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【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】
0567人間七七四年
垢版 |
2024/03/17(日) 17:29:10.02ID:ojvSK78y
(承前)
 
天正二年(1574)、北條の関宿接収。そして越後上杉の関東全面撤退。
天正五年(1577)、安房里見降伏。
天正十年(1582)、甲斐武田滅亡。踵を接して織田政権崩壊と北條の上野國制圧。
自然環境条件は依然厳しいが、
軍政上はもはや関東制覇に障碍無し--であるかに見えた--との状況現出を受けて、
北條はその領国構造を戦時体制から平時体制即ち「あるべき姿」へ漸次移行せんと指向したのではないか。
 
巷説に謂う。
北條は関東王国を目指しながらその首府として南西僻陬の小田原に固執し続けた、
これは地政的には明らかな誤謬・失敗であり北條の保守性・退嬰性を示すものである、
--と。
 
この巷説は否定せざるを得ない。
江戸を特別な都市とする施策はかなり早期から漸進的に実行されてきた。
地理水文や流通に於ける「関東中央」たる江戸を軍事のみならず政治の重要拠点とすることは既定のプログラムだった。
上に見る如く江戸が「平和」「安全」な場所となることで愈々顕現したそのプログラムの行方が「両都」化=より自然な領国構造と云う地点であったことは今や疑う方が難しい。
 
(続)
0569人間七七四年
垢版 |
2024/03/18(月) 08:24:14.47ID:qVLNSsgV
病気だよ 北條氏は自分のレスが荒らしになってるのが分かってない
誰が読むんだろうね 一人二人はいるか
0570人間七七四年
垢版 |
2024/03/20(水) 01:10:35.67ID:G+TaBu7l
(承前)
 
総論。
 
江戸なる都市は、戦争が生んだ。

それは「享徳ノ乱」なる大構造の重要構成要素として立ち上げられた。
しかし稀有の自然環境条件がこの地に与えた巨大なポテンシャルに鑑みれば、
究竟の軍事拠点などと云う位置付けは役不足も甚だしい。
太田道灌は江戸をその軛から解放せんとしたが彼に残された時間はあまりに少な過ぎた。
 
扇谷を経て北條が引き継いだのは道灌が遺した未完の都市建設事業だった。
関東戦国の業火が愈々燃え上がる中、
しかし北條領国の拡大と共に戦線は北へ、東へと遷って行く。
戦火から漸く遠ざかった武蔵野の涯、仮初めの平和を得た江戸で、
北條はその本来の可能性を解放し始める。
 
江戸なる都市が、生まれ変わろうとしていた。
 
後の顛末は史実に見る如くである。
北條にも残された時間は無かった。
北條から引き継いだ徳川の下で、江戸はそのポテンシャルを遺憾無く爆発させることになった。
平和なればこそのことである。
見誤ってはならないことは、
徳川が江戸に平和を齎したのではない、
徳川は北條から平和な江戸を承継したという事実である。
運命を知ってか知らずか、
徳川は説得を以て江戸城を開かせて城も町も焼くことは無かった。
 
(続)
0571人間七七四年
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2024/03/20(水) 01:12:17.00ID:G+TaBu7l
(承前)
 
「北條の江戸」が何であったかは一言では語り難い。
様々な見方もあろう。
しかし、
「江戸の北條」が何であったかは一言で語り得る。
 
『戦争から平和へ』。
 
江戸なる都市の滔々たる発展史に於いてその構造に組み込まれた「北條」なる部品の果たした画期的機能はそれに尽きる。
而して北條はその成果を見ることなく去った。
不条理かもしれない。
が、
北條を否定せず丸呑みした徳川は当時に於いて世界水準を抜く都市と統治体制を築き上げて行くことになる。
末期北條の江戸に於ける仕事は恰かもその準備に自覚的であったかの如くである。
そうでなかったとしても生物進化学に謂う所の「前適応」という作用は十二分に果たした。
 
北條、以て瞑すべし。
 
(終)
0573人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 19:07:11.81ID:nYQMlBqg
このスレは妄想と願望をポエムする場所だからしゃーない。
まあポエポエするのは1人だけだけど
0574人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 19:54:18.57ID:5UtGHkGa
伊勢宗瑞と地震の関係。
先ずは対象となる三つの地震について。
 
【明応四(1495)年八月十五日 地震 津波】
『鎌倉大日記』『熊野年代記』等。
地震の推定M不明。津波の推定波高8m前後(鎌倉、東伊豆)。
由比ヶ浜で二百余人溺死、鎌倉大仏殿が流失したとの被害記述(実は誤読か)の残る震災。
古来著名な地震であったが1980年代に於ける文献史料批判に基づく研究によりその実在性に疑義が呈された。
近年は史料の記述は明応七年地震(後述)との混同、誤記であるとしてこの地震の存在を否定する見解が主流となるに至っていた。
しかし2010年代に入って歴史学の片桐昭彦、考古学の金子浩之、更には地震学の浦谷裕明等の各氏によって複数の学術分野から主流説に対する異論発表が相次いだ。
そこでは明応四年地震は相模トラフを震源とする関東地震(大正関東大震災等と同質)として実在した可能性が強く提起されている。
下記明応七年地震とは震源を異にすることに注意されたい。
これらの研究報告を読んだ上での私見だが、この地震の実在は肯定すべきものと考える。
 
(続)
0575人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 19:56:06.95ID:5UtGHkGa
(承前)
 
【明応七(1498)年八月二十五日 地震 津波】
『塔寺八幡宮続長帳(異本塔寺長帳)』『常在寺衆年代記』『日海記』他多数。
地震の推定M8.2~8.4。津波の推定波高6~10m(焼津、西伊豆)。
歴史地震の代表格とも称すべき大震災。
東は房総から西は四国まで東海道及び南海道の広範囲に亘って死者数万人、建屋被害数万戸とも謂う厖大な被害記録を同時代史料に残す。
考古学成果からもその実在は疑いの余地無く実証されている。
南海トラフ及び駿河トラフを震源とする南海・東南海・東海連動型の巨大地震とみられる。
なおこの地震から僅か三日後の八月二十八日には駿河湾を大型台風が襲った。
大震災と暴風雨の連擊による激甚災害は当該地域のヒト社会を潰滅状態に陥れた。
 
(続)
0576人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 19:57:49.94ID:5UtGHkGa
(承前)
 
【明応九(1500)年六月四日 地震】
『勝山記(妙本寺記)』『王代記』等。
地震の推定M不明。津波の記録未発見。
『勝山記』に拠れば明応七年地震以上の震動であったと謂う。
甲斐國の史料にのみ記録が残り他国就中沿岸国の史料が確認されないことから内陸の直下型地震を思わせるが上記両史料にはそれぞれ
「この年までも大地震不絶。」(勝山記)
「此年迄三年震動ス。」(王代記)
とあって明応七年地震に連動するトラフ震源の群発地震であった可能性も否定できない。
『勝山記』の前年一月二日条に見える「大地震する也」との記事も或いはこれを傍証するか。
何れにせよこの地震の実在は疑いを容れないものの、現時点ではその全貌は不明と云う他は無い。
 
(続)
0577人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:01:33.87ID:5UtGHkGa
(承前)
 
次に、
伊勢宗瑞の小田原城接収や伊豆國全域制圧と地震との関連について。
 
【地震と小田原城接収】
伊勢宗瑞の小田原城接収は長享ノ乱に於ける扇谷上杉方与同勢力としての行動である。
その時期及び詳細経緯については未だ確定されず、明応四年説と明応九年説が対立している。

イ. 明応四年説
上述『鎌倉大日記』の八月条震災記事に続く九月条に「伊勢早雲攻落小田原城大森入道」との記事が見える。
震災による小田原の動揺混乱に乗じて宗瑞が攻め込んだとの理解であって、かつてはこれが学術水準に於ける定説だった。
しかし地震の実在性が疑われる中で四年説の前提が揺らぐ。
更に山内上杉顕定書状の解読から、
 ・明応五(1496)年七月時点で小田原城は扇谷上杉方の拠点であり城主はなお大森氏だった
 ・扇谷方勢力として長尾景春入道意玄及び伊勢弥次郎盛興(盛時弟)が援軍に入っていた
等を黒田基樹氏が指摘するに及んで四年説は殆ど否定された。
その後、地震自体の実在性が上述の如く強力な再評価を受ける中で四年説も再浮上しつつある(片桐氏、金子氏等)。
一定の説得力を有する仮説ではあるが、上記の山内文書との矛盾や当時同じ扇谷方に属した大森氏を宗瑞が攻めることの不自然さなどの課題に対して十分な解決を提供するには至っていない。

(続)
0578人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:02:58.90ID:5UtGHkGa
(承前)

ロ. 明応九年説
四年説同様、震災を奇貨として小田原城接収が為されたと云う理解であるが、その契機は明応九年地震だったとする。
四年説を否定した黒田氏は、史料に依拠する限りその時期は「上記明応五年七月から文亀元(1501)年三月(宗瑞の小田原掌握を明示する文書の初見)までの間の何時かとするしかない」として断定を避けた。
近年になって盛本昌弘氏は寺社棟札の研究から本件が明応九年地震の直後であったとの仮説を提起、黒田氏もこれを支持する。
上記文亀元年との時間的近接、宗瑞の伊豆制圧完遂(明応七[1498]年)との前後関係、そして五年七月に小田原城大森氏が山内方に転じたこととの連関性等から見て九年説の蓋然性は極めて高い。
但し九年説にも四年説の根拠たる『鎌倉大日記』の記事との矛盾を単に誤記として切り捨てるだけで十分な説明を為し得ていない、四年地震自体の「復活」には沈黙する、等の危うさや強引さは残る。

(続)
0579人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:05:16.37ID:5UtGHkGa
(承前)
 
【地震と伊豆制圧戦争】
「幕府-扇谷上杉-今川-伊勢」対「堀越足利-山内上杉-武田」の対立構図による足掛け六年間に及ぶ戦争である。
将軍足利義澄の堀越足利茶々丸(=母と弟の仇)に対する復仇戦、幕府の関東直属拠点(堀越御所)回復運動、及び長享ノ乱の三つの要素が重層構造を成している。
明応二(1493)年伊勢宗瑞の侵攻に始まって同七(1498)年足利茶々丸の自害及び狩野道一の滅亡を以て終結した。
戦争期間中に明応四年震災と同七年震災及び台風を経験、当然ながら戦争の転機や帰趨は大規模自然災害によって不可抗的に規定されたものと考えられる。
但し災害と戦争との具体的な相関経過については上述の小田原城接収時期とも絡んで議論の対立がある。

(続)
0580人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:06:29.36ID:5UtGHkGa
(承前)

イ. 明応四年地震と戦局
伊勢宗瑞の侵攻以来二年間一進一退だった戦局はこの年、足利茶々丸が伊豆國から没落して大島に渡るという大転機を迎えた。
以下、明応四年地震実在の立場を取る片桐氏、金子氏等の仮説を踏まえて概観する。
四年地震が実在したとすると、考古学成果から茶々丸勢力圏(堀越~東伊豆)は甚大な震災被害を受けたと認められる。
茶々丸没落が震災前後何れのことかは不明であるが、後であったとすれば物理的に戦線維持が不可能になった結果と推測できる。
一方、当時宗瑞の軍勢は伊豆北西部又は駿東地域に在ったとみられる。
上述の如く四年地震が相模トラフ震源の関東地震であったならば宗瑞方の被害が相対的に小さかった蓋然性を十分に想定し得る。
これによって宗瑞が震災直後段階に於ける軍事的優位を確立し得たと考えると、一見唐突に思える戦局転換も納得が行く。
また、同年九月の小田原進出を肯定する場合にも茶々丸没落による伊豆戦線小康化を前提とすることで整合的な理解が可能になるように思われる。

(続)
0581人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:07:09.64ID:5UtGHkGa
(承前)

ロ. 明応五年及び六年の戦局
明応四年に一旦は伊勢宗瑞方優位が確立した伊豆戦線であるが、翌五年から六年にかけて足利茶々丸方が反転攻勢に出た。
大島亡命後程無く本土帰還を果たした茶々丸は武蔵國(山内顕定)や甲斐國(武田信縄)に仮寓しつつ彼等の支援を受けて北方から伊豆を窺う一方、伊豆國内に残る与同勢力とも連動して反撃を展開する。
五年七月には小田原城大森氏が山内上杉方に服属、「西郡一変」と云われる状況が現出する。
これを受けて翌六年になると茶々丸勢は駿河御厨地域まで進出、呼応して伊豆の旧臣狩野道一も攻撃を激化させる。
宗瑞方は一転して劣勢を余儀無くされて拠点死守が精一杯という状態に追い込まれた。
帰趨不明の激戦が続くその足下の地下深く、破局へのカウントダウンが進んでいたことを、伊勢宗瑞にせよ足利茶々丸にせよ神ならぬ人の身にして知る由も無かった。

(続)
0582人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:08:52.37ID:5UtGHkGa
(承前)
 
ハ. 明応七年地震と戦局~足利茶々丸の滅亡
明応六年は足利茶々丸方優位の裡に推移したが、翌七年に戦局は再び大転換、伊豆戦線は同年の内に伊勢宗瑞方の勝利で最終決着を見る。
この転換の直接契機が茶々丸の滅亡であったことは疑いを容れない。
その時期は『王代記』に拠れば正に大震災と台風の明応七年八月であったと謂うが、震災が茶々丸滅亡を如何にして決定付けたかについては研究者の間でも意見の分かれる所である。
かつては宗瑞方が震災後の大混乱に乗じて茶々丸を追い詰めたとする見解が主流であった。
決戦の機会を虎視眈々と狙っていた宗瑞が震災後間髪を容れず一気に総力を投入して反転攻勢を掛けたと云う。
後述の異説によってやや後退したものの、金子氏等は今もこの立場を維持している。

(続)
0583人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:10:50.13ID:5UtGHkGa
(承前)

これに対して家永遵嗣氏は大地震、津波とこれに追い討ちを掛けた台風の壊滅的災害下では大規模軍事行動やその準備作業は物理的にも時間的にも不可能であると指摘する。
黒田氏等は家永氏の指摘を肯定した上で、伊豆七島の津波記録の解析から宗瑞方が伊豆國全域に於いて再び優位を確立したのは震災以前だったとして金子氏等と見解を異にしている。
この前提に立って震災の茶々丸滅亡決定過程については甲斐國武田信縄の動向を重視する。
ここまで茶々丸を擁して伊豆戦線に激しく干渉してきた信縄は、震災と時期を同じくして殆ど唐突に今川/伊勢と和睦を遂げている。
甲斐國に於いても激甚であった震災被害下、内訌をも抱える信縄が多方面戦争体制を維持し得なくなって和睦に踏み切った蓋然性は高い。
和睦に際して一つの「落とし前」として茶々丸の身柄或いは首級を差し出した、謂わば茶々丸は武田権力体に捨てられた--のではないか。
黒田氏は慎重な云い回しで断定を避けつつこういう経緯を想定している。
大震災が伊豆國を巡る大規模軍事行動を誘発したのか停止を強要したのか。
金子説(従来説)と黒田説の対立の本質はこれに集約されると云える。
 
(続)
0584人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:12:57.80ID:5UtGHkGa
(承前)
 
ニ. 明応七年地震と戦局~伊豆戦争の終焉
足利茶々丸滅亡後も伊豆國内の残党の抵抗は稍々続いたが、最早それは伊勢宗瑞方にとって大きな障碍とはなり得なかったとみられる。
伊豆戦争は明応七年の内に淡々と収束に向かった模様である。
その最終過程について金子氏等は、震災で弱体化、孤立化した小勢力群を宗瑞方が各個撃破で殲滅掃討したと想定している。
一方黒田氏等は、物理施設のみならず統治機構も社会関係も潰滅した村々、浦々にむしろ粛々と進駐接収したと云う方が事実に近いと見ているようだ。
ここに於いても大災害が軍事行動を促進したか停止したかについての見解の相違がある。
何れにせよ、狩野道一の滅亡を以て伊豆戦争は終焉を迎える。
足掛け六年にも亘る戦争は劇的な決戦による終幕なども無いままに、自然の猛威が去った後の荒涼たる景色の中へとフェイドアウトして行った。
大震災が戦争という構造そのものを根こそぎ破壊し尽くした−−と云うべきか。

(続)
0585人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:15:44.37ID:5UtGHkGa
(承前)

しかし真に重要な政治過程は戦後にこそ在った。
新たに伊豆國の為政者となった伊勢宗瑞の権力体が全力で取り組まなければならなかった課題、即ち荒廃を極める村々、浦々の救難再建活動である。
『北條五代記』など軍記群に見える「風病」救済活動によって民心を得たとの説話、それも含めた所謂「百姓憐愍」の北條善政伝説の核事実はこの辺りに在るのだろうが、史実に照らしてもこの政治過程には具体的な意義を認め得る。
宗瑞にしてみれば早急に領国を再建しなければ権力体の存立もあり得ないわけで、しかも旧来の統治機構が完全に崩壊した状況下では否応無く村々と伊勢権力体が直接向き合わざるを得なかった。
非常時活動である救難は勿論、権力体の本来機能である徴税や賦役に関しても現場の破滅的現実を真摯に受け止めた上で行うことが不可避だった。
ここに伊勢宗瑞の枕詞とも云うべき「村の直轄統治」「村との直接対話」が萌芽したものと考えられる。
室町幕府の統治秩序に対するアンチテーゼ、即ち「戦国大名」の定義に他ならないこの政策を、宗瑞が何処までそれと意識していたのかは分からない。
しかし伊豆國からやがて相模國へと展開されるこの統治原理は、伊勢宗瑞を正に戦国大名の魁にして典型として位置付けることになる。
そして震災が生み出した−−むしろ強要した−−それは宗瑞のみならず北條五代をもその終焉に至るまで規定していく。

(続)
0586人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:29:49.92ID:5UtGHkGa
(承前)
 
【私見による補遺その一 小田原城はいつ落ちたのか】
既述の如く伊勢宗瑞の小田原城接収については明応四(1495)年説と同九(1500)年説が対立している。
双方とも強力な根拠がありつつも、対立説を否定するに於いては些か強引さ、粗雑さ、危うさを残す。

議論の基本ルールとして、己の仮説に対する反証が一例でも為された時は一旦自説を捨てて全てを包括説明し得る新仮説を模索しなければならない。
それが所謂「弁証法」−−正・反・合−−による対立の止揚と知見の進化ということではないのか。

素人が碩学諸賢を批判するのは恐縮だが、この意味に於いて本件に関する対立は稍々冷静さを欠くように思う。
四年説にも九年説にも相応の史料や考古学成果が根拠として存在する以上、共に史実であると小生は考える。
小田原城が無二の要衝であるからには何回争奪があっても不思議は無い。

(続)
0587人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:36:29.55ID:5UtGHkGa
(承前)

明応三年、扇谷上杉方の重鎮たる小田原大森氏頼が世を去る。
家督相続を巡って大森家中に内訌が生じたとの所伝は一次史料の裏付けを欠くが、戦国の世にあってはむしろ尋常のこととしてその蓋然性を認めてもいいのではないか。
そして有力氏族の内訌が上位権力体の対立構造を引き入れるのも享徳ノ乱や応仁ノ乱等々に飽きるほど見える図式だ。
大森家中も御約束の如く扇谷派と山内派に割れつつあるところ、これを察知した扇谷定正が機先を制して当該方面の与同勢力たる伊勢宗瑞を動員、山内派を駆逐したものと考えられる。
それを可能にしたのは既述の通り「関東地震である四年震災の被害の偏差」であったろうし、或いは大森氏内訌の顕在化自体が震災の混乱によるものだったかもしれない。

黒田氏等は四年地震非実在説を基にこの件を否定するが、
『理科年表』が2023年版から四年地震を記載するなど理工学系の知見からその実在が再肯定される中、
自説を維持するならば新たな論拠を提示する必要があろう。

明応五年の山内上杉顕定勢による小田原城攻略と扇谷派の没落、そして大森氏の山内方への降伏転属には争う余地は無い。
片桐氏等は顕定書状にある「要害」は小田原城のことではないと論じているが、ここは「西郡一変」をもたらすほどの要害は同城以外に考えられないとする黒田氏等の見方を強く支持したい。

(続)
0588人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:41:09.97ID:5UtGHkGa
(承前)

明応九年、盛本氏等によれば伊勢宗瑞は小田原城を接収して大森氏を排除した。
同五年の山内上杉による同城奪取及び文亀元(1501)年以後の宗瑞即ち扇谷上杉による小田原領支配が共に事実である以上、その間の何時かの時点で接収があったことは自明である。
政治的見地からしても扇谷がその本拠相模國の最奥部に於ける山内の拠点の存在継続を許容することはあり得ない。
扇谷にとってその奪還は極めて優先度の高い政治課題であったろう。
その為にまたしても動員された伊勢が見事に目的を果たしたわけだが、今回の背景として既に伊豆制圧を終えていたことも見逃せない。

しかしそれ以上に重要なのは三度襲来した大地震だった。
現時点では明応九年地震は関東地震であったとの見方が有力で、これを肯定するならば同四年の事例同様、宗瑞方と小田原方に生じた被害の偏差が軍事行動の促進及びその結果を規定したと考えられる。
或いは伊豆戦争の終幕の如く抵抗力を喪失した敵城を粛々と接収したことも想定し得る。
但し史料が九年地震について七年地震以来断続した地震群の一つ、即ち東海地震である可能性を示唆していることには注意を要する。
この場合、被害の偏差は生じ難いかむしろ逆であることさえあり得る。
今のところは留保が必要とするしかない。

何れにせよ、小田原城の攻防は伊勢宗瑞乾坤一擲の勝負などではなくて、より大きな戦争構造の中での要衝争奪だった。
それは少なくとも足掛け六年間の経緯の果てに明応九年を以て決着した。
その意味では「ありがちな」事例と云えるが、しかし稀に見る大震災の頻発に終始規定され尽くしたという点に於いて特筆すべきものであった。

(続)
0589人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:44:48.49ID:5UtGHkGa
(承前)

【私見による補遺その二 それは伊勢宗瑞の戦争だったのか】
伊勢盛時(当時は出家前)の伊豆侵攻が「明応の政変」と連動したもの、即ち足利義澄及び細川政元の意志によるものであったことは既に広く認知されている。
と同時に、義澄、政元、盛時等が好むと好まざるとに関わらず、山内上杉の管国たる伊豆に扇谷上杉の支援を得て侵攻した瞬間それは「長享ノ乱」の大構造に組み込まれることでもあった。
結果論ではあるが初動に於いて取り逃がした足利茶々丸が山内や武田と連携するに至って伊豆戦争はいよいよ「長享ノ乱」の一要素と化していく。
そこには「茶々丸個人の討滅」から「伊豆國全域制圧、確保」へ--という戦争目的の変質が認められる。
当然ながら、盛時の主体意志など微塵も存在しない。

軍記等の呪縛から逃れ切っていない我々素人は勿論、研究者の間にさえ伊豆戦争と小田原城接収を分けて、或いは段階過程として考える傾向が今なお根強い。
しかし既述の如く、事実を再構成してみれば両者は一体不可分のものとして進行したのであって「長享ノ乱・西南戦線」としか云いようのないことが解る。
そこに於ける伊勢宗瑞(伊豆侵攻前後に出家)勢は終始一貫して「扇谷上杉方・伊豆箱根方面軍」として使役--むしろ酷使--され続けただけだった。
扇谷定正/朝良は宗瑞を与同勢力と云うよりも完全に麾下の一部将と思っていたかもしれない。

しかもその間、宗瑞は今川氏親の部下として参遠戦線にも幾度となく駆り出されている。
正にブラックを極める労働状態、よくぞ過労死しなかったものだと嘆息の他は無い。

(続)
0590人間七七四年
垢版 |
2024/03/24(日) 20:47:09.39ID:5UtGHkGa
(承前)

どう見ても巻き込まれただけ、右往左往しただけ、酷使されただけの殺人的労働によって維持し続けた戦線の、その経過や帰趨さえ宗瑞の意志によって規定されることはなかった。
宗瑞はおろか如何なるヒトの意志や存在も「無」とする巨大自然災害の非常識なまでの連続がそれを不可抗的に規定した。
「戦争」なるヒトの矮小な営為を嗤うが如く、地震が津波が台風が敵も味方も瓦礫の海に沈めた。
壊滅的破壊に叩きのめされて、それでも宗瑞が何とか立ち上がれたのは殆ど偶然の幸運に恵まれた結果でしかない。
そしてフラフラと瓦礫の上に立った宗瑞が四囲を見回した時、意外にも立っているのは己独りだった--。
乱暴に総括すればそれが真実だろう。

それは「伊勢宗瑞の戦争」ではなかった。
少なくとも小田原領有の時点では、それは伊勢宗瑞の戦争ではなかった。
そう結論せざるを得ない。

他者の意志と大自然に翻弄され続けただけの日々が後付けの意味を付与されて北條五代草創神話と化すのは北條氏綱以後の事蹟から遡及した結果であって、
それは最早伊勢宗瑞の意志とは別の範疇に属する事になる。
 
(終)
0591人間七七四年
垢版 |
2024/03/25(月) 01:00:26.73ID:fnvQbPny
名前付ければ?
読みたい人はまとめて読めて幸せ、読みたくない人はNG設定出来て幸せ
0592人間七七四年
垢版 |
2024/03/26(火) 13:42:17.61ID:Cqi56RnL
文章が下手過ぎだろ
不必要な単語や 言い回しが多くて読みづらい
0593人間七七四年
垢版 |
2024/03/28(木) 22:05:07.73ID:8UNaMSrO
一、八甫迄上船者商船及卅艘之由申、其直ニ彼船も上候条、別ニ咎無之候之条、早々可被戻候。
一、八甫之儀者当知行ニ候、然者無体ニ他之船可通子細ニ無之候、今迄
此穿鑿為如何不被申候、向後者一改可申付候、誰賦船通共改而可承候。

********************

>>559に云う商船政策を通達した北條氏照書状の抜粋。
これを改めてしげしげと眺めて今更気付いたことがあったので、
面白いから蛸壺系片言隻句ヲタクの皆様に付き合って近視眼的に重箱の隅を突っついてみる。
なお、四百五十年前の文書とは云え猿でも読めるほど解り易いから現代語訳は割愛する。
 
問題は第一項。
「早々可被戻」の対象は八甫に滞留する「卅艘」(以後、甲と称す)であると誰もが何となく理解して流してしまう所だし、
所謂専門家の諸碩学もその如く解釈している。
小生も無批判にそう読んでいた。
が、
実は純文法的に見るとこの解釈を絶対化できる文言は一つも無い。
 
対象は「其直ニ」「上候」所の「彼船」(以後、乙と称す)であると読んで読めないことはないのである。
だとすると何が云えるか。
何れの読みを採るかによって北條氏照権力体の政治的志向がガラッと違って見えると云う、
まあ、そんな与太噺になる。
 
(続)
0594人間七七四年
垢版 |
2024/03/28(木) 22:06:41.32ID:8UNaMSrO
(承前)
 
通説に従って甲と読んだ場合、
氏照権力体の意志は「八甫湊をどんどん回転させろ。用の済んだ船はサッサと帰ってもらって湊を空けろ。」ということになる。
通商の空間的/時間的効率を最大化しろ、と。
 
他方、乙を採る場合、
既に八甫湊を利用して定着した「卅艘」を優先して
後からワラワラと押し掛ける有象無象の「彼船」は仮令彼等に瑕疵が無くとも追い返せということになる。
既得権益者を優遇しろ、と。
 
極めて乱暴に纏めると氏照権力体の志向は;
 ・甲なら自由主義的
 ・乙なら統制主義(国家社会主義)的
であると云える。
 
何れか迷う中で重箱或いは蛸壺に足を突っ込んでしまったのは第二項との整合性が気になったからだ。
第二項は誰がどう見ても強面の統制主義としか読めない。
となると、
これは意外と乙も有るのかと思ってしまう所だろう。
 
(続)
0595人間七七四年
垢版 |
2024/03/28(木) 22:10:03.06ID:8UNaMSrO
(承前)
 
正解は、知らない。
それこそ専門家ならぬ素人には何れか判じ難い。
但し、
北條の領国統治理念は周知の如くであるし、
農地管理以外にも山林資源、薪炭生産、船番匠などの管理に官製ギルドを導入していた実績に鑑みて乙を採っても荒唐無稽とまでは云えないのではないか。
 
そもそも北條の本質が「戦国大名」即ち戦時行政府であってみれば、
政策は本能的に統制主義へと向かって不思議は無い。
里見降伏と関宿開城を経て一気に放恣の度を強める民間と統制の手綱を緩めたくない行政府と、
何時の世にもある鬩ぎ合いの一幕と見るのも一興ではあるだろう。
 
(続)
0596人間七七四年
垢版 |
2024/03/28(木) 22:15:36.05ID:8UNaMSrO
(承前)
 
なお附言する。
 
甲乙何れであっても>>559の拙論旨に些かの影響も無い。

仮初めとは云え--それが仮初めであることを誰が知ろうか--「平和」の到来を触媒として
急激に運動エネルギーへと変換されて行く在地のポテンシャルエネルギーの総量規模と変換速度、
拙論の刮目する所はそこに在るからだ。
 
些末な文言解釈が甲であれ乙であれ、
八甫湊をオーバーフローさせつつある何者かの巨大さと暴走性は変わらない。
実はそれこそがこの氏照書状の発行と云う事案の「構造」そのものでもある。
 
(終)
0598人間七七四年
垢版 |
2024/04/05(金) 21:02:54.83ID:ljzUjhCe
>>542

宗瑞が死ぬまで尽くした姉上(北川殿)と寿桂尼の今川女傑二代で今川の栄枯盛衰を。
0599人間七七四年
垢版 |
2024/04/05(金) 21:28:42.57ID:HWrdgS2B
大河で今川やるなら義元を渡辺謙にして適当に北条絡めとけば一年持ちそう
0600人間七七四年
垢版 |
2024/04/09(火) 12:31:48.61ID:zFdPJlw6
>>598
2017年の大河ドラマは井伊直虎ではなく、寿桂尼にでよかったのに。
0601人間七七四年
垢版 |
2024/04/09(火) 13:19:48.44ID:sFFqhVk2
阿部寛はあと今川義元と北条氏康やってくれ
0602人間七七四年
垢版 |
2024/04/10(水) 20:52:37.01ID:/dlS925D
北条氏が先進的な統治体制を持っていたのなら
何で豊臣氏に滅ぼされたのかって質問で
「旧東ドイツだって後進国のソ連に従属した」
って言われて納得できるようなできないような
0603人間七七四年
垢版 |
2024/04/10(水) 21:27:26.06ID:/9gY+YKc
>>602
質問者が「先進的」と云う黴の生えた術語を使ったのだとしたら、
そもそもそれが近代西欧啓蒙主義の虚妄に堕ちている。
 
統治構造の相対的評価は、
地域の自然環境条件や時代の社会状況に如何に上手く適応したかという指標に過ぎない。
条件や状況が変われば「優劣」など簡単に逆転する。
生物の「進化evolution」(ダーウィンはこの単語を用いたことを後悔していた)と同じことだ。
 
北條の統治権力構造は十六世紀関東の現実に最も善く適応していた。
而してそれに留まった。
羽柴「豊臣公儀」は百四十年間の戦国争乱を前提として新たに生まれた全列島規模の需要を的確に捉えた。
その為の具体的方法も有していた。
 
故に北條は羽柴に超克された。
納得するもしないもない、単純な話だ。
 
0604人間七七四年
垢版 |
2024/04/13(土) 11:17:22.53ID:S8SXKdON
茶々丸って元服できなかったの?
0605人間七七四年
垢版 |
2024/04/13(土) 13:41:45.42ID:ZjUPyyUl
>>604
不明。
堀越茶々丸についてのまともな史料記録は伊勢宗瑞来襲後の事蹟に限られる。
それらに於いても元服云々の記述は全く無い。
江戸時代の文献に実名(じつみょう)を「政綱」と伝えるが根拠不明、
現在これを採用する研究者はいない。
0606人間七七四年
垢版 |
2024/04/15(月) 06:50:55.90ID:e6KzORKC
戦国時代に小田原北条氏の勢力下にあったという小机城の歴史を伝える「小机城址(じょうし)まつり」が14日、横浜市港北区の小机城址市民の森など3会場で開かれた。
武者姿の一行によるパレードや出陣式が披露されたほか、北条氏を陰で支えたとされる「風魔忍者」が小田原から駆け付け、迫力満点の殺陣で会場を盛り上げた。
https://www.kanaloco.jp/news/life/article-1070848.html
0607人間七七四年
垢版 |
2024/04/15(月) 06:52:56.10ID:e6KzORKC
>>602
近代的な憲法を持っていたフィンランドが帝政ロシアに併合されたことがある。
0608人間七七四年
垢版 |
2024/04/15(月) 06:55:26.43ID:e6KzORKC
>>602
北条政権は強大とはいえまったくの地方政権だったので
京都を追放された足利義昭も放浪先候補として考えなかったとの説がある
0609人間七七四年
垢版 |
2024/04/15(月) 08:32:30.18ID:qd2KWxyJ
そもそも北条は足利一門を殺して西関東を乗っ取った勢力なのにそんな所に行くわけない
0610人間七七四年
垢版 |
2024/04/17(水) 21:44:38.53ID:gj7apGUE
>>609
その「足利一門」を殺せと下命したのが他ならぬ足利将軍家なんだが。
 
0611人間七七四年
垢版 |
2024/04/18(木) 01:50:45.91ID:1EnOT8+x
足利一門を傀儡にして利用してる北条の所なんか危なくて行けないよな
0612人間七七四年
垢版 |
2024/04/18(木) 09:29:04.99ID:LgwL8Rt+
官職も得ていなかったところを見るに足利将軍家との関係は良くなかったんだろうな
0613人間七七四年
垢版 |
2024/04/18(木) 21:49:47.92ID:oS/0FvQJ
北條氏綱 従五位下 左京大夫
北條氏時 左馬助
北條宗哲 駿河守
北條氏康 従五位上 左京大夫 相模守
北條氏政 従四位下 左京大夫 相模守
北條氏照 陸奥守
北條氏邦 安房守
北條氏規 従五位下 美濃守 左馬助
北條氏直 従五位下 左京大夫

むしろ公式の官位官職受領等が伝えられていないのは伊勢宗瑞だけと云う方が当たっている。
その宗瑞は幕府奉公衆。
数多いる奉公衆の中からわざわざ将軍家御指命で伊豆に派遣された。
関係が悪いと想像する材料が無い。
 
また氏康以後の宗家当主は代々相伴衆に列せられている。
これも格別の扱いと云える。
 
0614人間七七四年
垢版 |
2024/04/18(木) 22:04:05.57ID:oS/0FvQJ
公式論を云うと、
官職とは朝廷から与えられるものであって将軍家から貰うものではない。
もちろん将軍をはじめとする権力中枢と関係が良ければ何かと有利ではあるだろうが。

何れにせよ>>613に見る如く北條は朝廷とも幕府とも良好な関係を築いていたようだ。
 
0615人間七七四年
垢版 |
2024/04/19(金) 14:41:48.00ID:w4/CcQ3D
徳川の関東移封時に北条遺臣で徳川入封を反対する一揆は起こりましたか?
0617人間七七四年
垢版 |
2024/04/20(土) 16:23:50.16ID:HjKgQOMB
北条の統治は崩壊寸前だったし徳川は年貢を少なくしたから歓迎されただろうね
反発があった話も聞かないし
0619人間七七四年
垢版 |
2024/04/22(月) 14:29:26.40ID:pOX6+FFQ
北条早雲は幕府高官だったから足利将軍家との関係が悪いとは考えにくいんだが、どうだろ?
0620人間七七四年
垢版 |
2024/04/22(月) 16:52:22.97ID:K5v9BFBQ
越後上杉家臣で厩橋城主の北条高広が名前からして本物の北条かなと思ってたけど、
越後にある北条が本貫で関係ないんだね
0621人間七七四年
垢版 |
2024/04/22(月) 21:04:00.46ID:Bw1qD7DD
>>620
そもそも毛利北條高廣は「キタジョウ」であって「ホウジョウ」ではない。
北條氏政から彼に宛てた書状にわざわざ「喜多條」と表記した例もある。
 
0622人間七七四年
垢版 |
2024/04/22(月) 21:07:53.90ID:1fLYKQfv
しかし北条って源氏から権力を奪ってライバルを次々滅ぼして
ましてや室町時代なら太平記では敵役だし当時としてもイメージ良くなかったと思うけど
よく北条を名乗ろうと思ったな
0623人間七七四年
垢版 |
2024/04/22(月) 21:11:58.30ID:Bw1qD7DD
>>619
元々悪くないし、
また悪くない状態を保てるように将軍が代わりそうな情勢(義澄→義尹)になると次期候補に微妙に乗り換えるという細かい芸まで見せている。
 
0624人間七七四年
垢版 |
2024/04/22(月) 21:24:18.15ID:Bw1qD7DD
>>622
鎌倉北條は清盛流を除けば平氏の中で出世頭だったし、
最明寺入道以来の善政伝説や「天下の副将軍」の権威を纏っていた。
特に平氏の王国たる関東に於いてその存在感は絶大だったと謂う。
後世の源氏贔屓史観で当時を測ることはできない。

何よりも藤原氏(上杉)に正面から喧嘩を売る為には恰好の政治的プロパガンダだったろう。
 
0625人間七七四年
垢版 |
2024/04/22(月) 21:27:53.61ID:Bw1qD7DD
>>619
老婆心ながら。
「北条早雲」は既にフィクションの中に封印された。
史実を語るなら使うべき呼称ではない。
 
0626人間七七四年
垢版 |
2024/04/23(火) 17:07:15.50ID:cUruK38L
>>622
簒奪も成功すれば武功だからな
そういった武将は奸雄とも呼ばれ英雄視されるので悪役であっても嫌われる訳では無い
それに地生えの豪族で執権になった家だからな
関東を分国支配するには非常に都合の良い名前でもある
0627人間七七四年
垢版 |
2024/04/27(土) 15:59:51.17ID:KvC/4SbI
>>615-617
関東移封後の徳川は、地元民の反発対策に、北条体制をなるべく引き継いだからな

四公六民の税制や、農民の要望をお上に直訴できる目安箱も北条時代の物だし
0628人間七七四年
垢版 |
2024/04/27(土) 20:29:33.18ID:wr3/b9YW
>>627
北条時代は本年貢、役銭、夫役に普請と地域差が発生して重課税になってたよ
0629人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 18:40:11.21ID:0D866+bB
>>627
徳川は三河時代からの統治体制だよ
北条って起源説を唱える韓国人みたいでキモいね
0630人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 21:50:07.87ID:DE2pcz4V
>>628
特定の意図を抱いてわざと粗雑な書き方で印象操作か。
毎度々々飽きないことだ。

北條氏の天文二十一年(1552:氏康期)以降に於ける「百姓中」即ち農村を対象とした税体系について(「町人中」「職人衆」に対しては別体系)。

【事実篇】
1. 「年貢」=地方税
 直轄領は北條に、私領等は各領主に貢納する。
 検地で確定された田畠の面積に対して田一反500文又は300文、畠一反165文の基準額を掛けて機械的に算定された「村高」=基準額面税額を基本とする。
 但しこれが額面通り徴集された事例は少ない。
 村高から「引方」=免税額が差し引かれて「定納高」=実納税額が決定される。
 引方の項目は;
  ・夫役に対する反対給付分(日当)
  ・代官給料分
  ・灌漑施設等の維持費分
  ・寺社の維持費分
  ・荒地除外分
 等が含まれる。
 実例によれば結局のところ定納高は村高の65%~78%となると云う。
 また当時の壊滅的な自然環境条件による生産損失分の減免が村高の50%、時には全免となった事例もある。
 
(続)
0631人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 21:50:48.34ID:DE2pcz4V
(承前)
 
2. 「国役」=国税
 北條氏が領国内に一律に賦課する。

2-a 「役銭」
 従来様々な名目で都度徴発されていた臨時税を廃止して定額化した。
  ・反銭:田一反40文
  ・懸銭:畠貫高の6%
  ・棟別銭:屋敷地間口一間35文 但し対象となるのは特定の屋敷のみ
  ・城米銭:詳細不明
 
2-b 「夫役」
 定例の労役徴発。
 但し下記の労役に対して村高の10%が日当として北條から村へ給付される、即ち実質的な年貢控除分となる。
  ・大普請役:村高20貫文に就き一人/年10日
  ・陣夫役:村高40貫文に就き一人/一陣10~20日
 
2-c 臨時普請対応労役
 上記以外の臨時徴発。
 次年度の減税、或いは割増日当給付の対象となる。
 
総論として、
以上の如き税制が明文化/体系化されていたのが北條領国の特徴と云える。
なお、これらの構成は特異な産業構造を有する村に対しては臨機に最適化されたものの如くである。
 
(続)
0632人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 21:52:01.34ID:DE2pcz4V
(承前)
 
【解説篇】
幕藩体制下の近世大名領国の税制と北條はじめ戦国大名のそれとの決定的な相違は、
前者が完全なる上意下達であるのに対して後者が大名権力体や私領主と村との交渉に基づく契約行為であると云う一事に尽きる。
 
特に年貢村高決定の為の検地、引方決定の為の減免交渉は双方納得づくで合意・契約に至った。
北條の場合この減免交渉関係書類が多数遺されているが、
そこからは極めて細密で真摯な、時には笑ってしまうぐらい「いじましい」攻防が窺える。
その結果妥結する定納高が上述の「村高の65%~78%」であって、
これは単位耕地面積当り税額にして近世大名の85%~100%に相当するとの試算が為されている。
 
所謂「北條善政伝説」は伊豆時代即ち伊勢宗瑞期に於ける大震災直後の危機対応政策が核事実になったものと考えているが、
これに加えて北條氏康期以降に於ける上記税制の実運用、即ち村々の実状に応じた真摯で肌理細かい減免交渉対応の印象も少なからず加味されているのではなかろうか。
 
以上、
黒田基樹氏著『戦国大名』及び『百姓から見た戦国大名』に多く拠る。

(続)
0633人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 21:55:49.45ID:DE2pcz4V
(承前)

さて。
>>628に告ぐ。

小生は上記北條税制が他大名領国のそれと比較して「重い」か「軽い」かの評価を差し控えた。
容易に結論の出る問題ではないと考える故である。

一方、貴君は「重課税」と断定しながら以下の点に於いて意図的とも見える無視・歪曲を行っている。

 ・村高の22%~35%に及ぶ「引方」の存在
 ・「夫役」が実は反対給付即ち富の再分配システムであること
 ・税構成の地域差が地域毎の産業構造を反映したものであること
 
これらをどう考えるのかについて回答されたい。
なお「重課税」との主張を維持するのであれば他の戦国大名諸家の実例を示した上で「北條の重税」を 定 量 的 に 論証して頂こう。
 
(終)
0634人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 22:09:38.07ID:DE2pcz4V
>>629
徳川が「三河時代からの統治体制」を関東に於いても敷いたと云う貴見の論拠を提示されたい。
管見では徳川がどうしたか以前に、
関東従来の貫高制から近世の石高制への移行の具体的工程さえ明らかではないと認識しているが。
 
勿論徳川が北條の旧制を承継したとの根拠も軍記類以外には無い。
が、
江戸期になって編纂された『新篇武蔵風土記稿』等によれば、
当時なお多数の北條発給文書が村々に現存していた事実がある。
これは;
・村々の実統治を担う在地有力者(家)が北條期から変化していなかったこと
・上記書類が有効性を維持していたこと
等を暗示するものと多くの研究者が考えている。
これについて貴見を伺おう。
 
0635人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 22:14:06.93ID:DE2pcz4V
>>627
目安制はともかくとして、
「四公六民」というような税制は少なくとも北條領国を含む中世東国には存在しなかったものとみられる。
上記に縷々述べた如く、
北條税制は「単位耕地面積当り基準課税額」を基礎とする体系であって
「収穫高の何割」というものではなかった。
 
0636人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 23:04:41.78ID:DE2pcz4V
戦国時代板にもスレ立てスクリプト荒らしが来襲したようだ。
当スレも勢い上位とはいかず、流されて落ちるかもしれない。
スレ住人各位に於かれてはここまでのアーカイブを。
 
0638人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 23:16:06.46ID:DE2pcz4V
最近は改めて北條氏をはじめとする関東戦国大名の植林について調べたり考えたりしているage。
 
0639人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 23:28:46.97ID:M1i88Xue
変なスレだらけになってる
0640人間七七四年
垢版 |
2024/04/28(日) 23:57:58.11ID:DE2pcz4V
戦国時代板は極過疎状態で、
先刻までは2006年に立ったスレも残っていた。
そしてどういうわけか古いスレほど良質な議論の行われている印象がある。
そうしたスレ群がこの荒らしで幾つも落ちてしまうのは如何にも惜しいage。
 
0641人間七七四年
垢版 |
2024/04/29(月) 00:01:38.68ID:gvPMgFve
「関東上杉」、「鎌倉&古河公方」、「里見」、「埼玉の武将」、「東京の武将」、「明応の政変」、「水軍」、等々の良スレ群。
何とか耐えて残ってもらいたいが…age。
0642人間七七四年
垢版 |
2024/04/29(月) 00:13:05.01ID:gvPMgFve
一旦収まったと思ったらまた来やがったage。
0643人間七七四年
垢版 |
2024/04/29(月) 01:38:12.24ID:gvPMgFve
スクリプトは一晩中一時間置きに繰り返すと云うわけか。
冬ごとに越山して来る越後勢のようだ。
彼等に痛撃を喰らわせて何度も煮え湯を呑ませてやった佐野、成田、北條、原にあやかってage。
0645人間七七四年
垢版 |
2024/04/29(月) 10:35:40.78ID:uXP7nSEl
北條氏は相変わらず反省してないね
独りよがりの長文解説 他人を見下した貴君
荒らしと同類と言ってるのに理解できない北條氏
0646人間七七四年
垢版 |
2024/04/29(月) 12:10:03.99ID:gvPMgFve
北條スレで北條を論ずる者を荒らし呼ばわりして、
己は何も論ぜず他人への誹謗を稚拙かつ粗雑な片言で垂れ流すのみ。
貴君如き輩を「荒らし」と云う。
 
0653人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 09:17:29.61ID:xzmIYwrR
北条が悪政で民衆を苦しめていたから家康はすんなりと受け入れられて得をしたな
その後も260年間安定統治できた
0654人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 12:22:59.17ID:ukfuzqRm
あげ
0655人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 17:42:08.60ID:ukfuzqRm
揚げ
0656人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 20:49:30.10ID:ZBkwI0Bz
扇ガ谷上杉が北から南に攻めてくる記述とか読んでると
「何で小田急が通ってないのに来るんだよ」と思ってしまう件
京王だとそんなこと思わない
0657人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 22:42:39.53ID:EsCshIGv
扇谷の行動経路は鎌倉往還とその間道。
今の府中街道や国道16号。
鉄道には疎いけど武蔵野線(南武線)、横浜線、八高線あたりか?
0658人間七七四年
垢版 |
2024/05/01(水) 22:59:01.75ID:EsCshIGv
江戸を奪われてからは川越街道。
鉄道なら東武東上線。
0659人間七七四年
垢版 |
2024/05/02(木) 09:49:07.82ID:c2lFFL8A
対策
0660人間七七四年
垢版 |
2024/05/02(木) 20:15:45.03ID:c2lFFL8A
抗戦
0662人間七七四年
垢版 |
2024/05/04(土) 22:26:21.21ID:BDysN/yk
小田原の陣により関東の名門は一度滅亡し、
河内狭山1万石の小禄を食いつないでいった。
督姫との間に男子がいれば、
ひょっとしたら因州池田に次ぐ准親藩、
国主格、大廊下下之御部屋席もありえた?
0663人間七七四年
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2024/05/04(土) 22:44:46.11ID:tMIWUADV
史実に対して if を構えることは無意味であるばかりか不可能でさえある(本質的にはパラドクスに陥る)。
止めた方が良い。
 
0664人間七七四年
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2024/05/07(火) 22:55:22.80ID:d1w/Wt2A
領土全然拡張してないのに頻繁に4万~6万の大軍で4ヶ月遠征。睨み合いで終わり退散頻繁にやってたから民から凄い恨み買ってたから。謙信、信玄いたころは国内蹂躙されてるのに引き篭もって迎撃しないへたれ
普通は国境付近で迎撃するのにこのヘタレは居城まで引き込む
謙信も信玄も容赦なく放火略奪して荒らし回った
民から相当恨み買ってる
民が税収めてるのは自分たちの暮らし守ってもらうために収めてる
なのにヘタレ北条は迎撃しないで本拠地まで攻められてるのに見て見ぬふり
敵が満足して引き上げる時点になってようやく出撃

考えてみろもし中国ロシアが攻めてきてるのに日本政府は自衛隊に迎撃させず首都に集結させ民家が焼かれ略奪されてるのに敵が飽きて帰るまでシカト
こんな政府誰も支持しないだろ

徳川北条と違って受け入れられたんだ
普通は余所者拒絶反応出て一揆の一つも起こる
信長生きてる頃に信濃に入った森長可なんかも一揆には苦しめられたし越前柴田も一揆起こされしばらく対処に時間かかった
越前入った堀も肥後に入った佐々もそう
関ヶ原なんか戦する国に一揆扇動当たり前だったからな。徳川では一揆が起きてない
民は徳川の政治が北条より良かったので起こす必要がなかった

小田原征伐前に秀吉と上野問題で仲介してもらい沼田寄こさない真田を悪者にしたが秀吉からしたら自分で切り取った領土でもないのに上野は北条のものと主張して何いってんだお前。徳川は自分で今の甲信地方を切り取った。お前は徳川に負けて撤退した。何いってんのお前はと相手にされず。

そりゃ当然のことだった
0665人間七七四年
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2024/05/07(火) 23:06:56.31ID:Zt7opfDs
上杉厨くん 長文乙
0666人間七七四年
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2024/05/08(水) 00:21:52.59ID:HIWaTKIJ
北条領の年貢は4割程度だったが他にも夫役や銭の納付も強要されて総額では7割に達していたという
そして納付期限に遅れれば斬首であり妻子と牛馬は召し上げという悪代官そのものだった
だから困窮した農民の逃散が相次ぐ結果になり焦った北条家は農民を連れ戻さないと領主をも処分すると脅した
その結果領主まで農民と一緒に逃亡するという事態に陥った
北条はヘタレというより失政により領内がボロボロで決戦できるだけの力が無かったんだよ
0667人間七七四年
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2024/05/08(水) 05:46:25.61ID:ZoYgIFlZ
>>634
細かい事に拘るなよ
歴史はセンス
考えるな、感じろ


三河の源頼朝、三河の足利尊氏から受け継いだ伝統と歴史を継承する責務を受け継いだけなのが三河の徳川家康だ

三河が試行錯誤して完成させた日本統治システムは、徳川が編み出した物ではない

滝山寺(三河県岡崎市)
http://takisanji.net/jihou_hou_seikanx.html
源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた 頼朝等身大の聖観音像

全てはこの仏像に秘密がある



源義家は郎党NO1NO2が三河武士と伝え、嫡男義親の生母は源隆長(三河守)の娘であり、実は義家実子と言われる為義の生母も源隆長(三河守)の娘と思われる

そして義国の正室は三河国造家中原季成の孫娘

源義家(1039~1106)
藤原季兼(1044~1101)

生没年がほぼ同じの、この二人、三河を舞台に繋がり持ったとしか思えないのである
義家の曾孫は源頼朝、足利義兼であり、季兼の曾孫も源頼朝、足利義兼なのである


三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)

系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))


■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)

・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む
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