【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】
確定してないだろ
申次が将軍の側を離れてあっちゃこっちゃ遠国に滞在してる例が他にあるのか(ない) 伊勢盛時は伊豆侵攻と殆ど重なるタイミングで「奉公衆」即ち将軍直属の暴力装置に編入されている。
堀越御所の内訌は勿論、
ドサクサ紛れに今川家督争奪戦争への介入についても法的正当性を遡及適用(法理学的には禁忌)せんとする幕府の意志が垣間見える。
いつの世も、役所は役所。
(>>541から承前)
ハ)について。
江戸には下記の要路群が集中交差していた。
道灌や北條の仕事と云うよりも歴史の必然、多くは自然環境条件の然らしむる所だったと云える。
・陸上交通: 鎌倉大道(下ノ道)、矢倉沢往還、国府路道(古甲州街道)、清戸道(古川越街道)、岩附道、浅草道、等々
・河川交通: 平川、旧石神井川、隅田川(入間川)、荒川、利根川、古川、多摩川、等々
・海上交通: 平川湊、江戸湊、品川湊、「武総之海」沿岸~外海
北條期に関して特筆すべきは、
利根川右岸の広域一元支配によって江戸と云う都市の巨大なポテンシャルを意志的に解放せんとした点にある。
就中、河川交通に注目したい。
それは陸運偏重の価値観を刷り込まれた我々現代人の盲点でもある。
上記の河川水運はそれだけでも重要な交通網となるが、
関宿~古河と云う要所経由で更にもう一つの世界=印旛沼香取之海水系~常陸外海への交通網と接続すれば壮大な陸水ネットワークを構成できる。
江戸は正にその要であって、
北條氏康・氏政の関宿攻略に懸けた執念は江戸の安定拠有を大前提とするものだったことを理解してこそ初めてその本義を知り得るだろう。
むしろ北條の江戸都市整備、牽いては関東全土制覇運動の動機が大半此処に在ったかとさえ思われる。
なお附言すると、
陸上の要路の江戸集中に関しては永享ノ乱以来の「鎌倉の地位低落・江戸の相対的抬頭」の趨勢による道路変遷の結果であると齋藤氏は論考している。
今日顕著な東京(江戸)中心の放射状道路網形成は既に漸く始まっていた、と。
鎌倉期の所謂「鎌倉往還」群と戦国期の主要道路群を比較してみれば氏の論旨は至当であると判断される。
何れにせよ江戸が中世特に北條期から重要都市だったことは疑いを容れない。
この切口からも「江戸は家康から」なる巷説の虚妄は明白と云える。
(続) 豊臣兄弟かー
こんどこそ後北条と思ったのに
いったいなにが悪いんだろう
伊豆は静岡県だけど、やっぱり徳川今川になるのかな
小田原は神奈川県 神奈川って後北条押してないのか?
もっとNHKにロビー活動しろよ 神奈川は鎌倉幕府で何度もやっているので
この前も執権北条氏をやったばかりだしパチモン北条なんて興味ないです 昔まことしやかに言われてたのは某宗教団体の名誉会長が北条が嫌いだからってのがあったね 天下人はネタが豊富だから作りやすい
マイナー武将は大部分を創作ネタで補う事になるので微妙な内容にしかならない (>>550から承前)
ニ)の足利義氏江戸移座計画は遅くとも永禄元年(1558)には北條氏康の下で準備実行段階に入っていた。
義氏自身の江戸入りが具体性を帯びるのは永禄四年(1561)即ち長尾景虎「越山」以後の軍事状況によるものだったが、
計画そのものはそれ以前から既定の政治工程だった。
諸条件に鑑みればその発端はどんなに遅くとも義氏「鎌倉殿」継承の天文二十一年(1552)、
或いは河越合戦で足利晴氏が北條に完全屈伏した天文十五年(1546)にまで遡るものとみられる。
永禄年間の発信書状に見る限り義氏は移座についてかなり前向き、むしろ前のめりだったようだ。
江戸を己の御座所として不足も不審も無しとの認識が窺える。
北條氏綱による江戸城接収から二十余年、
既に江戸は関東に於いて軍事・経済のみならず政治的にも特別な地位を占めるに至っていた。
(続) >>550
>北條期に関して特筆すべきは、
>利根川右岸の広域一元支配によって江戸と云う都市の巨大なポテンシャルを意志的に解放せんとした点にある。
こんな風に断言する根拠史料は何なのかが知りたい >>557
中世関東の地理水文。
大橋及び大橋宿の構築。
北條氏康の言葉。
北條氏照の廻船政策。
北條氏政による両都化。
街道の付替。
そして何よりも物理法則と経済原理。
これだけ材料が揃っていればこれらの具象群を規定する函数を推考することは誰にでも出来る。
異論は歓迎する。
拙論に納得行かないのであれば貴君の想定する北條の国家モデルの体系的全体像を伺いたい。
なお、
以前から云う通り「史料」の片言隻句の些末な解釈に血道を上げる近視眼の玄人ゴッコに付き合うつもりは無い。
悪しからず。
「江戸」と云う範疇を超えるから一連の書込(もう幾つか書く)では触れなかったが、
北條氏照の廻船政策によって逆照射されるのは権力体の想定以上のレベルで留保されていた在地のポテンシャルだろう。
流域の一元掌握と云うトリガーを引くことでその解放がむしろ暴走し始めていたことを示すものとみられる。
江戸については岡野友彦氏の「家康はなぜ江戸を選んだか」って著書があった
北条氏の記述は限定的だったけど >北條氏照の廻船政策
これは布施美作守宛書状と天正四年九月二十三日付書状のことを言っているのだろうか?
いずれにしても直接的な根拠史料があるわけではなくて、推測であることは良く分かったのでもういいです。 北条水軍の関係者が海路、松島の瑞巌寺を参拝したことがある、
という論文を読んだ記憶があるのだが。
北条と伊達にとって佐竹は共通の敵なんだが、水面下で交渉はあったのかもしれない。 >>563
> 海路、松島の瑞巌寺を参拝
事実であれば「里見降伏」が絶対的な要件になるから天正五年以降のことか。
佐竹水軍は河川警備隊程度の質・量に過ぎず里見や北條のそれと比べるようなシロモノではないと読んだことがある。
だとしても太平洋岸の沿岸航法、
潮に逆らって松島まで行くのはなかなか骨が折れたろうな…。 >>561
ありがとう。
調べてみたら面白そうだ。
が、出版が99年。
新刊で買えるかなあ…。
(>>556から承前)
永禄十三年(1570)頃迄には御所重臣の移住も実現するほど進捗していた「鎌倉殿」江戸御座所計画は、
しかし相越同盟の「御座所は古河なるべし」との合意条項を以て未完のまま終焉する。
これを承けて北條はホ)の方向に動く。
江戸領を城代支配から一門衆支領へ、
更には小田原との両都化を思わせる存在へと引き上げて行く。
北條の江戸城と云えば遠山・富永・太田の城代三頭体制だが、
天正二年(1574)に至って地黄八幡こと北條綱成の子、北條氏秀が城主となった。
即ち江戸領を瀧山領、鉢形領等に次ぐ一門衆支配の支領格とした。
氏秀歿後(天正十一年[1583])、
事実上の江戸城主/江戸領主となったのは「御隠居様」北條氏政だった。
当時の家中には他に幾らも人材はあった筈だが、
敢えて氏政=実質的総帥の執政拠点化という措置からは当主北條氏直の小田原との両屋形/両都を視野に入れていた蓋然性が強く感じられる。
少なくとも例えば氏直の兄弟辺りでは済まされない程度の重要性を北條権力体が江戸に認めていたことは疑えない。
(続) (承前)
天正二年(1574)、北條の関宿接収。そして越後上杉の関東全面撤退。
天正五年(1577)、安房里見降伏。
天正十年(1582)、甲斐武田滅亡。踵を接して織田政権崩壊と北條の上野國制圧。
自然環境条件は依然厳しいが、
軍政上はもはや関東制覇に障碍無し--であるかに見えた--との状況現出を受けて、
北條はその領国構造を戦時体制から平時体制即ち「あるべき姿」へ漸次移行せんと指向したのではないか。
巷説に謂う。
北條は関東王国を目指しながらその首府として南西僻陬の小田原に固執し続けた、
これは地政的には明らかな誤謬・失敗であり北條の保守性・退嬰性を示すものである、
--と。
この巷説は否定せざるを得ない。
江戸を特別な都市とする施策はかなり早期から漸進的に実行されてきた。
地理水文や流通に於ける「関東中央」たる江戸を軍事のみならず政治の重要拠点とすることは既定のプログラムだった。
上に見る如く江戸が「平和」「安全」な場所となることで愈々顕現したそのプログラムの行方が「両都」化=より自然な領国構造と云う地点であったことは今や疑う方が難しい。
(続) 病気だよ 北條氏は自分のレスが荒らしになってるのが分かってない
誰が読むんだろうね 一人二人はいるか (承前)
総論。
江戸なる都市は、戦争が生んだ。
それは「享徳ノ乱」なる大構造の重要構成要素として立ち上げられた。
しかし稀有の自然環境条件がこの地に与えた巨大なポテンシャルに鑑みれば、
究竟の軍事拠点などと云う位置付けは役不足も甚だしい。
太田道灌は江戸をその軛から解放せんとしたが彼に残された時間はあまりに少な過ぎた。
扇谷を経て北條が引き継いだのは道灌が遺した未完の都市建設事業だった。
関東戦国の業火が愈々燃え上がる中、
しかし北條領国の拡大と共に戦線は北へ、東へと遷って行く。
戦火から漸く遠ざかった武蔵野の涯、仮初めの平和を得た江戸で、
北條はその本来の可能性を解放し始める。
江戸なる都市が、生まれ変わろうとしていた。
後の顛末は史実に見る如くである。
北條にも残された時間は無かった。
