石田三成の挙兵 ★9
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>>786
蟹江城を攻めた大半は滝川に調略された元信雄家臣が大半でしょ。蟹江城を奪還したと言っても信雄の勢力は小さくなり続けてる。
長島城が落ちなくても、信雄の領地は奪われて、信雄の領地で戦を続けて、信雄の家臣が裏切り続出。
信雄が勝てないと思い、心を折られて講和するのも仕方ない情勢。
つまり西軍が東軍の誰かを和睦させようと思っても、まず軍事的にそいつを追い詰める軍事力が必要不可欠だよ。 三成に何が出来るかと言えば何もできんだろ
大谷吉継を追い返して佐和山に籠城でもするのか? >>789
三成が首謀者じゃなかったは以下の書状から成り立たないと思う
7月末日付の真田宛三成書状に「しかれども内府在大坂中、諸侍の心いかにも計り難きについて、言発の儀遠慮つかまつり畢
とあるから、家康がいる間は計画はしていたけど、露見したらまずいから黙っていただけじゃないのか? 三成って随分間抜けじゃない?
富岡藤太郎宛三成書状だけど、あれ慶長5年7月28日付になってる
つまり挙兵してからでも13日もたって「今後は誰からも注文受けるんじゃない」なんて言ってる
自分の領内のことなんだからもっと手際よくできなかったのかな? 三成が言う上杉との協働には真田特に沼田を押さえる真田信幸の協力が必須なのに七月末まで書状も送ってない辺りに三成の立ち位置が見えてる
つまるところ三成は反家康決起計画すら知らず故に事前の準備すら出来ず更に立場はかなり下に置かれて戦略決定にすら関わらなかった
そこから二万の兵で四万の東軍と戦わされた訳で貧乏くじってレベルじゃない 本能寺でもそうだけど、バレたら即処分されるんだから、そんな計画立てること自体無理でしょ
会津征伐にしても、家康が少なくともその気になったのは5月3日付の伊王野宛だから、交渉から
1か月近く経って征伐を決めてるし 白峰氏は5月3日付伊王野資信宛家康書状を慶長6年に比定してるよね
新井敦史氏によると慶長6年5月上旬の段階でも徳川と上杉の間で軍事的緊張は
続いていたみたいだが、やはり通説の通り慶長5年と見る方が自然だな アの書状を慶長6年?
内容から見てもあり得ないと思うんだけど…… >>795
三成は「内府がいると連絡できなかった」とか言ってるけどこれは苦しい言い訳。だって七月十七日に毛利軍が大坂城に入って徳川方を追放して伏見城攻撃してるのにそっから2週間も連絡してないんだから 戦国板って過疎ってるね 勢い11.2のここがトップとか 石治少としては首尾良く内府に勝利したとしても、
島津、毛利、前田、宇喜多、伊達、上杉、佐竹ら巨大大名の割拠経営を
黙認する方向にならざるを得ない >>800
それすらも理想が過ぎると思う
言っちゃなんだが、室町幕府が豊臣政権に置き換わっただけの第二次戦国時代になるとしか思えん
これなら政権内での権勢拡大程度に留まっていた徳川を容認していたほうがまだマシまである 芝辻砲みたいなのを100丁ほど国友に作って貰えないか そうだな 西軍が勝ったとしても後がたいへんだ
毛利は120から200は必要か
備前を欲しがったら宇喜多を国替えに
すると宇喜多も100万じゃすまないか
毛利200上杉200宇喜多150島津100
三成や吉継も50は欲しいだろうし
こりゃひでえ まとまるわけがねえ 案外西軍勝ったら三成が相模武蔵あたりに国替えになって
第二の徳川になったりして 島津加増(恐らく国替えは絶許なんで薩摩大隅+α)は確実に九州は乱世に突入
清正や黒田のみならず九州の大小名は島津の拡大を許さない。
それに島津兄弟内の確執で島津自体が内紛に陥る。
また北九州は毛利が食指を延ばしていて所領を欲してるからやはり収まらない。
毛利の関ケ原後の九州出兵は例え西軍勝利で毛利が北九州に権益を得ても遠からず起きるだろうから
かくて九州と中国地方西部より戦国再開。
関東は徳川勢がどれだけ打撃を受け、所領召し上げになるかとその後に誰が来るか次第で変わる。
直ぐに乱世になるかも知れないし、ならないかもしれない。
恐らく三成を始め豊臣政権の中枢を占める奉行勢は毛利に強く出られない上に、島津を抑制する力も無いから
結局大坂で手をこまねくだけで豊臣惣無事体制はもう再構築出来ない。 そもそも恩賞の件は西軍は誰が決めてたんだ?
