石田三成の挙兵 ★7
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>>898
よく使われる文言だし単なる定型文だと思うよ
記事にも「1899年と1916年に東京大史料編纂所が調査したとの記録があるが」
とあるし、ご指摘通り今回原本が再発見されたってことだね >>895
決戦を指向してたという発想がすでに違うんだろな
家康も政治的に孤立したら上洛どころじゃない
各地の家康派は難癖つけて潰して(蜂須賀のように)
自分たちとすり寄ってきた勢力で固めてから関東攻め
東軍先鋒が結束してそうはならなかった
その時点で損切りして生き延びたのが毛利
まだ勝てると踏んだか抵抗して滅んだのが石田 西軍首脳部は豊臣政権から切り離した状態でも家康が権力を持っているという発想がない
家康が奉行と同じように豊臣政権から切り離された状態では無力だと考えていた
三成たちは豊臣政権にどっぷりとつかり過ぎたせいで根本的な現実認識自体ができていない
悪く言えば頭がお花畑のまま突っ走ったのが関ヶ原だった >>902
これ家康自身がそう考えてた節があるから何とも言えんな
関ヶ原前の家康のいわゆる専横と批判される行動って、ほとんどが政権内での
影響力を高めることばかりだからな
つまり、政権の権威を失ったらまずいと他ならぬ家康自身がそう認識していた可能性が高い
勿論、家康が最終的に豊臣をどうするつもりだったかは議論の余地はあるが
少なくとも関ヶ原前の秀吉死亡直後といってもいい段階では、豊臣政権の権威を
むやみやたらに否定するのはデメリットでしかないだろう
だから奉行たちが家康と豊臣を政治的に切り離してしまえば……と考えるのはわからなくもない 豊臣政権から切り離した状態でも家康が権力を持っているというよりかは
西軍が家康を政権から切り離したつもりでもそうは受け取られなかったということでは
その辺の意識は伊奈事件に色濃く現れているんじゃないかと 大垣城って、東軍が垂井と赤坂に来た時点でどう考えても詰んでるよね?
三成はさっさとここを放棄しようとか考えなかったのかな?
あるいは大垣城で後詰決戦をやるつもりだったのか? 権力のない君主を味方にしただけで公儀になれるわけじゃないからな 最大の実力者の留守を狙い帝を取り込んだ平治の乱の源義朝、藤原信頼のように
思った人もいただろうね
ニ大老、三成入れて四奉行なので正当と見た人の方が多いのかもしれないが >>907
義朝と信頼はまだ、上皇と天皇を清盛に奪われたから正当性を失った
つまり、上皇と天皇を有効活用していたという点では三成らに勝る
三成らは秀頼を取り込んだとして、それで何か有効活用していたの?
たとえば、秀頼の花押付きの家康討伐令でも出させるとか
豊臣の金蔵から家康討伐のための金を出させるとか
全く手に入れた玉を有効活用できてないと思うんだけど 秀頼が感状書いて知行と金子下賜してるから豊臣家の蔵は西軍のものとなってたんだろう。ていうか仮に西軍が大坂城を武力制圧したなら豊臣家が蔵を守るなんて出来ない訳で米も金も西軍の思いのままよ。豊臣家が西軍の頭だったらそうはならないけど
増田長盛は徳川に金銀数千枚渡して身の安全と引き換えたって話があるがこれも本当に増田の金か怪しい 豊臣家は家康の会津出兵時には金も米も出したが西軍には出さなかったとも
いわれてるが実際はどうだったのかね
熱心なキリシタンの織田秀信は西軍に加担したころ宣教師に面会しており
イエズス会日本報告集によると豊臣秀頼より軍俵2000石から3000石が与えられ
更に秀頼を訪ねた際に金の延べ板200枚を下賜されそのうち2枚が修道院に送られたとある
国内の記録で上坂が確認できないので信憑性は疑問だけれども そういや増田は何がしたかったんだ
家康に通じる→大金と引き換えに命乞いして助かる→息子が徳川を裏切り豊臣について大坂の陣→戦後自害
こいつ何がしたかったのかよくわからん 増田長盛は七月十二日に徳川家康に書状を送ったけど同日に毛利輝元に上洛要請して十七日には内府違いの条々だから明らかに嘘言ってる。西軍決起を家康に「石田三成と大谷吉継が謀反した」程度の小規模反乱と思わせたかっただけでは
その後長盛から徳川への連絡が無くなってるから割と西軍の為に尽くしたんだろうけど >>907
西軍の方が大老奉行の数が多いっつったって
豊臣家と縁の深い徳川前田浅野抜きでは
御友達内閣やりたいのかなって思われても仕方ないよ 浅野…東軍で江戸城の留守居
増田…大坂に留まり西軍に付きつつ家康へ情報提供
前田…大坂に留まりつつ中立を守る
長束…西軍だが関ヶ原に参戦できず水口城で自刃
三成…関ヶ原で敗北し処刑
五奉行の動きがこれで、特に増田・前田・長束の現役三奉行は毛利輝元に大坂入りを要請しつつ後の動きはバラバラ
しかも毛利配下のはずの宍戸と吉川はといえば、榊原に近江から大坂に転身命令が出た事を報告してる
…これ輝元が行き当たりばったりで挙兵して、それ自体が三奉行も想定外の動きだったんじゃね?