北條から引き継いだ徳川の下で、江戸はそのポテンシャルを遺憾無く爆発させることになった。
平和なればこそのことである。
見誤ってはならないことは、
徳川が江戸に平和を齎したのではない、
徳川は北條から平和な江戸を承継したという事実である。
運命を知ってか知らずか、
徳川は説得を以て江戸城を開かせて城も町も焼くことは無かった。
(続) (承前)
「北條の江戸」が何であったかは一言では語り難い。
様々な見方もあろう。
しかし、
「江戸の北條」が何であったかは一言で語り得る。
『戦争から平和へ』。
江戸なる都市の滔々たる発展史に於いてその構造に組み込まれた「北條」なる部品の果たした画期的機能はそれに尽きる。
而して北條はその成果を見ることなく去った。
不条理かもしれない。
が、
北條を否定せず丸呑みした徳川は当時に於いて世界水準を抜く都市と統治体制を築き上げて行くことになる。
末期北條の江戸に於ける仕事は恰かもその準備に自覚的であったかの如くである。
そうでなかったとしても生物進化学に謂う所の「前適応」という作用は十二分に果たした。
北條、以て瞑すべし。
(終) このスレは妄想と願望をポエムする場所だからしゃーない。
まあポエポエするのは1人だけだけど 伊勢宗瑞と地震の関係。
先ずは対象となる三つの地震について。
【明応四(1495)年八月十五日 地震 津波】
『鎌倉大日記』『熊野年代記』等。
地震の推定M不明。津波の推定波高8m前後(鎌倉、東伊豆)。
由比ヶ浜で二百余人溺死、鎌倉大仏殿が流失したとの被害記述(実は誤読か)の残る震災。
古来著名な地震であったが1980年代に於ける文献史料批判に基づく研究によりその実在性に疑義が呈された。
近年は史料の記述は明応七年地震(後述)との混同、誤記であるとしてこの地震の存在を否定する見解が主流となるに至っていた。
しかし2010年代に入って歴史学の片桐昭彦、考古学の金子浩之、更には地震学の浦谷裕明等の各氏によって複数の学術分野から主流説に対する異論発表が相次いだ。
そこでは明応四年地震は相模トラフを震源とする関東地震(大正関東大震災等と同質)として実在した可能性が強く提起されている。
下記明応七年地震とは震源を異にすることに注意されたい。
これらの研究報告を読んだ上での私見だが、この地震の実在は肯定すべきものと考える。
(続) (承前)
【明応七(1498)年八月二十五日 地震 津波】
『塔寺八幡宮続長帳(異本塔寺長帳)』『常在寺衆年代記』『日海記』他多数。
地震の推定M8.2~8.4。津波の推定波高6~10m(焼津、西伊豆)。
歴史地震の代表格とも称すべき大震災。
東は房総から西は四国まで東海道及び南海道の広範囲に亘って死者数万人、建屋被害数万戸とも謂う厖大な被害記録を同時代史料に残す。
考古学成果からもその実在は疑いの余地無く実証されている。
南海トラフ及び駿河トラフを震源とする南海・東南海・東海連動型の巨大地震とみられる。
なおこの地震から僅か三日後の八月二十八日には駿河湾を大型台風が襲った。
大震災と暴風雨の連擊による激甚災害は当該地域のヒト社会を潰滅状態に陥れた。
(続) (承前)
【明応九(1500)年六月四日 地震】
『勝山記(妙本寺記)』『王代記』等。
地震の推定M不明。津波の記録未発見。
『勝山記』に拠れば明応七年地震以上の震動であったと謂う。
甲斐國の史料にのみ記録が残り他国就中沿岸国の史料が確認されないことから内陸の直下型地震を思わせるが上記両史料にはそれぞれ
「この年までも大地震不絶。」(勝山記)
「此年迄三年震動ス。」(王代記)
とあって明応七年地震に連動するトラフ震源の群発地震であった可能性も否定できない。
『勝山記』の前年一月二日条に見える「大地震する也」との記事も或いはこれを傍証するか。
何れにせよこの地震の実在は疑いを容れないものの、現時点ではその全貌は不明と云う他は無い。
(続) (承前)
次に、
伊勢宗瑞の小田原城接収や伊豆國全域制圧と地震との関連について。
【地震と小田原城接収】
伊勢宗瑞の小田原城接収は長享ノ乱に於ける扇谷上杉方与同勢力としての行動である。
その時期及び詳細経緯については未だ確定されず、明応四年説と明応九年説が対立している。
イ. 明応四年説
上述『鎌倉大日記』の八月条震災記事に続く九月条に「伊勢早雲攻落小田原城大森入道」との記事が見える。
震災による小田原の動揺混乱に乗じて宗瑞が攻め込んだとの理解であって、かつてはこれが学術水準に於ける定説だった。
しかし地震の実在性が疑われる中で四年説の前提が揺らぐ。
更に山内上杉顕定書状の解読から、
・明応五(1496)年七月時点で小田原城は扇谷上杉方の拠点であり城主はなお大森氏だった
・扇谷方勢力として長尾景春入道意玄及び伊勢弥次郎盛興(盛時弟)が援軍に入っていた
等を黒田基樹氏が指摘するに及んで四年説は殆ど否定された。
その後、地震自体の実在性が上述の如く強力な再評価を受ける中で四年説も再浮上しつつある(片桐氏、金子氏等)。
一定の説得力を有する仮説ではあるが、上記の山内文書との矛盾や当時同じ扇谷方に属した大森氏を宗瑞が攻めることの不自然さなどの課題に対して十分な解決を提供するには至っていない。
(続) (承前)
ロ. 明応九年説
四年説同様、震災を奇貨として小田原城接収が為されたと云う理解であるが、その契機は明応九年地震だったとする。
四年説を否定した黒田氏は、史料に依拠する限りその時期は「上記明応五年七月から文亀元(1501)年三月(宗瑞の小田原掌握を明示する文書の初見)までの間の何時かとするしかない」として断定を避けた。
近年になって盛本昌弘氏は寺社棟札の研究から本件が明応九年地震の直後であったとの仮説を提起、黒田氏もこれを支持する。
上記文亀元年との時間的近接、宗瑞の伊豆制圧完遂(明応七[1498]年)との前後関係、そして五年七月に小田原城大森氏が山内方に転じたこととの連関性等から見て九年説の蓋然性は極めて高い。
但し九年説にも四年説の根拠たる『鎌倉大日記』の記事との矛盾を単に誤記として切り捨てるだけで十分な説明を為し得ていない、四年地震自体の「復活」には沈黙する、等の危うさや強引さは残る。
(続) (承前)
【地震と伊豆制圧戦争】
「幕府-扇谷上杉-今川-伊勢」対「堀越足利-山内上杉-武田」の対立構図による足掛け六年間に及ぶ戦争である。
将軍足利義澄の堀越足利茶々丸(=母と弟の仇)に対する復仇戦、幕府の関東直属拠点(堀越御所)回復運動、及び長享ノ乱の三つの要素が重層構造を成している。
明応二(1493)年伊勢宗瑞の侵攻に始まって同七(1498)年足利茶々丸の自害及び狩野道一の滅亡を以て終結した。
戦争期間中に明応四年震災と同七年震災及び台風を経験、当然ながら戦争の転機や帰趨は大規模自然災害によって不可抗的に規定されたものと考えられる。
但し災害と戦争との具体的な相関経過については上述の小田原城接収時期とも絡んで議論の対立がある。
(続) (承前)
イ. 明応四年地震と戦局
伊勢宗瑞の侵攻以来二年間一進一退だった戦局はこの年、足利茶々丸が伊豆國から没落して大島に渡るという大転機を迎えた。
以下、明応四年地震実在の立場を取る片桐氏、金子氏等の仮説を踏まえて概観する。
四年地震が実在したとすると、考古学成果から茶々丸勢力圏(堀越~東伊豆)は甚大な震災被害を受けたと認められる。
茶々丸没落が震災前後何れのことかは不明であるが、後であったとすれば物理的に戦線維持が不可能になった結果と推測できる。
一方、当時宗瑞の軍勢は伊豆北西部又は駿東地域に在ったとみられる。
上述の如く四年地震が相模トラフ震源の関東地震であったならば宗瑞方の被害が相対的に小さかった蓋然性を十分に想定し得る。
これによって宗瑞が震災直後段階に於ける軍事的優位を確立し得たと考えると、一見唐突に思える戦局転換も納得が行く。
また、同年九月の小田原進出を肯定する場合にも茶々丸没落による伊豆戦線小康化を前提とすることで整合的な理解が可能になるように思われる。
(続) (承前)
ロ. 明応五年及び六年の戦局
明応四年に一旦は伊勢宗瑞方優位が確立した伊豆戦線であるが、翌五年から六年にかけて足利茶々丸方が反転攻勢に出た。
大島亡命後程無く本土帰還を果たした茶々丸は武蔵國(山内顕定)や甲斐國(武田信縄)に仮寓しつつ彼等の支援を受けて北方から伊豆を窺う一方、伊豆國内に残る与同勢力とも連動して反撃を展開する。
五年七月には小田原城大森氏が山内上杉方に服属、「西郡一変」と云われる状況が現出する。
これを受けて翌六年になると茶々丸勢は駿河御厨地域まで進出、呼応して伊豆の旧臣狩野道一も攻撃を激化させる。
宗瑞方は一転して劣勢を余儀無くされて拠点死守が精一杯という状態に追い込まれた。
帰趨不明の激戦が続くその足下の地下深く、破局へのカウントダウンが進んでいたことを、伊勢宗瑞にせよ足利茶々丸にせよ神ならぬ人の身にして知る由も無かった。
(続) (承前)
ハ. 明応七年地震と戦局~足利茶々丸の滅亡
明応六年は足利茶々丸方優位の裡に推移したが、翌七年に戦局は再び大転換、伊豆戦線は同年の内に伊勢宗瑞方の勝利で最終決着を見る。
この転換の直接契機が茶々丸の滅亡であったことは疑いを容れない。
その時期は『王代記』に拠れば正に大震災と台風の明応七年八月であったと謂うが、震災が茶々丸滅亡を如何にして決定付けたかについては研究者の間でも意見の分かれる所である。
かつては宗瑞方が震災後の大混乱に乗じて茶々丸を追い詰めたとする見解が主流であった。
決戦の機会を虎視眈々と狙っていた宗瑞が震災後間髪を容れず一気に総力を投入して反転攻勢を掛けたと云う。
後述の異説によってやや後退したものの、金子氏等は今もこの立場を維持している。
(続) (承前)
これに対して家永遵嗣氏は大地震、津波とこれに追い討ちを掛けた台風の壊滅的災害下では大規模軍事行動やその準備作業は物理的にも時間的にも不可能であると指摘する。
黒田氏等は家永氏の指摘を肯定した上で、伊豆七島の津波記録の解析から宗瑞方が伊豆國全域に於いて再び優位を確立したのは震災以前だったとして金子氏等と見解を異にしている。
この前提に立って震災の茶々丸滅亡決定過程については甲斐國武田信縄の動向を重視する。
ここまで茶々丸を擁して伊豆戦線に激しく干渉してきた信縄は、震災と時期を同じくして殆ど唐突に今川/伊勢と和睦を遂げている。
甲斐國に於いても激甚であった震災被害下、内訌をも抱える信縄が多方面戦争体制を維持し得なくなって和睦に踏み切った蓋然性は高い。
和睦に際して一つの「落とし前」として茶々丸の身柄或いは首級を差し出した、謂わば茶々丸は武田権力体に捨てられた--のではないか。
黒田氏は慎重な云い回しで断定を避けつつこういう経緯を想定している。
大震災が伊豆國を巡る大規模軍事行動を誘発したのか停止を強要したのか。
金子説(従来説)と黒田説の対立の本質はこれに集約されると云える。
(続) (承前)
ニ. 明応七年地震と戦局~伊豆戦争の終焉
足利茶々丸滅亡後も伊豆國内の残党の抵抗は稍々続いたが、最早それは伊勢宗瑞方にとって大きな障碍とはなり得なかったとみられる。
伊豆戦争は明応七年の内に淡々と収束に向かった模様である。
その最終過程について金子氏等は、震災で弱体化、孤立化した小勢力群を宗瑞方が各個撃破で殲滅掃討したと想定している。
一方黒田氏等は、物理施設のみならず統治機構も社会関係も潰滅した村々、浦々にむしろ粛々と進駐接収したと云う方が事実に近いと見ているようだ。
ここに於いても大災害が軍事行動を促進したか停止したかについての見解の相違がある。
何れにせよ、狩野道一の滅亡を以て伊豆戦争は終焉を迎える。
足掛け六年にも亘る戦争は劇的な決戦による終幕なども無いままに、自然の猛威が去った後の荒涼たる景色の中へとフェイドアウトして行った。
大震災が戦争という構造そのものを根こそぎ破壊し尽くした−−と云うべきか。
(続) (承前)
しかし真に重要な政治過程は戦後にこそ在った。
新たに伊豆國の為政者となった伊勢宗瑞の権力体が全力で取り組まなければならなかった課題、即ち荒廃を極める村々、浦々の救難再建活動である。
『北條五代記』など軍記群に見える「風病」救済活動によって民心を得たとの説話、それも含めた所謂「百姓憐愍」の北條善政伝説の核事実はこの辺りに在るのだろうが、史実に照らしてもこの政治過程には具体的な意義を認め得る。
宗瑞にしてみれば早急に領国を再建しなければ権力体の存立もあり得ないわけで、しかも旧来の統治機構が完全に崩壊した状況下では否応無く村々と伊勢権力体が直接向き合わざるを得なかった。
非常時活動である救難は勿論、権力体の本来機能である徴税や賦役に関しても現場の破滅的現実を真摯に受け止めた上で行うことが不可避だった。
ここに伊勢宗瑞の枕詞とも云うべき「村の直轄統治」「村との直接対話」が萌芽したものと考えられる。
室町幕府の統治秩序に対するアンチテーゼ、即ち「戦国大名」の定義に他ならないこの政策を、宗瑞が何処までそれと意識していたのかは分からない。
しかし伊豆國からやがて相模國へと展開されるこの統治原理は、伊勢宗瑞を正に戦国大名の魁にして典型として位置付けることになる。
そして震災が生み出した−−むしろ強要した−−それは宗瑞のみならず北條五代をもその終焉に至るまで規定していく。
(続) (承前)
【私見による補遺その一 小田原城はいつ落ちたのか】
既述の如く伊勢宗瑞の小田原城接収については明応四(1495)年説と同九(1500)年説が対立している。
双方とも強力な根拠がありつつも、対立説を否定するに於いては些か強引さ、粗雑さ、危うさを残す。
議論の基本ルールとして、己の仮説に対する反証が一例でも為された時は一旦自説を捨てて全てを包括説明し得る新仮説を模索しなければならない。
それが所謂「弁証法」−−正・反・合−−による対立の止揚と知見の進化ということではないのか。
素人が碩学諸賢を批判するのは恐縮だが、この意味に於いて本件に関する対立は稍々冷静さを欠くように思う。
四年説にも九年説にも相応の史料や考古学成果が根拠として存在する以上、共に史実であると小生は考える。
小田原城が無二の要衝であるからには何回争奪があっても不思議は無い。
(続) (承前)
明応三年、扇谷上杉方の重鎮たる小田原大森氏頼が世を去る。
家督相続を巡って大森家中に内訌が生じたとの所伝は一次史料の裏付けを欠くが、戦国の世にあってはむしろ尋常のこととしてその蓋然性を認めてもいいのではないか。
そして有力氏族の内訌が上位権力体の対立構造を引き入れるのも享徳ノ乱や応仁ノ乱等々に飽きるほど見える図式だ。
大森家中も御約束の如く扇谷派と山内派に割れつつあるところ、これを察知した扇谷定正が機先を制して当該方面の与同勢力たる伊勢宗瑞を動員、山内派を駆逐したものと考えられる。
それを可能にしたのは既述の通り「関東地震である四年震災の被害の偏差」であったろうし、或いは大森氏内訌の顕在化自体が震災の混乱によるものだったかもしれない。
黒田氏等は四年地震非実在説を基にこの件を否定するが、
『理科年表』が2023年版から四年地震を記載するなど理工学系の知見からその実在が再肯定される中、
自説を維持するならば新たな論拠を提示する必要があろう。
明応五年の山内上杉顕定勢による小田原城攻略と扇谷派の没落、そして大森氏の山内方への降伏転属には争う余地は無い。
片桐氏等は顕定書状にある「要害」は小田原城のことではないと論じているが、ここは「西郡一変」をもたらすほどの要害は同城以外に考えられないとする黒田氏等の見方を強く支持したい。
(続) (承前)
明応九年、盛本氏等によれば伊勢宗瑞は小田原城を接収して大森氏を排除した。
同五年の山内上杉による同城奪取及び文亀元(1501)年以後の宗瑞即ち扇谷上杉による小田原領支配が共に事実である以上、その間の何時かの時点で接収があったことは自明である。
政治的見地からしても扇谷がその本拠相模國の最奥部に於ける山内の拠点の存在継続を許容することはあり得ない。
扇谷にとってその奪還は極めて優先度の高い政治課題であったろう。
その為にまたしても動員された伊勢が見事に目的を果たしたわけだが、今回の背景として既に伊豆制圧を終えていたことも見逃せない。
しかしそれ以上に重要なのは三度襲来した大地震だった。
現時点では明応九年地震は関東地震であったとの見方が有力で、これを肯定するならば同四年の事例同様、宗瑞方と小田原方に生じた被害の偏差が軍事行動の促進及びその結果を規定したと考えられる。
或いは伊豆戦争の終幕の如く抵抗力を喪失した敵城を粛々と接収したことも想定し得る。
但し史料が九年地震について七年地震以来断続した地震群の一つ、即ち東海地震である可能性を示唆していることには注意を要する。
この場合、被害の偏差は生じ難いかむしろ逆であることさえあり得る。
今のところは留保が必要とするしかない。
何れにせよ、小田原城の攻防は伊勢宗瑞乾坤一擲の勝負などではなくて、より大きな戦争構造の中での要衝争奪だった。
それは少なくとも足掛け六年間の経緯の果てに明応九年を以て決着した。
その意味では「ありがちな」事例と云えるが、しかし稀に見る大震災の頻発に終始規定され尽くしたという点に於いて特筆すべきものであった。
(続) (承前)
【私見による補遺その二 それは伊勢宗瑞の戦争だったのか】
伊勢盛時(当時は出家前)の伊豆侵攻が「明応の政変」と連動したもの、即ち足利義澄及び細川政元の意志によるものであったことは既に広く認知されている。
と同時に、義澄、政元、盛時等が好むと好まざるとに関わらず、山内上杉の管国たる伊豆に扇谷上杉の支援を得て侵攻した瞬間それは「長享ノ乱」の大構造に組み込まれることでもあった。
結果論ではあるが初動に於いて取り逃がした足利茶々丸が山内や武田と連携するに至って伊豆戦争はいよいよ「長享ノ乱」の一要素と化していく。
そこには「茶々丸個人の討滅」から「伊豆國全域制圧、確保」へ--という戦争目的の変質が認められる。
当然ながら、盛時の主体意志など微塵も存在しない。
軍記等の呪縛から逃れ切っていない我々素人は勿論、研究者の間にさえ伊豆戦争と小田原城接収を分けて、或いは段階過程として考える傾向が今なお根強い。
しかし既述の如く、事実を再構成してみれば両者は一体不可分のものとして進行したのであって「長享ノ乱・西南戦線」としか云いようのないことが解る。
そこに於ける伊勢宗瑞(伊豆侵攻前後に出家)勢は終始一貫して「扇谷上杉方・伊豆箱根方面軍」として使役--むしろ酷使--され続けただけだった。
扇谷定正/朝良は宗瑞を与同勢力と云うよりも完全に麾下の一部将と思っていたかもしれない。
しかもその間、宗瑞は今川氏親の部下として参遠戦線にも幾度となく駆り出されている。
正にブラックを極める労働状態、よくぞ過労死しなかったものだと嘆息の他は無い。
(続) (承前)
どう見ても巻き込まれただけ、右往左往しただけ、酷使されただけの殺人的労働によって維持し続けた戦線の、その経過や帰趨さえ宗瑞の意志によって規定されることはなかった。
宗瑞はおろか如何なるヒトの意志や存在も「無」とする巨大自然災害の非常識なまでの連続がそれを不可抗的に規定した。
「戦争」なるヒトの矮小な営為を嗤うが如く、地震が津波が台風が敵も味方も瓦礫の海に沈めた。
壊滅的破壊に叩きのめされて、それでも宗瑞が何とか立ち上がれたのは殆ど偶然の幸運に恵まれた結果でしかない。
そしてフラフラと瓦礫の上に立った宗瑞が四囲を見回した時、意外にも立っているのは己独りだった--。
乱暴に総括すればそれが真実だろう。
それは「伊勢宗瑞の戦争」ではなかった。
少なくとも小田原領有の時点では、それは伊勢宗瑞の戦争ではなかった。
そう結論せざるを得ない。
他者の意志と大自然に翻弄され続けただけの日々が後付けの意味を付与されて北條五代草創神話と化すのは北條氏綱以後の事蹟から遡及した結果であって、
それは最早伊勢宗瑞の意志とは別の範疇に属する事になる。
(終) 名前付ければ?
読みたい人はまとめて読めて幸せ、読みたくない人はNG設定出来て幸せ 文章が下手過ぎだろ
不必要な単語や 言い回しが多くて読みづらい 一、八甫迄上船者商船及卅艘之由申、其直ニ彼船も上候条、別ニ咎無之候之条、早々可被戻候。
一、八甫之儀者当知行ニ候、然者無体ニ他之船可通子細ニ無之候、今迄
此穿鑿為如何不被申候、向後者一改可申付候、誰賦船通共改而可承候。
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>>559に云う商船政策を通達した北條氏照書状の抜粋。
これを改めてしげしげと眺めて今更気付いたことがあったので、
面白いから蛸壺系片言隻句ヲタクの皆様に付き合って近視眼的に重箱の隅を突っついてみる。
なお、四百五十年前の文書とは云え猿でも読めるほど解り易いから現代語訳は割愛する。
問題は第一項。
「早々可被戻」の対象は八甫に滞留する「卅艘」(以後、甲と称す)であると誰もが何となく理解して流してしまう所だし、
所謂専門家の諸碩学もその如く解釈している。
小生も無批判にそう読んでいた。
が、
実は純文法的に見るとこの解釈を絶対化できる文言は一つも無い。
対象は「其直ニ」「上候」所の「彼船」(以後、乙と称す)であると読んで読めないことはないのである。
だとすると何が云えるか。
何れの読みを採るかによって北條氏照権力体の政治的志向がガラッと違って見えると云う、
まあ、そんな与太噺になる。
(続) (承前)
通説に従って甲と読んだ場合、
氏照権力体の意志は「八甫湊をどんどん回転させろ。用の済んだ船はサッサと帰ってもらって湊を空けろ。」ということになる。
通商の空間的/時間的効率を最大化しろ、と。
他方、乙を採る場合、
既に八甫湊を利用して定着した「卅艘」を優先して
後からワラワラと押し掛ける有象無象の「彼船」は仮令彼等に瑕疵が無くとも追い返せということになる。
既得権益者を優遇しろ、と。
極めて乱暴に纏めると氏照権力体の志向は;
・甲なら自由主義的
・乙なら統制主義(国家社会主義)的
であると云える。
何れか迷う中で重箱或いは蛸壺に足を突っ込んでしまったのは第二項との整合性が気になったからだ。
第二項は誰がどう見ても強面の統制主義としか読めない。
となると、
これは意外と乙も有るのかと思ってしまう所だろう。
(続) (承前)
正解は、知らない。
それこそ専門家ならぬ素人には何れか判じ難い。
但し、
北條の領国統治理念は周知の如くであるし、
農地管理以外にも山林資源、薪炭生産、船番匠などの管理に官製ギルドを導入していた実績に鑑みて乙を採っても荒唐無稽とまでは云えないのではないか。
そもそも北條の本質が「戦国大名」即ち戦時行政府であってみれば、
政策は本能的に統制主義へと向かって不思議は無い。
里見降伏と関宿開城を経て一気に放恣の度を強める民間と統制の手綱を緩めたくない行政府と、
何時の世にもある鬩ぎ合いの一幕と見るのも一興ではあるだろう。
(続) (承前)
なお附言する。
甲乙何れであっても>>559の拙論旨に些かの影響も無い。
仮初めとは云え--それが仮初めであることを誰が知ろうか--「平和」の到来を触媒として
急激に運動エネルギーへと変換されて行く在地のポテンシャルエネルギーの総量規模と変換速度、
拙論の刮目する所はそこに在るからだ。
些末な文言解釈が甲であれ乙であれ、
八甫湊をオーバーフローさせつつある何者かの巨大さと暴走性は変わらない。
実はそれこそがこの氏照書状の発行と云う事案の「構造」そのものでもある。
(終)