戦国ちょっと悪い話49
>>644
>侍共が昔を思い、貴所うぃ取り立てた
ちょっと気になって原典確認しましたが、こうですね?
×貴所うぃ
〇貴所を これは要らぬ義ではあるが、蒲生飛弾(氏郷)殿の家は、代々癖があると言い習わされている。
飛弾殿の御父は兵衛允(蒲生賢秀)と申すが、彼は殊の外世間に疎い人物であった。
しかしその親(蒲生定秀)は殊の外利発であった。
この飛騨殿は何事にも武道第一と仕り、世に優れた利発人と聞こえている。
このように、代々(優秀な当主と無能な当主が)替るのだと承っている。
(川角太閤記) 鍋島藩もそんなこと言われてたっけ>暗君と名君が一代ごと 優れてるように見える当主は後継者を見る目がなく
暗愚とされる当主は後継者を見る目があるってこと? 金吾中納言(小早川秀秋)は、小早川隆景の養子となったが、隆景が相果てた後、
御行儀悪敷御座候との秀吉公の御意があり、筑前国が召し上げられ、越前に三十万石にて
遣わされた。その後さらに、丹波へ国替えをされた。越前には青木紀伊守(一矩)が入った。
またこの時、金吾殿の重臣であった山口玄蕃(宗永)は引き離され、秀吉公の直臣として
加賀大聖寺城へ遣わした。
(川角太閤記)
秀秋は越前北之庄に減知転封の時点でまだ十六歳と考えると、御行儀悪敷御座候という理由は
ちょっとかわいそうな気も 山形市最上義光歴史館 特設展示/第三部「最上家ゆかりの古文書」
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=520014
山形市最上義光歴史館では、先日より最上義光所縁の書状の数々を展示中です。伊達政宗のあの「皆殺しにしましたよ」書状も。
まだ日にちがありますのでぜひご来館ください。入館料は無料なので。
その中でも新公開がこちら。連歌を愛好した義光は里村紹巴一門と親しく付き合っており、里村昌叱(紹巴女婿)が知人に宛てたものです。
14.里村昌叱書状/宗澗宛/年未詳玖(九)月十日
猶々、珍酒・珍味
非大方候、かしこ、
昨日者節日為
御礼義御出本望候、
殊一双 鮎十九
被持候、毎度御
懇情満足不浅候、
令他出不能面談、
御残多候、佳肴故
今朝俄ニ最上殿
申入候て、只今御帰候、
右御酒 佳肴至而
恨入候、大咲、如何
様以筆可
申述候、恐々謹言、
玖月((九))十日 策庵
昌(花押)
宗澗公
まいる
□□□(吟意下)
知人より酒樽一双と鮎19尾を頂いたお礼の書状ですが、そこへ招待された義光が全て持ち帰ってしまったという顛末で、
学芸員諸氏のご解釈によりますと、
(最上殿が本当に全部持ち帰ってしまうとは)残念です、(これだから田舎の人は)大笑い(大咲)ですね。
というような、どうも京都人による儀礼的な問いかけに、言葉通り乗ってしまったぶぶ漬けトラップ的な案件だったのではないかとのこと。
京都人こわい。 薩摩藩「本藩人物誌」から福永丹波守(福永祐友)の降伏
福永祐友は日向の伊藤義祐の寵臣で、島津との境目の野尻城代であった。
そのため薩摩方は内通の手紙をつくり、わざと佐土原に落とし、伊藤義祐の目に触れさせた。
義祐は手紙を信じ怒ったが、祐友は「逆心の考えはまったくありません」と弁明し、
祐友嫡子を「ちょうど十三になるので元服のお許しをいただきたい」と佐土原に送り、二心のないことを示した。
しかし五、六十日経っても元服の許しが得られず、戻ってきた。
さらに五、六十日佐土原に送ったが、今度も元服の許しは得られなかった。
祐友は恥辱に思い、このような主君では当家の行く末も暗いだろうとついに薩摩方への内応を決意した。
祐友は、天正五年十二月七日(1578年1月14日)までに祐友嫡子を差し出すとひそかに薩摩方に約した。
十二月六日、祐友は伊東からの監視番に
「御酒や肴を差し上げたいが今城内には珍物もございません。明日子供達を城から出して山で狩猟をさせようと思います」
と言って、翌七日に子供達を外に出し、嫡子を薩摩方の小姓と取り替えた。
そして夜になると、薩摩方の巧者三十人ばかりが本丸に忍び入り、侵入経路に城外から見えるように白紙をつけた。
それを目印に続々と都合三百人が忍び入った。
祐友の妻は「極寒のみぎり、ありがたく思います」と一人一人にみずから温かい粥を差し出した。
準備が整ったため祐友は本丸の矢倉に登り、大音声で
「伊東からの監視番の方々、昨日までは伊東方であったが、遺恨により只今より島津殿を奉戴する。
すでに薩摩勢三百人が城に入り、まもなく数千騎が城に押し寄せることになっている。
かくなる上は早々に開城なされよ」
それとともに薩摩勢が天地が振動するほど鬨の声を上げたため、監視番衆は周章狼狽し、何人も討ち死にしながら道具も捨てて逃げていった。
翌八日、忠平公(島津義弘)が御馬廻り二、三十騎を連れて城の近くまでいらっしゃった。
祐友は十文字の旗を見るや郎党どもを後ろに残し、一人で忠平公のそばにより、路傍で平伏した。
こうして忠平公からありがたいお言葉を頂戴した祐友は日向攻略においてその後も大いに働いた。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7638.html
こちらによれば手紙の計略は上原長門守(上原尚近)によるものだったとか 祐一本人のこと?
ちょうど免許取得して来年から調教師に転身するし 福永家は高知の地主だったらしいよ
その縁で祐一は何度か高知競馬にいって乗ってた
ついでに武のほうの先祖は薩摩の武士やね
親族は明治期には国会議員も務めてるし日本の近代競馬草創期の重要人物 「改正三河後風土記」から森鴎外の短編にもなった「佐橋甚五郎の事」
その頃(「いい話」で紹介した踊りが流行った頃)、松平信康君の近くで召し使っていたものに佐橋甚五郎というものがいた。
いかなる恨みによるものか同役の近臣を討ち果たし、岡崎を逐電して三河の山里に逃れた。
武田勝頼が遠州小山の援兵として十七歳の甘利二郎三郎(甘利信康の息子の甘利信恒だとすると「三郎次郎」)に三百騎を率いさせて遣わした。
甚五郎はこれを聞き「甘利を討ち果たせば帰参もかなうだろう」と思い、つてを頼って甘利に仕えた。
甚五郎は怜悧で笛も上手であったため、甘利は寵愛し、笛を聴きながら甚五郎の膝枕で眠った。
甚五郎は好機だと思い甘利の首を取って浜松に帰参した。
こうして所領を得て御家人になったものの
信康からは「以前同役を討って逐電したものだ」と憎まれ、
神君(家康)も「甘利の寵愛を受けながら寝込みを襲うとは不仁極まりない」とお褒めの言葉もなかった。
こうして甚五郎は心中穏やかではなかったため、再び逐電。
朝鮮に渡り、慶長の末に朝鮮の使節に混じって帰国した。
しかし神君に甚五郎だと見咎められ、一族との文通も禁じられたため朝鮮に帰されたそうだ。
なお「三河後風土記」巻十六「佐橋甚五郎無道之事」では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3686.html
佐橋甚五郎処分
この話と同様、水野勝成の部下として戦功を立てたが阿部正勝に討たれている
(「三河後風土記」では阿部正勝が真向かいから言葉をかけて放し討ちにしたため、甚五郎も刀を抜き打ち合ったが、
両手を落とされたあとに首を切られた、とまとめの話とは微妙に展開が異なる) 関ヶ原の後(色々あって)、九州では立花左近(宗茂)殿の御城は肥後守殿(加藤清正)が接収した。
これに出兵していた黒田如水も、この扱いによって事済んだのだが、その夜に入ると同時に、立花に対した陣を
引き払うと薩摩へと取り掛かり、肥後の先、佐賀関という場所に陣を替えた所で、島津殿は居城へと入った。
この事について、如水の分別によって、金吾殿(小早川秀秋)の御国である筑前の仕置を申し付け、
三千石の金吾殿の御蔵米を借り受けたのだが、それは薩摩陣への用意であると言われた。
三千石の兵糧は早くも佐賀関に到着した。案の定、(徳川家康より)薩摩陣と仰せ出された所で、
肥後守は如水へこのように断りを入れた
「薩摩への入り口は肥後国です。如水の御国は後方ですから。先手は私が仕るべきでしょう。」
これに対して如水の返事は
「我々は(薩摩との国境に)既に到着しております。そちらがこちらに着けば、拙者の人数は
いよいよ繰り越しで先に出陣すべきでしょう。」
この返事について肥後守殿の分別は
「御所様(家康)が現状の御分別を変更し、突然扱い(和平)となる可能性もあるのに、如水は
指し争い早くも薩摩に入ろうとしている。これは指示を受ける下の立場の者が事を破るにも似ている。」
そのように考え様子を見ていた所、案の定、島津陣は来年の春と仰せ出になったために、如水も国へ引き取った。
(川角太閤記) 「朝野雑載」から近衛応山(近衛信尋)と本阿弥某
近衛応山のところに本阿弥某という刀剣の目利き師が出入りしていた。
ある日、応山のところに仙洞(後水尾天皇、近衛信尋の兄)が御幸された時、本阿弥の幼子を召して猿楽を舞わせた。
翌日、本阿弥が来て「昨日、我が子を御前で舞わせていただきありがとうございます」と謝すと
応山は「汝の子であるが、昨日の舞は普段よりも不出来であった」と答えた。
本阿弥が「あなた様は猿楽をなさらないのになぜ不出来とわかるのです?」と尋ねると
応山「確かにそうだ。ところで汝に頼みたいことがある。
汝に、われにあった刀を一振り作ってもらいたい。」
本阿弥「われらは刀の目利きこそしますが、刀を自分で作ることはできません。」
応山「おやおや汝が刀の目利きが上手なのは自分で作るからだと思っていた。
刀を作らないで目利きをすると言うのなら、われが猿楽を舞わずとも、猿楽のよしあしがわかってもおかしくないだろう」
本阿弥はとうとう閉口したそうだ。
ついでに過去に出ていた「寛永の三筆」の近衛信尹(近衛信尋の養父)と本阿弥光悦の話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10992.html これは要らぬ義ではあるが、書き付けておく。
『信長記(信長公記)』に書かれていないと言うことなのだが、その仔細は、信長記をあらかた作った、
信長殿の家臣であった太田又助(後和泉守・牛一)が、この当時は未だ若かった故に、日帳を付けていなかった
ためだと承っている。
永禄元年午年、但し信長公二十五歳の御時、尾張一国をようやく御方に付けられたが、岐阜や伊勢などで
御競り合いがあり、尾張の内においても時々競り合いがあった。そのような時期の事である。
この時期、朝倉殿は越前より天下を望み、浅井殿は江州小谷より天下を望んだ。
同国観音寺山には佐々木(六角)承禎が、伊勢、岐阜、清須は信長殿、三州、遠州、駿河の辺り、
殊に駿河は(今川)義元、小田原には北条殿、このように方々に大きな勢力が在った。
そのような時節、信長殿は御妹を以て、江州北の郡の浅井備前守(長政)を妹聟に成されたが、
この事は浅井殿の臣下である磯伯耆守(磯野員昌の事と考えられる。なお実際には丹波守)の
分別故であると言われている。
浅井殿の家中では、この伯耆守は一大名であった故、世間にも聞こえる程の者であった。
例えば正月頃、彼が大病を煩い、もはや伯耆守はあい果てたと、東は北条家まで響き渡った。
しかしその頃、彼の大熱気、傷寒は突然持ち直した。
回復した彼は夢の覚えのような心地をしていて、何事も覚えていなかった。
「煩っていたのか?」と彼が申したことで、周りもそれに気がついた。
親、内儀達は「その事についてですが、殊の他の大熱気でありましたが、このようでは(病気のことを)
覚えておられるだろうか、と申すほどの大変な煩いでありました。」と申した所、伯耆守は心静かに分別し
「であれば、私の煩いは東にも響き渡っただろう。」と。信頼できる者たちに、物参りをする体に変装させ、
東の街道筋で情報を収集させた。彼らに「「磯伯耆守が果てたか」という話がどこまで伝わったか、
東は小田原まで聞き届けて罷り帰るように。」と申し付けて遣わした所、
「浅井殿内伯耆守は大病にて果てた。」と申す所もあり、「いやいや、思いもかけず生き延びたという。
その立願に於いては日本の神々に、『親二人が悲しむ故、立願を以て命を乞うたのだ。』」とも
取り沙汰している所もあった。
使いが帰ると、これらを伯耆守はよく聞き届けたという。
(川角太閤記) 「朝野雑載」から日比半右衛門と米村市之丞
片桐且元の従士である日比半右衛門は武功ある者であった。
大坂冬の陣の時、大野の属兵・米村市之丞と闘ったが、半右衛門の嫡子・半十郎が横から出てきて、父と入れ替わって米村と斬り合った。
半右衛門は勝負を見物しつつ「討つも討たれるも武士の習い。踏み込んで勝負をいたせ」と言うと
半十郎は父の言葉を力にし、米村の肩先を斬った。
一方、米村も半十郎の左の頭に切りつけ、弱るところを斬り伏せて半十郎の首を取った。
息子を討たれた半右衛門は米村を引っ立てて
「今貴殿を討つのはたやすいが、その方にも父があり、今われが感じているように不憫に思うことだろう。
その方一人を討とうが助けようが戦の流れは変わらぬのだから、早く帰って恩賞に預かられよ」
と矢立を取り出し、半十郎の姓名を書きつけて与えた。
城内に馳せ帰った米村がことの次第を報告すると、秀頼公も感動し米村に黄金十枚を褒賞として与えた。
これを聞いた人々はみな「半右衛門の計らいは勇ありて情け深い」と感嘆した。
私(貝原益軒)が思案するに、半右衛門の計らいは主人の敵を討たず、他人の子を愛して自分の子を愛さないようなものではないか。
このような異常な行いを見て世人が感動すると言うためしがあるとは。
識者の論をまって是非を判断するべきだろうか。 上州は由良国繁の領地での話。
黒川谷と言う地を治めていた松島式部少輔と阿久沢能登守が武田勝頼に裏切ろうとしているという噂を聞きつけた国繁は、老臣との評定の結果、松島淡路守を使者として彼らの真意を聞こうとした。
松島は黒川谷へ向かおうとしたが、前夜の大雨によって渡良瀬川が大増水していた。急いでいた松島は無理やり渡ろうとした。
「大事の使者であるから、時刻をおくらせてはならぬ。つづけ」と共の者に下知し、川に乗り入れた。
松島自身は水練の達人ではあったが、供の者たちにすがられて自由を失い、松島を含めた使者16名全員溺死してしまった。
松島の水死を聞いた国繁は「この上は面倒だから黒川を攻め破れ」と藤生紀伊守と谷右京、金谷因幡守に銘じて千五百人ほどで攻めさせた。
金谷勢は藤生と谷と連絡を取ろうと石原与市右衛門たちを派遣した。
しかし黒川谷側へはせ参じようとした軍勢に見つかってしまい、突破しようとしたが不案内山中で道に迷ってしまい、全員うちとられてしまった。
それを知った金谷は驚き、慎重に連絡を取ろうとした結果、丸一日を費やした。
一方黒川谷側では、和を請おうと松島弥太郎を使者として、藤生の元へ派遣した。
結果的に和議はなったが、そこまでに手間取ってしまったため、不安になった黒川谷勢が金谷の陣まで押し寄せてしまった。
金谷側も「攻め手が敵に寄せられるとは恥辱である」と攻撃をしかけたため、激戦になってしまった。
その最中に和議を成立した知らせが届いたが、それを聞いて自陣まで戻った者や、それを追ってさらに攻めかかる者、逃げ散る者もあり、大混乱となった。
金谷が鐘をうたせてようやく戦が止まったが、結局使者の松島弥太郎を含め二百人ほどが討ち死にした。
最終的に松島、阿久沢の両名が陳謝し、由良の幕下に入った。
ぐだぐだな展開で無駄に死者が増えてしまったお話。新田伝記より 武田信玄が長野業政が亡くなったのを機に上州を攻めた際のこと。
武田軍は一郷山城という牛伏山の東端に築かれた山城を落とそうとした。
数日にわたって偵察したところ、水の手が牛伏山の西側の見銘寺のところからとっていることが分かり、その寺をおさえ、水を汲みにくる城兵を弓、鉄砲で狙撃させた。
城主の安部中務之友は水の手を確保するべく、城兵に見銘寺の崖上から寺へ大石を落とさせて甲州勢諸共お堂を粉砕してしまった。
ところがそれによって寺から火が出てそれが北風にあおられて山の北側一帯が火事になってしまった
城兵は阿鼻叫喚の灼熱地獄に襲われた。
信玄は好機に乗じて総攻撃を命じた。その結果、城兵や女子供は皆、崖上から飛び降りたり、または火の中へ追い落とされた。
信玄は「これ皆、寺を壊した仏罰であろう」と要害が思いがけなく楽に落ちたことを喜んだという。
加沢記より http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5082.html
武田信玄の西上州侵攻と見銘寺
過去に「箕輪軍記」出典(群書類従巻三百八十八・合戦部二十、上野国群馬郡箕輪軍記「長野信濃守業政卒去し事」)で同じ話が出てたから
「箕輪軍記」を読むと武田方に水を止められたということで、この話の直前に白米城(籠城側が馬の背に白米を流して、敵に水がまだあるように見せる)ネタがあった >>669
その米の噺、なあ…。
伊勢宗瑞の伊豆制圧戦に関する口碑伝承にもそっくり同じ噺があるんだよ。
登場人物の名前が替わっただけ。
元ネタがあるんだなと猿でも解るレベルの。
いずれ漢籍あたりに何かの原典があって様々にアレンジした上で流布された巷談俗説だろうよ。
と、思ってたんだが、
伊豆では考古学的証拠に近いブツが出ちまったから馬鹿には出来ねえな。
永禄十二年の初めの、五月二十六日に、今川氏真と徳川家康とは扱い(和睦)となり、掛川を家康に渡し、
その上遠州一円が家康の支配となった。そして「氏真を今一度駿河の主にしてほしい」と頼まれて、
氏真公は遠州掛川より船に乗り、小田原の北条氏康が氏真の舅であった故に、これを頼んで小田原に
御牢人となった。
さて、氏真公の元で随一の出頭人であった三浦右衛門介は、諸侍に慮外を仕った人罰が当たった。
(氏真の駿府没落後も)彼は猶も分別を違えており、高天神城の小笠原(與八郎)が、氏真公の時代と変わらず、
自分の用に立つと三浦右衛門介は考えていた。そして氏真を見放し高天神城へ走り込んだが、そこで
小笠原は彼を搦め捕り、しかも縛り首とした。以上。
『甲陽軍鑑』 「続武家閑談」から徳川家康と成瀬滝之助
あるとき権現様が
「召し使っている成瀬滝之助だが、近頃誰かと口論でもしなかったか?」と近侍の衆に尋ねられた
いずれも「そのようなことは存じておりません」と答えた
二、三日して成瀬が人を討って出奔した。
それを聞いた権現様は「その場の様子だが、馬手(めて)口であったか?」と尋ねられた。
「いいえ、馬手口ではありませんでした」と答えると
「大いに甲斐甲斐しいことだ」と仰られたそうだ
どうしてこのように仰られたのだろう
「紀伊國物語」出典の
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7439.html
「成瀬瀧之助は誰かと言い合いなどしなかったか?」
では「馬手口」ではなく「卑怯な振る舞い」となっている。
右から切りつけたと解釈したけど違うのかな 「続武家閑談」から大賀弥四郎(大岡弥四郎)と近藤某
天正三年(1575年)、権現様三十四歳の時、近藤某に加増をなされた。
この加増は大賀弥四郎の代官所の管轄内であった。
大賀弥四郎は中間であったが才覚があり、地方巧者諸事に詳しいため、奥郡の大部分の代官を仰つけられ、
岡崎城にも参って信康公の御用もなし、信康公も家来も「弥四郎は不可欠の人材だ」とみなした。
しかしいつのまにか身の程をわきまえず、驕り、武辺者でも気がいらなければ讒言したため、大勢に憎まれた。
そんな時、近藤某の加増がなされたため大賀弥四郎は近藤某を自邸に呼び
「今度の加増は我の取りなしによるものだ」と恩着せがましく言った。
近藤はそれを聞き大いに怒り、座を立ち、そのまま御家老衆のところへ直行し
「この度の加増は返上いたします」と告げた。
みなが驚きあきれ、近藤にわけを問うと
「旗本をなぶる大賀のような大悪人の取りなしで加増をされるようないわれはありませぬ」
と答えたため、御家老衆は仔細を尋ねた。
こうして弥四郎の悪事が次々と露見し、そのたしかな証拠も出てきた。
また弥四郎に仕える山田八蔵という者を詮議したところ、武田勝頼に内通して岡崎城を乗っ取ろうという計画が明らかになった。
そこですぐに大賀弥四郎夫妻と子供をからめとり、妻と子供は斬罪に、大賀弥四郎は浜松岡崎城下引き回しののち、岡崎の四辻に首より下は埋められ、竹鋸で引かれた。 さて右の近藤某であるが、権現様の御父上の松平広忠公の時、毎度軍忠に励んでいた。
あるとき広忠公が城下で御放鷹をなされた。
近藤は土民に混じって、自ら早苗を取って田植えの最中であったが、広忠公を見るや田の中に顔をつけて泥で顔を隠した。
しかし広忠公に「近藤ではないか」と言われたため
近藤はしかたなく顔をあげ、ところどころ破れた渋帷子という見すぼらしい有様で恥いっていると
広忠公は「主人が小身なために汝ら家中には功績に報いられず、人馬武具を備えるためにこうして苦労をさせてしまうこと、申し訳なく思う。
我も供の者も、人の前に苦労をして、人の後に楽しむべきであろう。
(「後楽園」の元になった「天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」からだろうか)
今日は我も供の者も早く帰るがよいぞ」
これを聞き、近藤はもちろん、お供のものも皆袖を濡らしたという。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11040.html
かかるお情け深き主君のためには
後の話はだいたい同じ話が前にも出ていた(「三河物語」にも載っている) 永禄十二年八月下旬に、武田信玄公は甲府を御立ちなされ関東へ御発向あり、北条氏康・氏政父子の
領分を大方焼き払い、小田原へ押し詰め、侍宿地下町も少しも残らず放火するよう仰せ付けになり、
その上、同年十月八日に相州三増峠において、信玄公は勝利を得られた。
都合四十四日の御働きで北条家を鎮め、信玄公は駿河を治められた。それを妨げていた氏康が
これに手を出せなくする防戦を遂げられ、甲府に御帰陣となった。
この時信玄公は、高坂弾正を召されて仰せになった
「小田原表における、この信玄の勝利をどのように見たか」
高坂は申した
「御勝ちなされて、御怪我でありました。その仔細は、例えて言いますが、仮に数万の人数が
甲州に侵入した場合、当方の御運がよくよく尽きて五十、六十の人数に成ってしまえば
是非にも及びませんが、五百、千ほどの人数もあれば、御館である躑躅ヶ崎まで来る敵を、
間違いなく撤退させることが出来るでしょう。
この例えを用いて分別すると、今回小田原城には松田尾張を始め、その他人数八千あまり在りながら、
二万を少し越えたほどの武田勢に蓮池まで押し込まれ、さらに何事もなく引き取らせ、その上
三増峠においてあのように戦勝を得られました。
弱敵に勝たれて、大いなる御不覚かと存じ奉ります。
近年、若き者である三河岡崎の家康は今川氏真公を掛川に押し詰め、氏真公の衆、歴々の覚えの者を
競り合いのたびに討ち取り、終に氏真を関東へ押し払いました。若者であるとは言え、かの家康に
北条氏康御父子の人数のうち三分の一も預けたならば、よほど敵として御手に立ったでしょう。
また信州侍衆に対して我々は、相手が百騎、二百騎の人数であってさえ、五、六年づつ御手間を
とらされました。」
これを聞いて信玄公は
「高坂弾正は小田原陣の前に申ごとく、今に諍を怖く申し候」
(高坂弾正は小田原への出陣の前にもそう言ったが、今もこのように恐ろしい諫言をする)
と、御笑いなされたという。
若き衆は「高坂弾正の分別立ては、今に始まったことではない。」と沙汰した。
『甲陽軍鑑』 そういや管理人氏のTLで見かけたこれ、唐の頭(ヤク毛飾り)がはたして永禄年間中に三河で入手できたかってとこが
知りたいですよね?
武田信玄の諏訪法性兜(白い毛がふわふわの例の兜)は後世の創作というのが明らかになってますが、徳川家の
唐の頭の初出はいつなのか。
https://twitter.com/yX3hO9ycHeJMdcn/status/1614595498371092482
史実の本多忠勝を世に広める会
@yX3hO9ycHeJMdcn
この狂歌は今まで三方ヶ原の戦い(正確には前哨戦の一言坂の戦い)の際に武田側の武士が
忠勝の武勇を見て、「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭に本多平八」、すなわち家康には
もったいないものとして詠まれたとされていました。
実際は別の人物が若き日の忠勝を詠んだもののようです。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 元亀元年霜月下旬に、諸角助七郎と原甚四郎(盛胤)とが、御城(躑躅ヶ崎館)において喧嘩を仕り、
双方二ヶ所づつ負傷したが、相番の衆が彼らを引き離し、討ち果たすことは無かった。
御前狼藉の故に武田信玄公は大変御立腹されたが、原甚四郎は父である原美濃が度々の御用に立つこと
三十度に及んだ者であったので、それに免じて陣より国に帰らされ、父の武功の御奉公に免じられ、命を
御助けなされた。
諸角の父である豊後も度々の忠功ある侍大将で、その上川中島合戦の時討ち死にを仕った。
この父・豊後に免じて、諸角助七郎も命を御助けなされた。
これらは典厩(武田信豊)、四郎殿(勝頼)御両人を以て仰せ付けになられた。
しかしながら御前の狼藉であり、諸人への見せしめのためにも、原甚四郎も諸角助七郎も、知行同心を
召し上げられ、諸角同心の五十騎は一条右衛門太夫殿へ預けられ、原甚四郎の同心は今福丹波に預けられた。
また原甚四郎の家屋敷共に土屋に下され、この両人は外様のように成ってしまった。
しかし少給、少扶持にて堪忍仕り、物哀れなる体なりと言えども、御成敗有るべき所を、父の武勇、御奉公に
免じられて、御助けなされ忝なしと存じ奉ったのである。
『甲陽軍鑑』
いわゆる喧嘩両成敗の実態について 「武家閑談」から結城秀康と出雲阿国の有名な話
慶長年中伏見にて、越前黄門秀康公(結城秀康)のお屋敷に、お国というかぶき女を召し、かぶきを踊らせて御見物なさった。
お国が水晶の数珠を襟にかけて舞ってるのを御覧になった秀康公は
「水晶は見苦しい」と御具足の上にかけていた珊瑚珠の数珠を与え、お国の舞を御覧になった。
秀康公は御落涙され、おっしゃることには
「天下に幾万の女がいるが、一人の女と天下にも呼ばれるのはこの女である。
我は天下一人の男となる願いが叶わず、女にさえおとっているのは無念である。」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6502.html
こちらのウィキペディア出典の話も元は「武家閑談」のようだが、珊瑚珠の話まではなかったので 今なら「女にさえ」でアウトだな
面倒くさい時代になったもんだ・・・ 長尾輝虎は十年以前の辛酉に、信州川中島において大きく負け(永禄四年の第四次川中島合戦か)、
三千あまりも討たれた後は、此の方(武田方)より押し詰め、この頃では信玄自身が出馬するに及ばず、
高坂弾正が越後の内で働いても、さほど危ういことも無い。
北条氏康は当年(元亀二年)十月に他界した。去る巳の年(永禄十二年)の最中度々押し詰め、すでに
小田原に日帰にした。足柄、深澤まで信玄が攻め取り、関東は氏康に掠められていたが、その氏康を
信玄が掠め取ったのである。
また佐渡庄内、加賀、越中、能登、関東までもに、輝虎が押し出したが、その輝虎も先のように押し詰めた。
この上信長、家康の二人に信玄が勝てば、西国までも弓箭において心もとないことは無い。何故ならば、
四国、九州は安芸の毛利によって仕詰められていた所、信長が都に発向して、天下を持っていた三好を絶やし、
中国の毛利をも、父(正確には祖父)元就の死後とは言いながら、早くも少しずつ掠め取っているとの
沙汰が有るからだ。
東海一番の家康、五畿内、四国、中国、九州まで響き渡る信長、彼らを一つにして信玄一方を以て
勝利を得るならば、日本国中は沙汰にも及ばぬ義である。
当時は唐国までも、武田法性院信玄に並ぶ弓取りは有るまじく候と言われていた。
遠州御発向の御備定は、午年(元亀元年)の冬中に高坂弾正の所で七重に定まり、書き付けて信玄公の
御目にかけた。
仍って件の如し
『甲陽軍鑑』
武田信玄が西上を決断した際の、外部情勢についての認識について。 「大友興廃記」から「髑髏敵を取る事」
筑前国生の松原合戦(大友宗麟に誅された原田親種の残党と立花道雪との戦)の三年ほど前、一人の中間がこの松原を通ると、道のわきに一つの髑髏があった。
中間は「これは我が昔討ち捨てた者の髑髏だ。なぜいまだにここにあるのだろう」と嘲笑って蹴回した。
ちょうど持っていた槍の石突で刺し貫いて、抜こうとしたがどうしても抜けなかった。
そこで松の枝に引っ掛けて両手で「えい」と前に引くと、槍の柄が抜けて槍の先端が、中間の肝から後ろに突き抜けたため死んでしまった。
死ぬ前に、ちょうど通りかかった人々にことの一部始終を語ったため、その頃の人たちはこれを聞き
「因果の道理は多いとはいえ、昔から今に至るまで、舎利首が敵をとったためしは少ないだろう。不思議なことだ」
と言いあったという。 自分の体の中心に向けて槍を引っ張ったのかな
不自然なような気もするが、まぁ話だからな 元亀二年辛未年七月、武田家は再び家康と御取合が始まったが、信長はいつもの如くの、武田に対する
御入魂ぶりであった。
そのようであったので、家康に対して信長よりの異見は、「家康は三河の吉田まで撤退し、遠州浜松には
家老を差し置くように。」とあった。
しかしこれに対して家康は、
「浜松城を立ち退くほどならば、刀を踏み折り、武辺を捨てるという事である。
どうであっても、武士を立てる以上、遠州から立ち退くことは有るまじき。」
そう内談を定め、信長に対しての返事には
「いかさま御意次第に仕りますが、先ずは一日であってもここに在りたいと思います。」
と伝え、その上で浜松から引き下がらないということを、遠州・三河の侍衆に伝えた。
未の九月、山縣三郎兵衛(昌景)が、信州伊那より四千の人数を引き連れ西三河・東三河の仕置に罷り出でた。
これは山縣の手元の衆に加え、信州諏訪。伊那の山縣三郎兵衛同心組衆を率いての事であった。
『甲陽軍鑑』
武田信玄の「西進」が始まった時の、信長と家康の対応について。 K・HIRAYAMA
@HIRAYAMAYUUKAIN
遅くなりました。大河ドラマ「どうする家康」第4回「清須でどうする」はいかがでしたでしょうか。SNSをみると、様々なご意見がみられますね。
ここで、はっきりと申し上げておきますと、全編にわたって、これはフィクションです。 #時代考証の呟き #どうする家康
金陀美具足とかで平山氏が叩かれてたのは、時代劇がフィクションだなんてことは全員わかった上の話で、
平山氏が普段は史実や史料を棍棒に他人を叩きまくっていたからだよなあ
SNS論客はどうしても攻撃的な言動、文章になるんだが、自分の過去の振る舞いが襲ってきたよね 今回の大河も細かいところでは、おっと言うようなさりげない部分で注目すべきところを取り入れてるけど
実のところそういう頑張った考証は評判の悪い天地人とかでもあったんだよね
でもあの清州城の最終的な延長にある江戸・駿府・名古屋城にはどんな姿か期待してます 「武家閑談」から越前少将忠直御事
松平忠直公は大坂城落城のとき、一番合戦で三千七百五十の首級をとられた。
家中の本多伊豆守富正の手は百七十三の首をとり、落合美作守の手は四十八の首をとった。
詮議の時、本多伊豆守は「首数は家中第一である」と自讚した。
そこへ落合美作守が近づき「わが手の首数は手前より多い」と相論した。
伊豆守は「われは百七十三、その方は四十八、どこが首数が多いのか」と言うと
落合「貴殿は七万五千石の身上で首数が百七十三、われは一万石の身上で四十八、計算してみたまえ、我の首数は貴殿の首数よりも多い」
御使者の諸星金右衛門はもとは武州松山浪人で、居眠りして柱に寄りかかっていたが、これを聞きくわっと眼を見開き
「美作の言うことがもっとも至極である」と言った。
伊豆守は閉口したがこの遺恨のため、美作を讒言し美作はその年浪人した。
美作はのちに紀伊大納言頼宣卿に召し出され、三百人扶持の役高で落合卜安といった。
これは江戸で浪人をしていた青木八郎左衛門から聞いた話だ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1544.html
こちらの話では讒言のために浪人、までは書いてなかったので 「続武家閑談」より伊賀組訴状のこと
伊賀同心の働きは莫大である上に、天正十四年に真田を攻めた時には先手に加わり、千塚というところに陣を張った。
同十八年には小田原の陣にお供し、翌年の奥州の陣の時には高館表の衣川にまでお供した。
屋敷分として一人当たり永楽銭九貫文が知行として宛てられ、きっと吟味の上に取り立てて下さると言われていた。
名護屋の陣にもお供し、関ケ原のみぎりには大田原で城を守り、上杉景勝への備えをした。
「武徳安民記」に見えるようにのちには半蔵跡目石見守(服部正就)の組となった。
石見守は三千石を領し、松平隠岐守(久松松平初代の松平定勝)の婿となり威勢をほしいままとし、昔のことを気にかけず、一向に憐憫の情がなく、家僕同然に伊賀同心をこき使った。
同心どもは「たしかに伊賀の末裔の服部であるが、御家名の武辺場数をへて大身となられたのもわれらの働きがあったからなのに、下人被官のようにされるのは奇怪である」
と書状を石見守に差し出したが石見守はたいそう立腹し、同心どもを呼んで自分の屋敷の普請の手伝いをさせ、断れば扶持を没収した。
そのため二百人の者どもは妻子を片付け、奉行所に目安を差し出し、近くの寺に弓鉄砲を持って立てこもり「訴えをかなえねば討ち死にする」と抗議に及んだ。
このよしが上聞に及び「石見守不届きなり」ということで、石見守から同心が召しあげられた。
二百人の者どもはよろこび、四組に分けられ、大久保甚右衛門(大久保忠直)、服部仲(服部保正)、加藤勘右衛門(加藤正次)、久永源兵衛(久永重勝)に預けられた。
しかし石見守の願いにより二百人のうち十人を成敗することとなった。 切腹しなかった者もあり、妻子を質にとられたため切腹した者もあり、十人中八人が死んで二人が逐電した。
石見守は人を回して逃げた二人を狙っていたが、あるとき自邸の門前を通ると聞いて馳せつけ斬ったところ、同心ではなく、伊奈備前守(伊奈忠次)の家来が使いにきたのであった。
しかたなく陳謝したが、そのころ江戸中に辻斬りがあり、公儀から黄金の懸賞金をかけて詮議の最中であったため、これまでの辻斬りも石見守のせいであろうということで改易された。
時に慶長十年極月二日であった。人々が石見守の不仁を憎んだことは言うまでもない。
戦国の頃は永楽何貫文として宛行されていたが、天正の末にようやく国がおさまり、石高制になった。
伊賀同心も九貫文の宛行で天正の末から元和岩年までの十年の間、戦場での奉公をおこたらず努めた。
しかし公儀からは「いずれは取り立てる」と恩賞が延引するうちに権現様が薨去された。
そして奥方御奉公に召し使われ、禄の沙汰を取り次ぐものもいず、無念ながら少ない扶持で奴僕の列に入り、女中などの使われ者となってしまった。
こうして秀忠公の御時には武辺者の伊賀侍もみな死ぬか失せてしまったいう。 訂正:
天正の末から元和岩年までの十年→
天正の末から元和元年まで三十二年 続武家閑談より「洛中放火の企て顕れて悉く斬戮の事」
古田織部正は徳川方の陣から敵に内通し、味方の事情を矢文で城中に送っていた。
その事は権現様はご存じでなく素知らぬようになさっていたため、大坂方はこれ幸いと間者に用いなさっていた。
権現様が大坂夏の陣にお立ちになる時、織部は茶友の宗喜に「大坂方から洛中に放火せよとのことだ」と実行を頼んだ。
しかし法制が厳しく、尾張義直(徳川義直)の陪臣である甲斐庄三郎、金井伊兵衛両人に放火犯二人をからめとられた。
成瀬隼人正(成瀬正成)に言上させ、伊賀守勝重(板倉勝重)が五更から明け方にかけて罪人を召し捕り、七日のうちに徒党をことごとく斬刑にした、
ほかにも助力している者どもがいるだろうということで、五月三日より上杉景勝に命じ八幡山に布陣させ、遊軍させなさった。
甲斐庄三郎は「管窺武鑑」「佐久間軍記」などでは甲斐庄三平のようで(甲斐庄が苗字)
続武家閑談の作者・木村高敦か書写した人物が「甲斐庄」という苗字を知らず「甲斐・庄三郎」と思ったのかもしれない 冒頭は「続武家閑談」だと
「古田織部正は吾陣より敵へ内通し味方の事城中へ矢文ありしけれども其事権現様御ぞんじなかりしが左あらぬ様になされこれを幸ひと間者より用ひ給ふ也」で
「管窺武鑑」だと
「此織部、旧冬の御陣の時、御方にて御供し、味方の事を聞いて、矢文を射て城中へ告げたるを、権現様御存なれども、御存じなき体になされ、御武術になさる。
是れ反間を用ひなさる御名将の微妙なり。」
「給うなり」がついてるから「管窺武鑑」のように反間という意味が正しいと思います。
「ぞんじなりし」を「ぞんじなかりし」と間違えたのかもしれない 天正元年正月七日に、武田信玄公は遠州刑部をお立ちに成って、同月十一日、三河野田城へ取り詰められた。
この時、徳川家康より織田信長へ、小栗大六という者を使いとして、野田城救援のための後詰の
有るように、と頼み申されたが、信長は軍勢を出さず、二度目の使いでも信長が出馬することはなかった為に、
野田城を守備していた菅沼新八郎(定盈)は降参し、城を明け渡し、山県三郎兵衛(昌景)に
菅沼新八郎の身柄は預けられた。
新八郎方より家康に申し越し、奥平美作守(定能)の人質が家康の元に有ったが、これを菅沼新八郎の身柄と
取り替える事となり、奥平の人質は信玄公に家康より進上され、菅沼新八郎は家康に渡された。
その取引は三州長篠の馬場において行われた。二月十五日の事であった。
その後、信玄公は御煩いが悪化し、二月十六日に御馬入された。
この時、家康家中、信長家中諸人は、信玄公が野田城攻めの最中、鉄砲に当たって死んだのだと沙汰した。
これはみな虚言である。惣別、武士の取合いにおいては、弱い方が必ず嘘を申すものだ。
武田家と越後輝虎との御取合においては、敵味方共に嘘を申す沙汰は終に無かった。
例え信玄公が鉄砲に当たったとしても、それが弓箭の瑕になる事は無い。
『甲陽軍鑑』
野田城の戦いについて 「朝野雑載」から伏見城の戦いにおける甲賀衆
名古屋丸には甲賀佐左衛門などが守備に入った。
この甲賀は瀬田の城主・山岡道阿弥(山岡景友、神君伊賀越えの協力したともいわれる山岡景隆・山岡景佐兄弟の弟)の末子であり、
道阿弥は家康公に御見方していたため、与力同心を召し連れて伏見城に上り、名古屋丸を固めていたという。
また松の丸は深雄清十郎、太鼓の丸は佐野綱正、上林竹庵(宇治の茶師)がかためていた。
小早川秀秋は鳥居元忠にひそかに書状を送り、家康公に味方したいためともに籠城したいと申したが、鳥居は承知せず
「それほどまでに意志が堅いのであれば関東へ御注進なされよ。籠城は断り申す」
とのことだったので、秀秋の家老平岡頼勝は黒田如水の縁者であったため、平岡の家来をひそかに関東に遣わし、黒田長政に秀秋の内通を申し上げたそうだ。
伏見城の東は宇喜多秀家、増田長盛、石田三成、長束正家(陣代は家所帯刀、武者奉行は伴五兵衛)などかれこれ一万人が攻めた。
周囲から昼夜の境もなく攻めたけれども、城兵堅固で持ちこたえて七、八日過ごした。
長束正家の軍勢の中に鵜飼藤助というものがいた。
彼は松の丸に籠った甲賀の者の一類であったため、松の丸に矢文を射込んで
「面々が籠城しているため、在所に置いてきた妻子をとらえ水口において磔にかけよう、と長束正家殿がおっしゃっている。
近々に妻子らを召しとる手筈である。
もし返り忠をなしてその郭を焼き立てれば妻子の命は助けられるのみならず、汝らに恩賞もあるだろう」
と伝えたところ、甲賀の者どもは大いに驚き、永原十内、山口宗助一族四十余が同意して
「それならば明夜亥子の刻に必ず火の手を上げよう。その時に攻められよ」と返答した。
こうして翌日子の刻に松の丸に火の手が上がったため、城兵は意気消沈し、寄せ手はついに城中へ乱れ入った。
松の丸をかためていた深尾清十郎は戦ったが生け捕られ、のちに大坂で誅されたという。
また名古屋丸の松平近正も小早川秀秋の家人、比奈津角助五左衛門と島田勘右衛門により討ち取られた。
松の丸、名古屋丸の攻め落とされ、三の丸の松平家忠(「家忠日記」の作者)も供とともに三度まで突き出たが討ち死にした。島津義弘の家人である別所下野が首をとったという。
(このあと内藤家長、佐野綱正、鳥居元忠の奮戦と討ち死にの記述) 長束正家配下の伴五兵衛については、同名の甲賀忍者が「甲賀衆肥前切支丹一揆軍役由緒書案」によれば、島原合戦の時に敵陣を偵察している。
(落とし穴におっこちた甲賀忍者の望月与右衛門らを背負って脱出)
上ノ郷城の戦いについては大河に出ていた伴与七郎のほか(家康の感状がある)、鵜飼孫六という甲賀忍者も参戦していたとか。
伴も鵜飼も甲賀二十一家だけど、上ノ郷城攻めでは家康方として、伏見城攻めでは長束正家配下で西軍として戦ったことになる。
ついでに上ノ郷城攻めでは、神君伊賀越えの時に手助けしたとされる多羅尾光俊が甲賀忍者を派遣したと言われる。 平山先生が上ノ郷城攻めについてツイートしているので
先生が言及している木村高敦による家康一代記「武徳編年集成」から該当部分を書いておく。多羅尾光俊の関与についても書かれてるし。
(木村高敦は「武家閑談」「続武家閑談」の著者でもある)
右衛門忠勝、松井左近忠次を以て上ノ郷城を囲ませらる。
この時忠次が従士石原芳心が子、三郎左衛門は江州甲賀の謀者伴中務盛景、同太郎左衛門、同与七郎と議して
兼ねて彼の国の多羅尾四郎兵衛光敏が忍の士十八人召よせ其組としけるが
今夜不意に城中へ入て焼立ければ、鵜殿父子三人逃走る所を伴与七郎伏兵としめ城外に待受。
三郎四郎氏長、其弟藤三郎氏次を虜とす。
父藤太郎は駿州へ奔る。
既上ノ郷の城陥りければ当城を神君より久松佐渡守俊勝に賜う。 南部下総(宗秀)殿は甘利備前(虎泰)、板垣駿河(信方)、小山田備中(虎満)、飯富兵部少輔(虎昌)の
四人の衆に続く地位でであり、少しは武辺の覚えも有るといっても、浮気にて常に無穿鑿なる事ばかり言い、
遠慮も無く明け暮れ過言を申され、嘘をつかれた。
無分別人であり、彼は山本勘介を憎んだ。そして国郡を持たぬ者の城取、陣取などと批判し、
また外科の医者も深い傷はないと思っているのに(外科医者もふかき事あるましきと思ふに)、勘介が負傷
することを「まして兵法使いのくせに手を負いたる」などと言って、山本勘介に対して尽く悪口した。
この事を目付衆、横目衆はすぐに御耳に入れた。武田信玄公はこれを聞かれると、長坂長閑、石黒豊前、
ごみ(五味)新右衛門を御使とされ、即ち書立を以て仰せ下された。その書立の内容は
『南部下野が、山本勘介という大剛のつわものを悪口の事、無穿鑿なる儀である
一、山本勘介という小身の者の城取、陣取りがまことらしからぬ、と言ったというが、これは物を知らぬ
申されようである。唐国(中国)周の文王が崇敬した太公望は、大身ではなかった。
一、兵法使いのくせに負傷した、などと申したことは一層武士道不案内である。兵法というものは、
負傷しないという事ではない。負傷しても相手を仕留める事こそ、本当の兵法である。
殊更、其の方の被官であった石井藤三郎が白刃でかかってきたのを棒にて向かい。組み倒したというのは、
例えこの時勘介が死んだとしても、屍の上まで誉れある事なのに、それを嫉むのは無穿鑿なる事だ。
一、其の方南部の手柄というのは、実際には家臣である笠井と春日の二人して仕ったものであったのに、
あたかも自分の手柄のように申していると聞き及んでいる。
この三ヶ状を以て成敗仕るべきなのだが、そのようにすれば、却って山本勘介も迷惑に思うだろう。
ここを勘介に免じて命を助けるので、遠き国へ参れ。』
このようにあり、南部殿は改易され、奥州の会津へ行った事で、彼は誅殺を免れた。彼の支配下に有った
七十騎の足軽、旗本、その他が方々に分けられた。後の春日左衛門、笠井備後はこの南部殿の二人の家老の
子である。
『甲陽軍鑑』 ある時、穴山(信君)殿が馬場美濃守(信春)に尋ねられた
「現代、織田信長は天下に意見するほどであるが、聞き及んで人の手本に用いるような軍法が一つも無い。
これは一体どういうことだろうか。」
馬場美濃、答えて曰く
「信長の敵は、美濃衆相手に七年にわたって手間取ったばかりで、残りは皆、信長に怯える人々です。
故に軍法も必要ありません。その上、信玄公は長尾輝虎との戦いの中で、おおかた世間で考えられるほどの
手立て、はかりごとを成しました。そのため他国の弓矢は御当家においては、さほど面白く思えないのです。
殊更、信長も当年三十八歳、天下においても三好殿を押し退け、都の事をまことに自身で意見するように
なったのは、去年七月からのことです。軍法というものも、大敵、強敵に遭遇しての行いです。
信長は国を隔て、信玄、輝虎とは終に武辺の参会が無く、そのような中に現在では、信長は嫡子の
城之介(信忠)殿を、信玄公の聟にとある、武田の縁辺となっています。そう言ったわけで、信長は
手立てすべき敵はさほどありません。
十二年前、今川義元との合戦(桶狭間の戦い)の時は、信長は二十七歳で無類の手柄を成しました。
その頃、信長は小身であり若く、大敵に対し様々なはかりごとを行って、勝利を得られました。
はかりごと、手立ての軍法が無い弓矢(合戦)は、例えば下手が集まって催す能を見物するようなものです。
しそこなわないかと思い、見ながら危なく感じます。
信長の弓矢というものも、美濃国と七年の間取り合いをしたことで、武功の分別が定まりました。
信玄公の弓矢は、村上(義清)殿との取り合いにて、武功の分別を定められました。当時、村上殿は
信州の内四郡、越後一郡ほどの、合計五郡を領していましたが、広き国なる故に、甲州と比較して一国半ほども
ある勢力でした。その上強敵でもありました。
また、徳川家康はこの頃の日本において、北条氏康、武田信玄、上杉謙信、織田信長の四大将に続いて
名を呼ぶほどの大将である十三人の中でも、殆どの者が家康の名を一番に上げる程であり、今年か明年の間には、
この家康と一戦せざるをえないでしょう。そうなった時は信長も、後を考えて、現在でこそ当家の縁辺として
無事であると雖も、家康に対して加勢を行うでしょう。その時は両家を相手になさって信玄公は合戦を遂げられ、
都まで誉れを上げねばなりませんから、これには猶以て軍法を必要とするところです。」
そう、馬場美濃は穴山殿に申し聞かせた。
『甲陽軍鑑』 17世紀後半に成立したと思われる「浜松御在城記」から「松平信康処刑時の半蔵の落涙」について
天正七年(1579年)九月十五日 三郎様(松平信康)、二股にて御生害(御年二十一)、御討手は渡辺半蔵(渡辺守綱)・天方山城守(天方通興)に仰付けらる。
渡辺は落涙し斬ることを得ずして、天方山城守討ち奉る。
△三郎様御傅役は平岩七ノ助親吉であり、権現様に諫言を申し上げた。
権現様も悲しまれたが信長公の心に背いては大敵勝頼に対抗できないと思し召し、是非なく御生害を仰せつけられたという。
説あり。害せざるとも存じ奉る。
この平岩親吉は後に薩摩守忠吉様の御傅役となったため(実際は尾張徳川家の徳川義直)、附家老として尾張犬山城に居住した。 訂正
介錯したのは天方通興の息子の天方通綱
「三河物語」では天方山城と服部半蔵に命じたことになってるから渡辺半蔵ではないはず。
ついでに享保に書かれた「柏崎物語」では
「服部鬼半蔵正成とは馴染み深かったため、三郎様も古馴染故に物語をし御伝言をなさった。
半蔵は涙に沈み頭を上げられず、三郎様が御腹を召しても半蔵は頭を上げられず嘆きいった。
そこで天方は検使であったが、御苦痛を取り除くために自分の刀で御介錯つかまつった。」
と服部半蔵も涙に沈んだとあるので「浜松御在城記」が半蔵違いをしただけ。 穴山伊豆守(信君)殿が又、馬場美濃守(信春)に尋ねられた
「では、三河の徳川家康は人に優れて利根なる仁か」
馬場美濃守
「穴山殿は信玄公の御従弟であり、しかも惣領聟であられますが、失礼ながらそのような御言葉を他国の
家中の者に聞かれては、笑われてしまうでしょう。武士が武士を褒める場合、作法が定まっております。
第一に、謡、舞、或いは物を読んで受け取りの早い人を、利根と云います。また、所作の様子、又は品の良い
人を器用と申し、さらに性発とも才知とも名付けられます。
第二に、座配良く大身小身と打ち合わせや取りなしに困りあぐねる事も無く、軽薄でも無く、術でもなく、
いかにも見事に仕合せする者を、利発人、公界者と申します。
第三に、芸つきも無く、器用に座配をすることも出来ないが、武辺の方にかしこい場合は、利口者と申します。
またこの者を、心懸者、すね者、仕さう成者と名付けて呼びます。
大身、小身共に斯くの如くであり、このように分けてそれぞれに名付けて言わなければ、報告を受けた
国持大将が合点出来ません。
(中略)
このように、三河一国を持ち遠州まで手をかけた家康の事を利根と呼ぶのは愚かです。利口と褒めるのも、
その術を知らぬ仰せられようです。家康については、『日本に若手の甚だしき弓取り』と申すべきでしょう。
必ず穴山殿、御心得なされよ。」
そのように馬場美濃守が申すと、穴山伊豆守は謝り「卒爾に問うてしまった。宥し給え馬場美濃殿」と言うと、
その後どっと笑って、互いに座敷を立たれた。
『甲陽軍鑑』 国立公文書館デジタルアーカイブの「柏崎物語」では
>>701のように服部半蔵がもともと介錯することになっていたけど
大正4年刊の日本国史研究会「東照宮御実紀附録 第1」の「柏崎物語」出典の話では
「三郎殿、二股にて御生害ありし時、検使として渡辺半蔵守綱・天方山城守通興を遣さる、
二人帰りきて、三郎殿終に臨み御遺託ありし事共、なくなく言上しければ、君何と宣ふ旨もなく、御前伺公の輩は、いづれも涙を流して居し内に、本多忠勝・榊原康政の両人はこらへかねて、声を上げて泣き出せしとぞ、
其後山城守へ、今度二股にて御介錯申せし脇差は、たれが作なりと尋給へば、千子村正と申す、
君聞召し、さてあやしき事もあるもの哉、其かみ尾州森山にて、安部弥七が清康君を害し奉りし刀も村正が作なり、
われ幼年の比、駿河宮が崎にて、小刃もて手に疵付けしも村正なり、
こたび山城が差添も同作といふ、いかにして此作の当家にささはる事かな、
此後は御差料の内に、村正の作あらば、皆取捨てよと仰付けられしとぞ、初半蔵は三郎殿御自裁の様見奉りて、おぼえず振ひ出でて太刀とる事能はず、山城見かねて御側より介錯し奉る、
後年君御雑話の折に、半蔵は兼ねて剛強の者なるが、さすが主の子の首打には腰をぬかせしと宣ひしを、
山城守承り伝へて、ひそかに思ふやうは、半蔵が仕兼ねしを、この山城が手にかけて打奉りしといふは、君の御心中いかならむと思ひすごして、
これより世の中何となくものうくやなりけむ、当家を立去り、高野山に入りて、遁世の身となりしとぞ、(柏崎物語)」
となっているので、渡辺半蔵が討ち手のバージョンの「柏崎物語」もあるようだ。
村正については家康の代では気にしてなかったようだけど。 「武家閑談」から朝鮮出兵の時の加藤清正と福島正則
高麗陣中で肥前名古屋(名護屋)へ注進状を送るため、諸大名が判(花押)をすえることになった。
加藤清正の判形が細かくて手間がかかっていた。
福島正則は「清正の判はむずかしい。だいたい判というのは無造作なのがよい。
重い病となって遺言状に判を書くことになったら困るだろう」と申した。
清正は「われは戦場で国の土を枕として死のうと思うゆえ、病死の時に臨んで遺言状を書くことなど考えもしない。
この判で問題はない」と申したという。
死因が病死なので悪い話の方に投稿しておこう。 ついでにいい話スレに投稿した熊野北山一揆の話で
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13841.html
「武家閑談」から大坂の陣の時の熊野北山一揆
溝口五右衛門という人物が出ているが
>>507の「新東鑑」の話のように(「武家閑談」でも同じ話が上田宗箇の後にある)、同じく浅野家の亀田大隅守高綱も元は溝口半之丞と溝口姓
「木村又蔵」という講談では柴田勝家の元にいたときに産女(うぶめ)の妖怪に会って怪力を得たことになっている。 先週、二本松城を訪れたところ、本丸に「丹羽和右衛門・安部井又之丞 自陣の碑」というものがあった。
横の立て札を見ると、戊辰戦争での落城に際して自刃した城代と勘定奉行の供養塔だそうだ。
そこには、前者の割腹の様子が「床几に腰を下ろし、膝の上に広げた軍扇に内臓をつかみ置いて、前屈みのまま絶命」
と説明があって、「これ、藩祖(という言い方でいいのかな?)に倣って、ってこと?」と思わずにはいられなかった次第。
いい話なのか悪い話なのか迷ったけど、この他にも壮絶な逸話を聞いた長州人の自分がちょっとバツが悪くなったのでこちらに 「武家閑談」から庵原朝昌について
ある老人の昔話によれば、庵原助右衛門(庵原朝昌)は駿河の庵原氏であった。
兄の庵原弥平次は武者修行で小田原へ来て、金窪(神流川の戦いの前哨戦)の競り合いで北条氏邦に従っていたが、一騎で突出し土手に乗り上げて討ち死にした。
小田原衆は弥平次を捨て殺しにした。
助右衛門は駿河でこれを知り、小田原に対して遺恨を持った。
小田原の陣ではたびたび手柄があり、戸田勝隆のところで大いに働いた後、井伊直孝に仕えて大将となった。
大坂の陣の五月六日河内若江合戦の時、井伊先手の川手主水が早々に討ち死にしたため、殿軍を助右衛門が指揮した。
大坂勢を切り崩しているところに、木村長門守(木村重成)が白母衣に金の竹刀の白熊の印をつけ、踏みとどまっていたのを、助右衛門自身で十文字槍を持ち、長門と槍合わせをした。
両者の間には二間ばかりの水路で隔てられていた。
助右衛門が横手で槍を長門の母衣へ突っ込むと、長門は直槍で助右衛門の立っている岸を突き、倒れまいとした。
助右衛門が槍を強く引くと長門は横に倒れ、沼に落ちた。 助右衛門の郎党たちも沼に飛び込んで長門の首を取ったところに、安藤長三郎(安藤重勝、安藤直次の甥?)が走ってきてその首を奪った。
助右衛門は「若い御仁が殊勝なことだ。
木村長門守と名乗っていたが、長門守には恨みもないし、首になった以上は木村の名が残ることもないだろう。
大坂城も今日明日には落城するであろうし、貴殿もこれほどの首を得る機会もないだろう。その方へ与えよう」
と長三郎に長門の首を与えた。
長三郎が喜んで首を持って行こうとするのを助右衛門は呼び止め、
「この母衣絹で包んで持参されよ。
大御所様の御吟味は厳しく、母衣武者なのに母衣がなければ怪しまれるだろう」
と母衣・脇差まで与えた。
助右衛門の郎党たちは、せめて白熊のついた金の竹刀だけは残しておこうとしたため、今も助右衛門のところにあるという。
さて長門の首実検をしたところ、大御所様は大変御喜びになり、城に長三郎を召して、天下に名高い五代青江という御腰物を下されたという。
助右衛門の家来たちは悔やんだが、助右衛門は
「手前の手柄は直孝殿がよく御存知であるから、悔やまぬでよい」と言ったという。
長門の首を見た人の話によれば、四方白鍬形の兜であり、鍬形の角元は菊唐草模様だったという。
井伊家の家老、木股土佐(木俣守勝)も大剛の兵であり、その子の左京のちに清右衛門(木俣守�タ。右京のちに瑞エ左衛門)も大坂の陣で手柄を挙げた。
土佐の後家を庵原助右衛門が娶り、主税が誕生した。
よって木俣左京と庵原主税は同母異種の兄弟である。
二人の母親は新野親矩の娘だそうだ(姉妹という説も)。
新野親矩は飯尾連龍(お田鶴の方の夫)を攻めている時に討ち死にしたともいうから、直虎の大河に続いて出番があるかも。 内藤修理正(昌豊)の内方(奥方)の母が死去したが、この隠居は一向宗であったので、甲州の家の
とどろきと云う寺の一向坊主が尽くその葬儀に来た。
そのような中、他宗の葬儀の折のように、死者への膳wをいかにも見事にするよう内藤が申し付けたところ、
一向宗の出家たちが申すには
「我が宗の習いにて、御阿弥陀様へ能く食を進上申せば、他には要らぬことです。」
そのように申して亡者に食膳を向けなかった。
内藤修理は尋ねた、「それは一体どうして、阿弥陀に対してはそのように法外に立派にするのか」
上人はこれに
「阿弥陀こそ肝要なのです。他に食を備えるというのは迷いの心であり、一向宗から見れば他宗の方を
おかしく存じます。」と言われた
内藤修理は申した
「亡者が飢えればどうするのか」
上人答えて
「阿弥陀様にさえ食を備えれば、それが尽くの衆生への施しと成るのです。」
これを聞いた内藤は手を合わせて「さても殊勝である。他宗と違い造作も御座無き御宗旨かな。
一尊への施しが万人に渡るとは珍しき、先ず重宝なる一向宗かな」と褒めると、上人は悦んで
「去る程に、我が宗ほど殊勝なるものはありません。」と上人は自賛した。
すると内藤修理は、自身で上人の膳を据え、残り百人余りの坊主たちへは一切膳を据えなかった。
「これはどういう事か」と坊主たちは抗議して膳を乞うた所、そこで内藤修理は
「おや、御口の違う事ではないか。上人にさえ膳を参らせれば、脇々の坊主たちも腹一杯に
なるかと存じでこのようにしたのだが。」
そのように申すと、その後は坊主たち詫び言して亡者にも膳を据え、みなの坊主も他宗のように
執り行った。これは内藤修理の理屈のために、一向宗が恥をかいたのである。
『甲陽軍鑑』 「武徳編年集成」から飯尾豊前妻の奮戦
(「武徳編年集成」は「武家閑談」「後武家閑談」の作者、木村高敦による徳川家康の伝記)
永禄八年(1565年)十二月二十日
遠州引間城主、飯尾豊前守致実(飯尾連龍)の姪は今川氏真の寵愛を得ていたため、豊前守も厚遇されていた。
しかし神君に内応しているという風説があり、氏真は豊前守を駿河に召し寄せ、百騎ばかりで屋敷を囲み、攻めて皆殺しにした。
飯尾の武士二、三十騎が戦死し、寄せ手も多くが討ち死にしたという。
豊前守の妻(お田鶴の方)は無双の強力を奮った(これを駿府の小路軍と世に称す)。
豊前守の家来の江間安芸・江間加賀も引間の城を守り、神君に通じた。
しかし多勢に無勢だったため、今川に降ったという。 17世紀後半に成立したとされる
「浜松御在城記」から飯尾連龍とその妻
遠州引間の城主、飯尾豊前守(飯尾連龍)は今川の先手として織田軍とたびたび戦っていたが、永禄三年(1560年)に今川義元が桶狭間で討ち死にした。
今川氏真は父の弔合戦を考えることなく、朝夕酒宴遊興に溺れたため、権現様は永禄四年に織田信長公と和議を結んだ。
遠州の飯尾豊前守、井伊谷の井伊肥後守(井伊直親)、嵩山城の奥村修理を始め大半が氏真に叛き、信長公や権現様に内通した。
これを知った氏真は永禄五年に井伊谷、引間、嵩山に軍勢を差し向けた。
井伊谷と嵩山は落ちたが、引間の城は堅固であり、寄せ手の大将の新野左馬助(新野親矩)が討ち死にした。
氏真は調略により飯尾豊前守を討つことにし、遠州二俣城主の松井左衛門(松井宗恒?)が豊前の姉婿であるため、松井をなかだちに駿府に豊前を呼び寄せ誅殺した。
引間城にいた豊前守の家来の江間安芸守、江間加賀守は城を保ち、権現様に援軍を依頼した。
永禄十一年、権現様は気賀の住人、名倉喜八郎の案内で引佐を通り、新庄に出て船に乗り、宇布見村にお着きになり、庄屋中村源左衛門の案内で小籔村の普済寺に移られた。
ここで引間城の家臣はもちろん、堀江城の大沢基胤、頭陀村の松下嘉兵衛之綱(秀吉の元主人)などが出仕した。
(原註:大沢基胤は永禄十二年に堀江城で敵対しているので堀川の誤りだろう。
また堀川の一揆の大将が原隼人という話があるが、武田軍による一揆の扇動の誤りだろう)
永禄十二年、武田信玄と大井川を境とし、駿河は武田、遠江は権現様がお切り取りなさると約した。 菅沼貞盈らに菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時(井伊谷三人衆)を調略させ、井伊谷を味方とし、権現様は安間村に御陣を取られた。
そのころ引間城の江間安芸守は江間加賀守を殺した。
江間加賀守の家来の小野田彦右衛門は安芸守を殺し、権現様に御注進申し上げた。
権現様はさっそく引間城に乗り込み静謐にされた。
なお安芸守は武田の秋山信友(秋山虎繁)に内通していたという。
加賀守はかねてから権現様に忠節を誓っていたため、子孫は紀伊大納言様に仕えているという。
一説に、浜松は豊前守後室(お田鶴の方)が保っていたため、権現様は御使者を出し「城を明け渡せば家来は本領安堵する」と説得したが後室は応じなかったため、権現様は城を攻められた。
十二月二十四日から攻め、御味方は大軍だったため翌日には二の丸三の丸も攻め破った。
しかしこの時、御味方に手負・死人が三百人に及んだという。
城兵も二百余人が討ち死にし、豊前守後室も侍士を左右に引き連れ打って出、十八人がひとつ所で討ち死にしたと、板倉家の書にはある。
しかしこれは大河内兵庫助(1517年に引馬城で討ち死にした大河内貞綱)と間違ったのではないか。
もし御味方の手負・死人が三百人もいたら、少なくとも十人、二十人は討ち死にしているはずなのにその姓名が不明なのは不審である。
また豊前守の妻は今川の親類であり、松井左衛門が媒酌となり祝言を挙げていることを考えると、人質として駿府に置かれていたと思われる。
とするとこれは江間安芸守の妻のことではないか、詮索が必要である。 https://news.yahoo.co.jp/articles/c83be0a1397225d3619b430d93954fd5e7e0ee46
烏山城についての記事があったので
「続武家閑談」から那須家について、その1
下野の那須資親には娘だけで男子がいなかったため、結城の子孫である白川義永の次男を養子とし、娘を嫁がせ資永となづけた。
しかし資久という実子が生まれたため、寵愛のあまりこちらを後継にしようと、家臣の大田原胤清・大田原資清の親子に
「資永を討ち、資久を後継に立てよ」と命じた。
このため大田原親子は資永の福原城を攻めようとした。
しかし資永は闇夜に甲士七、八人を黒羽城に忍ばせ、東出櫓に放火して注意をひき、そのすきに軍兵を忍び込ませて資久を生捕にして福原城に帰った。
ところが資永は敗北したため、資久を刺し殺し、自害した。
こうして上那須家は滅び、下那須家の那須資房が永正十三年(1516年)六月七日に上下那須を統一した。
岩城守隆は千余騎で資房の息子、那須政資の山田城を囲み、攻めた。
資房は後詰として永正十七年八月十二日に烏山城を出馬し宇都宮の援兵二百騎とともに山崎にかかった。
岩城は山田城攻めをやめ、山崎にむかったが、縄釣原で資房の伏兵二百騎にら突き立てられ、川岸に追い込まれ討ち取られていった。
岩城の羽翼である志賀備中・白土淡路は奮戦したが討ち死にした。
志賀の首を獲ったのは佐竹浪人の石沢五郎十七歳であった。
この時(1520年)、鉄砲というものがあり、岩城陣中に響き、天地を動かしたという。 そののち宇都宮俊綱(宇都宮尚綱)は二千ばかりで喜連川五月乙女坂に陣を敷き、旗下の那須を滅ぼそうとした。
政資の後継の那須高資は三百余で烏山城を出馬し、天文十五年(1546年)五月十日、俊綱と矢合わせののち乱軍となった。
俊綱は伊王野(那須七騎の一人)配下の鮎ヶ瀬助右衛門(弥五郎とも)に射殺され敗軍した。
笠間の家人は主人に暇を告げ
「俊綱がすでに討たれなさったが、このまま爪痕も残さず手ぶらで退却するのは後代までの恥辱です。
わたし一人戦死をとげ、永く笠間の家名を高めましょう」
とと那須の陣中に駆け入り、敵三騎と力戦し、一騎を斬り落とし、討ち死にして名を万世に残した。(本人の名前は書かれていない)
戦後、五月乙女坂に俊綱の石塔を建てた。
(五月女坂は現在、俊綱を討った鮎ヶ瀬弥五郎の名前から弥五郎坂と呼ばれている)
宇都宮国綱(国綱は尚綱の孫、尚綱の息子の宇都宮広綱(当時7歳)の誤り)は俊綱の仇を討とうと、千本常陸介(千本資俊、那須七騎の一人)を調略して那須高資を殺そうとした。
那須高資は老母の元へ行き、千本の方へ行くことを告げたが
高資の老母は「昨日、千本親子がここに来ましたが、異心が見て取れました。千本へは行かぬように」と高資を止めた。
しかし運の尽きか高資は「裏切られる覚えなど関八州にもございません。お気遣いなさらぬよう」
と天文二十年正月二十三日、千本の城へ行き、常陸介に殺された。
嗣子がなかったため弟の那須資胤が遺領を継いだ。
千本は譜代の主を弑逆したにも関わらず、文谷・市花輪を領したため、諸人はこれを爪弾きし憎んだ。 「続武家閑談」から那須家について、その2
会津盛氏(蘆名盛氏)・白川義近(小峰義親?)が三千の兵で、白河・那須の境の小田倉に遠征してきた。
那須資胤と資胤の弟である弾正左衛門(那須資郡、この頃は福原氏)は烏山城を立って、両荘(上那須・下那須)の勢五百余騎を引率し、
永禄二年(1559年)三月二十六日、敵陣に寄せて鬨の声をあげ、巳から未の刻まで戦ったが、劣勢となった。
特に上那須衆は敗北した。
資胤と資経(資郡)は敷皮に座し、
資胤「わしはここで切腹する。お前は那須に帰り家を継げ」
資郡「私がここで代官として自裁するので、御帰城なさってください」
と互いに言い合っているうちに、味方の柏原勢、三百余騎が隊列を乱しながら駆けつけてきた。
三輪村の野伏五十余人も率いていたが、その中に「岡源三郎、十七歳!」と名乗り、味方の中から駆け出した者がいた。
源三郎は敵の首魁の、会津四天王随一と言われた佐野源十郎の馬の首を射て、屏風を返すが如く倒した。
そこへ内藤右衛門が走りかかり、佐野の首を獲った。
これを見た資胤はみずから太鼓を鳴らし、下知した。
こうして騎兵百余騎が一同に敵に突入していったので、会津・白河勢は大勢討たれ、見向きもせず白河の関前の道を十五里も逃げ帰った。
那須勢は勝ちに乗じて白河まで侵入し、放火した。
翌日早朝に資胤は岡源三郎を召し出し、五郎左衛門という名を与えた。
この度の戦いで勝利したといっても上那須衆は敗北し、那須資郡のみが高名をあらわしたため、上那須衆を率いていた大関高増(大田原資清の息子)は嫉妬した。
これを推察した資胤は、大関の家臣の松本某に高増を殺すよう命じた。
松本は了承した風を装い、黒羽城の高増にそのまま語ったため、大関高増は大いに憤った。
そこで高増は佐竹義昭に属し、資胤・資郡兄弟を滅ぼし、佐竹の男子を那須の当主にしようと考えた。
永禄六年(1563年)三月二十三日、大関高増は兵を発して数度合戦におよんだ。
一方で主君に弓を引くわけには行かないと、上那須衆から烏山城勢に加わった者どもも千人余いた。 永禄九年(1566年)八月二十四日、佐竹軍将の東将監(佐竹義堅)勢・宇都宮勢・上那須勢が烏山城の西方の神長村の治部内山に遠征してきた。
烏山城から二百余騎が駆け出し、宇都宮・上那須勢を追い散らし、東将監を籠の中の鳥のように取り囲んだ。
千本常陸介(千本資俊)が使者となり、将監に降伏を勧めると、将監は降伏した。
こうして治部内山は「降参が峰」と呼ばれるようになった。
この度、敵の目には烏山城内に千人ばかり籠っているように見えたという。神力かと言い合ったそうだ。
翌、永禄十年(1567年)二月十七日、佐竹義昭父子は東将監が降参したと聞きたいへん怒り、上那須衆と合わせ二千余騎で烏山城より三十四町東の下境大河井山(下境大崖山)の麓まで押し寄せ、駐屯した。
ここは(佐竹勢から見て)後ろは大山、前は大河(那珂川)であった。
河を渡り船を捨てる故事は多いとはいえ、烏山勢が先に河を渡ったのは不覚であった。
とはいえ烏山勢二百騎は、一所懸命の地を捨てた者、那須家の重恩に報いようとする者、義を感じる者、と
野伏の中間に至るまで、名を後世に残そうと思うこと切なるものばかりなので、一歩でも退却する心持ちはなかった。
烏山勢は時を移さずうって出た。
佐竹勢は優勢であったが、ついに切り立てられ、大山に追い込まれ、若干討ち取られた。
佐竹側の上那須衆と長倉勢は互いに殿軍を争った。
そこで上那須衆の金丸肥前守は「こちらは烏山からは遠く地理に不案内である。
長倉勢は他国(常陸)の者であるが近辺なので地理も詳しいだろう」
ということで長倉勢に殿軍を任せ、上那須衆は先に退却した。
那須資胤は「上那須の者は一人も討つな、逃げるに任せよ。佐竹勢を討ち取れ!」
と陣中を駆け回り下知を下した。
この時、長倉勢はことごとく命を落としたという。
大将の佐竹義昭も草摺の端を射られたという。
この合戦で大崖の谷水が四、五日の間、朱に染まったそうだ。
またある時、那珂川が大洪水となったため、佐竹衆が国境に押し寄せ、放火しようとした。
しかし烏山方の五十余騎が河をさっと渡った。
中でも大久保民部、秋元豊後、森源左衛門の四騎が先陣し、民部が帰依している宗蔵坊という僧とともに河に飛び込んだ。
民部の馬がみなぎる波にさらわれ溺れるところを、(宗蔵坊が?)馬の両脚をとらえて突き上げ、民部が向こう岸に駆け上がったところ、
その勢いにおそれたのか、一矢も射ずに佐竹勢は退いたという。
こうしてその年は昨年と合わせて二年間、敵も味方も手負も死者も一人も出なかったという。 「続武家閑談」から那須家について、その3
全体的にはいい話だけど、1,2がこちらのスレだったので
那須家は勝利したとはいえ、上那須衆が日夜、烏山の北城にまで攻めてきた。
このように親類や友人が名を惜しんで戦うことを、大田原の金剛寿院住職の尊瑜は大いに悲しみ、那須氏と大関氏に戦をやめるよう説いた。
こうして永禄十一年(1568年)九月上旬、資胤の長子の那須修理大夫資時(当時十二歳の那須資晴?)十三才が従士十七人で大関高増の居城に入り、主従和睦がなった。
この戦いの間、大関高増は譜代の衆と干戈を交えたことを恥じ、剃髪して味庵(未庵)と名乗っていた。
資晴はたびたび佐竹・宇都宮と戦い、勝ちに勝った。
特に、天正十三年(1585年)三月二十五日、宇都宮国綱と壬生下総守(壬生義雄)があわせて二千五百騎で那須の薄場の原(薄葉ヶ原)に出陣した。
(天正三年説もあるがその場合は父の宇都宮広綱となる。
天正十三年説の場合、壬生義雄は宇都宮配下ではないはずだが)
資晴は先立って烏山城を出、沢村に駐屯して敵陣を望見した。
すると彦星が朝日に輝き、宇都宮方の鎧の袖をひるがえすこと、雲の如く、露の如くであった。
一方で味方勢は合わせて三百余であった。
敵は鯨波(とき)の声を揚げること三度であったが、味方は静まり返っていた。
この時、味方の馬廻り衆が駆け出した。
大関高増は「軍においては法があり、抜け駆けをするならば思いがけず敵に討たれるであろう」と制した。
すると予想通り、宇都宮勢が先に川を渡った。
味方の野伏ども百ばかりが川端にひしと立ち並んでおり、宇都宮勢を射た。
味方の大将の塩谷安房守(塩谷孝信)の手勢五十余騎は川中に駆け込み、敵の見廻り平塚十郎を射落とした。
こうして指揮が混乱した敵軍は進むことができなくなった。
味方の蘆野意教斎、蘆野日向は「先駆けを討たすな」と川中にさっと乗り入れた。
これを見た敵方は川から上がり、引き返した。
味方は勝ちに乗じて、射手を前に進め、騎兵は鉾先を揃え、一同に川を渡り魚鱗となって叫びながら切り立てた。
敵はたちまちに敗北し、坂東道十五里を振り向きもせずに逃げた。 宇都宮領との境まで来たところで壬生下総守の手勢二百余は東方に一町ほど退いたが、陣形はまんまるになっていた。
この様子を大関高増はじっと見て
「壬生衆の逃げる方向が誤っているにも関わらず、陣形が整っている。若武者ども、気をつけよ」
しばらく追いかけると案の定、壬生衆は鬨を挙げて反転して攻めてきた。
その間に宇都宮勢は熊下山を通り自領へ落ち延びた。
また大関高増の弟である福原安芸守(福原資孝)は、敵方の岡本右京亮(岡本氏宗?)が死を覚悟している姿を見て
「人手にかけるな」と駆け寄って討ち取った。
安芸守の鉾に当たった者はすべて命を落とした。
また牧野顕高(資晴の弟)の嫡子八郎は十八歳で熊下の麓に逃げる敵に槍を合わせ、組み打ちの功を挙げた。
もちろん牧野顕高自身もあまたの戦功があり、松野に大勢の敵が控えていたために味方は誰一人続こうとしなかったが、単騎で駆け入った。
敵を四方に追い散らし、太刀が折れたため引き返し、味方の軍勢に馳せ帰った。
「大空に塞がるほどの餅もがな 生ける一期にかぶり喰はん 蘆野の被官、藤田九右衛門」
と矢鞍の前輪に書きつけた侍は首を五つ持ち帰った。
そのほかの那須勢も、首を一つ二つ取らぬ者はいなかった。
資晴は「熊下山を越し宇都宮領に攻め込もう」と言ったが
大関高増は「宇都宮氏が今後も当家を付け狙うようなことは避けるべきです。
またこの度の戦いは味方が悪所で待ち、攻めてきた敵と戦ったために勝利を得たのです。
もし佐竹や宇都宮がこれに気づき、今度は平地で戦うようなら多勢に無勢となりましょう。まずは凱旋なさるべきです」
と諌めたため、資晴は我意を通さず帰城した。
翌日、蘆野意教斎は資晴に謁見し、昨日の功を賞された。
意教斎は「日頃の念仏を忘れ、六人斬り殺しました」と答えたそうだ。
そののち資晴は千本常陸介(千本資俊)が祖父の高資(高資は資晴の伯父)を殺したことを聞き、その仇を報ずるため
同年の十二月八日、大関高増、大田原綱清、大田原資則(福原資孝)の兄弟ら十四人と密談し、
千本常陸介とその子十郎(千本資政)を滝寺へ呼び出し、誅殺するよう命じた。
こうして千本家の跡目は茂木氏の次男が継ぎ、大和守とされた。
このほか、資晴が宇都宮氏と塩谷・喜連川・小幡にて小競り合いをしたことは数えきれないくらいである。
天正十八年(1590年)以降は豊臣の殿下に出仕したため、競り合いもなくなった。 以前投稿された一連の那須家関連の話と比較すると
・上那須家滅亡:以前の話では那須資親の遺言となっていたため、大田原が偽造したのでは?と取れなくもなかった
・小田倉の戦い:以前の話では大関高増の助言によって那須資胤が切腹寸前まで追い込まれていた
・大崖山の戦い:以前の話では殿軍争いとはしていなかったため大関勢が適当な理由をつけてさっさと逃げたように見える
・千本親子誅殺:以前の話では大関高増の恨みから、としていた
続武家閑談は大田原や大関高増の汚さを抑えている印象 津村正恭の譚海に戦国時代に連歌が流行っていた話が二つ載ってたので
その1 松永弾正
松永弾正がある人のところで連歌をしていた。「薄にまじる蘆のひとむら」という句に上手くつけられずに悩んでいると、松永の宿舎から使いが来てこっそり何事かささやくが、弾正は相変わらず上手い句をつけようと悩んでいる。そんなことが二度三度あって、やっと「古池の浅きかたより野となりて」とつけると、すぐに「火急の用ができましたので失礼します」と帰ろうとする。隣の人が「何事ですか」と聞くと、松永答えて、「先ほどより宿所のほうに野武士が蜂起して押し寄せて来たとのことで、急ぎ参って追い散らしてきます」 その2 政宗と小十郎と紹巴
里村紹巴が松島見物に仙台に旅した時のこと。政宗卿が城内で片倉小十郎と四方山話をしている時に、「この頃紹巴が京都より下ってきて連歌を盛んにしているそうだ。一つ、紹巴を読んで俺もやってみよう」と仰って紹巴を呼んだ。すぐに紹巴はやってきて連歌が始まった。ホトトギスが鳴いていたので、政宗卿が「鳴け聞こう身が領分のホトトギス」と発句されると、小十郎横で胡坐をかいたまま、脇を付けましょうと言うと「鳴かずば黙って行けホトトギス」とつけた。紹巴おかしく思ったのか、「どうなりと御意に従えホトトギス」と第三句をつけた。
そこまで悪い話じゃないですが。 「続武家閑談」から小田氏治と上杉謙信の合戦
永禄二年(1559年)四月二十八日、常州信太郡小田城主、讃岐守氏治入道天庵と越後の上杉輝虎入道謙信が真壁部山王堂において合戦をした。
小田天庵は年来戦争に長けており、結城・佐竹・宇都宮をはじめ近辺の諸将どもが攻めあぐねたため
示し合わせて諸方から攻めたが、完全な勝利は得られなかった。
そこで謙信の使者が上州に来られたのを幸いとして諸将は謙信の出馬を乞い
「小田氏を退治してくだされば幕下に属する」と約束した。
謙信は早速同意されて「八幡出馬しむるべし」と自筆で短冊に書いて諸家の使者に授けた。
使者が昼夜行軍で返事を持参した時には、もう謙信の先手は宇都宮の氏家原にまで来ていた。
諸将は謙信の行軍が迅速なことに驚いた。
謙信は八千の軍で昼夜通し行軍し、四月二十八日の夜、山王堂に着陣し堂を本陣とした。
堂下の道と原との間は四町ほどの深泥であり、その向こうは三十町ほどの芦野であった。
小田天庵は二千ばかりの人数で居城よりうって出て筑輪川を渡り、背水の陣で深泥を前にして備えた。
辰の刻ごろに謙信の軍勢はしずしずと山王堂を降り、真一文字に深泥を越えて行った。
小田の先手は弓・鉄砲・槍・長刀で、打ち殺し、射殺し、突き倒ししたため謙信軍の手負、死人の人数は数知れなかった。
しかし越後勢は少しも怯まず、討たれた人馬を泥の中に埋めるように踏みつけ踏みつけし、ついに小田勢を原へ追い返した。
こうして申の刻までには小田は打ち負けて引き返した。
天庵は最前渡った筑輪川を乗馬にてわたり、居城に引き返そうとした。
しかしあまりに馬が疲れていたため、川上へ馬の頭を向ける、水を長い時間飲ませた。
越後勢は天庵を大将と見て、川端から矢や鉄砲玉を雨のように降らせたが天庵には当たらず、天庵は難なく川を渡り小田へ帰城した。
諸将は謙信の余りの迅速さと威厳を恐れ、城に引きこもっていたが、謙信が勝利ののちおいおいに参上して謝辞をのべた。
謙信は諸将たちを先手として小田城へ押し詰めた。
天庵は四、五日ほど籠城したが、大軍が名将の指揮によってとりまいて攻めてきているため、小田家老の信太鴨之介が
「防戦はもはや叶わないでしょう。
天庵様には藤沢の城へ退かれ、再起を図ってください。
それがしはこの城に残って切腹いたします」
と諫めたため天庵はひそかに退去し、鴨之助は自害した。
謙信は勝鬨を上げさせてそのまま上州に帰られた。
翌日、天庵は藤沢よりうち出て小田城を取り返し、元通りにした。
鴨之助はもともと宇都宮氏が持っていた坂戸城の城主であった。
近年小田方に攻め取られていたのを、鴨之助が切腹したのちは、小栗城にいた宇都宮家老の小宅三左衛門がすみやかに取り返し、宇都宮没落の時まで在住した。
「続武家閑談」といっても
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4877.html
で紹介されている「常陽四戦記」の文章そのままだった 次の条に山王堂の戦いの追記があった
右の山王堂の一戦を、稲川石見という当時十八の真壁の侍が、戦場である芝野の上の明神山で見物していた。
両軍が攻めあっている間は戦場はしばしば煙霞のようになり、物の色がわからないほどであった。
戦いが終わると、霧がはれるように見えたという。 「常陽四戦記」から真壁久幹・太田資正と小田氏治の戦い
「続武家閑談」にもあるが「常陽四戦記」とまったく同じ文だった
真壁城の氏幹入道道無(真壁久幹)と小田天庵は長年あらそっていた。
元亀四年(1573年)四月、天庵が筑波山からつづく青柳山を越して、真壁と山ひとつ隔てた小幡村に出てきたため、道無は出兵した。
道無は、小田勢は真壁の西から攻めてくると聞いていたが、実は山を越えて小幡から攻めようというのであった。
太田三楽斎(太田資正)とその子梶原源太資晴(梶原政景)は柿岡に住んでいた。
資晴は佐竹の媒酌で道無の婿となっていたため、小勢ではあるが真壁に加勢することにした。
しかし小田勢は容易ならない相手であるので、真正面から当たることを避け、小幡の近辺にあった要害無双の古屋敷に入った。
太田勢は敵を突いては屋敷に戻ることを繰り返して時間稼ぎをした。
そうこうしているうちに道無勢が山を越えて来たのが旗でわかった。
天庵は太田親子を捨てて真壁勢に向かって備えた。
小幡の地は三方が山で囲まれ、平地は十町もない狭いところであった。
真壁勢は山から下って戦ったが、弓鉄砲は用いなかった。
これは小田勢の後ろの太田勢を討たせないためであった。
こうして小田勢は後ろから崩れて退却し、真壁勢は追い討ちをかけた。
道無の息子に安芸守十六歳と式部少輔十五歳がおり、坂本信濃守という剛のものがついていた。
安芸守は敵と組みつつ、山上から転がり落ちた。
安芸守の従者は助けようとしたが信濃守は叱って助けさせなかった。
とうとう平たいところまで落ちてきたが、敵が上になって安芸守の首を取ろうとしたため、馬取が敵の右手をとらえ、
吉田というものが駆け寄って安芸守に首を取らせた。
式部少輔も組み打ちの高名を得た。
こうして敗北した小田勢は、来る時に通った道を引き返した。
そこに真壁勢が山を登って追い打ちをかけたため、天庵は一度も振り向くことなしに四里の道を退いた。
三楽は追い打ちの軍には加わらず、小田勢の先回りをして先に小田城に乗り込み、門を固めて立て籠った。
天庵は小田城に入ることがかなわず、一里ほど離れた藤沢の城に入り、幾度も小田城を奪還するために競り合った。
三楽は高楼を建て、天庵の軍の動きを見張り、近い時は早鐘を、遠い時は狼煙を上げて真壁に知らせた。
こうして合図を定めて加勢を頼んだため、小田城を堅固に保ち、太閤の小田原の陣の時まで三楽とその息子の梶原資晴は小田城に在城したということだ。 「続武家閑談」から「羽州庄内の城主武藤義氏(大宝寺義氏)が事」
出羽国庄内の武藤出羽守義氏と申す者は悪逆であり、郡邑からむさぼり、戦のみに年月を過ごしていた。
ある年(天正十一年、1583年)の正月のはじめに、旗下の諸士を動員して領地の境を攻めようとした。
諸士は田川郡のよな坂という所で暫く休息した。
「さても屋形の義氏の無道のために、毎年戦に苦しみ、あまつさえこのように月日も多いのによりによって新玉のはじめから従軍することになるとは。
まことにに生きてても甲斐がなく、迷惑な次第である。
幸い我々の中でも東禅寺右馬介(東禅寺義長)は大身であるし、なにか一思案ないだろうか」
と口々に申した。
右馬介は「我も左様におもうけれども、一人の方策というのもなんだから、おのおの同時に方策を申そう」
こうして諸士が異口同音に「逆心!」
と言ったため、とって返して屋形の屋敷を攻めたところ、義氏は同じ出羽の金沢へ落ち延びようとした。
しかし新山森というところまで義氏が逃げたところで、諸士が追いついて義氏を討った。
しかし誰を主君とするあてもなく、最上(最上義光)の旗下となり、義氏の弟で丸岡の押領使である丸岡兵庫の息子を迎え、義氏の娘を娶せて主君となした。
しかしまた悪逆の兆しがあったため、上杉方となり、本庄越前(本庄繁長)の息子を越後から呼び寄せて主君とした。
「最上軍記」の説も大同小異である。
ただ屋形の名前を満安としているが、これは誤りである。
庄内の寺院に彼の位牌が今でもあり、実名を義氏とたしかに位牌の表に記してあるそうだ。 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8680.html
鮭延落城後の鮭延秀綱
「奥羽永慶軍記」では武藤義氏と武藤「光安」を別人としているが武藤光安は実在不明
「最上軍記」で武藤義氏を武藤満安と表記しているとしたら本来同一人物だったのが別人になったのかも
ついでに「奥羽永慶軍記」の武藤光安は妊婦の腹を裂くという暴君テンプレをしている 「続武家閑談」から、樋口石見守(樋口知秀)武勇のこと
近江国の杉の沢に樋口信濃守盛継という武士がいた。
佐々木定頼(六角定頼)の配下として細川晴元を助けるため播磨に出陣した。
入江左近将監は樋口と同家だったため、両家あい並び武威をふるった。
樋口信濃は芥川城で卒去したが、その子供が石見守知秀である。
芥川城落城の時、家来の田村与七兵衛というものが守護した。
永禄十二年(1569年)正月、公方義昭が京都本圀寺御寓居の時に三好三人衆が攻めてきた。
このとき石見守は馳せ参じ軍功を成したため、信長に召し出され秀吉公につけられた。
近江・越前でも抜群の軍功をあげた。
その弟の樋口兼継も荒木村重の反乱の折、信長公の味方として出陣したが、太田川で戦死した。
石見守はその敵勢を突き崩し、一人を討ち取った。
そのとき池田恒興から笄を賜り、今に伝来している。
石見守はそのころ有名な太鼓の名人であり、秀吉公の寵を受け従五位下に叙し山城で百二十石を拝領した。
天正十八年(1590年)の小田原の陣では鼓の筒の指物をさしてお供し、御陣場で権現様から杯を頂戴した。(今も伝わる)
名護屋の御陣中でも秀吉公に出仕し七百石の加増を賜り千石を領した。
そのほか山崎八幡の奉行や、播磨摂津の道割の監督も務めた。
慶長五年(1600年)九月に権現様が関ヶ原で御勝利された時は重病であったが山科まで参上し拝謁した。
権現様から御感の上意があったという。
翌年四月に山崎近辺の別所村で卒した。
その子、甚七知直は幼少であった。
秀吉公から賜った亀の笄、ならびに遺品である樋口肩衝を献上して本領別所村の安堵を願った。
権現様は不憫に思われ、片桐且元、大久保長安に仰せつけられ安堵を認められた。
甚七は成長後、江戸にいたって白書院で秀忠公に拝謁し、御朱印を頂戴した。
寛永三年(1626年)の秀忠公御上洛の時、土井利勝が奏者として顔合わせをした。
秀忠公から「父によく似ている」との御言葉があった。
父同様に太鼓が上手なのでそののちも芸をあいつとめ、子孫も引き続き別所村百三十五石を領し、江戸に毎年参勤して太鼓の芸を上覧にいれた。
とはいえ武士であり、猿楽の四座とは別物と若年寄衆も承知されていた。
しかし子孫の久左衛門秀植の代に至って、貞享の頃観世座の合属となってしまった。
まことに武門が嗜むべきは弓馬の道、愛するべからざるは遊芸である。
その道をもて遊び、ついに役者に落ちてしまったこと、嘆くに余りある。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13843.html
「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄
小田原の陣での話はこちらにもあった 『異説まちまち』から松平忠輝のちょっと悪い話
忠輝公が諏訪に謫居されている時は、南ノ丸にあらせられた。厳密なこともなく、諏訪家の御家来の子供などが南ノ丸へ料理人として勤めに行くことがあるぐらいだった。昔、因幡守殿(諏訪頼水)の時代には、鷹狩にお連れして鷹を合わせる様子などもお見せしたが、憲廟(綱吉)のころ、出雲守殿(諏訪忠恒)の時代には、厳密に守護したてまつるようになった。忠輝公も因幡守の時代にはこうではなかったのに」と仰ったそうだ。
毎度のように、「政宗に騙されて口惜しい」仰っていたが、謫居されている間には、一伯公(松平忠直)のように手荒なことをされるご様子もなく、いたってご神妙にされていた。諏訪殿の末子の五郎左衛門殿(諏訪盛條、忠恒の四男)へ相撲取りの目貫を贈られ、今に残っている。「五郎左衛門、そなたは捩じ合いが好きゆえこれをあげよう」と仰って贈られたそうだ。
忠輝公に付き添いで来られた方は柾木左京と千本隼人という人で、左京が死去の時御使番が検死に来られた。それで、忠輝公がご死去のおりには、きっと厳密に検死されるだろうと諏訪では準備していたのに、思いのほか簡単な検死ですんだという話だ。 いい話スレで数日前に名前が出ていた「永禄日記」から元和元年から元和二年(1615-1616年ごろ)の大飢饉の描写
元和元年
稲穂が出てきた八月十六日(西暦では10月初旬)に大雪が降ったため国中の稲が黒くなった。
稲は残らず捨てることとなり、大飢饉となった。
殿様(弘前藩二代藩主の津軽信枚)が十二月二十七日に帰国した時、大間越の海岸筋は死人がおびただしかったため、飛び越え飛び越えして通過することになった。
これをご覧になった殿様は中村蔵之丞を急いで越後に遣わし、種籾や米を積んで戻ってくるよう仰せつけた。
元和二年、正月頃より町も在所も空き家ばかりになり、城のあたりも行き倒れの者が多く、国中に米が一切なかった。
雪中から沼の川骨(スイレン科の薬草)、草根を掘って、雪がだんだんと消えるまで、命をなんとかながらえていた。
城中でも米穀を召し上がるのは奥方(家康の姪の満天姫)だけで、そのほかの者はわらびの根餅、炒り大豆だけ食し、貴賤問わず米飯を食べないことが十四、五日続いた。
三月に入り、越後から米二百俵、商業用の米七百俵が着岸したため、四月下旬に米を給付した。
しかし久しく腹中に穀物を入れていなかったところに急に米飯を食べたことにより、死人がおびただしくでた。
城の四方の堀の近くに積み重なっている死人が数え切れず、目も当てられないほどであった。
これを餓莩(がひょう、餓死者のこと)山と言った。
同月十四日、公儀から拝領した米一万石が着岸したため、一人当たり八升ずつ救米として下した。 江戸時代の北東北なんか稲作するべきじゃねえんだよな
ただ石高制を採用されたら国力を高めるためにしちゃうんだろうけど
実際津軽の実高って最終的には水戸藩越えてくるからずっと開発してたんだろうし 「朝野雑載」から筑紫広門、秀吉に謁見
筑紫上野介(筑紫広門)は大阪に上って太閤に謁見した。
太閤「筑紫では我のことをどう言っておる?」
上野介「西国においては、上様については人ではなく神のように申しております。
また上様のようなお方を見出された信長公は、なおさら霊妙な御知恵だと申しております」
これを聞いた太閤は
「その方の申すとおりである。しかし信長は片目であった」とおっしゃった。
上野介「信長公が片目だとは聞いたことはありませんが」
太閤曰く「信長は片方の見えている方の眼では我のようなものを見出した。
しかし見えていない方の眼では明智のような悪人を良い者として取り立てたのだ。
まさしく片目ではないか?」 そりゃ美味くて高い作物と不味くて安い作物のどっちを選ぶかってのは百姓自身のプライドでもあるのよ
領主の命令なんてつまらないものではないのです
東北の農民と大名たちは効率意識がなかったというのはゆとりある現代人の視点 リフィーディング症候群は経験的に知られてたろうけど、こんなに苦しいなら飯を腹一杯食って死んでしまったほうがよいということかな 最近の説だと野菜(植物)からのカリウム過多症での死亡ってのも多かったんじゃなかったかというのも
現代の健康食信奉者でも陥りやすいそうですね
一見して体によさそうなメニューでもそうなっちゃうとか 「朝野雑載」から大坂冬の陣の和睦の際の落首
大坂陣の時の和睦は、京極忠高の母堂の常高院(浅井初)によるものだったので、落首が書かれた
茶臼山、ひきわけになるあつかひは 京極どののふくろちゃときく
阿茶局の方が名前的にぴったりだと思うけど 放し囚人(めしうど)が家の中に籠もっている場合は、粗忽にその家に押し込むべきではない。
事前にその家の内に科人が何人居て、どんな武器を持っているのかを聞き定めるべきだし、その上
こちらの人数の中に慌て者がいれば、そういった者は敵も味方も見境なく切り突きするものなのだから、
慎重になるのは尤もな事なのである。
しかしながら、無案内なる人の沙汰に、名の高い武士がそういった場で、科人の居宅にすぐに押し込まない
事に対し、良き武士はその理由を説明しない故、これを幸いと思い、悪しき悪しきと非難するのは、
臆病な侍による女の批判というべきものであろう。そういった人を”あすならふ侍”という。
その仔細は、諸木の中に名の無い木が一本あった。この木が申すには
「杉より檜の方がまし、檜もこめなるは良し」などと沙汰した。
他の木々は問うた「ではそなたは何なのか}」
かの名のない木は「それがしは檜のぢゃう(定)にあすならふ」
と言ったが、ついに何者にもならなかった。
この木を”あすならふ”と名付けたように、良き武士を妬んで、手柄のない男は”あすならふ男”あすならふと
これを名付けたのだ。
そう、内藤修理(昌豊)は笑って言った。
『甲陽軍鑑』 鶴田自反「博多記」から島井宗室についての話をふたつ
島井宗室の家に名物の楢柴という茶入(楢柴肩衝)があったのを、秋月種実が所望した。
秋月が押しかけるという風聞があったため、島井一家は宗室に「秋月に譲ってしまえ」と意見した。
こうして秋月から遣いがきたため、宗室は数寄屋で饗応し、楢柴の茶入れを渡した。
使者が門外に出るやいなや、宗室は数寄屋を崩した。
秋月からは楢柴の茶入の礼として大豆百俵が参ったそうだ。
そののち秀吉公が島津征伐に御下向の時、秋月種実は嘉麻郡芥田村までまかり出て茶入を献上したという。 秀吉公が大坂城で島井宗室をお呼びになったため、島井宗室は夜に日を継ぎまかり出た。
大坂川口で石田三成が出迎えて宗室に言うには
「このたびその方を呼んだわけだが、朝鮮征伐を秀吉公が思しめした。
その方は朝鮮にも度々渡海いたしておるため、詳細をお尋ねになるであろう。
そこでこのように申し上げよ」
といちいち申し合わせた。
さて秀吉公が御対面あそばされ
「このたび朝鮮征伐を思い立ったため、その方を呼んだ。
ついては思うことをいちいち申せ」
との御意であったため、宗室は
「朝鮮は韃靼につづく要害の地で日本とはかなり異なります。
征伐はなさらぬが良いでしょう。」
と石田三成の教えの通りに申しあげた。
ことのほか秀吉公は御機嫌を損し
「われが思い立てば、唐土四百州を押し潰すことでさえ、たなごころをかえすほどである。
商人ゆえにそれさえも知らぬようだ」
と仰せになり、奥にお入りになられた。
宗室はこれ以来、秀吉公に呼ばれなくなったという。 放し囚人(めしうど)を討ち取る時、家の内、或いは外であっても、これを討つ者たち各々がかかった所で、
誰であっても最初にかかって切り結び、かかりつつ引きつつ、乱れて勝負をする時、脇や後ろから別人が
寄ってきて、刀、又は長道具、弓などでその科人を殺した場合、定めてこの殺した者が、放し囚人を仕留めたのだ、
とされるのは大きな非議である。
何故かと言えば、討つ相手に対して打ち手の者たちが寄りかねる所を。抜き出てかかる心というものは
優れており、その上切り合ってるところであれば、横からでも後ろからでもかかるのはやりやすいものである。
であるので、始めに先ず切り合った人の手柄を一番とする。二番目は殺した者だが、これは始めに勝負いたした
者に続いての手柄である。
このことについて、人がかからぬ時に一人勝負を始める意地は、人に優れてやさしく、こういった人物は
合戦、競り合いの時でも、放し討ちでこのようである以上、定めて一番鑓をするであろう。
さて又、人に戦わせておいて自分はやりやすい場所に参るような者は、先の人物から、はるばると間のある
意識である。故にこれを「ほそ心ばせ」と呼んでいる。
これは昔から今に至るまで、武士の作法である。
そのように馬場美濃守馬場美濃守(信春)が申し定めた。
『甲陽軍鑑』