【宇都宮・那須】 下野の戦国大名2 【小山・佐野】
中世宇都宮氏展に行ってきた
初めて見た資料や肖像画もあって良かった 栃木県立博物館の中世宇都宮氏展、物凄い資料が見られたな
やっぱり下野の戦国時代は面白い
ただ、この企画展は本当に歴史好き向けだね よくあそこまで国宝に指定されてる資料集めたよな
入場料1200円の価値はある 今更ながら那須氏の嫡男?だった方の冤罪事件を知った
司法や警察酷すぎ いまですらたいして変わらんのじゃないの?
てかさ、自分たちでさんざん排斥しておいて無罪になったら名誉市民に推すとか弘前ってとんでもないとこだな ああ、もう今週いっぱいで栃木県立博物館の中世宇都宮氏展が終わってしまう
ここまで国宝が集まった展示も中々お目にかかれないし、もう一回行こうかな 何のサイトか忘れたが、宇都宮氏が改易された際に5万石、佐竹が24万石と虚偽していたと書かれていた
長曽我部も公称9.8万石→山内入国後の検地で17万石だったし、さもありなんと感じた >>730
佐竹は宇都宮の改易以前に54万石の朱印状を貰っている訳ですが >>625
こんなスレもあるんですね…うちも大金なんで興味深いというか…先祖が書いた那須記という怪しげな本によれば
土岐光定の子、定親が蜂屋氏の養子に入る(この頃千葉氏から因縁つけられる)-貞経-光経-満房-金山貞房-大金太郎貞寅(さだのぶ)
愛知県の幡豆崎ってところにあった御城に南朝方として籠ってたそうです
その後不明な何代も経って那須記に佐竹方の大金備後守重宣、恩賞に不満で那須方に寝返った大金三介だったか弥介さんが登場
重貞さんは大森佐太郎さんという人を養子にしているので、土岐氏と関係なくなっていると思います 宇都宮の弥三郎・弥四郎ってどういう使い分けなんだろう 那須氏の家老、興野氏について詳しい方おられますか
現代においても栃木県の林業に影響力のある家柄なのでしょうか
21 小山氏関連を調べているのですが・・・
小山義政の五男 常宗=逆井氏ということで、逆井城の築年が亮徳年間(1451-55)と言われておりますが・・・
小山義政の乱が1380年-82年であり、小山氏は最後に糟尾城に籠り、最後は櫃沢にて一族郎党自刃、
しかし嫡男 小山若犬丸は落ち延び、1386年〜97年にかけてゲリラ的に蜂起を繰り返すものの
最後は会津にて自決、その子も幕府により殺害ということで一族滅亡。
その後、結城氏から新生小山氏を分家させております。
なのに五男が1450年代に逆井氏?逆井築城?おかしくね?
1450年といえば結城合戦(1440-41)よりも後なのです?
どなたか、このあたりの事をご存知の方おりませんか?
(逆井城の築城時期が違うのか?逆井氏が小山 五男 常宗というのが間違いなのか?) あと・・・
小山義政の乱
最後に糟尾城に籠るも数日で陥落、対岸の寺窪城にて抵抗し最後は櫃沢にて自刃
この糟尾城は小山氏の詰城だったとも言われていますが・・・
あんな宇都宮氏の勢力圏内の奥に、小山氏が詰城を持つというのにも疑問を持ちます・・・
このあたりの話も知っている方がおりましたら、ぜひに・・・ >>740
都賀郡は小山義政の乱までは小山氏の勢力圏だから粕尾城が小山氏の城ってのは別におかしくない
本拠からめっちゃ離れてる城を詰城って言っていいのかは知らん >>740
有難うございます。
あのあたり、小山勢力だったんだ・・・
車で糟尾城まで行きましたが、途中、宇都宮をかすめる形だったので、宇都宮側かと思ってました。
乱の時期は、そもそもが宇都宮氏統領が小山氏に討たれたのが原因で、
当時は宇都宮勢が一時的に衰退していたと推測されるので通過妨害も無理っぽいですね。
>本拠からめっちゃ離れてる城を詰城って言っていいのかは知らん
小山付近は基本平地ですから・・・離れないと要害の地がないですし・・・
小山氏の城郭は水利に防御を託すのが好きなようですし・・・
(祇園城、新城、鷲城、岩城窪(中久喜城)みんな同様)さらにいえば上で質問した逆井城も・・・)
糟尾城あたりまで奥にいかないと良い場所が見つけられなかったんですかね。
(確かに良い縄張りでしたが…あれ人数居ないと守れない…残存勢力の蜂起じゃ守り切れなかったのも判ります) >>1
宇都宮氏
自称、藤原北家
藤原宗円が前九年の役の功で宇都宮別当に任じられたのが始まり
2代目、八田宗綱
3代目、宇都宮朝綱
毛野は毛の国と呼ばれ、宋書の倭王武の上表文に、東に毛人(蝦夷)を征すること五十五国とある
毛野は上毛野(上野)、下毛野(下野)、那須の
3つに分かれた
宇都宮から八田(小山)、那須、中村(伊達)が別れる
通字は宗と綱
宇都宮は分家の結城、小山、壬生、芳賀との内戦で衰退した
子孫は仙台藩が引き受けた >>743
妄想設定か?
子孫は水戸藩が引き受けたんだけど 都賀郡は色々な勢力が入り組んでるよな
鎌倉期には西方氏(宇都宮氏系)、鹿沼氏(佐野氏系)もいたし
長沼氏の皆川移転と壬生氏の勃興は小山氏の衰退の結果だろうけど 皆川は場所的にも難しいところにいながら家を繋いで江戸幕府成立まで家を保ってたのに
その後滅びた イメージだと北条と古河公方が張り合ってる中を上杉がちょっかいだして、他は右往左往してるだけかな 1477年、正綱は成氏に従い長尾景春の救援に向かったが、上野国の川曲の戦いで陣没した。さらに従軍していた宇都宮一族の横田綱親・保業・清業父子、
今泉盛泰も討死し、紀党の棟梁益子唯正・延正父子も討死する等甚大な被害を受けた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%AD%A3%E7%B6%B1
何があってここまで負けた REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 >>744
水戸藩宇都宮氏
益子にある菩提寺で盛大に法要を行っていたから領主である黒羽藩は凄く嫌がっていたらしいw >>749
一応、別系統の家だからじゃないのか
武田、小笠原、南部、佐竹の始祖は共に新羅三郎義光だけど鎌倉期にはそれぞれ別家としての御家人だったのと同じ 歴史群像に沼尻の戦いが載ってたから買ってしまった
即戦動員できる後北条氏と、国人衆を纏めてから出て来ないといけない佐竹・宇都宮氏は体質的に差が大きかったな
天正壬午の乱終結後の関東は後北条の独壇場 南奥で伊達と蘆名が手切れとなって佐竹はその介入で動きが取りにくくなったと言うのが大きい
毎年のように陸奥と南関東の往復を繰り返していた佐竹の体力は異常
豊臣政権下に組み込まれる前の佐竹はせいぜい15万石程度の大名なのに何故あそこまで戦えたのか不思議だわ
しかも関東特有の複雑怪奇な寄り合い連合で非常に難しい外交を強いられていたのに
ある意味宇都宮尚綱の戦死と広綱の早世によって宇都宮家の主導権を握れたのがプラスに働いていたとも言える
佐竹宇都宮の結束は強く最後までほぼ崩れる事がなかったし
結城とも蜜月にあったから佐竹宇都宮結城のラインで防ぐ事ができた 1578年に東方ノ衆に入った後も
余裕で佐竹、宇都宮と戦闘が起きてる親北条の那須 >>735
二人の弟と千本の所領分割したとか
佐竹を呼び込んで那須烏山に攻め込んだとか
那須家のガンみたいな逸話ならあるな 大田原資清と高増ら三人の息子はやりたい放題だったからな
那須七騎のうち2家を乗っ取って1家を潰し主君まで殺そうとした 烏山城って常陸方面からの守りは鉄壁だな
崖→河→湿地→崖→城下町→山城という高難度 >>759
そうは言うけど本家の上那須氏(神田城)、分家の下那須氏(烏山城)に家来衆もそれぞれ分かれての100年の対立が有った訳で
その延長線上の抗争と考えると分からなくもない
千本氏も主君暗殺とかヤバい事やってたしな でも下野の大名で戦国時代から明治にかけて転封も改易もなく現地で存続したのは
大関と大田原ぐらいだという罠 下野って何気に生き残っている家が多かったんだよな
小大名が割拠していて戦国大名によって統一されなかったというのも原因だろうけど
那須七騎も江戸時代以前に滅亡した千本以外の六家は本領安堵されている
那須と伊王野は後に改易されて那須は交代寄合、伊王野は水戸藩士になっているけど 千本氏て養子が攻めた側にいて跡を継いでるから滅んでないと思うけど 那須氏が小田原の役で遅参してなければ他の那須七騎は那須氏の家臣になってたのか、それとも宇都宮氏とは別に豊臣家臣に取り立てられてた塩谷氏のようになったのか 佐野氏もそうだけど女系で繋ぐってあんまり残った、存続した感ないんだよね
他家に「乗っ取られた」というか
同じ藤原氏系統の名門ならまだしも織田徳川の陪臣とかもうね
小山、壬生みたいに影も形も無くなるよりかはマシだろうけど >>761
あれは、上那須の抗争の延長というより
資清の子らの野心と自立への運動とみた方がいいかもしれない 大田原三兄弟らは那須家と和睦はしたけど主従と呼べるような関係ではなかったのだろうな
那須氏がいわゆる洞を形成していたのかは知らないけど小田原征伐で那須家が豊臣方に参陣しなかったのに対して
大田原家らは参陣して所領を安堵して貰っている訳だからな
独自に外交をしていたという点で洞中であったからそれ以上に対等に近い同盟関係であったのだろう 下野守護の小山が下野統一すべきだったんだろうが
中先代の乱での敗戦で当主以下200人の自刃した事件と
小山義政の乱での滅亡によってどんぐりの背比べ状態から脱せられず
下野の豪族を下すような強大な勢力が登場することはなかった
甲斐の武田に当たるような家はでなかった 下野は宇都宮氏や那須氏といった古族もいるからな
常陸も佐竹と小田で二分されていたしなかなか一国を統べるのは難しい >>768
資晴の祖母が大田原資清女だし、一条天皇の外戚として国政を恣にした道長みたいなもん?