【仏教】ヒキが仏道修行するスレ その⑤【瞑想】
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
無色界と色欲界の間を彷徨うとある程度の六根だけ微かに機能していて末耶識が全く機能していない場所があるここが涅槃
ここの境地にいながら入滅すると解脱する
何故ならここなら輪廻転生の因果応報が作動しないから 問題が俺が毎回そこの境地にいけるかといえば無理恐らくかなりの修行が必要か
それこそチベットの坊さんのように瞑想しながら焼身自殺できるくらい必要かもしれない
火をつけられたら瞑想どころじゃねえ
理解体感だけ得てれば大丈夫にしてくれ >>899
無色界、色欲界ってどうやって分けて行ってますか? >>902
瞑想だよ
結局観測者になって自我を見抜かねばならない
そうしないと自身の観測者になれない
自身の観測者になれないのに事象をみても何も分からないのは道理だろ >>902
無色界はもう色がついてないのと体がないわ
色欲界は体の感覚はある後は末耶識の強弱でリアル度が変わる >>902
正直行き来したといっても俺では狙ったところにいけない
今日は無色界か今日は第一定禅か見たいな感じ その辺が恐らく修行や八正道がいるのだろう
勉強はやっぱいるかなあ 無色界で六根を意識すると段々と色がついて
体の感覚が朧気にでる
あーなるほどやっぱアウトプットするべきだな
君の質問は非常によいね
ここで調整すれば涅槃探しになるのか 無色界である執着を捨てる
色欲界である執着を捨てる
と言うことか 自我を観測するのはいわば末耶識を観測すると言うことだろうコイツを操作出来ればリアル度を調整できる
事象の観測が六根の観測、風景、体、匂いの調整
感度100で現世80くらいで体外離脱 釈迦頭がおかしいなwww
なんでこれが何千年も前に分かったんやwww
簡単なことやーん輪廻転生しなけりゃいいやーん
ウッキウッキで弟子に言うてあたおか扱いされて伝わらず伝えるの諦めたのが目に浮かぶwww あとまあ外道と言われるが
瞑想の第一定禅とか色欲界はぶっちゃけ起きながらいくのは無理ゲーよっぽどの修行者じゃないと無理
じゃあどうするか外道法の金縛り経由体外離脱
もしくは夢の途中で末耶識を操作し夢を見ていることに「きがつく」ここで観る瞑想を鍛えたかいがあるってもんよ
明晰夢ってやつだな
起きてるときの観る瞑想は練習とか修行と捉えていい 観る瞑想をしてるとちょっとした変化も気がつく
夢に突入の瞬間が分かるようになれば後は早い ほんで夢から突入した場合
末耶識の操作がキモ
いかに没入感を下げてあら?これ夢じゃね?と気がつくか最初は目的を忘れて自由に遊んでしまうがそれもまあ六根や末耶識操作の修行や 実際慣れるまで六根と末耶識の調整がムズい
起きた後に完全に夢で何一つ気がつかなかった場合は末耶識の調整が上手くいかず自我が湧き出っぱなしで完全に夢の主人公
体外離脱の場合は末耶識の感度が現実に近いのでショックを受けると目が覚める
目が覚めそうなのが分かるのでそのときは六根をちょっと刺激する
他の体外離脱者が言うには手を開いたり閉じたり小さくジャンプ繰り返したり
体外離脱中はめっちゃ楽しいけど割とワンアクションで目が覚めることが多い訓練で長く滞在可能、体感時間三ヶ月の猛者もいる
俺はいつも女を抱くか空飛ぶかの二択で終わる
昨日は猫触っただけで目が覚めた 無色界ってどこなの?
涅槃入り損ねて無色界で入滅したらどうなるの?
天界じゃないよな六根いるし無色界は六根ないよね
ここ坊さんいないかな やっぱり現実で自我に飲まれない(衝動的に行動)感情は自分で操作する訓練いるわ
夢(境地)で自我(末耶識)に飲まれず事象を観て六根の感度を操作するために
両方やってること同じだわ
君らはまず四苦八苦、愛別離苦を自我ではなく
自分で操作せねばならん
思うまま発狂するのではなく事象を観て、自分の自我を観てワンクッション置いた自分自身を観てタイムラグを発生させそして感情を自身で取りに行く
これを意識して
心がニュートラル
事象をみる
悲しい気持ちを取りに行く
心が悲しい
ニュートラル
となるまでやる
お葬式とかマジでいちいちニュートラルに戻るから常時取りに行くことになる
しかしこれが出来てると言うことはこの世から一切の苦がなくなる 瞑想も合わせて進めなければならない
瞼のうらグルグル
今雑念わいた
瞼のうらグルグル
今雑念わいた
何か映像でてきた
今雑念わいた
と実況することで観測する 肩がぶつかる
湧き上がる心を観る
自我 (いってぇな!このやろう!)
観測 めっちゃ俺怒ってるな
怒りを取りに行く
俺 いってぇな!このやろう!
自我 (くっそ!きがすまねえ!)
観測 あら?まだ気がすまねえの俺?
怒りを取りに行く
俺 くっそ!気がすまねえあやまれ!
が理想
やってるうちに自我が減退するので
肩がぶつかる
湧き上がらない自我
観測 ん?どうすんだ?怒りか?悲しみ?
笑いをとりにいく
お前ら (やべえ何か笑ってる…) うぜえ奴が居着いたもんだ…
連投する暇があったら坐禅しろよ >>919
おれは坐禅はもうとりあえずいいかな
座学やりたいお前のやってる仏教かなにか
おすすめないかな 人と肩がぶつかった時、
壁に肩がぶつかった時、
痛みは変わらない。大して痛くない。
これだけでは怒りは発生しないけど、
対象が人でかつこちらに敵意を向けてるかどうかを確認して初めて怒りが発生する気がする。
別に怒らなくてもいいけど、
そこで怒らないと自分が他者から弱者だと馬鹿にされるのが怖くて怒るふりをする。 自分が怒らない弱い人間だと周囲から認定されることへの激しい拒絶が怒りの気がする。 >>922
激しい怒りの湧き出る自我が見えてるね
そしてその自我は一瞬ですぎるはず
でも継続して怒るのが囚われていうこと
自分で怒りを取りにいってることも観る
そのように普段から意識して観る
瞑想中もそのようにする
すると自我が身を潜める
この身を潜めるまでやるのが君にとっての修行となるな 湧き出る激しい怒りは観察すると最初の爆発的なスタートから一瞬ですぎるはず
そこから自分が能動的に怒る理由を探し持続させていることまで気がつくとよい 後からふりかえって
怖いから能動的に怒るふりをしていることに
ちゃんと気づけてる
これをリアルタイムでも出来るようにする 怒りが湧くのか(自我)
怖いから理由をつけて怒るのか(能動的)
連続して怒りが湧くのか(自我の生死)
の違いが君はありそうだからそれも分けて観て あとは
連続で
怒りが湧く(自我)
悲しみが湧く(自我)
苦しみが湧く(自我)
苦しみを持続させる(能動的)
のパターンもあるかも 怖いから理由をつけて怒るのか
は一瞬で起こっていているので能動的と言えるのかわかりません。
まずこれがあって、
そのあとに怒り(拒絶)が怒ってる気がするんですがどうでしょうか?
ただぶつかっただけの状態では怒りは発生せず、「えっ、何?」という疑問の状態だと思うんですよね
そこに何かしらストーリーをつけて、初めて怒りが発生してる気がするんですよね。
ストーリー=他者が不快な顔をしていた、良くないことばかりが起きる、わざとぶつかってきたに違いない、舐められている
ぶつかってきた相手の顔を見たら、友人だったときを想像してみてください。
ぶつかってきた相手の顔を見たら、クマだった時のことを想像してみてください。
怒りにはならないはず ぶつかっただけではニュートラルで、
発生したストーリーに、自我(私は偉い、私は強い、私は正しい)が反応してる気がします。
その理想的自己イメージを否定されることの恐怖、
それに対して「断じてそんなことはない!私は正しい」(拒絶)=「相手が悪い!」(怒り)
この思考の流れが一瞬で行われていて、
ここに冷静な視点を挟めるとコントロールできるかもしれないと思うんです。
「ん?でも別に何も損していないな、痛みも全然大したことないし
なんでこんなしょうもないことで相手は怒っているんだろう?自分は怒っているんだろう?
ははぁ、相手は自分は偉いんだぞ!という自己イメージを否定されることに恐怖してるんだな、あっ自分も同じじゃん。
どちらが偉いか強いかを相手と競ってもキリがないし苦しみが増えるだけだな」と。
かといってこちらが穏便に済まそうとしてるのに、相手は「ほら、わかったか?おれの方が正しい、オレのほうが偉くて強いんだぞ」という態度を変えないと怒りが収まらないどこらか余計に強くなりますよね。
ことを穏便に済まそうとすることが出来る自分の方が相手より上層のレイヤーにいる、
大人である、相手はガキなのだと無理やり納得させようとしますが、難しいです。
こちらが謝って、相手も謝ったら一瞬で怒りは消えます。
なかなかそれができないのは、自分だけ謝って相手が謝らなかった時
怒りが一層強くなることに気づいてるからだと思うんです。 執着度
自分から謝れる人 軽
相手が謝った時に、自分も謝れる人
相手が謝ったのに、自分は謝らない人 重
だと思うんですよね。
トラブルの内容にもよりますが。
以前、前向かずに歩いている酔っ払いが自転車の自分にぶつかってきて
どっちが悪いみたいな話になり、相手が全く怪我もしてないのに救急車を呼び警察沙汰になったことがあります。
相手からぶつかってきたので、当然こちらが謝ることはあり得ないと思い最後まで謝りませんでした。
最初に一言すいませんと言うだけで、恐らく相手も同じようにすいませんと返して
こんな厄介な問題にはならなかっただろうなと今は思うんですよね。
数年立っても、このときの憎しみはまだ残っているんです。 でも怒るべき時に怒らないのはダメな気もしてるんですよね。
面倒くさくない方を選んだつもりでいて
そのことへの後悔(勇気のない弱い自分のイメージ)や、相手への憎しみがずっと続いて
余計に面倒な問題を抱えることになる。 まず今やってる自我か能動的にかを観る理由は
最終的に自我をコントロールする目的がある
自我を無くすんじゃないの?と思うかもしれんが自我は無くならない
自我(怒り)→自我(快楽)に変えることも出来るが次元が違うのでおいといて 目的は自我を100のところを10にする
10のところを100または50と調整するところにある
いまは10にする自我が身を潜める体感をしてほしい
「数年立っても、このときの憎しみはまだ残っている」
これは「能動的」にその時の状況を思い出し
あえて「自我」を湧かせ「能動的」に憎しみを持続させている
これもまた気がつけば自我のコントロールの練習になる
ここで気がつくべきポイントは「能動的」に憎しみを持続させることがいわゆる執着(自我)に
「囚われた」という所 またはふとした瞬間に「自我」が湧き数年前を思い出し「能動的」に怒りに「囚われた」と
観ることにより区別がつくようになっていく
これが自身の観測者だ >>932
自我(怒り)→自我(快楽)
に関してですが、
怒りが解消されて、苦が消える時、快に変化する気がします。
例として、
人とぶつかって、お互いが笑顔で謝ることができたらその瞬間に晴れ晴れとしたような快の感覚が起こります。
むしろその事が起こったことで、すごくいい気分になれたとすら思うことができます。
自分は瞑想中の感覚を観察する時に思うんですが
苦と快は実は全く同じ感覚で、それを言葉でこれは心地よい/心地悪いと区別してるだけじゃないかと思ってるんです。
嫌な緊張感がほどけて、快に変わっていくのを感じたときにそれを思いました。
あと熱いお湯に手を付けたときの感覚と、冷たい水に手を付けたときの感覚がほぼ同じように感じるのも、ただ熱い/冷たいと分けているからではないのかと。
俗な話ですけど、SMの痛みを快として捉えるというシステムもこれじゃないのかと思いますw >>933-934
そう思います。
強い自我が残ってるから、終わったことに触れた時また憎しみ、怒りが起こるのだろうと。
それを能動的にやっているのかは、まだ見抜ける力がないです。
自動的に思考が発生して、それに反応してるように感じます。 >>935
そうそう良く観てるじゃないか
怒り(自我)が起こり→
苦が解決すると→
快(自我)が起こり→
その気持ちよい快を(能動的に)思い出しながら、執着(自我)が湧いては死に湧いては死ぬを繰り返えす状態 >>936
自我と能動的の違いは
自我(執着、末耶識)
湧いてくる 瞬時に なかなかのエネルギー
連続性があり変容する(怒り→悲しみ→喜びなど)
現世の世界の根源
それがあたかも固くそして真であるかを誤認させる
現世の物質は質量あるなしに関わらずそれ自身が真と誤認することにより存在を確定する
例えば石は石であることに執着する
自我(執着)が生まれては死にを瞬時に繰り返し(点滅)あたかも存在するように振る舞う
能動的(執着、囚われる)
瞬時に生まれ死ぬ自我(執着)を維持する ゴチャゴチャ書いたが瞬時に湧くのが自我で
持続させるのが能動的
瞬時に変容するのが(苦→悲→喜など)自我
持続(囚われ)させるのが能動的 自我は瞬時に繰り返えすから
それ能動的に維持している(怒りが持続する)
を観る
全て観れるならもう自身の観測者なので
今は視認出来る範囲でいいよ よくウィッパナサー?瞑想か?
で観る瞑想というが
あるがままを観ると言うのは深いところまで気がつかなけらばならない
同じあるがままを観るでも
個人差がある
ネットでみたからやってみる人
坊さん
釈迦
では同じあるがままを観るの意味合いが違う
限りなく坊さんや釈迦に近づく為に観る瞑想や現実を観る修行が必要 >自我(執着)が生まれては死にを瞬時に繰り返し(点滅)あたかも存在するように振る舞う
イメージできました。
>能動的(執着、囚われる)
アドラー心理学の本で読んだんですが、自分からそれを味わうため(苦であるとわかっていながら)に触れに行くという図式を当てはめて考えると理解できる気がします。
でもそれって自動的じゃんと思えてしまいます。
自我があって、なんやかんや反応が起こると考えると、
その自我は何から生じたのだろう?と疑問が湧きます。 ここで認識を共有しておくが
あくまでレスをくれてるやつは今のストレス社会からの開放を願うでいいな?
であれば自身の観測者になり自由に感情を操る
ことで開放を目指せ >>942
「自我は何から生じたのだろう?」
そこまで行くってんなら付き合うが
理論は俺がこのスレに書き込んでいる
しかし体感がなければふーんとなる
自身の観測者から事象の観測者になる必要がある
それって自動的じゃん
いい意見だ
能動的なこと「維持」が自動である
これが「誤認」であり自我の末耶識の能力だ
これを観ることで区別するのが目的 >>943
目指してます。
社会的生活な意味での開放か、解脱かってことですよね。
あわよくば解脱って感じですが、
現状の生活で、執着を捨てられないのは解脱にも遠いと思うんですよ。
なんかの本で読んだんですが、
ある国の王の使者がブッダのサンガを訪れた時、
そこにいた人たちが他とは違いみんな快活で朗らかであったという話。
やっぱりそういうことなんだと思うんです。 ちなみに痛いと言う痛感は現実世界において
オリジナル末耶識の能力が100であるため
痛くないと能動的に維持が出来ても瞬時に大量の痛い(末耶識)が襲うので痛い
これは釈迦でも痛みはあった
どうしたかと言うと六根のない瞑想の境地に逃げ込むことで逃れる
釈迦で言えば涅槃
俺でいえば無色界 >>945
1つヒントを言うがその執着を捨てられないが
そう誤認させられていると言う事
それに気がつくようにするのが今回やってる自身を観る自身の観測者になる修行
だから結局自身の観測者にならないと解脱出来ないのはその通り 例えばお金
いるよね生活しなきゃ
もっとほしい(能動的維持)まだまだ欲しい(維持)を自動ではなく能動的にやっていることに気がつくと
お金に囚われているのではなく生きていくのに必要だからなとなり執着ではなくなる
ある程度まとまってればいいかなとなる
タバコこれはやっかいで依存が執着のブーストをかけてる
痛みと一緒で欲求を瞑想で逃げるくらい
これは自我の変容を利用するしかない
依存を抜けれた者と言うのはある意味解脱に近い 執着しているしてないの差は
ずっと囚われているか(ギアがはいりっぱなし)
中道が間に挟まってるか(毎回ニュートラルに入る)
の違い
極端な例で八正道や戒律に背くが
人を殺しても何も感じないむしろ石をどける感覚で人を殺すサイコパスは執着に囚われていないといえる
だから八正道や戒律をまず叩き込む 毎回ニュートラルに入るけどお金欲しい(自我)が湧くため傍からみるといつも囚われて見える
だから次の段階としてお金欲しい(自我)が身を潜めるようにするのが自身の観測者の修行 ニュートラルと言う心境は安寧もしくは無
自我と維持(能動的)の間にある
この無(安寧)の時間を増やす
そのためには自我(湧き上がる者)のコントロールと維持(執着、能動的)のコントロールで無を確保する
無の時間は自我が湧かず維持するものがない
なので瞑想中の事象の観測が出来る
少し風景に対して考えようとすると思考がとまって言葉がでてこない
自我を自分で想起させにいくようになる(自我のコントロール) もしかして今俺にレスくれてるひとは
俺が法執を拗らせてるといった人?
今のこの気がついたことを誰かに教えたい衝動は仏教的になんていうんだ?
あと俺スレ立て出来ない 梵天勧請?w
法集の人とは違うよ
ほうしゅうの意味さえ知らない。 >>953
ああ違う人なんだな
自分のレス見直したら支離滅裂でなに言ってるか分からんな
つまづいているところがあれば言ってくれ 梵天勧請は
人に教えるのめんどいわーと思ってたら
梵天が「頼むから布教してくれ」って頼んだ話 >>955
なるほど
まああの時代で伝えるってなったら
無理すぎるな面倒な上、伝わらんと思うわ
特に事象の観測は科学発展しネットがないと
理解できん
ネットや科学は現実世界を再現する阿頼耶識の
劣化版だからな 一目惚れが一番わかりやすい自我かな
見たときにキュンとなる
あとは中学生のときに好きな人に話かけられたらキュンキュンする話している間連続でキュンキュンしっぱなし
んで話が終わったあとまたあの甘いキュンを味わいたくて能動的にシーンを思いかえす(囚われ)これを識別する、気付く、能動的に自分から囚われにいっていると気付く
そうすると自我と能動的に維持するものは属性が違うと言う事に気付く
悟りとは気付くという意味も含まれる >>955
昨日夢を見た
釈迦が入滅したあとにチベットの坊さん(当時そんなやつはいない)が釈迦にお世話なったと
いって悔やみにくるんだが
その坊さん(オス)は釈迦に性的な気持ちをもっておりあろうことかよりによって釈迦の亡骸にしがみつき射性をする
意味が分からない
そのあと釈迦は慈愛の表情で巨大化し周りにいた者が何人も巻き添えになり死亡
意味が分からない
その後釈迦の体を色々な人が分け持ち帰る
目が覚めた後で思ったが火葬ではないはずだがまさか生のまま分けたのかと驚愕した
俺は夢の内容を完全に無視し
それより自分の状況を見た
映像に色はあるしかし体がない
どういう状況かわからない
色があるなら無色界ではないはずだが
ほかの視覚聴覚以外の六根がない
起きたあとになんて夢を見るんだと憤ったが
見ている最中は自我が出っ放しで操作できず
かと言って心は静寂でただその自我をみる
だけだった
基本夢は無視でいい大体自我が勝手に見せる夢
それより自分の状況を観てどういう状況か観ることが事象観測として必要
仮に梵天がくるなら解脱した後か 夢や瞑想の境地で観測することは
自身の観測の延長で自身の状況を観て
そこがどこなのかを観るのが事象観測であり
重要
心象風景の内容に意味はない自我であるから
自身のなにを観るかというと
心の動き
自我をみて執着し囚われているかいないか
手と足の感覚はあるか(夢だとあるか消失してるか分かりやすい)
風景はあるか色はあるか(これも夢だとわかりやすい)
六根がすべて機能していて尚且つ自由に世界を構築出来るまた現実離れしたことが可能な
世界が一番下(現実世界に執着していると留まり上にいけない)
そこから上は徐々に六根の機能や楽や苦が消失し(見えるものへの執着、食や性欲などの煩悩への執着具合で変わる)
六根全ての機能が消失すると何もない無色界へ行く(空無辺処、空間への執着など)
空無辺処以上は釈迦も意味がないといっているし俺も涅槃とはベクトルが違うと感じてそれ以上はいってない
目的は各エリアでの楽しい感覚を貪るのではなく執着を捨てあえて上まで行きそして下までおり上下を繰り返し事象観測をすることで体感と気づきを得るために動く
その際に現実世界上の煩悩の執着内容で壁が存在するため
自身の観測になり感情を操作出来ることが必要となる 夢の内容は無視とかいたが
内容がそのまま現実の煩悩の執着で現時点の壁だな
その夢で心がどう動いているか観る 夢の内容を無視するとは執着しないということ
執着し居座ることを魔に囚われるともいう
内容を確認し起きた後または瞑想をやめたあと
事象を思い出し対応した現実の執着を観る
俺は昔、体外離脱法で境地の第一定禅でむしろ魔に囚われ遊びまくった
空を飛び、女を召喚し、二次元キャラを侍らし好きなことをしまくった
そして飽きた
その経験が必要かどうかは個人に任せる
1ついうと釈迦も王子時代第一定禅で楽しんだそうだ 魔に囚われ遊んでいるうちに上座仏教や瞑想を見るようになり興味を持つようになった
ちなみに大乗仏教は上座仏教の解脱があまりに人に教えにくいし個人の力量が問われるため
戒律とお経による境地を人々に与え天界に導く手段をとる
お経を唱えると音による効果で瞑想の境地が恐らく第5禅定の境地に導く
常日頃からお経をとなえ戒律を守りその境地で入滅することで天界へ至る
釈迦も音は大事だとし
唱えることで涅槃にいけると言っていなかったっけな
般若心経のやつ
羯帝羯帝波羅羯帝波羅僧羯諦菩提薩婆訶
ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー
この音を聞くとその境地に至れるといっていたきがしなくもない(俺は自分の体感したことしか分からん) あまり適当なことをいうと怒られそうだが
寝るときにお経をユーチューブで流しながら寝たらその境地にいけるくね?
ほんでしっかりその夢(境地)を観て夢だと気づき事象を観察し起きたあと思い返せば
現実世界の何に引っかかってるか(執着)分かるんじゃないか
最終手段でお経ユーチューブで流しながら入滅したらワンチャン天界か? 自身の観測者になれば今の社会の価値観が無くなるのではなく
それに振り回されなくなり必要とあらばやり
未来に対しどのような障害があるかそれを見極め対策し行動を起こすようになる
たとえ45歳ニートであろうが関係ない
自分の持つ手札で乗り切る術をもつようになる そういう考え方もできるが、自然じゃない感じがするんだよね。
自分はそこまで振り切れてなくて、
人生の本当に向き合うべきこと(異性を見つけて子孫を作る、幸せを享受するための努力)を回避したいがために、自分の頭の中で都合よく価値観を組み替えて逃避してるんじゃないだろうかと、たまに思う時がある。 世の価値観に執着するなと言うことではなく
価値観に執着することでそれを得られないと苦しむから
自身の観測者になれば感情を操作できるので苦しむことはないからいくらでも好きなだけ執着できる
金持ちになりたければなり
研究者になるのもいい
例え努力してなれなくとも悲観しない状態
女に振られたからと悲嘆にくれ後悔し続け、自己嫌悪に陥り続けることがないから
少なくとも今の状況より良くなり何事も成功率は上がる >>966
価値観の組み換え
いいね気づきがあるねそれ今後の事象観測に使えうんだわ >>967
やっぱりそれって天界な話よね
イケイケなスピリチュアルも本質的にそれと同じだ
まあナーガールジュナみたいに好きなだけ貪って思いっきり後悔したあと仏道修行に励むのもまた一考か
もちろんそれまでに死んだら元も子もないが……
「生死事大 無常迅速 各宜覚醒 慎勿放逸」(生死は仏の一大事、時は無常に迅速に過ぎ去っていくから、各人はこのことに目覚めて、弁道精進につとめ、無為に過ごしてはならない。)
というかそんなに自信があるなら、なんとか頼み込んでちゃんとしたお坊さんに自身の境地を確かめてくれないかな?
ちゃんと社会通念上の常識をわきまえた手続きで礼儀正しく申し入れたら断られる確率も低いはず
そこでのそういう経験・判定を書き込んでくれると仏道修行スレに相応しい貴重な内容になるはずよ 水を差すようなことを言って申し訳ない、
そう思うことはあっても、瞑想は続けると思う。
いろんなことを回避し続けてて、ふと気づいたら当初の目的とは別の目的に必死になってたりすることってあると思うんだよ。
それがちょっと怖いんだ。
いま自分は田舎で空き家を購入して静かに暮らしたいと思ってるんだが、
それが本当に自分がしたいと思ってることなのか、
色んなものから逃げて行き着いてそうなったのか、
もう自分ではわからない。 >>969
ああそこのレスは現代社会のストレスからの解放の話
苦から解放するレベルの話
境地は日本仏教の言葉を借りるなら輪廻転生の
天界に相当するかもな
解脱の話はまだ先
坊さんの話は是非聞いてみたい >>970
君はとにかく瞑想中と起きてるときの
自我の微細な反応を見続けること
目的は自我(湧き出る者)と能動的(維持するも者)
との間にある無または安寧に気付くこと
そしてその無の時間が日々徐々に長くなっていくのを観る 後その能動的(維持する者)が自動ではなく
手動であることも気付くこと
連続している自我なのか能動的に維持しているのかの違いも気付くこと >>970
今はまだ恐怖や苦からは逃れられていないが
続けることである日解放されるよ
観ると言ってもほんとに観るだけだぞ
そこに何で怖いのだろうと今はまだ思考はいれない因果応報を考えるのはまだ早い
ただ観る自我と維持(能動的、手動)を区別するだけ >>972
自分はまだそれを理解する力がないように思う。
なので言葉からそれをどういう感覚かイメージすることもできないです。
自我と能動的、と言う部分。
具体的な例で例えると何にあたりますか?
今は日常生活において、不快/快などの気分が現れた時、身体感覚を観察することはしています。 連続キュンキュンするが自我の連続
でもずっとキュンキュンしてるわけじゃなくて
途中でインターバル挟む
そして話してるとまたキュン(自我)となるか
能動的に自分でキュンの感覚を思い出しキュン(自我)となるか
あー説明が悪かったかもな
最初に自我がくるとは限らないのよ
普通にしてて今日のことを思い出し(能動的)
自我を想起させるパターンもある
そして想起させた自我を維持する >>979の自我は欲のことですか?
自我という言葉が抽象的なのでよくわからないんです 私の
今は日常生活において、不快/快などの気分が現れた時、身体感覚を観察することはしています。
は、それを観察してることと同じではないですか? >>981
不快/快が湧いてでるのが自我
不快/快の理由を探して自我を想起させ維持することを能動的
自我とは湧いて出てくるもの(煩悩、意識、感情、それであろうとするもの物質の根幹)
能動的にとはそれを想起させ維持するもの 湧いて出てくるなら思考も自我
お風呂に入ってリラックスしているとして
今日あったことを思い出し(能動的)
湧いて出てくる怒り(自我)(能動的に維持)(自我)(自我)(能動的に維持)(自我)
など互いが連鎖する場合もあるから
今は判別出来る範囲でいいよ 身体感覚自体がその自我のような気もしてて、ちょっとよくわからないんですよね。
頭で考えるとごちゃごちゃしてきそうなので、ちょっとやめときます。
自分は身体感覚だけをそのまま観察することにします。 >>981
怒りには
湧いて出てくる怒りと
自分で怒りの理由を探し維持する
二種類がある
理由探し→自我発生→維持 >>984
うん判別出来る範囲でいいと思う
徐々になれる せっかくアドバイスしてくれたのに申し訳ない。
ただよくわからず曖昧なままそれをするのは抵抗ある。
完全に納得行った状態でしかやりたくないのと、
現時点の自分にはそれははっきりと理解できない、そしてあなたが正しいことを言ってるのかどうかも判別できないので。 >>987
いえいえこちらこそ
上手く伝えられず申し訳ない >>969
ちゃんとしたお坊さんと言うのが
大乗仏教のかただとどうだろう
話が合わない気がするな
俺のベースは一応小乗仏教だから
流石にキリスト教圏の方よりは親睦性はたかいけど
ぶっちゃけていうと
キリスト教圏の天国や地獄はあるし
大乗仏教の輪廻転生やお経を唱えたら救われる
も事実
アートマンも事実
釈迦がアートマンと輪廻転生を否定したのも事実
しかし輪廻転生を否定すると好き勝手生きるものがでるのを釈迦は嫌った
代わりに三世を置いた
三世を代わりに説いたと言うのが後付くさいが
実はこれが解脱のヒント
俺は釈迦じゃないから分からんが今なら何故わざわざ輪廻転生を否定しながらも三世を「新たに加えた」か(もとからあったならすまん)
いずれにしても
天国と地獄はあるがない
輪廻転生はあるけどない
大乗仏教のお経を聞くと救われるが救われない
三世はあるけどない
どれも事実
そして釈迦は天国も地獄も輪廻転生も「否定」
することで解脱とする 禅問答のようだが
天国はあるがないとはキリスト教圏の信者にとっては天国があるのは純然たる事実
大乗仏教の信者はお経を唱えれば救われるのは事実しかしキリスト教圏の神や天国はない
アートマンが輪廻転生をするのも事実
しかし釈迦が輪廻転生を否定することで輪廻転生の苦から逃れるのも事実
何でそうなるのか理論(論理?)の構築と体感により理解した
言ってもふーんとなるので
とにかくこれは是非瞑想で体感して欲しい
必要なのはずっと言ってる自身の観測者、心の執着を操り捨てることで事象の観測者となる この文脈での自我が何なのかっていうのがうまくイメージできなくて、
自我=私のものって解説よく見る。
それと照らし合わすと、当てはまらない気がする。
自我=私は優れている、私は特別
みたいな感情だとするなら、分かる気がする。
女子と話して舞い上がる気持ちは、女子に認められてる私はすごい!って感情のような気がする。
自我ってなんなんだろう。
私のもの!って感じだと、猿が縄張り意識で襲いかかってくるイメージ。 >>991
瞑想中に頭を無にしようとしても無にならず
思考が湧いてこない? 心を無にしようとしても湧き続ける思考を自我と言うと言えば何となくイメージ出来るかな もしかしたらそっちを先にやったほうがいいか
心を無するつもりで
サマタなら呼吸に集中、雑念が湧いたら湧いたと気づきまた呼吸に集中
観る瞑想の場合は体を観るそして瞼を観る色々観て雑念が湧いたら湧いたと気づきまた色々観るを繰り返す 瞑想中に湧き続ける思考が自我
その思考を維持しつづけるのが能動的
能動的って言うから分かりにくいのかな
自分で故意に思考を維持しているということ
普通の瞑想なら
心を無にしようとする
湧き出た思考を確認
心を無にしようとする
となるよね
瞑想中に囚われた場合
心を無にしようとする
湧き出た思考を確認
思考を続ける←これが能動的、本来なら無に戻るところを故意に続けている
これも自動で起きるのではと思うが
実は自分で無に戻さず思考を続けていることに
気づく必要がある
湧き出る思考の場合大体、動詞か単語か形容詞
または短い文
故意にいわゆる能動的な思考は長文のとき
何故なら湧き出る自我は一瞬ですぎるから おそらくですが、思考を維持し続けるって
反芻って言葉で表現できませんか?
自分の中では「能動的」は、自発的に行動するイメージです
自発的に思考してるかといえば、ちょっと違うと思います。
思考は自動で湧いてきます。
意志の方向性、意志の指向性みたいなことですよね、それなら納得がいきます。 >>992
湧いてくる。
いつのまにか思考に囚われてる(浸ってる)。
>湧き出た思考を確認
>思考を続ける←これが能動的、本来なら無に戻るところを故意に続けている
なるほど、頭では理解できた。
だけどそれに気づけたことはないとおもう。
呼吸に戻る>いつの間にか思考に浸ってる>気づく>呼吸に戻る>いつの間にか思考に浸ってる。
継続するところの境目に気づいたことはない。 >>995
まだそれが本当に起こっていることなのか半信半疑ですが
瞑想する時にちょっと意識して見ます、
ありがとうございます。 たとえば
思考が湧いて内容が「お腹の様子が変だ」または「お腹すいた」とする
ここで気がつくと呼吸にもどるんだけど
内容の拡張「冷蔵庫に食べものあったかな」と続くと自分で故意に思考を続けてるとなる
「お腹すいた、冷蔵庫に食べものあったかな」
と一度に思考の連続となった場合はそれ自体が湧いてでた思考のワンセット。
ここで思考に気がついているのに呼吸に戻らず
「まあもうめんどくさいな」が拡張
思考に気がついているのに呼吸に戻していないなとラベリングを貼る場所が細かいが存在する 慣れてくると
「おなか」で気がづき呼吸にもどせるようになるそしてまたすぐ湧き「が」呼吸にもどす
すぐ湧き「すい」呼吸戻す「た」
とこのように思考「自我」が体をなさなくなる レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。