【暗君】一条兼定【暗君】
戦国武将らしくあろうとして、本家(とそれとタッグくんだ長宗我部)にボロクソにやられちゃったという
・・・ある意味悲劇の武将かも。 一条兼良、教房親子の何代か遡った先の先祖は
鎌倉将軍として関東の諸将の上に君臨していたわけだから、
もともと一条家には武人の血が流れていたともいえる。 鎌倉将軍の頼経は九条家の出身だが、
初代一条家当主の弟。
血縁関係なし。
たしか、九条、二条、一条氏は女系で源氏(頼朝の妹)の血も引いていたはず。
九条頼経が将軍になったのも、ここらへんの血縁があって、頼朝の遠縁というのも
理由の一つだったような
>>161
先祖の兄は自分の先祖じゃないだろう。
おれの伯父はおれの先祖じゃない。 >>163
その辺の定義は結構曖昧。
この前、偉人の子孫紹介する番組があったが、結構兄弟の子孫が続出してた。
その中には、フランシスコ・ザビエルの兄の子孫なんてのもいたな。
でも、ザビエルを先祖扱いしていた。 土佐幡多荘は源頼朝が九条兼実に譲ったもの。
ゆえに守護といえども介入できない一種の不輸不入の権を有していた。
このように荘園としての特別の格式の高さと
交易の要衝という大きな利点を備えていたため、
幡多荘の存在は一条家からは特別に重要視されていた。 一条の土佐下向には大平の手引き説の他に、長宗我部文兼が迎えた説もあるんだね この人が豊後に流れ着いたのは偶然ですか?
海に出された時点でもうのたれじねってことで
本当に流されるがままに漂流してたんでしょうか? 偶然じゃないよ。
二人目の正室が大伴宗麟の次女だったので
最初から豊後が逃亡先だった。 >>168
中村占領時に、荘園の強奪を行ったと言う記述も特にないから、
内政経由で、一条家に収益は渡るようになったんじゃないか?
もちろん、結構な部分を長宗我部が持って行きはしただろうが。
兼定のままならまったく来なくなったかもしれない収入が、少しでも入ってくるなら御の字だろう。 毛利・河野・村上水軍 vs 大友・伊予宇都宮・土佐一条で伊予の覇権争ってる間に
土佐で長宗我部が台頭 週末兼定公祭に行ってきました。
今でも地元で愛されているほどの名君だったんですね。 >>1
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm3912774
この一条たんと天下取れば良いと思うよ 名将だから祭るとか、賢人じゃなきゃ地域にとって価値がないとか
そういうことではないと思うんだ 少しはあるかも知れないが、当地で没したわけじゃないから 高祖父教房、大叔父房通が関白になっていて、なおかつ房通の養子になっている事から
血筋には申し分無く、兼定も関白になれる可能性を持っていた。 >>189
中央では長宗我部=一条氏の家臣扱いだったらしいね >>203
長宗我部が戸次川の戦いの敗戦の責任を問われなかったのも、
大阪の陣のとき大阪に入城した盛親の扱いが低かったのも、
豊臣家においては長宗我部は一条の家臣であり、豊臣家にとって陪臣である、
と言う認識があったせいだというね。 一條さんは琉球やアユタヤに使いを出してたって本当?
ポルトガル人の記録にあるらしい >>205
一応大内氏と親しかった時期と大友氏と親しかった時期があるので、
大内氏・大友氏を通じての使者の海外派遣は可能だった。
一条氏の本拠中村では中国産や南蛮由来とされる遺物が発掘されている。 >>208
キリスト教の日本上陸は1549年。
大寧寺の変は1551年。
大内義長の擁立は1552年。
陶と毛利の決裂は1554年。
厳島の戦いは1555年。
大内義長滅亡は1557年。
大内に耶蘇と仲良くしてる時間なんてない。 一条氏って今の四万十近辺にいたの?宇和島の西園寺とは良い関係だったのかな >>210
時期にもよるが、兼定初期は西園寺と仲の悪い宇都宮と仲良くしてた。
西園寺との関係はあんまりよくない。 >>211
仲が悪いというより一条の方が力はかなり上だったと思いますが。
永禄年間の末期に宇都宮を支援して河野・毛利の連合軍と対峙した際には(鳥坂合戦、高島合戦など)、
西園寺が中立を保つか一条氏の傘下にない限りそもそも宇都宮氏への直接的な軍事的支援は不可能ですから。 >>213
西園寺と一条のどっちが力が上かなんて話は誰もしていない。
聞かれてもないことを勝手にベラベラ話すのは構わないが、
アンカーをつけて話すべきものではないだろう。
ちょっと話がずれてるかな、と思ったらアンカー外そうぜ。 家柄は摂家と清華だけどね。乱世ではあまり意味がないか。 >>217
暴君が兼定を指すのなら、そんなことを言ってるのはこのスレでキミが初めてだよ。 兼定の暴君ぶりな話って土居の手討のほかに何があるっけ? 何だかんだで御家再興の執念はあったのに
そのせいで暗殺されかかって腕失い、やがて病没ってのは悲惨な人生だよなぁ >>180-181
地方領主としては、そこそこ有能な実績を残していても
近くに1地方を征圧しちゃうような有力大名が出たり
信長・秀吉・家康のような連中に倒された連中はけちょんけちょんに書かれるからね。
朝倉義景も北条氏政も今川氏真も一般的には家を滅ぼした暗君とされがちだけど
結構頑張ってるからね。凡君ではあったかもしれないけど決して暗君ではなかった。
一条さんもそんな感じだと思うよ 一条マニアきめぇWWW
追放された無能君主は打ち首でいいわ 1、2郡程度と思ってたけど地図で見ると面積だけなら土佐の半分ぐらいを抑えてたんだな 南予にも粉かけていて、御荘や法華津等のような
西園寺と二股仕えの小領主も多かったから、実際はそれ以上だったろうね。 司馬遼太郎の「夏草の賦」に出てくる一条兼定は矮小化され過ぎにも程がある。 愛知県民発言す。
何年か前に立ち寄った中村市は寂れつつあったけど、中村城の管理人さんや麓の酒屋さんは本当に良い人だった
高知に限らず全体的に四国の人は親切な人が多いし、酒・食い物が美味くて良い所だと思うな四国ってところは 同盟関係にあったのは大内と大友? 長曽我部は家来だがw 今朝の高知新聞に兼定のクレイアニメ制作の記事出てるね >>245
京極さんや細川さん、三好さん、大友さん…… 摂関家なのにどうして大名なんぞ始めてしまったのか… 国司が守護に取って代わられ名前だけの存在に過ぎなくなった時代に
どうやって国司から大名化したのやら
あと京に帰ろうとは思わなかったのだろうか >>253
一条・西園寺:都で公家やってても食っていけないでおじゃる 既に京にいた一族がいるでしょうが。
摂家の一条家はだれが継いだと思ってる? >>225-226
落ち着き過ぎていたらそれはそれで凡君だからな