0001名無しさん@お腹いっぱい。2006/06/21(水) 17:34:36ID:twhAGXxP
彼と天下を目指したい。
0257人間七七四年2013/02/20(水) 01:24:55.25ID:NqlgiGjo
>>252
武家もすなる大名といふものを、公家もしてみむとてするなり
公家から戦国大名化したのが2家もあるとか四国って面白いところだ 0258人間七七四年2013/02/20(水) 21:30:22.44ID:Vraq0sS/
実は名君だったりして
0260人間七七四年2013/03/22(金) 00:59:16.78ID:gfoLFENs
宮下英樹の「カネサダ」という作品を
読んでみたい。
横山光輝に描いてもらいたかったな
ほとんどの合戦でジャーンジャーンジャーンされて「げえっ」とか「ひぃぃぃぃ」って敗走する兼定は絵になるぞ
他にも「こやつを斬れ!」とか言って土居宗珊を手討ちにしたり、大友宗麟のキリシタン娘を嫁がされ「むむむ」とうなるとか
司馬遼太郎の夏草の賦の兼定は大馬鹿者に書かれすぎ
ああ言う根拠の無い悪質な歴史ラノベが歴史上の人物の評価を誤らせる
0264人間七七四年2013/10/10(木) 20:34:27.39ID:OuzS9rzc
BS歴史館で土佐一条氏をちょっとだけやってる
0265人間七七四年2013/10/10(木) 20:53:27.94ID:pyIl7NWO
いちし゛ょうさま はんけ゛きをくらった
いちし゛ょうは しほ゛うしました
0267人間七七四年2013/10/11(金) 22:52:55.81ID:AjRXO7iX
>>266
たぶん違う
2人は文通友達で兼定にとって宗麟は義理の義父さんだった気が 0269人間七七四年2013/11/04(月) 18:58:34.43ID:C3QaWZZL
でも暗君だったら隠棲後も暗殺されかけるなんてないだろ
0270人間七七四年2013/11/09(土) 20:20:01.26ID:MoGho74I
>>269
影響力がありすぎて生かしてはおけなかったんだろうな
四万十川の合戦の時も豊後から舞い戻ってきただけで数千人の旧臣が集まってきたと言うし
戦国伊予最大の戦いと言われる鳥坂峠の戦いを引き起こした程の人物だし
それを考えると暗君だなんてトンデモな説だとおもう いやどうみても暗君でしょw
土佐一条家を破滅に追い込んだんだから
0272人間七七四年2013/11/14(木) 12:30:50.75ID:B48csOZr
御家を破滅に追い込んだのが暗君なら
北条氏政、武田勝頼、長宗我部盛親、宇喜多秀家、
善政で神様とまで呼ばれた赤松広秀も暗君?
0274人間七七四年2013/11/16(土) 13:57:05.69ID:mt8syZwP
>>273
だが北条氏政は後北条最大の領地を手に入れたのも事実
第二次国府台合戦や神流川の戦いも考慮すれば決して暗君ではない
平均より劣っていただけだ >>272
そいつらは自分達よりも力がはるかに上の相手に負けたって感じだけど兼定は… 0276人間七七四年2013/11/22(金) 12:35:49.71ID:ydgyh5Fx
でも兼定は長曾我部に負けたがかなり善戦してたろ
今日の兼定の評価は長曾我部マンセーの一次資料を鵜呑みした司馬史観じゃん
河野戦においても相手の援軍の毛利も危なかったらしいじゃん
確か具体的な悪政の一次資料ないんでしょ
その上幡多失った後も中村奪って三千の兵力集められたんだから結構なものじゃない
長宗我部にとっての最強の敵で、かつ身分大義正当性的に越えられない壁があったから酷い暗君扱いされたんだと思ってる
創造
統率:2
武勇:18
知略:1
政治:37
冷遇され過ぎだろw
0280人間七七四年2014/05/29(木) 20:46:32.02ID:9VVmny2R
関白経験のある戦国大名として一条房通はもう少し注目されていい
0281人間七七四年2015/09/20(日) 11:58:31.56ID:lSyvSkAg
一条房基が突然自害しなければ・・・
つか、兼定結構凄いやろ?大友の力を借りて一時的に土佐中村取り返してるしね
0283人間七七四年2015/10/28(水) 19:04:47.40ID:/1MCSR6N
一条兼定の暗君ぶりの数々を披露して下されい。
0284人間七七四年2015/11/21(土) 10:53:09.78ID:kjDgXzx2
そうです。
具体的に彼の暗君ぶりを
記して下されい。
0286人間七七四年2015/12/29(火) 11:22:53.25ID:VVaknRPA
一条政親はなぜ高家になれなかったのか
0287人間七七四年2015/12/29(火) 11:54:15.51ID:y2YLkV30
京都に帰らなかったから。
0288人間七七四年2016/02/11(木) 06:29:37.88ID:Tc1v0+kH
中国皇帝の暗君連中で打順組んだ
1(中)蜀漢孝懐帝
2(二)後漢霊帝
3(三)北宋徽宗
4(一)西晋恵帝
5(遊)明万暦帝
6(左)南斉昭粛帝
7(右)陳後主
8(捕)北斉後主
9(投)北周宣帝
0290人間七七四年2016/09/13(火) 22:08:27.00ID:jWvOG7qC
いいな
0291人間七七四年2016/09/19(月) 04:44:45.83ID:adq0K6VM
本家と折り合い悪かったようだけど
土佐一条家が戦国大名化するとなんで本家が困るの?
0292人間七七四年2016/09/19(月) 13:45:13.88ID:TpXHOteO
兼定無能か? こいつ一度土佐追われてから、大友の支援を受けて土佐に再度攻め込んだことあるぞ。
意気は認めるべきではないか?
0294人間七七四年2016/12/06(火) 10:23:59.45ID:5KrFzZlQ
京に戻った摂家の一条家とは仲はよかったですか?
0295人間七七四年2017/11/26(日) 03:40:08.44ID:3eDupUyI
ほしゅ
鳥坂峠の戦いの時、西園寺はどうしていたのですか?
一条、河野どちらにも味方しなかったのでしょうか?
0298人間七七四年2019/12/29(日) 23:08:01.91ID:zFU5YOTo
兼定の悪名(例:そもそも実在しない人間土居宗珊殺害)は払拭できるけど
そもそも土佐一条家は戦国大名の定義に当てはまるのかという
0299人間七七四年2019/12/29(日) 23:30:03.96ID:UeF0ri8u
>>298
そんなこと言い出したら、伊予西園寺、奥州北畠、周防大内、肥後阿蘇といくらでも定義に疑問符がつく奴らが出てくるよ。 0300人間七七四年2020/02/09(日) 00:54:34.93ID:i8lOlHP7
一条て五摂家の一条?
YES
初代 教房
土佐一条氏は、1468年(応仁2年)に一条兼良の子で前関白の一条教房が、応仁の乱の混乱を避け、
京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市中村)に下向したことに起源を有する。
鎌倉時代末期から室町時代にかけて敷地氏・布氏・入野氏などが幡多荘の押領をもくろみ、
更に戦乱による所務不振に悩まされることになり、その安定化を図る目的もあったと考えられる。
教房は幡多郡を中心とした国人領主たちの支持を得ることに成功し、文明年間には拠点として
「中村館」を置き、以後「中村御所」と称された。
また、教房とともに公家や武士、職人なども幡多荘に下向するなど、中村繁栄の基礎を築いた。
2代 房家
土佐で誕生した教房の次男一条房家は京都に戻らずに幡多荘の在地領主となり、中村御所を
拠点に土佐の中村に京都さながらの街を築き上げ、官位も正二位まで昇進した。
房家の時代に土佐一条氏は管領細川氏(土佐守護を兼ねる)と土佐を二分する勢力となり、
公家としての権威を維持したまま同国に勢力をもつ大名として存在感を高めた。
嫡男房冬の正室に伏見宮邦高親王の娘、側室には大内義興の娘を迎え、更に娘を伊予の
西園寺公宣に嫁がせるなど、公武の有力者との婚姻を通じて土佐一条氏の安定を図っている。
また、房家の次男一条房通は京都の一条家の婿養子となって関白に昇進している。
永正の錯乱(1507年(永正4年))により細川氏が中央に引き上げてその影響が消えると、
土佐国は「土佐七雄」と呼ばれる七国人が割拠する状態となった。
土佐一条氏はその上位に立ち、盟主的存在を担った。
0302人間七七四年2020/02/09(日) 13:53:00.55ID:9RQMhKfv
なるほど、全国にある一条家の所領に土着して戦国大名になったのか
北畠や姉小路みたいな感じかな
0304人間七七四年2021/07/13(火) 14:31:33.86ID:+JCSr3nh
あげ
武士になりたかった一条兼定
土佐一条が問題ありにしか見えなかった本家
記憶あいまいだけど暗殺者に片腕もってかれたがその者も手負いし死んでなかったかな?
あと藤の花の話やら