【暗君】一条兼定【暗君】
>>252
武家もすなる大名といふものを、公家もしてみむとてするなり
公家から戦国大名化したのが2家もあるとか四国って面白いところだ 宮下英樹の「カネサダ」という作品を
読んでみたい。 横山光輝に描いてもらいたかったな
ほとんどの合戦でジャーンジャーンジャーンされて「げえっ」とか「ひぃぃぃぃ」って敗走する兼定は絵になるぞ
他にも「こやつを斬れ!」とか言って土居宗珊を手討ちにしたり、大友宗麟のキリシタン娘を嫁がされ「むむむ」とうなるとか 司馬遼太郎の夏草の賦の兼定は大馬鹿者に書かれすぎ
ああ言う根拠の無い悪質な歴史ラノベが歴史上の人物の評価を誤らせる いちし゛ょうさま はんけ゛きをくらった
いちし゛ょうは しほ゛うしました >>266
たぶん違う
2人は文通友達で兼定にとって宗麟は義理の義父さんだった気が でも暗君だったら隠棲後も暗殺されかけるなんてないだろ >>269
影響力がありすぎて生かしてはおけなかったんだろうな
四万十川の合戦の時も豊後から舞い戻ってきただけで数千人の旧臣が集まってきたと言うし
戦国伊予最大の戦いと言われる鳥坂峠の戦いを引き起こした程の人物だし
それを考えると暗君だなんてトンデモな説だとおもう いやどうみても暗君でしょw
土佐一条家を破滅に追い込んだんだから 御家を破滅に追い込んだのが暗君なら
北条氏政、武田勝頼、長宗我部盛親、宇喜多秀家、
善政で神様とまで呼ばれた赤松広秀も暗君? >>273
だが北条氏政は後北条最大の領地を手に入れたのも事実
第二次国府台合戦や神流川の戦いも考慮すれば決して暗君ではない
平均より劣っていただけだ >>272
そいつらは自分達よりも力がはるかに上の相手に負けたって感じだけど兼定は… でも兼定は長曾我部に負けたがかなり善戦してたろ
今日の兼定の評価は長曾我部マンセーの一次資料を鵜呑みした司馬史観じゃん
河野戦においても相手の援軍の毛利も危なかったらしいじゃん 確か具体的な悪政の一次資料ないんでしょ
その上幡多失った後も中村奪って三千の兵力集められたんだから結構なものじゃない
長宗我部にとっての最強の敵で、かつ身分大義正当性的に越えられない壁があったから酷い暗君扱いされたんだと思ってる 創造
統率:2
武勇:18
知略:1
政治:37
冷遇され過ぎだろw 関白経験のある戦国大名として一条房通はもう少し注目されていい つか、兼定結構凄いやろ?大友の力を借りて一時的に土佐中村取り返してるしね そうです。
具体的に彼の暗君ぶりを
記して下されい。 https://www.youtube.com/watch?v=O1HRbHpBK9k(マイナスSTAP胞細)(沖縄神田政典制圧)
https://www.youtube.com/watch?v=UpW3OnvM8RY
入浴厨森永喫茶大敗タイラーリーマンゲンジシャチョウシュッチョウクルマセンター
ニューヨーク飲会廃線自社買いボーナスワーナー映画(シネマレビュー低所得評論家)
川崎50代厨房教育違反アシスタント 中国皇帝の暗君連中で打順組んだ
1(中)蜀漢孝懐帝
2(二)後漢霊帝
3(三)北宋徽宗
4(一)西晋恵帝
5(遊)明万暦帝
6(左)南斉昭粛帝
7(右)陳後主
8(捕)北斉後主
9(投)北周宣帝 本家と折り合い悪かったようだけど
土佐一条家が戦国大名化するとなんで本家が困るの? 兼定無能か? こいつ一度土佐追われてから、大友の支援を受けて土佐に再度攻め込んだことあるぞ。
意気は認めるべきではないか? 鳥坂峠の戦いの時、西園寺はどうしていたのですか?
一条、河野どちらにも味方しなかったのでしょうか? 兼定の悪名(例:そもそも実在しない人間土居宗珊殺害)は払拭できるけど
そもそも土佐一条家は戦国大名の定義に当てはまるのかという >>298
そんなこと言い出したら、伊予西園寺、奥州北畠、周防大内、肥後阿蘇といくらでも定義に疑問符がつく奴らが出てくるよ。 YES
初代 教房
土佐一条氏は、1468年(応仁2年)に一条兼良の子で前関白の一条教房が、応仁の乱の混乱を避け、
京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市中村)に下向したことに起源を有する。
鎌倉時代末期から室町時代にかけて敷地氏・布氏・入野氏などが幡多荘の押領をもくろみ、
更に戦乱による所務不振に悩まされることになり、その安定化を図る目的もあったと考えられる。
教房は幡多郡を中心とした国人領主たちの支持を得ることに成功し、文明年間には拠点として
「中村館」を置き、以後「中村御所」と称された。
また、教房とともに公家や武士、職人なども幡多荘に下向するなど、中村繁栄の基礎を築いた。
2代 房家
土佐で誕生した教房の次男一条房家は京都に戻らずに幡多荘の在地領主となり、中村御所を
拠点に土佐の中村に京都さながらの街を築き上げ、官位も正二位まで昇進した。
房家の時代に土佐一条氏は管領細川氏(土佐守護を兼ねる)と土佐を二分する勢力となり、
公家としての権威を維持したまま同国に勢力をもつ大名として存在感を高めた。
嫡男房冬の正室に伏見宮邦高親王の娘、側室には大内義興の娘を迎え、更に娘を伊予の
西園寺公宣に嫁がせるなど、公武の有力者との婚姻を通じて土佐一条氏の安定を図っている。
また、房家の次男一条房通は京都の一条家の婿養子となって関白に昇進している。
永正の錯乱(1507年(永正4年))により細川氏が中央に引き上げてその影響が消えると、
土佐国は「土佐七雄」と呼ばれる七国人が割拠する状態となった。
土佐一条氏はその上位に立ち、盟主的存在を担った。 なるほど、全国にある一条家の所領に土着して戦国大名になったのか
北畠や姉小路みたいな感じかな 武士になりたかった一条兼定
土佐一条が問題ありにしか見えなかった本家 記憶あいまいだけど暗殺者に片腕もってかれたがその者も手負いし死んでなかったかな?
あと藤の花の話やら