石田三成の挙兵 ★4
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秀忠軍を堂々真田征伐に行かせておいて家康本隊は軍団を少数に分けて進軍させたっていうしかなり気にしてたんじゃないか?佐竹と上杉の関係はよく知れてる事だし。景勝書状にも「内府が西上したら自分は関東を攻撃する」ってある。佐竹領まで完全封鎖してたとはいえ念には念を入れて損は無い。 >>747
真田昌幸が息子信幸が東軍に属してる事を知らなかった結果三成が信幸にも西軍の資料送っちゃったからね。昌幸と三成の大ポカ。 岐阜城抜かれた後西軍が有効な動き出来なかったのが痛い もう岐阜が落ちれば有効手段が無いんよな
東軍有利で選択権がある状態
関ヶ原も小早川問題込みで勝てる算段あったから会戦を選択した感じやしな
西軍は籠城持久戦がいいが東軍の大軍勢相手ではその辺りが無理だと判断したんだろうし
まぁ行動と言う点では西軍は頑張ったよ やっぱ西軍の初期戦略が破綻していたのか。ていうか何故抜かれたらヤバい美濃が一番手薄なんだ… 抜かれて良い場所なんてないよ
実際抜かれたのが美濃だっただけで
全軍美濃に集結したところで
前田が南下したら挟み討ちで終わるだけだし そこら辺の見通しも甘い。
結局北方戦線は岐阜が落ちたら撤収してるし。 >>756
でもその辺突き詰めてくと、「これ挙兵しないのが正解やん…」になる
見通しが甘いからこそ、西軍が挙兵したって考えた方がいい位に思える
少なくとも見通しが出来てたなら毛利は挙兵に乗らないだろう >>753
岐阜が落ちたのがいけないのではなく、その直後に
赤坂や垂井まで進出されているのが酷すぎる
もし、岐阜城までで済んでいたなら、長良川と揖斐川を
2本の防衛ラインにして西に残存する西軍が来るまで持久戦も
可能だったと思う
赤坂と垂井を奪われてる時点でもう大垣も詰んでる
あと考えられる方策としては、大垣を放棄して佐和山撤退(追撃覚悟で)
佐和山で後詰決戦やるか、瀬田川を防衛ラインにして最後の決戦やるかしかない >>755
利長にそんな冒険できるかな?
確かに8月24日の書状だったか、
家康に「いつでも指示あり次第南下します」
とか言ってるけど 前田は突出する必要はない
家康との連絡路が確保出来てる限り北から圧力をかけるだけで武功になる
西軍は正面戦力が揃えられないかぎり決戦するか崩壊するしかない >>760
利長としては別に博打でも何でもないよ
そんなピンポイントのタイミングでなくても
美濃で対陣中あるいは岐阜や清洲を攻めてる最中に
背後に現れるだけでもう西軍は大ピンチだよ
なので北陸道からの進軍への備えは
数万単位でやはり必要になる 大谷吉継の作戦で後退したとか言われてる利長だけど実際は自国の西軍勢力を潰し切りにいっただけとかいう 物産問屋美濃屋、越前屋が手を回して物資は押さえてある。 公儀名乗れば解決すると西軍が考えていたとは考え難いんだけどなぁ…徳川と縁戚の連中が反徳川連合に与するとは思えんし豊臣譜代って訳でも無いから秀頼の威光とか何の役にも立たないし。何かもう一つら見落とされてる勝ち目があったのかもしれんが。 オレには奉行らはライバル蹴落とす
権力ゲームを繰り返すうちに
トップ蹴落とすチャンス作れば皆乗ると
思い込んでしまったように見えるかな
司馬遼太郎とかは全部家康の陰謀で手の内
みたいに描いてそれを止めるためとしてるけど
一次史料的にはむしろ受け身だし 非主流派のクーデターなんだから始めから確実な勝算までは計算してないでしょ
やってみないと分からんことばかりだから現実は 輝元の野望に付き合ったのが運の尽きだが三奉行に拒否できたかどうか その一年も前に三成がクーデターそそのかしてるからなあ >>769
輝元の野望というけど、そもそもこいつの野心に火をつけたのって
1598年8月28日の起請文が原因じゃないの?
「もし今度定められた5人の奉行のうち、秀頼様への謀反ではなくても、増田長盛・石田三成・前田玄以・長束正家の意見に同意しない者があれば、私(輝元)はこの4者に同意して、秀頼様へ奉公する」
これって奉行が絶対正義みたいな起請文なんだけど……
しかもこれだと前田利家や宇喜多秀家も敵に回してるとしか…… 増田長盛・石田三成・前田玄以・長束正家と小西行長は豊臣が抱える癌細胞だからな
こいつらは謀略を繰り返して豊臣を滅茶苦茶に破壊した
なんとか関ヶ原で癌細胞を切除したけどあまりにも遅すぎた >>771
関ヶ原首謀者たちの目指すものが
端的に示されてる史料がそれだよな
要は自分たちの思い通りになる政権を目指してた 石田三成を賛美する史料は大抵、後代の江戸時代中期に成立したものが多い…… >>775
そもそも石田の名誉回復がなされたのって、江戸時代になってからだろ
豊臣家や政権の方で、公的に石田の名誉を回復するような事してた記録なんてあるの? 実際あの起請文草案は本物なのか?起請文それ自体が見つかってないから何とも言えんものではあるが。 石田三成が、通説どおりの考えだったとした場合に、
毛利とか他の奉行たちが、自分たちのことを優先した
行動を取ったことは、誤算だったのかな。
それも承知の上だったのかな。ら >>777
そもそも三成が自分優先してるんだけど
まさか三成が豊臣政権に忠義を尽くしたとでも?
勿論、家康も豊臣に忠義は尽くしていない
関が原に勝った後、確か秋田実季だったか
10月13日の書状で「家康に奉公する」とか書いてるから、
明らかに天下人の地位を簒奪しているけどな 関ケ原で豊臣家の無力さが知れ渡ったからな
西軍が悪い 本来なら奉行連中の謀反など家康がいなくても豊臣家が単独で鎮圧すべきなんだよ
ところが豊臣家は三成ごときにびびって震えているだけで何もできなかった
豊臣家の無能・無力が白日のもとにさらされたわけ
諸大名が豊臣家を見限って家康に奉公しようとするのは当たり前だろ 関ヶ原は豊臣vs徳川の戦争なんだから勝った徳川に奉公するのは当然といえば当然 司馬遼太郎のせいで三成憎しの猪武者みたく思われてるけど史料での福島正則は結構冷静だぞ。家康が来れなくなったと知ったら軍監の井伊・本多に作戦を開始したいから至急来てくれと書状送ったり岐阜城攻略戦では池田輝政らと軍議を重ねて要地の竹ヶ鼻城を落としたり。それに対して正則は豊臣には書状送ったりしてない。おそらく正則も輝政も西軍が糾弾する「徳川と勝手に縁辺に及んだ」大名だから実は豊臣の意思とかどうでもよかった可能性がある。 >>783
それ福島の書状じゃないぞ
黒田長政・徳永寿昌・奥平貞治連署状だぞ
「然者天下之勝負、川越ニ相究候間、御両所急御越候て、今一往御談合候て尤ニ存候、
御人数ハ被為置、御自身迄片時もはやく御出専用存候」 福島正則
福島原発
福島瑞穂
クソイメージ悪い 福島って産廃の代名詞 CHATGPTで聞いたらとんでも回答
豊臣秀頼は秀吉の実子でしょうか。秀頼の実父は誰でしょうか?
豊臣秀頼は豊臣秀吉の養子であり、実父は明智光秀とされています。秀吉には男子がおらず、秀頼を養子とすることで、
豊臣家の血統を継がせることを望んだと言われています 最近、石田と上杉の共謀説が否定されていますが、それは正しいのでしょうか?
例えばこの真田宛石田三成書状
「此方より3人使者を遣わし〜」から始まり、「右の内1人は貴老返事次第案内者を〜」とあり、
連絡をとりあっていたと考えるべきでは? 真田昌幸宛石田三成書状
「内府、会津佐竹を敵に仕られ、僅かに3、4万の人数を持ち、分国15の城を抱き、廿日路上らる事、成る物に候や」
「主の人数1万、上方勢2万ばかり語らい上り候とも、尾三の間にて討ち取るべき儀、誠に天の与へに候。然れば、会津、佐竹、貴殿は関東へ
袴着けて乱入あるべしと存じ候」 >>788
時期の問題
通説で言われるように早い時期からの共謀はなかったってこと
ちかひの条々が出されて以降は上杉と連絡取ろうとしてるし普通に連携しようとしてたでしょ
あと「自此方三人使者遣候…」云々の部分は、真田からも護衛を出して沼田経由で会津へ書状が無事届くよう
依頼しているものであって、それ以前に石田と上杉が通信していたことを証明するものではない 徳川と戦争するなら上杉との連携は必須。特に石田三成にとっては。三成と仲の良い真田・佐竹は最前線に置かれる訳で黙っていたら圧殺されてしまう。上杉との連絡路は沼田越えと佐竹経由とあったけど沼田は真田信幸に塞がれ、佐竹は徳川に塞がれて進退窮まった挙句岐阜城落とされた 上方と会津の連絡線の長さから連携が有効になるのは長期戦の場合のみ
しかも連絡線が確立できたわけでもない
連携どうこう言う前に負けたのが史実の西軍 上杉が南下しなかったから西軍が負けた
というのは結構無茶な話
先の大戦ナチスドイツがアメリカ本土に
攻め込んでたら日本は負けなかったくらいの話 そもそも直江が2万も率いて2000の最上(最上本隊は無傷)に負けてるんですけど……
これで家康の軍勢に勝てるとでも? 兼続の家は断絶したから景勝の無能まで全部兼続のせいにされてる感 関ヶ原に代表される一連の争乱は別に天下分け目というほど拮抗してなくて
負けた側が負けるべくしてあっさり負けたワンサイドゲームだったというのがどうやら実情
というには後世に与えた影響が大き過ぎるから後々あれだけ劇的な創作捏造がてんこ盛りされたんだろうな 関ヶ原より大坂の陣だろうな
そもそも本能寺こそ日本の行く末を大きく変えた事件だが 城攻めに時間がかかることなんて極普通のことだし、関ヶ原の敗戦を聞いての撤退戦で
被害を最小限に止めているのだから実質上杉の勝ちやろ 最初から三成と共謀していたならともかく、当初は東軍本体と一人で戦う気だったのだから
別に関ヶ原の敗戦を聞いたところで撤退戦をする必要などないのに
急にビビりだして慌てて撤退する方が情けない
実質でも名目的にも上杉の完敗だよ
結局は会津征伐前の態度もただのハッタリに過ぎなかった 史料的に見て上杉の情報は伏見陥落以後途絶えてるはず(佐竹の書状的に)
つまり景勝からすりゃ伏見落としてイケイケで押してた西軍が突如壊滅して降伏しましたって訳でパニックになってもおかしくない。 秀吉の死後、家康は秀頼に対する謀反の疑いをかけては自分に服従させていったわけで
家康に勝てないのは明らかなのよね >>800
庄内方面から進行していた部隊が取り残されて志村が追い詰めて降伏
ひと月で酒田以外の庄内地方が最上に侵略されてたよ 西軍蜂起が無くても史実通りの120→30万石で落着してたような気がする 上杉のムーブの意図がわからん
腰砕けした毛利のほうがまだわかる
どういう見通しでおっぱじめたんだ 割とマジで面子の問題
親家康派の重臣を内通者扱いして追い出しておきながら
土下座謝罪なんてしようもんなら下手したら主従の首が飛ぶ 景勝は本気で謀反を考えていたと思われてる。根拠はまず神指城でこの城の普請は豊臣公儀公認でその為に大量の資源が投入されてる。なのに全く出来てない。そして国境沿いの城砦が整備されてる。つまり神指城を目眩しに戦争準備を進めてた。次に景勝は実は上洛を呑んでる。ただそれを反故にして時間稼ぎしてる。これだけやってて謀反する気はありませんでしたは苦しい。本気で越後が欲しかったんだろう。 >>801
そのような前後の状況がわかってるのだから
最初から滅ぶ覚悟で徹底抗戦など見込んでなかった
と考えるのが自然と思うがなあ
一戦の覚悟見せつつ土下座外交の腹はあったんだよ
最初から土下座では面目立たん
対外的にはともかく内部にそう考えるものがいたら
弱腰では統制自体不能になりかねない
豊臣政権の過去の事例からしても
富山四国九州では家の保存には
成功してるわけだしね >>806
西軍がそんな簡単に負けるとは
思ってなかったんじゃないかな 征伐軍を招いた時点で改易か減封は免れないんだから家中統制も含めて景勝の失策
運良く西軍が挙兵してくれたから、あわよくばで最上領を攻め込んだけど苦戦したあげく撤兵するはめになったと
ここらへんのグダグダは御館の乱から新発田の反乱、秀吉への臣従の流れのグダグダと同じ
景勝は昔から見た目の態度だけは立派だったようだが秀吉の下でも中身はまったく成長してない 西軍で全体の絵を描いてたやつはいたのかどうか
上杉がきっかけを作って、徳川が離れたタイミングで毛利が兵連れて上方へ入るとこまで
上杉と三成の連携は否定されてるんだよね? ぜーんぶ秀吉が悪い
そんなに秀頼の行末が気になるなら朝鮮出兵の前に家康を潰せっての >>813
慶長5年6月18日付の直江兼続宛石田三成書状が
上杉文書にあるんだけど、なぜか偽書として否定されている >>816
上杉家文書じゃないよ
『続武者物語』所収の文書で日付は6月20日付
1680年成立の編纂物で、同書は史料的裏付けが取れないエピソードが多数掲載
されており、信が置けない史料という評価になってるから扱う研究者もいない 1、前田家が徳川に人質を出した等を見て、このまま家康の軍門に下るを良しとせず乾坤一擲で決戦を企図した。西軍の決起を知りむしろびっくり。
2、三成か毛利か三奉行か、じつは密約があった。会津征伐軍が上方を出払うとすかさず奉行と毛利が秀頼を抑えて家康を糾弾し東西から挟み撃ち。
3、確約はないが家康が上方を離れれば何かがおきるという確信があった。上杉単独で全国を敵に回すことはないという確かな手応えを掴んだゆえに対決を決断した。
どれが近いと思う? 1はあり得んだろ
そもそも芳春院が江戸に赴いたのは慶長5年の会津征伐の前後だよ
加賀征伐の中止=芳春院の江戸行きではない
2は密約があったにしては、6月とかの書状が全く確認できない
3かな
ありえるとしたら
黒田如水が吉川広家に宛てた書状で「早く乱が来ないかな」とか言ってるし、上杉も何らかの
手ごたえを感じていた可能性はある >>819
もしかして慶長3年9月15日付吉川広家宛黒田如水書状の
「我等事ハ上様へのふそくもなく候、世上ふのあしき殿にて候、然共かやう時ハ
仕合成申候、はやくハ乱申ましく候、其御心得候て可然存候」のこと?
それなら「私は上様への不足はありませんが、世間では評判の悪い殿です。
しかしこのような時は首尾よくいくもので、世の中早くには乱れないものです。
そうお心得なさってよろしいでしょう」
という感じの意味になるし乱を望むような意味ではない
他の広家宛の如水書状でもそういう意味合いの書状はないと思うが 結局は金吾次第だな
金吾がやっぱ西かな〜って思ったら西が勝った >>821
小早川秀秋が寝返らなくても、垂井と赤坂を落とされた
時点で西軍の勝ち目は乏しい >>818
どれも的外れだと思う
単に家中統制が取れてなくて
移封に不満の家臣が所領に残ったり
租税を諦めずに取り立ててしまった
でも移封直後に秀吉が死んだため
政権も弱体化すると読んで舐めた態度
討伐来たけど家中の手前今更あと引けない
てだけじゃないかと
100万石あっても大人しく従ってたら
あっさり改易は豊臣政権では前例あるので
抗うポーズは取って譲歩の機会をねらってた
というのもあると思う 謙信の頃からずっと古臭い体制のままだからな上杉って
家臣共は自分の土地の都合でくっついてるだけで、信長以来の大名鉢植え化の流れになんて従うわけもない 家臣からしたら「自分の所領から離れろ?」
「せっかく育った収穫に手をつけるな?」
「ふざけんな所領と年貢を守るために
殿様に従ってきたんだろが」
て話 傍目から見ればどんだけ辺鄙で不便な場所に見えても、
故郷だから、住み慣れた土地だからとかいう理由で離れようとしない人って
今でさえ一定数はいるからな、当時ならもっと多くてもおかしくはない
織豊系の大名は地方に赴任するって感覚に近いのかもしれんね、所領の大きい代官的な
だから別地方に転封される事への意識がいわゆる土着した大名と根本的に違うのかも
家康は織田と長年同盟してた事もあって、その辺の意識切り替えが主従共々関東転封の時に
うまくできたんだろうな 中世の武士の契約関係がそれだからな
武士は自分の土地を保証してもらうために実力者に力を貸す。利害関係によっては平気で陣営を乗り替える
長い年月で土地所有権は複雑な契約でモザイク状に広がっていて、それを整理し始めたのが信長で全国に広げたのが秀吉 乃至政彦は「姿は無いとしても反家康勢力の存在は明らかで(景勝が)反旗を翻せばそれらが立ち上がると踏んでいた」としてたな。それは上杉謙信の戦略だったから景勝としても憧れというか合理性はあったんだと。ただそれが徳川家康には通用しなかっただけで。 >>827
自身に従属しない土豪とかの権利を認めなかったから
結果的に納め先が減ったというだけのことで
信長も秀吉も意図的に整理なんてしてないよ >>828
それは後世の編纂物やフィクションから
ロマンで固めた考察に思えるな ただそれくらいしか景勝には展望無かったとも思う。
石田三成とは奉行退任後に書状の行き来が無くて絶交状態とか言われてるし、前田利長は友人だけど家康と親しい、奉行の連中とも繋がってない…ってなると「俺が戦争したら誰かが立ち上がるだろ!」ってくらいしか残ってない… >>829
領土の交換とか付け替えとかしてんじゃん 新興勢力の織田は家臣に褒美を与え味方勢力に便宜を図らないといけないから敵対勢力から削っていくしかない
結果的に既得権益の剥奪や再構成になるわな
それが頻繁に行われて鉢植え大名ばかりの織豊系の中央武士と土着が多い地方武士とじゃ価値観に隔たりがあるんだろう 転封で成功した徳川家康と拒否して大幅減封くらった織田信雄という直近の前例があるんだから景勝の選択肢なんて無い
景勝の場合は転封したけど家臣団の説得に失敗したケースになるのかな 古今東西、領地が右肩上がりでどんどん増えると新しい支配地は褒美も兼ねて信頼出来る配下に治めさせるのは普通だろ
どの家でも織豊ぐらい所領が増えると鉢替えぐらいはやると思うけどな 会津征伐で作為を疑うなら上杉より奉行の方じゃないかな
上杉を助けたいなら仲裁に積極的に動くべきなのに
家康をなだめるだけで中途半端な姿勢に見える
穿った見方をすれば家康が秀頼と離れる事態を望んでいたかのような動き 基本的には823だろうけど
奉行が握り潰すの期待した部分もあるかもね
秀吉の死後訴えられてたけど
問題化するのは三成失脚後
家康政権が本格始動してから
その前の十人衆体制だと
家康は訴訟受けないことになってて
家康弾劾、三成弾劾でそれどこじゃなかった 偽書を疑われているけど奉行衆が家康に宛てた諫止状に「今出陣すると秀頼さまが見捨てられたようになる」とある。この奇妙な言い回しは三奉行が決起した時に「家康が秀頼さまを見捨てたから我々が立ち上がった」という書いてる事を考えると結構示唆的。三奉行は諫止する様に見せ掛けて実はアリバイ作りをしてたのかもしれない。それでもかなりギャンブルだけど。 偽書だからそれっぽい言い回しが後付でいくらでも盛れたということもある
創作による陰謀論なんて昔から変わらない >>832
それ、「土地所有権の整理」とは関係ないよね
領土の交換とか別に信長が始めたことでもないし 別に先駆的な信長だけがはじめたとか
そういう主張をしてる人はいないと思うぞ
信長秀吉の政権内部で大規模な国替が進んで
結果的にそれが中世的な国人の支配から
近世的な支配体制への転換を加速させた
というのは事実だろう 年次未詳ながら書中から慶長5年5月26日付と分かる浅野幸長が父長政に宛てた書状には
「秀頼様・御袋様より、内府様御下候儀御留有度と、御奉行衆為御使就被仰付候、
内府様へ奉行衆被参候へハ、御機嫌悪被成于今不被申出候、政所様明日廿七日秀頼様為御見廻、
大坂へ被成御下候ハヽ、是も御内儀者内府様御留有度由ニとの御下と申候事」と報告している
この時浅野幸長は大坂にいて、二日前の24日には家康に面会していると書中でも述べている
なので会津征伐を止めようとして奉行が使者として家康のもとに遣わされたことは間違いないな
家康は機嫌が悪くなって奉行衆は会津征伐の件を言い出せずにいて、
北政所まで引っ張り出して止めようとしてると書かれてる
ただ古今消息集所収の所謂三中老・三奉行連署状は研究者が指摘するように、宛先がこの当時
上杉の取次の榊原康政ではなく井伊直政になっていたりと偽書と見る研究者がほとんど >>838
それを真書とすると「マッチポンプじゃねーか」てなるが
蜂起の時の文言から逆算して作られたと考えるべきだろうね
いずれにしろ政権として命令に従わないから討伐という
手順を踏んだ行動を秀頼を見捨てた云々とするのは
支持されにくいちょっと苦しい理屈 凄く厄介なのは三奉行に征伐を止める理由が無いことなのよね。史料的に三奉行が反家康決起を狙ってたのは明らかでその為の策だとすれば、三奉行は征伐をして貰いたかったはず。
だからこの書状の意義は将来の大義名分の伏線であれば良くて本気で止めようとしたわけじゃ無いとすれば筋が通る。ていうかこれ聞き入れられたら三奉行の計画は水泡に帰す訳でむしろ絶対に聞き入れられない様にしてたのかも。 >>841
>>827の信長秀吉に「整理」する意思があったという主張に対して
意図的なもんじゃないよ、と指摘したという流れだからね >>843
まぁ西軍自体が野心から出来た存在だから大義名分がその場凌ぎなのは仕方が無い。
とは言え西軍の主張は戦国時代からすればそこまで無茶苦茶じゃない。例えば城が落とされた時、時々人々は守れなかった事を非難する。高天神城とかがそれ。攻撃した方より守れなかった事が悪いって論理は時々有効だった。だから秀頼を見捨てたから我々が拾ったのだ、というのは西軍が負けるまでは論理的だったのよ。 >>846
でもその理屈だと秀頼を盛り立てる義務や責任は家康一人に帰属することになり
他の大老奉行にはないかのようなことになり
家康の特権的地位を逆説的に認めることになるからやはり奇妙な論理になる だからろくに支持されなかったんちゃうん?
論理的におかしくはないぞ
我田引水極まりないけど
うんそりゃ支持されないわ 西軍はこれから大坂城に毛利軍を引き込んでクーデターするんだけど重要なのは如何にして「家康が居ない内に大坂を占拠した」感を脱色するか。これは難問だったはず。何せ現実こいつら火事場泥棒な訳であるはずも無い大義を作らんといけない。それで考え抜いた先が「家康は秀頼さまを見捨てて会津征伐を強行した」「我々は止めたのに」ってのは妥当なゴールだと思う。これ以上は無いでしょう元々無理筋なのに。 それで三奉行が内心早く征伐に行けと思っていたとするなら井伊直政に書状を送るのはそんなにおかしな事じゃないと思う。だって仮に正当な取次に書状送って征伐が延期になったりしたら面倒じゃん?重要なのは「奉行は止めた」「家康は聞かなかった」の2点でそれが正当な手続き踏んでたかなんて西軍は気にはしないさ。
喩えるなら宿題を先生じゃなくて事務員に渡したようなもん。それで期限を守らなかったと言われたら「出したのにそっちが拒否した」とゴネる。ガキの言い分だが時折そんな理屈を捏ねる連中は出てくるもの。都合の良いところだけ切り貼りする気だったんだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています