【宇都宮・那須】 下野の戦国大名2 【小山・佐野】
弓だけでなく和歌にも優れた人物が多い宇都宮氏はまさに文武両道
百人一首のきっかけは頼綱だしね 娘が定家の嫡男に嫁いでるから親戚だね
頼綱の住む小倉山の別荘を飾る色紙を選んでもらったのが百人一首の始まりらしい ウィキペディアで二階堂晴行の項目見てたんだけど、1536年に宇都宮と那須の合戦に関与してたんだね
これどっち側に関与してたかとか分かります?
出展元が記載されてないしネットで調べてみたけどいまいち分かりませんでした 永正17年(1520年)に起こった浄宝寺縄吊し合戦って川井合戦のこと?
この合戦で壬生綱房が活躍したみたいだけど 結局戦国大戦の1477に宇都宮成綱は出なかったのか >>417
東国の中でも武といったら当時は宇都宮だったのか ノブヤボだと芳賀高定は土佐一条家の土居宗珊みたいなポジションだよね。上位互換が阿蘇家の甲斐宗運で。
広綱と阿蘇惟将はもう少し評価されていいかと 宇都宮成綱はもっと評価されるべき
信ヤボの能力低すぎ 横田氏当主が上三川城に移った後の横田城って誰が城主だったの? >>414
概ね、婚姻か養子で家まで一緒になった、取り込んで行ったのは想像つくんだけどね
5代目の頼綱が藤原定家の嫡男に娘を嫁がせてるのを見ると、少なくとも藤姓が入ってるのは間違いない
3代目の朝綱の代あたりは藤姓と中原系の両方の血は受け継いそうな気はする >>407
創造だと
統率=防御力
武力=攻撃力
だからいくら戦功が多くても宇都宮は尚綱の代以降攻めることよりも守戦の方が多かったから
宮中一の侍大将と呼ばれた多功長朝、多功房朝、多功綱継は統率>武力なステータスが無難 >>427-428
短命だと、どうしても業績そのものが限られてしまうからな
広綱は尼子晴久と似てるかな。ビジョンはあったが、それを成し遂げる前に…
国綱はどう見ても家督相続時の状況が悪すぎだったが、よく戦った。本拠地の移転も大決断
養子問題が遠因で改易されたが、今でも男系が残ってるのは本当に救われる
慶長の役でも旧臣と一緒に渡海したりと人望はあったんだろうね とはいえ、広綱の代で宇都宮家の家中を大きく変化させることに成功したのは大きい
忠綱の代で勢力拡大に失敗して以降、弱体化し続け痺れを切らし、離反する一門衆(壬生、多功、武茂、松野、喜連川塩谷、簗)や家臣(益子、皆川)
と大変な中広綱はよくやったよ そもそも武茂や松野って、よくあの本拠地で宇都宮一族として永らえたよな
どう見ても地図では那須の勢力圏内 あそこは完全に飛び地だよな
北はそのまんま那須地方で大関、福原、芦野、伊王野など那須七騎の本拠
西は大田原
南は那須宗家の本拠地だし
東は佐竹
完全に逃げ場なし
戦になったら連絡線を確保するのも困難だわ
まあ、結局は佐竹に吸収されたけど 宇都宮惣領家の方も忠綱〜俊綱の間は那須や小山・結城と争っている(天文期に小山高朝軍に贄木を突破されて宮中や宿町を焼き払われる多大な被害を被った)から
武茂や松野が佐竹や那須とかに攻められても助けに行けるような状況じゃないからな 大関と大田原に囲まれてる地点でご愁傷様としかいいようがない 宇都宮家臣の大金氏も武茂地方北部にいたけど武茂や松野が佐竹に従属した後どうなったのか気になるわ 大金氏や松野氏の動向って不明だけど、やはり武茂氏が那須氏に攻められた時は武茂氏の後詰めに行ったのだろうか
状況を見るに武茂洞中的な協力関係が築かれていたのかもしれないが >>438
でもある意味あの連中のお陰で存続出来たと言えなくもない
大田原一派が不穏な行動をとっていたから那須家中は一枚岩にはなれず
那須宗家も何度か武茂氏を攻めたが撃退されてしまった
佐竹宗家も100年に渡った山入一揆で瀕死に追い込まれ
常陸江戸氏によって現常陸大宮市の鷲子地域(旧美和村鷲子)を横領されてしまった
これによって武茂氏と佐竹氏の間に緩衝地帯が生まれた
また、武茂氏も鷲子地域に侵出し、城を築いて一族を配置して鳥子氏を名乗らせ勢力を拡大した >>438
宇都宮城って基本的に防御には不向きなんだよな
