【宇都宮・那須】 下野の戦国大名2 【小山・佐野】
自分的には
大関高増
芳賀高定
佐野宗綱
の三人かな
大関高増は下野の奸雄ともいうべきか
あまり誉められたものではない行動も多かったけど権謀術数を巡らして上手く生き残った様は戦国らしい人物だと言える
芳賀高定は逆に忠臣というべきか
衰退した主家を良く守って復興させた
宇都宮家が存続出来たのは彼によるところが大きいだろう
引き際の良さも特筆に値する
佐野宗綱は中央政権と北関東の反北条方を上手く結び付けて一大反攻に出た事をみても、やり手であった事が窺える
だが、若年であっさり討死してしまった事が残念 謀将
大田原資清、大関高増、壬生綱房、芳賀高経、芳賀景高
忠将
芳賀高定
勇将
多功長朝、多功綱継、佐久山義隆
知将
佐野昌綱、佐野宗綱、益子勝宗
豪傑
宇都宮成綱、那須高資
俺はこんな感じだな 成綱は高勝と対立した時に行った動き(塩谷に兄弟を送り込んだりなど)が策略家らしくて好きだわ >>483
宇都宮も多気山城を改築して本拠地にしてからは北条氏直軍や那須資晴軍、壬生義雄軍による度重なる侵攻を受け続けた上に、そんな危機的状況でも家臣団は未だに内部分裂してたからまともに戦えなかったし、時には北条によって壬生や那須が連携して攻めてきたこともあった。
当然佐竹からも援軍を受けていたがそれによって同盟関係もほぼ佐竹の半従属みたいな状態にならざるを得ない状況だったんだよな 下野の大名ってパッとしないねぇ
いや下野そのものが実にパッとしない
占領しても何の得もしない地域だったからかな >>525
無知が中世都市の宇都宮は鎌倉と奥州間を中継する重要な拠点だったってことを知っているわけないだろう
武を司る宇都宮大明神も源頼朝や藤原秀郷の逸話などで名高いしカリスマ性もある。
秀吉もかなり宇都宮に拘りを持っていたし、宇都宮の滞在期間だって長かった まあ、地理的に見ても陸路なら宇都宮(奥州街道)が最短ルートだからな
常陸まわりだと遠回りだし >>524
北条家に謝れ
下野手に入れたくて長年苦労したんだぞ いくらあの北条でも宇都宮の民衆には手を焼くだろうな
なんたって改易後も関ヶ原合戦時にともかつさま(結城朝勝)に呼応して宇都宮にいた結城秀康に抵抗しようとしたくらいだし 北条や壬生に嗾けられて
日光山の僧兵にも攻撃を受けて
宇都宮は、よく滅亡せず小田原まで持ったもんだ 芳賀高定の外交手腕に救われたよな
あとは広綱が病弱じゃなければもう少し情勢は良かったかもしれない。
皆川が離反した原因の1つに広綱が寝込んでいたってのもあるし、皆川俊宗による宇都宮城乗っ取りがなければ外交手腕の優れていた岡本宗慶が殺されずに済んだし 佐竹義昭と芳賀高定が取り結んだ強固な盟友関係はその後の佐竹宇都宮両家にとって大きな財産になったわな
それだけに宇都宮の改易は痛かった
そこに結城の脱落も加わって豊臣家にとっても墓穴を掘る事になったな
佐竹、宇都宮、結城、相馬、岩城のラインが維持されていれば違った結末もあっただろうに 浅野長政は家康と共謀して宇都宮だけでなく佐竹も改易させてその旧領に蒲生を入れようとしていたんだぜ 他の地域でも色々画策してるし
浅野が諸悪の元凶のような気がしてきた ttp://shimotsuke.org/shimotsuke-battle/shimotsuke-battle.html
天正二年と六年に武田勝頼が下野出兵してるみたいだけど
ちょうど天正二年は美濃や遠江出陣なんかがあって
この時期に武田が下野まで出兵する、ゆとりってあったのかな?
よくある家臣の子孫なんかが自家称揚のために後世で作った偽合戦臭いんだが 甲相同盟で宇都宮氏に圧力与えたってエピソードはあったけどさすがに勝頼本人は出陣できない余裕はないような気が・・・
せいぜい武田家臣で攻めさせるくらいが限界かもな 訂正
甲相同盟で宇都宮氏に圧力与えたってエピソードはあったけどさすがに勝頼本人は出陣できる余裕はないような気が・・・
せいぜい武田家臣で攻めさせるくらいが限界かもな >>543
有り得ない。
天正二年十月には上杉謙信が関宿救援のために越山しており、
佐竹義重も謙信を焦らすため宇都宮城内か付近でプラプラしてた。
十一月初旬には勝頼は駿遠辺りに出ていたし、第一下野を攻める理由がない。
天正六年の五月は小川台合戦があり、宇都宮国綱の初陣があった。
おまけに越後は御館の乱の真っ最中で、この時期に勝頼が何をしてたか知らん奴はいないだろう。 >>546
やっぱ、あり得んか
昔読んだ「武田勝頼のすべて」にも下野出陣したなんて記事無かったと思うし
御館の乱で北条との同盟が切れるまで、甲相同盟の一環として北条支援説も考えたが
駿遠に出陣してたんじゃ物理的に不可能だな。 >>543のサイトにある永正11年の小山城の戦い、裳原(茂原)の戦いに関してもネットで探しても情報がないよな >>548
可能性としては同年に起こった那須口の合戦は宇都宮忠綱が成綱の名代として出陣しているから
成綱は宇都宮に残って政氏側の小山家らと戦っていたとか? 表裏比興さんが日光の方からこっそり浸食してきたとか? 日光山の戦力ってどれくらいなんだろうな
宇都宮城周辺まで焼き討ちしたり 日光山の勢力は壬生綱房が日光山神領惣政所の地位を得たり、二男の昌膳を送り込んだりして聖俗両面から掌握していたから壬生氏の勢力だった。
壬生氏が天文期に離反するまで実質的には宇都宮氏側の勢力として位置付けられてたけど最終的に壬生氏に従って小田原北条氏に与することになったけど
途中で壬生徳雪斎(綱房の弟または子)が壬生綱雄を暗殺して日光山神領惣政所の地位を奪って宇都宮氏に寝返っており徳雪斎が討たれるまでの間日光山は宇都宮氏の勢力下だったとのこと >>551
日光は寺領18万石と言われていたからね
勿論、誇張が入っているだろうし、領地と言うか総収入の話だろう
それでも千や二千程度は戦力を抱えていたと思う 日光山掌握に関して壬生の本拠である鹿沼城は重要な拠点だったからな >鹿沼城は重要な拠点だったからな
なるほど
どおりで北関東の連合軍が執拗に攻めたわけだ 連合軍が鹿沼を攻めまくったのはアホの義重が初めから落とす気が無かったからだな。
どうも義重は壬生を味方につけようとはしてたが、ブチ殺そうとまでは思ってなかったらしい。
んで壬生義雄が仲間にならんので、多気山城を取り立てるという回りくどくも面倒くさいことをして
日光と鹿沼の間を遮断、且つ壬生領に圧力を加えようとした。 宇都宮もかつての宿老衆の1つである壬生家を再び家中に戻したかったから殺す気はなかったんだよな 殺すなんてとんでもない
幕府や朝廷から命令や許可を得ているならともかく、私闘で滅ぼすなど滅多な事でもない限り有り得ない
ある程度痛め付けたら起請文を取り交わして和睦するのが従来の戦
これが壊れたのが戦国時代な訳だが、関東や東北などでは根強く残っていた
だからそのルールを守らない小田原北条や伊達は猛反発を受けた 那須高資もそのルールは守ってなかったな
高資は古河公方ら関東の勢力からの独立を図ったが大田原資清に阻止されて殺された 東方の衆≒八家側は、室町幕府が滅んで全国的に
「やったもん勝ち」的にタガが外れたあとでも、
幕府が存在していた頃の通念で行動していたからのう。
小川台合戦、及び会白佐協定以降の連合体制を
豊臣側が「惣無事」として承認することで、
この体制がより強固に固められてしまった。
この辺の流れは面白い。 >幕府や朝廷から命令や許可を得ているならともかく
そういえば
秀吉に許可された後
佐竹はなんの躊躇も無く江戸大掾滅ぼしてたな 散々手こずった鹿沼・小山城の防衛ラインも
小田原合戦で北条の増援なくなると、あっさり潰れたからな >>563
佐竹は北に伊達や南に北条に妨害されてたから全力で行けなかったし
宇都宮も那須、北条、壬生と挟撃の形で妨害されていたから全力で行けなかった そもそも敵対勢力を潰さないで和睦を繰り返していたから北条や伊達の伸長を許してしまった
例えば佐竹は白川氏の全城を落として当主の義親まで捕虜にしたけど、結局すべて返還してしまったし
小田氏に関しても何度となく追い詰めたが、小田城周辺以外の領地は保障している
下野でも宇都宮氏らと共に皆川氏を攻めて本城以外を二十以上落としたが、これも結局返還している
他にも周辺の中小勢力と何度となく争って屈服させたが潰したものは一つもない 白河義親を取っ捕まえたというのは史実とは確認されてない軍記物ベースの話だがな。 『造宮日記』(宇都宮市史)に書かれてあるもので疑問があるのだが
17代当主の宇都宮成綱の代(1478年11月18日)に宇都宮大明神の社殿造替を祝って神宮寺の慈心院で能が興行されたけど
@神宮寺と慈心院って同じ場所なのか?
A宇都宮俊綱が幼年期にいた場所と同じなのか?
B神宮寺及び慈心院は現在の宇都宮市にあるのか?
C塩谷戸部は誰なのか?
誰か知っているなら教えてくれ 皆川は敢えて生かしてやることで北条に対する防波堤にしてた感はあるな。
いちいち国人層や地侍を潰してたらキリがないし人が居なくなるから
そこら辺は大名達の中でも葛藤があったんだと推測する。 忠綱の時に皆川をうまく潰してれば宇都宮が飛躍できた可能性はあったのにな >>543にある永正4年(1507年)の小貫城の戦いで笠間側の武将である笠間綱親についてだが
俺が知ってる限りだと成綱の代に笠間城の城主だったのは笠間資綱で明応年間に成綱が笠間家宰の寺崎氏に送った書状の笠間孫四郎がそれにあたる
笠間綱親って名前はネットじゃよく見るけど一次資料だと確認していない
笠間資綱の子は笠間綱広であり、ネットで探してみたら笠間綱親の子も笠間綱広みたい
これってつまり笠間資綱=笠間綱親ってことだよな? 北条はともかく伊達はもともと強力だけどな。天文の乱なきゃ佐竹やばかったんじゃね? >>571
そんなこと言ったら佐竹も山入の乱がなければ弱体化はなかったし宇都宮も永正の内訌から始まる3度の内訌がなければ大分強かったよ んなこと言い出したら佐竹だって山入一揆がなければとか言えるだろうが。
大体戦国期の御家騒動は乱中は一時的に大名の主導権は分散するが、
克服しさえすれば、分割相続制から単独相続への移行、
または家中の所領の整理等を通じて相対的に大名権力が強化されるというのが定説。 宇都宮氏は忠綱興綱がgdgdにしたせいで俊綱に負担が圧し掛かりすぎたんだよな
宇都宮氏が単独相続制への移行ができたのは広綱の時で佐竹や伊達から比べるとかなり遅れてしまった しかも本格的な戦国時代に突入した時期に尚綱がやらかしちゃったからな
もうああなると立ち直る暇がなかった
幸い、那須も小山も結城もグダグダだったから致命傷にはならなかったが 戦国時代で特に重要な尚綱の時に宿老筆頭の塩谷孝綱が離反、芳賀高経が生涯され、壬生綱房・綱雄父子離反・後に宇都宮城乗っ取り、結城・小山連合軍に宮中まで侵攻される
皆川も離反しちゃったりなど悪い事態が重なりすぎた。
これも忠綱の時に起こった内訌が大体の原因になるよな。興綱は家中の傀儡だったから話にならないし
成綱クラスの名君が続けばこうはならなかったんだろうが
>>575
結城は政朝、政勝と有能な当主が続いたからグダグダではなかったぞ 那須家って防衛線になると
異様な強さ見せるけど
自分たちから攻め込むと失敗ばかりな印象ある 生き残った家はどこもそうだけどね
弱かったら滅んでいるし よく考えたらそうだな
宇都宮家もそうだけど、本城まで攻められたら必死になるしか家滅亡だもんな 宇都宮家は城まで移動したくらいだし
そのせいで貴重な歴史物が北条に破壊されまくったが
戊辰戦争や宇都宮大空襲とかもなければもっと文献とかもあったんだろーな 小田氏治も無闇に出撃する癖なくして
防衛に徹してたら今でも守りの名将と謳われてたかもしれない >>581
佐野昌綱や長野業正みたいな微妙扱いになりそう でも、大概は文書類を持って逃げるんだよ
当時でも文書は家宝的な扱いだったようだ
どこが本家かを文書の数などで争ったりするし、感状などは再仕官に役立った
ちょっとうろ覚えたけど小山だか結城だか、あの辺りの百姓(元武家)が佐竹義重から貰った感状を持っていて
参勤交代に寄った殿様に披露したら士分として取り立てられた話がある
感状貰ってから数代、100年後ぐらいの話なのに御先祖の活躍は素晴らしい 多功原の戦いについて詳しく書いてる資料って無いかな。
氏政が一騎で逃げるほどの大戦だったらしいが
あんまり知名度ないよね。 >>561
宇都宮も益子と笠間を滅ぼしてる。
もっと前だと鹿沼も。
朝勝は結城から追い出されて、旧壬生領は結城領になり、皆川は徳川配下になって徳川からは無言の圧力
更に新取次・浅野との軋轢で国綱は短命だったんだろうね >>585
笠間と益子は攻め滅ぼされてないんだよな
両方とも国綱に許された
でも改易された 君もたまには自分で良質な一次資料洗いざらい調べたら? _,/ ̄ ̄` ̄\、/レ
// , /\ .i i V〈 争いの種が多いほど
/ / ∠ム/ ー-V l 「ヽ 暗躍する機会が増えるのです
j v、!● :::::● i ' ├' 争え、もっと争うのです!
/ 〈 -=-' / .i y
/ _ ,.イ , `ーゥ t-!,、_У
´ ' .レ^V´ V_,ィtー〈 「| 「|
/ `央ー'j \_|:| |:|
,/ー、{,_ノ /ー、! \::::]
ねぇ宇都宮や佐野なんかの分限帳や旧臣帳ってどこで見られるのかな? 烏山城はあれだけ不安定な政情だったのにほとんど敵を寄せ付けない名城
目下最大の驚異だったであろう佐竹からめちゃくちゃ攻めにくい地形してる >>594
佐竹や宇都宮が本気で攻めてたら潰されてたよ。唯一本気で攻めた宇都宮尚綱は無能だからたまたま勝てたけど佐竹義重や宇都宮成綱が本気で那須を潰しに来たら那須の家名は残ってなかったかもね >佐竹や宇都宮が本気で攻めてたら潰されてたよ。
まあね
烏山城は要害だったから落ちなかっただけで
那須領の城や砦は佐竹方に攻略されまくってたからな 宇都宮は成綱の時代はともかく尚綱と国綱では無理でしょ 興綱「那須を小田と協力して何度も攻めたら氏家(宇都宮領)が焦土化したわw」 何だかんだで宇都宮や佐竹は群を抜いていたからな
北関東や東北ではいまだ鎌倉や室町からの体制を引き継いでいたから本気の潰し合いは行われなかっただけで
単に潰すだけなら天正18年〜19年の様に軽々と潰せただろう
でも、烏山城は本気で落ちなかったっぽい
佐竹の場合、那須氏を潰す気は全くなかったと見て間違いないが、北那須衆と共に当主を退け新当主を擁立し
自陣に引き込むつもりであったようだから、烏山は本気で落としたかっただろう 烏山城を速戦で落とすためには
北条くらい兵力動員できないと無理ぽいな。
周りを敵に囲まれてる佐竹宇都宮には篭城戦で長時間城包囲するのは難しいだろうし 烏山が攻められた時は城に取り付く前の野戦で殆ど撃退してるが隘路での待ち伏せだろうな
過疎の那須でもある程度は勝機が見える >>600
成綱・忠綱父子期の宇都宮も成綱の正室が上那須資親の娘だったから上那須の内紛に乗じて上那須に宇都宮一族を送り込もうとしていたことがあったな
白河結城による那須資永殺害の報復の可能性もあったからそれを危険視した下那須資房が統一へ乗り出した 那須氏って五月女坂の戦いで動員300人って少なすぎね? 陸奥国寄上の変遷
那須氏 白河国の国造
那須氏 陸奥国白川郡の郡司
後白河院 御領
平重盛 平治の乱後
結城朝光 奥州征伐後
※太閤検地の際に常陸国久慈郡となる。 >>606
三百騎となると1000〜3000人程度になるから決して少なくはない あんなロクに田んぼも作れない山がちなとこでよく3000人も養えるよな
主食は米じゃなくて雑穀だったのかな 那須地方は奈良時代に約七万人だから戦国期は、もう少しいたと思いますよ。
主食は人それぞれ。米からいきなり稗や粟の雑穀はないでしょうね。米が厳しければ麦飯。
ただし当時は川の恵が素晴らしかった。天然ウナギや那珂川の鮭等。山の幸は、タラの芽や
ゼンマイ、わらび、猪、キツネ、タヌキ、雉、モツ等。 水がないぞ。まあ水さえあれば激しく開墾できるがそれできるのは明治だし 那須12郷は、飛鳥から奈良時代に完成したと思われる。
それに加えて平安から鎌倉時代には、森田、佐久山、芋淵、福原、那須宗家、滝田、沢村、片田、稗田、千本の10郷。
非常時に備えて、各地にため池があるでしょう。地図見てくださいよ。 山間部は沢や川が多いからね
ただ、水温が低いから溜池を作る必要がある そっか、那須インターのあたりじゃないんだな。もっと下流なんだな。 二期作を目指すわけでは有りませんから水温は余り気にする必要はないと思います。
一昨年の夏に宮崎産の新米を食べたけれどあまり旨くなかったなあ。
山田の中の一本足の案山子
この歌は、下野那須の山田郷によく似合いそうだ。 流れ者の壬生。那須紀を著した大金氏も流れ者。大金氏の先祖は美濃の守護大名とは本当か。?