魏延の長安奇襲策
蜀漢の第一次北伐における魏延が献策した長安奇襲は成功の可能性があったのか?
蜀漢が北伐を成功させるためには必要な作戦だったのか?
その是非を問いたい 第一次北伐は春1月から始まって、張郃は800キロ近くを移動して街亭で勝ち、2月17日(丁未)には曹叡まで長安に行幸している
第五次北伐では諸葛亮が二月に斜谷を通って100余日の対陣のすえ8月に没しているので斜谷を通るのに1ヶ月以上かかっているだろう
まず子午道を10日で踏破するのが難しく、曹真らが来るまで20日とかからず、諸葛亮が斜谷から来るのは間に合わない >>101
ここは中国史全般だから三国志も普通に該当してるぞ
後、三戦板はここ以上に過疎ってる 三銭板は真三國無双の知識だけで歴史を語るところだからね >>98
他人と会話や議論できない人は三戦板へ行ってください >>106
議論できないのはただ相手を否定するだけのアホの方だっての😮💨
ちゃんと理由と一緒に反論するなら頓珍漢でも対応するよ。文句はただお前は間違えてると言うだけのアホに言ってくれよ。
たぶんあんたがそのアホなんだろうけど。 お互いの主張がかみあってない
魏延の策にワンチャンあったかどうかの話なのか、関中に兵がいたのかいないのか、長安に兵力がいたのかいないのか、
関を獲れば防げたのか防げないのか、反論に別の反論をもってきてしゃべってる
特に宮城谷スレ荒らし男の主張が支離滅裂
トリップ等付けて誰かわかるようにして、反論する時は誰の何に対する反論なのかを明確にして、自分の主張を論理立てて話してくれ >>108
だからどこが支離滅裂なのか具体的に言ってみろっての。
一方的に間違えてる支離滅裂と言うだけではこちらも反論のしようがないと言っている。
何度言われれば理解してくれるんだ? >>102
斜谷を通るのに1ヶ月以上かかっているだろう
ずいぶん遅いなと疑問が。これはどう解釈して結論出したの?
二月に斜谷を通って
これは十二年春二月,亮由斜谷出 この文からだよね
俺の解釈だと二月発、出発場所は成都、斜谷経由、行先は五丈原。
第五次北伐は屯田のため、種蒔き時期に五丈原に着くよう行軍したんでしょ。
途中漢中で準備や休んでるかもしれない。
第一次北伐は漢中から作戦行動。種蒔き予定行軍の速さで、
長安への作戦行動時間を計算してるなら間違ってるのでは。 >>110
むしろ400キロの険しい山道を10日で踏破するというのが異常なんだよ。
この時代の通常の1日の行軍距離は30里で約12km。魏延案だと休みなく1日の40km進む事になる。平地でも難しい距離を険しい山道を10日でとなると、仮にできたとしても兵士は疲れ果てて使い物に鳴らないだろうね。 >>110
諸葛亮は227年に漢中に出てから二度と成都に還っていないと思う
後主伝では南中征伐の後に成都に還ったと書かれるが第一次北伐でも還漢中としか書かれず234年には楊儀が還成都と書かれる
諸葛亮ほどの大物が重要拠点の漢中から成都に移動していたら書かれていないのが不自然だし第四次と第五次の間も漢中周辺での活動が見られる
明帝紀では四月に諸葛亮が斜谷から出てきたとある
漢中から斜谷を通って五丈原に着陣するまで三月いっぱい使っているという計算 >>112
漢中から斜谷を通って五丈原に着陣するまで三月いっぱい使っている
ああ、もしやと思ってたけどやはり漢中発で計算してるんだね
じゃあ、話が噛み合わないのでこの話は終わりってことで >>111
むしろ400キロの険しい山道を10日で踏破するというのが異常なんだよ。
魏延の話してないんだけどw
孔明の速度考えててぜんぜん頭に入ってなかったw
これはどこからどこを400キロと仮定して
10日で踏破っていうのはどこから出て来たの?
こっちも話が噛み合わなそうw 115の続き
俺の>>110は
成都(予想)二月発、五丈原四月(魏紀巻072)着。から書き込んでる
400キロの険しい山道を10日がまだわからない... 送信の間にレスがあったか
>>116
110に俺の解釈と書いてるでしょ
根拠は? と訊くのは止めた方がいい、荒れる原因
訊くなら柔らかくね >>113
支離滅裂と言ったのはただのイチャモンだという事ね。知ってた🤭
ただ誹謗中傷しかできないなら消えな。 >>115
ここは魏延スレだよ。
基本的な知識すら無いのではそりゃ話が噛み合わんよ。少しは調べてから書き込みなよ😮💨
人の意見にケチをつけるならどこが間違えているのか指摘しろ。ただイチャモン言うだけでは荒しと変わらんぞ。 >>122
どう解釈して結論出したのって聞かれたから答えたのにそりゃないよ…… >>122
少し調べりゃ分かることも調べずイチャモン付ける人は永遠にさよならでいいよ。 資治通鑑でも春二月亮悉大眾十萬由斜谷入寇の斜谷入寇って二月に斜谷の南側にいる書き方じゃね? 雍州
↑
各前線基地
↓
成都丞相府:諸葛亮、劉琰、魏延、楊儀、費禕など
↓
江州都督府:李厳、ケ芝など
↓ ↑
↓ 永安都督府:李厳、陳到など
↓
成都丞相府(留府):向朗、張裔、蔣琬、陳震、董允など
↑
南中ライ降都督府:ケ方、李恢、張翼、馬忠、張表、閻宇、霍弋 違った。漢中府だ。
関中・隴・河西回廊
↑
各前線基地
↑
漢中丞相府:諸葛亮、劉琰、魏延、楊儀、費禕など
↓
江州都督府:李厳、ケ芝など
↓ ↑
↓ 永安都督府:李厳、陳到など
↓
成都丞相府(留府):向朗、張裔、蔣琬、陳震、董允など
↑
南中ライ降都督府:ケ方、李恢、張翼、馬忠、張表、閻宇、霍弋 この当時の7都督(曹仁、曹休、曹真、夏侯尚、夏侯楙、臧覇、呉質)のうち、
223年_曹仁:仮節・車騎将軍・都督荊揚益州諸軍事
226年_夏侯尚 仮節・征南将軍・都督南方諸軍事・領荊州刺史
228年10月_曹休:仮節・鎮南将軍・都督(揚州) 諸軍事
と3都督が続けざまに死んでいる。
そして、北伐に前後して
臧覇:仮節・鎮東将軍・都督青州諸軍事
も亡くなっていると推測される。
都督に準ずる者として、文聘(仮節・討逆将軍・江夏太守)の死去もこの辺りだろう。
さらに226年には曹丕が崩御している。
曹休が死んだのは10月で228年春の北伐より後だが、同年の周魴の偽降による呉討伐失敗で病に臥せっていた。
そして、夏侯楙は罷免されるぐらいに頼りない。
ことから考えると、この当時の西方には軍事的空白があったと推測できる。 >>119
そもそも俺は108でも無いし
何のレスバしてるのかも知らない通りすがりだ馬鹿 >>131
ならなんで答えた?意味がわからんぞ。
まぁ結局なにが支離滅裂なのか誰も指摘も説明もできないので、ただのイチャモンだったという事実は変わらんからいいけど。 >>129
夏侯楙が頼りないのはそうだろうけど、東方の都督が死んで東方ではなく西方が空白になるというのがよく分からない >>138
諸葛亮の進軍した先が祁山で西方だったからでしょ
幽州を取られないために関中から西へ大きく移動しての防衛になる訳だから
関中に駐屯していた夏侯楙傘下の兵がそのままいなくなったたいう訳じゃなくて関中から西へ送る必要があったという意味だと思うよ
知らんけど 夏侯楙が逃げ出しても張特みたいにノーマークだった御史や京兆太守が気を吐いたらオワリよな >>142
そうなんですよね。
夏侯楙が逃げ出すというのも希望的観測ですし、そもそも10日で長安を貶すというのも天候が崩れればそれだけで破綻する不確定要素が多すぎる却下されて当然の策ですな。 >>138
>>129が挙げた状況から考えられる推論でしょ
ある程度の直轄軍を持ち、加えて州郡をまたいで地方軍を動員できる都督級が
どんどん死んでるタイミングだった
生き残りで大きな軍事権をもつ大司馬曹休は前年の呉征伐失敗で死にかけ、
驃騎将軍司馬懿は呉に備えて宛城駐屯
中央軍の多くは徐豫荊州にいまだ展開中か、洛陽まで帰ってきたところ
大将軍曹真は、曹叡の親征の先鋒として関中入りしたと考えられることから考えて、
223年の呉との戦いでも後詰として皖城まで進出したように、228年の戦いでも
後詰めとして出ていて、洛陽あたりで曹休に代わって戦後処理していたと予想される
よって曹真の直轄軍も、関中にはいなかったはず
関中には、ひんぱんに寝返るし北伐でも実際寝返った馬超・韓遂・楊秋系の残党か、
韋端・韋康系の残党からなる現地人の地方軍しかいない
撫夷護軍も、確か北伐後の設置のはず
確実に魏の制御下にある軍は、ダメ男楙の軍だけ
と積み上げていけば、関中は手薄で、その結果が「三郡叛魏應亮、關中響震」
「而卒聞亮出、朝野恐懼」だというのは十分あり得る話だと思うぞ? 魏側は北伐が始まる半年前までは少なくとも呉との国境付近とそこへすぐに数万単位の援軍を遅れる体制を使ってたからな
司馬懿が苑にいる上で曹叡は呉の攻撃に備えて張郃まで荊州北部に派遣しているぐらい
これは結果として孟達蜂起に司馬懿が向かって苑が少し手薄になったところに劉阿が進軍しようとしたのを張郃がこれに対応して事なきを得たことで曹叡の慧眼を証明さる事になったわけだけど
諸葛亮が南蛮制圧に取り掛かり漢中に北伐の兵を集めるまでの間は魏呉が大規模な衝突を繰り返していて長江沿いに魏の兵が集まってた 都督の軍権を重視するのに都督が健在の関中には兵がいなかったというのは矛盾すると思うけど
呉との戦争で将兵を移動させたというのなら張郃がそれっぽいが、蜀滅亡時は鍾会が関中都督、ケ艾が隴右都督なのに228年あたりは隴右都督の名前が見えないので隴右は手薄だったと思う
夏侯楙が諸軍を統率しきれないとかは夏侯楙個人の問題 >>146
前線にはそれこそ一線級の戦歴のある高位の将軍を配置してないと対応しきれないからね
関中は夏侯楙に任された事からそれほど大きな兵事が起きないと考えられていたかもね
兵力がどの程度かは分からない
主力を南に集めていただろう事は確実でそこから引き上げる途中であったとしても移動距離が数百キロ、1,000キロとあるので2-4ヶ月掛かるし
あと220年頃からは雍州にとして郭淮がいて羌族への対応は上手くやっていた
夏侯楙の役割としてはこの郭淮が援軍を必要とする場合にはそこへ関中の兵を送るような想定で蜀の大軍を相手に大規模な防衛は想定していなかったのでは?
蜀は夷陵での大敗で軍事力は壊滅的な被害を受けて大規模な攻勢をかけてくるとは考えていなかっただろうし
それが孟達の蜂起でこれが起き得ると考えたらから急いで人事交代と兵力の移動をしたんじゃないかね
この辺りの事情は正史やその他史料事細かに書いてある訳ではないから推測にしかならない
史料からハッキリ分かるのは北伐開始以前は夏侯楙が関中の兵を統率していた
魏の実績豊富な高位の将軍と大規模な兵が呉方面の対応にあたる為に南の方にいた
諸葛亮が漢中に数万の軍を率いて現れた時に夏侯楙は都に召喚されて代わりに曹真、張郃がやってきて曹叡も長安まで出てきたという事だけ 戦術的に正しくて絶対に勝てるって自信があって
信長は桶狭間を戦ったんじゃないだろうし
家康は三方ヶ原じゃ惨敗しながら天下をとったし
高杉晋作が功山寺で挙兵したときに勝機を見出してたとは思えないけど
それぞれにチャンスを与えられて思うように指揮をとれたのに
そのチャンスすら得られなかった魏延が不憫に思うんですよ 夏侯楙が任されたから関中が重視されてなかったってのは無能だったっていう決論ありきの考えでしょ
上尊号碑によると夏侯楙は中領軍だったし司馬懿や桓範にもそれまでの戦歴はなかった 中国の軍事専門家は
「この作戦の勝率は50パーセント(五分五分)」
と言っているとどこかで読んだことがある。
信長や高杉なら勝率3割でも乾坤一擲で決起するだろうが、諸葛亮は5割では決起しないだろ。 >>149
ではその反対で考えてみたら?
夏侯楙が有能で関中には充分な兵がいたのに尚書に転任された理由は正史やその他信用できる史料で出ている?
あるなら是非教えてくれ >>151
反対に考える意味が分からん
夏侯楙は皇帝の親戚として曹真や曹休のように中領軍から都督を任されて適正なしと判断されたから転任された
夏侯楙の能力いかんによって関中都督の軽重は決められない >>148
信長は桶狭間で戦わなきゃ滅ぼされるかよくて臣従させられるかだから戦ったんだよ。
そもそも皆に皆平等にチャンスが与えられるとでも思ってるのか?成功の説得力が無い作戦にチャンスが与えられる訳があるまい。 >>150
情報が雑すぎる。その上中身も無い。なにを持って勝算5割と言ってるのか中身を言えよ。そんなんじゃ肯定も否定もできんわ。
魏延案擁護派は中身が無さすぎる。 第一次北伐は春正月から始まり明帝紀では2月17日長安行幸より先に街亭の戦いが書かれるので
関中に兵がおらず曹真らが東方で兵を集めたすると、魏略にある東方が兵を集めるのに尚二十日の部分が非常に短かく魏延案は失敗するな >>152
では適性がないのになぜ夏侯楙はそもそも関中都督なの?
結果から推測するのがおかしいというなら曹真や曹休が与えられた任を死ぬまで解かれなかった事との違いを教えてよ
与えられた任を途中で解任されその後対応した曹真、司馬懿は任を最後まで務めた事と比較して考えたら彼等と違って夏侯楙は実力を高く評価されていなかったとからないかね?
もう一度確認するけど史料的にはそこはハッキリ出ていないよね?
あくまで君の推察でしょ、君の主張も >>156
適正なんて実際にやらせてみなきゃわからんわ。直近でも馬謖という実例があるだろうに。
夏侯氏の御曹司にして魏の皇族でもある夏侯楙が要地を任されるのは不思議ではない。
その後蜀が北伐を開始した事で才能も実践経験もないお坊ちゃんには諸葛亮の相手は荷が重かったので解任されたというだけ。 >>156
この時期の都督は曹氏、夏侯氏がほとんど
夏侯惇の子で、妻は曹操の娘、曹丕の幼馴染みという立場によって、ほとんど功績がないのに都督まで地位を押し上げられただけでしょ
ケチで好色で曹叡と妻に嫌われ、都督を更迭され、妻と弟に陥れられ処刑されそうになったという逸話しか残っていないってだけで、能力についてはお察し 長安奇襲策肯定派は長安に兵が集中しており、でも夏侯楙が逃げ出すから一網打尽にできるメリットを強調した方が良いのでは? >>159
長安に兵が集中してれば5千程度に攻撃されたくらいで逃げ出す必要など無い。
自分で矛盾に気づかないの? 誰がどれだけ魏延の策にも理があったことを説明しても、宮城谷スレを荒らしているアンチ宮城谷・魏延の人が
同じ主張を繰り返すだけで終わりそうだ 俺は否定派だけど他の部分で史料に立脚した反論ないんだもん >>161
どこらへんに理があるのかまとめてくれる?
どう見ても魏延案肯定派が論破され論点そらしで重箱の隅をつついているだけだぞ。それもだいたい論破されてるけどな。 >>158
夏侯尚は袁氏との戦い以来の騎兵の指揮官で、北方反乱の平定の参軍も
曹丕の時代には曹真と共に諸葛瑾の軍を破ったりしている
曹休、曹真は曹操時代の終盤で虎豹騎での実績があって曹丕時代には呉との戦いで活躍してる
一方で夏侯楙は戦歴は不明で曹操の娘を嫁に貰っていた事、曹丕とは親しかった事ぐらいしか分からない
他の曹氏、夏侯氏の都督と比べて都督になるまでの経緯が縁故以外に見えないし正史には独立した伝もない
一括りにするのは無理があると思うけどね
年齢がはっきり分からないけど曹休、曹真よりちょっと年下だったのかな >>161
強行軍で10日で行けるなら可能性はそれなりにあっただろうけどね
それでも後続軍を送ってもその後の補給ができないから一時的に郿周辺を確保して帰るだけになったと思うけどね
それによって魏がこの方面と雍州側の守備にあたる兵を増強すると第一次北伐のように羌族や氐族などが魏を離反する可能性は低くなって迂回する作戦まで更に達成が難しくなると思う
史実通り魏が備えをする前に祁山包囲して隴西方面の調略をやり魏の大部隊が涼州雍州へ向かうのを撃退する方が長安までのルートは確保しやすいと思う
出口側の郿の確保とそこへの兵站が確保できれば箕谷道は片道の兵糧と最低限の資材の搬送だけで送れるようになる
追加の兵糧や物資も細々ながら素早く遅れるサブルートが確保できるし >>163
論破なんかしてないでしょ。
「論破した」と言い張っているだけだ。
他人と言葉のキャッチボールできないから、宮城谷スレでも『荒らし』認定されちゃうんだよ。 第一次北伐の時も、曹叡注の軍も、その先鋒の曹真も張郃も関東から来たことは明らかだし、「魏は油断していたので震撼した」「3郡が寝返った」と大軍がいない状況証拠がある。
それなのに、アンチ宮城谷氏は「都督が二人もいた」「重要な関中だから大軍がいる」「重要な長安だから大軍がいる」「大軍がいるから魏延の策はあり得ない」と証拠も示さずに、同じ主張を繰り返しているだけ。
そもそも、第二次征伐の時には曹真も郭淮もいたにもかかわらず、雍州にいた曹真はわずかに費曜を送っただけで、郝昭を救援するだけの軍を動かさなかった。
援軍本隊の3万の軍を率いた張郃は、曹叡が「間に合わないかも」と不安に感じつつ、洛陽から送り出したことがはっきりしている。
郭淮の雍州刺史の軍も動いた記録がない。
第三次北伐の時も、郭淮が迎撃・救援に来たが手をこまねいて見ていただけだ。
つまり、諸葛亮を警戒していた第二次・第三次北伐の時ですら、関中に十分な守備兵力がなかったことを示している。
そして、子午の役の大規模な魏軍、第四次の司馬懿・張郃も関東から来たことは記録にある。 >>168
長々と頓珍漢な反論ご苦労さん。
こちらが言ってるのは長安だよ。関中に蜀に対抗できるだけの十分な兵がいなかった事は魏の対応でわかっている。
その上で長安まで5千程度の奇襲で逃げ出すほど手薄にする理由も必然性も無いと言ってるんだ。最初から大軍がいたなど言っていない。
長安から勝手に関中まで広げるのは単なる論点そらし論破されたやつの常套手段だよ🤭 >>167
勝手に論点を変えたのでは論破されたと見なされて当然だよ。
そもそも宮城谷スレも一人でアホが暴れてるだけ。普通は成りすましの自作自演や一人で17連投もする方が荒らしなんだけどね🤭 >>165
夏侯楙は中領軍から都督になってるからそこまでは特に問題なかったと思うんだよね
夏侯儒みたいに失態が記録されてる夏侯氏でも都督なってるし
ただ関中都督が先にあったわけで夏侯楙が無能だから兵が少ないとか有能だから兵が多いとかはないと思うんだよな >>169
また繰り返しに戻ってるよ
解任されていることからも、夏侯楙が奇襲などの突発的トラブルに耐えうるだけの能力はない人物であることは証明されている
だから、そんな夏侯楙でも奇襲に怯えて逃げ出さないだけの十分な兵力を持っていたかどうかがポイント
長安は要害ではないから、守備側有利理論の利点もない
だからこそ、馬超襲来時に鍾繇は長安を捨て潼関まで後退した
そして夏侯楙がどれだけの兵力を持っていたかは不明
長安に十分な兵力がなかった可能性はあるという状況として、長安を含む関西が手薄だったことが示された
それなのに「長安だから兵力はある。はい、論破!」の繰り返しですか・・ >>168
地方に軍を置くために都督制ができたわけで長安に都督がいるのに軍がないっていうのにまずムリがあると思うんだよね
そういう特殊な状態だったと説明したいなら他の将軍が関中の兵をよそに移した史料がいる
例えば第二次北伐の頃には張郃が関中諸軍を督して荊州に行っているので関中の兵が少ないことが確認できる
孟達の反乱の時もそういう動きがあったと確認できるなら第一次の時も関中に兵が少なかったと思うよ >>172
夏侯楙が臆病ならなおさら自分の周りには兵を置いていただろうね。何度も反乱が起きた地に自分の周りに少数の兵しか置かず居続けるのは豪胆であり臆病とは言えない。そして夏侯楙が実際に諸葛亮の北伐に対して逃げ出した実績など無いぞ。
さらに関中が手薄だったとは言っても結局魏の援軍が間に合ってるのであんたが思うほど手薄では無かったのも現実。
あらゆる状況証拠が長安にはそれなりの兵力がいた事を示している。そもそも常識から言っても重要拠点をあえて手薄にする理由が無い。 >>173
防衛時の都督は特別に直轄の兵を率いていない場合もあって任命されたら対象エリアの太守とその指揮下にある兵を指示監督する事も多いけど
都督が開く幕府(中領とか中護軍)スタッフは中央から派遣される監軍、参軍将軍とかが勤めて都督を支える
北伐への対応をする魏は北伐での防衛エリアになるところに兵をあまり置いていなかったから他の地域から将と共にやってきたんだろうね
関中内の乱や多少の変事に対応するのに必要な兵数と敵国の宰相が国力目一杯吐き出して数万単位の軍を連れてやってくる遠征に対応する為の兵数は違って当然 >>174
夏侯楙の尚書への転属が早かったしね、逃げてはいない
そこで逃げたら敵前逃亡で夏侯一門の筆頭武官でもあるから死罪だろうし
ただ関中にそれなりの兵がいたならそれを引き継ぐ曹真、張郃はもっと早いタイミングで動けていて諸葛亮が祁山を包囲したぐらいでおそらく隴西に入り終わってたんじゃないかな?
それが間に合わなったから涼州で蜀への大量投降が起きた
張郃と馬謖が街亭で戦った時には祁山はまだ頑張って対抗していたけどもし街亭で張郃が敗れて隴西に向かえなかったら涼州は完全に蜀の支配下だっただろうね >>176
>夏侯楙の尚書への転属が早かったしね、逃げてはいない
そこで逃げたら敵前逃亡で夏侯一門の筆頭武官でもあるから死罪だろうし
じゃあ魏延が攻め込んでも逃げないよね。
ハイ終了。 >>175
都督は特別に直轄の兵を率いてない場合って、例えば? >>168
関東から来た軍で隴山超えて街亭で勝てるんなら長安なんかすぐ再奪取だわ >>173
わかってないなあ
同時期に都督になった人たちを見てわからないか?
夏侯楙だけが任地が被っていることに
曹休 鎮南将軍・仮節・都督揚州 諸軍事
夏侯尚 征南将軍・仮節・都督南方諸軍事・領荊州刺史
曹真 鎮西将軍・仮節・都督雍涼州諸軍事
夏侯楙 安西将軍・持節・都督関中
呉質 北中郎将・使持節・督幽井諸軍事
曹丕が即位した220年に、曹真と夏侯楙は重複した地域の都督となった
ただし、曹真は国家の重鎮として洛陽・揚州・荊州を駆けまわらないといけない
そこでその穴を埋めるために、清河長公主の婿として曹操にプッシュしてもらえるほど曹丕のお気に入りの親友の夏侯楙が、即位の大判振舞いで都督にしてもらった
本来の雍州軍は曹真とともに行動し、その一部だけが夏侯楙に任されたのではないか
実態としては長安守備隊長のようなものだろう
夏侯楙の都督としての軽さは、一戦もせずに罷免されたことからもわかる >>180
わざわざ重複させてまで同地域に都督を置くんだ。さらに守備隊長まで置く長安の重要性がわかるな。
そんな重要な都市を手薄にする訳が無いよね。 >>180
例えば魏延も劉備が皇帝になると鎮北将軍って書いてあるけど実際は黄権の後だから夏侯楙も曹真と交代したとするのが自然な解釈だよ >>181
重要であることと大兵力が常駐していることはイコールじゃない
魏にとってもっと重要なのは洛陽、冀州・兗州・徐州・豫州・荊州・并州
だから兵力はそこに集中
そしてそれらの州と国境を接する呉こそ最大の敵
だからこそ、雍州都督の曹真も張郃も司馬懿も呉に備えて洛陽や豫州・荊州に展開しつつ、北伐があれば雍州へ移動していた
雍州と同じ扱いが幽州
幽州は冀州を異民族から守るための重要な最前線だけど、大きな常駐兵力はなく、奇しくも劉備の友人である田豫・牽招たちが苦労して兵力をやりくりしながら維持し、問題が発生したら中央軍の派遣を待つというやり方だった
夏侯楙は曹丕の親友だからこその「名誉都督」で、問題がない平時の都督、司隷校尉や河南尹のような存在と推測される
保有していた兵力も限定的だからこそ、長安を動けなかった
それなり兵力があれば、曹真たちがそうしていたように郿に移動して長安を守る態勢をとっていただろう >>180
黄権と魏延の地位は時期が重複しない単純に交代
曹真と夏侯楙は同じ220年に同じ任地の都督に着任だよ
夏侯楙の都督は、能力に合わないし、実際の軍権もない名誉職なんだ >>183
夏侯楙は220年には中領軍で曹真や夏侯尚と同じ昇進コースに乗っている
バリバリに実戦をこなした夏侯淵の関中都督を継いだと書かれるのになぜ名誉都督なんだ?
夏侯淵時代から関中都督の権限が削られたというのならそれを裏付ける史料がいるだろう
夏侯楙を無能としながら兵力さえあれば曹真のように正しい判断を下せるというのも分からん >>183
何度も言ってるが大兵力云々はどうでもいいんだよ。長安が奇襲で逃げ出す程度の兵力しかいなかったはずがないと言っているんだ。
ある程度の兵力が長安にいて逃げ出せば処罰されるのに逃げ出す馬鹿がいるかよ。
論点そらしは論破の証拠と判断させてもらう。 >>184
皇帝即位の後に〜って書き方でもタイムラグが一年以上ある記述もあるわけだから任地が被ってるなら交代だと思うなあ
それに任地が被ってたとして曹真は雍涼都督だから雍州軍を連れて涼州で行動するのはいいとしても
関中都督がいるのにその後も雍州軍を東に連れ出すのは問題だと思うけど >>184
皇帝即位の後に〜って書き方でもタイムラグが一年以上ある記述もあるわけだから任地が被ってるなら交代だと思うなあ
それに任地が被ってたとして曹真は雍涼都督だから雍州軍を連れて涼州で行動するのはいいとしても
関中都督がいるのにその後も雍州軍を東に連れ出すのは問題だと思うけど >>185
兵力の話はどうなのか知らないけど、夏侯楙の出世は曹真や夏侯尚と違うと思う。
夏侯惇の子、曹丕のマブダチ、曹操の婿、清河公主の夫という立場がもたらした出世というこのスレの指摘は当たってるんじゃないかな。
夏侯儒と同じ。 >>189
曹操曹丕と親密なのは曹真夏侯尚も同じやん >>148
あの頃の長州藩すごいよね。
幕府との四境戦争では、高杉晋作と大村益次郎という軍事的天才の双璧を押し立てて、すべての攻め口で幕府を押し戻し、逆に石見銀山を奪取した。
こういう軍事的天才がいても、諸葛亮は使いこなせなかっただろうな。
楊顒に「丞相が細かな帳簿までチェックするな」と注意されるぐらい、他人に任せることができない性格だもん。
自分と同質なものがあると感じた馬謖に賭けることはできても、自分が認めていない相手のギャンブルは許さない。 >>191
失敗が目に見えている作戦を却下する事など当たり前。魏延策などギャンブルとすら言えない机上の空論。
これまでの議論で長安に少なくない兵がいたのは確実夏侯楙も皇族としての立場や都督という立場から逃げ出せば処罰されるので逃げ出す可能性は低い。
400キロの山道を無理矢理10日で踏破した疲れ果て攻城兵器も持たない5千でどうやって長安を落とせるのか教えてくれ。 >>192
高杉晋作の功山寺挙兵がギャンブルでないとでも言いたいの?
水戸藩の天狗党の失敗は知ってたろうけど
前例にあがらってまず藩内の敵対勢力を倒し
その後明治維新まで突っ走って
真っ先に駆けつけた伊藤博文は生まれは低くても初代総理大臣
そもそも軍事の素人で現地を実際に目にしてない人の語る
歴史のifなんてどれほどの意味があるんだろうって思ってるのですが
その辺から解説してもらえると有り難いです 魏延の軍事的才能が高いと言いたい場合、長安奇襲策は趙雲と合わせた陽動だったとかこの作戦をなかったことにした方が良い >>193
成功の可能性があるならギャンブルと言えるが失敗が確実ではただの自殺。
魏延案の問題点はすでに指摘済み。反論があるならそちらに答えてからにしてくれるかな。
時代も国も状況も違う事例を持ち出してなにが言いたいのか。何度も言ってるが論点そらしは論破の証拠と見なすだけだぞ。 >>195
出来ない理由を並べてなにもしようとしない人は取り残される
一方で出来るって精神論だけではなんともならない死の行軍が待っている
この辺のバランスは難しいとは思います >>193
軍事の素人でも400キロの山道を10日で踏破して滴の重要拠点を落とす事が不可能だとわかると思うけどな。
今はGoogleで地図も見れるし見れば険しさも分かる。当然そのような道で攻城兵器など運搬する事は難しいとわかる。
魏延案は夏侯楙が逃げ出す事を前提に立てられた策で逃げ出さねば全てが終わる。敵の無能と臆病に期待するギャンブルとすら言えない愚策だぞ。
違うと言うなら確実にとまではいかなくとも、なにかしら夏侯楙が逃げ出すという根拠を示してみろよ。 >>196
できない理由が多すぎて失敗が確実なら動かない方が正解だろ。動けば良いというものではないと理解できてる?
失敗してもリスクが無いならまだいいが失敗すれば魏延と精鋭5000を失い北伐のチャンスが潰える。分が悪すぎる割に損失も大きい。仮に成功しても長安が維持できるか疑わしい。ハイリスク・ローリターンの作戦を推すなら成功のビジョンを示してくれないかね? >>196
で結局魏延案の問題点は何一つとして答えられないという事でいいのね。
これを論破と言わずなんというのか? >>199
それについては宮城谷氏が既に述べている
宮城谷全否定ならもう語るべきことはない