真田に数か国とか誰が決めたんだ? ひょっとするとアレですか、九州は如水、島津、毛利の九州新三国志爆誕? 最初は、豊臣政権で奉行たちと毛利がどっちが主導権を握るかという問題がでるよな。
すでに毛利が秀頼の意向として、自己の勢力拡大にいそしんだ部分をどうするのかもあるし。 >>806
豊臣秀頼。秀頼は西軍に恩賞を与えているので必然的に秀頼が決めたことになる >>806
三成が勝手に決めたというか書いた。
他の首脳陣からは感状や所領安堵程度ならあるが、一国レベルの報奨の話は三成以外からはでていない。
一応、毛利輝元が伊予国人衆や大友義統を焚き付けたのはあるが、確約までした書状は残っていないはず。
>>808
いうても、勝った場合は過半数の兵力を供出した毛利の功績は大だしなあ。
それに勝利のシナリオの場合、勝手に動いた阿波讃岐伊予豊後こそファインプレーになるわけだし。 三成は西軍挙兵の時点で、奉行に復活していたとみていいの?
伏見城落城を語る書状や鈴木に恩賞を約束する書状では確か、輝元や他の奉行と
連署していたよね。これは奉行復帰をしていたと見ていいの? 奉行衆と輝元の対立は「坂西之儀」は毛利輝元だとする秀吉の遺命の効力や解釈をめぐる問題になると存じます 最上が上杉に難癖つけた軍道建設ってこれのことか?
朝日軍道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E8%BB%8D%E9%81%93
場所的には村上領と最上領の境目みたいだが、
上杉が飛地の庄内行くには道は必要だろ? これ、リンクの通りだと最上の主張は難癖でもなく正当だと思うけど、どうなんだろう。
平和に使うなら、現在ある道を馬が通れるように秘密裏に行う必要はなさそうだが。実際に軍事行動にも使用されてるし。 會津と荘内を隔てるは最上侍従24万石。上杉にとって最上領併呑は一番にやるべき路線である。徳川もそれを見抜いていたのか、南下はないと考えていた >813-814
江戸時代でも山奥の更に奥の土地は所有権が結構グレーだったからこの当時はもっと曖昧だろうな >>814
飛地なんだからある道使うなら最上領通るしかないんじゃないの?
で、最上が通行の許可出すなら通れるんだろうけど、
山形あたりの地理は詳しくないけど、
米沢から庄内酒田方面行くには山形城下を通らなきゃならないのと違う?よくわからんけど。
それを最上が許可しない、あるいは許可しないと思ったから軍道作ったとわたしは見るけど。
関ヶ原の時でも東軍が岡崎城下通る時書状で通行許可求めてたとこみると
城下を他大名家が通るのは敏感になるんじゃないかと思う。 最上が通行の許可出さなかったら中央(豊臣政権)に訴えて
解決を計れってのが惣無事令なんで
飛び地をつなげなきゃっていう発想は戦国時代的なんだよね
だから朝日軍道の整備は豊臣政権的には余裕でアウトで
どうしてもやりたいってんなら許可を得てからやりなさいって話
上杉がその辺のロジックを理解してなかったのか
意図的に無視したのかは判断が分かれるところだけど 徳川は上杉の南下はあり得るとみてたよ
だから抑えを用意していた
というか最上併合できたとしても
徳川が生きてればそんなの無意味なんだから上杉は最上とかと遊んでる暇はなかった 抑えの結城秀康は実際にはどれくらいの戦力で備えてたのだろう
前に2万人という書き込みを見たが本当なら上杉佐竹でも抜けなそう >>820
さすがに最上領は制圧したいんじゃねーかな、いくら軍道を作ったとはいえ
それに抑えの兵を残したという事は、逆に言えば大規模侵攻をする気はないという事だ
ならば旧領越後を奪回するなどして、領地拡大の既成事実を積み重ねようとする可能性もある
大体家康が生きてようと、この時点では東軍先発隊崩壊があり得ない訳ではないし、
東軍が(可能かは置いといて)軍事的か政治的に屈服すれば徳川の存在など放置してもよい
極端な話、関東征伐なんて西軍が勝利すれば後回しでもいいんだしな
見通しが甘い?諸侯の大半が長期戦を想定してるんだからそんな事を言われても困る
いっちゃなんだが景勝の戦略眼や戦術眼なんてそう大したものではないだろ 阿部哲人氏だったかな?
1次資料から上杉の目標はあくまで最上の服属させることで
滅ぼすつもりはなかったのではないかと考察してたのは >>823
直江兼続が慶長5年9月15日付秋山伊賀宛書状で「畑谷城で江口父子をはじめ500人を撫で斬りにしたぜ」ってほざいてる
書状あったでしょ。あれ城兵だけでなく周りの領民も皆殺しにしたらしいけど、そんな真似して最上が即座に服属するとでも?
実際、どこの城も降伏するどころかさらに抵抗を激しくして、上杉軍は2万も率いていながら、山形城の主力すら出てくる前の
出城でみんなつまづいて撤退する羽目になっている
どこを見たらそんな考察になるのか? 直江兼続には兵隊を進退させることが重荷だったのである >>823
まぁ一次史料だと最上屈服させて味方につけるとかそんなんばっかだからね。言うこときいてくれればOKそのための脅しが最上攻めみたいな 上杉が西軍の状況を知る連絡路は真田領か佐竹領しかない。その内真田領は沼田を支配する真田信幸が密かに東軍に通じてるので連絡不能、そこを往還する事は出来ない。佐竹は当初は東軍か西軍かわからなかったが家康からの人質提出を拒絶して手切となったのでやはり連絡路にならない
だから上杉は「西軍が豊臣秀頼と共に決起、伏見城が陥落」「家康は豊臣公儀より追放されて軍事行動不能」という情報しか掴んでなかった。この状況なら最上や伊達を攻撃して領国を拡げるのは普通の行動、というかきたるべき徳川挟撃戦の為には必須だろう。その裏で岐阜が落ちて西軍が虫の息なんてわからないんだし 9月3日付本庄繁長宛直江兼続書状によると、最上とは一応交渉を続けるが
ダラダラ引き延ばすようなら外聞のためにも最上領へ一働きする
伊達とはもし政宗から手切れを言ってきたとしても、使者を遣わして交渉を
継続するとあるので、最上攻めは伊達への牽制の意味合いも強かったんだよな 8月中旬の時点で最上は戸沢らと起請文交わしてるのに無駄なことを……
それに上杉とは荘内をめぐり十五里ヶ原、豊臣に対しては秀次事件のことがあるんだから、味方なんかするわけないとわからないのかな? >>827
「家康は豊臣公儀より追放されて軍事行動不能」
は?
誰がそんなこと言ってたの?
西軍は五大老解任なんて宣言したかな? >>829
その意味で言えば、なんで小早川秀秋が西軍に味方すると思ったかも謎だよな。
まあ、百歩譲って毛利には隆景のことと旧領復帰のことで義理があったかもしれないが、
豊臣なんて秀次事件と朝鮮の役の2度にわたって領地を没収してきた怨敵じゃん。
なんならその実行犯は両方とも石田三成というね。 家康が毛利石田連合の豊臣新公儀政権樹立で8月以降軍事行動不能に
なったというのは白峰氏の新説本に出ているな、東軍諸将に連日のように
指令は出してるしトンデモ説でしかないが
確かイエズス会の記録に上方の豊臣公儀より家康に行動停止の命が下り
家康が江戸より動かなかったのはそのせいだという意味の記述があったと思う
いうまでもなく単なる風説、伝聞で事実とははるかに乖離しているが
白峰氏が狂喜して何かの論文か著作(新視点関ケ原合戦だったか?)
に取り上げてたと思う 8月のいつか忘れたけど、榊原が秋田に「今回の挙兵した天下の公儀」だった?
そんな文言があったとは思うけど、それ以外は特に西軍を政権として認めた一次史料も無いよね? そもそも上杉の最上征伐はだらしない
いや志村が凄すぎるのか?
長谷堂城でわずか1000で半月も持ちこたえたんだし
しかも一切の後詰なしで >>833
8月24日付遠藤慶隆宛榊原康政書状
「此度別心之衆始終天下之仕置可被成候哉」
今回別心の衆が始終天下の仕置をできるだろうか
前にも言ったけどこの「哉」は反語表現だから榊原は西軍には天下の仕置はできないと言ってるんだよ
白峰氏はこれを以て西軍が天下の仕置をしていることを徳川方が認めていたと言ってるけど首肯しかねる >>834
一次史料を研究した高橋明ら福大史学によると
出陣前の直江から力攻めする気が無い降伏を促す書状が散見される
城攻めには不向きな後方にある管沢山へ登り山形城への示威が目的
上杉や注視していた伊達の一次史料には攻めた形跡が殆ど見られない
最上伊達を巻き込んだ江戸攻めが目標だったので兵を失う訳にはいかなかった >>824
一撃必殺で畑谷城撫で斬り
山形囲めば最上は屈服すると睨んでたんじゃないか?
そのうえで最上が降伏すれば伊達も従えられると
確か直江兼続書状でそんなニュアンスがあったはず
予想に反して義光が強固に抵抗して戦略意図が崩れたけど 先代のときあれだけ精強だった上杉の兵が景勝の代になると見る影もないな 景勝が指揮した大坂冬の陣はそこそこ見せ場があったらしい。 秀康は来て欲しかっただろうな
本当かどうかわからんが退屈だから一戦さしようぜかかってこいやと戦書景勝に送りつけたそうだし
秀康の采配見たかったわ >>839
いや、先代の頃も特に精強というほどのことはない。
関東ではコロコロ負けている。
強いて云うなら「潰滅に至る前に逃げ時を見極めるのが上手かった」。
「越後上杉」が本当に強力だったのは上杉房定の時代。
景勝とも先代とも何の繋がりも無い本物の越後上杉だが。
>>830
内府違いの条々がそれ
現実はさておき景勝の知り得た情報で言えば
・豊臣家が毛利輝元を総守護に任命して『内府違いの条々』で家康を弾劾(これで家康は豊臣公儀から追放された)
・西軍は伏見城を攻撃してこれを陥落させその勢いのまま伊勢を制圧
・これに対して家康は江戸に入って動かない
なので「豊臣公儀からパージされて求心力を失った家康が江戸で困り果てて動けない」という見立てはそこまで奇想天外じゃない。福島正則らが一致団結して岐阜を落としてるなんて分かるわけもない >>844
前田利家が生きていた最後の頃でさえ、4大老揃っての弾劾に失敗してるのに、
前田が徳川に屈服し、上杉が国元に戻っている状態でそんな都合の良い話にはならん。
せいぜい、上杉征伐の隙に毛利が反旗を翻したかという程度でしかないよ。 >>836
敵の大名を無傷であるいは軽傷で従属させるなんて相当時間かかることだよ
かなり圧倒的な実力差がないと不可能
直江兼続ってかなり過大評価されてない?
名将とはとても思えない >>835
その書状の「哉」だけど、つまり「今回挙兵した西軍に天下のまつりごとを見ることができるのだろうか」であり、
榊原は西軍を「天下の政権」とは認めていて、要はそれらが政治をとることができるのか? と疑問視していたとみることができるのでは? 別心の衆て呼んでるやん
どうみても政権とはみなしてない 榊原康政は大刑少とともに備前中納言の騒動仲裁をしていたが、家康から江戸召喚されて不首尾に終わった 上杉は畿内と連携なんか取れてなかったんじゃねーかな
そういうとこあるよね織田の時も滅びの美学とかに浸ってたし 石田三成との交信が8月中旬から全然確認できないしな
いくら東軍が主要街道を抑えていたとしても少し酷すぎる
敗報も9月22日あたりに噂で舞い込んできたらしいし 備前中納言が主将となり、石治少、長大、小摂、大刑少らが指揮を採らば、苦戦は必至。それより明朝陣を払い、途中佐和山を屠り、大坂表にて毛利勢と決戦し、諸将の妻子を解放せん 景勝の戦略は当時の上杉が掴んでた情報からするとおかしな話じゃない。西軍が大坂を制圧して徳川は反撃もしてないんだから周辺の脅威を打破して来るべき決戦に備えた。西軍から挟撃のロードマップが渡されるのを待ってたんだろう
その頃には既に岐阜城が落ちて西軍が虫の息とは思っても見なかった。仕方ないことだけど 確か来次氏秀書状だったかな
おかしい内容ばかりの書状だから、景勝は偽情報でも信じてたのか 会津は徳川と真田を敵に回すと完全な陸の孤島なんで正確な情報は望むべくもなく そもそも直江兼続とか上杉景勝は目前の危機を前にして、これから関東に攻め入るとか
伊達や最上を協力させるとか、捕らぬ狸の皮算用しまくってるんだよな…… ここのスレ民はポジショントークなどを考え無い人が多いからな
良く言えば純情 悪く言えば世間知らず 上杉なんか速攻で土下座外交に転ぶし景勝と兼続もその程度 今まで景勝と兼続は有能だと思ってたけど、幻想だったのか。でも家を滅ぼしてないから無能でも無いな。
輝元と同程度の有能さで、家康と争える器量が無かっただけくらいの理解で良いのかな? >>861
正直なところ輝元以下かと。
というか、西軍の多くは輝元以下の動きしかしてない。
輝元が凄いとかではなく、輝元含めて尽くろくな動きをしていない。 そもそも家康会津に行ったから軍を催すチャンス!だから伏見攻めた
程度の事から始まってんだもの、計画性は殆ど無いんで雑は雑。 豊臣家と毛利家はだいぶ前から反家康計画を練ってたからここの連携は非常に効果的だった
だが豊臣奉行衆は景勝と連絡する手段が全く無かったのでここの連絡は西軍決起後でも想定すらされてなかった
そして景勝も具体的な対家康戦略を持たず「自分と徳川が戦争になれば誰かが立ち上がるだろう」程度の考えだったので中央との連絡路を絶った、元取次の石田三成とすら連絡してないから(三成が親家康に転んだからかもしれないが)
だから景勝には大した展望無く偶機に賭けた戦でありその為に戦略は破綻していた、それで誤った情報を信じて負けたと 確かに毛利だけは動き出しがかなり的確なんだよな。
初手大坂城をあっという間に占拠から、阿波讃岐を落として瀬戸内海の航路を確立。
瀬田に防衛戦を構築し、伊勢攻略着手。
このあとのグダグタは評価できないが、ここまでであれば割と意図の理解できる動きをしている。
故に、やはり一連の関ヶ原の首謀者は、少なくとも前半は毛利主体と言わざるを得ない。
石田三成は、前半戦がうまくいくのを見て、急遽各地に書状をばら撒いた、故に空手形と無策が多い感じ。 毛利はまあわかる
能力もないし準備も杜撰だがワンチャン確かにあった
上杉はマジで謎
540度回って西軍誘引のために徳川と示しあわせて挙兵したのかってくらい 安国寺「春頃に福原広俊や堅田元慶を木津留守居として置いたのは大坂城西の丸にその人数を入れるためだった」
毛利秀元、吉川広家、宍戸元続「は?そんな話全然知らんけど」 上杉もようわからんな、一度上洛は承諾しながら先に讒言者を究明しろとか
家中をまとめないといけない領内仕置きのため秋まで待ってくれとかいって
結局日限切られたので上洛できんとかいって会津攻めとなるし。
家中や領内のことなら直江がほとんどしてるので在国必須でもないだろうし
讒言者とは自信の言い分に自信があるなら堂々と上洛して
対決すればよかろうに
上杉贔屓の研究者などは滅びの美学とか名門の意地とか
家康の専横にたいする義戦とか賛美してるが
現実的でないし書状を見てもどうもそんなにご立派なお考えとも思われず
説得力に欠ける 毛利秀元を養子として迎えていたが、実子藤七郎が生まれたので秀元に分地をせねばならなくなった。しかし周防・長門では話がまとまらず、徳川に調停を頼むという忸怩たる結果に終わった。
そこで分地の問題、そして一族内の時限爆弾というべき吉川侍従を大人しくさせるべき解決法として、瀬戸内の覇権確立を思い立ったのである 4月27日付島津義久宛義弘書状
「伊那圖書頭殿并御奉行中よりも、使者を被相添、去月(去カ)十日伏見御打立、会津へ下向候、
必六月上旬の頃ニ可為上洛候条、御返事申はなされ候ハヽ、依其返事内府様御馬可被出ニ御定候」
4月下旬の時点で景勝は6月上旬に上洛すると返答したが、家康は納得せず会津征伐を決定している
この島津の話が本当で1ヶ月余りの猶予も許されないとなると景勝がごねるのもまあ無理ないかな
事を構えたくないなら何を差し置いてでもすぐさま上洛すべきだったとは
思うけど、景勝は家康に許す気がないと見て取ったんじゃないかね >>868
魚津在城衆十二名連署状からもそうだし、
滅びの美学というか武家の面子が第一みたいなのが上杉の家風としか思えんけど。
魚津城衆も景勝も上杉のためなら死ぬのも滅亡するのも構わないみたいなこと言ってるやん。 >>868
結論は至ってシンプルで景勝の謀反が事実だったのよ。景勝は本気で越後を取り戻すべく軍拡を進めていてその結果徳川と戦争になる事も覚悟していた
上洛延期なんて北条もやってる謀反人の定型句みたいなもん。景勝は軍事が終了するまでの時間稼ぎとして上洛を呑んだに過ぎない。逆に家康が時限をしたのはその内心を読んでたから 景勝の行動を追うとまず景勝は神指城を造りだした。これは公儀の許しがあったらしく多くの資材が集まってる。しかしその神指城は関ヶ原のときに殆ど手付かずという有様。集めた資材はどこへと言えば景勝は「秋までに城砦を完成させろ」という書状を出してる。つまり神指城建造を名目に集めた資材を城砦整備に流用していた。神指城は軍事的な要素が見当たらないので公儀への目眩しにもなる
ところがそんな小細工が通用する訳もなく景勝を警戒していた堀秀治がこの事実を突き止めて徳川家康に報告してしまう。家康から上洛を求められた景勝は四月までの上洛を約束するがこれを反故にする。伊奈ら使者が問い糺しにくると今度は六月を約束するが家康も騙されず征伐を開始する 承兌書状によれば訴人は堀秀治で景勝の軍備拡張(城砦建造、領内整備)が問題になっていて最早上洛して謝罪するしかないと言われてる訳でどう見ても訴人の糾明なんぞの段階じゃない
つまり景勝書状は「こういう筋書きでいくからお前たちも間違っても公儀に討伐されるなんて言うなよ」っていう口裏合わせみたいなもんだろう 輝元や三成が挙兵した際に確か「天下の謀逆が露見した」とか言ってた日記があったけど、この場合どちらが「謀逆」に当たるのか >>864
この馬鹿の豊臣が反家康という主張無視されてて笑う >>875
舜旧記7月15日条
「謀逆露顕、伏見城内府家康軍兵楯籠」
・白峰氏→伏見籠城は家康家臣による豊臣公儀への反逆
・大日本史料の注釈→「徳川氏の諸将等変を聞き伏見城に拠る」
つまり西軍による反逆と見做してる 最上や村上や溝口が上杉の軍道整備の懸念を訴えるならまだわかるが、
堀は直接は関係ないと思うがなぁ。
米の持ち逃げの逆恨みとしか思えん。 でもさ、その堀家に米を高利で貸し付け、期日がくると厳しく
支払いを督促というのは恨まれても仕方ないとも思うけどな そう考えると上杉が越後に米残していってれば
上杉征伐は起きなかった可能性が高いってことか? 無理でしょ
上杉景勝って自己陶酔型のアタオカだし
情勢が情勢なんだからさっさと上洛していたら済んだ話なのに 上杉が主張する上洛免除はともかく軍備増強は言い訳できないと思うんだが そもそも御掟に不誠実な申し立てをする者があった場合は双方を呼び寄せて
必ず究明するべきであるって書かれてるし、景勝が上洛渋ってる時点でマズいだろ 戦国板でもここだけはスクリプト嵐の中で上位を維持しているな。
書込内容の水準はアレだが住人の皆さんの熱意には敬服する。 >>885
こういう奴にじゃあ高水準の書き込みとやらを頼むって言うとだんまりなのつまらんわ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています