川家康と毛利輝元は割と仲は良かった。
明確に敵対した関ヶ原のあとでも「病気したんか?大丈夫か?ワシのお手製の薬送ったろうか?」
「おー、よう来たな。昔話に花を咲かせようや」なんて書状のやり取りがあったとのこと。 昔話か、AKやみっちゃんの悪口でも言って盛り上がったんかな 現今の与野党がオフィシャルな政治的立場では対立しても個人的には仲良かったりするようなもんか 今何かと話題の石丸市長を見ていると、石田三成ってこんなかんじだったんだろうなあと思う。 >>86
皮肉にも、その石田三成たる石丸市長のいるところこそ、毛利輝元の本拠地なんだよなあ。 新進気鋭の水野伍貴さんの関ケ原本読んだけど、
白峰説とか否定して、従来説にそった内容だった
うーん おもしろくないなあ
まあ、まじめな研究だから、おもしろい方がおかしいんだろうけど 白峰説は相反する史料をよくわからん理屈つけて排除してようやく成り立つものが多いからな。 この場合の従来説ってどこまでを指す?
流石に石田三成が主導で関ヶ原で鶴翼の陣で家屋付を迎え撃ったら、
片翼の毛利が動かず戦闘開始後に小早川秀秋が徳川に鉄砲を撃ちかけられて、
裏切って大谷隊の背後から襲って来たので西軍総崩れという説ではないと思うけど。 横からですまんが従来説というのは
@西軍布陣のことと
A西軍瞬殺ではなく一定時間持ちこたえたということだろう
問鉄砲は白峰氏は明確に否定している さすがに問い鉄砲はないけど、大坂突かれるのを恐れて城出たと
南宮山もやばいと それで先回りしたと
大坂城まで攻めさせて、挟み撃ちとかできなかったのかねえ
宇喜多軍は八千ぐらいだったろうというのは納得
6千5百の福島隊と互角だった 1万7千のわけがない
吉川の手紙をやたら細かく分析してた 宇喜多分限帖によると宇喜多秀家領は49万石なので
1万石当たり300人で計算しても1万5千以下で
宇喜多騒動の離反者の穴を浪人で埋めたとしても1万8千はなさそう
8千というのは妥当なところともいえるが、義演准后日記8月15日条に
宇喜多秀家が1万人で出陣し醍醐を通ったとあり別働隊の明石掃部(3万3千石)
が伊勢に先行(8月19日付の戸川宛明石書状)していたので
8千よりはやや多く1万人強位の兵力だった可能性も考えられる 三成と親しく
加藤清正・黒田長政たちに「朝鮮でのお前の指示は無茶苦茶(意訳)」と非難された
寺沢正成(広高)が関ヶ原では東軍でちゃっかり生き残ってるの草ですよ 寺沢はめっちゃ不思議w
がっつり三成派だったのに。関ヶ原でどこで何してたか実は不明とも見たな。 >>94
一定時間とはどれくらいのことを言ってるのかな?
2時間? 4時間? 出て来ている各書状や9月13日までの配置から、白峰氏関係なく下記は確定でしょ。
①小早川秀秋の裏切り(西軍視点)は西軍と東軍の激突前の9月14日。
②南宮山勢には、吉川、毛利だけではなく安国寺や長宗我部にも関ヶ原への「布陣」の連絡なし。
この結果、大垣勢の目的が小早川排除のためか夜陰に紛れて撤退かはともかく、
少なくとも南宮山勢が東軍側面・後方を突くという戦術は共有されていない。