三奉行らが「内府ちがひの条々」の宣言以降で連携取れてないし 9月14日の時点で三成は大垣城から出て松尾山に向かったよね?
その際、福原とか一部の大名を残したけど、まだ大垣が維持できると考えていたのかな?
それとも福原たちは捨て駒で見捨てたの? >>914
最初から毛利の狙いは西国で奉行の動きを利用しているだけ。
なので美濃以遠で家康とガチるつもりがないから、早い段階から落とし所探るために東軍と交渉している。
むしろ着地点も定めずに迷走重ねた奉行は何がしたかったのかと。 大垣城と南宮山で徳川軍を迎え撃つという初期戦略に変更は無い、だとしたらまず松尾山を大垣衆で総攻撃して陥落させる。そうなったら徳川軍は大垣か関ヶ原に来る。それを南宮山で迎え撃つ
松尾山を落としたら大垣衆は取って返して徳川軍の横を突く
こう見ると完璧なプランっぽく見えるかもしれない >>907
奉行は本人たちが政権最高幹部気取りをしているだけのあくまで単なる官僚なので
奉行が何人いようが正当も何もない
大老も例えば宇喜多は、秀吉から「こいつは未熟者なので徳川や前田や毛利の指導を受けること」と言いつける程度なので
宇喜多がいたところで正当も何もない
そもそも秀吉は、家康と利家がいないと豊臣の維持は無理と考えていたので
その他大勢が何人集まっても結局は秀吉が考えている通りに駄目だった どうせ読まんだろうから史料は省くが
西軍の最初の決戦戦略は7月下旬
家康の西上はいまだ聞かないが、大名衆を率いてやってくるだろう
そのときは輝元含めて瀬田(しかも川を背にする背水の陣)で迎え撃つ
淀城の改修も検討されていたようで、だいぶ押し込まれることを想定していた
家康が一ヶ月も動かなかったことはむしろ、西軍にとっては意外だったんだよ
のちの想定正面は浜松ないしは尾張に移り、ぐだぐだして本戦へ
とはいえ、西軍が当初覚悟していた想定よりは戦線を押し出していることが分かる >>919
同意。なぜか瀬田で迎え撃つつもりだったって部分をスルーしてるんだよね。
東西両軍が瀬田で対峙、その間石田は佐和山で籠城態勢、隙あらば瀬田の東軍背後を石田が襲う、
あるいは先に佐和山攻めるようなら佐和山城後詰決戦、
こんなかんじの構想だったんじゃないかと想像する。
ところがいつまで経っても東軍は来ないし伏見も落ちない、
痺れを切らした石田は上方へ、
の流れじゃないかと思う。 >>920
大垣を放棄すれば尾張進出への足掛かりは事実上なくなる。
長島はそう簡単には落ちないから伊勢から行くのは困難だし。 政権から切り離した家康の政治的孤立を狙った上で
挙兵当初と岐阜城攻めの頃じゃ状況が変わってるだけでしょ
家康の政治的な孤立化を前提にしないというのはつまり
伏見で会津征伐を決定したときのままの影響を維持してるってことで
数十万の会津征伐軍がそのまま反転してきたら
瀬田をいくら固めてもハナから勝負にはならない
従わない諸大名が離反して数が減りその対処のために押さえをおきながら進軍する
という想定でないとそもそも挙兵の戦略が成り立たない
家康が江戸から動かなかったのも当てが外れて決戦できなかったというのではなく
政治的な狙いが思ったより効果的で大規模な上洛軍が起こらなかったと理解してたんでしょ
東軍先鋒が岐阜を攻めずに国許に帰ったら実際そうなってた可能性もあるし >>923
時系列確認してる?
7月の話してるんだよ、輝元は秀元・吉川に
伏見攻めではなく瀬田の砦普請を命じてる。
石田も7月末まで佐和山にいる。 西軍の初期戦略が間違ってただけじゃないの
三成が真田昌幸に宛てた備口人数表によれば瀬田の防衛隊は六千九百十人、十分そうに見えて徳川軍とやり合うには少な過ぎる
垂井まで取られた八月末以降に頼るとしても大垣も佐和山もやられるだろうから追い詰められての最終決戦にしか使えん 7月26日付中川秀成宛の三奉行連署状にある記述だな
輝元は瀬田と守山の間に陣取り、東軍がどこから上ってきてもそこに輝元の
人数を差し向け、宇喜多・小早川は醍醐・山科・大津辺りに陣取るとある
日付不明の吉川広家書状(吉川家譜は7月26日付)に瀬田の砦普請のため伏見攻めしていた
中国衆が昨日瀬田へ到着し、それが完成すれば淀辺りにも普請するつもりだとある 西軍が対東軍戦略立てる上で瀬田含めた要塞群が
・佐和山まで取られたとしての最終防衛線
・東軍が遮二無二大坂を目指して来た場合の迎撃拠点
どっちの役割を想定してたのか >>927
伏見の後詰に対しての迎撃線じゃね?
伏見が落ちたあと西軍は東進を始めてるし、織田秀信の西軍入りもあって前線を押し上げた
岐阜城が落ちた後に瀬田まで下がらなかったのは伊勢の西軍本隊が間に合わないし石田隊だけ動いても連携が取れなくなるから >>928
追伸
東軍が佐和山を包囲したら瀬田の部隊を後詰に出せる
だから佐和山が落ちる事を前提にした陣形でもないんじゃね? 瀬田にいた連中って八月二十五日付で大垣に移動してるから大垣が攻められた時の予備兵力としても想定されてたのかもしれない
とはいえ関ヶ原で大垣衆全滅、毛利軍総降伏では瀬田の砦に籠るのは自殺と変わらないので造った意味はあんまり無かった >>925
徳川軍が丸々来るって想定じゃないからだろね
諸大名が味方すると数十万、徳川単独でも関東押さえに秀康置いた史実でさえ東海道中山道合わせたら6-7万
どちらにしても兵力足りない
諸大名が家康に背くものが出てもっと多くの方面を警戒する必要が出たら
上方に突出でから兵力はもっと減ってくる 質問なんだが西軍決起の段階で前田家が西軍に与する(消極的対立)とか考えはなかったんかね? まつを江戸に送ってしまってるやん、
利長もまつ人質に出したから動けない的な言い訳してなかったっけ。
で、利政が大坂の人質が云々言い出して
利長だけで再出陣。
あれ、前田は江戸と大坂両方に人質出してたってことか? 前田利長は妻が大坂、母が江戸にいる。だからかなり曖昧な立場に終始するのではないかって見方はあったらしい。ところが利長はただちに兵を集めて西軍の丹羽氏にぶつけて戦争してる。西軍としては一つ見込みが外れてしまった 弟が西軍についてるからな。きちんと保険は打ってある。 三成はなんだかんだ日本の歴史で負けたとは言え名を残せたが
あおりを食って死んだ多くの人々は気の毒ではあるね。
それは本当に思う。 利政の造反で利長は国許に引き返してるし利政の独断っぽいけどね。それで戦後利政は実質蟄居の身だし 上方にいた利長の母や重臣の人質は5月17日上方を発し6月6日江戸着
その代わりのように上方にいた肥前殿御内(利長正室)と利政は北陸に
返された(浅野幸長書状) >>938
白峰氏は浅野幸長書状にある肥前殿御内加賀殿を利家三女・摩阿姫としてるな 御内は御内儀、御内室を指すので利長正室でいいと思うけどね
秀吉側室の加賀殿は秀吉死後に万里小路充房に嫁いでいるので
会津出兵の際に加賀に返す意味はない
男子が生まれ充房と離別後に金沢に引き取られたのでこのことと混同されているか
充房の前妻も利長正室と同じ織田信長の娘なのでなにか勘違いされてるのではないかと思う 人質云々は措いておくとしても決起段階から前田が参加するなら
格的に当然盟主は前田になるから仮に勝てても前田の天下だし
事前の談合も家中がまとまっていない前田相手にしないといけない
密告されるリスクが増大する割には得る物が少なすぎやしないか 利長はダメでも利政は落とせると踏んでたのかもしれないがその見込みも大外れっていう >>867
秀吉が合議制?何言ってんの?十人衆体制は秀吉死後の成立 だよね家康、利家の双頭体制、あるいは序列3位が徳川秀忠、4位が前田利長
なので徳川、前田の双頭体制 十人衆合議は限りなく黒に近い灰色
秀吉の遺言に「些細は五人の衆に渡した」とあってその同日に十人衆合議制が起請文で確認されてるから
秀吉が最期の最後に家康を政権担当にするのを嫌がったのか、病気でおかしくなってたのか、五奉行がすり替えたのか、もうわからない まあ秀吉は各家に対して、死後に何をされても仕方ない所業をおこなってるからな。
少なくとも徳川、上杉、毛利、織田、長宗我部、島津、佐竹あたりは即座に反旗を翻してもよいだけの仕打ちを受けている。 >>940
普通はそう読むのが自然だよな
摩阿姫のこの時期の動向を加賀藩史料で確認してみたけどよくわからんな 加賀征伐と松の江戸入りって「家康の陰謀」というバイアスで語られるけど
告発者は増田長盛でがっつり奉行案件よね
そりゃ自分を告発した奉行が挙兵したら味方しないだろ >>950
まあ詫び入れ程度で済むとは思えん、最低でも頭丸めて隠居を申し出る位はしないとな
反徳川の意識がある奴の方がこの件に関しては『いらんことしやがって…!』って考えそうだし 加賀征伐は「前田利長無断帰国」「徳川家康暗殺計画」の二つがごっちゃになってるから割と複雑
流れとしては・前田利長、上杉景勝が帰国→重陽の節句で家康大坂へ→家康暗殺計画が露見→堀秀治、石田三成ら前田利長謀反を報告→増田長盛浅野長政謀反を報告
こんな流れ、で問題は家康を暗殺しようとした土方雄久は前田家の親戚(利長・利政の従兄弟)だったからこれがくっ付いて「前田利長は家康を暗殺して領土を拡大するつもりだった」というそれっぽいストーリーが出来てしまった 家康がとてつもない汚い野心家であることを否定しすぎていて草
三成も勿論糞だけど、家康も糞
ただし、家康は勝者、三成は敗者だから歴史の評価が分かれてるだけ
家康は豊臣家を潰した奸臣 前田利長の帰国が問題になったのは前田家の史料にも残ってるから何らかの法的不備があったのは確からしい。佐和山にいた三成が家康にした報告も三成が蟄居同然と考えると利長の帰国で家康暗殺計画ではなかったはず。もしかしたら前田と親しい浅野長政を政治的に追放させて自分が後釜に座ろうとしたのかもしれんけど
問題は増田長盛、こいつがどっちを報告したのかはわからない。家康暗殺計画か無断帰国か >>953
というかあのままなら家康だけではなく、前田、上杉、毛利も豊臣を潰すまでするかはともかく、
豊臣に抑え込まれた勢力圏の再確保に動き始めていたよ。
たまたま徳川が位置的に近い前田が先に屈伏そ、上杉が攻められ、毛利が西国の勢力拡大に向かう順番なだけで、
これが先に毛利が攻められてたら前田や上杉が周辺勢力の切り崩しに動いていただろう。
親族衆を自ら壊滅させ、幼少の子ども一人しかいない豊臣になんの遠慮をする必要がある? 幼い後継者を残して当主が死んだら、普通の戦国武将なら
誰もが脳裏に「下克上の好機!!!」って言葉が浮かぶもんだよな。 >>949
真田昌幸宛の書状を知らんのか?
三成は家康と細川忠興に個人的な怨恨を向けてる
まああの書状だと忠興に対する怨恨が根深いけど
わざわざ「遺恨がある」と書いてるくらいだし
忠興の妻ガラシャを殺したのも、三成の仕業だと思うわ
一次史料ではないけど、ガラシャの侍女だった女性が書いた「霜女覚書」では、三成の軍勢が屋敷を襲撃したと
書いてるし 霜女って覚書は「石田三成は西軍の総大将」と決まった時代に書かれたものだからそこには注意が必要。ただでさえ少ない石田軍が大坂城に行けた筈が無い。おそらくは三奉行の兵がやったんだろう >>958
あの覚書は経験者が書いたもので、成立もそこまで遅く無いはずだが……
一次史料では無いけど、三成が総大将と決まった、というには成立が少し早すぎる
石田が賊将扱いされだしたのは17世紀末からだし 霜女覚書は関ケ原より48年後の1648年2月19日にガラシャの孫、
当時の細川家当主光尚の求めに応じて提出したもので当事者の記録とはいえ
約半世紀も後に書かれたもの
三成を逆徒としたのは1673年武家事紀が初出だが
責任をすべて三成にかぶせるため挙兵の首謀者とするのはこの覚書以前から
行われていた様子で1614年10月13日島津家久書状に先年石田治部少輔が挙兵の節
、当の細川家の1632年忠興書状に三成畢竟不慮を仕出し候(挙兵の事)などの記述がある
なお細川屋敷を囲んだのは治部少輔方の兵とあり三成方の兵という意味で
石田家の兵というわけではないおそらく3奉行の兵と思われる >>960
その二つの書状は知らなかったけど、島津と細川が一次史料で認めてるのは「三成にかぶせる」は難しくないかな……
島津はまだ義弘が生きてるし まあ、秀次事件で身内であろうが意味はなく、更に駒姫の件で人質を出しても意味がないことが明確になった。
この時に主導したのが秀吉の命とは言え奉行衆なわけで。
その奉行衆が細川ガラシャを殺した時点でまたかとなり、西軍に大義なんてものはなくなった。 >>960
大野治房宛島津家久書状案は10月12日付 そもそも論として三成が佐和山から大坂に軍隊派遣して人質をどうこうしてたら豊臣は何してるのって話になる 秀頼を支えるべき親族、藩屏がいないのが本当に痛いな
秀次がいたらこんなこともないだろうに 矢口教授曰く秀次は太閤が命だけは助けるつもりだったのに無実の証明の為に
自害したんだとさ >>966
その説は最近よく聞くけど秀次の周りを粛清したのが説明しきれてないんよな >>966
矢口なんて聞いたことないな
そもそも、秀次が死去する数日前から秀次の家臣を殺し始めてるのに、どうして秀次だけ助けると言えるわけ?
秀次にしても、家臣が次々と殺されて自分だけ生き延びることができるとでも?
武田義信にしても、信玄が義信と和解するつもりだったとされてるけど、飯富・長坂・曽根と旗本80人をぶっ殺されて
残りを全て追放されて、生き延びたか?
そのあたり、矢口とかいう奴は何と言ってるの? 三成が謀反したって噂がたったのは確かだけど大坂で諸将の人質取るのはレベルが違う話
てかいって数千人くらいしか使えん三成にそんなことできてたら豊臣公儀の防衛体制ガバガバ過ぎる >>967
腹切ってもしょうがないくらいの待遇して勝手に死んじゃったつってもなぁという感想しか浮かばない説 根拠は主に2つ
1,7月12日の「秀次高野住山令」秀次を一定期間高野山に住まわせることを
前提に料理人などにも言及しており切腹させる意思なし、刀、脇差ノ携帯禁止は
自殺防止のため、福島正則らの使者は伏見高野山間は130キロ位で
険阻な山道を登ることもあり切腹前日の夜か7月15日当日朝(切腹は午前10時頃)でないと到着しない、
直後に切腹命令に変更された可能性は低いということらしい
7月13日の太閤記切腹命令書は偽書
一、召し使うことのできる者は、侍十人〔この内に〔坊主・台所人(料理人)を含む〕、下人・小者・下男五人を加え、十五人とする。
この他に小者を召し仕うことは一切禁止する。ただし、
出家の身となり袈裟を着ている以上は、
身分の上下にかかわらず、刀・脇差を携帯してはならない。
2,『御湯殿殿上日記』にむしつ(無実)ゆへ、かくの事候のよし申しなり
とあり無実なのでこのようになったとのことで無実の証に
自害したということらしい >>972
では駒姫を含む奥や女中の皆殺しはいったい何?
わざわざ秀次の首を目の前において処刑、どころか遺体を惨たらしく晒して秀次は無実でしたと? そもそもその根拠が脆弱だと言ってるんだがわざわざ提示されてもな… 脆弱でも無根拠というわけではなく誰も論破できてないよね >>975
つまりなんだ?
秀吉は秀次に切腹する必要はないと言いながら、その奥方や女中は会ったこともない側室を含めて皆殺しにしたと?
それが「本当」なら秀吉はとんだサイコパスだわな。
いや、確かにボケてそうなる可能性はあるが、これらに立ち会った奉行衆は素でそれを実行したわけだ。 仮に秀次が失脚してない状態で秀吉死去を迎えてたら、
家康の無断婚姻が発覚した時点で、秀次は厳しい罰を下してただろう。
というより家康は無断婚姻をしてなかった可能性が高い。
なぜ無断婚姻をやったかというと単純に秀頼体制を舐めてたから。
まだ幼い秀頼は家康に強い罰を直接命令出来ないし、生母の淀殿も
所詮は女だから家康に厳しい罰を下すほどの強い発言力は無い。
他の大老や奉行も意見が別れて家康に厳しい罰を下せない事が解ってた。
権力の空白期間は絶対に発生させちゃ駄目だったんだよ。
ルール違反をした家康を罰する事が出来る人がいなかったんだから。 なんかいつも利家の存在が無かった事になってるんよな 秀吉は天下を統一したらさっさと死んだら良かったかもな
あとは秀次が継承するか、鶴松を秀次が補佐して、鶴松が夭折したら秀次が継いで豊臣政権は結構存続したかもしれない
そもそも秀次が無能の根拠が初陣で家康に負けたから、だし >>970
自分の城に他家の軍(毛利)を入れてる時点でガバガバなんだけど…… 毛利軍入城自体は大坂城総守護なんで問題は無い
徳川家康が西ノ丸に入ったのと同じ理由だろうし 今川の寿桂尼みたいに、淀か高台院に秀頼が成人するまで指揮をとらせたら良かったような気がする >>977
無断婚姻は徳川家を守るためのもの
一番の大大名である徳川家を守るためには豊臣政権内でのトップを目指すしかない 福島正則や加藤清正などの豊臣恩顧も当然家康の野望は解ってたはず。
しかし家康は秀吉より二歳だけ年下だから、関ヶ原で勝って徳川の力が増大しても
家康はすぐに死ぬから徳川の力はすぐに弱くなると考えてたんだろう。
だったら今だけ徳川の味方をしておいてウザイ三成達を排除して、
家康死後は徳川から離れれば良いと考えてたんだろう。
家康が自分の年齢を上手く利用したと言える。
家康がもっと若ければ福島や加藤も家康には付かなかった可能性が高い。 西軍が軍事クーデターなんぞ起こさなければ、もう少し豊臣家は実権を失わずに長生きできたと思うけどな。
その後は、秀頼の才覚次第だけど。
豊臣政権に与えるダメージを考えずに、自分たちの実権を握ることを優先した西軍を無条件に豊臣家のために働いたというのは、ちょっと無理なような。 >>979
なにその理想の毛沢東はwあの人も建国宣言直後に死んでりゃ完璧な英雄だったと言われてるし
とはいえ秀次らの能力でその時期に秀吉が亡くなった場合政権保持出来るかは別問題そうな気がするがな
>>985
その時点では奉行は俺たちが政権担当するなら太閤殿下存命時と同じ(秀吉居ないから全然違う)、家康追い出して昔に戻すだけだから無問題!
毛利などは秀吉死んだし仮にも今秀吉の旧体制保持してる家康を追放かよしんば倒せたら、惣無事令なんてウザいのはチャラじゃ
程度の認識だから、豊臣政権の実質崩壊なんてこれっぽっちも考えてないか寧ろ目的なんで仕方ない。
多分秀頼は勿論、淀殿らや片桐など豊臣家内部もそこまでの認識にまだ関ヶ原の時には到ってたかは怪しい。
家康は流石に西軍挙兵時に豊臣体制の崩壊は感付いたろうけど。
>>972
「むしつ」じゃくて「むしち」だろ
そこを無実と訳したこと含めて色々批判されていて矢部からの反論も無いんで現時点では根拠が薄弱すぎる
お前が信じたいなら好きにしろだが、他人にそれを強要されても困りますって話
論破() 矢部本ではむしちになってるので972は単なる誤字
無実の訳で問題なし
ありもしない反論があったように捏造し
具体的な反論は何一つできない987は説得力ゼロ 秀次事件で秀次は無罪
それでその後に秀次の首の目の前で妻子や家臣一族を大虐殺
え…………無罪と違うの? 秀次は武功も多いけど、関東成敗の際に金沢文庫の書籍を聚楽第に移して、それを複製して公家にも配ったりした話がある
どうも、秀吉とは性格が違うから嫌われていたように感じる
秀吉にそもそも文化的な心や教養は無いし
五奉行もどちらかというと文化的な素養があったのは浅野長政くらいだし
そんな秀次を秀吉が助けたりするだろうか? >>989
ほんとそれ。
どんな「作文」よりも「事実(史実)」のほうが重い。
その事実までを否定するなら、妻子家臣の処刑がなかったという証拠か、
秀次だけ無実で他が処刑される罪状の証拠を上げてもらわないと。 秀次は無罪にするつもりだった
秀次が勝手に切腹した
秀次の妻子は、当時の人が言うこともはばかられるほど残虐に殺された
ただ屠られ、無造作に遺体は穴の中に放り込まれた
亡骸を引き取る事すら許されなかった
全員の遺体はその穴の中に入れられて、「秀次悪逆塚」と彫られた石だけが置かれた
世に言う畜生塚
はっきり言って信長の荒木一族の処刑より酷い
荒木一族の場合はまだ明確に謀反を起こして、しかも説得に行った奴らまで逃げ去るという前代未聞の行為をしたからだし
これで秀次を助けるつもりだといわれても……
奉行衆はそもそも何してたの?
こういう秀吉の行為を諫めることこそが側近としての役割のはずだが 奉行の役割は主人の命令を遂行する事で主人に諫言するのは職権を超越しとる 矢部氏の解釈は苦しいと思うぞ
むしち=無実は「不誠実」
不誠実だったから切腹させられました、と読むのが普通だろう >>993
史実かどうかは疑わしいが、信長の奉行の菅屋とか森とか福富とかは諫言したこともあるらしいが
職権を超えてるのか? 当時の秀吉の意に逆らうことは文字通り命がけ
どうしても従えない場合は面従腹背しかない
宗氏の朝鮮への道案内命令や小西、奉行衆の明との講和条件など む‐じつ【無実】
〘名〙 (形動)(古くは「むしつ」)
① 実質がないこと。事実がないこと。また、そのさま。
② 誠実な心がないこと。良い内容がないこと。また、そのさま。
③ 特に、罪に値する事実がないのに罪があるとされること。ぬれぎぬ。えんざい。無失。
※日葡辞書(1603‐04)「ヒトニ muxituo(ムシツヲ) イイ カクル〈訳〉虚偽の証言をする」
む‐じち【無実】
〘名〙 (「むしち」とも) =むじつ(無実)
日葡辞書にも現代と同じ用法の無実の意味もあることはある
ただあれだけの関係者を殺したことは事実だし、それを踏まえて読むならやはり秀次が不誠実故にと読むのが自然だな >>996
いうてもその秀吉の「許さん!死罪!」を遂行するのが奉行衆なのだから、諫言した奉行衆を引っ立てる組織なんてないぞ? なんで?奉行を更迭も処罰できないのか太閤は、怪しからん切腹じゃでおわり レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。