【宇都宮・那須】 下野の戦国大名2 【小山・佐野】
佐野は単独スレあるじゃん。過疎ってるけど。
足利は長尾スレ、将軍家スレどっちもある。 那須氏が那須与一の子孫というのはやはり伝説にすぎなかったか 非実在というよりも、平家物語ぐらいにしか出てこないのはおかしい、という程度では >>6
両毛と言えば由良
伊勢原と館林と足利も謙信から貰ってるし。
皆川の場所って
あそこは両毛じゃなくね?
あと鹿沼なんかも両毛じゃないよね。 >>11
足利長尾氏と由良氏がごっちゃになってる。 >>17
縁談を謙信が纏めたという話は何を元に?
あと館林城は広田氏に渡されてるのでは? 永禄13年2月に謙信が足利長尾から接収した
館林を広田に宛がってるよ。 長尾政長って越相同盟締結の直後に死んでたんだね。
しかも謙信に嫌われてた? 増山さんや津軽さんから養子も入れてましたが、結局大名の座から転落したのは気の毒としか言いようがありません >>21
軍事とか内政はそこそこ頑張っていたが、中央政権の応接がまずかった。
上杉憲当=上杉憲政の偏諱なんだね
もの凄い忠臣の予感 長沼氏って、真岡(旧二宮)の本領から、会津田島に行ったと思ったら
戻ってきたり。かと思ったら栃木市(皆川)の方に行ったり、と思うと
会津の方にも残ってて伊達政宗に加勢したり・・・どなたか詳しい方、
大まかな流れを教えていただけますか?? 皆川は両毛ではないが両毛を含む東上野から下総北部にかけての秀郷流藤原氏地域の一員で
皆川広照の娘が結城晴朝の養女として由良国繁に嫁ぐといった縁がある。
由良成繁、長尾当長の妻は秀郷流佐貫氏を下克上した館林の赤井氏出身で
成繁と赤井氏の子の顕長が足利長尾氏を継いで館林を支配した(一旦取り上げられたが)のも縁があってのことだろう。
由良成繁、渡瀬繁詮、佐野房綱、皆川広照…
この辺は外交センスに長けた武将が多かったが結局(家としては)不運なことになったね。 秀次付きの家老になってからは横須賀城だな
遠江横須賀3万石 古河公方勢力、最強の家臣って多分宇都宮氏だよね。
上杉氏のライバルだったし。 時代によって違うよ。
ってか「最大」じゃなくて最強ってw
まあ佐々木倫朗氏に言わせれば、佐竹が古河公方の与党だったか微妙な所らしいし、
里見は小弓方と考えれば、宇都宮が最強といえなくもないかもね >>32
市村高男氏によれば、天正期の結城氏単体での石高は、太閤検地後の数値に換算して一万石程度なんだって。
名目上は多賀谷・水谷は結城家臣だが、彼らの方が数倍強大だったみたい 水谷正村ってやたら戦に強いよな。
宇都宮領を攻めとって宇都宮の討伐軍を常にボコボコにしてついには手出しされなくなった。 >>34
> 水谷正村ってやたら戦に強いよな。
外交能力もけっこう高かった。 他の東国大名が、信長→秀吉ラインの外交をするなか
最初から家康を有力と見て外交していた先見性はすごいよね。
おかげで周りが譜代、親藩だらけの常陸で本土を安堵しているし、
正宗のときには外様から譜代扱いになったのもその故? マイナーな藤堂高虎みたいな人だったんだろうな。
軍事も外交もそこそこできた。 関ヶ原後も生き残った水谷と佐竹の子分に成り果てた末に改易された多賀谷…どうして差が付いたのか むしろ水谷には中央との手管がなかったんじゃないのかね?
>>40
織田家と信仰が深かった山科言継から運動を受け
禁裏料を朝廷に返納し、朝廷から正式に伊勢守を授けられている
(東国武将のほとんどは自称)ことを考えれば中央とのパイプは
あったんじゃない?
織田信長との会見も家康がセッティングして正村が京に
上る途中で本能寺の変が起きたせいで果たせなかったが…。
本田忠勝から正村の弟雅俊に、正村上京の際、
満足に接待できなかったことを詫びる書状もあり。 中央との繋がりがあったとしても大国と小国とでは自ずと差が出てしまうということだな ガン〜バ ガンバだガンバルウ こくごさんすう生活科
ガンバルウといっしょにガンバルウ
それいけドンドン
ガンバルウ〜 下野スレなのに盛り上がっているのは水谷ネタ…
なんでよ むしろ小国こそ中央の動きに敏感だったと言える
水谷氏の他も佐野氏とか江戸氏も結構中央政権と繋がりを強めていたし
佐竹氏や宇都宮氏は彼らと比べるとやや鈍い
北条氏や伊達氏になると更に鈍い >>46
宇都宮氏いいとこ無しだからじゃない?
活躍した話の代わりに、活躍されてしまった話しか出てこないw 宇都宮も大家の割りには鎌倉以来ずっと良いとこないな 成綱の末期〜忠綱の代には、戦国大名化していたと言えなくはない。
佐竹・上那須に圧勝、鹿沼氏を殲滅、皆川当主を戦死させて従属下に置いた。
興綱の謀反が余りにも痛すぎる。
芳賀家中すら抑えられない奴が本家全体を纏められる訳ない。
しまいにゃ自害させられてるし。無能が出しゃばると最悪だな 結城合戦で、領土、家臣ともに失った結城氏としては
調略で周囲の勢力を弱体化させるしかなかったからね。 >>49
鎌倉時代までは同族の二条家とは婚姻も含めた交遊があったようだし
宇都宮辻子に幕府が置かれたり、元寇では派遣軍の司令官だったり
守護歴は下野・上野・越後・伊予・豊前、地頭職は数多。
成綱・忠綱路線が継続されてたら・・・ >>50
この後また壬生綱房が台頭してコントロール不能になるからな せっかくだから、宇都宮四天王を選出してみた。
芳賀高経:兄の仇と子を追落し、興綱、尚綱親子の宇都宮相続に尽力した。
壬生綱房:ただ一人の主君・尚綱のみに仕え、宇都宮城を死ぬまで守り抜いた。
芳賀高照:高経の子。宇都宮氏と那須氏の戦いにおいて活躍し、見事父の仇を討ち取った。
壬生義雄:綱房の孫。壬生家を乱した叔父を討取り、北条氏と宇都宮氏の戦いにおいて活躍した。 益子の没落が地味すぎてもったいない
鎌倉以前からの重臣なのに 江戸時代は益子って黒羽藩(大関家)の飛び地だったのな
それで宇都宮氏の菩提寺があったから宇都宮氏が法事やろうとして大関氏と揉めたと言う話しを読んだ記憶が 益子勝宗は宇都宮見限って、
水谷家に投降しちゃうし 水谷と多賀谷。なぜ、差がついたか。慢心、環境の違い。 なぜ山内上杉は下野に侵攻できなかったんだろう。
宇都宮も佐竹も里見も結城も機能していないんだから、
実はいつでも勝てたような気がする。 古河公方の成氏とその手下の新田岩松が頑張ってたおかげで、下野どころか東上野への進撃すら撃退されてました 憲実以降は暗殺連敗×2相続争い×2越相同盟殆どおじゃん相続争い関東撤退
64に同意。普段はいがみあう佐竹、宇都宮、結城も
古河公方の鶴の一声で反上杉として動いた。
利根川の東岸には反上杉のための城が築かれ、逆に
西側には上杉勢の城が構築。結局この前線が
後北条と東国武将勢の最前線になった。 壬生周長って不思議だな。
兄の綱房と協力して宇都宮城を乗っ取る謀略家でありながら
広綱・高定に敗退後は一貫して親宇都宮派。
宇都宮から独立しようとした惣領の綱雄をブッ殺してまで
徹底的に宇都宮に服従。最期は義雄に討たれる。
壬生領と塩谷領は小田原征伐後、何で宇都宮に帰属しなかったんだろうな 天下統一後の話で考えるなら石田氏も宇都宮氏を信用していないだろうな
あれだけ助言しても糠釘の宇都宮氏は使えない駒にしか見えない 佐竹からの情報でこっそり小田原前に上洛してた大関は上手いタイミングで佐竹と縁切ったな
関ヶ原ではきっちり東軍に城を開けた 縁を切ったと言うか豊臣政権下で分けられたのだよ
大関氏は宇都宮氏の与力大名に組み込まれて浅野長政の指導を受ける立場になったから
石田派の佐竹とは距離が空いた
宇都宮氏改易後は徳川氏に近い蒲生氏が入ったから更に徳川寄りになった >>72
石田からのあれだけ助言て、
一体何があったの?
殿下への土産品のこととか? 上洛のことかな?
結局やらなかったのが後々に響いたのかも。 秀吉の遠征前に上洛しても
最終的に改易された大友とかもいるから。 大友はなあ
彼だけではないとはいえ、その後の行動も悪すぎ そう
援軍無視なら他にもいたがそれでは住まず敵前逃亡だからな そんなことがあったんだ
石高を過少申告したのがばれたのは、あれは何なの? あれはデマじゃないか?
過少申告って言うけど、宇都宮氏改易後も石高が訂正された様子がない
やはり宇都宮氏改易の原因は浅野氏との確執だろう 支配する支配されるではなく
領地を安堵してくれて、かつ勢いのある方に付くのが日光山だろ 基本的に日光は自治領。
しかし、天正中期から後北条氏。
北条没落後は結城氏。 日光山は、後北条方について宇都宮らと戦っただけで
日光が御北条領になったことは歴史上一度もない。
北条は日光領の検地も行ってない。
いわゆる、「国衆領」だ。
小田原征伐で、北条に味方した日光山は領土を没収され衰微する。
その後、日光領は、鹿沼領や小山領・榎本領と一緒に結城秀康に与えられる。 那須は北の結城、佐竹、
南の宇都宮と敵対してたのに、よく生き延びたよね。 地形が最大の味方だからな。世界史で言えば吐蕃みたいな勢力。 ついでにいうなら那須のが佐竹や宇都宮より強兵だからな
兵の数が物を言う平野部の合戦ならともかく山岳戦で那須が負けるわけない 地形図で見ると平らに見えるんだけど。
大田原とか矢板とか。 >>94
そこら辺は主戦場じゃない
佐竹と戦う時は那珂川沿いの辺りで東が山の狭い所、最悪烏山城下。
宇都宮が来たらさくらから筑紫山を結んだラインの丘が連続してる辺りが戦場になる。 那須にとっての敵は身内だろw
いつ寝首かかれるかわからん。 白河からの敵は山は無いが血管のように張った小さな川が進軍を妨げる。 那須七騎の兵の動員力の無さは異常。リーダーの那須ですら1500程度が精一杯。
他の連中に至っては50人とか信じられん少人数で戦場に出てる。 ただ、ホームゲームには強いんだよね。一時の南海ホークスみたいなもんか。 城攻めの敗走率もまた高い。守る相手を倒すには動員の頭数が足らなすぎる。
しかし一回でも潰走したらついでに討死してしまいそうな動員力で
那須七騎で討死した人物が全然いないな。伊王野資信ぐらいか。 他の勢力の軍記物の兵数が盛ってあるだけで、
このくらいの勢力ならどこもそんなもんだったんじゃないかね 民草まで戦争に駆り出すのは忍びなかったので
坂東武者の古き良き伝統を守り続けてただけだろう 国力的には佐竹、宇都宮、那須、白川結城はそんなに大差はない
ただ、佐竹なんかは同盟国を次々増やしていったから援軍や共同戦線で優位に進めていった
だが基本的には小田原北条や伊達のように広域に影響を及ぼす敵に対して結束するだけで
例えば佐竹の場合は那須、白川辺りと戦う時はほぼ単独で当たる事が多かった
だからなかなか決着がつかなかったのだろう 佐竹は敵対してる北条贔屓の家を上杉に依頼して攻撃してもらう事があるが那須は標的にならなかったな。 >>100
> 城攻めの敗走率もまた高い。
那須は野戦には強いが、城攻めは無理。 >>106
上杉の出兵要請無視したって事だわな。
那須資胤は兄の死の後ろ暗い経緯を足利義氏に揉み消して貰った恩もあるし、
上杉の足利藤氏擁立には賛成出来ない立場。 小田倉の戦いは上杉に協力しない那須への突き上げって見方もある >>107
那須にも要請があったのだろうか
那須、佐竹、江戸、大掾などの名前がないけど
単に距離的な問題だったりして 随分マイナーな中世城郭(家臣の城)のジオラマだ。
沼地に突き出た台地の要害に築かれた土の城だ。
大きさも500o×330oで卓上サイズで手ごろな感じ。
博物館仕様で作らせただけあって見事なできばえだ。
http://saikatsutramway.sakura.ne.jp/saikatsu_tramway/furumaki.html 小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など
【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1329412330/l10 >>111
> 随分マイナーな中世城郭(家臣の城)のジオラマだ。
こりゃいい。 >>32
対結城連戦連敗な上に領土も奪われて
よくそんなことがいえるな >>115
もしも〜し! ちゃんと読んでるか?
32は宇都宮が結城より優位であるとは書いてないぞ
むしろ疑問を投げかけてるぞ……あれ、つられた俺? 上那須衆は勢力範囲は広かったけど、割りと国力がなかったのだよ
大関、大田原、福原、伊王野、蘆野の五騎を合わせても那須氏の1/4程度
それに上那須衆は全てが大関方に付いたわけではなく、大関家中でさえ那須方に付いたものがいた
だから実際はかなり複雑で、上那須衆もそう簡単には動けなかった
そこで佐竹に支援を要請したわけだが、佐竹にしても洞中を総動員できないとそれほど兵は集まらない
そして烏山は防衛に適した土地だから、地の利を生かした戦いをすればそう簡単には負けない >>110
謙信は那須氏に興味が無かったのかな。
小田原と逆方向だし。 那須氏は基本的に古河公方派(義氏・小田原北條氏)だから謙信に応じなかった
公方派だけど、同じく公方派の白川氏・葦名氏と争ったり
管領派(上杉氏)の佐竹氏と同盟結んだり争ったり、同じく管領派の宇都宮氏と争ったり立ち位置が複雑である >>121
佐竹氏と宇都宮氏は、管領派じゃなく足利藤氏派・・・とはならないの? 那須氏は謙信が小田原を囲んだ時に謙信のもとに参陣すると書状を送っている。
だから米沢藩の正史『謙信公御年譜』では那須氏も参陣したことになっていたはず。
軍記物だと謙信が関東の諸侯を集めて小田原を包囲したということになっているが
実際には小田原を襲った後で諸侯と引見したくらいなものだったんだろう。
小山氏も同様に謙信が小田原を囲んだ時点で謙信に書状を送っている。
しかし謙信は(軍記物だと一ヶ月囲んだことになっているが)10日ほどで小田原から撤退したので
那須氏は途中で兵を引き返したのではないかな。 宇都宮氏の華麗なる戦歴
1526年 ×宇都宮vs結城&芳賀&壬生○ 結城政朝、宇都宮忠綱を下野猿山において破る。芳賀興綱宇都宮城主となる。
1548年 ×宇都宮vs結城○ 宇都宮俊綱、結城政勝&水谷政村と争い敗れる。
1544年 ×宇都宮vs結城○ 結城家臣水谷正村、宇都宮方の中村城を攻略する。
1545年 ×宇都宮vs結城&小山○ 宇都宮俊綱、結城政勝&小山高朝と福土味で争い、敗北する。
1549年 ×宇都宮vs那須○ 宇都宮尚綱、那須高資と早乙女ヶ原にて戦い戦死する。
1555年 ×宇都宮vs結城○ 結城家臣水谷正村、宇都宮方の八木岡城を攻略する。
1555年 ×宇都宮vs結城○ 結城政勝、宇都宮方の小栗城を攻略する。
ちなみに調べても出ないのだけど400〜500年くらい前の江曽島〜市街地近辺の古地図ってないのかな?図書館にありますか? >>125
常陸の常敗将軍こと小田天庵公には全然及ばないな 宇都宮広綱は早々に死にすぎだよ。
外交も戦も良かったのに。 どの大名家でも前後して不孝が重なる時期があるんだよな
大概は内乱と当主の早死にが重なってボロボロになる 昔は医療水準が低かったから、ちょっとした病気で死んじゃうからね。 房総半島を例にだしてすまなかったが、
「大名の戦死率」がなんとなく気になったもので。
島津は鎌倉時代以来、当主の戦死率は極端に低いと記憶しているが。 大名クラスの当主が敵に討ち取られるのはレアケースだと思うけど
戦国時代(天正18年まで)でも、そんなに何十件もあるわけではないと思う >>138
少弐氏の歴代当主は、畳の上で死んだ人より、戦死した人のほうが多いのではなかったか? 佐竹氏最盛期:実高165万石(豊臣政権期)実高
佐竹氏 ・清和源氏を祖とする佐竹氏本家。 常陸下野下総陸奥南部54万5千4百石(実高80万石)三成、佐竹家の石高をまける
蘆名氏 ・当初は奥州の有力大名。義重の次男義広を蘆名家当主とした。 常陸5万石
岩城氏 ・奥州藤原氏と関係が深い。義重の3男貞隆が家督を継いだ。 陸奥東部12万石(実高10万石) 磐城平藩より
多賀谷氏 ・桓武平氏を祖とする名門。義重の4男宣家を養子と迎え当主とした。 下総北部6万石(実高20万石)
宇都宮氏 ・義重の甥、国綱が当主となるが浅野長政の不快をかい改易される。 下野18万石(改易)(実高40万石)改易理由
相馬氏 ・佐竹氏とは親戚関係。関ヶ原の戦い後一端改易されるが復権する。 陸奥東部6万石 (実高10万石)相馬藩より この訳のわからない荒らしは定期的に湧いてくるな
佐竹みたいなマイナー大名にもアンチがいるらしい アンチだよ
何で厨がわざと出鱈目書いて関連スレに貼り回る必要があるんだ
しかも佐竹スレで何度も住人と争ってるし アンチがいるのが大名(ただしアンチ里見は見たことがない)
いないのが小名とか半独立勢力(由利12頭、江戸氏、真壁氏など) この板のアンチは例の人が一人で9割は占めているから
彼に目を付けられるかどうかが問題
里見をネタに奴を煽れば、里見スレがアンチコピペで埋め作られる事になる >>126
坂東歴史年表をみると単独で勝った戦は皆無に等しい
http://www5a.biglobe.ne.jp/~miyaya/bandou-nenpyou.htm >>148
それ言ったら相手だって単独で勝ったのは殆どないだろw >>138
宇都宮忠綱・・・追放後、暗殺?
宇都宮興綱・・・生涯
宇都宮尚綱・・・喜連川合戦で戦死(対那須)
那須資久・・・暗殺
那須資永・・・戦死(対下那須)
那須高資・・・暗殺
壬生綱房・・・暗殺?
壬生綱雄・・・暗殺
壬生周長・・・戦死(内紛)
皆川宗成、成明兄弟・・・川原田合戦で戦死(対宇都宮)
皆川俊宗・・・関宿城で戦死(対北条)
佐野宗綱・・・彦馬合戦で戦死(対足利長尾)
戦死暗殺ではないけど小山は断絶しすぎw >>147
それは期待したい半面、彼女は逸話を考慮するとワンクールも厳しいかもしれん 三夜連続ぐらいか
第一話 姫から妻へ
第二話 夫の死と家督代行
第三話 家の行く末 一年ぐらい余裕だろ
ここ最近の大河なんて史実無視で9割方は脚本家の創作だし
いつもみたいに他人の逸話パクりまくれば良い まずは良い原作が必要。
とれんでぃな脚本家には何も期待できない。
素人受けし、玄人も少し楽しめる、宇都宮一族を描いた歴史小説が良い。 小山や宇都宮や佐野とか頼朝以来の名家が多いのに、江戸時代まで残ったのは
那須だけって案外悲惨だな=下野 その那須家もお家騒動で改易だから、幕末まで残った名家は喜連川くらいかな
喜連川は小弓公方系だから純粋な下野名家とは言えないかもしれんけど 現在でも男系が残っているのは宇都宮、大田原、喜連川か >>160
大名として残ったのは大田原、大関ぐらいか。
旗本だったら皆川とか那須とか残っているけど。 >>155
豊前宇都宮氏なら派手に滅亡したから可能かもしれんが、下野宇都宮氏はなぁ…
>>162
喜連川は何回か他家からの養子が入ってるから血筋は残ってないんじゃないかな >>163
大関の家は残ったけど血脈が途絶えたのが残念 >>166
中小大名や旗本だと、藩祖の血を引いていない当主もザラだしなあ。
那須氏なんかも、資弥以降も何度も養子が入っている 宇都宮城も早く再建できたらいいのに…あといくらぐらい必要なんだっけ 歩道や階段は仕方ないにしても
堀の底、土塁の壁、消防車?の出入口のコンクリ丸出しはマジ止めて欲しい。
酷すぎ。。。 しかもど真ん中に穴あけるセンスには脱帽だぜ
子供はああ言うものだと思っちゃうわな 画像でワロタw
ひょっとして城壁の上にちょこんと乗ったモノだけ?
本丸はどこだよ 四角い本丸の一辺
□ →「
この部分の土塁しか復原していないから他に何もないよ
内側は少し広場になっていて小さい資料館みたいなものがあるだけ
復原した建物は土塁の上にある櫓が二つ
ご丁寧に土塁はエレベーター付である
土塁の内部も鉄筋コンクリ製だから安全安心 >>176
解説サンクス
とりあえず「城」とよべるような代物じゃないことはよく分かった
やはり原因は資金不足か、それとも知識不足だろうか? 中途半端なのは資金不足だね
完全に都市化して遺構は煙滅しているから、本丸だけ復元するにしてもかなりの土地を買い上げる必要がある
民家も数十件あるが「城を復元するので立ち退いて下さい」と言っても全員が承諾してくれる可能性はゼロに近いだろう
だから大規模な復元は不可能と言って良いと思う
土塁や櫓自体は割と忠実に復元されているし、資料も遺されているから知識不足でコンクリ使ったり穴あけたりした訳ではないよ
あくまで遺跡ではなく公園+防災施設として建造されたものだから、利便性が重要視されたのだろう
まあ、近いなら観に行ってみてはいかが?
遠くならわざわざ観に行く程のものではないけどね
エレベーター付き土塁はなかなか無いと思うよw
櫓も一応中に入れるし、トンネルの中に宇都宮城のジオラマとか少し資料もあって
係のおじさんが説明してくれる(今も居るか分からないが) よっぽどな金持ちが不動産屋とつるんで中国みたいに
住人締め出しでもしない限り実現しないってことか〜
戊辰戦争が怨めしいよ… 建物は戊辰戦争で焼失したけど、堀や土塁は60年ぐらい前まで残ってたらしいね
戦後の都市計画で全て破壊されてしまっけど、80代ぐらいのお年寄りは良く覚えている 建物は戊辰戦争で焼失したけど、堀や土塁は60年ぐらい前まで残ってたらしいね
戦後の都市計画で全て破壊されてしまっけど、80代ぐらいのお年寄りは良く覚えている
日本のカミである、宮将軍の東武皇帝であり、殿様天皇の命において、この様な男女間の裸体での性行為の撮影は完全禁止している。
理由は出演女性は、殿様へのプレゼントの奉仕ペット女性が、男優がカミだと騙されて出て子作りしているから。秩父宮の子の偽者に気をつけよう。
撮影協力者の男優・監督・カメラマンは完全に逮捕するように。撮影完全停止。八王子、西東京には本物の宮家・御曹司・王子は居ない。
東武皇帝の経歴を勝手に使って、自分が偉いフリをしている偽者も存在している。公に記録が残る所で同じ発言をしない典型的な詐欺なので気をつけよう。
http://www.dmm.co.jp/mono/dvd/-/list/=/article=maker/id=45067/
http://www.dmm.co.jp/mono/dvd/-/list/=/article=director/id=101151/
http://www.dmm.co.jp/digital/videoa/-/list/=/release_date=now/sort=date/
これらのポルノAVは偽者の命令なので、本物である私は許していない。これは約束・契約の仕事にならない。
http://www.h4610.com/listpages/177_1.html
[ 東京熱 ]←で検索(URLが直に2chに書けない)
この様な活動は昔から日本では底辺層の仕事で、これをさせる人達も昔から日本では底辺層の人が関わっていて、偉い人はいない。男優は芸名で偉い人の子ではない。
騙された事を知っても自殺はしてはいけない。騙した悪人を倒そう!
宇都宮は鎌倉時代以降だんだんと弱体化したとは言うものの
そもそも頼朝にもらった石高とか最盛期の石高っていくらぐらいだったの? 下野の領土的には戦国中期まで殆ど変わらないと思うよ
全国にあった鎌倉期の守護職や地頭職は戦国時代の領土とは少々異なるし
飛び地と言うより別家だ 下野宇都宮氏の場合、忠綱の代が一番伸長したのかなと。
武茂・茂木・塩谷はまだ一門として残り、壬生・皆川・薬師寺は傘下。
その忠綱の代で思いっきり衰退しちゃったのがなぁ
先代の成綱の置き土産が炸裂した結果だけど、アレがなかったら下野一国の支配も夢ではなかった >>188
成綱は最後の最後でミスったな
結果論だが宇都宮家はどんだけ力持った家臣を粛清しようが別の誰かが力を手に入れる
決して当主が実権のすべて掌握し切れてないっていう
ただの怨み買い損になってる ただ、やらない訳にもいかないから。
人の上に立つ人は恨まれるのも仕事かなと。
益子笠間みたいな譜代一門を粛清した国綱は頑張ったな。
頑張ったが・・・。 鎌倉以来の譜代(というかもはや一門)は扱いにくいだろうな
粛清が比較的うまくいった佐竹とはどこで差が付いたのだろうか… 益子の地蔵院行ってきた。
宇都宮氏の歴代墓所は、江戸期の陪臣としてはよく整備されていると思う。
宇都宮氏は墓守の旧臣の方に恵まれているなと感じた 黒羽藩と揉めるぐらい益子の宇都宮旧臣は忠誠心高かったからな 信長の野望やってると佐野氏ってよく宇都宮か足利辺りの配下なってるけど、このお家は独立大名として本当は見て良いのん? 一応、古河公方家の洞中に包括されてはいたけど実質的には独立大名だわな 明けましておめでとうございます
正月といえば佐野宗綱の足利長尾攻めですね あけましておめでとう
>>195
遅レスだけど。
小山と聞いてまっさきに義政と若犬丸が浮かぶ俺は少数派。 宗綱って正月早々討死したのかよ
かなりやっちまった感がたるな 正月に実家に帰って先祖の出自を調べたら那須家だった
信憑性はないけど 俺なんか宇都宮家の分家の分家の分家の分家のぶんk(ry
って言われてんだけど絶対に薄過ぎる上に何か信憑性のあるアイテムも無いっていう残念状況 宇都宮氏は古くからの名族なだけあって広範囲に散らばったよね
九州地方を調べてるとちょくちょく現れるw
しかも戦国時代でも一族のネットワークが健在だったり >>207だけど西備名区って書物は信憑性高いのかな?
博識な方いたら教えてください >>210
県の重要文化財だし県史にも関わるんなら信憑性は高いと思う
出自は何で調べたの?代々の菩提寺の過去帳とかかな?
郷土資料館みたいなところに家系図があるとか聞いたことない? >>211
途中で菩提寺が変わってしまっているのでまだ過去帳などは調べられていません
しかし前のお寺は江戸の初期頃からあるらしいのでまたお願いしてみようと思っています
出自は沼隈郡史という本で知りました
西備名区のこともそこに書いてありました
家系図がどこかに保存されているという話はきいたことないです… >>212
すまん博識ではないのであとは
先祖について詳しい親戚に聞いてみるとか
先祖代々の墓があればそこに身分や役職ががあるか調べる
くらいしか言えないな >>213
いえいえ
ご助言ありがとうございました! そいや宇都宮国綱以降の血筋って絶えてる?
まだ残ってる? 明治までは続いているけど、その後はどうなったのやら
廃藩の後、当主の正綱(33代)は益子に住んでいたようだが >216
33代目まで歴代の墓所は益子に並んでるけどね。
同じ下野の大名でいうと、皆川氏も歴代金剛寺に墓所があって、
現在の当主も健在らしい 蘆野、大田原、大関、那須、福原あたりの子孫もどこにいるのだろうね
みんな大名や交代寄合で那須町周辺に領地を維持してたから一族の一人や二人は地元に残ってそうだが
水戸の50号バイパスに伊王野商店ってタバコ屋あるけど、間違いなく那須七騎の伊王野一族だろうな
伊王野氏は水戸藩士だったし、伊王野なんて姓は他にない >>218
那須さんは冤罪の被害にあった方。
与一伝承館の名誉館長をされていたかな 飛山城は、中世の城にしてはなかなかどうしての復元だった。
堀が浅かったけど、安全性なんたらの理由だろう。仕方ない。
あと空堀が3〜5メートルは深いと解釈しておく。
宇都宮城も堀の部分を表面だけでいいから土や漆喰風味に固めてくれれば良かったのにな 漆喰ってのは、あの打ち立てコンクリ剥き出し門の部分に対してね 飛山城の堀切はほぼ完全に埋まっていたからねぇ
近場で往時の保存状態がいいのは さくら市氏家の勝山城
矢板の城もほぼ手つかずで保存状態がいい 変わり種は茂木城だな
あんな妙な縄張りは他に見たことない 那須の城は小ぢんまりとした印象だが、どこの城も立地が良くて守りやすそうな感じ
街道を取り込む縄張りの城が好きだから、個人的には黒羽が一番気に入っている
でも杉とか高木は伐って欲しいわ 那須って防衛戦にやたらと強いけど、城跡からその一端が垣間見れそう
いつか行って見たいな あの辺りは地形も良いんだよ
山間で川沿いは高い崖が多いし、平地は狭く湿地が多い
だから大軍は展開しにくいし、多方面からの攻撃も受けにくい
でも大田原方面は平坦な土地が広がっているんだよね
だが宇都宮氏は大田原方面を何度か攻めたけど失敗している 宇都宮が攻めるにしても大田原が守るにしても川を越えることがネックになる
逆も同じ
関ヶ原前哨戦の徳川軍が一気に攻め上る事を躊躇した事もコレ 鬼怒川以外はそれほど大きな川はないと思うけど
もっとも細い川でも結構数があるんだよな
宇都宮氏も箒川でやられたし 小さな川でも北にのぼると水量が少ない時期でも浸食に因る深さが在るから川を越えるのが難しい
川の渓谷を避ける為には南の方から迂回しなければならないからね 一人二人が川を越えるのなら何とでもなるが
数十人以上が戦いの装備ごと兵糧も含めて川を越えるのは大変なんだよね
それに大田原対宇都宮になると道の関係でホントに攻め口が限定されるし道が狭いから
守りやすく攻め辛い それでもまだ攻め易い経路なんだよな
烏山方面は絶壁や入り組む山に阻まれて進軍は困難
だから大田原方面が戦場になる事が多かった
だが結局どの勢力も突破できなかったけど
那須氏の領域はどの方角からも入り難い本当に守りやすく攻めにくい土地だ
関ヶ原や幕末にもあの辺りでお互い対峙して身動きの取りづらい状況だったし 太閤も那須を超えて攻め上るのめんどくさいから伊達に「奥州は任せた!」って云ったんだろw 奥州なら陸路より海路のほうが楽だろうけどな。酒田とかなら兵站駅としても十分だろうし。チベットじゃなくて岩手は面倒だろうけど それもあるかもしれないけど、人員物資が大変なことになりそう
万単位の陸戦部隊を輸送するのに一体どれだけの船と水夫が必要になるやら
補給物資やある程度の水兵も乗せなきゃならないだろうし 輸送量も速度も速いからな
特に戦国時代はそれほど街道が整備されていなかっただろうし
だから河川や湖沼の多い武蔵、下総、常陸南部辺りは舟による移動や輸送が盛んだった
まあ、舟と言っても小さなものだろうし海を渡るような舟とは比較出来ないが ん?戦国時代に鹿島のほうから遡って江戸に抜けるルートって使えるんだっけ? >鹿島のほうから遡って江戸に抜ける
海なのか陸なのか どのルートの事を聞きたいのか判らん
でも戦国時代に他人の領地へ行くという事はかなり危険なんだよな >>234
秀吉が奥州まで行ったのは那須ではなく鬼怒川沿い。
>>241
利根川が東遷するのは徳川時代の話。
>>242
関宿城攻防戦は、水系を北条方か上杉方かを抑える戦いでもあった。
氏康が関宿城を指して「一国に値する」と言った程だから、政治・軍事・経済の要地でもあった。
国府台合戦も利根川の双方の防衛ライン上で起こったもの。 秀吉本人は宇都宮近郊どまり その後奥州仕置軍は奥州街道を北上,白河から会津に入っているから 鬼怒川沿いルートでは無いような と言うか行きは奥州街道で、帰りは会津西街道を通ったようだが 那須氏ってまだ残っているのかな
最近冤罪で当主なくなったらしいけど 那須は知らないけど、大田原市辺りに行くと大関さんとか大田原さんってたくさんいるのな
あれ一族だろうね
まさかお膝元で偽者はそうそうおるまい >>246
37代目の当主が与一伝承館の名誉館長になっているそうな
(先代が例の冤罪被害にあった方) 小山市に行ってきたんだが、市の発行しているガイドブックが想像以上に充実してて驚いた
Q&A形式で見開き8ページは小山氏と小山評定ネタ
問題もマニアック 常陸や下総もそうだけど、下野も諸勢力が拮抗して最後まで統一勢力が現れなかったな
那須、宇都宮、小山、佐野、長尾の五強といった感じだったが
宇都宮や小山の衰退で壬生、皆川などが台頭し更に佐竹や結城が食い込んで来てカオスに 何度も滅びては蘇った小山一族(小山氏、結城氏)は地味に凄い
一族の内紛は武家の常だけどもう少しなんとかならなかったのとは思う
特に那須と宇都宮 那須では大田原三兄弟が、宇都宮では芳賀・壬生が敵味方相手に大暗躍
汚いなさすが下野きたない どれだけ相手を騙せるかで勝負を決する戦争で清い戦いなどある訳ない
むしろまだまだ温い
主家を滅ぼして伸長できなかった辺りは、結局大関も他の将と大差ない 主家を滅ぼすことなく大名になった大関らのやり方は賢いんじゃね
那須資晴を排除する際にも、秀吉をうまく利用してる
これは結果論になるが、下野にまとまった領地をもってても改易の危険が高い
先祖伝来の土地にこだわるのならほどほどが良いと悟ったのかも そこまでの考えは無かったかと
大関ら上那須衆は佐竹の支援を受けて何度も宗家を滅ぼそうと攻め込んだが
結局攻めきれなくて和解した訳だし
関東の諸大名家は軒並み内訌で長期間混乱したが
これって単なる内訌と言うより関東管領(将軍家)と関東公方の争いの一端なんだよな しかししぶといな。天庵さまには負けるが一気に滅びるってないよね? 那須姓ってかなり多いよな
伊王野や蘆野はかなりレアだけど 那須の子孫が冤罪でブタ箱、大関の子孫は陸軍少将や東大教授
不平等やね 子孫と言っても、もはや誰の子孫なのやら
那須氏も大関氏も養子が入りすぎて、血縁上は殆ど他人っぽい 夏休みに出自を詳しく調べてみたら那須与一の弟の末裔って記述があったんだが与一に弟いなくね? 誰か宇都宮成綱の娘で結城政朝の妻になった方の名前知っている人いませんかね? >>150
綱房はそのころかなり老齢だったし、寿命で死没した可能性の方が高そうだけどね >>191
でもあの時やらなければ宇都宮は芳賀高勝に乗っ取られてたからなあ。
成綱は頑張ったと思うよ。少なくとも宇都宮錯乱後で成綱が生きている間は家中の統制は十分できていた
1516年に没していなければ興綱の反乱も抑えられたと思うし、那須、佐竹、小山は家中でゴタゴタしてたからもっと躍進できただろうな。 宇都宮、那須、小山、佐竹、小田、結城、大掾、白川結城
この時期、宇都宮の周辺勢力もみんな将軍家と関東公方家の争いに絡んで家中分裂起こして苦しんでいたな
なんとか内訌を克服出来た佐竹が勢力を伸ばしたぐらいで
他はずるずると後を引いて、結局下野常陸は統一勢力が現れなかった
係争地になって散々荒らされまくった上野に比べればまだマシではあったが みな平安・鎌倉時代から続く名族なだけに無常感が半端ないね
小山や大掾なんて見る影もなく衰退しちゃって…
個人的には鎌倉から長いこと不遇だった佐竹が最終的に一番の勝ち組になってるのがおもしろいわ 那須高資
大関宗増
大関高増
大田原資清
佐久山義隆
宇都宮成綱
壬生綱房
壬生徳雪斎
芳賀高定
多功長朝
多功房朝
益子勝宗
佐野昌綱
小山高朝
下野国だけでも有能な武将が多かっただけに最後まで
統一勢力が現れなかったのが残念だよな 統一どころか半分も・・・
那須、宇都宮、小山で三分してた頃が一番まとまってたか 考えてみれば三家とも藤原氏
秀郷流藤原氏の嫡流は小山氏だっけ? >>278
忠綱の代に過半を超えて、ほぼ統一目前だったけどな
ふう あのあたり一強がいないんだろうな。でなきゃ天庵さん何度も復活できないじゃん 宇都宮は成綱時代に、佐竹は義昭時代に、国内統一のチャンスがあったんだけどな
両者ともあと10歳長生き出来れば 清党で唯一戦国の世を乗り切って旗本として残った岡本家。
泉騒動で結局改易されるが・・・。
ほんと、下野国は内紛が多いよな。 宇都宮にある岡本家住宅って岡本氏の宗家なのだろうか 宇都宮氏改易後、宇都宮氏の侍医だった人が宇津救命丸を作ったのは有名。
現在は高根沢から東京に移ったとか。
岡本氏の侍医だった一族の子孫が現県議会議員だったか?
旧河内町の元町長・玉生氏は宇都宮一族の子孫か? 高根沢には広い敷地の古い家屋がいっぱい残っている
工場は今でも高根沢に在るし 栃木県で竜巻か。
重要な歴史的文化遺産が破壊されていたら嫌だな 現岩舟町付近で栄えた下野の小野寺氏・・・。
嫡流だったのにいつのまにか庶流だった仙北の小野寺氏が嫡流扱いされているって・・ >>281
天庵さんの頃にはすでに成綱がいないからなぁ 宇都宮は短期間に居城を乗っ取られすぎだろ
絶頂期からの転落がやばい 大永6年(大永3年説もある)に芳賀興綱
天文18年に壬生綱房
元亀3年に皆川俊宗
に乗っ取られているからなぁ
宇都宮の戦国時代は特に内紛が激しかったね 今wiki見たら、興綱は忠綱の弟説と解説されてた
おまけに芳賀氏も継いでいないだと…? 内乱だと不意をつかれるから簡単に落城しちゃうんだよな
その点、敵に5回ぐらい居城を落とされた天庵様はある種の才能としか思えない 周りの強敵って軍神、武田、北条、伊達、佐竹だっけ?バラバラでやられないってことはよほどカオスな土地なんだろうな 直接的な戦闘とかはなかったけど、武田とは同盟結んだりしてたな
伊達は天正17年に葦名を滅ぼして白川結城を支配下に置いた事で下野と隣接する事になった
それで那須氏と接近し始めたけど、数ヵ月後に小田原攻めが始まったから
それ以上の動きはなかったが >>292
www2.harimaya.com/sengoku/html/haga_k.html
↑
ここでも高勝の跡は高孝が継いだって書いてあるね。
興綱は芳賀すらも統率できないのに宇都宮乗っ取ったのかよw >>297
そのサイトでは従来どおり、興綱は忠綱の叔父であり、芳賀を継いだという立場だね
芳賀景高
→高勝(宇都宮錯乱で粛清)
→高孝
→興綱(芳賀景高に養育され、芳賀氏歴代の受領名「左兵衛尉」を名乗っていることから)
という流れかな しかしあれだな
仮に忠綱の弟説に立つと、宇都宮城乗っ取り時の興綱は
1.幼少
2.支持基盤なし
3.少し前まで権勢を振るっていた重臣一族
…役満じゃねぇか http://plaza.harmonix.ne.jp/~ionowie/nasu6.html
伊王野氏の末裔である伊王野正史さんのページだけど、これによると
上那須で資永と資久の後継者争いでどちらも没した後、宇都宮成綱が那須に介入して、
成綱の弟(年から考えて興綱だろう)を上那須に送り込もうと狙っていたみたいだな。
それを下那須の資房が危惧して早めに手を打って統一に成功しているけど
これで興綱を送り込むのに失敗したからかわりに芳賀を継がせた
とかありえそう 下野の戦国大名で佐野昌綱以外に肖像画が存在する人物っているの? 探せばたくさんあると思うよ
大田原には大田原家の歴代当主の肖像画があるし
大関高増や小山秀綱の肖像画もある 幕末まで残った家ならありそうだな
宇都宮や壬生はわからんな。
鎌倉時代の御家人だった宇都宮朝綱なら見たことあるが・・・
戦国大名の成綱や俊綱、広綱とかは見たことないね 宇都宮や那須は没落しちゃったからな
基本的に肖像画は死後数十年や百年ぐらい経ってから描かれる物が多いから
子孫が没落してしまうと、なかなか描かれる事はない
それに神社や寺に奉納されるから、主家が没落すると菩提寺や氏神も庇護を失って同時に没落してしまう場合もあるだろうし 霊廟があれば、権力のある人物は木像、お金が無くなってくると肖像画が在るのが普通 そりゃそうだ。俺らだって自分の部屋曝されたくねえだろw やはり宇都宮家レベルの古い名門になると改易されても相当な影響力持っているのだな
益子って江戸時代は黒羽藩(大関家)の飛び地だったけど、宇都宮家の菩提寺があるから何度も法事を行っているんだね
宇都宮氏は水戸藩の臣下だったから、益子は他藩の領地になる訳だけど
お構い無しに旧臣らを集めて盛大に法事を執り行っていた
益子の民衆も黒羽藩より宇都宮家を優先していたそうだ
よく、旧領主が旧臣らを集めて 一揆を扇動する事があるけど
100年200年経っても強く結び付いているのだから、確かに一揆起こすのも容易いかもしれない
そう言う点からすると、やはり改易や転封で帰農した遺臣らを取り込む事は新領主にとって重要な事だな 来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/ >>309
大関家にとってはやりにくいけど、藪をつついて蛇を出したくはないだろうし
そのあたりは大目に見るほうが得策だろうね 黒田官兵衛といえば城井宇都宮の城井鎮房が殺害された話があったな 城井鎮房が本領召し上げ後すぐに蜂起し黒田勢を撃退できたのも、
城井谷との結びつきの強さを物語っているな 城井長房って遠く離れた豊前の分家なのに、なんで本家に深く介入できたんですか? あれは話半分だろ
隠居して自由に動ける立場だった程度 下野の武将で辞世の句とかないかな?
宇都宮成綱や大田原資清、大関高増とかはありそうな気がするが 那須は蟲毒という表現がぴったり
最後まで勝ち残ったのが大田原一族 関東公方-那須・壬生・小山・佐野
上杉-宇都宮・足利長尾 大雑把ですけど大体これであってますかね? いつの時代区分だよ
関東公方は戦国時代には実質的にもういません
区分けもメチャクチャ
宇都宮成綱の女婿や外孫が古河公方だけど。 >>320
関東公方と上杉で分かれてるから享徳の乱じゃないか?
享徳の乱が戦国時代かどうかは意見が分かれるだろうが 各大名家の中でも公方派と管領派に分裂しているから複雑で明確な区別はし難いな
公方が失墜すると今度は管領派が分裂して争い、両上杉が失墜するとまたも管領が二家台頭してきて争い
更に自称管領家と副将軍が現れてカオスに 戦国時代の宇都宮家(成綱、忠綱、興綱、俊綱、広綱、国綱)で従五位下になれたのって国綱だけ? 宇都宮氏は五位じゃなくて四位の家柄だろ
成綱は正四位下、あとは従四位下 >>324
国綱が従四位下って記述はよく見るけど他の人物に関しては見たことないな
ソースよろ 天徳寺が信長に仕えていた時って、どこの戦線いってたんだろうね? 房綱は信長には仕えてません
その頃はまだ佐野に居ました そもそもどこから信長に仕えていたなんてデマが生まれたんだろ? 信長の家臣 滝川一益の与力として働いていた事が書状などで確認出来るから
大きな流れでは信長の家臣という事が出来ないわけではない >>334
d
粟野俊之って駒沢大学講師なんだな
論文あった
天徳寺宝衍考 : 戦国後期の関東と織田・豊臣政権(戦国大名論集I,杉山博先生古希記念号)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007002937
佐野記にかいてあるっぽい
調べてみる 宇都宮一族の茂木氏って戦国後期に佐竹家臣になる前は宇都宮氏の家臣だったの? 茂木は小田の庶流。
北関東の地頭が手近の八館等手近の大名と個別に契約関係を結ぶのは
在地の抗争が激しくなる戦国中後期に入ってからで、それ以前は独立的に行動し、
概ね公方家、もしくは管領家と歩調を合わせていた。 小田も宇都宮と同じく祖は宇都宮宗円(藤原宗円)だからその庶流である茂木も宇都宮氏族ってことになるのか 宇都宮成綱って入道して継巌(継岩)って名乗ったらしいけど
上杉謙信や武田信玄みたいに表記するとしたら宇都宮継巌ってことになるんけ? >>348
宇都宮氏の氏祖・初代は藤原宗円。
2代目は八田宗綱(自称が八田)。
下館の八田地区を本拠としていた。のちに宇都宮に本拠を移す。
小田氏の氏祖・初代とする場合もある。
3代目は宇都宮朝綱。宗綱の長男。この代から宇都宮に改姓する。
八田知家は朝綱の弟。宗綱の次男。
小田氏の初代とする場合もあるし、2代目と数える場合もある。
彼の2代後に小田氏へ改姓。
茂木氏は八田知家の三男・茂木知基を祖とする。
小田氏族、小田の庶家でいい。
ただ、宇都宮氏と他人という訳でもない。 宇都宮忠綱ってなんで無能扱いされてるの?
俊綱や広綱、国綱よりは有能だったと思うのに >>351
無能扱いされて結城に認められず関係悪化させた忠綱
その後しっかり関係修復に成功させた俊綱
幼君で一番危ない時期ですら見放されなかった広綱
それだけで忠綱が下に見られても仕方無いよね
他国の評価酷いもん >>352
小山・結城との関係修復に成功したのは俊綱じゃなくて興綱(というより芳賀高経・建高か)。
俊綱は結城政朝の娘との婚姻を一応成功しているけど、和睦の使者でやってきた水
谷政村の部隊を攻撃してしまったことや、那須政資と那須高資の家督争いで対立
したために外交は四面楚歌状態だったぞ。
政治面は専横甚だしい芳賀高経を排除できたのは良いけど、壬生綱房の専横を許し
てしまったし。 >>351-352
軍事のみなら、それなりに評価できる。
対鹿沼、対佐竹、対皆川と連戦連勝。
が、『孫子』の「百戦百勝は善の善なるものに非ず」だな。
芳賀氏の謀反を察知できなかったのは、忠綱の驕りがあったのかもな >>353
そういや結城家と宇都宮家って結局は仲どうなったの?
尚綱が嫁貰ってからも仲良く対北条やってる時もあれば敵対してる時もあるしよく分からん
忠綱だけが悪いようには確かに思えんな >>355
秀康が結城家に入嗣するにあたって、結城晴朝は先に宇都宮家からもらってた朝勝を廃嫡して送り帰してるから、
両家の仲は最終的には悪化したとおもわれる
それが理由かはわからないけど関ヶ原、大阪の陣でも敵対してる 関東の要地である結城に自らの縁者である秀康を送り込み、豊臣政権による関東支配の基地として掌握するための豊臣秀吉による思惑
隣地に実子が配置されることによって関東における地位を確固たるものにしようという関東移封された徳川家康の思惑
結城の名を後世に残したい結城晴朝の思惑
これらの利害が一致したことによって秀康が結城家に入嗣し、朝勝を廃嫡して宇都宮に送り飛ばしている
ちなみに宇都宮氏の改易は豊臣政権内の東国支配を巡って集権派(石田三成、増田長盛)と分権派(徳川家康、前田利家、伊達政宗)
による政争が原因とのこと
宇都宮氏、佐竹氏は当時石田派だったために家康は両氏を改易し、その地に徳川派の蒲生氏を入れ、関東から石田派を排除しようと企んでいた
石田三成の助けがなければ宇都宮氏と一緒に佐竹氏も改易されてた。宇都宮氏は間に合わなかったが・・・ 佐竹は節目節目で変なカード引くような気がする・・・生き残ってるんだからそれでもいいんだろうけど 生き残れなかった宇都宮ディスってんのかー?
あー!!!!!!????? 佐竹と宇都宮の差は当主の有能さ
佐竹と里見の差は北条氏からの距離
当主が有能で北条氏と直接やりあわないで済む位置にいればそら生き残るよ どう考えても成綱期の負の遺産と尚綱がいいとこで死んだ悪い面を色濃く受け継いだせいだろ
当主単体で頑張れる基盤がねーよ 宇都宮は大永の内訌がなければあそこまでひどくならなかっただろうに・・・
宇都宮成綱がもっと長生きしていればなぁ むしろ明綱が21歳なんかで死んで断絶しなきゃ…
下手すると武茂も芳賀も台頭しなかったかもしれん >>363
正綱は明綱の弟だから宗家は断絶してないよ 既に明綱の頃も芳賀は増長してた件
まだ武茂が競合相手としていた頃だから戦国期よりはマシか 武茂って堅綱の代から佐竹家臣だけどそれ以前は何してたん?
宇都宮から離れた時期の空白が分からん 武茂は成綱が家督継承する際に芳賀との間で政争があって敗北
それ以降武茂は権力中枢からは脱落している
守綱の代で天正年間に佐竹と合戦して以降佐竹家臣になった 宇都宮が没落したのは興綱が原因
…といっても傀儡として芳賀に利用されていただけだから被害者みたいなものか そもそも興綱は自分の意志と関係無く擁立されただけだろ…
10歳の幼君にしては自立頑張ってた方だ 追記しとくと興綱が当主なった時点じゃ尚綱が当主でも1歳差だから結果は変わらんだろう 成人してから興綱は積極的に軍事行動してたじゃないか
そのせいで氏家辺りが焦土と化したけどなw 成綱の子はみんな軍事に積極的だなw
落合氏はよく知らんけど 益子との血縁関係をもっと強化していれば芳賀の抑えとして機能していたのに 芳賀派と益子派に分かれて内紛するんですね。わかります 益子勝宗と芳賀高経が争っている間に一番おいしいところを掻っ攫うのが壬生綱房ですね r、「iハ ハ/}n
rヽ レ7 ∩ /っ 争え・・・
`Y /´/ _ L ヽ ノ
>.--ヘィ'"´ ̄> '" ̄"'/ }、 ,.ハ、 `7 もっと争え・・・
ト--/ハ /. . . . . . . ヽ_/ハ / /7
ヽ {! ヘ //. . ./ハ. .i..fi..V/ヘ/ ./
ヽ i{!i. .}rリ'´リ.八ト+}..、..ヘ /
ヽ リv.トN⌒ . ⌒iハ∧ .} /
ヽ !ハ iフ ノ/ |. .l./
ヽ VV>, - ィi// レ'/
〉、 レヾ レf::ハiレ !| ∧
. /. . ヘ{ ハ = i/. . ヘ
/. . {. .ハ大 l::::l関 /. . . . ヘ
. //../..! . ヘ l::::l /. . . . i.ハV 下野、上野、越後の三国を支配した大大名宇都宮氏綱公が戦国期に生まれていれば・・・ 天正年間の宇都宮広綱期の重臣で真っ先に挙がるのが芳賀高継だけど、
それ以上に権力を持っていたといわれる岡本宗慶って一体何者なんだろうか? 紀党の岡本氏と関係はあるのかどうか
そして詳細不明の宇都宮忠綱の息子の岡本家…
もし忠綱の孫辺りの人間だったなら有力な感じがする >>381
勢いで適当に書いちゃったけど俺も気になったから手元の資料を読み直してみた
簡単に説明すると元亀年間は芳賀高継はまだその存在感は無かったと見られる
芳賀氏は失脚してた時期もあり、その芳賀氏の年齢や実績も積み重なっていなければ別の氏が台頭する事もあると
そして尚綱期には既に頭角を現してたと思われる岡本宗慶は主に上杉家との外交関係を担っていたようだ
重要な外交担当なのに高継では無く芳賀分家の岡本家が担当してた事を鑑みるに当時はやはり年齢も実績も彼の方が上らしい
当然彼は親上杉派なので親北条派の皆川俊宗から見れば岡本宗慶は邪魔だったようで殺害したという経緯らしい
権力を有して居たのは当然として親上杉派の代表格っぽかったみたいだね >>383
なるほど、一時期宇都宮が親北条路線をとっていたのは皆川俊宗が上杉派の核である岡本宗慶を殺害したことが原因だったのか 戦国大戦っていうアケゲーに宇都宮国綱が下野国代表で参戦したみたいだけど弱すぎて涙目
大田原資清・宇都宮成綱・武茂兼綱・塩谷孝綱・落合業親・壬生綱房・宇都宮尚綱・宇都宮広綱・多功長朝・多功綱継・大関高増
福原資孝・大田原綱清・芳賀高経・益子勝宗・芳賀高定・芳賀高継・那須高資・小山高朝・佐野昌綱・佐野宗綱・佐野房綱・皆川俊宗・長尾景長
下野からはこの辺出せば良いのにな 知名度UPにも繋がるし >>385
戦国大戦に宇都宮ついに出たのかって調べたらショタ過ぎw
1.2まで遊んでたけどこの程度じゃ復帰するには到らんかな
ちなみにノブヤボで俺は宇都宮の家臣と一門を100名以上登録してる ノブヤボで自作したとしても作品によっては
成綱みたいな戦国時代初期の大名はシナリオの時代のせいで登場すらできないというオチ 芳賀高継は親北条に傾いたまではともかく
北条と結託して謀反起こしたら駄目だろ 高継って小田原までになんで一旦は親北条路線取ってたんだ?
養子問題の時と違って明確な利が見えない 八木岡貞家が水谷正村に討たれた後、宇都宮俊綱が武田信隆を総大将にして3000の軍勢で正村を攻めさせたらしいけど
この武田信隆って上総武田の武田信隆かな?
それとも下野にも清和源氏流の武田の一族がいたってこと? >>394
同時代に真里谷信隆という武将が居るのは知ってる
でも俊綱が総大将云々の話は聞いたことがない…
どの資料? 結城政朝の妻って成綱の姉説と成綱の娘説の二つがあるらしいけどどっちなんだろうな >>397
去年の11月上旬に発売した書籍だと姉妹説だね
結城政朝の年齢を考えればその方が自然だし俺は姉妹だと思う >>393
可能性として
・北条に調略されてた
・秀吉が北条討伐に来ると思ってなかった
・芳賀氏当主に復帰したかった
・隣の益子が謀反していて危機感を覚えていた
・主家を乗っ取ろうとしていた
最後のは無理としても上4つが複合した結果かなと >>387>>389
下野国内の武将でトータルの数値なら宇都宮成綱、謀将なら大田原資清・壬生綱房・大関高増(他にもいっぱい)、
忠臣なら芳賀高定・多功親子という感じかな
芳賀高定・佐野房綱あたりは全体的にもっと能力高くていいはず
逆に宇都宮興綱の評価は高すぎ。もっと下げるべき >>401
下野って謀将多いな
大田原資清・壬生綱房・大関高増から比べるとワンランク下だけど芳賀高経や益子勝宗、壬生徳雪斎周長とかもそれっぽいし
興綱は新説採用されたら忠綱よりもひどい扱いになりそうw 南に北条、東に佐竹、北には蘆名とかまーくんとかいるんだ。きのこるには黒くなきゃいけません >>401
最近の興綱ってどんどん下方傾向のような…
そもそも最近は34年シナリオから削除されてすら居るしw
新作の高定はエース級の能力でやばいよ
成長するし最後まで筆頭で使える そういえば成綱も天道の1511年のシナリオに登場しなかったな
>>404
綱房も十分強いけどどちらも1560年には既に寿命でいなくなっちゃうのがなぁ
綱房が没してからは高定に頼りっぱなしになる
本来なら「武の多功」とまで言われている多功氏がノブヤボだとわけわからん能力になっているのが・・・ >>405
水谷正村とか周辺の武将の能力を加味するとギリ納得が出来る範囲なんだよ
問題は有名武将との差だな
姫にすら負ける統率武力はさすがに萎える 多功綱継辺りの能力付けは難しそう
北条氏邦を撃退できるくらいの実力を持つ武将だから統率と武力は70〜75くらいはほしいけど
水谷正村のことを考えるとそういうわけにもいかない
そして那須高資が武力80越えに対してほぼ無敗な水谷正村の武力があの能力なのは納得できん
>>406
ほんとこれ >>398
その本に宇都宮家の墓所の項目があるけど謎が多いよな
特に成綱と忠綱の石塔は彼らの生前のものらしいし 20年くらい前までは、あの五輪塔の一部はどの当主のものか分かってなかったらしいからね
天皇陵みたいに取り敢えず誰か決めておきました。という形にしてるのも数代いるようで。
もちろん口伝が本当の墓所になってる当主も居るんだろうけどね 滅亡した大名ってのは資料が欠けてくから困ったもんだよな 何で益子に墓所が定められたのか、どうやって清原氏・紀氏を傘下に収めたのか、笠間に領土を広げたのか
3代目あたりの系譜など様々な経緯が解明されてないからな
三傑に取り立てられた大名の四大姓の系譜はほぼ確実に嘘だが、
それ以前に守護級の大名は嘘ではないにせよ謎が多い
島津ですら出自に関しては色々と不明な部分が残ってるし 平安末期の宇都宮には藤原宗円を祖とする藤原姓宇都宮氏以外にも
佐々木定綱や中原姓宇都宮氏、紀姓宇都宮氏がいたみたいだな
その後どうやって藤原姓宇都宮氏が他の宇都宮氏を抑えて宇都宮大明神の座主になれたかは不明だけど
藤原宗円も実在を示す資料がまだ見つかっていないみたいだし 宇都宮は道兼流の公家でありながら二荒山神社の座主にして
鎌倉府の政所をつとめた有力御家人であり、元寇でも総大将として活躍したようですね。
中臣氏の血を受け継ぐ名門中の名門。
庶流城井鎮房に艾蓬の射法が相伝されているのも感慨深い。
那須与一や那須七党も宇都宮氏の血族だという説もあり武門の誉れ高い一族ですね。 那須与一自体も存在が怪しいのだけど、存在が怪しくなる前から既に那須家の与一出自が胡散臭かったという点に関しても興味深い 宇都宮嫡流も「坂東一の弓取り」と賞賛されている上に芳賀禅可も弓なら負けないって自負しているもんな 弓だけでなく和歌にも優れた人物が多い宇都宮氏はまさに文武両道
百人一首のきっかけは頼綱だしね 娘が定家の嫡男に嫁いでるから親戚だね
頼綱の住む小倉山の別荘を飾る色紙を選んでもらったのが百人一首の始まりらしい ウィキペディアで二階堂晴行の項目見てたんだけど、1536年に宇都宮と那須の合戦に関与してたんだね
これどっち側に関与してたかとか分かります?
出展元が記載されてないしネットで調べてみたけどいまいち分かりませんでした 永正17年(1520年)に起こった浄宝寺縄吊し合戦って川井合戦のこと?
この合戦で壬生綱房が活躍したみたいだけど 結局戦国大戦の1477に宇都宮成綱は出なかったのか >>417
東国の中でも武といったら当時は宇都宮だったのか ノブヤボだと芳賀高定は土佐一条家の土居宗珊みたいなポジションだよね。上位互換が阿蘇家の甲斐宗運で。
広綱と阿蘇惟将はもう少し評価されていいかと 宇都宮成綱はもっと評価されるべき
信ヤボの能力低すぎ 横田氏当主が上三川城に移った後の横田城って誰が城主だったの? >>414
概ね、婚姻か養子で家まで一緒になった、取り込んで行ったのは想像つくんだけどね
5代目の頼綱が藤原定家の嫡男に娘を嫁がせてるのを見ると、少なくとも藤姓が入ってるのは間違いない
3代目の朝綱の代あたりは藤姓と中原系の両方の血は受け継いそうな気はする >>407
創造だと
統率=防御力
武力=攻撃力
だからいくら戦功が多くても宇都宮は尚綱の代以降攻めることよりも守戦の方が多かったから
宮中一の侍大将と呼ばれた多功長朝、多功房朝、多功綱継は統率>武力なステータスが無難 >>427-428
短命だと、どうしても業績そのものが限られてしまうからな
広綱は尼子晴久と似てるかな。ビジョンはあったが、それを成し遂げる前に…
国綱はどう見ても家督相続時の状況が悪すぎだったが、よく戦った。本拠地の移転も大決断
養子問題が遠因で改易されたが、今でも男系が残ってるのは本当に救われる
慶長の役でも旧臣と一緒に渡海したりと人望はあったんだろうね とはいえ、広綱の代で宇都宮家の家中を大きく変化させることに成功したのは大きい
忠綱の代で勢力拡大に失敗して以降、弱体化し続け痺れを切らし、離反する一門衆(壬生、多功、武茂、松野、喜連川塩谷、簗)や家臣(益子、皆川)
と大変な中広綱はよくやったよ そもそも武茂や松野って、よくあの本拠地で宇都宮一族として永らえたよな
どう見ても地図では那須の勢力圏内 あそこは完全に飛び地だよな
北はそのまんま那須地方で大関、福原、芦野、伊王野など那須七騎の本拠
西は大田原
南は那須宗家の本拠地だし
東は佐竹
完全に逃げ場なし
戦になったら連絡線を確保するのも困難だわ
まあ、結局は佐竹に吸収されたけど 宇都宮惣領家の方も忠綱〜俊綱の間は那須や小山・結城と争っている(天文期に小山高朝軍に贄木を突破されて宮中や宿町を焼き払われる多大な被害を被った)から
武茂や松野が佐竹や那須とかに攻められても助けに行けるような状況じゃないからな 大関と大田原に囲まれてる地点でご愁傷様としかいいようがない 宇都宮家臣の大金氏も武茂地方北部にいたけど武茂や松野が佐竹に従属した後どうなったのか気になるわ 大金氏や松野氏の動向って不明だけど、やはり武茂氏が那須氏に攻められた時は武茂氏の後詰めに行ったのだろうか
状況を見るに武茂洞中的な協力関係が築かれていたのかもしれないが >>438
でもある意味あの連中のお陰で存続出来たと言えなくもない
大田原一派が不穏な行動をとっていたから那須家中は一枚岩にはなれず
那須宗家も何度か武茂氏を攻めたが撃退されてしまった
佐竹宗家も100年に渡った山入一揆で瀕死に追い込まれ
常陸江戸氏によって現常陸大宮市の鷲子地域(旧美和村鷲子)を横領されてしまった
これによって武茂氏と佐竹氏の間に緩衝地帯が生まれた
また、武茂氏も鷲子地域に侵出し、城を築いて一族を配置して鳥子氏を名乗らせ勢力を拡大した >>438
宇都宮城って基本的に防御には不向きなんだよな
特に南方は平野ばかりで、一度野戦で負けると宮中まで押し込まれてしまう
>>441
同意。武茂の半独立状態は俺も那須が上下に分裂したのが大きいと思う
元は那須神田城が本拠で、下那須はどちらかと言えば分家筋
上那須衆からすれば烏山から命令されるのは内心は面白くない 武茂家臣ってどういう人物がいるんだ?出自は知らないけど北条義興くらいしか知らないわ 鎌倉時代の宇都宮家は婚姻上手く活用して瞬く間に勢力拡大したよね。それ故に厄介な揉め事にかなり巻き込まれたけど頼綱、泰綱、景綱の時代はまさに黄金期ってほどにまで栄えた。当時の宇都宮家は実質的な執権北条一門だったし。 宇都宮は結構良いポジションにいたんだけどね
最後の最後で躓いてしまった
あと3年耐えれば佐竹と共に名門大名として現代まで残れたものを 羽柴姓を秀吉から授かるくらいだったからな
秀吉がもう少し長生きしてたら大名復帰できてたかね せめて1万石でもいいから下野に残りたかったな
大田原や大関みたいに
いくら御三家といえども1000石の家老では寂しすぎる
陪臣だし 高野山の奥の院に行ったら各地の大名の墓の中に
大関家の墓もあった >>447
でも関ヶ原や大坂の陣での結城朝勝の行動を見ていると仮に大名として残ったとしても西軍に味方して改易されそう 佐竹、宇都宮、相馬、岩城、多賀谷は一蓮托生みたいなところがあったからな
結城もそうだったけど、晴朝が朝勝を追い出して秀康を迎えた事で離脱したが 宇都宮氏は最後の最後で本領に戻ったけどね
宇都宮ではなく菩提寺のある益子だけど
でも結局、東京に出ていってしまったようだが 実家が那須の方なので松野や武茂の辺りはたまに通るのだけど
あの辺りってどこに領地があったのか分からないような狭い谷間みたいな土地だよな
豊臣時代で見ると松野氏の本領は確か600石だか800石だかそんなものだったけど
確かにあの辺りしか領地がなかったとするとそんなものだよな
6人役だとしても戦力は40〜50人か… >>455
というか名族は東京に行ってしまった家が多いと思う
>>456
祭祀だけはナントカ松平が一応継続してるらしいが、家名も血筋も消滅してしまった
晴朝は晩年に何度も家名復興の祈願文を奉納してたらしいし、後悔してたんだろうね あまり話題にならないけど芳賀景高ってかなりの切れ者だと思う
実は芳賀高益とは親子ではなかった説もあるみたいだし >>458
結城を潰した暗愚な人物なのに結城秀康が結城を代表する武将みたくなっているのがなぁ 戦国時代の下野の初心者向けの本があったら教えてください。
ちなみに先祖は芳賀在住です。 >>461
とりあえず栃木県史とか読んでみたらいいんじゃなイカ? 皆川成勝の名前にある成の字について
1 父親である皆川宗成から成の字を授かった
2 古河公方足利成氏から成の字を授かった
3 下野国で猛威を振るっていた宇都宮成綱から成の字を授かった
4 上記以外
これらのうちのどれなんだろうな >>461
戦国期東国の権力構造(荒井善夫 著)がオススメ
本はかなり高いけど下野の主要な勢力である宇都宮、小山、那須についての大まかな動向がこれ一冊でわかる
これで各勢力に興味を持ったらそれぞれの専門に掲載されてる本を購入すれば良いかな >>458
前橋藩主になった結城(松平)直基の系統が結城氏の祭祀は継続してて、
結城朝光750年祭のときにも、前橋松平家の当主(結城氏としては34代目)が
出席している・・・とはいえ、結城氏そのものが消えてしまったからなあ。
宇都宮から迎えた跡継ぎを放逐してまで家名存続に奔走した晴朝の結末
としては物寂しいものがあるな 代々守ってきた領地はおろか家名まで無くなるとはな
本末転倒にもほどがある 養子押し付けを突っぱねた宇都宮と受け入れた結城
結局は同じ末路とは皮肉なものだ
そう言えば佐竹、宇都宮、結城の三家はみんな子供がいなかったんだよな(国綱は改易の翌年に義綱が生まれたが)
でも佐竹だけは養子の話を聞かない 浅野長政って国綱に嫌がらせしてたんだよな
文書からも国綱は明らかに長政を嫌っているのがわかるし なんで太閣の古参の近臣が片田舎の大名嫌うんだろうな?
普通は眼中にすら入ってないからスルーだと思うんだが
佐竹の取り次ぎが石田で自分は宇都宮程度だったのが嫌だったのだろうか いや、むしろ逆
石田や浅野といった重臣らは影響力を拡大する為に諸侯の取り込みに躍起になっていた
石田は佐竹や上杉といった大大名の取り込みに成功していたし
下野で最大の勢力を誇る宇都宮の取り込みも石田や浅野らにとって重要な事であった
そこで国綱に世継ぎのいない事に目をつけた浅野は自分の子供を養子に送り込む事で縁戚を結び、自陣に引き入れようとした
国綱や北條勝時、今泉高光といった重臣らは浅野と縁戚になる事で豊臣政権の中での地位を確定する為にこれを受け入れようとしたが
実弟の芳賀高武は強硬に反対し、北條勝時と今泉高光を殺害し両家を攻め滅ぼして浅野の縁組みを蹴った
これに怒った浅野によって石高詐称や家中不届きを理由に潰されたと言うのが真相だろう >>472
石田三成も宇都宮の取り組みに尽力していたぞ
この頃から既に浅野は家康の息が吹きかかってたから石田と浅野は対立してた 宇都宮まで石田側に付いたら浅野的には面白くないからな
宇都宮と決裂した以上は、石田に付かれる前に潰してしまおうと考える事は必然と言える
結城の取り込みにも失敗していたしな >>475
家康にとっては江戸の近辺を親族の秀康や親家康派の武将(大関高増や水谷政村、皆川広照など)で関東を固めたかったらしいから
親秀吉(石田)の派の佐竹や宇都宮は邪魔だった。また、当時豊臣政権では集権派(石田三成など)と分権派(徳川家康など)とで対立があってその争いに巻き込まれる形で宇都宮改易は起こった。
石田三成は家康を牽制するために会津に上杉景勝を配したが、その際に家康に通ずる蒲生氏の改易を狙っていた。
しかし、それを不満に思う家康は浅野長政を使って宇都宮、佐竹両氏を改易し、その地に蒲生秀行を移そうと画策してた。
実際に宇都宮国綱が改易された後に宇都宮に移ってきたのは親家康派の蒲生秀行
佐竹氏も改易の危機が迫っていたけど国綱改易の後佐竹義宣は父義重に浅野長政に悟られる前に上洛するよう書状を送っている。(慶長2年10月7日の書状)
石田三成も佐竹氏改易を阻止するために奔走した結果改易を免れることとなった。 那須とか大関さんが暗躍せずしっかり国造りしときゃ普通に宇都宮とかに勝てそうなのは気のせいだろうか? 宇都宮は別に攻めなくても勝手に自滅して弱体化したからな。
多功一族や小林豊後守、市田備中守とかそれなりの武勇を誇る将はいたけどやっぱり天文以降の宇都宮は弱いよな
那須はせっかく高資という革新的な人物がいたにもかかわらず大田原が潰しちゃったかな。 上杉、佐竹、宇都宮、那須、結城、小田、小山、白川結城
近隣大名は全て内訌で苦しんでいたからお互い様かと
関東大名は公方家と関東公方家との争いに巻き込まれて、家中は真っ二つになってしまった
比較的早い時期に収める事が出来た佐竹は何とか影響力を回復させつつあったが
混乱しているうちに小田原北条を伸長させてしまって追い込まれていく事に >>481
小田政治が家督を継ぐ前の話じゃないの?
成治の子達が家督を争って殺し合いになっちゃった事件で、最終的に足利氏から政治を養子として迎えたってやつ
>>480
佐竹は地理的な関係でも他の関東大名より大分有利だったよ
当主も義舜、義篤と有能だったのも大きい
宇都宮は甲相同盟成立や度重なる北条の侵攻で家中が動揺して離反が相次いだ
まあ戦国末期の宇都宮のグダグダ感は忠綱失脚の影響がかなりあったらしいが >>482
特にどこが有利と言う事もなかったと思うけど
佐竹も義舜の代には本拠の太田すら奪われて十数年も家臣の所に居候したり山に籠ったりして滅亡寸前に追いやられた
この点、宇都宮広綱とよく似ている
その後も江戸、小野崎といった家中の半数近くを占める有力家臣の離反に苦しみ
更に小田、宇都宮、那須、白川結城に侵食され義昭の時代まで自領の回復すら出来なかった
義昭の代になると岩城、宇都宮と強固な盟友関係を築く事で
白川結城、小田、那須の三方面に絞られていく訳だが
白川結城と葦名が結んだ事で、葦名白川の攻撃に晒され、更に田村も巻き込んで北部方面は数十年に渡って係争地となってしまう
南部では長尾上杉と結んで小田との戦いを有利に展開していったが、これが小田原北条の介入を招いてしまい、以下は知っての通り
そして三代に渡って葦名、白川、田村との戦いに決着をつけたと思ったら今度は伊達と接触する事になる
北条や伊達の伸長を放置すれば自分の首を絞める事になるから、遠方の国の後詰め要請も放置出来ず
ひたすら後詰め後詰めで忙殺されて自国の領土を増やす戦いをする暇もなくなり
かといって出陣すれば洞中の諸将には褒美を与えなければならないから、勝っても負けても宗家は痩せ細るという悪循環
ある意味、一番苦しい戦いを強いられていたかもしれない >>483
上野勢や下野南部は北条だけじゃなくて武田からも圧力をかけれてたから別にどこも同じような状況だし佐竹だけ特別苦しいということはないと思う
北条の侵攻が過激になった頃は北条側以外の勢力はどこも防衛戦に徹してるから領土を増やすなんて当然できない 武茂城の場所おかしくない?
おもっきし那須氏の勢力圏じゃん 逆に言えば川さえどうにできればなんとかなる。他に要害になりそうなとこがないから むしろ馬頭の辺りって山ばかりだけど
しかも結構切り立った崖が多い
平地は那珂川沿いにしかないが、今みたいに堤防はないから湿地と水田が広がっていたとみて間違いない
どちらかと言うと黒羽や依上から山間を抜けて攻められる方が厄介だと思う 武茂や茂木はよく細々と生き残っていたよな
那須、宇都宮、佐竹ら有力大名が内訌で身動き取れなかったというのが一番の理由だろうけど 久しぶりに黒羽城行ってきたが、なかなか良い城だ
でもあれで陣屋とか言うの無理があるよな 茂木も武茂も最終的には佐竹に降ったじゃん
宇都宮が内訌でボロボロになるまでは武茂も宇都宮家臣だったし 武茂は家臣と言うか別家だな
仙台藩と宇和島藩のようなもので
それにしても大田原周辺ってあれだけ平地があるのに1万数千石しかなかったのは不思議だな
開墾すれば余裕で10万石ぐらいはいけそうだが
近代以前は平地が稲作に適さなかったと言うのはあるけど 平地というかなだらかな坂だな。馬とか生産するにはいいとは思うんだが 那須疏水できたの明治期だからね。水利が悪すぎたんでしょう、那須野が原は。 扇状地じゃないか。水田は無理だし水がなきゃ果樹園も作れんわな 麦とか野菜ぐらいは作れそうなものだが
と思ったけどあの辺りは砂礫なんだな
作れても芋か蕎麦ぐらいか
それはそうと
先日、仕事で白河へ行った帰りに芦野城と伊王野城を見てきた
芦野城はこじんまりしていて、いかにも国人領主の城らしいものだ
3000石程度であったようだから士分が100人程で、郷士や百姓を入城させても300〜 500人ほどであったろう
その規模で守るには適した城だ
それと二ノ丸の東側奥に樹齢400〜500年の槙の木がある
芦野盛泰が居住していた頃からあって、もしかしたら彼も見ていたかもしれないと思うと感慨深いものがある 野菜とかは諦めて馬放牧とかもあるな。ちなみに那須塩原は本州で一番牛乳が取れるらしい >>492
家中には組み込まれてたけど家臣というには微妙な立ち位置
芳賀景高との争いに惨敗して家中内の地位はあっという間に没落した ああ、確かに畜産業には最適だね
馬の生産はいいかもしれない
肉牛や豚の需要だって全く無かった訳ではないし
畜産なら表高を誤魔化しやすいしねw その条件だともう適地適作でがんばった方がいいな
重要な戦略物資の米・麦が他領からの供給頼みになってしまうけれども それが問題なんだよな
当時は米が金みたいなものだから、稲作が出来ないとどうしても外交上弱くなる 那珂川で砂金採りするのもなあ。水さえなんとかすればできればOKなんだが
そいや那須って東北道のほうじゃなくてもっと下のあたりが本拠地だっけ? 那須氏の本拠は那須烏山市(旧烏山町)だよ
思いっきり南東に寄っている
現代の感覚だと、開けた大田原辺りか勢力圏の中心部として黒羽か湯津上が良さげに見えるけど
近世に入るまでは稲作の適地は山間であったし、防衛上も山間の方が有利だったから烏山を本拠にしたのだろう
元々は那珂川町(旧小川町)の那珂川沿いに神田城という平城を築いて本拠としていたが
防衛上不利とみて本拠を移したのだろう
ちなみに神田城は中世の城らしい見事な長方形の単郭式遺構が残っている
中身は民家と田んぼになっているが、あそこの住人が羨ましいw 那須氏の本拠は那須城(福原城)でしょ
分裂後は上那須の本拠だったけど下那須が両那須統一したから結果的に烏山城が本拠になっただけじゃあないの? 神戸市の東、芦屋西宮の知的障害者施設で未成年利用者に性的な行為をして淫行条例で逮捕された三田谷学園元職員の堂垣直人(西宮市老松町)は、結局どういう罪になったの?
被害者家族のケアを芦屋市役所と兵庫県警はちゃんとやったのか?
差別や虐待は環境を選べない子供には関係ない。
http://www.youtube.com/watch?v=JxMzW3ZlV4g&sns=em 資清高増の陰に隠れがちだけど資孝綱清もかなりの切れ者 真っ黒な家臣に囲まれてる那須さんが気の毒になってきた 真っ黒な大田原三兄弟に主殺しの千本
反抗的な伊王野
マシなのは蘆野ぐらいか
那須七騎とかいっても結束力ゼロだな http://www.sengoku-taisen.com/lounge/index.html
すげぇ・・あの宇都宮成綱が戦国大戦に参戦だってよ!
イラストもカッコいいし下野を代表する武将としての威厳もあるし最高だわ 広綱「息子とお爺ちゃんに先越されたw」って感じだろうなぁ
那須と小山、佐野からも誰か出てほしいね
スケキヨさんとかタカマスさんとか >>514
成綱って17代当主だよね?なんかイラストのコメント間違ってない?18代当主とか書かれてあるけど 自分的には
大関高増
芳賀高定
佐野宗綱
の三人かな
大関高増は下野の奸雄ともいうべきか
あまり誉められたものではない行動も多かったけど権謀術数を巡らして上手く生き残った様は戦国らしい人物だと言える
芳賀高定は逆に忠臣というべきか
衰退した主家を良く守って復興させた
宇都宮家が存続出来たのは彼によるところが大きいだろう
引き際の良さも特筆に値する
佐野宗綱は中央政権と北関東の反北条方を上手く結び付けて一大反攻に出た事をみても、やり手であった事が窺える
だが、若年であっさり討死してしまった事が残念 謀将
大田原資清、大関高増、壬生綱房、芳賀高経、芳賀景高
忠将
芳賀高定
勇将
多功長朝、多功綱継、佐久山義隆
知将
佐野昌綱、佐野宗綱、益子勝宗
豪傑
宇都宮成綱、那須高資
俺はこんな感じだな 成綱は高勝と対立した時に行った動き(塩谷に兄弟を送り込んだりなど)が策略家らしくて好きだわ >>483
宇都宮も多気山城を改築して本拠地にしてからは北条氏直軍や那須資晴軍、壬生義雄軍による度重なる侵攻を受け続けた上に、そんな危機的状況でも家臣団は未だに内部分裂してたからまともに戦えなかったし、時には北条によって壬生や那須が連携して攻めてきたこともあった。
当然佐竹からも援軍を受けていたがそれによって同盟関係もほぼ佐竹の半従属みたいな状態にならざるを得ない状況だったんだよな 下野の大名ってパッとしないねぇ
いや下野そのものが実にパッとしない
占領しても何の得もしない地域だったからかな >>525
無知が中世都市の宇都宮は鎌倉と奥州間を中継する重要な拠点だったってことを知っているわけないだろう
武を司る宇都宮大明神も源頼朝や藤原秀郷の逸話などで名高いしカリスマ性もある。
秀吉もかなり宇都宮に拘りを持っていたし、宇都宮の滞在期間だって長かった まあ、地理的に見ても陸路なら宇都宮(奥州街道)が最短ルートだからな
常陸まわりだと遠回りだし >>524
北条家に謝れ
下野手に入れたくて長年苦労したんだぞ いくらあの北条でも宇都宮の民衆には手を焼くだろうな
なんたって改易後も関ヶ原合戦時にともかつさま(結城朝勝)に呼応して宇都宮にいた結城秀康に抵抗しようとしたくらいだし 北条や壬生に嗾けられて
日光山の僧兵にも攻撃を受けて
宇都宮は、よく滅亡せず小田原まで持ったもんだ 芳賀高定の外交手腕に救われたよな
あとは広綱が病弱じゃなければもう少し情勢は良かったかもしれない。
皆川が離反した原因の1つに広綱が寝込んでいたってのもあるし、皆川俊宗による宇都宮城乗っ取りがなければ外交手腕の優れていた岡本宗慶が殺されずに済んだし 佐竹義昭と芳賀高定が取り結んだ強固な盟友関係はその後の佐竹宇都宮両家にとって大きな財産になったわな
それだけに宇都宮の改易は痛かった
そこに結城の脱落も加わって豊臣家にとっても墓穴を掘る事になったな
佐竹、宇都宮、結城、相馬、岩城のラインが維持されていれば違った結末もあっただろうに 浅野長政は家康と共謀して宇都宮だけでなく佐竹も改易させてその旧領に蒲生を入れようとしていたんだぜ 他の地域でも色々画策してるし
浅野が諸悪の元凶のような気がしてきた ttp://shimotsuke.org/shimotsuke-battle/shimotsuke-battle.html
天正二年と六年に武田勝頼が下野出兵してるみたいだけど
ちょうど天正二年は美濃や遠江出陣なんかがあって
この時期に武田が下野まで出兵する、ゆとりってあったのかな?
よくある家臣の子孫なんかが自家称揚のために後世で作った偽合戦臭いんだが 甲相同盟で宇都宮氏に圧力与えたってエピソードはあったけどさすがに勝頼本人は出陣できない余裕はないような気が・・・
せいぜい武田家臣で攻めさせるくらいが限界かもな 訂正
甲相同盟で宇都宮氏に圧力与えたってエピソードはあったけどさすがに勝頼本人は出陣できる余裕はないような気が・・・
せいぜい武田家臣で攻めさせるくらいが限界かもな >>543
有り得ない。
天正二年十月には上杉謙信が関宿救援のために越山しており、
佐竹義重も謙信を焦らすため宇都宮城内か付近でプラプラしてた。
十一月初旬には勝頼は駿遠辺りに出ていたし、第一下野を攻める理由がない。
天正六年の五月は小川台合戦があり、宇都宮国綱の初陣があった。
おまけに越後は御館の乱の真っ最中で、この時期に勝頼が何をしてたか知らん奴はいないだろう。 >>546
やっぱ、あり得んか
昔読んだ「武田勝頼のすべて」にも下野出陣したなんて記事無かったと思うし
御館の乱で北条との同盟が切れるまで、甲相同盟の一環として北条支援説も考えたが
駿遠に出陣してたんじゃ物理的に不可能だな。 >>543のサイトにある永正11年の小山城の戦い、裳原(茂原)の戦いに関してもネットで探しても情報がないよな >>548
可能性としては同年に起こった那須口の合戦は宇都宮忠綱が成綱の名代として出陣しているから
成綱は宇都宮に残って政氏側の小山家らと戦っていたとか? 表裏比興さんが日光の方からこっそり浸食してきたとか? 日光山の戦力ってどれくらいなんだろうな
宇都宮城周辺まで焼き討ちしたり 日光山の勢力は壬生綱房が日光山神領惣政所の地位を得たり、二男の昌膳を送り込んだりして聖俗両面から掌握していたから壬生氏の勢力だった。
壬生氏が天文期に離反するまで実質的には宇都宮氏側の勢力として位置付けられてたけど最終的に壬生氏に従って小田原北条氏に与することになったけど
途中で壬生徳雪斎(綱房の弟または子)が壬生綱雄を暗殺して日光山神領惣政所の地位を奪って宇都宮氏に寝返っており徳雪斎が討たれるまでの間日光山は宇都宮氏の勢力下だったとのこと >>551
日光は寺領18万石と言われていたからね
勿論、誇張が入っているだろうし、領地と言うか総収入の話だろう
それでも千や二千程度は戦力を抱えていたと思う 日光山掌握に関して壬生の本拠である鹿沼城は重要な拠点だったからな >鹿沼城は重要な拠点だったからな
なるほど
どおりで北関東の連合軍が執拗に攻めたわけだ 連合軍が鹿沼を攻めまくったのはアホの義重が初めから落とす気が無かったからだな。
どうも義重は壬生を味方につけようとはしてたが、ブチ殺そうとまでは思ってなかったらしい。
んで壬生義雄が仲間にならんので、多気山城を取り立てるという回りくどくも面倒くさいことをして
日光と鹿沼の間を遮断、且つ壬生領に圧力を加えようとした。 宇都宮もかつての宿老衆の1つである壬生家を再び家中に戻したかったから殺す気はなかったんだよな 殺すなんてとんでもない
幕府や朝廷から命令や許可を得ているならともかく、私闘で滅ぼすなど滅多な事でもない限り有り得ない
ある程度痛め付けたら起請文を取り交わして和睦するのが従来の戦
これが壊れたのが戦国時代な訳だが、関東や東北などでは根強く残っていた
だからそのルールを守らない小田原北条や伊達は猛反発を受けた 那須高資もそのルールは守ってなかったな
高資は古河公方ら関東の勢力からの独立を図ったが大田原資清に阻止されて殺された 東方の衆≒八家側は、室町幕府が滅んで全国的に
「やったもん勝ち」的にタガが外れたあとでも、
幕府が存在していた頃の通念で行動していたからのう。
小川台合戦、及び会白佐協定以降の連合体制を
豊臣側が「惣無事」として承認することで、
この体制がより強固に固められてしまった。
この辺の流れは面白い。 >幕府や朝廷から命令や許可を得ているならともかく
そういえば
秀吉に許可された後
佐竹はなんの躊躇も無く江戸大掾滅ぼしてたな 散々手こずった鹿沼・小山城の防衛ラインも
小田原合戦で北条の増援なくなると、あっさり潰れたからな >>563
佐竹は北に伊達や南に北条に妨害されてたから全力で行けなかったし
宇都宮も那須、北条、壬生と挟撃の形で妨害されていたから全力で行けなかった そもそも敵対勢力を潰さないで和睦を繰り返していたから北条や伊達の伸長を許してしまった
例えば佐竹は白川氏の全城を落として当主の義親まで捕虜にしたけど、結局すべて返還してしまったし
小田氏に関しても何度となく追い詰めたが、小田城周辺以外の領地は保障している
下野でも宇都宮氏らと共に皆川氏を攻めて本城以外を二十以上落としたが、これも結局返還している
他にも周辺の中小勢力と何度となく争って屈服させたが潰したものは一つもない 白河義親を取っ捕まえたというのは史実とは確認されてない軍記物ベースの話だがな。 『造宮日記』(宇都宮市史)に書かれてあるもので疑問があるのだが
17代当主の宇都宮成綱の代(1478年11月18日)に宇都宮大明神の社殿造替を祝って神宮寺の慈心院で能が興行されたけど
@神宮寺と慈心院って同じ場所なのか?
A宇都宮俊綱が幼年期にいた場所と同じなのか?
B神宮寺及び慈心院は現在の宇都宮市にあるのか?
C塩谷戸部は誰なのか?
誰か知っているなら教えてくれ 皆川は敢えて生かしてやることで北条に対する防波堤にしてた感はあるな。
いちいち国人層や地侍を潰してたらキリがないし人が居なくなるから
そこら辺は大名達の中でも葛藤があったんだと推測する。 忠綱の時に皆川をうまく潰してれば宇都宮が飛躍できた可能性はあったのにな >>543にある永正4年(1507年)の小貫城の戦いで笠間側の武将である笠間綱親についてだが
俺が知ってる限りだと成綱の代に笠間城の城主だったのは笠間資綱で明応年間に成綱が笠間家宰の寺崎氏に送った書状の笠間孫四郎がそれにあたる
笠間綱親って名前はネットじゃよく見るけど一次資料だと確認していない
笠間資綱の子は笠間綱広であり、ネットで探してみたら笠間綱親の子も笠間綱広みたい
これってつまり笠間資綱=笠間綱親ってことだよな? 北条はともかく伊達はもともと強力だけどな。天文の乱なきゃ佐竹やばかったんじゃね? >>571
そんなこと言ったら佐竹も山入の乱がなければ弱体化はなかったし宇都宮も永正の内訌から始まる3度の内訌がなければ大分強かったよ んなこと言い出したら佐竹だって山入一揆がなければとか言えるだろうが。
大体戦国期の御家騒動は乱中は一時的に大名の主導権は分散するが、
克服しさえすれば、分割相続制から単独相続への移行、
または家中の所領の整理等を通じて相対的に大名権力が強化されるというのが定説。 宇都宮氏は忠綱興綱がgdgdにしたせいで俊綱に負担が圧し掛かりすぎたんだよな
宇都宮氏が単独相続制への移行ができたのは広綱の時で佐竹や伊達から比べるとかなり遅れてしまった しかも本格的な戦国時代に突入した時期に尚綱がやらかしちゃったからな
もうああなると立ち直る暇がなかった
幸い、那須も小山も結城もグダグダだったから致命傷にはならなかったが 戦国時代で特に重要な尚綱の時に宿老筆頭の塩谷孝綱が離反、芳賀高経が生涯され、壬生綱房・綱雄父子離反・後に宇都宮城乗っ取り、結城・小山連合軍に宮中まで侵攻される
皆川も離反しちゃったりなど悪い事態が重なりすぎた。
これも忠綱の時に起こった内訌が大体の原因になるよな。興綱は家中の傀儡だったから話にならないし
成綱クラスの名君が続けばこうはならなかったんだろうが
>>575
結城は政朝、政勝と有能な当主が続いたからグダグダではなかったぞ 那須家って防衛線になると
異様な強さ見せるけど
自分たちから攻め込むと失敗ばかりな印象ある 生き残った家はどこもそうだけどね
弱かったら滅んでいるし よく考えたらそうだな
宇都宮家もそうだけど、本城まで攻められたら必死になるしか家滅亡だもんな 宇都宮家は城まで移動したくらいだし
そのせいで貴重な歴史物が北条に破壊されまくったが
戊辰戦争や宇都宮大空襲とかもなければもっと文献とかもあったんだろーな 小田氏治も無闇に出撃する癖なくして
防衛に徹してたら今でも守りの名将と謳われてたかもしれない >>581
佐野昌綱や長野業正みたいな微妙扱いになりそう でも、大概は文書類を持って逃げるんだよ
当時でも文書は家宝的な扱いだったようだ
どこが本家かを文書の数などで争ったりするし、感状などは再仕官に役立った
ちょっとうろ覚えたけど小山だか結城だか、あの辺りの百姓(元武家)が佐竹義重から貰った感状を持っていて
参勤交代に寄った殿様に披露したら士分として取り立てられた話がある
感状貰ってから数代、100年後ぐらいの話なのに御先祖の活躍は素晴らしい 多功原の戦いについて詳しく書いてる資料って無いかな。
氏政が一騎で逃げるほどの大戦だったらしいが
あんまり知名度ないよね。 >>561
宇都宮も益子と笠間を滅ぼしてる。
もっと前だと鹿沼も。
朝勝は結城から追い出されて、旧壬生領は結城領になり、皆川は徳川配下になって徳川からは無言の圧力
更に新取次・浅野との軋轢で国綱は短命だったんだろうね >>585
笠間と益子は攻め滅ぼされてないんだよな
両方とも国綱に許された
でも改易された 君もたまには自分で良質な一次資料洗いざらい調べたら? _,/ ̄ ̄` ̄\、/レ
// , /\ .i i V〈 争いの種が多いほど
/ / ∠ム/ ー-V l 「ヽ 暗躍する機会が増えるのです
j v、!● :::::● i ' ├' 争え、もっと争うのです!
/ 〈 -=-' / .i y
/ _ ,.イ , `ーゥ t-!,、_У
´ ' .レ^V´ V_,ィtー〈 「| 「|
/ `央ー'j \_|:| |:|
,/ー、{,_ノ /ー、! \::::]
ねぇ宇都宮や佐野なんかの分限帳や旧臣帳ってどこで見られるのかな? 烏山城はあれだけ不安定な政情だったのにほとんど敵を寄せ付けない名城
目下最大の驚異だったであろう佐竹からめちゃくちゃ攻めにくい地形してる >>594
佐竹や宇都宮が本気で攻めてたら潰されてたよ。唯一本気で攻めた宇都宮尚綱は無能だからたまたま勝てたけど佐竹義重や宇都宮成綱が本気で那須を潰しに来たら那須の家名は残ってなかったかもね >佐竹や宇都宮が本気で攻めてたら潰されてたよ。
まあね
烏山城は要害だったから落ちなかっただけで
那須領の城や砦は佐竹方に攻略されまくってたからな 宇都宮は成綱の時代はともかく尚綱と国綱では無理でしょ 興綱「那須を小田と協力して何度も攻めたら氏家(宇都宮領)が焦土化したわw」 何だかんだで宇都宮や佐竹は群を抜いていたからな
北関東や東北ではいまだ鎌倉や室町からの体制を引き継いでいたから本気の潰し合いは行われなかっただけで
単に潰すだけなら天正18年〜19年の様に軽々と潰せただろう
でも、烏山城は本気で落ちなかったっぽい
佐竹の場合、那須氏を潰す気は全くなかったと見て間違いないが、北那須衆と共に当主を退け新当主を擁立し
自陣に引き込むつもりであったようだから、烏山は本気で落としたかっただろう 烏山城を速戦で落とすためには
北条くらい兵力動員できないと無理ぽいな。
周りを敵に囲まれてる佐竹宇都宮には篭城戦で長時間城包囲するのは難しいだろうし 烏山が攻められた時は城に取り付く前の野戦で殆ど撃退してるが隘路での待ち伏せだろうな
過疎の那須でもある程度は勝機が見える >>600
成綱・忠綱父子期の宇都宮も成綱の正室が上那須資親の娘だったから上那須の内紛に乗じて上那須に宇都宮一族を送り込もうとしていたことがあったな
白河結城による那須資永殺害の報復の可能性もあったからそれを危険視した下那須資房が統一へ乗り出した 那須氏って五月女坂の戦いで動員300人って少なすぎね? 陸奥国寄上の変遷
那須氏 白河国の国造
那須氏 陸奥国白川郡の郡司
後白河院 御領
平重盛 平治の乱後
結城朝光 奥州征伐後
※太閤検地の際に常陸国久慈郡となる。 >>606
三百騎となると1000〜3000人程度になるから決して少なくはない あんなロクに田んぼも作れない山がちなとこでよく3000人も養えるよな
主食は米じゃなくて雑穀だったのかな 那須地方は奈良時代に約七万人だから戦国期は、もう少しいたと思いますよ。
主食は人それぞれ。米からいきなり稗や粟の雑穀はないでしょうね。米が厳しければ麦飯。
ただし当時は川の恵が素晴らしかった。天然ウナギや那珂川の鮭等。山の幸は、タラの芽や
ゼンマイ、わらび、猪、キツネ、タヌキ、雉、モツ等。 水がないぞ。まあ水さえあれば激しく開墾できるがそれできるのは明治だし 那須12郷は、飛鳥から奈良時代に完成したと思われる。
それに加えて平安から鎌倉時代には、森田、佐久山、芋淵、福原、那須宗家、滝田、沢村、片田、稗田、千本の10郷。
非常時に備えて、各地にため池があるでしょう。地図見てくださいよ。 山間部は沢や川が多いからね
ただ、水温が低いから溜池を作る必要がある そっか、那須インターのあたりじゃないんだな。もっと下流なんだな。 二期作を目指すわけでは有りませんから水温は余り気にする必要はないと思います。
一昨年の夏に宮崎産の新米を食べたけれどあまり旨くなかったなあ。
山田の中の一本足の案山子
この歌は、下野那須の山田郷によく似合いそうだ。 流れ者の壬生。那須紀を著した大金氏も流れ者。大金氏の先祖は美濃の守護大名とは本当か。? 聞いたことあるなあ。土岐氏で1450年頃に大金にかえたと。坂本龍馬なんかも遠縁になるそうな。
1560年頃に佐竹氏の助っ人として突如として那須地方に現れたり。 流れ者と言えば下野にも如水と同族の黒田氏がいるみたいだな >>620
それは嘘だな
下野の大金氏は那須の大金村の発祥であり承久記には既に登場している
つまり少なくとも鎌倉時代には大金氏として存在していた 馬頭町史によれば、那須記を著した大金重貞の系譜として土岐氏→金山貞房→金山貞徳→( )→大金重宣(1566年下野国那須郡小口村に移る)となる。
南那須の大金さんは、別系統ではありませんか。苗字が同じでも全員が同族とは限らないでしょう。 那須近辺は同族と考えるのが自然かと
全国でも那須近辺にのみ集中している訳だけど
いくつも系統があってたまたま那須にみんな移住してきたなんて事は絶対に有り得ないでしょう
西日本などにも極僅かに存在しているから別系統が全く無い訳ではないだろうけど
土岐氏云々は大金重貞の家系だけだと考えるべきかと 宇都宮氏は一時期美濃守護だったから、美濃と下野は交流がある。
有名なのは氏家氏とか。 武茂(宇都宮)泰藤の室は、土岐頼直の娘である徳子。
その縁で泰藤は、上和田城(愛知県岡崎市上和田町)を築くことになった。 >>626
氏家氏の嫡流は断絶したんだよな
断絶後に氏家城は芳賀氏庶流の居城になったし >>626
氏家氏は下野から美濃に直接じゃなく斯波氏の家臣経由してなかったか >>621
へぇ初耳
常陸の多賀谷氏の家臣に播磨赤松氏の一族いたけど、
同じように播磨から流れてきたのかな
南北朝時代の武将とか家って流動的だから
戦国時代になると意外な所に意外な家の末裔が土着してたりするな。 元々支配階級は流動的と言えば流動的だけどね
地生えの武士って殆どいないし >>625
那須の場合は他地方から名家が移住してきたのではなく
国人クラスが婚姻を重ねて地域集団になったんだろうね。
だから、あそこまで小さく纏まった
本姓藤原はたぶん仮冒w
宇都宮は朝綱から藤原氏と縁戚だから、藤原の系統ではあるんだろう
根拠地が欲しい藤原傍流と、血統が欲しい中原のハーフ的な 国造の那須直氏は、廣成や赤龍の存在がはっきりしている。彼らは白河郡の郡司であり白河軍団のトップでもある。
白河軍団の記録は1050年頃まである。従って国造系那須家に藤原氏系の方が、白河軍団が形骸化するころに婿入りされたと私は考えています。 宇都宮興綱が忠綱の息子説の証拠になる資料って何かないかね? 武茂郷ほかは一時、白河結城氏領となる。宇都宮氏の斜陽時代。かっこ悪いな 私怨で宇都宮国綱をパワハラ改易した浅野長政、許すまじ
浅野はえこひいきやワイロ要求で東北の諸大名を苦しめ、伊達政宗には絶縁されたクズ 浅野ってかなり嫌われ者だったみたいだね
一応秀吉の縁戚なのだし、あそこまで必死に権力闘争しなくても良かった気がするけど…
もっとも秀吉って案外、親類だからといって優遇しないからな いや、優遇されてたよ
当初は関東・東北の諸大名の申次役でメイン任されてた
その後、前田利家や蒲生氏郷、徳川家康、石田三成、増田長盛にその役を奪われ、
権威が転落したのは、他人に嫌われる所業のせいなので自業自得だと思われ 長政は、実力で抜擢された他の奉行たちと違う
北政所の縁者として高い地位にいただけの男
秀吉が信長家臣だったころから、長政が武功をあげたとか、蜂須賀・竹中・黒田のように謀略・調略・外交に貢献した話もない
辛うじて、出来のよい息子のおかげで面目を保っていたに過ぎない 浅野長重が宇都宮家に養子入ってたら
歴史も変わって忠臣蔵も無かったんだろうな 浅野長政は酷い奴だw
佐竹氏まで改易しようとしてたんだな
論説 「豊臣期関東における浅野長政」 (PDF)
第一章 浅野長政による取次大名の囲い込み
第一節 滝川一益と東国領主の関係
第二節 浅野長政による宇都宮氏の囲い込み
第二章 浅野長政による囲い込みの弦かい
第一節 浅野長政と佐竹氏の関係
第一節 浅野長政と伊達政宗の関係
https://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/1847/1/shigaku_49_18_32.pdf 佐竹は宇都宮と兄弟のように親密な関係だし、当初は常陸も浅野が管轄していたようだけど
次第に石田の方に傾いていたから、この際一緒に潰してしまおうと目論んだのだろう 佐竹を改易してたら、誰がそこに入ったんだろうか?
奥州仕置の主担当・蒲生氏郷、関東の申次役・前田利家、上杉景勝のうちの
いずれか2者が陸奥会津と常陸に入り、佐竹を20万石ぐらいでその跡地に
移すって感じなのかな
佐竹は、宇都宮のように領地没収になったのだろうか?
あるいは減封でどこかに飛ばされただろうか?
それとも、秀吉の分断政策により、佐竹宗家のライバルで、宗家とは別に
中央政府に接近していた佐竹義久と佐竹義宣に10万石ずつとかに
なっていたのだろうか? >>649
蒲生が下野と常陸の2国を与えられる予定だったらしいよ
まあ佐竹は改易を何とか逃れられたから結局下野のみになったけど ひどい話だわ
政権の都合や奉行の気持ち次第で簡単に改易とは
宇都宮家なんて
無害で早くから豊臣政権に友好的だったのに 結城の朝勝追い出しと浅野の宇都宮潰しは豊臣にとってもマイナスだったと思うわ
佐竹ー宇都宮ー結城の関係が健在だったら120万石に及ぶ勢力になるし
更に史実通り上杉が会津に移れば、これらの大名家は古くから連携してきた家だから徳川と十分に戦える
彼らが領地を接していては家康もうかうか領国を留守に出来ず、露骨な行動など出来ない
なのに中央の権力闘争でや彼らの関係をズタズタにして連携を取れなくしてしまった事は悔やまれる >>652
それはどうだろ?
彼等が、豊臣家のために徳川と戦ってくれるかどうかは微妙
結城氏は家康の子を養子にしたし、佐竹氏だって関ヶ原の際に隠居の義重や
分家の有力者義久は徳川方に付くよう主張した
上杉氏だって、敢えて徳川と対立しなきゃいけない理由は無い
下手したら、徳川がそれらの外様大名勢力を束ねて、関東に治外法権の
巨大な勢力を形成してしまう可能性もあった
豊臣政権としては、蒲生氏郷や木村吉清などの昔馴染みの大名を北関東や
南奥州に入れて、徳川と伊達・南部らを分断したいと考えるのは自然なことだろう >>653
豊臣家が武家の棟梁としての地位を保持している限り彼らは豊臣家保存の為に行動する
忠誠心というか保守的ゆえに
戦国末期に至っても室町体制の維持を図ってきた様に、中央から大義と名文を得て統治する事を絶対とするのがこの地域の体質と言える
関ヶ原でも佐竹らが身動き取れなかった要因として、どちらから発給されたものが秀頼の命令であるかを判断出来なかったと言う事がある
だから義宣も豊臣家には異心なく、秀頼様の支持に従うという旨をしきりに主張していた
まあ、確かにこれは道理だよね
本来、従うべきは主君において他になく、主君には異心なく仕えていたのに
石田と徳川が勝手な行動をして、それに従わないからといって処罰されるなんて非常に理不尽な話だ 下野の宇都宮と信濃の宇都宮と中津の宇都宮は同族なんすか? 信濃に宇都宮なんているっけ?
下野と中津と伊予はそのまんま親戚だよ >>656
間違いました、信濃は小笠原でした
しかし、下野や中津や伊予は親戚だったんすね。初めて知りました。 今でも大関家の子孫の方は居られるんでしょうか?
自分の遠い先祖が大関氏と関係があるようなので、ちょっと関心がありまして。
去年黒羽の大雄寺に行って代々の藩主のお墓を見てきたんですが、立派なお墓でした。
関係ない話をしてすみません。 大関氏の下野黒羽藩は幕末まで続いたし、当主の大関増勤は子爵にもなってるから
まだどこかに子孫はいる可能性は高い
もっとも大関増勤は、信長家臣の谷衛友の谷家からの養子だから、血筋としてどうなのかは
わからんが 大関氏は、常陸と下野に多い。名字の地は常陸の大関郷だった気がする >>659
大関増勤は他家からの養子だったんですね。
血筋自体は絶えてしまったのかなぁ。
自分も名字が大関で、代々伝わっている話と家系図だけですが、うちの遠い先祖が室町時代に、大関家の女性と結婚したのをきっかけに大関を名乗ったとなっているので、ここのスレを見て興味が湧いて書き込みしました。 大久保彦左衛門などの大久保氏。名字の地は黒羽藩にあった大久保村。
ここから宇都宮氏系の大久保氏は出た。これは本物。結城氏の去状に出てくる八郎在家のことか。この近くに大久保村はあったそうな。
八郎とは那須与一の兄弟の八番目のようだ。
一方で徳川氏側近の大久保氏は偽物。宇都宮氏と関係はない
系図偽装の三河武士 大関さんは東日本を中心に全国におおよそ3500軒、約2万人います
特に茨城、栃木に多い
色々な系統があるようなので全てが黒羽藩大関氏と同族ではないけど、少なくとも茨城栃木の大関家の大半は元々共通の先祖を持つ同族であったと見て間違いないと思います
ちなみに黒羽藩大関氏は先代までさいたま市に在住していました
二千点に及ぶ膨大な大関家の文書を旧黒羽町に寄贈しており、芭蕉の館で常時展示されています
先代は7年前に亡くなられましたが、現在はお子さんが跡を継いでいると思われます >>662
三河の大久保氏は、元々の名乗りは宇都宮氏系の宇津氏
大久保(大窪)氏を称したのは、松平清康・広忠・家康に仕えた宇津忠茂・大久保忠俊親子の
代からに過ぎない
下野の大久保村とは関係ない ちなみに大久保(大窪)姓も、越前の大窪藤五郎に家名を残すために譲られたもので
宇都宮氏系大久保氏に由来するなどと、三河大久保氏は一言も言っていない 宇津氏は、宇都宮氏と関係はありません。
岡崎市の方は、みんなで笑ってますよ。
徳川氏側近の宇津氏が、宇都宮氏に代えた理由は何だったのでしょうか。
太平記で有名な宇都宮泰藤の墓所近くに、大久保氏発祥の石碑もあります。 多くの何点かの大久保氏系図は次のようになっています。
宇都宮泰藤(幼少期に大久保村で遊ぶ)ー泰綱ー泰道ー泰昌ー昌忠ー忠与ー忠茂ー忠俊
泰藤の妻は、土岐頼直女 >>661です。
>>663
色々教えて下さってありがとうございました。 なお、太平記で有名な宇都宮泰藤と武茂泰藤は、同一人物である。 宇都宮という名門のルーツが欲しかったから偽装したのか? その通り。多くの岡崎市民は知っている。恥ずかしいかな馬頭町史も騙されている。
大名の系図は幕府に提出されている。今なら有印公文書偽装同行使にあたる。
小田原藩は遠いけれど、烏山藩は武茂氏の菩提寺から目と鼻の先にある。
供養された痕跡が全くない。関係ないから供養しなくても良いのであろう。 泰藤は越前での敗戦後三河へ落ち延びたんだから大久保氏がその後裔を称すのはおかしくないんじゃないか
実際に後裔であるかどうかは別として 落ち延びたと言っても上和田城を築いている。
大久保村は、泰藤の故郷。だから本物の大久保氏と偽装大久保氏の二通りがある。
本物は、故郷の大久保を名乗っても良いと思う。
それよりも宇都宮氏の領地が水戸藩ではなくて、いつの間にか黒羽藩の領地になったのが疑問である。
白河結城氏から戻された後に水戸藩成立の間に黒羽藩領になったようである。 藤の枝の果てとでも嘯いておけば済むものを
今でもB地区の人程、仮冒するけど昔も怪しい血筋の人は背伸びしたのかね
そして近年、実は貧農の子じゃない木下藤吉郎説とか出てくるし(笑) からと日本に出世の鑑
されば太閤秀吉が
素性を問えば其の昔
国は尾張の中村で
築阿彌彌助といふ猟師
妻は日吉の権現へ
心眼かけて懐胎し
程なく男子を生み落とし
其名を名づけて日吉丸
文化文政期以前のトッチリトン節では、猟師の子になっています。節は全然分かりませんが不思議なことに何処かで聞いたような気もします。 那須資晴は相当な戦上手だとおもうのに某ゲームでは評価すぐる 弓の名手の鮎箇瀬源蔵によって岩城の総大将志賀備中守は絶命した
時ならぬ岩城の志賀が流れ来て那須野の原の露と消えけり 資房
春になれば しが(氷)(志賀)こもとけて
どじょっこだの ふなっこだの
夜が明けたと思うべな
※資房のは、狂歌で宜しいのでしょうか。? 那須資晴は防衛戦では滅法強いけど
自分から攻めると大体敗れてたりして
あまり所領拡大できてないからね 直系かどうかは不明。同族であることは間違いない。
足尾銅山の元権利者だった志賀家は、あっちの方の元家老。
権利者になった経緯は、二宮尊徳の斡旋だという。
二宮尊徳も日本の公害の原点になるとは予想だにしなかったであろう >>678
那須氏の攻勢で思い出したが、先月に武茂城みてきたけど
多少急峻な地形ではあるものの規模は小さく、とても大軍を迎え撃てるような城ではないね
もっとも武茂氏はせいぜい1万石程度の所領しか持っていなかっただろうから
あまり大きな城を作っても人手が足りなくなるだけだが…
それでも完全に飛び地で孤立している武茂氏的には少々心許ない印象を受けた
あれでよく何度も那須氏の攻撃を退けられたなと思う 戦国時代末期に武茂氏は、佐竹方ですから孤立していませんよ。当時ずでに後の保武連(保内郷と武茂郷の連合体)の礎は出来ていたと思う。
武茂郷の大方は、那須与一が源平合戦屋敷の戦いの戦勝祈願で宇都宮の二荒山神社に寄進したもの。
従って那須氏は、武茂郷のために宇都宮氏と正面切って戦う気は起きなかったでしょう。
遥か古代に武茂郷の境明神峠は対蝦夷戦の前線基地になったところです。
ある程度の覇権が取れたところで那須氏は白河方面の国造も担当されたと思われます。西暦500年頃。
なにせ茨城県の大子町は長いこと陸奥国白河郡で、関東になったのは豊臣秀吉の太閤検地の時になります。
堺明神峠は、特徴がないという人がいますけれど、今は隠れてしまった特徴があるのですね。 武茂氏が攻められると
同じ宇都宮一族で佐竹に属する松野氏が援軍送ってたはず
武茂松野はお互い共同で軍事行動起こしたり相互関係近かったと思われる でも佐竹に属したのって天正年間の頃だと思われるし、それまで数百年よく生き延びられたなと
宇都宮佐竹も宇都宮広綱・佐竹義昭以降でこそ蜜月の関係になったものの、それ以前は両家とも極めて険悪であったし
松野氏もせいぜい2〜3千石程度の勢力であったようだが
100や200の兵で逆に那須氏に合戦しかけたり、攻めてきた那須勢に逆襲して資晴を討ち取る寸前まで追い詰めていたりと
この辺りの戦いは数の少ない方が勝つという法則でもあるのだろうか
もっとも、殆どが軍記ネタだから大袈裟に書いてあるのは間違いない
現実には双方睨み合って、数人負傷者が出たら兵を引くといった小競り合いだったと見るのが自然だな 13世紀 那須氏等から寄進されたばかり
14世紀 南北朝時代
15世紀頃 武茂郷は白河結城氏に譲渡されていた。常陸は山入氏の時代。
武茂氏と佐竹氏の直接対決はかなり少なかったと思います。 佐竹が一揆を克服して本腰を入れ始めたらすぐに従属せざるを得なくなったし
那須は終始家中の対立に悩まされて殆ど外征する余裕がなかった
状況的に恵まれていたと言うのはあるだろうね
しかし、武茂氏は自立性が高く宇都宮宗家とも不仲であった時期も多々あったがそれでも宇都宮一門である訳だし
佐竹が武茂氏を従属吸収した事について宇都宮と問題になる事はなかったのだろうか 15世紀後半に武茂六郎が宇都宮本家に叛乱起こしたけど鎮圧されて
その後宇都宮成綱によって兄弟の兼綱が送り込まれたけど佐竹に従属するまでどういう立場だったんだろうか
1516年に武茂郷で宇都宮と佐竹が戦った時は兄弟の縁から宇都宮に協力したのかな?
松野に関しては宇都宮等綱からの宛行状が残っているから少なくとも15世紀中頃は宇都宮に従属していた 道景(宇都宮等綱)去状 白河氏宛
上杉奥州跡塩谷三カ郷ならび武茂12郷事===
結城直あ寄進状 近津神社宛
下野国茂武大山田村
や八郎在家
武茂郷他は、永享11年(1439)から明応9年(1500)頃まで白河結城氏の所領です。
松野郷は別だということになりますと、余りにも孤立的です。
八郎在家とは、かつて那須八郎が住んでいた館跡だと思います。この付近がが宇都宮泰藤の故郷です。 ということは1510年に白河結城家が内訌を起こして衰退するまで武茂家は武茂郷にいなかったってことか? 一方で、白河結氏の1門の誰かが武茂郷にいたという話も聞きません。
それ以前に武茂氏が宇都宮氏宗家を継いだら、それを気に入らないと思った塩谷氏が不意打ちで殺害しているでしょう。
その為に武茂氏の断絶は、確実にあると思います。 武茂郷は等綱から白川結城氏に割譲されたようだけど、当時等綱は宇都宮家当主としての権力は無かったし
名目だけで実際は結城氏に渡っていなかった可能性はある
ただ、当時は隣接する依上保は白川結城氏の領地であったから支配する事は難しくなかったはず
1504年に至り、山入一揆を克服した佐竹氏が依上保を奪還したため武茂郷は孤立する事になる
それで放棄された可能性もあるだろう >>691
その時期に宇都宮成綱が兄弟の兼綱に武茂家を継がせて再興させたってことか
内訌を克服した佐竹に対する備えみたいな感じで
>>690
15世紀後半に宇都宮宗家に対して叛乱を起こした武茂六郎って人物で一度断絶した可能性があるね。あの時期の武茂家の動向ってよくわからないし 壬生氏が興ったのは1462年だそうですが、それ以前に壬生氏が治めていた領域を抑えていたのは小山氏でしょうか?それとも宇都宮氏でしょうか? 北部は宇都宮、南部は小山、西部は佐野の支配であった模様 壬生氏が京からやってきた名門壬生家説の胡散臭さは異常
江田郁夫 氏が唱えてる壬生氏は宇都宮一門説の方が納得できる
第一1462年といったら享徳の乱真っ只中で室町幕府と古河公方の仲は最悪で小山持政時代の小山氏は古河公方足利勢力の筆頭勢力でその影響力、軍事力は関東管領上杉氏に匹敵するほど
仮に壬生近辺が小山領だとしたら
当時の緊迫した情勢を考えると公方が最も頼りにしている小山氏の勢力を削いでまで壬生氏に領土を与える必要性も余裕もない >>694
鹿沼に鹿沼姓の小豪族がいなかったっけ? >>693
皆川領同様古河公方が直接支配してた領地じゃなかったっけ 代やらせ会員権収集がかり40代ニュース報道春文教授立会人そていFX博奕「ニューヨーク砂漠ソルトレイク」センター50代野村光金きぎょうむしゅっちょおしょくじけん
https://www.youtube.com/watch?v=jET485MS1Vw宇ドナルド)マック張内戦中華
40代やらせ会員権収集がかり40代ニュース報道春文教授ディズニーちゃくふく春分解雇FXさんどりしゅっちょう[ヘルシアノートン緑茶]
https://www.youtube.com/watch?v=oMbYLIPZQ6c寸止講演会自主責任
40代やらせ会員権収集がかり40代ニュース報道巨樹グルテンそてい十代FXセーブデータ遠隔消去KAR-Dローン(シュッ)しょうきょ家賃滞納決算20代かふぇまなー銀行光金動画蓄物牧場
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ヘルスケアミラン売却40代お手柄カジノプランナー警部補気象制御芸能デスクGMドカシ 武茂の系譜関係はちょっと整理する必要があるだろうな 武茂・宇都宮・塩谷の三兄弟周辺はあれをそのまま信用してる研究者のアタマを疑う 喜連川合戦の五月女坂って、氏家側から進むと峠を登り始めたような所なんだな
宇都宮尚綱はあんな所で無理押しして戦死したのか・・・? ちょうど五月女の所から山地に入るんだよな
迎撃するにはもってこいの所だけど、宇都宮方は数に恃んで力押ししようとしたのだろうか ∧,,,∧
(´・ω・`) < 近い将来、欧米で株式市場が破綻すれば、マイト レーヤは直ちに出て来られるでしょう。
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最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。
差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。かれらは自分の財産を隠し、犯罪的雰囲気さえも創出しています。
彼らはただ座って待っているだけです。世界を餌にして生きており、何も還元しません。 来るべき株式市場の崩壊は必然的に多くの失業者を出すでしょう。
日本から始まる世界的株式市場の大暴落
ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、再び株式市場の暴落につながるでしょう。
終いには政府にも支えることができなくなり、どん底に落ちていきます。日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト レーヤは出現するでしょう。
マイト レーヤは何百万の人々に話しかけることのできるようなやり方で、まずアメリカに現れるのです。それから日本です。
彼は日本人ではありませんが、日本語で話すでしょう。彼は、非常に物静かなやり方で話します。彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。彼は「匿名」で働いております。
マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。
矢追純一 「宇宙人側からの申し入れは、核の利用と戦争をやめ宇宙人の存在を公表しなさい。ロシアという大国の首相がね、2回も言ってるんだからね。」
竹下雅敏 「どうも日本人のレベルの低さというのは、ドイツはUFOテクノロジーを完成させていたのに、日本は戦艦大和で喜んでいたという感じなのです。」 千本城に行ってきた
那須七騎の中でもマイナーな家だが、城は意外と大きく縄張りもなかなかの城だったよ
那須七家の中では黒羽城とこの千本城が気に入ったわ
大手から左にも道があって、そこを登っていくとちょうど主郭の真横に同程度の標高を持った高台に出る
出城というか砦というか何かしらの防衛施設があった事は間違いないだろう
ここは頂上の樹木が切り払ってあり展望台のようになっていて見晴らしがとても良い
そこから眺めていると在りし日の千本城に思いを馳せる事が出来た 千本城は最後には、茂木氏に渡ったような。
あの辺は近くに茂木城、千本城、飯村城があって面白いですね。 今日で宇都宮成綱が没してから500年の年が終わるのか 宇都宮家って常陸国にも版図があるのに信長の野望等のゲームだとなかったことにされているよね >>719
書籍の地図でもそういうのあるな
まぁ笠間はやりたい放題だったからな 中世宇都宮氏展に行ってきた
初めて見た資料や肖像画もあって良かった 栃木県立博物館の中世宇都宮氏展、物凄い資料が見られたな
やっぱり下野の戦国時代は面白い
ただ、この企画展は本当に歴史好き向けだね よくあそこまで国宝に指定されてる資料集めたよな
入場料1200円の価値はある 今更ながら那須氏の嫡男?だった方の冤罪事件を知った
司法や警察酷すぎ いまですらたいして変わらんのじゃないの?
てかさ、自分たちでさんざん排斥しておいて無罪になったら名誉市民に推すとか弘前ってとんでもないとこだな ああ、もう今週いっぱいで栃木県立博物館の中世宇都宮氏展が終わってしまう
ここまで国宝が集まった展示も中々お目にかかれないし、もう一回行こうかな 何のサイトか忘れたが、宇都宮氏が改易された際に5万石、佐竹が24万石と虚偽していたと書かれていた
長曽我部も公称9.8万石→山内入国後の検地で17万石だったし、さもありなんと感じた >>730
佐竹は宇都宮の改易以前に54万石の朱印状を貰っている訳ですが >>625
こんなスレもあるんですね…うちも大金なんで興味深いというか…先祖が書いた那須記という怪しげな本によれば
土岐光定の子、定親が蜂屋氏の養子に入る(この頃千葉氏から因縁つけられる)-貞経-光経-満房-金山貞房-大金太郎貞寅(さだのぶ)
愛知県の幡豆崎ってところにあった御城に南朝方として籠ってたそうです
その後不明な何代も経って那須記に佐竹方の大金備後守重宣、恩賞に不満で那須方に寝返った大金三介だったか弥介さんが登場
重貞さんは大森佐太郎さんという人を養子にしているので、土岐氏と関係なくなっていると思います 宇都宮の弥三郎・弥四郎ってどういう使い分けなんだろう 那須氏の家老、興野氏について詳しい方おられますか
現代においても栃木県の林業に影響力のある家柄なのでしょうか
21 小山氏関連を調べているのですが・・・
小山義政の五男 常宗=逆井氏ということで、逆井城の築年が亮徳年間(1451-55)と言われておりますが・・・
小山義政の乱が1380年-82年であり、小山氏は最後に糟尾城に籠り、最後は櫃沢にて一族郎党自刃、
しかし嫡男 小山若犬丸は落ち延び、1386年〜97年にかけてゲリラ的に蜂起を繰り返すものの
最後は会津にて自決、その子も幕府により殺害ということで一族滅亡。
その後、結城氏から新生小山氏を分家させております。
なのに五男が1450年代に逆井氏?逆井築城?おかしくね?
1450年といえば結城合戦(1440-41)よりも後なのです?
どなたか、このあたりの事をご存知の方おりませんか?
(逆井城の築城時期が違うのか?逆井氏が小山 五男 常宗というのが間違いなのか?) あと・・・
小山義政の乱
最後に糟尾城に籠るも数日で陥落、対岸の寺窪城にて抵抗し最後は櫃沢にて自刃
この糟尾城は小山氏の詰城だったとも言われていますが・・・
あんな宇都宮氏の勢力圏内の奥に、小山氏が詰城を持つというのにも疑問を持ちます・・・
このあたりの話も知っている方がおりましたら、ぜひに・・・ >>740
都賀郡は小山義政の乱までは小山氏の勢力圏だから粕尾城が小山氏の城ってのは別におかしくない
本拠からめっちゃ離れてる城を詰城って言っていいのかは知らん >>740
有難うございます。
あのあたり、小山勢力だったんだ・・・
車で糟尾城まで行きましたが、途中、宇都宮をかすめる形だったので、宇都宮側かと思ってました。
乱の時期は、そもそもが宇都宮氏統領が小山氏に討たれたのが原因で、
当時は宇都宮勢が一時的に衰退していたと推測されるので通過妨害も無理っぽいですね。
>本拠からめっちゃ離れてる城を詰城って言っていいのかは知らん
小山付近は基本平地ですから・・・離れないと要害の地がないですし・・・
小山氏の城郭は水利に防御を託すのが好きなようですし・・・
(祇園城、新城、鷲城、岩城窪(中久喜城)みんな同様)さらにいえば上で質問した逆井城も・・・)
糟尾城あたりまで奥にいかないと良い場所が見つけられなかったんですかね。
(確かに良い縄張りでしたが…あれ人数居ないと守れない…残存勢力の蜂起じゃ守り切れなかったのも判ります) >>1
宇都宮氏
自称、藤原北家
藤原宗円が前九年の役の功で宇都宮別当に任じられたのが始まり
2代目、八田宗綱
3代目、宇都宮朝綱
毛野は毛の国と呼ばれ、宋書の倭王武の上表文に、東に毛人(蝦夷)を征すること五十五国とある
毛野は上毛野(上野)、下毛野(下野)、那須の
3つに分かれた
宇都宮から八田(小山)、那須、中村(伊達)が別れる
通字は宗と綱
宇都宮は分家の結城、小山、壬生、芳賀との内戦で衰退した
子孫は仙台藩が引き受けた >>743
妄想設定か?
子孫は水戸藩が引き受けたんだけど 都賀郡は色々な勢力が入り組んでるよな
鎌倉期には西方氏(宇都宮氏系)、鹿沼氏(佐野氏系)もいたし
長沼氏の皆川移転と壬生氏の勃興は小山氏の衰退の結果だろうけど 皆川は場所的にも難しいところにいながら家を繋いで江戸幕府成立まで家を保ってたのに
その後滅びた イメージだと北条と古河公方が張り合ってる中を上杉がちょっかいだして、他は右往左往してるだけかな 1477年、正綱は成氏に従い長尾景春の救援に向かったが、上野国の川曲の戦いで陣没した。さらに従軍していた宇都宮一族の横田綱親・保業・清業父子、
今泉盛泰も討死し、紀党の棟梁益子唯正・延正父子も討死する等甚大な被害を受けた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%AD%A3%E7%B6%B1
何があってここまで負けた REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 >>744
水戸藩宇都宮氏
益子にある菩提寺で盛大に法要を行っていたから領主である黒羽藩は凄く嫌がっていたらしいw >>749
一応、別系統の家だからじゃないのか
武田、小笠原、南部、佐竹の始祖は共に新羅三郎義光だけど鎌倉期にはそれぞれ別家としての御家人だったのと同じ 歴史群像に沼尻の戦いが載ってたから買ってしまった
即戦動員できる後北条氏と、国人衆を纏めてから出て来ないといけない佐竹・宇都宮氏は体質的に差が大きかったな
天正壬午の乱終結後の関東は後北条の独壇場 南奥で伊達と蘆名が手切れとなって佐竹はその介入で動きが取りにくくなったと言うのが大きい
毎年のように陸奥と南関東の往復を繰り返していた佐竹の体力は異常
豊臣政権下に組み込まれる前の佐竹はせいぜい15万石程度の大名なのに何故あそこまで戦えたのか不思議だわ
しかも関東特有の複雑怪奇な寄り合い連合で非常に難しい外交を強いられていたのに
ある意味宇都宮尚綱の戦死と広綱の早世によって宇都宮家の主導権を握れたのがプラスに働いていたとも言える
佐竹宇都宮の結束は強く最後までほぼ崩れる事がなかったし
結城とも蜜月にあったから佐竹宇都宮結城のラインで防ぐ事ができた 1578年に東方ノ衆に入った後も
余裕で佐竹、宇都宮と戦闘が起きてる親北条の那須 >>735
二人の弟と千本の所領分割したとか
佐竹を呼び込んで那須烏山に攻め込んだとか
那須家のガンみたいな逸話ならあるな 大田原資清と高増ら三人の息子はやりたい放題だったからな
那須七騎のうち2家を乗っ取って1家を潰し主君まで殺そうとした 烏山城って常陸方面からの守りは鉄壁だな
崖→河→湿地→崖→城下町→山城という高難度 >>759
そうは言うけど本家の上那須氏(神田城)、分家の下那須氏(烏山城)に家来衆もそれぞれ分かれての100年の対立が有った訳で
その延長線上の抗争と考えると分からなくもない
千本氏も主君暗殺とかヤバい事やってたしな でも下野の大名で戦国時代から明治にかけて転封も改易もなく現地で存続したのは
大関と大田原ぐらいだという罠 下野って何気に生き残っている家が多かったんだよな
小大名が割拠していて戦国大名によって統一されなかったというのも原因だろうけど
那須七騎も江戸時代以前に滅亡した千本以外の六家は本領安堵されている
那須と伊王野は後に改易されて那須は交代寄合、伊王野は水戸藩士になっているけど 千本氏て養子が攻めた側にいて跡を継いでるから滅んでないと思うけど 那須氏が小田原の役で遅参してなければ他の那須七騎は那須氏の家臣になってたのか、それとも宇都宮氏とは別に豊臣家臣に取り立てられてた塩谷氏のようになったのか 佐野氏もそうだけど女系で繋ぐってあんまり残った、存続した感ないんだよね
他家に「乗っ取られた」というか
同じ藤原氏系統の名門ならまだしも織田徳川の陪臣とかもうね
小山、壬生みたいに影も形も無くなるよりかはマシだろうけど >>761
あれは、上那須の抗争の延長というより
資清の子らの野心と自立への運動とみた方がいいかもしれない 大田原三兄弟らは那須家と和睦はしたけど主従と呼べるような関係ではなかったのだろうな
那須氏がいわゆる洞を形成していたのかは知らないけど小田原征伐で那須家が豊臣方に参陣しなかったのに対して
大田原家らは参陣して所領を安堵して貰っている訳だからな
独自に外交をしていたという点で洞中であったからそれ以上に対等に近い同盟関係であったのだろう 下野守護の小山が下野統一すべきだったんだろうが
中先代の乱での敗戦で当主以下200人の自刃した事件と
小山義政の乱での滅亡によってどんぐりの背比べ状態から脱せられず
下野の豪族を下すような強大な勢力が登場することはなかった
甲斐の武田に当たるような家はでなかった 下野は宇都宮氏や那須氏といった古族もいるからな
常陸も佐竹と小田で二分されていたしなかなか一国を統べるのは難しい >>768
資晴の祖母が大田原資清女だし、一条天皇の外戚として国政を恣にした道長みたいなもん?