石田三成の挙兵 ★8
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>>841
そりゃそうなんだがそもそも大垣衆と南宮山は指揮系統が違うから前進させる事がまず出来ない
だからまずは相談してそこから戦略を決めないといけないんだがそんな余裕は無い。即決でどうにかするしかない状況で大垣衆としてはベストな選択をしたと言える >>851
いや、形としては後詰決戦の形なのだから、指揮系統違うから相談すらしないとかあり得んよ。
もっと言うなら、吉川やその後方の毛利はともかく、前方にいた安国寺恵瓊は同じ指揮系統だ。 >>850
そりゃもう当時は最先端だし当時としてはよくできてる。
問題なのは明治26年に書かれた物が更新されずについ最近まで最も権威のある第一級史料として扱われたことだけ
戦後日本じゃ軍事は学問どころか忌避されるものになっちゃったからしょうがないけど。今でも戦国研究者は軍事オンチばかりだから根深い。 これまでの通説がヤバすぎただけやろ
小早川の松尾山占拠を見てのあの布陣は流石にやべぇ >>854
いや、むしろあの布陣なら、元々小早川が西軍であると考えないと、おかしいのよ。
小早川が東軍の認識であの布陣を見れば、軍人ほど「西軍は何故自滅しに行ってるんだ?」と思う。
隘路の出口で東軍を待ち構えていたものの、小早川秀秋が後ろから裏切ったと考えるほうがよほど自然。 松尾山ってあの時点では西軍の伊藤がいて、小早川が追い出したって聞いた事あるんだけど
その辺の当時の記録ってどうなってるんだ?
これが正しいのなら、小早川は西軍の制御下とは思えんが >>856
小早川が松尾山に布陣してたことを直接示す一次史料はないね
なので伊藤盛正を追い出したというのも一次史料では確認できない
伊藤を追い出して布陣したと記述があるのは寛永諸家系図伝
9月12日付増田宛三成書状で伊藤に関する記述が確認できるが、伊藤の人質が大垣城にいることや、伊藤は若輩
だから家中の者が何を企むか分からんと三成が警戒してる様子が伺えるが、伊藤がどこにいたかの記述はない
まあ伊藤を追い出して布陣した件の真偽は別にしても、小早川が松尾山
近辺にいたのは史料読む限り整合性は取れてるし間違いないと思うけど まず大垣城から打って出たのは小早川秀秋に松尾山を取られた事を受けての対処とみて間違いない
仮に大垣から撤退する為なら東軍に捕捉されてる訳ないしまた松尾山が東軍でも殿に囲ませて強行突破してるはず。それをせず山中で布陣を敷いていた訳でそれは決戦を志向した結果
決戦を志向しながら大垣城を出たのは戦術というより火急の理由。吉川家文書には大垣城で徳川と戦うと決めていたのに大垣城から出撃されて動揺した云々とある。これから大垣城は事前の作戦を放棄してでも山中に向かわねばならなかったと推測される。その理由が秀秋の松尾山占拠というのは筋は通ってる >>852
西軍が負けた理由でもあるんだけど西軍は実は指揮系統が二つある。一つは豊臣軍系、そしてそれ以外の諸大名軍系になる
石田三成は確かに豊臣家奉行で豊臣軍に属してる
だけどだからそれで諸大名軍にまで軍事指揮権があるのか?というとおそらく無い。そうした動きは見られてない
だから三成や大谷吉継、宇喜多秀家ですら南宮山に命令は出来ない。南宮山の主力は安国寺恵瓊・吉川広家・毛利秀元ら毛利軍で指揮権は毛利輝元にある。それを如何に豊臣秀頼配下とはいえ輝元の頭ごなしに命令なんて出来る訳もない
手続としては三つ、一つは南宮山に使者を送って自分達の考えを述べて相談する。二つは大坂に使者を送って輝元に自分達の考えに同意して貰ってそれを南宮山に示す。三つは秀頼から輝元に軍事指揮権の譲渡を命令させるか 関ヶ原関係なけど
去年の大河に合わせて出版された家康関連の歴史新書読むと
同盟国(信長や信雄・北条)に対する家康の対応見て
やはり本質的には律儀な人なんじゃないかと思えてきた
それだけに輝元に対する本領安堵の
反故は厳しかったな 寛永諸家系図伝の黒田長政之項には筑前中納言(秀秋)は始めより
松尾山にありとあるね。
平岡頼勝の項には秀秋、三成と約して美濃国松尾の城に立て籠るとある
1641年から1643年に家光の命で諸大名に記録覚書等提出させ編纂された史料
だけど稲葉正成の様に徳川家への忠誠、貢献を強調するものでなく
別の家からの提出史料が秀秋松尾山に布陣という同一内容を記している以上
ある程度の信憑性は認めてもよいのではないだろうか >>861
それだと色々とおかしくならないか?
大垣城だって詰めてる兵の多くはあなたの言う「諸大名系」だから指揮権がないことになるし、
南宮山勢も長束正家は奉行そのものだし安国寺恵瓊は秀吉近習の豊臣大名だから、「豊臣軍系」に対する指揮権があることになる。
ましてや安国寺恵瓊や長束正家の軍は吉川や毛利より前面に展開して妨害されることもないのに。
穿った見方をすれば、石田三成が苅田の件ですら意見の合わなかった長束や安国寺を、無視して行動しようとした、とも取れる。 >>864
石田三成と大谷吉継はどちらとも豊臣軍系に属してるし宇喜多秀家は秀吉の息子、豊臣軍系にあたる。とはいえ指揮権なんて実質的にはどうでもよく大垣城で相談して決めたんだろう
じゃあ南宮山は?というと毛利軍に命令は出来ない。毛利軍系に当たらないのは長束軍、長宗我部軍、豊臣家弓鉄炮隊だけなんだから数が少なく過ぎる 一報を入れるべきだったというのは一考に値するが状況からみて適切かはわからない
松尾山の小早川をどうにかしないと詰みなのは明らかだからなんとかするとして大垣が行くか南宮山が行くかの択一。ただここからの戦略はかなり難しい。そもそも南宮山の毛利がどう判断するか次第で時間を掛けたら東軍に包囲されてしまう
どーすりゃいいの?ってなると大垣だけで向かうのがベストではあったんじゃないか >>865
安国寺恵瓊は毛利系ではないぞ?
秀吉に領国を与えられた豊臣系で、この戦いの首謀者の1人だ。
それに長束と安国寺で3300、長宗我部盛親6600を加えるなら、毛利勢抜きでも約1万は決して少なくはない。
(長宗我部盛親は増田長盛が烏帽子親なので奉行に指揮権有り) >>864
9月12日のその書状は偽書じゃないのか?
現在の暦だと10月18日
稲刈りは確か現在の暦でだいたい9月上旬から中旬にやるはず
戦乱で多少遅れていた可能性はあるが、いくらなんでも10月18日でまだ稲刈り
してなかったは少しどうかと思う
それに仮に刈田して、すぐにそれが食糧になるのか?
だいたいの作業で食えるようになるまで5日くらいかかるんじゃないのか?
それに東軍が刈田を放置するとも思えんし、そもそも大垣は西軍の領地なのに味方の領地を刈田するとか正気の沙汰とは思えん 大垣は完全包囲されていたわけではない。
苅田しようと思えばできなくはない。 >>868
苅田がどうこうというより、毛利系と豊臣系どころか、豊臣系、奉行の中でもろくに連携出来ていないと言う話では?
少なくとも個々の情報の精度はともかく、各書状を総合的に見れば、南宮山勢に何の連絡も入れてないのは確実。
どんな言い訳を並べようが、これはありえないほどの失態だよ。 徳川軍迫ってんのに、大垣と南宮山が連携して布陣できないってなると戦以前の問題か そもそも吉川広家が内通しているのを気づけてない秀元って…… >>872
そもそも9月12日の時点で西軍は迫っていることすら気づいていないんですが…… >>870
そういうわけじゃなくて、西軍の所領を刈田してどうすんのよ
伊藤が寝返っても文句言えんぞ 西軍の弱点として指揮系統が分断されてるので基本的に相談して決めないといけない。毛利も長宗我部も大名で独自の指揮系統にあるので豊臣軍だからと命令する事ができなかった
そんで関ヶ原は場所も状況も最悪過ぎた。松尾山を迅速に取り返さないと東軍先手衆が山中を押さえたら死亡確定、相談してる余裕は皆無。だから三成らが南宮山に報告しなかったのは余裕が無いが故の混乱の結果じゃなかろうか >>867
安国寺恵瓊は毛利軍に属する
確かに秀吉の諸大名統制の為に恵瓊は豊臣家から優遇されたけどそれはあくまで恵瓊が毛利家の重鎮だからであってその逆じゃ無い
だから関ヶ原でも恵瓊はあくまで輝元の指揮下にあるし負けたら毛利軍に身柄を拘束されてる >>875
本来の城から蹴り出してるんだから寝返ろうがどうでもいいしそんな事をうだうだ考えている戦況じゃないから ごみ溜めのここに読む価値のある書き込みなんてあるの?
お宅に見極めるだけの鑑定力があるとも思えんが、
あるならレス番上げてみてよ。 今や学者(学者至上主義ではないが目安として)のつぶやきもSNSで読めるから」 >>877
毛利方から安国寺を差し出したという記述は9月30日付石川昭光・義宗宛
伊達政宗書状や10月8日付秋田実季宛最上義光書状に見えるが誤報でしょ
言経卿記の9月23日条に安国寺が寺内で生け捕られたとあり、時慶記の同日条
にも同様の記述があるし徳川方により京都で捕縛されたと見るのが自然 苅田に関しては敵が赤坂・垂井に展開して明らかに大垣城を攻撃する意図がある以上やらない理由は無い。敢えて言えば苅田によって東軍と決戦になると時期尚早とか?
食糧かき集めないと大垣城が囲まれたら大坂からの後詰が来るまで耐えられるかどうか。ただどうしても西軍に戦略思想というかゴールが無いようには見える。おそらく「東軍は徳川軍(家康軍ではない)が来てから大垣を攻める。そこを受け止めて後詰決戦で粉砕して和睦の契機にする」とかなんだろうけど >>882
吉川家文書に関ヶ原後に安国寺がやってきて鎧を脱いで降伏したとある。ここに嘘を書く理由はあんまり無いと思う あの関が原で戦うこと自体が西軍側の負け確定だったんだから、
いっそ大阪に篭って無理にでも豊臣対徳川にしてしまえばよかったのに >>884
9月17日吉川広家書状案のことだと思うけど、史料集が手元にないので原文が
わからないが確か安国寺が南宮山に引き返してきて和談のことを聞き広家に
使者を通して切腹を覚悟(広家に覚悟するようにか安国寺が覚悟したという意味か)
安国寺は軍勢武具なども捨て一僧侶の安国寺に戻り毛利勢より先に落ちる
(と安国寺が言ったのか吉川がすすめたのか)といった内容だったと思う
降伏したという文言はなかったはずで意訳で高橋陽介氏が
関ケ原の合戦はなかったの238ページで安国寺は降伏したと
書いている明らかな誤訳以外に例はないのではないだろうか >>884
降伏?誤読してるよ
南宮山に戻ってきて切腹すると言う安国寺に対して吉川は逃げるよう諭してるんだよ
「安国寺も長大同前ニ中途まてのかれ候つるか、いかゝ被存候哉、自中途被引帰候而、南宮山被罷越候、
然者此和談之由被聞候て、定而腹可被切せ候条、覚悟可仕之由使者にて候条、且而左様有之事にても無之候条、
人数武具なとのけられ候て、しのひ候て出家一分之安国寺にて、先被参可然候ハん由申候て、右之とをりにて候」
安国寺も長束同様に退却したが、どうしたことか途中から引き返し南宮山へやって来た
この度の和談のことを聞き、きっと安国寺は切腹する覚悟だと使者から聞いた。私はその必要
はないので人数や武具を捨て、今は忍んで出家の身として先ずは逃れるのがよいと伝えた >>885
輝元にとって問題なのは徳川と対決すると高確率で毛利本領が攻撃されること。豊臣家が味方になってるところで西軍は負けた訳で秀頼の停戦命令書とかをばら撒いても効果ある訳ない
秀元と広家が結んだ総和談に乗っかって豊臣を売って少しでも本領を取ったほうがマシ 徳川家は一番微妙な立ち位置の結城秀康あたり含めて纏まってるのに
毛利勢はどいつもこいつも日和見焚き付け裏切り単独講和と好き勝手しすぎ
元就じいさんも草葉の陰で泣いてるわ >>887
すまん。どこが「逃げる」に対応してるのだ? そらぁ元就はがっつり自分の息子から家臣を纏めてたけど
テルは違うだろ?毛利では当主として上に立ってるけど爺さまみたいに纏めてる訳でもない
この場に限れば徳川に於ける元就ポジで元就な行動してるのが家康。
でも敵に平伏しても領地減っても家は残したしぶといテルを、元就爺さまは心底からは嗤わないだろう。 >>890
「先被参可然候ハん由申候て」
直訳すれば行くのがよいだけど、ここでは逃げるのがよいと意訳したほうが意味が通りやすいでしょ >>886
なんで毛利決起の全責任を安国寺恵瓊に負わせようとしてる広家が恵瓊を見逃すんだ?という話 >>889
他の西軍の状況を見れば、毛利勢は割とまとまってるほうだよ。
完全に異なる動きをしたのは小早川秀秋と安国寺恵瓊だけど、この2人は血も繋がらぬ独立大名で、「毛利」とは言い難い。 輝元がフラフラしてる印象は拭えない
命がけでやれば家康倒せたはず
そしてその気がなければやるべきじゃなかった
総大将になっておきながら腰が引けるなど匹夫 みんな輝元大好きだな
過去スレ見ても大体輝元も話題が多い そら輝元は主役の一人だし当たり前だろ。逆に増田の話題の無さは異常だと思うがw 輝元が主役の一人なのは確かなんだが
昔は三成に比べて薄かった首魁としての影がどうやら三成同等かそれ以上に濃くなってきてる印象
関ヶ原は三成の挙兵と言うより実は輝元の挙兵だったんじゃないかと >>893
それなら敗戦が決定的になった時点で吉川はすぐ安国寺の身柄拘束すべきだったのに、一旦は逃してやるとか随分余裕あるね
安国寺は毛利の御家存続のためのキーマンなんでしょ?何を差し置いてでも身柄確保しとかなきゃアカンやん
思いがけず安国寺が戻ってきたからいいようなものの、そこでなんで見逃すのかと言われてもね 輝元の行動は昔はただの無能扱いだったけど、流れを追うと色々な見方が出来て面白いんだよな。
最初から西軍(豊臣)は利用するだけで
毛利の権益拡大の動きとしてみれば、詰めは甘いが割と妥当な動きをしている。
その詰めの甘さがまたボンボンっぽくてネタに事欠かないし、
とはいえ毛利の行動を中心軸に見ると奉行衆かいかに滑稽なことやっているかが際立つ。 秀吉の遺言や官位豊臣家との関係等政権内での位置付けから見れば毛利は決して本流ではない
奉行が政権内での地位を望むのならどう考えても秀吉が豊臣家に取り込み本流に据えた家康につくべきだったのに
なぜか秀吉の構想を忌避して政権や秀頼から見たら他人の毛利と一味になった不思議 7月中に清須制圧
これさえできれば西軍につく武将増える 九州征伐までは秀吉も毛利を頼りにしてたし主流派って所もあったが色々あってその立ち位置は徳川に変わっていくんだよな >>899
自分は関ヶ原の首魁は安国寺恵瓊だと思っている。
戦国時代を生き抜いたベテランという意味では、西軍の面子を見た時に徳川家康とタメを張れるのは安国寺恵瓊くらいかと。
毛利輝元も石田三成も大谷吉継も、安国寺恵瓊と比べたらやはり若造。
島津義弘や鍋島直茂は中央政界に疎い。
宇喜多秀家や小早川秀秋、毛利秀元などに至ってはもはや赤子とも呼べる孫世代。
実際問題として、奉行衆と輝元の両方を動かせるのは、毛利の外交僧と秀吉の側近を務めた安国寺恵瓊しかいない。 恵瓊は信長の運命を予測(したと言えるのかどうかわからんが)したからって過大評価されすぎなんだよ
恵瓊が家康とタメなんかはれるわけないでしょ
秀元の処遇問題で本来は守り立てないといけない秀元をあっさり裏切って輝元についてた奴だし >>903
7月中に伏見城を攻めていたのはどこの軍勢でしたか……?
>>901
輝元は完全なる無能でしょ
もし輝元が自領を拡大する気があるなら応仁の乱の時の赤松政則を見習えよ
政則は播磨から山陽方面を山名がいない間にあっさり奪回して山陰まで拡大してるんだけど 恵瓊の関ヶ原後の行動は『卜斎記』にあるけど、
9月16日、毛利秀元と行動を共にした。服装は傘を被って黒い羽織とある 輝元が馬鹿なのは誰が見ても明らか
9月22日付本多忠勝・井伊直政宛毛利輝元書状
「分国相違なしという誓詞を預かって安堵したので、この上は西の丸を明け渡します」
10月初旬
家康「毛利は改易な」
輝元「騙された……」 家康のお墨付貰わずに退城してしまってはな、それでも三成ら処刑の翌日に
豹変することに変わりはなかったかもだが
家康が輝元退城を確認するまで大津にとどまったのは京都、大坂を刺激しない
為というのもあるが自ら大坂近くまで進出すると
家康署名の本領安堵の誓書を求められるのを恐れたんだろうな。 あれだけの大乱起こしておいてお咎め無しの本領安堵になると思う方がそもそもおかしい
騙された騙されたって被害者ヅラする前に己が何やってたのかをまず自覚しろよと
その辺の身の程知らずぶりは後年の大坂の陣の豊臣家に通ずるものがあるな 輝元は冷酷な野心家で自分の為なら部下を鼻紙の様に使い捨てる事も厭わない。それはそれで大将の格ではあるんだが三英傑と違ったのは輝元は自分の身を捨てる事が出来なかった。安国寺恵瓊を捨てる様に自分の命も捨てられたらまた違った結果になったろうけど 冷酷に切り捨てる輝元といえば、イエズス会の記録に関が原戦後
輝元が預かっていたか庇護を求めてきた小西行長の子を殺しその首を
家康に差し出したとあるけど、さすがに単なる風聞で事実じゃないよね? 初耳だが調べたら小西行長の嫡男兵庫頭というのがそれらしい 領土欲しさに反乱起こして最低でも死罪が見えてる場面、売れるものなら何でも売って生き残ろうとしたんだろ。安国寺恵瓊もそうだし小西行長の嫡男だって売ってておかしくない。石田重家が大坂城から逃げ出して家康の前まで行ったのも毛利に捕まったら死とわかってたからかもしれない
後、増田長盛も身柄を拘束されてた疑惑があるんだと ちょっとググってみたらブログだけど小西兵庫頭のことが書かれたのがいくつかあった
敵将の妻子は罪に問わない方針だった家康は首の受け取りを拒否したとか
さらには関ヶ原前兵庫頭とあの信康の孫娘との婚姻話が進められていたのにその兵庫頭を処刑したんだとか
イエズス会の記録にしかないのなら何とも言えないけど保身しか考えず空気読めない輝元ならいかにもありそう 良くも悪くも輝元は典型的戦国大名なんだよな、特に秀吉没後から関ケ原前後の行動は。
対する家康は元々国人大名であり、戦国大名であり、そして前田や奉行らと共に最も典型的織豊系大名でもある。
その分、少なくとも当主になった時から戦国大名なだけの輝元より色々場数を踏んでるから物事を柔軟に対応する。
本来欲した領地を得たくて行動するため策を弄するのと、そんな連中の意図すらも含め対応出来るのでは
自ずと視野や行動の幅は異なるだろう。 >>917
関ヶ原は本当に経験の差だと思う。
弱小時代から豊臣と引き分け、日本一の大大名まで経験した徳川家康。
安芸備後周防長門の4カ国を領する戦国大名からスタートし、豊臣に臣従した毛利輝元。
秀吉死去までは秀吉の部下でしかなかった石田三成等の奉行衆。 毛利家に小早川隆景がいたら、あるいは家康と互角以上にやり合えただろうがな…… 隆景いたらあえて家康とはやりあわないでしょ
やり過ごした方がはるかに良い もし輝元に転生するとするなら82~84年の間が最重要だな
徹底的に秀吉にへつらい律儀者の称号を得て徳川を叩く事に全力を尽くす 小早川隆景はそこまで評価出来ないかな。
宇喜多を切って織田に着くべきとの安国寺恵瓊の献策を却下したのに、
輝元の上洛にも反対して播磨を見殺しにした結果、よりにもよってその宇喜多が織田についてジリ貧という。
豊臣に臣従後も、豊臣政権下で毛利が着実に弱体化をさせられるのを止められていないし、
毛利から小早川に移された所領は隆景がいなくなった途端に没収されるほど軽い扱いをされてる。
というか特に何もしてないのに2度も領地没収を食らった秀秋、どれだけ秀吉に嫌われていたのかと。 >>920
そうだな、隆景なら関ケ原時点での前田ポジを確保して
もう少し史実よりも毛利領を保全する方向にするだろな。
まず徳川とガチ対決なんて流れは意地でもしない。徳川と一緒に豊臣を見切ってしまうだろう。
長期的に豊臣従属が毛利に利益をもたらす訳じゃないしね。まあ徳川従属でも対外交易権益とかは無いけれど。 隆景が生きてたら変な動きしそうになった輝元を折檻して終わり。かなw 小早川隆景の高評価が本当にわからん。
中国大返しのときも含めて、勝負どころを全部日和って衰退を続けてただけじゃん。
そして肩入れした秀吉には乗っ取りがてら秀秋を押し付けられ、小早川領は豊臣家に吸収させられた。
瀬戸内の利権も差し出し、輝元の育成にも失敗し、何も残らない。
なにか少しでも、毛利家のためとは言わず、小早川家のためにですら良いことがあったか? >>925
仮に大返しして、あの当時の毛利の実力でその後何ができるわけ?
信長の侵攻で最早青息吐息だし
秀吉について120万石を維持できただけでももうけものでしょ
北条みたいに道を誤らなかっただけ >>926
別に姫路や京都まで追撃しろとは言わんよ。
明智支持を打ち出して備中を回復する。
それだけで秀吉は十全に動けなくなるし、畿内の混迷は深まる。
別に後知恵でもなんでもなく、むしろ吉川元春等の主張のほうが普通の考え。
隆景の先見の明だったならともかく、結果はどんどん秀吉に削られていったのだから。
結果を出せなかった輝元が無能なのだから、隆景も無能だよ。 ちなみに北条を引き合いに出しているけど、北条が滅亡するまで秀吉を「育てた」のは誰だって話だ。
織田家中が秀吉のものになるまで完全に後方を安泰にし(他の織田重臣は後方に敵を抱えていた)
四国や九州に兵と、何よりも大量の銀を供出して楽に太らせる。
統一がなったら重用されるどころか朝鮮ですり潰させられ、隆景が死んだら即座に筑前没収。
まあ毛利としての話は当主の輝元の責任だから置いておくとしても、小早川家の当主として無能も良いところだろ。
小さくなっても、吉川広家のお陰でも、家だけは残した無能輝元以下だよ。 家臣の嫁を横恋慕して危うく家を潰しかけた馬鹿を助けた馬鹿は誰か知らんのか? >>932
ところが、結果的にその家臣から強奪した嫁だけが嫡子を産んでお家が繋がるのだから世の中はわからないものだよなあ。 ・援軍に来ているのに手も足も出ずに対陣するだけ
・瀬戸内海の補給路が不安定化した
・そもそも度重なる遠征と援軍失敗で国人達の不満が増大している
・輝元→元清宛の書状に現地の苦しい状況が語られてた筈
(武器も飯も碌にない、武器は錆びて〜〜おまけに士気が恐ろしく低いみたいな内容だった)
高松城時の毛利は末期武田に近い状況で追撃なんて不可能 毛利って一応本能寺後に軍事行動はしてるんだけどな
宇喜多と同時期に毛利から織田に鞍替えしていた南条家の城を攻撃して落城させてる
それと毛利家臣の杉原氏が1584年に秀吉に内通の疑いで処刑されてるらしいので
この時点では一応は秀吉(というよりは織田か?)と対立する気はあったようだ 山崎の戦いの時点で柴田勝家は越前に戻ってるし徳川家康も戻ってるから秀吉抜きでも明智はどうしようもない
明智の味方が少なすぎる
関ケ原の西軍は明智に比べればメチャクチャよくやってる そりゃ明智と比べちゃイカンだろ
明智、西軍と違って全然事前根回しの類い全然してねぇんだもん(していたとしても形跡が残ってない)。
事後慌ててしてるけど、案の定ソッポ向かれてしまう訳で。
西軍は毛利らと奉行とは事前それなりにしてるんだからちょっとなぁ、泥縄式だけど。 >>940
泥縄なのは仕方ないだろ、西軍だって家康が大坂を留守にしてくれないと軍事行動できないよ
大っぴらに軍勢集めてるとまず家康がノコノコ上杉征伐に向かってくれないだろうし、
下手に軍勢集めると「じゃまず手持ちの兵力のあるお前らが上杉征伐の先鋒やれ、
何、大坂に異変があってもワシがいるから安心しろ」とか言われる可能性もある まあ明智の場合は根回しなんてしたら信長に密告されるだけだからね
上杉毛利長宗我部は使い物にならないし あちこち攻めて、兵力分散しすぎだよなあ
家康はもう江戸から動けないって思い込んでたのか・・
でも江戸出立から2週間かかったんだから、
来てるのはわかったよねえ >>940
むしろ関ヶ原って、上杉征伐前から含めてめっちゃ資料残ってるよな。
勝者の徳川がずっと安泰で、敗者の毛利も家は残っているからだろうけど。
しかしこれらの文書、特にかなりクリティカルなことが書かれている吉川家文書が出揃ったのっていつなんだろ?
それだけでかつての定説が完全にひっくり返ってる。 そもそも朝鮮出兵で西軍諸大名は疲弊していたのに、そこに関ヶ原なんて無茶すぎる
三成らはやるにしてももう少し時期を考えろよ そゆこと首謀陣の出した勧誘状にもこのまま一人一人やられたら
秀頼様をお支え出来なくなるみたいなことが書かれてるし
安国寺の言う我々(首謀者グループ)が相談し会津が堅固なうちに
挙兵と決した(吉川家文書917号)ということだろな
この文書は翌年以降に書かれたものとはいえこの部分は状況的にも
西軍諸将の出した書状とも整合するし信用してもよさそう >>947
関ヶ原ってのは歴史のIFの回答かもしれないな、とちょっと思った
・朝廷内の実権を握った藤原氏に対して大伴や橘が団結して反抗したら?
・鎌倉幕府の実権を握った北条氏に和田や三浦らが一斉に反抗したら?
その答えが関ヶ原後の家康の対応なのだろう
要は「政権内の最大権力者が政権そのものを見限ってしまう」というものだ
だってこんな面倒事になるのならシンプルに自分がトップの政権作った方が早いもの
豊臣家視点だと下手に反家康派の大同団結などさせずに各個撃破させた方がマシだったね
その方が豊臣の神輿を担ぐ徳川という形で豊臣政権が残った可能性が高い
誰が反家康派をまとめようとしたのか知らんが、余計な事をしてくれたものだ >>950
誰がと言えば安国寺恵瓊一択でしょ。
年齢、経験、奉行衆と毛利双方への発言力、権威。
まあ、奈良時代から続く、「坊主に政治をやらせるとろくな事にならない」のひとつでしょ。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。