石田三成の挙兵 ★8
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>>765
「名誉回復してもらった恩義」とやらはどんな史料に書いてあるの?
黒田長政が家康の裁定をどう受け取ったかなんて誰にもわからんだろ 一次史料からみえてくるのは
・西軍になにか明確な軍略ははじめにはなかった
・とりあえず瀬田の東岸に防衛線引こう
・すぐ東軍が来襲するかと思っていたら、案外にこないが案外に伏見攻略にまごつく
・緊急会議で各自の方面が決定、主力は伊勢方面
・願望は三河で迎撃、ダメなら美濃
・大津が態度を翻してわちゃわちゃ
・輝元本隊は前線に来てほしかったけど愚痴るだけ(家康本隊もこないんじゃという憶測)
ざっと言えばこんなもんか
当初の方針なら三成は佐和山で腹かっさばくか、佐和山放棄するしかない
東軍は東海道使うと考えていたのかな >>774
実際閏3月19日付蜂須賀家政・黒田長政宛五大老連署状が出された後に黒田と蜂須賀は
名誉回復して復権を果たしてる訳だから、そりゃ普通に考えれば家康に恩義を感じるわな
これで恩義を感じない人間がいるのならアスペとしか思えんね >>775
西軍の主力は西国大名だから大多数の西軍大名には
いざとなったら大坂を捨てて自分の領国に帰る選択肢が常にある
家康が大坂に到着するまでの途上で本拠地が壊滅してしまう西軍大名なんて
三成を始めとしたごく少数に過ぎない
だから大多数の西軍大名にとっては明確な軍略はあえて持たずに
最後の選択肢を残しておくようにした方が都合がいい >>772
伊勢の拠点は桑名。ここが岐阜同様1日で落ちるようでは意味がないが、
桑名を籠城で10日も粘れば畿内と美濃からの兵力で挟撃できる。
そして美濃と決定的に違うのは、
伊勢は渡海しなければいけないと言うこと。
兵站線設定は困難だし、なにより退路は海。
東軍からすれば木曽川渡河の美濃攻撃以上にリスクが高い。
よって西軍からすると東軍の伊勢侵攻は敵主力撃滅のチャンスとなる。
伊勢で重要なのはとにもかくにも桑名の保持。 >>770
北陸に軍を差し向ける?
三成が真田に宛てた書状では越後の堀秀治も西軍の言うことを聞いてるみたいに書いてるから、堀は二股かけていたか
上杉と石田の間で連絡がとれてなかったんじゃないのか?
前田利長も「老母が〜」ということで西軍ともパイプを持ってたみたいだし、二股をかけていた可能性がある 利長って躊躇わずに西軍を攻撃してるしどのみち侵攻しないとマズいだろう。いくら利政が西軍派だからといっても 誰が誰を敵とみなしていたか、を考えると西軍は、より勝ち目がないことに気がつく。
石田三成ら奉行衆は、徳川家康を敵視していて豊臣恩顧を取り込めると考えているけど、
逆に豊臣恩顧、特に武断派は反石田、反奉行衆、豊臣のために奸臣の排除くらいに思っている。
むしろ徳川家康はなんでワシ石田三成らに恨まれた?この間、助けたじゃん?って状況。
そして、小早川秀秋は秀頼誕生以降疎まれた側で、奉行衆が豊臣のためと言うほど西軍から離れる。
なにより西軍総大将の毛利が完全に反豊臣の姿勢を鮮明にした。
四国九州攻めが豊臣秀吉が潰した村上氏、河野氏、大友氏の再興を旗印に行われており、
これを奉行衆が認めた時点で、豊臣のためというお題目は完全に吹き飛んでる。 伊勢を生かすには水軍が無ければ無意味でしょ
特に桑名は水軍か伊勢大湊衆がいないと軍勢の輸送もままならない 信長や秀吉が力づくで天下を奪おうとするのを命がけで阻止しようとした人間は
当然ながらほとんどが信長や秀吉に殺されている
1600年に生き残っている大名というのは、力づくで天下を奪おうとする人間に対して
真剣に抵抗しない・不利を悟るとすぐに諦める大名ばかりだった
家康の天下取りにムキになって抵抗したところで浅井長政や柴田勝家みたいになるだけ
当時の大名なら戦の知識があれば誰でも簡単にわかることだった
だから毛利を始め西軍大名が不利を悟るとすぐに諦める自然な行為だったと言える
三成のように戦に詳しくなく奉行職復帰に執念を燃やしていたのが特殊な例外なだけ むしろ毛利や真田の行動なんか、典型的な戦国大名だよな。
昨日の身内だろうと自分が助かるためには平気で捨てる。
2つの勢力の間を反復横とびするなんて当たり前。 ざっと見たが長文ほど中身が無いのはどこスレも一緒なんだな…
再度読む気もしない(-。-)y-゜゜゜ まったくのスレチだが、ここは史料読める人がごくごく一部いるから紹介
実に興味深い史料が発見された
本能寺の変、織田信長の長男が自害する様子生々しく記す…江戸時代の文書に公家の体験談
ttps://www.yomiuri.co.jp/culture/20240116-OYT1T50135/
この記事では省略されてるが、信忠の訣別の辞は引用の間に「あるましき御ありさまを見まいらつるに、かなしさいかかはせん」とある
記事の引用文に続いて、「みつからとなえられしといひつたえたる」となってる
読み違えてたらすいません 以降も一応翻刻
お目障りならあぼーんしてください
「出御の後ほとなく時(鬨)のこえなときこえておそろしかりしとたひたひ(代々)雅朝王後水尾院の御前にて申致されけるとふるき女中なとききをきしとは知人さへのこらねは、あさましき事なから、かきつけ侍る、あなかしこ、うとき人には見せつるましき事也」 関ヶ原本戦で、「卜斎記」と大田牛一の記録では、大谷吉継は「馬上で腹を切る」とあるんだけど
馬の上で切腹なんてできるのか? 牛一の関ケ原御合戦草紙は戦後早い段階から書き始め、何回か訂正加筆を重ね
1607年までには成立し関係者から聞き取り等もし参戦者がたくさんいた時代
だしあまりデタラメは書けないだろうね(家康も閲覧した記録もあり)
卜斎記も合戦次第は太田和泉守記録にありと信を置いてる。
この記録によると西軍の布陣は日本戦史と共通する部分も比較的あり
(日本戦史に比べると北國街道、中山道の守りを重視、三成本陣は
笹尾山ではなくその麓、島津は後方、大谷、戸田、平塚などは前面に進出し
不破の関からその後方の藤下あたりに布陣と思われる)
恐らくこれをベースにさらに後年成立の江戸時代の諸々の記録も参照しつくられたのが
あの有名な布陣図ではないだろうか。
なのであの布陣図に根拠なしとする新説は疑問 そもそも西軍でも
・松尾山攻めの布陣
・対東軍先手衆の布陣
で判断分かれてたっていうから錯綜は仕方がない >>794
これも追加で
・自陣を守るだけで動く気なし
・機を見て東軍に付く >>793
赤坂以降の太田和泉守記が愛知県史に載ってないのでよくわからんのだけど、
太田和泉守記ってどこかで全文読めます? 全文なら1,明治の写本だけど国立公文書館デジタルアーカイブで関原状で
検索すると無料で読める
2.大阪城天守閣紀要37号、大和文化研究13巻7号の論文で別名の内府公軍記
の名称で全文翻刻収載
合戦当日の模様なら関ケ原合戦資料集(藤井半左衛門、新人物往来社)に
関ケ原御合戦当日記としてほぼ収載だが西軍布陣の部分は未収載、
近世日本国民史11巻に数ページにわたり合戦当日の模様を収載
ウィキに合戦の部分の要約あり 石田三成も真実どこまで権力あったかわからんらしい。少なくとも署名上は増田長盛らの下にいたようだが あなたによさげな五奉行本が出てんね
豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争
出版社 : 柏書房 2022/4/27 256ページ 渡邊大門 2420円
【目次】
第一章 五奉行たちの来歴
第二章 秀吉の天下統一と五奉行
第三章 秀吉死後の情勢と五奉行の成立
第四章 関ヶ原合戦開戦と五奉行
第五章 関ヶ原本戦の激闘
第六章 関ヶ原合戦後の五奉行 大門って研究の能力以上にイメージ悪いね
昔はもう少しまともな印象だったけど >>799
連署の順番は必ずしも序列を正確に表すものではないと思うけどね
同時期に同じメンバーで発給された連署状でも署名の順番が変わってたりするし
(慶長5年)8月2日付真田昌幸宛二大老・四奉行連署状
長束
増田
石田
玄以
輝元
秀家
(慶長5年)8月4日付松井康之宛四奉行連署状
長束
石田
増田
玄以 小早川秀秋が西軍に味方する要素ってどこにあるんだろう?
・1593年に豊臣家を追い出される形で小早川隆景の養子となる
・1595年に秀次に連座として、丹波の領地を改易され所領を失う
・1595年養父小早川隆景に筑前を譲られる
・1597年養父小早川隆景死去(豊臣秀吉による遺領問題介入)
・1597年越前へ転封(減封)させられる。朝鮮での不始末は根拠なし
・筑前の所領は石田三成が代官となり、家臣団を吸収される
・1598年豊臣秀吉死去
・1599年五大老の連名により筑前筑後に復領(奉行の名前はない)
・1600年関ヶ原の戦い
一貫して豊臣家、奉行衆からは酷い仕打ちを受けており、逆に五大老(≒筆頭の徳川)には恩がある。
これでなんで西軍に味方すると思ったし。 小早川秀秋が没年の1602年に北政所に出した書状が4通残っているが
高貴な身分の人に出す場合,あて名は本人宛ではなく側近の者宛とするのが
通例で4通とも北政所側近の御客人宛になっている、
この人物は北政所養女で三成三女辰姫なので名目上のみとはいえ
関が原戦後の秀秋が三成の娘宛に4通書状を送ったことになり
両者の胸中にいかなる思いが去来したか興味深いが
書面は3通が北政所よりの贈り物に対する礼状、1通は北政所への借金依頼で
心情についてはうかがい知ることができない。 >>804
そりゃかつては秀吉の養子で、一時的には世子扱いまでされてた豊臣一門だからな
そもそも奉行衆に「自分たちがこの人から恨みを買ってる」って自覚はないだろ
自分たちの同胞でも平気で恨みを買う奴らだし >>800
大門とかいうコピペ野郎の資料もどきなんかあてにならんよ
渡邊が出した「関ヶ原合戦人名事典」 (東京堂出版。2021年)を見たけど、大半が
Wikipedia日本語版のコピペだった
こんなことして恥ずかしくないのか? 大門くんTwitter xで能登地震は自民党のせいってつぶやいてたな
批判されて垢消して逃亡 >>799
言い方悪いけど所詮使われる立場の奉行の権力なんて
後ろ盾次第でどうにでも変化するでしょ
秀吉という絶対君主がバックにいる時は大きかったし
精々首謀者グループの一味という程度が関の山の関が原時はそうでもなかった >>805
「看羊録」で秀秋について性格は「軽薄で感情の起伏が激しい」とある
また、「元帥となって朝鮮に駐屯したが、賊魁は秀秋が軍律を失うことが多かったので厳しく叱責した」
とあるから、若いゆえに血気盛んで脳筋、知性が乏しい人物というべきじゃないか?
この賊魁は秀吉のことと思うけど、あってる? >>810
三成たち奉行連中は秀頼の近臣というわけではないから
単純に秀頼が成長しただけでは奉行連中は権力を握れない
三成に至っては奉行返り咲きも無理
奉行連中が権勢を握るためには秀頼が幼少のうちに監禁して
秀頼を自分たちの傀儡に仕立てる必要がある 確かに奉行衆の行動や秀吉逝去後の位置づけは気になるところだね
上に上がっている大門著の五奉行研究本をポチって研究してみるか そもそも利家にお任せモードやったから秀吉も細かくは考えれてなかったんだろ
体が衰えると気力も無くなるからな 三成が奉行返り咲きが難しいって言うけどそうとも限らない。三成は家康と遠い親戚関係(三成の長女が嫁いだ山田家は家康と縁戚関係)にあって何の繋がりもない訳じゃないし嫡男重家は家康が烏帽子親って話もあり家康に可愛がられていたという。三成は黙っていても復活の道は幾らでもあるし重家と徳川の姫か結婚なんて話になれば奉行筆頭も夢じゃない。唯一の懸念は仇敵の浅野長政らが家康に従ってることくらいだけど宇都宮みたく改易された訳でもないし >>816
そんな遠すぎる縁戚関係なんかあってなきがごとし 三成長女の嫁いだ山田勝重は後に松平忠輝の家老にまでなってはいるが
忠輝の母の茶阿の局の甥か義理の甥(こちらの方が有力視されている)
というだけだからね。
1600年ころの影響力は低いだろうね。 大垣城から動けなくなったのがよくわからん
西軍が大垣城、東軍が清州城
そこから東軍に一方的に押されて、家康が到着した次の日に決戦
家康抜きでボコボコにされてた なんでだ あの米野合戦直前の8月22日佐々政タカ書状に織田秀信殿は人数が
集まらないようなので攻められたら「五十日」は持たないだろうと
噂されていますと50日でも短期攻略とみられていた岐阜城が米野合戦も併せても
たった2日で陥落してしまったからな
寡兵ということもあり大垣城に逼塞となったのもやむなしだな >>813
淀殿らが周囲にいる限り、肥満無能になるのは避けられなさそうだな秀頼 >>819
赤坂に陣城構築されて大垣だけでの迂闊な手出しができなくなったから。
それだけ。不思議でもなんでもない。 いやいや、岐阜口にて不覚をとり赤坂に敵勢押詰め候ども
某も大柿に馳せ参じ、3日前に伊勢口よりも中国衆、土佐衆、長大陣、秀頼様弓鉄砲衆
陣取りし赤坂之敵陣へ諸口より取寄候故、敵うろたへ候てはやくも
敗軍の体と相見へ候、三日か五日の内に吉報をお届けできると
存ずるゆえご安心下され
此度太閤様の置目に背いた内府の先手衆を誅罰するはてんのあたゆる所、
赤坂の敵勢一人殘らず討果すは眼前之事と存ずる
関東之家康領内諸所へ景勝進撃し関八州は正体なくみたれたる由景勝より
度々注進もあり内府上洛は困難と存ずる
家康うろたえのあまり西上の際は先手衆に続き1人残らず打果す所存
天下平均も間もなくのこと存ずる 三成らの挙兵が無ければ家康は豊臣の忠臣として生涯を終えたのだろうか 豊臣政権が実質崩壊状態だから、家康が取らなければ別の誰かが天下とっただけのような
荒療治しないと、また戦国乱世に逆戻り 秀頼が空気読めない暴君というかボンボンだから厳しい
以前も言われてたが徳川家は天皇家に対する藤原家でもいいんだが 秀吉に奪われた瀬戸内海・越後を取り戻したい輝元・景勝がいる限りどこかで大乱になる
その前に家康が天下とれるなって思ってもアウト
詰んでるのよね豊臣家 そもそも誰も豊臣家のことなんか考えてないでしょ
石田三成の7月21日付の書状で見たらわかるけど「長岡越中の糞野郎は国乱を招いた本人」とあるし、家康を「彼の仁」と書いてることから
家康と忠興に対する個人的な怨恨が明らかな動機でしょ
司馬遼太郎は三成を忠臣と書いてるけど、こいつは書状を見たりはしなかったのかな? 上手く?を付くのが仕事の小説家に何言ってんのかな。 家康が来る前からボコボコにされててさあ、
家康が3万の大軍つれて来たんでしょ?
もう大垣城でちゃだめじゃん やられるだけじゃん
なんで出たのよ 後世の講談師と小説家のためには野戦をしてくれてよかったな
城に籠ったまま大坂の連中に見捨てられ降伏みたいな展開だとどうなったやら 撤退戦のために大垣から出た説とかあったなぁ
関ヶ原も決戦ではなく、東軍による追撃戦に過ぎなかった、みたいな >>827
伊達政宗が今井宗薫に送った
秀頼処遇ついて所見述べた有名な書状あるけど
秀頼を江戸の家康の手元で育てて
成人したあと取り立ててるのが
豊臣家存続させるのに一番ベターかな
秀頼を大阪から切り離せとか
実際には難しい・無理な問題もあるけど >>835
時系列と配置だけから考えると、まごうことなき撤退戦であり、追撃戦なんだよなあ。 松尾山って一説にはかなり補強されたしろだったというしそこに小早川が万軍クラスでご入場とか西軍にとって死刑宣告なんだよなぁ
かといって先に東軍に仕掛けるのも難しい そうだよね、元々中山道の補給線とその先の佐和山城を死守の為に
三成が佐和山城に戻り中山道の守りで山中方面に大谷、戸田、平塚、脇坂、小川
を急遽呼び寄せ、南宮山方面に大軍を配置したのも大垣城の後詰の他に
垂井・青野ヶ原まで進出している東軍に関が原を突破されるのをけん制するため
だろうからね。
絶対防衛ラインに配置されている山中の大谷勢を守るためにも出陣するしか
なかったのだろう >>840
そのための出陣だとしたら、出陣の仕方、布陣が最悪じゃないか?
普通に考えて、南宮山勢を前進させておかないと牽制にすらならないのに、それ以前に一切の連絡を入れていない。
しかもその状態で大垣城を焼いて出ていく。なんで東軍側に対して「合図」を送るんだよ?
関ヶ原では東軍が来たら隘路で防いで時間が稼げる位置に誰も布陣していないし、
松尾山に対しても短期で攻め上がるような布陣ではない。
大垣城残留組と南宮山を捨て石にして逃走をはじめて、大谷らには小早川の攻撃を防がせるつもりが、
東軍は追いつくのが速いし(城焼けば当然だろ……)松尾山は止めるどころかむしろ寝返りが相次いで逃走すら叶わなかったってのが実態。 9月17日石川、彦坂書状には確かに関が原転戦に際し大垣城の外郭を焼き払いと
あるが両人はこの時清須城にいて9月17日には佐和山に来ていたという流れのため
実際に見たわけではなく味方からの伝聞情報であることと、隠密行動が必要な時に
わざわざ転戦を示唆するような事をするとは思えず、他に9月14日に外郭を
焼き払ったという史料がなく、参戦した島津義弘家臣の帖佐宗光の覚書には
大垣城ではこの際切った火縄に火を付けて竹に挟んだものを数多く立てて
多人数の兵が残っているよう擬装したとあり,この火を日没後の遠目に
見誤ったものか、翌日敵中突破した島津軍は又本之大柿之城江御籠可被成と御意に而候付、大柿を差て御出被成候處、
南宮と申所より大柿を見申候へは、本丸に火掛り候而落城而候付、御籠被成候事不罷成候と参戦者の覚書(~戸五兵衞覺書木脇休做仂之次第)
にとあるように最初大垣籠城を目指したが南宮山方面から大垣城の本丸の火が見えて
落城と判断し断念したらしいので、この時実際は落城していないが本丸と思われた
火は籠城に備え実際は外郭を焼き払う火だったのではないだろうか
だとすれば半日程のズレはあるが9月15日の外郭焼き払いが西軍転戦時の時から
と誤って伝わったのではないだろうか。 ゴミストーカ−爺 おまえの人生めちゃくちゃに壊すぞ 20年つぶれた 俺もまともに育ったわけじゃあないからな めっぽうタフだぞ 凄惨にやり返す >>843
>又本之ことく大柿へ御籠可被成候との御意ニ而~
細かいことだが当該部分は「神戸五兵衛覚書」の中の「井尻弥五助奉公之次第」にある記述で「木脇休作殿働之次第」ではない 大垣城を焼いたのではなく、外曲輪を焼き払ったとある。
外曲輪とは宇喜多等兵が多すぎて城に入らないので
城の外側に野戦築城で急造したものだと推測する。
これを焼いたところで大垣城の防御が落ちるわけではないが、
わたしは以前にも指摘したけど、天候小雨の状況で燃えるのかなと。
それと9月15日に水野が大垣に攻め寄せて二ノ丸まで?進入したとかあったので、その時焼けたものが
本丸が焼けたように見えたのではないだろうか? 15日説は別の議論として置いておくとして、外曲輪を焼く時点で字喜多勢は大垣城には戻らないし、
南宮山勢を代わりに入れることもしないということだから結局は撤退との結論になるのでは? >>843
なんだこの読みにくいクソ長文バカは、史料もマトモに引用できないようだし
必死に背伸びしているド素人の知ったかバカ丸出し
こういう程度の低いのは出入り禁止にしろ 素人だから教えてほしい
近年の関ヶ原研究史読むと
参謀本部編の日本戦史を基にした通説を
1次資料から検証して批判され気味だけど
今より資料手に入りにくい
当時としては最先端の研究結果だと思っていいのかな? >>841
そりゃそうなんだがそもそも大垣衆と南宮山は指揮系統が違うから前進させる事がまず出来ない
だからまずは相談してそこから戦略を決めないといけないんだがそんな余裕は無い。即決でどうにかするしかない状況で大垣衆としてはベストな選択をしたと言える >>851
いや、形としては後詰決戦の形なのだから、指揮系統違うから相談すらしないとかあり得んよ。
もっと言うなら、吉川やその後方の毛利はともかく、前方にいた安国寺恵瓊は同じ指揮系統だ。 >>850
そりゃもう当時は最先端だし当時としてはよくできてる。
問題なのは明治26年に書かれた物が更新されずについ最近まで最も権威のある第一級史料として扱われたことだけ
戦後日本じゃ軍事は学問どころか忌避されるものになっちゃったからしょうがないけど。今でも戦国研究者は軍事オンチばかりだから根深い。 これまでの通説がヤバすぎただけやろ
小早川の松尾山占拠を見てのあの布陣は流石にやべぇ >>854
いや、むしろあの布陣なら、元々小早川が西軍であると考えないと、おかしいのよ。
小早川が東軍の認識であの布陣を見れば、軍人ほど「西軍は何故自滅しに行ってるんだ?」と思う。
隘路の出口で東軍を待ち構えていたものの、小早川秀秋が後ろから裏切ったと考えるほうがよほど自然。 松尾山ってあの時点では西軍の伊藤がいて、小早川が追い出したって聞いた事あるんだけど
その辺の当時の記録ってどうなってるんだ?
これが正しいのなら、小早川は西軍の制御下とは思えんが >>856
小早川が松尾山に布陣してたことを直接示す一次史料はないね
なので伊藤盛正を追い出したというのも一次史料では確認できない
伊藤を追い出して布陣したと記述があるのは寛永諸家系図伝
9月12日付増田宛三成書状で伊藤に関する記述が確認できるが、伊藤の人質が大垣城にいることや、伊藤は若輩
だから家中の者が何を企むか分からんと三成が警戒してる様子が伺えるが、伊藤がどこにいたかの記述はない
まあ伊藤を追い出して布陣した件の真偽は別にしても、小早川が松尾山
近辺にいたのは史料読む限り整合性は取れてるし間違いないと思うけど まず大垣城から打って出たのは小早川秀秋に松尾山を取られた事を受けての対処とみて間違いない
仮に大垣から撤退する為なら東軍に捕捉されてる訳ないしまた松尾山が東軍でも殿に囲ませて強行突破してるはず。それをせず山中で布陣を敷いていた訳でそれは決戦を志向した結果
決戦を志向しながら大垣城を出たのは戦術というより火急の理由。吉川家文書には大垣城で徳川と戦うと決めていたのに大垣城から出撃されて動揺した云々とある。これから大垣城は事前の作戦を放棄してでも山中に向かわねばならなかったと推測される。その理由が秀秋の松尾山占拠というのは筋は通ってる >>852
西軍が負けた理由でもあるんだけど西軍は実は指揮系統が二つある。一つは豊臣軍系、そしてそれ以外の諸大名軍系になる
石田三成は確かに豊臣家奉行で豊臣軍に属してる
だけどだからそれで諸大名軍にまで軍事指揮権があるのか?というとおそらく無い。そうした動きは見られてない
だから三成や大谷吉継、宇喜多秀家ですら南宮山に命令は出来ない。南宮山の主力は安国寺恵瓊・吉川広家・毛利秀元ら毛利軍で指揮権は毛利輝元にある。それを如何に豊臣秀頼配下とはいえ輝元の頭ごなしに命令なんて出来る訳もない
手続としては三つ、一つは南宮山に使者を送って自分達の考えを述べて相談する。二つは大坂に使者を送って輝元に自分達の考えに同意して貰ってそれを南宮山に示す。三つは秀頼から輝元に軍事指揮権の譲渡を命令させるか 関ヶ原関係なけど
去年の大河に合わせて出版された家康関連の歴史新書読むと
同盟国(信長や信雄・北条)に対する家康の対応見て
やはり本質的には律儀な人なんじゃないかと思えてきた
それだけに輝元に対する本領安堵の
反故は厳しかったな 寛永諸家系図伝の黒田長政之項には筑前中納言(秀秋)は始めより
松尾山にありとあるね。
平岡頼勝の項には秀秋、三成と約して美濃国松尾の城に立て籠るとある
1641年から1643年に家光の命で諸大名に記録覚書等提出させ編纂された史料
だけど稲葉正成の様に徳川家への忠誠、貢献を強調するものでなく
別の家からの提出史料が秀秋松尾山に布陣という同一内容を記している以上
ある程度の信憑性は認めてもよいのではないだろうか >>861
それだと色々とおかしくならないか?
大垣城だって詰めてる兵の多くはあなたの言う「諸大名系」だから指揮権がないことになるし、
南宮山勢も長束正家は奉行そのものだし安国寺恵瓊は秀吉近習の豊臣大名だから、「豊臣軍系」に対する指揮権があることになる。
ましてや安国寺恵瓊や長束正家の軍は吉川や毛利より前面に展開して妨害されることもないのに。
穿った見方をすれば、石田三成が苅田の件ですら意見の合わなかった長束や安国寺を、無視して行動しようとした、とも取れる。 >>864
石田三成と大谷吉継はどちらとも豊臣軍系に属してるし宇喜多秀家は秀吉の息子、豊臣軍系にあたる。とはいえ指揮権なんて実質的にはどうでもよく大垣城で相談して決めたんだろう
じゃあ南宮山は?というと毛利軍に命令は出来ない。毛利軍系に当たらないのは長束軍、長宗我部軍、豊臣家弓鉄炮隊だけなんだから数が少なく過ぎる 一報を入れるべきだったというのは一考に値するが状況からみて適切かはわからない
松尾山の小早川をどうにかしないと詰みなのは明らかだからなんとかするとして大垣が行くか南宮山が行くかの択一。ただここからの戦略はかなり難しい。そもそも南宮山の毛利がどう判断するか次第で時間を掛けたら東軍に包囲されてしまう
どーすりゃいいの?ってなると大垣だけで向かうのがベストではあったんじゃないか >>865
安国寺恵瓊は毛利系ではないぞ?
秀吉に領国を与えられた豊臣系で、この戦いの首謀者の1人だ。
それに長束と安国寺で3300、長宗我部盛親6600を加えるなら、毛利勢抜きでも約1万は決して少なくはない。
(長宗我部盛親は増田長盛が烏帽子親なので奉行に指揮権有り) >>864
9月12日のその書状は偽書じゃないのか?
現在の暦だと10月18日
稲刈りは確か現在の暦でだいたい9月上旬から中旬にやるはず
戦乱で多少遅れていた可能性はあるが、いくらなんでも10月18日でまだ稲刈り
してなかったは少しどうかと思う
それに仮に刈田して、すぐにそれが食糧になるのか?
だいたいの作業で食えるようになるまで5日くらいかかるんじゃないのか?
それに東軍が刈田を放置するとも思えんし、そもそも大垣は西軍の領地なのに味方の領地を刈田するとか正気の沙汰とは思えん 大垣は完全包囲されていたわけではない。
苅田しようと思えばできなくはない。 >>868
苅田がどうこうというより、毛利系と豊臣系どころか、豊臣系、奉行の中でもろくに連携出来ていないと言う話では?
少なくとも個々の情報の精度はともかく、各書状を総合的に見れば、南宮山勢に何の連絡も入れてないのは確実。
どんな言い訳を並べようが、これはありえないほどの失態だよ。 徳川軍迫ってんのに、大垣と南宮山が連携して布陣できないってなると戦以前の問題か ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています