石田三成の挙兵 ★8
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>>893
それなら敗戦が決定的になった時点で吉川はすぐ安国寺の身柄拘束すべきだったのに、一旦は逃してやるとか随分余裕あるね
安国寺は毛利の御家存続のためのキーマンなんでしょ?何を差し置いてでも身柄確保しとかなきゃアカンやん
思いがけず安国寺が戻ってきたからいいようなものの、そこでなんで見逃すのかと言われてもね 輝元の行動は昔はただの無能扱いだったけど、流れを追うと色々な見方が出来て面白いんだよな。
最初から西軍(豊臣)は利用するだけで
毛利の権益拡大の動きとしてみれば、詰めは甘いが割と妥当な動きをしている。
その詰めの甘さがまたボンボンっぽくてネタに事欠かないし、
とはいえ毛利の行動を中心軸に見ると奉行衆かいかに滑稽なことやっているかが際立つ。 秀吉の遺言や官位豊臣家との関係等政権内での位置付けから見れば毛利は決して本流ではない
奉行が政権内での地位を望むのならどう考えても秀吉が豊臣家に取り込み本流に据えた家康につくべきだったのに
なぜか秀吉の構想を忌避して政権や秀頼から見たら他人の毛利と一味になった不思議 7月中に清須制圧
これさえできれば西軍につく武将増える 九州征伐までは秀吉も毛利を頼りにしてたし主流派って所もあったが色々あってその立ち位置は徳川に変わっていくんだよな >>899
自分は関ヶ原の首魁は安国寺恵瓊だと思っている。
戦国時代を生き抜いたベテランという意味では、西軍の面子を見た時に徳川家康とタメを張れるのは安国寺恵瓊くらいかと。
毛利輝元も石田三成も大谷吉継も、安国寺恵瓊と比べたらやはり若造。
島津義弘や鍋島直茂は中央政界に疎い。
宇喜多秀家や小早川秀秋、毛利秀元などに至ってはもはや赤子とも呼べる孫世代。
実際問題として、奉行衆と輝元の両方を動かせるのは、毛利の外交僧と秀吉の側近を務めた安国寺恵瓊しかいない。 恵瓊は信長の運命を予測(したと言えるのかどうかわからんが)したからって過大評価されすぎなんだよ
恵瓊が家康とタメなんかはれるわけないでしょ
秀元の処遇問題で本来は守り立てないといけない秀元をあっさり裏切って輝元についてた奴だし >>903
7月中に伏見城を攻めていたのはどこの軍勢でしたか……?
>>901
輝元は完全なる無能でしょ
もし輝元が自領を拡大する気があるなら応仁の乱の時の赤松政則を見習えよ
政則は播磨から山陽方面を山名がいない間にあっさり奪回して山陰まで拡大してるんだけど 恵瓊の関ヶ原後の行動は『卜斎記』にあるけど、
9月16日、毛利秀元と行動を共にした。服装は傘を被って黒い羽織とある 輝元が馬鹿なのは誰が見ても明らか
9月22日付本多忠勝・井伊直政宛毛利輝元書状
「分国相違なしという誓詞を預かって安堵したので、この上は西の丸を明け渡します」
10月初旬
家康「毛利は改易な」
輝元「騙された……」 家康のお墨付貰わずに退城してしまってはな、それでも三成ら処刑の翌日に
豹変することに変わりはなかったかもだが
家康が輝元退城を確認するまで大津にとどまったのは京都、大坂を刺激しない
為というのもあるが自ら大坂近くまで進出すると
家康署名の本領安堵の誓書を求められるのを恐れたんだろうな。 あれだけの大乱起こしておいてお咎め無しの本領安堵になると思う方がそもそもおかしい
騙された騙されたって被害者ヅラする前に己が何やってたのかをまず自覚しろよと
その辺の身の程知らずぶりは後年の大坂の陣の豊臣家に通ずるものがあるな 輝元は冷酷な野心家で自分の為なら部下を鼻紙の様に使い捨てる事も厭わない。それはそれで大将の格ではあるんだが三英傑と違ったのは輝元は自分の身を捨てる事が出来なかった。安国寺恵瓊を捨てる様に自分の命も捨てられたらまた違った結果になったろうけど 冷酷に切り捨てる輝元といえば、イエズス会の記録に関が原戦後
輝元が預かっていたか庇護を求めてきた小西行長の子を殺しその首を
家康に差し出したとあるけど、さすがに単なる風聞で事実じゃないよね? 初耳だが調べたら小西行長の嫡男兵庫頭というのがそれらしい 領土欲しさに反乱起こして最低でも死罪が見えてる場面、売れるものなら何でも売って生き残ろうとしたんだろ。安国寺恵瓊もそうだし小西行長の嫡男だって売ってておかしくない。石田重家が大坂城から逃げ出して家康の前まで行ったのも毛利に捕まったら死とわかってたからかもしれない
後、増田長盛も身柄を拘束されてた疑惑があるんだと ちょっとググってみたらブログだけど小西兵庫頭のことが書かれたのがいくつかあった
敵将の妻子は罪に問わない方針だった家康は首の受け取りを拒否したとか
さらには関ヶ原前兵庫頭とあの信康の孫娘との婚姻話が進められていたのにその兵庫頭を処刑したんだとか
イエズス会の記録にしかないのなら何とも言えないけど保身しか考えず空気読めない輝元ならいかにもありそう 良くも悪くも輝元は典型的戦国大名なんだよな、特に秀吉没後から関ケ原前後の行動は。
対する家康は元々国人大名であり、戦国大名であり、そして前田や奉行らと共に最も典型的織豊系大名でもある。
その分、少なくとも当主になった時から戦国大名なだけの輝元より色々場数を踏んでるから物事を柔軟に対応する。
本来欲した領地を得たくて行動するため策を弄するのと、そんな連中の意図すらも含め対応出来るのでは
自ずと視野や行動の幅は異なるだろう。 >>917
関ヶ原は本当に経験の差だと思う。
弱小時代から豊臣と引き分け、日本一の大大名まで経験した徳川家康。
安芸備後周防長門の4カ国を領する戦国大名からスタートし、豊臣に臣従した毛利輝元。
秀吉死去までは秀吉の部下でしかなかった石田三成等の奉行衆。 毛利家に小早川隆景がいたら、あるいは家康と互角以上にやり合えただろうがな…… 隆景いたらあえて家康とはやりあわないでしょ
やり過ごした方がはるかに良い もし輝元に転生するとするなら82~84年の間が最重要だな
徹底的に秀吉にへつらい律儀者の称号を得て徳川を叩く事に全力を尽くす 小早川隆景はそこまで評価出来ないかな。
宇喜多を切って織田に着くべきとの安国寺恵瓊の献策を却下したのに、
輝元の上洛にも反対して播磨を見殺しにした結果、よりにもよってその宇喜多が織田についてジリ貧という。
豊臣に臣従後も、豊臣政権下で毛利が着実に弱体化をさせられるのを止められていないし、
毛利から小早川に移された所領は隆景がいなくなった途端に没収されるほど軽い扱いをされてる。
というか特に何もしてないのに2度も領地没収を食らった秀秋、どれだけ秀吉に嫌われていたのかと。 >>920
そうだな、隆景なら関ケ原時点での前田ポジを確保して
もう少し史実よりも毛利領を保全する方向にするだろな。
まず徳川とガチ対決なんて流れは意地でもしない。徳川と一緒に豊臣を見切ってしまうだろう。
長期的に豊臣従属が毛利に利益をもたらす訳じゃないしね。まあ徳川従属でも対外交易権益とかは無いけれど。 隆景が生きてたら変な動きしそうになった輝元を折檻して終わり。かなw 小早川隆景の高評価が本当にわからん。
中国大返しのときも含めて、勝負どころを全部日和って衰退を続けてただけじゃん。
そして肩入れした秀吉には乗っ取りがてら秀秋を押し付けられ、小早川領は豊臣家に吸収させられた。
瀬戸内の利権も差し出し、輝元の育成にも失敗し、何も残らない。
なにか少しでも、毛利家のためとは言わず、小早川家のためにですら良いことがあったか? >>925
仮に大返しして、あの当時の毛利の実力でその後何ができるわけ?
信長の侵攻で最早青息吐息だし
秀吉について120万石を維持できただけでももうけものでしょ
北条みたいに道を誤らなかっただけ >>926
別に姫路や京都まで追撃しろとは言わんよ。
明智支持を打ち出して備中を回復する。
それだけで秀吉は十全に動けなくなるし、畿内の混迷は深まる。
別に後知恵でもなんでもなく、むしろ吉川元春等の主張のほうが普通の考え。
隆景の先見の明だったならともかく、結果はどんどん秀吉に削られていったのだから。
結果を出せなかった輝元が無能なのだから、隆景も無能だよ。 ちなみに北条を引き合いに出しているけど、北条が滅亡するまで秀吉を「育てた」のは誰だって話だ。
織田家中が秀吉のものになるまで完全に後方を安泰にし(他の織田重臣は後方に敵を抱えていた)
四国や九州に兵と、何よりも大量の銀を供出して楽に太らせる。
統一がなったら重用されるどころか朝鮮ですり潰させられ、隆景が死んだら即座に筑前没収。
まあ毛利としての話は当主の輝元の責任だから置いておくとしても、小早川家の当主として無能も良いところだろ。
小さくなっても、吉川広家のお陰でも、家だけは残した無能輝元以下だよ。 家臣の嫁を横恋慕して危うく家を潰しかけた馬鹿を助けた馬鹿は誰か知らんのか? >>932
ところが、結果的にその家臣から強奪した嫁だけが嫡子を産んでお家が繋がるのだから世の中はわからないものだよなあ。 ・援軍に来ているのに手も足も出ずに対陣するだけ
・瀬戸内海の補給路が不安定化した
・そもそも度重なる遠征と援軍失敗で国人達の不満が増大している
・輝元→元清宛の書状に現地の苦しい状況が語られてた筈
(武器も飯も碌にない、武器は錆びて〜〜おまけに士気が恐ろしく低いみたいな内容だった)
高松城時の毛利は末期武田に近い状況で追撃なんて不可能 毛利って一応本能寺後に軍事行動はしてるんだけどな
宇喜多と同時期に毛利から織田に鞍替えしていた南条家の城を攻撃して落城させてる
それと毛利家臣の杉原氏が1584年に秀吉に内通の疑いで処刑されてるらしいので
この時点では一応は秀吉(というよりは織田か?)と対立する気はあったようだ 山崎の戦いの時点で柴田勝家は越前に戻ってるし徳川家康も戻ってるから秀吉抜きでも明智はどうしようもない
明智の味方が少なすぎる
関ケ原の西軍は明智に比べればメチャクチャよくやってる そりゃ明智と比べちゃイカンだろ
明智、西軍と違って全然事前根回しの類い全然してねぇんだもん(していたとしても形跡が残ってない)。
事後慌ててしてるけど、案の定ソッポ向かれてしまう訳で。
西軍は毛利らと奉行とは事前それなりにしてるんだからちょっとなぁ、泥縄式だけど。 >>940
泥縄なのは仕方ないだろ、西軍だって家康が大坂を留守にしてくれないと軍事行動できないよ
大っぴらに軍勢集めてるとまず家康がノコノコ上杉征伐に向かってくれないだろうし、
下手に軍勢集めると「じゃまず手持ちの兵力のあるお前らが上杉征伐の先鋒やれ、
何、大坂に異変があってもワシがいるから安心しろ」とか言われる可能性もある まあ明智の場合は根回しなんてしたら信長に密告されるだけだからね
上杉毛利長宗我部は使い物にならないし あちこち攻めて、兵力分散しすぎだよなあ
家康はもう江戸から動けないって思い込んでたのか・・
でも江戸出立から2週間かかったんだから、
来てるのはわかったよねえ >>940
むしろ関ヶ原って、上杉征伐前から含めてめっちゃ資料残ってるよな。
勝者の徳川がずっと安泰で、敗者の毛利も家は残っているからだろうけど。
しかしこれらの文書、特にかなりクリティカルなことが書かれている吉川家文書が出揃ったのっていつなんだろ?
それだけでかつての定説が完全にひっくり返ってる。 そもそも朝鮮出兵で西軍諸大名は疲弊していたのに、そこに関ヶ原なんて無茶すぎる
三成らはやるにしてももう少し時期を考えろよ そゆこと首謀陣の出した勧誘状にもこのまま一人一人やられたら
秀頼様をお支え出来なくなるみたいなことが書かれてるし
安国寺の言う我々(首謀者グループ)が相談し会津が堅固なうちに
挙兵と決した(吉川家文書917号)ということだろな
この文書は翌年以降に書かれたものとはいえこの部分は状況的にも
西軍諸将の出した書状とも整合するし信用してもよさそう >>947
関ヶ原ってのは歴史のIFの回答かもしれないな、とちょっと思った
・朝廷内の実権を握った藤原氏に対して大伴や橘が団結して反抗したら?
・鎌倉幕府の実権を握った北条氏に和田や三浦らが一斉に反抗したら?
その答えが関ヶ原後の家康の対応なのだろう
要は「政権内の最大権力者が政権そのものを見限ってしまう」というものだ
だってこんな面倒事になるのならシンプルに自分がトップの政権作った方が早いもの
豊臣家視点だと下手に反家康派の大同団結などさせずに各個撃破させた方がマシだったね
その方が豊臣の神輿を担ぐ徳川という形で豊臣政権が残った可能性が高い
誰が反家康派をまとめようとしたのか知らんが、余計な事をしてくれたものだ >>950
誰がと言えば安国寺恵瓊一択でしょ。
年齢、経験、奉行衆と毛利双方への発言力、権威。
まあ、奈良時代から続く、「坊主に政治をやらせるとろくな事にならない」のひとつでしょ。 輝元からすると何が何でも瀬戸内海利権を取り戻したい
豊臣からしても家康を排除して豊臣家による支配を取り戻したい
そうした思惑が合致して関ヶ原。家康が大人しく豊臣を守り立てるワケ無いだろってのは当時からしても共通認識だったんだろう 輝元と豊臣家というか奉行が一致してるのは家康を政権から排除したいという点だけだろう
首尾よく家康を排除できたとしても西国に毛利王国を築きたい輝元に奉行がなお同調するかは甚だ疑問
家康の排除といってもどう排除するのかにもよるし政権が安定するどころか新たな火種だらけになりそう 正直西軍の行動って事実上『家康を排除出来るなら豊臣政権が潰れても別にいいし
豊臣家がどうなろうと知ったこっちゃない』ってのとほぼ同義だし
それなら『政権を都合よく改造はするけど、豊臣家を担ぐ気自体はある』徳川の方がマシだ
天下政権を運営するだけの実力は間違いなくあるんだし
奉行?そんな力があるなら毛利の助力なんて頼まないよね、毛利?豊臣を担ぐ気があるとでも? 奉行衆も豊臣家のためなんて微塵も思ってないだろ。
・毛利遺領問題の秀吉の裁定を毛利の嘆願を受けて奉行衆がひっくり返した(毛利を引き込めた理由のひとつ)
・秀吉が封じていた毛利の瀬戸内海での海上軍事行動を許した
・秀吉が意図を持って潰した村上家、河野家、大友家の再興軍を認めた
毛利の叛意はそれまでの扱いからまだ分からんでもないが、奉行衆の豊臣への義理や恩はどこに行った? 奉行衆こそ自分達の利益を追求するなら豊臣公儀の看板が必要なんだよ >>955
三成は真田宛の書状で挙兵の動機を家康と忠興に対する遺恨と書いてる
三奉行は確か7月21日付の別所氏宛書状で、これも忠興に対する遺恨とか書いてたと思う
つまり三成・長盛・玄以・正家の4奉行全員、忠興に対する遺恨が動機になってるんだよ
豊臣のことを考えていたとしたら、まだ大谷吉継くらいでしょ
確か真田宛の書状で動機が「このままでは家康にいいようにされてしまうから関西の侍たちと挙兵する」とかあったはず
秀吉はなぜ大谷を五奉行にしなかったのか 奉行が忠興に遺恨あるって何でだろ
秀吉死後の政局で家康寄りの行動とったからとかかな 史料に準拠して考察してくださるのは非常に良いと思います
7月21日付(細川家の記録では7月17日?)の別所氏宛書状に遺恨という文言はなく
豊臣家蔵入地を何の忠節もなく内府より扶助され会津にも一類上げて従軍など
是非に及ばず候とあり、秀頼公の為に御成敗と秀頼への忠節を求めています
(細川氏居城宮津城攻めのための大義名分を記した軍令状)
三成の忠興に関する記述は徒党の大将となり国を乱した(7月30日真田宛書状)
忠興は大勢の兄弟をことごとく関東にまかりたて、
何の忠節もなく新知召し置かれ候儀、不届き(8月4日松井康之宛4奉行書状)
法度破りの内府と忠興が若輩の秀頼様をたぶらかし新地を申しかすめ、
遺恨深く候(8月5日真田親子宛 8月6日真田昌幸宛書状)
若輩の秀頼様を申しかすめ新地拝領候間,是非なき次第(8月7日佐竹宛)
また森忠政に格別の遺恨として若輩の秀頼様を申しかすめ新地拝領,曲事
(8月6日真田昌幸宛)
三成らにとって家康の法度破り特に内府違いの条にも挙げられている
豊臣蔵入り地を大名に与えることがとくに許しがたかったのでしょう。
ただ、このことは豊臣家への忠誠心の発露ともいえ、上記の書状にも
秀頼への忠節をうたっており豊臣のことを考えていないとはならないかと まあ確かに細川、森は家康が勝手に領地の差配してるな。
毛利は毛利領内の配分でしかないが。 >>961
一番大きいのが抜けてる。小早川秀秋の旧領復帰。
毛利のやつも、毛利領内とは言うが秀吉直々の差配をひっくり返してるんだから相当なものだぞ? 秀頼侯のための御成敗って奉行が決めることなのかな。
言い方変えると、自分たちの思い通りにならないから、軍事クーデターなんて豊臣政権を揺るがすことをおこしながら、その理由付けに使ってるようにしか思えない。
人それぞれの見方があるだろうけど。 奉行って秀吉が生きてた頃から意見を具申し政策に反映させるような立場だったんかね?
例えば秀吉が奉行に相談も諮問も同意も得ずに命令したら猛然と反発したんだろうか
あくまで政策の最終決定権は秀吉にあって奉行はその命令を行政化する手足でしかないってイメージなんだが 確かに気になるところやね、やはり秀吉生前の五奉行についても
研究,解析されてるこの書をポチるしかないか
豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争 渡邊 大門 (著)
【目次】
第一章 五奉行たちの来歴
第二章 秀吉の天下統一と五奉行
第三章 秀吉死後の情勢と五奉行の成立
第四章 関ヶ原合戦開戦と五奉行
第五章 関ヶ原本戦の激闘
第六章 関ヶ原合戦後の五奉行 Wikipedia日本語版の記事をパクってそれを自分が出した事典にして出した渡邊大門
「関ヶ原合戦人名事典」 渡邊大門。東京堂出版。2021年 >>960
7月21日が何の史料に拠るものなのか不明だけど、松井文庫所蔵古文書報告書二に拠ると別所宛三奉行連署状は7月17日付だよ
7月27日付松井・有吉宛清正書状に「則丹後へ遣上使衆への觸状之写進之候」とあり、それがこの
別所宛三奉行連署状に該当するもので、清正がこの写しを入手して松井らに届けたことが分かる 最近の渡邊氏の評判はすこぶる悪いな
10年前はまともな研究者の一角だった気がするがそんなに落ちたのか? 本郷先生によると三成は梶原景時らしい
虎の威を借りる狐タイプ
戦も人間もわかってないと 相当手厳しい
ただ、京極高次の裏切りにカッとなって、
西軍精鋭の宗茂と秀包を送ったのは間違い、というのはどうか
最近の説だと三成に西軍参謀総長として指揮権があったか疑問視
立花宗茂が勝手に仲良しを連れて出陣したのかも 2000年NHK歴史番組によると関ケ原後の大坂城内で秀包、元康も同席の上で
立花宗茂「輝元殿は我等に大津城攻めをお命じになった」
毛利輝元「わしではない三成じゃ」
といってたので三成の命で大津城を攻めたということだろう。 大津城攻め自体は城攻めにしては短期間に終わったから本来は岐阜城攻めに匹敵する大戦果だとは思う
関ケ原本戦が予想外の短期決戦に終わっただけで立花宗茂が大津城に行ったことはおかしな話ではない 関ヶ原後の毛利は「全部三成と安国寺のせい」で生き延びてる為必死だからさもありなん。ただ三成からすると一兵でも多く大垣付近に集めたかったはずで大津攻めの決定には加わってないのではないか 関ケ原関係のスレだと、大津攻めの軍勢を関ケ原に投入すべきだ的な意見がたまに出るが、
いくらなんでも西軍視点でここを無視する事なんて出来ないと思うんだよな
孤立気味とはいえ、南近江が東軍方とか冗談ではない話だ >>977
同意。大垣方面の膠着前提なら戦略予備投入してさっさと大津落とすのは悪くない。
大津攻略後、松尾山奪還に向かうか木之本辺りに布陣して前田の南下阻止するか難しい局面になるが、。
肝心の大垣戦線が崩壊しては意味ないんだけどね。 あと、気になるのは大津攻略指示と南宮山毛利による不戦交渉の関係だね、
大津攻略指示しておいて裏では東軍と不戦交渉?
なんかおかしいような気がする。 不戦は毛利の独断であって西軍全体としての方針ではないからじゃないかな
要するに毛利はまだ西軍に協力しますよっていう西軍へのアピールというかアリバイ作りの為
万が一のことを考えると西国への撤退路を確保しておく必要もあるし 毛利がやったのは東軍とではなく、徳川との不戦交渉。
そして大津は京極の排除と前田への抑えと考えれば別に矛盾してなくないか? >>981
そういうからくりか!
徳川とは不戦するけどそれ以外は攻撃しますと。
なるほどね。
大津が前田への抑えってのは微妙だけど、
まぁ坂本方面から南下しないとは限らないか。
大津で抑えるよりは木之本辺りに布陣して
余呉、賤ヶ岳周辺に砦構築の賤ヶ岳合戦みたいな布陣がいいように思う。
湖西から南下するなら退路断てばいいし。 前田の金沢出陣は9月11日だからねえ関ケ原合戦、
大津開城の9月15日の時点で大垣勢は知らなかっただろうし、
大津攻城軍は同日中に知ったかもしれないと言ったところ。
9月18日まで小松城の丹羽長重と城を囲みつつ和ぼく交渉、同日交渉成立
東軍勝利もこの日に知って行軍し後日大津城で家康と会見、
9月26日上洛という流れ。 そもそも垂井にまで東軍が進出していたのに、大垣にいた西軍はどうやってそこを通過して
山中まで行けたんだろうか?
それとも9月14日までに東軍は垂井からは撤退していたのか? 大垣城から南宮山の南にある道を使ったと思われる。ただしそこは完全に整備された道では無かったので街道を押さえてる東軍に勝てなかった なんかこのスレの住人は玉石混交な気がする
専門家レベルの人数人と新説本を数冊読みこんでいる人もいるが
ドラマ、小説、ゲームの知識がこびりついてる人も少なからず存在する
そこでおすすめなのが一冊で最新研究から正確な関ケ原の全体像を学べる
秀吉の晩年から、五大老五奉行による政権運営時代、
会津征伐、関ヶ原本戦、東北・九州の戦い、家康による戦後処理、
豊臣家滅亡による「関ヶ原体制」の終焉(一六一五年)までの実態を、
良質な一次史料と最新研究を用いて解明。
後世の編纂物などの二次史料に影響されがちな関ヶ原合戦史を訂正し、
今語りうる史実の全体像をつまびらかにする。
という
関ヶ原合戦全史 512ページ 草思社 ¥3,080 税込
同じシリーズで大坂の陣も先日発売されたのでぜひそちらも 最新研究のほうが精度は高いがかならずしも正しいとは限らない
謙虚ライオン ワイは大河ドラマとWikipediaしかかじってないけどそこそこ面白く見てるで 関ヶ原研究は二次史料と俗説のこそげ落としが始まった段階
ある程度の定説が固まるのは次の世代の研究だ 大垣城で籠城すればよかったんじゃねえのか!
そのうち各地の西軍が集まってくるじゃねーか!
そうなりゃ輝元も慌てて出てくるだろ 遅れまいと 東軍が大垣城長囲策でも取って呉れりゃいいが、大垣には抑えの兵をおいて
進軍し南宮山軍を降すか、金吾とともに山中の大谷勢を殲滅して
佐和山に向かうかなど兵力に余裕のできた東軍が中山道や伊勢街道の補給線を
断ちに来たら詰みだろな レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。