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石田三成の挙兵 ★9
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0001人間七七四年
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2024/02/09(金) 16:38:34.31ID:O5D+dSHZ
石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/
石田三成の挙兵 ★2
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1659567400/
石田三成の挙兵 ★3
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1667713567/
石田三成の挙兵 ★4
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1675638266/
石田三成の挙兵 ★5
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1681718599/l50
石田三成の挙兵 ★6
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1688201714/
石田三成の挙兵 ★7
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1694679016/
石田三成の挙兵 ★8
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1700484003/
0685人間七七四年
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2024/04/10(水) 13:45:34.62ID:Aj5fpeWx
>>682
「さて、上方で石田治部少輔三成(いしだじぶしょうゆうみつなり)が決起したとの雑説が伝わってきたので、将兵についてはその地でお留めになって、御自身はここ小山までお越しいただけまいか。詳しいことは黒田甲斐守長政(くろだかいのかみながまさ)・徳永法印寿昌(とくながほういんとしまさ)が申しあげるでありましょうから、詳しくはここで記すことはできません。謹んで申し上げます」

三成はこれに勝る書状が書けたのであろうか
0686人間七七四年
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2024/04/10(水) 14:16:47.24ID:Aj5fpeWx
そもそも書状出すのが遅いと真田に怒られているぐらい
0687人間七七四年
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2024/04/10(水) 17:32:31.24ID:8mwk1Pp7
>>685
小山評定があったかなかったかには興味がないのだが、論争の種になっている書状を特段の断りもなく挙げるのはどうなのかね
ましてあくまで「上方雑説」としか記されていないもの三成の名前だけ挙げて超訳しすぎ
ついでにいえば「人数(軍勢)之儀者被上」であって、将兵をその場で留めろではなく広義の「上洛」(西上)を命じている
福島本人については小山に来いとも書いておらず、ここにきてねだけだしな
0689人間七七四年
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2024/04/10(水) 20:12:21.98ID:PgyLI4Ju
そもそも福島を調略するのが三成とか喧嘩売ってるとしか思えない人選
他にいなかったのかよ
0690人間七七四年
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2024/04/10(水) 21:15:46.13ID:uwWGj6S4
>>688
おめぇゲェジか?
0691人間七七四年
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2024/04/10(水) 21:46:48.17ID:qIX5utY5
福島宛書状は福島家の記録と武徳編年集成で日付が異なり(7月9日、19日、24日)

「人数(にんじゅ:軍勢のこと)之儀者」の次は福島家の記録(3種類あり)は被止
武徳編年集成は被上になってるね、一画違いなのでどちらかが誤字なんだろうけど
他の家康書状から先手衆の西上は7月26日からのようなので
7月24日書状で上方雑説の件で明日正則殿は家康の所まで軍勢はて被上て来てください
7月25日正則は家康のもとへ(この日家康の所在は小山)
7月26日東軍先手衆は西上開始(正則は書状を持ってきた徳永と同じ組で進軍)
と考えるのが自然だと思う

正則調略は真田宛書状で三成が報告しているが
確かに三成が前面に出るのは逆効果かもしれないので
調略自体は2大老3奉行などで豊臣公儀の名で行ったのではないだろうか
ただ8月8日黒田長政宛本多正純書では上方からの正則への説得工作には
ゆっくり対応して時間稼ぎするように指示してるので
正則は西軍からの調略について徳川に報告していると思われ
時間稼ぎの為に気のあるふりをしていたが全く応ずる気がなかったのだろう
0692人間七七四年
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2024/04/10(水) 22:03:13.44ID:oUJ4e9J1
福島、もっと言えば美濃方面全般に関しては、西軍の意思というより石田三成の独断かと。

真田や佐竹に出している美濃の戦略を書いた書状も、何故か石田のみの筆しかない。

特に旗幟を伺う書状なら、少し前まで一緒にいた輝元や奉行、安国寺らと連名にするものだろ。
0693人間七七四年
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2024/04/10(水) 22:44:04.33ID:CF4GrNSp
生駒利豊の書状によると福島が清須に帰城する前に秀信と三成で清須落とすつもりだったんだよな

8月5日付真田宛三成書状でも「拙者儀、先尾州表へ岐阜中納言殿申談、人数出候」
8月6日付真田宛三成書状
「此方為仕置明後八日尾州表へ被出候、岐阜申談候」
とあるので秀信とは密に通信して色々相談していたことは伺えるが、せいぜいこれくらい
のもので美濃方面に関しては西軍全体が共有していた戦略とはとても言い難いな
0694人間七七四年
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2024/04/10(水) 23:28:09.23ID:oUJ4e9J1
>>693
むしろ西軍全体の主戦略から外れた格好の三成が、秀信と結んで主導権を得ようと色々画策したとも取れる。
0695人間七七四年
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2024/04/10(水) 23:40:30.74ID:5jaX/Vt2
織田秀信以外に伊藤盛正や一柳直盛などの説得にも三成や三成手の者の名が出てて彼が美濃尾張方面や東の調略窓口としてどうしても目立つ
スレの上で話題出てた福束城の丸毛氏も三成じゃなかったか

あと気になるのが西軍への誘い文句に領土や大坂城の金銭を提示してたりするんだよな
提示した領土が被ってるケースもあるし三成が単に空手形連発してただけなのか
0696人間七七四年
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2024/04/11(木) 00:41:11.89ID:wW3pcrBr
文献史学を少しかじっていたら分かると思うんだよね
敗者にならずとも、敗者側からの書状なんてそうそう残さないということ
のちのちに焼かなくても、朴斎によると、ほぼ初報の段階で金森だったかが三成から届けられた書状を、箱の封印を解かずに家康に差し出している
そんなケースもある
ちなみにこの書状の中身については「家康以外だれも知らない」という

惣村史料だって残っているのは基本的に自分たちの権利を証拠だてるもの
なぜ残っているのかも考えてみたらどうでしょうね
「家康が快勝した」という結果を現代人が知っているってのは、極めて厄介ですねえ
0697人間七七四年
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2024/04/11(木) 00:57:54.28ID:YWEil4F+
>>693
さっさと清須落とせばかなり違ったはず
武器弾薬、秤量
0698人間七七四年
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2024/04/11(木) 10:02:55.12ID:N+AOEUN7
清洲については、最上は福島が説得に応じ味方すること、
次善は福島の敵対は確実になるが攻め落としてしまうこと。
最悪は福島が味方せず清洲を確保できないこと。
結果は最上を望んで最悪になったということ。
この結果は半ば博打なので仕方ないとは思う。
ただ説得がだめだった場合の次善策として、
大垣、岐阜、犬山から兵1万くら抽出して小牧山を占拠しておくという手はあった。
メリットは、対清洲に有利な形で第二次小牧長久手に挑めること。
デメリットは、ただてさえ少ない兵力をさらに分散配置、
守るところも大垣岐阜犬山小牧山と増える、
宇喜多が来るまでにどこか落ちててもおかしくない。
個人的にはデメリットのほうが大きいと感じる。


清洲強襲案についても同じことが言え、
結局味方の来援がくるまで持ち堪えられるのかというのが最大の問題。

結局結論としては戦略が間違っていたとなる。
秀元吉川には美濃経由で清洲に行けと命じておけば
西軍というか石田の構想通り尾三国境付近とか浜松付近での決戦に持っていけていたと思われる。
伊勢は元康長束安国寺鍋島長曾我部あたりにゆっくりやってもらえば十分。伊勢には有力な東軍戦力はいない。
0699人間七七四年
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2024/04/11(木) 12:03:02.10ID:kM4XSVNZ
7月中に清須を攻略できると西軍につく武将出て来ないか
伊勢無欠開城とか
金森なんて優勢と見たら西軍についてくれそう
0700人間七七四年
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2024/04/11(木) 12:03:03.85ID:lNrnnCQ3
>>698
前提条件がそもそも間違ってるのよ。
8月頭の時点で、美濃衆はまだ西軍側に付いていない。
伊勢に侵攻したあとに、美濃衆が西軍に付いたので、今更美濃(あるいは尾張)に行くなら史実通り伊勢を片付けてからになる。

そして、本来ならそれで十分間に合うはずが、安濃津城を落とした段階で既に岐阜城陥落、赤坂占拠(中山道遮断)で詰んだ。
0701人間七七四年
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2024/04/11(木) 12:59:04.89ID:RVhg7leU
西軍の誤算は秀頼のネームバリューが低すぎた事
これは豊臣家の誤算でもあるが
戦国時代家中統制が出来ている方が珍しくて下剋上したい連中は山といる。そうした連中に「あいつは秀頼さまの敵」と蜂起させればそれで良かった。要は福島正則が西軍につかなくとも福島家臣が西軍につけばそれで事足りた
そんなことすら起きなかった。それだけ正則の家中統制が良かったのもあるが西軍つまり豊臣家の人望が致命的に足りなかった
0702人間七七四年
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2024/04/11(木) 13:31:31.91ID:qT26bq1/
西軍が豊臣家そのものという妄想を立証してくれないと酔っぱらいの戯れ言だぞ
0703人間七七四年
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2024/04/11(木) 14:28:26.36ID:lNrnnCQ3
>>701
同じ西軍でも、そこに毛利みたいな外様と、最初から豊臣臣下の三成らとでやり方の違いが出ている。

毛利が主体となって動いた伊勢、阿波、讃岐、負けたが伊予、豊後については、
書状(秀頼の威光)なんか当てにせずに全部武力侵攻している。

豊臣公儀なんかより実利を求めた侵攻先だから当たり前といえば当たり前だが、
三成らに足りなかったのって、そういうところじゃないのかと思うんだが。
0704人間七七四年
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2024/04/11(木) 14:59:56.27ID:RVhg7leU
>>702
んなもん浅野幸長書状と伏見を落とした鈴木重朝に秀頼が褒美を与えた事で証明は終わってる。今や一周回って豊臣vs徳川という構図が確立した
家康は関ヶ原で「自分が公儀」という姿勢を見せてないけどこれも豊臣家が敵に回った以上当然のこと。正当性を云々したら豊臣家がついている西軍に勝てるわけない。だから黙殺する
同時に西軍もこれがわかってるから自分たちが有利だと思っていた。家中に溝があればそこが割れる様にしたということ
だが事が成らなかったのはまず家康が強過ぎたこと、豊臣と徳川を比べて豊臣では徳川に勝てないと見做されたこと、そして何より徳川家が割れなかったこと。こうしたところを見間違えた結果西軍は敗れ豊臣家は凋落した。せめて家康に輝元討伐の書状でも送ってれば話は違ったろうがな
0705人間七七四年
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2024/04/11(木) 16:05:25.70ID:jEhoC8UF
再度貼っとく
史実時系列表(仮・本戦後を加筆)

6月6日 会津征伐に関する軍議、芳春院(まつ)、人質として江戸に到着
6月16日 家康、大坂出陣
6月23日 細川忠隆隊上杉征伐に丹後宮津を出陣
6月27日 細川忠興隊上杉征伐に丹後宮津を出陣
7月1日 家康、江戸到着
7月2日 秀家、出陣式
7月12日 前田、増田、長束が輝元に大坂出陣を要請
7月15日 輝元、広島出発
7月17日 前田、増田、長束「内府ちがひの条々」、細川ガラシャ自害
7月19日 輝元、大坂城入城、伏見城攻防戦開始、秀忠が会津へ出陣
7月21日 家康、江戸から会津に向け出陣
7月22日 宇喜多、小早川、鍋島伏見到着、毛利軍が瀬田の砦構築を担当することとなる
7月25日 伝「小山評定」
7月26日 東軍諸将、西進開始、利長金沢を出陣
7月29日 三成伏見到着
8月1日 西軍伏見城攻略
8月2日 前田勢大聖寺城攻略
8月3日 大谷ら約6000敦賀着陣
8月4日 瀬田の砦構築完了
8月5日 家康江戸入城
8月8日 前田勢約25000大谷らの流言飛語に掛かり金沢へ引き返す
8月10日 石田、小西大垣到着(6700、5000)
8月14日 東軍先発諸将3万数千清洲到着
8月16〜17日 市橋長勝・徳永寿昌・横井時泰らが福束城を攻略。
         福束城主丸毛兼利、大垣からの援軍伊藤盛正・武光忠棟・石田らは敗走
8月17日 伊勢方面攻略隊より小早川秀秋勝手に行軍より離脱、病と称し近江を放浪
8月19日 市橋・徳永らは高須城高木盛兼、駒野城高木帯刀、津屋城高木正家を攻略
8月20日 島津義弘大垣到着(1000)
8月22日 東軍先発諸将木曽川渡河、織田秀信が迎撃に失敗し岐阜城へ敗走、島津義弘墨俣の守備に就く
8月23日 東軍岐阜城攻略
8月24日 西軍鍋島ら伊勢松阪城攻略、東軍先発諸将赤坂に布陣、秀忠宇都宮城を出陣
8月25日 西軍毛利秀元ら伊勢安濃津城攻略
8月27日 宇喜多秀家、長島城攻略を止め大垣入城(18000)
9月1日 岐阜城落城の報告を受け家康は江戸から出陣
9月2日 大谷ら関ヶ原山中村着陣(9600)
9月3日 犬山城開城。石川貞清ら一部を除いてほとんどが東軍につく
同日  京極高次が北陸から大津城に帰城、東軍方として兵3000で籠城する。付近にいた毛利元康、立花、筑紫ら約15000がこれを攻める
9月3〜5日頃 相良、熊谷、秋月、高橋、垣見ら大垣入城(4000〜7000?)
9月上旬 鍋島勝茂南宮山へ向かう西軍主力から離脱、伊勢美濃国境付近に留まる
9月7日 毛利秀元、吉川ら毛利勢南宮山着陣(約2万?)
9月7日頃 小早川秀秋佐和山付近をうろつく
9月8日 家康が西上したことにより上杉軍が最上領へ侵攻
9月9日 大久保忠益が秀忠の元に到着、即日上田攻めを中止
9月9〜10日 尾張の野間・内海にて毛利水軍が合戦
9月10日 秀忠西上開始。家康、熱田到着。
9月11日 家康清洲入城(33000?)、前田利長再び金沢出陣(今回は利政抜き)
9月13日 西軍小野木ら約15000、丹後田辺城を開城する
9月14日 家康赤坂着陣。秀忠信濃本山(塩尻の少し南)到着、小早川秀秋、伊藤盛正追い出して松尾山占拠、西軍毛利元康ら15000、大津城攻略
9月15日 毛利元康ら大津入場
同日   関ヶ原の合戦(本戦)で東軍勝利、宇喜多石田大谷が壊滅、島津長束長宗我部他は撤退又は敗走
0706人間七七四年
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2024/04/11(木) 16:25:25.73ID:jEhoC8UF
8月初頭時点では、前田南下に備え近江を空にはできない状況にある。
その脅威が去った後美濃尾張方面への進出企図となると、
それほどもたもたしていたわけではないと言える。
逆に言うと前田が越前で大谷らと対峙していれば西軍の伊勢美濃進出はもっと遅れている。
第二次小牧長久手ではなく、第二次賤ヶ岳に近くなっていたと思われる。
最善は美濃尾張への大軍投入で第二次小牧・長久手の再現狙い、
もしどうしても伊勢に大軍を投入するなら、攻撃先は安濃津ではなく長島。
長島落として清洲を狙う動きを見せるなら効果はあると言える。
まぁ長島がそう簡単に落ちるとは思えんが伊勢に大軍投入するなら
なんとしてでも長島落とせ、と思う。
0707人間七七四年
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2024/04/11(木) 16:43:35.73ID:OjMA4Cqp
長島落とせば、あとは清洲狙いに行くか、
熱田鳴海沓掛辺り占拠すれば東海道遮断、
面白い展開にはなるが、
尾張南部に展開する伊勢方面隊は退路が海になるので非常にリスキー。
早期に美濃方面の味方と小牧山辺りで合流するのが
リターンは小さいがリスクは低いと言える。
それで第二次小牧長久手やるのが一番堅実には思える。
0708人間七七四年
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2024/04/11(木) 16:55:13.43ID:jEhoC8UF
岐阜落城と同日長島落城だと東軍先発隊はかなり悩むだろうね、
選択肢は、
強気に大垣を狙いに行く、
岐阜の守りを固める、
犬山を狙いに行く、
清洲の守りを固める、
長島に向かい伊勢方面隊と決戦する、
強気に佐和山を狙いに行く、

選択肢が多くて軍議纏まらんと思う。
なにを選択するかも想像がつかん。
0709人間七七四年
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2024/04/11(木) 17:20:18.63ID:ziU5cU19
清州着いてからまず最初に福束城攻略やるような連中だから状況変わっても多分ガンガン行くと思う
福束城なんて木曽川と長良川二つ超えなきゃいけなくて大垣城の目と鼻の先にあって伊勢へも出られるような奥にある位置への楔打ち込み
周りの城もまだ落ちてない中で命知らずに先駆け争いまでやるような武断連中だ。三成達奉行衆とは面構えが違う
0710人間七七四年
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2024/04/11(木) 18:02:32.72ID:YWEil4F+
>>701
堀は秀頼に忠誠するとか言っていなかったっけ
0711人間七七四年
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2024/04/11(木) 18:09:24.10ID:I5o/Me7H
過去ログから宇喜多秀家の所在地

419 人間七七四年 sage 2023/08/06(日) 22:11:10.42 ID:+i3qLP+V
宇喜多は岐阜城落ちるまで伊勢だぞ

420 人間七七四年 2023/08/06(日) 22:16:54.69 ID:ec56rJSQ
>>419
??
8月29日の保科書状で宇喜多の名前があるから、8月下旬には大垣にいたんじゃないの?

422 人間七七四年 sage 2023/08/06(日) 22:26:24.61 ID:+i3qLP+V
>>420
27日まで長島攻めてない?

425 人間七七四年 sage 2023/08/06(日) 22:43:21.46 ID:U+hY+jx+
>>422
宇喜多は安濃津攻めの後恐らくすぐ大垣に向かってると思うよ
8月27日付のはやし村(岐阜県大垣市)に宛てた禁制に宇喜多も島津・小西・石田と共に連署していて花押も据えられてる
0712人間七七四年
垢版 |
2024/04/11(木) 19:25:27.35ID:bMlXRZw2
>>703
藤堂領は調略により一揆を蜂起させてはいるが侵攻はしてないね
8月18日付山田兵庫助宛、久枝又左衛門宛毛利元康・堅田元慶連署状で藤堂領内の山田や久枝らの国人を調略してる

輝元も8月27日付村上武吉他宛毛利輝元書状で
「藤佐領分之儀、留守居操之道在之儀候条、動之儀今少可差延、やかて趣可申下候」
と、藤堂領は調略の手立てがあるので侵攻は延期しろと命じていて、結局その後も軍事行動は起こしてない
0713人間七七四年
垢版 |
2024/04/11(木) 22:04:55.21ID:JDYVamjk
>>711
秀家は草津で待機していた。
明石が推定桑名周辺にいた。
明石が長島攻めに先に着陣し、それに合流しようとした秀家が大垣からの救援要請により大垣に向かったと見るのが自然。
0714人間七七四年
垢版 |
2024/04/11(木) 22:17:07.65ID:JDYVamjk
大垣の石田視点では、東軍先発隊が赤坂に布陣した(山内隊は垂井周辺放火)、このまま突進されれば
ろくな戦力がない佐和山陥落の可能性大、
なんとしてでも東軍を赤坂で食い止めなければならない、
なので北陸大谷、伊勢方面隊毛利、宇喜多、瀬田守備隊(西軍のほとんどだな)に大垣救援要請を出した。
一応東軍は赤坂で止まったが、結果的にはこれはあかんかったな。
一万で大垣籠ってればそう簡単には落ちん。
遅れてはしまうが伊勢方面隊でそのまま長島攻略して尾張に進攻したほうがよかったと思われる。
大垣救援は大谷らと瀬田守備隊だけで十分だった。
0717人間七七四年
垢版 |
2024/04/12(金) 13:54:01.28ID:srzBwsUg
>>716
三成が東軍に寝返る。これで勝ち確。

……いや、割とマジな話。
0718人間七七四年
垢版 |
2024/04/12(金) 13:54:51.63ID:pzNZgQMN
>>712
愛媛県宇和島に行ったことあるけど、あんな奥地まで軍勢を送るのははっきり言ってどうかと思う
0719人間七七四年
垢版 |
2024/04/12(金) 13:58:03.52ID:pzNZgQMN
>>716
せめて関ヶ原本戦が二次史料であるように、両者がまともに激突して最初は西軍優勢
午後過ぎに小早川裏切りとかいうものなら、何とかなりそうなんだけど……
あれは完全に作られたお話だしねえ……

家康が大坂にいる時に暗殺する
食事、トイレ、外出何でもいいから、とにかく暗殺
それしかないと思うんだけど……
家康に三成、輝元がまともに戦って勝てる未来が想像できない
0720人間七七四年
垢版 |
2024/04/12(金) 15:10:06.35ID:xU08zCc3
新説関ヶ原合戦だとそうなんだけど、最近はある程度は持ちこたえた
という結構従来説への部分的揺り戻しも出てるね。
何より瞬殺説提唱の白峰氏がその後は明け方に小早川らが関ケ原の大谷勢瞬殺
その後午前10時頃から山中村の西軍主力を壊滅させたと時間をあけての2段階
合戦説に変更してるからね。
0721人間七七四年
垢版 |
2024/04/12(金) 15:21:21.84ID:srzBwsUg
>>719
その二人なら、まだ毛利のほうが配下に実戦経験者が多いからマシかも。

三成はただでさえ戦前から戦下手の評判なのに、
福束城救援、岐阜城救援、関ヶ原本戦の怒涛の3連敗を喫しているので、
劣勢どころか同数の兵を集めてぶつける想定ですら勝ち筋が見えない。
0722人間七七四年
垢版 |
2024/04/12(金) 15:30:07.29ID:xU08zCc3
杭瀬川があるので1勝3敗で頼む
0723人間七七四年
垢版 |
2024/04/12(金) 16:22:02.57ID:pzNZgQMN
杭瀬川ってあれ一次史料あるのか?
0724人間七七四年
垢版 |
2024/04/12(金) 16:26:52.46ID:40TPpiHA
>>720
それは初耳。大谷らに対して小早川秀秋が夜襲?
早朝攻撃したと?
当日朝の天候は霧だよね、
ちょっと色々と詳細を聞きたい。
0725人間七七四年
垢版 |
2024/04/12(金) 16:39:02.29ID:40TPpiHA
ん、でも脇坂小川らの寝返りが前提なら夜襲や
霧中攻撃かつ大谷瞬殺も可能か?
それも大垣勢が関ヶ原に辿り着く前の奇跡のタイミングで?
0726人間七七四年
垢版 |
2024/04/12(金) 16:57:01.82ID:40TPpiHA
大谷瞬殺後小早川脇坂小川らが推定山中村付近に布陣、垂井からも東軍先鋒が南下、
東軍が待ち構えている所に大垣勢が無警戒に進出し
大谷同様瞬殺される。
話が出来過ぎだが一応筋は通るな、

んー、でも霧で見えなくても戦闘音は聞こえるだろうし
大谷の敗残兵が落ちてきてなにかしらの戦闘が起こってるのは認知できるだろう、
そんなところに進出するだろうか?
関ヶ原本戦は桶狭間みたいな不期遭遇戦でした説か?
桶狭間同様、夜間、霧という天候がポイントになる。
0727人間七七四年
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2024/04/12(金) 16:58:50.04ID:oMVH13z+
水口で甲賀忍者を大人数雇い暗殺

6月20日、四日市より、お供には陸路を周らせ、家康は舟に乗り、女中十人・小姓十人ほどで佐久島の崇運寺で宿泊。【慶長年中卜斎記】
九鬼水軍で舟を沈める
0728人間七七四年
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2024/04/12(金) 16:59:43.67ID:xU08zCc3
杭瀬川の戦いについては一次資料にはないが
島津家家臣の史料『山田晏斎覚書』(『旧記雑録後編三』に9月14日に
『石田殿衆、赤坂之軍衆ニ掛合、敵三十人程打取候由、石田殿より注進候事』
とあること。

地元大垣に戦死した中村家の野一色頼母の兜塚、三成が首実検したと
いう遮那院跡が伝承されていること。

家康養女の満天姫が1611年(翌年説もあり)津軽家に嫁ぐ際に
家康所有の関ケ原合戦屏風をもらい受け持参してますが
この1611年か1612年までには成立していた屏風に
杭ノ瀬川の戦いの場面が描かれていることなどから、
この合戦は実在したと考えています
0729人間七七四年
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2024/04/12(金) 18:01:34.65ID:nAMOwGFB
>>712
愛媛県宇和島は南予になるが伊予でも東予、中予とは色々別物
経済的にも政治的にも優先度はかなり低いと思う
土佐中村方面とルートがあるぐらいで微妙な土地
鶏肋
0730人間七七四年
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2024/04/12(金) 18:02:58.65ID:srzBwsUg
>>728
全くの嘘ではないんだろうけど、日付まで含めて記述が全て本当なら、
9月14日にわざわざ赤坂を突付いて刺激してからその夜に関が原山中に移動したってことになる。

……え、何しとん?
呼び鈴鳴らして動くようなもんじゃん。
0731人間七七四年
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2024/04/12(金) 18:30:26.08ID:xU08zCc3
>>724 >>726
レスありがとうございます。

白峰氏が二段階合戦説を唱えだしたのは2014年の新説本瞬殺説の2年後2016年
だったと思います。ただ自著ではなく地方研究史などに寄稿した論文が主で
書籍ですと編著(2016年渡辺大門編w)戦国史の俗説を覆すに問鉄砲は真実か
という一節で2段階合戦説を主張されてます。

内容はどれもほぼ同じなので『愛城研報告』関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況について
ー島津家家臣史料の検討ーの記述を上げさせていただきますと
「15日早朝の戦い家康方軍勢と小早川秀秋の軍勢による挟撃で大谷吉継が戦死し、
その後、巳の刻(午前10時頃)頃に家康方軍勢が石田三成方本隊を攻撃して、
それから時間的に早い段階で石田三成方本隊の陣が総崩れになったことになる」
「石田三成方本隊の陣が総崩れになった時間は、巳の刻(午前十時頃)以降、早い時間帯であり、
最終的に決着がついたのが午の刻(昼の12時頃)ということになる」

大谷勢の布陣場所が関ケ原、西軍主力は山中村布陣というのは大門編纂本の
白峰氏の文章で出てきます

個人的にはこの白峰説は全く首肯していません
なにかで確実に読んだ記憶があるのですが白峰氏が大谷勢が関ケ原町に
布陣というのは不破の関、藤下に進出してそこで戦死ということの筈ですが
そこはぎりぎりですが山中村で関ケ原ではありませんし

未明に大谷勢が壊滅したという資料がないわではないですが
(9月晦日伊達政宗家臣宛書状等)、他の史料では戦闘のさなか
小早川が寝返りという時系列のものが多く、有力な新資料でも発見されない限り
2段階合戦説を定説とするのは無理があると思います
0732人間七七四年
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2024/04/12(金) 18:46:49.51ID:pzNZgQMN
早朝というのが具体的に何時かわからないけど、いくら何でも大谷が戦死した情報が三成たちに入らないというのは考えにくい
それに吉川広家の文書とも矛盾してない?
確か広家は三成島津たちが大垣城から出たとき、吉継も心細くなったのか後を追ったとか言ってたはず
0733人間七七四年
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2024/04/12(金) 19:27:27.26ID:pzNZgQMN
>>729
そもそも宇和島城に行ってみたけど、余り大きな城ではなかった
市街も余り大きくなかった
人口も10万いるかどうかじゃない?
松山市から車で確か2時間くらいかかった、高速通って
遠すぎ、辺鄙すぎ
0734人間七七四年
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2024/04/12(金) 19:36:40.79ID:40TPpiHA
大谷大垣入城説はわたしは疑問に思う。
>>732
その文言通りだとすると大谷は関ヶ原に向かった西軍最後尾となる。
そこが真っ先に壊滅する状況とはどんなものだろうか、
佐和山目指して退却中に小早川秀秋に襲撃されたとか?
この場合最後尾というか殿に相当する。
取って返すより佐和山への退却という目的完遂を目指すと思うけどなぁ。
そも佐和山へ退却というのもわたしは違うと思ってる。
大垣勢の目的は松尾山の奪還かなと。
大谷らは山中村布陣していた前提で。

とりあえず大谷瞬殺からの大垣勢瞬殺は
一応筋だけは通る。
その白峰説は。
大坂夏の陣並の部隊間連絡ならこんな各個撃破もあるかもなぁという感想、
0735人間七七四年
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2024/04/12(金) 19:47:39.77ID:pzNZgQMN
佐和山目指して退却中に小早川秀秋に襲撃されたとか?

卜斎記で「小早川の謀反が明らかになったから大垣城を出た」とあるのに、最後尾に
いる大谷が小早川に襲われるというのは……意味がわからない
0736人間七七四年
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2024/04/12(金) 20:08:04.87ID:40TPpiHA
>>735
だから最後尾にいるであろう大谷が真っ先に壊滅する状況が想像できないということ。
大谷大垣入城説だとね。
大谷らは山中村に布陣していたとするなら
真っ先に壊滅しても説明はつくから。
あとは一周回って定説、
家康の赤坂着陣、小早川の松尾山占拠により、
垂井から佐和山へ進出されること危惧した石田は
関ヶ原でこれを阻止することを決断、
定説通り布陣、定説通りの展開で西軍敗北。
一応定説でも大谷が真っ先に壊滅するのはおかしくない。
0737人間七七四年
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2024/04/12(金) 20:17:23.54ID:xU08zCc3
吉川家文書913号「就其大柿衆も、彼地被居候事不成候而如山中、
大刑少陣無心元之由候て、被引取候」とあるのを
「それで大垣衆も、そこに居続けることが出来なくなって、
おそらく山中へむかって、大谷吉継は不安になって撤退して行きました。」と
意訳したのは高橋陽介氏だけど明らかな誤訳

彼地被居候事不成候而は見せ消ち部分なので訳すべきではないし
そもそもこの部分の主語は大柿衆なので大柿衆がそこにいられなくなって
移動したという話で大谷が移動したという文意ではない

おそらくと意訳したのは由の文字にかけてるのだろうが
よくある用例では噂など人づてに聞いた話か当事者から聞いた話で
〜とのこととでも訳すのが妥当

大刑少陣無心元之由候の部分で大刑少陣とあるので山中の大谷陣が
心もとなくなったという意味で大谷が不安になってという文意ではない
なのでそれについて大垣衆は山中の大谷陣が心元なくなったということで
撤退していきましたとでも訳すのがいいと思う

他に大谷が大垣城にいたという資料はおそらくないので
9月14日時点では通説通り山中村に布陣でいいと思う
0739人間七七四年
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2024/04/12(金) 21:02:42.82ID:oMVH13z+
>>738
そうなると一番に西軍に寝返るのが福島
池田、田中、筒井と続々裏切る
池田が家康を攻め出したので吉川も動く

東軍で絶対に裏切らないのは
黒田、藤堂、京極、山ノ内ぐらいか
0740人間七七四年
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2024/04/12(金) 21:28:54.49ID:BOujlwwE
石田大谷は決起直後から西軍決起人として東軍側にモロバレなんだから
寝返りなんてそもそも赦されないだろうけどな…てかそのifやる必要あんの?
0742人間七七四年
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2024/04/12(金) 22:25:06.71ID:srzBwsUg
>>740
総大将が寝返りやらかした西軍だぞ?
結果的に反故にはされたが、一度は「赦された」わけで。

それに比べたら豊後、伊予、讃岐、阿波、大坂、伏見、田辺、大津、伊勢の
いずれの戦線にもろくに貢献してない石田が赦されるなんて余裕でしょ。
0743人間七七四年
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2024/04/13(土) 02:15:11.19ID:/xJW6IAP
>>737
その辺はまんま白峰氏から厳しく突っ込まれてるな
これに対して高橋氏が反論してるかは知らんけど、誰が読んでも誤読は一目瞭然だし大した反論ができるとは思えんね
0744人間七七四年
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2024/04/13(土) 07:13:25.38ID:rr5sijDQ
たとえ西軍が勝っても毛利輝元、上杉景勝はそれぞれ西国東国の覇者をめざすであろう。とくに毛利輝元は、阿波、讃岐、伊予、豊後、豊前を有機的結合した瀬戸内海地域覇権の形成は、新たな時限爆弾になる。
0745人間七七四年
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2024/04/13(土) 11:07:25.10ID:Zx7vZE+s
白峰説を纏めると、まず大垣勢が関ヶ原に到着する前の時点で小早川脇坂小川らが大谷隊を瞬殺する。
おそらく午前03〜06時頃か?
垂井から東軍先鋒も進出し、霧の中東軍が待ち構えている所に大垣勢が進出、
霧の晴れ始めた午前09時頃戦闘開始も
圧倒的不利な布陣状況で西軍瞬殺、
石田小西宇喜多は北国街道方面に逃走。
島津は伊勢方面に逃走。
こんなかんじかな。


不審点としては石田らが伊吹山方面に逃走しているという点で、
東軍先鋒は垂井からそれほど進出していないように思える。
敵中突破して伊吹山逃げるより素直に佐和山逃げたほうがよくね?と思う。
なので石田らは定説のように笹尾山天満山とかまで
山中村を通過して進出したとしか思えない。
小早川脇坂小川らは霧の中、味方のフリして大垣勢を
やり過ごせたのか?
大谷隊壊滅を知らずに進出したのか?
と、いくつかの疑問点は残る。
0746人間七七四年
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2024/04/13(土) 11:14:25.25ID:B5J68ldb
>>745
南宮山勢にも言えることだけど、軍隊が山から降りるのには、早くても2時間はかかる。

通過まで待ったと言うより、下山してたタイミングで捕捉出来たのが大谷隊、
勝ち目がないと判断して寝返ったのが朽木脇坂らという形では?
0747人間七七四年
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2024/04/13(土) 12:47:38.98ID:lyusTqcj
>>746
南宮山に大群は地形的に布陣出来無い
毛利秀元は麓だったのでは
0748人間七七四年
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2024/04/13(土) 13:36:10.16ID:7EbPa5gk
>>747
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-3/37/0005?m=all&s=0004&n=20

三成書状を信じるなら長束、安国寺は人馬の水もない高山で、合戦になっても軍勢の上り下りできない山に陣取ってる
秀元のみ麓とも考えにくい

ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/18-1-1/46/0069?m=all&s=0067&n=20

上記吉川広家によると、長曽我部、秀頼御弓鉄砲衆と安国寺陣を落としてから「かさの陣」に切り上るのが東軍の当初の方針
秀元らが南宮山のもっとも深い場所に籠っていたと考えざるを得ない
0749人間七七四年
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2024/04/13(土) 15:04:50.56ID:lyusTqcj
>>748
航空レーザー測量から判明したところによれば、南宮山山頂には陣跡はなく、毛利方が陣した位置はおそらくその北側山麓であり、小早川秀秋も松尾山山頂ではなく関ヶ原寄りの山麓に陣しており、後者は当初のおそらく西軍計画から逸脱した配置であった。小早川は当初から寝返りを考えており、その為、高所にではなく、関ヶ原に進出しやすい山麓に陣を敷いた。
0750人間七七四年
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2024/04/13(土) 15:11:53.85ID:RlPN8HaX
>>749
そうなると、「吉川隊が邪魔で毛利本隊や安国寺や長宗我部が動けなかった」というのに矛盾しないか?
山麓にいたらないくらでも道はあっただろ。
0751人間七七四年
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2024/04/13(土) 15:34:10.26ID:7EbPa5gk
>>750
「邪魔で動けなかった」は俗説だ
吉川によると、長束、安国寺は口だけ雄々しいが戦は見合いしていたとある

むしろ山頂に削平地がないから布陣は麓なんだ~、に疑問を持つべき
Wikipediaによるが、山頂は眺望がなく、山頂からの尾根筋の遺構は大垣方面が一望できるそうで
ある意味で西には無防備なんだが、一時的な陣城や境目の城なんかだとこういう構造はよくある
>>749が言っていることと真逆なんだよ
そもそもソースがなんなのか示されていないしね
「戦は関ヶ原で起きた」という結果から逆算したかのような仮説だよ
0752人間七七四年
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2024/04/13(土) 15:49:28.82ID:9pswDCKq
標高404メートルの山頂にある毛利秀元陣跡の入り口に堀切や土塁で築かれた
枡形虎口などの遺構が残っているしので確かにここに本陣があったんだと思うよ
9月7日布陣で決戦まで8日なので大規模な工事はできなかっただろうけど
その航空レーザー測量というのは何がソースか知らないけど正しくないのでは?
0753人間七七四年
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2024/04/13(土) 16:53:37.54ID:lyusTqcj
>>750
秀元別働隊が山中を突き進み
家康本陣のそばまでたどりつく
家康は手を出すな

三成が降った後でも京まで追い回した

ってのもあるのだが
0754人間七七四年
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2024/04/13(土) 16:56:15.19ID:lyusTqcj
>>751
nhkでやっていたのですがねえ
玉城とか
山頂には見張りがいたのでは
0758人間七七四年
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2024/04/13(土) 17:26:11.26ID:7EbPa5gk
>>754
そのNHK半分くらい自分も観ていたよ
確かにレーザー測量もやっていた
で?、という話で

千田先生の論は「玉城 秀頼」ででもググればテレビと同じものがでてくる
それを一読すれば分かるがちょっと飛躍しすぎだし、のちに「関ヶ原」で合戦があったことに引っ張られている
一部はこちらがソースを挙げたがその他の一次史料とも矛盾する

玉城が輝元や秀頼の御座所予定地というのもどうなんでしょうかね
秀元も馬廻り鉄砲衆も南宮山付近に布陣しているのに
0759人間七七四年
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2024/04/13(土) 18:23:29.20ID:7CfeQusT
>>748
そういや安国寺・長束・長宗我部隊は浅野・池田隊と小競合い起こしてるけど
弓や鉄砲隊など極一部だけの衝突で隊ごと全体的な戦いには発展しなかったのも
陣跡とされる場所や布陣図では山麓や平野部に出張ってるように見えるけど彼らも案外守りやすく身動きとりにくい場所(高所)に陣取ってたのかもね
0760人間七七四年
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2024/04/13(土) 18:29:17.95ID:PaDpZTqK
>>754
イキってたけど批判に反論たできなくて笑う
0761人間七七四年
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2024/04/13(土) 18:52:32.25ID:rr5sijDQ
南宮山山麓には、池田輝政、浅野幸長、山内一豊、有馬豊氏の四隊、総計四万の兵がひしめいている。
それを釘つげにするだけでも、立派な手柄ではないか
0762人間七七四年
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2024/04/13(土) 19:38:42.15ID:Zx7vZE+s
>>748
長曾我部の陣所は南東端の栗原山だよね、
そこ攻撃するということは、南宮山と大垣を切り離し、
大垣包囲するつもりだった、ということかな。
0763人間七七四年
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2024/04/13(土) 19:45:46.19ID:9pswDCKq
>安国寺・長束・長宗我部隊は浅野・池田隊と小競合い起こしてるけど

高橋氏の意訳は間違いが散見されるのであまり全面的に信用されない方が・・・

9月17日吉川広家書状案のその部分は
合戦前日に福島黒田の使者と講和の話をした際に東軍の作成計画を吉川が
尋ね長曾我部、弓鉄砲衆、安国寺の陣の切り崩し〜という予定でしたが
和談が成立したので相違となるでしょうかと使者から反問され
吉川としては和談のことは吉川、福原のみが知っているので
東軍より抑えの兵が出ると(毛利勢以外の南宮山軍と)合戦になるでしょう
(原文には合戦に及び候可と可の字が入っているので現実に起こったことを
語っているわけではなく、未確定のこの場合は想定を意味する)
なので抑えの兵を置かずにそのまま通り過ぎてくださいと
9月14日から見て未確定の未来の想定を語っているにすぎません
0766人間七七四年
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2024/04/14(日) 13:35:40.14ID:Z4NCMZNQ
>>758
玉城が輝元や秀頼の御座所予定地だったのなら
西軍は最初から関東にいる家康が畿内の入り口まで進軍して攻めてくることを予定して蜂起したわけ
そんな予定を立てる軍なんて輝元や秀頼でなくても見捨てるに決まっている
0767人間七七四年
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2024/04/14(日) 13:48:36.53ID:Cp7NJeWU
昨日はバカの夢のオールスター戦だったのか。こいつら出禁にしろや。

ID:rr5sijDQ:大河や光成本しか読んでない,本の受け売り馬鹿、IDまでドキュン
ID:Zx7vZE+s:妄想架空戦記、ゲーム脳レベルの馬鹿
ID:B5J68ldb:齧った程度の知識しかない無知蒙昧馬鹿。特に脇坂について
ID:lyusTqcj:TV番組がソースで鵜呑みにする、超ウルトラスーパーDX馬鹿
ID:9pswDCKq:最近湧いて来たド素人の長文知ったかバカ、TVソースと馬鹿の双璧
ID:7CfeQusT:高橋陽介本しか読んでない本の受け売り馬鹿
0769人間七七四年
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2024/04/14(日) 22:25:05.89ID:cOgZi159
三成や輝元が、家康に勝つなんて前頭が横綱に勝つより難しいことだと思う

暗殺しかない
一次史料見てるともうそれしかない
まともにやりあったらたとえ岐阜城を守り切っても、負ける未来しか見えない
0770人間七七四年
垢版 |
2024/04/14(日) 22:36:25.98ID:cOgZi159
慶長5年留守政景宛伊達政宗書状にある「島津又一郎」って誰の事?
あの書状には戦死した武将名に大谷、平塚、戸田がいるけど、島津は又一郎ってある
忠恒も義弘も豊久も又一郎ではないし

あと、あの書状では「15日未明に一気に切り込んで押し崩した」とあるから、やはり関ヶ原は一瞬だったんだよね?
0771人間七七四年
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2024/04/14(日) 23:03:34.95ID:QPIfvy8q
>>770
又七郎(豊久)の誤記でしょ
又一郎は久保だけどとっくに亡くなってるし
0772人間七七四年
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2024/04/15(月) 01:58:48.89ID:SE2douao
9月17日松平家乗宛彦坂石河連署では戦死者として大谷、嶋津又八郎(忠恒)、嶋左近、
嶋津中務(豊久)、戸田、平塚とあるので「島津又一郎」は嶋津又八郎(忠恒)の
誤記だろうね。
どちらにしても忠恒は関が原に参陣してないので誤報
0773人間七七四年
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2024/04/15(月) 09:43:14.29ID:PtKR9dIL
>>772
石川・彦坂連署状の方は又八郎で忠恒のことだろうね
9月30日付留守政景他宛、石川昭光父子宛伊達政宗書状の方は又七郎豊久の誤記でしょ
0774人間七七四年
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2024/04/15(月) 10:32:38.94ID:CFFXOAwa
>>769
暗殺計画はあったがいずれも回避された
半蔵の手柄?
0775人間七七四年
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2024/04/15(月) 11:10:44.04ID:62ILwD3m
>>769
小牧長久手で秀吉が家康に合戦で勝ったか?
要は和睦内容。
内容が勝ちに等しいものならば勝ちと言える。
外交とか根回しとか交渉はむしろ西軍が得意とする分野でしょ。
第二次小牧長久手やって自軍に有利な落とし所を探る。
信雄との単独和睦みたいな妙手を考えること。
0776人間七七四年
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2024/04/15(月) 23:24:01.75ID:qmYtW2aA
>>775
いうても結局は力がなければ一歩間違えれば妙手は悪手に変わる。
毛利輝元が大坂城明け渡しでまさにそれを体現したじゃん。

あの時点で所領安堵を勝ち取れるなら、上杉宇喜多奉行衆やが沈む分、相対的には勝ちに等しい妙手だった。

結局力がない故にあっさり反故にされて、戦国時代を代表する無能に成り下がったが。
0777人間七七四年
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2024/04/16(火) 08:21:05.29ID:BGT44jhb
あれ普通に減封で話まとまってたって話があるらしいぞ
0778人間七七四年
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2024/04/16(火) 08:39:55.00ID:HU17isCt
>>777
それはないだろ。
最初から纏まっていたなら、他はともかく安芸だけは手放すことはなかったはず。
0779人間七七四年
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2024/04/16(火) 12:40:25.93ID:BGT44jhb
>>778
近衛前久が息子の信伊に送った書状に記載がある
表向きは領地安堵という形にして、実際は所領半減で降伏する事になったそうだ
領土がさらに半減したのは、毛利が西国に兵を出したりして挙兵にがっつり関わった事が
徳川にばれたからだろう、安芸失陥はそれが原因なんじゃないかな
0780人間七七四年
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2024/04/16(火) 15:05:52.21ID:xmv1eP19
「各々大事大事と図り、心得候で物申す者無き事候」
0781人間七七四年
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2024/04/16(火) 20:01:49.93ID:uU6N+HQD
>>759
まぁ最初から山の頂上に陣取ってるだけで怪しいし
麓の長宗我部隊も徳川軍と戦ってるのに降りても来ないとなれば真実に気付くに時間はかからんよな
0782人間七七四年
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2024/04/16(火) 21:30:16.03ID:BS9rM/YT
>>775
小牧・長久手の戦いは信雄を和睦させたのが妙手ってより、信雄が負けまくって和睦に追い込まれただけでしょう。
家康は負けなかったけど、信雄は負けた。そして家康は信雄を救援するほどの力は無かった。
0783人間七七四年
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2024/04/16(火) 22:07:32.50ID:xmv1eP19
毛利輝元が言ってるやん
「各々大事大事と図り、心得候で物申す者無き事候」

結局みんな己の身が一番可愛いんだよ
0784人間七七四年
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2024/04/16(火) 23:21:55.64ID:eF9/O2yo
毛利輝元や織田信雄、嫌いじゃないんだよなあ。あの小物感が良き。
チョンボを繰り返しながらそれでも最後の一線で踏み止まって生き延びていく様。
無様が様になるというか。
0785人間七七四年
垢版 |
2024/04/17(水) 00:35:13.44ID:69F3WyXX
信雄は織田家(信長)の血縁のおかげで生かされただけ
最後の一線なんて何度も超えてたよ
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