石田三成の挙兵 ★10
石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。 前スレのURL入れるとスレ立てできなかったので誰か書いてくれ >>6
信者w
誰が好きとか嫌いとかどうでもいいから他でやってくれるか 三成には殆ど選択肢が無いのよね。即座に家康に取り入ったとしても西軍に佐和山攻めされたら打つ手は無かったろう。せめて重家を秀頼ではなく家康に近侍させて貰うべきだった >>9
それ石田は首謀者ではない説の場合の話?
だとすれば、兵6000で佐和山籠ってればいい。
そう簡単には落ちん。
史実に近い展開なら8月上旬に前田の後詰が来る。
下旬には東軍先発隊。
佐和山〜瀬田の南近江で決戦になると思う。 西軍がわざわざ佐和山攻めをする意味あるか?
史実と同じく、普通に瀬田に防衛線を引いて伊勢進出でしょう。 ふと思ったんだけど、上方からの石田大谷謀反の知らせ。
大事を取って上杉征伐中止はいいけど、
ほんとに石田と大谷だけの謀反なら
上方にまだいる上杉征伐軍と前田毛利宇喜多で
簡単に鎮圧できると思うんだが。
そんな勝ち目のない謀反をする理由も不可解。
もし石田が巻き込まれただけだとするならば、
佐和山籠城、家康に弁明でいけると思うが。 大谷吉継に城を巻かれてる状況な上籠城した瞬間に謀反確定で大坂の豊臣軍にぶっ殺されて終わり
ついでに大坂の嫡男重家も殺されるし >>13
大谷って兵2500くらいでしょ?
佐和山完全包囲するには兵が少ないと思うが。
脱出しようと思えば脱出できる可能性はそれなりにあると思う。
石田がどれくらい佐和山に兵在番させてるかわからんが、
もし1000もいるなら大谷の2500で佐和山は落とせんだろう。
500くらいだと微妙なライン。 三成は真田のなぜ事前に挙兵のことを知らせてくれなかったという抗議に対して
7月末書状で内府が大坂にいるうちは諸将の心測りがたく
知らせられなかったといったようなこと言ってるからね
家康6月16日大坂発以前にすでに挙兵計画はあり巻きこまれただけというのは
どうかと、あと7月15日上杉景勝宛島津義弘書状をみても三成は首謀者グループの
一人とみるのが妥当
巻きこまれたのであればこれはX殿の企てで某は最近加担したといってもよいし
此度の企てかねて知らすべきだったが、その暇なく(最近急遽決まったので)
定めしご不審に思われたでしょう、御立腹は尤もですと浅野内匠頭しても
よいだろう。 >>15
> 浅野内匠頭しても
かくして後難を恐れた豊臣公儀は理不尽にも石田内匠頭を切腹させた。
のちにこれを不義として起った大谷内蔵助らによって徳良内府介は討ち果たされるのであるが--、
それはまた別の物語である。
完 内府違いの条々出されてから2週間も時間置いてるから西軍決起計画を知らなかったんだろ。知ってたら即日にでも書状送ってるわ まあ、家康が輝元を甘く見ていた感はある
あの時点の家康に毛利対策なんて取りようもないけど なんかだんだんほんとに三成が悪いような気がしてきた
決戦なんかすべきじゃないじゃん
京都大阪方面に行かれても、うしろをついて行けばいい
輝元が出てきたら挟み撃ちになるじゃん 決戦なんかしてないよ。
逃げようとしたら後ろをついてこられてしょうがなしに迎え撃ったら瞬殺されただけ 三成は徳川との連絡口を持たないから弁明なんか出来ないだろ。三成は秀吉の命令で家康との通信を禁じられていたらしく三成・家康間の書状は全く無い。だからそもそも誰に連絡すりゃいいのかわからん。手続き無視して江戸城に使者を送るしか無いが口添えも頼めないから信じてもらえるか不明、その間豊臣軍相手に戦争なんか出来るわけない。豊臣を見捨てて徳川に全ツッパする為の石田重家は大坂にいるし >>21
というか家康から三成に近づいた形跡もないんだよな
宇喜多秀家については、慶長5年8月18日付明石全登宛戸川達安書状で、家康が秀家の息子を自分の婿に迎えると言ってる、
とかあるから、秀家はある程度家康から重要視されていたみたなんだけどな >>17
家康のいる場所を考えて
奥州の手前にいる家康が何で大坂の状況を即日、あるいは2、3日で知れるのか
7月30日付真田昌幸宛石田三成書状見てもわかるけど、使者について書かれてる時点で当時は連絡に時間がかかるんです 三成から徳川に連絡できないてことはないだろう
私信を出すわけではなく
疎遠であっても公事であれば井伊,本多忠勝、榊原、村越、永井など宛に
書状を送ればいいだけ。
人脈で言っても親友の真田信之を介してもよいし、
その岳父の本多忠勝に直接でもよい、真田信之宛三成書状に
『先日は約束の鷹をいただき、こちらからすぐに連絡するべきなのに、ひどく疲れていて遅くなりました。
さても見事な鷹をいただき、ありがとうございます。
昨夕もお尋ねくださったそうで、私もお会いしたかったですが、秀吉様御わずらいにより宿へ帰る暇もありませんでした。
本多忠勝殿もお尋ねくださったとのことですが、このような次第でお会いできませんでした。
どうかお察しください。謹言』と秀吉生前に本多忠勝が三成屋敷を訪問したことがあると
わかるし、別の書状でも『本多忠勝殿へすぐ返事を出すつもりですが、
もしも忠勝殿から返事のことで問い合わせがあれば、
(信之殿から)すぐに返事を出しますと言っていたと伝えてほしいです。』
とあり本多忠勝が三成に書状を送り三成が返書を出す予定であることがわかる。
本多忠勝が関が原後捕縛された三成を大津城内牢に訪れたという逸話も
史実かどうかは分からないが元々交流はあったことがうかがえる
他に七将騒動後佐和山まで三成を警護し謝礼としてもらった刀を終生自身の差料とした
結城秀康を窓口にしてもよいだろう 三成巻き込まれ的従属者説は三成の行動が10日ほど不明の一点だけが根拠で史料上にある三成も首謀者の一人であるという書状などは欺瞞で片づける乱暴なものだから基本的に議論にならないのよね >>21
>三成は秀吉の命令で家康との通信を禁じられていたらしく
これ初耳だけどソースぷりーず
確かに三成と家康の双方で直接やり取りされた書状はないけど連絡手段を持たないはあり得んね
上でも挙がってるけど真田家文書の二通の真田信幸宛三成自筆書状で本多忠勝と交流があったことが確認できるし窓口はある そもそも三成は少なくとも7月初めには西軍挙兵の謀議に参画していたと見ていいのでは?
吉川広家が「去る七月、安国寺佐和山に罷り越され候て、石治、大刑と相談を遂げられ、如何御座候つるか、忍び候て
大坂罷り下られ候」とあるし
12日に三奉行から毛利輝元に書状が出されてることから、7月のかなり早い時点で謀議が開始されていたと見てよいと思う
つまり三成は明らかな首謀者 三成と家康の間には公的にも私的にも一切の交流が無い(三成は家康との交渉で奏者になった形跡が無い)これは異常な事で個人的な感情で取れるものじゃない。光成氏は「二人の没交渉は、家康を牽制しようとする秀吉の意図に基づくもの」と指摘している。秀吉は敢えて三成と家康を近付けさせなかった。となれば三成は徳川との取次口すらも知らなかった事になる
だから三成が家康と会うのは伏見城・大坂城で公務もしくは偶然しか無かった。それで三成が秀吉の目を掻い潜って作った家康との連絡口が「三成⇄信幸⇄忠勝⇄家康」という方式なんだがアングラ故に通信強度は低い。三成もかなり気を遣って書いてるので家康と通信していたとは一切書いてない(忠勝に書状を送るので「かの方」からお尋ねがあったらそう答えてくれ、とあるだけでかの方が誰なのかは不明) >>28
よく読め
真田家文書の三成書状は家康と通信してたことを示すものだったとは言ってないぞ
本多忠勝と交流があったわけだからいざとなれば忠勝が窓口になり得るという話だぞ
(年未詳)7日付真田信幸宛石田三成書状
「御札并中書返書拝見仕候、すくニ中書へハ此方ゟ返事可申候間、もしかの方ゟ
その返事の事おたつね候ハヽ、此由被申候て可給候、明日ハやとへ可帰候間申可承候」
あとなんか勘違いしてるみたいだけどかの方=本多忠勝だからな
信幸の書状と忠勝からの返書を拝見した。すぐに忠勝へは返事をするつもりだが、もし忠勝から
返事の件についてお尋ねがあればすぐに返事をすると信幸より伝えてくれと三成は言ってるんだよ >>28
調べたら確かに光成氏は渡邊大門編『家康伝説の嘘』で「最初から家康は石田三成と
仲が悪かったのか?」という論説を寄稿していてそういう旨の発言をしてるみたいだね まあ調べるとわかるけど三成は領内経営などで超有能な人物で秀吉に重宝され
遠くは朝鮮、奥州、九州など各地に出張してるからね、ドラマのようにいつも
秀吉の側にいるわけではなく不在のことが多い、
むしろ家康や利家の方が秀吉側近ではないかと
勘違いするくらい近くにおり、仕事上で接点のない大名と私的交際が希薄でも
不思議ではない
秀吉生前で両者の交流とまで言えるかわからないが確認できるのは
島井氏年録の文禄2年5月8日分に三成と家康、増田長盛・大谷刑部らが集い、
源平盛衰記について語り合ったという記述がある。家康の愛読書が吾妻鑑で
あることは周知のとおりで話が弾んだのではないだろうか
ただ石田、増田、大谷と小西行長はこの日は朝鮮に渡海中で明国の使節(偽使節ではあるが)
を伴い名護屋に帰国したのは5月13日、4人は5月24日に朝鮮に再渡海するので
国内滞在は10日あまりでこのうちのいずれかの日の誤りかと
あと秀吉生前に蒲生騒動の件で家康と三成がことをなるべく穏便にすませるため
協力しあったことはあり公的に接点が皆無というわけではない 現実として史料に全く残ってないからな。城で偶然会うなら兎も角 秀吉逝去1年後の1599年9月に上坂した家康に三成、正澄兄弟は大坂屋敷を
宿泊所として提供しているし
看羊録によれば家康暗殺計画を家康に密告したのが
三成でその後、家康の依頼により前田利長上洛阻止の為に三成と大谷は
道筋に兵を配置(三成家来と大谷吉継養子吉治の兵を合わせて千人、
出兵の件は島津家の記録にもあり史実と思われる)などしているので
翌1600年家康に連絡するのはそれほど困難ではないかと 大谷吉治と三成の内衆千人を越前へ出兵させる件は(慶長4年)9月21日付島津忠恒宛島津義弘書状にある記述だな
「今度於大坂内府様天下之御仕置被仰定候ニ付、いかやうの子細候之哉、羽柴肥前守殿当時賀州へ在国候ヲ、無上洛様にと被仰下候、
自然強而於上洛者、越前表にて可被相留之由候て、刑少殿の養子大谷大学殿・石治少之内衆一千餘、越前へ被下置候事」 >>30
黒田氏がそう訳さない理由は「本多忠勝が石田三成の屋敷をアポなしで訪れる理由が無い」からだろうな。だから忠勝は「かの方」の意を受けて三成を訪れてるのであって忠勝自身の交友とは別件ということ。実際三成と忠勝って接点あったっけ捕縛された三成に頭を下げたって逸話はあるけど >>36
なにいってんだw
中書に書状送ったから、あっちからなんか言ってきたらよろしくね
こうとしか読めない そうも読めないが・・・
正解は24と30が書いてくれている 結局どうやったら西軍は勝てるの?
挙兵からどうやったら西軍は勝てるのだろうか?
あるいは挙兵せず、徹底的に家康に対する暗殺テロをやるべきか? >>40
小牧長久手の再現狙いからの勝ちに等しい内容の和睦。 >>41
そこまで戻らないとダメなの?
せめて毛利輝元の挙兵からにして そもそも三成が真田に宛てた8月の手紙であれだけ楽観視した内容を書き連ねているということは、
三成には何か勝算があったんじゃないの?
書状におけるポーズという意見もあるけど、「真田らは袴をはいて関東に乱入できる」とか
「家康は2、3万の兵で上洛するつもり」とか、どう考えても三成の自信の高さがうかがえる内容になってる >>44
ポーズにしては余りに内容が酷すぎる
楽観視しすぎてる
こちらが有利だとかいう程度ならわかるけど、まだ交戦もしてないうちからあんな
書き方してるんだぞ 8月頃なら楽観的になれたでしょ
そういう気分は22日に岐阜城が攻められるまでだろうね >>46
そういうもんでしょ他と比べても別にむごくない。 まだ戦ってもないうちからそういう油断するようなら、どのみち先は見えてたってわけか…… 油断と言うか単なるポジショントークでしょ
三成に限らず誰でもやってること
額面通りに受け取り過ぎ あれがポジショントークね……
長篠前の勝頼と同じだな
そうだねそうだね 君みたいに真に受ける人間がいるのだから
嘘・大げさに書く意味があるわけだね 前から居る連投君はASD濃厚
客観的に物事を見る能力が無いんだよ 西軍首脳全体にいえるけど「人質とったから大丈夫ですよ」という楽観というか、セールストークそれしかないんかいというか
当初は瀬田~淀まで防衛ライン下げてるんだよね そやね、どうも有る程度本心で公儀として日本中の大名の人質取ってるから
會津に東下した諸将も相当程度味方にできると期待してたようやね
ある程度の大名が離反したなら家康のもとに留まってる将の人質を
殺すぞと脅迫材料にできるが、誰も離反しないんじゃまさか皆殺しに
するわけにもいかず効果なかったね
効果があったのは妻蒲生氏が心配で西軍に対する再出兵できなかった
前田利政位か
逆に家康が大坂より妻を人質解放した京極高次、前田利長、真田信之、
富田信高(軍記物によれば阿野津城で奮戦、真偽は不明)は奮戦しており
この策は功を奏したといってよいだろう。 加藤清正 佐藤京一
福島正則 岩尾正隆
池田輝政 峰蘭太郎
浅野幸長 藤沢徹夫
加藤嘉明 木谷邦臣
脇坂安治 細川純一
藤堂高虎 疋田泰盛 >>40
イフを語る奴って頭悪そうに見えるから止めた方がいいぞ >>37
研究者はそう考えてないってこと。素人とはやはり違う見識を持ってるんだろう。どのみち三成には家康とのパイプが無い事に変わりは無く緊急時に助けを求めるなんて出来なかったのは確定的だが >>46
三成が書状で楽観的な書き方してるのは幾つか理由があるだろ。まず実際に徳川を圧倒してるということ。少なくとも徳川の軍事行動は停止している訳で楽観論が出てもおかしくない。戦況が一気に悪化したのは八月二十四日以降だから
次に真田を味方に繋ぎ止めるには西軍に勝ち目ありと伝え続ける必要がある。対徳川で考えると真田領は最前線な訳でそんな危険な立場を承知で西軍に味方してくれてる真田昌幸に下手なことは伝えられないよ >>60
8月上旬はまだ美濃衆は西軍に付く最中だし、中旬には福束城で大敗北を喫している。
美濃衆が順調に味方しており木曽も視野に入ると言うならまだしも、
ちょっと情報集めれば分かる程度の大法螺を書き続けるのが本当に作戦か?
そりゃあそんな大事ならなんで早く連絡しなかったと真田が怒るのも当たり前だわ。 聞く方にも知能がそれなりに必要なのがよくわかる事例 似たようなものだろ
風呂敷広げる側と差し引いて聞く側
要らない事は言わない >>67
そして風呂敷広げていく側がだいたいやらかす。
自分でできもしないのに、出来ますやれます余裕ですって仕事取ってきて、実働部隊が悲惨な目に遭う。
確保してあるという戦力とやらは、口約束だけだったり素人のみだったり。
やべ、石田三成が、だんだん会社のあいつに見えてきて◯意が湧いてきた……。 桃山安土政治外交史
伊藤乏雄「環日本海の国際秩序の模索と日本」 三成はじめ奉行が本当に忠臣というならば、自身の身を挺して家康と刺し違えるべきだったな
正面から渡り合って家康に勝てるわけがない
横綱と十両くらいの力、経験、器量の差がある >>71
あのね、奉行達は自分たち中心とした『合議制で政権運営』がしたいの
最大目標は家康殺害じゃないの、政治的に徳川排除が可能なら家康を殺す必要すらないの
自分らで全国政権運営したいのに、その為に死ななきゃならんなんて本末転倒でしょ?
差し違えの大前提が成立しないってのを理解しようよ つまり5年前には構想していたいずれ関白となる秀頼を主君として
小西行長、石田三成、増田長盛、大谷吉継、宇喜多秀家の5大都督
が国政を司り、大大名以下の諸侯も従うという理想の政治体制に
近いものを目指していたということだな >>72
>>73
それで担ぎ出すのが毛利輝元ってどうなのよ?
毛利勢5万人がいなけりゃ戦いにすらならないだろうけど、
毛利だって馬鹿じゃないから利用されるばかりじゃない。
勝っても第二の徳川家康になるだけだ。
毛利だって亡命政権とはいえ、一応幕府を運営した実績あるからな? 現に担ぎ出したんだからな
徳川止めなきゃどうにもならんって判断だったんだろ >>74
自分らが政権運営における上位存在になれればいいわけだから、そこは問題視してないのでしょう
毛利がでかい面するなら上杉がいるし、没落した徳川や前田に『奉行が命じて』討伐する方法もある
要は大大名を『奉行が豊臣政権の名の元に』討伐を続けることで勢力を削ってコントロールできればいい
これなら奉行の権威は増大し、大大名は力を失って豊臣政権の権威は高まる、理想的な展開になる訳だ
ま、現実的に考えてこんなご都合主義全開な方法が上手くいくとは到底思わないけど >>61
まず三成自身が西軍の決起計画を知らなかったので情報も相応のものだったんだろう。だが実際八月十日まで戦況は西軍が圧倒的に優位だったのも確か。伏見城は落ちてるし西軍は伊勢方面を制圧しつつある。対する徳川は動いてない >>0055
石田三成の人質作戦は、家康側に味方する大名を増やすことよりも、中立を保たせることを目的としていたと考えられます。実際、上杉景勝のように中立を貫いた大名も少なくありませんでした。人質の殺害は最終手段であり、積極的に用いることを考えていたわけではありませんでした。むしろ、人質の存在によって家康側に心理的なプレッシャーを与え、戦局を有利に働かせようとしていました。
一方、家康が人質を解放したことが、京極高次、前田利長、真田信之、富田信高たちの奮戦に繋がったという確証はありません。彼らは自身の領地や家を守るために戦っていた可能性が高いです。 >>78
三成の最終的な人質への考え方はこれな
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-3/37/0006?m=all&s=0004&n=20
「下ゝ」や「諸侍」があーだこーだ言っているのを報告するという体にしてるが、敵方の人質の何人か○せ、なんだよ
まあこの文書が真だと仮定した場合だが 9月12日の三成書状は当時使われてない言葉がとか宮島という地名はとか
他の三成書状と比べて違和感があるとかで偽書説も根強いね
ただ原本が残っていないということは写本ということだが
何人もに書き写されているうちに写し間違えたり当時の言葉に置き換えられたり
写し手が自身の考えを入れて加筆、改ざんされている可能性もある
例えば直江状は多くの人に書き写されているがいちばん古くさかのぼれるのは
1640年頃のもので後年書き写されているものと大分文章が変わったり
追記部分の家康に来るなら来いといわんばかりに啖呵を切っている下りは
古いものには見当たらず面白可笑しく加筆されたものとみられている。
ただだからと言って直江状は本物というわけではなく
当時の状況をよく把握しているのは上杉家の当時の状況をよく知っている人間が
当時の上杉の強硬姿勢は直江のせいとして上杉家を守るために
作成されたのではないかといわれている。
直江が石田と組んで蒲生氏郷を毒殺して会津を手に入れたとか
東西呼応して挙兵したという捏造話も同じ趣旨
三成書状は当時の状況をよく把握しており加筆改ざんで元々の書状と
変化している部分があるも、現在残っていない元となる三成書状が
存在した可能性も排除できないのではないだろうか 原本が残っている吉川家書状ですら、釈明のために色々誤魔化して書かれてると言われるんだ。
写本、特に負けた側の写本なんてどこまで信用できるか。
まだ無責任に市中の噂話を書き留めたもののほうが信憑性あったりすることもある。 さすが自称専門家さん
石田三成の忠義が全く分かっていない
あのままいけば大奸臣・徳川狸守家康に豊臣家は間違いなく簒奪されていた
その奸臣を討つために立ち上がった三成の忠義がわからないとは
家康の奸臣ぶりは、豊臣の蔵入地を勝手に分けたり、無断婚姻したり、前田を謀反人にしたりしていた点でも明らか
家康は糞 >>80
前にも言ったが白峰氏が当時の用語としては不自然だと指摘する9月12日付三成書状
にある「宮島」や「はいくん(敗軍)」は当時の書状でも散見されるんだよな
「ちゝミたる」や「遠慮深く」なんかは確かに当時見ない表現だけど
・宮島
(天正9年)5月16日付重富新五郎宛吉川経家書状
「屋形様従宮嶋御下向候者、則被仰達可然候」
・はいくん(敗軍)
(天正9年)7月29日付亀寿丸・あちゃこ・かめちよ宛吉川経家書状
「かミしゆの事、やかてはいくん候するまゝ、めてたき御さう申くたすへく候」
(文禄2年)5月18日付伊良子信濃守宛最上義光書状
「木村ひたち・はせ川藤五郎をはしめ、ほそ川けい州のちやくしなと、こそ霜月ほくそ(牧使=晋州)のしろニて、はいくんを申候とて」 真田昌幸に書状を送ってる八月十日までは西軍に優位だったし多少調子が良いこと言っても然程詐術にはあたらんだろう。しかも三成は西軍の大戦略を決める立場に無かったのに対徳川の最前線に送られていた訳で東軍の動きがわからなくても仕方がない 8月10日まで優位だった
本当にそうなのかな?
違いの条々出して東軍から離脱者が全く出てない時点で大誤算だと思うけど
西国大名の大半は無視したし >>85
> 違いの条々出して東軍から離脱者が全く出てない
> 西国大名の大半は無視した
長尾為景から三代(正確には四代か)にわたって着実に背信、不実、虚言、裏切りを積み重ねてきた上杉に言われてもなあ、何だかなあ…
って所だろう。 なにを言ってるのかよくわからんが、景勝が豊臣家の為に
逆臣家康を誅スべしといった直江状と内府違いの条を
併せたような檄文を全国の諸侯に発送し天下に義兵を募り
決然と挙兵したといったような架空小説でもあるのか? >>85の脳内歴史にはそういう勇ましい上杉がいるのだろう。 謙信ならともかく景勝で家康に勝てるとはとても思えない
景勝ってそこまで戦歴ないし
そもそも最上攻めでの上杉軍弱すぎるでしょ
それとも志村が強すぎただけか?
おまけに名将とか義の人とかいわれてる直江兼続は、畑谷城を落とすのに苦戦して、その腹いせから周りの領民も
含めた大虐殺までやらかしているし 実際徳川の行動は止まったからな。伊勢も制圧して西国も確保してる。ところが美濃に全く兵が集まってないところに東軍は先手衆を投入してきて逆に潰されたという結末なんだが八月十日時点でこの未来を見通せというのは難しい >>78
>実際、上杉景勝のように中立を貫いた大名も少なくありませんでした。
なにこれガイジ? >>90
西国も確保している
ならば兵力を全て美濃、伊勢方面に集めるべきだった
1番やったらいけない兵力の分散をしている時点で制圧しても全く意味が無いよ
逆に東軍は秀忠だけは別になったが、それ以外はほとんど一つにまとまっていた
この差は大きい
10日時点で既に西軍はバラバラ
必要ない宮津に兵を向けたりしてるし >>92
西軍の兵は三成の私兵じゃないんだよ。
兵の集まり云々言う前に、出れば負ける戦の弱さをなんとかしろよ。
多勢相手に勝てとは言わんが、少数相手に負けるとかやる気あんのか? >>0091
中立は言い過ぎかもしれませんが、一次史料を精査すればわかることです。ここは素人
ばかりで、僕のような専門家の中でも最高峰といっていいレベルの考察をできるひとは、
いないでしょう。実際、みなさんの書込みを見ても、確証とまではいきませんが、束になっても
僕の足元にも及ばない、ということがいえるでしょう。 >>94
じゃあ名前を晒してくれ。
そしたら論文なり著書なりを検索して内容確認するから。
ペンネームで書いてるならペンネームのほうな。 >>94
おっ、新キャラか?
これまた随分香ばしいバカだなw