石田三成の挙兵 ★5
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>>245
文句があるなら
ちゃんと反論しなよ
悪口言うとこじゃねーぞ 毛利が大阪城に入り西軍が伏見城を攻撃し始めた時点で豊臣家の天下は終わった
豊臣家を天下人の家から追い落としたのは西軍
空位になった天下人を誰にするか決めたのが所謂関ケ原の戦い どこまでが豊臣公儀?っていう実質的には何の意味もない話もあるけど西軍は豊臣奉行が指導してるんだから西軍と豊臣を切り離すのは難しい。というか豊臣が西軍を主導していないならこのまま西軍が勝っても、反対に東軍が勝っても豊臣家は天下人の位から転がり落ちる。部下に全員裏切られて何もできないような武士に仕える奴は居ないんだし
まぁ現実そうなった訳だからどうしようもないが 反乱を止められず大坂城占拠されてるからどっちみち豊臣の威信は地に堕ちてるが ちゃんとした政府が存在する状態で無理やりクーデターを起こしても
成功はしないし政府が崩壊することもないわけで 毛利が公儀代理、後見なのは明らかなのに何言ってるの?
島津に公儀から弾薬や米をあげると言ってる
つまり豊臣から支給されてる
この時点で間違いなく政権後見は毛利だから
徳川は逆賊 三奉行が公儀かどうかはともかく、毛利を呼んでしまった時点で豊臣政権の威信は地に落ちたことになるからな……
西軍が勝っても毛利のおかげだし、東軍が勝っても徳川のおかげだし。豊臣家は戦乱を治めことが出来なかったことになるし。
家康打倒のためには、純軍事的には毛利の力が必要だったけど、豊臣家の事を考えるなら自分達だけですべきだったんだろうけど、なかなか難しいな。 >>254
豊臣政権側(東軍)から見れば秀頼が逆賊だな 「秀吉は王になり、宰相殿は関白になり、家康は将軍になる」 >>256
逆賊は家康だぞ
まあ、家康の野心を見抜けなかった秀吉の責任でもあるがな
こんな評価がされてるのに、秀頼の後見人に家康を選んだんだから 家康はもちろん東軍諸将も恭順してないのに公儀と言えるのかね
天下の諸侯全てを従わせてこその公儀だろう
情勢として天下が二分されてる以上どちらが公儀とも言えない
Brnng475から見れば西軍に走らなかった東軍諸将も逆賊ということになるわけかな
ていうか逆賊なんて朱子学イデオロギーな用語使ってるとバイアスかかったアレな人にしか見えないな 室町幕府も応仁の乱で外部からの大兵力を抑えられなかったせいで権威が大きく失墜して明応の政変で実質的な終焉を迎えてる
明応の政変での細川勝元が西軍で足利義材が東軍
西軍にしてみれば同じ結果を目論んでたんだろうが結果は真逆になった
関ケ原の戦いは応仁の乱と明応の政変がまとめて起こったようなもの
どちらにしろ権威が失墜した豊臣家の天下は無い >>247
引用した萩藩閥閲録は史料価値が高いんですよ
挨拶しない方が不自然なわけで、そうだったら一次史料に残ったかもしれないね
国司隼人が挨拶のときに同行し、そのまま本丸詰めになったから記録されていたわけで
鞍つきの馬をこのときにもらって、鞍はいまも家にあると証拠を提示している部分もポイント高い
たとえば家康が関ヶ原後に秀頼に挨拶した記事
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/18-1-2/54/0016?m=all&s=0016
大日本史料に依拠すると一次史料には確認できず、卜斎覚書以下の二次史料にしか見えないんだが、これも否定なさるのですか?
輝元のよりはるかに重要な会見のはずなのに、一次史料ってのはそういうもんで、史料批判しつつ二次史料も適宜使っていくしかないんですね
むしろ、挨拶したという二次史料があるのに「一次史料にないー、拒否されたに違いないんだー」という筋立てがまともですか?
白峰氏は一次史料とそれに準ずるものだけで関ヶ原を分析してますが、だからこそ書いていないことには言及しないんですよ
妄想誤読くんも一緒ですが、✕✕がないから○○じゃないとおかしいというのはね、価値のない妄想です 公儀に力が無けりゃただの仲良し倶楽部
太閤の息子ってだけじゃ人は従わないよ >>262
西軍の首謀者が挨拶したと主張したのは
一次史料でなくても信用できるよね
そしてその際に具体的な支持表明や
下賜品による暗黙のそれもなかったことも 同じ萩藩閥閲録でも
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/12/0009?m=all&s=0002&n=20
上記は杉杜伊織(椙杜元縁)の記事
伏見城攻めに関し、「伏見の城御取詰之時、輝元様為(秀頼の)御名代人数三千御付候而、伏見へ出」とある
以下、諸将と「仕寄場」(攻城拠点)を視察して、城に近づいたときに元縁が「手負手柄」を立てたという
本当なら重要な記載だが、その他多くの一次史料にはまったく見えない(帝大もそう指摘している)輝元の御名代としての視察を信じるべきか信じるべきでないか
総大将の軍事動静が記載から漏れるとは考えにくい
元縁が負傷する手柄はあったのかもしれないけれども、輝元前線視察については誤伝と考えるのが筋でしょう
二次史料だって重要な史料なんですよ
対して一次史料にも事実誤認や誤記載、場合によっては嘘がある
一次史料を盲信するなら、秀吉が清秀に与えた書状に基づき、本能寺で信長親子は逃げ延びたこととなってしまう
>>264
そうなりますよね
小早川秀秋宛て黒田、浅野書状には「政所様へ相つづき御馳走不申候ては、不叶両人に候間、如此候」とあることからも、北政所については西軍を支持していないのは明白
一部外形的には「豊臣vs徳川」になってしまっただけで
身柄取られてるんだから仕方ないですよ 家康は慶長5年7月15日から9月27日までは反逆者
秀頼と和睦して公儀に復帰しただけ 萩藩閥閲録に収録されてる感状類の中には怪しいものもありそれは研究者も指摘してるが、書状に関しては一次史料と見て間違いない
実際閥閲録に収録されてる書状写しでも原本が現存してるものも数多くある
原本の破損が激しく不読部分があるものなんかは閥閲録から補ってるものあるしね
閥閲録内の書付の信憑性に関しては記事の内容によるだろうな
ただ二次史料だからと言ってそれだけで全く顧みないのは違うな 家康が豊臣公儀から追放された事を重く受け止め過ぎ
公儀に追放されたところで実力があれば逆に粉砕出来る、というかそれをやってきたのが下剋上の戦国時代なんだから
豊臣家としては自分達を侵食してた徳川を削りたくて毛利に乗ったんだろうが予想以上に家康が強かっただけ
それは簒奪でも掠奪でもなく、自業自得 >>262
第一段落は、お前がそう思いたいなら敢えて否定しないよ同意もしないけど
第二段落は、卜斎記の記載から家康が秀頼に挨拶したとは断定できんよ当然
ただ、もし挨拶しなかったんなら西軍側がその非礼を諸大名に喧伝しないのはおかしいとは思う
あと、「輝元のよりはるかに重要な会見のはずなのに」というお前の感想にも同意しない
家康よりずっと立場が弱い輝元にとって、秀頼や淀から自身の行動を承認してもらうことはより重要だったろうと思う
ついでに「使っていく『しかない』」というのは理解できん。一次史料に見られない記述を真だとする『しかない』とお前が思う理由はなんだ?
三段落目は、俺は閥閲録を「使っていくしかない」とは思わないというだね。素直に一次史料に見れないんだから挨拶してないとするだけ
四段落目は特に意味不明だし、がんばって読解する気にもなれないんで、はあ、とだけ。 >>269
同意
いっちゃあ悪いが、史学のことをてんで知らない人間ほど「一次史料がー」と言うんだよな
それだけ言ってりゃさも考察した雰囲気が出ると思ってるんだろ
どうせ史料を読めもしないのにな
あげく、一次史料にないから拒否されたに違いないんだという暴論に発展する
妄想誤読くんとなんら変わらないよ
誰が正義だ悪だ、強いだ弱いだ、そんなことはどうでもいい
何が実際にあったかを検証するのが史学なんだけどなあ >>271
第一段落について、あなたが肯定しないのはそれでもいい
第二段落は、豊臣vs徳川のピリピリした関係が、あなたの好きな一次史料に書いてあるでしょう
ソース示したんだから読んでますよね?
一部外形的にはそういう対立になっちゃったわけで、家康の行動が注視されていたのが分かるわけで
戦後処理については、一次史料では毛利輝元は謀略を知らなかったのでノーカン(ということにした、吉川の働きね)
二次史料では秀頼も幼少で知らなかったんでーすとしているし、細部はともかくその後の動静と符合する
三段落以降の反論は意味不明なので解答せず 主君の秀頼が家康らを裏切って西軍を公儀にしたなら裏切られた東軍に負けたら領地没収されるの当たり前だよな >>254
毛利が本気で公儀代理をする気があるどうかは関東からではわからないので
家康が大坂に行って直接確認する必要があるだろ
大坂で家康が確認したら実は冗談で本気ではなかったという可能性もあるからな
毛利が公儀代理であることは大坂に来た家康が確認して初めて確定すること
だからこそ東軍大名は家康を大坂に送り届けたわけで
そこで毛利が家康に対して自分こそが公儀代理だとはっきり主張すればよかっただけ
逆に毛利が家康に対して公儀代理であることを主張しなかった時点で本気ではなかったことが証明された >>273
繰り返し同じこと書かせるなよ「豊臣」って誰だ?
史料から、ピリピリした関係を、お前が、読み取ってるんだろ?
解釈するのは勝手だが、それを客観的事実が如く書くなよ
お前の文章は全般的に事実と解釈をごっちゃにしてて、無駄に読み辛くてイライラするわ
まあつまるところ、お前は「輝元が本丸で秀頼に挨拶した」と解釈したほうが「その後の動静と符合する」と思っていると。
正直『しかない』とする理由に全くなってないと思うけど、そこは解釈の違いと理解しておくよ。 小説を書くなら推測でもいいが史学だとそうもいかない >>267
だからそれは何ら事実の指摘になってなくて
あなたの政治的立場の表明にしかなってないのよ
当時そう言う立場に立って主張してた
西軍がいたことは間違いないのだが
400年も経った今同じレベルで
あなたが主張するのは馬鹿げている >>275
冗談で改易してたらサイコ過ぎるしそれを認めてた豊臣家の責任問題になる
八月までには家康は三成は主犯では無く主犯は毛利と分かってたよ >>282
輝元はよく考えずに突拍子もない行動を取ると広家も愚痴をこぼしているし
百聞は一見に如かずのことわざ通り、輝元の真剣さを見極めるためには
大坂に行って視察する必要があるだろ
家康が大坂での視察を終えるまでは、西軍が公儀だとか輝元が公儀代理だとかは判断不能だろ
公儀というのは遊びじゃないんだから、口先ではなく実地調査によって判断されるのは当たり前 輝元がそんなキ◯ガイな訳無いだろう
こいつやってること知的でかつかなり狡猾だから >>276
私のいう豊臣本家は秀頼と淀と北政所、そしてそれをサポートする家政機関な
言経卿記「内府大坂へ御出也云々、秀頼公和睦也」
義演准后日記「大坂本丸は秀頼様御人数警護云々、但治定未聞」「内府大坂へ御入云々、輝元は本国へ帰云々、治定未聞」
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/18-1-2/54/0016?m=all&s=0016
この見開き2ページ読んだだけでも外形上は豊臣対徳川と認識されていたことが分かるし、ピリついた空気が伝わるでしょ
それと史料の取り扱いに疎すぎやしないか?
一次史料しか信じませんってのは史学かじったことすらない証拠だよ >>285
つまり家康は秀頼に裏切られたので簒奪されても仕方ないと
てめー家康信者かよ >>284
狡猾ならなおさら東軍が大坂に来て、この目で直接確かめないと
公儀代理だとか後見だとかを判断することはできないな >>283
大阪行くまでもなく毛利と奉行は東軍にとっては敵だよ
大阪占拠して改易沙汰してあちこち出兵した後で
今更「そんなつもりはなかったんです」とか言っても
意味ないし真剣じゃないから赦されるようなことでもない
関ヶ原毛利軍と交戦しなかったのは
内通者がいて交戦を避けたからであって
敵が味方か確認できてなかったからではない
兵を引かなきゃ普通に責められてたろうし
吉川が話通してなきゃ追撃されてたろう >>285
言経や義演の認識はそうだけど
それが当時の統一的な見解ではないし
多数派の見方かどうかもわからない
当の東軍の中には内府に奉公(見方)して
秀頼から加増を貰う(内府にとりなしてもらう)
という認識もあった訳でな
公家のほとんどがいる京洛含め畿内は
早々に西軍に占領されていた
なので西軍の主張をよく聴いていて
その敵対勢力の声は届きにくいし
西軍の主張を否定するのも危険を伴う
なので西軍のプロパガンダに沿って
事態を理解し行動してたと理解していい筈 奉公する相手が重要で自身の恩賞が何処から出てるかは問題じゃないからなぁ…
西軍の作戦に協力している以上豊臣は敵って認識は東軍全体にあったろう。少なくとも味方では無い
家康が優しかった事と輝元が降伏したこと、豊臣家に何ら人望が無かったから生き残れたけどどれか一つ欠けていたら処断されていたろう 大阪入りするまで「本当に敵対してるか不明」
「敵対してない可能性がある」と観られていた
というならそれは毛利輝元ではなく
豊臣秀頼とその周辺「豊臣家」そのものだよ
なんせトップはほんの子ども あるいは
これまで表向きに口出してこなかった生母
さらに本人たちから直接大阪城外に指示はでてない
出回ってるのは西軍が聴いたという伝聞情報のみ
客観的に観ても判断しにくい状況よ
東軍としても「実態確認して事実無根だった」
とする方が穏当で早期解決に繋がる落とし所だしね
その方向で動いてる >>291
西軍に協力してるのは奉行や馬廻であって
豊臣家、豊臣政権はまた別なんよ
少なくとも東軍の主張としてはそう
西軍の主張とは真逆ではあるがね
実際に豊臣家(秀頼、淀)の行動や真意が
どうであったかはまた別だが
少なくとも史料上は判断できない 秀吉死後の豊臣政権の
トップは家康なの?
それとも秀頼?
それをはっきりさせるだけで
このスレの議論は終わるかも 自身の軍団を統制出来てなかったとするならもう武家としての豊臣は死んでいたということになるな 豊臣政権のトップが誰かってのが一番難解だから論争になってる
豊臣公儀が誰にどの様に運営されるかは秀吉の場当たり的な遺言と秀吉死後の朝鮮撤退やゴタゴタによって確立する事なく成立した十人衆合議制で決定されることになった。ただあまり研究を知らなくて申し訳が十人衆合議において秀頼がどんな立場なのかが不明。秀頼に政治決定権は無いのだから将来かなり危険な事態を招いたろうが…例えば秀頼が愛臣を加増しようとして十人衆が反対したらどうなるのか?といった観点があったのかどうか それで鍵になりそうなのが慶長四年の家康私婚事件と三成襲撃事件だと思う
慶長四年一月に四大老五奉行が家康に婚姻について使者を出して糾弾、それを受けて家康は「婚姻については奉行にも通知して伺いは立てたろうが!」と激怒して訴人糾明を求めた。結果五奉行出家、四大老謝罪で終わった訳だが太閤御掟には大名の縁辺には許可を得よとある。つまり政治決定者が許可を出せば縁辺していい。ならもし秀頼が政治決定者なら「秀頼の許可は得たのか」「秀頼の許可があったのに」になるはず
つまり秀頼は豊臣公儀から断絶してる訳で果たして豊臣政権のトップと言えるかと問われれば否となるんじゃないか 現代より大人と見なされる年齢が早い当時でも
さすがに6歳かそこらが最終決定の意思表示できるわけないというのは共通認識だったろう
まして豊臣政権の真正なトップである関白になってないんだし法的にも秀頼はトップではない
そうであれば生前に与えた官位や秀頼との縁戚関係といった待遇を見れば
秀吉の構想では家康が秀頼成人までの暫定トップだったとしか思えない
少なくとも徳川を秀頼の後ろ楯にするつもりだったのは明らか
三成ら奉行や毛利がその秀吉の構想を認めず踏みにじって十人衆をゴリ押ししたから混迷が始まった もし三成らが挙兵しなかったら
つまり関ヶ原が起きなかったら
家康は秀頼が成人したら
政権を返したんだろうか >>300
政権を返すというのがどういう事かにもよるが、少なくとも徳川の立場や権威が
豊臣政権によって保障されている状態なら、徳川が幕府という新たな権威を作る動機はない
徳川は政権内において朝廷における藤原氏のような感じになると思われる
そもそも徳川が権力を行使して豊臣がそれを権威をもって保証する形で充分政権は回るので
お互いがそれぞれの立場をわきまえてれば対立する動機や必要すらないと思われる
ぶっちゃけ豊臣家視点だと家臣団豊富な徳川を優遇して取り込んだ方が
家臣団の薄さが課題の豊臣の欠点を補えるので豊徳合体を目指した方が得 豊臣家が西軍に与したのもそれが理由だろうね。このままだと豊臣は徳川に侵食される。そうなったらもう豊臣が真に天下を差配することはできない。だから今のうちに徳川を排除ないし弱体化させたかった
豊臣家の誤算はそもそも豊臣に天下人たる力が無かったことで故に徳川派の大名を寝返らせることが叶わなかった 秀頼「家康が裏切ったのではない、私が家康を裏切ったのだ…」 というより自分の家臣が自分の命令を聞かなくなった時点で…
かといって家康を頼らないようではね 戦場で子分共と苦楽を共にしか、勝利し、知行分配を行うことで初めて武家のトップと認められる
戦場に出ても来ない秀頼は天下人の子として尊重される存在ではあるが自分たちのボストとは崇められない
三好が足利将軍抜きでわずかな期間とは言え天下を差配したことで血統ではなく実力者が天下を差配する時代になった。秀吉は身分を固定化する前に死んでしまったんだから秀頼は1度は戦場に出て実力者たちを黙らせる必要があった >>291
少なくとも清正、福島の二人は「秀頼様のため」と書状ではっきり意思表示してるけどね
東軍の共通認識として秀頼は敵であるというものがあったならこういう言い方はする必要ないよね
全て内府御為でいいわけだし その2人だけってのが寂しい限りだけど真に受けるのも危ないかと
秀頼が家康に救援要請して家康が公儀として西軍討伐に向かうなら筋は通る。問題は家康は一切豊臣家から公儀性を与えられてない上に西軍が秀頼様御為を打ち出してること
それまでの家康の振舞いが専横と見られてたのは蜂須賀家政書状にもあるから本当に豊臣家が家康を排除しようとした可能性は否定できなかったはず
でも東軍諸将は豊臣家の意向を確認せず要は無視して家康に付き従った訳でこれはかなり注目されていい出来事だと思う
彼等にとっては秀頼の意思は家康が決めるべきものだったと 秀頼が会津征伐を命じて、家康が遠征軍を率いて出立し、西国大名も従うはずだったんじゃないの
その命令が取り消されてないのに大坂に入って遠征軍の大将を罷免しようとするってどうなのよ 家康討伐令も出てない
内府ちかひの条々などにも豊臣家の印が無い
あるのは西軍の言いっぱなしのプロパガンダだけ
そうなると各々で方針を決めるよりない
そしてそれは各大名に豊臣家への見限りを加速させる 三法師を信孝が抱えてても秀吉は無視して信雄に織田家の家督を継がせるし動けない幼君は扱いが軽い そもそも子供に発言力が無い時代なんで誰も秀頼の意見とか気にもしてないやろ
秀頼を尊重するのと秀頼の意見を尊重するのは全く違うからな >>275
全く意味不明
伏見城攻め落としたり
蜂須賀改易したり
瀬戸内占領しまくったり
冗談でやってる可能性を考える必要あるのか?
本気だろうと冗談だろうと許されんのだし
対応は変わらんだろ >>290
だからそう言ってるんだろうが
あくまで対立は「外形的」と強調して史料も挙げてきてるだろう
その上で、なぜ頑なに輝元と秀頼が会っていないと言いきれるのかが疑問なんだよ
中世惣村の研究みたいな狭い範囲なら一次史料だけで論文を構築できる
しかし通史となると二次史料がないとやっていけんよ
繰り返すが史料は一次だろうが二次だろうが史料批判した上で用いるもんだよ
一次史料に記載がないから認めません~なんてのは知ったかぶりのド素人の言うことです >>290
だいたい君はさかしらに一般論を述べるだけでまったく史料に依拠していない
全然史料が引用されないことからも明白
なのに一次史料偏重主義という化け物
おそらく君は自分で史料を読んだりはしないんだろうが、君が知っている「知識」には研究者が二次史料を読み解いたものが多数あるんですよ
もしくは質の悪い作家の駄文か >>313
個人的には会ってるとも会ってないとも
断定できないと思ってるよ
いずれにしろそこで決定的な支持表明になる
「何か」を引き出すことはできなかった
(引き出してるならリアルタイムで喧伝したろう)
なのでそこにこだわる意味はあまりないかな >>314
悪いが別の人と勘違いしてるよ
一次史料も二次史料もバイアスや誤謬はあり
鵜呑みにはできない総合的に判断すべきものだろ
目に映る気に食わない意見全部
同じ人に見えちゃうのはまずいので頑張って >>307
その言い分なら蜂須賀書状の「勿論近年内府無御届儀共可有御座候」も真に受けるのは危険だな
当該書状は蜂須賀が輝元に対して石田、大谷と同心したことを諌めたものだが、
輝元の行動を全否定して諫言するの
ではなく、一旦輝元に寄り添い内府にも落度があったかもしれんがとやんわり諫めてるという風にも取れなくはない やんわり諌めても幽閉されて強制改易されるのかよ…
ゲスすぎるだろ輝元 >>290が「だからそう言ってる」内容なのであれば
何に怒って攻撃してるのか謎だな ただ加藤清正と福島正則にはちょっとした共通点があって
それは両者とも徳川家康の養女を妻にしてるという点。まぁこの2人に限ったものじゃないが
つまり両者とも西軍に敵対認定された徳川の縁戚者で故に西軍に負ける訳にはいかない立場にある
秀頼云々を考えている余裕なんか無かったんだろう。加藤清正に至っては豊臣に出した人質を脱出させてる。実質的な豊臣への縁切なんじゃないか >>308
確か会津征伐でも秀頼の命令書は無かったはず
当時秀頼は八歳程度だった。だから秀頼は飾りで実質的には家康が天下を差配していた
この仕組みには一個重大な問題があった。つまり大坂城を握った者が「秀頼の意思」を主張できる。勿論、豊臣家が死を覚悟で反抗すればこの限りでは無いが… 秀吉は王になり、宰相殿は関白になり、家康は将軍になる
家康の野心は1586年の時点で既に明らかだった
それを見抜けなかった秀吉の失策と、家康の狡猾な野心が全て
家康は簒奪者 >>321
それってあなたの感想ですよねとしか言えんな
自分は秀頼様御為と言ってる東軍側の史料があることを示しただけだし
そのような認識は東軍全体で共有していなかったと考えてる
個々では知らんけどね >>325
お前これが何の史料言ってるのかわからんのだろ?
それなら黙ってろよ 権力が豊臣家に紐付けで見てる人達は中韓とかの外国人だろ
簒奪もなにも公儀は豊臣家のものでもない
家康が征夷大将軍になったのが全て >>327
関ヶ原の戦後処理で豊臣家の蔵入地を残らず奪った簒奪者家康
自分の直轄領と譜代家臣、一門に大幅増領して1万石以下の譜代家臣を
20名も大名に昇格させた簒奪者家康 >>328
蔵入地については、謀反を鎮圧した東軍大名への恩賞として豊臣家自身が支払ったものだから奪うも何もない
むしろ朝鮮でタダ働きさせた分も含めれば、豊臣は全財産を渡しても大名への恩賞が足りないくらいなのに
それを豊臣が財産を残せる程度に抑えた家康は豊臣家にかなりの情けをかけている
本来なら豊臣家は家康に感謝しないといけないんだよ 蔵入地簒奪ってなんの話?
あれって管理担当の奉行が関ヶ原の敗戦で失脚したんで管理担当がいなくなったんで
管理を各大名に任せただけって話なんだけど
実際加藤清正なんかはちゃんとその後も豊臣家にその分を渡したりしてるらしいし
あ、先に言うけど徳川が管理担当しろは無しね、それ奉行の仕事だから
徳川に豊臣政権を専横してほしいなら話は別だが
勿論徳川が代わりの奉行を定めろも無しね、理由は上と同じ
大体、西軍の挙兵理由の一つが家康の政権専横の糾弾なんだから戦後の家康に
豊臣政権を専横しろって本末転倒でしょう
まあ豊臣家に残った連中が引き継ぎも無しに奉行の仕事できるのかとか、
そもそもできそうな人材残ってるのかとか、仮にいたとしてもそいつの指示を
諸大名が聞いてくれるのかとか、そんなことは一切知らんけど そもそも論になるが、秀吉死後、秀頼の名前で命令を出したことがないので、
秀頼を擁した方が公儀になる、という主張自体に根拠がない。
家康も他の大老・奉行も、秀頼の代理として権限を行使しているのでなく、
「豊臣公儀」のトップとして権限を行使している。
王朝や幕府と違って、この人が政治的トップという役職が存在せず、
なんとなく秀頼の義祖父で太閤の義弟で、実力トップの家康が
最高決定者っぽくなっているけど、他の大老や奉行が団結すれば
家康に反抗できる、というふわっとした組織が「豊臣公儀」。
そもそもどうすれば「豊臣公儀」の支配者になれるかがわからない。
なんとなく既成事実を積み上げたものでしかないから。
結局、世間様が「公儀」と認めた方が「公儀」なんじゃないかね。 あやふやで根拠もないが秀次死後も秀吉そのものが太閤ってだけで公儀やったんよな
まー世間様が秀吉が公儀と誰しも認めてるから確定なんだけど問題は秀頼
王朝や幕府だとそのまま権力の継承が行われるが摂関家の立ち位置だと微妙すぎるんだよな
でも西軍蜂起さえなければなんだかんだ豊臣政権が存続したとも思えるんよな
結局の所は簒奪もなにも毛利や奉行が豊臣政権をぶっ潰しただけだけれどな そもそも簒奪も何も豊臣は主権者じゃないんで用語からしておかしい そんなふわっとしたいい加減な組織とも言えないものが天下政権じゃ家康より先に他の諸侯が豊臣を見限るわな
あまりに頼りなさすぎる
関ヶ原後諸侯が強制されてもないのに江戸へ伺候したのがまさに諸侯の方から豊臣を見限った象徴 秀吉は王になり、宰相殿は関白になり、家康は将軍になる 実際問題、秀吉死後の公儀において豊臣の立ち位置がかなり不明なの結構問題だと思う。十人衆が秀頼と仲良くするとは限らないのに まあ奉行の方は一応は豊臣政権ありきの存在とは言えるんだが、
問題は彼らはあくまで秀吉子飼いであり、譜代ではないという点なのよな
つまり秀吉側近ではあっても秀頼側近とは到底言えないので、
秀頼側の視点だと、とてもじゃないが全幅の信頼を置ける相手とは言えないんだよ
結局豊臣政権自体が秀吉があまりに偉大過ぎたせいで、秀吉ありきの政権構造から
ついに脱却できなかったのだろう、唯一の脱却チャンスだった秀次継承は秀吉自ら潰したし 秀頼の側回には政権運営能力が無い
更に言うなら豊臣家そのものを運営する能力がない
運営するはずだった徳川と奉行衆が争うことになったんだから秀頼と側回は身を潜めて傍観するしかない 結局どんな屁理屈を言おうが不法に武力を用いて一方的な現状変更を試みた西軍が
反乱軍・クーデター軍であるということには変わりがないわな 田端泰子によると三奉行が諸将から集めた人質の中には大坂城天守閣に集められた者がいるらしいが
豊臣家が西軍に与していたのかもはや大坂城すら自分達で支配出来なくなっていたのか 秀吉は王になり、宰相殿は関白になり、家康は将軍になる
天正14年の時点でこういう評価されてる家康
既に野心は見え見えだった >>343
関白と将軍は朝廷から任命されるが、王は自称するのか明の皇帝から任命されるのか天皇家を討ち倒すものと見なされたのか
王になるだけ浮いている
秀吉の危うさを危惧した表現だな 結局結果がすべて
西軍は負けたから家康が擁護される
家康が負けていれば全く逆だっただろうに 逆だろ
これまで司馬遼太郎を最典型に何十年も創作捏造偏見てんこ盛りで擁護されてきたのは西軍の方
創作捏造偏見を外して検証してみたら決して擁護できるようなものでなかったのがはっきりしてきただけ
天秤が極端に傾いてたのがようやく平行に近づいてきたってこと 西軍が勝てばそりゃ西軍が持て囃されていたろうさ
ただ毛利が政権握って豊臣は没落の一途だったろうけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています