石田三成の挙兵 ★8
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次スレは>>990以降でも有志が立てればいい
ただクソレスで流さないで頂戴 三成は細川忠興にかなり遺恨を向けていたようだが、何がそんなに忠興が気に入らなかったんだろ
真田昌幸の書状で書いてるし
細川屋敷を石田が襲撃したというのも事実じゃないの 大坂三奉行からも憎まれてるよ
ガラシア自害の同日7月17日の別所吉治宛三奉行書状に
細川忠興こと、何の忠節もこれなく、太閤様御取立の福原長堯の跡職(旧領:豊後国速見郡)を内府より扶助を得、このたび何の咎もない景勝追討のため、
内府に助勢、は残らず会津征伐に赴いています。是非の及ばず候。
従って秀頼さまが御成敗を仰せ付けられた。
軍忠を尽くすように、下々に至るまで、その軍功によって、
御恩賞を与えられるでしょう(意訳)
とこうあるからね。 忠興からは秀次事件で三成に讒訴された事が発端と思われてるようだが真実は不明。ただ秀吉が秀次を殺そうとしてる以上奉行如きが止められる訳もないし(大老格の家康や利家ですら止められないのだから)下手な手心は秀吉の不興を買うだけ
そうした大人の政治が分からない男じゃないはずだからまだ何か理由があったはず 忠興が金子100枚を秀次から借用していて政権から疑われたのは史実だが
100枚を秀吉に返上したので秀吉の機嫌はよく、そのまま100枚は忠興に
下賜され落着し幽斎も安堵したと兼見日記7月21日条にあり、この件が尾を引いたとは
考えにくい、
金子100枚をどうやって工面したかは不明
細川家記などにある家康がへそくりを取り出して返却不要で与えたというのは
作り話、前日の7月20日時点で家康が遠江見付にいた(有馬宛書状)
留守居役が融通した可能性もあるが相当な大金でありごく一部位が限界だろう 忠興は奉行の視点からだと余計なことばかりしてるから
七将襲撃事件もそうだけど徳川と前田の間を周旋したりとか
家康による政権運営を強化する方向に働きかけている 確か忠興は特に理由も無く家康から加増を受けてたからそこが理由なのかもしれない
気になるのは忠興は三成が挙兵すると予測してた様な事を書いてる。当時家康は三成が謀反すると思ってなかった、思っていたら先陣を命令するなり嫡男重家を無理矢理同行させるなり対策してたろうから。もしかしたら忠興は三成が家康に雇われないよう何らかの妨害してたんじゃないか
蟄居同然の三成が政界に返り咲く一番の方法が家康の信任を得ることだろうし そもそも細川忠興はかなり早い段階で三成に対してムカついてただろ。
それこそ福島正則や加藤清正よりも前から。
名族意識の強い細川忠興にとって三成にぞんざいに扱われたのはかなり屈辱だったはず。
だから細川忠興としては家康と三成を対立させたい。
家康と豊臣恩顧武断派との無断婚姻は、細川が仲介して進めたのかも知れない。 何を根拠にしてるのかはわからないが少なくとも細川忠興は
前田利家の娘が子の忠隆の妻であることもあり家康派というよりも前田利家派で
利家、家康が対立した無断婚姻には無関係で必死に調停に努め、両人の伏見、大坂対面にも
清正、浅野幸長とともに前田利家に付き添っている。
前田利家他界翌日の七将事件には名を連ねてはいるが
家康に軸足を移し始めたのはこれ以降
それでも半年後の家康暗殺計画疑惑では前田利長と気脈を通じているのではないかと
疑われた位。以後99年間前田家と親類付き合いを絶ち、誓紙を父、重臣より提出し
忠興三男忠利、重臣からの人質を1600年1月提出しようやく許された
このことが功を奏したのか翌2月元々三成の娘婿の福原直高の領地だったが七将事件後
没収され豊臣家直轄地だった豊後の国速水郡6万石を与えられた >>5
それは細川領を攻めるにあたって大儀名分を示したというか、攻撃する理由を書き連ねた
だけであって、別に三奉行の感情によって下された命令というわけではないでしょ 『近年の研究で、秀頼の家臣たちの知行地が西国各地に細かく分布していたことがわかっている。あきらかに一般大名を超越した存在だったということだ。大坂城の備蓄金や、すでに大商業都市であった大坂を支配することによる経済力も、他の大名を圧していた。』
『豊臣家が豊臣家が豊臣系大名たちと並列の関係になったわけではなかった。将軍は大名たちにとって、豊臣家への忠誠と矛盾しない観念だった。』
『「秀頼と豊臣家を頂点とする従来の豊臣公儀体制は存続したままに、家康はそれと別個に新たな政治体制を設けたということ」であって、豊臣系大名たちは「豊臣家と秀頼に対する忠誠は保持したうえで家康の征夷大将軍としての軍事指揮権に従っている」ということだった(笠谷和比古「関ヶ原合戦と大坂の陣」)』
https://president.jp/articles/-/75952?page=3
関ヶ原後も家康は豊臣家の権威を重視
慎重に自分の立場を高めていく必要が有った >>13
笠谷氏の二重公儀論も極端なんだよな
鞆幕府の足利義昭が五山に影響力持っていた、という論と同じで あたかも研究者らしい見解だよな
単純に豊臣家(秀吉)にはみんな義理があるから積極的に敵対したくないだろ
本音レベルでは秀頼なんぞどうでも良かっただろな 公儀かどうかって平和な時では無く乱時にこそ明らかになるもんだからなぁ 研究者はなぜ、秀吉の遺言と生前の行為に問題があったと言わないのだろうか 秀吉の遺言ってのが口頭でしかも複数あるからなぁ。誰が本物かなんてもうわからん 遺言って言っても、伝え聞く症状からは完全に痴呆症だからなあ。
朝と昼と夜で全部違うこと言っていても不思議ではない。 秀吉の遺言
その1→家康を後継にして秀頼を任せるよ秀頼が大きくなったら天下を返してね
その2→大坂に利家を置いて秀頼を任せて伏見に家康を置いて政治を任せるよ
その3→十人衆を組織して政治を任せるよ
しかもこれ以外に「秀吉から聞いた」遺言がちらほらあって上杉景勝は「3年間上洛免除」、宇喜多秀家は「大坂を守護」、毛利輝元は「西国の政治を任せる」等々幾らなんでもはちゃめちゃ過ぎる >>20
うちの亡くなったばあちゃんみたいだな。
口頭で言っていた「遺産は〇〇にあげるね」の内容が、
父だったり、孫の自分だったり、弟だったり、妹だったり、巡回医師だったり、看護師だったり、訪問入浴の人だったり。
他にも自分のものではない父の建てた家や、50年は昔に売ったはずの山と店も何故か自分が持っている記憶に変わっていて、
「家は〇〇にあげるから山は△△に、店は□□にね」とかも言ってた。
そして、たまにそれを日記に書いているのよ。
秀吉のも、そんなのが別々の書状として残ってこんな事になってるんだと思う。
なお、うちはこれ遺書になんの?って家族で相談して見なかったことにしたけど。 秀次事件の頃はまだ思考能力保ってたと仮定して
事件のすぐ後家康を唯一の大臣職である内大臣に推挙してるんだから
まず秀頼成人までの暫定政権トップは家康というのが秀吉の構想だったんじゃないか
ただ仮にその構想だったとしてまずかったのはまだ元気なうちに宣言し明文化し権限を委譲するなどしなかったこと
独裁者にありがちだが病に倒れるギリギリまで実権握り続けたもんだから
判断力が怪しくなってから遺言や覚書出しても言われる方は振り回されるだけだし
いろんな意味でいろんな方面からつけ込まれやすい状況を招くことになった 独裁者じゃなくても周りが引退させないとか現代でもよくある話
現代の有名経営者でもみんな任期延長ってパターンばかりよ
ジャパネットの高田社長みたいな引き際みたいなのこそほぼ無い話 家康だって隠居しただけで権力は手放していないよ
大名とはそういうもの 三成と上杉の事前密約はなかったというのが定説となりつつあるが
三成の次女が関ケ原前年に上杉家重臣の岡重政(2万石)に嫁いでいる
元々上杉家の取次だったし隠居中とはいえこの線から連絡を取るのは可能
主に根拠とされる三成よりの真田宛書状で真田氏に沼田経由での上杉氏との
連絡を依頼してるのも平時と違い
徳川方の中を突破するための助力(通行を妨害するものがあれば真田の軍勢で
抑え込んでほしいとある)と考えられなくもないし
最近上杉と連絡をとってなかったのような文面も昌幸が事前に挙兵をしらせてこなかった
事に立腹してることをおもんばかってのことかもしれない
8月6日直江兼続書状によるとこのとき佐和山からの使者が会津に来ていたようで
7月30日、8月6日の真田宛書状で沼田経由の上杉との連絡を依頼しているので
真田経由とは別ルートの使者の可能性が高く(7月17日の内府違いの条が上杉に届いたのは
8月3日、9月15日の関ケ原の結果が届いたのは約半月後)
真田宛書状により事前密約なしと断定まではできないのではないだろうか かたじけない、ぜひお願いいたします
2の追加で三成の娘が岡重政に嫁いだのは1599年9月、それまで侍女を
していた北政所の養女として、この月徳川家康がそれまで北政所が住んでいた
大坂城西之丸に入りその前に北政所が京都に居を移した時期 事前共謀が無かったのは史料から見て明らかだから覆すには史料を見つけるしかない
現在のところ三成と上杉が西軍決起以前に通信していた証拠は見つかってない。ということは事前共謀は無かったのだろう
上杉とは事前に連絡していたのに真田には連絡してませんでした、というのも理解出来ない話になるので理論的にも難しい >事前共謀が無かったのは史料から見て明らか
何という資料でしょうか?
>覆すには史料を見つけるしかない
別に覆したいわけではなく主に三成書状を根拠に事前共謀なしと断定
まではできないのではと疑義を呈しただけ
>現在のところ三成と上杉が西軍決起以前に通信していた証拠は見つかってない。
ということは事前共謀は無かったのだろう
論理の飛躍では?歴史上残っている資料などごく一部でしょうし
仮に上杉家に事前謀議の書状などが届いていても破棄、隠滅されたでしょう
7月15日島津義弘の上杉宛書状で挙兵首謀者とみられる二大老、三奉行、小西、大谷、三成
などが事前に挙兵相談した書状も残っていないのでは
>上杉とは事前に連絡していたのに真田には連絡してませんでした、というのも理解出来ない話になるので理論的にも難しい
当面の相手である上杉と会津遠征軍に加わっている真田を同一に考えるのは
理解できないですし論理的に難しいと思います 現在信頼されている史料で内府違いの条々が出される前に三成が上杉と連絡したものが存在しない
もし事前に共謀してたら早ければ二月、遅くても六月には連絡してないとおかしい
蜂須賀家政が毛利輝元にしたように元取次が相手国を思って「忠告」するのは不自然では無くまた共謀は使者が口頭で行えば露見する訳がない。間違いなく「石田三成謀反」となってから使者を送るよりは適切な手段だろう そして三成は真田一族とは非常に親しくしていたらしいがそれを除いても上杉と連絡するなら真田と話を通しておかないとダメ
というのも真田一族特に沼田を支配する真田信幸が敵になったら物理的に連絡困難になる。そのためには昌幸がリーダーシップを発揮して全員の意思統一をしてないといけない
この手の事がわからないようで豊臣奉行や取次職が務まる筈がない、ということは三成と上杉の事前共謀は無いどころかそもそも三成は西軍決起を知らなかった可能性もある 三成は知らなかっただろ
知ってたら上杉との連絡と会津征伐軍への対策が全く出来ていない状況にはなってない
後手に回ってしまった結果、東軍が尾張まで西軍に感知されないまま何の障害も無く一丸となって西上してくる最悪の結果になった 会津征伐が持ち上がった時に三成が取次ツラしてしゃしゃりでて無いのが奇妙ではあるんだけどね
一説には三成は佐和山に隠居した際上杉から絶交されてたらしくそれで何かするつもりも無かったのかもしれない
なにせ景勝が敬愛する上杉謙信も今川氏真が零落したら書状を拒否してるからな。やりかねない 西軍の首脳メンバーが列挙されてる7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状の冒頭に
「雖未申通候令啓候」とあるし、景勝が西軍挙兵の事前謀議に加わってないのは明白だな
仮に当該箇所は義弘本人が景勝と通信するのが初めてだから単に挨拶として述べたんだ
としても、後段で景勝に味方するよう誘ってるし連携は取れてないと見る方が自然
事前に話が通ってれば初めて通信したとしても、味方に誘うような文言
ではなくその表のことは油断なく頼むとかそういう内容になると思う 毛利も上杉も内乱を長引かせて火事場泥棒的に領土を増やすのが目当てだった。
それに引き換え家康は、応仁の乱以来の冷酷無残な戦国時代を終わらせるため、信長秀吉とは友情を尽くし合っている
先に逝った秀吉からあとを託された家康は、豊臣秀頼のもとに諸侯がまとまる和平を心から願っており、三成の蹶起についてはきびしい反省のもと、厭離穢土欣求浄土の戦いになりやいなやを >>35
そう
きちんと史料を読めるなら疑問すら浮かばない
そういうことのできないアホがあーだこーだ、やってるだけだ >>22
まあ秀吉は前に織田信雄を内大臣に据えてるから、内大臣を過大評価するのはどうなんだろうか 秀吉在世時なら他の大臣がどうであろうが問題ないけど
秀吉没後に唯一の現職大臣であることの意味合いは大きい
要は豊臣政権の権威付けを一身に担ってるわけだから あの頃の織田信雄を過小評価は危険かも
織田家の総領の立ち位置だったのだから 三成が上杉と事前に共謀してた、ってのは当たり前の戦略でむしろ何故その痕跡が全く無いかが割と重要だと思う。軍記物や小説だと三成が謀反計画を隠匿するため…みたく書かれてるが隠匿出来ないような内容じゃないし 事前共謀は確か6月中旬付で直江兼続に宛てた三成書状が根拠じゃなかったか?
それ以外だと来継氏秀書状とかが一応の根拠になるのでは? 6月20日、7月14日の石田から直江の書状は出典が悪名高い続武者物語で
偽書と考えられます
来継氏秀書状というのはよくわかりませんが
8月18日景勝家臣の来次氏秀書状のことでしょうか?
この書状のことであれば8月1日伏見落城し秀頼が京都仕置を残らず仰せ付けられている
、家康に一味たてにて参陣した方々(会津討伐軍)は上方の様子を聞いて逃げて行った
といった内容で事前通謀のことは見当たらない様です。 >>44
続武者物語が悪名高いというか、信頼性が乏しいのは確かだけど、それだけで偽書にまで
するのはどうなのかな…… 44の追加です
谷徹也:織豊大名の研究7石田三成に義演准后日記、徳川秀忠書状、来次氏秀書状を出典としている記述のことでしょうか
上杉征伐時に淀殿と北政所は出兵停止させようとしたが
六月十六日家康大坂出馬、三成の子息重家が出陣予定だったが「佐和山騒申」(会津出兵拒否)
という事態が生じ三成が佐和山から出るように、
その後、家康は道中滞在のために佐和山城借用を支持したが
「一切手切」として三成は佐和山に引き籠り普請をしている。
ただし、福島正則も同様の姿勢を見せておりこの時点で家康への抗戦ではなく
出陣反対の意思表明といえよう〈要約)
来次氏秀書状であれば情報源は大坂の櫛田光家、京都の小山田正光、景勝の船頭
が5月18日に上方をたち偵察をかね木曽路、越後を経由して6月9日会津帰国してもたらした
情報が元で、1,会津に秀頼を奉じ下向を要請したが豊臣家馬廻衆は断った
2,佐和山借用を申し出たが三成は断り城に引きこもり普請もした
3,福島正則も清州城借用を断った
4,毛利、宇喜多は太閤時代も東国陣は免除されたのでこたびも出兵せず
5,朝鮮が壱岐対馬に乱入したので家康の会津下向は本気ではなく御安心くださるよう
という世上の噂を伝えてますが一見してわかるように上杉家にとっては
有利な情報ですが実情とはるかに乖離した内容が多く上杉家がこの
誤った情報を幾分でも信用したのであれば情勢判断は
正しくできなかったでしょう
あとこの書状も事前密約の根拠にはならないですよね、そもそも誤報ですし >>45
後世の編纂史料な上来歴不明、そんなもんがなんで上杉家に残ってないのだという問題がね 細川忠興が松井康之に宛てた書状で、事前に黒田如水と予測した通り(三成挙兵のこと)になった
と書いてるから、何らかの共謀がやはりあったとは見れないのかな
忠興と如水が何の材料も無く、三成をただ疑っていたということになるの? 企みの主が三成と上杉に限るという思い込みはどこからくるんだ >>45
「秀頼公」という記述一発でアウトだな、あの書状 結局上杉家に宛てた三成書状が見つからないと話は進まないと思う
細川忠興含めて武断派諸将は「三成は家康を殺したがっている」と家康に訴えたと卜斎記にあるけど多分確証があった話ではなかったんじゃないか
三河物語だと「家康を殺そうとした諸将が心変わりして全責任を三成に被せて殺そうとした」とあるし徳川は冷めた目で見てたのかもしれない
実際家康は三成を警戒してないし。その気になれば嫡男重家を力づくで同行させるとか佐和山を開かせるとかも出来たんだから >>48
杵築は飛び地で何かあってもすぐに救援できないから近くの如水に何かあれば頼むと言ってあっただけでしょ
秀吉死後の情勢を鑑みて如水も忠興も不穏な空気を感じ取ってはいたんだろう
けど、誰が何をするかまでは予測できていたわけではないと思うけどね >>51
真田さんのとこに上杉家に通信を頼む書状があるんだから、議論の余地もない
違いますか? 事前に共謀がないのがおかしいというのは
結果的に敵味方が分かれた史実から逆算してるから
味方同士もっと話し合えってなるけどそれは勘違いかと
石田と直江が盟友関係だの文治派武断派の派閥に分かれてただのは
単に結果論から小説的想像力によって脚色したもの
丹念に追っかけると一次史料では敵味方にはっきり分かれてたと言えない
というただそれだけの話
挙兵の話なんてそんなホイホイできるわけないやん
4奉行と毛利の間に密約があったのは添削付き誓詞があってわかってるけど
そこまではっきりした共謀関係はなかなか成立しないよ 昌幸の書状は、石田三成に対して、
「もっと早く相談して欲しかった」とぼやいていたよな
その状態でそれ以前に上杉と上方の仲立ちしてるわけない 備前黄門が主将となり、石治、小摂、長大らが指揮を採らは、苦戦は必至 三成の存在意義が上杉との連絡役であろうという推測は研究者の間である程度一致してる。そんな三成が上杉と事前に相談しないなんておかしいってのはまぁわかる
ただどうも大坂三奉行も上杉と連絡しようとしてないことが景勝の書状にあるから(上洛延期を奉行に拒否られた云々)そもそも戦略のうちに入れてなかったのかもしれないけど 三成の存在意義なんて最前線の領主としてこき使う以外ないだろ だから西軍挙兵自体がそんなに綿密に決められたものじゃないんだろ
そんな何ヶ月も挙兵計画を練ってた黒幕なんていない
家康が出征して権力の空白できたから挙兵したんであって >>59
石田、大谷(プラス安国寺)が火種なのはそりゃそうなんだろ
みんなじぶ、ぎょうぶの謀反だと史料で語ってるんだから
ただそこ(佐和山)でなにがあったかは新史料でも出てこないと分からんな
蜂起の経緯については吉川家文書を概ね信じていいんじゃないの 三成反乱云々は三奉行の情報工作だとは思う
西軍決起にあたって大坂の人質をどう押さえるかが重大な問題になる。徳川に怪しまれず人質を押さえるなら誰かに反乱起こした事にした方が自然だし 奉行:三成が謀反を起こしたようです、一味が大坂城内にもいるかもしれません
(あんたらだよ)皆様をお守りするため城内の安全な場所におうつしします
こんなかんじか?
細川家の抵抗により屋敷を柵で囲い逃亡防止のみの方針に変更
何の資料か忘れたが7月17日に毛利秀元が西の丸を押えたのも
治安維持名目でというのを見た記憶がある 三奉行は三成謀反を家康に通報し味方と思わせたんだろう
7月25日家康が長束正家を味方との認識で佐和山の三成、大谷攻めのために
西下させた軍勢の兵糧の手配を依頼してるし
7月27日榊原康政書状に三成、大谷が家康を裏切ったので三奉行が
家康に早く上洛してほしいといってきているとある
7月29日家康書状に大坂奉行衆が別心したとあり、この日かその前日くらいまでは
まんまとだまされていた 伏見攻めしてる長束正家に佐和山攻めの兵糧提出求めてるしな家康
三成如きが挙兵したところで大坂はおろか伏見すら抜ける訳ないから余裕だったんだろうけど、大坂が敵に回ったとは知らなかったらしい >>61
三成謀反は三奉行の工作というけど
三成も一味でなかったら成立しないから
普通に誓紙交わした4奉行+毛利が首謀者だな
勝手に名前使って謀反人の濡れ衣着せるとか
普通に考えたら即釈明に動いて敵に回る案件だが
三成の動きは真逆なんで 別に三成が参加してる必要は無いんじゃね?
この時の三成と吉継の謀反って「吉継が何故か佐和山にいる」くらいで軍事行動してる訳じゃ無い
要は吉継が佐和山で三成の根っこを押さえれば勝手に謀反になる訳よ。十七日の毛利軍大坂入城まで保てば良いんだし
下手すると三成は自分が謀反したことになってることすら知らなかったんじゃないの 増田長盛書状だと「吉継が行軍停止、三成は出陣拒否」だから別に三成軍事活動してるわけじゃないし。じゃあ何が謀反なんだよ?って言えば
大坂三奉行が騒いだだけじゃないの。火の無いところに煙をたてた。三成と意思疎通ができてる必要も無いしむしろこちらの方が自然
西軍からすりゃ三成なんて大した役割もないし 増田長盛書状だと「吉継が行軍停止、三成は出陣拒否」だから別に三成軍事活動してるわけじゃないし。じゃあ何が謀反なんだよ?って言えば
大坂三奉行が騒いだだけじゃないの。火の無いところに煙をたてた。三成と意思疎通ができてる必要も無いしむしろこちらの方が自然
西軍からすりゃ三成なんて大した役割もないし 三成が自分が西軍の総大将扱いされてると気付いたところで出来る事何もないからな
徳川に降伏するとして信じて貰える確証無いと出来ないしそんなことすれば大坂の重家がどんな目に遭うかわからん >>70
そんな中、実際の総大将のくせに不利になった途端堂々と降ってる毛利の節操のなさよ。 >>66
それだと三成吉継からしたら何も知らないのに謀反人に仕立て上げられたことになる
それで何故不満も持たずむしろ一番タカ派でやる気満々なんだ?
信用されないと何故か思い込んでるようだが
そもそも挙兵しなきゃいいのにわざわざして西軍に着いてんだから >>74
理由は単純で大坂三奉行からすると三成にしろ吉継にしろ大坂の人質を収監する為の目眩しであればいい。別にその後西軍につこうが東軍につこうが極論言えば問題ではない
ただし、大谷吉継には注意が必要。増田長盛書状だと吉継は病気を理由にしてるが軍事行動を止めてる。つまり吉継は意思を持って徳川に反逆してる訳で長盛が余程上手に事を運んだので無ければ吉継は西軍と通じてた可能性が高い 西軍は三成になんか期待してた訳じゃないぞ
上杉家とも繋がり失ってる奴味方になるなら弾除け、敵になるなら攻め落として潰すだけ >>75
行動見たら三成も普通に通じてると考える方が自然だろ
なんで吉継だけ通じてたとするんだ? >>79
三成は何もしてない
吉継は意図的に行動してる 三成の盟友暗黒字が佐和山城に来ている時点で察しないとな
まさか会津征伐の途上でたまたま立ち寄ったなんてことはなかろう
輝元の花王の入った紙を7月上旬に受取ってるし全権代理で今後の
打合せ都みてよかやろな >>75
ほぅ、石田大谷が東軍についても問題ないと?
石田大谷が佐和山で篭ればそう簡単には落ちん。
8月上旬には前田の後詰が佐和山に到着するだろう。
8月中旬に瀬田で決戦するつもりか? 前々から気になってたけどこのスレ特殊な三成好きいついてるよな
三成は巻き込まれただけで悪くない!負けたのは西軍首謀者が無能なだけで三成のせいじゃない!
みたいなの いや吾らが負けるはずがない、すべては三成がしくじったんじゃ
あの無能者めのせいじゃ >>85
三成の軍勢なんて大した数居ないぞ
敵に回ったところで豊臣軍に引き潰されて終わり >>88
石田大谷で7000はいるであろう佐和山を簡単に落とせると?
3000程度の伏見にどれだけ掛かった? ま、石田大谷が東軍につくと状況は混沌とするわな、
奉行からは石田大谷謀反の知らせ、
たしかに石田大谷が佐和山に立て篭もるが
奉行宇喜多等がなぜか伏見を攻撃している。
毛利は大坂入城している。
なんだこの状況は。
石田大谷が前田に、敵対する意思はない、後詰を、
と状況説明すれば前田は佐和山に後詰するか
佐和山で石田大谷と合流して伏見の後詰に向かう、
秀信にも味方になるよう説得、とかかな。
タイミング的には8月中旬石田大谷前田秀信連合東軍と瀬田で対峙、
大津では京極が籠城開始、とかかねぇ?
こんなんで西軍が勝てるはずかない。
伏見落として勝てるなら世話ない。
西軍は石田を味方にしなければ話にならん。 >>89
まず状況的に大谷吉継は西軍についてる訳だが仮に三成に同情して佐和山に籠城されても西軍は痛くも痒くも無い。「三成吉継謀反」で兵を送れば誰もこいつらを助けない
一番困るのは西軍決起計画を手土産に徳川に降伏されることだがだとしても状況は大して変わらない。やる事は変わらないからな 三成を庇うというよりは、なぜ毛利と奉行の野望に付き合って西軍に参加したか、興味あるよな。
騙されていたのか、同じむじななのか。
三成が首謀者兼総大将というのには無理があるし。 >>92
で、瀬田で決戦するつもりなの?
少なくとも伏見後詰目的の前田が南下してるぞ?
まず敦賀佐和山通るわな。
当然石田大谷は前田に使者送るわ。 西軍決起計画もくそもないわ、
伏見攻撃してる時点でもうおかしいんだよ。 >>95
伏見攻撃は七月十七日に起きてる。これには三成は一切関与してない(三成が大坂に上洛したのは早くて十八日だから)
西軍の計画としては「三成謀反」を騒ぐことで徳川に怪しまれる事なく大坂城の人質を収容し更に毛利軍を上洛させ、毛利軍到着と同時に徳川を攻撃するというもの。西軍の戦略には最初から最後まで石田三成は必要無い。敢えて言えば弾除け、つまり序盤の目眩しと最後の生贄役割、が三成の役目でそれ以外は期待されてなかった >>94
史実でも後詰できなかっただろう?三成が東軍についても同じことになる
というか前田からすると大坂三奉行が「三成謀反」と言ってきて三成が「三奉行謀反」と言ってくることになる。で前田が三成を信じるか?三成が三奉行と毛利の陰謀を物証で掴んでるなら希望はあるが三成がそう言ってるだけだと「謀反人が偽情報をばら撒いてる」としか思われまい >>96
大坂の徳川の留守居追い出した時点で、
家康からしたら奉行はなにやってんだ?となる。
伏見攻撃した時点で明確な敵対となる。
そして前田は伏見の後詰をするべく南下している。
少なくとも本人はそう言ってる。
史実のように大谷が越前に迎撃に来ないなら
そのまま佐和山まで南下する可能性はある。
もちろん引き返す可能性もある。前田からしたら
奉行が伏見を攻撃してるが石田は佐和山籠ってる。
とりあえず意味がわからんので使者を派遣するだろう。
石田からも使者が来るだろう。
そこで石田前田がどう動くかはわからんが、
石田が伏見後詰に合力すると言えば瀬田まで前進して西軍と対峙する可能性はある。
そうなれば京極も大津で籠城する可能性が高い。 くそどうでもいい話に同レベルが食いついて来てくれてよかったな そもそも七月十二日の三成謀反って三成は別に伏見攻めた訳でもなんでもない。敢えて言えば大谷吉継が佐和山に寄って動かない程度
だから実は三成の行動が謀反と取られてるのではなく吉継の行動から三成謀反の一報に繋がってる
そんな訳で三成が最初から打倒家康計画知っていたかは不明というか三成の動きを見るに知らなかったらしい。知ってたら佐竹や上杉、真田にも伝えてたろう
じゃあ西軍は三成が味方しないとなったらどうするつもりだったか?と言えば三成には大した期待は無い。絶対必要な人材じゃない。そのまま吉継が三成を切り殺して終幕だったんじゃないの
三成が助かる為には西軍に与するフリして途中で徳川に寝返る事だけど自分が後から誘われたって証拠か徳川との強いパイプが無いと死ぬだね >>86
昔からそうやん
1人の三成信者が話題を提供してくれるスレだから勢いがあるんだよ >>100
大谷が石田を切る?できるのか?
それで大谷が佐和山占拠するわけ?
なんかもう無茶苦茶だな、
それでとうやって西軍が勝つつもりなのか興味深い。 石田軍の本隊は大坂にいるし三成の手持ちは僅かだろ。毛利軍どころか大谷吉継にも勝てん 西軍は別に三成を必要として無いからね
上杉との協働も本気で考えていた痕跡無いし 佐和山に充分な兵がいると大谷、安国寺に脅迫されて心ならずも
挙兵に加担したというシナリオにできないからだろ 関ケ原で東西に向かい合ったから家康東軍三成西軍なのだろうが
関ケ原に至るまでお互い敵方をどう呼んでいたのですか?
もし家康軍が佐和山に向かっての進軍に成功していたら家康が西軍になったのですか? >>106
嫡男重家が大坂で会津征伐に従軍するべく準備を進めてる。本来重家は大谷吉継と共に出陣する予定だった。どうも石田軍の本隊は大坂にいて佐和山には兵が殆ど居ないか予備隊が待機してる程度だったらしい。だから三成は伏見城が西軍に包囲されるまで大坂に向かうことすら出来なかった これ相手しちゃあかん奴か?
石田の兵数千が大坂に居た、あるいは大坂に向かったなんて史料ある?
義演の日記にでも書いてあるのか? 三成というか石田家の動員能力が関ヶ原時点で三成が六千、佐和山に二千だから振り絞って僅か八千しかない。割と弱いというか隠居同然だった弊害が出てる 7月12日の増田書状で大谷と石田が〜とあるから、その2、3日前からこいつら活動していたのかな? >>96
主語が謎すぎんだけどその西軍とやらは誰と誰で
その戦略とやらはいつどこで話し合われたものなの?
三成含む4奉行と毛利とのあいだには
「秀頼に忠義でも奉行と意見が違えば討つ」誓紙があり
関ヶ原以前に「三成が家康を敵として毛利に大阪入りを求めた」という史料がある
西軍の軍事行動に三成が積極的であるのもその後の動きで明らか
なのに三成を蚊帳の外にした西軍なる集団を想定する理由が謎すぎる
あと何度も主張して反論もされてたと思うがけどその「家康に対する時間稼ぎ」作戦て
奉行自身が「大谷石田謀反」を注進したうえ帰国促してるので
自然と伝わる前にわざわざ問題起きてることいち早く教えてることになるじゃん 石田と大谷が〜とか言ってる奴がいるけど、7月20日付真田昌幸宛大谷吉継書状では、三成の名前が出てないんだがな
「年寄の輝元と秀家、それに島津と関西の諸侍が一統して御仕置を改めます」とある
三成の名前がどこにもない(関西の諸侍の一人だから書かなかったともいえるけど) >>115
7月30日付な
誤読してるぞ
「内府去々年以来御仕置、大閤様御定被背相、秀頼様御成立難成由候而、年寄衆
・輝元・備前中納言殿・嶋津、此外関西之諸侍一統を以、御仕置改申候事」
年寄の輝元じゃなく年寄衆つまり三成+三奉行、輝元、秀家、島津と読む
三成もこの「年寄衆」に含まれてるよ そうなのか?だとしたらおかしくないかあの書状
年寄衆(奉行)を輝元や秀家より前に書いていいのか? >>117
並びに関しては言及してないが丸島氏や白峰氏もそう読んでる
ただ白峰氏は確認したら年寄衆=三奉行としていて三成は含んでないな
丸島氏は三成も含むとしている
翌日の8月1日付木下利房宛、筑紫広門宛、蒔田広貞宛の連署状には二大老・四奉行
が連署してるし大谷書状の年寄衆に三成も含まれてると見ていいと思うけどね 三成らが大坂にそろってた7/30~8/4は四奉行や二大老四奉行で連署してるんだから奉行に復帰してるでしょ
8/25上杉景勝書状の宛先も二大老四奉行の6人だし 7月30日に三成は大坂に来ている,この際に復帰の話がまとまったのか
数通奉行として連署したと思われる書状に名がみえる
其の後に近江、美濃、伊勢方面に三成,長束、宇喜多は出陣したので
奉行と比定される連署は見られなくなる 三成は巻き込まれただけとか乗り気でなかったとか言う人は
秀吉逝去10日後に三成が加筆訂正しているこの起請文については
どう考えてるのか聞いて見たい、翌年の七将事件も1600年の挙兵も
この構図で考えてもよさそうだけど
輝元起請文:もし今度定められた五大老の内、秀頼様への謀叛でなくても
増田長盛・石田三成・前田玄以・長束正家の意見に同意しない者があれば
輝元は長盛・三成・玄以・正家に同意し秀頼様へ奉公する 上の方で他のひとも言ってるけど、恵瓊が佐和山行ったって時点で石田が主謀者グループの一員の可能性は濃厚。
西軍の初期戦略が敵の初動は瀬田・佐和山で迎撃するというオーソドックスなものなら7月末まで石田が
佐和山の防備固めてるのは当然で、不審な点はない。
敵が来ない、伏見が落ちないので7月末に上方に行ったであろうこともおかしくはない。
それと正澄の行動、
愛知川での諸将引き留め、伏見の後片付け、
佐和山在番、
どれも指示を受けての行動に見える。
では誰が正澄にその指示を出したかと考えると
三成と考えるのが妥当。
増田長束毛利が伏見の後片付けや佐和山在番を指示するのは考えにくいと思う。
もし正澄が主謀者グループであるならば、
伏見の後片付けやら佐和山在番なんで地味なことせず
大垣に行ってると思われる。 >>122
それ毛利家にしか無いからな
幾らでも捏造可能 >>124
あの起請文を偽造する理由は何よ?
輝元にとって不利すぎる内容だぞ >>122
別に関ケ原2年前の起請文なんかより、関ケ原の年の7月、8月に三成が真田昌幸に宛てた書状に全て書いてるよ
「長岡越中は秀吉が死んだ後、彼の仁を徒党の大将にして国乱を招いた張本である。だから丹後に兵を向けた」
「親父の幽斎が宮津にいるので、2の丸まで落として、お仕置きの半ばです」
8月になると、三成の真田に宛てた書状には「遺恨深候」とあるから、家康よりむしろ細川忠興に対する恨みのほうが深いんじゃないのかと思える
家康にしても前月の書状で「彼の仁」なんて書いてるから、ある程度の恨みはありそうだけど
ただ、8月の書状は意味不明な記述が目立つ
「親父の幽斎は助命して流罪にしました」←まだ宮津城も落としてないのに嘘ついてる
「長岡越中は法度を破り、内府をたぶらかして秀頼様から所領を掠め取るなどしたので遺恨は深く」←どう考えても逆恨みでは?
「越中の妻子が大坂にいたので焼き討ちにしました」←ガラシャの侍女が後年に覚書で石田に襲撃されたと書いてるけど、間違いないと思う
8月の書状で特にひどいのは、「家康ほどの者10人上り候ともお心安かるべく候」とあるところ
三成がバカの極みだったことがよくわかる
家康をなめすぎ >>122
確か原本が残っており貼り付ける形で輝元が秀吉逝去前に家康、利家宛に
提出した起請文と一緒に残っている、
秀次切腹直後は隆景ありてとはいえ西国の儀は毛利に東国の儀は家康にとされていた毛利氏にとっては
家康、利家の下、三成指導の下4奉行に起請文を提出は地位低下を示し名誉なものではなく
偽文書の疑いは薄いと思う
関ケ原前後の毛利氏関係で偽文書疑惑がもたれてるのはむしろ吉川広家関係の特に10月のもの 三成は7月27日真田宛書状で今度の挙兵をかねてお知らせもしてなかったこと
ご立腹も無理ないことです。
家康が大坂に在るうちは諸侍の心が測りがたかったので、
言うことを遠慮していた。とあり、
この通りであれば家康が大坂にいた6月16日までの段階で既に挙兵計画はあり
自分も首謀者もしくは首謀者グループの一員で知っていたことになる
7月に入ってから計画されたか巻きこまれただけなら、そういった方が
真田に知らせてなかった言い訳にもなり幾分なりとも立腹をしずめれるが
そういってないことから6月の段階ではすでに挙兵は計画されていて
三成も計画の中心メンバーだと考えるのが自然ではないだろうか >>125
単に「輝元は三成と安国寺の言いなりだった」とするためだろう。朱書きを無くすとあの起請文は「輝元こそ神君に逆らった奸物」の証拠となりかねない。あの朱書きがあれば輝元は三成に条文を修正されるような低い立場と受け取られる。現にこの現代ですらそう受け止めてる人がいるわけで
輝元が何らかの指示を行った証拠を突きつけられてもあの起請文を出して「全部安国寺と三成が」とやったんだろう >>129
ならそれに関連する内藤や毛利元康の書状も処分したら良かったのにな あまり知られてないけど秀吉の御掟では誓紙起請文の取り交わしは大名小名の区切り無く一切禁止
縁辺が許可があれば良い事を見ると無茶苦茶厳しい。だから文面関係なく輝元と四奉行はかなり危険な振舞いに及んだことになる
とは言え三成が入れた訂正は正直入れる意味があるのかわからん内容で「三成が輝元に指導した」以上の影響が無いんだよな >>131
内府違いの条々だと「大老と奉行以外の者と〜」と奉行側が微妙に内容を変えていて
自分たちのこの件は、違反してませんよー、みたいなアピールしてるんだよね
正直な意見を言わせてもらえば、非常に小賢しいと思う 北野社家日記に7月17日に細川ガラシャが奉行衆に人質となるよう命じられたが
拒んで小笠原少斎に介錯させて自害
という記述がある
三成が細川家に遺恨をというのは事実だけど、それでガラシアをというのは
史実でない >>132
九月三日に十人衆は「十人衆以外の者とは起請文をかわさない」と約束してる。これで八月の輝元四奉行起請文は合法化された。猪口才わざだが同時に彼らが八月起請文の危険性を認識してたことも表してると思う 自分たちこそ法度を破って徒党を組んでた証拠を残してるわけで
三成の言いなりだったとするためというのは筋が通らない
そもそもあかんのだから何言っても無駄 この起請文、結局守られてないからね
三成襲撃事件で輝元は三成を守れなかった。その結果家康の権威向上、三成と家康の接近という輝元からすれば最悪の結果を招いてる
多分この時点では起請文の修正はされてなかったんだろうが、それで非難は浴びなかった 主に三成、増田を標的にした奉行衆に対する七将の行動に
毛利は三成の要望に応じて一応兵の伏見移動もさせてるから
破約したというほどではない
ただ大坂城を内府方の片桐、小出に抑えられ状況は不利となり
安国寺、大谷などの仲介で三成引退で無血終幕
このとき小西、上杉も毛利、三成方で動いている
宇喜多の動きは不明
確かに此のあと家康の後見で重家を大坂出仕、半年後に大坂の三成、正澄屋敷を
宿舎に提供、利長上洛阻止の派兵など家康、三成接近とも見えるが
これが心からの恭順だったか時節到来をまつ擬態だったかはわからない
結局起請文の5人とも西軍で挙兵してるので最終的には誓約は
守られたといってもよいのでは ID:NKFReHq/のようなど素人馬鹿が書き込んでるせいで
相手にする価値もないと一気に過疎ったな 三成襲撃事件の後に輝元は家康に起請文を差し出してる。家康の野心云々で流されがちだけどこれ割と重要な内容だと思う
内容は「家康を父と思う」というもので明らかに家康に屈服させられてる(対する家康は輝元を兄弟の如く思うとのこと)なんの落ち度もない筈の輝元が進んでこんな起請文入れる筈がない
おそらく奉行派の陰謀がバレたんだろうが輝元は三成がチクったと思ったんじゃないか。この時騒動に巻き込まれたのは増田長盛や前田玄以なんかもいるから断言は出来なかったろうが三成の家康接近は群を抜いてる。家康派に転向する手土産にされたと思っても仕方ない >>138
それっていつもの三成大好きの連投君やん
そいつがおかしい事を書くからスレが伸びるんやぞ >>138
誰とは言わんがIDコロコロ民(主に一人)がいるから過疎るんやぞ >>141 >>142
だから昨日のID:NKFReHq/のような椰子のせいだろ 三成が西軍のこと知ってたら七月末まで活動してない理由が説明できなくなるからなぁ >>146
そもそも西軍自体が12日の三奉行による輝元への大坂入城要請まで動きがない
三成はその翌日転進した毛利軍から転進決定の黒幕と目され
輝元自身も15日には結果のメンバーと認識してる
それら全てを無理やり欺瞞工作やハメられたと解釈してるけど無理あるよ >>143
いやすまんけど違うわ
文体で分かるし
IDコロコロしつつこういう誤読をするバカのことね
540 人間七七四年 sage 2022/10/11(火) 21:25:19.70 ID:x1XJN3dB
一個思い付いたのは三成襲撃事件を家康が裁定した時に輝元と取り交わした起請文。この中に「天下の儀について秀頼さまから粗略には思わないと仰せ頂いて重畳」とある(ただし家康が送った起請文には「秀頼がいうのはもっとも」とあり恐縮してない)しかし秀頼が真に事態を解明した訳じゃ無い。この一件は家康・輝元・北政所による会議で解決されてる。おそらくこの時期は「秀頼さまが仰った」と言えばそれが秀頼の意思と同視されてたんだろう。つまり西軍の「秀頼さまが仰った」事は全て秀頼の意思と見てなんら問題無い。少なくとも諸将にはそれで通ってたことになる。
この効力を否定するには秀頼が否定するしかない。ところが豊臣は日和って若しくは内心に反徳川の思考が有ったが故に機を逸した。それが太閤恩顧衆の離反を招いたのは間違い無い。 >>147
逆に言えば奉行衆は十二日には行動開始してる 奉行衆は必死に会津征伐を阻止しようとしていた
家康には書状、対面にて景勝は上洛は承知したが領内仕置きのため秋頃と
いってきたのを即日上洛するようにと回答(そうしないと家康が出兵を強行
する可能性があるためと思われる、実際そうなった) >>140
ひょっとしてわたしのことか?
石田に落ち度のある部分があるなら指摘してみて。
少なくとも軍事的には持てる兵力で精一杯のことはやっているとわたしは見ている。
大垣から岐阜への後詰も出そうとはしていたし、
そも大垣自体も南濃方面で市橋らが暴れていて危険な状態。
西軍の伊勢主攻の戦略が間違っていたと言うほかない。
小牧・長久手時の秀吉も美濃から行ってる。
伊勢から行って長島がそう簡単に落ちるはずがない。
敢えて言うなら8月上旬に石田秀信小西島津で軍議を開いて基本戦略を確定するべきであったとは思う。 三成が吉継を誘ったとされるのが七月二日だけどだとしたら同じ時期に上杉か佐竹少なくとも真田には声がけしてないとおかしいし
西軍が決起して伏見を巻いた十七日には行動出来たはず。それが七月末までってのは真田を馬鹿にしてたか西軍での立ち位置が分からなかったか 大谷、三成会談を落穂集ベースで考察するのはさすがに・・・
7月14日吉川広家書状や7月12日増田長盛書状などから
7月12日以前ではあるが7月2日では早すぎだと思う そこに大した意味は無いけどな
三成が西軍が内府違いの条々出した日にも全く動き見せてないわけだし
本当に決起計画を知ってたなら二月あたりには上杉と接触してるだろ >>149
だから何?
その頃にはもう「三成は動いてる」と輝元も毛利軍中も認識してるんだからほぼ同時じゃん >>149
だから何?
その頃にはもう「三成は動いてる」と輝元も毛利軍中も認識してるんだからほぼ同時じゃん 三成がいつ参加してたとかは新しい史料が出てこない限りどうでもいいよな 三成が本格的に西軍に参加したのは七月二十一日以降でそれ以前は決起計画自体知らなかったようだ。従来三成が西軍総大将だの上杉との関係を買われただの言われてきたけど史料から導かれる三成像は輝元と三奉行に良いように使われて最期は生贄にされた哀れな三下。ま、輝元からすりゃ予定通りなんだろうが 元々の史料上で西軍の活動開始とほぼ同時に動いてると認識されてるんで
それを覆すような史料がないなら三成は初期メンで間違いないわな
毛利のみならず島津も15日だかに三成を決起した側とカウントしてる
三成に影響力がなくその参加も当初欺瞞工作の捏造でしかなかったというなら
西軍内部に対して首謀者の一人だと喧伝する必要ない訳でその論は破綻してるよ 当時は七将襲撃事件で隠居させられて公職追放中みたいな状態でしょ
なら内府違いの条々が周知されて諸将の向背が明らかになるまで
三成が公然と活動するのはリスクしかないし時間差が生じるのは当然では >>158
あなたコテハンつけてよ
とても見所あるから 関ヶ原のあれこれって、丁度ガザで起きてる事連想するというか
イスラエルのスパイ組織のえぐさは有名で、ハマスの計画を知らないとか有り得ないでしょ。
でも、小規模なテロ起こさせてそれ口実にガザ侵攻をネタニヤフがもくろんでたと考えれば
納得が行く
わざと隙を見せたら、想像以上にやられたという
家康も挙兵計画自体は読んでたし、掌の上で奉行衆躍らせてた気だったと思うよ
只、実際事が起きると想像以上の挙兵規模で慌てただけで
吉川広家って前から家康に近いし、毛利は乗らないという前提だと考えれば家康の
可笑しな動き納得できる >>158
だから西軍自体の活動がせいぜい12日からしか記録ない上に
三成も13-15には首謀者として西軍内で認識されてるんだって
なのにそのことをまるっと無視するのはなんなん?
あと「いいように利用」だの「哀れ」だのあなたの主観でしかないじゃん
三成だって西軍挙兵によって奉行復帰して権勢振るってる
単にあなたが三成を悲劇の主人公にしたいだけだよ 挙兵計画を読んでた云々は小説家の空想力
司馬史観そのものだよ
実際そこまで掌握してたなら体制覆す必要ない >>160
それは矛盾してるので否定されてる
そもそも事の発端は七月十二日の三成謀反の報告でこの時既に騒ぎになってる。つまりもうリスクは現実化してる。これの原因は大谷吉継が石田三成に会った事だとしたら既に三成は「公然と活動」してたことになる
それを過ぎて十七日には毛利軍が大坂城を占拠、徳川派諸将は身柄を拘束されて完全に西軍が動いてる。もうリスクもへったくれもない
なのに三成は上杉とも佐竹とも真田とも交渉してない。つまり三成は自分が騒ぎを起こしてると知らずに陰謀を進めてるつもりになっていて、その上大坂で何が起きてるかも知らなかったということになる。そんなアホな話があるわけない >>159
時代小説だとそうなんだが史料からは三成が西軍の活動開始とほぼ同時に動いてるなんて確認出来ない
西軍、つまり豊臣家と毛利家の謀反計画は慶長五年の二月にはあったようだがその計画は練られ続けて七月十二日に決行される。僅か二日で大坂に着いたという毛利輝元の動きがそれを証明してる
並行して豊臣家は諸将の人質を拘束して徳川との戦争に備えた
こうした動きに対して三成が何をしたのかが分からない。三成謀反の一報は大坂から飛んできたんだが内容それ自体には謀反を窺わせるものじゃない。「吉継急病、三成出陣」だからね(三成が出陣する事は確定してた)例えば「三成が伏見を攻めた」「大坂に火を放った」とかだったら謀反なんだが。それで小説家は想像力を膨らませて三成の謀反とやらを作ってきた。だがそれは結局のところ想像の産物で面白くはあるんだが信憑性は無い >豊臣家と毛利家の謀反計画は慶長五年の二月にはあったようだが
なにか史料的根拠あるのでしょうか? >>165
それは史実の結果から逆算してるからアホに思えるだけ
真田や上杉との事前交渉が必要という考えが前提のように話しているけど
当初の目論見通りに西軍決起で家康が孤立すれば家康は引き返してこれない >>166
西軍自体である毛利家中、島津の書状で確認できるだろ
なんでそれを無視して小説扱いしてんの?って散々聞かれてるんだが? 「豊臣家」の活動自体がそもそも史料上は確認できない
秀頼や淀が具体的に活動してる史料って何?って言われて
結局馬廻への命令も奉行による伝聞以外出せなかったじゃん
なのに三成は自分自身が伏見攻めに参加するまで「動いてない」ってのはダブスタじゃん 三成は縁戚の眞田昌幸、妻が大谷刑部娘の信繁、親友の信之の真田一族を
挙兵すれば真っ先に味方になるとおもってたろうけど、事前に真田に知らせてたら
信之から徳川家に通報され佐和山城を囲まれゲームオーバーだったろうな >>167
恐らく吉川広家書状案(吉川家文書917)のことじゃないかな
春頃に福原広俊や堅田元慶を木津留守居として置いたのは大坂城西の丸にその人数を入れるためだったとある
しかしこれは安国寺一人が主張してることで、秀元をはじめ一同そんな計画は知らなかったとあるからなあ
そもこの部分は広家が安国寺一人のせいだったことを強調するためのフェイクの可能性もあるし
で、この協議が行われたのは春ではなく7月半ばの話ね
これは以前にも話題になったことあるんだけど、>>166の彼は「去春」とあるんだから春頃の話だとアホなこと言ってたわ
7月14日吉川広家書状にも広家に大坂に来るよう指示があり、13日に大坂に到着したとあるからその時の話なのに ありがとうございます、でも誤読もひどいが、誤読の通りだとしても
どう解釈したら豊臣家が謀反計画に参画してたことになるんだ?
そもそも主家の豊臣家が謀反とは?シエの丁度このころのはなしで
豊臣家が徳川家に弓引くという迷セリフがあったけど 7月21日以降に初めて知って、7月末にはもう軍勢が動くわ、各所に中枢部としての書状出すわって、
なんの準備もしてなければ出来るようなことじゃないんだが?
現実の世の中はゲームじゃないんだぞ?
自分で僅か2日で大阪に着いた毛利の動きがそれを証明してるって書いてるじゃん。
三成だって同じだ。準備してなけりゃ動けんよ。 >>171
だとしてもおかしいってこと
大坂では七月十七日、毛利軍が西ノ丸に総守護として入り内府違いの条々が出されて家康討伐軍としての正体を表した
三成が前々から西軍決起計画を知っていたならこれと時同じくして真田一族に書状を送っていて当たり前。何なら六月辺りには昌幸にそれとなく匂わせておいてもよかった
さて三成は七月三十日に昌幸に「計画を伝えてなくてお怒りなのはわかります」と謝罪してる。つまり三成は決起計画を昌幸に伝えないどころか参加の誘いすらしてなかった
ここに矛盾が生じる。三成が西軍決起計画を秘匿していたならそれが成った時即座に動かないとはどういうことか?結論から言えば三成は西軍決起計画を知らなかった。知らないものは誘えないからね >>170
お前の中では「豊臣家」ってのは秀頼と淀しかおらんのか?まぁ大抵の小説だとそう描写されてるけどさ。徳川家と言えば家康と秀忠しかいないと考えてるようなもんで妙な先入観に陥ってるぞ
豊臣家は武家としては終わってるがそれでも奉行をおく位の力はある。そんで奉行とは主人の命令を「奉」じ「行」うもの
当たり前だけど「大坂城に兵を入れて徳川軍を追放する」なんてのは毛利家の一存では出来ない。大坂城を支配している豊臣家との折衝無しに計画することすら出来ない
ちなみにお前のいう豊臣家、つまり秀頼や淀は会津征伐に反対していた。そういう意味では豊臣家全体として反家康感情を共有していたんだろう >>175
君のなかではそうなんだろう
書き込みはご遠慮ください 7月27日付け秋田実季宛榊原康政書状抜粋
「然者於上方、石治少、大形少別心仕に付而、大坂より 御袋様(淀殿)ならびに三人之奉行衆、北国羽肥州など早々内府被致上洛尤之由候申来候間」
別心したのは石田と大谷であり、当初は淀殿と三奉行(と前田)は家康に手紙だして上洛を求めていたことが分かる史料
淀殿と秀頼が会津征伐に反対していたという史料なんてあるの?「豊臣家」の反家康感情とか?
内心がどうかは史学では触れないんだけどな
少なくとも卜斎覚書を信じるなら秀頼は家康に公儀の公戦だと授権してる
小説しか読めないのはおめさんだろ >>178
横からだが会津征伐に関しては淀と秀頼が家康を止めようとしてる史料はあるね
北政所も秀頼への見舞いと称して、実は家康を止めるため大坂へ下ると幸長は言ってるな
日付不明の浅野長政宛浅野幸長書状写(坂田文書)
※冒頭の5月18日の書状を22日に拝見と、政所様は明日27日に秀頼へ見舞いのための部分から5月26日付と比定できる
「五月十八日之御書、同廿二日至伏見到来、忝拝見仕候」
「秀頼様・御袋様より、内府様御下候儀御留有度と、御奉行衆為御使就被仰付候、
内府様へ奉行衆被参候へハ、御機嫌悪被成于今不被申出候、政所様明日廿七日秀頼様為御見廻、
大坂へ被成御下候ハヽ、是も御内儀者内府様御留有度由ニとの御下と申候事」 時慶日記6月8日条に北政所、大坂城より帰城とあるので
約10日間程大坂城に滞在したことになるね
会津征伐の軍議が大坂城西の丸で行われ部署まで決定したのが6月6日
なので、最後まで家康に翻意を促していたのだろう。 >>173
君が知らないだけで秀頼が西軍ってのは史料研究で明らかになってるよ
有名な例では「慶長5年8月5日付鈴木重朝宛長束正家・増田長盛・石田三成・徳善院玄以・毛利輝元・宇喜多秀家連署状」
この中で秀頼は伏見城の鳥居元忠を討ち取ったのは手柄として太刀・銀・知行一千石を与えてる
この書状は決定的で武家の頭領が家臣に与える感状であり西軍が豊臣公儀軍であることを示してる 関ヶ原でも大坂の冬の陣でもお試しで家康に逆らうだけで
風向きが悪くなると瞬く間にびびって和睦して結局は家康に何もかも取られる
本当に秀頼は絵に描いたような愚将だよな 豊臣が西軍だの公儀だの大義の部分で関わりはあるが、
実質的には一般論で言われている、
家臣同士の争いだからどちら側にも積極的な加担はしなかった、
でいいんじゃないの?
幼児に物事の判断などできるはずもないし
後見役も大坂にいない。
事実上関与などできるはずがない。 片桐兄弟が徳川に関ケ原本戦後に此度の戦に秀頼様は一切関知せずとの
書状を送っているな >>183
あの書状は二大老四奉行の書状だと思うんだが
秀頼の名前を勝手に借りただけでは?
7月30日に島津忠恒に宛てた兵力を寄こせ、弾薬兵糧は公儀から出してやるからの書状も、どう考えても秀頼の
意思とは思えないんだが そもそもこれって秀吉が悪いでしょ
成人した豊臣一門が誰かいたら、秀頼の名前を勝手に濫用されることなんてなかったはず
秀次事件で一門を殺戮した秀吉が悪い 要は毛利・宇喜多・上杉?・増田・長束・玄以、
あるいは家康・前田にこちらが公儀だと主張できるだけの権限があるのか。
どちらにもないでしょ、
徳川にしても上杉征伐はまあよいとしても、
その後の西軍への攻撃は勝手にやってるわけでしょ。
形としては豊臣家臣同士の争いでしかない。 豊臣の印を使った書状が有ればな
西軍に豊臣家が付いたなら本来は乱発してるはず
事後の書状とはいえ>>187が正解なんだろ
だからこそ豊臣家の権威が暴落してもしょうがない いうても豊臣家って秀吉がいなけりゃただの成り上がりの大名だからな。
武家の政体たる征夷大将軍(幕府)でもなく、公家の政体たる摂関も秀次事件で手放している。
秀吉が織田にやったことが、まんま豊臣家に返ってきただけの話だ。 >>193
横からだが再掲
「豊臣」(がなにを指すのかいつも不明だが)なるものが西軍を支持していたとまだしれっと繰り返すのか
根拠出してねと言っているんだがなあ
片桐又七郎書上ってのを紹介しようか?
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/18-1-2/54/0019?m=all&s=0016&n=20
「関ヶ原御陣之節、片桐市正同主膳正、従大坂(おおさかより)以飛脚言上仕候は、関ヶ原御退治已後早速大坂え入御被遊候、右之一乱秀頼公少茂(すこしも)御存無之候、其上兄弟之者共秀吉公御遺言を相守罷在候上は、奉対御所様に違叛不奉存旨申上候」
これが秀頼、淀殿の公式見解ということになる
現存しない9月21日着の秀頼、淀殿書状もこんな内容だったろう
あくまで二次史料であるのには注意 >>194
いうても決着が付いた後の書状だとなあ。
総大将の毛利でさえ、安国寺恵瓊や奉行に騙されたんや~そんなつもりなかったんや~、で逃げ切ろうとしているわけで。 >>176
奉行=豊臣家だと認識してるならそれは歪んでいるな
奉行が毛利と共謀してることなんて誰も否定してないし冷静になりな 秀頼・淀君・北政所が会津征伐に反対していたのは史料から明らかで故に「家康が豊臣家を無視して征伐を強行した」「その目的は上杉を屈服させて天下簒奪の足掛かり」ってプロットは長い間信じられてきた。なんなら慶長五年にすら信じられていた
だが上杉景勝の所業を見るに討伐は必然でむしろこれを行わない方が問題がある。景勝は上洛を無意味に延期して家康への挑発すら辞さない、ってなると今度は「何故豊臣家は会津征伐に反対したのか」が問題になると思う。景勝がやってる事は弁護のしようもなく謀反でこれに反対するのは現実を軽視してるか豊臣自体の都合があったか >>186 >>190
それが実情に近いと思う
少なくとも双方正当性は主張して秀頼の命を奉じる形はとってる
が、秀頼自身の意思表示は引き出せていない
それをもって片方だけが「豊臣家」の正当であるというのは
歴史的考察というより政治的な主張に近い >>195
所詮は後世の書き上げで、原史料を引用している形でもない二次史料だから限界はあるよ、そりゃ
片桐又七郎ってのはどうも元禄期まで生きていた人間
その頃までに提出されたものだ
まあ一つの参考資料としてね >>199
いや、後世の創作とかそういう意味じゃなくて、仮に豊臣家(淀殿、秀頼)が実際は西軍だったとしても、
関ヶ原で結果が出たあとは無関係決め込むに決まってるってこと。
てか、毛利なんて関ヶ原以前から安国寺のせいにして逃げ切り体制に入っているわけで。 >>200
なに、あなたが秀頼、淀殿、北政所が西軍に明確に与したという史料を提示してくれればいいんですよ
秀頼の意向は成人まで無視する体制だったんだから、淀殿か北政所の >>201
実際は、西軍には組みしてないだろうけど、東軍にも組みせず、
文字通り天上人を気取ってたら手遅れになった間抜けでしょ。
なにせ、関ヶ原の本質は豊臣家譜代である文治派と武断派の潰し合い。
どう転んでも豊臣家の弱体化にしかならん。 輝元や淀・秀頼は覚悟もなくお試し感覚で家康に逆らっているだけ
そのため身の危険を感じるとすぐに戦意喪失してしまい
現場で戦っている武将を切り捨てて自己保身しか考えなくなる
関ヶ原の西軍も大坂の陣の豊臣家もやっていることの本質は同じ
こういう正真正銘のクズどもが世に迷惑をまき散らしてきた 公家・山科の日記に「大坂城に入って家康は秀頼と和睦した」とあるけど、
家臣団同士の争いなら、家康が秀頼と和睦する必要はないんだよな
あるいは「輝元と和睦した」ならわかるんだけど >>202
文字通り天上人ってのがなんなのか分からないが、基本的な姿勢として中立だったというだけでしょ
間抜けかどうのも私は興味ない、事実として何があったかを知りたいだけなので
でだ
>>204
のように秀頼の身柄を押さえられているわけだから、外形的には秀頼は西軍と捉えられても仕方ない
そこに緊張関係が生まれるのも不思議ではない
というごく単純な話だとしか思えないんだけどね
誤読したりこねくり回して「豊臣は家康嫌いだった~、三成は蜂起の計画を知らなかった~」なんて言い出すよりは妥当な解釈でしょ >>205
関ヶ原、この場合は9月15日のことではなく、石田襲撃事件を含む一連の流れにおいて、
豊臣宗家に中立はありえないと言うか中立こそが一番の悪手なんだよ。
中立といえば聞こえは良いけど、要は外様(姻族的には親族衆でもある)の徳川毛利宇喜多小早川のみならず、
譜代である福島加藤黒田や石田小西大谷ら相手でさえも手綱を握れなかったということ。
そんな家は、まあ、滅ぶしか無いよな。 >>205
外聞もなにも秀頼は西軍に感状出してるんだが
完全に西軍です >>207
秀頼が完全に西軍なのに東軍から離反者が出ないうえに戦後に徳川を糾弾できず豊臣は西軍と無関係と態度を翻すなら既に天下は豊臣から徳川のものになってたんだな 日本人の気質というか、一般的に強いものにまかれる気質がでかいんだよね。
そこに大義だのなんだのは存在しない。
当時の多くの武将たちにとっては徳川だの三成だの
たいした問題じゃなかった。同じ豊臣遺臣の幕僚なんだから。
だから家の存続のために両家に配慮した協力体制を築いた家も多かった。
これが当時の客観的な見方。
例外は三成憎しで動いてる武断派武将たちが一部存在したに過ぎない。
その代表格が福島正則だ。
彼の行動で国が動いた。バカとハサミは使いようと家康が発言したとかしないとか。 毛利軍が大坂に入ったから豊臣家は意思を歪められた!って言うけどそんな史料は逸話レベルで無いし
それを言い出すと豊臣家の意思は大坂城を押さえた者が決めていたことになってつまるところ無意味って結論になる。会津征伐は徳川がゴリ押したと言われても反論しようが無い
これってもう組織として終わってる訳で正直頑張って豊臣は徳川を信じてたとか言うのは徒労ではないか。素直に西軍を支持してましたとした方が >>188
その可能性は全く無い。白峰氏は書状の文面から確実に秀頼からの褒賞だと主張してるしそこに問題はない
当該書状は知行宛行まで行った感状でそれが当主の意思を無視したものだとすれば当主にこそ問題がある。何の証拠も無しに名前を借りたんだときうのは想像力が逞し過ぎる。内容にあるように秀頼が与えたとして何の問題もない >>211
問題あるだろ、幼児に物事の判断能力などない。
小学一年生だろ?
1+1=2とかやってるレベルの年齢。
そして大坂に後見役もいない。
大坂に利長がいましたとかなら筋も通るが、
何勝手に秀頼騙ってんだって話。
それとも淀の意向は豊臣の意向とでも? >>211
秀頼って天才少年だったんだなw
数え年で8才のクソガキが自らの意思と判断で派兵や知行宛行できるとか凄すぎんだろ
これは豊臣家も安泰だわ 幼少の当主なんて家臣に好き勝手されてナンボでしょ。
秀次が死んだ日に豊臣家は終わったんだよ。関白という権威もその日に消滅。
文治派も武断派も相争って、かつての敵である徳川や毛利を引きこんで内乱してるんだから、何が忠臣だか。
外患誘致の結果、東軍が勝ったら史実通りだし、仮に西軍が勝ったら毛利が徳川に成り代わるだけ。
石田も福島も加藤も小西も豊臣恩顧どころかとんだ裏切り者だよ。 >>214
>石田も福島も加藤も小西も豊臣恩顧どころかとんだ裏切り者だよ。
織田に対する秀吉のやり方こそ正しいとしてきた連中だからな
秀吉の思想を秀吉の死後に実践してる豊臣恩顧と呼ぶに相応しい連中じゃないかw 奉行が秀頼の意思を〜ってのは根拠でもあるの?かなりの妄想に基づいてるように思えるが
史料に秀頼がそう言ったとあるんだから否定するには史料がいるが秀頼が脅されたって史料は無いし >>217
結局「誰が言わせたか」を探すだけの話になるよ。
幼少の秀頼の意思なんて微塵も存在しない。
下からの報告にわけもわからず諾というしか出来ないのよ。
前田利家が後見していたときは、利家の言葉が秀頼の言葉だし、
その死後、徳川家康が大坂城に詰めていた時は家康の言葉こそが秀頼の言葉。
家康が大坂城を離れたら、代わりに入った毛利輝元の言葉が秀頼の言葉だし(実際それで阿波を奪った)、
奉行が秀頼の周りを固めたなら奉行の言葉が秀頼の言葉になってもおかしくはない。
繰り返すけど、幼少の当主っていうのは豊臣に限らずそういうもの。 >>217
前にも指摘したんだが、「秀頼様が知行を宛がうと言った」としても、なんの権限もないんだよ
そう決めたのは他ならぬ五奉行
慶長3年8月5日の起請文
一、御知行方之儀、秀頼様御成人之上、為御分別不被仰付以前ニ、諸家御奉公之浅深二ヨリテ、御訴訟之子細モ有之ハ、公儀御為ニ候条、内府并長衆五人致相談、多分二付而随其、可有其賞罰候、但、手前之儀者少モ申分無御座事
秀頼はガキで分別つかないんだから、領土訴訟は家康と五奉行で多数決しましょうねって取り決め
家康も西軍も秀吉遺言や起請文をてんで守ってないからしょうむないことだが、「秀頼の意向」というのはむしろ邪魔という建て付けなんだよ
秀頼に取り入って悪さするやつが出るかもしれないし
奉行の軍忠状は自己矛盾してるんだよ
権威を使ったと考えるのが妥当 >>217
ふーん
それならあんたは本能寺の変の直後に秀吉が「信長と信忠は生きてる」と言ってる書状をそのまま信じるのか?
一次史料であっても誤謬やバイアスはあり、中にはそのまま鵜呑みにできない内容もあるでしょ
常識的に考えて当時の秀頼の年齢で本気で物事の分別がつくと思うか?
当時の秀頼が主導して改易、派兵、知行宛行を全て行えてたと本気で思ってるのなら頭お花畑過ぎるね 知行宛行してるのは決定的なんだよね。秀頼はまがりなりにも豊臣家の頂点でその意思決定で知行が決定されるのは当然。少なくとも当時の武将はそう思っていた事を意味してる
秀頼が幼少だから奉行が言わせたんだ!って妄想は無意味で秀頼が知行宛行してしまった時点で秀頼は西軍を支持していたことになる。これが「幼少だから無効」となると秀頼は公儀どころか豊臣家の頂点から転落する
家臣に罪をなすり付けた時点で秀頼の格は死んでしまった >>219
勘違いしてはいけないが既に秀頼は成人だぞ
それは「豊臣秀頼」って名前、諱があることからもわかるだろう?秀頼は慶長二年に元服の儀式を受けてる。だから秀頼は豊臣公儀の頂点となれた
家康ですら「秀頼の意向」を伺わないと政策決定ができなかったほどこの効果は強い。また諸将が秀頼からの知行宛行を求めたのも当然だろう。秀頼が幼児なら履行能力が無いので別の人間からの宛行を望んでいたさ >>222
起請文は慶長三年なんだが
前年に成人していた人間に「分別がつくまでは~」って、おめさんの主張と矛盾してると思わんか?
史料読めないのは仕方ないけどさ、ごく普通程度の思考力もないの? 結局のところ問題は、秀頼が日本の統治においてお荷物以外の何物でもなかったということ
幼児とか成人とか以前の問題であり
秀頼は大人になったところで何の役にも立たない迷惑なだけの存在だった 秀頼が所領を宛がったというならば、西軍が挙兵の際に出した「内府違いの条々」は全く成立しなくなるぞ
あの条々には確か「秀頼成人までは知行給与を行わないと決めたにも関わらず、忠節なき者に勝手に与えている」とあったはず
条々は嘘ばかりを並べていたのか? 圧力に負けたんだろうけど堀尾の新領宛行状には
家康のほかに秀家、輝元も署名してるからね 「やった」の反対は「やってない」であって「やらされた」はやったのと同じ。秀頼が自分の意思で家康に敵対したかどうかは問題ではなく秀頼が家康に敵対したという事実が問題
ていうか片桐の言い訳、殆ど吉川の言い訳と同じなんだな。主人は何も知らないんです!許してください!って >>227
内府違いの条々にそんなこと書いてあったっけ?
条々で知行に触れてるのは
「知行方之儀、自分二被召置候事ハ不及申、取次をも有るましく由是又上巻誓紙之筈をちかへ、忠節も無之者共ニ被出置候事」
だけどこれは
「家康は知行の相談を自分が受ける事はもとより取次すらしないと誓紙で誓ったのにそれを無視して(秀頼への)忠節が無い者へ知行を与えた」
って内容で秀頼が成人まで云々とか書いてない
ていうか内府違いの条々は秀頼が成人するまで云々みたいな文面は無いし ということは家康の専横とされる行為も秀頼の行為となり
家康を弾劾する根拠もなくなるけど 幼少の秀頼、というか豊臣家が生き残るためには、明確に東軍か西軍について「豊臣家の元、争いを収めた」形を作るしかなかったんだよなあ。
出来なかったなら、あえて負けたあとの西軍について「ごめんなさい、徳川に逆らいません、減封で許して」というのもあり。
最終ラインは家康が征夷大将軍に着いた際に、臣下の礼を取ること。
ちょっと、というかだいぶんアレなところはあるけど、毛利輝元の生き汚さを見習えと。 1598年8月5日の起請文のことだろ、これは家康が提出した文面
一、御知行方之儀 秀頼様御成人候上、為御分別不被仰付以前ニ
不寄誰ニ御訴訟雖有之、一切不可申次之候、況手前之儀不可申上候
縦被下候共拝領仕間敷事 IFを語るなら、利長が後見役として金沢に帰らず
大坂に居続けてたら、前田征伐、上杉征伐は起こらなかった可能性が高いように思える。
利長の力量次第だけど、毛利・徳川・前田の派閥争いになるか、
意外とバランス取れて秀頼成人に至って豊臣体制続いたかも。
清正、細川、宇喜多とかは前田派に近いでしょ。
歴史の改変するなら利長の金沢帰るのを止めさせることだと思う。 >>233
内府違いの条々には載ってないよね?
てことは西軍の出した内府違いの条々は完全に成立するってことになる まあ秀吉も阿蘇惟光が梅北一揆に関与したとして殺してるからな
惟光このとき満11歳
肥後一揆のときも秀吉は惟光を関与を理由に殺そうとしてるけど
ちなみにこのときは満6歳
秀頼が全く関与してない、とは豊臣政権では言えないかな
自分たちがやらかしてるんだから >>234
豊臣政権崩壊の戦犯が前田利長というのは新しいな
確かにそこターニングポイントかも 1番のターニングポイントは利家の死去だろ
ただここから考察するのは前提条件が違いすぎて違う話になる 1番のターニングポイントは秀吉の死去じゃないの?違う? 秀頼は四歳にして元服(成人)してる訳だけどこれは織田家の凋落に乗じて成り上がった秀吉だからこその選択なんだろう。仮に拾のままで秀吉が死ぬと豊臣家の家督騒動が起きる。すると拾は三法師の轍を踏んで歩くことになる
それを防ぐには秀頼を元服させて成人として扱うしかなかった。それはそれで間違ってはなかったかもだが 1番のターニングポイントは秀次の高野山追放。
自刃が秀吉の命令か、秀次の独断かは別にしても関白追放時点で豊臣家の命運は絶たれた。
秀吉や、前田利家、小早川隆景等の死については数年生き伸びただけでは無意味だし、20年生きたらIFすら逸脱する。
ちなみにその逸脱した20年を生き延びて次代(孫)に繋げることに成功したのが毛利元就。
更に小早川隆景という名将が後見してさえ、育ったのが、あのポンコツ輝元。
荒唐無稽なIFを重ねてさえも駄目なときな駄目なのよ。 淀・秀頼は親政がしたいので、五大老五奉行が決める制度は邪魔だった
しかし幼い秀頼が秀吉のように権力を行使するのは不可能だった
一方で輝元と奉行は自分たちで政治権力を握りたいが
家康に権勢を握られてそれが不可能になった
両者が結びついてできたのが西軍の体制であり
輝元や奉行が秀頼の命令だの秀頼の意向だのを叫んで好き勝手なことをやることで
淀・秀頼は自分たちの威光を押し通したという満足感を得て
輝元や奉行は好き勝手に政治権力を握るという実を取る体制だった
しかし東軍本隊が迫ってくると淀・秀頼・輝元・奉行の大半は戦意喪失してしまい
自己満足によってできた西軍の体制はあっけなく崩壊した >>239
秀吉が死んでからの話をしてるんだろ?
アホなのか? 利家も秀吉も死は避けようがないけど
利長は選択肢があったわけで >>228
堀尾吉晴宛の知行宛行状は10月1日付
既に前田と上杉は帰国していて不在だからその三人の連署になってる
8月7日付の15通の知行宛行状は五大老の署名がある(但し景勝はこの時点で帰国済)
圧力がどうとかの問題ではなく、本来なら堀尾宛の知行宛行状も五大老の連署で発給する予定だったということだな >>200
それが可能なのは豊臣家が西軍に具体的なお墨付きを与えなかったから
具体的なコミットメントを与えていたらそんなシラもきれない
毛利は責任逃れに三成や恵瓊に騙されたことにして云々
馬鹿なことを主張してる人いるけどそんな言い訳は
毛利が彼らを盲従しなきゃいけない理由なんてないのだから話にならない
でも主筋で盛り立てると(奉行に従うなんて密約じゃなく)公に誓ってる
豊臣家からの命であれば全国の大名が従うべき理由付けになる
でもそんな言い訳はしてないということは
つまりそんなコミットメントももらえてないってこと >>206
実際に中立を守って滅んだけどだから何? >>217
奉行が「秀頼がこう言ってる」と主張してる文書はあるが
実際に秀頼が発した文書はない
つまり公的に秀頼は何もしてないのと同じ >>248
そんな訳ない。というかそうすると豊臣公儀が消滅するぞ。当時は「秀頼が言った」といえばそれで公儀として問題なかった
その上一番問題なのは「秀頼が言った」を否定するには「秀頼は言ってない、ことを秀頼が言った」証拠が要る。その証拠が無いので秀頼が言ったという奉行の言葉は信用できる、というかこれが信用できなかったら豊臣公儀の出した書状全てが信用できなくなる 八月五日起請文だけど「秀頼様御成人之上」はいいとして「為御分別不被仰付以前」がくっついているのがキモになるのではないか
戦国時代に民法は無いのでいつから成人かというと元服した時、で秀頼は既に元服してるから第一条件はクリアーしてる。じゃあ第二条件はなんなのか?そもそも誰が判定するのか?
っていうと十人衆ってのがこの起請文の骨子なんじゃないか?極端な話十人衆が秀頼に能力があると認めたら五歳歳からでも知行宛行できるし
能力無しと判定すれば三十過ぎても知行に触れることすら出来ない
秀吉がもっと厳格に厳密にタイムリミットを定めて遺言してればこんなことにならなかったんだろうが、仮に何も起きなかったとしても実権を得たい秀頼と離したくない十人衆で一騒動起きて不思議じゃ無い >>250
よーやく理解したか
慶長五年時点の秀頼に知行宛がいの発言権、実権がないと
こりゃ五大老、五奉行が決めたことだ
蜂須賀の改易は秀頼が決めた~、というのが妄言だと分かるだろ
「ぽっくんのお友達に百万石あげるのだ~」「ははーっ」「守役がむかつくから土地を取り上げるのだ~」「ははーっ」みたいになっても困るんだから、この措置自体はまっとうなんだよ あとはやっぱり東軍先発隊が赤坂に留まらず佐和山進攻して武断派だけで関ヶ原にケリつけて
徳川の増長を抑えつつ豊臣体制維持くらいしか思いつかないかな。
直近で豊臣体制維持には利長が大坂居続けるか、
東軍先発隊の佐和山進攻かなと。 >>253
前田利長って所詮は輝元や景勝、秀家、秀秋、信雄なんかと同じく七光りの次世代だから徳川家康の抑えにはまるで足りない。
まともにIFを考えるなら、徳川家康が1600年までに死んだ場合しかない。
秀忠、つまり全プレーヤーが次世代となった時にどうなるか。 家康の戦略ミスで決戦に徳川主力が間に合わないという大ポカをやらかしているんだから
家康がもう一つ二つ大きなミスをしても不思議じゃない >>249
そんな訳ない?何言ってんの?
実際に当時の秀頼なり淀なりの文書がないんだから単なる事実
そしてあなたが言うようにろくに具体的な肩入れを得られてもいないのに
奉行が「秀頼の命」「豊臣公儀」の名の下にやらかして政権の命脈は尽きた
まさかそんなことさえわかってないとは思わんかったわ
あなたは何故か奉行こそ豊臣家、奉行こそ豊臣公儀と盲信してるけど
そのようには受け取られなかったのを歴史が証明してる 徳川含め政権中枢で構築してきた公儀の在り方を無視して
すでに否定されてた「幼児に言われたから」という馬鹿げた理屈で
押し通そうとしちゃってんのよね西軍
そりゃそんな政権信用失うわとしか言いようない
>>249
そんな訳ない?何言ってんの?
実際に当時の秀頼なり淀なりの文書がないんだから単なる事実
そしてあなたが言うように具体的な肩入れはされてないのに
奉行と毛利が「秀頼の命」「豊臣公儀」の名の下にやらかして政権の命脈は尽きた
まさかそんなことさえわかってないとは思わんかったわ
あなたは何故か奉行こそ豊臣家、奉行こそ豊臣公儀と盲信してるけど
そのようには受け取られなかったのを歴史が証明してる >>257
「奉行と毛利が」の時点でそれも間違い。
関ヶ原は実際には5極構造。
東軍
・公家豊臣家の権威を利用しつつ徳川政権に移行したい徳川家
・文治派に抑えられている豊臣家要職を奪いたい武断派
西軍
・豊臣家に取り上げられた西国の権益を回復したい毛利家。(豊臣などどうでもいいので後半で徳川に売った)
・五大老を排除して奉行で牛耳りたい文治派(なので上杉も見捨てている)
・親政をしたいため五大老五奉行制度が邪魔な秀頼、淀殿とその周囲
これに各大名家が利害や状況に流されてくっついていただけ。
書状の正当性や整合性なんて、適当をフカしてるだけだから突き詰めても仕方ない。 >>258
知性のかけらも感じられないな
教養がない > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。 >>258
誤読や曲解するのも困るけど、こうやって書状はポジショントークだから意味ないと言うのもどうかと思うけどね
そういう面があるのは確かだけど、だからこそそれも含めて総合的に判断すべきでしょ >>261
意味はない、は言い過ぎた。
ただ、秀頼様が~なんてのは誰が書いたか 誰が言ったか、そんなもの 有力者が好き勝手にできるわけで。
あるいは秀頼かその右筆の筆跡鑑定でもあるなら話は別だけど、そんなものあったら歴史が変わる大発見だよ。 結局秀頼が徳川を支持しなかった以上秀頼が西軍って結論で終わるのか。秀頼が豊臣の当主である以上責任からは逃れられない 秀頼が言ったことは書状に残ってるけど秀頼が言ってないという証拠がないし。てかそんなことになったら普通徳川に助け求めるよね? 秀頼が土地を与えたって書状があるからな。秀頼が西軍なのは明らかで言わされたとか妄想するのに意味はなくね 「秀頼は幼児なので」って史料が無いからどうにもならないだろ。面白い想像だけど根拠が無い
しかもそれが真実だとすると諸将は誰に忠節を尽くしてるのかわからなくなる。秀頼からの命令で褒賞懲罰が行われている以上秀頼の心のうちとかは関係ない >>258
全国の諸大名全部それぞれの思惑で動いてるよ
あまりに単純化しすぎ
あと武断派だの文治派だの無理のある小説的な区分けを盲信しすぎ
いずれにしろ秀頼は西軍に具体的なコミットメントを出してない
だから西軍の誰もそれを言い訳としてさえ使ってない
それを否定したいなら具体的なコミットメントがあった証拠を出せばいいだけなのに
話を左右にして逃げ過ぎ そもそも「秀頼の命令」が政権の意思決定権を持っているならば
秀吉の死後に奉行大老がやってきたこと全てが台無しになる
十人衆や起請文はなんだったのか
となる
やはり西軍は結構無理筋の主張をしてるんよね またIDコロコロ自演か?
>>267
「秀頼様が幼児だから~」という史料は示しただろ
五大老五奉行の起請文だ
あ、そうか
おめさんは崩し字はもちろん、翻刻すら読めないんだったな
翻刻の意味すら知らんだろう 日本の場合は政体(家)などに忠誠を向ける所があるから諸将はぼんやりとした豊臣に忠義があっても秀頼に100%忠誠を誓うってものでもないからな(本音)
だからいくら秀頼の名を使っても豊臣政権の代行者の家康を断罪できないんよね
これが西欧や中国になれば皇帝や王といった地位が絶対になるから幼児といえ例え騙りだろうがなんだろうが強制力を持つことになるけれどな A 「上様がこのような所に来られるはずがない」
B 「上様の名を騙る不届き者だ」
C 「上様でも構わぬ」
D 「上様、お手向かい致しますぞ」
E 「上様、お命頂戴致します」
F 「ここで死ねばただの徳田新之助」
G 「悪党らしく死に花を咲かせてくれるわ」
H 「飛んで火に入る夏の虫」
I 「我ら幕臣あっての上様ではないか」
J 「八代将軍もこれで終わりぞ」
K 「もはやこれまで」
L 「笑止千万」
M 「吉宗の首を我が殿、宗春公に差し出せ」
N 「上様の顔を忘れた」
O 「もはや上様の命に従う必要はない」
P 「腹を切るのは拙者ではなく、上様である」
Q 「どうせ上様には死んで頂くつもりでした 覚悟なされ」
R 「御役御免で一度は死んだ身」
S 「そこまでばれているのなら、毒を食うは皿まで」
T 「何をほざくか吉宗。良い所に現れたものよ」
Z その他
だいたいBの理屈で問題ないんだよ 秀頼が幼児だとか西軍がどうだとか以前に、関ヶ原本戦があんなにあっけなく決着が
東軍の一方的な圧勝で終わってしまうんだから、どうしようもないと思うがね 小説的な区分けを盲信といえば正義と悪、黒か白かそういう分かりやすい区分けを大衆は望むんだよ。それがあまりにも行き過ぎるとお腹いっぱいになってアンチヒーローだのが揺り戻しとして来る。歴史はそれの繰り返し。今は揺り戻し期が来て久しい。学者でなければ大体そんなもん。 揺り返しも何も、関ヶ原本戦が話にならないからなあ
一次史料見たらどれも東軍の圧勝
しかもあっさりと
これじゃ「IF」の入る余地が…… 関ヶ原本戦と言われるものについては、
新説準拠でいくなら、
松尾山を攻撃するべく松尾山に向けて布陣してたわけでしょ、
そこに後方とでも言うか、北東方面から東軍が現れた。
そこで西軍は布陣し直す、もしくはし直そうとしていたら
松尾山の小早川が攻撃してきた、
さらに脇坂朽木が寝返る、
挟撃+寝返りで大混乱必至。
瞬殺も十分有り得る状況。別に不思議ではない。 >>277
一次資料を素直を読むと、無策の夜逃げを追撃されて壊滅という、戦いにすらなっていない結果だからな。
あれを鶴翼の陣で包囲された家康が小早川を寝返らせて大逆転、凄い、みたいなファンタジーにするんだから、
ほんとうに歴史の通説って当てにならないもんだと痛感する。 ちなみに互角ちかい戦いを小早川が…って通説はいつ生まれたの まあ史実通りの関ケ原だと家康の見せ場がないからね
なので権現様は何でも見通しているという家康神話が創作されたね
西軍の挙兵を見通していた→小規模の反乱程度は可能性として考えていた
かもだが、史実のような大規模な挙兵はおそらく想定外なので鳥居元忠との
涙の別れもおそらく創作、慶長記には機嫌よくニコニコと笑っていたあり
小山軍議で上方で秀頼様を擁す西軍挙兵で多くの諸侯も加わっている大坂方につきたい方は遠慮なく帰路の安全も保障との家康の言葉に諸将は全て味方を約束、東海道筋の城は明け渡しと鉄壁の信頼関係を構築
→最近では軍議の存在すら疑問視されているし、この時点では石田、大谷の謀反で三奉行は家康の味方と思われていた、浅野幸長書状や宮部家の記録などから
ある程度の諸侯を集めた事実はあるらしいが、一方的に家康側から決定事項を
伝えたという記録もあるようで通説のような劇的な展開ではなかっただろう
清州で家康出馬を待ちかねて大荒れの諸将の所にわざと言葉を飾らない
村越茂助を派遣し味方ならば旗幟を鮮明にせよと言わせ奮起した諸将は
長良川を越えて進軍し大勝する、家康はここまで見越していたまさに神算鬼謀だ
→諸将は荒れてないし福島、池田も協力しあっていた、8月19日村越の口上は
出馬延期を伝えるもので出撃を決めたのは諸将で翌8月20日の井伊、本多の到着
をまち最終決定
決戦前日、佐和山城攻めに向かうと流言を広め石田等をまんまとおびき出す
→西軍の移動を予期しておらず出撃の報せを受けてから東軍諸将を準備させ出発
本戦で西軍が善戦し苦戦を強いられる、家康は危険な最前線近くまで
本陣を進め東軍の士気を高め、小早川への問鉄砲という起死回生の策で
大逆転勝利を収める
→家康の本陣の場所は不明、赤坂に留まっていたか南宮山方面まで進んでいたが
決戦場所は見えない距離にいたともいわれる、小早川はすぐ寝返ったので
当然鉄砲で督促はしていない、西軍は2時間と持たずに総崩れ まぁそもそも会津征伐に反対していた秀頼が実は家康を支持している、ってのは想像出来ん。反家康思想を周囲から与えられていてもおかしくない ただ個人的には関ヶ原本戦新説には疑問部分もある。
松尾山を攻撃ないし包囲するつもりだったまではいいが、
既に山中村辺りには大谷らが布陣している。
これに加え大垣からの西軍が加わる。
通説の笹尾山から松尾山、山中村あたりまでは距離もあるし問題ない、
しかし山中村周辺に大軍勢が布陣とは
スペースの問題がある。
そんな大軍の布陣するスペースがあるのかと。
ぎゅうぎゅう詰めならいけるとか
そんなのは軍勢の布陣とは言わん。
自分なりに整理はついていないが、
軍勢布陣面積、あるいは状況がいまいち想像できない。
だれかこれに回答できる?
ポイントは石田は伊吹山方面に逃げた、
島津は伊勢方面に逃げたっぽい、あたりかなと。
山中村あたりでぎゅうぎゅう詰めの布陣とかおかしいんだよね。 一次史料で山中で戦ったというものが複数あるのは確か。同時に関ケ原で戦ったというのも複数あるわけで、ということは山中を含む関ケ原一帯が戦場で、
最終的な戦略目標が山中の大谷吉継が陣を敷いていた山中陣城を落とす事or山中を通って逃げる西軍に追撃をかけ殲滅する事がだったので、
合戦直後には実際に自分が戦った場所か、広域にフォーカスして関ケ原と呼ぶものと局所にフォーカスして山中と呼ぶものに分かれたが、
戦後は山中まで突入した者だけでなく関ケ原で戦ったものも大勢いたからひっくるめて共通認識として関ケ原の戦いで落ち着いた。と解釈するとまぁ説明はつく。 かなり後になって作られた通説の布陣図がまず宛てにならないというのはしょうがないし
関ケ原の合戦自体がそもそも決戦ではなく西軍が佐和山まで夜逃げ途中に吉川と話がついていて
捨て石に兵を残した大垣城や南宮山毛利軍に引っかかることもなく霧をもものともせず追撃に来た東軍に食いつかれた
ただの撤退失敗ちゅう可能性も高くなってきたんで決定稿なんぞないまだまだ研究途上の分野やでな >>262
秀頼の自筆書状でよく知られてるのは高台院宛の見舞い状と家康宛の鷹を貰ったことに対する礼状の二通がある
秀頼が書いたかものか右筆の手によるものかは判断できると思うよ
他の秀頼発給の黒印状の筆跡とは明らかに違うし
関ヶ原の頃は年齢的にも右筆の手によるものだろう
原本や写しもなく内容も不明だけど、本多正純書状にある9月21日付秀頼・淀殿書状とかね
秀頼自筆の二通は共に年次未詳だけど、その内家康宛のものは慶長16年以降と比定されてるしだいぶ経ってからのもの 夜間での追撃戦の成功というのは常識的には考えにくい。
東軍の企図が追撃だったとしても、
夜明けで一旦どこかに布陣するはず、
あるいは予定地点で一旦集結するはず。
西軍は佐和山への移動が目的なら
山中村の大谷らを後衛として山中辺りで止まらずに
そのまま佐和山へ行軍してるはず、
山中で追撃する東軍に捕捉されるとか
さすがにまぬけすぎるし考えにくい。
従って西軍の目的は松尾山と考えるのが妥当。 松尾山の小早川を落とさないと大垣城は補給も受けられなくなって徳川と戦うことも出来なくなる
南宮山の毛利と悠長に軍議している余裕があるかもわからんし
それで関ヶ原に釣り出されて殲滅された 松尾山を攻めに行ったら後ろから東軍が来て瞬殺されましたなんていう学者様の間抜け戦評は真に受けないほうがいいよ。
軍事は学問じゃない日本の学者は総じて軍事オンチだからとりあえず疑ってかかるのを忘れてはならない まあ我々は結果知ってて神の視点で見れるからね
敗者の行動見るとなんて愚かなと思いがちだけど
家康本隊は長途の行軍で疲れているので、数日は動くまい
諸将の軍だけなら南宮山方面の大軍の前を通って袋のネズミになりそうな
関ケ原、山中方面まで入ってはくるまい、その間に金吾の軍を敗軍させ
佐和山との連絡路を確保し近江に撤退するか美濃に留まり大津、大坂、丹後よりの
援軍を待つかなどの後図を策すべしなんて考えてたかもよ 小早川秀秋が一万五千くらい率いていたとして大垣衆で三万以上居るからせめて山から落とすくらいはできそうとは思ってたんじゃないか
ただ関ヶ原から佐和山に逃げ込めた奴が居ないってのが割と奇妙な話じゃないか 実際大崩れしてる訳で要はまとまって軍事行動とれる状況ではなかったんでしょ
間抜けすぎる!僕の好きな西軍はもっと雄々しく格好いいんだい!
と言いたくなる気持ちはわかるけど
多数派工作が失敗して東軍が大挙押し寄せることがはっきりして
寄り合い所帯の西軍は総大将の毛利からケツまくる準備進めてたわけで むしろ逆で戦略的に考えたら佐和山が危険だったからでは?算を乱しての逃走ならむしろ一番近い拠点に逃げ帰る。それをやらないのは秀秋が近江から来た事を重く見てたからではないか? 佐和山に退くように見えたってのも吉川広家の感想だしなあ
確信があるような言い回しではないし、広家は大垣を出た以上は佐和山まで退くはずだと思ったんだろう 実際関ヶ原で敗走したとして佐和山の他にどの拠点に逃げ込む? 関ヶ原で敗走した兵は山の中へ逃げたんでしょ
三成自身そうだし佐和山が昨日包囲されてるの見ても
東山道は進軍する東軍が使ってる 拠点というか味方の領地じゃないの
事前に指示ぐらいはあったとは思うけど勝手に行く場所を決めれないやろ >>294
そんな結果はあほでも知ってんだよ、
なぜそうなったかという関ヶ原本戦と言われるものの状況を考えてるんだよ。
色々考えてると通説と言われるものには理に適ってると感じる。
関ヶ原一帯に陣城構築して美濃から近江への突入阻止。
一周回って通説が正しいような気がしてきた。
上でだれかが言ってるけど、新説ならば、
松尾山の小早川が山中村の大谷を攻撃したと考えれば
佐和山方面に敗走できないのは説明はつく。
地図見ればわかる。
小早川勢の敵中突破しないと佐和山には行けない。
でも山中村周辺に大軍勢ぎゅうぎゅう詰めっててのがなぁ、新説も通説も決定打に欠ける。 関ヶ原で敗走した軍はまとまって退去してないでしょ
一番規模の大きい兵を率いた宇喜多秀家でさえ伊吹山に逃げ込んだとされてて
そんな状況で東山道を佐和山に逃げてるはずという想定の方が少し変
戦って負けた軍は壊走離散して東山道は西に向かう東軍で埋まった
布陣だけして退去した軍は実質的にその時点で東軍と通じて退路確保したろうから
東軍の進軍方向から避けて退去した
と考えたらそこまで変じゃなくね? >>300
あまりにアホでわかってないから通説が正しいとか言っちゃってるじゃん >>302
9月15日午前09時頃の東西両軍の布陣予想を言ってみ?
新説の場合のぎゅうぎゅう詰めじゃない布陣図見てみたいわ。
少なく見積もっても東西両軍で8万人。
どこに布陣してるんだ?
敢えて説明するならば、通説と新説のミックスで、
松尾山を攻撃するべく西軍は大垣から出撃したが、
松尾山に対する布陣をしようといていたところに
垂井方面からの東軍の進出を確認。
この東軍への対応を優先するべく、
松尾山への備えは大谷らに任せ、
大垣からの部隊は笹尾山から天満山にかけて布陣した。
しかし初頭に小早川の攻撃と脇坂朽木の寝返りで西軍右翼が崩壊、
なし崩しに総崩れになった、とかかな。
通説新説ミックス説。妄想してみた。 それとこの時の家康本隊の、家康本隊ね、
家康本隊の先手衆って渡辺守綱だよね?
渡辺守綱の手柄とか参戦の記録が残ってないなら
家康本隊はほぼ戦闘参加しなかったと見ていいんじゃないかと思う。
井伊本多忠吉が参戦しただけで。 松尾山攻撃説
・大垣城を空にする意味がない。
・どう考えても赤坂から東軍が来てはさみ撃ちにあう。
・百歩譲って南宮山勢に牽制させるなら、南宮山勢と軍議を開いた形跡がない。
佐和山撤退説
・なぜ大垣城の櫓に火をかけた?撤退がすぐバレるだろうに。
・関ヶ原のど真ん中、一番追撃を受けやすい位置で何故留まった?
・何故北国街道や東海道を使わなかった?少なくとも伊勢は南宮山勢が攻略済だし、島津も最終的には伊勢方面からの撤退。 >>305
それを考察する上でいくつかポイントがある。
まず大垣には九州諸将5〜6000の在番を残しており
大垣放棄の意思は感じられないこと。
続いてその大垣在番衆にはその後大垣撤退の素振りがないこと。
大垣城の外曲輪を焼き払ったことから、
出撃した西軍部隊に大垣帰還の意思は感じられないこと。
個人的には天候小雨の状況で簡単に焼けるのかという疑念がある。
次に南宮山部隊と軍議をした形跡が見られないこと。
個人的には松尾山攻撃説を支持する。
大垣在番衆と南宮山部隊残して佐和山撤退に意味があるとは思えない。
二重引き?についても大垣在番衆に後衛として撤退する意思もなさそうだし、
後衛が南宮山部隊なら軍議してないのはおかしい。
1〜2日で松尾山を攻略し関ヶ原に陣城構築するつもりだったのではないかと思う。
ただ、その場合でも南宮山部隊と相談することなく陣替えするのは不可解。
この矛盾点を解決する説は、
松尾山攻略後、石田らは南宮山に登って南宮山部隊に
合流するつもりだった、だから軍議しなかった。
これなら一応説明はつくが、こんなんか?? >>305
>松尾山攻撃説
・大垣城を空にする意味がない
:空にしたわけではなく主に島津、小西以外の九州諸侯を残した
牽制か城攻めでもしてくれれば時間稼ぎができるという期待があったかも
しれないが、西軍主力が城を出たあと留守居の殆どの将は東軍の内通の使者を
送った(吉川広家書状)
>どう考えても赤坂から東軍が来てはさみ撃ちにあう。
:後世の人間は南宮山勢が不戦だったと知っているが、当時の三成たちは
士気の低いことは知悉していたが吉川、福原が福島、黒田、井伊,本多などと
交渉し本領安堵を条件に不戦を約束してるとは知る由もない
南宮山方面に近づけば応戦してくれるか山中方面まで入り込んでくれば
背後を襲って包囲態勢をしいてくれるという期待があり、そうしたリスクを
考慮して追撃はしてこないと計算したのかも、東軍との内通も吉川、福原だけが
知っていて長束、安国寺、長曾我部等は知らないので抑えの兵を置くと戦闘になるので
そのまま通過するように吉川は東軍に申し入れている
これから見ても通常であれば追撃すれば南宮山勢と戦闘になると考えるのは
自然で吉川の内通を読めなかったのは事実だが、挙兵以来の毛利の行動から
不戦だけで本領安堵してもらえると思った吉川こそ愚かで
吉川の愚策を読めなかった西軍首脳陣を責めるのは酷だと思う 玉城が発掘されれば何かしらの手がかりが出てくるかもな 松尾山を短期間に落としたいなら南側の正門から全力で攻めないとな。暢気に絡め手の関ケ原や攻めようがない山中に布陣してる場合じゃない。 >>309
すぐ後ろに敵がやってくる危険性があるのに城攻めとか正気か?
小早川が裏切らなくても大垣城は赤坂と垂井まで東軍が進出していて最早半ば詰んでる状態
後詰で救うにしても厳しい
これは保科正光が8月末の書状で言ってるくらい
小早川が裏切ったなら、もう大垣城はオワタ状態なんだから、多少の犠牲を覚悟してでも佐和山まで逃れることを考えるのが最善だと思うが
武田勝頼といい、石田三成といい、そのあたりの考え方はどうなってるのかな?
名将の条件に経験のほか、敗戦してその苦みをしる必要があると言われるけど、秀吉の下で事務仕事して、大敗を知らない
三成ではそういう決断ができなかったのかな? >>307
大垣の留守居が東軍に内通の使者を送った記述がある吉川広家書状なんてあったっけ?
日付と宛先プリーズ 人間には毎回頑張る奴とメリハリつける奴の2種類が居ると思う
三傑なんかは後者と思うが駄目な奴は駄目な状況でも無駄に頑張ってしまう欠点があるから勝負事には向かないんだよな >>311
レスサンクス。史料集など全部実家においてあるので手元になく、
原文はわからないが、吉川家文書持ってるなら917号に全文出ているはず
論文、研究書でも何回か見たことがあるが、意訳文でよければ
関ケ原の合戦はなかった(河出書房)の224ページに
大柿にいた者たち(大垣城留守部隊)も東軍に使者を送らないものは
ほとんどいなかったということです。とある
。 >>313
917号文書で大垣に言及してる部分は下記の通りだけど、もしこの部分のことを指してるなら乃至氏は相当意訳してるね
「九月十三日内府様赤坂御着候刻、治少・大刑少大垣・南宮を捨候て、山中へ引取候時ハ、前日之儀定相違候而、佐和山へ可被打入催露顕候」
要は三成らが佐和山へ退却するつもりだということが露見したことによって、大垣の留守居が
東軍に寝返ったということなんだろうけど、この史料読んだだけではそこまで読み取れないな >>312
その意味ではさっさと損切りに動いた毛利輝元が割と勝負事に向いて……ないわー。
ただ、それでも無能なりに駄目だったときのことも考えた行動してるのは、腐っても戦国大名なんだろうな。 >>310
岐阜が落ちた時点でもうだめ。
大垣在番衆と南宮山部隊見捨てて佐和山逃げてどうすんの?
東軍と和睦交渉するなら大垣にいてすればいい。
撤退は追撃リスクと兵の逃亡リスクが増えるだけ。 南宮山の役目は大垣城の支援なんだからこれを放棄するのは毛利家の為とは言え流石に外聞が悪過ぎる。だから「大垣城含めて全員戦う気持ちを失ってたわ(だから自分たちだけ戦ってもどうしようもなかった)」って広家は抗弁したのでは
実際大垣からも内通者は出たが… >>317
それでも、史実みたいに山中(関ヶ原)であっという間に全滅するよりはよほどマシだと思わない?
佐和山まで逃げれたら、近江にいる西軍の後詰も期待できる
丹後田辺を攻めていた西軍の後詰、伊勢にいる鍋島らの後詰も期待できる >>314
大垣城にいた相良頼房らが裏切ったのは、確か18日じゃなかったか?
どうして13日から14日の時点の文書でそんなことが訳せるんだ? うろ覚えだけど吉川家文書の内容って関ヶ原後の輝元への報告書的内容じゃなかったかな。まぁ大垣城が徹底抗戦しようが裏切りで開城しようが広家の言う事に影響なかったろうけど >>321
917号文書は慶長6年に比定されてるぞ
解釈の仕方は乃至氏に聞いてくれ
自分もよく分からん
史実と照らし合わせて三成らが大垣から出たことによって内通者が出たという言い方ならわかるけど、当該箇所だけ読んでそうは訳せないし 9月17日輝元への報告書的内容の書状案が吉川家文書913号
917号は確か翌年だったと思う、翌年の回想なので家康之赤坂着を9月13日と
1日間違えてる(正しくは9月14日) >>324
917号文書も輝元への報告書案だよ
「中納言様へ申上候条数之案」と題名がついておりそこから書き始められてる 毎度のことだが長文くんは文章へたくそだな
主張が取っ散らかって要点がまるで分からんわ
"文は人なり"とはよく言ったもんやな >>320
刀根坂の朝倉、賤ヶ岳の勝家、諏訪から新府に撤退した勝頼、
撤退には追撃と兵の逃亡リスクが伴う。 吉川家文書も史料価値高いんだけど怪しいからな
立場が立場なだけに欺瞞が混ざってるのは仕方がない 松尾山が取られた時点で大垣は詰んでる。逃げるには近江に向かう街道は使えないから南宮山南部から逃げるしかなくなる。なら松尾山を攻めて小早川を無力化するしかない。その場合確実に東軍は攻めてくるから対東軍用の布陣も敷いて両方に備えた
一見完璧な戦略なんだけど実質背水の陣でありその上南宮山が降伏して東軍先手衆が全力で突っ込んできてしまった。まぁこの戦略はマジの思いつきだったろうから仕方ない >>329
実際そんなかんじのような気がする。
14日午後か夕方あたりに松尾山攻撃を決断、
南宮山部隊に軍議、連絡することなく夜間出撃行軍開始。 >>329
その思いつき戦略を南宮山勢の誰も知らないってどういうことだってばよ?
吉川は仕方ない。知ってても握りつぶしているかも知らん。
しかし安国寺恵瓊らも動けてない以上、大垣勢の無断の行動であるのは間違いない。
本当に対東軍用の布陣とするなら、南宮山勢を大垣城付近まで前進させないと意味をなさない。
そしてそもそもなんだが、撤退視野なら無理筋な松尾山攻撃なんかせずとも、南宮山勢が進出してきた伊勢路を使えばよいだけのこと。 時間が無かったんじゃないか。大垣衆に南宮山への指揮権は無いから南宮山にお伺いたてて軍議をする必要がある。そんなことしてる間に徳川に包囲されたら大垣ごと西軍主力部隊が壊滅して詰む
今なら松尾山の小早川は最大15000とかで大垣衆だけでなんとか出来るかもしれないし(なんともできなかったが) >>331
その通りで、無難に撤退したいなら伊勢方面から撤退すればいい、撤退が目的ならね、
だがそうしなかった。
ならば撤退が目的ではなくなにかしらの意図があるということ。
軍議については、自分でも疑問だが、
首尾よく速攻で松尾山落としたのち南宮山登って
南宮山部隊に合流するつもりだったとすると説明つくよ、一応。 敢えて南宮山合流説を補強するならば、
もし、野戦による決戦を想定していたのなら、
大垣で4万も籠っているよりは南宮山部隊と合流して機動したほうが野戦は行いやすい。
そこで松尾山の後顧の憂いを排除したのち
南宮山部隊と合流して決戦に及ぶつもりだった、とか?
まぁ一度南宮山登ってしまうと降りるのも時間掛かるから微妙だけど。 素朴な疑問なんだが伊勢路から佐和山まで撤退の作戦の場合は
東軍に追撃されないの?
追撃されても金吾との挟撃はなくなるので史実よりはベターということかな
あとその場合は南宮山勢はどうする三成、山中に移動なら金吾仕置きの為と
南宮山勢も納得するかもしれないが、連絡なしで伊勢路に撤退してったら
吾等を見捨てて逃げて行ったと東軍に降伏でもしかねないし
連絡ありでも吾等を捨て石にするのかと同じことになりそう
一緒に撤退というのもあるが、そうなると南宮山より行軍妨害の懸念のなくなった
東軍は小早川に連絡して佐和山に向かわせ、家康着陣で赤坂から青野ヶ原まで
9月14日には移動済の先手衆は何の懸念もなく関が原を突破し今須峠を抜け
先に到着済みの小早川とともに佐和山城を攻めると思うけど
西軍は相当迂回してるので東軍の方がはるかに早く佐和山に到着することになる
なので佐和山に撤退という戦略目標も果たせず、史実と比較しても敗北が少し伸びる程度
ではないだろうか 仮に伊勢に退いたとすると東軍はそのまま佐和山に攻め込んでくるし佐和山にいるのは約3000の石田軍で東軍に勝てる訳ない。「防御側の十倍の戦力があれば力攻めで勝てる」ってのが本当なら7日も保たないかもしれない
佐和山が落ちたら東軍は大垣を拠点として大坂城に向かって攻勢を強めることになって西軍としては滅茶苦茶厄介な場面を迎えそう。それに逃げるって言っても山の上の毛利軍が先に逃げたいだろうしそうなったら大垣衆は壊滅するのでは 東軍視点で見れば、14日夜に西軍が大垣から出撃したのは探知している。
だがどこへ向かったかまではわからない。
わかるのは長曾我部陣所の栗原山方面というだけ。
そのまま南下し伊勢方面に行くのか、
南宮山南側から関ヶ原、山中方面に向かうかはわからない。
それでも東軍は関ヶ原方面に進出した。
もし西軍がいなければそのまま佐和山攻略に向かったであろうと推測される。 東山道攻めてきた敵から一時後退するのに伊勢路に行くわけないだろ。京間近まで空白地帯になる。頭弱すぎ。 >>338
白瀬峠越えて佐和山へ。
さて、どのルートで行く?あんたなら。
いくつかあるけどね。 佐和山行くなら最短路通らないと危ないんじゃなかろうか 峠超えてたら追撃される。伊勢路を行った意味がない。 うまく行けば伊勢美濃国境付近にいるはずの鍋島と合流できるかもだけどね。
まぁそもそもこの時期に大垣から撤退しても意味がない。 もう9月14日時点では西軍はどうにもならんのよ。手遅れ。 敗戦にはよくある話でタイミングも最悪
14日には家康到着を受けて大垣城・南宮山での決戦を軍議決定したばかり。ここから松尾山が取られたからと退却かけるのは不可能
確かに松尾山が徳川に取られた場合は想定しておきたかったけどまさか小早川にやられるとまでは想定するのは難しい。それでも三成は小早川の裏切りを想定して松尾山を厚く守ろうとしてたみたいだが間に合わなかった そんなに不思議な状況かね?
大垣衆は東軍が攻め寄せると観て籠城準備してる
もちろん頼みは同じ西軍の援軍
でも松尾山の小早川が敵に回ってその当てがなくなった
んでいちかばちか小早川を討ちにいく
もちろん自分だけじゃ勝てないので周囲の西軍との連携を期待してる
そのままだと毛利や大谷は損害恐れて小早川と戦わず大垣が見殺しにされる可能性もある
だから自ら先端を開きに行った
んで当てが外れた >>346
外曲輪焼き払ってるとされているから、
石田宇喜多らは大垣に戻るつもりはなかった、
でも南宮山部隊にはなんの相談もしなかった、
個人的にはこの部分かな。
無断で陣替えは味方の動揺を招く。撤退ならなおさら。
賤ヶ岳でも前田の無断撤退で動揺の連鎖が起きて兵の逃亡も続出したでしょ、ああなる。 松尾山はただの山では無く、山城としての設備も
それなりに整ってたんだよな。
だから小早川が松尾山に籠城したとなると短期間で
落城させるのはかなり難しい。
でも放置は出来ないから攻めに行かざるを得ない。
松尾山の秀秋は三成達をおびき寄せる罠だったんだろうな。 「大垣城退去前まで合理的な行動をとっていた西軍が突如変てこな行動をとるのはおかしい」という話ならまだ分かるが
挙兵からずっと西軍は報連相が壊滅的に御粗末なんで
>南宮山部隊にはなんの相談もしなかった
と言われても何も不思議に思えない 赤坂と垂井に東軍がいる時点で大垣城で籠城とか維持とか不可能だと思うんですが
小早川が松尾山で裏切らなくても先は見えてる 長篠もそうだけど、武田勝頼と石田三成の決断がホント不思議すぎる
勝頼はここで撤退したら背後を敵に突かれるからと正面突破。そっちのほうがはるかに無謀だった
三成は松尾山を小早川に奪われて背後を絶たれたから、それを何とかするために背後に東軍いるのを承知で向かった
これが信長や信玄だったら、背後を突かれたらかなわない、と急いで逃げるだろうに
やはり経験の差なんだろうか >>351
長篠の武田は、退くに退けないところ、
川渡っちゃった時点で鳶ヶ巣が落ちてるでしょ、
あそこで撤退すれば追撃されるのはほぼ確実、
設楽が原の織田を突破できれば勝ちの目はある。
川渡る前の時点のこと言ってるなら、
もっと物見出して織田の兵力偵察しとけよとしか言えない。
武田敗北の原因は織田兵力の過小評価。 あと武田を擁護するならば、予想以上に陣城の効果が高かったこと。
この頃あたりからでしょ、陣城、野戦築城が一般化してくのは。
以降はどこも対陣すると陣城作るようになって
膠着化するようになる。
まぁ鉄砲との相性もいいのも合わさるんだろうけど。 全体の戦略・戦術で考えるから不合理になるんよ
あくまで最前線になる大垣で東軍を引きつける三成の立場で考えよう
小早川が敵対して当てにした援軍が阻まれ自分は絶体絶命
毛利からしたら自分たちは総大将部隊で三成はもともと最前線で籠城する役目
大垣衆が撤退したら目前の小早川だけじゃなく東軍主力が押し寄せるので
撤退相談なんてしても却下は目に見えてる
かと言って無断撤退なんかしたら西軍内での政治的立場が死ぬ
そこで「九州勢を防御のために残し」「自分は援軍を阻む小早川を攻撃する」
という決断が生まれる余地ができた
結果として無駄な足掻きどころか決定的悪手だった訳だが
東軍が当初の予定通り大垣をせめてくれたら西軍総出で小早川を駆逐できたかもだし
そこまで至らずとも三成は攻めつぶされる最前線から後方の味方の大軍と合流できる 長篠合戦の主力軍の開戦は午前6時、鳶ヶ巣に酒井勢が攻撃開始したのが午前8時なので
背後を絶たれたとの懸念で正面攻撃を開始したわけではないよ そこらへんは史料にもよるがどちらとも夜明け近くだったという説もあるからなんとも。まぁ鳶ヶ巣山砦が落ちたとは思ってなかったろうけど
三成の場合大垣ではギリギリ差配出来るが南宮山の毛利にはお伺い立てないとならない身分だからね。山中に向かった時まだ大垣城に人を残してるから大垣城を放棄するつもりは無かったようだが
微妙な立場で重大な局面にぶち当たった結果、中途半端な戦術をとってしまい失敗してしまった >>354
いやね、南宮山部隊が到着した時点の話でもいいんだけどさ、
この状況はちょっと微妙なのよ、
大垣に3〜4万、南宮山に2万、この状況ね、
これで何やりたいのという配置。
これ後詰決戦やるにも大垣衆が主攻になるわけよ、
兵力的に。
緊密な連携が必要になる。
更なる西軍援軍の到着まで現状の維持が目的だとしても、
それ以上に東軍は増援が来る見込み。
時間が経てば経つほど西軍不利になっていく。
大津組にしたって木之本辺りに布陣して前田の南下阻止しなければならない情勢。
あと3〜4万も籠ってる城攻撃する馬鹿はいない。
兵力が10万くらいいるなら別だけど。
もし攻撃するとしたら目的は陽動か釣り出し。 「関原軍記大成」みたいな布陣で、小早川が裏切りに迷ったというのが史実だったなら
幾らでもイフが作れるんだけどなあ…… >>357
大垣後詰が狙いなら場合南宮山は別に最終地点じゃない
小早川とも合流して後詰になるはずだった
大垣衆の方は時間稼ぎで関ヶ原かその西側に防衛線しくはずだった説もあるが個人的には懐疑的
その場合大垣衆はどこかの時点で撤退だろう(が危なすぎて違和感ある)
岐阜城落城後の状況では軍事的に両軍均衡が取れて長陣になるのを狙ってるんかと
というかそれが西軍的には最上の結果だと思うよ
それでも北国街道から前田がくるので大規模すぎるニ正面作戦になるが
魔法のように東軍を片付ける策なんてないだろうから取り敢えずそこを目指したろう
(抗戦派もまずそこまで持ってかないと負ける
和睦派も時間は稼げるし好条件を引き出しやすい) 皆さんが言ってる撤退とか城攻めとか、かなり熟練した武将じゃないと絶対無理なお話
戦場経験がほとんどない三成じゃ絶対無理だと思うんだけど…… 三成が全軍を動かすわけじゃないんだから何も無理じゃないよ 石田軍だけで6000はいる
その6000がまともな動きができないんじゃ無理です 三成も18歳の頃から戦場には出てるからね、上月城攻めが初陣といわれているが
三木城、鳥取城、高松城、センゴクと一緒に淡路島攻略、秀吉の天下統一の
過程の戦にも殆ど出てるし、文禄の役では渡鮮もしている、のぼうの城の水攻めは
秀吉の策だしね。
戦場経験は少ないということはない。
配下にも島左近、蒲生郷舎、舞兵庫なども揃っているので
まともな動きができないなんてことはない 何でもかんでも個人の能力や経験で語る方がアレ
敵前での撤退・転進なんてどんな武将にとってもリスクでしかない
関ヶ原当日に東軍が陣払いしたら西軍が勝つよw では小早川が松尾山占拠の報を受けた西軍はどうすればよかったというの? 選択肢は大垣衆だけで小早川を攻撃するもしくは小早川を少数で抑えて主力だけ佐和山に脱出する、南宮山の毛利と相談する、何もしないで初志貫徹するか
逃げれば死ぬし毛利と相談してどんな答えが出るかわかんないんだよなぁ >>365
そんなもん史実通りにやるしかないだろ。もう詰んでんだし。 >>367
同意。9月14日時点ではもうどうにもならん。 単純に三成の事だけ考えると南宮山の毛利に相談して敢えて議論紛糾させ東軍に大垣を囲ませて、
「輝元も豊臣も援軍を送ってこない」と降伏して全責任は輝元と秀家ですあいつらが悪いんですと家康にぶち撒けて出家で許される可能性に賭けるって手も 笹尾山を駆けおりて小西宇喜多勢の側面を突いて秀家の首を手土産に徳川に土下座 本質的には多数派工作失敗してる時点で負けなんよね
それがはっきりした岐阜陥落以降の西軍の動きは各将が模索する悪足搔きとうまく降伏して生き残るための方策の複合と見ていい 毛利の動きは理解出来るんよな
この柔らかさが大東亜戦争時の東北閥にもあれば良かった… >>372
毛利はなあ……。
動きは理解できる。打ってる手としてもそれほど間違えてるわけでもない。
ただただ、実力が足りていないというのが残念なんだよな。
100回やれば100回負ける代わりに1回も滅亡はしない、そんな感じ。 >>357
>大垣に3〜4万
これの根拠史料は何?例の推計値? 西軍が言うほど多数派工作に失敗したとは言えないのではないか。西軍は毛利・宇喜多・上杉と強大な勢力が連合していて孤立してる訳では無い
如何にも少数に見えるのはそもそも徳川が石高でも人脈でも圧倒的なのとそれを背景にした調略術で重要人物を確実に味方にする家康という男のせいではなかろうか。西軍も実はそれなりに調略を仕掛けていたけど実にならなかった。ここら辺は大将の戦略眼がどうしても出てしまう 8月末時点で大垣城2万人との史料もあったはず
いずれにせよ「3〜4万」などと断定できるものではない 大垣に2万のソースは8月29日付保科正光書状
「其上大柿ニ篭候人数弐万余有之候由申候間」 >>374
備口人数準拠、ただし島津や小西等明らかにおかしいと思われるものは修正した数値。 それとついでに言うと9月上旬に瀬田守備隊の九州諸将が大垣に到着してる。
そも、兵数は史料によって違うんだから
だいたいこんなもんと捉えればいいものをいちいち
細かいところ言ってくるね。
東軍の兵数にしても福島覚書と池田家譜だっけかでも
数違ってるし。
保科の書状って、保科が聞いた東軍からの伝聞でしょ、
長篠の武田と同じで外からは少なく見えた、
かもしれないし、ずばりその人数だったかもしれんが、
確実に何人だったなんて証拠はない。
それくらいわからんかな? 思うんだが、そんなにホイホイと何千何万の軍勢が動いていたのかな?
それまでの、戦国時代の動員兵力から考えて過大に動かしすぎだと思うんだが。
特に九州の諸将なんて西軍側でも美濃まで、東軍側なら上野まで行って来いしてるわけよ。
後の非武装、数百人規模、街道整備済の参勤交代ですら相当な負担だったのに、
ましてや僅か数年前に国家事業として朝鮮役があったのに、
たかだか豊臣政権内の内部争いそんな無茶な動員して一揆のひとつもおこらなかったのか? 史料上はやったとあるのでなんとも
実際当時の戦国武将はみなここが力の入れどころと分かってた。東軍は家康への、西軍は秀頼への忠節心を掲げてるがその裏では当然損得勘定がされて全員皮算用してたはず
この一戦の結果で年収が倍になるかゼロになるかの大勝負な訳で我々だって注ぎ込める物は全部注ぎ込んだろう >>331
伊勢路使うにしても松尾山の小早川問題起こるんじゃないの? >>382
資料を疑うのに根拠もなく、という形なので妄言の域をでないのは承知の上で。
多くの場合、関ヶ原の兵力って昔の資料ではなく、陸軍の日本戦史が元になってる。
自分は遥かに後世に作られたそれに疑問を持ってるのよ。
例えば毛利や宇喜多、徳川なんかは平気で1.5万だの3万だのデカくてざっくりの数字を出してるけど、
反面、大谷吉継600人、島津義弘750人とか、本多忠勝500人、織田有楽斎450人とか有名どころが不自然に小さい。
伏見城なんかも、あれだけの重要拠点に対して1800人に加えて大坂城から500人とか、
どう考えも数万を相手取る前提(で置いていった)人数とは思えないのよ。
思うにこれらの数百人単位の集まりの数字こそが本来の姿で、やはり何千何万、
輝元や秀忠まで合わせて両軍20万なんて盛り過ぎなのではないかと。 前後の時代と比べて極端に多いとか
人口規模と比較して不自然ならともかく
関ヶ原の動員兵数だけを疑うことはできないな
じゃあ長宗我部、島津、後北条の征伐、朝鮮出兵、大坂の陣、全部整合性のある説を立てないと
戦国時代の脈絡がおかしくなるんじゃないの 会津征伐と政情不安のせいで大半の大名が兵も物資も動かせる状態のはずだし出兵能力の限界値近い兵数は出てるんじゃないか >>373
奉行は100回やって100回負けるけどさらに滅亡してるけどな >>376
失敗だよ
最初から相手より優勢に立つつもりがなかったとか無茶苦茶な想定でない限り >>384
じゃあ当時の史料を使えばいいのでは
ここの人は元から備口人数や福島覚書とかを根拠に話してるよ >>384
概ね石高に準じた兵数になってる。
一万石で300人くらい。
十万石なら3000人、百万石なら3万人。
当時の史料というなら、石田の真田宛書状に添付されてた
備口人数を見てみるといい。
検索すれば出てくる。
これの何がすごいかと言うと、
石田よくそれだけ各将の石高把握してたなと。
一部島津、小西、小早川とか微妙なのもあるけど。 石高というより着到状をもとにしてるんでしょ
島津はいろいろあって盛った申告したんじゃないかね >>380
>>357で「3〜4万」を前提に「主攻になるわけよ」だの「城攻撃する馬鹿はいない」だのと書いてるが
基となる「3〜4万」の根拠が薄弱なら、憶測に憶測を重ねただけの徒労だと言ってるわけだが「それくらいわからんかな?」 >>357はいつもの決めつけ君だろ
色々な考察が主観的決めつけから始まってるからいつも中身ないんよな >>391
そうなると南宮山2万、大津1万、大坂2万の計5万も出してる毛利勢多すぎひん? 120万石なら3万6000が妥当では? 出力の30%マシなら頑張れば実現可能な数字では?
実際の人数をどうこうする気はないが >>398
30%増しとか、場合によっては100%増しとかあるけどそれって大抵は自領の防衛側だよね?
遠征側でそこまで振り絞れるもんか?
思うに、そもそも大坂城に毛利本隊は2万人も居なかったんでは?
最初から援軍、余剰戦力がないと知っていれば、石田らの焦ったような大垣退出も理解できなくはないんだよ。 >>397
ざっくりいくと南宮山秀元吉川安国寺16500、
大津元康秀包11500、大坂輝元5000。
九州四国毛利水軍5000、計38000。こんなもんかと。 ひでかね(スマホ変換めんどい)の所領って九州だから本家とは別扱いよな 本当に毛利がそんな物凄い大兵力を率いてたのなら、
徳川と戦わずに大坂から退去して領地の大削減を
受け入れたのがマジで意味不明なんだよな。
本当なら「毛利舐めんなコラ!やってやんよ!」
ってなりそうなもんだし。 宇喜多やら瞬殺されたの見てたら
三万でも五万でも妥協模索するだろ
しかも輝元は野戦も籠城戦も実績ないぞ 徳川には毛利と争う必要性が無い
毛利を完全に押し潰したとして120万石くらいしかない。このまま決着すれば豊臣家の土地を好き勝手できる >>400
左様じゃな、元康、秀包、立花殿などを公儀に逆意を構え大津に籠城した京極高次成敗のため遣わし
二の丸まで乗り崩したところで高次が降伏したので、先般田辺に籠城した細川藤孝同様に下城を申し付つけ
城に番勢を入れ一命はさし許し高次は本日9月15日の朝に高野山に遣わした。
美濃口のことも大柿衆、秀元、吉川、安国寺長老に丈夫に申し付けて思い通りであるので
東国衆は手立てを失っている様子だ
わが九州四国毛利水軍の乃美孫兵衛、村上八郎左衛門が九鬼殿とともに
9月9日、10日の両日に尾張知多郡大野、野間の合戦で圧勝し
9月9日に討ち取った頸は80、9月10日に討ち取った頸数167で
両名からの頸注文状が届いておる、これにて知多半島西岸の六浦は平定し
長嶋の福島正頼、美濃東国衆も色を失っているであろう
落居、逃散も眼前の内にありと存ずる
これよりも追々吉左右が参るであろう 毛利と争うも何も、輝元みたいな無能に何ができるのよ?
本戦当日に家臣の完戸にふざけた書状送ってるような奴だよ
あの書状見る限り、美濃方面の実情を知らなかったんじゃないのか?
10月初旬に黒田に吉川が宛てた書状でも「輝元は人間が出来てない奴だと貴方も知ってるでしょ」と書いてるくらいな奴
毛利元就の時代から暗愚なのは一次史料で明らかだけど、ここまで馬鹿だと救いようがない >>407
その10月3日付福島正則・黒田長政宛吉川広家起請文は光成氏が指摘する通り黒田家には写しすら伝わってないし偽書でしょ >>410
毛利の隆元が死んだら元就に信用がなくて金貸してもらえなかった話があったな。
輝元は親に似たのか、商人からの信頼は厚かったらしい。
減封後の立て直しを見ても、生まれてくる時代を間違ったな。戦国の世には向いてない。 >>411
つーかご先祖から末代まで累代わりとお人好しで流されやすい家系よね
一人だけ異能者がいるだけで あれも苦労して人格変容だろ
宇喜多もそんな気がする >>413
宇喜多のどこが?と思ったら暗殺王のほうか。 9月14日以降に西軍に勝ち目はない、
9月13日以前なら勝ち目がなくはない。 いやいや、家康は会津、佐竹を前にして使用できるのはわずか3万から4万の兵力
東国まで出征した数多の諸侯も大閤様20年来の厚恩を忘却し
大閤様の置き目に背く内府との僅か1年程の
さしたることもない交誼により付き従う道理もなし
吾ら秀頼様を戴く公儀の基に帰参するは必定
われら此度の軍はしかと勝算あってのことでござる 秀吉に対する忠義と西軍に参加するのはまったく別問題だと思うけどな。
西軍も、豊臣家のためにと言いつつ自分たちの野心で動いてるし。
毛利も上杉も豊臣家に絶対忠義の必然性もないけど、奉行たちはなぜにそれに乗ったのか。 西軍の勝ち目についてはまだ現実的なif話ができるが
豊臣政権が秀吉最盛期のような豊臣主導に戻れるかって話になると遥かにハードル上がるな
まして一部のアンチ徳川が言うような対外進出して日本を大英帝国みたくできるかって話になると
毛利や上杉その他西軍大名は本当に秀吉の頃の豊臣政権にしたかったのかどうか >>420
以前わたしが言ったけど、東軍先発隊が赤坂に留まらず、
予定通り佐和山進軍して武断派のみで関ヶ原にケリつけてたら、
武断派次第で豊臣主導の政権に持っていけた可能性はあると思う。 豊臣家が徳川に何ら正当性を与えてないからどのみち無理。北政所あたりが太閤恩顧の諸将よ家康に力添えして奸賊を討てとか言っていればまだ名目上豊臣が徳川の上だったけどそんなことしなかったから諸将は家康に従って家康からの恩を受けただけ。これで豊臣に恩を感じる奴は精神構造が特殊過ぎる >>417
岐阜城落城以降はノーチャンスという印象 徳川を弾劾して討伐できたとしても、豊臣政権を裏打ちする軍事力の点で毛利がその地位に座るだけなわけで。
秀吉の義弟の家康、淀殿の義弟の秀忠、でもって秀頼の許嫁の実家の徳川家と比べてどっちがマシかって話。 岐阜落城3日後の義演准后日記の8月26日条に
佐和山城へ石田三成が帰陣して退却したとあるね
三成として佐和山城を攻められることは何としても回避したかったんだろう
東軍の最前線の垂井から佐和山への中山道経由の通路の山中に大谷勢を配置したり
周囲に土塁を築き松尾山之普請したのもそのためだろう
その松尾山を9月14日占拠されて山中を突破されないよう急行したのも当然とも思える >>422
家康秀忠が来る前に東軍先発隊、前田、京極、秀秋で勝ってしまうんよ。
岐阜落ちて佐和山、大津も押さえられてたら西軍は瓦解する。
前田が先に伏見入城とかすれば徳川の面目はない。
幸長、福島、清正、田中、玄以あたりで五奉行再編とか?
そういえば玄以って関ヶ原敗戦で奉行職解かれたの?
信雄とか有楽斎が親類衆扱いなら、こっちからごちゃごちゃやる手もありそうだし。 家康の指示受けてる連中が勝つ以上未来は変わらない。豊臣が口出す道理も無いし 前田玄以は時慶記9月20日条に9月19日近衛信尹が対面した家康から前田玄以は大略、
別儀がない聞いたと記載があり
同じく時慶記9月21日条には前田玄以は異儀がないということで珍重とあり
家康が関ケ原4日後の三成が逃亡中の9月19日には早くも前田玄以の罪は問わない
と明言してることがわかります
京都奉行、所司代を1583年から長年勤め朝廷,などとの人脈、田辺城との勅命講和に尽力した
ことなどから上方の民心安定のための措置と思われます
ただ北野社家日記9月20日条によると京都所司代は解任されたとあります
それでも前田玄以は其の後は大坂城を出て謹慎生活に入ったようで
義演准后日記9月28日条に北野社家日記10月7日条に前田玄以は河内金剛寺にいるとあります
その後、北野社家日記10月17日条に前田玄以が10月15日に大坂へ上り、家康の御前が済んだ。
時慶記10月16日条に前田玄以10月16日に家康への御礼は済んだ(赦された)
とあり10月中旬には正式に許されたことがわかります
その後は本領安堵され大坂城で秀頼の側衆として仕えていたことが
義演准后日記11月16日条に義演が寺領の山役のことについて説明のため
大坂の前田玄以・片桐且元・小出秀政の両三人へ書状を遣わしたとあることからわかります
11月17日上洛し(時慶記)11月18日徳川秀忠や松平忠吉とともに参内し
11月19日両人の豊国神社参詣に随行しているようです
左大史孝亮記11月18日条、徳川秀忠・松平忠吉・前田玄以が参内した。
徳川秀忠は太刀銀百枚を献上。松平忠吉は四位侍従になり銀三十枚と太刀を献上。前田玄以は綿把等を献上した
義演准后日記11月9日条、徳川秀忠、松平忠吉が豊国社へ参詣した。
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ただでさえ強大な家康を軽く見た報い >>433
地理的に近い大名が前線で戦うことが豊臣の軍役ルールなんだよ
だから朝鮮出兵は西国大名が前線で戦い、東国大名は後方支援だった
西軍が東に進むなら東西の地理的な関係は逆転する
美濃方面は美濃に近い大名が前線を担当するのが豊臣の軍役ルールであり
毛利や小早川のような西国大名は戦う義務を持たない
自分の意思で前線に行って戦うのは個人の自由だが強制される理由はない
特に奉行ならば豊臣の軍役ルールはきちんと守らなくてはならない
美濃方面を軽視するというより、重視して西国大名を強制的に行かせて戦わせるのは
秀吉が定めた豊臣の軍役ルールに反する行為と言える せめて毛利軍がもっと迅速に美濃方面に展開出来るようにしておくべきだった。もしくは三成に相応の権限を与えておくとか
あの兵力差では岐阜は守れん そうじゃ三成じゃ三成がしくじりおったのじゃ、あの無能者めが! ただのアホには思えんけどな
良い感じにイッちゃってる 挙兵する以上は敵を軍事的に叩きのめさなきゃ全く意味がないのに
毛利も奉行も徳川とガチンコで戦う気がはじめから無かったんかな >>444
戦国時代の戦争って、格付けのためであって、原則的には叩きのめすまでやらない。
睨み合って小競り合いして城や砦のいくつかを取り合って双方引き上げる、というのが普通。 おそらく秀頼を擁して挙兵すれば豊臣公儀のもとに西国大名は殆ど加担し
会津遠征軍も家康より離反してわずかな与党を残して
家康は関八州に孤立する、その後圧倒的優勢の情勢下で
翌年位までに関東攻めか有利な講和を結んでやってもよいなどの
甘い見通しだったんだろうな
いざふたを開けてみれば短時日で落とせるとの見込みの伏見、田辺などは
なかなか落とせず、会津遠征軍も真田以外は離反せずなど誤算続きとなったが >>445
その睨み合いのラインが美濃の大垣~岐阜の辺りということかな
それなら徳川の勢力圏まで侵攻していったほうがさらに西軍よりの格付けができたんではないかと思うけど
最初に大坂城と秀頼押さえたことでもう十分と思ったのか
まあ家康も当初は和睦を模索するやりとりを毛利としてたそうだから戦略としては全く間違いではなかったぽいが
福島池田ら東軍先発隊が睨み合いどころか岐阜城まで攻め込んで落としちゃったのが
西軍のみならず家康もびっくり仰天だったのかもね >>447
いや睨み合いのラインも更に奥で旧支配地域の三河位までしか出てこれないと思ってた
東海道筋の大名は味方につくだろうし真田がいるなら中山道も防げるわけだから
史実との落差を考えるとえらい楽観的だけど逆に言うとそのくらい自己評価が高くないと
家康を追い落とそうとは思えないということでもある 西軍も正直会津征伐軍が崩壊するとかは期待してなかったろう。家康と縁辺してる連中や家康と縁を結んで利益を得ていた連中がいかに秀頼の命令だからと家康を裏切るわけない >>445
そんなのは目的によるとしか言えない。
織田による刀根坂の朝倉追撃、武田への侵攻は
朝倉、武田の撃滅が目的。
長島侵攻も一揆衆の撃滅が目的。
賤ヶ岳も羽柴による柴田撃滅が目的。
では関ヶ原の場合どうかというと
東軍先発隊に決戦志向がある以上どこかで決戦に及ぶ可能性が高いが、
規模が大きすぎるのでどこかの時点で和睦するであろう。 >>444から>>450まで、真田昌幸宛石田三成書状に全部書かれていることなんですけど……
読んだことないんですか? それよりこちらは?
https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/325004
関ケ原の山城「秀頼本陣説」を否定 研究員水野さん講演、三つの新説検証 「関ケ原合戦の新説を検討する」と題した講演会が、岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原の岐阜関ケ原古戦場記念館で開かれた。「歴史と文化の研究所」(千葉県市川市)客員研究員の水野伍貴さんが、近年話題となっている新説の中から三つを取り上げ検証した。
関ケ原の戦いについて、小早川秀秋は開戦と同時に寝返り、決戦は瞬時に終わったとの説が浮上している。水野さんは、根拠とする文書の拡大解釈であると強調。さらに、勝者である徳川方の史料を挙げながら「即座に終わったならば徳川の圧勝をもっと美化しているはず。やはり、一進一退の攻防があって秀秋の寝返りで決着したという従来通りの展開だった」と語った。
関ケ原町に残る山城跡・玉城が豊臣秀頼を迎え入れるための本陣だったとする説については、複数の布陣図に浅井家の古い城跡であることが記されており、「関ケ原の戦いとは関係ない城だった」と結論づけた。また、家康と西軍総大将の毛利輝元が決戦前日に和睦していたとする説についても否定的な見解を示した。 >>451
三成は西軍の戦略決定者じゃないので正直三成の希望的観測なのか西軍で軍議決定されたものなのかそこから始めないといけないし 三成の当時の書状見ると
楽観視しすぎじゃないと感じる時がある
よく言われてる通り
軍事センスなさそう >>448
伊勢を抑えて美濃の入口(大垣)あたりで十分……というのが毛利輝元の考えで、
大垣(と落城したが岐阜城)では不足で三河まで出て決戦というのが石田三成の考えだったんだろう。
実際に、それぞれに、それを伺わせる書状があったはず。
輝元のは大垣~南宮山に詰めている14日頃の状況を、美濃口は何も問題はないって国元に返しているやつで、
三成のは家康が浜松まで来たら輝元を出陣させて決戦するってやつ。 >>456
輝元書状は9月15日付宍戸善兵衛宛
三成書状は8月6日付真田昌幸宛、8月7日付佐竹義宣宛にある記述だな
輝元書状に関しては「美濃口之儀、是又丈夫申付、勝手案中候条、吉左右追々可申聞候」と
一見すると楽観視してるような感じに取れるけど、言い回しとしては当時の常套句みたいなもんでよく見られる
ものだから、これを以て輝元が現状で十分だと考えていたと断言できるかは微妙なところだと思うね >>453
余りに大雑把過ぎて肯定も否定も出来ない
何が「拡大解釈」なのかも触れてないのに拡大解釈だから違うと言うのは無謀だし原稿見てみないことには 皮肉な事に戦下手な三成の方が正しい戦略を選択してる。家康の方が遥かに強かったので誤差みたいなもんだったが
小早川秀秋が松尾山を奪取したことで西軍は最後の戦略すら破壊された。もうおしまい >>452
まもなく立ち消え議論もされなくなる説でしょうね
そもそも豊臣家は西軍を積極支援してるわけではないし
当時秀頼が西軍で出馬予定の資料は皆無、おそらく要請すらしてない
可能性が高い。
上杉家の資料に会津攻め直前に帰国した船頭のもたらした情報として家康が
会津出兵に秀頼を同行しての出陣を要請したが豊臣家の総反発を買った
というのがありますが、同資料は朝鮮軍が対馬に上陸したとか石田、福島が
家康よりの居城借用を断った等の事実と相違する西国の噂をのせており
信憑性は薄い。
玉城はおそらく天正年間浅井氏の手になるもの、
対抗してのものかはわかりませんが松尾山に織田家の不破河内守が砦を築き
中山道を押える要地のため西軍が更に手を加えたようです(松尾新城)
玉城は中山道よりも北國街道からも外れており慶長5年の戦乱では特に
着目もされなかったのではないでしょうか >>461
何様なんだよ、お前こそ誰だよ
この記事は私も読んだが、論証部分をはしょり過ぎてなんともいえんとしか言いようがなかった
会場では根拠を具体的に示していたんだろう >>460
「仍近年屋形様之舩頭を仕候勝右衛門尉与申者、大坂ゟ先月十八日ニ罷立
昨下着候、道中ハ木曽を越国へ罷下候由候、彼者大方物語候分申述候」
景勝の船頭が5月18日以前の大坂での噂を列挙したものだからな
その内容から察するに市井を中心とした噂であって、内部の事情を知る者から聞いたって感じではないな 水野氏の主張で謎なのは「圧勝なら徳川はもっと美化していたはず」という論理。水野氏の言う徳川の美化した歴史とやらが何を指してるのかもわからないし何故圧勝なら美化しなければならないのかも不明
論理的に言えば「圧勝出来なかったから美化した」と言う方があり得るはず。圧勝したら美化する必要がない。ありのままを書けば十分。逆に言えば美化してないということは圧勝していたと言う事になる。ここら辺もちゃんと講演では説明したんだろうか 伊達政宗に宛てた家康の書状とかは傍証にならないのかな? 「即座に終わったならば徳川の圧勝をもっと美化しているはず。やはり、
一進一退の攻防があって秀秋の寝返りで決着したという従来通りの展開だった」
確かに表現がおかしいですね、たぶん圧勝ならなぜありのまま書かないのか
わざわざ大苦戦したように書くのはおかしいというのが本意ではないでしょうか。
でも短時間圧勝だと家康の見せ場がなく豊臣家の諸将と小早川のお陰で
勝てたになるので家康の采配で勝ったというフィクションが作られた
また軍着物などの特性で相手を実際以上に強く書いて、その強敵に勝った自軍は
更に強いというストーリーは定番、現代の少年漫画にまで受け継がれている
まあこんな感じで説明つくと思うけど >>461
客員研究員と書いてるからアマチュアに毛が生えたようなもの んー、とりあえず瞬殺説だったとして、
瞬殺したが徳川で参戦したのは本多井伊忠吉のみで、
井伊忠吉は手柄どころか負傷する始末。
徳川なにしに来たの状態だったので
西軍が手強かったことにした、かな。
>>466の見解に近い。
しかし個人的には瞬殺説唱えるなら
どのような布陣でどのような展開で瞬殺したのか
自論でいいから説明するべきだと思ってる。
ただ一次史料に書いてあるから瞬殺だった、って、
なんの説明にもなってないだろと。 関ケ原は勝った側でも史料的なものが乏しい
黒田、細川、藤堂あたりは激戦ならもっと史料が残っていたはず >>468
お前みたいな池沼に「説明」するとか最早介護だな 秀秋が寝返らなくても西軍はほぼ詰んでた状態だけど……
三成は大津城と田辺城から西軍が後詰に来るのを待ってたのかな? >>469
生駒利豊の回想的なやつがそれなりに参考になるんじゃないかな、
おそらく福島隊と行動を共にしてただろうし。 関ヶ原自体は実はただの地味な不期遭遇戦で
それが天下の帰趨を決める決定的な戦いとは当事者もその時は思ってなかったのでは
後になってあれがそうだったんだてことで遡っていろいろ盛盛されていったとか 小早川秀秋の裏切りが14日ってのは幾つかの史料から明らかだし三成たちが関ヶ原に向かったのもこれに対処するためで間違いは無い
というかこのタイミングを見るに全て徳川家康の術中だったんじゃないか。家康が赤坂に着いた日の夕方に秀秋が松尾山占拠なんて偶然にしては出来過ぎてる >>475
大谷が討たれたり西軍の潰走ぶりからは決定的敗北レベル。
組織的撤退もしてないから参戦西軍は再起不能。 小早川の対処に、なんで大垣勢が実質的に城を捨ててまで動いたんだろ?
ルート的にもそうだし、離れたとはいえ数年前まで主家だったことも含めて南宮山勢を向かわせたほうが合理的だと思うが。 秀秋と家康は明らかに連動してるだろ
家康が動いたことで秀秋も松尾山占拠に動いてるんだからこれを偶然と見るには無理がある >>478
南宮山の毛利軍は三成の指揮下に無いからね。だから毛利軍に動いて欲しかったら秀元・広家・安国寺あたりにまずお伺いたてて彼らの軍議を待つ必要があった
厳密には三成は大垣衆の指揮権も無いんだけど大垣にいるのは三成と親しい連中だから問題にならなかった >>480
指揮権があるとかないとかの根拠はなに? 少なくとも南宮山の毛利軍は三成の指揮下じゃないのは明白なのにそこ指摘して何が言いたいんかね?
マジでこの連投君は場違いだし消えて欲しい >>480
指揮権がないなら尚更掛け合わないと不味いよな。
この状態で相談もなく城を空けるとか、下手すれば南宮山勢を捨て石にして逃げ出したと捉えられるよ。
実際には吉川(毛利にもその疑いあり)が不戦を約束していたけど、していなくても寝返りが許される状況。 南宮山の毛利軍は毛利輝元の軍隊であって石田家の軍隊じゃない。だから三成には指揮権は無い。出来るのは秀元・広家・安国寺らにお願いするか輝元に掛け合って命令してもらうか で実際南宮山に一報入れるべきだったけど状況見るにそれも致し方ない。家康が到着した時西軍は大垣・南宮山で受け止めて補給は近江経由、その要衝である松尾山も城塞化して対応する計画だった。その松尾山を小早川に取られた、明らかな敵対行為で秀秋は東軍だとなると徳川が攻めてくる
この緊急事態に南宮山と相談してる余裕は無かったと思う。逃げるか攻めるか守るかで紛糾した挙句後手を踏むのは目に見えてるし。大垣衆の良く言えば機転、悪く言えば思い付きで動いた結果あぁなるのは当然の帰結だがじゃあどうすればってのが難しい >>484
あぁそういうことね、指揮権に触れるまでもなく当然のこと。軍議で決すること。
>>485
概ねそんなところでしょう。流れとしては。 なんかこのスレ見てるとみっちゃんかわいそうで泣けてくるわ せめて一報してから行けやとは思うけど相談して安国寺とかが妙案思いついたかどうか
大垣衆は待機して南宮山が松尾山を攻撃するって選択肢もあったけど毛利が首を縦に振るのと東軍が松尾山に増援送るのと時間比べってなると >>487
クーデターって元々、どれだけ味方ができるかというギャンブル的な要素が出ざるを得ないし、三成が当初から確たる勝算を持っていたかも不明
その賭けに負けたことを無能扱いするのは違うとは思うし、勝算がないことに敢えて挑むことは現実社会でもよくある話 西軍が決起した時点ではそんなに戦力差は無かった。問題はその後の戦略 決起したあとに付けた味方が脅して味方にした小大名たちだし
立花みたいな例外もいるけど徳川への戦意は低い
片や右往左往四分五裂するはずの会津征伐軍が戦意溢れた状態で西上してくるし
秀頼の名前も通用しない
旗揚げ前の初期戦略が根本から間違ってた みんな大河ドラマが目的じゃねえんだろう。松潤が目的なんだろおうちゃんと大河ドラマを見ろよわかったか?バカタレ 騙された脅されたってのも敗戦後の言い訳みたいなもんで一概に認められるもんじゃないけどね どれだけこれから始める戦いのグランドデザインを描けてたが、だよな。
明確に描けて、その通りというかそれ以上に成功したのが徳川家康。
決起後しばらくまでしか描けておらず、出口戦略がなく、伏見を落としたあとや岐阜城が落ちたあとに右往左往して何もできなかったのが奉行衆。
引き摺られるままについて行ってしまったのが東西の中小の大名。
成功時のみならず、失敗時の出口戦略(豊臣を売り渡す)まで描けて上手く凌いだはずが、
実力もなければ見通しも甘く結果的には西軍の勝ちを潰した戦犯、自領の維持にも失敗した無能な毛利輝元。 >>494
寝返らずに敗戦を迎えたら認められるわけがない
まさに敗戦後の言い訳
京極高次や小早川秀秋みたいな寝返り参戦組はほぼ認められてはいる
とはいえ認めてないのもいるからケースバイケースの様ではある >>496
そう考えると、総大将のくせに8月には既に言い訳を言い始めている毛利……こんなの担いだ西軍がほんま不憫でならんわ。 その輝元をして家康の対抗馬として政争仕掛けたのが奉行たちだからな
秀吉が彼らに秀頼の養育や政権運営を委ねなかったのも当然の人事 おかしいな。
どう考えても毛利輝元をディスってるレスのはずなのに、輝元が優秀とは言わんが割とマシに見えてきた。
もしかして、戦国大名って石田三成みたいなエリート官僚クラスでも、思ったより頭は良くない? >>499
徳川は排除しなければならないと思い込む視野狭窄になってる可能性はある
野心のためか奉行という立場だったかゆえかは分からんが
マルクス主義にハマってエリート主義に陥る共産主義者みたいなもの >>500
その手段として、主力に毛利勢を頼んだのでは、徳川家康を排除しても毛利輝元の権勢を止められなくなるだろうに。
奉行衆だけか、せめて秀吉猶子の宇喜多秀家と小早川秀秋くらいまでで決行しなけりゃ、
勝っても負けても、豊臣にとっても奉行にとっても権勢の低下は免れない。
石田1人ならまだしも、奉行衆が揃ってそれを考えなかったのかな? だから奉行だけが一方的に画策したわけじゃなくて
毛利からも奉行に接近して思惑は違えど徳川排除という方向性で一致したという側面もあるのでは
毛利にも遺領問題やら秀吉に奪われた権益奪還含む権勢拡大やら奉行と同じかそれ以上の動機があったからな 豊臣としては西軍が勝って損は無い。宇喜多秀家を大幅加増すれば良いだけで追加で四奉行の石高を倍にすれば豊臣家だけで大分日本を支配出来る
最悪なのは東軍が勝った時だけ >>502
おそらくそうでしょうね、大坂3奉行と毛利は上杉征伐を差し止めようと
4月下旬には一致団結しており、5月7日には3奉行と生駒、中村、堀尾の
出兵差し止めの意見書状、5月下旬には北政所にも上坂してもらい家康説得に努めますが
出兵は強行され、毛利は次は自分の番だという恐怖もあり3奉行等とともに
挙兵へと軸足を移していったのではないでしょうか。
毛利家乗所載の4月28日輝元の秀元宛書状から安国寺、大谷、3奉行、生駒、中村、堀尾が
会津出兵延引の談合をしており輝元も相談を受けていることがわかります。 本当の裏切り者は吉川広家だよな
小早川さんカワイソウ 輝元は関与していないんだ、安国寺と石田治部の企てだーとの
偽装申告で不戦のみで本領安堵の約束を決戦直前取り付けてもな・・・
高松城で秀吉を追い打ちせずそのご天下人秀吉よりちょうようされた
隆景の再現を夢みてたんだろうな
毛利家からは救国の英雄、比類なき忠臣として尊敬された上に
憎敵の安国寺、三成も葬ることができたと10月1日までは有頂天だったかもしれん
翌10月2日からは一気に地獄落ちとなった >>501
家康ならともかく、輝元程度をどうにもできないなら、どのみち豊臣政権の先は見えてるよ >>503
で、宇喜多秀家を大幅加増して、宇喜多がその後暴走しないという保証はどこにあるのよ?
秀家は一応、あの謀殺好きの息子だぞ 秀家は秀吉の息子で北政所派の当主みたいなもんだから頼るならここしかなかっただろうな。少なくとも家康よかマシってのは確か 輝元はやはり抜けてるだろ?
所領安堵を望むなら、家康の直筆書状をもらえよ
確かに井伊直政・本多忠勝・福島正則・黒田長政・藤堂高虎・浅野幸長・池田輝政らの連署書状や起請文を貰ったり
9月晦日に黒田長政の輝元の身元保証起請文を貰ってるみたいだが、家康の直筆は一つも貰ってないんだろ?
このあたりが元就と違って抜けてるわ
元就なら絶対に家康の直筆が無い限りは大坂城を退去しないだろうし 宇喜多秀家は秀吉死後に御家騒動を起こして家臣団を崩壊させる男だから
流刑後の生き方を見ても変人だとしか思えない >>510
当時の徳川vs毛利の問題で直筆書状安堵がどうこう言ってる時点で小市民視点すぎて笑わせる
社会に出た事がなさそう >>504
会津征伐を諫止したのは間違いないけど5月7日付三奉行・中村・生駒・堀尾連署状は偽書説もあるよね
「又雪前御働もつまり可申候哉、旁来春御出馬被成候様ニ奉存候事」
新暦だと6月上旬くらいなのに降雪前の働きは不自由だろうから来春に延引しましょうは明らかにおかしいし
流れとはしては4月28日付毛利輝元書状があるし整合性はとれてるんだけどね >>514
いろいろ内容も矛盾してるんだよね、あの書状
それに会津征伐自体も中止じゃなく延期を求めている 会津の初雪は参考になるかわからんが、ここ5年位では旧暦だと
10月20日頃から11月10日頃、史実の会津出兵からすると3ケ月くらいは
軍事行動出来そうで上杉を降伏させるには十分
雪とか不作とかは角を立てずに延引させるための口実っぽい
なんだかんだ言って内府が怖いのだろう、なんせ3奉行は内府違いの条にすら
内府公と敬称よびするくらいだから
延引といってるのもその一環で反対では内府の意に真っ向から
逆らうことになるからだろう
上杉も讒者を究明すれば秋には上洛するといってるので、延引で時間稼ぎを
すれば本年中に上杉も上洛して一件落着というのを期待していたのでは 三奉行三中老書状は額面通りに受け取るのは危険
何故ならこの書状は明らかに内府違いの条々と関係してる。故に偽書とも呼ばれてるが
会津征伐に秀頼・淀君・北政所が反対してたのは周知の事実、これで更に奉行衆まで反対したのに会津征伐が実行されたらどうなる?「家康は私利私欲で秀頼さまを見捨てて挙兵した」事が確定する。この書状はその為の布石だったのでは
なら内容がおかしいことは説明出来る。会津征伐が不可避なのは明らかだけど絶対じゃない。だから三奉行は諫言しつつそれが受け入れられないようにしないといけなかった。だとするなら理に適った諫言をしてる訳がない >>518
もうそういうのいいから
自分のブログかなんかでやって >>517
それも考えたんだけど3奉行だけならそれもあるが残りの3人がね
うまく引き込んで署名させたというのもありだが、5月7日の段階では
本気で制止しようとしてたんじゃないだろうか、6月10日上杉書状によると
奉行衆は即日上洛をするよう進めてたらしいし。
無断縁組事件、七将事件、前田利長の家康暗殺計画疑惑の軍事衝突の危険を
これまで何とか回避できた来たので今回もということで
それでも翻意しない内府に対し非常手段の挙兵計画が浮上したのは
5月7日よりは後ではないでしょうか、北政所が家康制止に動いたのは5月下旬ころ
からで6月8日に京都に戻るまでで時期的には後になります
ただ北政所に大坂に上坂を依頼した段階では、これでも出兵を強行すれば
奉行、大老、豊臣家も反対する中での暴挙と反家康感情を高め大義名分化する意図があったことは
そのとおりだとおもいます。
5月7日の段階でははやすぎるというだけで。 >>517→518
あとこのころの情勢や北政所に説得依頼した件は浅野幸長だったかの
書状にあったと思う >>517
なるほど
初雪の時期はそんなもんなんだな
4月28日付島津義久宛義弘書状
「伊那圖書頭殿并御奉行中よりも、使者を被相添、去月(去カ)十日伏見御打立、会津へ下向候、
必六月上旬の頃ニ可為上洛候条、御返事申者なされ候ハヽ、依其返事内府様御馬可被出ニ御定候」
景勝は6月上旬に上洛すると返答したのに、家康は納得せず会津征伐を決定している
その決定は当然奉行衆の耳にも入ってるわけで、更に延期となれば説得の難易度は上がる
総動員すればなんとか家康を説得できると思ってたんかね >>521
5月26日の浅野長政宛幸長書状だな
この時点で景勝に突きつけた条件は
・景勝が7月中に伏見に上る
・8月1日に秀頼へ挨拶
・直江の妻子を6月20日までに江戸に寄越す
・景勝上洛が決定すれば秀忠が連れて上洛する
まあ6月10日付景勝書状にあるように景勝はこの時点で
「上洛之儀者如何としても不成候」と上洛する気は毛頭なかったわけだけど 高台院と三成は実は親しかった、と最近はよく言われてるけど、この時期の高台院の立ち位置、それに三成と親しいことを
示すような書状って何かあった? 毛利と豊臣は反家康決起の計画練ってた訳でその為には会津征伐の発動が前提だからな。だがその正当性の為には豊臣は会津征伐に反対しないといけない。その為に敢えて聞き入れられない諫言をしたんだろう。書状の宛先もおかしいって話だけどそれも当たり前 書状ではないが、1599年8月に北政所の侍女だった三成の次女が
会津に帰国する直江兼続に伴われて会津に下り、翌9月上杉家臣で北政所側近の
の孝蔵主の義理の甥の岡重政と婚姻している。
三成の三女辰子が1600年春頃に北政所のもとにいて(時慶卿記)このころ
北政所の養女になったといわれている。
関ケ原後も客人と名を変えて10年間北政所に仕える、将軍秀忠や浅野長政,小早川秀秋から
北政所あての書状に宛名書きされる程の側近だった。
1610年津軽信牧に嫁ぐ 景勝の謀反は明らかで討伐は不可避、その上景勝は家康を挑発までしてた。なのに秀頼淀君北政所は討伐に反対。どうも彼らは家康は豊臣家の人間ではないし公儀でも無いと認識してたようだ
景勝が挑発してるのはあくまで家康だから理は通ってるんだが >>527
こうしてみると、上杉は、というかその前の前田からしていったい何がやりたかったんだ?
最初から反徳川の狼煙を上げているならまだわかる。
後の奉行と毛利のように徒党を組んで徳川を糾弾するならわかる。
わざわざツッコミどころを作った割に、自領に引きこもる以外の行動は取らない。
マジで何やりたかったん? 景勝の目的は単純。秀吉に奪われた越後が欲しい
それだけ 数スレ前に散々やってボコボコにされた「豊臣は反家康だった!」をまた蒸し返すつもりかよ
池沼くんはホントに救いようのないアホだな 仮に家康が「秀頼は自分の意志で西軍に関与した。だから豊臣は改易する」なんて言い出したら、
豊臣恩顧の大名はみんな家康から離れるんじゃないか?
数え8歳の秀頼が自らの意志で西軍についたとか、誰が信じるのか 日本はいい意味で子供には人権ないんだよ
責任を負わせれる訳がないだろ 前に元服してたからとかほざいてたのがいたけど、秀吉自身が秀頼にいきなり執政など
出来る訳がないと誰よりも理解していたから、大老・奉行が創設されてる訳だしな
側近すらまともに構築出来てたとは思えないし(秀吉子飼いのみでは力不足だから大老がいる)
秀頼を大人扱いしていいのは二条城会見の時以降位でいいんじゃないかな
大坂城から出ることが出来るしかるべき年齢になったという事だし 道路整備もせずに庄内や佐渡の飛地にどうやっていくのか。 >>532
減封してるんだから改易しても問題無かったろ
改易して秀頼は出家しました、とかで落着 確か「卜斎記」(家康の侍医)に「この時点(関ヶ原直後)で、諸侯は家康公を
天下人ではなく、秀頼様に仕える天下の家老だと思っていた」とか書いてなかったか? >>536
明確な西軍加担の証拠があればな
淀か北政所の直筆書状でもあれば別
西軍が文書で秀頼を騙っただけでは東軍内部や世間から異論が出るからどうしようもない 豊臣家が西軍ってのは白峰氏が秀頼が伏見攻めを讃えて出した感状の存在で証明してそれが受け入れられてるって感じ。まぁ否定は出来ないわな
直筆書状を求める意味も無いし 数え8歳の秀頼の意思で書かれた感状という証拠だと白峰氏はいうのか?
多分鈴木重朝宛書状で所領についても記述があるやつだと思うけど…… 白峰氏ですら確度の高い証拠は見つけられなんだのだから池沼がわめいても出てこんよ。諦めろ。 >>539
まーたその話してて草
いい加減しつけーんだよ
同意が得られないと>>263-265みたいに発狂するし、また話ループさせてるけど何がしたいの? >>540
白峰氏は「秀頼が言った事に疑いはない」としてる。実際八歳なら余程発達が遅れてない限り「よくやった、褒美を与えよ」くらいは言える
そして何よりの問題は「秀頼はそんなことを言わなかった」という証拠が何一つ無いというもので言ったという証拠がある以上肯定するというのが学問 いやいやこたびの乱は逆臣石田治部等らが我を滅ぼし、
天下に我意を張らんとの邪心にて秀頼様の名を借り謀反を企てたるもの、
幼少の秀頼様、淀の方様には全く関わりなしと了解いたしております。
弓矢にてこれら君側の奸臣共を誅するに至りましたはすべて太閤殿下の御威光
によるもの、向後もなお一層身命を捧げて秀頼様を補佐仕まつりたいと存じます。
その為にも太閤様御遺言の秀頼様とわが孫娘千姫との婚儀は一日も早く
執り行いたいと存じ上げます。 8歳といっても数えで、満で秀頼は7歳だから小学1年生だぞ
白峰氏には子供がいるのか?
子供がいるならそんなこと間違ってもいえないはずだが…… こうした研究がされるのも司馬史観の払拭の為なんだけどね。従来「天下簒奪を狙う悪の徳川家康を倒そうと豊臣を思う正義の石田三成が立ち上がったがそれは家康の罠だった。正義の三成が敗れ悪の家康が勝ったので豊臣家の領土は減らされた徳川の天下になった」という司馬史観が蔓延してた
ところが史料を見ると家康が天下簒奪を企んだ証拠はない。しかし豊臣の領土が減ってるがそれを批判する者はいない。そして調べてみると豊臣が西軍に味方した事実はあっても徳川に味方した事実が無い
豊臣が実は〜みたいなのは司馬遼太郎に毒され過ぎてるんだな結局 三成が正義……は気持ち悪い
司馬はなぜ家康をあそこまで嫌うんだろうか…… 1599年豊国神社創建に関連して1600年、秀頼8歳の豊国大明神の自筆神号
が多数残っているがこのころは手本の文字を書き写す位がせいぜい
だったのではないだろうか、翌1601年自筆神号も比較的残っている
この1601年に伊勢慶光院あての焼失した宇治橋架け替え工事にかんする
殆どひらがなの書状が秀頼書状があるが、手本をまねて書いたものと思われ
文意を理解していたかは疑問
翌年以降の伊勢慶光院あての書状は大蔵卿の局、淀殿の名で出されている。
1606年に完了した工事に関し伊勢慶光院側は秀頼公母儀執行としている
1607年秀頼15歳の際に豊臣家により下醍醐寺伽藍再興が行われることになり
片桐且元から座主あての書状に秀頼公若年故、伽藍再興のような件は
心得かねるので大御所(家康)、御袋(淀殿)より命じているとあり
1607年の段階でも豊臣家の意思決定が淀殿に行われている以上
7年前の関が原の段階で政治、軍事に関して
秀頼の意思や命令でというのはないと思われる 義経と平家、頼朝
楠木正成と足利尊氏
三成、幸村と家康
新撰組
みんな体制側は物語の悪役や
それを真に受ける奴が多いだけ まあでも司馬遼太郎は7将騒動で三成を助けたのは
反徳川勢力を三成によって結集、挙兵させて一気に叩くつもりだった
なので天下を二分する戦いになったのは計算通りだったとか
家康公を神格化した徳川御用史家ですらそこまでしていない
何もかも先を見通すスーパーマン化してるからな
皮肉なことに一番家康を高く評価してるのは家康嫌いなはずの司馬遼太郎
かもしれん。 >>546
お前がそう思い込むのは結構なんだが
もう書き込まないでくれ
他にもそういう意見出てるんだから分かるよね? 司馬が存命当時はそこまで史料が無かったのかな
でも、司馬の作品を読んでいると、家康嫌いがとにかく出てきて酷く感じた 世の中は小説と史実の違いがわからない人間が一定数いるからな
YouTubeの大河などのドラマのコメ欄みればある程度の世間の温度はわかるだろ
ただここのスレでフィクション要素を入れるのは違うと思うけどな >>545
勘違いしてるのかもしれないけど秀頼は
「ムカつく家康の家来ぶっ殺してくれてありがと!褒美をやれ」と言ってるだけなので現代の小学生でも可能、というか出来ないと障がいがある
では(無意味だが)秀頼が内心ではそんなこと考えてなかった、と言えるか?それも怪しい。なんでかと言えば秀頼は会津征伐に反対してる。家康に親しいとみるのは難しい
無論誰かが秀頼に吹き込んだという余地はあるがその場合最有力なのは淀君と北政所。こいつらも会津征伐に反対してる。どういう理屈で反対したのかは不明だが家康のやる事にみな反対してたのか西軍決起の正当性作りに協力したか
どのみち豊臣という一族を西軍から離すことはできない >>554
勘違いしてるのはお前だし何度も話をループさすなアホ
親家康の加藤清正だって会津征伐に反対してる
淀殿や秀頼が反対した理由が家康嫌いだったからとか史料にないお前の妄想を根拠にするなよ まあNHKの歴史番組によると賤ケ岳の時に柴田方からの救援依頼に
応じなかった家康を茶々は恨んでいたというから
その説の真偽はともかく全くの妄想ではないな 秀吉恩顧の武将たちが家康に付いたのは、秀頼がほんとは秀吉の血は引いてないって感ずいていたのかな? >>558
・奉行衆への信頼が低い
・奉行たちが秀頼の名を騙ってるが秀頼は幼年であり信用できない
・会津征伐で自分たちは公認されてるので自分たちに正義があると思ってる
・家康は秀吉公認の政権第一人者で特に大きな落度も無く武将としての実績も図抜けていて当面は信用できる
・会津征伐で戦う気満々のところに更に大きな獲物が出てきてカモネギ
・会津征伐軍から大きな脱落者が出ていないので尾張あたりまでは安全に西上できることが保証された
・戦場になるのが濃厚な畿内が庭の武将たちが多い
・最大の問題点として豊臣本家が明確に西軍につくと東軍は崩壊するんだが、その動きが無い
・理と利から見て西軍につくことがありえない
ざっと思いつくまま
秀吉恩顧の武将と北政所は書状のやりとりがあってもよさそうだがこれというのが無い
まあ想像の域は出ないが東軍先方衆の士気の高さだけはガチ ぶっちゃけ秀頼が秀吉の血を引いてるかはどうでもいい
秀吉が秀頼が我が子であると言ったらそれで終了 実子かどうかは全く関係ないだろ
よく実話だろうが小説だろうが実子かどうかで問題になるのは正当性があるかどうかの部分
秀吉の後継者として秀頼に正当性があるのに実子も何も関係ないから なお、正当性があり、関白の地位についてさえも秀吉の機嫌次第で殺される模様。 >>555
家康嫌いだからくらいしか無いんだよなぁ
他になんかあるん? 秀吉に正当性があるから関白なんぞどうでもいいんだよ
みんな秀次問題も容認しただろうが >>563
史料にないし知らんわ
分かるのは反対したという事実のみ
それより上で偉そうに学問wとかほざいてる奴のソースが脳内史料ってどう思う?
>>565
へーそうなんだ
中川秀成宛加藤清正起請文
「秀頼様御幼少ニ付而、大閤様御置目をそむき、内府公へ別心仕衆有之ニ付而」 嫌いだけど味方とか好きだけど敵とか色んな関係性をみれ考察出来ないのはASDなど疑ったほうがいいよ
一つの案件で安直に○○派とか言うのはよくわからん >>567
こ、こ、こ、考察w
NHKの歴史番組でも観ながらか?
史料読む以外になんの考察とやらがあるんだよ 好き嫌いだけで言うなら、徳川家康と毛利輝元って割と仲が良いんだよな。
関ヶ原以前の書状を服従の証と見る向きもあるけどそれだけじゃ兄弟呼びなんてしないし、
関ヶ原以降も社交辞令にしては過ぎるくらいに健康の心配したり、語らいの時間を取ろうなんてやり取りをしていたりする。 >>567
人と会話できないゴミが何言ってんだかw
お前の場合は
考察✕
妄想○ >>567
いい加減にしろよ
現実世界でも会話できないんだろうなあ >>552
司馬遼太郎の家康観は
性格は嫌いだが、認めたくないけど政治家・武将としては凄いで
愛憎入りじまってる感ある
昔一回読んだだけで
実際にどう思ってたかは分からんが また大河ドラマをソースに妄想長文かきなぐってる
ド素人の知ったかバカのせいで過疎ったな プロ固定の菅沼自演太が仕事で自演レスしてるだけだぞ
みんなそれに気付いて去っていった 加藤清正は反家康派筆頭で家康から警戒されてた
それで会津征伐では地元待機
立花親茂も清正が殺そうとしたので助命 山中村にに布陣したとされる大谷らの兵力再集計してるんだが、漏れもしくは間違いがあるだろうか。
大谷吉継1200.木下頼継700.戸田勝成500.平塚為広360?
織田信吉・長次60? 計2820?
もしこれに伊藤盛正500〜1000が加わると3320〜3820?
寝返り組とされる、
脇坂安治1200.小川祐忠・祐滋2500.朽木元綱600?
赤座直保600?
寝返り組計4900?
山中村布陣衆総計7720〜8720くらいとなる。
総計9400〜9600の説もあるようだが数が合わない。
松尾山小早川秀秋も8000〜15000で幅は広い。 史料によってまちまちだし細かい数合わせは意味なくね? 景勝のやってることは明確な謀反行為のオンパレード(軍備拡張、中央を挑発、約束した上洛を延期)で討伐は当然。逆に反対するのは不自然。というかその動機で一番普通なのは「徳川家康が公儀面してるのが気に食わない」くらいしか無い また今年の大河ドラマか・・
景勝が誰が家康を天下人と決めたんじゃとかいって上洛拒否してたな >>577
いやさ、改めて見ると山中村組の半分以上が寝返ってるわけで、秀秋の攻撃と寝返りで大谷は瞬殺されてもおかしくはないなと。 >>579
そら史料で景勝が家康を挑発したって残ってるからな 景勝くんは対外的に突っ張らないと家中が治まらないっぽいのが苦しい 直江状はあれ創作と確定しちゃってるから…
ただ景勝が内府を物の数ではないと挑発したのは知られてたらしい 直江状って無かったのかよ
それならそれで言ってもらわないと世間は誤解したままだろうな
まあどっちにしろ景勝はダサいけど 歴史上の人物をこき下ろしてる人って経験上だいたいリアルじゃクソザコだよねぇと思ってみてる。 氏真とかバカにしがちなのわかるけど
剣術修行もしてるし、国人領主も粛清したりしてる
現代人とは比べ物にならない修羅場くぐってるよな 上杉の立ち回りは保身という一点で見れば分かりやすいよ
家康に敵対的な態度をとってしまっているので
早々に頭を下げると家中から失政の誹りを免れない
特に兼次は詰め腹を切らされる可能性が高い
だから家康の不当な難癖に対抗するという姿勢をとって挙国一致体制を作り
家中の意見を統一して連帯責任としたうえで
一戦して面子を保ちつつ有利な講和条件を引き出したい >>575
確かに家康が清正を警戒してたことは慶長4年9月21日付島津義弘書状や同5年5月17日付義弘書状からも伺える
だから輝元も清正に自身が大坂へ上ることを真っ先に伝え、上洛要請をして調略してるし
しかし西軍挙兵後の清正の行動は松井家文書や黒田家文書、中川家文書にある清正書状等からも分かる通り、一貫して東軍として行動してる
清正の内心は分からんけど行動にブレは見られない
家康も清正宛の8月12日付書状で
「雖今度上方鉾楯候、御方之儀別条無之由、祝着之至ニ候、然ハ肥後・筑後両国進置之間、成次第可被申付候」
とあるように、この時期に敵対されても困るので加増を約束してるし敵視はしてない そもそも清正は三成が憎くて三成を殺そうとした
ところが家康が三成を庇ったので今度は家康を殺そうとした
清正にとって憎悪度が三成>家康だったというだけ。仮に三成が東軍についたら清正は西軍についていただろうさ。小説の福島正則みたいなもん 三成もだけど三成の盟友の小西行長のウェイトも大きいのでは
なんせ不仲であることは朝鮮陣の朝鮮側の記録にも
記されてるくらいだから。 >>591
君の妄想は聞いてないし、書かないでくれ 清正は前田派、前田が徳川についたから清正も徳川についた、
これでは説明にならんかな? 家康が清正を警戒していたのは史料から明らかでその理由は清正が家康を殺そうとしたからってのは道理が通ってる >>595
通ってると思うのは貴方が病気だからだよ 清正って家康暗殺計画露見の際利長諸共上洛禁止処分受けてる。看羊録には清正が反家康同盟作ろうとしてたとあるからそうした噂があってしかもそれは家康が信じるほどの根拠があったんだろ 清正が急死したのって暗殺だよな
家康の差し金か御家を案じた家臣か知らないけど 日本軍に家族皆殺しにされて日本に捕虜として連行された一流の朱子学者だかんね
藤原セイカ(変換できん)などの日本の最高の知識人グループと通訳をとおして
交流して日本の世上の噂、情勢をセイカ達の意見も交えて記した記録だかんね
このころだと淀と大野が密通してはらんだので秀吉の遺言の淀と家康の婚姻が
実現しなかったとか
清正が、細川、黒田、浅野、伊達政宗などと反家康グループを形成して家康を滅ぼそうとしたが
盟主が決まらず実行に至らなかったとか
事実から乖離した噂なども多いが当時そうしたうわさがあったのは事実だし
貴重な記録だよ 看羊録は秀吉はじめほとんどの武将をよくかいてないが
(一例をあげると小早川秀秋で書の師で人となりをよく知っている
藤原惺窩の話として性格が軽薄で感情の起伏が激しく兄たちに及ばぬこと
はなはだしいと酷評されてます)
珍しく褒めているのが毛利輝元で徳川と並ぶ富裕ぶりに続き、性質について
つつしみ深くゆったりとしておおらかでありつつしみ深く朝鮮の人々の気性によく似ている
朝鮮軍の鼻削ぎに哀れみの気持ちがあったと文禄の役の総帥でありながら
比較的好意的に書いているのがめをひきます。 毛利輝元の評価ってなんかよくわからないんだよな。
人物評としてはだいたい鷹揚でお人好しで優柔不断、政策や領地運営も家臣に任せきりとなっているのに、実際の行動記録を見ると結構違う。
割と即断即決だし、親族衆や譜代衆を遠ざけ、豊臣の奉行衆みたいなのを組織して親政しているし、
不穏な相手、都合の悪い相手は容赦なく処刑する。
なんでこんなに違うのだろうか? >>601
政宗が不仲の加藤・浅野と徒党組むわけない >>603
輝元の行動原理は、自分が安全な範囲内でやる気を出すことだよ
都合の悪い相手は容赦なく処刑するが、自分が死ぬかもしれないと感じた瞬間に戦わずに服従する
周囲に迷惑をまき散らしているだけで、輝元の行動は終始一貫している >>605
輝元の行動は割と一貫しているよね。
正直国人領主としてなら、かなり優秀だと思うよ。
基本的に踏み越えたらヤバい一線の見極めが上手く、実際に幾度も切り抜けている。
関ヶ原ではミスってるけど、それでも首が繋がる手立てはきちんと打っている。
問題は、そんな国人ムーブを五大老格の大名でやるもんだから周りの被害が甚大なこと。
まあ、周りの被害と言っても、輝元がお人好しのボンボンだと侮って思いっきり利用しようとした面々だから自業自得だが。 清正の性格を「邪で激しい」と評する看羊録だけど邪かは兎も角激しいのは当たってる。でなけりゃ三成を殺そうとはせんわ
清正が上洛禁止されたのが家康暗殺計画の利長と同じ時なので無関係の方がおかしいし清正と利長が反家康同盟を結んでたとみられてたんだろう 清正の動向は確かによくわからない
あのタイミングで謹慎喰らってるのと、九州の戦功で加増されてるのは繋がりにくい まあ加藤清正は浅野親子、細川忠興とともに大の前田利家党だったので利家逝去後も世間からは前田に与してると
思われてたんだろう,
ただ上洛禁止はそれもあるが1599年6月に勃発した
島津家久の伊集院忠棟殺害に端を発する伊集院忠真の乱で
清正が忠真と連絡をとり兵糧の支援を行っていたことが
発覚したためだろう、家康の調停で島津と伊集院は平和的解決していたところに
起こった隣国の内乱に公儀に断りなく介入し、しかも反乱者側に加担した
(家康は小西行長、立花など九州諸侯に島津へ助勢の出兵を命じるが
島津氏は謝絶)ことをとがめられたのだろう。 清正の領国謹慎は庄内の乱のせいだろ
暗殺計画は噂レベルだが庄内の乱というか伊集院忠真への関与は実際の証拠が出てきたから
清正の惣無事令違反にも繋がりかねないのだから領国謹慎は穏便な処置なほうだと思う 家康暗殺計画にせよ庄内の乱にせよそこにある清正の姿勢は反家康で一貫してる。要は家康が公儀面してるのが気に食わないって話。どう見ても家康を支持していたとはいえん 庄内の乱への介入が反家康っていうのは初耳だw
また売れないなろう小説家が出てきたのか 庄内の乱は家康の仲裁が入ってるのに家康の意向を仰がずに介入して私は家康さまの味方?
そんなアホこの世にいるの? 「北政所は秀吉の愛妾」という認知のやつだからしょうがないよ
何かを学ぶことなんてない
ほっとけ >>613
庄内の乱は豊臣体制への反乱でもあるから加藤清正がやったことは反豊臣と見られてもしかたがない
清正は庄内の乱の時点では豊臣家を見限ってたといってもいいくらいだ 庄内の乱は勃発当初から清正が伊集院方に関与していたことを島津は言及してるからな
(慶長4年)4月14日付島津忠恒宛義弘書状
「就中庄内之儀未相済之由候間、御才覚之儀不及申候、源次郎(伊集院忠真)弟共之儀も、弥加主へ在之由きこえ候」
8月6日付伊集院忠真宛義弘書状でも、忠棟成敗の時子供たちはお咎めなしと言ったのに清正を頼って逆心を企てたと義弘は非難している
暗殺計画に関与していたってのは所詮市井の噂であって、謹慎は庄内の乱に関連したものと見るのが自然だね 秀吉が惣無事令を出して以来紛争を裁くのは公儀のみで自力救済は一切禁止されてる。家康が庄内の乱を仲裁したのも公儀の役目。ところが清正は何をとち狂ったのかこれを無視した。つまり「家康は公儀じゃない」と喧嘩売ったことになる
時期的に見て「利長が家康を暗殺、挙兵。清正は乗じて九州で騒動を起こし利長を支援」という一大計画でも不思議じゃない最悪のタイミング。反家康同盟の計画でないなら途方も無く頭の悪い男だったんだろ 看羊録って、幽閉されてた人がいろいろ聞いた話をまとめたものとしては面白いけど、祖国を蹂躙された恨みの主観が入り込みすぎで、それだけで当時の証拠とするには危険があるよな。 実は看羊録は割と重要な書籍で興味深い事にそれなりに平等な記載をしてる。ある意味では宣教師の記録よりも平等であるかもしれない。著者姜は割と自由に行動していて自由過ぎて身柄を拘束されてる(禁止されてる明軍兵士と接触しようとしたらしい)ほどにヤバい人間だが外交官兼スパイなので仕方ないのかもしれない
例えば彼は秀吉を「敵を倒しても降伏したらこれを許す」といった人物と記録してる。フロイスよりはマシなんじゃなかろうか。尤も朝鮮は秀吉に降伏しなかったので無駄な情報にはなったが 清正は関ヶ原後も国境で島津挑発して手を出させて島津征伐誘発させようとした島津ブッ潰したいマンだからな。
家康に怒られたけどあまり懲りてはいない >>618
同意
当時の巷間での風聞を知る上では貴重な史料だとは思うけど、他の史料で裏付け
が取れてない記述については、看羊録の記述単体で根拠とするのは危険だと思うわ >>602
看羊録で輝元がよく描かれてるのは輝元が朝鮮出兵反対派だったこともあるが輝元が百済王の末裔である大内氏と関係ある一族と見られていた事も大きいんだろう。宇喜多秀家も同じく祖先が朝鮮人と描かれてたりする >>623
そんなんだから「清正は親家康!家康の為に関ヶ原を戦った!」とか言っちゃうんだよ >>624
人のせいにしてて草
お前の恥ずかしい書き込みもって来てやったぞw
ほんとこのクソゴミは根性腐りきってんな
622 人間七七四年 sage 2023/06/05(月) 15:02:34.59 ID:VrX+QZIy
城の破却で中立を表明出来るとは思えないし(またその根拠も示されてない)、中立宣言にしては八月二十八日は遅過ぎる
北政所は単なる秀吉の愛妾ではなくて政治家としての側面があった、例えば小西行長の赦免・石田三成襲撃事件解決等でも活躍してる。北政所は淀君と共に東軍に降伏を命令してる
これを「勧告だからセーフ」というのは首肯できない。一私人なら兎も角、豊臣公儀の上位者が言葉がそこまで軽い筈もない。豊臣公儀に仕える者にすればそこに差は無い(そもそも中立なら開城勧告をしてはならない。西軍は豊臣公儀軍なのだから)
北政所は大坂の淀君と交信しているが徳川との交信は見当たらない。これもまた北政所が東軍と西軍どちらを支持していたかを表してるね
内府違いの条々が発布されたら即座に京都新城を破却、宮廷に逃げ込んでいたならまだ中立は主張出来たかもしれないが…
岐阜落城から西軍不利の空気が流れ出した訳で風見鶏的転向と受け取るのが世の常では?
625 人間七七四年 sage 2023/06/05(月) 15:49:12.77 ID:cpqsFzAw
>> 624
何か勘違いしてない?北政所が豊臣とは全く関係ない例えば帝の女房とかなら「勧告」で済むよ?
問題は北政所は秀吉の愛妾でしかも政治運動もしてる政治家であり、そして西軍は豊臣奉行衆が中核の「豊臣公儀軍」なところ。豊臣家の軍隊に降伏するよう豊臣家の女が言って「勧告なんですぅ!」が通ると思う?
当然通らないよね? 家康からすると清正は自分に逆らう危険因子でどっかで処分したかったんだろ。大領与えて失敗したら没収ってのは秀吉もやってる手法だし >>627
君の存在自体がスレがダメになる危険因子だからご自分を処分してほしいね >>629
お前も含めてくだらんレスするやつはまとめていらん >>605
それ、戦国大名としては至極真っ当な行動原理では?
むしろ西軍の他の面々こそ、なんのリスクヘッジもなく博打に出ている無能集団に見える。
ただでさえ最大最強勢力の徳川を敵とするのに、足元にも及ばない輝元ごときによく全賭け出来たよな。
挙げ句、当の輝元は総大将のくせに(結果的には失敗してるが)徳川と繋がっているとか笑い話にもならん。 三成たちは秀吉の絶対権威の下で命令することに慣れきっている
諸大名を海の向こうに行かせて何年も戦わせた経験もある
すぐ近くの関ヶ原ならたとえ秀吉の死後でも命令して戦わせることはできると考えるのは自然なこと
三成たちはリスクヘッジもなく博打に出ているというより
秀吉の権威に慣れきってリスクがあるとさえ思わなかったというのが正確だろう 確かにな、挙兵後の奉行衆はしきりに在国の西国大名に上坂を半ば命じる書状を
送付してるしね。相当過信してたのは事実だろう。 >>631
輝元がバカなのは関ケ原当日に出してる書状でも明らかだけど、三成も大概に酷いんだが……
8月に真田昌幸に宛てた書状。あれ見てると三成も輝元とレベルは変わらないと思う
徳川家康という当時の最大の強敵を相手にしているという危機感がない
「真田さん、貴方は会津や佐竹と一緒に関東に攻め入ってください。袴を履いたまま悠々と関東に乱入できることでしょう」
「内府は佐竹を敵に回して、わずか3万の軍で上洛するでしょう。東海道筋の大名たちは20年来も太閤天下の恩顧を受けているので、わずか1年来の内府に心変わりしたり、秀頼様を粗略にしたりはしないでしょう」
「家康の率いる分別の無い軍勢が上洛をはじめたら、貴殿は会津、佐竹と共に江戸に攻め入って下さい。袴を履いたまま関東へ乱入できるでしょう」
「私は美濃に在陣しています。長束正家は伊勢にいます。こちらは家康程度の者が10人上洛を目指して来ても、ご安心下さい。討ち果たす次第です。早く家康が攻め上ってこないか、とむしろ心待ちにしています」
>>632の言う通り、秀吉の権威になれきって危機感が無かったのかねえ…… 楽観的なこと言って支持集めるのは今でも普通だからなぁ >>635
関ヶ原当日の書状、それほど馬鹿な話かなあ?
大坂城からの視点で見れば、美濃口(大垣)を6万からの兵力で抑えているわけで、
東軍のほうが多いにしてもそう簡単に抜けるような兵力差ではない。
しかも、三成らは知る由もないが、輝元視点では不戦の約束を取り付けているから、
赤坂と大垣で睨み合いの長期戦、いくつかの小競り合いの後に、どちらが有利になるかは別にして和睦、
不利側になっても伏見城や、最悪大坂城の明け渡しで手打ちの構想だろう?
無事に伊勢も抑え、大津城も落城間近(実際1日違いで落ちている)、前田が出張ってくる様子もなし。
これで関ヶ原当日の大惨敗を予想するのは相当難しいかと。 真田昌幸の位置をみてみ?真田領は周囲全部東軍で西軍が東進してくれないと全滅必至。そんな中三成の為に西軍に参加してくれてるんだから精一杯前向きな情報を伝えるしかない >>638
前向きな情報はわかるけど、あんな内容だとカラ元気だと昌幸ならすぐ見抜きそう >>635
>「内府は佐竹を敵に回して、わずか3万の軍で上洛するでしょう。
誤読してるよ
「内府上杉・佐竹敵ニ被任(仕カ)、僅三万之人数を持、分国抱十五城、廿日路被上事成物候哉」
内府は上杉・佐竹を敵に回して、僅か三万の人数で領内の15の城を保持し、且つ20日の路程を上ることなどできるでしょうか
つまり内府は西上できるわけがないと言ってるんだよ 真田昌幸も四方皆敵になるのは承知で西軍に付いたんだから季節の挨拶程度な受け止め方だろう 八月初頭で家康は上洛を急いでない。伏見は完全に見殺し状態。そりゃ予測が当たったと思ってもおかしな話じゃない。ところがどっこいとなったのは八月中旬からだろう 徳川家の中に親豊臣派が居なかったので徳川家の内情を豊臣は知らないし必然家を割る事もできなかった >>644
数正がそっち派ぜんぶ連れてって、
そのあと再編成されたからね 島津の伊集院ほどじゃないとしても前田利政みたいな「なんとなく豊臣重視」的な家臣すらも居ないのはデカい。身中の虫を気にせずに済んだ 井伊直政をそういうポジションにしようとしてたんじゃないかな、とは思ってる
徳川家臣団の中で井伊だけ官位が一段階上になってるし だよね、徳川家臣団のなかで一人だけ公家成大名となり
(他の主だった徳川家臣は一つ下の諸太夫成、前田玄以を除く三成を含む
4奉行も諸太夫成)
1588年の聚楽第行幸で陪臣としては唯一供奉している
ただ井伊が特に親豊臣になった形跡はなく、次男直孝も大坂の陣で山里丸の
淀殿・豊臣秀頼母子に命令とはいえ発砲して自害に追い込むという
役割を果たした。 だよね、徳川家臣団のなかで一人だけ公家成大名となり
(他の主だった徳川家臣は一つ下の諸太夫成、前田玄以を除く三成を含む
4奉行も諸太夫成)
1588年の聚楽第行幸で陪臣としては唯一供奉している
ただ井伊が特に親豊臣になった形跡はなく、次男直孝も大坂の陣で山里丸の
淀殿・豊臣秀頼母子に命令とはいえ発砲して自害に追い込むという
役割を果たした。 むしろ徳川家で唯一の親豊臣派は家康だからな
当初は豊臣政権下で権勢を握る程度しか考えておらず
豊臣に喧嘩を売られるまで別に豊臣政権の打倒自体は考えていなかった
喧嘩を売られた後も豊臣家に気を使って大坂の陣を15年も先延ばしにしていた
これが北条義時だったら淀も秀頼も速攻で島流しだったよ
最大の親豊臣派に喧嘩を売ったら豊臣が存続できないのも当然だろう 大閤殿下、拙者は信長公が亡くなられた頃には、わずか三ケ国しか領しておりませんでした。
しかるに大閤殿下が日本国を統治しはじいめられたころ元の武田領2か国の領有をお許し頂きその後久しからずして、
大閤殿下の無上の恩恵と厚遇によって、その五ヵ国は、関東八ヵ国の所領に替えていただきました。
拙者に対する恩恵は以上に留まらず、絶えずはなはだ多大の贈物を賜りました。
大閤殿下は今後、拙者が生命を抛っても、御子息に対してあらゆる恭順、奉公を尽くすようにと、
拙者ならびに拙者の子孫を解き難い絆で固く結ぼうとなさいます。
拙者は当初、大閤殿下が御意向を示された折、拙者は粉骨砕身、もって秀頼様へ主権の移譲が安泰たるよう、その後見人として励もうと決心しておりましたが、大閤殿下は秀頼様御身、ならびに国家の命運をも拙者の忠誠に委ねられ、また、かたじけなくも大閤殿下の御子息を秀忠の娘に、花婿として下さいます。拙者にとり、これに過ぐる恩恵は、いまだかつてなきところでございます。かくて拙者は、大いなる愛の絆によって大閤殿下に縛られた奴隷にほかなりませず、今後は万難を排し、あらゆる障害を取り除き、もって大閤殿下のご要望なり御命令を達成いたす覚悟でありました
さりながら石田らの謀反によりすべては御破算となり大閤殿下よりお預かりした天下を不本意ながら天下安寧のため拙者がおさめることとなり
一昨年は秀忠に将軍職は譲り申したが大閤殿下の御大恩は海よりも深く山よりも高く、そのことを一時たりとも忘却せぬように大閤殿下より
賜りました白雲の茶壺、三原、正宗の脇差、獅子の笛は常に身近に置き、
間もなく隠居城として移ります駿府城にても一番目に付く御座の間に
置かせていただく所存にございます
秀頼様には終生大坂にて安穏におくらし頂く所存にござりますのでどうかご安堵くださいませ 関が原の新設を検証する笠谷氏の論争関ケ原合戦という本買って来たんだが、
7将襲撃事件は近年では単なる訴訟という説が主流だと思っていたが、
笠谷本では襲撃だったとされてるね
ただこの本は2022年発行なので、その後どう議論されてるかは不明 訴訟説の問題点は三成が大坂から伏見に移動した理由を説明出来ないのと「訴訟だったから襲撃は無かった」とならないということ
というか七将が三成を殺す気でもどうあれ訴訟という形にはする。幾ら七将でも豊臣家奉行を殺したら無事じゃ済まない。だから「三成を訴えようとしたら三成死んじゃったこれは事故」と訴訟に仮託するのは当然で実は訴訟説は襲撃説を否定しない 仮に訴訟なら三成が大坂から移動する理由は無いというかむしろ移動するなって話になるしその後伏見で増田長盛前田玄以諸共立て籠ってるのも危険過ぎる振舞い 三成に限らず奉行連中は物事を誇大に主張してきた前科がある
秀次が鷹狩りをしただけで謀反を企てていると叫んだり
如水が碁をしているだけで簒奪を企てていると叫んだり
そういったことをしてきた奉行連中なら訴訟されただけで襲撃されたと叫ぶのは当然の行為だった
当時の奉行連中の主張というのは全く信用できないものだった >>658
五奉行の任命は98年じゃないの
それ以前に後に五奉行とされる連中が連れ立って行動してたのか?
小説や漫画の話はしないでくれ 秀吉晩年に五奉行として制定されたのは確かにそうなんだけど
元々奉行として公儀の実務にあたっていたからね
人数が5人と決められていた訳ではなく、期間の長短はあるが他に大谷、宮部,富田、小西、石田正澄、
毛利吉成(大坂夏の陣で活躍した毛利勝永の父)片桐貞隆などと一説には福島正則も一時期 なんか奉行の意味をわかってなさそう
豊臣政権での五奉行は全くの別ものだぞ なんか奉行の意味をわかってなさそう
豊臣政権での五奉行は全くの別ものだぞ なんか奉行の意味をわかってなさそう
豊臣政権での五奉行は全くの別ものだぞ なんか奉行の意味をわかってなさそう
豊臣政権での五奉行は全くの別ものだぞ なんか奉行の意味をわかってなさそう
豊臣政権での五奉行は全くの別ものだぞ 個人的な意見になってしまうのだが、秀吉子飼いと言われてる連中って
全般的に『小賢しい』って印象があるんだよな
これを秀吉や家康がやると「これはしょうがないな」とか「さすがは○○殿」みたいになるんだが
こいつらがやると「お前らなにしてんだよ…」って感覚にしかならない
所詮は器の違い、と言われればそれまでだが >>666
いうても毛利輝元の小賢しさに比べたら大したことなくね?
総大将のくせに西軍としての仕事もせずに阿波やら伊予やら豊後やらの火事場泥棒に勤しみ、
8月には既に徳川との内通を開始し、関が原で西軍が負けるやいなや、まだ戦える兵もあるのに、
あろうことが総大将が真っ先に大坂城を差し出して自分だけ生き残りを謀る。
それで2カ国に減らされるんだから小賢しく動いたやつが騙されてザマァって感じ。 >>667
戦後に「今の世は主従がさかさまになっている」とか抜かしてるあたり、全然反省して無いぞ輝元
多分広家の奴が、とか思ってたんじゃないのか? >>665
そもそも五大老五奉行って何を根拠にあのメンバーにしてるんだ?
豊臣政権が出した任命書なんてないし
秀吉の遺言が根拠なのか?
でもあれには「年寄=奉行」と「家康」「利家」の2人だけが抜きんでて扱われてるのがわかるだけだが
大老の他の3人は2人と明らかに差がつけられているし このスレに書状に詳しい人がいるのでお聞きしたいのですが
慶長5年8月17日付吉川広家宛黒田長政書状で、私の間違いで無ければ、長政は広家に対して「貴様次第」と書いてますよね?
これって失礼じゃないんですか?
それとも、広家は長政の無礼を承知で家康と通じていたと見るべきですか? 三成は良くも悪くも放ってはおけない謎の魅力があるな まあ、卜斎記で三成が捕縛されて本多正純の預かりになっていた際に、本多忠勝がわざわざ訪ねて来て挨拶してるくらいだから
何か思うところでもあったのかねえ 以前三成襲撃事件スレで話題になっていたこの毛利輝元書状
厚狭毛利家文書四十六の一部だけど、このねらいたての部分が誰か決着がつかなかったけど
誰だと思う?
候補に挙がってたのは七将、家康、浅野長政
もう一つ議論になっていたのは1599年か1600年かだけど
こちらは1599年が圧倒的だったけど1600年支持者もいた
一、冶少(石田三成)小西(行長)寺沢(広高)より越され候ハ、ねらいたて仕り候者一こう珍事なく、結句手おきたる、今に於いては仕合せに候条、此の方より仕置きされるべく候。左候らハゝ、輝元天馬のことく罷り下り、陣取りあまさきへ持ちつゝけ候様ニと申され候事。
一、面むきハさ様申し候か、彼の衆申し候所ハ、御城ハ彼方衆持ち候と聞へ候。此方衆一切出入りとまり、立ち入らぎるの由ニ候。
一、増右(増田長盛)申される事ニ、とかく冶少か身を引き候ハてハすミ候ましく候と申されたる由ニ候。 >>674
娘婿の真田信之と昵懇だったとされてるので気になったのかも
ただ大津城での福島正則、黒田長政、藤堂高虎との逸話は
この3人はこの頃大坂城接収交渉で摂津の国葛葉にいたので
創作だな、他には前田利長が大津城で対面したのと
細川忠興が梟首されてる三成達の首をお忍びで
見に行ったという記録が前田家と細川家の記録にあったと思う 忠臣だったかどうか確定はしないんじゃね?
鎌倉幕府の北条執権みたいに石田執権政府ができたかも
大簒奪者だよ 家康とかわらん まだ北条執権体制のほうがマシだったかも
どうせ豊臣政権にはほとんど未来はないし
それなら傀儡でも生きていられるなら満足じゃないのか? >>675
多分1599年でしょ
寺沢の名前があるし
家康、あるいは7将の誰かかな? >>677
三成たち奉行連中は10年以上誰よりも政権中枢部で深く活動している
奉行連中が豊臣を守る気に満ち溢れた忠臣だったら
そもそも豊臣が傾かず、家康が権勢を握ること自体がなかった
実際のところ三成たちは豊臣を守ったことなど一度もない
単に奉行に対する批判が高まってクビが危うくなったので
慌てて豊臣を守るとか言い出して地位にしがみつこうとしただけ
奉行連中が口先のパフォーマンスをしているだけというのは
東軍大名はもちろん西軍大名の多くも理解していた
輝元みたいに自分の利益に繋げるために乗っかるふりをしているだけというのが実情だった その意味では、武断派諸将も豊臣を守りはしていないんだよなあ。
結局は豊臣を離れて、一部では裏切り者扱いされているけど、秀吉の子飼いで秀頼に尽くしたと言えるのは片桐且元くらいでは?
流石に大坂退去の流れは片桐且元を責められん。 >>675
当時の奉行と訴訟のシステムがよくわからんが、
訴訟ならば、7将は浅野長政に訴えればそれで済むんじゃない?
それを大坂からふしみまで石田を追いかけ伏見を包囲、
なにかしらの石田への恨みで殺す気満々にしか見えない。
石田に訴えなければならない事由がない限り、
浅野長政に訴えて済む話だと思う。
個人的には石田派と浅野派の主導権争いではないかと思う。 当時の一級資料によると単なる訴訟ですというのが
白峰氏や水野氏の主張で支持者も多いようやね 武装しての訴訟だから強訴だろう
織豊政権になっても室町時代から革命的に物事が変わったわけでもないから そもそも七将事件は多聞院日記で家康が三成、増田、玄以の3人に対して「扱いこれ在る由」とあるから、
軍を用いたのは問題でも訴訟だったのは間違いないのでは? ついこの前信頼していいのかと言っていた「看羊録」からだから信頼性は保証できないけど
「加藤清正ら七将は軍勢を率いて三成を攻めようとしたので、輝元は恵瓊を家康の下に派遣して戦闘回避を申し出た
家康もそれに同意した」とある まあでも著者のカンハンは当時抑留中とはいえ伏見にいて
日本の知識人グループや同じく伏見に抑留されていた
朝鮮人、明人と交流があったからそういう噂でもちきりだったのは
事実だろう
清正が軍勢を率いて伏見に上がってきたのは3月9日と
記述されており、同日吉川広家が三成の要請にこたえた輝元の命令
で西宮まで進軍しており夜までに山崎に到達予定、大坂駐屯部隊
に伏見を最終到達地点として3月9日中に鳥羽まで進軍するように
伝達している。
交渉を有利に運ぶためだろうが3月9日のあつかいが成立しなければ
何かのはずみで軍事衝突の危険性もあった >>675
間違ってるよ
「於于今ハ仕合候条、自此方可被仕懸候」
仕置じゃなく仕掛け
慶長4年閏3月に比定していいと思うけどね
家康と景勝の間で縁談の使者が増田の仲介で調ったとあるけど、白峰氏の主張である慶長5年6月上旬
に縁談の話をしてるのはおかしいし、逼塞中の三成が身を引かなければ済まないというのも変だよね
白峰氏は反家康の決起はこのままでは更に拡大するので身を引かないといけない
としてるけど、この時期三成が決起に向けて何か行動していたとは思えない
ねらいたて仕候者、つまり様子を伺っている者は光成氏の言うように七将と見るのが妥当かと むしろ武力を伴っていたことの方が訴訟か否かよりも問題だと思うが
喧嘩するな勝手に戦うな、なんて戦国期でも(守られないことも多かったにせよ)当然の規範なんだから >>689
てか、この時点で惣無事令破綻してないか? 惣無事令の破綻といわゆる七将襲撃事件はタマゴとニワトリ的なやつよね
宇喜多事件とか庄内の乱とか毛利秀元の継承問題とか越後会津の年貢持ち出しとか
秀吉の重しがとれて国内の問題が一気に表面化しはじめる 上杉の持ち出しで秀吉は何も裁定していない
取次の三成が秀吉に報告しなかったのか、秀吉が不問にしたのか >>691
惣無事は違反したら秀吉が武力で鎮圧するという条件で成立している
秀吉の死後は家康が代わりに武力で鎮圧することにしないと維持できない
だけど三成たちは、家康が代わりに武力で鎮圧するくらいなら
惣無事など消滅して関ヶ原みたいな大乱になった方がマシという思想なのだから
三成たちが秀吉が築いた惣無事を破壊した
当然だが自分たちで惣無事を破壊した以上は
三成たちは自分が武力で討伐されても文句が言えない立場だった >>688お前うるさいわ、俺と電話で直接話するか?
どうせビビって電話できないんだろうけど
090−1969−2145 戦国時代の訴訟ってのは現代の平和的訴訟とは全く違う。「単なる訴訟」ってのは確かだがそれは「三成をぶっ殺して非を論うだけだから訴訟」というだけで七将が穏便に公儀に訴えたと言う事を即座に意味しない 戦国期だって武力を伴わない訴訟は普通に存在したし法令上も社会規範上もそっちのほうが正しい手順と見なされてたわけで
武力を伴う訴訟のことを、「単なる」をわざわざくっ付けて表現するのは不適切としか言いようがない 白峰氏は飛ばし気味の見出しつけるのがどうもね。あと都合の悪い史料は年代変えたりどうにか無視しようとするところ。それ以外は問題提起系の研究者としては非常に有用だけど 研究者って肩書きは、一定の信頼性を担保するけど
なかなかそれだけでは難しいよね。ちゃんと精査して確認しないと。 戦国時代には政敵を殺害含めた実力で降ろすのも訴訟と呼称してるってだけだからね
そも訴訟なら七将は何を訴えたのか、徳川の史料だと三成を切腹させようとしたらしいがこんな要求する奴らが平和的にお願いにくる訳もない 多聞院日記の「取籠」との記述から考えて一定の軍事力を伴っていたと考える方が自然 素朴な疑問なんだが閏3月4日に三成が伏見に移らず
備前島の屋敷にそのままとどまっていたら、あるいは
大坂城内の兄正澄屋敷に移るだけだったら
七将はどうするつもりだったんだ? 閏3月7日付鍋島直茂書状にも「たゝ今も弓鑓取あハせ走あひ候儀、やミ不申候」とあるしな
結果的に武力衝突には至らなかったけど武装はしてるから強訴ということになるだろう >>703
そのまま大坂でぶっ殺して三成の身柄を確保しようとしたら三成死んじゃったと家康に弁解して終わり
大坂って前田利家のテリトリーだからここで捕まったらタダじゃすまん その前田利家は前日の閏3月3日に逝去しているが・・・ 七将は前田派だから大坂なら何しても問題無いって自信があったんだろ 三成はキレると何をするかわからない危険人物であることは七将も認識している
自分が訴えられたと聞いたら三成が激怒して七将を襲撃してくる危険性は十分あるのだから
七将も正当防衛のために武装するのは当然だろう 2000年代に人気を誇った架空歴史小説で石田三成は忠臣、徳川家康は奸臣とする
ものが多くあったけど、そもそも石田三成を忠臣とか言い出したのは誰なんだ?
架空歴史小説でも名があった工藤章興か桐谷作人か? 1701年水戸光圀かなぁ、西山遺事に三成悪(にく)からざるものなり、主人のためにという趣旨でことを行うものは憎んではならないからであるとある、家康の孫でさえ遠回しにでしか忠臣といえない時代だったようで、
少し時代の下った尾張の軍学者の近松茂矩は関ケ原の軍記を著したが三成を忠臣として記したので八方から不審を被った、三成を忠臣ともう巣は水戸光圀公と私一人と自負仕り候と書状に記している
他に江戸時代では国事被問答という書物に秀吉恩顧の武将は多くいたが
三成一人だけが奮然と立って大軍を興したのは忠士というべきだろうといっている 朱子学を取り入れた結果やな
主君を裏切った・下剋上をした者は最大級の悪人扱いやからな >>710
遠回しではなく妥当な評価だと思うが
忠臣とは言えないが憎むほどではないと
関ケ原当時でも石田家をぞんざいには扱ってないし当時の徳川家中では三成はそれなりに評価されてると見ていい
むしろ江戸時代を下るにしたがって徳川体制護持のために三成悪臣説がエスカレートしていく印象
明治政府が徳川幕府を悪し様に言ったのと同じ 歴史をドライに分析するのも必要だけど、小説として着色するのもアリだからね。
芸術ってそういうもんだろ。
もちろん、見る側も理解して楽しんだり、学ぶ必要があるわけで。 歴史に関してこれ以上に簡明な説明を知らない。残念ながら日本の辞書は総じてダメ。
何が言いたいかというと「小説として着色する」のはナシに決まってんだろクソボケということ。
ロングマン現代英英辞典
his‧to‧ry /ˈhɪstəri/ ●●● S2 W1 noun (plural histories)
1 PAST EVENTS [uncountable] all the things that happened in the past, especially the political, social, or economic development of a nation 三成は豊臣を守るふりをする演技が上手い
実際は三成が豊臣を守ったことなど一度もないが
まるで常に豊臣を守り続けようとしたように装い
水戸黄門を始めとした後世の大勢の人間を騙すことに成功した
加藤・福島は三成に比べると戦の才能はあっても演技の才能がなかった
三成ように豊臣守る詐欺を巧みに仕掛けるような技術が欠けていた 三成を悪としたのには二つの方向性がある
一つは家康を正義とした結果で必然的に敗者はあくまでということで三成が悪党になる
二つめは秀吉と関係がある。秀吉の家臣にしろ後世の秀吉ファンにしろ秀吉の過ちは無視するか「佞臣がやった」ことにするのが常。結果秀吉が行った拙い振舞いは全て石田三成の陰謀という事になる 江戸幕府は三成を悪しざまに書いたといわれるが、三成が悪くなりだしたのは皮肉にも
「石田軍記」くらいからじゃなかったか?
あれ、「石田軍記」なんてあるから、石田三成を称賛してるのかと思ったら、三成を
逆に悪しざまに書いててわろたけど 徳川の史料だと家康に助けられたのに何故か恩と思わず刃向かったよく分からん奴という扱いで動機が本当に分からないように書かれてる
むしろ大谷吉継や宇喜多秀家の方が思い当たるところがあったみたいなのが面白い >>711
そうだよ
そんな時代の価値観で変わる忠義だ不忠だというのを現代人が決めつける行為には1ミリも意味はない
ずっとこだわってる人がいるけど不思議でならないよ 家康も元々悪感情は持ってなかったみたいだし結果的に三成に全部押し付けた形になったのをそれなりには気にしてたんだろう 実際秀頼の血が怪しかったのは、秀吉恩顧大名たちのその後の判断に影響は与えてるんじゃないのかな
どうせ太閤様の血じゃないんだろうなとか、大野兄弟と淀は気に入らないよなあとか 三成は自分が戦場に行きたくないときは文官として後方支援係になるが
自分が政権に返り咲く必要に迫られると唐突に歴戦の勇将のように振る舞い
前線にしゃしゃり出て引っ掻き回してくる
三成の都合のいい振る舞いに福島たちが激怒するのも当然だった
ところが三成の都合のいい振る舞いも解釈を変えれば豊臣を守る忠義にされるのだから
福島たちからすればやってられない話となる 予め西軍決起計画を知っていれば上杉佐竹との協働や少なくとも近江への兵站は構築出来たかもしれないがぶっつけ本番の上兵隊の指揮権すら曖昧なんじゃ三成の手腕は云々出来ん。言われるままに戦って妥当に負けたって感じ 兵站は治部ではなく長束、増田などが担当ではないかな
会津陣の兵站を指示した奉行の6月25日書状とか三奉行が味方と認識していて
兵糧の手配指示したた7月25日の長束宛家康書状とか偽書疑惑もあるが
兵糧、金銀などについて相談、要請した9月12日増田宛三成書状などからして >>726
7月25日付長束宛家康書状に関しても白峰氏は内容について疑義を呈してるね
・徳川家臣に宛てた書状ではないので奏者の名前が記されているはずなのにそれがない
・西上する大名と軍役の人数の書立がなく、どの大名にどれだけの扶持米を渡してよいか判断できない
・宛先に増田と玄以の名前がない
確かに「大形八万程之可為積候」だけの指示では分からんわな
本来は別紙に書立があったとかなら分かるけど、それなら「以別紙申入候」とあって然るべきなのにそれもないし 白峰先生の解釈は結論ありきが多くてバイアスかかってることがあるからね
例えば上で話題になっている毛利輝元の書状はどうみても1599年のものを
1600年としてみたり
細川忠興の松井宛7月21日書状で毛利、三成申談、色立(挙兵)候由とあるのを
毛利、石田連合政権樹立で新豊臣公儀としてみたり
8月24日榊原書状に別心の衆(西軍)に天下仕置きができるだろうかとあるのを
毛利、石田連合政権(別心の衆としか書いてないが)が天下仕置きをしているのを榊原も認めていると書いてるし、内府違いの条で大きなダメージを受け
公儀より排除され軍事指揮権を喪失した家康は8月中に軍事行動を停止という事態
を招いた、勝てたのは豊臣家の諸将のお陰で大幅加増せざる負えなく
二重公儀の時代へとつながったなど
多くの新説や新資料を提示など偉大な功績を多々残してることも事実だけど
疑問符のつく点があるのも事実、その7月25日長束宛書状については
8月3日伊達政宗書状の論文に記述されてた筈だけど、この解釈はどうかと思った記憶があるのでこれについては論文読み直して後日レスします >>729
勿論白峰氏の主張することに全て同意できるとは思ってないよ
自分も>>688に書いたけど七将事件に関する毛利輝元書状の年次比定や解釈については同意できないし、あなたが
挙げてる7月21日付松井康之他宛細川忠興書状や8月24日付遠藤慶隆宛榊原康政書状についての解釈も同意しかねる
ただ7月25日付家康書状の疑義に関しては個人的には納得できる指摘だと思う
特に書立がないことについてはあんな曖昧な指示では長束も困るだろう
まあもしかしたらとりあえず大まかに知らせておいて、追々詳細な書立を送る
つもりだったのかもしれないけど、当該書状だけで見るとこの指摘は妥当かと 白峰氏は本城惣右衛門覚書も体系的に研究された方だが、これでも解釈が強引なところがある
とくに「家康を討つために進路変更したと思った」という従来解釈を「家康の援軍のため」だと主張した
フロイスも前者の噂を書き付けてるんだから、そう解釈するのが自然
このスレ絡みだと前にも引用した下記書状
7月27日付け秋田実季宛榊原康政書状抜粋
「然者於上方、石治少、大形少別心仕に付而、大坂より 御袋様(淀殿)ならびに三人之奉行衆、北国羽肥州など早々内府被致上洛尤之由候申来候間」
この書状自体は白峰氏も論文に引用してるんだが、御袋様から家康に上洛を求めたという点はスルー
白峰氏はご案内の通り、論文の本筋でないところでも「これが豊臣公儀、毛利石田政権の証拠」と逐一指摘している
なのであれば、「淀殿の書状は康政の嘘」なりなんなり反論すべきだと思う
まあ輝元が大坂に入城して豊臣公儀となったといいたいんだろうが、それはクーデターだろう
三奉行が輝元に大坂入城を求めた書状は現存しても、淀殿が要求したという書状の痕跡もないんだから 七月十七日時点で三奉行は反家康の立場を明らかにしてる事を考えれば三奉行からの上洛要請は明らかに罠、お袋様つまり淀君もこれに同調してたという話なのでは
単なる時間稼ぎだろうが万が一家康が石田三成と大谷吉継の小規模蜂起程度に捉えたまま上洛すれば西軍の勝利だった訳でこっちも当て込んだのかもしれない >>732
三方ヶ原で信玄に騙されて城から出撃して大敗した家康が、そんな素人じみた真似するわけないでしょ 小規模といっても元々3奉行味方との認識で7月26日までに先手として
出発させただけでも福島、黒田、細川、田中、京極忠知、徳永他で
2万はいたろうからね。
西軍は史実よりも相当早く大軍を濃尾方面に急行でもさせないと
どうにもできんかったろう。 大規模だと判った家康がふええつって江戸に引きこもらないで当初の予定通り先発軍の後付いてきちゃうわけで余計不利になるだけじゃねw その場合家康は三成・吉継併せて二万も無い敵と戦うつもりが進軍したら豊臣・毛利軍数万とぶつかる訳で家康が東海一の弓取でも危険な局面を迎えることになる
逃げ出すしかないけどそうなれば家康は秀頼の旗を見て腰を抜かしたとか宣伝に使えて家康の武威は下がるわな。あそこでしっかり腰を据えて情報収集して適切に判断した家康は流石に凄い 新たに樹立された毛利、石田連合政権の新豊臣公儀軍ということだろ 公儀になるためには戦で実績を上げて朝廷に認可されてと複雑な手続きが必要なのに
自分達の妄想だけで公儀になれると考えてしまったのが奉行連中や毛利の敗因だった >>739
そもそも毛利に豊臣公儀になる気はないだろ。
あくまで自分達の所領の拡大しか狙ってない。
8月(吉川黒田のやりとりを含めるなら7月)には既に徳川と裏交渉やってるような奴らだぞ? >>737
三成は首謀者じゃないって言い張ってるから造語したんだろ
なんせ「北政所は秀吉の愛妾」と繰り返すやつなんだから放置が一番 そういや5月中旬頃の毛利輝元書状で家康が会津も収めたら終わりだ
安国寺も恐らく会津出兵は行われるだろうといってるし
増田長盛は家康に従うといってる、わしはどうすればいいんじゃーというような
どうする輝元といった内容のものがなかったか?
結構重要な内容だと思うが。 742のような小説や大河ドラマがソースのアホは。
出入り禁止にしろや。 >>742
確かその頃に上杉方の誰かが出した書状があったな
それには「毛利殿や宇喜多殿は太閤殿下の代には東国の陣立に参加していないので、今回も参加しないと言われてるそうです」
とあったはず
ただ、この書状は「高麗の兵士が蜂起して対馬、壱岐に乱入した」とか「福島正則が家康に清州城の貸与を拒否した」とか
「家康が三成に佐和山を貸与しようとして手切れになり、三成は普請して籠城した」とか、あり得ないことばかり書いてるけど >>742
萩藩閥閲録所収の5月15日に比定される榎本元吉宛輝元書状だな
その内容だとちょっと意訳し過ぎな気はするけど
「とかく以来一大事候、関東存分成候ハヽ、万心遣まて候」
とにかく以後は一大事である。家康の思い通りになれば(もしくは会津が平定されれば)色々と心配だ
「増右内意ニも、なにと成共内府可被申様可仕之由被申候」
増田の部分は何であっても家康の言う通りに行動するべきだと増田に言われただな
>>745
それは上でも既に挙がってるけど6月10日付来次氏秀書状 >>746
いうてもこの頃の輝元って、家康を父兄と思いうんたらかんたらってので起請文を交わしてるし、
大人しくしときゃ前田のように普通に領国くらい守れたんじゃね?
あるいは領土拡大なら、大坂城を抑える2万はともかく、伊勢に向かわせた毛利勢や水軍衆を九州四国に投入しておけば、
手中にしていた阿波に加え伊予、讃岐、豊後は確実に、上手くすりゃ阿蘇や肥後もいけたろ。
あるいは、家康到着前に関が原に全力投入すれば東軍を各個撃破すら出来た可能性がある。
とにかく何をするにも中途半端。だから中途半端に2カ国残ったのかもしれないが。 でも関ケ原後の国検地で29万石の筈のその2ケ国で
実際は50万石以上あったらしいね、隣国で関が原勝者の
福島正則より多いのはおかしいということで7かけの36万石ということに
なったらしい >>749
あの50万石は何でもかんでも石盛して領民が悲鳴を挙げる酷すぎたもの
幕府がおかしいと調べてわかり、さすがに認めなかったんだよ
輝元の糞ぶりが藩政にも表れた良い例
Enpediaにはこうある
「輝元は2年がかりの厳格な検地を行なって総石高52万石という数を算定するに至る。この52万石とは柿、桑の樹木に至るまで石盛するという酷いもので、家康もさすがにこの数値は認めず7割に当たる36万9000石余を認める朱印を出している」 流石にソースがenpediaではなあ……
enpediaとは
このサイトは、2009年に設立され、この世のあらゆる事柄や言葉について解説する「謎の百科事典もどき」 サイトと主張しており、個人による運営であるといわれている。
この百科事典サイトは他サイトで削除されそうになっている、もしくは削除されてしまった価値ある情報をかき集め、更にウィキペディアでは載せさせてもらえない情報も付加した自由度の高いウィキ百科事典を作ることを目的としている。 あのサイトの関ヶ原
Wikipediaより1次史料使ってるぞ
Wikiよりマシな記事はあるみたいだが >>748
>大坂城を抑える2万
そんなに残ってたんだっけ? 関ヶ原での各地の毛利兵力を計算すると
毛利単独で合計10万を超えるという摩訶不思議な事象が起きるからな 9月12日の増田宛三成書状で松尾山に「中国衆」を入れるように、とあるから、毛利軍が
ある程度はまだいた可能性はある 清正が関ヶ原前に家康に警戒されてたのは薩摩の内乱を裏でこそこそ煽ってたのがバレたからじゃないのか? 清正が反家康同盟の盟主と見做されてたから。清正は長政や正則みたく家康の下についていこうとはしてなかった なおソースは看羊録
清正が細川や伊達らと反家康グループを組織して家康を滅ぼそうとしたとあるけど、そのメンバーに長政も含まれてる模様 第二次世界大戦の時の日本と同じ
舞台が30年前より大きくなったのに、その舞台で動く武将の質はかつての何十分の1になった
家康が勝つのは必然としか言いようがない
毛利輝元や石田三成が家康に勝つなんて家康が急死する以外方法がない
8月の時点で既に保科正光、佐々正孝に「毛利輝元が救援に来ても撃退できます」「程なく吉報が届けられます」と書かれてるし 不思議だねえ
西国勢の方が文禄慶長の役で直前まで実戦経験積んでたはずなんだが >>761
その書状あげるなら保科が味方の気の緩みを指摘している
結果を知ってるから「必然」などという強い言葉使えるだけだ >>760
そりゃ長政も家康暗殺計画に参加していたとして隠居させられとるじゃん 黒田長政といいたかったみたいやね
浅野長政親子も入っているが
黒田は七将騒動後に朝鮮陣の行動については落ち度なしと裁定してもらい
名誉回復してもらった恩義もあるから単なる風説だろうね >>764
上の人が言ってくれてるけど黒田長政ね
あんたは黒田長政を親家康の一人として挙げてるけど、看羊録だと反家康グループのメンバーに黒田長政も含まれてる
要するに当該箇所における看羊録の記述は単なる風聞であって事実とは異なるってこと
あんたは清正を反家康グループの首魁と断じてるけど恐らく風聞でしょ 看羊録で反家康同盟として挙げられてるメンバーで意外な面子は伊達政宗しかいない
残るメンバーは
加藤清正→家康が三成を許した事を憎んだ、家康の公儀制を否定して庄内の乱に介入
宇喜多秀家→宇喜多騒動を家康の陰謀と疑った
前田利長→家康暗殺実行犯が利長の血縁者で無断で帰国するなど挙動不審
浅野長政→前田家と縁が深い上暗殺計画の首謀者と密告される
細川忠興→三成と険悪な仲で前田家と通じている
黒田長政→三成を殺そうとした七将の一人、退去する三成を暗殺しようと加藤清正と共に鉄砲隊で追跡
ここに挙げられているメンバーは3つのグループにカテゴライズ出来る、反三成、反家康、前田閥
当時の政治情勢がいかに緊迫していたかが分かる話ではある。伊達政宗は「あいつはなんかやるぞ」という認識でもあったのだろうか >>754
どう足しても毛利だけで10万にはならなくね?
関ヶ原2万、大坂城2万、大津城1万。
小早川秀包は毛利勢にカウント出来ても、小早川秀秋は既に毛利勢ではないし、
直接の兵ではないが、伊予で敗北した村上・河野勢は4000、豊後で敗北した大友勢は2000。
讃岐・阿波の接収にも数千人動員はしているだろうが、他に万を数える有力な毛利勢力はない。
個人的には、西軍の中で一番マシな動きをしたのが毛利勢(と小早川秀秋)だと思っている。
明確な意図を持って四国や九州を抑えにかかり、劣勢後の出口戦略もきちんと持っていたように見える。
奉行衆や、字喜多や大谷あたりにはそこが垣間見えないのよ。
勝った時、負けた時、いったいどうしたかったのかと。 >>769
毛利家としてみるならば、毛利の動きはマシだったと評価できるかもしれないが、 西軍としてみるならば、毛利、というより輝元の判断が 西軍敗北を招いた。 秀元・吉川の言うように伊勢ではなく美濃か北陸に 主力を差し向けるべきであった。 >>770
というか、そこまで毛利に依存している時点で西軍は端から勝ち目がないよ。
尾張の福島正則を味方にできないどころか、むしろそこが反西軍の急先鋒の時点で詰んでる。
美濃(中山道)を抑えたとしても伊勢(東海道)がガラ空きになるから、結局は美濃と伊勢に分散せざるを得ない。 というか伊勢に向かわせなければ、伊勢は東軍だから、西軍としては直接背後を狙われることになる。
伊勢放置は現代視点で見てもあり得ないと思うよ。 >>765
「名誉回復してもらった恩義」とやらはどんな史料に書いてあるの?
黒田長政が家康の裁定をどう受け取ったかなんて誰にもわからんだろ 一次史料からみえてくるのは
・西軍になにか明確な軍略ははじめにはなかった
・とりあえず瀬田の東岸に防衛線引こう
・すぐ東軍が来襲するかと思っていたら、案外にこないが案外に伏見攻略にまごつく
・緊急会議で各自の方面が決定、主力は伊勢方面
・願望は三河で迎撃、ダメなら美濃
・大津が態度を翻してわちゃわちゃ
・輝元本隊は前線に来てほしかったけど愚痴るだけ(家康本隊もこないんじゃという憶測)
ざっと言えばこんなもんか
当初の方針なら三成は佐和山で腹かっさばくか、佐和山放棄するしかない
東軍は東海道使うと考えていたのかな >>774
実際閏3月19日付蜂須賀家政・黒田長政宛五大老連署状が出された後に黒田と蜂須賀は
名誉回復して復権を果たしてる訳だから、そりゃ普通に考えれば家康に恩義を感じるわな
これで恩義を感じない人間がいるのならアスペとしか思えんね >>775
西軍の主力は西国大名だから大多数の西軍大名には
いざとなったら大坂を捨てて自分の領国に帰る選択肢が常にある
家康が大坂に到着するまでの途上で本拠地が壊滅してしまう西軍大名なんて
三成を始めとしたごく少数に過ぎない
だから大多数の西軍大名にとっては明確な軍略はあえて持たずに
最後の選択肢を残しておくようにした方が都合がいい >>772
伊勢の拠点は桑名。ここが岐阜同様1日で落ちるようでは意味がないが、
桑名を籠城で10日も粘れば畿内と美濃からの兵力で挟撃できる。
そして美濃と決定的に違うのは、
伊勢は渡海しなければいけないと言うこと。
兵站線設定は困難だし、なにより退路は海。
東軍からすれば木曽川渡河の美濃攻撃以上にリスクが高い。
よって西軍からすると東軍の伊勢侵攻は敵主力撃滅のチャンスとなる。
伊勢で重要なのはとにもかくにも桑名の保持。 >>770
北陸に軍を差し向ける?
三成が真田に宛てた書状では越後の堀秀治も西軍の言うことを聞いてるみたいに書いてるから、堀は二股かけていたか
上杉と石田の間で連絡がとれてなかったんじゃないのか?
前田利長も「老母が〜」ということで西軍ともパイプを持ってたみたいだし、二股をかけていた可能性がある 利長って躊躇わずに西軍を攻撃してるしどのみち侵攻しないとマズいだろう。いくら利政が西軍派だからといっても 誰が誰を敵とみなしていたか、を考えると西軍は、より勝ち目がないことに気がつく。
石田三成ら奉行衆は、徳川家康を敵視していて豊臣恩顧を取り込めると考えているけど、
逆に豊臣恩顧、特に武断派は反石田、反奉行衆、豊臣のために奸臣の排除くらいに思っている。
むしろ徳川家康はなんでワシ石田三成らに恨まれた?この間、助けたじゃん?って状況。
そして、小早川秀秋は秀頼誕生以降疎まれた側で、奉行衆が豊臣のためと言うほど西軍から離れる。
なにより西軍総大将の毛利が完全に反豊臣の姿勢を鮮明にした。
四国九州攻めが豊臣秀吉が潰した村上氏、河野氏、大友氏の再興を旗印に行われており、
これを奉行衆が認めた時点で、豊臣のためというお題目は完全に吹き飛んでる。 伊勢を生かすには水軍が無ければ無意味でしょ
特に桑名は水軍か伊勢大湊衆がいないと軍勢の輸送もままならない 信長や秀吉が力づくで天下を奪おうとするのを命がけで阻止しようとした人間は
当然ながらほとんどが信長や秀吉に殺されている
1600年に生き残っている大名というのは、力づくで天下を奪おうとする人間に対して
真剣に抵抗しない・不利を悟るとすぐに諦める大名ばかりだった
家康の天下取りにムキになって抵抗したところで浅井長政や柴田勝家みたいになるだけ
当時の大名なら戦の知識があれば誰でも簡単にわかることだった
だから毛利を始め西軍大名が不利を悟るとすぐに諦める自然な行為だったと言える
三成のように戦に詳しくなく奉行職復帰に執念を燃やしていたのが特殊な例外なだけ むしろ毛利や真田の行動なんか、典型的な戦国大名だよな。
昨日の身内だろうと自分が助かるためには平気で捨てる。
2つの勢力の間を反復横とびするなんて当たり前。 ざっと見たが長文ほど中身が無いのはどこスレも一緒なんだな…
再度読む気もしない(-。-)y-゜゜゜ まったくのスレチだが、ここは史料読める人がごくごく一部いるから紹介
実に興味深い史料が発見された
本能寺の変、織田信長の長男が自害する様子生々しく記す…江戸時代の文書に公家の体験談
ttps://www.yomiuri.co.jp/culture/20240116-OYT1T50135/
この記事では省略されてるが、信忠の訣別の辞は引用の間に「あるましき御ありさまを見まいらつるに、かなしさいかかはせん」とある
記事の引用文に続いて、「みつからとなえられしといひつたえたる」となってる
読み違えてたらすいません 以降も一応翻刻
お目障りならあぼーんしてください
「出御の後ほとなく時(鬨)のこえなときこえておそろしかりしとたひたひ(代々)雅朝王後水尾院の御前にて申致されけるとふるき女中なとききをきしとは知人さへのこらねは、あさましき事なから、かきつけ侍る、あなかしこ、うとき人には見せつるましき事也」 関ヶ原本戦で、「卜斎記」と大田牛一の記録では、大谷吉継は「馬上で腹を切る」とあるんだけど
馬の上で切腹なんてできるのか? 牛一の関ケ原御合戦草紙は戦後早い段階から書き始め、何回か訂正加筆を重ね
1607年までには成立し関係者から聞き取り等もし参戦者がたくさんいた時代
だしあまりデタラメは書けないだろうね(家康も閲覧した記録もあり)
卜斎記も合戦次第は太田和泉守記録にありと信を置いてる。
この記録によると西軍の布陣は日本戦史と共通する部分も比較的あり
(日本戦史に比べると北國街道、中山道の守りを重視、三成本陣は
笹尾山ではなくその麓、島津は後方、大谷、戸田、平塚などは前面に進出し
不破の関からその後方の藤下あたりに布陣と思われる)
恐らくこれをベースにさらに後年成立の江戸時代の諸々の記録も参照しつくられたのが
あの有名な布陣図ではないだろうか。
なのであの布陣図に根拠なしとする新説は疑問 そもそも西軍でも
・松尾山攻めの布陣
・対東軍先手衆の布陣
で判断分かれてたっていうから錯綜は仕方がない >>794
これも追加で
・自陣を守るだけで動く気なし
・機を見て東軍に付く >>793
赤坂以降の太田和泉守記が愛知県史に載ってないのでよくわからんのだけど、
太田和泉守記ってどこかで全文読めます? 全文なら1,明治の写本だけど国立公文書館デジタルアーカイブで関原状で
検索すると無料で読める
2.大阪城天守閣紀要37号、大和文化研究13巻7号の論文で別名の内府公軍記
の名称で全文翻刻収載
合戦当日の模様なら関ケ原合戦資料集(藤井半左衛門、新人物往来社)に
関ケ原御合戦当日記としてほぼ収載だが西軍布陣の部分は未収載、
近世日本国民史11巻に数ページにわたり合戦当日の模様を収載
ウィキに合戦の部分の要約あり 石田三成も真実どこまで権力あったかわからんらしい。少なくとも署名上は増田長盛らの下にいたようだが あなたによさげな五奉行本が出てんね
豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争
出版社 : 柏書房 2022/4/27 256ページ 渡邊大門 2420円
【目次】
第一章 五奉行たちの来歴
第二章 秀吉の天下統一と五奉行
第三章 秀吉死後の情勢と五奉行の成立
第四章 関ヶ原合戦開戦と五奉行
第五章 関ヶ原本戦の激闘
第六章 関ヶ原合戦後の五奉行 大門って研究の能力以上にイメージ悪いね
昔はもう少しまともな印象だったけど >>799
連署の順番は必ずしも序列を正確に表すものではないと思うけどね
同時期に同じメンバーで発給された連署状でも署名の順番が変わってたりするし
(慶長5年)8月2日付真田昌幸宛二大老・四奉行連署状
長束
増田
石田
玄以
輝元
秀家
(慶長5年)8月4日付松井康之宛四奉行連署状
長束
石田
増田
玄以 小早川秀秋が西軍に味方する要素ってどこにあるんだろう?
・1593年に豊臣家を追い出される形で小早川隆景の養子となる
・1595年に秀次に連座として、丹波の領地を改易され所領を失う
・1595年養父小早川隆景に筑前を譲られる
・1597年養父小早川隆景死去(豊臣秀吉による遺領問題介入)
・1597年越前へ転封(減封)させられる。朝鮮での不始末は根拠なし
・筑前の所領は石田三成が代官となり、家臣団を吸収される
・1598年豊臣秀吉死去
・1599年五大老の連名により筑前筑後に復領(奉行の名前はない)
・1600年関ヶ原の戦い
一貫して豊臣家、奉行衆からは酷い仕打ちを受けており、逆に五大老(≒筆頭の徳川)には恩がある。
これでなんで西軍に味方すると思ったし。 小早川秀秋が没年の1602年に北政所に出した書状が4通残っているが
高貴な身分の人に出す場合,あて名は本人宛ではなく側近の者宛とするのが
通例で4通とも北政所側近の御客人宛になっている、
この人物は北政所養女で三成三女辰姫なので名目上のみとはいえ
関が原戦後の秀秋が三成の娘宛に4通書状を送ったことになり
両者の胸中にいかなる思いが去来したか興味深いが
書面は3通が北政所よりの贈り物に対する礼状、1通は北政所への借金依頼で
心情についてはうかがい知ることができない。 >>804
そりゃかつては秀吉の養子で、一時的には世子扱いまでされてた豊臣一門だからな
そもそも奉行衆に「自分たちがこの人から恨みを買ってる」って自覚はないだろ
自分たちの同胞でも平気で恨みを買う奴らだし >>800
大門とかいうコピペ野郎の資料もどきなんかあてにならんよ
渡邊が出した「関ヶ原合戦人名事典」 (東京堂出版。2021年)を見たけど、大半が
Wikipedia日本語版のコピペだった
こんなことして恥ずかしくないのか? 大門くんTwitter xで能登地震は自民党のせいってつぶやいてたな
批判されて垢消して逃亡 >>799
言い方悪いけど所詮使われる立場の奉行の権力なんて
後ろ盾次第でどうにでも変化するでしょ
秀吉という絶対君主がバックにいる時は大きかったし
精々首謀者グループの一味という程度が関の山の関が原時はそうでもなかった >>805
「看羊録」で秀秋について性格は「軽薄で感情の起伏が激しい」とある
また、「元帥となって朝鮮に駐屯したが、賊魁は秀秋が軍律を失うことが多かったので厳しく叱責した」
とあるから、若いゆえに血気盛んで脳筋、知性が乏しい人物というべきじゃないか?
この賊魁は秀吉のことと思うけど、あってる? >>810
三成たち奉行連中は秀頼の近臣というわけではないから
単純に秀頼が成長しただけでは奉行連中は権力を握れない
三成に至っては奉行返り咲きも無理
奉行連中が権勢を握るためには秀頼が幼少のうちに監禁して
秀頼を自分たちの傀儡に仕立てる必要がある 確かに奉行衆の行動や秀吉逝去後の位置づけは気になるところだね
上に上がっている大門著の五奉行研究本をポチって研究してみるか そもそも利家にお任せモードやったから秀吉も細かくは考えれてなかったんだろ
体が衰えると気力も無くなるからな 三成が奉行返り咲きが難しいって言うけどそうとも限らない。三成は家康と遠い親戚関係(三成の長女が嫁いだ山田家は家康と縁戚関係)にあって何の繋がりもない訳じゃないし嫡男重家は家康が烏帽子親って話もあり家康に可愛がられていたという。三成は黙っていても復活の道は幾らでもあるし重家と徳川の姫か結婚なんて話になれば奉行筆頭も夢じゃない。唯一の懸念は仇敵の浅野長政らが家康に従ってることくらいだけど宇都宮みたく改易された訳でもないし >>816
そんな遠すぎる縁戚関係なんかあってなきがごとし 三成長女の嫁いだ山田勝重は後に松平忠輝の家老にまでなってはいるが
忠輝の母の茶阿の局の甥か義理の甥(こちらの方が有力視されている)
というだけだからね。
1600年ころの影響力は低いだろうね。 大垣城から動けなくなったのがよくわからん
西軍が大垣城、東軍が清州城
そこから東軍に一方的に押されて、家康が到着した次の日に決戦
家康抜きでボコボコにされてた なんでだ あの米野合戦直前の8月22日佐々政タカ書状に織田秀信殿は人数が
集まらないようなので攻められたら「五十日」は持たないだろうと
噂されていますと50日でも短期攻略とみられていた岐阜城が米野合戦も併せても
たった2日で陥落してしまったからな
寡兵ということもあり大垣城に逼塞となったのもやむなしだな >>813
淀殿らが周囲にいる限り、肥満無能になるのは避けられなさそうだな秀頼 >>819
赤坂に陣城構築されて大垣だけでの迂闊な手出しができなくなったから。
それだけ。不思議でもなんでもない。 いやいや、岐阜口にて不覚をとり赤坂に敵勢押詰め候ども
某も大柿に馳せ参じ、3日前に伊勢口よりも中国衆、土佐衆、長大陣、秀頼様弓鉄砲衆
陣取りし赤坂之敵陣へ諸口より取寄候故、敵うろたへ候てはやくも
敗軍の体と相見へ候、三日か五日の内に吉報をお届けできると
存ずるゆえご安心下され
此度太閤様の置目に背いた内府の先手衆を誅罰するはてんのあたゆる所、
赤坂の敵勢一人殘らず討果すは眼前之事と存ずる
関東之家康領内諸所へ景勝進撃し関八州は正体なくみたれたる由景勝より
度々注進もあり内府上洛は困難と存ずる
家康うろたえのあまり西上の際は先手衆に続き1人残らず打果す所存
天下平均も間もなくのこと存ずる 三成らの挙兵が無ければ家康は豊臣の忠臣として生涯を終えたのだろうか 豊臣政権が実質崩壊状態だから、家康が取らなければ別の誰かが天下とっただけのような
荒療治しないと、また戦国乱世に逆戻り 秀頼が空気読めない暴君というかボンボンだから厳しい
以前も言われてたが徳川家は天皇家に対する藤原家でもいいんだが 秀吉に奪われた瀬戸内海・越後を取り戻したい輝元・景勝がいる限りどこかで大乱になる
その前に家康が天下とれるなって思ってもアウト
詰んでるのよね豊臣家 そもそも誰も豊臣家のことなんか考えてないでしょ
石田三成の7月21日付の書状で見たらわかるけど「長岡越中の糞野郎は国乱を招いた本人」とあるし、家康を「彼の仁」と書いてることから
家康と忠興に対する個人的な怨恨が明らかな動機でしょ
司馬遼太郎は三成を忠臣と書いてるけど、こいつは書状を見たりはしなかったのかな? 上手く?を付くのが仕事の小説家に何言ってんのかな。 家康が来る前からボコボコにされててさあ、
家康が3万の大軍つれて来たんでしょ?
もう大垣城でちゃだめじゃん やられるだけじゃん
なんで出たのよ 後世の講談師と小説家のためには野戦をしてくれてよかったな
城に籠ったまま大坂の連中に見捨てられ降伏みたいな展開だとどうなったやら 撤退戦のために大垣から出た説とかあったなぁ
関ヶ原も決戦ではなく、東軍による追撃戦に過ぎなかった、みたいな >>827
伊達政宗が今井宗薫に送った
秀頼処遇ついて所見述べた有名な書状あるけど
秀頼を江戸の家康の手元で育てて
成人したあと取り立ててるのが
豊臣家存続させるのに一番ベターかな
秀頼を大阪から切り離せとか
実際には難しい・無理な問題もあるけど >>835
時系列と配置だけから考えると、まごうことなき撤退戦であり、追撃戦なんだよなあ。 松尾山って一説にはかなり補強されたしろだったというしそこに小早川が万軍クラスでご入場とか西軍にとって死刑宣告なんだよなぁ
かといって先に東軍に仕掛けるのも難しい そうだよね、元々中山道の補給線とその先の佐和山城を死守の為に
三成が佐和山城に戻り中山道の守りで山中方面に大谷、戸田、平塚、脇坂、小川
を急遽呼び寄せ、南宮山方面に大軍を配置したのも大垣城の後詰の他に
垂井・青野ヶ原まで進出している東軍に関が原を突破されるのをけん制するため
だろうからね。
絶対防衛ラインに配置されている山中の大谷勢を守るためにも出陣するしか
なかったのだろう >>840
そのための出陣だとしたら、出陣の仕方、布陣が最悪じゃないか?
普通に考えて、南宮山勢を前進させておかないと牽制にすらならないのに、それ以前に一切の連絡を入れていない。
しかもその状態で大垣城を焼いて出ていく。なんで東軍側に対して「合図」を送るんだよ?
関ヶ原では東軍が来たら隘路で防いで時間が稼げる位置に誰も布陣していないし、
松尾山に対しても短期で攻め上がるような布陣ではない。
大垣城残留組と南宮山を捨て石にして逃走をはじめて、大谷らには小早川の攻撃を防がせるつもりが、
東軍は追いつくのが速いし(城焼けば当然だろ……)松尾山は止めるどころかむしろ寝返りが相次いで逃走すら叶わなかったってのが実態。 9月17日石川、彦坂書状には確かに関が原転戦に際し大垣城の外郭を焼き払いと
あるが両人はこの時清須城にいて9月17日には佐和山に来ていたという流れのため
実際に見たわけではなく味方からの伝聞情報であることと、隠密行動が必要な時に
わざわざ転戦を示唆するような事をするとは思えず、他に9月14日に外郭を
焼き払ったという史料がなく、参戦した島津義弘家臣の帖佐宗光の覚書には
大垣城ではこの際切った火縄に火を付けて竹に挟んだものを数多く立てて
多人数の兵が残っているよう擬装したとあり,この火を日没後の遠目に
見誤ったものか、翌日敵中突破した島津軍は又本之大柿之城江御籠可被成と御意に而候付、大柿を差て御出被成候處、
南宮と申所より大柿を見申候へは、本丸に火掛り候而落城而候付、御籠被成候事不罷成候と参戦者の覚書(~戸五兵衞覺書木脇休做仂之次第)
にとあるように最初大垣籠城を目指したが南宮山方面から大垣城の本丸の火が見えて
落城と判断し断念したらしいので、この時実際は落城していないが本丸と思われた
火は籠城に備え実際は外郭を焼き払う火だったのではないだろうか
だとすれば半日程のズレはあるが9月15日の外郭焼き払いが西軍転戦時の時から
と誤って伝わったのではないだろうか。 ゴミストーカ−爺 おまえの人生めちゃくちゃに壊すぞ 20年つぶれた 俺もまともに育ったわけじゃあないからな めっぽうタフだぞ 凄惨にやり返す >>843
>又本之ことく大柿へ御籠可被成候との御意ニ而~
細かいことだが当該部分は「神戸五兵衛覚書」の中の「井尻弥五助奉公之次第」にある記述で「木脇休作殿働之次第」ではない 大垣城を焼いたのではなく、外曲輪を焼き払ったとある。
外曲輪とは宇喜多等兵が多すぎて城に入らないので
城の外側に野戦築城で急造したものだと推測する。
これを焼いたところで大垣城の防御が落ちるわけではないが、
わたしは以前にも指摘したけど、天候小雨の状況で燃えるのかなと。
それと9月15日に水野が大垣に攻め寄せて二ノ丸まで?進入したとかあったので、その時焼けたものが
本丸が焼けたように見えたのではないだろうか? 15日説は別の議論として置いておくとして、外曲輪を焼く時点で字喜多勢は大垣城には戻らないし、
南宮山勢を代わりに入れることもしないということだから結局は撤退との結論になるのでは? >>843
なんだこの読みにくいクソ長文バカは、史料もマトモに引用できないようだし
必死に背伸びしているド素人の知ったかバカ丸出し
こういう程度の低いのは出入り禁止にしろ 素人だから教えてほしい
近年の関ヶ原研究史読むと
参謀本部編の日本戦史を基にした通説を
1次資料から検証して批判され気味だけど
今より資料手に入りにくい
当時としては最先端の研究結果だと思っていいのかな? >>841
そりゃそうなんだがそもそも大垣衆と南宮山は指揮系統が違うから前進させる事がまず出来ない
だからまずは相談してそこから戦略を決めないといけないんだがそんな余裕は無い。即決でどうにかするしかない状況で大垣衆としてはベストな選択をしたと言える >>851
いや、形としては後詰決戦の形なのだから、指揮系統違うから相談すらしないとかあり得んよ。
もっと言うなら、吉川やその後方の毛利はともかく、前方にいた安国寺恵瓊は同じ指揮系統だ。 >>850
そりゃもう当時は最先端だし当時としてはよくできてる。
問題なのは明治26年に書かれた物が更新されずについ最近まで最も権威のある第一級史料として扱われたことだけ
戦後日本じゃ軍事は学問どころか忌避されるものになっちゃったからしょうがないけど。今でも戦国研究者は軍事オンチばかりだから根深い。 これまでの通説がヤバすぎただけやろ
小早川の松尾山占拠を見てのあの布陣は流石にやべぇ >>854
いや、むしろあの布陣なら、元々小早川が西軍であると考えないと、おかしいのよ。
小早川が東軍の認識であの布陣を見れば、軍人ほど「西軍は何故自滅しに行ってるんだ?」と思う。
隘路の出口で東軍を待ち構えていたものの、小早川秀秋が後ろから裏切ったと考えるほうがよほど自然。 松尾山ってあの時点では西軍の伊藤がいて、小早川が追い出したって聞いた事あるんだけど
その辺の当時の記録ってどうなってるんだ?
これが正しいのなら、小早川は西軍の制御下とは思えんが >>856
小早川が松尾山に布陣してたことを直接示す一次史料はないね
なので伊藤盛正を追い出したというのも一次史料では確認できない
伊藤を追い出して布陣したと記述があるのは寛永諸家系図伝
9月12日付増田宛三成書状で伊藤に関する記述が確認できるが、伊藤の人質が大垣城にいることや、伊藤は若輩
だから家中の者が何を企むか分からんと三成が警戒してる様子が伺えるが、伊藤がどこにいたかの記述はない
まあ伊藤を追い出して布陣した件の真偽は別にしても、小早川が松尾山
近辺にいたのは史料読む限り整合性は取れてるし間違いないと思うけど まず大垣城から打って出たのは小早川秀秋に松尾山を取られた事を受けての対処とみて間違いない
仮に大垣から撤退する為なら東軍に捕捉されてる訳ないしまた松尾山が東軍でも殿に囲ませて強行突破してるはず。それをせず山中で布陣を敷いていた訳でそれは決戦を志向した結果
決戦を志向しながら大垣城を出たのは戦術というより火急の理由。吉川家文書には大垣城で徳川と戦うと決めていたのに大垣城から出撃されて動揺した云々とある。これから大垣城は事前の作戦を放棄してでも山中に向かわねばならなかったと推測される。その理由が秀秋の松尾山占拠というのは筋は通ってる >>852
西軍が負けた理由でもあるんだけど西軍は実は指揮系統が二つある。一つは豊臣軍系、そしてそれ以外の諸大名軍系になる
石田三成は確かに豊臣家奉行で豊臣軍に属してる
だけどだからそれで諸大名軍にまで軍事指揮権があるのか?というとおそらく無い。そうした動きは見られてない
だから三成や大谷吉継、宇喜多秀家ですら南宮山に命令は出来ない。南宮山の主力は安国寺恵瓊・吉川広家・毛利秀元ら毛利軍で指揮権は毛利輝元にある。それを如何に豊臣秀頼配下とはいえ輝元の頭ごなしに命令なんて出来る訳もない
手続としては三つ、一つは南宮山に使者を送って自分達の考えを述べて相談する。二つは大坂に使者を送って輝元に自分達の考えに同意して貰ってそれを南宮山に示す。三つは秀頼から輝元に軍事指揮権の譲渡を命令させるか 関ヶ原関係なけど
去年の大河に合わせて出版された家康関連の歴史新書読むと
同盟国(信長や信雄・北条)に対する家康の対応見て
やはり本質的には律儀な人なんじゃないかと思えてきた
それだけに輝元に対する本領安堵の
反故は厳しかったな 寛永諸家系図伝の黒田長政之項には筑前中納言(秀秋)は始めより
松尾山にありとあるね。
平岡頼勝の項には秀秋、三成と約して美濃国松尾の城に立て籠るとある
1641年から1643年に家光の命で諸大名に記録覚書等提出させ編纂された史料
だけど稲葉正成の様に徳川家への忠誠、貢献を強調するものでなく
別の家からの提出史料が秀秋松尾山に布陣という同一内容を記している以上
ある程度の信憑性は認めてもよいのではないだろうか >>861
それだと色々とおかしくならないか?
大垣城だって詰めてる兵の多くはあなたの言う「諸大名系」だから指揮権がないことになるし、
南宮山勢も長束正家は奉行そのものだし安国寺恵瓊は秀吉近習の豊臣大名だから、「豊臣軍系」に対する指揮権があることになる。
ましてや安国寺恵瓊や長束正家の軍は吉川や毛利より前面に展開して妨害されることもないのに。
穿った見方をすれば、石田三成が苅田の件ですら意見の合わなかった長束や安国寺を、無視して行動しようとした、とも取れる。 >>864
石田三成と大谷吉継はどちらとも豊臣軍系に属してるし宇喜多秀家は秀吉の息子、豊臣軍系にあたる。とはいえ指揮権なんて実質的にはどうでもよく大垣城で相談して決めたんだろう
じゃあ南宮山は?というと毛利軍に命令は出来ない。毛利軍系に当たらないのは長束軍、長宗我部軍、豊臣家弓鉄炮隊だけなんだから数が少なく過ぎる 一報を入れるべきだったというのは一考に値するが状況からみて適切かはわからない
松尾山の小早川をどうにかしないと詰みなのは明らかだからなんとかするとして大垣が行くか南宮山が行くかの択一。ただここからの戦略はかなり難しい。そもそも南宮山の毛利がどう判断するか次第で時間を掛けたら東軍に包囲されてしまう
どーすりゃいいの?ってなると大垣だけで向かうのがベストではあったんじゃないか >>865
安国寺恵瓊は毛利系ではないぞ?
秀吉に領国を与えられた豊臣系で、この戦いの首謀者の1人だ。
それに長束と安国寺で3300、長宗我部盛親6600を加えるなら、毛利勢抜きでも約1万は決して少なくはない。
(長宗我部盛親は増田長盛が烏帽子親なので奉行に指揮権有り) >>864
9月12日のその書状は偽書じゃないのか?
現在の暦だと10月18日
稲刈りは確か現在の暦でだいたい9月上旬から中旬にやるはず
戦乱で多少遅れていた可能性はあるが、いくらなんでも10月18日でまだ稲刈り
してなかったは少しどうかと思う
それに仮に刈田して、すぐにそれが食糧になるのか?
だいたいの作業で食えるようになるまで5日くらいかかるんじゃないのか?
それに東軍が刈田を放置するとも思えんし、そもそも大垣は西軍の領地なのに味方の領地を刈田するとか正気の沙汰とは思えん 大垣は完全包囲されていたわけではない。
苅田しようと思えばできなくはない。 >>868
苅田がどうこうというより、毛利系と豊臣系どころか、豊臣系、奉行の中でもろくに連携出来ていないと言う話では?
少なくとも個々の情報の精度はともかく、各書状を総合的に見れば、南宮山勢に何の連絡も入れてないのは確実。
どんな言い訳を並べようが、これはありえないほどの失態だよ。 徳川軍迫ってんのに、大垣と南宮山が連携して布陣できないってなると戦以前の問題か そもそも吉川広家が内通しているのを気づけてない秀元って…… >>872
そもそも9月12日の時点で西軍は迫っていることすら気づいていないんですが…… >>870
そういうわけじゃなくて、西軍の所領を刈田してどうすんのよ
伊藤が寝返っても文句言えんぞ 西軍の弱点として指揮系統が分断されてるので基本的に相談して決めないといけない。毛利も長宗我部も大名で独自の指揮系統にあるので豊臣軍だからと命令する事ができなかった
そんで関ヶ原は場所も状況も最悪過ぎた。松尾山を迅速に取り返さないと東軍先手衆が山中を押さえたら死亡確定、相談してる余裕は皆無。だから三成らが南宮山に報告しなかったのは余裕が無いが故の混乱の結果じゃなかろうか >>867
安国寺恵瓊は毛利軍に属する
確かに秀吉の諸大名統制の為に恵瓊は豊臣家から優遇されたけどそれはあくまで恵瓊が毛利家の重鎮だからであってその逆じゃ無い
だから関ヶ原でも恵瓊はあくまで輝元の指揮下にあるし負けたら毛利軍に身柄を拘束されてる >>875
本来の城から蹴り出してるんだから寝返ろうがどうでもいいしそんな事をうだうだ考えている戦況じゃないから ごみ溜めのここに読む価値のある書き込みなんてあるの?
お宅に見極めるだけの鑑定力があるとも思えんが、
あるならレス番上げてみてよ。 今や学者(学者至上主義ではないが目安として)のつぶやきもSNSで読めるから」 >>877
毛利方から安国寺を差し出したという記述は9月30日付石川昭光・義宗宛
伊達政宗書状や10月8日付秋田実季宛最上義光書状に見えるが誤報でしょ
言経卿記の9月23日条に安国寺が寺内で生け捕られたとあり、時慶記の同日条
にも同様の記述があるし徳川方により京都で捕縛されたと見るのが自然 苅田に関しては敵が赤坂・垂井に展開して明らかに大垣城を攻撃する意図がある以上やらない理由は無い。敢えて言えば苅田によって東軍と決戦になると時期尚早とか?
食糧かき集めないと大垣城が囲まれたら大坂からの後詰が来るまで耐えられるかどうか。ただどうしても西軍に戦略思想というかゴールが無いようには見える。おそらく「東軍は徳川軍(家康軍ではない)が来てから大垣を攻める。そこを受け止めて後詰決戦で粉砕して和睦の契機にする」とかなんだろうけど >>882
吉川家文書に関ヶ原後に安国寺がやってきて鎧を脱いで降伏したとある。ここに嘘を書く理由はあんまり無いと思う あの関が原で戦うこと自体が西軍側の負け確定だったんだから、
いっそ大阪に篭って無理にでも豊臣対徳川にしてしまえばよかったのに >>884
9月17日吉川広家書状案のことだと思うけど、史料集が手元にないので原文が
わからないが確か安国寺が南宮山に引き返してきて和談のことを聞き広家に
使者を通して切腹を覚悟(広家に覚悟するようにか安国寺が覚悟したという意味か)
安国寺は軍勢武具なども捨て一僧侶の安国寺に戻り毛利勢より先に落ちる
(と安国寺が言ったのか吉川がすすめたのか)といった内容だったと思う
降伏したという文言はなかったはずで意訳で高橋陽介氏が
関ケ原の合戦はなかったの238ページで安国寺は降伏したと
書いている明らかな誤訳以外に例はないのではないだろうか >>884
降伏?誤読してるよ
南宮山に戻ってきて切腹すると言う安国寺に対して吉川は逃げるよう諭してるんだよ
「安国寺も長大同前ニ中途まてのかれ候つるか、いかゝ被存候哉、自中途被引帰候而、南宮山被罷越候、
然者此和談之由被聞候て、定而腹可被切せ候条、覚悟可仕之由使者にて候条、且而左様有之事にても無之候条、
人数武具なとのけられ候て、しのひ候て出家一分之安国寺にて、先被参可然候ハん由申候て、右之とをりにて候」
安国寺も長束同様に退却したが、どうしたことか途中から引き返し南宮山へやって来た
この度の和談のことを聞き、きっと安国寺は切腹する覚悟だと使者から聞いた。私はその必要
はないので人数や武具を捨て、今は忍んで出家の身として先ずは逃れるのがよいと伝えた >>885
輝元にとって問題なのは徳川と対決すると高確率で毛利本領が攻撃されること。豊臣家が味方になってるところで西軍は負けた訳で秀頼の停戦命令書とかをばら撒いても効果ある訳ない
秀元と広家が結んだ総和談に乗っかって豊臣を売って少しでも本領を取ったほうがマシ 徳川家は一番微妙な立ち位置の結城秀康あたり含めて纏まってるのに
毛利勢はどいつもこいつも日和見焚き付け裏切り単独講和と好き勝手しすぎ
元就じいさんも草葉の陰で泣いてるわ >>887
すまん。どこが「逃げる」に対応してるのだ? そらぁ元就はがっつり自分の息子から家臣を纏めてたけど
テルは違うだろ?毛利では当主として上に立ってるけど爺さまみたいに纏めてる訳でもない
この場に限れば徳川に於ける元就ポジで元就な行動してるのが家康。
でも敵に平伏しても領地減っても家は残したしぶといテルを、元就爺さまは心底からは嗤わないだろう。 >>890
「先被参可然候ハん由申候て」
直訳すれば行くのがよいだけど、ここでは逃げるのがよいと意訳したほうが意味が通りやすいでしょ >>886
なんで毛利決起の全責任を安国寺恵瓊に負わせようとしてる広家が恵瓊を見逃すんだ?という話 >>889
他の西軍の状況を見れば、毛利勢は割とまとまってるほうだよ。
完全に異なる動きをしたのは小早川秀秋と安国寺恵瓊だけど、この2人は血も繋がらぬ独立大名で、「毛利」とは言い難い。 輝元がフラフラしてる印象は拭えない
命がけでやれば家康倒せたはず
そしてその気がなければやるべきじゃなかった
総大将になっておきながら腰が引けるなど匹夫 みんな輝元大好きだな
過去スレ見ても大体輝元も話題が多い そら輝元は主役の一人だし当たり前だろ。逆に増田の話題の無さは異常だと思うがw 輝元が主役の一人なのは確かなんだが
昔は三成に比べて薄かった首魁としての影がどうやら三成同等かそれ以上に濃くなってきてる印象
関ヶ原は三成の挙兵と言うより実は輝元の挙兵だったんじゃないかと >>893
それなら敗戦が決定的になった時点で吉川はすぐ安国寺の身柄拘束すべきだったのに、一旦は逃してやるとか随分余裕あるね
安国寺は毛利の御家存続のためのキーマンなんでしょ?何を差し置いてでも身柄確保しとかなきゃアカンやん
思いがけず安国寺が戻ってきたからいいようなものの、そこでなんで見逃すのかと言われてもね 輝元の行動は昔はただの無能扱いだったけど、流れを追うと色々な見方が出来て面白いんだよな。
最初から西軍(豊臣)は利用するだけで
毛利の権益拡大の動きとしてみれば、詰めは甘いが割と妥当な動きをしている。
その詰めの甘さがまたボンボンっぽくてネタに事欠かないし、
とはいえ毛利の行動を中心軸に見ると奉行衆かいかに滑稽なことやっているかが際立つ。 秀吉の遺言や官位豊臣家との関係等政権内での位置付けから見れば毛利は決して本流ではない
奉行が政権内での地位を望むのならどう考えても秀吉が豊臣家に取り込み本流に据えた家康につくべきだったのに
なぜか秀吉の構想を忌避して政権や秀頼から見たら他人の毛利と一味になった不思議 7月中に清須制圧
これさえできれば西軍につく武将増える 九州征伐までは秀吉も毛利を頼りにしてたし主流派って所もあったが色々あってその立ち位置は徳川に変わっていくんだよな >>899
自分は関ヶ原の首魁は安国寺恵瓊だと思っている。
戦国時代を生き抜いたベテランという意味では、西軍の面子を見た時に徳川家康とタメを張れるのは安国寺恵瓊くらいかと。
毛利輝元も石田三成も大谷吉継も、安国寺恵瓊と比べたらやはり若造。
島津義弘や鍋島直茂は中央政界に疎い。
宇喜多秀家や小早川秀秋、毛利秀元などに至ってはもはや赤子とも呼べる孫世代。
実際問題として、奉行衆と輝元の両方を動かせるのは、毛利の外交僧と秀吉の側近を務めた安国寺恵瓊しかいない。 恵瓊は信長の運命を予測(したと言えるのかどうかわからんが)したからって過大評価されすぎなんだよ
恵瓊が家康とタメなんかはれるわけないでしょ
秀元の処遇問題で本来は守り立てないといけない秀元をあっさり裏切って輝元についてた奴だし >>903
7月中に伏見城を攻めていたのはどこの軍勢でしたか……?
>>901
輝元は完全なる無能でしょ
もし輝元が自領を拡大する気があるなら応仁の乱の時の赤松政則を見習えよ
政則は播磨から山陽方面を山名がいない間にあっさり奪回して山陰まで拡大してるんだけど 恵瓊の関ヶ原後の行動は『卜斎記』にあるけど、
9月16日、毛利秀元と行動を共にした。服装は傘を被って黒い羽織とある 輝元が馬鹿なのは誰が見ても明らか
9月22日付本多忠勝・井伊直政宛毛利輝元書状
「分国相違なしという誓詞を預かって安堵したので、この上は西の丸を明け渡します」
10月初旬
家康「毛利は改易な」
輝元「騙された……」 家康のお墨付貰わずに退城してしまってはな、それでも三成ら処刑の翌日に
豹変することに変わりはなかったかもだが
家康が輝元退城を確認するまで大津にとどまったのは京都、大坂を刺激しない
為というのもあるが自ら大坂近くまで進出すると
家康署名の本領安堵の誓書を求められるのを恐れたんだろうな。 あれだけの大乱起こしておいてお咎め無しの本領安堵になると思う方がそもそもおかしい
騙された騙されたって被害者ヅラする前に己が何やってたのかをまず自覚しろよと
その辺の身の程知らずぶりは後年の大坂の陣の豊臣家に通ずるものがあるな 輝元は冷酷な野心家で自分の為なら部下を鼻紙の様に使い捨てる事も厭わない。それはそれで大将の格ではあるんだが三英傑と違ったのは輝元は自分の身を捨てる事が出来なかった。安国寺恵瓊を捨てる様に自分の命も捨てられたらまた違った結果になったろうけど 冷酷に切り捨てる輝元といえば、イエズス会の記録に関が原戦後
輝元が預かっていたか庇護を求めてきた小西行長の子を殺しその首を
家康に差し出したとあるけど、さすがに単なる風聞で事実じゃないよね? 初耳だが調べたら小西行長の嫡男兵庫頭というのがそれらしい 領土欲しさに反乱起こして最低でも死罪が見えてる場面、売れるものなら何でも売って生き残ろうとしたんだろ。安国寺恵瓊もそうだし小西行長の嫡男だって売ってておかしくない。石田重家が大坂城から逃げ出して家康の前まで行ったのも毛利に捕まったら死とわかってたからかもしれない
後、増田長盛も身柄を拘束されてた疑惑があるんだと ちょっとググってみたらブログだけど小西兵庫頭のことが書かれたのがいくつかあった
敵将の妻子は罪に問わない方針だった家康は首の受け取りを拒否したとか
さらには関ヶ原前兵庫頭とあの信康の孫娘との婚姻話が進められていたのにその兵庫頭を処刑したんだとか
イエズス会の記録にしかないのなら何とも言えないけど保身しか考えず空気読めない輝元ならいかにもありそう 良くも悪くも輝元は典型的戦国大名なんだよな、特に秀吉没後から関ケ原前後の行動は。
対する家康は元々国人大名であり、戦国大名であり、そして前田や奉行らと共に最も典型的織豊系大名でもある。
その分、少なくとも当主になった時から戦国大名なだけの輝元より色々場数を踏んでるから物事を柔軟に対応する。
本来欲した領地を得たくて行動するため策を弄するのと、そんな連中の意図すらも含め対応出来るのでは
自ずと視野や行動の幅は異なるだろう。 >>917
関ヶ原は本当に経験の差だと思う。
弱小時代から豊臣と引き分け、日本一の大大名まで経験した徳川家康。
安芸備後周防長門の4カ国を領する戦国大名からスタートし、豊臣に臣従した毛利輝元。
秀吉死去までは秀吉の部下でしかなかった石田三成等の奉行衆。 毛利家に小早川隆景がいたら、あるいは家康と互角以上にやり合えただろうがな…… 隆景いたらあえて家康とはやりあわないでしょ
やり過ごした方がはるかに良い もし輝元に転生するとするなら82~84年の間が最重要だな
徹底的に秀吉にへつらい律儀者の称号を得て徳川を叩く事に全力を尽くす 小早川隆景はそこまで評価出来ないかな。
宇喜多を切って織田に着くべきとの安国寺恵瓊の献策を却下したのに、
輝元の上洛にも反対して播磨を見殺しにした結果、よりにもよってその宇喜多が織田についてジリ貧という。
豊臣に臣従後も、豊臣政権下で毛利が着実に弱体化をさせられるのを止められていないし、
毛利から小早川に移された所領は隆景がいなくなった途端に没収されるほど軽い扱いをされてる。
というか特に何もしてないのに2度も領地没収を食らった秀秋、どれだけ秀吉に嫌われていたのかと。 >>920
そうだな、隆景なら関ケ原時点での前田ポジを確保して
もう少し史実よりも毛利領を保全する方向にするだろな。
まず徳川とガチ対決なんて流れは意地でもしない。徳川と一緒に豊臣を見切ってしまうだろう。
長期的に豊臣従属が毛利に利益をもたらす訳じゃないしね。まあ徳川従属でも対外交易権益とかは無いけれど。 隆景が生きてたら変な動きしそうになった輝元を折檻して終わり。かなw 小早川隆景の高評価が本当にわからん。
中国大返しのときも含めて、勝負どころを全部日和って衰退を続けてただけじゃん。
そして肩入れした秀吉には乗っ取りがてら秀秋を押し付けられ、小早川領は豊臣家に吸収させられた。
瀬戸内の利権も差し出し、輝元の育成にも失敗し、何も残らない。
なにか少しでも、毛利家のためとは言わず、小早川家のためにですら良いことがあったか? >>925
仮に大返しして、あの当時の毛利の実力でその後何ができるわけ?
信長の侵攻で最早青息吐息だし
秀吉について120万石を維持できただけでももうけものでしょ
北条みたいに道を誤らなかっただけ >>926
別に姫路や京都まで追撃しろとは言わんよ。
明智支持を打ち出して備中を回復する。
それだけで秀吉は十全に動けなくなるし、畿内の混迷は深まる。
別に後知恵でもなんでもなく、むしろ吉川元春等の主張のほうが普通の考え。
隆景の先見の明だったならともかく、結果はどんどん秀吉に削られていったのだから。
結果を出せなかった輝元が無能なのだから、隆景も無能だよ。 ちなみに北条を引き合いに出しているけど、北条が滅亡するまで秀吉を「育てた」のは誰だって話だ。
織田家中が秀吉のものになるまで完全に後方を安泰にし(他の織田重臣は後方に敵を抱えていた)
四国や九州に兵と、何よりも大量の銀を供出して楽に太らせる。
統一がなったら重用されるどころか朝鮮ですり潰させられ、隆景が死んだら即座に筑前没収。
まあ毛利としての話は当主の輝元の責任だから置いておくとしても、小早川家の当主として無能も良いところだろ。
小さくなっても、吉川広家のお陰でも、家だけは残した無能輝元以下だよ。 家臣の嫁を横恋慕して危うく家を潰しかけた馬鹿を助けた馬鹿は誰か知らんのか? >>932
ところが、結果的にその家臣から強奪した嫁だけが嫡子を産んでお家が繋がるのだから世の中はわからないものだよなあ。 ・援軍に来ているのに手も足も出ずに対陣するだけ
・瀬戸内海の補給路が不安定化した
・そもそも度重なる遠征と援軍失敗で国人達の不満が増大している
・輝元→元清宛の書状に現地の苦しい状況が語られてた筈
(武器も飯も碌にない、武器は錆びて〜〜おまけに士気が恐ろしく低いみたいな内容だった)
高松城時の毛利は末期武田に近い状況で追撃なんて不可能 毛利って一応本能寺後に軍事行動はしてるんだけどな
宇喜多と同時期に毛利から織田に鞍替えしていた南条家の城を攻撃して落城させてる
それと毛利家臣の杉原氏が1584年に秀吉に内通の疑いで処刑されてるらしいので
この時点では一応は秀吉(というよりは織田か?)と対立する気はあったようだ 山崎の戦いの時点で柴田勝家は越前に戻ってるし徳川家康も戻ってるから秀吉抜きでも明智はどうしようもない
明智の味方が少なすぎる
関ケ原の西軍は明智に比べればメチャクチャよくやってる そりゃ明智と比べちゃイカンだろ
明智、西軍と違って全然事前根回しの類い全然してねぇんだもん(していたとしても形跡が残ってない)。
事後慌ててしてるけど、案の定ソッポ向かれてしまう訳で。
西軍は毛利らと奉行とは事前それなりにしてるんだからちょっとなぁ、泥縄式だけど。 >>940
泥縄なのは仕方ないだろ、西軍だって家康が大坂を留守にしてくれないと軍事行動できないよ
大っぴらに軍勢集めてるとまず家康がノコノコ上杉征伐に向かってくれないだろうし、
下手に軍勢集めると「じゃまず手持ちの兵力のあるお前らが上杉征伐の先鋒やれ、
何、大坂に異変があってもワシがいるから安心しろ」とか言われる可能性もある まあ明智の場合は根回しなんてしたら信長に密告されるだけだからね
上杉毛利長宗我部は使い物にならないし あちこち攻めて、兵力分散しすぎだよなあ
家康はもう江戸から動けないって思い込んでたのか・・
でも江戸出立から2週間かかったんだから、
来てるのはわかったよねえ >>940
むしろ関ヶ原って、上杉征伐前から含めてめっちゃ資料残ってるよな。
勝者の徳川がずっと安泰で、敗者の毛利も家は残っているからだろうけど。
しかしこれらの文書、特にかなりクリティカルなことが書かれている吉川家文書が出揃ったのっていつなんだろ?
それだけでかつての定説が完全にひっくり返ってる。 そもそも朝鮮出兵で西軍諸大名は疲弊していたのに、そこに関ヶ原なんて無茶すぎる
三成らはやるにしてももう少し時期を考えろよ そゆこと首謀陣の出した勧誘状にもこのまま一人一人やられたら
秀頼様をお支え出来なくなるみたいなことが書かれてるし
安国寺の言う我々(首謀者グループ)が相談し会津が堅固なうちに
挙兵と決した(吉川家文書917号)ということだろな
この文書は翌年以降に書かれたものとはいえこの部分は状況的にも
西軍諸将の出した書状とも整合するし信用してもよさそう >>947
関ヶ原ってのは歴史のIFの回答かもしれないな、とちょっと思った
・朝廷内の実権を握った藤原氏に対して大伴や橘が団結して反抗したら?
・鎌倉幕府の実権を握った北条氏に和田や三浦らが一斉に反抗したら?
その答えが関ヶ原後の家康の対応なのだろう
要は「政権内の最大権力者が政権そのものを見限ってしまう」というものだ
だってこんな面倒事になるのならシンプルに自分がトップの政権作った方が早いもの
豊臣家視点だと下手に反家康派の大同団結などさせずに各個撃破させた方がマシだったね
その方が豊臣の神輿を担ぐ徳川という形で豊臣政権が残った可能性が高い
誰が反家康派をまとめようとしたのか知らんが、余計な事をしてくれたものだ >>950
誰がと言えば安国寺恵瓊一択でしょ。
年齢、経験、奉行衆と毛利双方への発言力、権威。
まあ、奈良時代から続く、「坊主に政治をやらせるとろくな事にならない」のひとつでしょ。 輝元からすると何が何でも瀬戸内海利権を取り戻したい
豊臣からしても家康を排除して豊臣家による支配を取り戻したい
そうした思惑が合致して関ヶ原。家康が大人しく豊臣を守り立てるワケ無いだろってのは当時からしても共通認識だったんだろう 輝元と豊臣家というか奉行が一致してるのは家康を政権から排除したいという点だけだろう
首尾よく家康を排除できたとしても西国に毛利王国を築きたい輝元に奉行がなお同調するかは甚だ疑問
家康の排除といってもどう排除するのかにもよるし政権が安定するどころか新たな火種だらけになりそう 正直西軍の行動って事実上『家康を排除出来るなら豊臣政権が潰れても別にいいし
豊臣家がどうなろうと知ったこっちゃない』ってのとほぼ同義だし
それなら『政権を都合よく改造はするけど、豊臣家を担ぐ気自体はある』徳川の方がマシだ
天下政権を運営するだけの実力は間違いなくあるんだし
奉行?そんな力があるなら毛利の助力なんて頼まないよね、毛利?豊臣を担ぐ気があるとでも? 奉行衆も豊臣家のためなんて微塵も思ってないだろ。
・毛利遺領問題の秀吉の裁定を毛利の嘆願を受けて奉行衆がひっくり返した(毛利を引き込めた理由のひとつ)
・秀吉が封じていた毛利の瀬戸内海での海上軍事行動を許した
・秀吉が意図を持って潰した村上家、河野家、大友家の再興軍を認めた
毛利の叛意はそれまでの扱いからまだ分からんでもないが、奉行衆の豊臣への義理や恩はどこに行った? 奉行衆こそ自分達の利益を追求するなら豊臣公儀の看板が必要なんだよ >>955
三成は真田宛の書状で挙兵の動機を家康と忠興に対する遺恨と書いてる
三奉行は確か7月21日付の別所氏宛書状で、これも忠興に対する遺恨とか書いてたと思う
つまり三成・長盛・玄以・正家の4奉行全員、忠興に対する遺恨が動機になってるんだよ
豊臣のことを考えていたとしたら、まだ大谷吉継くらいでしょ
確か真田宛の書状で動機が「このままでは家康にいいようにされてしまうから関西の侍たちと挙兵する」とかあったはず
秀吉はなぜ大谷を五奉行にしなかったのか 奉行が忠興に遺恨あるって何でだろ
秀吉死後の政局で家康寄りの行動とったからとかかな 史料に準拠して考察してくださるのは非常に良いと思います
7月21日付(細川家の記録では7月17日?)の別所氏宛書状に遺恨という文言はなく
豊臣家蔵入地を何の忠節もなく内府より扶助され会津にも一類上げて従軍など
是非に及ばず候とあり、秀頼公の為に御成敗と秀頼への忠節を求めています
(細川氏居城宮津城攻めのための大義名分を記した軍令状)
三成の忠興に関する記述は徒党の大将となり国を乱した(7月30日真田宛書状)
忠興は大勢の兄弟をことごとく関東にまかりたて、
何の忠節もなく新知召し置かれ候儀、不届き(8月4日松井康之宛4奉行書状)
法度破りの内府と忠興が若輩の秀頼様をたぶらかし新地を申しかすめ、
遺恨深く候(8月5日真田親子宛 8月6日真田昌幸宛書状)
若輩の秀頼様を申しかすめ新地拝領候間,是非なき次第(8月7日佐竹宛)
また森忠政に格別の遺恨として若輩の秀頼様を申しかすめ新地拝領,曲事
(8月6日真田昌幸宛)
三成らにとって家康の法度破り特に内府違いの条にも挙げられている
豊臣蔵入り地を大名に与えることがとくに許しがたかったのでしょう。
ただ、このことは豊臣家への忠誠心の発露ともいえ、上記の書状にも
秀頼への忠節をうたっており豊臣のことを考えていないとはならないかと まあ確かに細川、森は家康が勝手に領地の差配してるな。
毛利は毛利領内の配分でしかないが。 >>961
一番大きいのが抜けてる。小早川秀秋の旧領復帰。
毛利のやつも、毛利領内とは言うが秀吉直々の差配をひっくり返してるんだから相当なものだぞ? 秀頼侯のための御成敗って奉行が決めることなのかな。
言い方変えると、自分たちの思い通りにならないから、軍事クーデターなんて豊臣政権を揺るがすことをおこしながら、その理由付けに使ってるようにしか思えない。
人それぞれの見方があるだろうけど。 奉行って秀吉が生きてた頃から意見を具申し政策に反映させるような立場だったんかね?
例えば秀吉が奉行に相談も諮問も同意も得ずに命令したら猛然と反発したんだろうか
あくまで政策の最終決定権は秀吉にあって奉行はその命令を行政化する手足でしかないってイメージなんだが 確かに気になるところやね、やはり秀吉生前の五奉行についても
研究,解析されてるこの書をポチるしかないか
豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争 渡邊 大門 (著)
【目次】
第一章 五奉行たちの来歴
第二章 秀吉の天下統一と五奉行
第三章 秀吉死後の情勢と五奉行の成立
第四章 関ヶ原合戦開戦と五奉行
第五章 関ヶ原本戦の激闘
第六章 関ヶ原合戦後の五奉行 Wikipedia日本語版の記事をパクってそれを自分が出した事典にして出した渡邊大門
「関ヶ原合戦人名事典」 渡邊大門。東京堂出版。2021年 >>960
7月21日が何の史料に拠るものなのか不明だけど、松井文庫所蔵古文書報告書二に拠ると別所宛三奉行連署状は7月17日付だよ
7月27日付松井・有吉宛清正書状に「則丹後へ遣上使衆への觸状之写進之候」とあり、それがこの
別所宛三奉行連署状に該当するもので、清正がこの写しを入手して松井らに届けたことが分かる 最近の渡邊氏の評判はすこぶる悪いな
10年前はまともな研究者の一角だった気がするがそんなに落ちたのか? 本郷先生によると三成は梶原景時らしい
虎の威を借りる狐タイプ
戦も人間もわかってないと 相当手厳しい
ただ、京極高次の裏切りにカッとなって、
西軍精鋭の宗茂と秀包を送ったのは間違い、というのはどうか
最近の説だと三成に西軍参謀総長として指揮権があったか疑問視
立花宗茂が勝手に仲良しを連れて出陣したのかも 2000年NHK歴史番組によると関ケ原後の大坂城内で秀包、元康も同席の上で
立花宗茂「輝元殿は我等に大津城攻めをお命じになった」
毛利輝元「わしではない三成じゃ」
といってたので三成の命で大津城を攻めたということだろう。 大津城攻め自体は城攻めにしては短期間に終わったから本来は岐阜城攻めに匹敵する大戦果だとは思う
関ケ原本戦が予想外の短期決戦に終わっただけで立花宗茂が大津城に行ったことはおかしな話ではない 関ヶ原後の毛利は「全部三成と安国寺のせい」で生き延びてる為必死だからさもありなん。ただ三成からすると一兵でも多く大垣付近に集めたかったはずで大津攻めの決定には加わってないのではないか 関ケ原関係のスレだと、大津攻めの軍勢を関ケ原に投入すべきだ的な意見がたまに出るが、
いくらなんでも西軍視点でここを無視する事なんて出来ないと思うんだよな
孤立気味とはいえ、南近江が東軍方とか冗談ではない話だ >>977
同意。大垣方面の膠着前提なら戦略予備投入してさっさと大津落とすのは悪くない。
大津攻略後、松尾山奪還に向かうか木之本辺りに布陣して前田の南下阻止するか難しい局面になるが、。
肝心の大垣戦線が崩壊しては意味ないんだけどね。 あと、気になるのは大津攻略指示と南宮山毛利による不戦交渉の関係だね、
大津攻略指示しておいて裏では東軍と不戦交渉?
なんかおかしいような気がする。 不戦は毛利の独断であって西軍全体としての方針ではないからじゃないかな
要するに毛利はまだ西軍に協力しますよっていう西軍へのアピールというかアリバイ作りの為
万が一のことを考えると西国への撤退路を確保しておく必要もあるし 毛利がやったのは東軍とではなく、徳川との不戦交渉。
そして大津は京極の排除と前田への抑えと考えれば別に矛盾してなくないか? >>981
そういうからくりか!
徳川とは不戦するけどそれ以外は攻撃しますと。
なるほどね。
大津が前田への抑えってのは微妙だけど、
まぁ坂本方面から南下しないとは限らないか。
大津で抑えるよりは木之本辺りに布陣して
余呉、賤ヶ岳周辺に砦構築の賤ヶ岳合戦みたいな布陣がいいように思う。
湖西から南下するなら退路断てばいいし。 前田の金沢出陣は9月11日だからねえ関ケ原合戦、
大津開城の9月15日の時点で大垣勢は知らなかっただろうし、
大津攻城軍は同日中に知ったかもしれないと言ったところ。
9月18日まで小松城の丹羽長重と城を囲みつつ和ぼく交渉、同日交渉成立
東軍勝利もこの日に知って行軍し後日大津城で家康と会見、
9月26日上洛という流れ。 そもそも垂井にまで東軍が進出していたのに、大垣にいた西軍はどうやってそこを通過して
山中まで行けたんだろうか?
それとも9月14日までに東軍は垂井からは撤退していたのか? 大垣城から南宮山の南にある道を使ったと思われる。ただしそこは完全に整備された道では無かったので街道を押さえてる東軍に勝てなかった なんかこのスレの住人は玉石混交な気がする
専門家レベルの人数人と新説本を数冊読みこんでいる人もいるが
ドラマ、小説、ゲームの知識がこびりついてる人も少なからず存在する
そこでおすすめなのが一冊で最新研究から正確な関ケ原の全体像を学べる
秀吉の晩年から、五大老五奉行による政権運営時代、
会津征伐、関ヶ原本戦、東北・九州の戦い、家康による戦後処理、
豊臣家滅亡による「関ヶ原体制」の終焉(一六一五年)までの実態を、
良質な一次史料と最新研究を用いて解明。
後世の編纂物などの二次史料に影響されがちな関ヶ原合戦史を訂正し、
今語りうる史実の全体像をつまびらかにする。
という
関ヶ原合戦全史 512ページ 草思社 ¥3,080 税込
同じシリーズで大坂の陣も先日発売されたのでぜひそちらも 最新研究のほうが精度は高いがかならずしも正しいとは限らない
謙虚ライオン ワイは大河ドラマとWikipediaしかかじってないけどそこそこ面白く見てるで 関ヶ原研究は二次史料と俗説のこそげ落としが始まった段階
ある程度の定説が固まるのは次の世代の研究だ 大垣城で籠城すればよかったんじゃねえのか!
そのうち各地の西軍が集まってくるじゃねーか!
そうなりゃ輝元も慌てて出てくるだろ 遅れまいと 東軍が大垣城長囲策でも取って呉れりゃいいが、大垣には抑えの兵をおいて
進軍し南宮山軍を降すか、金吾とともに山中の大谷勢を殲滅して
佐和山に向かうかなど兵力に余裕のできた東軍が中山道や伊勢街道の補給線を
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