【仏教】ヒキが仏道修行するスレ その⑤【瞑想】
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慈悲の瞑想ってあるじゃない?
あれに似てるんだが悲しみたいと自分で操作した場合オートで自然に悲しみが湧いてくるより悲しめる持続にはかなり疲れるが
楽しい、面白いも自分で操作するほうが何倍も
効果があるのもメリットか三昧効果だね 自我が鳴りを潜めている状態で逆に瞑想中に雑念をわかせようとするとこうなる
…きょう…おっおっ…お昼ごはん…おっおっ…美味しかった…
となる
ここまでくると自身にたいして傍観者となる 感情と自我は肉体に付随しているものと気付く
そして感情にはパラメータがあり感度の調整ができる
個人差があって苦しみのみ下げて快楽だけ上げるといったことが出来る人もいれば快楽と苦しみの感度が比例する人もいる
お釈迦さまがある人に感動するようなものを聞いたり見たりするなとおっしゃったが対機説法なのでその人にあった教えである 大乗仏教や色々あるが基本的な釈迦の教えかたとしての対機説法をやっていると言える
日本の仏教は日本の風土にあった専用の説法
中国の仏教は中国の風土にあった説法を弟子がカスタマイズしたといえる 感情と自我が肉体に付随したものとすると
感情を操り自我を観測できる「私」とはなにか
魂がーとか阿頼耶識がーとか業力がーとかあるけれど基本的には文や言葉で理解し仏教を勉強することに意味はないことはないがそれだけでは駄目なもよう
やはり瞑想により体感することが重要で後に釈迦がおっしゃったことはこういうことかと理解するべきだと思う >>797
そうそう。あの後もそのまま続けたら廃人みたくなった。やから今は別の脱フュージョンしてるし思考に囚われたら最終手段としてやけど使ってる >>804
思考に囚われるというのも必要である場合がある
肝心なのは「あえて」「思考に囚われる」や
「あえて」「この世に絶望してみる」というアプローチでなければならない
もっと簡単にいうとラノベを読んである程度の感情移入をして楽しむべき
ラノベの主人公と100%リンクしてしまうと苦楽に耐えられなくなるということ 対機説法として
病気で今夜がやまの修行者が私は極楽浄土へ行けるでしょうかと釈迦の弟子に尋ねた
その弟子はこう言った頭の中をお花畑にしなさいそしてありとあらゆる楽しいことを想像しなさいと
修行者は言われた通りにし極楽浄土へと旅立つ
そこへ見ていた釈迦が言う
なぜお前は極楽浄土などにいかせたのか
お前なら彼を解脱に導けたであろうと
事実彼にはその力があり可能ではあった
しかし修行者の時間があまりに短いため最大限
彼にとっていいようにした
勿論釈迦が見ていることも知っていたしそう言われるだろうと予測していた
かりに解脱に失敗して地獄にいくくらいなら極楽浄土に行かせてあげようと思ったのだ
釈迦自身もいっているが私の話を信用するな
文字に残すなというのはその場その場でいう説法はその人専用だからである 今この現世で対機説法するならば
日本に住む者なら輪廻転生も信じるものが多いことから
肉も食ったし虫も殺してるし酒も飲んでる
だろうから戒律はとりあえず横に置いといて
今世中に解脱なんとかしろ来世から畜生道だから詰んでるから今抜けるチャンスいつ来るかわからんぞ
モラルが酷い国や感情を操れるだけのサイコパス
お前らはまず八正道 「あえて」これは結構つかえる
究極執着から逃れる手段に思う
「あえて」悟りを開く努力をする
「あえて」悟りから離れてみる
悟りを開きたい心と開きたい執着心の矛盾を解決するパワーがあるくね? >>808
恐らく釈迦が弟子の立場なら弟子と同じようにしたし弟子も実際修行者の前にいるのが釈迦なら同じように修行者に施したということ
臨機応変にやれと言う事本質を見失わず
他の修行者にした説法を全く違うやつにするなと言う事
その人の価値観に沿って寄り添って説法する
弟子は釈迦に言われずともそうしたし釈迦ならそうするだろうと思ったから修行者の今際の際をみてない釈迦を無視した 自我を観察していくうちに自我とは自身の生まれたときに発生し環境で構築されている
いわば苦の塊であると言うことに気がつく
そんな自我に意識を向けるとそれに翻弄されるのは自明の理
じゃあどうすんの?
理解したあとどう対策すんの?
と言葉や理屈で固めてそれが真理だとしても意味がない
瞑想により自我と私とこの世を観測し体験する必要がある したらば感情を自由に操作出来るようになり
苦からの開放を得ることが出来る
そっから先はしらん解脱のかの字もわからん
更に客観視する必要があるんだろうが
理屈では理論としてはあるものの圧倒的に体験が足りない
今世で解脱出来んのかこれ? とりあえず馬鹿正直に色欲界と無色界を執着をすてながら行き来している
敢えて色欲界に溺れるなどしている
釈迦も無色界の先は何もないといっているし
色欲界の横道に涅槃あったわっていってるので
トレースするしかねえ >>814
ネガティブ思考湧いたらその思考は必要か?って自問自答する。必要ならyesでいらないならno 。noを選択したら少し距離が取れる感じになってて楽になる感じ。hspの俺は自分の思考でさえも刺激が強いから色んな方法組み合わせてやってるけどね >>815
なるほど最終手段として感情を手放すということは敢えて自我と向き合い自我にたいして返事をしていると
手放すときは手放してるのか? >>815
君が一番解脱に近そうだな
意味がないが言葉を尽くすとすれば
死ぬほどの修行を意味がないと途中で止めて
スジャータの粥を飲み菩提樹で瞑想したのち涅槃に至る
ギャップか?ギャップなのか?
肉体に宿る意味(死にそうな苦しみ、美味しいスジャータ)をまず理解した
因果応報として今の苦しみの原因は
「私が」「受肉」した結果
なぜ受肉したか?
この肉体デバイスで存分に快楽と苦しみを得るため 君が書き込んでいたように
記憶を収集するため無理やりか
「私が」自ら選んだか >>817
よく分からないけれど必要な感情は利用して余計な感情は脱ヒュージョンしてる あっ
分かった分かっちゃった
解脱する方法
行きませんと言うだけだ簡単な話だ
なんだろ確信がある自我を客観的に観る体験したら言ってることが分かるはず
後記憶の収集いいヒントくれたね君
瞑想で得た境地には行けるんだよ死後!
忘れてたわ
実のところ瞑想内で涅槃に行けるのね俺
すげえ分かりやすくいうと多幸感満載の無限の空間があって痛みを全く感じない場所
瞑想前に歯痛が酷くて(歯医者いけ)かなわなかったがその場所にいくと痛いという認識はあるものの全く気にならない状態なる
だから死んだあとその境地にいけるわけ
ほんで後は人生ゲームの地球サーバにはもうログインしませんと言えばいいだけや!
涅槃に至る=悟りじゃなかったんや! 涅槃=悟りと思ってたのが勘違いや
涅槃の後に悟ったわ
感動をお伝えしたいが伝わらねええええ >>819
君は理論的にはそう間違っていない
記憶のためとか何ものかの仕業とか詳細は違えど本質は捕えていると思うアバターとかね
後は瞑想だ実際に体感することまず自身の観覧者になり事象の観覧者になることとにかく観る
観る受け入れる受け流す囚われずただ観る
戒律だとか八正道とかこの際横にポイだ
通常日本人のモラルがあるなら十分とにかく瞑想
でないと輪廻に入る入らないの選択がまず出てこない
釈迦や弥勒菩薩はあえて今後輪廻に参加するようだが大事なのは選択出来ることを知ること 後は瞑想に出てくる輩は全部妄想だから
これは忘れないように 憎悪が激しいようだから
先に言っておくが瞑想中に目を背けたくなるトラウマがフラッシュバックする
君にとってそれが一番の難関だと思う
結論からいう全部許せ1つ1つ許せ
しまいにゃ前世の業まで見せてくる
しょうがないよねと許す自分に事象に
ほんとにきついときは一度瞑想をやめたっていい
コツは映画を見てる感覚で俯瞰的に観る
許す許すとながせながせ 後は金縛りか
金縛りを恐怖と捉えるとマジで怖い
俺も初めて金縛りになったときはパニックになった
直ぐ側に小さい神社があるんだけどそこから祭囃子と太鼓の音がやけに大きく聞こえてきて
(実際には祭りはなかった)その後ドンッドンッって誰か上がって来る音がしてめちゃくちゃ怖かった
全て夢からくる妄想寝る直前を再現した夢
それが分かってからは自在に金縛り中に自由に出来るのではないかと発想し色々好きなことをやった
とにかく恐怖心をなくし金縛りはチャンスと心に刻むべし、んで妄想と割り切り遊びまくる ドンピシャなのが怖い。エンパス?少しやってみたら凄く楽になったから二三分やってみるわ。ありがとう 野狐禅、禅天魔とはこのことか……
まぁ冗談は置いといて、そういう「天界」に遊ぶ瞑想法は貴方が分かっている通り外道(仏教ではない)から連投するのは流石にそろそろやめてな >>826
許しきれんかったらどうやったらいい?あいつも不幸な事あってあんな発言してんだなって言い聞かせてるけどキツいわ >>828
うーん多分ここが君の難関だからなあ
何年もかかるかもしれん
映画を見る感じで流せないかな
あーはいはいゆるしてやるよと
まあ俺もそういうのはなかったが色々囚われて(遊びすぎた)数十年かかったからな >>827
実際に外道や魔境やクンダリーニ症候群
禅病全部やって経験しないと何も分からない
と俺は思うがな
彼が実に現世であらん苦しみを感じているから
全てやってみたほうがよいと思った
解脱は別にしても四苦八苦は自我を見切れば克服できる
それにより世捨て人になり病院で過ごしたとしても彼の今よりよいと俺は思った 結局仏教にしてもそれこそ釈迦にしても
残っているのは文献だけ
生で釈迦の説法をきくならまだしも
どうしても文字から勉強しなければならない
そうすると体験が必要になる
例外で音ならどうにかなるかもしれんな
般若心経とかな >>830
は?バカかよ
あまりにも無責任過ぎるだろ
対面でやり取りしてるわけでもないのに
もしこれで彼がふとした時に地獄の境地に囚われ続けてしまったらどうすんだよ
天の境地なんて所詮は輪廻の一コマ、縁起で簡単に三悪趣に堕ち得るもんなんだぞ? 流石に増上慢が過ぎるよ
あえて強い言葉で注意したよ >>832
ああ金縛りのこと言ってるのか
勿論妄想であり囚われては駄目だ
恐怖にかられるくらいなら遊べと言ったが
俺が大丈夫だから他の人も大丈夫とはたしかに言い切れないな
金縛りはスルーしたほうが良いか
とすると結構長い道のりになるな まず輪廻は参加しませんが発想として出てこないのよ
瞑想して体験して気が付かなければ
そんなことで?と思うだろうが俺がどれだけ言葉をつくしても伝わらないだろう
なんで発想として参加拒否が出てこないか
現世がリアルすぎるからほんで死後わけわからないまま輪廻に再投入されるから
瞑想かじったくらいじゃ死後なんも対応できない拒否する発想も出てこない >>838
やっぱり貴方が気になる
それなりにお年を召しているように見受けられるが、そんな調子で実生活はまともに過ごせたの?
親との関係、妻や子どもとの関係、友人との触れ合い、もちろん仕事とか……
流石に山に籠もって一人で生きてきた訳では無いでしょう ここがヒッキー板だということを忘れてる奴が散見されるな さっきから「輪廻は参加しません」と言ってるけど、その参加しない主体は?
それはあえて後付けの形容詞的表現として「輪廻は参加しません」と書いているのか、実際の意思としての営みを書いているのか…… >>841
あ、すまん
だけどヒッキーしか書き込まないとは限らないだろう >>841
瞑想をしていくと意識の置所が分かるようになる
そうすると悪く言えば無感情
感情がないわけじゃないが自分から取りにいって感情を出さなければならなくなる
ここが非常に現世で生きにくく感じるかな
そのかわり映画などみるときは自分から感動しようとするので三昧状態になり存分に楽しめる
前作のほうが良かったなど雑念がわかない
モラルがあり八正道を修めたサイコパスだな
なんでも感情を能動的にだすから傍から見ればいい人にみえるんじゃないかな >>842
実際の意志として輪廻は参加しないと
表明する必要がある
自我に現世に足をつけたままではダメ
死ぬ間際に嫌な事を考えたらダメ
瞑想中の置所を確認しそこですごし死を迎える
置所は人それぞれ体験した境地となるな >>845
なるほど
丁寧に返信して付き合ってくださりありがとうございました
しかしやっぱり貴方にはなんか引っかかるんだよなぁ
たしかに増上慢ではないのかもしれないが、貴方は「法執」を拗らせているように見受けられるんだよなぁ
でも貴重な意見であるのは変わりません
ありがとうございました🙏 我昔所造諸悪業
皆由無始貪瞋痴
従身口意之所生
一切我今皆懺悔
皆さん連投すみませんでした >>846
彼に執着しすぎたか
なんにせよ思い煩うことが少しでも軽くなればいいな この長文連投の仕方は、ド○ッグのエフェクトのよるものだよねw
だけど、内容は大体あってると思う
瞑想とサイケってある程度のところまでは同じなんだろうな。
ガチで幽体離脱でそこまでいけてるのならすごい >>849
やめろwwwド○ッグなわけないやろwww
幼少からお祈りを捧げる習慣があっただけだよ
普通の人より気づきやすかっただけよ フラッシュバックするトラウマなんだが
はいはい許す許すそんなことあったなとか
あっあのときはどうかしてた許してくれとか
やってるうちに黒歴史が流れてきて
??!?!……!!馬鹿!やめれ!思い出さすな!!ってなったけど何とか違う場面になってどうやらOK判定だったからもっと方の力抜いてよいと思うぞ 仏教によっても違うが阿頼耶識的な話だと
行いが阿頼耶識のデータベースに蓄積されていて前世の業も記憶として残ってる
それを因果の因を消す行為がこの許すになる
または阿頼耶識と阿頼耶識が作る肉体デバイス(と思ってるプログラム)と末那識(生への執着)が作るリアリティを観測する手がかりとなる
基本的に1人1つの阿頼耶識を持っており他の阿頼耶識と種子(情報)を交換することにより共通のワールドを形成する
ワールドと言っても1枚絵のようなものでなく
モニターに映す映像のように信号を断続的に刹那に点滅(生死)を繰り返し表現している
これを実際には空という阿頼耶識本体も同じ構造で断続的に刹那に表現を繰り返しているため空である
阿頼耶識データベースに蓄積された業力により
死後のステージの選択が行われる 語弊があったフラッシュバックを観るのもそうだが観る瞑想、現世の事象、体の内観、心の内観が客観的に観測する手がかり いわゆる悟りを開いた際は阿頼耶識や末那識の名称が変わることから恐らくバージョンアップが必要なのだろう
この辺は実際体感しないと実感がわかない
文字で納得しても全く意味がない
だから俺は体感する→勉強する→あーなるほどなあがベストかと思う
阿頼耶識的に言えば阿頼耶識本体が輪廻をしないと言う選択が現れると言うことが今回俺の体験したこと 体験なしで文字だけみて頭でっかちになると
先入観で見当違いのものをそうだと思うかもしれない
なんじゃこりあ?どういう現象だ?
と先入観なしで観るほうがよい気がする 実際、阿頼耶識とか小難しいこといったが
今の世にはネットやオンラインゲーム、VRがあるから何となく理屈は分かるだろ体感がないだけで
釈迦のやべーとこはうん千年前にオンラインゲームの基礎構想を理解したようなもの(実際はそれ以上)
あの時代は体感が先にあって釈迦の智慧があった
今の時代は先に釈迦の智慧があって科学の進歩があって理屈は分かるものの体感がない状態 瞑想が進むと自我、事象を観測する「私」に気がつく
俺にはこの「私」が何なのかまだ分からない
「私」は阿頼耶識も観測している
阿頼耶識が作り出す物理世界は実に精巧かつ正確で物理法則(因果応報)で出来ている
外道だとまた怒られそうだが金縛りとは阿頼耶識を「私」がジャックした状態またはバグを利用しエミュレートした状態
肉体デバイス(六根)が寝ていて「私」が代わりにエミュレートするわけだが実にリアルではあるけども物理法則は適当だし物資が空ですり抜けるため模倣にはほど遠い
しかし調整を重ね現実に限りなく近くすることも出来るぼやけた視界をクリアにしたり
ズボズボ嵌まる地面を固くしたり重力を何となく再現したり(大体無視して空飛んで移動するため)
阿頼耶識の作り出す肉体デバイス(六根)の感度
阿頼耶識自体の処理能力に「私」は驚かされるわけだがどうやればこの「私」を実感することが出来るだろうか 何か嫌な仮説思いついた
末那識の存在
リアルティを上げる自我執着
阿頼耶識を自分本人と思い込ませる機能がある
これが存在する理由はなんだろうか?
効果としては阿頼耶識の作る物理世界に100%ダイブ出来る喜怒哀楽の感度、触る、嗅ぐ、見る、聞く、食べる、痛み、苦しみ、快楽
この効果を自分が感じたということを誤認させるため
誰に?
誤認させる為に末那識があるなら阿頼耶識に乗り込んだのは外部の存在にならないか
釈迦が自作自演だと言っていたきがするんだが
探しても見つからない
仮に1つの何か意志があってそれが複数分体したとしそれぞれが阿頼耶識に乗り込み末那識により自我が芽生えそれを他の分体と共有したワールドで過ごすとするなら
こんな馬鹿馬鹿しいことあるか
自作自演だとかそれに近い言葉を釈迦が言っていたことが俺の勘違いであることを願う ある仏教の教えの通り外部からではなく阿頼耶識が縁起であるのほうがしっくりくるな
他の阿頼耶識の情報(種子)を一部取得して自分の阿頼耶識に組み込みさも存在しているかのようにみせる自作自演 >>858
末那識が存在する理由
それは唯識がパクったサーンキヤ学派のアハンカーラ(自我)に末那識を対応させたから
阿頼耶識はブッディ(覚)
詳しくは⬇の
世界を生み出したプラクリティの発展
を参照
https://www.yoga-gene.com/post-21800/ >>860
ヨガかそういややったことないかも
アハンカーラのいる理由がようはラノベ読む人からラノベの主人公に100%リンクするためのものだよな まあ名称は割となんでもいいのよ
体感してそれを当てはめれば
色々混ぜるから気づきが遅くなるのかもしれんが
でもリンク先は先に理論があったほうがスムーズと書いてあるな一理ある時間作ってやってみるわ >>863
タルパはARだから現実に投影がキモや
瞑想で目を閉じたり半目だと意味なくないか タルパとか危ないことするくらいなら
金縛りで二次元嫁喚べ タルパ作成は漫画家とかキャラを作る過程で出来ちゃうひともいるらしいな
設定とか造形を綿密につくるから
ある人は5人のキャラと住んでたらしい
羨ましい想像力ないから無理
体外離脱でも俺の場合キャラ出しても首から上が見えないか衣装無理すぎていつも裸 なんやろか酷いトラウマのフラッシュバックを華麗にスルー出来る方法…
俺からすれば動画流し見感覚でいいんだけどな
当人からするとそういう訳にはいかんのだろうな
フラッシュバックは一瞬のはず
長く流れている場合は囚われている
観る瞑想は本当にただ観るだけ他のことはしない
フラッシュバックでくそコイツ!はダメ余計な事をしているいらない事をさらに思い出している
許すはい次ーが正解
フラッシュバックは一瞬ですぎて消える
次の心象風景になる
なんのアドバイスにもなってなさそうだな…
事象→自然に湧き上がる自我を観る→対処
これの練習したらどうか
対処の前に自然に湧き上がる自我を観ると
その後行動感情が能動的になる
恐らくフラッシュバックのトラウマが出たときにわざわざ悪感情取りにいってることに気がつくんじゃないかな
そこに気がつけばスルー出来る
感情的になって咄嗟に出る言葉は考えうる中で一番口汚い言葉が出る
口を一度とじ数秒待つと考えが変わる
これも観る瞑想と一緒 長くて見ずらいな
トラウマが現れる
観る
湧き上がる自我も観る
トラウマが拡張され長くなる
悪感情を取りに行かずスルーする これが駄目なら
今雑念わいた!とラベリング
トラウマきた!とラベリング
雑念わいた!とラベリング
美味しそう!とラベリング
懐かしい!とラベリング
トラウマきた!とラベリング
ラベリングを挟めば感情が能動的になるので
悪感情を取りに行かずラベリングだけ意識 許さなければと思わなくてよい
何か受け入れなければと思っていそうだな >>871
素晴らしい三文字だな
ものすごい質量を内包している
何か何か気が付きそうだぞ 「法執」拗らせているのではと言われて
気がついた
大体仏教の勉強をすると目が滑って内容がさっぱり入ってこないが
今実感のように入ってくる 体感がないと仏教の教えがまるで身につかない
逆に文字だけで分かる人は頭のなかどうなってんの 解脱のアプローチは分かった
解脱の仕方を理解=悟りではない
実際に解脱を選択=悟り
振り出しに戻った感がやばい 解脱がなにかを簡単に書こうと思うが
どうだろうか
簡単に書けるのかと思うかもだが書ける
釈迦のときと違い俺たちの時代は言葉の表現が揃っている故に迷いも増えるが
先入観により違うものをそれと思ってしまう事
俺の言ってることが真理であると執着する危険
いらぬお世話かな気づいた事を人に伝えたい!
って執着と衝動は仏教的に何ていうの? >>877
俺は己の体感したことしか伝えることしか出来ない統合失調症になったことがないから気持ちが分からない
言えることはサイコパスに近い感情になる
それにより世捨て人になる可能性がある やる前にどんな感じか
自我と観測するものを分ける手法を教えるつもり何だが
お前にとって自我は複数あるのか? いずれにしても病院で治してから瞑想したほうがいいな
どうしてもやるなら目を閉じずにやる歩行瞑想
統合失調症を調べたら俺は妄想や悪口以外は
幻聴が当てはまるな
「ダまン」とか判別不能な音声が聞こえたりするそこから深い瞑想状態になることもある やり方詳しく書くと危ないかもな
フロチャートだけかく
自身の観測者になる
自我が湧いて喜怒哀楽を表現しているのを観察
実生活では湧き出る衝動(自我)を観測でワンクッション入れる
俺は観測者を「私」と呼んでいるが仏教的には主体を入れるとアカンらしいので「何か」でもいい
自我の減退
あまり湧き上がらなくなる
実生活では喜怒哀楽はあるものの
あっ喜ばないと、悲しまないととなる
事象の観測者になる
瞑想内での出来事の本質がみえる
注意として話しかけてくるやつは無視するように
瞑想内のステージが変わる
俺は一度ここらで行き詰まったので座学にシフトして体感を照らし合わす(悟りたい執着の軽減)
解脱の意味を体感する
実際に解脱する(未達成)
君らはこのフロチャートの自我の減退を一番欲していると思う
これがあれば価値観の執着がなくなる
金があって、健康で、頭がよく、顔が良いがなくてはならない→あったらいいなくらいになる
現実に沿った自身の少ない手札を効果的に使えるようになり、また届かなくても悲嘆にくれなくなる >>876
書いてくれ。
想像だが、実際に解脱に至った人が、それを言葉で説明しようとすると
「1+1=2なんだよ。」
みたいにしか言葉にできなくて、
聞いてる方も「うんうん、そうだよね」
というふうになりそう。 俺の理論があってればの話だが
ワンチャン見てるお前らを解脱させれるかもしれん
まず仏教的に瞑想の境地に至ると死後その境地に行ける
境地というのは体感があって初めて確信に変わる字面だけで分かったつもりではだめ
俺がいくら解脱を選ばなければ良いと
言っても
それがどうしたとなる
今からお前らに体感を与える
これで実際解脱できるとはまあ言い切れない
だがこの体感を持って瞑想に至れば解脱の道が開かれると俺は願う
あっ!って思ったやつは解脱できる
ではいくぞ
あなたの落とした斧は金の斧か気の斧か
「金の斧です」
読者(観測者)であるお前ら
「なんで金の斧といったんだそこは正直に木の斧だろ」 >>881
ふたつめまではイメージできた。
事象の観測者の「事象」はどういった範囲を指しますか?
あと話しかけてくるやつって言うのは、瞑想の中で現れる人物のようなものですか? >>884
事象とは自身が認識する全て
歩いているなら風景、空気抵抗、動く体、自我
目を閉じているなら瞼の裏、心象風景、夢
話しかけてくるやつは、妄想による神、妄想による好きな人に化けた魔など >>883は読んだのか?
あっ!ってなったか?
✕解脱をえらはなくてよい
○輪廻を選ばなくてよい
ここ大事なとこ間違えた… >>886
ならなかったw
「金の斧です」
と自分で言って、
それに対して心のなかで
「本当は木の斧だろ」って突っ込んだって解釈であってる? ラーメン屋で、みんなラーメンかチャーハン注文してるんだけど
自分だけ、「いや自分は水でいいです」みたいな感じ? >>887
悪い言い方がわるかった
金の斧と答えたのはその童謡の主人公
そして俺らはそれを読んでる神視点の読者
という構図なんだ 童謡の主人公(現世を生きる者たち)
俺ら読者(自我を観測する者) >>888
読者である俺らは正解をしっている
もしくはこうしたほうが良いというルートを主人公よりしっている
どうしてこうなったと思う漫画がいくらでもあっただろう
観測者とはそれに似ている
これであっ!という体感が出来てると
理論と体感で因果応報となり解脱に至る
このスレで毒を長文で書いてたのは君だろ
それを読んで俺はこの境地に至った
君のおかげだ
だからぜひ君にもこれを体感して欲しかった 語弊があるな上のは例え話で
実際に観る瞑想時にはこうすればよいのにとかは考えないただ事象を観るように ほなら自我の観察といこうか
目を閉じる場合は湧いてくる自我を観る
ここで誤解してる人が多いが
雑念を無くす必要はないむしろそれに気がつくべし
湧いてくる雑念にたいしてチクショウとかもっとこうすれば良かったという意見はいらない
あったねーとかそうだねーとか観た!でもいいし次!でもいい
するといつかあら?最近自我さん喋らねえな?
と気がつく
そこまでやろうか
後は散々スレ駄文で消費したけど俺スレ立てできねえんすわ 湧いてきた雑念には今雑念がわいたと実況する
頭が痒いからかいたとか実況する
瞼の裏がゴチャゴチャしている
お腹すいたと雑念がわいた!と
観て実況する >>891
FPS視点のことのように思える。
以前、誰かが「こんなゲームにまじになっちゃってどうするの?」って1行レスをしていて
その視点は重要かもって思ったんだけど、
いろんなことに対して、どうでもいい、関わらないってスタンスでいるのは
逆にマジになっちゃって、傷つくことを恐れすぎてマジになっちゃってるよね。
心底どうでもいい心境になっていたら、むしろ人生を(あえての)本気モードで生きることが出来るんじゃないかと。
演じることが出来るのは怖くない(どうでもいい)からで
演じることができないのは怖い(マジになっちゃってる)からなんだと。
自分は毒の長文の人とは違うよ。 >>895
FPS視点はまさにその通りだ
やっぱ釈迦の時代と違って伝えやすいわ
ディスる訳じゃないが輪廻転生を抜けて解脱を目指す人に輪廻転生しなくてよくないですか?
と聞いたら多分目が点になると思う
いや君輪廻転生は阿頼耶識に今までの業力があってだね輪廻転生してしまうんですよ
解脱「しないと」という
仏教の言葉を借りると「囚われている」状態
俺から見れば自我に振り回されている状態の何も変わらないなと
解脱はしなければならないとまるで「誤認」させる末耶識のようじゃないか?
FPS視点(観測者)ならそもそもゲームをやらない選択ができるはずなんだ
毒の長文の人じゃないのか >>895
君は理論を理解している
後は瞑想で体感するだけだ 以前は輪廻自体をそんなものないでしょって思ってたけど、
仏教に足踏みれるに連れて、輪廻が確実に起こることのように思えてきたんだよね。
「種があって、生じる」みたいな話から
この世の中のもの全部、なにもないところからは生まれてない。
逆に言うと種(この場合、自我?)があるから確実に生まれる、始まるんじゃないかと。
解脱が起こると、輪廻は続くが自我は持たなくなるのかなとかちょっと思ったりする。 自我はなくなるよ
残るのは阿頼耶識である観測者である「何か」だ
まさに「種があって生じる」だ
因果応報なのよ
瞑想するうえで俺は分かる因果応報から順に調べた原因と原因によって生まれるなら片方がないとどうなるのか?勿論生まれない
なら輪廻転生がある理由はなにか
六根が感知する場所がほしいから
瞑想の境地と輪廻転生のステージは共通しているところがある
湧き上がる自我のおもむくままいきる境地は
畜生道や他の地獄
自我を観測する瞑想の境地は天界や色欲界や人間界
生前に得た境地と輪廻転生先はリンクする
まあ後は業力とかが絡むから少し変化はある
とまあ因果応報で出来てるから片方ずつ潰していくと最終的に阿頼耶識のみになる
六根が機能し末耶識が作動する為に輪廻転生は存在する
輪廻転生があるから六根や末耶識がある
もっと言えば阿頼耶識があるから輪廻転生があるとも言える
だから瞑想で六根が要らない無色界と
六根が必要な色欲界を行き来した
釈迦がかってやったように
無色界は何もないから意味がないように見えるがそのおかげで色欲界がいかに六根の存在を必要としているか分かった
無色界を進んでも阿頼耶識しかないだろうことが分かったから色欲界に戻ったすると六根の存在があった末耶識もあった
ただ末耶識は現世に比べてだいぶリアリティは低いがある程度の没入感は得られる
無色界と色欲界この間が輪廻転生の原因であると確信してからが早かった
この辺の理論は全くわからん体感だけある
何が言いたいかといえば因果応報が作動しなければただそこに阿頼耶識があるだけということ
輪廻転生は作動しない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています