武田勝頼 part48
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
武田信玄、武田義信、武田勝頼(諏訪)、武田信勝(織田)、黄梅院(北条)、真竜員(木曽)、見性院(穴山)、菊姫(上杉)、松姫(織田)など、武田関係について語って下さい。
なお、このスレにはアンカーレスを多用する荒らしがよく現れますが、無視して下さい。この荒らしはリアル世界に友達がいないため、皆様に相手にしてほしいから全てのレスにコピペ返レスしているのです。少し前の放火事件のように現実世界に迷惑をかける可能性もあるため、皆様寛大な心で受け入れてあげて下さい。
ワッチョイ導入議論スレ
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1644501787/
武田勝頼 part47
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1648298634/ >>475
早朝に出るタイプの霧ってだけじゃ、
そして早朝には移動はほとんど終了していたと思うが。
>>476
>下手すると勝頼たちは鳶ヶ巣山砦が落ちた事すら知り得なかったまであるからね。
鳶ヶ巣山方面から長走り渡って有海の部隊と合流した兵がいるから、
流石にその辺は伝わっているだろう。
有海の方では松平伊忠が戦死してるから一方的に追い散らされたわけではないのだろうし。 高坂弾正の息子は有海村にいたけど、武田本隊に合流して討死したという伝承がある >>478
武田軍は酒井隊の攻撃に対して一切抵抗出来ず最重要拠点を奪われてる。何故こんなことになったのか?まず朝8時には日が昇ってるので通常必ず見つけられる。だから朝8時では有り得ない。次に霧が出ていたなら攻撃隊は時間がわからない。つまり辰刻では無い可能性が高い。
攻撃の前に霧が晴れた可能性はゼロ。武田兵は砦の重要性を理解してる。人間は基本的にリズムで起きるから朝8時には全員起床して一二時間と言った時間帯。攻撃前に霧が晴れてしまえば見つけられたろう。特に朝靄に近い霧なら徳川兵の蠢きがわかる。よって攻撃前に晴れた可能性は無い。
有り得るとしたら濃霧のまま特殊技能に長けた徳川兵に攻撃されたという可能性。これなら可能性はあるが問題は霧が出てるのは変わらないので時間は不明。むしろ攻撃が終わった時が辰刻だったことになろう。 >>477
信長公記が真実であることを前提とするが逃げ延びた兵が居るのに「長篠城にいた連中は全滅した」と甲陽軍鑑が書いてるのは武田にとってその逃走が裏切りであり死と同義だったんだろう。まぁ逃走したって事は武田に顔は出せないから死んだのと変わらんかったんだろうけど。 武田の史料が甲陽軍鑑しか無いからな。甲陽軍鑑を除いたら何も残らんよ。例えば「勝頼は重臣衆の反対を押し切って」ってのも甲陽軍鑑にしか無かったろ。手放しに信じる事は出来んが甲陽軍鑑無しには武田は語れんわな。 新田次郎の武田信玄は血肉通った小説と思うけど、あれで先陣の山県隊が強くて頑張っちゃったから本陣から見たら柵は突破出来ると思っちゃったというような描写あるけどさもありなんて気はするわ
初手で普通にあっさり全滅されらてりゃこんな戦いとても無理と分かったろうに可能性見ちゃたもんで柵破れず撃ち殺されてるのに次から次へ押し出させたというのは普通にあり得る流れ 敵が柵を立てて守っていたら歩兵突撃させるのは戦国時代普通にやってたと指摘されてる。つまり武田の戦法は常識的だったことになる。柵を突破したら増援を送らないと味方を見殺しにするから次々歩兵を突入させたり場合によっては騎兵を突っ込ませるのも当然やらんといかん。戦国時代に数時間に渡って銃撃を与え続けるなんて本拠地攻めでも無いと有り得ん事だから「鉄砲に撃たれ続けるかも」って考えなかったのも仕方ない。織田と徳川が既に常識外の存在になりつつあっただけ。 一向衆も鉄砲を活用してるし、陣城築くのも常識的
つまり織田徳川の戦術は革新的だったわけではない >>484
「それしかないから…」と真偽定かならぬ胡乱なモノを根拠として語ることと、
ヴィトゲンシュタインが最後に辿り着いた「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」というスタンスを維持することと、
どっちが真摯な態度かという問題。 >>488
で、お前はどっちなのよ
それと、はよ定量的検討に必要なパラメータだせよ
いい出した奴からしないと示しにならないだろ >>489
相変わらず文意も読めない白痴っぷりを晒しているな。 有効射程50m、再装填時間60秒の武器を数時間ぶっ放し続けて数千の兵隊を射殺って事が革新的というか驚愕の事態。勝頼が戦後に弾薬の数量指定までして備蓄に走ってるのもこの経験に驚愕したからだろう。
その割には武田の城って防御力弱いんだよなぁ… >>490
女々しい御託はいいからという意味を含んでることも理解出来ないんだね
で、パラメータはよ言えって
定量的検討してやるから >>488
はっきり言わないとわからない奴だったな
おまえの場合は、真偽定からならぬものすらも出せないから沈黙してるようにみせかけてるだけ >>491
竹田征伐の時点で被害度外視の人海戦術が可能だから弱いもくそもない 柵を三重ふり、切所を三ツかまへ、待うけての所へ、
勝頼公壱万二千の人数にて、
かゝりて防戦を御遂候に、
一戦は皆武田方勝申候
子細は
馬場美濃守、七百の手にて佐久間右衛門六千斗を柵の内へ追こめ、をひうちに二三騎討死申候。
滝川三千許を、内藤修理衆千許にて柵の内へ追こみ申候。 家康衆六千許を山県三郎兵衛、千五百にて柵の内へ追込。
されども家康強敵の故、又くひつき出る 武田は初戦の勝利に判断ミスやらかしたっていう最悪のパターンよな 長篠は強敵家康が要だったな
家康が山縣穴山の猛攻に耐えきれず崩れはじめたら信長は家康を早々に見捨て家康を盾にして撤退を始めただろう
しかし穴山の方が一戦も交えず敵前逃亡の如く撤退
これが敗因 勝頼はどういう勝算があって長篠城と設楽ヶ原に部隊を分けたんだろうか 普通は城攻め中に敵の後詰めが向かってる一報が入ったら撤退がセオリーだからなあ。
信長も朝倉攻めの最中に浅井が裏切った事を確信したら一目散に離脱してる。 信長でいうなら小谷城の戦いだろ
小谷城には力攻めせず、朝倉の後詰めが来たら先にそれを潰した
勝頼にその希望を持たせるために兵を隠して逼迫しているように見せた >>498
武田軍が知り得た情報を整理すると織田軍は九万ほどの兵で救援にきた。ところが設楽原は幅3キロ程度なのでとても十万人近くは入らない。それどころか信長は軍勢を隠してるから二万人もいない様に見えていた。これを前提にすると勝頼の戦術は常識的なものとなる。武田本隊を設楽原に移して野戦能力の差で撃破する。この時敵は別所街道を使って攻撃にくる可能性が高い。だが「防御側は攻撃側の三倍に比する」という法則がある。長篠に置いた3000人は実質9000と同じ。まず簡単には撃破されない。そして敵もそれは分かってるから攻撃隊はかなりの大軍が予想できる。そうなれば設楽原の本陣は薄くなる。尚のこと勝算が高まる。 >>498
家康の本陣が崩れたらこの戦は終了
信長は所詮は後詰めの援軍だから
家康が崩れれば信長は馬防柵と家康を盾にして悠々と畿内へ帰るだろう 要は川中島で啄木鳥戦法を破った上杉謙信と同じ発想よな。敵がこちらを包囲しようと軍を分けたところを強襲して本陣を攻撃して崩す。問題は信長と家康は信玄や謙信を上回っていたことよ。 信長はどうかな?
兵と兵が直接ぶつかり合った近距離戦になると家康はなかなか強い
これは武田も北条も豊臣も認めている 武田の諜報部隊はどうなってるんだろうな。
織田が御大信長自ら安土から軍を率いてやって来る情報は敵地で掴んでるのに
三河入りあるいは設楽ヶ原入りした軍勢の数は把握出来てないのは。 負け方がアホみたいに見えるからな
なので従来信長が画期的な新戦術で武田軍をボコったに違いないと言われて、最近の信長大したことないの流れで別に特別なことはしてないと言われて、じゃあなんで武田軍はあんなアホみたいな負け方したの?という謎だけ残った感じか >>508
単純に距離と地形に問題があったんじゃないか。長篠は設楽原を押さえられたら陸の孤島になる。頼みの綱は鳳来寺街道と伊奈街道だけどどっちとも山道。それでも武田領なら勝手もわかるだろうけど奥三河で徳川領だから一筋縄にはいかん。長篠住民も徳川派なので徳川の防諜網の方が強い。
信長も信長で出陣する時に資材を持ってきてる。それで仮に観測出来たとしても実数把握は不可能だったろう。 まあ三方ヶ原なんて展開してる徳川軍の戦力検討してこれなら勝てると開戦したわけじゃなくて、,あくまで来るなら来いよと相手任せで待ち構えての一戦で鎧袖一触にしてたから武田から見りゃ別に怖がる相手ではなかったてのは明白 「武田家は巨大な騎馬軍団で戦国時代を席巻した」
という通説に基づくこの場面は、黒澤明監督作品「影武者」でも大迫力で再現され、そのイメージが定着した。
そもそも、戦国時代の騎馬というのは、単独で運用されることがほとんどであり、集団で運用されることは皆無だ。
武田も実は、戦場では機動力を活かした追撃か撹乱あるいは逃走に使われていたが、一軍を騎馬武者で固めていきなり突撃することはほとんどなかったらしい。 まず山縣らが徳川軍に圧をかけ、そこに武田一族衆の騎馬で撹乱し、徳川軍が耐えきれず瓦解したら義理できた織田は早々に撤収をはじめてこの戦はあっさりと手仕舞いになる
そんな感じだと読んだのだろう
勝頼の誤算は穴山など一族衆が敵前逃亡という命令違反をしたことだな 単純に徳川を潰したいだけなら浜松城を囲んで攻め落とせばいいだけの話。
わざわざ東美濃や奥三河まで遠征したのは信長と決戦をしたかったからでしょ >>510
史料上は全く把握出来てない。甲陽軍鑑によると織田徳川軍は十万としてる。これは当時の織田が実際に動員していた数だから辻褄はあってしまう。対して設楽原は狭い。しかも信長公記によると軍勢を隠してるから尚のこと少数に見えてた。つまり武田軍は織田徳川軍の最小値と最大値の情報しか受け取ってない。しかも問題なのは設楽原に十万居ない事は信長が大軍を連れて来なかった事を意味しない。別働隊がいるのか?更なる後詰?信濃を攻撃?可能性があり過ぎて絞れないし時間もない。そんなこんなで何もわからんまま賭ける羽目になると。 >>515
そうとも言えん。この時の武田軍は15000しか動かせない。この程度で落とせるほど浜松はヌルい拠点じゃない。カネの無駄だからやりたくない。同様の理由で掛川とかも無理。
徳川がなんで頑強かっていうと実は徳川の心臓部は三河にある。そこが徳川の収入源だしここから織田の支援物資が輸送されてる。だから遠江を攻めるよりも奥三河を攻める方が遥かに効果的ってのは戦略的には正しい。一番の問題、奥三河から信濃が遠いってのを考えなければ、だけど… >>517
遠江までなら武田は2万以上の軍勢で攻め入れる。高天神城の実績もあるし。
また二俣城と社山城を押さえてるから浜松城も掛川城もどちらも狙えるので
徳川は1万以下の兵力を三河から遠江まで広く配分しなくてはならないのも不利。 織田は徳川に資金援助や兵糧援助を行なってる。それが証拠なのが高天神が落ちた時のエピソード。信長が家康に皮袋二つ、荷駄一つの金塊を与えたって話。(通常馬には袋二つを付けるから意味は同じ)。荷駄には最大40貫=150キロ付ける。そっくり当て嵌めると金8400両にもなる。この資金は家康の外交を助けて例えば休賀斎に神影流(奥山流とも)の奥義を教えてもらうべく土地代を与えたりしてる。長篠の二ヶ月前には信長は米2000俵を家康に送って家康は300俵を長篠に送ったというからこうした物資支援も日常的だったんだろう。 >>515
大名の居城なんて数年包囲してやっと落ちる代物だ
ゲームじゃないんだからそんな簡単に落ちないよ
内応者いるわけでもない
徳川は高天神城見捨てて城主、国衆に見放された勝頼とは違って織田が来る希望があるから士気も高い
武田に3年規模の攻城戦できるのか無理だな >>521
浜松城に兵を集めるとなるとそれ以外が落ちまくるな。
あの時点での徳川の最大兵力は8000くらいだし、5000を浜松城に置くとなると
残りの兵数3000を掛川城、吉田城、岡崎城に割くわけだがそれじゃ高天神城と同じ道を辿ることになる 徳川からすると遠江を攻撃されてもそんなに痛くない。浜松は簡単に落ちないし他の要衝を攻撃されたら後詰に行けばいい。だから僅か8000の兵で武田軍を押し返す事が出来てる。織田からの物的人的支援があるから体力も高い。
だから勝頼は遠江を攻めつつ隙を見て三河を攻撃して楔を撃つ戦略を取った。一見成功するかに見えたけどこれはかなりの動員力が無いと不可能。それで長篠の敗戦で完全に破綻してしまった。 押し返すが出来てる?
織田に助けられて設楽原で壊滅的な打撃与えるまでは、武田が甲斐か城取に出張ってきてんのに自国入られても怖くて何もできずにどんどん削られて行って帰って行ってから何とか取り返そうと頑張ってたのが徳川じゃん
笑わせなくていいよ >>522
だから徳川の場合は待ってれば織田の援軍来るって言ってるだろこのゲーム脳が >>524
結局維持出来ねえならいなくなってから取り返せば効率いいじゃん 高天神城や明知城の例もあるからケースバイケースとしか 武田は浜松や掛川といった重要拠点を攻められて無いからな
徳川にそれだけの力があるから武田も簡単には攻められなかった。武田も徳川の力を削ごうと戦争してたけどそれが武田の国力の限界を超えてた。 徳川領攻めてるって言っても結局徳川とはシーソーゲームに興じてるに過ぎないからね。その上武田は上杉・織田とも戦線を抱えているから体力の消耗が激し過ぎた。長篠云々よりもいつこの三家にブン殴られるかが武田の寿命だっただけ。
一対一で勝てない敵には連合をもって相対せよ、は兵法さね。信玄だってそれで信長包囲網に乗っかったんだし。まぁこの三家を敵に回したのは勝頼じゃないしどうしようもないが。 長篠での惨敗がなければ勝頼は生き残れた可能性が高いな。
信長も遠江までは来そうもないし。 多分無理。信長は家康に資金や兵糧援助してるしこれは甲州征伐の時にも行われてる。信長は長篠時点で十万の兵を動員出来るから織田・徳川軍が大軍で押し寄せる未来は近い。しかも武田には上杉か北条と戦争する運命まで待ってやがるから戦略が難し過ぎる。 武田に勝つ為には徳川より織田を攻撃しないといかん。でも信濃-美濃の間は山道で防御が容易く攻撃が難しい。徳川が戦線を進めたら勝頼は本隊をそっちに向けないといけないから簡単に落とされることになるし実際なった。だから無茶苦茶難しい。信玄の時代まで戻って織田と敵対しないルートを進むしかない気がする。 駿河侵攻から織田敵対まで割と不可避な一本道なので生き残りのためには駿河侵攻しないで越後攻め落とすしか道はないと思う
甲斐信濃の地理的不利が大きすぎ
かといって織田に臣従するのはウクライナに降伏しろというようなもの 織田と上杉武田の和睦交渉中に
北条が『織田に臣従する』と申し出る妙手搦手を打った
これで和睦交渉は頓挫し武田は詰んだ
御館の乱で北条を怒らせたから武田は滅んだ >>534
織田の跡取りの嫁を武田から迎えると約束してる
これほどの好待遇はないだろ
これでウクライナと同じとか正気か? >>537
家康の妨害?
信玄が破ったんだろ
信長は武田をできるだけ立ててただろうに >>538
徳川が上杉との同盟でその縁談を破談にさせると誓約してるからその影響かと
ウクライナの二の舞って多分織田に降った大名達の末路が悲惨なの多いからだろう 話がズレるけど長篠の戦いあたりの状況はロシア武田、ウクライナ徳川、アメリカ織田っぽい
攻める武田に耐える徳川、物資支援の織田で徳川はレンドリース(織田の畿内制圧)待ちの状況
武田の鉄砲などの武装が劣ってるのも似てる それは仕方がない。戦国大名は求心力を保つ為に戦い続けないとならないから。
それに西上作戦そのものは高天神城を従属させ、二俣城、社山城、その他北遠江、奥三河と戦果はまあまあ。
そのまま信玄の死を隠匿したまま美濃入りしていれば中濃くらいは行けたが
其れを反対した重臣達に非があった。勝頼は進行を続けようとしたらしいが。 勝頼が北条に臣従すると言って北条夫人と婚姻したのに、武田一族(小山田ら)の説得で上杉に近づいたからな
勝頼が北条に喧嘩売ったのがなぁ運の尽き 北条を敵に回したっていうが御館時点で北条は既に半ば敵なんだよなぁ。徳川と戦争していて余裕ゼロの武田に上杉攻めてくれとか無茶振りかましてる訳で。御館はもう景勝の勝ちは目に見えていた訳で武田が武力介入しても敵が増えるばかりだし。 >>544
御館時点で北条は半ば敵?
無茶振りしたら敵になるの?
さすが妄想三点リーダーだな まともな同盟国なら自分達が先に戦闘していて苦戦してるから来てくれって言うぞ。織田徳川のようにな。
てか御館の北条みたく「俺たちは軍団送らないけどお前たち行け」って言った例ほかにあるんかな。 >>546
越後に直接行けるのは武田だし、北条は対陣中
援軍依頼したら半ば敵扱いかよ
おまえはいつも論理の飛躍かますよな だから武田も徳川と戦争しとるやん。北条軍が先行して戦争してるなら援軍要請だけど北条軍が行かないのに武田は行け、なんてのは正直敵対的だと思うぞ。そんな要請した例って他にあったっけ? そもそも「援軍」要請ですら無いんだよな御館の乱って。 >>550
君はいつも中身のない妄想書いて荒れるだけだから書込みやめとけよ 北条軍が景勝軍と戦闘してるから助けてくれ、なら援軍要請だけど主力が戦ってもいないのに戦闘しろってこれ援軍要請じゃないよな。てか兵法にそんなのがあったような。「敵の強力な部分を他人に押し付ける事で相対的に有利を得る」ってやつ。 ・北条が来るか来ないか不明な時期に景勝に買収されてます
・北条軍は信濃通しません
・家臣から不満の嵐。道義や利益がどうのこうのよりこれが一番大きい。勝頼の一番の責務は家臣の心を一つにをまとめることだから。 >>552
兵法三十六計、偸梁換柱。敵の柱を他者に押し付ける事で相対的に有利になる。武田は孫子の旗掲げてやがるぐらいだからすぐに思ったろうな。北条に謀られてるって。 >>553
信濃通さない、ってのが何なのかわからんけど上野に関しては真田に攻撃を中止させてるぞ。それに他国領ならまだしも自国領となると事前の相談無しには同盟国でも軍隊通せんじゃろ。北条は武田に領土を通る申請してたのかな? >>552 554
影虎は上越で戦ってるだろ。
あと言っておくが景勝の拠点は上越じゃない。 景虎は北条の人間だけど北条軍とは全く違うんじゃないか。少なくとも上杉景虎名乗って上杉家を引き継いでるというのが景虎の立場だから北条軍とは言えない(そう言ったら北条による上杉家乗っ取りを意味するから)。戦ってるのは景虎だから景虎からの救援要請って話にはなるけど北条は蚊帳の外になる。武田からすりゃいやお前が行けよこっちは大変なんだと言いたいところを何とか御館の乱を収拾しにいったわけ。 >>539
織田家の方は72年一月に公家に婚姻の吉日調べさせたりと縁談させる気でいたから、
徳川上杉の反対工作は失敗していたと考えるべきかと。
だから信玄が勝手に破ったでいいんじゃないか。 >>557
北条の要請で出陣してるくせに何言ってんの?
幼稚な屁理屈だこと 影虎は北条の人間だから乗っ取りとまではいかなくても自身の後ろ楯である
実家の北条家の意向を尊重する立場だから北条家とは無関係はあり得ない。 ずっと関東官僚の謙信に叩きに来られてたわけだしな北条
どう考えても絶好機の到来でここで全力で景虎応援がありそうなもんだが
その辺に氏政の無能さが見て取れる >>558
横からだけど、さすがに、それは厳しいんじゃないのかな。
その72年1月に信玄が織田に徳川の反武田行動について、抗議をしてたと思うけど、
武田からしてみると、徳川の反武田行動はまったくやむ気配がない様に思われたろうし、実際に徳川と上杉による対武田同盟もそのままのように思えるから、やんでないように思えるけど。
信玄は直接的に徳川の反武田行動をやめさせるように、織田に抗議をしたと思うのに、それがまったくやんでないどころか、織田がそれを止める気配もないんじゃ、そのままだと織田徳川上杉に包囲されると思っても不思議じゃないと思うけど。 >>559
きっかけが北条の要請だったかは史料上わからんけど取り敢えず武田としては北条の為に身を削る義理は無い。北条軍が直接に景勝軍とやり合ってる訳でも無いから。 >>563
横からだけど、あるんじゃないの。
同盟国である北条の要請なんだから、ある程度は応えていいんじゃないの。
戦国時代の合戦では、朝倉浅井、織田徳川、武田北条、という感じで、
同盟国の為に参戦して戦ってる事例がいくつもあるように思うけど。
武田だって信玄時代には、北条と一緒に武蔵松山城を攻略してるように思うし、
北条だって信玄の西上には援軍を派遣してるように思うけど。
そもそも、軍鑑読むと、北条は後になって景虎の為に援軍を派遣してるように思うけど。 >>563
北条としては武田がそこまで身を切ることにはならないのに裏切られて驚きしかないだろ。
身を切るのは景勝の本拠地である坂戸城一帯、上田長尾を攻め入ることになる北条軍。
氏政としては勝頼に景勝とその近習を春日山城から出させずに、
北条軍で坂戸城を落とし景勝の拠点と後ろ楯を潰す気だったかもしれない >>563
ついでに、軍鑑を読むと、普通に北条からの要請で勝頼が景虎救援の為に出陣してるように思うけど。
>>552 >>554
>>564にあるような感じで、軍鑑読むと北条は後になって援軍を派遣してたように思うし、
北条が後になって援軍を派遣する前の参加というなら、
そんなによくない話でもないと思うけど。
攻略した景勝派の領土は、普通に勝頼の領土にしていいだろうし、
そんなによくない話でもないと思うけど。
史実のように北条を敵にして、織田徳川北条を同時に敵にするよりは、
ずっとマシなように思うけど。 >>550 >>548
>>566にも似た事書いたように、軍鑑では、普通に北条が要請した事を受けて、勝頼が景虎支援の為に出陣してるように思うけど。
景虎は北条の一族で、景虎が勝利すれば自動的に武田の同盟国にもなるだろうし、
血縁関係から言っても、武田と北条は縁戚なんだし、要請としては特におかしな話でもないと思うけど。
これまた上記566に似た事書いたように、軍鑑読むと、北条は元々援軍を派遣する事を武田に伝えてもいたように思われるし、
実際に北条の援軍が景虎支援の為に派遣されてるように思われるので、
北条が到着する前に戦っておくのも、上記のような武田と北条の血縁関係や、
武田と北条の同盟関係からしても、そんなにおかしな話でもないと思うけど。
徳川が来たら来たで、景虎支援の為にある程度の軍勢を残しておいて、
援護をさせつつ、主力は徳川の方に向かえば、北条もそんなに文句言わないように思うけど。
北条にしてみれば、軍鑑読むと、上記のように北条の要請で勝頼は景勝支援に出陣してるようなのに、
それがなぜだかいきなり景勝から金と領土をもらって、婚姻同盟の約束とかして、景勝と戦わないで、
景勝と景虎の和睦とか言い出して、その後で景虎が景勝に倒されるのを放置とか、
北条からすると、勝頼が景勝に買収されて寝返ったとしか思えないと思うけど。 >>560
ところが武田からするとさにあらず。というのも勝頼は景虎を上杉の人間として見てるから。それは天正四年四月三日の木曾義昌家臣団からの起請文(戦武二六二九号)に上杉謙信・景虎・景勝から所領宛行等の勧誘が来ても乗らず、使者は捕らえて甲府に送ると書いてある事からもわかる。つまり武田は「景虎は上杉にあるとはいえ元は北条の人間なんだしその同盟相手である俺たちには調略なんかしないよね」なんて甘い事は考えてない。少なくとも景虎軍=北条軍とは見る事はなかろう。 >>568
横からだけど、さすがに北条の救援を受け、北条の縁戚として武田に助けてもらったなら、景虎もわざわざ武田と敵対しようとは思わないと思うけど。
勝頼としても、北条の要請を受けて景虎を支援する以上、>>567にも似た事書いたように、景虎を普通に血縁関係や、未来の同盟相手だと思ってると思うけど。 >>565
武田軍にはもうそんな余裕が無い。武田軍は長篠敗戦後本格化した織田・徳川の攻勢に打つ手が無く負け続けてる。勝頼は必死に「美濃に、三河に、遠江に出撃する」とぶち上げてるけど武田が出来た反攻といえば犬居谷に攻め入ったぐらいで後は特に無し。天正四年には「占いで悪い結果が出たから」と苦しい言い訳で三河攻撃計画を延期してる(一月六日付春日虎綱宛書状)。天正六年には勝頼本隊は専ら徳川軍の迎撃にキリキリ舞をさせられてる始末。もうイケイケだったあの頃とは違う。 だから武田としては北条軍が戦ってないというだけで戦争にはいけない。徳川軍が来る事を考えれば主力部隊で戦争には出来ないが数千では春日山どころか坂戸も落ちん。それに景勝は僅か数百の軍で景虎軍五千を粉砕してる戦上手なので楽観出来る相手でも無いしね。仮に北条が来なかった場合折角和睦に漕ぎ着けた上杉家を敵に回すだけで終わってしまう。そんな賭けをする余裕は無い。 >>570
君の部屋の換気したらどうかな。もしくは、部屋の掃除するとか。
そんなに君の部屋の匂いが気になるって相当だと思うから、少し君の部屋を掃除した方がいいんじゃないかな。 >>572 >>571
横からだけど、徳川が来たら来たで、数千の軍勢を残しておいて、主力は徳川の相手をしてればいいんじゃないの。
その残した数千には、もっぱら景勝派勢力が景虎派勢力を攻めるのを妨害させたり、景虎派の城を守らせるとかして、
その行動を遅滞させ、北条が援軍に来るまで景虎派を生き残らせれば十分じゃないの、と思う。
仮にそれがうまくいかなくて、景虎派が倒されても、景虎派の味方として戦い続けてたなら、
北条だって敵対まではしないと思うけど。
史実のように、北条を敵に回す方がよっぽど厳しい様に思うけど、どうなの。 >>571
同盟国を裏切るという選択が失敗に終わった場合には勝頼が汚名を被るということである。
勝頼が家臣から見放されたのは北条を裏切ったことが一因であることは明らか。
「何で北条の娘と婚姻同盟結んだばかりなのに、要請を断って上杉景勝と同盟してるの?しかも織田徳川に加えて北条とも戦線拡大してるじゃないか。軍役負担するのは俺達家臣だぞ」
この家臣達の疑問に正当な理由を説明するのが戦国大名たる勝頼の責任であり、重要な仕事である。幼稚な言い訳では通用しない。 >>570
それは謙信が存命中の話だろ。
謙信没後の影虎は実家に頼ってるから北条と影虎は無関係は通じない >>575
そう言った史料は何一つ無いから想像するしかないけど、北条取次だった小山田が土壇場まで従ってる事から家中の反対は殆ど無かった事が伺える(潤色逞しい甲陽軍鑑すら反対者の意見を載せてない)
その理由は武田軍の苦境にある。武田は信濃・駿河両戦線で苦戦を強いられていて勝頼は満足に援軍も出せてない。こんな中北条の為に戦争したら「俺たちがこんなに援軍要請して出さないのに北条の為なら出せるんか」という話になる。それは国人衆の離脱にも繋がりかねない。例えば今川氏真と松平元康の様にね。だから武田は戦争は出来ない。可能なのは調停くらいでそれも即座に引き返せる事が絶対条件だった? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています