石田三成の挙兵 ★10
石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。 前スレのURL入れるとスレ立てできなかったので誰か書いてくれ >>6
信者w
誰が好きとか嫌いとかどうでもいいから他でやってくれるか 三成には殆ど選択肢が無いのよね。即座に家康に取り入ったとしても西軍に佐和山攻めされたら打つ手は無かったろう。せめて重家を秀頼ではなく家康に近侍させて貰うべきだった >>9
それ石田は首謀者ではない説の場合の話?
だとすれば、兵6000で佐和山籠ってればいい。
そう簡単には落ちん。
史実に近い展開なら8月上旬に前田の後詰が来る。
下旬には東軍先発隊。
佐和山〜瀬田の南近江で決戦になると思う。 西軍がわざわざ佐和山攻めをする意味あるか?
史実と同じく、普通に瀬田に防衛線を引いて伊勢進出でしょう。 ふと思ったんだけど、上方からの石田大谷謀反の知らせ。
大事を取って上杉征伐中止はいいけど、
ほんとに石田と大谷だけの謀反なら
上方にまだいる上杉征伐軍と前田毛利宇喜多で
簡単に鎮圧できると思うんだが。
そんな勝ち目のない謀反をする理由も不可解。
もし石田が巻き込まれただけだとするならば、
佐和山籠城、家康に弁明でいけると思うが。 大谷吉継に城を巻かれてる状況な上籠城した瞬間に謀反確定で大坂の豊臣軍にぶっ殺されて終わり
ついでに大坂の嫡男重家も殺されるし >>13
大谷って兵2500くらいでしょ?
佐和山完全包囲するには兵が少ないと思うが。
脱出しようと思えば脱出できる可能性はそれなりにあると思う。
石田がどれくらい佐和山に兵在番させてるかわからんが、
もし1000もいるなら大谷の2500で佐和山は落とせんだろう。
500くらいだと微妙なライン。 三成は真田のなぜ事前に挙兵のことを知らせてくれなかったという抗議に対して
7月末書状で内府が大坂にいるうちは諸将の心測りがたく
知らせられなかったといったようなこと言ってるからね
家康6月16日大坂発以前にすでに挙兵計画はあり巻きこまれただけというのは
どうかと、あと7月15日上杉景勝宛島津義弘書状をみても三成は首謀者グループの
一人とみるのが妥当
巻きこまれたのであればこれはX殿の企てで某は最近加担したといってもよいし
此度の企てかねて知らすべきだったが、その暇なく(最近急遽決まったので)
定めしご不審に思われたでしょう、御立腹は尤もですと浅野内匠頭しても
よいだろう。 >>15
> 浅野内匠頭しても
かくして後難を恐れた豊臣公儀は理不尽にも石田内匠頭を切腹させた。
のちにこれを不義として起った大谷内蔵助らによって徳良内府介は討ち果たされるのであるが--、
それはまた別の物語である。
完 内府違いの条々出されてから2週間も時間置いてるから西軍決起計画を知らなかったんだろ。知ってたら即日にでも書状送ってるわ まあ、家康が輝元を甘く見ていた感はある
あの時点の家康に毛利対策なんて取りようもないけど なんかだんだんほんとに三成が悪いような気がしてきた
決戦なんかすべきじゃないじゃん
京都大阪方面に行かれても、うしろをついて行けばいい
輝元が出てきたら挟み撃ちになるじゃん 決戦なんかしてないよ。
逃げようとしたら後ろをついてこられてしょうがなしに迎え撃ったら瞬殺されただけ 三成は徳川との連絡口を持たないから弁明なんか出来ないだろ。三成は秀吉の命令で家康との通信を禁じられていたらしく三成・家康間の書状は全く無い。だからそもそも誰に連絡すりゃいいのかわからん。手続き無視して江戸城に使者を送るしか無いが口添えも頼めないから信じてもらえるか不明、その間豊臣軍相手に戦争なんか出来るわけない。豊臣を見捨てて徳川に全ツッパする為の石田重家は大坂にいるし >>21
というか家康から三成に近づいた形跡もないんだよな
宇喜多秀家については、慶長5年8月18日付明石全登宛戸川達安書状で、家康が秀家の息子を自分の婿に迎えると言ってる、
とかあるから、秀家はある程度家康から重要視されていたみたなんだけどな >>17
家康のいる場所を考えて
奥州の手前にいる家康が何で大坂の状況を即日、あるいは2、3日で知れるのか
7月30日付真田昌幸宛石田三成書状見てもわかるけど、使者について書かれてる時点で当時は連絡に時間がかかるんです 三成から徳川に連絡できないてことはないだろう
私信を出すわけではなく
疎遠であっても公事であれば井伊,本多忠勝、榊原、村越、永井など宛に
書状を送ればいいだけ。
人脈で言っても親友の真田信之を介してもよいし、
その岳父の本多忠勝に直接でもよい、真田信之宛三成書状に
『先日は約束の鷹をいただき、こちらからすぐに連絡するべきなのに、ひどく疲れていて遅くなりました。
さても見事な鷹をいただき、ありがとうございます。
昨夕もお尋ねくださったそうで、私もお会いしたかったですが、秀吉様御わずらいにより宿へ帰る暇もありませんでした。
本多忠勝殿もお尋ねくださったとのことですが、このような次第でお会いできませんでした。
どうかお察しください。謹言』と秀吉生前に本多忠勝が三成屋敷を訪問したことがあると
わかるし、別の書状でも『本多忠勝殿へすぐ返事を出すつもりですが、
もしも忠勝殿から返事のことで問い合わせがあれば、
(信之殿から)すぐに返事を出しますと言っていたと伝えてほしいです。』
とあり本多忠勝が三成に書状を送り三成が返書を出す予定であることがわかる。
本多忠勝が関が原後捕縛された三成を大津城内牢に訪れたという逸話も
史実かどうかは分からないが元々交流はあったことがうかがえる
他に七将騒動後佐和山まで三成を警護し謝礼としてもらった刀を終生自身の差料とした
結城秀康を窓口にしてもよいだろう 三成巻き込まれ的従属者説は三成の行動が10日ほど不明の一点だけが根拠で史料上にある三成も首謀者の一人であるという書状などは欺瞞で片づける乱暴なものだから基本的に議論にならないのよね >>21
>三成は秀吉の命令で家康との通信を禁じられていたらしく
これ初耳だけどソースぷりーず
確かに三成と家康の双方で直接やり取りされた書状はないけど連絡手段を持たないはあり得んね
上でも挙がってるけど真田家文書の二通の真田信幸宛三成自筆書状で本多忠勝と交流があったことが確認できるし窓口はある そもそも三成は少なくとも7月初めには西軍挙兵の謀議に参画していたと見ていいのでは?
吉川広家が「去る七月、安国寺佐和山に罷り越され候て、石治、大刑と相談を遂げられ、如何御座候つるか、忍び候て
大坂罷り下られ候」とあるし
12日に三奉行から毛利輝元に書状が出されてることから、7月のかなり早い時点で謀議が開始されていたと見てよいと思う
つまり三成は明らかな首謀者 三成と家康の間には公的にも私的にも一切の交流が無い(三成は家康との交渉で奏者になった形跡が無い)これは異常な事で個人的な感情で取れるものじゃない。光成氏は「二人の没交渉は、家康を牽制しようとする秀吉の意図に基づくもの」と指摘している。秀吉は敢えて三成と家康を近付けさせなかった。となれば三成は徳川との取次口すらも知らなかった事になる
だから三成が家康と会うのは伏見城・大坂城で公務もしくは偶然しか無かった。それで三成が秀吉の目を掻い潜って作った家康との連絡口が「三成⇄信幸⇄忠勝⇄家康」という方式なんだがアングラ故に通信強度は低い。三成もかなり気を遣って書いてるので家康と通信していたとは一切書いてない(忠勝に書状を送るので「かの方」からお尋ねがあったらそう答えてくれ、とあるだけでかの方が誰なのかは不明) >>28
よく読め
真田家文書の三成書状は家康と通信してたことを示すものだったとは言ってないぞ
本多忠勝と交流があったわけだからいざとなれば忠勝が窓口になり得るという話だぞ
(年未詳)7日付真田信幸宛石田三成書状
「御札并中書返書拝見仕候、すくニ中書へハ此方ゟ返事可申候間、もしかの方ゟ
その返事の事おたつね候ハヽ、此由被申候て可給候、明日ハやとへ可帰候間申可承候」
あとなんか勘違いしてるみたいだけどかの方=本多忠勝だからな
信幸の書状と忠勝からの返書を拝見した。すぐに忠勝へは返事をするつもりだが、もし忠勝から
返事の件についてお尋ねがあればすぐに返事をすると信幸より伝えてくれと三成は言ってるんだよ >>28
調べたら確かに光成氏は渡邊大門編『家康伝説の嘘』で「最初から家康は石田三成と
仲が悪かったのか?」という論説を寄稿していてそういう旨の発言をしてるみたいだね まあ調べるとわかるけど三成は領内経営などで超有能な人物で秀吉に重宝され
遠くは朝鮮、奥州、九州など各地に出張してるからね、ドラマのようにいつも
秀吉の側にいるわけではなく不在のことが多い、
むしろ家康や利家の方が秀吉側近ではないかと
勘違いするくらい近くにおり、仕事上で接点のない大名と私的交際が希薄でも
不思議ではない
秀吉生前で両者の交流とまで言えるかわからないが確認できるのは
島井氏年録の文禄2年5月8日分に三成と家康、増田長盛・大谷刑部らが集い、
源平盛衰記について語り合ったという記述がある。家康の愛読書が吾妻鑑で
あることは周知のとおりで話が弾んだのではないだろうか
ただ石田、増田、大谷と小西行長はこの日は朝鮮に渡海中で明国の使節(偽使節ではあるが)
を伴い名護屋に帰国したのは5月13日、4人は5月24日に朝鮮に再渡海するので
国内滞在は10日あまりでこのうちのいずれかの日の誤りかと
あと秀吉生前に蒲生騒動の件で家康と三成がことをなるべく穏便にすませるため
協力しあったことはあり公的に接点が皆無というわけではない 現実として史料に全く残ってないからな。城で偶然会うなら兎も角 秀吉逝去1年後の1599年9月に上坂した家康に三成、正澄兄弟は大坂屋敷を
宿泊所として提供しているし
看羊録によれば家康暗殺計画を家康に密告したのが
三成でその後、家康の依頼により前田利長上洛阻止の為に三成と大谷は
道筋に兵を配置(三成家来と大谷吉継養子吉治の兵を合わせて千人、
出兵の件は島津家の記録にもあり史実と思われる)などしているので
翌1600年家康に連絡するのはそれほど困難ではないかと 大谷吉治と三成の内衆千人を越前へ出兵させる件は(慶長4年)9月21日付島津忠恒宛島津義弘書状にある記述だな
「今度於大坂内府様天下之御仕置被仰定候ニ付、いかやうの子細候之哉、羽柴肥前守殿当時賀州へ在国候ヲ、無上洛様にと被仰下候、
自然強而於上洛者、越前表にて可被相留之由候て、刑少殿の養子大谷大学殿・石治少之内衆一千餘、越前へ被下置候事」 >>30
黒田氏がそう訳さない理由は「本多忠勝が石田三成の屋敷をアポなしで訪れる理由が無い」からだろうな。だから忠勝は「かの方」の意を受けて三成を訪れてるのであって忠勝自身の交友とは別件ということ。実際三成と忠勝って接点あったっけ捕縛された三成に頭を下げたって逸話はあるけど >>36
なにいってんだw
中書に書状送ったから、あっちからなんか言ってきたらよろしくね
こうとしか読めない そうも読めないが・・・
正解は24と30が書いてくれている 結局どうやったら西軍は勝てるの?
挙兵からどうやったら西軍は勝てるのだろうか?
あるいは挙兵せず、徹底的に家康に対する暗殺テロをやるべきか? >>40
小牧長久手の再現狙いからの勝ちに等しい内容の和睦。 >>41
そこまで戻らないとダメなの?
せめて毛利輝元の挙兵からにして そもそも三成が真田に宛てた8月の手紙であれだけ楽観視した内容を書き連ねているということは、
三成には何か勝算があったんじゃないの?
書状におけるポーズという意見もあるけど、「真田らは袴をはいて関東に乱入できる」とか
「家康は2、3万の兵で上洛するつもり」とか、どう考えても三成の自信の高さがうかがえる内容になってる >>44
ポーズにしては余りに内容が酷すぎる
楽観視しすぎてる
こちらが有利だとかいう程度ならわかるけど、まだ交戦もしてないうちからあんな
書き方してるんだぞ 8月頃なら楽観的になれたでしょ
そういう気分は22日に岐阜城が攻められるまでだろうね >>46
そういうもんでしょ他と比べても別にむごくない。 まだ戦ってもないうちからそういう油断するようなら、どのみち先は見えてたってわけか…… 油断と言うか単なるポジショントークでしょ
三成に限らず誰でもやってること
額面通りに受け取り過ぎ あれがポジショントークね……
長篠前の勝頼と同じだな
そうだねそうだね 君みたいに真に受ける人間がいるのだから
嘘・大げさに書く意味があるわけだね 前から居る連投君はASD濃厚
客観的に物事を見る能力が無いんだよ 西軍首脳全体にいえるけど「人質とったから大丈夫ですよ」という楽観というか、セールストークそれしかないんかいというか
当初は瀬田~淀まで防衛ライン下げてるんだよね そやね、どうも有る程度本心で公儀として日本中の大名の人質取ってるから
會津に東下した諸将も相当程度味方にできると期待してたようやね
ある程度の大名が離反したなら家康のもとに留まってる将の人質を
殺すぞと脅迫材料にできるが、誰も離反しないんじゃまさか皆殺しに
するわけにもいかず効果なかったね
効果があったのは妻蒲生氏が心配で西軍に対する再出兵できなかった
前田利政位か
逆に家康が大坂より妻を人質解放した京極高次、前田利長、真田信之、
富田信高(軍記物によれば阿野津城で奮戦、真偽は不明)は奮戦しており
この策は功を奏したといってよいだろう。 加藤清正 佐藤京一
福島正則 岩尾正隆
池田輝政 峰蘭太郎
浅野幸長 藤沢徹夫
加藤嘉明 木谷邦臣
脇坂安治 細川純一
藤堂高虎 疋田泰盛 >>40
イフを語る奴って頭悪そうに見えるから止めた方がいいぞ >>37
研究者はそう考えてないってこと。素人とはやはり違う見識を持ってるんだろう。どのみち三成には家康とのパイプが無い事に変わりは無く緊急時に助けを求めるなんて出来なかったのは確定的だが >>46
三成が書状で楽観的な書き方してるのは幾つか理由があるだろ。まず実際に徳川を圧倒してるということ。少なくとも徳川の軍事行動は停止している訳で楽観論が出てもおかしくない。戦況が一気に悪化したのは八月二十四日以降だから
次に真田を味方に繋ぎ止めるには西軍に勝ち目ありと伝え続ける必要がある。対徳川で考えると真田領は最前線な訳でそんな危険な立場を承知で西軍に味方してくれてる真田昌幸に下手なことは伝えられないよ >>60
8月上旬はまだ美濃衆は西軍に付く最中だし、中旬には福束城で大敗北を喫している。
美濃衆が順調に味方しており木曽も視野に入ると言うならまだしも、
ちょっと情報集めれば分かる程度の大法螺を書き続けるのが本当に作戦か?
そりゃあそんな大事ならなんで早く連絡しなかったと真田が怒るのも当たり前だわ。 聞く方にも知能がそれなりに必要なのがよくわかる事例 似たようなものだろ
風呂敷広げる側と差し引いて聞く側
要らない事は言わない >>67
そして風呂敷広げていく側がだいたいやらかす。
自分でできもしないのに、出来ますやれます余裕ですって仕事取ってきて、実働部隊が悲惨な目に遭う。
確保してあるという戦力とやらは、口約束だけだったり素人のみだったり。
やべ、石田三成が、だんだん会社のあいつに見えてきて◯意が湧いてきた……。 桃山安土政治外交史
伊藤乏雄「環日本海の国際秩序の模索と日本」 三成はじめ奉行が本当に忠臣というならば、自身の身を挺して家康と刺し違えるべきだったな
正面から渡り合って家康に勝てるわけがない
横綱と十両くらいの力、経験、器量の差がある >>71
あのね、奉行達は自分たち中心とした『合議制で政権運営』がしたいの
最大目標は家康殺害じゃないの、政治的に徳川排除が可能なら家康を殺す必要すらないの
自分らで全国政権運営したいのに、その為に死ななきゃならんなんて本末転倒でしょ?
差し違えの大前提が成立しないってのを理解しようよ つまり5年前には構想していたいずれ関白となる秀頼を主君として
小西行長、石田三成、増田長盛、大谷吉継、宇喜多秀家の5大都督
が国政を司り、大大名以下の諸侯も従うという理想の政治体制に
近いものを目指していたということだな >>72
>>73
それで担ぎ出すのが毛利輝元ってどうなのよ?
毛利勢5万人がいなけりゃ戦いにすらならないだろうけど、
毛利だって馬鹿じゃないから利用されるばかりじゃない。
勝っても第二の徳川家康になるだけだ。
毛利だって亡命政権とはいえ、一応幕府を運営した実績あるからな? 現に担ぎ出したんだからな
徳川止めなきゃどうにもならんって判断だったんだろ >>74
自分らが政権運営における上位存在になれればいいわけだから、そこは問題視してないのでしょう
毛利がでかい面するなら上杉がいるし、没落した徳川や前田に『奉行が命じて』討伐する方法もある
要は大大名を『奉行が豊臣政権の名の元に』討伐を続けることで勢力を削ってコントロールできればいい
これなら奉行の権威は増大し、大大名は力を失って豊臣政権の権威は高まる、理想的な展開になる訳だ
ま、現実的に考えてこんなご都合主義全開な方法が上手くいくとは到底思わないけど >>61
まず三成自身が西軍の決起計画を知らなかったので情報も相応のものだったんだろう。だが実際八月十日まで戦況は西軍が圧倒的に優位だったのも確か。伏見城は落ちてるし西軍は伊勢方面を制圧しつつある。対する徳川は動いてない >>0055
石田三成の人質作戦は、家康側に味方する大名を増やすことよりも、中立を保たせることを目的としていたと考えられます。実際、上杉景勝のように中立を貫いた大名も少なくありませんでした。人質の殺害は最終手段であり、積極的に用いることを考えていたわけではありませんでした。むしろ、人質の存在によって家康側に心理的なプレッシャーを与え、戦局を有利に働かせようとしていました。
一方、家康が人質を解放したことが、京極高次、前田利長、真田信之、富田信高たちの奮戦に繋がったという確証はありません。彼らは自身の領地や家を守るために戦っていた可能性が高いです。 >>78
三成の最終的な人質への考え方はこれな
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-3/37/0006?m=all&s=0004&n=20
「下ゝ」や「諸侍」があーだこーだ言っているのを報告するという体にしてるが、敵方の人質の何人か○せ、なんだよ
まあこの文書が真だと仮定した場合だが 9月12日の三成書状は当時使われてない言葉がとか宮島という地名はとか
他の三成書状と比べて違和感があるとかで偽書説も根強いね
ただ原本が残っていないということは写本ということだが
何人もに書き写されているうちに写し間違えたり当時の言葉に置き換えられたり
写し手が自身の考えを入れて加筆、改ざんされている可能性もある
例えば直江状は多くの人に書き写されているがいちばん古くさかのぼれるのは
1640年頃のもので後年書き写されているものと大分文章が変わったり
追記部分の家康に来るなら来いといわんばかりに啖呵を切っている下りは
古いものには見当たらず面白可笑しく加筆されたものとみられている。
ただだからと言って直江状は本物というわけではなく
当時の状況をよく把握しているのは上杉家の当時の状況をよく知っている人間が
当時の上杉の強硬姿勢は直江のせいとして上杉家を守るために
作成されたのではないかといわれている。
直江が石田と組んで蒲生氏郷を毒殺して会津を手に入れたとか
東西呼応して挙兵したという捏造話も同じ趣旨
三成書状は当時の状況をよく把握しており加筆改ざんで元々の書状と
変化している部分があるも、現在残っていない元となる三成書状が
存在した可能性も排除できないのではないだろうか 原本が残っている吉川家書状ですら、釈明のために色々誤魔化して書かれてると言われるんだ。
写本、特に負けた側の写本なんてどこまで信用できるか。
まだ無責任に市中の噂話を書き留めたもののほうが信憑性あったりすることもある。 さすが自称専門家さん
石田三成の忠義が全く分かっていない
あのままいけば大奸臣・徳川狸守家康に豊臣家は間違いなく簒奪されていた
その奸臣を討つために立ち上がった三成の忠義がわからないとは
家康の奸臣ぶりは、豊臣の蔵入地を勝手に分けたり、無断婚姻したり、前田を謀反人にしたりしていた点でも明らか
家康は糞 >>80
前にも言ったが白峰氏が当時の用語としては不自然だと指摘する9月12日付三成書状
にある「宮島」や「はいくん(敗軍)」は当時の書状でも散見されるんだよな
「ちゝミたる」や「遠慮深く」なんかは確かに当時見ない表現だけど
・宮島
(天正9年)5月16日付重富新五郎宛吉川経家書状
「屋形様従宮嶋御下向候者、則被仰達可然候」
・はいくん(敗軍)
(天正9年)7月29日付亀寿丸・あちゃこ・かめちよ宛吉川経家書状
「かミしゆの事、やかてはいくん候するまゝ、めてたき御さう申くたすへく候」
(文禄2年)5月18日付伊良子信濃守宛最上義光書状
「木村ひたち・はせ川藤五郎をはしめ、ほそ川けい州のちやくしなと、こそ霜月ほくそ(牧使=晋州)のしろニて、はいくんを申候とて」 真田昌幸に書状を送ってる八月十日までは西軍に優位だったし多少調子が良いこと言っても然程詐術にはあたらんだろう。しかも三成は西軍の大戦略を決める立場に無かったのに対徳川の最前線に送られていた訳で東軍の動きがわからなくても仕方がない 8月10日まで優位だった
本当にそうなのかな?
違いの条々出して東軍から離脱者が全く出てない時点で大誤算だと思うけど
西国大名の大半は無視したし >>85
> 違いの条々出して東軍から離脱者が全く出てない
> 西国大名の大半は無視した
長尾為景から三代(正確には四代か)にわたって着実に背信、不実、虚言、裏切りを積み重ねてきた上杉に言われてもなあ、何だかなあ…
って所だろう。 なにを言ってるのかよくわからんが、景勝が豊臣家の為に
逆臣家康を誅スべしといった直江状と内府違いの条を
併せたような檄文を全国の諸侯に発送し天下に義兵を募り
決然と挙兵したといったような架空小説でもあるのか? >>85の脳内歴史にはそういう勇ましい上杉がいるのだろう。 謙信ならともかく景勝で家康に勝てるとはとても思えない
景勝ってそこまで戦歴ないし
そもそも最上攻めでの上杉軍弱すぎるでしょ
それとも志村が強すぎただけか?
おまけに名将とか義の人とかいわれてる直江兼続は、畑谷城を落とすのに苦戦して、その腹いせから周りの領民も
含めた大虐殺までやらかしているし 実際徳川の行動は止まったからな。伊勢も制圧して西国も確保してる。ところが美濃に全く兵が集まってないところに東軍は先手衆を投入してきて逆に潰されたという結末なんだが八月十日時点でこの未来を見通せというのは難しい >>78
>実際、上杉景勝のように中立を貫いた大名も少なくありませんでした。
なにこれガイジ? >>90
西国も確保している
ならば兵力を全て美濃、伊勢方面に集めるべきだった
1番やったらいけない兵力の分散をしている時点で制圧しても全く意味が無いよ
逆に東軍は秀忠だけは別になったが、それ以外はほとんど一つにまとまっていた
この差は大きい
10日時点で既に西軍はバラバラ
必要ない宮津に兵を向けたりしてるし >>92
西軍の兵は三成の私兵じゃないんだよ。
兵の集まり云々言う前に、出れば負ける戦の弱さをなんとかしろよ。
多勢相手に勝てとは言わんが、少数相手に負けるとかやる気あんのか? >>0091
中立は言い過ぎかもしれませんが、一次史料を精査すればわかることです。ここは素人
ばかりで、僕のような専門家の中でも最高峰といっていいレベルの考察をできるひとは、
いないでしょう。実際、みなさんの書込みを見ても、確証とまではいきませんが、束になっても
僕の足元にも及ばない、ということがいえるでしょう。 >>94
じゃあ名前を晒してくれ。
そしたら論文なり著書なりを検索して内容確認するから。
ペンネームで書いてるならペンネームのほうな。 >>94
おっ、新キャラか?
これまた随分香ばしいバカだなw 後知恵とifはもううんざり
せめて根拠となる史料つけてくれ まあ根拠となる資料が出れば出るほど西軍の残念さがあらわになるわけで。
かつては無能オブ無能の毛利輝元がやらかさなければ勝ててたろ、だったのが、
資料が増えてくるに伴い何やっても無理や、むしろ壊滅しなかった毛利はまだマシだったって状態だもの。 >>99
史実とは全て構造だから元々そういうもの。
二言目には誰某が無能だからとか有能だからとか、
そんな絶望的に低いレベルに議論を還元するゲーム脳の白痴ばかりが最近殖えてるのは実に嘆かわしい。 戦史でif考えるのはよくあることだが。
欧米でもワーテルローはどうすれば勝てたか、
とかあるだろ。 >>101
ifと妄想は違うのよ。
例えば、「関ヶ原に毛利輝元が大坂城2万の兵力を連れてきて指揮を取ったら?」
これはifではなく妄想。
超えるべきハードル、起こり得る影響、そもそもの史実の兵力等を明らかにせずに、
ポンと大軍と指揮権が湧くわけだから妄想以外の何者でもない。
「岐阜城が米野の戦いをせず籠城に徹したら?」
これはifになり得る。
ただしこの場合、防衛戦を下げることによる、美濃南部の離反や犬山城との連絡線の断絶の影響は論じないといけない。 西軍が勝つまでの前提が多すぎて、様々な要因をifにしないと想像すらできない
・家康がやらかしまくって、武断派のイメージが西軍未満になった
・20万近い軍勢の兵糧が調達でき、うち最前線7万(関ヶ原の部隊)にも余裕で届いた
・輝元がお家騒動を起こさず、吉川広家,毛利秀元からの信頼を得ていた
上記三つのうち最低二つは満たせないと、土俵にすらも上がれないと思う
それだけ最初から勝ち筋のない戦い >>103
その時点で「妄想」なんだよ。
ifっていうのは、ある時点で前提条件の変更無しに取り得た選択肢の検証であって、
そんな「もし西軍が強かったら(東軍が弱かったら)、西軍が勝った」程度の話じゃないんだよ。 まぁifで言うなら関ヶ原合戦当日に雨が降って合戦が始まらなければ西軍の動きは変わったのかなとは思う
東軍は会戦する気まんまんだろうしあまり史実とは変わらんか… >>102
つまりそれ、岐阜城後詰決戦案やん。
寄せ集めの勝馬ライダー軍団の犬山城衆は岐阜が健在なうちは日和続けると予想する。
5000〜6000で犬山籠ってればそう簡単には落ちないんだから。
市橋徳永が暴れてるのは、そっちに戦力割いてる余裕ないから耐えるしかない。
主目的は岐阜が粘って東軍主力との後詰決戦。
別に犬山城後詰決戦でも大垣城後詰決戦でも構わないが
敵主力を撃滅しての勝利を志向する。
それが駄目なら初めて膠着からの勝利的和睦を模索するべき。
ただ睨み合って勝てるほどの戦力差がない。 犬山衆は八月初頭には徳川に内通してなかった?
福島正則らも油断せず付け城作ってるから騙し討ちも不可能、黙ってるしか無い。仮に織田秀信が渡河という最も勝機のある時を見逃したとして結局竹ヶ鼻は落ちるから大垣城からの救援は無い
「勝負に出て負け」の反対は「勝負に出なかったら勝ち」じゃない、「勝負に出ず負け」もある
ifを語れば打って出ない秀信を怯懦として犬山衆が堂々東軍に転向とか戦意喪失した岐阜衆が秀信を殺害とか山ほど出てくるし。どのみち渡河決戦で勝つしか道はなさそう >>102=>>106
> ある時点で前提条件の変更無しに取り得た選択肢
そんなものは無い。
「或る特定の選択肢を採った」と云う事象そのものが既に時系列的因果律と同時代的状況によって規定された固有の構造または函数であって、
「それを採らず他の選択肢を採る」と云う事象を想定する為には少なくとも上記を規定した因果律か状況のうち何れか、多くの場合は両方を改変しなければならない。
そして厄介なことに、
その改変はあらぬ方向に繋がって必ず他の多くの事象をも改変してしまう。
その結果殆どの場合に於いて、
或るifを構えるべき出発点の史実が存在し得ないと云うパラドクスに陥ることになる。
フィリップ・K・ディックが好んで作品とした所だ。
つまり「if」と「妄想」の間に区別など無い。
何れも等しく無意味な愚行でしかない。 >>109
八月上旬の時点で内通してたのは弟を人質として家康に出してた加藤貞泰だけだな
犬山衆も一枚岩じゃないし加藤貞泰の行動は犬山衆の総意と言うわけでもない
犬山城主の石川光吉も8月8日付石川光吉宛徳川家康書状に
「先度飛脚到来之砌、可為返札之処、飛脚其儘立帰候間、無其儀候」
とあるので徳川とは通信していたようだが、加藤貞泰のように人質を出した
とか何か具体的な行動で以て徳川に忠節を示したというものは見られない >>111
あれ石川って戦後に改易されてるのに、内通してたのか?
それとも擬態か? >>107
関ヶ原の日って確か濃い霧が出てたんでしょ?
雨と大して変わらなくない? >>102
「関ヶ原に毛利輝元が大坂城2万の兵力を連れてきて指揮を取ったら?」
これって8月29日付保科正光書状で正光が答えてなかったか? やはり7月中に清須を落とせば
西軍につく武将多く
裏切らも出ないかも
特に毛利 逆に清州落として尾張制圧出来れば
東軍から寝返りはあり得ただろうか >>113
石川は内通してないでしょ
恐らく徳川と連絡手段が完全に絶たれないように誼だけは通じておこうってことだろうな
8月25日付山内一豊宛先加藤光政(貞泰の叔父)書状
「左衛門尉いぬ山に居申候、なに共めいわく仕候、
寔石備も御ことわり申候ハてなり申ましく候間、やかて罷出候ハんと存事に候」
現在貞泰は犬山に在城しているが迷惑している。石川が決断しないと開城はできないがすぐに下城できるだろう
と言っているので、石川が8月8日の時点で内通してたなら貞泰に与同してもっと早くなんらかのアクション
(例えば人質として犬山城に拘束してた山村良候の解放とか)があってもいいと思うが、犬山
の開城は9月3日でそこまでは目立った動きはないし石川の内通はなかったと見るのが自然だね もし西軍勝利でかつ秀頼が死ぬと
豊臣唯一の生き残りは完子だから自動的に婿だか婚約者だった秀信が豊臣家継ぐわけか >>118
???
敵の総大将と誼を通じている時点で内通に当たるんじゃないの?
改易されてるが助命されてるのはやはり内通していたから、と見れるのでは? >>120
万一の時のために保険として連絡はとってたけど内通まではしてないと思うけどね
実際石川は加藤貞泰のように人質を出したりしてるわけでもない
8月8日の時点で石川がはっきり内通してたなら、城主である石川から家康へ犬山の様子を報せる
使者が送られるのが自然だと思うが、加藤の重臣が江戸にやってきて犬山の様子を家康へ報告してる
8月12日付本多忠勝・井伊直政宛徳川家康書状
「此者加藤左衛門尉長敷者候、然者犬山へ左衛門尉相籠付而、様子之儀申遣候、於其地羽左太令相談、可然様才覚尤候」
更に少し後になるが8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状
「上方石治少・大刑・石備書状、御才覚にて御取被成候、則状江戸へ致進上候、定而可為御大慶候事」
とあり、石田・大谷・石川の書状を山村と千村が奪って江戸へ送達したとあるから、もし石川
が家康に内通を匂わすようなこと言ってたとしてもこれ見たら家康も信用するわけないよね
岐阜県博物館の山田氏の論文にも「城主石川光吉に対して、家康は西軍に与している
ことを知りながら看過し、丁重な対応がとられていた」とあるけど自分も同じ見方だね >>101
ワーテルローはブリュッヘルを合流させなければ勝てた 確かに犬山援軍の稲葉、加藤、関、竹中は犬山開城後に東軍に加わってますが
犬山城主の石川 貞清(光吉)は開城後も東軍に加わらなかった位なので
寝返る意思はなかったと思います。
家康との通信は8月8日書状に其方兄弟之事 連々懇切之事二俣間
弥不可無沙汰与存とある兄弟というのが兄の石川光元のことと思われ
この人物は以前家康の側室亀の方(関ケ原の年3月に家康との子の八男仙千代を
亡くし、11月に2番目の子の後の徳川義直を出産)を側室としており
一子光忠(後に異父兄弟の徳川義直に仕える)を設けていることと
関ヶ原前年に徳川家康の差配により美濃金山城の天守櫓と古材を下賜され
犬山城の改修工事を行ったという縁によるものではないかと思います。 犬山衆は八月には降伏してるし家康もそれに対処してるので犬山衆は何の役にも立たない。何もしなければ家康に助けて貰えるんだから
犬山衆が動くなら「織田秀信が出撃して東軍先手衆大敗」しかない。秀信が引き篭ってるのに家康を裏切る道理がないもの >>110
会話の内容に無駄が多いってよく言われない? 三成の書状は無駄というか同じようなこと繰り返したり
立て続けの書状でも前便で言ったばかりの事で省略してもよさそうなことも
くどくど書き連ねたりとにかく長いししつこいよな
偽書疑惑もある9月12日の書状もそうやし >>127
むしろあのくどさが本物だと示してるんじゃないか?
三成の性格そのものが書状に出ていると言えるし >>124
戦場経験が皆無の秀信で東軍先手衆を破るなんて絶対に無理 よな
それを実現させるなら宇喜多クラスを岐阜に出向かせないと >>130
宇喜多じゃダメでしょ
前年の御家騒動で明らかに軍が弱体化している
8月17日と18日だったかな、戸川達安と明石全登の間で書状が交わされているけど
弱体化しているのを明らかに明石が隠そうとしているのがわかる
それに吉川広家が安国寺と7月15日に議論した際、「宇喜多や小早川は若くてまだ経験も浅い」
と言ってるし 美濃衆を味方にし、犬山も確保し美濃衆を犬山に詰めさせた。
ここまでは小牧長久手と同じ。
石田と秀信でさらに尾張への進出を企図していたところに
南濃方面での市橋徳永らの攻撃。これに大垣衆が対処してるうちに尾張進出は有耶無耶に。
美濃に戦力があるならば、対清洲として、
小牧長久手同様、楽田、小牧山への進出、
さらには守山、那古野、熱田、鳴海の線で楔を打ち込む。
これが理想。
しかし現実には史実の美濃の西軍戦力ではまず不可能。
少なくとも東軍先発隊と同じくらいの戦力が必要。 >>131
8月18日付明石掃部頭宛戸川達安書状
8月19日付戸川達安宛明石掃部頭書状 >>132
対処しているうちに有耶無耶になったのではなく、弱くて大敗を喫したから身動きが取れなくなっただけ。
孤立して攻めに出ざるを得なくなった相手に対して、倍の兵力の防衛側が1日で敗走、
翌日には追加の援護もなく落城するという戦下手がどうすりゃ勝てるというのよ? というか、家康はさすがだよな
戸川を通じて明石にゆさぶりをかけたり、宇喜多の息子に婚姻を約束したりと
さすがは長年の経験から敵をゆさぶっている
それに対して三成は単に秀吉の下で働いてきただけのためか、全くこういうことが
できない
総大将の輝元も調略とかまったくできないし >>135
お前ID:Bo5Sjdj4でしょ?
輝元も三成もポジショントークも知らん奴に言われたくないだろうなw >>134
兵力が多ければ解決する問題。
福束城のことを言っているなら、惨敗なのは間違いないが
福束に派遣したのは家臣の舞兵庫。
岐阜の後詰に行こうとして黒田藤堂田中に蹴散らされて敗走した石田先鋒も舞兵庫。
福束は数的優位にも関わらず惨敗、
河渡は数的劣勢かつ奇襲受けて敗走。
福束はなにしに行った、
河渡は仕方ないといった個人的感想。 あまり言いたくはないが、舞兵庫の戦闘指揮能力に
問題があるような気もする。
もちろん、舞兵庫に任せた石田にも責任はある。 舞兵庫の戦闘指揮能力を判断できるような史料は残っていない。兵数も不明 >>137
対象は福束城のつもりだけど、本当になにしに行った、だよな。
あれに勝てない、いや、勝てないまでも粘れない時点で、
どれだけ兵力積めば岐阜城救援が成功するというのか。
比率的には8万人くらい投入しても1日で瞬殺だからな。
20万人くらい必要になるんじゃないのか? Wikipediaでは秀忠の遅参は、地形や報告する伝令の遅れとあるけど、9月9日付で
秀忠が福島正則に対して再度の真田攻撃をするという旨の書状を出しているのはどういうこと?
9月9日に伝令が来て、にもかかわらずまだ攻撃しようとしたってこと? 朝野舊聞襃藁に家康の西上指令の使者が秀忠のもとに到着したのが
同じ9月9日とあるので,赤坂諸将宛の書状を持った使者が小諸を発した後に
家康の使者の大久保益が到着して翌10日秀忠軍小諸発ということでは
9月11日里見宛秀忠書状には家康より申し越され(指令、命令)罷り上がる
(西進)とあるので、この時系列で大きな相違はないと思う
ただ森家の記録に9月8日家康の使者が到着したとあるらしいので
この点は疑問として残る。 岐阜に関しては三成の責任は無い。美濃が落ちる事が何を意味するか考えてなかった輝元ら西軍首脳部に問題がある。計画通りの25000人でも少ない上にそこに遠国の島津を配備して案の定兵数不足(軍役5000に対して実数1000人) 9月9日付の秀忠書状なんてあったっけ?
森家先代実録所収の9月8日付秀忠書状
「従内府急可令上洛由被申越候間、先々明日小諸迄罷越候」
内府より急ぎ上洛せよとの命が下ったので明日小諸まで行くとある
写しだし日付が誤ってる可能性も考えられるな 9月9日福島、池田、細川、伊奈、加藤嘉明、浅野幸長宛秀忠書状に
岐阜城攻略について誠御手柄の談、無比事共候と岐阜城攻略について激賞し
我等(秀忠軍)は真田表仕置きのため家康の命で出陣,この表暇明次第上洛すると
あるので,この後に家康の使者が到着したと思われる
ただ漢字が相違しているのと黒田が参戦した合渡川での戦勝に対する讃辞
を除けば殆ど同じ文言の書状が秀忠より9月5日黒田長政宛に出されており、
同じ様な言い回しは同一人であれば当然で、黒田以外の諸将に改めて後日
岐阜城攻めの賞賛と自身の今後の予定を申し送ったとしても不思議ではないが
5日の書状(黒田家所蔵文書)を基に
9日の書状(古文書集所載)を偽造した可能性も捨てきれない >>144
西軍の美濃方面の司令官って誰なの?
西軍って雑軍だから指揮が明確化されてない
これじゃ何やってもダメでしょ >>146
あー古文書集所収文書ね
失念してたわ
9月5日付の秀忠書状は黒田長政宛(黒田家文書)、加藤嘉明宛(五島美術館所蔵)、
本多忠勝宛(本多忠敬氏所蔵文書)とあるけど三通ともほぼ同じ内容
まあ普通に考えれば9日の書状は後日まだ知らせてないメンバーに同内容のものを送ったと考える方が自然だな
加藤嘉明だけ重複してるけど あと細川家記所収の9月5日付秀忠書状忘れてたわ
多少の異同があり加勢としてやって来た三成の人数を討ち果たしたという部分の記述がないが他は同じで宛名がない
まあ細川忠興宛で間違いないでしょう
細川と加藤嘉明が重複してるということになるな >>144
責任がないどころか、一番責任が重いだろ。
取る予定のなかった美濃を勝手に引き込んで戦力になるならまだしも、3週間も保たずして大半を失陥。
それなら当初のラインである近江まで引けばよいものを大垣に拘った挙げ句、
秀秋に裏を取られて無謀な大垣城放棄からの数時間での壊滅。
どこに輝元のせいにして三成を擁護できる要素があるのよ? そうじゃ三成じゃすべては三成がしくじり、勝てる戦をとり落とし
わしは天下人になり損ねたのじゃ
家康が江戸を出たら三成より報せがあり、わしは天馬のごとく出陣し
内府一統を蹴散らし一気に勝敗は決するはずじゃったのに
聞けば目前に馬印を立てられるまで内府は江戸にあると思い込み
江戸を出たことすら察知してなかったというではないか
あの無能者を信じたのは一生の不覚であった、嗚呼やんぬるかな。 >>144
島津は7月30日付の毛利輝元・宇喜多秀家連署書状における動員命令を無視してる
庄内の乱と財政的に大軍動員が不可能だったんじゃないのか? 個人に責任を求める意味がわからん
そもそも伏見城に二週間かけた全員が戦犯だわ >>150
近江のどこで守るの、瀬田?
瀬田なら石田大谷は見捨てることになるね。 >>156
瀬田を本陣として、出城として佐和山城で良いじゃん。
結局三成が自分のところを最前線にしたくないからなんとしても美濃が欲しかったんでしょ。
他人の城なら伊藤盛正のように追い出して居座るくせに。 >>155
史料はもう挙げないが、その段階では内府が大軍率いてすぐやってくるぞーってのが西軍の想定
瀬田に加えて淀にも普請予定だった
これ推測になるが、東軍の主攻は東海道と西軍は考えていたと思うけどな
ぜんぜん家康がやってこないから、三河表で迎え撃とうとしたがこの計略は失敗
敵主攻の想定ルート?伊勢を総大将格の毛利軍が受け持って制圧している
三河、尾張までは手が出せなかったが、むしろ西軍は当初の大戦略より押し出せているんだよ
「関ヶ原」という土地で「東軍」が勝ったことをいまの人間は知っている
そのこと頭からぶっこ抜いて史料読みたいところ
関ヶ原は「必然」ではない >>158
なおさら伏見城に時間かけるわけにはいかなかったのでは? >>159
後知恵で「こうしてたら~」というのに興味ないんで 伏見城は放置出来ないからコストかけて強攻したんじゃないの
2週間程かかったのはそれこそ結果 西軍でまともな実戦経験あるやつは秀元行長くらいで秀元はやる気がなく行長は歴戦の指揮官が軒並み本国待機
義弘は戦力に数えられない
宗茂はやる気があるのかどうか そもそも三河で迎え撃つなんてのは石田三成以外誰も言って(書いて)いないのよな。 大垣城を重要拠点とし尾張三河で徳川勢を叩く、総大将輝元は浜松まで出馬、
上杉、真田は徳川領に侵攻って小牧の戦いの2年後に計画されていた
第二次徳川討伐計画みたいやね、この時は地震で頓挫しなければ
ある程度の損害を覚悟すれば成功しただろうけど
1600年ではあまりにも状況が違い条件が悪すぎるよね。 >>165
そういやそれもあった、地震が主因で中止になったやつ。
どのみち東海道は桑名熱田が海路で大兵力の迅速移動ができん。
自然、美濃からの木曾川渡河で尾張か、中山道ということになる。
時期的に今度は北条の援軍が徳川に来るだろうが
実行されたらどうなっていたかは興味深い。 8月7日付の佐竹義宣宛石田三成書状なんだけど、この書状で出てくる「無二の京家次第と申し候間」って何のこと?
朝廷? >>166
北条の腰の重さと外交能力からして、そんな援軍を送るとは思えない
どうせ対岸の火事だと思って傍観するだけだろう
実行されたら家康の滅亡があり得たかもしれない
ただし秀吉側もそこそこ被害は出ただろうが
結局、指揮する人物にもよるんだろう
関ヶ原に若い全盛期の秀吉がいたなら、西軍が勝てたかもしれないが 秀吉みたいな野心と能力が最高峰の大名がいたら秀吉死後から動きまくりだろ
秀頼が秀信になるか >>162
伏見城の兵力ってせいぜい2000だろ
8月1日付の大老・奉行連署書状でもそう書かれてるし
2000で、周りが完全に敵地でどうしようもない奴ら相手になぜ構う必要がある?
同数で包囲して放置してさっさと美濃方面に向かうべき
その後で伏見城なんかどうにでもできる
信長だって浅井、朝倉を後回しにして先に京都に向かったりしている
まあ戦略も戦術も決めるのが誰か、というのが一貫していない西軍では無理な話か