武田勝頼 part48
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武田信玄、武田義信、武田勝頼(諏訪)、武田信勝(織田)、黄梅院(北条)、真竜員(木曽)、見性院(穴山)、菊姫(上杉)、松姫(織田)など、武田関係について語って下さい。
なお、このスレにはアンカーレスを多用する荒らしがよく現れますが、無視して下さい。この荒らしはリアル世界に友達がいないため、皆様に相手にしてほしいから全てのレスにコピペ返レスしているのです。少し前の放火事件のように現実世界に迷惑をかける可能性もあるため、皆様寛大な心で受け入れてあげて下さい。
ワッチョイ導入議論スレ
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1644501787/
武田勝頼 part47
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1648298634/ ID:su/SlMIM
スレ立てしてからうめろカス >>1
乙。
前スレ>>998
「揺」は武田独特でも何でもないという事例が散々上がってたろうがよ。
思い込み、否、思い入れで語っても始まんねえよ。
同時代文献でさえ主観や立場による誤謬、偏向、誇張、歪曲、粉飾、隠蔽、嘘偽、捏造から 絶 対 に 遁れられないから留保付きの参考にしかならない。
ましてや後世の編纂物なんぞよっぽど読み方に注意しなきゃ害毒にしかならない。 >>3
さんざん上がってたか?草
「役所」については説明してなかったな
武田黒印状に出てくる表現なんだが、意味は城の番衆の「持ち場」
甲乱記にも同じ意味で出てくるが、あんまり見かけない表現なんだよなあ
官途名が正確という指摘があったし、織田勝長が信房と記されていることは書いた(最近の研究じゃ信房が正確とされてる)
上記などから当時、武田家にいた人間が成立に関わったのは事実だろうと述べたまでで、じゃあ何から何まで信じろ真実だなんて言ってませんよ
どうせあなたは甲乱記を読んでないでしょ?はなから無価値と決めつけてるんでしょ?
捨てたもんじゃないよと
一次史料一次史料と呪文唱えていればよろし >>4
一次だろうが何次だろうが文献史料は信用ならない、と明確に書いたのをこれだけ誤読できるとは、
かなり特殊な国語能力を持っているようだな。 >>5
あ、文献史学を否定する人なのか
なら話が合うはずもないし、史学をかじったこともないということだね
史料の取り扱いの難しさには同意してたんだが、それ飛び越してんな
「歴史」の否定ですらある >>4
細かいことだが保科正俊宛の文書なら黒印状ではなく朱印状だな >>6
文献に記されたものが歴史だと思い込む化石っぷりを嗤う。
そんな歴史観は前世紀末も待たずに終焉している。
歴史とは動物ヒトの実生活の累積のことだ。
それはモノとデータでしか検証できない。
中世史を扱う者たちは玄人も素人もその意識を欠く者が多過ぎる。
同じ歴史の範疇でも、
例えば古代史学者たちは考古学成果やシミュレーションを「主」として、文献については「補」と位置付けて徹底して批判的に読み込む。
文献は信用ならない、まして後世のものは、ということを彼等は知っている。
中世史学者にはその姿勢も試みも乏しい。
文献を物神化して崇め奉る。
だから時折、考古学、気象学、地震学、工学等の分野から「定説」をひっくり返されて見苦しい醜態を晒すことになる。
ヒトは常に間違うし嘘もつくという限界に対する謙虚さが足りないんだよ。 >>7
これは面目ない
その朱印状にちょうど揺も役所も出てくるんだよね
長篠の大敗でびびってめちゃくちゃ細かい指示をだしている好史料 >>9
人質の取扱、地下人の取扱、どの口にどの番衆を配置するか等
信長の侵攻に備えて28ヶ条に渡って細々と指示してる面白い文書だな >>10
武田の動揺がひしひしと伝わるよね
「山小屋」については村の城論なんかもあるが、むしろ武田が率先して避難させてるし「或は通路をさいきるへき時節召出」と使役させる気なのも面白い
あとは敵が来ても迂闊に城から出ずに役所を堅め、「以浮衆可討後事」というのも興味深い
甲陽軍鑑に記されており、さまざまな働きを期待された遊軍「浮勢」が一次史料に記載されている
私は武田の研究に疎いからすでに指摘されてることなんだろうが 一次史料と軍記物語違いが分からないいつもの長文馬鹿 >>11
確かに書状類だと浮勢に関する記述ってあんまり見ないな
記憶にあるのだと時代は下がるが、黒田家文書にある朝鮮出兵の際文禄年間の秀吉書状で見たくらいかな
秀吉書状だと「うき人数」、「うき勢」って表記だったな >>13
すごい史料読みだね、あなた
浮き衆、勢ってのはわりと一般的な表現だったのかな >>14
浮勢の前後の部分だけ抜粋してみたが「うき人数」のすぐ後に「うき勢」と表記を変えて使用してるな
同義だし恐らく深い意味はないんだろうが
・文禄2年2月16日付黒田長政・大友義統宛秀吉書状
「何時も動於有之者、隆景と増田右衛門尉可為留守居候、うき人数無之候てハ不相叶候条、
其外ハ備前宰相を為大将、各うき勢ニ成可有之候、示合何方へ成共可相動事、」
その他に幕末に真田家が編纂した家譜だが参考まで
・一徳斎殿御事蹟稿「浮武者」
・左衛門佐君伝記稿「浮勢」
多少の違いはあれど浮○○って言い方は当時一般的な表現だったんだろうね
面白い話題だったがスレチだしこの辺で >>15
史料的な側面でいえば秀吉も機動的な予備戦力を重視していたわけか
あなたは七将スレでもすぱっと史料だしてくれていた人だと思うので、博識多才ぶりをじゃんじゃん投入してほしい
スレ違いなどといわず
「人数」の意味すら分からないだろうやつしかここにはいないんだけど >>17
こういうやつが出てくると思ってたよ
私は下品だから批判してくれていいが、先方は極めて抑制的な人(と同一人物だろう)
甲陽に出てくる武田軍制に関係する用語の話なのにスレチとまで言って自制している
だから批判はやめてくれ
私が甲陽における浮勢という不確かなものに一次史料の裏付けがあるんじゃないかと書いてもこれだからな
本当に一次史料を君らは読んでるのか?
誰かの受け売りだけだろ
もっといえば二次史料の重要性もなんだけどな >>18
一次史料も二次史料も物証を伴わなければただの紙屑。 前スレでも甲乱記で絶賛しあう臭いのがいたからまあワンパターンよな 四戦紀聞、長篠日記の名を久しぶりに見たわ
史料としての価値が低いのが解らない菅沼しか口にしない物の名を >>21
四戦紀聞に価値がないのは読んで理解した
長篠日記は読めていないので保留
あなたはどちらも通しで読んでいるんだろうから、長篠日記のどこが史料価値を毀損しているのか教えて
説得力のある解説をよろしく〜 「美濃国属勝頼掌握為静謐者」木曽義昌に千貫の土地をやるから戦功に励め
どこまで本気かはともかくこんな威勢のいい約束をしたのが天正二年十二月
一年後には「木曽か伊那に織田の後詰めくるかも怖いよー」と偏執狂的な細かい指示を出す
それが保科宛朱印状
同じ頃の書状には「来年は濃尾と決戦だー」と息巻きながら、内容は追放したやつとかも許してなるべく兵力を集めろー
必死です それだけ長篠のダメージはでかかったんですね
法政大の論文によると、武田の軍役改革は永禄年間と天正四年以降の二回あった
前者は信玄、後者は勝頼
天正四年からのは検地して増えた分を新恩として与えるかわりに軍役を強化した
これも明確に長篠の影響だ
当然負担が増えるわけで逃散や軍役懈怠が頻発
知行の低いものは軍役が軽い一種の累進課税のような形態で不満の解消に努めたが、筆者は滅亡の引き金になったと指摘している
実際に木曽攻めの最中に一揆が起こったりしてる
長々と何がいいたいかというと、長篠後も版図を広げたからダメージ少なかった論者がいるが、そんなことはないと
長篠で負けて滅亡へのカウントダウンはすでに始まっていたんだね 天正五年の武田軍役定書だと「領内の貴賤十五以上六十以下の輩」全員に軍役が課せられてる(以前は知行訳以上の侍衆のみ)
実質的な国家総動員状態な訳でここから更に領土を増やせないとなるともう絶望の真っ只中って感じよな。 永禄12年の武田軍役定書だと
「軍役の補いとして百姓・職人・禰宜、幼若の者を参陣させることは謀逆の基これに過ぎるものはない」とまで言ってるのにな
緊急事態でそんなこと言ってられんてことだろうが厳しいわな ものの見事に未来予知かよ→謀逆の基
甲陽軍鑑でも長篠の損失を埋めるべく侍を辞めて商人や坊主になってた連中を徴用して再編成したっていうからなぁ。
ただ徳川家康からは割と好評価で「流石武田、まさか建て直してくるとは思わなかった」と言ったとか(三河物語だったか)
ただかなり形は悪かったらしく家忠日記によると「農民まで連れてきてなんだかみすぼらしい」感じがしたらしい。それでも五年は耐えた訳だけど耐えただけじゃあな。 >>28
その「謀逆之基」の元書状である朱印状、すでに「烏帽子・笠を除て、惣而乗馬・歩兵共に甲(兜)之事 付、見苦候共、早々支度之事」とか「知行役之鉄砲不足に候、向後用意之事」とか
なんとも貧乏くさい
まあ歩兵装備自体は北条より重装備なんだけど
一方で勝頼は長篠で大敗したあと、「弓うつぼ」が見苦しいから直せとか書状書いてる
うるせーと家臣も思っただろうよ >>26
そうやって、君にとって都合がよくないと思しき論旨を書く人を、
同じ人認定しようとするのはやめた方がいいと思う。
一体誰と誰を同じ人認定しようとしてるのかな、君は。
>>2
前スレの金曜夜から土曜深夜にかけてのレスの事?
僕はその時間帯で5レスもしてないように思うし、僕が書き込みした後も、
10レスくらい残ってたと思うのに、それで君がそんな事を書くのはどうかと思う。
>>12
誰の事言ってるの?なんか変な認定とかしようとしてるように思うけど。
>>17 >>20
少なくとも、僕にはそこで議論しあってる人達は良識的な普通の人々に思えるんだけどなあ。
君にとって都合のよくないと思しき議論とか流れとかを、そうやって同じ人認定使用とするのって、よくないと思うんだけど、どうなの。 >>21
んん?また誰かを菅沼認定してるの?君。
僕は前スレとか読むと、菅沼認定厨さんと思しき人に、菅沼認定を受けたと思われる人間の一人だけど、
その二つについて、前スレも前々スレでも僕は特に言及してないように思うんだけど。
つまり、君の理屈によって、僕は菅沼じゃない、っていう事でいいのかな。
というか、前スレでも前々スレでも、その2書について言及してない人が何人も菅沼認定を受けているように思うけど、
そこら辺は君はどう思ってるのかな、と思うんだけど、どうなの。
ワッチョイスレでは、菅沼認定厨さんと思しき人が、IDコロコロや他人装いをしている可能性が高い事や、
菅沼認定厨さんに特徴の違う複数の人々が菅沼認定をされていると思しき事が指摘されているように思うけど、
それで君は一体誰を菅沼認定しようというのか、答えて欲しいと思うかな。 >>1
誰の事を言ってるのか確定的にはわからないけど、少なくとも僕はコピペなんかまずそんなにしてないと思うし、
僕は書き込みをしてる日数やスレに貼りついている時間が、前スレや前々スレとかを考慮しても、
少なくとも菅沼認定厨さんと思しき人よりは基本的に少ないと思うけど、
それでそんな事を書くのはどうなのかな、と思うし、君が誰の事を言ってるかは確定的にはわからないけど、
上記のようにスレに貼りついている時間や日数が僕よりずっと多いと思しき菅沼認定厨さんに対して、
君のその書いているような理屈だと、色々当てはまってしまう所があるようにも思えてしまうので、
そういう言い方はどうかと思ってしまうんだけど、どうなのかな。 >>30
の
>使用と
は
しようと、の間違いね。おそらく訂正しなくても、大体わかるとは思うけど、わかりやすくする為にも一応訂正しておくかな。 >>29
まぁ、見てくれは大事…大事なんかなぁ。
長篠後に勝頼が玉薬の配備を具体数挙げて命令しているし、もしかしたら兵隊の装備・配給が以前から滞っていたのにも関わらず更に長篠で担当者らが死んだ事で勝頼が厳命する必要があったのかもしれない。
どのみち反撃に転ずる機会が無かった訳だけど… 長篠敗戦後に甲斐武田権力体は物資徴発システムや伝馬他流通システムの直轄化といった類の綜合行政改革に取り組んでいる。
これは遅ればせながら北條今川の国制を模倣して「戦国大名」化を目指したものと位置付けられる(盛本昌広氏等の研究による)。
軍備軍装の直命化、規格化もこの文脈で捉えるべきものだろう。
そう考えると長篠合戦そのものがシステム戦争であって、
「準備や条件整備から含めた綜合事業」(正に「政治の継続」)として推進した織田と旧来の「いくさ」として臨んだ武田との差が必然の結果を生んだ事案と見ることができる。
その結果が戦後の行政改革を促した。
権力構造の進化という観点からは、
譜代の重臣連の消滅=旧来の権益関係の破壊であって武田権力体にとって好機でさえあったろう。
ただ、時間は残っていなかった。 >>35
永禄12年の時点で既に武田はさまざまに軍装とか軍役についての命令をしてると思うんだけど。
軍鑑を読んでも、武田家臣の軍勢動員数が基本的には定められていたように思われる。
むしろ、武田は戦国武将達の中で、法度などの制定をはじめとしての領国統治や、軍役の命令については、意欲的な方だと思う。
織田とか信長公記とか読むと、1580年の佐久間折檻状を考慮するに、
佐久間追放の時点でも、家臣の武将達に信長が具体的な軍役の命令をできていたのか疑問に思うけど。
長篠についても、そんなに織田と武田の圧倒的な差とやらは伺えないように思えるかな。
織田側の信長公記を考慮しても、勝頼がわざわざ設楽にやってこないで、
長篠城周辺の地形を利用して守っていたら、織田徳川勢が長篠城を救援するのは厳しかったように思われるし、武田側の軍鑑を読んでも、幾人もの重臣達が設楽に移動して織田徳川勢と決戦する事に反対していたように思われるので、
勝頼が設楽に移動しなかったら勝敗が違っていたように思われる事から、
長篠の戦いの勝敗を織田と武田の決定的な差を伺わせる材料にするのは厳しい様に思うかな。 >>36
の
>差とやら
は
差、にしておくかな。
なんのかんのと長篠の敗北までは、武田が織田徳川に対して複数の勝利を得ているように思われるので、そこまでの差はないように思うんだよね。
長篠の敗北によって優秀な武将や軍勢を多く倒された事で、質的な差が生じてるように思う。 長篠で織田と武田に決定的な差が無いとか笑えるわ
長篠合戦の主要クラスの死亡者
織田→無し
徳川→松平伊忠
武田→山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・武田信実・三枝守友・真田信綱・真田昌輝・横田康景・原盛胤・原昌胤・土屋昌続ほか数大杉 決戦に反対してたはずの武田重臣衆が何故か被害甚大にも関わらず勝頼に撤退の進言をしてない不思議。余りにも不思議過ぎて「信玄恋しさの自殺的特攻」説が長々語られてるほど。
重臣衆が強硬な決戦賛成派だった可能性もあるけどそれよりも織田・徳川の陣地が凄まじく巧妙だった可能性が遥かに高い。何しろ銃眼まで用意してたわけだし。 >>40
いや戦端開いた時点で撤退進言するのは無理では?
追撃されてそれこそ殲滅される 勝ち目は低いと思うけど、まだ何とか勝算があるとするなら、やはり西上作戦の際に撤退せずに
あのまま三河と尾張を攻め続けていたら……織田徳川を倒せていたのだろうか…… >>40
決戦自体に反対で臆病者扱いされて無視されたのに、決戦始まってまた反対なんかできるわけないだろ >>43
反対するのが臆病ととらえるとか
勝頼はやはり脳筋なんだろうなあ……
織田徳川が陣を構築していたのも
手立てを失っていると見ていたわけだし…… でも、10代や20代ならともかく、30にもなってそんな判断下すんだろうか?
30にもなったら血気なんて普通なくならない?
人生を経験してむしろ知的になるような年齢のはずなんだけど なお、親の信玄の30歳前後は上田原と砥石崩れ
40歳前後で第四次川中島 >>41
長篠の合戦は戦国時代でも異常な、武田軍が大量の死者を出しているのに織田・徳川軍は無傷というワンサイドゲームになってる。信長公記でも鉄砲射撃によって武田軍は「無人の如く」成り果ててる。
武田軍が決戦をしたのも「野戦に持ち込めばお互いに死者が出る」からだろう。例えば川中島の様に。ところが全く違う異常な流れになった。つまり前提が崩れた訳でそれが分かった時点で指揮官は撤退の進言する。臆病者と呼ばれたくないとかいう見栄があったならそれが武田を滅ぼしたと言っても過言ではない。 勝頼本陣からでも自軍の苦戦は充分見ることはできる
決戦が始まった後も意固地になって撤退しなかったのは容易に想像できる
まあ撤退自体、後方の砦は落とされてるから困難で死中に活を求めたのかもしれない 武田勝頼は猛将だからマリウポリもすぐ陥落して上洛しちゃうよ♪ 長篠の合戦を再現したところ、武田軍拠点からは織田・徳川陣が全く見えない。なんと柵しか見えんかったらしい。
勝頼が本陣を置いた赤ハゲからも観測はできない。徳川陣は見えたようだが…
それでどうも武田軍は戦況を把握出来なかった可能性が高いんだと。故に重臣衆も誰も被害を把握できず寧ろ戦況を把握しようとして織田・徳川陣に突っ込んで死ぬハメになったと。 信長は戦況を確実に把握しようと本陣を移したのに勝頼は見えないところで放置してたのか
ますます馬鹿だな というか信長は最初から長篠の地形を熟知してる。多分家康が教えたんだろうけど。その証拠に信長は極楽寺に最初陣を置いていたけどここからは連吾川西つまり織田・徳川陣が一望できる最高のスポット。何も知らず偶然って筈が無いから明らかに狙い通り。そこで陣地形成の指揮をしてた。
本番になると家康のいるところに来た訳だけどこれが前線指揮の為なのか、憎き武田を根切りにする場面を最高の席で観たかったのかは謎。 信長はいつも地形を入念に下調べしてたらしいから
その薫陶を受けた信忠も武田攻めの指揮をする前から高遠城攻めを意識した軍事演習を行っている 連合と武田とでは地の国力が違い過ぎて一戦一戦の重みが違いすぎるんだわ もし信長があんな作戦を立てずに、野戦でまともに織田徳川連合と武田軍がぶつかっていたら、
連合軍は大敗していたんだろうか
1万3000に3万3000が大敗するとしたら、連合軍の兵士の質は相当低いって話になるけど 2500の兵に7000連れて負けたりする人もいるから戦術次第だろう。でも一つ言えるのは事実ほどのワンサイドゲームには絶対ならなかったはず。 偽書説もある理慶尼の記を読んだが、「御内の人の変らずば、仮令(たとえ)、天下勢来るとも、五年・十年の其内は、斯かる程にはましまさじ」と指摘しているね
冒頭で木曽の裏切りに触れ、途中からは小山田の策謀メイン
跡部とか側近は言及されていない
逃避行中の柏尾で理慶尼自身が一泊同泊したからだろうが
武田滅亡の原因というか感想は当事者でも人それぞれ >>58
と、菅沼氏が意味不明のことを口走っており…… >>58
と、菅沼氏が意味不明のことを口走っており…… >>60
くだらな
すぐ透視して
そういうとこだよ
年齢によって知的さが増すなら君は3歳くらいか?
なら仕方ない
おままごとを続けなさい 妙法寺年録(勝山記)も読んでみた
弘治年間から引用
弘治二年、物の売値は安いが銭不足で困る
三年、十二月に日照りで芋がことごとく焼けて枯れた 冬は暖かくてみな餓えること限りなし
永禄元年、一月に雪解け水があふれて田地家村を流した 四月に大氷が降って夕顔、ナス、麻、稗、とくに鶯菜の苗がことごとく折れた 大麦は収量半分、
二年、十二月に大雨が降って雪が溶け、法ケ堂が流れた 在家も中村がことごとく流れた
三年、二月に大雪が降って鹿や鳥が死んだ 六月から十月まで雨が降り続いた そのため耕作がなにもできなかった 前年から疫病が流行って多く死んだ 疫病は翌年まで続いて村落がすかすかになった
四年、一月二月と大雪が降って薪が不足すること限りがなかった 大麦小麦の収量は半分だったが値段は安かった
それ以前も飢饉の報告ばかり
信玄時代からこうなんだから、勝頼期に負担を増やせばどうなるかは分かるもの
甲乱記だと、よそから分取りして甲州は冨貴になったが、周辺諸国に迷惑をかけたバチで滅んだか、なんて記載もある 信玄が拡張路線をとらざるを得なかった事情もあるわけだ
バカはすぐ「信玄も勝頼もバカ」とか史料も読まずにわめくがね
誰それは強い弱い、この戦術はバカ、あそこは何万の兵に何万石だ
そんなゲーム感覚でしたり顔してるのばっかりだな、ここは
それでも長篠での勝頼の判断はありえないのが草ではある >>53
そしてこういう怪しいやつも現れる
根拠示そうね >>38
誰の事?
>>39
だからさ、それって勝頼がわざわざ設楽に移動して、無理に陣地を大軍で守ってる織田徳川に攻撃を仕掛けて敗北したから、に思うけど。
>>36にも似た事書いたように、信長公記とかを読んでも、武田勢が設楽に移動しないで、長篠城周辺の地形を利用して守っていたなら、織田徳川勢が勝利するのは厳しかったと織田側も思ってたように思えるので、地形を利用して守る武田勢に無理に攻撃を仕掛けていれば、織田徳川勢が被害を出して敗北していただけに思うんだけど。
つまり、織田徳川勢が陣地を大軍で守っている所に攻撃を仕掛ければ、武田勢が敗北し、武田勢が地形を利用して守っている所に織田徳川勢が攻撃を仕掛ければ、織田徳川勢が敗北していただけの話で、総帥の判断次第で勝敗は普通に変わっていたように思うので、そこから本質的に圧倒的な差があったという事にするのは厳しい様に思うけど、どうなの。
>>42
上記のような感じで、長篠は総帥の判断次第でいくらでも勝敗は変わったように思うけど。
>>40
軍鑑読むと、反対派の重臣達は設楽に行く前に反対してるように思うけど、
既に設楽に移動してしまって決戦も始まってる状況で、撤退を進言したって、
追撃を受けるだけなんじゃ。
途中から鳶ケ巣砦が攻略された事もおそらく伝わってたと思うし、
なおさら退けなかっただけじゃ。 >>63
「このスレは初めてか?力抜けよ。」
無駄だよ。
例の長文コピペ荒らしは論外として、
それ以外の住人も過半数は史料云々以前に知ってなきゃいけない基礎知識が無い−−
どころか、それを知ってなきゃいけないということさえ知らない。
そういうスレッドだ、此処は。 >>62
甲州攻めで春なのに織田軍に凍死者がでるとか今では考えられないよなあ >>66
また変な事書いているように思うけど、僕は別にコピペなんかしてない事が多いと思うし、
そんな事を書くなら、一体僕が何をどうわかってないと思うのか、
ちゃんと書いてもらえないかな。
そうしないと、議論のしようがないと思うんだけど。 >>61
と、菅沼氏が意味不明なことを口走っており…… >>46
上田原は軍鑑読むと板垣の行動が原因のように思うし、
砥石は普通に城攻めして攻略できずに撤退する所を追撃受けて損害、という
多くの戦国武将が当たり前に経験してる敗北パターンに思うので、
これを特別なように言うのはどうかと思う。
信長だって信長公記読むと同じような感じで1571年の伊勢長島、1573年の第二次伊勢長島で敗北してるように思うので、
どっちも敗北年齢は30代後半に思うけど。
第4次川中島については、当時の状況からすれば、どっちも戦わないと行けなかっただけに思うし、
信長とか敗北数や損害を受けた戦いは信玄時代の武田よりずっと多いように思うし、
1575年の第三次伊勢長島とか勝利はしたけど、数多くの一門衆が倒されてるように思うのに
そんな事を書くのはどうかと思う。
>>47
>>65に書いたような感じだと思う。
>>50 >>52
軍鑑読んでも、信長公記読んでも、武田勢が織田徳川勢の陣地に何度も攻撃を仕掛けて、
撃退されているように思うので、普通はそれだけ攻めて撃退されて、を繰り返してれば、
織田徳川の陣地の様子は大体わかってくるだろうから、わかってないという方が不可解な話に思うけど、どうなの。
軍鑑では、山県勢は柵の位置とかを把握して、迂回して戦おうとしてるように思うけど、
これだと普通に陣地の様子とかわかってるんじゃないかと思うけど、どうなの。 >>66
長文荒らしは文体が独特ですぐあぼーんしてたが、今回の件では見てたらわりと普通の論を語ってるぞ
全レスするから気持ち悪いけどな
あれは論よりやり方で遠ざけられるパターン
そいつをここはバカにするが、はっきり言ってここは幼稚なのしかいない
史料読めとしか思えないね
こういうこと書くと、どうせ私も長文菅沼認定されるだろ
お好きにどうぞ、史料読めない人たちは >>70
こういう、どうしようもないのが出てくるんだよ
こいつが三点リーダーと同じやつかは分からないが、中身がなにもない
史料のひとつも示さない
価値がない >>69 >>59 >>60
君にとってはその人が菅沼なの?僕も>>31にあるような感じで、
前スレとかで菅沼認定厨さんと思しき人に菅沼認定をされた事がある一人に思うんだけど、
君にとってはその人が菅沼なのかな。
>>70
君の部屋の換気をしたらいいんじゃないかな、と思う。 だから史料以前の話。
甲斐武田は地域の統治権力体。
そして戦争と飢饉の恒常的循環連鎖を前提に形成された権力=「戦国大名」という特異性を持つ。
で、此処はそれを語るスレッドだ。
だったら最低限、
権力、統治、戦争(暴力)とは何か、
それは如何なる構造であり運動であるのか、
という基礎知識が無きゃ本来は話にならない。
もっと重要なのはそれを絶対的に規定する地理水文、気候風土、生物、地質、地殻変動等々、
更にはそれを理解する為の理学、工学の知見も付焼刃ぐらいは備えてなきゃならない筈。
それ無しに文献史料なんぞ読んだ所で無駄どころか有害なだけだ。
しかし住人の多数はその意識さえない。
と、そういう話をしている。 >>54 >>55
>>65にあるような感じで、ただ単に、長篠では大軍で設楽の陣地を守ってる織田徳川勢を、
武田勢が設楽に移動して攻撃すれば武田勢が敗北し、逆に長篠城周辺の地形を利用して武田勢が守っているのを、
織田徳川勢が無理に攻めれば織田徳川勢が敗北してただけに思うので、どっちかが相手の有利な防御態勢に攻撃を仕掛ければ敗北していただけの話だと思うけど。
>>56
長篠については、上記のような感じかと。>>71にも似た事書いたように、
信長の方が信玄よりも敗北や損害を出した戦いの数は多い様に思うし、信長公記や軍鑑とか読んでも、
信長の方が信玄よりも寡兵や格下の相手に苦戦や敗北をした回数も多い様に思うんだけど、どうなの。 >>75
そうだけども、君は読んだの?
自分の目で読まないと
ここの幼稚なのと同じでしょう
史料なんか出そうね >>67
当時は小氷期だからな。
また濃尾兵は山間部に慣れてないってのもあるし過酷な山越えで
低血糖症(昔で言う餓鬼憑き)も凍死の要因となったのだろう >>76
全レスは、思うけど、じゃなく史料を示せ
くそみたいな感想はいりません >>75
君のご高説については、>>36 >>37にも書いたような感じで、
資料などを基にして考慮しても、史実的に少々違うんじゃないかと思う所があるように思うので、
そこら辺を考慮した方がいい様に思うけど。
君は数々の知識を前提としたい様に思うけど、君がそのように書きたいなら、
資料とかを基にして、史実的な事を考慮した方がいい様に思うのだけど、どうなのかな。 >>79
んー?>>76に書いてある事の、長篠についての資料的な論拠なら、
上記76に>>65のレスについて触れられているように思うけど、
その上記65において、信長公記が提示されていて、
その上記65において、>>36のレスについて触れられているように思うけど、
その上記36において、軍鑑とか信長公記を基にして語っている事がわかるように思うけど、
それでそんな風に書かれても、困惑してしまうかな、と思うかな。 >>77
ああ、お前さんも文献史料崇拝者だったか。
俺の立場は前に書いた。
「物証またはデータの伴わない文献記事は信ずるに足りない。従ってそれを論拠に何事をも語ることはできない。」
それが全て。 >>82
横からだけど、君の>>35のレスって
君が今そのレスで書いているような事を前提にしてるの?
僕の>>36 >>37 >>80にあるような感じでちと個人的には疑問に思うんだけど。 >>77
俺からも質問させてくれ。
お前さんは文献史料に関して博覧を誇るが、
その豊富な知識を綜合すると武田権力体の構造に最も顕著な特異性は何だ?
そしてそれは何によって規定された?
その原因と結果を結ぶ論理は?
宜しく頼む。 >>82
私はあくまで文献史学の徒である
君の述べるところも理解しないではないが、あくまで史料ありきだ
まず史料ありき
当たり前だろ >>84
君がみたいに史料の根拠もなしに勝った方は新しい優れた構造を持ち、負けた方がそうでなかったという論に飛びつきたがるのは悪いけど頭悪いようにしか見えないな >>85
これも前に書いた。
木材から仏像を彫るのに、鼻の形や衣紋から彫り始める馬鹿はいない。
先ず包絡線、
それから大まかな外形、
…、
と手順を進めて、ディテールに取り掛かるのは最後に近い工程だ。
普遍的な概論に拠って全体像を描くことを抜きにして文献史料の逐語解釈に拘るのは鼻から彫るような行為だろう。
またディテールについて「このカタチが美しい」という思いがあったとしてもそれが物理法則に反するものなら否定されざるを得ない。
いくら一次史料に詳しく書いてあっても「それが 物 理 的 に 可能か?」という批判的検証は為されなければならないし、
その要件や判定基準は文献と無関係な所から行われなければならない。 その普遍的な概論やら全体像を妄想からスタートするから叩かれるんだぞ
君の史料に基づかない独りよがりな概論と全体像なんか読むに値しません >>75
>だから史料以前の話。
>
>甲斐武田は地域の統治権力体。
意味不明。漠然とした定義の単語を並べてるだけ。書いてる中身ゼロ。
>そして戦争と飢饉の恒常的循環連鎖を前提に形成された権力=「戦国大名」という特異性を持つ。
持たない。持つなら何故持つと考えてるのかまずそこから書くべき。
>で、此処はそれを語るスレッドだ。
勝手に仕切るな。 >>89->>90
話にならない。
この連投レスから解ることは、
お前さんが体系的/解析的な思考能力を有していない、それだけだな。 長篠の後の勝頼の細かい命令だの賦役だのは改革でも何でもないんだわ。基本的に信玄の時代にもやっていたことをより細かく、厳しくした内容のものでしかない。これはこれで権力が強まったと言えないこともないが、口悪くいってしまえばただの増税。
あくまで信虎の時代から進んでいる中央集権化の流れの一環として見るべきもの。重商主義や鉄砲重視も同様。
武田は信虎の時代に戦国大名化して郡内含む甲斐全体に棟別銭を課した。国家権力とは徴税権が重要だからこれだけでも相当な権力。信玄の時代も国人を血生臭く粛清して中央集権化を図っている。重臣の家の顔触れ、信玄家督相続時と勝頼家督相続時でガラッと変わってるのもそういうこと。君の書いてる旧来の行政改革だの旧来の権益関係って具体的に何?としか思わない。何が体系的、解析的だよ。偉そうなこと書いてるわりに具体的な説明無しに勝手な前提ありきじゃないか。武田は何が遅れていたのか?主張があるなら史料の根拠とともに具体的に書けばいいじゃないか。 長篠以後に武田を建て直すってどう考えても不可能じゃないか?
年寄衆だけじゃなく、これからの若者までみんな失ってるし
負けたのを理由に織田に降伏とかできなかったのか
家を遺すことを優先して >>95
和睦は相手してもらえなかった
降伏はどうだろうね? 長篠で一万人死んだと言ってもまだ本国に上杉への備えで置いていた兵隊もいるし完全に終わっては無かったのと、
ここで降伏すると織田の盟友である徳川にも完全降伏を余儀なくされてその徳川には旧駿河国主の今川氏真がいるから「駿河を明け渡せ」って要求が来ることは目に見えてる。
ところがこれは一門衆・穴山信君の権益を大きく害するので受け入れられない。つまり降伏は不可能で負ける時は全滅するしか無かった。 >>97
兵の問題だけじゃない
幹部を失いすぎてる
孫子も「三軍は得やすく、一将は得難し」と言ってる
長篠で100人以上の大小幹部が死んで、その代わりなんかいるの? ノモンハンの戦いで士官大量に死んで興ざめてるからな日本陸軍
士官の育成には士官学校卒業して実際に経験で5年はかかる
太平洋戦争終わるわ
兵の補充は簡単にできるけど部隊指揮官が実戦経験無いばかりはどう考えてもやばい
ただの足軽なら自分だけ考えてればいいけど部隊指揮したことない人間が突然明日からお前100人部隊ななんて言われて務まるとは思えん
武田氏滅亡にも兵は短期間で15000揃ったが鎧さえ来てない兵が多く子供のような年頃が戦死した人間のあと継いでる
よし明日あの城攻めるぞと言われて
実戦経験ない人間が攻城戦できると思う?
いきなり敵と遭遇。落ち着いて指揮できるとも思えん 家を残すならどんな条件でもいいからやはり臣従するしかなかったんじゃないのか
長篠以後なら
もっとも、そんな外交を担える人材が武田家にいたならの話だけどさ 長篠後、北条相手に優位に立っていたしある程度は立ち直っていたのも事実。
高天神城の完全放棄、御館の乱では影虎支持、新府城は建造しない等
やりようによっては天正地震まで持ち堪えられ和睦出来たかもしれない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています