石田三成の挙兵 ★10
石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。 後知恵とifはもううんざり
せめて根拠となる史料つけてくれ まあ根拠となる資料が出れば出るほど西軍の残念さがあらわになるわけで。
かつては無能オブ無能の毛利輝元がやらかさなければ勝ててたろ、だったのが、
資料が増えてくるに伴い何やっても無理や、むしろ壊滅しなかった毛利はまだマシだったって状態だもの。 >>99
史実とは全て構造だから元々そういうもの。
二言目には誰某が無能だからとか有能だからとか、
そんな絶望的に低いレベルに議論を還元するゲーム脳の白痴ばかりが最近殖えてるのは実に嘆かわしい。 戦史でif考えるのはよくあることだが。
欧米でもワーテルローはどうすれば勝てたか、
とかあるだろ。 >>101
ifと妄想は違うのよ。
例えば、「関ヶ原に毛利輝元が大坂城2万の兵力を連れてきて指揮を取ったら?」
これはifではなく妄想。
超えるべきハードル、起こり得る影響、そもそもの史実の兵力等を明らかにせずに、
ポンと大軍と指揮権が湧くわけだから妄想以外の何者でもない。
「岐阜城が米野の戦いをせず籠城に徹したら?」
これはifになり得る。
ただしこの場合、防衛戦を下げることによる、美濃南部の離反や犬山城との連絡線の断絶の影響は論じないといけない。 西軍が勝つまでの前提が多すぎて、様々な要因をifにしないと想像すらできない
・家康がやらかしまくって、武断派のイメージが西軍未満になった
・20万近い軍勢の兵糧が調達でき、うち最前線7万(関ヶ原の部隊)にも余裕で届いた
・輝元がお家騒動を起こさず、吉川広家,毛利秀元からの信頼を得ていた
上記三つのうち最低二つは満たせないと、土俵にすらも上がれないと思う
それだけ最初から勝ち筋のない戦い >>103
その時点で「妄想」なんだよ。
ifっていうのは、ある時点で前提条件の変更無しに取り得た選択肢の検証であって、
そんな「もし西軍が強かったら(東軍が弱かったら)、西軍が勝った」程度の話じゃないんだよ。 まぁifで言うなら関ヶ原合戦当日に雨が降って合戦が始まらなければ西軍の動きは変わったのかなとは思う
東軍は会戦する気まんまんだろうしあまり史実とは変わらんか… >>102
つまりそれ、岐阜城後詰決戦案やん。
寄せ集めの勝馬ライダー軍団の犬山城衆は岐阜が健在なうちは日和続けると予想する。
5000〜6000で犬山籠ってればそう簡単には落ちないんだから。
市橋徳永が暴れてるのは、そっちに戦力割いてる余裕ないから耐えるしかない。
主目的は岐阜が粘って東軍主力との後詰決戦。
別に犬山城後詰決戦でも大垣城後詰決戦でも構わないが
敵主力を撃滅しての勝利を志向する。
それが駄目なら初めて膠着からの勝利的和睦を模索するべき。
ただ睨み合って勝てるほどの戦力差がない。 犬山衆は八月初頭には徳川に内通してなかった?
福島正則らも油断せず付け城作ってるから騙し討ちも不可能、黙ってるしか無い。仮に織田秀信が渡河という最も勝機のある時を見逃したとして結局竹ヶ鼻は落ちるから大垣城からの救援は無い
「勝負に出て負け」の反対は「勝負に出なかったら勝ち」じゃない、「勝負に出ず負け」もある
ifを語れば打って出ない秀信を怯懦として犬山衆が堂々東軍に転向とか戦意喪失した岐阜衆が秀信を殺害とか山ほど出てくるし。どのみち渡河決戦で勝つしか道はなさそう >>102=>>106
> ある時点で前提条件の変更無しに取り得た選択肢
そんなものは無い。
「或る特定の選択肢を採った」と云う事象そのものが既に時系列的因果律と同時代的状況によって規定された固有の構造または函数であって、
「それを採らず他の選択肢を採る」と云う事象を想定する為には少なくとも上記を規定した因果律か状況のうち何れか、多くの場合は両方を改変しなければならない。
そして厄介なことに、
その改変はあらぬ方向に繋がって必ず他の多くの事象をも改変してしまう。
その結果殆どの場合に於いて、
或るifを構えるべき出発点の史実が存在し得ないと云うパラドクスに陥ることになる。
フィリップ・K・ディックが好んで作品とした所だ。
つまり「if」と「妄想」の間に区別など無い。
何れも等しく無意味な愚行でしかない。 >>109
八月上旬の時点で内通してたのは弟を人質として家康に出してた加藤貞泰だけだな
犬山衆も一枚岩じゃないし加藤貞泰の行動は犬山衆の総意と言うわけでもない
犬山城主の石川光吉も8月8日付石川光吉宛徳川家康書状に
「先度飛脚到来之砌、可為返札之処、飛脚其儘立帰候間、無其儀候」
とあるので徳川とは通信していたようだが、加藤貞泰のように人質を出した
とか何か具体的な行動で以て徳川に忠節を示したというものは見られない >>111
あれ石川って戦後に改易されてるのに、内通してたのか?
それとも擬態か? >>107
関ヶ原の日って確か濃い霧が出てたんでしょ?
雨と大して変わらなくない? >>102
「関ヶ原に毛利輝元が大坂城2万の兵力を連れてきて指揮を取ったら?」
これって8月29日付保科正光書状で正光が答えてなかったか? やはり7月中に清須を落とせば
西軍につく武将多く
裏切らも出ないかも
特に毛利 逆に清州落として尾張制圧出来れば
東軍から寝返りはあり得ただろうか >>113
石川は内通してないでしょ
恐らく徳川と連絡手段が完全に絶たれないように誼だけは通じておこうってことだろうな
8月25日付山内一豊宛先加藤光政(貞泰の叔父)書状
「左衛門尉いぬ山に居申候、なに共めいわく仕候、
寔石備も御ことわり申候ハてなり申ましく候間、やかて罷出候ハんと存事に候」
現在貞泰は犬山に在城しているが迷惑している。石川が決断しないと開城はできないがすぐに下城できるだろう
と言っているので、石川が8月8日の時点で内通してたなら貞泰に与同してもっと早くなんらかのアクション
(例えば人質として犬山城に拘束してた山村良候の解放とか)があってもいいと思うが、犬山
の開城は9月3日でそこまでは目立った動きはないし石川の内通はなかったと見るのが自然だね もし西軍勝利でかつ秀頼が死ぬと
豊臣唯一の生き残りは完子だから自動的に婿だか婚約者だった秀信が豊臣家継ぐわけか >>118
???
敵の総大将と誼を通じている時点で内通に当たるんじゃないの?
改易されてるが助命されてるのはやはり内通していたから、と見れるのでは? >>120
万一の時のために保険として連絡はとってたけど内通まではしてないと思うけどね
実際石川は加藤貞泰のように人質を出したりしてるわけでもない
8月8日の時点で石川がはっきり内通してたなら、城主である石川から家康へ犬山の様子を報せる
使者が送られるのが自然だと思うが、加藤の重臣が江戸にやってきて犬山の様子を家康へ報告してる
8月12日付本多忠勝・井伊直政宛徳川家康書状
「此者加藤左衛門尉長敷者候、然者犬山へ左衛門尉相籠付而、様子之儀申遣候、於其地羽左太令相談、可然様才覚尤候」
更に少し後になるが8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状
「上方石治少・大刑・石備書状、御才覚にて御取被成候、則状江戸へ致進上候、定而可為御大慶候事」
とあり、石田・大谷・石川の書状を山村と千村が奪って江戸へ送達したとあるから、もし石川
が家康に内通を匂わすようなこと言ってたとしてもこれ見たら家康も信用するわけないよね
岐阜県博物館の山田氏の論文にも「城主石川光吉に対して、家康は西軍に与している
ことを知りながら看過し、丁重な対応がとられていた」とあるけど自分も同じ見方だね >>101
ワーテルローはブリュッヘルを合流させなければ勝てた 確かに犬山援軍の稲葉、加藤、関、竹中は犬山開城後に東軍に加わってますが
犬山城主の石川 貞清(光吉)は開城後も東軍に加わらなかった位なので
寝返る意思はなかったと思います。
家康との通信は8月8日書状に其方兄弟之事 連々懇切之事二俣間
弥不可無沙汰与存とある兄弟というのが兄の石川光元のことと思われ
この人物は以前家康の側室亀の方(関ケ原の年3月に家康との子の八男仙千代を
亡くし、11月に2番目の子の後の徳川義直を出産)を側室としており
一子光忠(後に異父兄弟の徳川義直に仕える)を設けていることと
関ヶ原前年に徳川家康の差配により美濃金山城の天守櫓と古材を下賜され
犬山城の改修工事を行ったという縁によるものではないかと思います。 犬山衆は八月には降伏してるし家康もそれに対処してるので犬山衆は何の役にも立たない。何もしなければ家康に助けて貰えるんだから
犬山衆が動くなら「織田秀信が出撃して東軍先手衆大敗」しかない。秀信が引き篭ってるのに家康を裏切る道理がないもの >>110
会話の内容に無駄が多いってよく言われない? 三成の書状は無駄というか同じようなこと繰り返したり
立て続けの書状でも前便で言ったばかりの事で省略してもよさそうなことも
くどくど書き連ねたりとにかく長いししつこいよな
偽書疑惑もある9月12日の書状もそうやし >>127
むしろあのくどさが本物だと示してるんじゃないか?
三成の性格そのものが書状に出ていると言えるし >>124
戦場経験が皆無の秀信で東軍先手衆を破るなんて絶対に無理 よな
それを実現させるなら宇喜多クラスを岐阜に出向かせないと >>130
宇喜多じゃダメでしょ
前年の御家騒動で明らかに軍が弱体化している
8月17日と18日だったかな、戸川達安と明石全登の間で書状が交わされているけど
弱体化しているのを明らかに明石が隠そうとしているのがわかる
それに吉川広家が安国寺と7月15日に議論した際、「宇喜多や小早川は若くてまだ経験も浅い」
と言ってるし 美濃衆を味方にし、犬山も確保し美濃衆を犬山に詰めさせた。
ここまでは小牧長久手と同じ。
石田と秀信でさらに尾張への進出を企図していたところに
南濃方面での市橋徳永らの攻撃。これに大垣衆が対処してるうちに尾張進出は有耶無耶に。
美濃に戦力があるならば、対清洲として、
小牧長久手同様、楽田、小牧山への進出、
さらには守山、那古野、熱田、鳴海の線で楔を打ち込む。
これが理想。
しかし現実には史実の美濃の西軍戦力ではまず不可能。
少なくとも東軍先発隊と同じくらいの戦力が必要。 >>131
8月18日付明石掃部頭宛戸川達安書状
8月19日付戸川達安宛明石掃部頭書状 >>132
対処しているうちに有耶無耶になったのではなく、弱くて大敗を喫したから身動きが取れなくなっただけ。
孤立して攻めに出ざるを得なくなった相手に対して、倍の兵力の防衛側が1日で敗走、
翌日には追加の援護もなく落城するという戦下手がどうすりゃ勝てるというのよ? というか、家康はさすがだよな
戸川を通じて明石にゆさぶりをかけたり、宇喜多の息子に婚姻を約束したりと
さすがは長年の経験から敵をゆさぶっている
それに対して三成は単に秀吉の下で働いてきただけのためか、全くこういうことが
できない
総大将の輝元も調略とかまったくできないし >>135
お前ID:Bo5Sjdj4でしょ?
輝元も三成もポジショントークも知らん奴に言われたくないだろうなw >>134
兵力が多ければ解決する問題。
福束城のことを言っているなら、惨敗なのは間違いないが
福束に派遣したのは家臣の舞兵庫。
岐阜の後詰に行こうとして黒田藤堂田中に蹴散らされて敗走した石田先鋒も舞兵庫。
福束は数的優位にも関わらず惨敗、
河渡は数的劣勢かつ奇襲受けて敗走。
福束はなにしに行った、
河渡は仕方ないといった個人的感想。 あまり言いたくはないが、舞兵庫の戦闘指揮能力に
問題があるような気もする。
もちろん、舞兵庫に任せた石田にも責任はある。 舞兵庫の戦闘指揮能力を判断できるような史料は残っていない。兵数も不明 >>137
対象は福束城のつもりだけど、本当になにしに行った、だよな。
あれに勝てない、いや、勝てないまでも粘れない時点で、
どれだけ兵力積めば岐阜城救援が成功するというのか。
比率的には8万人くらい投入しても1日で瞬殺だからな。
20万人くらい必要になるんじゃないのか? Wikipediaでは秀忠の遅参は、地形や報告する伝令の遅れとあるけど、9月9日付で
秀忠が福島正則に対して再度の真田攻撃をするという旨の書状を出しているのはどういうこと?
9月9日に伝令が来て、にもかかわらずまだ攻撃しようとしたってこと? 朝野舊聞襃藁に家康の西上指令の使者が秀忠のもとに到着したのが
同じ9月9日とあるので,赤坂諸将宛の書状を持った使者が小諸を発した後に
家康の使者の大久保益が到着して翌10日秀忠軍小諸発ということでは
9月11日里見宛秀忠書状には家康より申し越され(指令、命令)罷り上がる
(西進)とあるので、この時系列で大きな相違はないと思う
ただ森家の記録に9月8日家康の使者が到着したとあるらしいので
この点は疑問として残る。 岐阜に関しては三成の責任は無い。美濃が落ちる事が何を意味するか考えてなかった輝元ら西軍首脳部に問題がある。計画通りの25000人でも少ない上にそこに遠国の島津を配備して案の定兵数不足(軍役5000に対して実数1000人) 9月9日付の秀忠書状なんてあったっけ?
森家先代実録所収の9月8日付秀忠書状
「従内府急可令上洛由被申越候間、先々明日小諸迄罷越候」
内府より急ぎ上洛せよとの命が下ったので明日小諸まで行くとある
写しだし日付が誤ってる可能性も考えられるな 9月9日福島、池田、細川、伊奈、加藤嘉明、浅野幸長宛秀忠書状に
岐阜城攻略について誠御手柄の談、無比事共候と岐阜城攻略について激賞し
我等(秀忠軍)は真田表仕置きのため家康の命で出陣,この表暇明次第上洛すると
あるので,この後に家康の使者が到着したと思われる
ただ漢字が相違しているのと黒田が参戦した合渡川での戦勝に対する讃辞
を除けば殆ど同じ文言の書状が秀忠より9月5日黒田長政宛に出されており、
同じ様な言い回しは同一人であれば当然で、黒田以外の諸将に改めて後日
岐阜城攻めの賞賛と自身の今後の予定を申し送ったとしても不思議ではないが
5日の書状(黒田家所蔵文書)を基に
9日の書状(古文書集所載)を偽造した可能性も捨てきれない >>144
西軍の美濃方面の司令官って誰なの?
西軍って雑軍だから指揮が明確化されてない
これじゃ何やってもダメでしょ >>146
あー古文書集所収文書ね
失念してたわ
9月5日付の秀忠書状は黒田長政宛(黒田家文書)、加藤嘉明宛(五島美術館所蔵)、
本多忠勝宛(本多忠敬氏所蔵文書)とあるけど三通ともほぼ同じ内容
まあ普通に考えれば9日の書状は後日まだ知らせてないメンバーに同内容のものを送ったと考える方が自然だな
加藤嘉明だけ重複してるけど あと細川家記所収の9月5日付秀忠書状忘れてたわ
多少の異同があり加勢としてやって来た三成の人数を討ち果たしたという部分の記述がないが他は同じで宛名がない
まあ細川忠興宛で間違いないでしょう
細川と加藤嘉明が重複してるということになるな >>144
責任がないどころか、一番責任が重いだろ。
取る予定のなかった美濃を勝手に引き込んで戦力になるならまだしも、3週間も保たずして大半を失陥。
それなら当初のラインである近江まで引けばよいものを大垣に拘った挙げ句、
秀秋に裏を取られて無謀な大垣城放棄からの数時間での壊滅。
どこに輝元のせいにして三成を擁護できる要素があるのよ? そうじゃ三成じゃすべては三成がしくじり、勝てる戦をとり落とし
わしは天下人になり損ねたのじゃ
家康が江戸を出たら三成より報せがあり、わしは天馬のごとく出陣し
内府一統を蹴散らし一気に勝敗は決するはずじゃったのに
聞けば目前に馬印を立てられるまで内府は江戸にあると思い込み
江戸を出たことすら察知してなかったというではないか
あの無能者を信じたのは一生の不覚であった、嗚呼やんぬるかな。 >>144
島津は7月30日付の毛利輝元・宇喜多秀家連署書状における動員命令を無視してる
庄内の乱と財政的に大軍動員が不可能だったんじゃないのか? 個人に責任を求める意味がわからん
そもそも伏見城に二週間かけた全員が戦犯だわ >>150
近江のどこで守るの、瀬田?
瀬田なら石田大谷は見捨てることになるね。 >>156
瀬田を本陣として、出城として佐和山城で良いじゃん。
結局三成が自分のところを最前線にしたくないからなんとしても美濃が欲しかったんでしょ。
他人の城なら伊藤盛正のように追い出して居座るくせに。 >>155
史料はもう挙げないが、その段階では内府が大軍率いてすぐやってくるぞーってのが西軍の想定
瀬田に加えて淀にも普請予定だった
これ推測になるが、東軍の主攻は東海道と西軍は考えていたと思うけどな
ぜんぜん家康がやってこないから、三河表で迎え撃とうとしたがこの計略は失敗
敵主攻の想定ルート?伊勢を総大将格の毛利軍が受け持って制圧している
三河、尾張までは手が出せなかったが、むしろ西軍は当初の大戦略より押し出せているんだよ
「関ヶ原」という土地で「東軍」が勝ったことをいまの人間は知っている
そのこと頭からぶっこ抜いて史料読みたいところ
関ヶ原は「必然」ではない >>158
なおさら伏見城に時間かけるわけにはいかなかったのでは? >>159
後知恵で「こうしてたら~」というのに興味ないんで 伏見城は放置出来ないからコストかけて強攻したんじゃないの
2週間程かかったのはそれこそ結果 西軍でまともな実戦経験あるやつは秀元行長くらいで秀元はやる気がなく行長は歴戦の指揮官が軒並み本国待機
義弘は戦力に数えられない
宗茂はやる気があるのかどうか そもそも三河で迎え撃つなんてのは石田三成以外誰も言って(書いて)いないのよな。 大垣城を重要拠点とし尾張三河で徳川勢を叩く、総大将輝元は浜松まで出馬、
上杉、真田は徳川領に侵攻って小牧の戦いの2年後に計画されていた
第二次徳川討伐計画みたいやね、この時は地震で頓挫しなければ
ある程度の損害を覚悟すれば成功しただろうけど
1600年ではあまりにも状況が違い条件が悪すぎるよね。 >>165
そういやそれもあった、地震が主因で中止になったやつ。
どのみち東海道は桑名熱田が海路で大兵力の迅速移動ができん。
自然、美濃からの木曾川渡河で尾張か、中山道ということになる。
時期的に今度は北条の援軍が徳川に来るだろうが
実行されたらどうなっていたかは興味深い。 8月7日付の佐竹義宣宛石田三成書状なんだけど、この書状で出てくる「無二の京家次第と申し候間」って何のこと?
朝廷? >>166
北条の腰の重さと外交能力からして、そんな援軍を送るとは思えない
どうせ対岸の火事だと思って傍観するだけだろう
実行されたら家康の滅亡があり得たかもしれない
ただし秀吉側もそこそこ被害は出ただろうが
結局、指揮する人物にもよるんだろう
関ヶ原に若い全盛期の秀吉がいたなら、西軍が勝てたかもしれないが 秀吉みたいな野心と能力が最高峰の大名がいたら秀吉死後から動きまくりだろ
秀頼が秀信になるか >>162
伏見城の兵力ってせいぜい2000だろ
8月1日付の大老・奉行連署書状でもそう書かれてるし
2000で、周りが完全に敵地でどうしようもない奴ら相手になぜ構う必要がある?
同数で包囲して放置してさっさと美濃方面に向かうべき
その後で伏見城なんかどうにでもできる
信長だって浅井、朝倉を後回しにして先に京都に向かったりしている
まあ戦略も戦術も決めるのが誰か、というのが一貫していない西軍では無理な話か