【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】
今川義元がいつもデブ扱いなのって
氏真の晩年の肖像のせいじゃないの? >>687
明治期の払い下げと河川改修工事--だったかと。
うろ憶え。 スレの主旨から些か逸脱するが、
関宿の衰退は明治以後の政策に起因する事案であって、
薩長軍閥政権の陸運偏重・水運軽視の象徴とも云える痛恨事だった。
太田扇谷北條徳川と承継された「水都」江戸のグロテスクな破壊改悪もこれと軌を一にする。
これらは本邦の文明史/文化史的重大損失と断ぜられる愚挙だった。
かの田舎者政権が如何に俯瞰的歴史観的を欠いた下衆なものであったか、
この一事を以てしても容易に知れる。
60年も持ってたなら太田扇谷当時とはだいぶ変わってるんだろうな>江戸城 >>690
齋藤慎一氏『江戸-平安時代から家康の建設へ-』に拠って>>535-537を書いた。
その要約。
太田道灌の江戸城域は淀橋台の平川右岸低地に果てる突端、
今日の本丸から道灌濠の東側即ち今日の西ノ丸にかけての区域だったとみられる。
北條期の主要な江戸城域整備工事(つまり扇谷期と北條期の差異)として確定的に把握されているのは;
イ)城域の拡大:台地東段丘面から平川右岸低地「上平川」「下平川」区域の城内取込=寛永以後の二ノ丸・三ノ丸相当区域の形成
ロ)イ)に伴う平川の流路改修:今日の内濠東半部原形か?
ハ)城大手の変更:「高橋」=平川橋/平川門から「大橋」=大手門橋/大手門(北條期の架橋)へ
ニ)イ)に伴う城下町の移動:大手門橋前(東側)区画「大橋宿」へ
上記の結果、北條期江戸城の物理的構成は;
・今日の本丸、西ノ丸、二ノ丸、三ノ丸に相当する城域を有する
・平川、道灌濠、日比谷入江を外郭線兼防御線とする
・今日の大手門と同じ位置に大手を構える
・大手に架橋された大橋を街区生活圏の要とする
・大橋の東側に城下町として大橋宿を擁する
・城域西側の台上区画を附帯占有区域とする(?)
--と概括される。
このたび金沢に移住が決まり売却します
私が手にかけて育てた城です
田舎ですが、江戸城、河越城あと何だっけとか言わないでください
占領されてても気にしない方にお譲りします
うじくに 鉢形城。北條氏邦の城か。
暑くなる前に秩父ツーリングのついでにでも行ってみるかな。
ついでに行くなんて勿体ない
一日かけてジックリ散策すべし