特に南方は平野ばかりで、一度野戦で負けると宮中まで押し込まれてしまう
>>441
同意。武茂の半独立状態は俺も那須が上下に分裂したのが大きいと思う
元は那須神田城が本拠で、下那須はどちらかと言えば分家筋
上那須衆からすれば烏山から命令されるのは内心は面白くない 武茂家臣ってどういう人物がいるんだ?出自は知らないけど北条義興くらいしか知らないわ 鎌倉時代の宇都宮家は婚姻上手く活用して瞬く間に勢力拡大したよね。それ故に厄介な揉め事にかなり巻き込まれたけど頼綱、泰綱、景綱の時代はまさに黄金期ってほどにまで栄えた。当時の宇都宮家は実質的な執権北条一門だったし。 宇都宮は結構良いポジションにいたんだけどね
最後の最後で躓いてしまった
あと3年耐えれば佐竹と共に名門大名として現代まで残れたものを 羽柴姓を秀吉から授かるくらいだったからな
秀吉がもう少し長生きしてたら大名復帰できてたかね せめて1万石でもいいから下野に残りたかったな
大田原や大関みたいに
いくら御三家といえども1000石の家老では寂しすぎる
陪臣だし 高野山の奥の院に行ったら各地の大名の墓の中に
大関家の墓もあった >>447
でも関ヶ原や大坂の陣での結城朝勝の行動を見ていると仮に大名として残ったとしても西軍に味方して改易されそう 佐竹、宇都宮、相馬、岩城、多賀谷は一蓮托生みたいなところがあったからな
結城もそうだったけど、晴朝が朝勝を追い出して秀康を迎えた事で離脱したが 宇都宮氏は最後の最後で本領に戻ったけどね
宇都宮ではなく菩提寺のある益子だけど
でも結局、東京に出ていってしまったようだが 実家が那須の方なので松野や武茂の辺りはたまに通るのだけど
あの辺りってどこに領地があったのか分からないような狭い谷間みたいな土地だよな
豊臣時代で見ると松野氏の本領は確か600石だか800石だかそんなものだったけど
確かにあの辺りしか領地がなかったとするとそんなものだよな
6人役だとしても戦力は40〜50人か… >>455
というか名族は東京に行ってしまった家が多いと思う
>>456
祭祀だけはナントカ松平が一応継続してるらしいが、家名も血筋も消滅してしまった
晴朝は晩年に何度も家名復興の祈願文を奉納してたらしいし、後悔してたんだろうね あまり話題にならないけど芳賀景高ってかなりの切れ者だと思う
実は芳賀高益とは親子ではなかった説もあるみたいだし >>458
結城を潰した暗愚な人物なのに結城秀康が結城を代表する武将みたくなっているのがなぁ 戦国時代の下野の初心者向けの本があったら教えてください。
ちなみに先祖は芳賀在住です。 >>461
とりあえず栃木県史とか読んでみたらいいんじゃなイカ? 皆川成勝の名前にある成の字について
1 父親である皆川宗成から成の字を授かった
2 古河公方足利成氏から成の字を授かった
3 下野国で猛威を振るっていた宇都宮成綱から成の字を授かった
4 上記以外
これらのうちのどれなんだろうな >>461
戦国期東国の権力構造(荒井善夫 著)がオススメ
本はかなり高いけど下野の主要な勢力である宇都宮、小山、那須についての大まかな動向がこれ一冊でわかる
これで各勢力に興味を持ったらそれぞれの専門に掲載されてる本を購入すれば良いかな >>458
前橋藩主になった結城(松平)直基の系統が結城氏の祭祀は継続してて、
結城朝光750年祭のときにも、前橋松平家の当主(結城氏としては34代目)が
出席している・・・とはいえ、結城氏そのものが消えてしまったからなあ。
宇都宮から迎えた跡継ぎを放逐してまで家名存続に奔走した晴朝の結末
としては物寂しいものがあるな 代々守ってきた領地はおろか家名まで無くなるとはな
本末転倒にもほどがある 養子押し付けを突っぱねた宇都宮と受け入れた結城
結局は同じ末路とは皮肉なものだ
そう言えば佐竹、宇都宮、結城の三家はみんな子供がいなかったんだよな(国綱は改易の翌年に義綱が生まれたが)
でも佐竹だけは養子の話を聞かない 浅野長政って国綱に嫌がらせしてたんだよな
文書からも国綱は明らかに長政を嫌っているのがわかるし なんで太閣の古参の近臣が片田舎の大名嫌うんだろうな?
普通は眼中にすら入ってないからスルーだと思うんだが
佐竹の取り次ぎが石田で自分は宇都宮程度だったのが嫌だったのだろうか いや、むしろ逆
石田や浅野といった重臣らは影響力を拡大する為に諸侯の取り込みに躍起になっていた
石田は佐竹や上杉といった大大名の取り込みに成功していたし
下野で最大の勢力を誇る宇都宮の取り込みも石田や浅野らにとって重要な事であった
そこで国綱に世継ぎのいない事に目をつけた浅野は自分の子供を養子に送り込む事で縁戚を結び、自陣に引き入れようとした
国綱や北條勝時、今泉高光といった重臣らは浅野と縁戚になる事で豊臣政権の中での地位を確定する為にこれを受け入れようとしたが
実弟の芳賀高武は強硬に反対し、北條勝時と今泉高光を殺害し両家を攻め滅ぼして浅野の縁組みを蹴った
これに怒った浅野によって石高詐称や家中不届きを理由に潰されたと言うのが真相だろう >>472
石田三成も宇都宮の取り組みに尽力していたぞ
この頃から既に浅野は家康の息が吹きかかってたから石田と浅野は対立してた 宇都宮まで石田側に付いたら浅野的には面白くないからな
宇都宮と決裂した以上は、石田に付かれる前に潰してしまおうと考える事は必然と言える
結城の取り込みにも失敗していたしな >>475
家康にとっては江戸の近辺を親族の秀康や親家康派の武将(大関高増や水谷政村、皆川広照など)で関東を固めたかったらしいから
親秀吉(石田)の派の佐竹や宇都宮は邪魔だった。また、当時豊臣政権では集権派(石田三成など)と分権派(徳川家康など)とで対立があってその争いに巻き込まれる形で宇都宮改易は起こった。
石田三成は家康を牽制するために会津に上杉景勝を配したが、その際に家康に通ずる蒲生氏の改易を狙っていた。
しかし、それを不満に思う家康は浅野長政を使って宇都宮、佐竹両氏を改易し、その地に蒲生秀行を移そうと画策してた。
実際に宇都宮国綱が改易された後に宇都宮に移ってきたのは親家康派の蒲生秀行
佐竹氏も改易の危機が迫っていたけど国綱改易の後佐竹義宣は父義重に浅野長政に悟られる前に上洛するよう書状を送っている。(慶長2年10月7日の書状)
石田三成も佐竹氏改易を阻止するために奔走した結果改易を免れることとなった。 那須とか大関さんが暗躍せずしっかり国造りしときゃ普通に宇都宮とかに勝てそうなのは気のせいだろうか? 宇都宮は別に攻めなくても勝手に自滅して弱体化したからな。
多功一族や小林豊後守、市田備中守とかそれなりの武勇を誇る将はいたけどやっぱり天文以降の宇都宮は弱いよな
那須はせっかく高資という革新的な人物がいたにもかかわらず大田原が潰しちゃったかな。 上杉、佐竹、宇都宮、那須、結城、小田、小山、白川結城
近隣大名は全て内訌で苦しんでいたからお互い様かと
関東大名は公方家と関東公方家との争いに巻き込まれて、家中は真っ二つになってしまった
比較的早い時期に収める事が出来た佐竹は何とか影響力を回復させつつあったが
混乱しているうちに小田原北条を伸長させてしまって追い込まれていく事に >>481
小田政治が家督を継ぐ前の話じゃないの?
成治の子達が家督を争って殺し合いになっちゃった事件で、最終的に足利氏から政治を養子として迎えたってやつ
>>480
佐竹は地理的な関係でも他の関東大名より大分有利だったよ
当主も義舜、義篤と有能だったのも大きい
宇都宮は甲相同盟成立や度重なる北条の侵攻で家中が動揺して離反が相次いだ
まあ戦国末期の宇都宮のグダグダ感は忠綱失脚の影響がかなりあったらしいが >>482
特にどこが有利と言う事もなかったと思うけど
佐竹も義舜の代には本拠の太田すら奪われて十数年も家臣の所に居候したり山に籠ったりして滅亡寸前に追いやられた
この点、宇都宮広綱とよく似ている
その後も江戸、小野崎といった家中の半数近くを占める有力家臣の離反に苦しみ
更に小田、宇都宮、那須、白川結城に侵食され義昭の時代まで自領の回復すら出来なかった
義昭の代になると岩城、宇都宮と強固な盟友関係を築く事で
白川結城、小田、那須の三方面に絞られていく訳だが
白川結城と葦名が結んだ事で、葦名白川の攻撃に晒され、更に田村も巻き込んで北部方面は数十年に渡って係争地となってしまう
南部では長尾上杉と結んで小田との戦いを有利に展開していったが、これが小田原北条の介入を招いてしまい、以下は知っての通り
そして三代に渡って葦名、白川、田村との戦いに決着をつけたと思ったら今度は伊達と接触する事になる
北条や伊達の伸長を放置すれば自分の首を絞める事になるから、遠方の国の後詰め要請も放置出来ず
ひたすら後詰め後詰めで忙殺されて自国の領土を増やす戦いをする暇もなくなり
かといって出陣すれば洞中の諸将には褒美を与えなければならないから、勝っても負けても宗家は痩せ細るという悪循環
ある意味、一番苦しい戦いを強いられていたかもしれない >>483
上野勢や下野南部は北条だけじゃなくて武田からも圧力をかけれてたから別にどこも同じような状況だし佐竹だけ特別苦しいということはないと思う
北条の侵攻が過激になった頃は北条側以外の勢力はどこも防衛戦に徹してるから領土を増やすなんて当然できない 武茂城の場所おかしくない?
おもっきし那須氏の勢力圏じゃん 逆に言えば川さえどうにできればなんとかなる。他に要害になりそうなとこがないから むしろ馬頭の辺りって山ばかりだけど
しかも結構切り立った崖が多い
平地は那珂川沿いにしかないが、今みたいに堤防はないから湿地と水田が広がっていたとみて間違いない
どちらかと言うと黒羽や依上から山間を抜けて攻められる方が厄介だと思う 武茂や茂木はよく細々と生き残っていたよな
那須、宇都宮、佐竹ら有力大名が内訌で身動き取れなかったというのが一番の理由だろうけど 久しぶりに黒羽城行ってきたが、なかなか良い城だ
でもあれで陣屋とか言うの無理があるよな 茂木も武茂も最終的には佐竹に降ったじゃん
宇都宮が内訌でボロボロになるまでは武茂も宇都宮家臣だったし 武茂は家臣と言うか別家だな
仙台藩と宇和島藩のようなもので
それにしても大田原周辺ってあれだけ平地があるのに1万数千石しかなかったのは不思議だな
開墾すれば余裕で10万石ぐらいはいけそうだが
近代以前は平地が稲作に適さなかったと言うのはあるけど 平地というかなだらかな坂だな。馬とか生産するにはいいとは思うんだが 那須疏水できたの明治期だからね。水利が悪すぎたんでしょう、那須野が原は。 扇状地じゃないか。水田は無理だし水がなきゃ果樹園も作れんわな 麦とか野菜ぐらいは作れそうなものだが
と思ったけどあの辺りは砂礫なんだな
作れても芋か蕎麦ぐらいか
それはそうと
先日、仕事で白河へ行った帰りに芦野城と伊王野城を見てきた
芦野城はこじんまりしていて、いかにも国人領主の城らしいものだ
3000石程度であったようだから士分が100人程で、郷士や百姓を入城させても300〜 500人ほどであったろう
その規模で守るには適した城だ
それと二ノ丸の東側奥に樹齢400〜500年の槙の木がある
芦野盛泰が居住していた頃からあって、もしかしたら彼も見ていたかもしれないと思うと感慨深いものがある 野菜とかは諦めて馬放牧とかもあるな。ちなみに那須塩原は本州で一番牛乳が取れるらしい >>492
家中には組み込まれてたけど家臣というには微妙な立ち位置
芳賀景高との争いに惨敗して家中内の地位はあっという間に没落した ああ、確かに畜産業には最適だね
馬の生産はいいかもしれない
肉牛や豚の需要だって全く無かった訳ではないし
畜産なら表高を誤魔化しやすいしねw その条件だともう適地適作でがんばった方がいいな
重要な戦略物資の米・麦が他領からの供給頼みになってしまうけれども それが問題なんだよな
当時は米が金みたいなものだから、稲作が出来ないとどうしても外交上弱くなる 那珂川で砂金採りするのもなあ。水さえなんとかすればできればOKなんだが
そいや那須って東北道のほうじゃなくてもっと下のあたりが本拠地だっけ? 那須氏の本拠は那須烏山市(旧烏山町)だよ
思いっきり南東に寄っている
現代の感覚だと、開けた大田原辺りか勢力圏の中心部として黒羽か湯津上が良さげに見えるけど
近世に入るまでは稲作の適地は山間であったし、防衛上も山間の方が有利だったから烏山を本拠にしたのだろう
元々は那珂川町(旧小川町)の那珂川沿いに神田城という平城を築いて本拠としていたが
防衛上不利とみて本拠を移したのだろう
ちなみに神田城は中世の城らしい見事な長方形の単郭式遺構が残っている
中身は民家と田んぼになっているが、あそこの住人が羨ましいw 那須氏の本拠は那須城(福原城)でしょ
分裂後は上那須の本拠だったけど下那須が両那須統一したから結果的に烏山城が本拠になっただけじゃあないの? 神戸市の東、芦屋西宮の知的障害者施設で未成年利用者に性的な行為をして淫行条例で逮捕された三田谷学園元職員の堂垣直人(西宮市老松町)は、結局どういう罪になったの?
被害者家族のケアを芦屋市役所と兵庫県警はちゃんとやったのか?
差別や虐待は環境を選べない子供には関係ない。
http://www.youtube.com/watch?v=JxMzW3ZlV4g&sns=em 資清高増の陰に隠れがちだけど資孝綱清もかなりの切れ者 真っ黒な家臣に囲まれてる那須さんが気の毒になってきた 真っ黒な大田原三兄弟に主殺しの千本
反抗的な伊王野
マシなのは蘆野ぐらいか
那須七騎とかいっても結束力ゼロだな http://www.sengoku-taisen.com/lounge/index.html
すげぇ・・あの宇都宮成綱が戦国大戦に参戦だってよ!
イラストもカッコいいし下野を代表する武将としての威厳もあるし最高だわ 広綱「息子とお爺ちゃんに先越されたw」って感じだろうなぁ
那須と小山、佐野からも誰か出てほしいね
スケキヨさんとかタカマスさんとか >>514
成綱って17代当主だよね?なんかイラストのコメント間違ってない?18代当主とか書かれてあるけど