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【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】
0668人間七七四年
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2024/05/08(水) 10:56:29.56ID:xp8uJ7FL
>>664>>666は同じ人?顔真っ赤ですごい早口でしゃべってそう
いったい何と戦ってるの?
0669人間七七四年
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2024/05/17(金) 18:47:43.81ID:alDRgrCe
>>666

北条氏の年貢4割という数字は史料によって異なり、必ずしも正確とは言えません。しかし、確かに年貢以外にも様々な賦役や銭の徴収が行われていたことは事実です。特に後北条氏後期になると、領主による農民への収奪が強化され、困窮した農民の逃散が相次ぎました。

北条氏がこのような厳しい政策をとった理由はいくつか考えられます。まず、戦国時代は常に戦争の危険があり、そのためには多くの兵士や物資が必要でした。年貢以外にも様々な賦役や銭の徴収を行うことで、北条氏はその財政基盤を強化しようとしたのです。

また、後北条氏後期になると、領内の経済状況が悪化していました。天候不順や戦争による被害などが重なり、農民の生活は苦しくなっていました。そこで、北条氏は年貢を増徴したり、新たな賦役を課したりすることで、財政収入を増やそうとしたのです。

しかし、こうした厳しい政策は農民の不満を招き、逃散を加速させました。さらに、北条氏が逃亡した農民を連れ戻そうとしたことで、領主までも逃亡するという事態に陥りました。

結果的に、北条氏は領内を疲弊させ、戦国時代の覇権争いで勝利することができませんでした。
0670人間七七四年
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2024/05/17(金) 18:49:57.48ID:alDRgrCe
「北条早雲」という呼称は、史実的には適切ではない場合が多く、フィクションの影響を受けている可能性があります。

北条早雲は、15世紀後半から16世紀前半にかけて活躍した武将です。本名は 伊勢盛時(いせ もりとき) または 北条早良(ほうじょう はやら) と言われています。「北条早雲」という名前は、江戸時代の軍学者・山岡元隣(やまおか もとなり)が著した『北条記』の中で初めて登場し、一般的に知られるようになりました。

しかし、北条早雲 という名前は、史料にはほとんど登場しません。伊勢盛時 や 北条早良 という名前の方が史料的に確実とされています。

さらに、北条早雲 という名前は、早雲城 という城の名前と結びついていることも指摘されています。早雲城 は、北条早雲が築城したとされる城ですが、実際には北条氏康の時代に築城されたことがわかっています。

このように、北条早雲 という呼称には、史実的な根拠が乏しい部分があります。そのため、史実を語る際には、伊勢盛時 や 北条早良 などの名前を使う方が適切と言えるでしょう。

ただし、北条早雲 という名前は、一般的に広く知られており、親しみやすいという側面もあります。そのため、あくまでも注意が必要であるという点を踏まえつつ、状況に応じて適切な呼称を使い分けることが重要です。
0671人間七七四年
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2024/05/17(金) 18:57:34.06ID:alDRgrCe
>>620

確かに、北条高広という名前から小田原北条氏を連想するのは自然ですよね。しかし、実際には越後の北条氏という別の一族で、小田原北条氏とは血縁関係がないんです。

北条高広は越後国刈羽郡北条(現在の新潟県柏崎市北条)の領主で、北条城を居城としていました。越後長尾氏(上杉氏)に仕え、戦功を積んで奉行として活躍するなど、優秀な武将だったんですよ。

しかし、天文23年(1554年)には、甲斐武田氏と通じて上杉謙信に反乱を起こすという波乱万丈な人生を送っています。その後、上杉謙信に降伏して再び仕えたという経緯もあり、まさにドラマのような武将と言えますよね。

名前の類似性から小田原北条氏と混同されがちですが、越後北条氏もまた、戦国時代に重要な役割を果たした一族だったことは間違いありません。
0672人間七七四年
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2024/05/17(金) 21:22:44.76ID:eKx3CZRM
>>670
恥ずかしながら寡聞にして「早良」は初見。
また伊勢盛時は生涯「北條」苗字を名乗ることは無かったと認識している。
差し支え無ければ「北條早良」の出典を御教示頂きたく。

>>669
そもそも戦国期の関東は貫高制であって、
且つ北條(主に氏康期)の税体系は630~632に示した如きものだから「収穫の何割」と云う捉え方自体が不可能。
村高は検地が改訂されない限り固定されているからそれが実際の収穫の何%に当たるかは不明だし、
当時の壊滅的な自然環境条件下で年毎の収穫も激しくブレたことが「半損」「皆損」等の表現で多くの史料に残る。
更に引方は北條と村々との海千山千の交渉で決まるものだから偏差が大きい。
同時期の他大名領国の状況と定量的に比較しないと評価は困難だろう。
0673人間七七四年
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2024/05/17(金) 22:48:13.24ID:eKx3CZRM
>>671
> 越後北条氏もまた、戦国時代に重要な役割を果たした一族だった
 
毛利北条高広も永禄九年(1566)、
臼井城合戦後に於ける関東諸将北條方転換の奔流に乗って北條に就いている。
上杉謙信の書状に残る驚愕と憤怒(「前代未聞」「天魔の所行」)を見ても、
また実際の軍事的/政治的効果からしても、
上杉の北関東戦争敗退に関して重要なメルクマールとなったことが窺える。

北条高広は何故か「上杉の忠臣」という虚像で語られがちだが、
その実像は生き残りを懸けて機を見るに敏、
典型的な北関東國衆だったように思われる。
0674人間七七四年
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2024/05/18(土) 23:20:49.72ID:n0L4fekC
大藤秀信って勝ち戦の援軍で戦死するとか
ほんとに運がない人だったんだな
どうやったら死ぬんだよ…足軽大将だから督戦でもしてたの
0675人間七七四年
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2024/05/18(土) 23:36:58.23ID:n0L4fekC
小田原に引きこもって温泉三昧
仕事は午前で終わらせて海水浴に魚釣り
まさにぬるま湯生活
0676人間七七四年
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2024/05/19(日) 01:40:58.74ID:XtDqhVZM
>>675
こっちのスレでもあっちのスレでもネガキャンご苦労さま
0677人間七七四年
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2024/05/19(日) 06:40:10.49ID:tme++zWl
>>673
 北条高広は永禄12年(1569)6月の越相同盟成立以降は後北条氏から上杉氏に帰参した。天正6年(1578)3月に上杉謙信が死去するまで造反せず厩橋城代の務めをしていた。
 高広の動向が流動的になるのは、天正7年(1579)3月に御館の乱で上杉三郎景虎が敗死してから。
0678人間七七四年
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2024/05/19(日) 18:25:18.33ID:a8FObSB0
二日待ったが結局>>670>>672の問いに対して沈黙か。
やっぱり荒らしが文体を変えただけだったか。
0679人間七七四年
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2024/05/19(日) 18:35:40.77ID:a8FObSB0
>>677
天正二年(1574)の上杉謙信関東完全敗退後に於ける毛利北条の動向はどうだったのだろうか。
高広自身は同年に隠居してしまったとのことだし、
簗田も里見も潰れて北條独り勝ちに傾く関東で孤塁を守るのも困難だったろうが。
 
0680人間七七四年
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2024/05/20(月) 06:10:51.69ID:u9WYyh/g
>>678
一生待ってば
ト-オモワレル君www
0681人間七七四年
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2024/05/20(月) 06:17:37.84ID:u9WYyh/g
>>640
きっと友達もいない人なんだよ。
可哀想に。
0682人間七七四年
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2024/05/20(月) 06:26:17.22ID:u9WYyh/g
>>679
正式な名前は「北条」なの?それとも「北条」なの?
ト-オモワレル君。
0683人間七七四年
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2024/05/20(月) 06:29:06.09ID:u9WYyh/g
>>679
訂正。
「北条」が正式な姓なの?「北條」が正式な姓なの?
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