【暗君】一条兼定【暗君】
ヨシ!私が2げっとだ!!
,..-‐'''" ̄ ̄ `'丶、
,/ \ 無駄口を叩くな!!今から私のことをハク様と呼べ!!
/ ネ申 ヽ,
./ l .>>3 おにぎりをのどに詰まらせて氏ね
/ | ||_|l__li_li__l|__| | >>4 人間のくせに何を言ってんだ
l 「‐二‐-.._ __.-─ | | >>5 氏んでも働け
.| | 、_(゚,;) l', '(゚,;)フ.| | .>>6 今からお前を豚にしてやる
| | | /|. | .>>7 ここはお前のような人間の来るところではない!!
.| |、_ `' ト'| | >>8 千と昌夫の金隠し
.| |:::ヽ _ /::::| | >>9 お前が氏ぬようにおまじないを掛けたんだよ
|_ |:::::::::\ ´ - /::::::::| | >>10 人臭くてありゃしない
` - 、|::::::::;;;;:| `丶- '"|;;;;;;;;:::::|__, l >>11 神隠しに遭って氏ね
_l. i '''‐-ゝ、___,∠>'`i─ 、 _ >>12 お前はクビ
暗君説は後の彫塑壁関係者のネガティブキャンペーンらしい
三国司のひとりで洗礼名ドン・パウロ
ネタ的に非常においしい人物ですね
>>5
マジで? 追放された後、大友の影響を受けてキリシタンに。
更に後援されて土佐に帰還作戦敢行。
なんとも香ばしい。 京にしがみ付いていたら三好長慶に殺されてたんだろうか……。
公家はしぶといから死なないし、そう簡単には殺されない >>10
というか一条家は京でちゃんと関白やってますよ、教房の土佐下向後も
しかし教房はすごい人だね
経済的な理由とはいえ、関白だった人が下向して領国経営始めちゃうんだから
それに国人たちとも上手に接し、彼の死去時には十余人の国人が出家したそうだ
土井宗珊を殺したのは、感情的な理由だけなのだろうか?
何か政治的な理由は無いのだろうか。 土居宗珊(算とも)ですか
兼定は少しの失敗を理由に家臣を追放したり、切腹させたりしていました
これについて宗珊が意見したのが、手打ちの原因
どうみても感情的なものですね
京の一条家の内基はこの兼定の行状を見兼ね、土佐に下向
兼定を出家させ、内政に家督を譲らせた
兼定は豊後に隠退した 戦国期に土佐一条家当主となった兼定は、家督を継いだ当初こそ外交活動や西園寺氏への交戦など軍事行動などがみられるが、
その後、政治に飽きてしまったようで怠慢で堕落な行動をするようになると言われている。
例えば、長宗我部の侵略が徐々に進んできたときも彼は遊蕩にふけっていたとされる。
さらに、忠臣・土居宗珊の諌言にも耳を貸さず、さらには宗珊を殺してしまった。
こうなると人望もなにもなくなり、家臣よりも忌み嫌われて、重臣合議の上兼定は追放されてしまう。
追放された兼定は、妻の実家九州の大友家に身を寄せる。
この時、身を寄せていた大友義鑑が熱心なキリシタンだっため、
兼定は妻(大友義鑑の娘)共々滞在中に洗礼をうけ、「パウロ」という名前をもらっている。
その後、中村奪回を目指し伊予に侵入するも敗北。
その後隠遁し伊予に留まったが、長宗我部方の家臣により就寝中襲撃されて重傷を負い、程なく死去した。 擁護はできんが、弁護すると
長宗我部の勢いの前じゃ仕方ないよ、ということと
(房家が国親助けなきゃ良かったんだとも言えるし)
親父殿が早死にするから、より苦境になるんだ、とも言っておく
詮無いことばかりだけど 最初はさほど悪くはなかったんだけどなぁ。
長宗我部家の記述を自己擁護だとしても、やっぱり元親の方が一枚
上手だったという事だと思う。
その上で更に上手の信長、秀吉に長宗我部家の重石としていいように
扱われたり、一条本家に公家大名化を問題視されたりしたのがまた
みすぼらしさを助長してしまったような……
いっそ兼定できれいに終わっておけば良かった気がしないでもない。 土佐一條公家行列
ttp://www.city.shimanto.lg.jp/top-img/2006/0524/index.html
土佐の祭り歳時記
■一条祭 中村市一条神社 11月23日〜25日
ttp://www.kbiz.or.jp/kumiai/sake/event/matsuri.html 一条は土佐にいたの百年ちょっとだから、短いよね
山内藩政の方が長い
力の大小、立場の違いはあっても、承久の乱から入ったとすると、長宗我部の方が長いし いっそ元親が十年早ければ良かったな。
やる気のある頃の兼定とぶつかってくれれば勝って公家といえども
軟じゃない所を見せるなり、華々しく散るなりできただろうに。 >>いっそ元親が十年早ければ良かったな。
三好家に滅ぼされるぞ。 あれは単なる逸話だしなぁ。
宇都宮氏の娘を離縁して大友宗麟の娘を娶った行動が一般の人間には不可解な
行動としてうつり、色好みが激しいという風聞が立ったりした結果じゃないかな?
そういえばキリシタン大名はいろいろいるがキリシタン公家(一応)は珍しいよな。 お雪の話は、地元では結構有名なのかな
出展は、土佐物語、江戸期宝永年間に吉田孝世によって書かれた
史料としての価値はどうなんだろ? 吉田孝世は長宗我部の臣、吉田備後守重俊の後裔
重俊は結構活躍してる その長宗我部重臣の吉田さんと、土佐藩の山内さんが
藤氏秀郷流 首藤系の同族だったとは、何かの縁だね ( ´∀` )<ほすほす!
_(__つ/ ̄ ̄ ̄/_
\/ / こういったマイナー地方大名スレは細かすぎるところまで解るので大好き
だからほっしゅ
今川より小大名だけど、家柄は良かったから
何しろ関白の玄孫で、本人も権中納言
それなのにそれなりに戦ってるから くわしくは講談社文庫から出ている『フロイス日本史』に書いてあるが
長宗我部元親に破れた兼定は瀬戸内海の戸島という島に逃れる
もはや土佐から追放された兼定に舅の大友宗麟も興味を失ったのか
ふたたび豊後に逃れることはできなかったらしい。
(ちなみに後妻であった宗麟の次女は、その後大友氏の家臣と再婚している)
この戸島で隠棲しているときに「ある刺客」が兼定を暗殺しようとした。
この後遺症で兼定は腕を失ったという。
この「ある刺客」について「一条家が土佐に落ち延びたときに付いてきた京の公家の末裔」とする考察がある。
詳しくは「足摺岬金剛福寺蔵土佐一条氏位牌群」野澤隆一(『國學院雑誌』87−4)を読んでみて。 >>46
ありがとうございます
ちょっと最後のには手が届きそうにないですが
学術文庫の『フロイス日本史』は本屋にあったので そのうち読んどきます 一条家臣について、名前だけでもかまいません。情報教えてくだされ 飛鳥井曽衣 あすかい・そい
土居宗珊 どい・そうさん
小島政章 おじま・まさあき 佐竹義直なんかも譜代の家臣、長宗我部に降って臣従しちゅけど
津野定勝・・・兼定の娘を娶る、子の勝興は長宗我部に降り、自身は伊予に追放される ここなんかどう?
ttp://f2.aaa.livedoor.jp/~kshine/1ichijo%20clan.htm 地元では一条大祭ですね。けど兼定公の名前はあまり知られてないのかな。 戦国屈指の暗君といえば、氏真や兼定が浮かぶ。
(実際どうだったかは別として)
が、蹴鞠やらのエピソードがあって、
全体としてほのぼのとした印象のある氏真に対して、
兼定はなんと言うか・・・宗柵の手打ちとか姦淫生活とか
負のイメージが強すぎて、擁護する気になれない。
それが俺の中での二人の差。 それらのエピソードは長宗我部のねつ造じゃないかという指摘がある件 「実際どうだったかは別として」と断り書きしてる書き込みにするツッコミではないような。 >>56
牛裂きの刑をやった
三好実休さんのお子さんも忘れないで。 家臣に源なんたらがいたんだっけか
さすが公家だけあってモノホンの源氏まで手下にしてたんだよなw 豊後に落ちてからだけどね
土佐時代はまだ洗礼を受けていない >>61
従三位なのに津野基高を屈服させたり、それなりに優れていたと思う
死因がよくわからない(自殺とも)のようですが >>60
公家の方の源氏(清和源氏じゃなくて村上源氏とか)は
藤原北家(のちの五摂家)の腰巾着だったからな
源氏の末裔が五摂家の一つである一条の手下なのは当然かも
>>61
房家、房基はなかなかのやり手
房冬はすぐ死んだけど凡人かそれ以上
兼定はよくて凡人以上天才以下、風評は最低 放蕩を諫めたら、刺客をよこしてくる兼定オソロシス。
それで殺された土居宗珊カワイソス。 兼定は、中国に行っても立派に暗君がつとまりそうなスケールの大きさを感じさせる 長宗我部は豊臣政権内で毛利や島津に比べるとかなり格下扱いだが
その一因に一条家の下の陪臣という捉え方もあったらしいね。
秀吉は天下盗りの過程で自身の権威と正統性を関白の位に求めたので
皇族・公家を目に見えて解る形でぞんざいにはできなかったとか。 いっそ内政が長宗我部内部を切り崩す位の器量があれば面白かったろうになぁ。 土佐一条家と長曾我部家の関係は
主従としてとらえる向きの学説のほうが最近では強くなっている。
両者の軍勢が対峙した四万十川の戦いが
以前の土佐領有を巡って衝突した2勢力という見方の根拠になっていた。
しかし、実際は土佐一条家は土佐7雄の上に君臨した権威で
別格の存在であったという視点がいくつもの史料から明らかになってきている。 ちょっと疑問なんだが、実際それだけ権威があったなら長宗我部家
改易時のごたごたの時、一条政親が無視されてたのは何でだろう?
この時どちらかの陣営が自分達の行動の根拠として担ぎ出しても
おかしくなかったと思うんだが。
この時点ではもう神輿としても意味を失ってたってことかな? 土佐一条家の潜在を際立たせる一例。
戦国時代の室町将軍の極位極官が従四位から従三位。
最期の12代、13代、14代、15代が
将軍宣下を受けたときの自身の官位はだいたい従五位。
朝廷もしばらくしてから(つまり統治の実績を見定めてから)
従四位に引き上げているが、当時その程度の官位を持っている
国人や大名はざらにいた。 そういった国人の極め付きは日向伊東家の三位入道と号した伊東義祐や
大宰大弐を拝命した従二位大内義隆。
このほかにも従四位の地方戦国大名はたくさんいる。
当時の西国でこれらの戦国大名が積極的に外交関係を結び
子女との通婚を求めた相手はもはや室町将軍ではなかった。
これらの西国有力大名らが仰ぎ見た対象は土佐一条氏。 太閤(前関白)として下向した初代教房。
太閤と地元国人加久見氏の娘との間に生まれた二代房家。
一条氏三代は津野氏を武力で敗死させ戦国大名としての実力も見せた。
第三者からみた客観的視野にたって当時の最高の武家貴族の教養、文化度、
政治力、財力を判断しうる材料が天正遣欧使節。
4人のうちの1人は伊東氏から選ばれているが、
彼は大友宗麟の甥、土佐一条氏の縁戚という血筋。 ハプスブルグ家などヨーロッパ皇帝・国王家の帝王教育で名を挙げる
イエズス会は「語学力と容姿端麗度、社交界で恥じない身のこなし」を
天正遣欧使節の選出帰順に挙げている。こうした歴史的史料から見ても
当時の西国の武家社会サロンの頂点に位置したのが
伊東、大友、大内、土佐一条らの諸氏だった。
2台房家の子供は京一条本家を継いで関白に昇っているし、
京本家の下に位置したというより、京本家と土佐一条家は密接な結びつきを
保持したというほうが正確。 織田家の記録にも「一条殿の臣でちょうそかべとめずらしき苗字」と
出ているし、豊臣秀吉も一条家の家臣として長曾我部を遇している。
織田信長も右大臣を拝命し、豊臣秀吉も公卿官位に固執した。
豊臣家は明らかに公卿権威にこだわった改姓であるし、
秀吉が意図したところは、公卿権威を制すること。
御所に近隣近国の国人衆を参勤させ、
戦時には甲冑を身につけ、土佐や伊予の諸地域に出陣した
一方で領国経営を成功させと遣明貿易で巨額の財を築く。
こうした土佐の関白家の武名・声望は西国中に伝わった。
これこそが秀吉が求めて止まなかった権威であったといえる。 改易後に政親の消息不明というのが引っかかる
もし国主として改易されても公家身分までは剥奪できないし、京都に帰って
公家として暮らせたと思えるし、土佐に残って阿波公方みたいに過ごせた
かも >>79
江戸時代の阿波公方がどれほど冷遇されていたか知らないと見える。
それはさておき。
その当時、京の一条家が代替わりし、先代に男子がいなかったので
後陽成天皇の皇子が次の京一条家当主となり、土佐一条家とは血縁関係が切れてしまった。
このことと関係があるかも知れない。
もっとも政親に関しては史料自体が少ないので
その辺に関しても全く先行研究はない。 一条昭良が生まれるのは慶長十年(1605)、
内基の養子になるのは慶長十四年(1609)だから、若干時代がずれる気はしなくもないが 土佐の大名と言えばこの人で、長宗我部はかなり後まで家臣扱いだったぽいね。 >>86
「一条殿の家人で長宗我部とかいう珍しい名字の奴がいるらしい」
という趣旨の記録があるらしいしな
一条って、土佐の国司にはなったんかな?
北畠が伊勢の国司になったのは有名だが。
土佐の守護は細川って理解で良いのかな? 土佐国司にはなってない、慣用的にそういう風に言われるようになっただけ
戦国三国司で正式に国司に任じられたのは北畠だけ
但し国司に任じたのは南朝なので、北朝を奉じた室町幕府体制下では僭称同様だったと思うのだが…
土佐の中村に昔から荘園を持っていたのは事実だが>一条 >>90
兼定も含めてなっているな。
まあ、実際にはもっと上の官位にまで上り詰めてもいるが。
いや土佐国司になってるよ
前関白が次は土佐国司ってのもある意味凄いけど つまり初代教房自身も土佐国司をわざわざ朝廷から拝命している この初代教房の頃(東国では後北条氏が箱根を越えて駿東から
関東へ本格的に勢力を移植し始めた頃)から
次第に武家の間で官位官職が次第に復権し始める。
土佐守護家の没落と同時に畿内・西国では公家官位のほうが
ハイエンドなブランドとして流通し始める。
信長は部下に羽柴筑前守や維任日向守など
九州の名門旧家の姓や官職を名乗らせた。
徳川時代になって各国の国主は
鎌倉室町武家職制の守護・地頭職ではなく、
平安時代以来の受領国司名や朝廷官職を専ら用いた。 >>95
室町幕府の守護で江戸時代の領地も、その国全域だったのって、島津ぐらいってのもあるんじゃないか?
今の領地と違う地域の守護なんて名乗ろうものなら、無駄な軋轢生むことになっただろうし。 どちらかというと、しりとりに近いかな
実経ー(実家)ー家経ー(内家)ー内実ー内経ー経通ー房経ー経嗣ー兼良ー教房ー房家ー房冬ー房基ー兼定ー内政
もしくは教房以降は房とも言えるね >>101
「内政」とか先祖帰りしたかのように、内の字が復活してるね。 戦国大名化した土佐一条家を懸念した一条内基が土佐に下向、
介入して(恐らく長宗我部に内政預けて)偏諱を与えてる。 なるほど、勉強になります
ちなみに同時代の京一条家
教房ー冬良ー房通ー兼冬ー内基 >>104
補足すると、
冬良は教房の弟、房通は房家の子で房冬の弟、兼冬は房通の子、内基は房通の子で兼冬の弟なので、
兼冬・内基兄弟と兼定は父方を通じての従兄弟同士。
今の我々が思う以上に当時としては近しい親戚関係だったのかもしれない。 最近、中村に引っ越してきたから調べていれば兼定スレがあるとは・・・
ノブヤボ版の曹豹キャラとして愛されてるんだw
宿毛市史に「兼定の最期」として結構くわしく書かれてるよ
ttp://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/014001.html 一条房家かその子房基かどちらかだが
西国の大大名大内義隆の妹を妻にしていた。
二人の間に生まれた子が大内性に復し晴持を名乗った。
大内晴持は大内家の嫡子として義隆に大切に扱われた。
張持の実家土佐一条家の申し入れもあったのかと思われるが
大内家中に藤原氏の氏寺東大寺の所領を横領した一族がいる。
それがほかならぬ大内氏親族で譜代筆頭の陶氏。
大内義隆は陶に命じて東大寺旧領を返還させた。
この頃の大内氏は貿易港博多を支配し、西国10カ国近くを領していた。
これにいずれ大内氏を継ぐ大内晴持の実家土佐一条氏の土佐を加えると
大内氏は丹波路、瀬戸内海、阿波・和泉・摂津路の3方面のどちらからでも
入京を果たせる勢いだった。土佐一条氏の阿波侵攻の動きも
そうしたことが背景にあったのかもしれない。
>>107の補足。
晴持の父は、房家の息子で房基の父である房冬。
房冬の正妻は伏見宮玉姫であり、側室が大内義興の娘。
晴持は房基の異母弟。
晴持が死ぬことになる出雲遠征のときは、義母である玉姫も戦勝祈願のため厳島神社を訪ねていたが、
大内方の敗報を聞くと山口へ向かっており、かの地で晴持の死を聞いたものと思われる。
陶氏の東大寺押領は大内氏の政策。
大内氏と東大寺の間では数度の折衝が行われ、陶氏も寺領年貢を送ったり送らなかったりしている。
応仁の乱の上洛の際に、上方の寺社勢力を敵に回したくないときは年貢を送り、
応仁の乱が済んで撤兵すると再び年貢を送らなくなった。
細川氏に内乱が起こり上洛戦の可能性が高まると、再び東大寺と折衝を始めている。
そして上洛戦も終わり尼子氏の対立が激化するといつものように年貢不送。
隆房と義隆(及び相良武任)の対立は晴持の死後に台頭するため、一条氏との関係は不明。
応仁の乱では、一条氏は親細川派であったため、大内氏との関係は良好ではなかった。
一条氏出身の僧尋尊(房家の叔父であり、師匠でもある)は大内氏を憎悪して罵倒している。
土佐一条氏の拠点であった中村には貿易による舶来品(中国製陶器等)が多数出土している。
これらは大内氏と友好関係であった時代に持ち込まれたものと推測されている。 この人は鳥坂峠の戦いで河野の援軍として来た小早川隆景とも戦ってるんだな。
華々しく負けたらしいが…
波乱に満ちた人生で興味深い人物ではあるな。 大内義隆と陶隆房の対立については表面化したのが1541年の出雲遠征敗退だったが
それ以前にも主従の対立関係があったかあるいは
陶隆房氏への何らかの処罰さえ下されていたとも考えられ得る。
理由は応仁の乱以降顕著となる傭兵を用いた戦が増えたことと
日本全体的に人材フローの流動性がさらに増したことだろう。
戦国大名は金銀鉱山の開発や港や主要河川の掌握に懸命になった。
それらの軍資金が有能な人材の確保に役立った。
応仁の乱後はご一門やご親族集がお殿様の藩屏として
評定の場でも戦陣でも主君を取り囲んで数の力で押し切るという時代では無くなっていた。
まったく主家とは縁もゆかりもない他家の出身者や場合によっては
どこの馬の骨と家中で揶揄中傷を浴びる者でさえ軍師の地位や評定衆の列に加わることを許された。 おそらく晴持を嫡子として遇した大内義隆は摂関一条家の名流を
大内家時代当主として本気で据える意思があったのだろう。
明治の世になってから井上馨や桂太郎といった毛利家親族が
首相の座についたがそれは山口県出身者である総理大臣のリストの
ほんの一部に過ぎない。中世毛利家も飛躍のためには他家出身者をどんどん登用した。
摂関家の血筋を次期当主の座に据えた例としては美濃斉藤家などが知られている。
また日野家出身で八幡太郎義家の血を引く開祖親鸞以来
本願寺座主は代々日野家猶子であったが
戦国期にはとうとう摂関家とも直接結びつくようになった。
それほど一向宗の政治的権力は時代を経るごとに拡大していた。 この当時世界的に有名だった奴隷市場といえばイスタンブールやエジプトの戦奴市場。
それらの市場で有能性を評価されたトルコ傭兵や東欧出身者や
欧州の皇帝家・国王家で常用されたドイツ傭兵等が代表的なものだった。
彼らの中には有能性を認められついには一方面の師団長的役割を任されたり
あるいは地方領主・君主の座にまで登りつめた者もいる。
本願寺最盛期を現出した顕如の場合、妻の三条氏を通じて
管領細川晴元、六角氏、武田信玄とも姻戚関係だった。
いざとなれば一向一揆の力を借りることも戦国大名は辞さなかったし、
三河一向一揆で名立たる徳川の重臣が一向一揆側に与したことを見ても
百、千単位で軍編成を組める傭兵のほうが逆に
土地と縛り付けられた国人衆、同朋衆、親族より使いやすかった。
大内義隆はそのような体制に家中の変質を進めていたのではないだろうか? 氏真公は治世の名君、乱世の凡君だが
この人の場合は典型的な暗君だな 数少ない補佐役・土居宗珊を手打ちにしてる所とかは救いがたい。 で、兼定様が主人公の「兼定の野望 四国風雲録」の発売マダー? >>115
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm1103049
でがまんしとけ 兼定公は地元じゃ名君として神社にも祭られてるんだけどね。
某ゲームの影響力はすごいわ。 まぁ正直、町おこしの一環って感じでしかないけどね……。 いや、なんで一条が雑魚に思われてるのかわからん。
吉良みたいなもんか むしろ思い切りクズならそれはそれで面白かったんだがなぁ。
元親にしてやられて、その元親も信長秀吉には小物扱いと
順繰りにスケールダウンしちゃったというか。 無為無策で飲まれていった連中が多い中
兼定はけっこう足掻いたと思うんだがな 普 通 な気概ってw
でも実態より低評価なのは禿同意>土佐一条家
良質な史料がないのが拍車をかけているような気がする。 ま、一言でいうと地味なんだよな。
結局、公家なんです珍しいでしょ?が最初に来ちゃう辺り。 そういう部分もあるだろうね
しかし山内は持ち上げなかったんだね >>133
家格が違いすぎるから、自分の統治が面倒になるだけだったんじゃ?
後、武家としては、一応守護の細川絡みでいろいろ難しいだろうし。 出来星大名の場合、多くが在地の権威を徹底的につぶそうとするからな。 土佐一条氏について書かれた文献を教えてください。
素人でも読める程度でお願いします。 『地方別 日本の名族』四国編(新人物往来社) 但し現在絶版。図書館で借りなされ。
『中村市史』 これも完売。図書館で借りましょう
後はいくつか論文があるが、イパーソ向けを書けと言うことなので割愛。
>>139
論文も気になるな。
そっちも紹介してもらえるとうれしい
>>140
『長我宗部元親のすべて』(新人物往来社)にも一条氏について独立して一章立てられている
分量は少ないけど・・・ >>141
土佐一条氏に関する論文自体が非常に数が少ないと思うが
見たことがあるのは
・『土佐一条家年表』小松泰(朝倉慶景編)
・「天正初期の土佐一条家」上・中 朝倉慶景(『土佐史談』166,167号)
・「足摺岬金剛福寺蔵土佐一条氏位牌群」野澤隆一(『國學院雑誌』)
これだけ。
上二つは入手も難しいと思う。国立国会図書館からコピーするしかないかな。
>>141が高知なら地元図書館で持ってる可能性もあるが。 金かかるが国立国会図書館にコピーおながい、かなw
高知の県立図書館でもやってくれるかも知れないから取りあえず問い合わせて見なされ。
天下創世の話。
俺は関東足利氏を将軍にしたことはあるが、
一条公で四国を併呑したことがない。
結局、足利晴氏の場合、
命令回数が1ターンの中で2回じゃん。
それに比べて、一条公運の場合、1回のみ。。。
守備よく西園寺や長曽我部を滅ぼしても、
大友や毛利など、九州、本州の沿岸部の大名が
巨大化し過ぎて、とてもではないが、戦えない。
一条公だけは将軍にするの、まず無理。
断言できるよ。 伝承の多くは勝者である長宗我部氏によって書かれており、兼定を実態以上に悪く記述している可能性が高いって本当ですか? このての質問を見ると、むしろそうじゃないと思ってるかお前は、と問いたい。
勝者側にいいよう改変されているんだ、悪い奴らだ!て言いたいだけちゃうんかと。 善悪論では結局のとこ、同じになってしまうからな
中村での権力確立がもっとはっきりすればなと思うが
逆説的に、なぜ権力が崩壊したかも分かるはず 仮にも父親の恩人の家を滅ぼしたわけだからな。
いいところがあったとは記録に残せないでしょ。
もっとも、長宗我部が滅ぼせた理由はあるはずだけどな。
いくら元親が命じたところで、一条に非がなければ、武将が動いたとは思えない。
有力なところだと、一条本家から独立しようとしていたために、
一条本家からの要請で討伐しただけだから、大義名分がしっかりしていたとも言うようだが。 元親の技量の方が優ったというのは簡単な考えすぎるか。 一言でまとめちゃえばそうじゃね?
いろいろ要素はあれどまぁ兼定<元親<秀吉だったという。 戦国武将らしくあろうとして、本家(とそれとタッグくんだ長宗我部)にボロクソにやられちゃったという
・・・ある意味悲劇の武将かも。 一条兼良、教房親子の何代か遡った先の先祖は
鎌倉将軍として関東の諸将の上に君臨していたわけだから、
もともと一条家には武人の血が流れていたともいえる。 鎌倉将軍の頼経は九条家の出身だが、
初代一条家当主の弟。
血縁関係なし。
たしか、九条、二条、一条氏は女系で源氏(頼朝の妹)の血も引いていたはず。
九条頼経が将軍になったのも、ここらへんの血縁があって、頼朝の遠縁というのも
理由の一つだったような
>>161
先祖の兄は自分の先祖じゃないだろう。
おれの伯父はおれの先祖じゃない。 >>163
その辺の定義は結構曖昧。
この前、偉人の子孫紹介する番組があったが、結構兄弟の子孫が続出してた。
その中には、フランシスコ・ザビエルの兄の子孫なんてのもいたな。
でも、ザビエルを先祖扱いしていた。 土佐幡多荘は源頼朝が九条兼実に譲ったもの。
ゆえに守護といえども介入できない一種の不輸不入の権を有していた。
このように荘園としての特別の格式の高さと
交易の要衝という大きな利点を備えていたため、
幡多荘の存在は一条家からは特別に重要視されていた。 一条の土佐下向には大平の手引き説の他に、長宗我部文兼が迎えた説もあるんだね この人が豊後に流れ着いたのは偶然ですか?
海に出された時点でもうのたれじねってことで
本当に流されるがままに漂流してたんでしょうか? 偶然じゃないよ。
二人目の正室が大伴宗麟の次女だったので
最初から豊後が逃亡先だった。 >>168
中村占領時に、荘園の強奪を行ったと言う記述も特にないから、
内政経由で、一条家に収益は渡るようになったんじゃないか?
もちろん、結構な部分を長宗我部が持って行きはしただろうが。
兼定のままならまったく来なくなったかもしれない収入が、少しでも入ってくるなら御の字だろう。 毛利・河野・村上水軍 vs 大友・伊予宇都宮・土佐一条で伊予の覇権争ってる間に
土佐で長宗我部が台頭 週末兼定公祭に行ってきました。
今でも地元で愛されているほどの名君だったんですね。 >>1
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm3912774
この一条たんと天下取れば良いと思うよ 名将だから祭るとか、賢人じゃなきゃ地域にとって価値がないとか
そういうことではないと思うんだ 少しはあるかも知れないが、当地で没したわけじゃないから 高祖父教房、大叔父房通が関白になっていて、なおかつ房通の養子になっている事から
血筋には申し分無く、兼定も関白になれる可能性を持っていた。 >>189
中央では長宗我部=一条氏の家臣扱いだったらしいね >>203
長宗我部が戸次川の戦いの敗戦の責任を問われなかったのも、
大阪の陣のとき大阪に入城した盛親の扱いが低かったのも、
豊臣家においては長宗我部は一条の家臣であり、豊臣家にとって陪臣である、
と言う認識があったせいだというね。 一條さんは琉球やアユタヤに使いを出してたって本当?
ポルトガル人の記録にあるらしい >>205
一応大内氏と親しかった時期と大友氏と親しかった時期があるので、
大内氏・大友氏を通じての使者の海外派遣は可能だった。
一条氏の本拠中村では中国産や南蛮由来とされる遺物が発掘されている。 >>208
キリスト教の日本上陸は1549年。
大寧寺の変は1551年。
大内義長の擁立は1552年。
陶と毛利の決裂は1554年。
厳島の戦いは1555年。
大内義長滅亡は1557年。
大内に耶蘇と仲良くしてる時間なんてない。 一条氏って今の四万十近辺にいたの?宇和島の西園寺とは良い関係だったのかな >>210
時期にもよるが、兼定初期は西園寺と仲の悪い宇都宮と仲良くしてた。
西園寺との関係はあんまりよくない。 >>211
仲が悪いというより一条の方が力はかなり上だったと思いますが。
永禄年間の末期に宇都宮を支援して河野・毛利の連合軍と対峙した際には(鳥坂合戦、高島合戦など)、
西園寺が中立を保つか一条氏の傘下にない限りそもそも宇都宮氏への直接的な軍事的支援は不可能ですから。 >>213
西園寺と一条のどっちが力が上かなんて話は誰もしていない。
聞かれてもないことを勝手にベラベラ話すのは構わないが、
アンカーをつけて話すべきものではないだろう。
ちょっと話がずれてるかな、と思ったらアンカー外そうぜ。 家柄は摂家と清華だけどね。乱世ではあまり意味がないか。 >>217
暴君が兼定を指すのなら、そんなことを言ってるのはこのスレでキミが初めてだよ。 兼定の暴君ぶりな話って土居の手討のほかに何があるっけ? 何だかんだで御家再興の執念はあったのに
そのせいで暗殺されかかって腕失い、やがて病没ってのは悲惨な人生だよなぁ >>180-181
地方領主としては、そこそこ有能な実績を残していても
近くに1地方を征圧しちゃうような有力大名が出たり
信長・秀吉・家康のような連中に倒された連中はけちょんけちょんに書かれるからね。
朝倉義景も北条氏政も今川氏真も一般的には家を滅ぼした暗君とされがちだけど
結構頑張ってるからね。凡君ではあったかもしれないけど決して暗君ではなかった。
一条さんもそんな感じだと思うよ 一条マニアきめぇWWW
追放された無能君主は打ち首でいいわ 1、2郡程度と思ってたけど地図で見ると面積だけなら土佐の半分ぐらいを抑えてたんだな 南予にも粉かけていて、御荘や法華津等のような
西園寺と二股仕えの小領主も多かったから、実際はそれ以上だったろうね。 司馬遼太郎の「夏草の賦」に出てくる一条兼定は矮小化され過ぎにも程がある。 愛知県民発言す。
何年か前に立ち寄った中村市は寂れつつあったけど、中村城の管理人さんや麓の酒屋さんは本当に良い人だった
高知に限らず全体的に四国の人は親切な人が多いし、酒・食い物が美味くて良い所だと思うな四国ってところは 同盟関係にあったのは大内と大友? 長曽我部は家来だがw 今朝の高知新聞に兼定のクレイアニメ制作の記事出てるね >>245
京極さんや細川さん、三好さん、大友さん…… 摂関家なのにどうして大名なんぞ始めてしまったのか… 国司が守護に取って代わられ名前だけの存在に過ぎなくなった時代に
どうやって国司から大名化したのやら
あと京に帰ろうとは思わなかったのだろうか >>253
一条・西園寺:都で公家やってても食っていけないでおじゃる 既に京にいた一族がいるでしょうが。
摂家の一条家はだれが継いだと思ってる? >>225-226
落ち着き過ぎていたらそれはそれで凡君だからな >>252
武家もすなる大名といふものを、公家もしてみむとてするなり
公家から戦国大名化したのが2家もあるとか四国って面白いところだ 宮下英樹の「カネサダ」という作品を
読んでみたい。 横山光輝に描いてもらいたかったな
ほとんどの合戦でジャーンジャーンジャーンされて「げえっ」とか「ひぃぃぃぃ」って敗走する兼定は絵になるぞ
他にも「こやつを斬れ!」とか言って土居宗珊を手討ちにしたり、大友宗麟のキリシタン娘を嫁がされ「むむむ」とうなるとか 司馬遼太郎の夏草の賦の兼定は大馬鹿者に書かれすぎ
ああ言う根拠の無い悪質な歴史ラノベが歴史上の人物の評価を誤らせる いちし゛ょうさま はんけ゛きをくらった
いちし゛ょうは しほ゛うしました >>266
たぶん違う
2人は文通友達で兼定にとって宗麟は義理の義父さんだった気が でも暗君だったら隠棲後も暗殺されかけるなんてないだろ >>269
影響力がありすぎて生かしてはおけなかったんだろうな
四万十川の合戦の時も豊後から舞い戻ってきただけで数千人の旧臣が集まってきたと言うし
戦国伊予最大の戦いと言われる鳥坂峠の戦いを引き起こした程の人物だし
それを考えると暗君だなんてトンデモな説だとおもう いやどうみても暗君でしょw
土佐一条家を破滅に追い込んだんだから 御家を破滅に追い込んだのが暗君なら
北条氏政、武田勝頼、長宗我部盛親、宇喜多秀家、
善政で神様とまで呼ばれた赤松広秀も暗君? >>273
だが北条氏政は後北条最大の領地を手に入れたのも事実
第二次国府台合戦や神流川の戦いも考慮すれば決して暗君ではない
平均より劣っていただけだ >>272
そいつらは自分達よりも力がはるかに上の相手に負けたって感じだけど兼定は… でも兼定は長曾我部に負けたがかなり善戦してたろ
今日の兼定の評価は長曾我部マンセーの一次資料を鵜呑みした司馬史観じゃん
河野戦においても相手の援軍の毛利も危なかったらしいじゃん 確か具体的な悪政の一次資料ないんでしょ
その上幡多失った後も中村奪って三千の兵力集められたんだから結構なものじゃない
長宗我部にとっての最強の敵で、かつ身分大義正当性的に越えられない壁があったから酷い暗君扱いされたんだと思ってる 創造
統率:2
武勇:18
知略:1
政治:37
冷遇され過ぎだろw 関白経験のある戦国大名として一条房通はもう少し注目されていい つか、兼定結構凄いやろ?大友の力を借りて一時的に土佐中村取り返してるしね そうです。
具体的に彼の暗君ぶりを
記して下されい。 https://www.youtube.com/watch?v=O1HRbHpBK9k(マイナスSTAP胞細)(沖縄神田政典制圧)
https://www.youtube.com/watch?v=UpW3OnvM8RY
入浴厨森永喫茶大敗タイラーリーマンゲンジシャチョウシュッチョウクルマセンター
ニューヨーク飲会廃線自社買いボーナスワーナー映画(シネマレビュー低所得評論家)
川崎50代厨房教育違反アシスタント 中国皇帝の暗君連中で打順組んだ
1(中)蜀漢孝懐帝
2(二)後漢霊帝
3(三)北宋徽宗
4(一)西晋恵帝
5(遊)明万暦帝
6(左)南斉昭粛帝
7(右)陳後主
8(捕)北斉後主
9(投)北周宣帝 本家と折り合い悪かったようだけど
土佐一条家が戦国大名化するとなんで本家が困るの? 兼定無能か? こいつ一度土佐追われてから、大友の支援を受けて土佐に再度攻め込んだことあるぞ。
意気は認めるべきではないか? 鳥坂峠の戦いの時、西園寺はどうしていたのですか?
一条、河野どちらにも味方しなかったのでしょうか? 兼定の悪名(例:そもそも実在しない人間土居宗珊殺害)は払拭できるけど
そもそも土佐一条家は戦国大名の定義に当てはまるのかという >>298
そんなこと言い出したら、伊予西園寺、奥州北畠、周防大内、肥後阿蘇といくらでも定義に疑問符がつく奴らが出てくるよ。 YES
初代 教房
土佐一条氏は、1468年(応仁2年)に一条兼良の子で前関白の一条教房が、応仁の乱の混乱を避け、
京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市中村)に下向したことに起源を有する。
鎌倉時代末期から室町時代にかけて敷地氏・布氏・入野氏などが幡多荘の押領をもくろみ、
更に戦乱による所務不振に悩まされることになり、その安定化を図る目的もあったと考えられる。
教房は幡多郡を中心とした国人領主たちの支持を得ることに成功し、文明年間には拠点として
「中村館」を置き、以後「中村御所」と称された。
また、教房とともに公家や武士、職人なども幡多荘に下向するなど、中村繁栄の基礎を築いた。
2代 房家
土佐で誕生した教房の次男一条房家は京都に戻らずに幡多荘の在地領主となり、中村御所を
拠点に土佐の中村に京都さながらの街を築き上げ、官位も正二位まで昇進した。
房家の時代に土佐一条氏は管領細川氏(土佐守護を兼ねる)と土佐を二分する勢力となり、
公家としての権威を維持したまま同国に勢力をもつ大名として存在感を高めた。
嫡男房冬の正室に伏見宮邦高親王の娘、側室には大内義興の娘を迎え、更に娘を伊予の
西園寺公宣に嫁がせるなど、公武の有力者との婚姻を通じて土佐一条氏の安定を図っている。
また、房家の次男一条房通は京都の一条家の婿養子となって関白に昇進している。
永正の錯乱(1507年(永正4年))により細川氏が中央に引き上げてその影響が消えると、
土佐国は「土佐七雄」と呼ばれる七国人が割拠する状態となった。
土佐一条氏はその上位に立ち、盟主的存在を担った。 なるほど、全国にある一条家の所領に土着して戦国大名になったのか
北畠や姉小路みたいな感じかな 武士になりたかった一条兼定
土佐一条が問題ありにしか見えなかった本家 記憶あいまいだけど暗殺者に片腕もってかれたがその者も手負いし死んでなかったかな?
あと藤の花の話やら