魏延の長安奇襲策

レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
0001名無しさん@お腹いっぱい。2024/03/28(木) 22:06:02.38ID:ofiD2BDX0
蜀漢の第一次北伐における魏延が献策した長安奇襲は成功の可能性があったのか?
蜀漢が北伐を成功させるためには必要な作戦だったのか?
その是非を問いたい

0921名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 10:24:30.19ID:qLgjg2aI0
魏延と楊儀の対立は諸葛亮の後継争いじゃなくて個人的な不和からの対立でお互いに相手の言う事には従わないという話だろうね

北伐継続か撤退かという話も撤退を選択すると魏延は楊儀に従う事になるから拒否しただけで本気で継続するつまりがあったかは分からない
楊儀は諸葛亮の遺命を盾にこれまで自分を虐めてきた魏延への意趣返しをしてやろうという魂胆があったからこそ魏延の首を踏みつけるような事までやった

2人とも陳寿にはその最期を酷評されてしまう始末

0922名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 11:17:03.28ID:Ogdpjsn90
諸葛亮が出撃するたびに兵万人を請い求めてたのに北伐が建前で楊儀個人との確執だけで全軍を全滅の危機に晒すとか魏延バカにしすぎやろ……

0923名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 12:09:15.62ID:5tQAKyBB0
北伐やったとしても問題ないじゃん
北伐は諸葛亮が蜀に課した使命だし、蜀の存在意義
実際、蔣琬も北伐再開しようとしたし、姜維に至っては蜀滅亡するまで国力を傾けた
北伐に反対した費禕が裏切り者なだけだ

0924名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 12:24:02.86ID:8WMqeY/g0
>>923
丞相府が解体されるのにそのまま戦い続けるのは無謀すぎる

0925名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 14:10:04.81ID:5tQAKyBB0
丞相府解体と言うのであれば、丞相長史ではなくなった単なる綏軍将軍でしかない楊儀と、丞相司馬ではなくなった中護軍・偏将軍の費禕、それに護軍でしかない姜維は、前軍師・使持節で北伐軍最上位の将軍である魏延に諸葛亮の遺命を渡し、そのうえで魏延の判断を受けるべき

0926名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 14:35:16.17ID:oZtEoEQc0
丞相・録尚書事・領司隷校尉・領益州牧・使持節鉞で蜀漢の群臣最上位の諸葛亮の命令を守ればよい

0927名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 14:42:50.37ID:5tQAKyBB0
死んだ人間より生きている人間が優先
実際、費禕は諸葛亮の北伐遂行命令に従わなかったじゃん

0928名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 14:47:52.18ID:oZtEoEQc0
撤退命令は生きてるうちに出されてるんで

0929名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 15:15:56.33ID:FmS7JjMl0
>>923
北伐ができたのは劉禅が諸葛亮に全権委任に近い形で権力を与えていたから。その体制が無くなるのに同じように北伐が継続できるはずがない。
その程度の事も理解していない魏延が愚かすぎる。孫権は魏延を牧童だと評したがその見識は正しかった。

0930名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 15:19:27.51ID:FmS7JjMl0
>>925
諸葛亮が死んだら即丞相府が解体されるとでも思ってるのか🤭

0931名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 15:20:54.47ID:FmS7JjMl0
>>927
諸葛亮はなにがあろうとも北伐を決行し続けろという愚かな命令は残していない。

0932名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 17:29:46.58ID:/aUa2QjO0
>>929
魏延に親兄弟でも殺されたのか?

0933名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 18:14:33.60ID:FmS7JjMl0
>>932
実際に魏延以外の蜀将は諸葛亮が死んでは北伐の継続は不可能だと理解していたので誰一人として魏延に従わなかった。
魏延信者の頭は魏延レベル。1800年前の人間と同レベルって🤭

0934名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 19:17:48.22ID:5tQAKyBB0
>>933
「誰一人として従わなかった」ってアホか
費禕の時間稼ぎの間に楊儀が撤退命令出していたので、魏延が気が付いた時には、すでに諸将は撤退に入っていた
従うも何も魏延は他の武将と連絡を取っていない

0935名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 20:24:14.40ID:FmS7JjMl0
>>934
誰とも連絡を取らずに一人で北伐を続けようとした魏延の愚かさの証明ご苦労さまです🤭

0936名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 21:29:24.96ID:/VW5rTeb0
初期の羌や周がインドヨーロッパ人であったという場合、その根拠は、言語の痕跡や始祖伝説であるが、初期の羌や周に二輪馬車の戦車部隊をもたらしたのは、周や羌のいた謂河流域の陝西や羌がいた黄河上流域の甘粛に隣接したタリム盆地に都市国家を建設していたトカラ人であった。

0937名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 21:46:50.08ID:FmS7JjMl0
>>936
なにそのトンデモ説。
周代に中国に来れるヨーロッパインド人など極少数で羌族と呼ばれるほど多くが来れるはずがない。
中国の西は険しい山脈だと知っているのか?

0938名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 22:14:08.98ID:/VW5rTeb0
だから、そうだとすれば、甲骨文字は、古代メソポタミアの楔形文字の遠い影響を受けて誕生したものであるとともに、武丁の個人的な問題という偶然・臨時的な事情から誕生したものであったが、例えば、記録や伝達の正確性、または、新しい文字を作り出すことによる言語の意味の拡張という点で有効だったので、その後も、引き続き使い続けられていったのだと考えられる。

0939名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/11(土) 22:53:08.35ID:WImxHbZT0
>>938
だからもクソもそうだとすれば、の部分がありえないと言っているんだよ。漢字の原型の象形文字の変遷すらわかっているのに楔形文字の入ってくる余地がない。
そもそもいたとしても極少数のインドやヨーロッパ人にそこまでの影響力があるはずがない。

0940名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/12(日) 00:40:26.49ID:kqHtY0tN0
>>937
古代の中国人は中国で発生し進化したとでも思ってるのか?人類の祖はみんなアフリカなんだよ、以前は時間をかけてゆっくりと世界に広がったと考えられてたけど近年では移動の速度は割と速かったことが分かってるし遊牧民は草を求めて移動して回るし羌族がインド・アーリア系と同祖だと言うのは有り得る

0941名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/12(日) 09:21:07.02ID:X+svqbxP0
>>940
インドやヨーロッパから文字に影響を与えられるほどの人がやってくるなどあり得ないと言ってるんだよ。
そもそも漢字の成り立ちなど象形文字の変遷すらわかっているので楔形文字の入り込む余地など無い。
白川静先生の字統でも読んできな。

0942名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/12(日) 11:11:54.13ID:kqHtY0tN0
>>941
言語はあっという間に塗り替えられてしまう。韓国のハングルやアルファベットがベースになったベトナム語を見ても分かるだろ。少数の天才がリードしていく世界だ。

0943名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/12(日) 11:23:58.03ID:X+svqbxP0
>>942
んな訳無いだろ。古代のネットもテレビも無い時代と近代を一緒にするな。言語がそう簡単に塗り替えられる訳が無い。適当な事を言い過ぎ。

0944名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/12(日) 11:25:59.68ID:zt9kmtQX0
「高宗は在野にて久しく経験を積み、人民とのつきあいもあった」が、「王に即位すると「亮陰」三年の間言葉を発しなかった」

0945名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/12(日) 11:59:08.41ID:kqHtY0tN0
>>943
言語自体のことを言ってるんじゃない、言語の表記のことを言ってるんだよ。西夏文字とか漢字文化に接して色々拗らせちゃった感あってなんでこうなっちゃった?ってとこあるだろ

0946名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/12(日) 19:36:13.88ID:kqHtY0tN0
>>945
西夏文字についてはあんなのとても西夏の庶民が使っていたとは思えず、作った当人、作らせた偉い人が「どうだ、俺たちゃ漢字よりも複雑な文字使いこなしてんだぜ」って自己満足に浸りたかったのか、あるいは文字はこうあるべきって拗らせすぎたのか、その辺については興味がある。

0947名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/12(日) 20:42:59.02ID:kqHtY0tN0
>>943
ハングル誕生時にネットやテレビ使い放題だったならすごいな

0948名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/12(日) 21:14:05.80ID:XwVJMkTG0
>>923
「北伐こそ漢の存在意義。それをやめたら蜀という名の地方軍閥にすぎない」が諸葛亮の思想なのであれば、費禕は獅子身中の虫だよな。

後主伝によれば、蔣琬は数カ月もかかって北伐反対派の費禕を説得した。
しかし、漢中の蔣琬が病に倒れると、尚書令として蔣琬不在の朝廷を北伐中止でまとめ、漢中で療養中の蔣琬を計画中止で言い渡した。
蔣琬伝では「諭(す)」という言葉を使っているから、病床の蔣琬は勅命を振りかざす費禕に反論・抵抗したのだろう。
また、自分が軍権を握ると、姜維には十分な兵を与えず、その軍事行動を制限した。

費禕が大将軍となったのは243年。
246年からは蔣琬がいない独裁政権となったのに、247年に姜維へ録尚書事の職が与えられ、大将軍府の開府は252年まで認められなかった。
蜀の中が北伐派と反北伐派に割れていたのかもしれない。

魏延が、調子のよい費禕にだまされ、楊儀の徴発に反発することがなれば、蔣琬・姜維ら北伐派の仲間として活躍できたのだろうか。

0949名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/12(日) 21:18:21.68ID:XwVJMkTG0
それにしても、魏延をだまし、諸葛亮が死んだ途端にその遺志に背き、病床の蔣琬の気持ちをくじき、姜維を押さえつけ、張嶷に諫言されていたのに酔いつぶれて郭循に殺された費禕って、能力はあってもろくでもない奴だよな。

費禕の享楽的で退廃的な性格が、劉禅に悪影響を与えたのは想像に難くない。

0950名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/12(日) 21:33:12.65ID:6ClmJ7SJ0
悪い見方をすると費禕は告げ口要員なんだよなw
諸葛亮、蒋琬は教科書に乗るようなきっちりし過ぎた人格者で自分の立場を守るよりは自分のなすべき責任に対する義務感が強そう
費禕はそれなりに自分の立場が悪くならないようにしつつ多数派に乗りながらライバルの足をたまに引っ掛けていく感じ

姜維は諸葛亮、蒋琬とは少しタイプは違うけどかなり真面目過ぎるところは似ている

0951名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/12(日) 22:43:33.38ID:XwVJMkTG0
そういえば楊儀を告げ口で陥れたのも費禕か。
魏延と楊儀の間を取り持ちつつ、結果的にはどっちも蹴落としたんだよな。

0952名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/13(月) 00:39:05.41ID:dmY37VUv0
姜維と張翼との関係性が好き。何かと暴走したがる姜維を抑えながらも最期は「姜維の策とは、いつもこうだ」なんてヤレヤレ感満載ながらずっと姜維を支え続けた張翼はいい人。楊儀と魏延とか相手の裏をかいてやろうなんてあくせくしてる連中に見習わせたい。

0953名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/13(月) 21:09:33.34ID:i2axO71l0
張翼は、融通が利かずコンプライアンスに厳しいせいで、南蛮が反乱を起こされてしまい、都督をクビになった
それでも、後任者が来るまで仕事をないがしろにせず、諸葛亮に絶賛された張翼は、諸葛亮に通じる生真面目さをもった学級委員長タイプ

一方、同じ法家系の官僚でも、楊儀は陰険なやり方でライバルを蹴落とし、自己の利益を追求した秦の李斯に似ている

0954名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/13(月) 22:37:53.58ID:hmUUdpRE0
楊儀は関羽の元に来てすぐに劉備の方に使者として出されてるから関羽も嫌ってたりして
劉備も一時は気に入ったけど劉巴と喧嘩して左遷されたしどこ行っても嫌われ者
でも陰険なやり方でライバルを蹴落としたことはないだろ?

0955名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/13(月) 23:42:45.84ID:EoFRfOEO0
楊儀容疑者
何となく言ってみたかった

0956名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/13(月) 23:59:42.80ID:r8i1iV/k0
告げ口魔費禕

0957名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/14(火) 01:52:37.24ID:qplAKp460
(´д゚lllノ)ノ ヒイィィィ!!

0958名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/14(火) 04:04:41.68ID:4ZjEMNo/0
人とサルの違い

0959名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/14(火) 04:05:01.49ID:4ZjEMNo/0
楊儀ははめられた

0960名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/14(火) 07:53:14.90ID:qplAKp460
諸葛亮 北伐に反対のくせに、立身出世のため面従腹背する費禕
李厳 罷免の発議に費禕賛成
劉琰 魏延との争いに費禕仲裁せず
魏延 楊儀の魏延抹殺の企てに参加し、魏延をだます
楊儀 ちゅっとグチを言っただけなのに、費禕に告げ口され流罪
蔣琬 蔣琬不在の朝廷で宗論を尚書令として北伐反対に傾け、諸葛亮の遺志を継ぐべく病身で頑張る蔣琬の努力をぶち壊し
姜維 同じ録尚書事としてライバルの姜維が功績を立てないように、費禕が兵力を制限
劉禅 費禕は董允のように劉禅に諫言するどころか、享楽的な生活態度を見せつけ、バカ殿化を加速

0961名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/14(火) 11:57:11.57ID:WXGZh9kg0
>>960
穿ち過ぎ

0962名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/14(火) 15:06:11.51ID:4ZjEMNo/0
標準処理期間

0963名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/14(火) 15:16:30.98ID:4ZjEMNo/0
命令等を定める場合の一般原則

0964名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/19(日) 13:10:27.68ID:0ce7UXgN0
>>281
> 先主復領益州牧、諸葛亮為股肱、法正為謀主、關羽・張飛・馬超為爪牙、許靖・麋竺・簡雍為賓友。
> 及董和・黄權・李嚴等本璋之所授用也、呉壹・費觀等又璋之婚親也、彭羔又璋之所排擯也、劉巴者宿昔之所忌恨也、皆處之顯任、盡其器能。
武官トップ3が関羽・張飛・馬超、賓客トップ3は許靖・麋竺・簡雍、諸葛亮・法正を除く文官トップ3が董和・黄権・李厳という並び順からみても、黄権は李厳より上位の扱い。
黄権が夷陵の戦いで帰還できていれば、諸葛亮の後継者は蔣琬でも李厳でもなく黄権だったろうな。

0965名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/19(日) 13:28:50.54ID:0ce7UXgN0
>>525
>黄権とか敵陣の呉の真っ只中で見捨てられて魏に亡命とか美談だけど

この地形で、夷道から巫まですでに呉軍が充満しているのに、峡谷を出た荊州側北岸に展開している黄権が帰れるわけもない。

  峡谷■■■■■■■■■■■■■■■■■
                夷陵
益州   永安 巫 秭帰 信陵        江陵
                  夷道
  峡谷■■■■■■■■■■■■■■■■■

自分ひとりならともかく兵たちもいるので、呉に降るぐらいなら・・という選択肢しかなかった。
呉に降った蜀将は誰もいない。
傅彤・程畿もそうだし、零陵で反乱を起こしてかつての同僚の潘濬に討たれた習珍も投降を拒んだ。
呉に降った杜路・劉寧は蛮族の指導者で、蜀将じゃない。

0966名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/19(日) 13:49:15.18ID:LbYanI1a0
>>964
年齢的に黄権は諸葛亮とほぼ同じぐらいで李厳より年上かな
諸葛亮、李厳、蒋琬は荊州人グループで黄権は巴西出身の益州人グループ

黄権は220年に光禄勲、
李厳は222年に尚書令、223年劉備死去劉禅即位で光禄勲を追加され仮節を受ける

220-222年の序列としては黄権が上だね
ただ出身地や劉禅との関係だと留守政府長吏の蒋琬が劉禅期には信頼されていたかなあと思う
まあ黄権が魏に降らず南蛮平定、北伐など外征に従軍せず成都にいたらまた劉禅との関係も近くなっていたかも知らないけど
ただ劉璋、劉備時代のキャリアからして蜀に留まっていたら北伐には漢中の丞相府参軍として従軍していただろうから姜維のように軍司令官として漢中にいる事の方が長くなりそうだけどねえ

0967名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/19(日) 16:41:56.82ID:EHvjSiZT0
え、てことは孔明は李厳より年上なの?、とウィキ見ると不詳なのか。
李厳は208年に県令、若すぎる気がする。
そんなに毛並み良いのか、とウィキ見ると親類のコネがない...

0968名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/19(日) 17:09:31.29ID:NJbVxtu20
181年生まれの孔明が李厳より年上で李厳が182年生まれだとすると
李厳より二十数歳年下の費観は213年に十歳前後で李厳の参軍になったことになるから
孔明は李厳より年下でしょ

0969名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/20(月) 01:47:41.44ID:pBmJDB1r0
宮城谷三国志では黄権の評価が高くて軍略については諸葛亮以上。
人柄もいいし蜀は惜しい人材を失った。

0970名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/20(月) 10:03:41.87ID:2833OYoN0
曹丕の魏に行ってからも孟達のように孤立せず曹叡時代も順調に出世して車騎将軍・儀同三司にまで登り詰めたからね
魏に降ってからの功績は不明なので出世の要因も不明だけど
曹丕から曹叡への代替わりが起きた時に孟達の蜀への帰参という事態もあった後の話だから二の轍を踏まないように降将優遇を見せつけて蜀や呉から同じ様に魏に降った将軍を残材にはしませんよっていうメッセージを含んだ人事だったと思うけどね

0971名無しさん@お腹いっぱい。2024/05/21(火) 22:40:05.90ID:dVF377GT0
>>969
諸葛亮より上というより、諸葛亮は戦術家としては凡庸、戦略家として上の下ってとこだろう
黄権や法正、龐統、馬良などがいれば、内政に専念したんじゃないかな
あるいは、李厳が野心を見せなければ、李厳に任せたかもしれない
なお、士大夫ではない魏延は、しょせんは駒に過ぎないので、後継者とは思わなかった

馬謖や姜維への極端な贔屓も、軍事に自信がないことの表れだろう
だから、死を前にした劉備は、諸葛亮に軍事を任せず、李厳を軍事の統括者に指名し、さらに馬謖の扱いに注意した

新着レスの表示
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
レスを投稿する