武田勝頼 part48
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武田信玄、武田義信、武田勝頼(諏訪)、武田信勝(織田)、黄梅院(北条)、真竜員(木曽)、見性院(穴山)、菊姫(上杉)、松姫(織田)など、武田関係について語って下さい。
なお、このスレにはアンカーレスを多用する荒らしがよく現れますが、無視して下さい。この荒らしはリアル世界に友達がいないため、皆様に相手にしてほしいから全てのレスにコピペ返レスしているのです。少し前の放火事件のように現実世界に迷惑をかける可能性もあるため、皆様寛大な心で受け入れてあげて下さい。
ワッチョイ導入議論スレ
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1644501787/
武田勝頼 part47
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1648298634/ こういうことがあったかもしれない→だから算段に入れたかもしれない→だから勝頼は評価されるべきだ→よってそれよりすごい信玄は最強 >>101
北条相手に優勢といっても、あれは上野戦線の話で
相模伊豆戦線は一進一退あるいは互角じゃないか?
そもそも北条が弱すぎる
徳川は武田を押していたし 岩村城、二俣城は長篠敗戦の年に落城しているのに
高天神城は長篠敗戦から6年耐えてるのに簡単に放棄できるかっての
勝頼が高天神城放棄指示だした時は完全に包囲されてる時だからな まぁそもそも信玄の見込みが甘過ぎた事が武田の滅亡を招いてるからね、信玄が悪く言われるのも道理よ。織田・徳川同盟がどれほど堅い、難易度の高い敵かわかってなかった。
これを解決しようとしたら長篠の合戦だったのもまたね…勝頼にゃどうしようもできん。
上級将官の損失も確かに痛いんだけど具体的にどう痛かったのか説明できん。新規に取り立てた連中が内通したなら兎も角裏切ったのは木曾義昌に穴山信君(と小山田信茂)っていう昔からある地雷だったし。 裏切って生き残るか武田に殉じて滅亡するかの二択だし
名家が生き残りをかけるなら一択になっちゃう 真田が生き残ったのは運がよかったのか軽視されてたのか昌幸の立ち回りなのか 史料を知らないんだけど昌幸さん北条と交渉してたって聞いたけどマジなんかな。
どのみち新府から山踏み分けて…ってのは難しかったろうけど >>109
無理なのか?
新暦で4月だし、山の中まで織田徳川が追えるとは思えんが >>83
うっせーんだよ長文野郎
てめえは信濃から美濃に侵攻するとか
岐阜城の近くに一向一揆が迫ってて落城寸前だったとか
妄想をブログに書いてたらいいんだよ、タコ >>110
後一ヶ月後ならまだそれなりに問題無かったかもしれないけど四月だと山は雪が残ってる危険性があるからね。前さんざん「織田に凍死者がー」って入ってる人が居たけどそれが事実なら女子供連れてる勝頼に北上は選べなかったろう。どちらかと言えば南に逃げたいのは心情として理解出来る。
それに勝頼は3/3の時点で腹心の武田信豊を小諸に逃げるよう指示して信豊は北に向かっていた(上杉領まで逃げるつもりだったのかもしれない)こうしておけば織田・徳川の追跡がどっちか片方に向けば片方が逃げられると読んだんだろう。と、なると尚のこと北には逃げられんかったはず。 >>112
そういえば信豊は最後は小諸城で殺されていたね
没日は確か3月16日
3月3日に勝頼と別れてから2週間も何やってたんだ信豊
逃げるなりなんなり行動できないのか >>92
私は文献史学を尊重する立場だが、武田を体系的に学んだものではない
ただ、新たに史料や論文を読むに、この人の一連の考えに全面的に同意する
貫高制自体に信玄、勝頼期の変更はなく、より搾り取ろうとしただけ
軍制も軍役状読むかぎり、「鉄砲の玉薬は300持ってこい」くらいの変更しかない
ただ一つ言えるのは、勝頼は勝頼なりに脱皮はしようとしていたということ
信虎信玄の育てた甲府を捨て、韮崎に新府を開こうとした
ここは純軍事的な視点より、勝頼による新たな権力創出、大袈裟にいえば国産みの意図があっただろう
結果だけをみれば失敗だけんども
新府って名称に表れてるものを考えるのは無駄な行いではなかろう
ここだと堀がどうのしか出ない愚劣さだが
武田城郭の集大成としての新府城を語るならともかく >>113
小諸城にいることにしたんだろ
なに言ってんだコイツ 信豊は逃げたんじゃなくて、姻戚関係のある上野小幡を頼って援軍を集めに小諸城に向かったんだよ
これ、甲乱記にしかない記述なんだが妥当だろう
史実は小幡も内藤も真田も寝返ってたから、おそらく信豊は小諸城から動けなくなった >>112
織田に凍死者が出たのは大本営の公記に記載があるから事実とみてよい
武田攻略の終わった三月二十四日、兵糧困ってるだろと扶持米を着到つけて(織田は着到とかは普段つけないゆるゆる)人数によって配る
んで二十八日、諏訪で「今日以の外時雨、風ありて、寒じたること事大形ならず。人余多(あまた)寒死候き」
これ読めば織田の兵站がどうのより、記録的な寒さだっただけだと分かるし、織田主力は食料にこまってなかったわけだ
信長は再三、信忠に深追いするな俺を待てと言っていたことを忘れるな
しかも武田攻略終わった後だからな
付記するが、その公記では「近年武田四郎新儀の課役等申付け、新関を居(すえ)、民百姓の悩尽期なく、重罪をば賄(賄賂)を取りて用捨せしめ」以下略
想像をたくましくするのも結構だが、少しは史料を読んだらどうですかね >>109
3月12日付真田宛北条氏邦書状がある
昌幸はこれ以前に2度北条方の長尾憲景に書状を送ってることが書中から分かりそれに対する氏邦の返信
氏邦は昌幸の2通の書状の内容に対して尤だと同意し、箕輪の内藤や和田もこちらについたから昌幸も氏直に忠信を示すのは今この時だと述べてる 信長公記や甲乱記だと信豊が着くやいなやすぐ殺された、みたいな感じも受けるから考えてなかったけど確かに2週間も信豊は何してたんだろう?とは思った。
現代だと新府から小諸は16時間で着くけど戦国時代の逃走劇だから3-4日掛かったかもしれない。それで10日。
信長公記にしろ甲乱記にしろ二の丸までには入ってる。上で言われてる通り、小諸城主下曾根は裏切りを決意してたから上手いこと言いくるめられて二の丸に押し込められ、下曾根の本意を知った時には今すぐ死ぬか後から死ぬかの窮地だったんだろう。とすると無茶苦茶切ない終わり方だな… >>112
ま、これは史料の取り扱いの問題になるが
甲乱記だと信豊は勝頼に何度も説得されて、北信と西上野の衆を束ねて後詰めしてくれとある
史料は無駄とかいう前後取り違えたアホでないなら、まず史料を読もう
理慶尼記だと、新府捨てたのは夫人のためとなっとる >>119
甲乱記読んでないだろ
読んでたらそんな認識にならん
もちろん、甲乱記が史実と言っているわけではないぞ
読めよバーカ >>110
日本三大峠の雁坂峠行くのか?
当時より暖かい現代の4月でも残雪あるぞ
馬やまともな準備もできなくて徒歩裸足で足を紅くして逃げ出したと書いてあるように、そんな状態の親族の女子供たくさん引き連れて日本三大峠行くのか? 佐久甲州街道でしょ
信豊もおそらくこの道で新府から小諸に逃れた 勝頼の選択肢は小諸城(か岩櫃城)か岩殿城。それで勝頼は最後家中を二つに分けてせめて武田宗家存続を図った。で問題はどっちの方が生き残れそうか、なんだが。
岩殿城は確かに普請番も送り込んでいたとはいえここは一門衆小山田氏の勢力下だし後ろが北条領で後がない。対して小諸城は城主が信豊と縁者で近くには真田もいるし地図上とはいえ北の上杉は武田と同盟関係にある。それで勝頼としては生き残れそうな方を信豊に残したんだろうが…これ逆だったとしても駄目だった気がする >>84
昨日は眠くて適当に書いたけど
武田は基本的に貧しいんだな、金こそあれど
信濃も貧しいから手を出した
この二国から手を出して分取りで儲けた
それが当事者の認識なんだね
史料読む限りはそう >>125
なぜその二択なのか
新府は万全ではなくとも
というより、なぜ新府を開いたかというところに話題が広がらないのが謎よな
まあ、幼稚 一応聞いておこう
勝頼が新府を開いた意味
なぜだと思う? 対徳川と対北条のため。
甲斐だと徳川軍も北条領を通過して直ぐに本拠地に来られるからな >>94
そうやって抽象的に書くんじゃなくて、君がどこをどうそう思って、
何を主張したいのか、をちゃんと書いた方がいいと思う。
>>111
何を言ってるのかと思うけど、軍鑑や信長公記を読むと、
信濃から美濃への軍勢の侵攻は、勝頼が1574年に行って、
東美濃の城を攻略してるように思うし、
1582年には美濃から信濃への侵攻を織田が行ってるように思うから、
出来ない理由がないように思うんだけど、
なんで君はそんな事書いてるのかな。
>落城寸前
こんな事誰も言ってないんじゃないのかな。信長公記を読むと、伊勢長島が北伊勢の豪族達を従えて、
美濃近くまで領域にしてたように思うから、織田にとって脅威だったのは事実なんじゃないかと思うけど、どうなの。
だからこそ、信長も第二次伊勢長島を行って、伊勢長島に従う北伊勢豪族達を倒してるんだと思うけど。
まだ第二次伊勢長島が行われておらず、伊勢長島が北伊勢豪族達を従えて、美濃近くまで領域を持っている状況で、
武田が朝倉浅井や本願寺、足利、三好勢力、伊勢長島、と連携をして美濃に攻めてきたら、
織田は相当厳しい状況に思えるし、美濃を確保するか、畿内を確保するか、の選択を迫られるように思うかな。
おそらくは美濃の確保を織田は優先するんじゃないかと思うけど、そうすれば信長の畿内においての政権は終了し、
その後で信長が畿内勢力や武田との和睦に仮に成功したとしても、その後は天下の統一にはおそらく至らず、
大内の畿内遠征みたいな扱いになってたんじゃないかな。 >>97
>徳川にも完全降伏
別に仮に織田に武田が降伏したとしても(当時の状況的にまずありえないと思うけど、)
徳川にそうするかはまったく異なる問題だと思う。
力関係から言っても、徳川が武田にそこまで強硬な要求をできるかは疑問だと思うし、
織田だって徳川がそんな要求をするのを認めるとは思えないんだけど。
豊臣政権だって、豊臣政権の意向を無視して、参加武将が降伏した勢力に勝手に要求を突きつけたり、領土を要求したりする事を、
認めたりしてなかったように思うんだけど、どうなの。
>>100
長篠で敗北したばかりの状況だと、まだ本願寺もいるし、北陸一向宗も存在していたし、
その後で上杉や毛利の参戦もあるし、荒木の離反もあるし、という感じで、
織田が勢力的に盤石そうな状況になるには、まだいくつもの事を越えていかないといけない状況で、
武田が織田に臣従する理由がないように思うけど。
それらすべてを打破して織田が圧倒的勢力になるのを、長篠で敗北した直後に全て予想して、
織田に臣従を申し出る、なんていう事を勝頼がしようとしたら、それこそ家臣達から長篠の敗北の影響で乱心したと思われて
離反が続出するだけに思うんだけど、どうなの。
>>104
北条が敵にならずに、徳川単独が相手なら、軍鑑を読むと、黄瀬川の戦いで迫ってくる勝頼相手に
徳川が撤退してるように思うので、いい勝負が可能なんじゃないかと思うけど。 どのみち岩殿も小諸も武田を裏切る訳で仮に逆でも死が確定っていう詰みっぷりがなぁ。一緒に居ても信豊は二十騎とかだから死者が百人くらい増えるだけ…か。
もしかしたら信茂の脱走を阻めたかも、って可能性はあるけど… 織田に臣従すればいい?
ウクライナにも同じこと言える? >>106
そんな事ないと思うけど。信玄にしてみれば、徳川の反武田運動を、織田に抗議をしても、
織田がそれを放置してたように思われたから、反織田勢力と同盟をして、織田徳川と戦う事にしただけだと思う。
実際に史実でその戦略は長篠まではうまくいってたように思われ、信玄西上から長篠までの数年間において、
武田は織田徳川相手に複数の勝利を得て、領土も得ているように思われる。
勝頼自身だってその信玄が整えた戦略的状況の恩恵を受けて、長篠までは東美濃攻防や高天神の戦いとかで勝利を得てるように思われるのに、
それでそんな事を書くのはどうかと思う。
長篠については、>>36 >>37にあるような感じで、信長公記を読めば、
勝頼が設楽に移動しないで、長篠城周辺の地形を利用して、守っていれば、
織田徳川相手に戦略的勝利を得るのは十分可能だったように思われるし、
武田側の軍鑑でも、何人もの重臣達が設楽に移動して決戦する事を反対してたように思われるのに、
そんな事を書くのはどうかと思う。
長篠の敗北の影響については、それまでの戦いでは、徳川相手に優勢に戦えていたように思われるのに、
長篠で敗北した後は軍鑑とかを読んでも、徳川側が攻勢に出てるように思われ、
勝頼はそれに対し、なんとかかき集めた質の低い軍勢で対応してるように思われる事、
等を考慮すれば、普通に影響があったように思うけど。 >>133
甲斐源氏の総領が信濃に逃げる選択なんてないでしょうよ
理慶尼記を読むと奥さんのことを思って(小山田の策謀で)新府から落ちている
尼記は理慶尼に仮託した史料とされてはいるが、一部の史実はあると思うぞ
小山田については、人質の小山田の母親がいつの間にかいなくなっていたのが甲乱記、小山田が嘘こいて先に引き取ったのが理慶尼記
どっちが真実かは知らんが、新府にとどまるか岩殿方面に逃げるかの選択肢しかない
長坂、跡部が織田に金子もらって裏切りし、なにもない新府に勝頼を移したなんて記録もあるが、時系列めちゃくちゃでまったく信じられないw 誰が強い弱いとかの幼稚な話はもうたくさんですよ
勝頼は信虎晴信の路線を継承というか、諸事情により、もっと搾り取ろうとしていた
ここまでは共通認識でいいかい?
でだ、勝頼は旧府を捨てて新府を建てようとした
この意味こそ語られる、それこそ妄想でもいいんだが、話題になるべきじゃないかね 個人的には勝頼の焦りなんだろうといまのところは思っているが
所見を待つ 個人の妄想もいいけど、基本的には史料ベースで頼むね >>137
新府城を築いた理由は、勿論一つじゃないだろうが軍事目的がほとんど
信玄時代からの脱却なんてカッコいいもんじゃなくて小田原城、春日山城、浜松城が羨ましくて防衛戦の準備という動機が大 >>140
はあ、根拠は?
こういうのいらない
新府を開いたところは史料に薄いところだから、そういうの語りたいとこなのに >>137
新府築城の意味については、資料を基にして考慮するなら、
軍鑑を読むと、穴山が勝頼に意見をして、織田徳川北条が連合して武田と戦っていて、
戦況も厳しくて、上杉と同盟しても、景勝じゃ当てにならないので、甲斐に優れた城を作った方がいい、
みたいな事を言って、勝頼がそれを承諾しただけに思うけど、どうなの。 武田家としては躑躅ヶ崎館は防衛拠点として心許なかったらしく防衛力の高い拠点の構築には信豊らも賛成していたらしい。
ただ勝頼が純粋に防衛拠点として新府城を作ったとは思えない。というのも勝頼は新府城が未完成の状態で入城してる。城が建前だけで入城すること自体は珍しくはないけど防衛拠点を求めていたならこの動きは矛盾してる。防衛拠点として完成されてたならまだ分かるけど新府城は明らかに防衛拠点としては機能出来ない状態だった。しかもこの時、躑躅ヶ崎館を破却してる。そんな事をする余裕があったとも思えんのだが…(ぶっ壊すのだってカネが必要かだろうに)
だから複合的理由で遷都したとしてもその優先度は軍事的動機<その他の要因、だった可能性がかなり高いんじゃないか? うまくいってたと思うとそんなこと書くのどうかと思うけどの繰り返しのスレ >>145
そうかなあ?そんな風には思えないけど。
少なくとも僕は、自身のレスについては、基本的に歴史的な事や、
資料を基にして書き込みをしてるように思うんだけど、
君はなぜそんな風に書くのかな。 >>144
単に勝頼にしてみれば、未完成であったとしても、
まだ織田徳川北条に新府まで攻め込まれてない状況なら、そこの近くに家臣達と共に居住して、
城の建物が出来上がったら、移住していけばいい、っていう感じだったんじゃ。
少なくとも、軍鑑を読むと、>>143のような感じで、軍事的な理由で新府城は立てられたように思うけど。 軍鑑とかを考慮しないで、地理的に考慮するなら、
単に当時の武田領国の立地から、
躑躅ケ崎館よりも信濃や上野にアクセスしやすそうで、
北条や織田への対応がしやすそう、とか考えられなくもないけど、
>>139の人の言う条件だと、資料に基づいてないからNGとか、
そういう話になってしまうようにも思うので、
順当に資料に基づくなら、軍鑑を基にして、>>143みたいな理由、っていう事になるのかな? 春真っ只中だから元気出てきたのよ
雪解けで活動しだす信玄みたい 笑 春になれば、BBQでDQNの川流れ
手取川で流される信長軍みたい 笑 武田も上杉も信長の子分を倒して勘違いしちゃったのかねえ
織田で真に恐ろしいのは信長信忠が直に率いていた親衛隊だろうに >>152
そうだね
信忠軍の精鋭には河尻と滝川がいる
信長軍の精鋭には明智と羽柴がいる
真に恐ろしい部隊だよ 史料読めないのはまあ仕方ない
しかし、城郭研究は進んで千田さんの一般書くらいは誰でも手に取れるでしょう
拠点を移す意味、考えたことあるかね?
長文全レスはアホだから純軍事的な意味合いしか考えてないようだが
それなら要害山ですむ話だ
まあ一応、史料に基づいているからまだましなんだけども
負担を強いても勝頼は「新府」を開こうとした、この意味を考えたい
信虎信玄を越えたいと思った、ないしは越えないと氏族存続が難しいと思った
こういう高いレベルの話を、史料ベース(足りないとこは想像)でしたいもんだ
想像といっても、あくまで文献史学の土台あってだぞ? >>152
雑誌かなにかで得た知識か?
詳報頼むね、史料つきで >>158
信長の「子分」とはだれか、信長信忠の「親衛隊」とは誰か
明示してもらおうか
それなくて、論は立たないでしょ?
どうせ崩し字も読めないくせに 新府移転については一次史料があちこち豊富に残っているのは、ここにいる人なら知ってるだろうし、目も通してるだろう
そういう前提w
ってことでいいですか?
その上で新府開府という議論をしたいのですが
いやね、誰が強い何万だという幼稚な話をしたいなら去りますけども >>125
http://i.imgur.com/3Vj7MHM.jpg
これ見ると小山田はかなり見逃してやってるよね
勝頼の子供も見逃してる
下曾根は信豊と嫡男、夫人全員逃がさなかったよね?
小山田のがまだ忠誠心残ってたでしょ 歴史しらないのー?
明智は信長と信忠の親衛隊を同時に瞬殺したし、その明智を羽柴が瞬殺したやん
真に恐ろしいのは太閤秀吉だよ >>161
そんな話つまらんからお前がスレ立てしてそっちいけ
それともなに?俺は史料読んでるの自慢したいの?
ここ最近二次史料でドヤ顔してるアホいるけど糞つまんねーから他でやってくれる 長野県内ならどこに潜んでもいい隠れんぼをしたら、逃げきれるよな >>149
>>131にも似た事書いたように、君はそんな事を書くなら、君の主張は何で、
どういう論拠でそう思っていて、その観点から相手の論旨に何を言いたいのか、を
しっかりと書いた方がいい様に思うけど。
>>150
菅沼認定厨さんと思しき人とかは、前スレとか読むと、僕が書き込みしてない期間も、
非常に多くの日数を書き込みしてたように思われるけど、それって何?
一年間数多くの日数や時間に貼りついている、っていう事のようにも思えてしまうけど、どうなの。
>>152
>>76にも似た事書いたように、信長公記とか読むと、その信長自身の軍勢がそれより数が少ないと思われる軍勢や、格が下だと思われる武将の軍勢に敗北したり、
苦戦したりしてる事が結構あるように思うけど、どうなの。
そもそも、信長自身が、信長公記を読んでも、勝頼時代の武田相手に東美濃の城の救援に失敗してるように思うんだけど、どうなの。 >>155
おや、心外だなあ。>>148にも似た事書いたように、
もともと、君が>>139で書いているように思われる、条件に基づいて、
軍鑑という資料を基にして、>>143のような事を書いたと思うんだけど。
軍鑑という資料を基にせず、他の要素を考慮するなら、他の推測も成り立ちうる事は、
上記148にも書いてあるように思うけど。
軍鑑という資料を基にするなら、上記143にあるような感じで、
新府城築城は穴山の進言を受けた勝頼が、織田徳川北条を相手にして厳しい戦況において、
防衛の為に作ったように思えるんだけど。
それを否定するなら、それこそ他の論拠や資料が必要になると思うけど、
なんで君は君の上記139で書いているように思われる条件に、こっちはわざわざ合わせて書いたのに、
そんな僕に対してのレッテル貼りのように、僕には思える事を書いてるのか、という事に答えて欲しいと思うかな。 >>166
飯も水も無けりゃ野獣の餌なんですがそれは >>161
史料以前に考えることがあるだろう。
当時の自然科学条件に規定された甲斐国の状況、それに対応して統治権力がしなければならないこと。
普遍的な原理原則を知らず/考えずに文献などという不確かなものに取っ付くから、
そういう近視眼的蟲瞰図しか描けなくなる。 >>173
>当時の自然科学条件に規定された甲斐国の状況、それに対応して統治権力がしなければならないこと。
>普遍的な原理原則を知らず/考えずに文献などという不確かなものに取っ付くから、
君が考える史料に基づかない自然科学条件、普遍的な原理原則こそが1番不確かなものだから
試しに書いてみろよ
ダメ出ししてやるから >>174
気候変動と地殻変動による恒常的飢饉。
軍政状況による外征略奪の困難化。
統治権力の義務−−というよりも統治権力が統治権力である為の要件。
俺は親切だからここまで書いてやる。
これで解らなきゃお前さんは白痴に近い。 >>174
ついでに教えてやる。
> 史料に基づかない自然科学条件、普遍的な原理原則こそが1番不確かなものだから
自然科学条件はブツから得られたデータであり、
普遍的な原理原則とは物理学及び生物学のそれだ。
それは普遍=不変のもので、それに逆らうことは反合理主義ということになる。
お前さんは敢えて反科学主義の思想を掲げる、と。 >>175
は?
恒常的飢饉と外征掠奪の困難化が新府城と関係あんの?
関係あると考えてるならそれを分かるように書くべきだろ
こういう掲示板では漠然とした単語使ったり、誰にでも分かりやすく書けないのを馬鹿というんだよ >>177
物事を解析的に考察できない脳味噌鏡面仕上げか。
逐語解釈中毒になると普遍から個別を導く論理展開力を喪失するようだ。 >>177
もう少しだけ丁寧に指摘してやると、
三項目に言及できない辺りが、お前さんが権力体を語るフリをしながら権力論に何の知識も無いことを暴露してるんだよ。 >>179
話題は新府城は何故築かれたか、なんだからお前さんはそれについてだけ書けばいい
それ書かないくせに自然科学条件だの普遍的な原理原則だのズレたこと書かれても邪魔なだけ
だからお前さんはいつも誰とも議論ができない、会話ができない
俺は親切だからここまで書いてやる 「統治権力の義務−−というよりも統治権力が統治権力である為の要件。」
だからその要件書いて新府城と繋げて書いてみろって
書かないなら邪魔だから消えて 権力とは何か。
それは何に依拠して成立し、何を以てその正当性を担保されるのか。
裏返して云えば、何が喪われた時に権力はその存立基盤を失うのか。
それを維持する為には何が必要か。
ガキでも解る。
ガキ以下のお前さんに解るかどうかまでは知らないが。 勝頼ってコミュ障じゃなかったのか?
穴山の息子と自分の娘の婚約が決まってたのに、それを破談にして信豊の娘と結婚させるとか、穴山に喧嘩売ってるとしか思えん >>181
統治権力と新府城を繋げるのって無理じゃないの?
残された資料を見る限りは、勝頼が築城を強行
新府に移ったのは勝頼衆といわれる勝頼に近い連中だけ
他の一門や家臣は反発
領民すら反発
これって権力がむしろ孤立してないか? >>183
その逸話が甲陽軍鑑にしか無いから何とも言えんが、天正八年には穴山信君は徳川家康と内通してる。だから正直信君にとって裏切る「理由」があればそれでよかったんじゃないかって疑惑が。 自然科学条件なら菅沼遼太くんの
浅間山噴火で武田滅亡説を思い出したわ
笑 >>186
どういうこと?
噴火で士気が低下して軍が崩壊して滅亡したとでも言ってたの? 士気がさがる??
富士山噴火したらワクワクするよな
むしろ仕事が増えて経済活性化! >>189
それは平時ならともかく、敵国から侵攻されててその最中に
噴火起きて士気が上がるわけないだろ 天変地異は滅びの前兆だからね
とは言え仮に噴火して無かったら武田が存続したかというとそんなことは伺えないわけで そんな大噴火あったのにすぐあとの天正壬午の乱で北条軍4万と徳川軍9000は半年の遠征できたのか 浅間山が噴火したから武田領が壊滅したって話は聞かないから単純に武田人がパニック起こした要因の一つってだけ。
まぁ武田領はそもそも貧しいから火山噴火で終わったのかもしれんが… 天変地異は馬鹿には出来ん。現代ですら「天罰」なんて言う奴がいる訳で昔は天災は天子への罰で革命すら意味してた。
まぁ武田にとっては泣きっ面に蜂ってだけで噴火したから死んだ訳じゃないんだけどね。
武田は貧しかったから過大な軍役でなんとか兵を維持してた。それがついに限界を迎えた、と。 >>186
ええ?僕は>>31にあるような感じで、前スレにおいて、菅沼認定厨さんと思しき人が、
菅沼認定をしていたと思われる人の一人なんだけど、
そんな事を言った事は、少なくとも僕は無い様に思われるんだけど、
君の言う菅沼認定って、いろんな人の事を認定しまくっていて、
その特徴がバラバラなように思えてしょうがないんだけど、どうなの。 >>195
武田は勝頼時代に長篠で多くの損害を受けて、その補填が厳しくて、
さらに御館で北条を敵にした事で、織田徳川北条を敵にして数年間戦争した事で、
国力が疲弊しただけに思うんだけど、どうなの。
>>185
状況次第で天秤にかけてた、って事もあるんじゃないの。
穴山だって武田が存続していて、その武田政権内で自身が枢要の位置をを得られるなら、
普通に武田に味方してたと思うけど。 穴山信君は天正八年には徳川に内通していた。また、彼は「武田信君」を名乗ってる。中枢なんかで満足する男じゃなくあくまで狙いは武田宗家を継承する事で、徳川ともそれを前提とした交渉をやってるからね。 信忠の精鋭部隊に河尻と滝川
信長の精鋭部隊に明智と羽柴がいる
この精鋭を相手に武田勝頼が勝てる訳がない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています