石田三成の挙兵 ★8
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石田三成も真実どこまで権力あったかわからんらしい。少なくとも署名上は増田長盛らの下にいたようだが あなたによさげな五奉行本が出てんね
豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争
出版社 : 柏書房 2022/4/27 256ページ 渡邊大門 2420円
【目次】
第一章 五奉行たちの来歴
第二章 秀吉の天下統一と五奉行
第三章 秀吉死後の情勢と五奉行の成立
第四章 関ヶ原合戦開戦と五奉行
第五章 関ヶ原本戦の激闘
第六章 関ヶ原合戦後の五奉行 大門って研究の能力以上にイメージ悪いね
昔はもう少しまともな印象だったけど >>799
連署の順番は必ずしも序列を正確に表すものではないと思うけどね
同時期に同じメンバーで発給された連署状でも署名の順番が変わってたりするし
(慶長5年)8月2日付真田昌幸宛二大老・四奉行連署状
長束
増田
石田
玄以
輝元
秀家
(慶長5年)8月4日付松井康之宛四奉行連署状
長束
石田
増田
玄以 小早川秀秋が西軍に味方する要素ってどこにあるんだろう?
・1593年に豊臣家を追い出される形で小早川隆景の養子となる
・1595年に秀次に連座として、丹波の領地を改易され所領を失う
・1595年養父小早川隆景に筑前を譲られる
・1597年養父小早川隆景死去(豊臣秀吉による遺領問題介入)
・1597年越前へ転封(減封)させられる。朝鮮での不始末は根拠なし
・筑前の所領は石田三成が代官となり、家臣団を吸収される
・1598年豊臣秀吉死去
・1599年五大老の連名により筑前筑後に復領(奉行の名前はない)
・1600年関ヶ原の戦い
一貫して豊臣家、奉行衆からは酷い仕打ちを受けており、逆に五大老(≒筆頭の徳川)には恩がある。
これでなんで西軍に味方すると思ったし。 小早川秀秋が没年の1602年に北政所に出した書状が4通残っているが
高貴な身分の人に出す場合,あて名は本人宛ではなく側近の者宛とするのが
通例で4通とも北政所側近の御客人宛になっている、
この人物は北政所養女で三成三女辰姫なので名目上のみとはいえ
関が原戦後の秀秋が三成の娘宛に4通書状を送ったことになり
両者の胸中にいかなる思いが去来したか興味深いが
書面は3通が北政所よりの贈り物に対する礼状、1通は北政所への借金依頼で
心情についてはうかがい知ることができない。 >>804
そりゃかつては秀吉の養子で、一時的には世子扱いまでされてた豊臣一門だからな
そもそも奉行衆に「自分たちがこの人から恨みを買ってる」って自覚はないだろ
自分たちの同胞でも平気で恨みを買う奴らだし >>800
大門とかいうコピペ野郎の資料もどきなんかあてにならんよ
渡邊が出した「関ヶ原合戦人名事典」 (東京堂出版。2021年)を見たけど、大半が
Wikipedia日本語版のコピペだった
こんなことして恥ずかしくないのか? 大門くんTwitter xで能登地震は自民党のせいってつぶやいてたな
批判されて垢消して逃亡 >>799
言い方悪いけど所詮使われる立場の奉行の権力なんて
後ろ盾次第でどうにでも変化するでしょ
秀吉という絶対君主がバックにいる時は大きかったし
精々首謀者グループの一味という程度が関の山の関が原時はそうでもなかった >>805
「看羊録」で秀秋について性格は「軽薄で感情の起伏が激しい」とある
また、「元帥となって朝鮮に駐屯したが、賊魁は秀秋が軍律を失うことが多かったので厳しく叱責した」
とあるから、若いゆえに血気盛んで脳筋、知性が乏しい人物というべきじゃないか?
この賊魁は秀吉のことと思うけど、あってる? >>810
三成たち奉行連中は秀頼の近臣というわけではないから
単純に秀頼が成長しただけでは奉行連中は権力を握れない
三成に至っては奉行返り咲きも無理
奉行連中が権勢を握るためには秀頼が幼少のうちに監禁して
秀頼を自分たちの傀儡に仕立てる必要がある 確かに奉行衆の行動や秀吉逝去後の位置づけは気になるところだね
上に上がっている大門著の五奉行研究本をポチって研究してみるか そもそも利家にお任せモードやったから秀吉も細かくは考えれてなかったんだろ
体が衰えると気力も無くなるからな 三成が奉行返り咲きが難しいって言うけどそうとも限らない。三成は家康と遠い親戚関係(三成の長女が嫁いだ山田家は家康と縁戚関係)にあって何の繋がりもない訳じゃないし嫡男重家は家康が烏帽子親って話もあり家康に可愛がられていたという。三成は黙っていても復活の道は幾らでもあるし重家と徳川の姫か結婚なんて話になれば奉行筆頭も夢じゃない。唯一の懸念は仇敵の浅野長政らが家康に従ってることくらいだけど宇都宮みたく改易された訳でもないし >>816
そんな遠すぎる縁戚関係なんかあってなきがごとし 三成長女の嫁いだ山田勝重は後に松平忠輝の家老にまでなってはいるが
忠輝の母の茶阿の局の甥か義理の甥(こちらの方が有力視されている)
というだけだからね。
1600年ころの影響力は低いだろうね。 大垣城から動けなくなったのがよくわからん
西軍が大垣城、東軍が清州城
そこから東軍に一方的に押されて、家康が到着した次の日に決戦
家康抜きでボコボコにされてた なんでだ あの米野合戦直前の8月22日佐々政タカ書状に織田秀信殿は人数が
集まらないようなので攻められたら「五十日」は持たないだろうと
噂されていますと50日でも短期攻略とみられていた岐阜城が米野合戦も併せても
たった2日で陥落してしまったからな
寡兵ということもあり大垣城に逼塞となったのもやむなしだな >>813
淀殿らが周囲にいる限り、肥満無能になるのは避けられなさそうだな秀頼 >>819
赤坂に陣城構築されて大垣だけでの迂闊な手出しができなくなったから。
それだけ。不思議でもなんでもない。 いやいや、岐阜口にて不覚をとり赤坂に敵勢押詰め候ども
某も大柿に馳せ参じ、3日前に伊勢口よりも中国衆、土佐衆、長大陣、秀頼様弓鉄砲衆
陣取りし赤坂之敵陣へ諸口より取寄候故、敵うろたへ候てはやくも
敗軍の体と相見へ候、三日か五日の内に吉報をお届けできると
存ずるゆえご安心下され
此度太閤様の置目に背いた内府の先手衆を誅罰するはてんのあたゆる所、
赤坂の敵勢一人殘らず討果すは眼前之事と存ずる
関東之家康領内諸所へ景勝進撃し関八州は正体なくみたれたる由景勝より
度々注進もあり内府上洛は困難と存ずる
家康うろたえのあまり西上の際は先手衆に続き1人残らず打果す所存
天下平均も間もなくのこと存ずる 三成らの挙兵が無ければ家康は豊臣の忠臣として生涯を終えたのだろうか 豊臣政権が実質崩壊状態だから、家康が取らなければ別の誰かが天下とっただけのような
荒療治しないと、また戦国乱世に逆戻り 秀頼が空気読めない暴君というかボンボンだから厳しい
以前も言われてたが徳川家は天皇家に対する藤原家でもいいんだが 秀吉に奪われた瀬戸内海・越後を取り戻したい輝元・景勝がいる限りどこかで大乱になる
その前に家康が天下とれるなって思ってもアウト
詰んでるのよね豊臣家 そもそも誰も豊臣家のことなんか考えてないでしょ
石田三成の7月21日付の書状で見たらわかるけど「長岡越中の糞野郎は国乱を招いた本人」とあるし、家康を「彼の仁」と書いてることから
家康と忠興に対する個人的な怨恨が明らかな動機でしょ
司馬遼太郎は三成を忠臣と書いてるけど、こいつは書状を見たりはしなかったのかな? 上手く?を付くのが仕事の小説家に何言ってんのかな。 家康が来る前からボコボコにされててさあ、
家康が3万の大軍つれて来たんでしょ?
もう大垣城でちゃだめじゃん やられるだけじゃん
なんで出たのよ 後世の講談師と小説家のためには野戦をしてくれてよかったな
城に籠ったまま大坂の連中に見捨てられ降伏みたいな展開だとどうなったやら 撤退戦のために大垣から出た説とかあったなぁ
関ヶ原も決戦ではなく、東軍による追撃戦に過ぎなかった、みたいな >>827
伊達政宗が今井宗薫に送った
秀頼処遇ついて所見述べた有名な書状あるけど
秀頼を江戸の家康の手元で育てて
成人したあと取り立ててるのが
豊臣家存続させるのに一番ベターかな
秀頼を大阪から切り離せとか
実際には難しい・無理な問題もあるけど >>835
時系列と配置だけから考えると、まごうことなき撤退戦であり、追撃戦なんだよなあ。 松尾山って一説にはかなり補強されたしろだったというしそこに小早川が万軍クラスでご入場とか西軍にとって死刑宣告なんだよなぁ
かといって先に東軍に仕掛けるのも難しい そうだよね、元々中山道の補給線とその先の佐和山城を死守の為に
三成が佐和山城に戻り中山道の守りで山中方面に大谷、戸田、平塚、脇坂、小川
を急遽呼び寄せ、南宮山方面に大軍を配置したのも大垣城の後詰の他に
垂井・青野ヶ原まで進出している東軍に関が原を突破されるのをけん制するため
だろうからね。
絶対防衛ラインに配置されている山中の大谷勢を守るためにも出陣するしか
なかったのだろう >>840
そのための出陣だとしたら、出陣の仕方、布陣が最悪じゃないか?
普通に考えて、南宮山勢を前進させておかないと牽制にすらならないのに、それ以前に一切の連絡を入れていない。
しかもその状態で大垣城を焼いて出ていく。なんで東軍側に対して「合図」を送るんだよ?
関ヶ原では東軍が来たら隘路で防いで時間が稼げる位置に誰も布陣していないし、
松尾山に対しても短期で攻め上がるような布陣ではない。
大垣城残留組と南宮山を捨て石にして逃走をはじめて、大谷らには小早川の攻撃を防がせるつもりが、
東軍は追いつくのが速いし(城焼けば当然だろ……)松尾山は止めるどころかむしろ寝返りが相次いで逃走すら叶わなかったってのが実態。 9月17日石川、彦坂書状には確かに関が原転戦に際し大垣城の外郭を焼き払いと
あるが両人はこの時清須城にいて9月17日には佐和山に来ていたという流れのため
実際に見たわけではなく味方からの伝聞情報であることと、隠密行動が必要な時に
わざわざ転戦を示唆するような事をするとは思えず、他に9月14日に外郭を
焼き払ったという史料がなく、参戦した島津義弘家臣の帖佐宗光の覚書には
大垣城ではこの際切った火縄に火を付けて竹に挟んだものを数多く立てて
多人数の兵が残っているよう擬装したとあり,この火を日没後の遠目に
見誤ったものか、翌日敵中突破した島津軍は又本之大柿之城江御籠可被成と御意に而候付、大柿を差て御出被成候處、
南宮と申所より大柿を見申候へは、本丸に火掛り候而落城而候付、御籠被成候事不罷成候と参戦者の覚書(~戸五兵衞覺書木脇休做仂之次第)
にとあるように最初大垣籠城を目指したが南宮山方面から大垣城の本丸の火が見えて
落城と判断し断念したらしいので、この時実際は落城していないが本丸と思われた
火は籠城に備え実際は外郭を焼き払う火だったのではないだろうか
だとすれば半日程のズレはあるが9月15日の外郭焼き払いが西軍転戦時の時から
と誤って伝わったのではないだろうか。 ゴミストーカ−爺 おまえの人生めちゃくちゃに壊すぞ 20年つぶれた 俺もまともに育ったわけじゃあないからな めっぽうタフだぞ 凄惨にやり返す >>843
>又本之ことく大柿へ御籠可被成候との御意ニ而~
細かいことだが当該部分は「神戸五兵衛覚書」の中の「井尻弥五助奉公之次第」にある記述で「木脇休作殿働之次第」ではない 大垣城を焼いたのではなく、外曲輪を焼き払ったとある。
外曲輪とは宇喜多等兵が多すぎて城に入らないので
城の外側に野戦築城で急造したものだと推測する。
これを焼いたところで大垣城の防御が落ちるわけではないが、
わたしは以前にも指摘したけど、天候小雨の状況で燃えるのかなと。
それと9月15日に水野が大垣に攻め寄せて二ノ丸まで?進入したとかあったので、その時焼けたものが
本丸が焼けたように見えたのではないだろうか? 15日説は別の議論として置いておくとして、外曲輪を焼く時点で字喜多勢は大垣城には戻らないし、
南宮山勢を代わりに入れることもしないということだから結局は撤退との結論になるのでは? >>843
なんだこの読みにくいクソ長文バカは、史料もマトモに引用できないようだし
必死に背伸びしているド素人の知ったかバカ丸出し
こういう程度の低いのは出入り禁止にしろ 素人だから教えてほしい
近年の関ヶ原研究史読むと
参謀本部編の日本戦史を基にした通説を
1次資料から検証して批判され気味だけど
今より資料手に入りにくい
当時としては最先端の研究結果だと思っていいのかな? >>841
そりゃそうなんだがそもそも大垣衆と南宮山は指揮系統が違うから前進させる事がまず出来ない
だからまずは相談してそこから戦略を決めないといけないんだがそんな余裕は無い。即決でどうにかするしかない状況で大垣衆としてはベストな選択をしたと言える >>851
いや、形としては後詰決戦の形なのだから、指揮系統違うから相談すらしないとかあり得んよ。
もっと言うなら、吉川やその後方の毛利はともかく、前方にいた安国寺恵瓊は同じ指揮系統だ。 >>850
そりゃもう当時は最先端だし当時としてはよくできてる。
問題なのは明治26年に書かれた物が更新されずについ最近まで最も権威のある第一級史料として扱われたことだけ
戦後日本じゃ軍事は学問どころか忌避されるものになっちゃったからしょうがないけど。今でも戦国研究者は軍事オンチばかりだから根深い。 これまでの通説がヤバすぎただけやろ
小早川の松尾山占拠を見てのあの布陣は流石にやべぇ >>854
いや、むしろあの布陣なら、元々小早川が西軍であると考えないと、おかしいのよ。
小早川が東軍の認識であの布陣を見れば、軍人ほど「西軍は何故自滅しに行ってるんだ?」と思う。
隘路の出口で東軍を待ち構えていたものの、小早川秀秋が後ろから裏切ったと考えるほうがよほど自然。 松尾山ってあの時点では西軍の伊藤がいて、小早川が追い出したって聞いた事あるんだけど
その辺の当時の記録ってどうなってるんだ?
これが正しいのなら、小早川は西軍の制御下とは思えんが >>856
小早川が松尾山に布陣してたことを直接示す一次史料はないね
なので伊藤盛正を追い出したというのも一次史料では確認できない
伊藤を追い出して布陣したと記述があるのは寛永諸家系図伝
9月12日付増田宛三成書状で伊藤に関する記述が確認できるが、伊藤の人質が大垣城にいることや、伊藤は若輩
だから家中の者が何を企むか分からんと三成が警戒してる様子が伺えるが、伊藤がどこにいたかの記述はない
まあ伊藤を追い出して布陣した件の真偽は別にしても、小早川が松尾山
近辺にいたのは史料読む限り整合性は取れてるし間違いないと思うけど まず大垣城から打って出たのは小早川秀秋に松尾山を取られた事を受けての対処とみて間違いない
仮に大垣から撤退する為なら東軍に捕捉されてる訳ないしまた松尾山が東軍でも殿に囲ませて強行突破してるはず。それをせず山中で布陣を敷いていた訳でそれは決戦を志向した結果
決戦を志向しながら大垣城を出たのは戦術というより火急の理由。吉川家文書には大垣城で徳川と戦うと決めていたのに大垣城から出撃されて動揺した云々とある。これから大垣城は事前の作戦を放棄してでも山中に向かわねばならなかったと推測される。その理由が秀秋の松尾山占拠というのは筋は通ってる >>852
西軍が負けた理由でもあるんだけど西軍は実は指揮系統が二つある。一つは豊臣軍系、そしてそれ以外の諸大名軍系になる
石田三成は確かに豊臣家奉行で豊臣軍に属してる
だけどだからそれで諸大名軍にまで軍事指揮権があるのか?というとおそらく無い。そうした動きは見られてない
だから三成や大谷吉継、宇喜多秀家ですら南宮山に命令は出来ない。南宮山の主力は安国寺恵瓊・吉川広家・毛利秀元ら毛利軍で指揮権は毛利輝元にある。それを如何に豊臣秀頼配下とはいえ輝元の頭ごなしに命令なんて出来る訳もない
手続としては三つ、一つは南宮山に使者を送って自分達の考えを述べて相談する。二つは大坂に使者を送って輝元に自分達の考えに同意して貰ってそれを南宮山に示す。三つは秀頼から輝元に軍事指揮権の譲渡を命令させるか 関ヶ原関係なけど
去年の大河に合わせて出版された家康関連の歴史新書読むと
同盟国(信長や信雄・北条)に対する家康の対応見て
やはり本質的には律儀な人なんじゃないかと思えてきた
それだけに輝元に対する本領安堵の
反故は厳しかったな 寛永諸家系図伝の黒田長政之項には筑前中納言(秀秋)は始めより
松尾山にありとあるね。
平岡頼勝の項には秀秋、三成と約して美濃国松尾の城に立て籠るとある
1641年から1643年に家光の命で諸大名に記録覚書等提出させ編纂された史料
だけど稲葉正成の様に徳川家への忠誠、貢献を強調するものでなく
別の家からの提出史料が秀秋松尾山に布陣という同一内容を記している以上
ある程度の信憑性は認めてもよいのではないだろうか >>861
それだと色々とおかしくならないか?
大垣城だって詰めてる兵の多くはあなたの言う「諸大名系」だから指揮権がないことになるし、
南宮山勢も長束正家は奉行そのものだし安国寺恵瓊は秀吉近習の豊臣大名だから、「豊臣軍系」に対する指揮権があることになる。
ましてや安国寺恵瓊や長束正家の軍は吉川や毛利より前面に展開して妨害されることもないのに。
穿った見方をすれば、石田三成が苅田の件ですら意見の合わなかった長束や安国寺を、無視して行動しようとした、とも取れる。 >>864
石田三成と大谷吉継はどちらとも豊臣軍系に属してるし宇喜多秀家は秀吉の息子、豊臣軍系にあたる。とはいえ指揮権なんて実質的にはどうでもよく大垣城で相談して決めたんだろう
じゃあ南宮山は?というと毛利軍に命令は出来ない。毛利軍系に当たらないのは長束軍、長宗我部軍、豊臣家弓鉄炮隊だけなんだから数が少なく過ぎる 一報を入れるべきだったというのは一考に値するが状況からみて適切かはわからない
松尾山の小早川をどうにかしないと詰みなのは明らかだからなんとかするとして大垣が行くか南宮山が行くかの択一。ただここからの戦略はかなり難しい。そもそも南宮山の毛利がどう判断するか次第で時間を掛けたら東軍に包囲されてしまう
どーすりゃいいの?ってなると大垣だけで向かうのがベストではあったんじゃないか >>865
安国寺恵瓊は毛利系ではないぞ?
秀吉に領国を与えられた豊臣系で、この戦いの首謀者の1人だ。
それに長束と安国寺で3300、長宗我部盛親6600を加えるなら、毛利勢抜きでも約1万は決して少なくはない。
(長宗我部盛親は増田長盛が烏帽子親なので奉行に指揮権有り) >>864
9月12日のその書状は偽書じゃないのか?
現在の暦だと10月18日
稲刈りは確か現在の暦でだいたい9月上旬から中旬にやるはず
戦乱で多少遅れていた可能性はあるが、いくらなんでも10月18日でまだ稲刈り
してなかったは少しどうかと思う
それに仮に刈田して、すぐにそれが食糧になるのか?
だいたいの作業で食えるようになるまで5日くらいかかるんじゃないのか?
それに東軍が刈田を放置するとも思えんし、そもそも大垣は西軍の領地なのに味方の領地を刈田するとか正気の沙汰とは思えん 大垣は完全包囲されていたわけではない。
苅田しようと思えばできなくはない。 >>868
苅田がどうこうというより、毛利系と豊臣系どころか、豊臣系、奉行の中でもろくに連携出来ていないと言う話では?
少なくとも個々の情報の精度はともかく、各書状を総合的に見れば、南宮山勢に何の連絡も入れてないのは確実。
どんな言い訳を並べようが、これはありえないほどの失態だよ。 徳川軍迫ってんのに、大垣と南宮山が連携して布陣できないってなると戦以前の問題か そもそも吉川広家が内通しているのを気づけてない秀元って…… >>872
そもそも9月12日の時点で西軍は迫っていることすら気づいていないんですが…… >>870
そういうわけじゃなくて、西軍の所領を刈田してどうすんのよ
伊藤が寝返っても文句言えんぞ 西軍の弱点として指揮系統が分断されてるので基本的に相談して決めないといけない。毛利も長宗我部も大名で独自の指揮系統にあるので豊臣軍だからと命令する事ができなかった
そんで関ヶ原は場所も状況も最悪過ぎた。松尾山を迅速に取り返さないと東軍先手衆が山中を押さえたら死亡確定、相談してる余裕は皆無。だから三成らが南宮山に報告しなかったのは余裕が無いが故の混乱の結果じゃなかろうか >>867
安国寺恵瓊は毛利軍に属する
確かに秀吉の諸大名統制の為に恵瓊は豊臣家から優遇されたけどそれはあくまで恵瓊が毛利家の重鎮だからであってその逆じゃ無い
だから関ヶ原でも恵瓊はあくまで輝元の指揮下にあるし負けたら毛利軍に身柄を拘束されてる >>875
本来の城から蹴り出してるんだから寝返ろうがどうでもいいしそんな事をうだうだ考えている戦況じゃないから ごみ溜めのここに読む価値のある書き込みなんてあるの?
お宅に見極めるだけの鑑定力があるとも思えんが、
あるならレス番上げてみてよ。 今や学者(学者至上主義ではないが目安として)のつぶやきもSNSで読めるから」 >>877
毛利方から安国寺を差し出したという記述は9月30日付石川昭光・義宗宛
伊達政宗書状や10月8日付秋田実季宛最上義光書状に見えるが誤報でしょ
言経卿記の9月23日条に安国寺が寺内で生け捕られたとあり、時慶記の同日条
にも同様の記述があるし徳川方により京都で捕縛されたと見るのが自然 苅田に関しては敵が赤坂・垂井に展開して明らかに大垣城を攻撃する意図がある以上やらない理由は無い。敢えて言えば苅田によって東軍と決戦になると時期尚早とか?
食糧かき集めないと大垣城が囲まれたら大坂からの後詰が来るまで耐えられるかどうか。ただどうしても西軍に戦略思想というかゴールが無いようには見える。おそらく「東軍は徳川軍(家康軍ではない)が来てから大垣を攻める。そこを受け止めて後詰決戦で粉砕して和睦の契機にする」とかなんだろうけど >>882
吉川家文書に関ヶ原後に安国寺がやってきて鎧を脱いで降伏したとある。ここに嘘を書く理由はあんまり無いと思う あの関が原で戦うこと自体が西軍側の負け確定だったんだから、
いっそ大阪に篭って無理にでも豊臣対徳川にしてしまえばよかったのに >>884
9月17日吉川広家書状案のことだと思うけど、史料集が手元にないので原文が
わからないが確か安国寺が南宮山に引き返してきて和談のことを聞き広家に
使者を通して切腹を覚悟(広家に覚悟するようにか安国寺が覚悟したという意味か)
安国寺は軍勢武具なども捨て一僧侶の安国寺に戻り毛利勢より先に落ちる
(と安国寺が言ったのか吉川がすすめたのか)といった内容だったと思う
降伏したという文言はなかったはずで意訳で高橋陽介氏が
関ケ原の合戦はなかったの238ページで安国寺は降伏したと
書いている明らかな誤訳以外に例はないのではないだろうか >>884
降伏?誤読してるよ
南宮山に戻ってきて切腹すると言う安国寺に対して吉川は逃げるよう諭してるんだよ
「安国寺も長大同前ニ中途まてのかれ候つるか、いかゝ被存候哉、自中途被引帰候而、南宮山被罷越候、
然者此和談之由被聞候て、定而腹可被切せ候条、覚悟可仕之由使者にて候条、且而左様有之事にても無之候条、
人数武具なとのけられ候て、しのひ候て出家一分之安国寺にて、先被参可然候ハん由申候て、右之とをりにて候」
安国寺も長束同様に退却したが、どうしたことか途中から引き返し南宮山へやって来た
この度の和談のことを聞き、きっと安国寺は切腹する覚悟だと使者から聞いた。私はその必要
はないので人数や武具を捨て、今は忍んで出家の身として先ずは逃れるのがよいと伝えた >>885
輝元にとって問題なのは徳川と対決すると高確率で毛利本領が攻撃されること。豊臣家が味方になってるところで西軍は負けた訳で秀頼の停戦命令書とかをばら撒いても効果ある訳ない
秀元と広家が結んだ総和談に乗っかって豊臣を売って少しでも本領を取ったほうがマシ 徳川家は一番微妙な立ち位置の結城秀康あたり含めて纏まってるのに
毛利勢はどいつもこいつも日和見焚き付け裏切り単独講和と好き勝手しすぎ
元就じいさんも草葉の陰で泣いてるわ >>887
すまん。どこが「逃げる」に対応してるのだ? そらぁ元就はがっつり自分の息子から家臣を纏めてたけど
テルは違うだろ?毛利では当主として上に立ってるけど爺さまみたいに纏めてる訳でもない
この場に限れば徳川に於ける元就ポジで元就な行動してるのが家康。
でも敵に平伏しても領地減っても家は残したしぶといテルを、元就爺さまは心底からは嗤わないだろう。 >>890
「先被参可然候ハん由申候て」
直訳すれば行くのがよいだけど、ここでは逃げるのがよいと意訳したほうが意味が通りやすいでしょ >>886
なんで毛利決起の全責任を安国寺恵瓊に負わせようとしてる広家が恵瓊を見逃すんだ?という話 >>889
他の西軍の状況を見れば、毛利勢は割とまとまってるほうだよ。
完全に異なる動きをしたのは小早川秀秋と安国寺恵瓊だけど、この2人は血も繋がらぬ独立大名で、「毛利」とは言い難い。 輝元がフラフラしてる印象は拭えない
命がけでやれば家康倒せたはず
そしてその気がなければやるべきじゃなかった
総大将になっておきながら腰が引けるなど匹夫 みんな輝元大好きだな
過去スレ見ても大体輝元も話題が多い そら輝元は主役の一人だし当たり前だろ。逆に増田の話題の無さは異常だと思うがw 輝元が主役の一人なのは確かなんだが
昔は三成に比べて薄かった首魁としての影がどうやら三成同等かそれ以上に濃くなってきてる印象
関ヶ原は三成の挙兵と言うより実は輝元の挙兵だったんじゃないかと ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています