石田三成の挙兵 ★4
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というか西軍の人質作戦と三成は無関係じゃないの。三成が大坂に行くより先に大坂では人質の収容が始まってる。幾ら三成でもこの状況で人質を集めるなんて出来ないから大坂三奉行が主犯ってことになる。三奉行が大谷吉継と石田三成が謀反したって騒いだのもそれを理由に諸将の人質を確保する為なんだろ。三成からすると西軍が豊臣公儀な訳でこれに反してる連中こそおかしいから敢えて反対する事は無いんだろうが。 奉行は豊臣を蝕む癌細胞だからね
豊臣を守るためには腐った奉行を切除する必要があった 人質はあくまでも抑止力としてでしょ
人質取れば相手を無力化出来るとか無いから一定の役割は人質取った時点で達成してたと思う ガラシャ死なせちゃってから逆効果だって気づいて止めたんだろ?所詮その程度の覚悟の思いつき 秀吉とその家臣は甲斐武田家とほとんど戦ってないからなあ……
逆に家康は武田と戦い続けた
信玄や勝頼が人質を酷い扱いばかりしてたから家康はそれを知ってたが
豊臣は武田とほとんどやってないから学んでなかったのかな 白峯氏とか自著で「毛利輝元が凡庸の際から戦時の際に開花した」とか言ってるけど
輝元の対応を見る限りは誤りが多すぎるような気がするのは自分だけかな?
もし輝元の中身が祖父の元就だったなら、元就があれほど東軍諸将に次々と謀略をかける
大舞台は無かったと思う。輝元は東軍諸将に何か働きかけとかしてたのかな?
輝元みたいな凡愚を立てた時点で西軍の敗北は決まってたと思うんだけど >>650
いつ死ぬかわからない時代に
好かれるとか嫌われるとか
どうでもいいだろw >>657
いつ死ぬかわからない時代
それは関ヶ原の10年前くらいまでじゃないの?
少なくとも関ヶ原はむしろ「どうやって生きていくか
を模索する時代」だったと思う 面白いのは古今東西、今も昔もそこまで人間の普遍的な考え方は変わってないからな
後世からそれらしくその時代の考え方を論じても意味ないよ >>656
輝元の狙いは秀吉に奪われた四国・九州の権益奪還で打倒徳川とかはその為のお題目に過ぎん。だから東軍諸将への調略なんぞより西の諸将をどうしたもんかと暗躍してたのよ。 だから打倒徳川を主目標としてみると輝元は変な動きをしているが、四国九州奪取を主目標としてみれば実に正しい戦略をとってる。全部徳川にぶっ潰された事を除けば。 輝元は一応はゴール枠内にシュートはしてるんだよ
遠くからの威力も無い止められるであろうシュートでもキーパー家康次第では天下取りゴールも有り得た
状況的には諸大名を従え東上中の家康だから東軍解散や東軍待機も命じれないが万に一つ血迷うと毛利のクーデターも成功した世界もあったんだよな 大義無き挙兵をした時点で黄信号
会津征伐軍瓦解の前提を間違えた時点で赤信号
侵攻先の優先順位も間違えた時点で負け確定
東軍が自滅するしか勝ち筋が無い 輝元ほど豊臣公儀を重くみた奴はいないぞ。何しろ大坂城押さえたら豊臣恩顧の諸将はたじろぎ動揺すると思ってたからね。そんな事が起きなかったのが冷酷だが。 秀吉遺言からすれば家康抜きの公儀なんて成立し得ないんで
西軍がこさえた物は、少なくとも秀吉遺言とは掛け離れたナニカだな >>649
人質をあてにした戦略的見通しや
人質の活用を(要は殺すこと)を主張してる >>665
それ輝元じゃなくて奉行と宇喜多だと思うわ
輝元は「ま、これがうまくいけばそれはそれでよし。ダメでも西国を抑えれば
最低でも瀬戸内の覇者、あわよくば祖父からの悲願である博多制圧だ」程度だと思う >>667
九月十二日ならそんなこと言ってもおかしくない。だって岐阜城も裏切りで落ちてる訳だし他にも裏切者山ほど出てる訳で何の為の人質かわからんもの…人質を殺せないって事は自分達は豊臣公儀じゃありませんって言うようなもんじゃん >>662
四国・九州に派兵したのは百歩譲って権益奪還と主張できても
五百しか兵がいない細川親父の田辺城に一万五千の兵を張り付けていたのは正しい戦略か?
考えもなく手あたり次第に兵を送ってたのが実態だろう >>670
田辺城を攻めたことそれ自体は説明出来ると思う。三奉行は細川家を重視していて西軍に組み込もうとしてた。田辺城には僅かな兵しか居ないし後詰も来ないから囲めば落ちる。落ちたとしてどうなるかというと細川幽斎の書状に「奉行が蜂須賀家政・生駒親正と同じ様にすると言ってきた」と書いてある。この両名は軍団を奪われ西軍に組み込まれて出征させられてる。つまり幽斎が降伏したら「細川幽斎が西軍に参加した」とでも発表するつもりだったんだろう。
まぁ問題はあるわな。細川幽斎が降伏しなかったら西軍も打つ手が無い。力攻めしようにも幽斎は朝廷にも影響力あって出来ないし。 大坂以東に41500動員した毛利がやる気ないとか言われても >>671
「勅使ニて雅楽殿・阿波殿並ニ被仕候様ニ」云々は幽斎の書状じゃない
中川秀成宛松井康之・有吉立行連署状だぞ 忠興は私婚問題では前田と徳川の間を周旋し
七将襲撃事件では犯人の一味でもありと
奉行にとっては余計なことをしてくれてるだけではなく
西軍決起においてガラシャを死に至らしめてしまった以上
忠興とは和解のしようがないくらい関係性がこじれてるんだから
まあ細川は何とかしないといかんわな >>673
あぁ、その中で報告されてたのか。すいません。 >>669
つまり三成は史料上の確認が遅れてるだけで
どっぷり西軍に参加してる主戦派筆頭 >>672
41500も動員できるわけない
四国に派兵してるのに
そもそも毛利家は秀吉の遺命で秀元の処遇とか
内ゲバ一歩手前や所領移しなどをやってたから、
関ヶ原当時はそこまで動員兵力いたのか疑わしい
小早川隆景や穂井田元清ら有力者も死んでるし 実際兵は動いてたらしいけどやっぱり四国と九州。
ただ六万の軍勢で大坂城占拠していた割には毛利軍東に動いてはいなかったような。 慶長5年9月12日付増田長盛宛石田三成書状では、松尾山の城に中国衆を入れてくれと三成が
言ってるから、毛利軍を派遣してくれと言ってるんだと思うが、ならばなぜ三成は輝元に書状を
送らなかったんだと思いたくなるな
というか、四国など家康さえ始末出来たらどうにでもできるのに、輝元は明らかに優先順位を間違っている 命令系統の問題でしょう
輝元>長盛>恵瓊=正家>その他
三成はその他カテゴリに属する単なる1地方司令に過ぎない。出来るのは精々昔のツテで長盛にお願いするくらいで後は基本恵瓊や正家のパシリよ。
まぁ輝元がもう降参考えてて切り捨てに掛かってた可能性もあるけど。 >>677
毛利総兵力:41500(大津攻城時での計算)
毛利秀就10000(所在地不明)
毛利秀元&吉川広家15000(南宮山)
安国寺恵瓊1500(南宮山)
毛利元康10000(大津)
毛利輝元5000(大坂) 増田に連絡してるから毛利には連絡してない
と言うことにはならないよ
三成が他の奉行や毛利に対して
命令する立場にないのは当然だが
軍隊の移動は率いる大将にだけ伝えれば
問題ないってものでもないのもまた当然でしょ
逆に言えば本来の序列に関わりなく
こんなこと口出してるってのは三成の
西軍蜂起における役割と積極性が窺える 三成が輝元に宛てた書状があるならまだわかるけど「あるかもしれない」レベルだとなぁ…
多分三成は輝元に書状は送ってないと思う。何故ならそれなら増田長盛に充てる必要が無くなるし。輝元の代理人である恵瓊がいる以上その上に直接書状送付しても何にもならないしなぁ。 その認識が謎だわ
兵隊送れと一報に送れば済む?
他方でどこに迎え入れるか指示しないでいいと?
どう動くかの周知もなく互いに勝手で
意味不明なまま動いていると?
そんなわけないだろう 三成には軍団の編成権が無い。美濃で人数苦しんでるのに大谷吉継が三万で北に行ってたりするのはそのせい。
だから「兵隊を送ってくれ」とお願いは出来ても具体的な手続きなんて取れないのよ。雇われだから。三成は恵瓊や正家の指揮下にあったけど非常に不満があった。でも軍団を編成出来ない以上何も出来ない。それで上位者で軍団の編成権を有する増田長盛に「お願い」してる。輝元に言わないのは越権も甚だしいからだろうか。まぁ恵瓊に拒否されてるしね。 このスレだったか忘れたがちょっと前に
「三成が西軍を率いた」というのは
文学的表現に過ぎないというのはその通りだね
でもその中でも東部へは政軍両面で
責任者に近い働きをしてはいるでしょう
機能したとは言い難いのかもだが
少なくとも本人はその気になって動いてる 昔から言われてることだろうけど西軍は典型的な「船頭多くして船山に登る」だな 美濃方面軍司令といっても輝元らに言われて与えられた仕事こなしてるだけだけどね三成
美濃の織田秀信が味方になったからって行かされて、少ない兵力で徳川に対峙させられて順当に負けた >>687
でも西軍に家康レベルのはっきりとしたリーダーを作っちゃうと
そいつが戦後に第二の家康と化してしまうリスクを抱えちゃうんじゃないか?
ある程度の指揮権を渡すだけでそういうリスクが発生しそうだし >>679
この一連のクーデターが収束しちゃったら、絶対に毛利の好き勝手にはならないよ。
成功すれば毛利の権威は上がるだろうけど、宇喜多・上杉、奉行集と合議で
政権運営に当たる立場になるに過ぎない。
毛利家だけの利益になる行動なんて認められるわけがない。
ごり押しすれば今度は毛利が豊臣公儀(笑)から追討される
輝元が毛利家の所領を拡大しようとすれば、戦乱のどさくさの間に
既成事実にしちゃうしかない 秀吉イデオロギー猛獣一派 備前中納言、石治少、長大、徳善、増右、小摂 大坂城を毛利が占拠してる訳で輝元を止められるビジョンが見えないが… 毛利が一連の軍事行動で占領した地域を
実効支配した場合石高だけで徳川余裕で超える
加えて博多から瀬戸内、大阪まで押さえてる
豊臣公儀とやらがどうこう言える状況じゃなくなるべ 毛利軍は九月十日に伊予に侵攻してる。岐阜城失落以前に作戦発動していたとしても岐阜城が落ちた時に事情が変わったと思わなかったのか。決戦を考えたら伊予は捨てて兵力を再編成しないといけないはずだが…しかも負けて損害出してるし。 九州四国で合計一万程度しか動員してないから来たところで、だな
幼少の秀就から一万没収して投入したほうが早い 負け確定してるのになお伊予を攻撃したのはまぁ百歩許してなんとか理解するにしても、
負けて大損害出してるあたりが最高に毛利。
しかもそれで「徳川に騙されて減封にされた!」って言い出す辺りが最高に毛利。 家康が腹をたてたのは「内府ちかいの条条」よりも瀬戸内沿岸の徳川方大名への侵犯行為ではあるまいか。 まああんだけやって「戦争するつもりは無かったんです三成に乗せられて〜」とか寝言は寝て言えと言われるだろうしむしろ許してやった家康が度量デカイ。
なのになんで大坂の陣で豊臣に加担しようとしたの毛利輝元さん 度量がどうこうというより家康としては
早期終結を優先した仕置きだわな
関ヶ原で改易されたのはごく小規模な家や
国許に戻れず抵抗の準備もできなかった家ばかり
毛利上杉島津佐竹と遠征が必要そうなとこは
交渉で減封や安堵になってる
政権を担う立場としては戦乱が続くこと自体が
自分中心の体制そのものの存在意義に関わる訳で
関ヶ原前も基本的にことを荒立てず納めてて
権力伸長のために戦乱が必要な奉行とは
そこが根本的に違うんだよ 毛利秀就は結城秀康の娘を娶ることとなり、萩城新築工場、江戸藩邸新築、福島への前借り年貢返済、江戸城手伝い普請などで、破産寸前の危機時期に陥りました 側室は人質にカウントしないのかな
西軍蜂起の際に阿茶局や創作モノで大人気のお梶さんは大坂にいたのよね
家康の正室が亡くなってるから阿茶局が奥向きの一番手だったと思うんだけど 毛利軍が入ってきて親徳川派が追放された時に脱出したんじゃない? 秀忠の嫁と娘も畿内にいる
江戸から家康が大坂に単身赴任してたみたいなイメージだけど
1600年の徳川一族は秀忠が一人田舎行ってて家族みんな上方に住んでるのが実態 家康の側室や五郎太らは伏見にいたと記憶している宇喜多らが攻めてくる前に落としたが、警護役が勝手に伏見に戻り鳥居軍に加わって戦死したことが、却って不忠だとされていた。 安国寺や長束が三成より上位者だという意見があるけど、にしてはこいつらの書状がほとんど
存在しないのはどういうことだろ?
三成は真田昌幸とか、増田長盛に宛てたのがあるけど、長束や安国寺って何かあった?
吉川広家が間接的に伊勢方面でのこいつらの動きを書いてるからわかるんだけど、こいつらが誰かに
宛てた書状って自分は見たことない
誰か詳しい人いたらお願いします >>696
伊予に戦略的価値なんてないだろうに
あの土地、何のメリットがある?
田舎でどうしようもない僻地
水軍を味方にするため島嶼部を抑えるとかなら
まだわかるけどさ 伊予と安芸を抑えるということは九州から日本海側までの地域と畿内との物流を支配できるということ
関八州250万石なんかメじゃなくなる
輝元がそこまで考えてたかどうかはしらんけど 輝元が西軍を決起させたのは毛利がかつて握っていた瀬戸内海権益を取り戻すため。伊予が敵だと危ないし伊予には親毛利勢力もいるしで攻撃した。 >>707
それは東軍さえ始末出来たらいつでもできることじゃないかな
家康さえ討てれば、伊予どころか天下すら夢ではなくなる
前田利家はもういないから、事実上のナンバー2が毛利だし 家康を討つのに後方の安全が必要だったんだよ
西軍の家康が孤立するという史実と比べると楽観的な見立てでさえ
関東へ攻め込むのは勢力を再編した翌年の予定で
つまりそれくらい家康と対峙するのは恐れられていた
足止めを期待していた上杉でさえ最上や伊達を何とかしないと
戦端を開く結城がなかったんだから 奉行の中での序列は署名順から
失脚前から三成は下位なので
失脚中の関ヶ原時点では確実に下
書状の研究は非常に重要で
そのことから三成が序列以上に
乱に対して主体的、積極的だったのがわかる
恵瓊は毛利の代理人と考えると微妙なとこ
ただ大名として三成より格上
とするのはちょっと無理あるかと >>705
長束が連署してるものなら沢山ある
単独で発給した書状に限定するならこの時期伝存してるものはないと思う
増田や石田はあるんだけどね
安国寺は8月20日付で福原広俊、吉川広家と連署した書状が二通あるが、
毛利家中の揉め事(毛利秀元小姓と益田元祥家臣との喧嘩)に関連するもの
後は安濃津城合戦の首注文を増田と堅田元慶に出してるくらいかね >>707
話はそれるが伊予側の来島海峡域は戦略的重要部だからWW2中にも島嶼部の山に戦艦の迎撃大砲を設置してたぐらいやしね
米軍が海峡を通過する事を想定してたのには引いたが
日帝は結構やる気があったの凄い 四国?そんなど田舎誰が欲しがるん?
って思われがちだけど割と重要な海運の要所。毛利氏も四国には大分入れ込んでいたけど秀吉に全没収された。それを取り戻す機会をずっと窺ってたんだとさ。 たいかう検地では伊予は30万石くらいだが、わしなら治山治水を活発化させ、50万石、いや、70万石にもしてみせよう。 西軍は対徳川を重視してない。伊勢に展開するにしても美濃があそこまで手薄なのはいくら何でも酷い。てことから考えるに輝元はこの戦争が長期化すると読んでいたんだろう。打倒家康と言ったって江戸城まで遠いし家康が野戦で出てくるとも思えない。家康を討てないんだから毛利領拡大を図る。っていうとそれっぽくはある。
ただ家康の方が遥かに遣り手で美濃を一撃で抜いた後、小早川秀秋を調略で落とすと大垣に集まった西軍勢力の退路を断たせて撃滅した。まぁ格が違ったんだよなぁ色々と。 西軍が秀頼を担げば会津征伐軍は正当性を失い
諸将はそれぞれに国許に帰る
孤立した家康は遠征ができない
という想定だね
実際家康自身は東軍先鋒が岐阜を落とすまで
動けなかったのでまるっきり的外れとも言えない
東軍先鋒諸将が動揺して離散するどころか
結束を保ったまままとまった軍勢で
攻め上ったことが最初にして最大の誤算 後鳥羽や後醍醐が関東の敵対勢力を糾弾しても相手が孤立するどころか
逆に攻め上ってきて追い出された歴史は当時の人間でも知っていることなのに
はっきりいって誤算する方がどうかしている
西軍首謀者連中は天皇・上皇さえも超越した神にでもなったつもりか 政権の担い手として家康が支持されているという状況を認識できなかったから
家康相手に政争を仕掛けて逆に追いつめられクーデターを起こして負けたんだぞ
自分を過大評価して負けるあるいは相手を過小評価して負けるもしくはその両方というのは
失敗の理由としてはオーソドックスなものじゃないか 後世から家康を絶対視しすぎだろ
確かに家康は凄いが本当の凄さが出たのが関ヶ原だからな
史実ルート外も十分あり得た訳だしめちゃくちゃ叩くほど政治レベルでの毛利は駄目でもない
戦略戦術はゴミやったけど というか長期戦でないと勝てないのは
毛利だけじゃなく西軍全体の戦略がそう
毛利だけの責任とするのは無理がある
東軍先鋒が瓦解せず各個撃破か調略が通じず
岐阜落とされて大軍が押し寄せた時点で
見通しの効く連中は決戦回避や内応に動いてた
ジリ貧なのに好戦的に動いて負けた連中を
持ち上げるためにその辺を過小評価しすぎだよ 輝元からすると時間稼ぎで充分という発想はあったろう。徳川自体は上杉と同盟してる佐竹が怖くて動けないはずだったし。家康は西上にあたって兵隊を少数に分けて行軍させるという異質な戦略をとってる。白峰氏曰くこれは豊臣公儀に追放された自信の無さの表れ、らしいけど上杉や佐竹に西上を知られたくないっていう理由の方が大きいと思う。現に景勝は秀忠の西上は知ってたけど家康の西上には気付いてなかったはずだし。 >>711
首謀者・大谷吉継説がある
異説であるが自分は支持したい
武断派に嫌われている石田三成、小西行長はむしろ関わっていないほうがマシなのだ 空弁当だの問鉄砲だのと脚色された戦いではなく、実際の戦いはどうであったかを検証すべきだ それは迂闊であった。じゃが今、兵に弁当を与えておる最中なれば… 徳川は大谷吉継が西軍に与した理由を「宇喜多騒動を家康家臣榊原康政と解決しようとしていたところ、康政が地元を疎かにしてしまい家康がこれを叱責した。それを吉継は不愉快に思った」としてる(康政に「領地を顧みずに騒動解決に夢中とはどういうことだ、そんなに礼金が欲しいのか」と叱責したところ何故かこれが吉継にも漏れて「家康の事を思って骨を折ってるのに礼金目当てと言うのか」とキレたらしい)
対して石田三成は「なんであいつ刃向かってきたん?」だからマジで理解不能だったようだ。 >>727
単純に徳川が大谷吉継と石田三成の蜜月関係を
知らなかったんじゃないかね。 家康が豊臣有力家臣の交友関係を把握してないって
そんなことあり得るだろうか 知ってたかもしれないけどまさかそれで西軍に参加するとは思ってなかったかもしれん。時代劇なんかだと「三成が敵なのはわかるが吉継まで!?」って描かれたりするけど「吉継が敵なのはわかるが三成まで!?」だった可能性もあるのか。 >>728
そもそも大谷と石田の蜜月って何が根拠?
茶の話とか全て後世の話だぞ
三成吉継肯定派って、なぜか三成吉継に都合のいい話は
常山とか名将とか疑わしい後代の史料を用いるんだよな >>721
関ヶ原は完全な消化試合でしょ
徳川方の史料の「当代記」すら「小早川に脇坂に小川が裏切って
あっさり終わりました」とあるだけだし
まあ、小早川を事前にちゃんと調略したのはさすがは家康だが
そもそも関ヶ原の相手が石田三成とか家康ラッキーすぎるだろ
あれが信長か秀吉だったらと思うわ
慶長5年9月12日付書状で三成の奴、「敵が何を策しているのかわかりません」
とか書いてるし。三成は敵味方の動向に注意を全く払ってなかったのかよ
しかもこの書状ではこの日に軍議を開くとかあるし
8月24日に垂井を奪われて危機的な状況なのわかってたのか? >>731
当代記と玉露叢。なにせ大谷吉継は事情聴取を受ける事なく戦死してる。その内心を徳川が知る由は無い。ただ徳川には心当たりがあってそれが宇喜多騒動だった、というお話。 豊臣有力家臣の対軸の話なら加藤清正vs小西行長が根本的にある問題やからそこから見ないと始まらない気がする
それに乗る形で派閥みたいなものがあった感じやろ >>730
家康としては七将襲撃事件で穏便な裁定を下してあげたのになんでって事じゃない?
加賀征伐の時期には失脚中の三成に代わって
家康の命令で吉継に石田家の兵を指揮させてるそうなので
程度の問題はあれど両者の関係性を知らない可能性は低いのでは >>734
とりあえず当代記読んだら大谷は中納言の言い分を立てた、家康は家老の申し分に同じた
それで大谷が「批拠」を申し立てたとしかないんだが
玉露叢の当該部分も読んだが、到底信用できない
まだ価値のある卜斎記はこうしてるよ
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1599/17-6-1/20/0019?m=all&s=0018&n=20 玉露叢は当代記より50年も後の史料だから後代史料じゃない?
常山とかよりはマシだけど 当時のリアルタイムで、西軍挙兵の際に
「石田三成、大谷吉継謀反」とあるから、やはり仲が良いところはあったのかな?
どの書状も大抵は、石田と大谷だし
松井の書状が確か「毛利輝元」が加わっていたかな? >>736
加藤清正VS小西行長より、
蔚山における福原長高と熊谷直盛のほうが酷いんじゃないか?
しかもあの讒言で福原は讒言したやつを改易に追い込んで、自分が所領を得てるから酷すぎる 現実的な問題として大谷吉継の決起理由がわかる史料が無いからね。ただ「徳川としてはこうなんじゃないか」という話で。それよか全く覚えが無い石田三成の方が割と不気味ですよ。 >>732
何故か武功夜話では恋人関係とされる二人だけど一応他の史料だと宗湛日記では秀吉の勘気を蒙った吉継の為に三成が尽力してたことが残ってたりしてる。 三成の挙兵ってダチだと大谷くらいしか知らなかったんでしょ?兼続、義宣の動き鈍いもんね >>733
東軍の動きはかなり不可解なのよね。8月24日に東軍は垂井まで占拠した。このまま次は大垣か佐和山攻めになるはず。
ところが東軍はそこで行動を止めて9月12日まで傍観してる。お陰で西軍は大垣方面に兵を集める事が出来た。でもなんでこんなことしてるんだろ?と思うのは当然といえば当然。
かといって打って出るのも難しい、厄介な局面を抱えていたのも事実なんだが。 >>745
家康が小早川を調略してたからじゃないの?_
ついでに脇坂もやってたみたいだし
家康はこのとき、清須にまだ着いてない
着いたのは9月1日
しかも当代記では、家康は清須で病気になったとある
数日で回復したらしいけど、やはり60の爺さんに遠路はきついんだろうな 問題は西軍がこういう東軍の動きをほとんどつかんでないこと
9月12日付三成書状で「東軍が何を考えてるかわからない」とあるから、全然つかんでないことが
丸わかり
東軍は佐々正孝とかに西軍の情報が筒抜けになってるのに、何やってるんだ >>746
三成たちは知る術は無かったけど多分そう。実は割と家康もキツくて佐竹上杉が家康西上を知ったら攻めてくるってプレッシャーがある。だから一撃で仕留めないといけなかった。
とはいえ確かに三成は結構迂闊。 >>748
佐竹は8月時点で常陸に引き篭もってる
上杉は伊達に城をいくつか奪われてたし、
そこまで不安視してたのかねえ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています