実は創作だった通説・俗説7【コピペ・レッテル貼禁止】
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史実かと長年思い込んでいたが、実は講談や軍記物、
あるいは小説や映画大河ドラマなどの創作だった。
そんな話を語るスレです
自分の気に入らない主張に対してコピペを連投したり
レッテルを貼ったりする等をはじめとした荒らし、煽り行為は禁止です
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デジタル大辞泉より
そう‐さく〔サウ‐〕【創作】
[名](スル)
1 新しいものをつくり出すこと。「新式の工具を―する」
2 文学・絵画などの芸術を独創的につくり出すこと。また、その作品。「物語を―する」「―舞踊」
3 つくりごと。うそ。「そんな言い訳は彼の―だ
※前スレ
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1612849924/ >>850
秀吉の指示による朱印状でも発見されていたのか?
それがないなら無断じゃね?
秀吉は聚楽第にいなかったしな
聚楽第が破却されたのも併せて考えると違法な行為だっとわかる >>851
そもそも、当時の政権構造でいうと、トップは秀次で秀吉は隠居(徳川幕府でいえば大御所)。
実務的なことの決裁を全部秀吉にもらう理由がない。 >>852
それは間違いだ、
秀吉は内覧権をもった元関白だから太閤なのであり、隠居などしていない
江戸幕府でも大御所が実権を握っていたように元役職のほうが実権はもっている。
これは武家社会でも基本ルール、元当主が地位返せといったら返さないといけない
御成敗式目にもかかれてあること 内覧は空位だったので近衛信尹が一時期望んだが秀次が兼ねるようになったんでは 太閤というのは関白を辞した後に内覧の宣旨を受けたものを太閤という
関白をただ辞しただけでは太閤とは呼ばれない
秀次に権限の委譲をしていた時期ではあるが、だからといって実権を手放すわけがない 秀次官位
天正19年(1591年)12月28日、関白宣下。内覧宣下。豊臣氏長者宣下。内大臣如元。
文禄元年(1592年)1月29日、左大臣に転任。関白・内覧・豊臣氏長者如元。
太閤にそういう意味はあっても秀吉の場合は違うね 秀吉は基本的に家父長権を以て秀次などの上に君臨していたと考えるべき。
これは院政、或いは大御所政治も一緒。 「摂政や太政大臣の敬称、また関白を辞してその位を子に譲ったものの称号、さらに関白を辞してのち内覧の宣旨をこうむったものを太閤と称することもある。(中略)第二の意で用いられることが多い。後世、太閤の事例として、豊臣秀吉の例が著名であるが、これは養子秀次に関白を譲ったことによるものである。」(国史大辞典「太閤」)
以上。 秀吉が内覧に就いた記録しらない
>>860
ありがとうございます
最後の文によれば第一の意で用いられたと読めますね >>862
それはもう決着ついたから>>849のソース教えてくれないか? >>861
第二の意味で用いられるというのを無視してて笑ったw
秀吉が内覧についた記録は木下氏文書に残っている。
>>863
聚楽第の発掘調査でググれば? >>864
木下文書って足立木下家の通称豊臣文書だよな?何年頃なん? >>849
婚姻や誓紙、金のやり取りがアウトって何のこと?
いやマジでわかんないから具体的に頼む
秀次死ぬ前にその辺がアウトとされるような
いかなる命令が出ていたと確認できるんだろう? 聚楽第を増改築してたってのはわかるんだが、
それは秀次が勝手にやった事で謀反の疑いになって処断されたってのは
それだけで納得する人いないだろなw 別に論文か本か、無ければ史料さえ出してくれればいいだけの話なんだけどね
ソース無しなら他の人は妄想書いてるだけとしか思わんよ 秀次が内覧に就いた記録はあっても
秀吉が内覧に就いた記録は豊臣文書にはない 兼見卿記によると、堀の幅は二十間・深さは三間
とあるがこれが変わっていたとしてもいつ堀を弄ったかとかわからんしな 武家で現当主と先代当主が争うのなんて珍しくもない その場合はお互いが相手を謀反と言うだろうね それで勝ったもの勝ち そもそも聚楽第の堀なんて多少いじったとこで
そこに篭って太閤と戦なんてあり得んだろ >>865>>870
85年7月11日に内覧の宣旨を受けてそれからずっと内覧にとどまっている、関白の地位は譲ってもな
秀吉が内覧についている記録がないとか無知にもほどがある >>866
849を読み直せ、
秀次が謀反で処罰された、それを受けて秀次が当時していた、無断の増改築、誓紙のやりとり、金の貸し借り、無断での婚姻が、
御掟や武家諸法度で謀反と判断される行為として規定されたと書いているだろうが。
当時は今みたいに法を周知してからそれに違反したので法令違反となり、逮捕されるような法体系ではない
無断での城の築城や改築は戦に備える行為と判断される
誓紙や婚姻や金銭の授受は大名同士の同盟や徒党を組む行為
つまり大名を集めて連携をとって謀反を準備していると認識されたのだ
釈明の為の召還にも応じなかったしな >>875
7月11日の宣旨にも詔書にも内覧の文字が見当たらないので
マジでどこのこととを言っているのかできれば引用してくれ >>874
福島らもそう思っただろうが、当時はそれでも謀反と判断される時代だった
秀次の場合は無断築城だけではなくて、半島への渡海拒否という軍役拒否、蒲生転封指示を否定して強引に世襲させる、
毛利や細川らの大名への金銭のやり取り、その資金が伏見の公金疑惑、最上らとの無断婚姻、
皇族よりも自分の治療を優先させた問題、家臣共々日ごろの素行もよろしくなかった。
それらにより謀反の噂となり召還命令が出ていたが、最初出仕して釈明しなかった。
積み重ねの結果だ >>877
奉 勅従一位藤原朝臣宜令内覧萬機者
天正十三年七月十一日
関白や牛車の許可と一緒にもらっている >>876
あなたこそレスを読み返せよ
8496すでに反論されまくってる
増改築はそもそも無許可の根拠さえなく
誓詞や婚姻を禁ずる御掟も秀次死後だ
ついで言うと一次史料では秀次の処分理由について
謀反は嫌疑や風聞について否定的な記述ばかり
政権から増改築を咎めた記録さえない >>878
どの理由も政権として説明してない
不思議な論理だね
そしてあなたが読めと上から言ってきた
849には記載のない話だね
聚楽第は軍事施設ではなく関白の政庁だし
誓詞婚姻は大名に限らず日本中のあらゆる階層で
行われる慣行であって秀次事件以前に規制は出てない >>881
秀吉が命じたものがないなら無許可だが?
秀吉が命じたものがあるのかね?
誓紙や婚姻も禁じる御掟は秀次以後である、そうその通りだ、
秀次が切腹した翌日であり秀次謀反を受けて、無許可での誓紙や婚姻は謀反と規定されたのだ、そう書いてあるのだが理解できないのかね?
>>882
誓紙や婚姻はあらゆる階層で行われていることであるが、なんで行われているのか理解しているのか?誓約を結び順守させ、婚姻は家同士の関係を強化する同盟を結ぶことを意味している。
分国法などをある程度知っていればわかると思うが、今川や武田など多くの大名では家臣の婚姻は主君の許可が必要とされており、ましてや他国の人間と勝手に婚姻は出来ない。
だから秀次謀反を受けて御掟で明文化されて明確に禁止されたのだ 根拠がないな
あなたが史料にない謀反を主張してるのはわかる
でも秀次謀反を受けてと言うが処罰理由からして
書状等見ても政権は説明してない 誓詞や婚姻が謀反なわけではないし
誓詞や婚姻が謀反を前提とした徒党であるなら
その塁は秀次とその妻子だけではなく
誓詞や婚姻で結びついた先に及ぶ 聚楽第は軍事施設ではなく政庁であるというのなら、その政庁を秀吉に許可をえずに勝手に城塞化していたら謀反を企んでいると睨まれても仕方なかろう
当時は勝手に築城することも禁止されている。
山城停止令があったかどうかは今も議論になっているが、秀吉の指示による築城や、
多くの家臣の城の破却などが実施されたことに異論はあるまい、そしてそれらが謀反と判断されたのはのちの江戸幕府でも同じだ
無断で城を増改築し、大名から誓紙をとり、婚姻関係を結び、軍役を拒否し、秀吉の指示に逆らっている
巷では謀反の噂が出ているので、釈明にこいといったが拒否した。
一次史料では謀反の嫌疑は風聞には否定的?それは違う、謀反の嫌疑あり風聞があったのは一次史料でも記されている事実だ
風聞だから問題ないとしているものがいるだけでな。
秀吉側はそう判断しなかった。だから謀反の疑いで処断された。 >>884
史料にないとは?
太閤様軍記のうち、言経卿記、川角太閤記、御湯殿上日記、当代記、太閤様御諚覚、これら全てで謀反の嫌疑で処罰されたとされているのだが?
謀反の実態がわからないだけだ、挙兵前につかまって処断されたから当然なのだがね
そして秀次切腹の翌日に無断婚姻や誓紙などは禁止とされて通告され、大名から順守する誓紙の提出を求めている。
これらをみて、秀次処断は無断婚姻や誓紙などと関係ないと? >>885
実際最上や細川や毛利などにも飛び火するところだった、密告者(?)でもある毛利は別として、金借りていた細川は返金し、
最上は姫は処刑され、政宗は速攻で土下座してその後多くの家臣とともに上洛常駐となった。
公家にも飛び火している。
付家老などの多くの家臣も連座で処刑されている。
実際に謀反を起こす計画があったかどうかはもはや不明であるが、謀反の疑いで処断されたんは間違いない >>887
本当にそれら読んだ?
読んでその感想になるはずないんだけど >>889
引用された部分はね、みな謀反の疑いで秀次は処断されたとされている。
筆者が謀反は誤解とか解説しているものもあるが、秀次が謀反の疑いで処断されたというのを否定しているものはいないだろ。
誰が謀反の疑いを否定しているんだ? >>890
そこから一気に無断婚姻だの起請文だのに飛ぶのがおかしいんだよ
秀次がさもやってたかのように
上記で引用された史料でもそこに言及しているのないし、「むじち」との指摘が多い
分かる? >>891
なぜ?
秀次は無断婚姻や誓紙のやり取りをしていた、謀反の疑いで処断され、同時に御掟が発表され、
無断婚姻や誓紙は禁止された
つまり秀次は無断婚姻や誓紙の集めたことで秀吉から謀反の疑いで処断されたとわかる。
秀次一族を処断した翌日に発表されたものと、秀次処断の理由が無関係とみるほうがおかしかろう
むしちにしてもあれは提唱した本人が解釈違いであり、無実ではなくて、
不誠実な対応をとがめられたからと改めているだろうに >>892
壁書、それに追加は読んだかい?
一部、権力を委譲していた関白がいなくなった
だからこそ秀吉が「俺が天下人」と改めて内外に示す意味でないかね
私婚、誓紙だけ取り上げるのは恣意的でしょう
そもそも、その二つはもとより大名(天下人)権力の専権事項でしょう >>893
謀反の噂に対して不誠実な対応をした結果だと言っているのだが
秀次は謀反と疑われても仕方のない行動をいくつも行っている。
>>894
天下人は誰かなど誰もが理解しており改めてだす必要などない
また御掟は秀吉の名前ではなくて大老の名前で出されている
1は婚姻、2は誓紙、3は大名同士の喧嘩や口論、4は讒言、5でやっと身分統制に関するもの
4まではどうみても秀次事件をうけて新たに明文化したとしか思えない。
追加はいつ発表されたのかも不明、翌日に発表された御掟とは性格が異なるのは当然 >>895
その五か条、どれも御成敗式目以来の武家政権なら当たり前の前提でしょうよ
権力再構築に当たって明文化したと捉えるべきで、秀次の罪状を述べたものと考えるのは恣意的
しかも世間からは秀次謀反に疑問符が投げ掛けられたのはwikiから引用しただろうあなたの挙げた史料でも自明 それになにをもって謀反の疑惑への対処の仕方が不誠実というのか
同じく一族がやられた荒木は出頭命令を拒否して実際に謀反
秀次はおとなしく伏見に出頭してるじゃないか
最近じゃ秀次が勝手に腹切った説もあるが、それほど秀吉のやり方が当時の慣例として不可解だったからこそ
謀反だというなら武士としての死に方を許さない >>895
謀反と疑われてもしかたない行動をいくつも~というのも疑問だが
不誠実な対応だったから自刃したと、謀反があったかは別問題だよ >>887
>>888
あーやっぱり「謀反と書いてある」と
思い込んでいるんだね
創作では大体謀反で切腹とするので
そう言う勘違いは結構ある
史料読むの苦手なら無理しないで
ドラマや小説ではなく
ちゃんと史料を基にした本を
区別するとこから始めなよ >>896
御成敗式目にはないはずだが、分国法にはよく入っているもの
だが豊臣政権では明文化されておらず、秀次はそれに違反する行為をいくつも行っている。
それによって謀反と判断されて一族郎党皆殺しになった。
次が出ないように、御掟で明文化して周知した。秀次処断を見せしめにすることで謀反を抑止し法を守らせるためにね
権力再構築?絶対権力をもった存在である秀吉にそんなものは必要はない、実際秀次一派は謀反をあきらめてみな処断されている。
秀次は違反する行為を行い、秀次は処断された。その翌日に公布された法が秀次の罪科と無関係のわけがないだろうが
当時の史料でも秀次は謀反の疑いで処断されたと書かれている。
秀吉は示したのだよ、無断婚姻や誓紙は謀反であると判断して処罰するとね。
どこにも矛盾点などない。 ちなみに言経卿記は「御謀反必定由風聞也」
御湯殿の上日記の「むしち」は
切腹の理由であって処罰理由でない
誠意のない政権、奉行に対する抗議として
という読み方もできるよ >>897
秀次は当初出頭していない,通説によると3回目くらいでやっと出頭しようとして対面を拒否され高野山行きとなった。
あの新説の勝手に腹を切ったか、可能性は低いな。
謀反ということで市中引き回しで処刑されるよりは勝手に自害したほうがよいと判断して、
勝手に腹を切った可能性までは否定できないが、一族郎党まで処刑されている以上秀次の罪は謀反で問題ない >>899
太閤様軍記 鷹狩と称して謀反の相談という話があった
御湯殿上日記 今朝関白様へ太閤様から使いがあり、謀反の沙汰
言経卿記 謀反の風聞
当代記 関白は太閤への謀反の計画が漏れた
全部謀反が理由で秀次は処断されている。
それを筆者が個人的に否定していたりするケースもあるが、秀次が謀反で処断されたことになんら変わりはない なんか話が合わないと思ったら、謀反が事実かどうかじゃなくて政権が謀反としたと主張しているのね それ全部風聞、噂で断定してないぞ
御湯殿の「沙汰」はそれによって
太閤の機嫌が悪くなったとあるので
太閤の決定ではなくて謀反の話が
取り沙汰されたと取るべき
そして「むしち」云々という記述 >>901
抗議の切腹説だろうが、秀次がその後さらし首になり、一族郎党処刑されているのだから
秀次は謀反で処罰されていることはかわらんが
秀吉の命令で温情で秀次には切腹を許したのか、誠意のない対応ゆえに切腹になったのか、
公開処刑される前に自発的に切腹をしたのかの違いは判らないとしかいえん
確実なのは秀次は謀反で切腹したということだ 失礼その中だと寛永年間成立の当代記のみ
風聞と言った曖昧な書き方ではなく
三成の讒言だとはっきり書かれてるね
まあ寛永年間成立なのでそこは差し引くべきだが
逆心は虚言とも言ってるのは興味深い >>904
最初からそう言っているが、正しくは秀次は謀反と判断されることをしている、だ
実際に謀反を企んでいたかどうかなどは、秀次本人の日記でもないと不明だ
>>905
違う、秀次は謀反で処断されている、それは全てで一致している
それを著者によっては謀反の計画は噂だからとか、誰かが讒言したからと記しているだけだ >>906
ところが太田牛一が秀頼に差し出したと思われる
「たいこうさまくんきのうち」でさえ
謀反の談合は風聞であり政権は切腹命令を出してない
(代わりに殺生関白と因果応報が強調される)
切腹を命じたとされるのは甫庵太閤記だが
引用されてる文書は体裁から偽書
同時期に高野山での過ごし方の通達文書があり
また使者の福島らの移動時間を検証しても
不自然な点が多い >>908
そうは読めないね
苦手なら解説付きの本を読むといいよ >>909
矢部説とかいう珍説はどーでもいいんです
謀反でもないのに勝手に腹切っただけなら一族まで誅殺されてねーよ
>>910
お前が読めないのはお前の知識の問題なので俺にはどうしようもない
勉強しろとしか 事件当時、秀次の謀反によって処罰されたという「風聞」があったのは事実
あくまで秀吉側の言い分としてであって、同時代でも批判的な論調
一族を消した翌日に国法の再確認があったのも事実
そこから飛躍して(ここまで主張してるかは論旨があいまいで分からんが)秀次は謀反していた、罪状もしくは証拠は私婚、起請文だと言い募るからおかしくなるんだよ
壁書はしごく当然の慣習法みたいなものを示しただけ
であれば秀吉ー秀次二頭体制から秀吉単独政権へと移行したことを天下に強調する意図だったと考えるのが自然
病人は輿に乗ってもいいよというのも秀次の罪状なのか?
少なくとも秀次は位人身の関白だったんだぞ? 何言ってんの?
秀次は謀反によって処罰されたは風聞ではない
それは事実だ
その謀反の噂が風聞ではないかという話があるだけでな
御掟は再確認でもなんでもなく、秀次事件をうけて秀次を見せしめにして、一罰百戒を込めて法を制定したにすぎん
次同じことをすれば秀次と同じ目に合わせるとしてな
秀次がやっていた無断婚姻と誓紙が規制され、讒言や口論争乱も同時に禁止されたのも事件をうけてだ
輿に乗る乗らないというのも身分統制、おそらく秀次家臣が増長してたんだろ
この辺りは推測だがね。 >>913
輿以外はいずれも甲州法度之次第にも出てくる、いわば武家社会の常識、基本の基本でしょ
勝手に誓約を結ぶなとか、喧嘩両成敗とか
それを以て秀次の罪状となぜ断言できるのか
壁書は見せしめの一環だったなんて史料あるの?
同時代の太田だって私婚、誓約が理由だなんて記さず悪行に帰している
おまえさんのいうことが正しいなら秀吉の意図はてんで世間に理解されていないことになるな
そも、秀次は誰と私婚、誓約してたんですか?教えてください
毛利の怪しい記録か? 第一、秀吉ないしは奉行が罪状を謀反だったり私婚だなんだと表明している史料あるかい?
あったら示してほしい
こちらは以下の史料を掲げよう
吉川家文書、島津家文書、武家事紀所収の秀吉、三奉行が発した文書
内容は同じなので、関係箇所を読み下してあげるから読んでみなよ
今度関白相届かざる子細これ有るについて、高野山へ遣わされ候、其外別状なく候間、気遣い有るべからず候
今度秀次に相届かざる子細があったので高野山へ追いやった、そのほか(本土では)問題はないので、(派遣中の朝鮮でも)心配しないように
ってとこだ
謀反なら謀反と書けばいいと思うがねえ
あと、吉川広家宛でもあり、毛利と誓約したかどで謀反を疑われたならおかしな話だよねえ >>913
秀吉側でさえ謀反で処罰したと説明してないんよ
毛利への書状も行き届かざる仔細とか
不慮の御覚悟とか非常に曖昧 >>914
そう「基本」であり「常識」であり、地域の武家社会には慣習法として存在しているが、
全国政権であった豊臣政権には成文法として存在していなかった。
だから秀次が違反していたとしても咎めるものが存在しなかったし、これからも同様の事例がでないといえない
なぜ見せしめとして判断できるのか、それは秀次一族をさらし首にした翌日にこの法を発布したから
秀次が失脚して高野山に追放されたのは七月八日(入山は十日)
秀次が切腹したのは七月十五日
妻子がみな処刑されたのは八月二日、御掟は八月三日に発布されている
新政権?うんぬんなら、秀次が追放されたか、切腹した翌日でいい。だが一族郎党が処刑された翌日なのは別の意味がある
無断婚姻は最上ら、誓紙は毛利らだな。
正室の池田家の姫(事件以前に死亡説もあるが、生存説のほうが有力)は類が及んでいないことを考えると
秀吉が取り持った事例は処罰されていないことがわかる >>918
御高説は何遍も承った。
物証を提示してくれ。 >>915>>916
罪状は謀反の疑いと言っているのだが、その謀反とされた理由が無断婚姻や誓紙などということ
で、それらの書状が誰に充てられたものか少しは考えてからレスしてくれ。
吉川や島津
渡海している連中あてだ、国内でナンバー2で後継者であった秀次が謀反の疑いとか
遠征している連中に言えるわけねーだろうが。国内情勢に不安があると判断し帰国してくるわ。
ついでにそれらが送られた日付は七月十日、秀次が切腹したのは七月十五日、一族郎党が処刑されたのは八月二日だ
秀次の謀反の疑いで一族郎党が処刑されたのは八月二日であって、七月十日の時点ではまだ容疑は固まっていない。
捜査中の段階で謀反の疑いで処刑されたとか書くわけないだろうに。
時系列くらいは頭に入れてからレスをしてくれ、最低限のことだこれは >>920
それらの日付をはじめとする記述内容が物理的事実と整合していることの証明は? >>919
太田の太閤様軍記にあるだろ
鷹狩と称して集まり謀反の謀議がしているとな。
そういえば指摘忘れていたが、太田は悪行が理由とは書いてないぞ。
鷹狩で謀議の噂で、粛清されたのは日ごろの悪行の結果であり、因果応報だろうとしているだけ
秀次の悪行は別に否定しないが、悪行は理由ではない。
悪行は太田の思想によるところによる分析にすぎない。 >>922
物証を、と云っている。
以下、俺が他スレに書いたものの自己転記で恐縮だが要はこういうことだ。
(以下転記)
モノの寸法を目盛の怪しい物差しで測っても測定値が真値であるとは云えない。
素性定かならぬ物差しを何本持って来ても測定値の信頼性が上がることは無い。
幾つもの文献群を突き合わせて「ちゃんと史料批判をしている」などと云ったところで、要するにそういうことでしかない。
信頼性の高い測定値を得るには原器からのトレーサビリティを確保した較正済の物差しが必要だ。
然して「文献」なるモノは本質的にそれが不可能であることを知った方が良い。
(転記終り) >>921
十日の時点で秀次が謀反と判断されたのなら、秀次は高野山への追放ではすんでいない。
その時点で一族郎党と主だった家臣みな捉えられて市中引き回しの上で磔刑などに処されている
秀次が追放や切腹で済むわけがない。
というか十日の時点の書状をもって否定する時点で何もわかってないんじゃないの君
山科言経でも八日の時点では両者の不和と噂が原因で出頭したという話で、謀反の噂で切腹したというのはのちの記述
捜査の進展かどうかは断定できないが、客観的にみても秀次の罪状が徐々に重くなっていったくらいはわかるだろう >>923
挙兵前に謀反の謀議で粛清された事例に物証を出せとは?
実際に兵をあげていない限り物証など存在しない。
事前に粛清されたので物証はないから、無罪にはならない。
韓信も挙兵前に謀議の時点で下僕がタレコミをして捕まって劉邦が不在の間に問答無用で処刑されている。
それが真実であったかどうかなど真相は闇の中であり、物証など皆無だろう。
で、それに対してお前は韓信が謀反をした物証をだせ、とか言っているに等しい
鉄砲衆を集めていたり、城の増築をしていたり、無断婚姻や誓紙を交わしていたので謀反と判断された結果、
秀次は粛清された、だ。 >>924
そいつは文献史学否定してるやつだろうから構うな
にしてもだ、朝鮮派遣軍に送った文書は少なくとも3通確認されている
吉川、島津、立花宛だ
容疑が深まったどうこう言うなら吉川はどうなるんだ?
出先からすれば秀次は政権ナンバーツーというだけじゃなく、自身の渡海も検討されてた人物
秀吉、奉行からしてもこの処遇はやばいなという自覚あるから文出して安心せいと言っているんでしょ
秀頼かわいさという古典的な俗説が全面的に正しいとしか評しようがない
少なくとも同時代人には秀吉の振る舞いが酷評されている >>926
秀吉が茶々が懐妊したのというのを知らされて、寧々に返信したものが残っているが、
その時の秀吉の書状は愛情あふれるようなものではなく、懐妊はめでたいとしつつも
私たちの子供は死んでしまった(最初の子供は秀吉と寧々に認知され二人の子供ということになっている)
この子は茶々一人の子供でよい、子供は自分の乳で育てろ(当時地位が高い人間で乳母不在は考えられない)
業腹とまで書いている。
服部説をある程度信頼しているのもあるが、公認の托卵鶴松と、勝手な托卵である秀頼では扱いが異なるだろう。
少なくとも最初から秀頼に愛情があったとは思えず、そのさして愛情のない秀頼の為だけで粛清されたとは考えにくい
秀次側にそれだけの理由があったとみるべきだろう >>924
文献の牢獄から一生出られないようだな。
文献の記述を文献で証明することは出来ない。
それは物証とデータによってのみ可能なことだ。
>>925
物証が無いということは即ち真偽の判定が不可能ということだ。
つまりそれは「語り得ぬこと」の範疇に入る。
「語り得ぬことについては沈黙しなければならない。」
お前さんも文系脳なら人文系最高の知性の一人であるヴィトゲンシュタインと彼の『論理哲学論考』ぐらいは知っているだろう。
彼が最後に辿り着いた結論を思い出すことだ。 秀次君は謀反なんてしてない説を唱えるのはこんな奴ばかりなのか、
まともに相手して損した >>927
だろうじゃなくてさあ
たいこーさまぐんきのうちにそういう描写ないでしょ
ほかにある、まさに一次史料でも
一族殺してから匂わすんじゃなく、証拠があればさっさと示すでしょ
仮にも関白をやるんだから
武家政権の基本法を明示しただけだ、あれは
関白ではなく秀吉こそ、っていう表
当時の法感覚でも秀次有罪ならそういう記録が残るでしょ
ギルティってのは悪逆だのどうのだけ >>931
愛情説が成り立たないのは理解したな
そして秀次粛清する場合渡海している連中が不安になるだろうし、政権にダメージがあること、
彼らをなだめる必要があることを秀吉や奉行らが認識しているのも理解しているよな?
それでも秀次粛清が慣行されたのなら、それ相応の理由があることがわかる。
太閤様軍記には、鷹狩と称して集まって謀反の謀議をした、他にも木村と粟野が謀反を唆したというのがある
秀次付きの家臣の多くは切腹だが、木村と粟野(一応こいつも切腹説はあるが)だけは斬首であり、
刑罰が一段と重い
木村と粟野が謀反を唆し、秀次が謀反と疑われるようなことをしでかした結果であることが一次史料からもわかる 朝鮮へ出征中の相手だから嘘ついたというけど
それだと他の相手へは謀反とはっきり説明するはずが
では何故それは残らないのかとなるね ここの人たち基本的に事実を明らかにしようという気持ちが微塵もなくて
ただ知識マウンティングしたいだけだからひたすら煽りあいしかしなくて不毛で害悪なんだよね
何か主張するならその前に先行研究の提示と史料引用なんて常識としてやるべきことなんだけど
なぜか一向にやろうとしないから論点も明確化されないし全く意志疎通できないんだよな >>936
上にも書かれてる山科言経も謀反の疑いで切腹させられたのを知って、
謀反はただの噂なのに酷いとか日記に書いている
つまり秀次が謀反の疑いで腹切らされたのは畿内では広まっていた 既に書かれてることだが
不可説
「説明ができない」が言経の結論だよ
高野山で腹をめした云々、言語道断だ、謀反は噂に過ぎない
と書いてはいるが謀反の咎で切腹させられたとは書いてない
御湯殿にいたってはむしちの解釈は割れるが
無実であるから切腹になった(謀反なら斬首)
あるいは不誠実な対応により切腹になった
で謀反で切腹ではない じゃあなんなんだよ!謀反しかないだろ!
て言いたいのだろうけど
それが当時の史料上の表現
当時の人間にとっても不可解で
理由がわからない切腹であった
先に書かれていたように謀反の連座なら
誓詞交わしたり婚姻した相手方もアウトだが
秀次とその家族だけが連座 よくわからんが謀反の罪で裁かれないとわざわざ「謀反の疑いは噂に過ぎない」って書かないんじゃないか 何の罪か分からなくても謀反の噂がその背景にあると推測したら書くんじゃない?
知らんけど 判ることは
1.秀次は切腹の処分で命を絶った
2.秀次には謀反の噂があった
1.と2.との間に因果関係があるかどうかは不明瞭
2.→1.、すなわち噂を基に切腹が課せられたとすれば、納得できるものではない
とする見解の持ち主の一人に山科言継がいる >>938
謀反は噂に過ぎないと憤っていたなら謀反で処刑されたんだろ
家族まで連座されてるんだし 謀反で処刑されたってのはわからんでもないが、聚楽第の改築がその要因ってのはよくわからんw 謀反の噂がたった奴が一族諸とも処分されてるのに
謀反が理由とは言えないキリッ
あたおかやなあ 謀反の疑いは分かるがその根拠を勝手に断定してるのが謎
城の増築とか関係なく単に噂が立ってたし秀頼に邪魔だったから粛清しただけだろ 古来、場所を問わず、謀反の疑いをかけられて殺された偉い人は沢山いるので~
日本でもあったということでw >>944
他の人も書いてるように断定できない
謀反で切腹の沙汰があった言語道断だ
と書いてたならそれは断定できるが
そのように書いてるものが誰もいない レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。