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戦国ちょっと悪い話49
0002人間七七四年
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2021/08/31(火) 01:23:01.55ID:ik3gw1m9
細川記に曰く、永禄元年六月九日、松永弾正久秀は五千の軍勢にて将軍地蔵山に陣取り、
近江の六角義賢の勢に向かって合戦を始めた。互いに新手を入れ替え、終日戦し暮にかかった頃、
近江勢は討ち負け、五十三人が討ち死にした。

松永は勝ちに乗じて撤退する六角勢を追いかけ、「松永弾正久秀なり!」と名乗った所、
近江衆に竹林坊という、名を得た弓の上手が有り、松永を狙って丁と射た。

しかし松永の運が強かったのか、竹林坊が射た時、胸板に弦が擦れたために狙いが外れ、
その矢は松永が乗っている馬に当たった。馬はそのまま倒れたが、松永はとっさに弓手に
飛び降りて危うき命を助かったという。

『武芸小伝』

久秀の強運なのか、弓の名手も失敗したというお話
0005人間七七四年
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2021/09/02(木) 00:00:46.70ID:Sn0YtVyX
治衛門と今治城

前スレのラストに投じた今治城築城の逸話シリーズその2
下記参考サイトより抜粋。
今治城(別に吹揚城、美須賀城ともいいます。)は、慶長五年(1600)関ヶ原の戦功により、
宇和島七万石より二十万三千石に加増された天下の名将藤堂高虎が築いたものです。
この当時の城は、丘陵を利用して築いたものが普通でしたが、今治城は、台湾にオランダ人が築いた
ゼーランジャ(開国城)用式を取り入れたものともいわれ、海岸近くに平城を造り、三重の堀をめぐらし、
海水を導入した当時としては最新式の珍しいものといわれています。
本丸の天守閣についても、五層の立派なものが健造されていたようです。
(藤堂家の記録をもとに編集された『宗国史』と言う書物に書かれています。)

─慶長七年(1602)六月から、同九年(1604)九月まで、二年三か月とわりと早い年月で築城されています。─
(ここまで抜粋)

さて、この今治城が完成に至るまでの陰の功労者として石屋、小田治衛門等石工左官の者ら十二名の
存在が挙げられるという。

治衛門は豊臣秀吉の大坂城の築城の際に石垣づくりの人夫として働いて石垣づくりの技術を身に着け、
のちには西条(愛媛県西条市)の禎瑞の干拓にも貢献したという。

この功績を認められて今治城の石組みを任された治衛門と十一名の石工左官の者らであったが、
治衛門は彼らの頭領として相談を受け、城の抜け道の工事にあたった。

しかし、古今東西よりこうした城の秘密に関わる部分というのは城主と一部の人間だけの極秘情報であり、
今治城が完成を見る時、それは即ちこの抜け道の造成にあたった治衛門達が秘密の口封じのために命を
奪われる時でもあった。

治衛門ともう一人の某を除く十名の石工左官達は城の完成と時を同じくして捕らえられ、即刻処刑されてしまったという。
このことを事前に知った治衛門と某は竹で筏を組むと夜に蒼社川よりこの筏に乗って海に出、すんでのところで
難を逃れて大島(今治市の沖合)に逃れ、治衛門は同島宮窪町の余所国にある念仏山に隠れ住み、そこで処刑された十名を
弔って余生を過ごしたという。

大島の余所国には鐘撞堂という地名が残っており治衛門によって築かれたという素晴らしい組み方の石垣が残っており、
そこは治衛門の住居跡ではないかといわれている。
また、余所国に御新田踊りという踊りが今も残っているが、これは治衛門が伝え広めたかは定かではないが、一説には今治城で処刑された
十名を弔うためのものではないかとも言われているという。

処刑された十名の塚の所在はいろいろ言われているもののはっきりとした場所は定かではないが、
今治市に在住の小田通俊氏は、治衛門の十七代目の直系であるといわれ、余所国の大島石材工業株式会社の
小田満氏も治衛門の子孫に当たるという。

参考サイト:今治地方の伝説集 今治市商工会(逸話63)
https://www.imabaricci.or.jp/今治地方の伝説集/#ryuumonzanzyousyu
四国の瀬戸内側では、丸亀城にも石垣を組んだ人物が攻略法を熟知していたために井戸に落とされて
殺されたという逸話があったりするけど、こういう秘密に携わる下っ端の立場にあたる人々は何時の世も
吹けば飛ぶような命の軽さだったのだなと何かシンミリした今日この頃・・・。

生駒親正の丸亀城の石垣・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-701.html
0010人間七七四年
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2021/09/04(土) 11:53:46.28ID:8ZUaR3qE
>>9
はぁ〜住職いねぇ、檀家もねぇ(10軒)、維持費は毎年積み嵩む。お布施もねぇ、支援もねぇ、劣化は毎年進んでく。


こういう状況では止むを得んわなぁ。観光資源化もコロナ禍の昨今では厳しいし自治体も手を上げて予算付けてやろうとはよう言えないだろうしなぁ。
0011人間七七四年
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2021/09/04(土) 12:09:55.31ID:7oTGnM5e
まあ武功夜話ベースの歴史だから本当にそこに祀られてるのか怪しいけどな
0012人間七七四年
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2021/09/04(土) 12:48:45.80ID:4D3eGfWB
信長関連で稼いでる企業なり作家が支援したら良いのにね
NHKとか散々信長扱ってるけどこういう時はスルーなんだよなあ
フリー素材かあ
0013人間七七四年
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2021/09/04(土) 14:42:46.47ID:WVNsbdMX
>>11
・寺は1384年創立で生駒家の菩提(ぼだい)寺にあたる。
・寺の西側にある吉乃の墓は、生駒家歴代当主の墓と共に市文化財に指定されており
・寺を所有する宗教法人役員の19代生駒家当主、生駒英夫さん(48)
・本堂内にあった吉乃や信長の位牌はすでに別の寺などに移しており、

これで武功夜話がどうとか、本当にそこに祀られてるのが怪しいって言えちゃう?
まぁ言い出したら他の墓地が複数有る戦国時代の人物とか皆怪しいけどさ。
0015人間七七四年
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2021/09/05(日) 15:51:47.61ID:Icad6qo4
ある時、石田三成は直江山城守(兼続)と、ただ両人差し向かい、深夜まで酒宴して遊んだが、
密かに山城守に向かって申した

「侍と生まれ弓矢に携わる者で、天下に望みがないのは男子と称するに足りない。
差し当たって秀吉公は、匹夫であったと雖も天下をその掌握に帰された。
私も一度は四海を治めたいとの深い思いは止むことがない。
しかし秀吉公御在世の家は思い立たない。御他界ある上にて、旗を揚げんと思う。

御辺も景勝の逆心を勧め、旗を揚げさせ。天下を覆せば景勝を滅ぼし、御身が関東の管領と
なり給え、我等は将軍となり、京・鎌倉の如く、両人にて世を治めるべし。」

直江も大胆なる者であったので、この謀事を快く思い、

「左用思し召し立っているのならば、上杉家中のことは一向に私に任せ給え。
それについて、謀事を廻らして見るに、蒲生会津宰相氏郷は武道逞しき人であり、
御所公(徳川家康)に差し続く大将である。またこの人の子の藤三郎秀行は御所公の婿であり、
領分は奥州と下野に接している。これは御所公の後ろの強みであり、このため事なしである。

たとえ貴殿が思い立ったとしても、御所公、氏郷と指し続いていれば、中々退治するのは難しい。
先ず氏郷を殺し、そのあとに景勝を国替えさせ、東西より立ち挟んで討ち果たすことが然るべき」

と囁いた。これを三成は承引し、氏郷を毒害し、その後で藤三郎秀行の家老達をそそのかり、
蒲生家中に大いなる騒動を起こさせ、その咎にて秀行百二十万国を没収し、僅かに十八万石にて
野州宇都宮に所替させ、会津には上杉景勝を入れ替え、思いのままに謀を廻らせた。

(近世軍記)

石田三成の野望と陰謀について。まあ典型的な三成陰謀論みたいな話ですが、むしろこのくらいのほうが
魅力的な気もする。
00161/2
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2021/09/06(月) 14:57:33.61ID:rIgZ8UGP
文禄四年、秀次事件の勃発により、秀吉の嫌疑を受けた豊臣秀次は高野山に登り、法体にならせ給い、道意居士と
申された。供奉の人々もみな髻を切って、偏に後世を祈り、上使を今や今やと待っている所に、
福島左衛門大夫(正則)、福原左馬助(長堯)、池田伊予守(秀雄)を大将として、都合一万余騎が、
七月十三日の申の刻に伏見を立ち、十四日の暮れ方に高野山へ到着した。

三人の上使は上人の庵室に参ったが、そのころ入道殿(秀次)は大師の御廟所に詣でようと奥の院に
居られ、木喰上人よりこの旨が伝えられると、すぐに下向され三人の上使と対面された。

左衛門大夫は畏まって、御姿がすっかり変わられたのを見て涙を流したが、これを入道殿はご覧になって
「いかに汝等は、この入道の討手に来たのだな。この法師一人を討つために、事々しく振る舞うものだ」
と仰せになると、池田左馬助畏まって「さん候。御介錯仕れとの上意に候。」と申した。
これを聞くと秀次は

「さては我が首をお前が討つつもりか。いかなる剣を持っているのか。入道も腹切れば、その首を
討たせるためにこのように太刀を持っているぞ。汝等に見せよう。」と言って、三尺五寸ある
金作りの御佩刀をするりと抜き、「これを見よ」と仰せになった。
これは池田左馬助が若輩でありながら推参を申すと思われ、重ねて物申せば討って捨てようとの
ご所存のように見えた。
秀次公の三人の小姓衆は、御気色を見奉り、『上使たちが少しでも動くようなら、中々秀次公の
御手を煩わせるようなことはしない』と、互いに目と目を見合わせて、刀の柄に手を掛けて控える
その形勢は、いかなる天魔・鬼神も退くように見えた。

入道殿は御佩刀を鞘に収め、「いかに汝等、入道がこの時に至るまで、命を惜しんでいると、
臆しているように思っているだろう。これまでの路において、如何にもなるべしと思ってはいたが、
上意を待たずに相果てれば、『やはり身に誤りがあったからこそ切腹したのだ』と、それに連座して
故なき者共が多く失われる事の不憫さに、このように長らえている。

しかし、今は最後の用意をしよう。私は故なき讒言によって相果てるのであるが、仕えている者共は
一人も罪ある者は居ない。この事を秀吉公の御前に宜しく申し上げ、この入道の供養として、命を助け
得させよ。面々、頼むぞ。」
と宣われたのは、有難き御心底であると一同感じ入った。

それより座を立たれ奥に入られたが、ここで木喰上人を始め一山の衆徒会合して、三人の上使に向かい
「当山七百余年以来、この山に登った人の命を取ったこと、更に無し。一旦この事を秀吉公に言上し、
御願い申し上げる。」と、大衆一同が申したが、上使の三人はこれを聞くと
「そういう事ではあるのだろうが、とても叶うまじき事である。」と再三断り、衆徒たちと問答となった。
衆徒の意見が止まらない中、福島正則が進み出て言った

「衆徒の評議、尤も殊勝であると私も思う。さりながらこれ以上時間がかかれば我々も秀吉公の御勘気を
蒙り、切腹しなければならなくなるだろう。そなたたちが是非にも言上すべきと思慮しているのであれば、
まずこのように申している私を、各々の手にかけて殺すべし。その後は心次第にせよ。」
そう、膝を立てて申し直された。
00172/2
垢版 |
2021/09/06(月) 14:58:17.28ID:rIgZ8UGP
その夜はこの評議に時移った。翌日の巳の刻頃(午前十時頃)、入道殿は付き従っていた人々を
召されて、「汝等これまで来たる志、返す返すも浅からぬ。多くの者達のその中で、五人、三人が
最後の供をするのも前世の宿縁なのだろう。」と、御涙を浮かべられ、三人の小姓に対し
「どうしても若者であるから、最後の程も心許ない。その上私が腹を切ったと聞けば
雑兵共が入り乱れ、事騒がしく見苦しい状況になるだろう。」

そう言って、先ず山本主殿に國吉の脇差を下され、「これにて腹切れ」と仰せになると、主殿承り
「私は御後にこそと思っていましたが、御先へ参り、死出の山、三途にて
倶生神(が生まれた時から、その左右の肩の上にあってその人の善悪の所行を記録するという二神)に
路を清めさせましょう。」と、にっこりと笑い戯れた様子は、悠々とした態度に見えた。そして
かの脇差を推し頂き、西に向かって十念して、腹十文字に掻き切って、五臓をつまみだした所で、
秀次公が御手にかけて討たれた。この年で十九歳であった。

次に岡三十郎を召して、「汝もこれにて腹切れ」と、原藤四郎の九寸八分あるものを下された。
「承り候。」と、これも十九歳であったが、さも神妙に切腹すると、また御手にかけられ討たれた。

三番目は不破万作であった。これにしのぎ藤四郎を下され、「汝も我が手にかかれ。」と仰せになると、
「忝なし。」と、御脇差を頂戴した。生年十七歳。当時、日本に隠れ無き美少年であり、雪に見紛うほどの
白き肌をおし肌脱ぎ、初花が漸くほころぶ風情であるのを、嵐に吹き散らされる気色にて、弓手の乳の上に
突き立て、馬手の細腰まで曳き下げたのをご覧になり、「いみじくも仕りたり。」と太刀を上げると、
首は前に落ちた。

誠に彼等を人手にはかけないと思し召す、その御寵愛の程こそ浅からぬものであった。

そして入道殿は立西堂を召して「その方は出家であるのだから、誰が咎めるだろうか。急ぎ都に上り、
我が後世を弔うように。」と仰せに成られたが、「これまで供奉仕り、只今暇を給わって都に上っても、
一体何の楽しみがあるでしょうか。私は厚恩深き者ですから、出家であっても遁れられないでしょう。
僅かに命を永らえようとして都まで上がり、人手にかかるなど、思いもよりません。」と申し切って
居られた。この僧は博学多才にして、和漢の書に明るく、当檀那の辯を持っていたため、秀次公の御前を
去らず伺候して、酒宴遊興の伽僧となられ、最後の供まで致されたのは、他生の縁であったのだろう。

さて、篠部淡路守を召されて、
「この度、跡を慕いここまで参ったその志は、生々世々報じがたい。汝はどうか、私の介錯をした後
その供をせよ。」と仰せになった。淡路守は畏まって、
「今度、御供を仕りたいと思っている者がいかばかりも有る中に、私が武運に叶い、御最後の御供を
申すのみならず、御介錯まで仰せ付けられたことは。一生の望み、何事かこれに過ぎるでしょうか。」
と、大いに悦んだ。

これを見て入道殿は心地よさげに笑われ、その後両眼を塞ぎ、「迷悟三界誠悟十方空」と観念あって、
「では、腰の物を」と仰せになった。この時、篠部は三尺三寸の正宗の中巻きしたものを差し上げた。
秀次公はこれを右手に取り、左手にて胸元を繰り下げ、弓手の脇に突き立て、馬手へキッと引き廻し、
御腰骨に少し懸ると見えた所で、篠部淡路守が立ち廻ろうとしたが。「暫く待て」と宣ってまた取り直し、
胸先より押し下げられた所で、御首を討ち奉った。惜しいかな、御年三十一を一期として、南山千秋の露と
消え給わった。哀れと言うにも余りある。

立西堂は御遺骸を治め奉って、これも供を致した。篠部淡路守は関白殿の御遺骸を拝し奉って後、
三人の検使の所に向かい、「その身不詳に候へども、この度慕い参った恩分として、介錯を仰せ付けられた
事は、誠に弓矢取っての面目と存じます。」と言うやいなや、一尺三寸の平作の脇差を太腹に二刀差したが、
切っ先が五寸ばかり後ろまで突き通し、さらに取り直し、首に押し当てて左右の手をかけて前にふつと
押し落とすと、首は膝に抱かれ、骸は上に重なった。見る人目を驚かし、
「天晴大剛の者かな。腹を切る者は世に多いが、このような有り様は伝えて聞いたこともない。」と
諸人一同に感嘆して感じ入った。

(近世軍記)

豊臣秀次の切腹について
0018人間七七四年
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2021/09/07(火) 17:03:23.04ID:3jQ6lCF7
蒲生氏郷は藤原房前の大臣六代の嫡孫、鎮守府将軍俵藤太秀郷の後胤である。

永禄十一年に織田信長公は江州に討って入り、佐々木(六角)を攻め傾けられた時、
氏郷の父である蒲生兵部太夫賢秀が信長の味方に参り、子息鶴千代十三歳の時、証人として
信長へ進じると、近習に伺候され、奉公した。

彼は他と異なるほど利根発明であったため、信長の御意に叶い、ある時宣われた、
「汝が眼晴は常ならない。おそらく只者ではない。我が婿にするぞ。」
と、契約された。

元亀元年、信長が越前国に発馬の時、氏郷は十五歳にて鑓を合わせ高名を成した。これが初陣であった。
その後濃州岐阜の城にて元服あり、その頃信長は弾正忠であったため、「忠」の字を給わって、
蒲生忠三郎賦秀(または教秀)と名付けられた。
秀吉公の代に至り、「秀」の字を憚って氏郷と改められた。
元亀元年の初陣より文禄四年まで、氏郷自身の高名は三十六度であった。

太閤秀吉の時、氏郷を羽柴飛騨守参議宰相に叙任された。初めて南伊勢五郡十二万石を領した。
その後数度の忠戦、秀吉公の感心斜めならず、その賞とりて奥州会津七十万石を給わり、また
奥州での軍功によって二十万石の加恩地が下され、それらを合わせて百二十万石となった。

しかし、石田三成が企んだ如く、関白秀次公を思いのままに亡ぼしてから、直江兼続との密談の通り
蒲生氏郷を失わせる事を図って、文禄四年の春の頃、瀬多野掃部と内通し、能く示し合わせて
氏郷を掃部の茶の会盟に招き酒を勧め、毒を飼った事によって、同年二月七日、氏郷は四十歳にして
俄に心身悩乱し逝去されたのは、いたわしいことである。

(近世軍記)

氏郷の通称の忠三郎が、信長の官途名の弾正忠から、というのは珍しいパターンの気がするのだけど、
こう言った例って他にあるのかな?
0019人間七七四年
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2021/09/07(火) 23:03:56.60ID:OiO5BSeI
山内忠義の酒豪伝説

ある時、大名達の酒宴に参加した土佐藩の2代藩主・山内忠義はひたすら飲んだ。
そして、しまいには高いびきをかいて眠りはじめたという。

また、京の二条城にて酒宴が行われた時のこと。
例によってしこたま飲んだ山内忠義であったが、宴もお開きとなって宿所に帰ることとなった。

「暑っついのう」

山内忠義は衣服を脱ぐと駕籠の上に跨り、あるいはその上に立ち忠義は駕籠をそのまま京の町中を走らせた。
京の町衆はその姿に唖然としたという。
また徳川家光に子どもが生まれた時のこと、忠義は江戸城にてその祝いの宴に参加した。

さて、山内忠義は・・・

飲む!吞む!!飲む!!!ひたすら酒を浴びるかのように吞んでいた・・・。

心配した周囲の者達であったが忠義は

「いやぁ、このような祝いの席では飲まなければ!ハッハッハッ!!(*´Д`)」

と諫める声もどこへやら、とにかく酒を飲み続けた・・・。
そして吐いた
https://i.imgur.com/FcjHWkL.png
吐いた
https://i.imgur.com/WF8H0vf.jpg
盛大に吐いた
https://i.imgur.com/KTmBP9a.jpg
https://ameblo.jp/takashi-x11r/entry-12386660858.html
↑こちらのサイトによると吐いたものの処理はお付きの小姓たちがおこなったらしい・・・。
まさにこの後スタッフが美味しくいただきました・・・。

https://i.imgur.com/cIJ57k8.jpg
大河ドラマとかになってもテレビなどでは放送できませんなこりゃ(;゚Д゚)

『流澤遺事ほか』
0021人間七七四年
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2021/09/08(水) 05:23:52.35ID:xIoK6K1r
>>19ちょっと抜けてた

>↑こちらのサイトによると吐いたものの処理はお付きの小姓たちがおこなったらしい・・・。

↑こちらのサイトによると吐いたものの処理はお付きの小姓たちが自分たちの口でおこなったらしい・・・。
0022人間七七四年
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2021/09/08(水) 16:12:46.44ID:KFLepEEM
山内忠義「俺が酒豪らねばならぬ。」
0024人間七七四年
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2021/09/08(水) 16:25:57.53ID:4f+gG7hW
>>23
こんだけ酒で問題行動起こしといてよく改易ぶち喰らわなかったよなとは思う。
0025人間七七四年
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2021/09/09(木) 00:28:08.22ID:qJf4q0oP
天文二十年十月二日(1551年10月30日)
奈良子守町にて十歳ほどの女児が石を投げたところ思いがけず鹿を打殺してしまったので
捕縛して興福寺の周囲を引き回し首を刎ねたとかなんとか。
女児の家族は即座に逃亡したので、住居を破却して処罰とした。
『興福寺略年代記』


「三作石子詰」の伝承とは別の、
春日大社神鹿を誤殺しただけで殺されたという戦国時代のお話
0027人間七七四年
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2021/09/09(木) 21:27:24.23ID:E6UdqiJF
>>25
十歳ほどの女児が投げた石で死んでしまう鹿さんサイドにも問題がある
0029人間七七四年
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2021/09/10(金) 16:24:19.47ID:Y2Q3SaZT
堀久太郎(秀治)が越前から越後へ入部した折り、家老の堀監物(直政)より国中に触れ渡し、
当年の年貢を納め取ろうとした、
この時百姓たちは言った

「時分は既に冬になっています。年貢の半分は既に、転封された上杉殿に納めていますので、
その分を納めることは罷りなりません。」

そこで監物方より上杉家の直江山城守(兼続)へ申し遣わし
『納め取られた越後の当年貢半分を、こちらに返されますように。』
と伝えた。直江はこの返答に

「久太郎殿が越前を出られる砌に、越前の当年貢半分を納め取っておくべきでした。
会津領においても、前の地頭である蒲生秀行は当年貢半分を納め取った上で宇都宮へと移られた。
そのため(上杉)景勝も会津に移って、その残り半分を納めました。
越後に於いて納めた半分を、返納するいわれはない。」

そう言って堀監物の要求に肯かなかった。
しかし監物は重ねて使者を以て、

『越前の当年貢は残しておいて蔵に納め置き、公儀へと差し上げたのです。
ですので越後半分を戻されますように。』

と乞うたのだが、直江は笑って

「越前の年貢半分を納め取らなかったのは、監物の誤りである。
左様なうつけ者の同類に、我々が成る事はない!」
(左様のうつけたる同類に、此方には罷りならず)

そう嘲り愚弄した。そのため、堀監物はこれを根深く遺恨に思ったという。

(近世軍記)

そういえば堀家が移った後の越前北ノ庄城には、当初小早川秀秋が入る予定だったな。
0030人間七七四年
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2021/09/10(金) 18:04:38.61ID:21GKIKTf
そういう決まりがあったならともかく、公儀へ年貢渡す前に上杉と調整してなかった堀のミスだな
0031人間七七四年
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2021/09/10(金) 20:14:16.94ID:0w+T8jRj
年貢については通例で国替えの時はそうするってなってた筈
ただ黒田と細川も同じ事で揉めてるし(黒田が持ち逃げ)
その時に細川から提訴受けた家康は裁定しなかったので
法で決まってた訳ではない模様

ちなみに黒田が移る先の小早川も持ち逃げしてたので
黒田が持ち逃げしてなければ黒田も困ってた
細川や堀の脇が甘いといえば甘いか
0032人間七七四年
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2021/09/10(金) 23:02:29.70ID:KX7wPrkn
黒田細川堀と、ガメツもといしっかりしてそうな家が被害者側なのがなんか面白いな
0033人間七七四年
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2021/09/10(金) 23:45:05.05ID:z9qVs5NZ
まぁ堀家は名人Q太郎じゃなくて若年の二代目Q太郎だし舐められてたのかも知らん
0034人間七七四年
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2021/09/17(金) 10:57:35.23ID:jXOTE7+0
この話し一年分持ち去ってたのかと思ってた
0035人間七七四年
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2021/09/17(金) 13:18:11.10ID:7XTJHesh
正直年貢持ってかれたどうこうよりも、秀吉に朱印状で全員会津へ連れてくよう言われた上杉家臣が残ってる事のがよほど堀からしたら問題よね
実際乱になった際に上杉が煽って一揆起こしてたし
0036人間七七四年
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2021/09/17(金) 16:50:23.87ID:jWvq4BOh
農民は一切連れて行くなだから帰農されるとどうしようもないし
0037人間七七四年
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2021/09/17(金) 16:58:15.14ID:9KDPLPok
いやー、家臣全員連れてくよう言われたんですけどーたまたま家臣たちが一斉に帰農しましたー
ってさすがに無理があるくない?
0038人間七七四年
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2021/09/17(金) 19:31:52.06ID:YwIdib8P
上杉の遺民一気ってだいたい越後風土記が元の記述?
堀毛の家譜とかにも載っている?
0039人間七七四年
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2021/09/17(金) 19:34:40.46ID:YwIdib8P
地元が蜂起に参加していたらしい記述見かけたんだけど
該当箇所が見当たらない
0040人間七七四年
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2021/09/17(金) 20:55:43.02ID:hllB7l4p
( ●Д`)y━・~~ 旧臣使って一揆の煽動とか酷い奴も居たもんだな
0043人間七七四年
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2021/09/17(金) 23:11:53.00ID:MGyRhaXZ
上杉謙信・山内忠義・島津義弘・福島正則「イッキ!イッキ!イッキ!イッキ!イッキ!(エンドレス)」
0044人間七七四年
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2021/09/17(金) 23:16:41.44ID:hllB7l4p
>>43
母里太兵衛「ウェーイ!」
0045人間七七四年
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2021/09/18(土) 10:21:23.91ID:heYgV3tr
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210917/k10013263731000.html
NHK 細川忠興が記した書物の裏に石田三成らの自筆書状
2021年9月17日 6時27分

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、細川家が九州の有力大名となる礎を築いた細川忠興が記した書物の裏に石田三成や古田織部の自筆の書状があることが
東京大学史料編纂所などの調査でわかりました。専門家は豊臣秀吉に仕えた武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だとしています。

細川忠興は戦国時代から江戸時代初期の武将で、豊臣秀吉などに仕え、細川家が九州の有力大名になる礎を築いたほか、茶道などにも通じた文化人としても知られています。

細川家の史料を保管している東京 文京区にある永青文庫と東京大学史料編纂所は共同で巻物になっていた忠興が記した書物を調べたところ、忠興が受け取った書状などの裏側を再利用していることがわかりました。

その中には、1586年ごろ、秀吉に一緒に仕えていた石田三成や古田織部が自筆で忠興に宛てた書状が含まれていました。

石田三成の書状では、秀吉から受け取った金の使いみちについて忠興に「自分たちは恵まれているのだから、金をため込むのではなく周りに配るよう」説いていて、
専門家は押しつけがましいともとれるほど生真面目な三成の性格や人間性がよく表れているとしています。

また、古田織部の書状は、織部を名乗る前の「左助」という名前で「刀を貸してほしい」という趣旨が記されていて、専門家はほとんど残っていない織部の若い頃の書状だとしています。

戦国時代の武将の書状は、公的なものほど書き記す家臣によって代筆されたものが多く、調査を行った史料編纂所の村井祐樹准教授は「緊密に交流する様子が
自筆の書状からわかり、豊臣秀吉配下の武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だ」と指摘しています。
0046人間七七四年
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2021/09/18(土) 10:22:16.34ID:heYgV3tr
今回、調査されたのは細川忠興が能に関して記し、その後、巻物にして保管されていた書物です。

調査を行った東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授によりますと、一部で裏側に書かれた文字が透けて見える部分があり、何かの裏紙を再利用したものと思われていましたが、
詳しいことはわかっていませんでした。

解体すると15点ほどの書状や記録の裏紙が使われていました。

この中には、石田三成と古田織部、それに前田玄以といった一緒に豊臣秀吉に仕えていた武将から忠興に送られた書状が5点、忠興が自分で記した書状の下書きが3点、
闘茶と呼ばれるお茶を飲んでその銘柄を当てる当時の遊びを行った際の記録が3点などでした。

石田三成の書状は、前段部分であいさつとして忠興が参加した茶会の感想を尋ねたあと、秀吉からもらった金の使いみちについて記しています。

三成の自筆の文字は黒くはっきりと記されていて、後段にいくにつれ書きたいことを詰め込むように行の間隔が狭くなっています。

また、古田織部からの書状では、忠興に対して「刀を貸してほしい」という趣旨に続いて、「あまり大きいものは困る」と細かい要望を記しています。

専門家はこの時期に行われた後陽成天皇の即位式に持って行くための刀を借りる用件だったと考えられるとしています。

古田織部からの書状は合わせて3点あり、いずれも織部を名乗る前の「左助」という名前が差出人として記されていました。

このほか、忠興が記した書状の下書きには、秀吉配下の武将である蒲生氏郷や高山右近などと連れだって京都の相国寺に行く途中に、予定を変更して秀吉のところに行ったことが記されています。
0047人間七七四年
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2021/09/18(土) 11:46:31.16ID:Y7Yr55+I
専門家もツッコんでるけど
褒美としてもらった金の使い道について横から口出しするの、まじで押し付けがましいな
0048人間七七四年
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2021/09/18(土) 12:13:26.31ID:4EEgrKPK
へうげものキャラでそのまま想像できるなw
0049人間七七四年
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2021/09/18(土) 13:55:19.49ID:0ISUQ5f6
まぁ三成の性格からして公儀から貰ったお金なんだから
公的な事(部下への褒美とか内政)に使えよって考えなのは理解できる
忠興は数寄関係でで金使ってたし
0050人間七七四年
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2021/09/18(土) 14:39:37.22ID:csadipqG
本願寺一揆(三河一向一揆)の時、賀茂郡下江知村の四至屋平太郎という者が家康公に御味方
申した。針崎表一戦で公は打ち負けて六所の宮へ入られ、敵は岡崎の城へ押し入らんとした。

この時、平太郎は公の御装束を着て、城の大手で寄せている敵に向かうと、「家康こそ、ここ
にて立腹しているぞ。見よ!(家康社爰ニテ立腹ルニ見ヨ)」と大声で腹を十文字に掻き切り、
敵はこれを見て事実と覚え、引いていった。

その後、家康公は関ヶ原より御帰陣の時に矢作へ出向かい、(平太郎の)居り申す所を御尋ね
になった。(平太郎の後家は)殿様に御不足(不満)を存じ奉り、「私こそが四至屋平太郎の
後家です」と申し上げた。

公は「そうであったか」と仰せられて、手作と70石を下された。その末裔を中根喜蔵と申す。
本多九平衛の話の覚書。

――『三河東泉記』
0051人間七七四年
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2021/09/18(土) 15:34:47.84ID:4JKoITUS
>>49
豊臣秀次からも借金が有ったと言うし、本能寺から豊臣政権下で戦も重なってたとはいえ、現代感覚だと道楽とも取れる茶の湯やその他の趣味にも三成からチクリと言われちゃうほど注ぎ込んでいたのかねぇ?
005350
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2021/09/18(土) 20:46:09.66ID:96vE791p
>>50
すみません「りっぷくするに」じゃなくて「たちばらするに」が妥当ですね
「立ったまま切腹するから見ていろ」と
0054人間七七四年
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2021/09/19(日) 01:28:08.62ID:mMAai4VO
>>51
刀貸してくれって織部に言われる辺り
見栄えの良い刀も数持ってたんだろうなって想像つくし
甲冑のデザインしてたって事は相応に色んな甲冑も所持してるだろうなって思うと
趣味に思いっきり散財してそうな感じではある
0056人間七七四年
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2021/09/22(水) 17:10:57.34ID:PS+fBYQI
ニコラス (17世紀の日本人修道士)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%B9_(17%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E4%BF%AE%E9%81%93%E5%A3%AB)
ニコラス・デ・サン・アウグスティノ(Nicolas de San Agustin、 ? - 1611年11月30日)は、17世紀のカトリック教会修道士。
ロシア・モスクワを訪れた最初の日本人(日系人)とされる。

幼時に日本人の両親と共にルソン島のマニラへ移住したという[1]。
生年は不明だが、中村喜和は、1570年代 - 1580年代とする推定を「おそらくあたっていよう」と記している[2]。
洗礼を受けて修道誓願し、1594年、ポルトガル人アウグスチノ会士ニコラス・デ・メロ(ロシア語版)(ニコラス・メロ・イ・モラン)神父(1550年-1614年)より
修道士名ニコラスを与えられ助修道士となる[3]。

1596年、マニラのアウグスチノ会はローマでの総会に、管区代表としてフワン・タマヨ、ディエゴ・デ・ゲパラの2神父を送ることとなった[2]。
ところが搭乗した船が漂着し、サン=フェリペ号事件として知られる大問題を起してしまう。2神父のマニラ帰還後、アウグスチノ会は改めて
ニコラス神父とその弟子ニコラス助修道士の2人のローマ派遣を決定した[2]。
事件の余波で対日感情が悪化し、ルソン各地から日本人が追放されていたという[4]。

1597年、インドのゴア経由で欧州に向かうが、この時期のゴアでは欧州渡航便を得られず、ホルムズに渡って陸路での欧州行きを目指した[2]。
1599年、イスファハーンでサファヴィー朝アッバース1世の歓待を受け[2]、その対オスマン帝国での欧州各国への外交政策のため
ローマ教皇クレメンス8世、スペイン王フェリペ3世宛て親書を預かり、1600年、イングランド人シャーリーらも参加した使節団に同行する[5]。
使節団はカスピ海を渡りヴォルガ川を遡上してニジニ・ノヴゴロドからボリス・ゴドゥノフ治下のモスクワに入る[5]。
ニコラス神父は一行のフランシスコ会士アルフォンソと仲が悪く、唆されたアンソニー・シャーリーにロシア役人の面前で殴打されている[5]。

これらから使節団を離れた2人は、ミラノ出身の高名な宮廷侍医パオロ・チタディニ宅に寄宿するが、同家で行ったカトリック式洗礼が
反カトリック気運の高いロシア宮廷に嫌悪されたともいわれ、1601年、白海オネガ湾のソロフキ島修道院に幽閉された[6]。
動乱時代の混乱で幽閉は続き、ヴァシーリー4世の命で1606年、ヤロスラヴリのボリソグレブスキー修道院に移され、1610年、ニジニ・ノヴゴロドに再度移された。
1611年、ポーランドの侵攻で反カトリック感情の高まった同市で、刑場に引き出され改宗を強要されたが、ニコラス助修道士は師を庇って処刑された。

ニコラス神父はアストラハンに流され、マリナ・ムニシュフヴナの庇護を受けたが、1614年に処刑されたという。
2人の殉教は、1623年にミュンヘンで出版されたトリゴー神父の著書『日本殉教録』の一節に掲載された[7][8]。
0057人間七七四年
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2021/09/22(水) 17:12:03.09ID:PS+fBYQI
wikipedia転載ですがご容赦ください。

サン=フェリペ号事件にこんな裏話があったとは。引用元の論文は40年前のものなのにこのネタ全然知らんかった・・・。
そして修道会各派で足を引っ張りあうキリシタン史あるあるw

ただ、近代以前の助修道士(助修士)というのは実質「寺男」だそうで、上記での師弟関係という表現がこの場合どうだったのかちょっとわからないですね。
0058人間七七四年
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2021/09/22(水) 20:23:12.03ID:DEnRlmy2
ご容赦下さいと断ってるが転載して何がしたいの?なんでもいいから書き込みしなきゃいけな理由でもあんの?
0059人間七七四年
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2021/09/22(水) 20:27:14.83ID:SRtPEcUm
へえこんな人がいたんだ、と感心したが
そりゃwikiで挙げられている参考文献にアクセスできるならその資料を自分でまとめた方がいいと思うけど
0060人間七七四年
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2021/09/22(水) 22:14:37.84ID:L9m3N/kA
1から10まで全部コピペ転載だからな
普通なら知った話を面白いと感じてスレに書こうとするなら
面白いと感じた点を自分なりにまとめて書くだろう
仮に自分が知った面白い話を人に紹介する時に丸々コピペするか?
0061人間七七四年
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2021/09/22(水) 22:19:46.07ID:RD4zVcrm
まあ従者ってことなら名前は残らなかったかもしれないが、後1、2年でローマまで行けただろうに残念だね
支倉の10年前ってとこか
0062人間七七四年
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2021/09/23(木) 21:41:32.17ID:Sox3FW2z
薩摩藩の「本藩人物誌」より伊地知周防守重興について
(いい話スレでは「本藩人物伝」にしてしまったけど「誌」が正しいので訂正)

永禄年間では肝付兼続に与党し貴久公に敵対していたが天正二年に先非を悔い大隅五箇所を進上し剃髪して降参。
その後還俗して義久公が諏方社後参詣の時には騎馬にて跡に付き従い、大友との戦の際にも従軍した。
天正八年二月十三日卒。

付記
重興は豊後より召し出した女を妾としていたが、家中の者と蜜通したため、その女を櫃(ひつ)に入れ、蛇(くちなわ)を多く入れ、垂水の池につけて殺した。
家臣の柳田某が池の岸から櫃を竹の棒で押し出したそうだ。
その恨みにより強く祟ったため、御前と敬称をつけ、赤明神という名前で氏神として祀ることとなった。
右の柳田某も禿げてしまったそうだ。
0063人間七七四年
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2021/09/23(木) 23:15:50.72ID:uA6ewj70
雨森九太夫最期の戦い

元和偃武より22年が過ぎた寛永14年10月25日(1637年12月11日)、島原の乱が勃発。
幕府は板倉重昌を上使、副使として石谷貞清を任じて九州諸藩の軍の指揮を執らせ、原城址に籠った一揆軍の討伐にあたった。

この時、九州諸藩だけではなく多くの藩が使者の名目で名代の将に少数の兵を付けて島原に派遣し、討伐軍に加わった。

土佐山内家からは先ず、先代藩主・一豊の母衣武者を務めた板坂利正が代表として派遣されることが決まったが
利正が病に罹ったため(のちに死去)、代わりに雨森九太夫が代表となり鉄砲足軽30名と小頭2名(池田嘉兵衛と鈴木彦大夫)、
さらに九太夫預かりの弓足軽を数十名随行させて現地へと向かわせた。

山内忠義はさらに参陣した諸将への慰問の使者として中老の仙谷但馬久勝父子と九州出身の馬周り・毛利久八吉次(父は豊前巌石城主の出羽守吉勝)を
後から派遣した。

12月29日に現地へ到着した雨森九太夫率いる土佐藩の部隊であったが、3日後の寛永15年元旦の板倉重昌指揮による総攻撃に参加した。

山内家資料所収の「南路志」と「御家中名誉」によって描写は異なるのだが、「御家中名誉」では三の丸まで攻め入ったところで、

そして「南路志」にては総攻撃で深く攻め入った板倉主水正(重矩)が進退ままならなくなってしまった。これを見兼ねた板倉重昌は
一揆軍へ掛出さんとした。九太夫はその鎧の袖を取って

九太夫「ここは大将が出る所ではありません。戦は駆け引きが肝要です。一旦引いて軍法を定め勝利しましょう。」

と、諫言した。しかし板倉重昌は

「その言葉尤もである。しかし、目の前で愚息の重矩が死なんとしているのを見捨てることが出来ようか!」

と叫んで九太夫の手を振り払って駆け出した。九太夫はこの老骨、力及ばずもお供申さん!と重昌に続いて駆け出した。
これを見た諸国の武士は、我劣らじと九太夫に続いて駆け出したが或は手負い或は討死し、重昌も遂に弾丸を眉間にぶち込まれて討死した。
この時、九太夫と共に参陣した山内家の鉄砲小頭池田嘉兵衛も銃弾で深手を負い、九太夫の郎党2名(若党・井澤仁左衛門と小者六助)も相果てた。

そして九太夫にも遂にその時が訪れた。

一揆軍の放った一発の銃弾が馬上の九太夫の股根を打ち抜いたのである。

幕府軍の総攻めは失敗に終わり、収容された九太夫であったがあまりの重傷であったため、翌一月二日に着陣した仙石久勝と代表を代わり、
一月七日に九太夫は土佐へ船で帰還することとなった。

だが、九太夫は徐々に容態を悪くし船が本国土佐の柏島に着く直前に船の中で亡くなり、同島にて埋葬された。

雨森九太夫氏康、享年七十五歳。戦国の世を生き抜いた男は安寧の世に突如起きた大乱で受けた戦傷でこの世を去ったのである。

参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
0064人間七七四年
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2021/09/23(木) 23:54:43.72ID:WzdF+2m1
何でそんな老人を、と思うが戦を知ってる者って事なのかね
てか仙石久勝って仙石秀久の兄か、長生きだな
0065人間七七四年
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2021/09/24(金) 10:10:52.54ID:8xw8xQ9O
>>64
当初派遣予定の板坂利正も掛川以前からの歴戦の士だったみたいだし、雨森九太夫と仙石久勝も資料には旧主の石田三成や福島正則の元での武功の評価されてるからそう言う所を期待されてのことでしょうね。
0066人間七七四年
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2021/09/24(金) 10:14:01.75ID:8xw8xQ9O
>>63
× 仙谷但馬久勝
○ 仙石但馬久勝
0067人間七七四年
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2021/09/24(金) 12:53:12.46ID:EadEZBQZ
>>64
補足として九太夫の山内家部隊はこの総攻撃の時、御家中名誉では松倉長門守勝家の仕寄りを借りた(板倉内膳重昌の仕寄りとする書もあると補足有)とされる。

また、負傷した九太夫は参陣していた長崎奉行・榊原職直の医師・道與から薬を出され、一報を受けた国元の家老・野中兼山からも休齊という医師が派遣されることとなったが、帰国の船路にて亡くなったとのこと。
0068人間七七四年
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2021/09/25(土) 11:15:25.25ID:QDidupls
薩摩藩「本藩人物誌・女子伝」より「大寺氏女」

伊地知勘解由左衛門重元の妻で、重元が高麗にて戦死したという訃報を聞かされ、
重元の形見として従臣が高麗より持参した脇差を自分に刺した。
おつきのものが刀を奪うと、喉をついていたがまだ死には至ってなかった。
竜伯公(義久)がこれをお聞きになり、村田雅楽介を遣わしてこう伝えた。
「了簡もなく自害しようとしたものよ。
武士は敵に向かって戦死するのは常のことである。
医師を遣わすので養生し、遺された一子を育て上げて、お役に立てるようにせよ」
村田が声高に述べたところ、重元の妻は合掌して拝聴した。
その後、舌を切れ切れに噛み切って死んだということだ。
0069人間七七四年
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2021/09/25(土) 12:25:33.63ID:yrJbFXGK
>>68
結局死ぬんかーい
( ゚д゚c)ナンデヤ( ゚∀゚)っ))ネンッ!!
0070人間七七四年
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2021/09/25(土) 16:03:22.21ID:LfzgQiPE
(引田の戦いの時)

天正11年春、土佐の元親は阿州大窪を越して寒川郡に入り、田面山に陣して三
好存保(十河存保)の居城虎丸を疲らせんがため与田、入野に入って麦薙をなし、
早苗を返した。

元親父子が虎丸の麓に陣をおいて昼食をなし給うところ、香川信景と大西上野介
(頼包)は手勢を分けて引田の浦に発行せんとした。

仙石権兵衛尉秀久は2千余人をもって引田の浦に到着、家臣の森九郎左衛門(村
吉)を与地山の城に籠らせ、山西のやうを聞き合わせるところに、土佐の兵1万
余人が与田入野に入り香川信景と大西上野介が引田に向かうとの知らせがあった。

仙石氏は1千余人を三手に分け、仙石勘解由、仙石覚右衛門、仙石権平(森権平)
を兵将として引田中山に入れて伏せ置き、西方の兵が来るのを待った。

土佐方は引田に強兵がいると知らずに押し寄せ、山中で強兵に行き当たり大慌て
して追い返され、足並みを乱し与田口まで敗北した。仙石衆は逃げる敵を追って
競い来る。香川方と大西方は敵が少兵と見切り、自兵を遣わして戦を始めた。

一方、元親は引田表の鉄砲の音を聞きなさり「今この辺りに戦うべき敵はいない。
仙石権兵衛という者が、羽柴秀吉から讃岐国を賜うべきとの朱印を受け下向した
と聞く。きっとその仙石権兵衛だろう。桑名太郎左衛門、中島与市兵衛、行って
見て来い」と仰せになった。

2人が馳せて行くと香川信景と国吉三郎兵衛、大西上野介が合戦を取り結んでい
たので2人の使いも手筈に合わせ、元親父子の旗本も程なく押し寄られ、敵味方
入り乱れ、黒煙を立てて攻め戦う。

仙石方は少兵なので西方の猛勢に押し立てられて敗軍した。桑名太郎左衛門、中
島与市兵衛は2度の槍場にて首2つずつを取る。前田平兵衛、その弟彦六は2人
で仙石勘解由を討ち、仙石方は追い立てられ引田中山道に引き入る。敵も逃げる
のを追って山中に入り来る。

仙石権平は18歳の若武者なれども、大剛にして奇才あれば、地利を計って自兵
を下知し、返し合わせて奮戦し、敵を破って勝ちを制し引こうとした。そこへ土
佐方の稲吉新蔵人が名乗りをあげ、互いに馬上で渡し合い、両敵ともに深手を負
い、権平は続く兵なく新蔵人は味方が続き、権平はここにて討たれた。

すなわちその所に石碑を立て今の世までも隠れなし。その権平の墓に霊妙なるこ
と多く、民間の説に残される。権平は仙石秀久の従弟である。一説には仙石氏家
臣の森九郎左衛門の息男ともいう。両説を存じて知る人を待つ。

――『南海通記』
0071人間七七四年
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2021/09/25(土) 16:05:04.95ID:LfzgQiPE
権平の伝承

『讃岐国名勝図会』には権平の法名、月山宗薫居士、天正十二年甲申七月十九日、
当初日下氏その祭を司るとある。

また『翁蝋夜話』によると「権平年忌ごとに阿州舟奉行森甚五兵衛の使人日下氏
に来りその追薦を託す。今に至るもなお然り」という。現在、引田町日下氏宅に
位牌が伝えられている。

また、積善坊の過去帳にもその名が残される。その頃、夜中に通りかかった僧が
「これは誰の墓だろう」と言えば、墓の中から「森権平」と答えた。僧は驚いて
読経、回向して通り、近郷に止宿してその趣旨を記し、銘を作って板に書き付け
墓に立て掛けて通った。

また別の僧は、夜中に甲冑を帯した馬上の武士と行き向かい「この馬が執着して
進もうとしない。なにとぞ直して欲しい」と頼まれた。僧が名を尋ねてみると、
墓に向かっていた。僧は驚いて翌日来てその記を見れば「仙石権平一八歳にして
紅鴇毛なる馬に乗」とある。僧はこの誤りだと思い「紅梅鴇毛」と改めて記した。

また何人か分からないが墓に短冊が手向けてあった。「武士の二度の懸して権平
は陣の引田に名のみのこしつ」。今の世に至るまで武士たるものは、墓の前では
下馬して拝すという。若武者の健気な討死が人々の心を悼ませたのだろう。

いま白鳥町伊座に権平の墓を祠る権平庵があり、権平が深田に脚を取られて討死
したとの伝承から、脚痛に効験があるとの信仰を集める。

なお『南海通記』などでは権平の死は天正11年5月となっており『名勝図会』
と合わない。『大内町史』には天正11年の戦いは白鳥の与治山城を陥しただけ
で、天正12年に虎丸城をめぐる再度の戦いがあったとしている。

――『引田町史』
0072人間七七四年
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2021/09/25(土) 16:35:50.59ID:tSG7PRda
八十八箇所の最後の大窪寺のためか大窪には讃岐イメージがあった
八十八箇所五番目の地蔵寺には同族の森甚太夫家の墓地もあったっけ
0073人間七七四年
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2021/09/26(日) 15:40:16.03ID:mrf8lI+2
雨森九太夫と観音岩

>>63で島原の乱参陣中に銃創を受け土佐へ帰国することとなった雨森九太夫であったが、その船路で重体になった時、一条の光が船を陸へと導き、九太夫はたどり着いた柏島で亡くなった。

この時船を導いた光はこの観音岩から発せられたと言う。

https://i.imgur.com/CVW7cY6.jpg
https://i.imgur.com/cxZpaCQ.jpg


高知県観光サイトよさこいネット
https://www.attaka.or.jp/kanko/dtl.php?pcflg=PC&;ID=6759
一般社団法人 大月町観光協会
https://otsuki-kanko.jp/tourism/content5
0074人間七七四年
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2021/09/27(月) 12:55:44.38ID:RPHVWC63
徳川家康による会津征伐への発向前、藤田能登守(信吉)取次にて、御所様(家康)より上杉家中において
御存知の輩には、御内通の御書を下され、今度は沼田を限り、奥へ御働きなされることにより、
『裏切りの手を合わせ候へ』との御意があったが、上杉家中の面々は御書を反し進じた者もあり、
また有無の御返事を申さなかった輩もあった。

横田大学は年来御所公と懇意であったので、殊更この時、御懇ろに書を下されたのであるが、
大学はつくづく考えた
「私は、古は大身であったが、秀吉公が関東に打ち入られ、その時本領を放れて浪人した。
今は僅かに二千石だが、上杉景勝に懇意にして頂いている。

只今景勝は小勢であり、御所は数万騎にてこれに取り懸かる。侍たる者が主を捨て、敵方に書を通ずる
ような事は、有るべき儀ではない。」
そう思い、御請の書状を差し上げなかった。

関ヶ原合戦の後、景勝は小身になられ米沢に移られたため、大学も浪人し、駿河へと参った。
そしてその事は城和泉守(昌茂)の取り持ちで、家康公の御耳に達したのだが、召し抱えられることは
無かった。
しかし大阪御陣の時、家康公は南光坊(天海)に対して「横田大学は現在何方に居るのか」とお尋ねに
なられた。その時分、彼は出羽に下り居た。

御所様も大学を勇者と思し召されていることを、この時紀伊大納言頼宣卿が聞き召された。
その時分は常陸介と申し奉り、未だ十三歳であったが、勇知厚き御器量にて、名のある武功の侍を
御所望の御心深く、「何卒、大学を召し抱えたい」と思し召し、板坂卜斎を以て柳生但馬守(宗矩)に
内意を仰せ入れられ、そして但馬守は伊達政宗に大学のことを尋ねた。
但馬守は、あたかも自分が聞きたいために尋ねているようにしたが、これを政宗聞いて

「この大学は人も知りたる者です。一万石ばかりにて堪忍致されるのであれば、私も望みに存じます。」
と返答した。
「奥州においては千五百、二千の大将になり、度々の合戦に勝負致し、敵城をも攻め落とし、我が城も
攻め落とされたこと数十度であり、慥かなる武士です。」と、政宗は物語した。

但馬守はこれを卜斎に語った。卜斎はこの事を常陸介頼宣も(以下欠)

(杉原彦左衛門覚書条々)

原典で最後の方が欠落しているらしく、このあとどうなったのか解らないお話。
0075人間七七四年
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2021/09/27(月) 13:30:37.94ID:AugSLeoP
>>74
https://aizufudoki.sakura.
ne.jp/zakki10.htm

こちらによると、「新編会津風土記」には最上家に仕えて例の騒動の時にお家存続のために色々頑張ったけど甲斐なく最上家は改易、結奈。「横田系譜」では62歳で病死したとか

あと、山内一豊と同一人物説を説くものもあるとか。
0076人間七七四年
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2021/09/27(月) 15:46:21.69ID:MAPLbMjJ
天海、蘆名氏つながりで蘆名家臣の横田大学(山内豊政)とも親しかった説
0077人間七七四年
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2021/09/27(月) 16:30:38.86ID:Ar19CWrU
>>75
改易、結奈。

改易。
0079人間七七四年
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2021/09/27(月) 21:49:18.14ID:8YXrZf7I
横田大学本人ではないが、
大学の孫が真田松代藩に仕官してる
重文・旧横田家住宅はその旧居
0080人間七七四年
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2021/09/30(木) 21:06:20.18ID:ZsYDNCAX
飯沼五郎兵衛(常政。香西氏の家臣)は代々武勇の家である。また自身も
阿州重清合戦で場中の高名をあらわし三好存保(十河存保)の感状を賜る。

讃州伊勢馬場合戦で予州衆の鉄砲に膝の口を撃たれ、不具の身となり隠士
となった。彼が子弟に教示して曰く、「汝らは必ず主君を求めて奉公せよ。
三代に渡り仕を求めなければ、姓氏を絶やして凡民となるのだぞ」。

実に然り。天正の乱後、家産ある者は田野に交わって身を隠し、蓄積なき
者は主君を求めて四方に走った。君主を頼った者は姓氏を継いで武士とな
り、君主を頼まざる者は姓氏を絶やして凡民となった。

人としては必ず、その家業を失うべからず。

――『南海通記(老父夜話記)』
0081人間七七四年
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2021/10/02(土) 11:49:32.35ID:0dQIK6u5
(松永久秀滅亡の時)

松永は偽兵を知らずに門を開きこれを城に入れ、後より信忠大いに進みこれを攻める。
偽兵は内より応じて鬨をあげこれに応じ、城中の兵は大いに騒動して死亡する者多し。

松永も殿守に入って相待つ。信忠より人遣わし曰く「松永降参すべし。罪を許さん」。
松永曰く、「骨になっても信長には従わぬ」として降らず。ここに平蜘蛛という釜は
天下の名物である。ことごとく打ち砕いて箱に入れ、糠詰めにして封をなし、信忠の
陣に送った。

松永曰く「これは我の所持する平蜘蛛という釜だ。日頃信長の望みあるままに送ろう
と思っていたが、先延ばししていた。これは天下の名物である。今ここで失われるの
は惜しい。よってこれを贈る」と言った。

その箱の封を切る時にあたって城中より声をそろえて一斉に鬨をあげ、城外より鉄砲
を撃って攻め寄せた。

松永久秀の女子はその年20歳。打掛して久秀の前に来て曰く「事の急ならざる内に
我が身の暇を賜りください。先立って父を待ちます」と言った。久秀の曰く「まこと
に事の忙しさに汝のことを忘れていた。20歳も70歳も同じことだ。人は必ず一度
は死ぬ。汝は先立つべし。跡の仕舞いをして今我も行くなり」と言って、それそれ某
太刀取りせよと居所に入らせた。

この女子は太刀取りに言って曰く「女の死骸は醜くからんと思い、その支度をした」
と紅の下袴を着て上に打掛をし「首はこの内に落とすべし」と言って打掛を前に敷き
太刀を受けた。

その打ち落とした後に自ら打掛の端を被ったという。(其打落シタル跡ニ自ラ打チカ
ケノ端ヲ被リヌト云リ)哀れなる世の中なり。

久秀はこれより事終わって猿楽の囃子を始めた。諷は野宮である。「きりに成り火宅
の門をや出ぬらん。火宅の門」と言い終わると等しく、天守に火を放って屍も見えず
焼失した。

まことに討つ者も討たれる者も一時である。天正5年には松永滅亡す。天正10年に
は信長害に遇い給う。ただ5年の先後なり。

――『南海通記』
0082人間七七四年
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2021/10/04(月) 01:23:04.87ID:LjREf0ve
(前略。東大寺大仏殿の戦いで松永久秀が東大寺に火を放つ)

三好家の兵威ここにおいて挫け、松永もまた孤軍となって天下の人望に違えた。

君臣の道を失って己が利をほしいままにする時は、天命に逆らって久しからず
して滅びる。道によって身を滅ぼす者は佳名を後世に伝える。利によって身を
滅ぼす者は汚名を後世に流す。

人生50年といえども明日の滅びを知らず。名は永久にして天地とともに存在
する。どうして人がこれを思わないだろうか、時の人は後世に言い伝えて曰く、
「永禄の十の十月十日の夜奈良の大仏焼ける。亥の時」という。

松永弾正(久秀)は西京の城(多聞山城)を築き四壁を惣楼にして狭間を明け、
門戸もその楼の下を通したので人力をもって攻め入るのは難しい様子になした。
溝は深く塁は高く、険要の構え城である。

兵糧は3年分あり、長き謀には稲穂を積み干飯を庫に入れ、芋莖、干菜、焼塩、
塩噌、干魚、荒布、和布、海藻、薬種など、薪は土居に築いて炭は地中に埋め、
秣、糠、藁、馬食を足らせ、木実を集めて油を調え、鉄、銅、鉛は踏石として、
掻楯、輪木、車菱、車松明、雨松明、石火砲石、飛礫石、水用の積まで細密に
詮議して欠けることのないようにした。

そして一行の札を立て曰く「この城において不足の物あらば添札をもって申し
出すように」。

ある時、添札が立ててありこれを見ると「財物で足りないものは民を貪りこれ
を取る故に不足なし。しかし、運命の不足は何を貪って取りなさるのだろうか。
これが1つの不足であろう。惣百姓中」と立てていたという。

――『南海通記』
0083人間七七四年
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2021/10/04(月) 17:51:02.06ID:6U4FoXck
「世録記」によれば
龍造寺との戦いに於いて有馬から救援要請があったため、新納刑部大輔忠尭(忠元の長男)と川上左京亮忠堅が派遣され、敵方の深江城を攻めることとなった。
忠堅は(一番槍で負った)いくさ傷を意気揚々と忠尭に見せ
「戦で傷を負う、これこそ男子の本懐というものよ」と得意になったところ
忠尭は「新納刑部大輔忠尭の名を敵軍に知らしめてやる!」
と言ってつっこみ、乱戦の中で死んでしまった。
(享年三十)

「本藩人物誌」によれば
川上忠堅の方はその後の島原合戦(沖田畷の戦い)の首途の宴会の席で家久の息子の又七郎忠豊(豊久)から盃を受けた時に
「今日は龍造寺隆信の首を取ってご覧に入れてみせます」と言ったところ
新納忠元から「今の言葉は軽率すぎる」とたしなめられたが
「妄言ではありませぬ、きっと取ってみせます」と反論したため、周りもあまりに放言がすぎるとあきれてしまった。
その日、足軽大将の簗瀬兵右衛門たちとともに敵兵に紛れて本陣に突入し、隆信に槍を入れ、簗瀬に首を掻かせて義久公のもとに送り、御実験に入れた。
その後、筑紫広門の鷹取城攻めの際、広門の弟(もしくは息子)の春門と戦って際、忠堅は春門を斬ったが春門も忠堅の右手を切り、相討ちとなった。
(享年二十九)
0084人間七七四年
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2021/10/09(土) 21:45:42.09ID:82Wlary0
767 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワントンキン MM0b-g+3k) sage 2021/10/09(土) 03:21:43.58 ID:KUrCYZSAM
氏真さんカワイソス(´・ω・`)

「駿河を失い没落した氏真は、かねて音信のあった越後上杉氏に書状を送ったものの返信が無い。そこで、上杉氏の取次(外交の担当者)に連絡を取ったところ「書札慮外」と一蹴されてしまったという。つまり、没落した氏真ごときがいつまで越後国主と対等の立場でいるつもりかとその無礼を咎められてしまったのだ。氏真の心中いかばかりか。」
0085人間七七四年
垢版 |
2021/10/09(土) 22:38:28.68ID:Yey6uiW7
今川サイドの対上杉窓口は朝比奈か三浦だっけ?
まあどっちもいないんじゃしゃあない
0086人間七七四年
垢版 |
2021/10/09(土) 22:48:16.74ID:l66jBKe8
大名権威の保持のためにももう大名じゃない人間を大名扱いするのは厳しいわね
まあそもそも氏真がこうなったのは
弔い合戦したいタイミングで同盟国北条に攻めかかったやつがいたり
そんなやつと同盟したのに味方になったら殆ど動かないとか
その辺もあるんで確かに心中如何ばかりか
0087人間七七四年
垢版 |
2021/10/11(月) 20:41:39.46ID:kFj4sQth
植松左衛門尉(資信)が曰く、

「私は乱世に生まれて諸々の道を知らない。しかしながら武士はただ
下手でも文武の道を学んでこれを行おうとして過ぎることはあるまい。

神道仏道は至って善とはいえども、これを行おうとして禍を得る者は
多い。細川政元は飯綱の法を行い、管領の家は断絶したのだ」

――『南海通記(老父夜話記)』
0088人間七七四年
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2021/10/11(月) 23:38:24.08ID:8WidEI55
>>87
なんか前段後段で文意がつながってないような気がする・・・ 

「過ぎることはあるまい」だと「いくらやってもやり過ぎではない」→「どんどんやりなさい」って意味だよね?
0089人間七七四年
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2021/10/12(火) 02:55:09.59ID:LNSxAag1
>>87
魔法半将軍様の場合飯綱の法を行ったからというより
もっと別の因果からじゃないんですかね…?
009087
垢版 |
2021/10/12(火) 08:20:11.90ID:QEbcGYk+
>>88
史料叢書版の原文は「文武ノ道ヲ学テコレヲ行ントシテハ過アルベカラズ」
武士には文武を学び実践する以上のことはなくて他の道にとらわれると家を滅ぼすってことかと
ちなみに史籍集覧版だと単に「武ノ道」とあって植松は武辺の人だからこっちの方が正しいかもしれない
0091人間七七四年
垢版 |
2021/10/12(火) 13:21:50.44ID:2E9AxWS5
過=あやまち

学テ 行ントシテ と動詞には送り仮名付けてる書き方してる以上
送り仮名がない時点で 過 は名詞と解釈するのが自然
009287
垢版 |
2021/10/12(火) 20:31:59.24ID:QskEwL65
>>91
ご指摘ありがとうございますm(_ _)m
0093人間七七四年
垢版 |
2021/10/12(火) 21:01:03.28ID:SVFHvk5E
>>89
南海通記の見解では
飯綱に凝る→男色に耽る→浮気を疑って無実の人間を罰する→そいつに恨まれて殺される
ってことらしい
0094人間七七四年
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2021/10/12(火) 21:53:29.37ID:LNSxAag1
>>93
あくまで南海通記の見解へのツッコミなんだけど
女人禁制で男色に耽るまでは関連性として判らんでもないけど
そこから先はやっぱこじつけでは…?

そもそも南海通記って香西氏が書いたもので
政元の暗殺って香西元長が首謀者だって言われてるよね
要因を飯綱に求める事で飯綱に凝った政元が殺されるのは仕方ない的な
祖先の所業の正当化のこじつけなんじゃ…?
0095人間七七四年
垢版 |
2021/10/13(水) 12:30:19.92ID:6rFIMn48
香西氏の自己弁護が入ってる可能性や、暗殺が個人的な恨みかは疑わしい点は同意だけど
暗殺を招いた政治的混乱の原因が実子のいないことによる養子の乱立なら、実子がいない原因になった
飯綱の法を根本原因にするのは、全くの無理筋ではないと思えるけども
0096人間七七四年
垢版 |
2021/10/16(土) 19:00:18.87ID:wxi1DICc
毛利輝元が折檻されるエピソードって本当ですか?
0098人間七七四年
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2021/10/17(日) 18:53:07.32ID:7/lhfdkL
>>97
すみませんが、ふざけないでください
0100人間七七四年
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2021/10/21(木) 16:14:26.25ID:vu/Oysxu
陶五郎長房は父入道(陶晴賢)を始め一門支葉、譜代恩顧の者までも芸州厳島に於いて
悉く討たれ(厳島の戦い)、また倉掛、沼の両城も没落したと聞いて、周防国都濃郡富田の
富田若山城に閉じ籠もるより術なく在ったが、これを聞いて毛利元就父子は、宍戸隆家、
小早川隆景は直ぐに富田表へ打ち出て若山城を囲んだ。

この時大内累代の臣である杉伯耆守重矩の二人の子、杉弾正重輔、同七郎正重は、去る天文の頃
父重矩が陶晴賢に殺されて以来、時節を以て親の仇を討つために豊前国箕島に在り、恨みを防州の雲に馳せ、
憤りを箕島の浪に漂わせ、時を窺い日を移していた所に、陶入道は厳島に於いて一族もろとも討たれ、
五郎長房も若山の城に籠もっているが、日を移さずそこも落城するだろうと聞き、杉兄弟は

「主君の讐、親の敵である晴賢を討てなかった事は心外であり口惜しい。剰え五郎に矢の一筋も射掛け
なければ天の咎もいかがであろうか。生前の面目、死後の恥、永々以て免れない。片時でも早く
打ち渡り、胸中の恨みを散じなければ。」

と、兄弟打ち連れて走るその様子は韋駄天の如くであった。すると前代報恩の者たちがここそこより
集まり、その勢百ばかりに成って、弘治三年(1557)二月二十二日、若山に駆け付け見ると、
若山城は毛利勢が取り囲み、旗幟が並んでいた。そこで杉兄弟は搦手へ廻ると、城中よりこれを見て、
彼等は下口より敵が来るとは考えていなかったため、この勢は必定大内義長からの加勢であると思い、
門を開けて彼等を入れた。杉兄弟は自身で謀る事を成さずに、安々と城に入ると、城中より切って出ると、
城を取り囲んでいた毛利勢は、城中に返り忠の者が出たのだと思い、我先にと乗り込むと、即時に城は
乘り落とされた。

五郎長房は山口に落ちようとして、徳地の庄まで落ちた所で、この地は吉見正親の領地であり、
郷民たちは蜂起して彼を通さず、よって徳地に於いて害された。こうして陶一族は根を絶ち葉を枯らした。
君を弑した悪逆の因果、不昧は臣たる者の咎である。

(宍戸記)
0101人間七七四年
垢版 |
2021/10/25(月) 16:28:47.23ID:1KOF0XaZ
尼子の家は宇多源氏佐々木の一流、塩冶判官高貞五代の後胤である。塩冶高貞が讒死した時、三歳の
幼子が有り、八幡太郎と言ったが彼は母親の元から出され、密かに養育し、この時尼の弟子と成して
命を助け、その後出雲国に入り月山富田城に住し、やがて子孫が出雲、伯耆、因幡、石見、隠岐の五ヶ国を
領した。

尼の子と成って以来、家が再興された事により、氏を改め尼子と名乗り、この由緒を忘れない事を示した。
尼子家は山陰道の守護職に補任され、武威を他国に振るい、それだけではなく旗を山陽に動かし
備後、備中、安芸の大半に鉾先を傾け、関西に於いては大内尼子の両家に肩を並べる者は無かったが、
右衛門督晴久の代に至って逸遊を好み、治国撫民の徳を失い、蒙昧にしてそれまで親しかった者たちを
遠ざけ、他人を近づけ、君臣共に奢侈となり、花車風流のみにふけり、武道を忘れ文を試みず、
忠臣は志が齟齬する事で身を奉って退き、又は讒言に遭って死んだ。そのようであったので分国も
日々に侵食され、遂に家を失った。

嗚呼、尼子を滅ぼす者は尼子であった。元就には非ざる也。

(宍戸記)

尼子氏は近江国甲良荘尼子郷が名字の地とされていますが、先祖が尼に育てられたから尼子、という
話もあったのですね。
0102人間七七四年
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2021/10/27(水) 19:26:39.86ID:+Gpuuju2
「大友興廃記」より
臼杵鑑速、聴好(あきよし)を誅すること

永禄11年4月上旬、佐賀関に28歳位の禿(かむろ)が来た。
髪は長く、容姿端麗、変わった身なりだったためどこかの公家殿の上人ではないかと噂された。
男は学識豊かであったため、春日神人という富貴の巫女が興味を持ち男を住まわせ、神道や歌道や源氏・伊勢について講義させた。
巫女が男に素性を尋ねたところ「聴好(あきよし)」とだけ言った。
しばしば行方をくらましては数日後にやってくるため周りも怪しんだが、沈香・麝香の香りをたたえ、憂いを含んだ眼差しをしているため不信は消えてしまった。
佐賀関の代官からこの男の話を聞いた臼杵鑑速は
「近頃、大内義隆の領地を継いだ毛利元就が九州にも手を伸ばそうとしていると聞く。
もしかすると容姿端麗な者を間者として潜入させ、宗麟公に取り入ろうとしているのではないか?
早々にこの者を誅すべきである!」
と疋田次郎左衛門尉に申し付けた。
疋田は理由を知らせず殺すのもかわいそうだと思い「太守(宗麟)の命令で誅伐する」と述べたところ
聴好はおどろかず「理由は知らぬが太守の命令であれば仕方ない」
と「朝ニハ紅顔アリテ夕ニハ白骨トナレル身ナリ」というような内容の詩を書き、
「本望を達せられなかったか」と髪をほどき、首を疋田に差し出したため、疋田は仕方なく首を刎ねた。
周りのもので涙を流さぬものはいなかった。
本望というのはおそらく宗麟公に近づき籠絡する計略だろう。鑑速は思慮深いことであった。
その後、聴好は祟り神となり近隣を悩ませたため、春日神人は聴好の宮を立てて崇め奉った。

※九州研究会の秋好政寿氏による翻訳のまとめ
0103人間七七四年
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2021/10/30(土) 16:16:27.50ID:tQVtBhVS
天文9年(1540)、近年元就朝臣(毛利元就)には尼子民部大輔晴久に様々憤る事があると
大内義隆と陶入道道麒(興房)は聞き及び、棹させば流されると喜んで、
「大内の幕下に属されれば、これからは水魚の思いをなし申さん」と厚く礼和を言って申し越された。

元就朝臣はいかが思いなされたのかやがて了承し、
芸州にいた尼子一味の侍どもの城を一時攻めに5ヶ所乗り崩し、晴久と手切れの色を立てなさる。
これにより晴久は吉田へ発向の旨を評議し、祖父経久(尼子経久)へも聞かせ申してこその事と思い、
しかじかの由を申された。
これに経久は「吉田出張の儀は無益である。まず石備両国を従えて国人どもの人質を取り堅め、
深固の利をもっぱらとしてその後に吉田へも出張するべきだ」と理を尽くして申された。

しかし晴久は、経久は老耄なされたので「御意見至理に存じ候」と謹んで申されながらも
内心では「臆したる仰せかな」と思い、ひたすら吉田へ出張の用意をするのみであった。

(中略。以下吉田郡山城の戦いの時)

吉田勢(毛利勢)はようやく3千に過ぎないため、城中の女童下部までことごとく堀際へ差し出て
竹の先や棒の先に箔紙を付け、あるいは金銀の扇子などを結い付け持たせて置きなさった。

宮崎では吉田勢が向かうと見て、一陣に控える高尾豊前守2千余騎(尼子勢)は柵際まで出て待ち受けた。
吉田勢が少しも臆さず攻め近づき柵を押し破り切り入ると、出雲勢もここを先途と防戦するも、
ついに叶わず左右の谷へ引き退き、二陣に続く黒正甚兵衛尉の1千5百余騎が渡し合って防戦した。
一方で陶、杉、内藤の宮崎の陣(大内勢)は、「元就は容易く勝利を得られることだろう。
それならば本陣の晴久と一戦するぞ!」と、2万余騎を三段に分けて青山猪山へ押し寄せた。

尼子下野守(久幸)は思慮深き侍で、必勝の見切り無くしては危うき合戦を慎んだので、
世人は“尼子比丘尼(臆病野州とも)”と言った。この人は何と無く、怒る様子もなかったのだが、
心深い憤りがあったのか居丈高になって言われるには、
「今日の戦はこれ以上ない程の味方の大事だ。何にせよ1人踏み止まって討死しなければ、
晴久の御開陣も成り難い。内々に口武辺なさっている人々は一手際のところである!誰か彼か!」

だが答える者は1人としていなかった。その時に下野は雑言吐散し、
「尼子比丘尼は今日の討死なり!御免あれ!」と打ち立ち、手勢5百余騎程が青三猪ヶ坂へ掛け出ると、
河添美作、本田豊前、已下下野に励まされ我先にと進み出た。

そうして陶の先手深野平左衛門尉、宮川善左衛門、末富志摩守2千余騎と入り乱れて戦い、
山上へ追い上がる時もあり、周防勢が追い下され三日市まで引く時もあり、終日隙間なく攻め合えば、
陶の先手の深野と宮川は討たれ、末富は深手を負ってやがて下人に助けられ味方の陣に入った。

元就朝臣の家人中原善左衛門は宮崎からどのようにして来たのか陶の手にいたのだが、
尼子下野に渡し合って大雁股を野州の眉の外れに射込み、馬から落ちるところを走り掛かって
首を取ろうとした。野州の同朋は主の首を探させまいと前に進み打って掛かるが、
中原は物の数ともせずに一太刀で打ち捨てた。しかし、その隙に下野の死骸を若党どもが
肩に掛けて味方の陣に逃げ入ったので中原は思う首を取れず、同朋の首だけを討って帰った。

――『安西軍策』

安西軍策は江戸初期成立の軍記物で陰徳記の原資料といわれる
臆病野州は前段で吉田出陣に反対した久幸を晴久が臆病と罵倒したことに由来するとされるが
尼子比丘尼は世人の評由来で、晴久が臆していると思ったのは経久になっている
0104人間七七四年
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2021/10/30(土) 20:02:55.69ID:yReS1zpI
>>102
今更ながら訂正
28歳くらいの→二八(16歳)くらいの
九州研究会→九州歴史研究会

また大正14年刊行の山田宇吉「佐賀関史」にも同じ話が書かれており、そこでは聴好の正体は長門国美祢郡秋吉の領主、秋吉清忠の嫡男秋吉左門という、毛利元就の近侍の士で
聴好(あきよし)は秋吉と同音の字を使った変名だったようだ、と書かれていた
ついでに「大友興廃記」の原文見たら春日神人は「いとわかき女房」と書かれてたから聴好も巫女も想像より10は若かった
0105人間七七四年
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2021/10/31(日) 14:07:43.95ID:HDlBXV01
天文の初めに細川晴元は王畿の兵制を定め将に命じた。まず三好筑前守長慶は河州にあって八幡表の先鋒とし、
三好入道宗三(政長)は摂州にあって山崎表の先鋒とした。これは京都に事あれば両口より攻め上り、
左右相救して功をなすためである。晴元はその権を執り中之島の城にあった。

ところで長慶の父海雲(三好元長)と同族宗三は権を争い常に不仲で、故に海雲が堺で一揆のために死亡したのも
宗三のなした事と思われていた。長慶は今また、宗三を退けて泉州河州摂州を共に自ら権を取らんとする。
しかし晴元はこれを許さず宗三と同意した。長慶は人を遣わし説いて曰く、

「我が祖が代々戦場に屍を晒したのも、わたくしの事ではありません。すべて公儀のために忠を尽くしたのです。
加えて管領澄元(細川澄元)が卒しなされて御家は滅亡なさるはずを、我が父元長入道海雲は甲斐甲斐しく
晴元を13歳になられた時に取り立て主君とし、高国(細川高国)と戦って勝ち、澄元没後の御憤を散じさせて
晴元に会稽の恥を雪がせました。

宗三は我が一族ではありますが、阿波の好みを捨て高国を輔佐して当家を滅ぼさんとしました。
その暴悪の逆徒なのですから、例え一命を御助けになることはあっても何故家臣となして国政を司らせるべきでしょうか。
これはただ、晴元が理に暗く海雲の忠を御忘れになっているのです。

私は不肖であるとも宗三の積悪を征して亡父海雲の憤りを晴らすことを望みます。
私は晴元に対して忠を忘れてはおりませんが、晴元がもし宗三に力を合わせて同意なさるならば容赦はしません。
これはまったく私の罪ではありません」

晴元はこれを聞かずに宗三と同意して長慶を敵とし、讃州に触れて軍勢を召した。讃州の諸将は議して曰く、
「晴元がもし長慶に同意されたならば事は行われるだろう。宗三に同意して長慶を敵になされたならば、
石を抱えて淵に入るようなものだ。宗三は武功があるとはいえ、大事をなすには不足である」

諸将は事を左右に寄せて遅参した。植田氏は十河一存と同意し、寒川氏も近年三好家に恩があり晴元の催促に従わない。
安富氏は去る12年11月に公儀のために淡州で死にその後は軍用に欠乏し郎従は不足して出ず、
香川氏は老衰により兵衆を出すと言いながら事寄せてこれを果たさず、各々時勢を考えて上洛する者はいなかった。

――『南海通記』

こんな直球で言ったらそりゃ絶縁だよねっていう
三好政長が細川高国を輔佐した事実はないのでそこは差し引かないといけない内容だが
0106人間七七四年
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2021/11/03(水) 04:25:21.24ID:a8wD2Kb1
読んだ史料の紹介もいいんだけど
もうちょっとこれは面白いってところで絞りこんで書いてもらえないかな
なんでもかんでも、テーマなく書かれても困る
0107人間七七四年
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2021/11/03(水) 04:58:34.22ID:3sL6nBxP
良い話悪い話スレじゃなくて史料を転載するスレになったな
0108人間七七四年
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2021/11/03(水) 05:08:48.93ID:a8wD2Kb1
>>107
うん
一応、何本かここに投下した人間として指摘させてもらった
0110人間七七四年
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2021/11/03(水) 09:42:55.24ID:CzQuy7Ia
松前藩の家史「新羅之記録」から武田信広と息子の蠣崎光広について

松前当家の家祖である鎮狄大将武田彦太郎若狭守新羅氏信広朝臣について
若狭守護の武田伊豆守信繁朝臣には三人の嫡男がいたが、長男信栄は子がないまま世を去ったため
次男の信賢が家督を継ぎ、信賢の一子・信広を弟の国信の養子として次々代の家督を継がせようとしたが、
信広は大力強盛で性格が荒々しかったため、信賢と国信は信広を義絶し、殺害しようと図った。
家老数名が哀れに思い、家来をつけて宝徳三年(1451年)三月二十八日、信広二十一の時に若狭を出奔させた。
奥州田名郡を知行する蠣崎李繁は武田信繁の親族であったが、過ちを犯し出奔。商船で当国に来て安日(安東)政季の婿となっていたため、そこに身を寄せた。
政季は十三湊の安東盛季の傍系であったが、本家が南部氏との戦で敗れたため安東氏を継ぎ、
もともと安東氏の領地であった狄之島(北海道)に向けて武田信広らを従えて康正二年(1456)八月二十八日に出航した。
長禄元年(1457年)五月十四日(康正から長禄への改元は九月)、狄之島の夷狄が蜂起し、安東氏配下の
志濃里之館、箱館、中野館、脇本館、穏内郡館、覃部館、松前(大館)、禰保田館、原口館、比石館、花澤館を襲ってきた。
蠣崎季繁は城を守り、武田信広は総大将となって夷狄の酋長・胡奢魔犬(コシャマイン)父子二人を射殺し、斬り殺すこと多数、凶賊を悉く敗北させた。
武田信広は戦功を賞され、男子のいなかった蠣崎季繁の婿となり家督を継ぎ、天河の洲崎之館に居住した。
館を建立した時、西海のはるか沖に夜間光るものが見え、調べたところ藻屑にまみれた毘沙門天像であった。
明応三年(1494年)五月二十日、六十四歳で逝去。
0111人間七七四年
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2021/11/03(水) 09:44:04.37ID:CzQuy7Ia
蠣崎光広について

永正十二年(1515年)夷賊徒がふたたび蜂起。
光広は計略をなし、客殿に夷賊の酋長・庶野(ショヤ)、訇峙(コウジ)たち大勢を招き入れ
一日中、酒で歓待し、宝物を披露したため、賊徒は酒に酔い宝物をもてあそびだした。
この隙をつき、女たちに音曲を奏でさせ、音に紛れて、部下たちに鎧を装備させ
いきなり数名で客殿に乱入し、光広も太刀をとり酋長二人を斬殺した。
この刀は信広から受け継いだものであり当家の重宝となっている。
大勢の夷狄を一人も漏らさず討ち取り、夷どもの死骸を埋め、夷塚と名付けた。
その後、夷狄が敵対するごとに、この塚から鬨の声が上がるようになったということだ。
0112人間七七四年
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2021/11/03(水) 10:57:12.05ID:i7qCQ2S/
昔から史料紹介して駄弁るスレだったから変に拘らなくていいよ
興味ない話は読まないし
0113人間七七四年
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2021/11/03(水) 14:05:01.96ID:zeegsZuY
面白い人が面白いことをする

面白いから凡人が集まってくる

住み着いた凡人が居場所を守るために主張し始める

面白い人が見切りをつけて居なくなる

残った凡人が面白くないことをする
0115人間七七四年
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2021/11/03(水) 14:20:22.31ID:YPj8AzDr
気にしないでもっと投稿してくれ。何言われようが俺は読んでいるから。
0116人間七七四年
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2021/11/03(水) 15:39:23.15ID:WGjLkfyU
荒らしたいのが目立ってる投稿してる人を標的にしてるだけだから気にするだけ無駄よ
スレをより楽しくしようじゃなく、スレを荒らしてまともな人いなくさせようが目的だから
0117人間七七四年
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2021/11/04(木) 13:47:37.36ID:jq1ktg+S
今読んでる史料を訳して投下するスレなら
いい/悪いに分かれてる意味無いから統合したら?
読んでるはずなのに感想もないような「読んでる人」「まともな人」は
掲示板においてはいないも同じだぜ
0119人間七七四年
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2021/11/04(木) 19:04:58.26ID:5XO+gxv1
「新羅之記録」から蠣崎良広、蠣崎季広について
(それぞれ悪い話といい話だけど同じスレに書く)

蠣崎良広(光広の子)
享禄二年(1529年)三月二十六日、狄が和喜之館を攻めてきたため、良広は和睦をすると言って多くの財物を館から離れた平地に置いた。
狄の酋長・多那嶮(タナサガシ)が財物を受け取ろうとしたところ、矢倉から放たれた矢が百余間超えて酋長の胸板に命中し絶命。
これを見た数百の狄が逃げ出したため、館から打って出、悉く討ち取った。
この前後、夜間の風雨に紛れて狄忍が館をうかがうことが数度あったが、
そのたび良広は柵越しに怪しいところを槍で突いたり、足音が聞こえる方角を射たりした。
どちらも翌朝その辺りを探ってみると、絶命している狄忍が見つかった。
天文五年(1536年)六月二十三日、多離困那(タリコナ)という狄と和睦し、得意(アイヌ語でもtokuy=親友、日本語由来)となり酒でもてなした。
酒が回ったところでタリコナ夫妻を一太刀で斬殺した。
妻の方は先に討った酋長・タナサガシの娘であり、父の仇討ちのために数年経略を巡らせていたからである。
これにより国内の東西は安全となった。
0120人間七七四年
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2021/11/04(木) 19:06:28.50ID:5XO+gxv1
蠣崎季広(良広の子)

夷狄が喜ぶ宝物を与え、懇切に喜ばせたため夷狄から神位得意(カムイ・トクイ)と呼ばれ敬慕され、国内はおさまった。
天文十九年(1550年)六月二十三日、檜山の屋形・安東尋季の嫡男である安東舜季がこの国を見ようといらっしゃった。
いわゆる「東公の島渡り」である。
この時、舜季の二男の茂季や、津軽の喜庭伊勢守秀信(小笠原信浄?)との縁組みがなされた。
こうして近国に威勢が振るい、遠国にまで家名が知れ渡った。
また勢田内(セタナイ)の波志多犬(ハシタイヌ)を西夷の尹(統治者)、志利内(シリナイ)の知蒋多犬(チコモタイヌ)を東夷の尹となし、
「夷狄の商舶往還の法度」を定め、船舶での利益を両酋長に配分することにした。
なお光広によるショヤ・コウジ討伐の際の夷塚だが、季広の代になって鳴動することは無くなった。
(光広のところの記事だがわかりやすくするためにこちらで記載)
0121人間七七四年
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2021/11/04(木) 19:13:03.07ID:5XO+gxv1
以下私見

wikiだと「新羅之記録」出典で安東舜季が「夷狄の商舶往還の法度」の立ち会いをしたことになってるようだけど、少なくともこの箇所では不明。
祖父の光広や父親の良広のやり口を考えたら、蠣崎氏の主君である安東氏の人間が立ち会わないとアイヌも信用しなかったのかもしれない。
ついでに「新羅之記録」では蠣崎氏はもちろん神武天皇→清和天皇→新羅三郎義光→武田氏の流れであり、
安東氏は神武天皇に敵対した安日長髄(長髄彦、安日は長髄彦の弟という説もあるが本書では同一人物としている)の子孫とされている。
安東氏が蠣崎氏のアイヌへのたびかさなる騙し討ちを見て、
宴会の最中に土蜘蛛を騙し討ちにした神武天皇のことを思ったかどうかは知らない。
現在だと「古事記」といい「新羅之記録」といいわざわざ家名に傷つくことを遺さなくても、と思うが
0122人間七七四年
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2021/11/04(木) 19:31:18.48ID:hkhLJ2gv
ここ、史料を挙げるスレでも研究スレでも無いんだよね
そういう事をするならばそういうスレを立てるなり統合なりするべきだ
過疎るよりマシというがスレが過疎るなりスレ違いの話題しかないならば
そのスレはもう役目を終えたって事だ
0123人間七七四年
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2021/11/04(木) 19:52:17.41ID:BvXS4BxP
ならおまえは何スレだと思ってんだ、そんな縛りはない
0124人間七七四年
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2021/11/04(木) 21:35:14.70ID:cpE6cVmh
スレが役割を終えたと判断したなら自分が去ればいいだけの話
赤の他人に指図とか何様のつもりか?
0125人間七七四年
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2021/11/04(木) 22:30:28.48ID:hkhLJ2gv
>>123
妙な話だな…歴史の話は読めるのにスレタイは読めないんだから

>>124
スレ違いを指摘したら指図扱いですか
人に何かを言われるのが心底嫌いなタイプなのかな
0126人間七七四年
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2021/11/04(木) 22:37:22.70ID:cpE6cVmh
まだいるのか
頭いい僕ちゃんの言うことをどうして皆聞かないのか
一生理解できないだろうし理解する気もなかろうな
消えなクズ
0127人間七七四年
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2021/11/04(木) 22:42:02.78ID:hkhLJ2gv
自分のレスにレス付けて来たから返したら
まだいるのか呼ばわりとはたまげたなぁ
おまけに一々口汚い物言いだし物言いが気に入らなくて文句を言うにしろ
もうちょっと品性はないものかね
0128人間七七四年
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2021/11/04(木) 22:48:43.37ID:cpE6cVmh
一個人に実害を及ぼすはずもないスレの存続が気に入らないなんてのは
大方スレの趣旨に反する創作投稿でも窘められて逆恨みしている奴だろう
スレタイもテンプレも読めないバカに限ってプライドだけは一人前だから質が悪い
0129人間七七四年
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2021/11/04(木) 22:50:36.68ID:cpE6cVmh
品性とかどの口が言うか、アホウが
0130人間七七四年
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2021/11/04(木) 22:53:28.46ID:hkhLJ2gv
創作投稿なんてしたこと無いですけどね
仮想の出来事を作り出して相手を攻撃するのって
危ない傾向の第一歩ですよ
しかしご指摘の中で私がテンプレも読めないというのは事実なんですが
このスレのテンプレって何処にあるんですかね?見当たらないんですが
見えないものが見えちゃう能力をお持ちの方?
0131人間七七四年
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2021/11/04(木) 22:59:39.13ID:bNMd5sQq
>>121
> わざわざ家名に傷つくことを

土蜘蛛の件にせよ兄宇迦斯の件にせよ、
その手の騙し討ちを卑劣な行為、恥ずべき悪行とするのは武士の倫理、それも多分に江戸時代のそれだろう。
伊波礼毘古の戦った時代、その伝説が語り継がれた時代、そして『古事記』が編纂された時代、
その頃に果たして武士同様の倫理観があったかどうか。
0132人間七七四年
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2021/11/04(木) 23:13:32.65ID:BvXS4BxP
>>130
ばかじゃねえの、お前が勝手にテンプレつくろうしてんじゃん。
0133人間七七四年
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2021/11/04(木) 23:57:34.48ID:jq1ktg+S
この2週間投下された内容についてレスしてるのが>>131だけ
読んでる、楽しみしてる人たちが積極的に盛り上がればいいのよ
そうすれば自治論争なんて蛙の面にションベン
0134人間七七四年
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2021/11/05(金) 01:01:07.87ID:rd0Nuwmb
或る本に、文禄五年(1596)閏七月十三日の慶長伏見地震によって方広寺の大仏が破壊した時、
豊臣秀吉公は「仏の知見を以てしても、そも身の破壊を知らざるは信ずるに足らず!」
と宣われ、壊れた大仏像に向かって矢を射られ、そして信州善光寺の如来を大仏殿の本尊とされた。

そのようなある時、残暑甚だしい年があったが、俄に吹雪が天に満ち、甚だしい寒気が人々を襲った。
「これは如来の祟りである」とされ、慶長三年八月十七日(秀吉公薨去の前日である)善光寺へ、
その本尊を送り返したという。

(越後の人曰く、善光寺の正真の一寸八分の黄金仏は、現在羽州米沢に在り、毎月一日に開帳されているという。
これに限らず、上杉景勝卿は会津への国替えの時、彌彦明神の神宝、その他領国に在る旧物等を悉く
彼の国に引き取られらと言う。)

(新東鑑)

秀吉が方広寺の大仏の代わりに本尊として善光寺の如来を取り寄せた話の顛末
0135人間七七四年
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2021/11/05(金) 10:33:36.82ID:kidI51+i
http://www.houon.org/houonji/houmotsu.html
米沢法音寺公式サイト

天文二十(1551)年、川中島の戦いの折、信州中野城主高梨政頼は戦国の兵火を避けるため、
信濃善光寺のご本尊を上杉謙信公に奉じた。謙信公は春日山に如来堂を建ててご本尊を懇ろに
奉祀するとともに深く尊信し、厳重に守護した。
慶長六(1601)年、上杉家の国替えに伴い、善光寺如来尊も米沢に移され、景勝公は米沢城本丸の東南隅に
藩祖謙信公を祀る御堂を建て、御堂本殿の中央に謙信公のご尊骸を、右に善光寺如来尊、
左に泥足毘沙門天尊を安置し、さらに、二ノ丸に御堂に勤仕する真言宗二十一ヶ寺を建立して、
守護の掟頗る厳重にして、その供養勤行は丁寧を極め代々奉祀された。
明治に入り、法音寺が歴代藩主御廟所のある現在地に移転し、明治九年本丸の御堂が解体されて
謙信公のご遺骸が歴代御廟所中央の現在地に遷座された際、善光寺如来尊、泥足毘沙門天尊は
当寺に移され奉安された。
0136人間七七四年
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2021/11/05(金) 10:46:28.92ID:kidI51+i
謙信公は現在は上杉神社のご祭神として神式のお祀りですが、江戸時代は三尊形式で脇侍を従えた仏様だったと
0137人間七七四年
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2021/11/05(金) 13:47:00.77ID:Vs68b8gw
ID:cpE6cVmh
批判の中身は勝手な決めつけと思い込みで、使う言葉は汚い
学がないよ
0138人間七七四年
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2021/11/05(金) 14:04:16.07ID:/7F8548Y
相手の口が荒くなるほど怒らせるまで何度も同じようなこと言って、ついに荒くなったらそこだけ取り沙汰して悪人に仕立て上げようとする人っているよね
0139人間七七四年
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2021/11/05(金) 14:13:12.16ID:7TzE4MpB
奥多摩銘菓へそまんじう由来記

古来へそは大切なものながら世人之れを茶目でユーモアな存在としているが、体の中央に悠然と構へ、その形も千差万別で、満月型あり、月見型あり、谷見型、藪にらみ型、稀には出臍等愉快なのがあれ共、フックラとした月見型を最も可とすると古書に見えたり。
心のひねくれしを臍曲りと例え、可笑しきときは臍が茶を沸すとか臍の宿替とか申し、又、昔漢の項羽が山をも抜く力も、へそごまをとりて力忽ち衰へたりといふ。ゆめゆめへそごまはとるべからず。
抑々弊舗特選のへそまんじうは、その昔永禄6年、当地より程近き辛垣城に構える三田弾正綱秀を小田原の北条左京太夫氏康と其の子滝山城主北条陸奥守氏照父子が昼夜を分たず攻め立てしが、中々落城せず偶々折柄の大雷雨中を隣峰その名寄しらむ雷電山口より攻め込んだ豪勇無双の十勇士により、さすが難攻不落の辛垣城も陥落したるが、この十勇士が当時この附近の茶店で購った兵糧のまんじうを腹巻に包んでおいた所、不思議や全部このまんじうの型に変り大雷雨に臍も取られず、然も勇猛果敢な働きに澤山の恩賞を授けられしとか。
依ってこのへそまんじうを常に賞味し、臍下丹田に力を入れて世に處するなら必ずその成功疑ふ可からず。

秩父多摩国立神代吊橋畔 登録商標へそまんじう本舗 主人敬白
0140人間七七四年
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2021/11/05(金) 14:21:03.44ID:POVyYTYg
「まんぢゅう」「まんぢう」ではないのか
0141人間七七四年
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2021/11/05(金) 14:23:37.85ID:/7F8548Y
北条の十勇士って誰だったんだろ
0142人間七七四年
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2021/11/05(金) 16:38:47.09ID:510z2f6l
多田満仲「嘘つけ、ただのまんじゅうだろ」
0145人間七七四年
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2021/11/05(金) 19:42:38.45ID:7TzE4MpB
>>142
審議中AA略。
0146人間七七四年
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2021/11/06(土) 03:31:54.37ID:gvVzScEM
タダノマンジュウダッテ ヒソヒソ
    ∧,,∧  ∧,,∧す
 ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U (  ´・) (・`  ) と ノ
 u-u (l    ) (   ノu-u
     `u-u'. `u-u'
0147人間七七四年
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2021/11/07(日) 00:09:16.84ID:gNLIs54R
「博多細伝実録」という黒田騒動や福岡藩内の怪奇現象など、おもに江戸前期から中期の話が載っている本から
千利休の切腹後くらいに、黒田長政が博多の街を馬で移動していると、
長政の姿を認めているにもかかわらず、両足を通りに突き出して仰向けになっている町人がいた。
長政が馬上から小姓に「あの町人めの足は売り物か聞いてまいれ」
と言ったため、小姓が町人に聞くと
町人「ああ売り物さ、値段だと?そうだな、片足百両、両足で二百両で売ってやるよ」と答えた。
長政は懐中から金三両を出し、
「あいにく今はこれだけしかないから手付金にして、残金は後でやるぞ」
と町人の両足を忽ち切ってしまった。
残金で町人が死んだ後の法事をさせたということだ。
0148人間七七四年
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2021/11/07(日) 01:56:50.17ID:5V3KtrSW
伊勢宗瑞(所謂「北條早雲」)と馬泥棒の噺は近代以後の小説等に引かれているが、出典が見つからない。
知識有る人の御教示を乞う。
0149人間七七四年
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2021/11/07(日) 04:27:34.94ID:xchxD/z8
関ヶ原前に黒田が領主の前提で話ができてるもんなそれだと
とりあえず漫画読みだと花の慶次だよねそのエピソード(切ってないけど)
0150人間七七四年
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2021/11/07(日) 07:39:58.22ID:gNLIs54R
>>148
「名将言行録」を出典扱いするのは気をひけるけどとりあえず
「一年、小田原にて馬盗人を捕らへて、之を長氏(北条早雲)の前に出だす。
其賊曰く、某(それがし)馬を盗みしことは定まりなり、
あの国を盗みたる人は如何に、と長氏を指さす。
長氏、之を見て器量ある奴なり、と言て之を免るせり。」
アウグスティヌス「神の国」のアレクサンドロス大王と海賊の逸話とか似たような話は各地であるけど
0151人間七七四年
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2021/11/07(日) 09:25:03.53ID:LMp8ggPI
文献上の初出としてはともかく、このスレなら名将言行録でいいじゃありませんか
逸話集としての取り上げ方では、書籍そのものの信憑性の良否は問題ないですし
0152148
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2021/11/07(日) 11:07:38.15ID:5V3KtrSW
>>150
ありがとうごさいます。
0153人間七七四年
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2021/11/07(日) 15:15:45.44ID:AjZrlMYF
去る慶長十七年の春、豊臣秀頼公の詰衆である津田出雲守、渡辺内蔵助(糺:此の頃は権兵衛と称すると)、
及び児小姓十人ばかりが、野田の藤の花を見に行った。終日酒宴沈酔して、或いは二、三人、或いは
四、五人づつ船を浮かべ、福島、海老江などに赴き逍遥した。
そのような中、林斎という盲人と出雲守が藤の辺りを遊観していた所に、薩摩のあぶれ者共六人、
刀の鐺(こじり:刀の鞘の末端)に小さな車を付けていたが、この辺りを徘徊していて出雲守と口論に及び、
この六人の者共は刀を抜いて切って懸かってきた、これに出雲守は十文字の鑓を取って野田の辺りまで
押し出したが、悪党たちもここで取って返しまた切懸った事で、出雲守は九ヶ所まで疵を被った。

林斎は盲人であったのでこれと戦うことは出来なかったが、浜辺に積み置いてあった割木を取って
隙間もなく悪党どもに投げ懸けた故に、悪党たちも少しく辟易して攻めあぐんでいた所に、渡辺内蔵助が
馳せ来て薙刀を以て敵三人に傷を負わせた。また出雲守の従者たちはこの時、野田近辺の在家に居たのだが、
これを聞きつるとようやくに走り来て、主の出雲守を助け出し帰宿したが、その疵が平癒せず終に死去した。

同十八年の春、大阪城内の秀頼公の寝殿と蘇鉄の間の中間、柳の間に於いて、田屋式部という者、予てより
詰合衆饗庭備後守に宿意あって殺害した。これによって営中大いに騒動して、検議の上式部には
切腹が仰せ付けられた、

またその後、渡辺内蔵助は私用あって天王寺辺りまで行った所に、その頃名に聞こえた関東の荊組という
あぶれ者の集団がここに徘徊しており、渡辺と闘争に及んだ。渡辺は奮撃して悪党どもを追い払うことは
追い払ったが、自身も這々の体で大阪へと帰った。またその砌、内藤新十郎玄忠、その他少禄の輩たちが、
生玉の社内に於いてこれも荊組と口論して刃傷に及び疵を被って帰ってきた。

去年に渡辺が野田の藤見で闘争したことから始まり、今日内藤等が喧嘩をしたのも、皆大阪城から
西南の方向であったため、大阪衆はこの方角で合戦をして敗亡するという兆しではないかと囁きあった。

このような所に、同十九年二月四日、彗星が東より出た。この時朝鮮の浪客であった李文長という者に、
焦氏易林(漢代に成立した中国最古の術数書の一種)を以て占わせた所、
『人面九口長舌為斧、劉破瑚l殷絶後』という辞に当たった。また曰く
「『集兵争強、失其貞良敗我殺卿』という辞あり。大いに凶なり」と申すにより、秀頼卿は驚かれ、
近国の諸社寺にて祈祷を仰せ付けられた。諸人これを聞いて、唯事ではないと眉をひそめた。

(新東鑑)

薩摩やら関東やらのあぶれ者たちが彷徨きまくっていて、大阪周辺の治安が悪すぎるお話。
0154人間七七四年
垢版 |
2021/11/07(日) 22:19:15.62ID:cyE0hjRp
自分のブログでやってくれよ
「私の読んだ史料たち」とか名付けて
アドレス書いてくれたらそれはそれで興味があるから読みにいくが、ここの趣旨とはずれてる
0156人間七七四年
垢版 |
2021/11/07(日) 22:55:11.34ID:cyE0hjRp
>>155
ちょっと突っ込んで話すとだな、件の人はちょっと検索すれば同じネタが投稿されていると分かるのに書き込んだりするんだよ
下手すると少し前のレスにも同じ内容のがあったり
つまり、読んだものを機械的にここに記しているだけ
面白いところだけの要約もできない
よい話し、悪い話しも無関係
ある意味ではコピペ荒らしと同一だよ
0157人間七七四年
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2021/11/07(日) 23:17:49.07ID:gNLIs54R
初めの方の投稿は出典がないのが多かったから
既出でも出典を書いてくれるのはありがたい
投稿者の勝手な解釈で内容が歪曲されてないかを確かめられるし
0158人間七七四年
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2021/11/07(日) 23:25:10.50ID:BdiK2OeZ
スレが過疎るのがよく分かるレスだ
投稿者が読者に判り易く多少の脚色をしたり内容をかみ砕くのも
勝手な解釈の歪曲だみたいに取られたら投稿しようって人も減って当然だわな
0159人間七七四年
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2021/11/07(日) 23:26:24.58ID:cyE0hjRp
出典をちゃんと記して、無駄な脚色をしていないのは好感持てるんですけどね
ただ、私も史料読みますけどここに書くのはほんの一部です
これはここ向きだってのだけ見つけたら書きますし、書く前には同じ投稿がないか簡略ながら確認しますよ
0160人間七七四年
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2021/11/07(日) 23:31:15.16ID:cyE0hjRp
>>158
噛み砕くのはともかく、脚色はダメでしょうが
それはもう、ただでさえ史実性が怪しい逸話にさらに付け足して単なる二次創作
一線を越えている
0161人間七七四年
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2021/11/07(日) 23:51:50.56ID:BdiK2OeZ
AAや顔文字使った表現するのも脚色だと思うけどね
既に挙げられた最上義光や小田氏治なんか脚色まみれだ
そもそも大多数の逸話からして脚色が入ってるもんじゃないのか?
ちょっと上で出た名将言行録なんてその認識で言えばすでに二次創作では
0162人間七七四年
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2021/11/07(日) 23:58:17.88ID:xIGy4OdA
そうしてくれた方がありがたい、みたいな要望にまで噛みつく方がよほどスレの過疎に貢献してらっしゃるだろう
ちょくちょくいるが、こういう要望ですってのをまるで強制してる!みたいに言い出すのは普通に性格悪いよ
0163人間七七四年
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2021/11/07(日) 23:59:27.09ID:cyE0hjRp
>>161
名将が嘘ばかりなんて誰でも分かるじゃないですか
それをストレートに出典示して書くのはこことしてはありでしょう
そういう人たちは気持ち悪いが面白いところをより引き立てようという努力は感じる
読んだものをそのまま書き付けるのよりは少なくともサービス精神はある
0164157
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2021/11/08(月) 00:05:37.91ID:XUiLE0lA
勝手な解釈で、云々は自分が誤訳することが何度かあったので自戒も込めてのレスでした
たしかに反発を買うような言葉だったので反省します
0165人間七七四年
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2021/11/08(月) 00:14:11.10ID:nXwleecL
>>163
うん、じゃあまずあなたからサービス精神に溢れたレスをしてくれないかな
0166人間七七四年
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2021/11/08(月) 00:22:54.81ID:kqu81lnJ
>>165
ここでそこそこ話題になる史料書いてるから
暇なときに
その経験から言って、ここに書き込もうなんて思える史料は読んだものの十分の一以下だよ
たらたら垂れ流すだけなら誰でもできるんだわ
多少の知識があれば
それすらないのが批判してるようだな
0167人間七七四年
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2021/11/08(月) 16:43:00.79ID:VPtiyG+d
>>153
個人的には饗庭備後守という人物に驚いた。ちょうど「室町幕府奉公衆饗庭氏の基礎的研究」という論文読んでたところなので。
尊氏の寵童饗場命鶴丸を中興に諸国に所領や将軍料所代官を得た饗場氏も、最後に残った丹羽の所領も明智光秀に奪われて歴史史料からは姿を消す、という話だったが。大阪状に潜り込んだ一族もいたのかな?
0168人間七七四年
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2021/11/09(火) 16:11:00.39ID:48k5m+l/
慶長十九年(1614)二月五日申刻(午後四時頃)、大阪城の天守より黒気が龍の如く立ち上って矢倉に漂った。
殿中の人々はこれを知らなかったが、城外より見つけて、天守が焼けていると諸人周章し騒いで馳せ集まった。
これに城中の諸士も騒ぎ立って、人を天守に上らせてみた所、黒雲が漂っているのみにて異事は無かった。

黒気の立ち上る事は未詳であるが、或る本に。二月五日に大阪城の天守より羽蟻多く飛び去り、四月二日の
夕日の色は銅の如く、三日朝焼けの色が銅の如し、六日霰降りて寒天の如しと云う。

また叡山に一つの不思議が有った。学林房の奴である次郎が、天狗に掴まれ行方知れずになり、十日過ぎて
かの次郎は帰ってきた。そして彼は

「私はこの間、当山の次郎坊の使者として、愛宕山の太郎坊、上野の妙喜法印、鞍馬山の僧正坊、彦山の
豊前坊、大山の伯耆坊などが叡山に参集されるべきという内容の触れを届けた。即ち天狗たち各々が
集われる。」

と言ったため、皆不思議に思い八王寺の三宮に参詣してこれを見ると、天俄に曇り、甚雨疾風して大霰が降り、
その後に奴の次郎が三宮の社壇の棟に飛び上がり、そのまま落ちたが軒端に於いて起き上がり、その後は
足を揚げたり立ったりした。その他同類の者共大勢が、社の上において色々の不思議を成し、
扇を以て歌舞を行う仕草をした。また三社の扉で、尋常では二、三十人も無ければ持てないものを、
一町(約109メートル)ほどづつも投げたり上げたりした。然れどもこの扉は聊かも損じず、ただ虚空より
大礫を数多打たれたという。

或る記に、この事はこの年□月二十二日(或いは二日)、叡山南光坊の天海が駿府に来て申し上げたという。

またこの年、伊勢踊りと名付けて、庶民衣服を飾り、練絹を竹竿にかけて唱謡し踊った。
伊勢より始まって都鄙殆どで行われ、遂にこの踊りは遠州、駿州に及んだ。そして伊勢太神宮より
飛来し給うといって、幣帛を道路に飾り、これを集い見る人市の如くであった。
家康公はこれを聞き召され、巫蠱不詳の事は王者の禁ずる所なりと、堅くこれを制された事で、
伊勢踊りは止んだ。
この後、果たして大阪の乱があった、古より民の訛言、時の童謡が史書に掲載されているものだが、
この時のことも亦奇である。

或る記に、慶長十八年九月より十月に至り、畿内近国で神踊を成すとあり、又別記に、同十九年八月九日、
伊勢において天照皇太神宮、野上邑に飛び遷り給うという託宣があり、これ兵乱の兆相であると云われた。

(新東鑑)

大坂の陣の前の、様々な怪異について
0169人間七七四年
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2021/11/10(水) 00:41:40.00ID:crVLGK3A
集団ヒステリーみたいになってたのかな
0170人間七七四年
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2021/11/10(水) 01:37:24.50ID:Ol1jRi9E
秀吉存命時から秀吉の目が届かなかったら盗難割と頻発するくらいには風紀乱れてるようだしなぁ大坂城
それにプラスして上の逸話みたいに浪人どんどん入ってくるし雇うし、治安最悪すぎてみんなヒステリックになってそう
0171人間七七四年
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2021/11/10(水) 18:23:53.08ID:5L2Ib+fa
薩摩浪人はこれまた。
伊集院の残党かな。
0172人間七七四年
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2021/11/10(水) 20:41:20.25ID:Ivq4TMV4
江戸城も元禄の頃になるまで風紀乱れまくって
そこらで立ちションするやついたしむべなるかな
0174157
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2021/11/10(水) 22:55:44.33ID:kAU9beHY
上野の妙喜法印以外は八天狗のようだ
妙喜法印は四十八天狗の一人、上野国妙義山の日光坊?
(東照大権現に日光山から追い出されて妙義山に移った伝説があるから違うかも)
なお菅原道真の師匠で、菅原道真の霊を退散させた比叡山の法性坊も四十八天狗にいるが、妙義山でも祀られてるからこちらだろうか
平田篤胤「仙境異聞」では天狗に拐われた少年・寅吉に平田篤胤が
「小田原最乗寺の道了権現、秋葉山の三尺坊、妙義山の法性房とお前の師匠の天狗は交際があるか?」と尋ねているようだし
妙義山の法性坊も天狗の中では有名だったようだ
https://i.imgur.com/3acca7H.jpg
(「北野天神縁起絵巻」を元にした漫画、坊主の方が法性坊)
0175人間七七四年
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2021/11/11(木) 14:28:38.25ID:4d0f0d9e
ある雑記に曰く、大猷公(徳川家光)の御代、老臣の面々に仰せに成られた

「豊国社が現在廃れているが、これは道理に当たらない事だ。秀吉に於いては敵と称する類に非ず、
そもそも当家(徳川家)興立の事も、彼の恩義に寄ってのものである。であるのにかの霊社を捨てるのは
いかがだろうか。頃く修理を加え、祭祀の礼を以てすべし。」

この時、酒井雅楽頭忠世が云った

「上意の趣、謹んで承りました。但しつらつら考えてみた所、神霊は人の敬に集まり、神威はこれより
生じます。これを廃する時は威が無く、威が無い時は祟りを成しません。
今、たとえ上意の如くしてこれを祭ったとしても、正しく社稷の嗣である秀頼公は御敵として亡命しており、
である以上どうして神霊が祭を受けられるでしょうか。
恣に今これを取り繕えば、これ則ち御武威の虚となって、邪気がこれに乗じて禍害を成すでしょう。
ただそのままに差し置かれるべきです。」

この意見を公も信じられ、その後これについての御沙汰は無かったという。

(新東鑑)

豊国社についての徳川家光と酒井忠世のやりとり
0178人間七七四年
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2021/11/13(土) 16:15:24.31ID:FQlv6jhO
安宅冬康は善心の名君なれども人情の薄い乱れた末の世となり、猛悪が畿内に広がった。

故に三好長慶卒しなされて後、三好氏族は集議して左京大夫(三好義継)と阿波屋形(三好長治)に
讒して曰く、「冬康は天下の執事の望みがある故に、阿波淡路の兵将を懐けて諸国に睦をなし、
義継と長治を軽んじ申しているので、すぐにでも謀を巡らしなさらねば後難はまぬがれません」と相通じ、
このため義継と長治より大兵を催し、淡路由良の城を攻めた。

冬康はこれを聞いて「愚昧の者どもの悪業なれば諭しても分別はすまい。三好家の滅亡も近年中であろう。
先祖累代勲功をなして興起した当家を、愚昧の氏族どもが集まって破滅することこそ無念である。
それでは黄泉の道に出立しよう。今生の思い出に連歌を催さん」と、表八句の連歌をなされた。

その七句目「蘆に薄の交る一村(アシにススキの交わる一群)」に、
八句目「古沼の浅き方より野となりて(古沼は次第に乾いて野となりアシは少なくなった。世は移り変わるのだ)」
と冬康は句を付けなさり、大いに喜んで「さても快し。これまでなり、いざ打って出よ!」と、
城門を開けて突き出し、ついに戦死なさると聞く。

三好家滅亡の前兆であろうか、智能の子弟生まれずして愚昧の氏族が充満し、
自らの門葉の鏡とするべき冬康を失わせたことこそ浅ましきことである。

讃州の安富筑前守が淡州の役に死すと家の記にあるのもこの時であろう。国は遠く人伝に聞いたので、
その事実を洩らすことは本意ではないが、後時によく知る人を待って記すものである。

――『南海通記』

冬康殺害を長慶死後とするのは著者香西成資の意図なのか、そう伝承されたものだろうか。
『三好別記』では最後の句を三好実休討死の報を聞いた直後に長慶が付けたものとしている。
0179人間七七四年
垢版 |
2021/11/13(土) 23:23:55.82ID:xQThuIil
香西成資は讃岐香西氏の一族だが、小幡景憲に甲州流を学び軍学者として1682年黒田家に仕官、
福岡城下で四国の戦国史(南海通記)を執筆

こういう経歴見ると胡散臭いし思惑もすげえありそう
0180人間七七四年
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2021/11/14(日) 17:12:00.36ID:6NTUgv30
或る記に、太閤御在世の時、長宗我部元親は京都より国元の土佐に下り、一門衆・家老を集めて申した
「嫡子孫三郎(信親)が討ち死にしてより、未だ家督を誰に継がしむべしとも定めず、私も傾く年齢と成った。
そこで信親の娘を右衛門太郎(盛親)に嫁がせ、家督に立てようと思う。如何あるべし。」

そのように尋ねると一座の人々は、盛親が不肖であることを知りつつ、敢えて返答する者も無かった所に、
元親の婿である吉良左京進親実が進み出て言った

「信親御息女を右衛門太郎殿の奥方と成して跡継と成されるというのは、御嫡子の筋目立つに似たりと雖も、
津野孫次郎殿(親忠:吉良親実が実際に跡継として推したのは次男・香川親和とされ、ここでは
三男・津野親忠と混同されている)は、秀吉公にも知られておられ、御器量も優れておられます。
津野氏の家を別人に御相続仰せ付けられ、孫次郎殿を御家督に立てられることが宜しいでしょう。」

そのように申すと元親は聞くやいなや
「いやいや、盛親を家督に立てるのが道の正しきに叶い、家長久の基である!」と、甚だ不興げに
申された。しかし親実は重ねて
「私は何れにも親疎はありません。私の申し上げる所は国家静謐の基を固く定めたい為に
考えたところなのです。」と諫言した。すると家老である掃部助元辰(比江山親興)も、
最前よりこの座に在って控えていたのだが、進み出て

「只今吉良氏が仰せに成った事は、誰かのためというような、依怙の沙汰では有りません。
御家繁栄、子孫長久を祈る良策でありますから、是非ともこれをご了承なさるべきです。」
と諌めた。

しかし元親はいよいよ怒れる顔色にて、一言の答えも無く座を立ち、奥へと入った。そのため、
その日の相談は中止と成った。
然るに佞臣たちが元親の傍に在り、親実、元辰両人の事を様々に讒言したことで、遂に
天正十六年十月十四日に掃部助に切腹を仰せ付けられた。親実もこれを聞いて、同じく切腹したとか。
(吉良親実の切腹は実際には天正十七年九月以降と考えられる)

その後は誰も元親を諌める者は無く、思いのままに盛親を立て、家督としたという。

(新東鑑)

「七人ミサキ」の話に繋がる、長宗我部家盛親家督相続についてのお話
0181人間七七四年
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2021/11/14(日) 21:20:30.39ID:IQGWWaTq
悪貨は良貨を駆逐するの典型だな、ここ最近は
0182人間七七四年
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2021/11/14(日) 22:55:10.99ID:ANAH8LIg
とっくに人は駆逐されてるだろう
ひたすら機械的に逸話転載してる人がいるから
レスだけは定期的にあるけど
0183人間七七四年
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2021/11/15(月) 01:51:14.03ID:9pACqh2i
>>179
南海通記は南海治乱記を増補したもので内容はほぼ同じ
治乱記は黒田家仕官前に完成したので思惑があったとしても黒田家は関係なさそうだ
0184人間七七四年
垢版 |
2021/11/15(月) 16:14:38.47ID:jIwKfpHp
或る本に、豊臣秀頼公が大阪籠城との噂があったため、京都所司代である板倉勝重は
長宗我部盛親を招き饗応の上に、

「貴殿の御事は、(関ヶ原とその後の土佐での騒動で)一旦御不審を蒙られたが、私がこのように
有る上は、宜しきように相計らい、帰国のことを執政申すでしょう。
ですので、例え大阪から召されたとしても、決して許諾されないように。」

そう懇ろに申されたので、盛親もこれに同意した。
そして勝重の邸宅より、直に大阪に下ったという。

また或る本に、無禅という人物があり、彼は七歳の時より近衛家に召し使われ、七代の間近衛殿の門を
出なかった奉公人で、百十九歳まで生きたが、相国寺門前に家があった。
また、同町の藪の中に、寺子を取って物を教え、渡世していた浪人があった。

大阪籠城の刻、ある朝、かの浪人が二、三人と共に甲冑を帯びて発足した。
この浪人が長宗我部盛親であったことは、後に知れた。
無禅は同町において、「異なる出で立ちの男かな。」と、盛親を直に目の当たりにしたと語った。

後で聞くと、寺町今出川の辻に於いて、この一行は二、三十騎ばかりになり、馬鑓等を持たせていた。
寺町三条に至ると二、三百騎になり、伏見では大方千騎にもなったと人々は言い合った。
珍事であるので町所より所司代へ訴え出ると、板倉の某は大いに怒り
「それと知っていれば討って捨てていたものを!」と言われたとか。

当時こういった物語が日々数多有り、皆実見の事だという。

(新東鑑)

長曾我部元親の大阪入城についての逸話
0186人間七七四年
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2021/11/15(月) 16:58:20.68ID:jIwKfpHp
>>184
すいません変換ミスです。最後の所、長曾我部元親→長宗我部盛親
0187人間七七四年
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2021/11/15(月) 19:31:12.95ID:4VWoDzSk
>>182
それが悪貨でしょう
なにが面白いのか分からない長文の書き込みを連投されて
読んだ史料を書き込むスレを立てた方がいいのかな?
0188人間七七四年
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2021/11/16(火) 04:47:44.62ID:VOQSY8ud
>>187
悪貨でスレが死に体なのは否定してないだろ
それが最近に限った話じゃないというだけで
0189人間七七四年
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2021/11/16(火) 06:18:40.76ID:c/W8y1p0
そこであなた方良貨が率先しての出番ですよ!
いやホントに
0191人間七七四年
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2021/11/16(火) 17:21:56.14ID:pClttnhG
或る記に、上方で石田三成らが挙兵した時、真田安房守(昌幸)は息子の伊豆守(信之)を呼び寄せ、
「豊臣家に従わん」と申し聞かせたが、信之は一向に同心しなかったために昌幸は不興の顔色にて

「私は既に老年であり、立身の望みは毛頭無い。然れども海野家(真田は海野小太郎幸常の裔である)の
再興を思い、次には其の方や左衛門佐(信繁)を世にあらしめんが為ばかりに存じ立った事であるのに、
汝は内府(徳川家康)の家来である本多中務(忠勝)の縁者であることを以て、親の命に背き
不届きである!」と申した。

これに信之は、偽って答えた
「近年内府の御懇志について、一旦は私の考えも申し述べました。しかし父上が是非にも上方と
御一味するとの思し召しであるのならば、御意に従うより他はありません。」

この言葉に安房守は大いに喜び、
「其の方同心の上はいよいよ相談を遂げ、秀頼公へ一忠節無くては叶うべからず。それについて
一層熟考致すべし!」
と申すと、伊豆守も
「なるほど、心得ました。」
と言ってその座を立ち、勝手の方より密かに外に出ると、直ちに馬に打ち乗って陣所を出、
関東の味方をしたという。

(新東鑑)

信之が昌幸を欺いて徳川に味方したという、「犬伏の別れ」の別バージョン?のお話。
0192人間七七四年
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2021/11/16(火) 18:04:39.49ID:W0ajfcUM
良い悪い話スレまとめの管理人が自分のブログの為にやってるんじゃないの
勝手に私物化して動画にまで手を出してるみたいだけど
何か勝手に私物化されだした頃からもうこのスレに協力するのは止めた
0193人間七七四年
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2021/11/16(火) 18:18:34.28ID:fQObzDUl
結局なんのなんの理屈つけて
「逸話は投稿しませーん、文句だけ言いまーす」
って事か。なるほど悪貨だ。
0195人間七七四年
垢版 |
2021/11/17(水) 07:56:01.54ID:NJoySAHn
>>192
何をいまさら嘆いたところでもう遅い
そういった利己的なやつのせいで良い悪いスレはもうとっくに死んでる
勝手な振る舞いに嫌気がさして去ったやつ等も戻っては来ない
今はただ強欲管理人がスレ維持の為にコピペ貼るだけのスレになった
0196人間七七四年
垢版 |
2021/11/17(水) 08:22:40.94ID:WWXSk6Hc
管理人云々というのもいるからやろうに
0200人間七七四年
垢版 |
2021/11/19(金) 13:00:05.02ID:furH5ySo
「醒睡笑」とともに落語の元祖とされる「昨日は今日の物語」から

昔、下京に道無というものがいた。
良い娘を持っていたため他人が縁談を勧めた。
道無「相手はどのくらいの身上か?」
「四国の主であったが、今は浪人じゃ」
道無「おかしなことを、十石取りにでさえ惜しむ娘を四石取りになど」
とついに承知しなかった。

四国の主、もしあの人だとしたら縁談進めなくて正解だった気がする
0201人間七七四年
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2021/11/19(金) 13:34:01.89ID:825YLhYZ
どうせ今浪人じゃ娘食わせられないことに変わらないし
0203人間七七四年
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2021/11/21(日) 16:01:22.28ID:Fvc+5BzI
大永年中に河野四郎通直(弾正少弼。伊予の名族)は予州の氏族を滅ぼしてその領地を併せ持ち、
自家を大きくして国中の兵将を押し靡かんと望んだ。まず不服の氏族を攻めて軍諍を始め、
この時に今岡、重見、河野の一家など同姓の輩が他国に分散した。
(中略)各々弱は強に制せられてその領地を削られ、あるいは殺戮され、追放された。

ところで、河野家の祖先に“息方(ヲキガタ)”という人がいたがこの人について異伝がある。
往昔の河野家に右衛門三郎といって門戸を守る者がいた。その気性は強暴で哀愍の情は少なく、
乞食人を嫌って門戸に入れなかった。四国は弘法大師出生の地で、仏法流布の境域である。
真言を宗とする者は四国辺路を物乞いし、霊仏を巡礼して菩提を祈ったが、
右衛門三郎はこうした人をも門内に入れなかった。

右衛門三郎が年老いて臨終の時、僧1人が来て曰く「汝は生涯強暴にして慈悲心もなかった。
しかしながら潔白にして正直であった。何であっても未来の願があるならば、叶えて取らせよう」
右衛門三郎は曰く「我が何を願い、何を憂いようか。我に願うことはない。
しかしもし願って叶うというならば、我が君河野殿の子に生まれることだろうか」

僧は「その願を合えん」と言うと白玉を出して左手に握らせ、死に赴かせた。
果たして河野の子は白玉を握って出生した。これを息方というのである。
息方は成長後に河野家を継ぎ、不動の像を造ってその白玉を玉眼とし、これを崇信して氏の証とした。

その後裔は今度の内乱で郷里を去る時、不動像を背負って讃州坂田庄室山の下に来たり、
一宇を安置して泉光寺と号した。この名は清泉があったことが由来である。
天正年中の大地震(天正地震)により天下悩乱し、大地は割れて白水を出し、大山は崩れて郷里は埋まり、
平陸は破れて海底に沈むことがあった。この時、室山は崩れて泉光寺は地の底に埋まった。

河野氏族は深く嘆いて掘り出そうとしたが力足らずして止め、ここに新たに堂を立て不動像を造り、
旧所に安置して河野氏族の氏寺とした。その一宇は今も存在する。その部類はなお多い。

――『南海通記』

異伝は空海と衛門三郎の伝承に酷似しているが通直に追われた河野氏族に伝承されていたものか
0205人間七七四年
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2021/11/24(水) 10:11:10.33ID:XTGck5aC
相方猫地蔵の由緒

一五七四年(天正二年春)尾道の浄土寺で妖怪騒動が起きた。
当初相方村に備後一円で名を馳せた弓の名人千葉修理之進に
妖怪退治の要請が、殿様の命を受けた使者の命を懸けた懇願に
断りきれず見事退治した。その夜から、家族共々皆狂い廻る
病に犯され、祈祷師に祈祷をして貰った所、妖怪の怨霊の祟りと
告げられ、罪無き子猫と共に成敗され成仏できん、親子の猫地蔵を
造り祀ってくれれば罪滅ぼしに信者の願い事は何でも叶えてやる。
特に咳の病気で難儀している信者は即治してやる。早速紙屋谷に
石造りの小祠を建てねんごろに供養したところ三日後より
家族皆回復した。此の事から祀られてきたお地蔵様です。
紙屋谷では不便なため住還道に親猫を祀っていましたが、
祠崩落の恐れが出て親子共に現在のところに移設しました。

二〇十二年(平成二十四年)十二月吉日 相方歴史研究会
0206人間七七四年
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2021/11/26(金) 21:22:29.85ID:nTccaeTD
大阪冬の陣の直前、片桐且元が大阪城より退去すると、大阪方は十月十二日、軍勢を堺に向かさせ
その占拠を目論んだ。

ある説に、この時堺に加賀屋正碩という富豪の町人が在った。豊臣軍が迫っていることを知った彼は、
自身で町中を駆け廻って申した

「女童、足弱は別として、十五歳以上六十歳以下は一人も当地を立ち退く必要はない!
どうするかと言えば、先ず若者と老人が、当面敵味方となる。

そして大阪へは老人共より、焔硝千斤を献じて、軍勢に寄って放火狼藉されることを免れるべし。
また若者二、三百人は政所(堺奉行所)へ行って、
『大阪より討ち手が甚だしく向かって来ていると承りました、僅かのご人数では御勝利出来ません、
岸和田へ御退きあれ』と無理にでも誘い引かせるのだ。
幸いにも堺奉行の芝山(正親)殿は眼病なので、この事に必ず従われるだろう。

そして後で関東より、焔硝を大阪に献じたことを咎められれば、老人たちの致したことであり
是非に及ばぬ旨を陳述するように。
世上が静謐になった後は、勝利した方に付けば良い。」

この言葉にみな同意したとの事である。

(新東鑑)

大坂冬の陣直前、豊臣軍の堺占拠の折の逸話。
0207人間七七四年
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2021/11/28(日) 12:34:53.57ID:jRfz3VOu
江戸初期の笑話集「昨日は今日の物語」から三条西実枝(実澄)に関するお話
和歌に造詣が深いためか、大河「麒麟がくる」では正親町天皇と明智光秀の仲介役としてけっこう後半の出番が多かった

(里村)紹巴の所へ、九州より連歌執心の人上洛。
九州の人「国もとへの外聞にて候ほどに、三条西殿へ御体申したく」
紹巴「やすき事。
御公家衆は、物ごとに御念いり、根問いをなさるるぞ。
貴所の宿は三条にて候ほどに、左様のきづかい肝要」
九州の人「まことに御心づけかたじけない。そこはまかせおかれよ」と申す。
さて御対面にて御盃くだされ、さまざま御ねんごろにて、
三条西実枝「向後は、上国のみぎりは、さいさい待ち入り」などと仰られ、さて案内のごとく、
実枝「ここもとへ宿は?」と御尋ねなさるる。
かの人、なんと心得てか、「二条の下」と申す。
実枝「二条の下?」と仰せければ、
又「四条の上」と申す。
実枝「四条の上とは?」と仰ければ、
その時かの人うろたえて、「三条西のつらのきたなき家に居まいらする」と申上げられた。
帰るさに紹巴に叱られて、「いわれざる御心づけにて」と、かえって恨みられた。

里村紹巴の仲介で三条西実枝と関係を築こうとしたところ、三条の宿に泊まっていたため
宿を問われても相手の苗字に気を遣って回りくどい言い方をしていたが、重ねて問われ、
「三条西のつらのきたなき」と、最悪の返答をしてしまったという話。
0209人間七七四年
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2021/11/29(月) 13:54:09.38ID:XpD/AGtU
三条西実澄はドラマだと部屋中本まみれで明智気に入って正親町天皇と引き合わせた人
小籔のは二条晴良
0210人間七七四年
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2021/11/29(月) 17:00:44.44ID:NLV3QtN+
或る記に、塙直之(団右衛門)は加藤嘉明の元を浪人した後、左馬助(嘉明)に奉公構を受け、慶長十四年に
出家と成り中国地方に在った所、大阪の一乱(大坂の陣)が起こるということを聞いくと直ぐに
「関東に下り、何方へなりとも付いて参陣しよう。」
と、譜代の家人である山縣三郎右衛門という者を召し連れて近江路まで進んだが、この時
諸浪人が大阪に抱えられているという事を知り

「関東に下るべきか、それとも大阪城に入るべきか」

と迷い、心一決せず山縣三郎右衛門に相談した。すると三郎右衛門は
「はるばる東国へ下ったとしても、諸大名やその従臣数多であり、参陣しても禄は多く貰えないでしょう。
大阪へ行かれれば、歓迎され高知を給わるでしょう。さらに軍功があれば大名にもなれるでしょう。
この理、当然のことです。」
と諌めた。

これに「然らば」と、塙直之は近江路より引き返し大阪に着くと、伝手を以て豊臣家に仕えようと
様々に徘徊していた折に、雲居法師が城に出入りするのに行き合ったが、彼は直之の従弟であったので、
その事を話し、直に城中に入ったという。

(新東鑑)

塙団右衛門、大阪入城についての逸話
0211人間七七四年
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2021/11/29(月) 17:07:02.12ID:Mpqgaxv0
「諸象戯図式」
小象戯 駒数四十枚
天文年中、後奈良天皇、日野宰相藤晴光、伊勢守平貞孝等に命じ、酔象を除く者也。

麒麟がくるでは天文十八年の将棋では酔象がまだ存在してたっけ
今では小将棋は酔象あり(42枚)、本将棋は酔象なし(40枚)をさすけど
0212人間七七四年
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2021/12/01(水) 00:17:05.27ID:5lsKvRdt
『諸象戯図式』には小象戯として
酔象ありの42枚とするもの、酔象を除いた40枚とするものの2種類が紹介されてる
その42枚の方は持ち駒再使用ありで、いまの小将棋(持ち駒再使用なし)とはゲーム性がまた違う
0213人間七七四年
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2021/12/02(木) 14:58:05.53ID:K46OWYnc
或る記に、大阪冬の陣、十一月六日の朝、大御所(徳川家康)に中井大和守(正清)が言上した所によると、
三井寺照光院御門主、並びに三井寺の僧侶七人が大阪の密旨を得て、家康公を呪詛し奉るという事を、
三井寺の本覚坊が訴えたという。

この事は板倉伊賀守(勝重)に御吟味が仰せ付けられ、三井寺の宝泉院、光浄院両所の僧が召喚された。
かの両僧の申す所によると

「本覚坊は不義の僧であったため、僧中で詮議して一山より追放致しました。そこで最近は大徳寺の辺りを
徘徊していたと申す者も有ります。そして彼は追放されたことを意趣として、照光院、並びに三井寺の
僧中を憎み、このように偽って申し上げたのでしょう。
その上照光院と三井寺僧中はそもそも不和であり、調伏を一緒になって行うような事はありえません。」

そう重ねて申し上げたため、板倉より、かの本覚坊を召し捉え、三井寺に差し出すべき旨を申し渡した。

別記に、照光院と三井寺僧中が不和に成った起こりは従来、聖護院、実相院、圓満院の三御門主にて
三井寺を御支配していた所が、秀吉公以来、聖護院だけがこれを支配するようになり、それ故に
照光院などと関係が悪化したのだという。
また一説に、関東調伏の事は金地院(崇伝)を以て御尋ねが有ったとも言う。

(新東鑑)

三井寺内部の紛争が大阪冬の陣で変な所に飛び火したお話
0214人間七七四年
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2021/12/03(金) 21:10:31.61ID:2Iizd9Vy
織田信長は甲州征伐の後、武田勝頼らの首級を、
祖父の武田信虎が京都でよく訪れていた寺で晒した

信虎が主人公の映画の中で出てきた
https://nobutora.ayapro.ne.jp/
0215人間七七四年
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2021/12/03(金) 21:44:38.13ID:9P0uR6cr
一条大路で晒された後、妙心寺(快川紹喜の居た寺)に引き取られたんじゃないの>勝頼らの首
映画の創作?

いずれにせよ勝頼は朝敵扱いだったので、
京都で晒されるのは「必要な儀式」だったり
0216人間七七四年
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2021/12/03(金) 23:13:02.08ID:pSaRneIZ
「名残常盤記」続き
(常盤は頼康の寵愛を受け懐妊するが、ほかの側室たちに妬まれた。
また、世田谷吉良家譜代の内海掃部という美男の侍は、風紀の乱れを注意したことで玉の井の婢女(はしため)の恨みを買っていた。
頼康が主君かつ親族(頼康の正妻は北条氏康の姉妹とされる)の北条氏康の見舞いのため小田原に出向いた際、
途中の藤沢の宿において、掃部のたもとから常盤の手跡の恋文が挟まれた袱紗(ふくさ)がでてきた。
目をかけていた家臣と常盤との密通に激怒した頼康は内海一族を成敗し、常盤の殺害も命じた。
頼康の姉の淀殿は常盤の潔白を信じ「せめて子が産まれるまでは」と止めるが頼康が聞き入れないため、ひそかに常盤を逃そうとした。
しかし夜道を逃げる常盤に頼康の追手がおいついたため常盤は自害。享年十九、胎内の子は八ヶ月であった。)

さても御所には一旦憤り深く思し召し、情けなくも計らいたまえども、妹背の契り、かれこれ朝夕のおゆかしく思い給いて、ひたすら鬱々として、おものをも仰せられず。
人目忍び入り、御涙せきあえたまわず、御所しずまりかえり、さびしきおりから、文月九日の朝より、不思議や御殿震動することおびただしく、
山崎の辺より白鷺むらがり、なきさけぶことかまびすしく、そもおそろし。
御所にも御驚きましまして、諸山の貴僧高僧を集めて、さまざまお祈りありけるところ、
ふしぎや玉の井の婢女、にわかに狂乱馳せめぐり、しばらくありて口走る。
「我はこれ鷺の宮の神霊なり。汝ら三寸の舌をもって、あやりなき人を殺し、殊に若君を失いたてまつること、天の咎め逃れ難し。
常盤の方にはつゆいささか、曇りなき身を袱紗より、事発端し内海父子を滅ぼせしは不届きとやいわん。
(以下、側室と玉の井の婢女が共謀し、常盤に仕えていた右筆をだまして恋文を書かせ、藤沢宿の遊女をしていた婢女の妹に命じ、内海掃部が居眠りした隙に袖の中に袱紗を忍ばせたことをあばき)
汝らいちいち責め殺さで置くべきか」とはしりめぐりてどうとふし、
また起き上がり、掃部が声にてお恨み数々申し上ぐ。書きたるものを取り出し、御所様へ投げつけたてまつる。
出仕の銘々、魂きえ寄り添い、介抱してければ、物の怪去って静かなり。書きたるものを御覧ずれば
「おしおきは いろはのうちの下の文字」この心は、とがなくてしす、という事なるべし。
御所にもこのころの、奇怪さまざまなり。うち、物の怪の申したる事恐ろしく、御憤りに引きかえて、人々の思惑、淀殿の毎度の御異見おもちいなく、罪なき人を死罪せし、
我が身ひとつにふるなみだ、御機嫌あしく、近習外様、御叱りを、こうむらざる人もなし。

(その後、頼康は内海掃部と常盤の親族に詫びをし、事件に関わった女房たち十三人を水責めにして全てを白状させ、若林村で残らず成敗した。
胎児のまま死亡した若君のために一社を建立し、馬引沢中郷神戸(ごうど)若宮八幡として崇めたてまつり、
常盤の供養として法華経千部を書写し弁財天を勧請した)

さても修行者の空山(物語の聞き手)は、夢うつつとも幻に、ながなが由来を上臈(語り手、仙女と見紛う美女)の、御物語を聞きおりしが、
遠寺の鐘の告げわたり、日も西山に傾きて、黄昏しらす鳥の声。
上臈見ればましまさず、いかにいかにと我ながら不思議に覚え、
「おもかげは 程なく消えて 跡にただ 田の面に残る 草の葉の露」
と古歌を吟じて、行方は諸国修行の道と。
「とやかくと 書集めたる もしお草 いつわりばかり 世には残して」

名残常盤記 終

(鈴木堅次郎「世田谷城 名残常盤記」から鈴木氏が四写本を用いてまとめたものから抜粋・要約)
0217人間七七四年
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2021/12/04(土) 00:04:07.31ID:O9A6HOPb
なお常盤が殺された理由については
頼康の正室が北条氏のため、跡取りになるような男児が産まれるのを防ぐため、という説も
(黒田基樹「北条氏康の家臣団」によれば、
頼康には太郎・次郎・辰房丸という男児がいて、太郎と次郎は北条氏が嫁いだ時にはすでに生まれていたようだから成り立たないが)
結局のところ男児が全員死んだか、北条の血を引く辰房丸だけ死んだかで適当な後継がいなかったため
頼康は北条氏康の指定した氏朝(遠江今川嫡流の堀越六郎の子で母親は氏康妹の山木大方、正室は北条玄庵の娘)を養子に迎え、翌年病死。
この氏朝の代で小田原征伐が起き世田谷城から退去、その後は家康に従う。
https://i.imgur.com/SkH8d9K.jpg
「へうげもの」にも氏朝は少し出てくる
0218人間七七四年
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2021/12/05(日) 16:25:39.70ID:J7djUx9K
(北条氏康の死後)

氏康御病気の頃より今に至って、譜代重恩の輩は申すに及ばず、関八州御旗下の大名は群をなした。
その他に甲州、越後、佐竹、方々の使者は往来して止まず。
御中陰の日数がようやく過ぎ、氏政(北条氏政)は伊豆の三島へ鷹狩りに御出になったところへ甲州より使者が来たる。

氏真(今川氏真)と氏政は親しき間柄で小田原に居住しており、そのうえ譜代の侍はいまだに多く、
また家康公も内々氏真に御芳志があった。そのため信玄(武田信玄)は行末を難しく思われたのだろうか、
氏真を討ち申したいと密かに氏政へ人を遣わしたのである。
氏政はいかに思し召されたのかその旨を合点なさり、すでに甲州より忍んで討手の者どもが来ると聞こえた。

悪事千里を走る習い、やがてその事を聞き付けなさり、氏真の御前(早川殿)は氏政の御姉なので
この上なく御恨みになり、氏真その他下々に至るまで「氏政は人倫に非ず」と立腹限りなし。
ここにいてはならないと氏真は小田原を引き払い、家康公を御頼みになって妻子を引き連れて浜松へ落ちなさった。
また、御心の内はさぞかしと思いやられる一首を詠んだ。

「中々に世をも人をも恨むまじ、時にあはぬを身の科にして、氏真」

家康公は先年の御言葉もあり、屋形を作って氏真を据え、御懇情浅からず御労りを施しなさった。
これぞまことに仁政たるべし。

そもそも今川の家は代々小田原と縁者であり、早雲氏綱二代重恩を受け、特に氏真は御兄弟の契りあり。
何によって信玄に語らわれたのか今川殿を追い出し、このような情け無き振る舞いは謂れなし。
まことに頼む木の本に雨も溜まらぬ風情かな。中陰の折で誰か言う人もなし。
末の世まで嘲弄を受けるだろう、当家の運は末になったと小田原の諸臣は悲しんだ。

――『北条五代実記(北条盛衰記)』

よく氏真の辞世の句と紹介される一首だがこの本書では小田原出奔時の無念を詠んだものになっている。
0219人間七七四年
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2021/12/05(日) 16:49:21.21ID:fzcOOjCi
元亀二年十月、氏康死亡
元亀三年五月、氏真が施主として義元の十三回忌を小田原の早河久翁寺で施行

四十九日からかなり経っても氏真夫妻が小田原に残っているような
0220人間七七四年
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2021/12/06(月) 15:48:26.53ID:cTQQ2Jd/
秦桐若は黒田孝高に従い度々勇名を得、首三十一を取った。播州の近国の者達は、彼の、長さ一間半ある
唐団扇の指物を見知っており、戦場で近づくことがなかった。秦が指物を隠して敵に近づき、俄にそれを出すと
それだけで敵勢は忽ち敗走したという。

天正十年の山崎合戦の折、彼は重い傷を負い、治療して過半癒えたが、未だ十分に回復していなかったことで、
翌年摂州有馬温泉で湯治をした所、不日に平癒した。この時秦は

「この湯に浴しただけでも傷が癒えた、これを飲めばその効能はいよいよ速やかであろう。」

と、三勺飲むと、腹痛暴泄し程なく傷口が再び破裂して忽ち死んだ。

(志士清談)

有馬温泉の湯を飲んだばかりに急死した黒田家の勇士のお話。
0221人間七七四年
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2021/12/06(月) 18:23:16.75ID:DoAv82So
当時は湯も不衛生だったのだろうな
0222人間七七四年
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2021/12/06(月) 18:55:09.70ID:OH6D94Dy
いや、当時の衛生観念とか考えて妥当の判断だとは思うんだけどね?
どうしてもバカにつける薬飲んだって話思い出しちゃうなこれ
0223人間七七四年
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2021/12/07(火) 03:02:12.04ID:iiyy02JR
温泉は湧き続けてたり殺菌効果があれば泉質は保たれるし
山崎合戦の時代なら現代ほど人で賑わう訳でもないだろうから
湯の衛性さには問題は無かったんじゃないか?
この場合むしろ問題だったのは泉質なんじゃないか?
飲める温泉も多いけど含有成分によっては飲んで体調悪化するものもあるだろう
0224人間七七四年
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2021/12/07(火) 18:02:11.24ID:tjDKGJTZ
貞享元年(1684年)に書かれた
福住道祐「吉岡伝」から、吉岡兄弟(直綱・直重)と宮本武蔵の決闘について
宮本武蔵は越前少将忠直の家士にて二刀を弄する良手なり。
忠直、之を師とし日々習熟するに左右を離れず。
忠直君、聚楽第に在る日、武蔵に問う
「吉岡数回の名誉、兵法の骨髄を得たりと謂うべけんや?もし汝と対せばいかん?」
武蔵、言を謹みて曰く
「直饒(たとい)彼の兄弟一時に競い来たるとも不肖の一刀に較ぶべからず。」
忠直君大いに悦び、之を板倉伊賀守勝重に報ずる。
勝重即ち兄弟を召して云う。
「宮本武蔵、汝と勝負を決さんと欲する望みあり。速やかに是非を分かち、宜しく高覧に備えよ」と。
兄弟、敬して其の命を受け、是(ここ)に於いて直綱先に出ず。
両方相互に心力を竭(つ)くし、暫く時剋移りて、武蔵遂に眉間を撃たれる。
血出ること最も甚だしく、直綱後に却(しりぞ)く。
皆「直綱の勝ちなり」と言う。他「相撃(あいう)ちなり」と言う。
直綱怒りて云う。「則ち明白に決さん」と。
武蔵言を直綱に与え「已に決して了う。願う所、直重と宜しく相撃すべし」と。
是に於いて日を定め重ねて之を相待つに、武蔵忽ち迹(あと)を晦まし、之(ゆ)く所を知らず。
是を以て世を挙げて云う。
皆「直重、座して勝ちを得たる」と。

信憑性はおいといて、宮本武蔵が「2人がかりでも勝ちます」と大口を叩いて吉岡兄弟と決闘するも、
兄にはほとんど敗北、弟には逃げて不戦敗したという話。
0225人間七七四年
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2021/12/08(水) 16:23:22.12ID:XBpBchgY
>>214
映画見たら、寺田農演じる北斗七星の加護を受けた信虎が
「我が人生に悔いなし」
「武田は滅びぬ、何度でもよみがえる」
とか北斗の拳っぽいセリフ言ってて少し笑った
0226人間七七四年
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2021/12/08(水) 17:58:49.31ID:XBpBchgY
ついでに映画「信虎」に「とらや」中興の祖・黒川円仲の父親で塙直之の義父の黒川新助が出てきたので
(とらやによれば塙直之の妻、桜井右近太夫義胤女の実父)
とらやと同様に饅頭で有名な塩瀬の饅頭の由来を「渡辺幸庵対話」より、なお
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12889.html
明智光秀と粽(ちまき)の「太閤真顕記」バージョン
でも塩瀬は光秀に饅頭やちまきを提供している。

饅頭屋の塩瀬は元来菊屋というものなり。
(塩瀬総本家によれば応仁の乱後に林家から塩瀬に改めたというが)
昔は饅頭の煉汁は小麦の甘酒にして製せしなり。
ある時、塩瀬が家来、余りの菓子蒸し申し餅米を夜取り違えて甘酒に作りけるを
是非無くそれにて饅頭をしければ色白く風味よくできはやり、これを外にても見習い後には方々にても餅米を甘酒にしける。
その後塩瀬が家来、砂糖に塩を加えてしたてけるに、風味すぐれて塩瀬が饅頭とてはやりいで今に断絶なし。
右、そこつに入ける塩の分量を覚えて毎度加えける。
この塩加減を秘して世に知らせずと語りける。

というわけで家人の失敗が二度重なって白くて風味のある饅頭ができたようだ
一説によれば、関ヶ原でとらやは西軍に、塩瀬は東軍についたため(長篠の戦いでも塩瀬は織田徳川に饅頭を提供したとされる)
塩瀬は江戸にも進出したとか。
0227人間七七四年
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2021/12/08(水) 22:19:23.62ID:XBpBchgY
渡辺幸庵についての説明をし忘れていたが、130歳まで生きた人物で、柳生但馬守宗矩に免許印可を受け、大坂の陣や島原でも活躍し、インドの霊鷲山まで行ったという人物。
武蔵(竹村武蔵)についても話していて、宗矩より格段に強く、武芸はもちろん詩歌茶の湯碁将棋すべて諸芸に達しているが、
一生沐浴せず裸足で外に出ていたのが第一の瑕疵だとか言ってた。

ついでに京都(山城国)の史跡や名産について書かれた
黒川道祐(1623-1691)「雍州府志」の「饅頭」の項目には
塩瀬家は宋に渡り元の順宗の時代に帰ってきて饅頭を始めた林浄因の子孫と通説通りに書かれてた。
同書では虎屋饅頭の祖三官について中華の投化(帰化)人としているが、
黒川道祐の父親が黒川光信で、虎屋代々の当主が黒川光◯で、苗字と通字が一致しているのは偶然かどうか。
あと「吉岡伝」の作者の福住道祐(1625-1689)と、名前と医師兼歴史家という経歴が一致していてややこしい
0229人間七七四年
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2021/12/08(水) 23:24:21.09ID:5Z9jxIQx
氏照(北条氏照)と申すは、氏政(北条氏政)の弟の中でも武勇に優れ、特に大名であった。

上杉(山内上杉氏)の老臣に大石源左衛門定久という人がいた。
この人は木曽左馬頭義仲12代の末葉である。代々武蔵の守護代だったが上杉滅んで後に氏康へ降参し、
後に男子なくして氏康二男の氏照を婿にとり名跡を継がせ、氏照は“由井源三”と称した。

(中略)

ところで、氏照は先年の三増合戦(三増峠の戦い)で打ち負けて逃れ難い時があったが、
この時に山上で飯縄神へ祈念し、10ヶ年の間の女人禁制を立願なされた。

帰還した氏照はその時の祈念を果たそうと、ついに御前の方へ御入りにならず数年が経った。
かの女性はこれを夢にも知らず、氏照は自分を疎んで仇があると恨み、ついに思い沈み早世したのだという。

死後に書き置いた文言を見て氏照は後悔されたが叶わず、氏照もこれを本意なく思いなされて
ついにそれより女人を禁制なさり、その一世はただ出家の行儀と同じであった。

さてまた、大石には因もあるからと本姓になり返り、北条陸奥守氏照と申した。
また瀧山の城(大石氏の居城)は名城ながら瀧には“落ちる”という事があるから
城の名には禁忌だとして八王子に移ったのであるが、天正18年、ついに運尽きて落城した。

――『異本小田原記』

氏照正室というと八王子落城に因んだ悲劇で知られるが、この記事はまったく違う内容を伝えている
もっともこっちも悲劇なんだが
0230人間七七四年
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2021/12/09(木) 21:55:48.94ID:SFzaBOI/
福住道祐「吉岡伝」続き

なかんずく従弟吉岡清次郎重堅、また剣術によく、胆大にして心猛し。江都の軽捷を得る。
慶長十八年癸丑、右僕射秀頼公、東山大仏殿を再興す。
すでにその功畢(おわ)りて六月廿二(にじゅうに)日、禁裏に於いて御祝の能あり。
勅許により、貴となく賤となく緇(黒衣、つまり僧侶)となく素(俗人)となく来観者、堵の如し(見物人が多いたとえ)。
重堅、時において病いまだいえざるに、先にゆきてこれを見る。
かくの如きに臨み、平素所司代役人に只見弥五左衛門なる者あり。これまた一流の兵法者なり。
かつて重堅と隙ありてその便を伺う間、幸いに奉行となり諸人を指揮し、座列の高低を制するに笞(むち)をもって重堅を撃つこと三度なり。
重堅これを瞠(みは)るに只見なり。重堅、密かに門を出て輿中所蔵の刀を取り、また密かに門に入る。
けだし金闕は佩刀を禁ずるなり。重堅、即日羊刻に忽ち身を只見の辺に寄せ、自ら怨みを報ずると称し、即時に只見を頭上から腰下に至るまで裁断すること一刀両断なり。
重堅、従来妙手にしてこれを防ぐ者なし。
ここに於いて奉行役人相集まり、おのおの槍衾を作り突き出す。
重堅、槍の上を飛躍、奔転して一時におちながら槍枝三十本を斬る。
疵(きず)を蒙る者十四五人、死者六七人。その翔ぶや、あたかも龍虎の風雲を鼓舞するがごとし。
防ぐ者四つに囲み、重堅、刀を地上に抛(な)げ、合掌念仏していう。
「我、若さゆえ心に任せ殺害す。唯々として禁裏を怖れたてまつらん。」と。
言おわりて遂に突き伏され、命隕(お)つ。
世を挙げて皆これを感惜す。
0231人間七七四年
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2021/12/09(木) 21:57:54.65ID:SFzaBOI/
事、江府に聞こえ、みな吉岡の一族を滅さんと欲す。
東照神君仁慈の余り、芸術を嘆惜し、令を下して曰く
「這(この)回、吉岡不礼を禁中になすといえども、当人すでに死するの間、刑罰一族に及ぼすべからず。」と。
ここにおいて一族、宥恕を蒙り、死罪に及ばざるといえども、なお一年余跡をくらます。
大神君命じて曰く「今より後はすべからく兵法の指南を停むべし。」と。
明年冬、大神君、秀頼を討たんとす。諸軍をあい率いて大坂城を攻む。
神君すなわち所司代に命じて曰く「速やかに吉岡一類を尋ね出だせ。弟子にも這(この)回大坂城に入るを得べからず、云々。」と。
ここに於いて兄弟を召し、従来出陣の志、甚切なりといえども欽命によりてこれを誓うに状をもってす。
翌年丁卯夏四月、兄弟、三宿越前守長則(御宿政友?)の招に応じ籠城一月余。
軍労多しといえども大坂城陥ち、功を論ずること益なく、京に帰り西洞院に居住す。
ここにおいて明人、李三官に黒色を染む方を伝され、もって家業となす。
眷属を扶助し、永く富家となす。世人これを憲法染、または吉岡染と称す。

前半はこれらと同じ話のようですが、だいぶ盛っているような。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8599.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10093.html
0232人間七七四年
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2021/12/09(木) 22:08:23.60ID:SFzaBOI/
ついでに黒川道祐「雍州府志」の京土産一覧から「吉岡染」について

吉岡染
西洞院四条、吉岡氏の人始めて黒茶色を染む、故に吉岡染と謂う。
倭俗、毎事に法の如くにこれを行うに憲法と称す。
その染家吉岡の祖毎事かくの如し。
故に世に憲法染と称す。この人、剣術を得、吉岡流と称す。而して今に行わるなり。

雍州府志(1682-1686年に執筆)の頃にはまだ吉岡流が残ってたのだろうか
吉岡伝(1684年に執筆)では吉岡兄弟は仏道に帰依し、吉岡家は染物専門のようだが。
0233人間七七四年
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2021/12/12(日) 14:17:03.91ID:IsRXlB3n
越後村上の城主である堀丹後守直寄は、堀監物直政の二男で、幼名を三十郎と言った。彼は豊臣秀吉公の
児小姓であり、後に丹後守と改めた。
直寄は自身の九万石の領地の内、一万石の禄を与えて能勢右近を招いたほどの人材好きであった。

彼の家中に梅田佐五右衛門という武士が有り、大坂の陣でも武功があり、それ以前からも名のある者であった。
彼は勇荘大力であり、口径が三、四寸ばかり(10〜12センチほど)の大丈夫筒(大筒)を持ち上げるほどであった。

ある時、丹後守が制札を出した。これに『小唄・尺八・男色等禁制』とあったのだが、佐五右衛門は
この部分に墨を引いて塗りつぶした。丹後守はこの行為に激怒し、二名の討ち手を遣わして彼を殺させた。
佐五右衛門が城の端に何気なく立っている所に、一人が近寄って短刀で刺した。佐五右衛門は騒がず
この者を捕って引き寄せたが、その時もう一人も彼を刺した。しかし佐五右衛門は両人を左右の脇に挟み、
二十間あまり(約36メートル)の縁を走り出たが、その間に再び突かれて殺された。

彼のこの死に様を聞いた丹後守は、その胆力を惜しんだという。

(志士清談)

自分で殺させておいて惜しむというのも何というか。
0234人間七七四年
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2021/12/12(日) 15:10:40.45ID:6rYzIKm+
やっちゃいけない事する以上仕留めないといけないけど、それはそれとしてこんだけの豪の者を仕留めるのは惜しいってのは矛盾しないと思う
0235人間七七四年
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2021/12/12(日) 15:23:50.95ID:UcxeYvzn
太田道灌を殺った扇谷定正にはこんな気分はあったろうか…。
0236人間七七四年
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2021/12/12(日) 22:20:57.19ID:D27xJOHb
道灌つながりで
万里集九「梅花無尽蔵」から、道灌死後一ヶ月ほど経った文明十八年(1486年)八月の話を
(道灌の死時点は作詩どころではなかったため「梅花無尽蔵」には当時の記載なし)

人、夢に春苑、道灌静勝公を見るあり。
その面壮然として、恰も平素のごとし。
而して唯、扇を求め、略(ほぼ)世故の談に及ぶと。
遂に蓮経を漸書し、便面一枝を副え、公の影堂に寄せんと。
すなわち余、扇面に題していう。
一夢縦途亦有由 風声墓樹漸驚秋
平生白羽慕諸葛 餘習未忘呼扇求

夢の中とはいえ、主家への恨みを気色にも表さない死せる道灌であった。
扇を求めたのが風流のためか、諸葛亮のようにまた軍を率いたいという心かはともかく。
なお万里集九は明応三年(1494年)正月三日に東国での十年間の思い出として、
山は富士山を仰ぎ、人は道灌に会えたことを挙げるほど、
道灌を敬愛していたことで知られている。
0237人間七七四年
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2021/12/12(日) 23:02:07.31ID:D27xJOHb
ついでに永田徳本の医書「梅花無尽蔵」の拾遺を読んだら
「蛇が玉門(女性の隠部)に入った時は枇杷の実を砕き、酒か湯か油で溶かして入れましょう」
とか書かれてた。
130歳まで生きた渡辺幸庵が「女の陰門に蛇が入ったのを3回見たことがある、蛙を突き出したり山椒をかけたりしたら外に出てきた」
とか言ってるのを考えると
118歳まで生きた永田徳本がそういう症例に出くわしてても不思議ではないか
0238人間七七四年
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2021/12/14(火) 14:42:04.75ID:WY1sGR2F
そういえば昔の中国人は辺境の関所に玉門関(マンコの関)とか陽関(チンポの関)とか命名したのは、何考えてたんだろうな。まあなんか思想的背景があるんだろうけどさあ。

李白の詩で「玉関、殊に未だ入らず」というのは、「キツくて入らないよぉ(>_<。)」ということかw
0239人間七七四年
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2021/12/14(火) 19:56:56.04ID:vfCpp4yd
そんな処女が居たのを思い出した。
入れるのに苦労したな・・・
0240人間七七四年
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2021/12/15(水) 16:18:55.11ID:9XAdt7ZK
西垣源五左衛門「浄観筆記」から豊国大明神祭礼「風流踊り」の怪異

慶長九年(1604年)八月十五日、京都全体総出で太閤秀吉の七回忌の豊国大明神臨時祭礼(八月十二日から十八日)が行われた。
踊りには上京、下京の町組から一組約百人の集団がくりだし、組を表す大団扇を掲げ、それぞれ贅を凝らした衣装で着飾り、
豊国神社の社頭で踊り狂った後、禁裏へとくり込んだ。また桟敷も町のあちこちに設けられた。
午の刻、群衆はいずくからともなく現れた風流踊りの一団を見て思わず粛然となった。
一団の女たちは辻ヶ花(桃山時代に流行し姿を消した絞り染め、幻の染めと呼ばれる)や縫い絞り小袖をまとい、男たちは上布でつくった小紋帷子を着ていたが
踊りには鳴り物がつかず、みな死人のように蒼ざめた顔をしていた。
かれらは群衆に見守られながら、豊国神社の大石垣の中に、静かに消えていった。
「人々消えしあと、群衆口々にあれは(秀次)関白御家の人と騒げり。
みな消えし大石のほとりに、女人被衣(かつぎ)とせし金襴落ちたり。
この被衣のちに洛中の名刹に蔵され、名物裂となれり。」


「浄観筆記」について
時代小説家、澤田ふじ子氏の「染織草紙」によれば(この話も同書の孫引き)、
江戸中期の宝暦年間に近江小室藩、京都屋敷の用人を勤めた西垣源五左衛門(法名を浄観)による、京都の市井の話を書き留めたもので、
近江小室藩が藩祖・小堀遠州の遺風を受けてか風流な人物を輩出したためか、源五左衛門の記す内容も芸事に関することが多いのだとか。
なお資料としては未紹介であるらしく(少なくとも1984年時点では)、「浄観筆記」で検索してもほとんどが澤田ふじこ氏関連でしか出ず、どこに所蔵されてるかはわからなかった。
0241人間七七四年
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2021/12/15(水) 16:36:12.45ID:9XAdt7ZK
訂正
豊国大明神臨時祭礼(八月十二日から八月十八日)のメインイベントである風流踊りが行われた。
0242人間七七四年
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2021/12/15(水) 21:23:09.42ID:vX+zcGAJ
慶長十九年(1614)十一月二十日、大阪冬の陣の最中、
この日大御所(徳川家康)は本多上野介正純を召され、大阪城中の織田有楽・並びに大野修理(治長)方は
内状を遣わすよう仰せ付けられた。

これは先月より大野壱岐守氏治(治純)を以て、御和談の事を仰せ入れられていたのだが、重ねて秀頼公が
合点あるようにとの上意によって、後藤庄三郎を城中に遣わしたものの、大阪方では御承引の御請が
無かったため、このようにされたのである。
この時後藤庄三郎には御褒美として、銀子三十枚を給わった。

然るにその後、大阪方の落人を搦め捕ったが、かの者を尋問したところ大野修理亮の足軽であると申す故、
これを大野壱岐守に引き合わせたところ、壱岐守曰く「旧好の者にて、名は与助と申します。」との内容を
言上した。そのため速やかに縄を許し、壱岐守に預け於いて、城中の御使にこの者を仰せ付けたという。

(中略)

或る記に、二十三日、この日大野壱岐守に仰せ付けられ、先だって捕えた与助を御使の者とされた。
その御使によって、『兎角書状にては埒が明かない。口上にて申し入れたい事があるので、織田有楽、
大野修理方より慥かな者を一人づつ差し越してほしい。』との本多上野介(正純)の考えを伝えたところ、
織田有楽より村田吉蔵、大野修理亮より米村権右衛門という者を差し越した。

本多上野介は彼等に立ち向かい、御和談についての事を口上にて申し渡した。その上で、今度の戦に際し、
秀頼公より諸大名に給わった御廻文と、それとともに織田有楽や大野修理などによって遣わされた
御請の留書を集め、かの両使に渡して言った

「何れの諸大名も、斯くの如く(豊臣家からの文書をそのまま幕府へ提出)致している以上、
秀頼公への忠節をいたす衆など一人も無い。諸大名の別心などを頼みに思召しても、詮無き事である。
この廻文をそちらでご覧になれるよう進呈する。」

と、残らず大阪城中へ遣わしたという。

(新東鑑)

大阪冬の陣で、秀頼が自分に味方するよう諸大名に送った廻文が、まとめて幕府から返されたというお話。
0243人間七七四年
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2021/12/17(金) 21:34:40.99ID:7+jAGShj
忠臣蔵で有名な兵法学者・山鹿素行「武家事紀」から
尾藤知宣、戸田勝隆について

尾藤左衛門佐
初名十二兵衛、尾藤源内(森可成家人、坂本の戦いで討死)の子。
尾州人、秀吉の旧臣たり(神子田、宮田、戸田、尾藤、人皆これを並べ称す)。
もっとも軍事に通ず。秀吉に従いて戦功度々。
越中佐々征伐の時、尾藤軍奉行をつとむ。
加賀越中の境、砺波山の道筋は砦多きゆえ、砺波山・羽生の宮の北の方のソワ道(険阻な道)をおのおの越ゆ。
この時、馬の履は皆はねすて、両方へ差し縄をつけ、馬取り両方へ引っ張り、馬の手綱をむすび前輪にかけ、馬の足をそろえ、これを滑らすべきよし下知し、
いずれもその通りにいたし、人馬あやまちなし。人もってこれを賞す。
同国外山(成政の居城)乱入の時、大河多く馬を泳がしむ。
この時、尾藤が下知によって人馬さらに水に溺れず。
(ぬかるみをはずし、馬の頸を川上の方へあげ、後輪にのりかかり、川下のあぶみを強く踏みて声をかくるなり)
はじめ秀吉・信雄不快の時、尾藤大垣城に至りて池田・稲葉らの諸将と軍事を議す。のち西国平均して讃岐国を賜わる。

島津征伐の時、大納言秀長に属し豊後路より日向にいたる。
この時、島津、高城より兵を出し、宮部善浄房(啓潤)が陣営に夜戦をなす。
秀長の陣営ら、これを援けんと議す。尾藤しいてこれを留めて、後巻(うしろづめ)延引す。
のちに秀吉この事を糾明あって、尾藤ついに闕国せらる。
天正十八年七月、小田原滅亡の後、秀吉自ら奥州にいたりたまう。
尾藤野州那須野に出でて謁す。
秀吉すなわち刑戮せしめたまう
(あるいはいう。秀吉駕籠をとどめして、乗馬を二、三遍のらせたまいて見物。その後、尾藤の刑戮を命ぜらる、うんぬん)。
0244人間七七四年
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2021/12/17(金) 21:40:10.22ID:7+jAGShj
戸田民部少輔
初名三郎四郎、尾藤とともに秀吉の旧臣、もっとも度々の戦功あり。
四国平均の後、伊予国を賜わる。
その子、自らの刀にて、あやまちいたし死す。
折節、民部少輔、放鷹の出先にて聞き、
「己が刀にてあやまち死するほどの気質にては、役に立つべき器にあらず。見るに及ばず」と言いて、ただちに放鷹す。
その後、子なく、朝鮮征伐の中で民部病死す。
0245人間七七四年
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2021/12/18(土) 20:39:09.35ID:ANtCCoBN
山鹿素行「武家事紀」から神子田正治、宮田光次について

神子田半左衛門尉
肥前守が子なり。秀吉凡賤の時より勤仕して、度々軍功をあらわし、宮田・尾藤・戸田と四人の列、もっとも神子田を第一とす。
秀吉中国退治のために播州を賜わる。この時四人五千石を与えたまう。(四士、長浜に於いておのおの二百五十貫、黄母衣士なり)
この時、おのおの会談して
「大国を領せらるる上は、いずれにもまたそれぞれの城地、または分内広所を賜わりてこそ、年来の勇労をも慰むべきに、
わずか馬の飼料に五千石を得ることもっとも不快なり。これよりおのおの逃亡すべき」
と相催しけるに、神子田いいけるは
「いずれもが分別大いに違えり。中国征伐として、大国拝領にいずれもさせる益なしと、秀吉の志あるゆえにこの小知を賜わる。
それにあっては五千石は過分なり。いそぎ長浜より引っ越して以前のごとくいよいよ忠戦を抜くべし」
と諷諫して長浜を仔細なく引っ越すや、三木城攻めにおのおの相ともに力戦す。
三年の城攻めにつき、城をかまえ持ち口を定め、度々城兵と相戦い、賤ヶ岳の役に、神子田一方の将として相備う。
長久手の役ののち、五月朔日、秀吉師を濃州にかえしたまう。
小牧より付くべきの間、しんがりは二重堀の諸将これを勤むべしと命ぜられ、秀吉みずから青塚に馬を立ちたまい、黒田孝高(如水)、明石与四郎(左近)が兵を傍にそなえしめたまう。
二重堀の諸将、一番神子田半左衛門、二番日根野兄弟、三番木村常陸介・加藤作内、四番長谷川秀一、五番細川忠興なり。
小牧より北畠信雄、兵を出してしたがうべきとありしを、源君(家康)これをとどめたまう。
しかれども信雄の勢二十余人かけだして付きしたがう。
神子田・木村・日根野が兵、見崩(戦う前に崩れること)いたし敗北。細川忠興が兵士しんがりして、信雄が勢と相戦いて追い散らし引き取る。
この時、秀吉じかに青塚にいたまいて見物なり。
「去月長久手において三将討ち死に、今日細川忠興が働きによって長久手の色直しなり」とのたまい、
すなわち細川が兵士に感状ならびに熨斗付きの刀などを賜わる。
今日、神子田一番に敗軍いたし、敵も付かずに見崩、諸手之によりて騒動せしむ。その罪のがれがたしとあって、その夜改易せらる。
のち神子田、豊後に漂泊す。秀吉ついに殺害せしめたまうて、その頭を一条戻橋に獄門にかけ、自らその罪科を札に記さしめ立ちたまえりとなり。
(あるいは云う、神子田はじめ長久手において首級を得て帰る。秀吉大いに感じ、これを賞す。
神子田、その首を棄てて云う「予のごときは自らその首を得るに、公なんぞ叱らざるや。匹夫の功、あに賞するに足らんや」と。
二重堀退去の時、公、青塚に在りてこれを見る。近臣に示す。
「この神子田、抜群の勇戦あるべし。汝らこれを視るべし」と。
しかるに神子田、大いに敗る。公、もっともこれを羞(は)じてにくむ。
すなわち彼を呼びてその罪を糺(ただ)すに、神子田云う。
「我兵士を率いざる。故に敵を防ぐの士なし」と。
公、大いにこれを怒りて「汝、我に仕えしはじめ幾人を携えて来たるや?」と。
ついにこれを改易す、うんぬん)
0246人間七七四年
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2021/12/18(土) 20:47:31.63ID:ANtCCoBN
宮田喜八郎
幼若より秀吉につかゆ。武勇絶倫、秀吉母衣の勇士一員たり。
秀吉長浜を領られしより、播州に移りたまう時に至るまで宮田・尾藤・神子田・戸田をこゆる勇功の士あらず。
三木城攻めに天正六年五月、宮田戦死。秀吉もっとも嘆惜す。

尾藤、神子田に比して戸田、宮田は記載に乏しい。

神子田については過去に五千石と秀吉への口答えの話も両方出ていたが、

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1832.html
神子田半左衛門と五千石の加増・悪い話

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3315.html
神子田さんが改易された話逆バージョン

五千石についてはここでは秀吉に大望があるため城地を与えなかった、と以前の話とは違った解釈だった。
それにしても、尾藤知宣、戸田勝隆、神子田正治、宮田光次を合わせて羽柴四天王と呼ぶらしいが、誰がはじめに言い出したんだろう
0247人間七七四年
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2021/12/20(月) 15:28:15.13ID:B2NNC59W
奥州会津の城主・松平(本姓蒲生)下野守忠郷の家人に、岡半兵衛重政という者があった。
彼は忠郷の母儀(正清院・家康公御娘)に対して度々違背する事があった。母儀はこの事を
内々大御所(家康)へ訴えたため、岡半兵衛の禄を放つべき御諚の旨、老臣より奉書を投じた。
岡半兵衛は大阪御陣の後、様々に弁じたが終に御赦免無く、駿府に於いて自害した)
そして岡半兵衛に同心していた池信濃以下数人が浪人した。

岡半兵衛の居城であった奥州津村の城には蒲生五郎兵衛を移し、また蒲生源左衛門尉郷成を呼び返し、
三春の城に差し置くべき旨仰せ出されるに依って、源左衛門尉を召し寄されたのだが、彼はその路中にて
病死した。このため郷成の嫡子である源三郎郷喜を、源左衛門と改名して三万石、二男・源兵衛郷舎に
一万五千石を賜って、この兄弟を返した。
蒲生家執権の事は、町野長門守、玉井数馬の両人が相勤めるべき旨、御下知あった。

また下野守の使者として北安達内匠という者が大御所に申し上げた所によると、
「蒲生主計は年来武勇に達し、その上無欲にして、家中及び百姓等を撫育してきた為、家も貧しかった所に、
今度両御所(家康・秀忠)が大阪へ御発行(大阪冬の陣)に付き、下野守の人数も差し向けられるという
風聞があります。これについて、蒲生主計は訴えました、

『家貧しうして兵を動かし難し、願わくば黄金拝借仕り、忠郷様の名代として大阪へ馳せ向い、
討ち死にを遂げたいのです。』

そのように望んだのですが、下野守・中務大輔(忠知)兄弟共に幼少であり、殊更この主計は、先に
御改易を仰せ付けられた岡半兵衛の一族であります故に、その訴訟を取り次ぐ者も有りませんでした。
そこで主計はこれを恨み憤り、忽ち自害してしまいました。
この趣は先達て江戸の御留守である(松平)忠輝朝臣まで申し上げましたが、今又、直に言上仕ります。」

これを聞いた大御所は
「主計は武功有る者であった。彼のような者については、善悪に依らず訴訟の事が有れば取り上げるべきなのに
打ち捨てて置く事、蒲生家の老臣たちの怠慢甚だしい。主計の卒爾の自害、不憫の至である。
凡そ家中の困窮は、その将の過ちである。然しながら忠郷は未だ幼少である。よってこれらは臣下の罪である。」

そのように仰せに成りご立腹されたことで、安達内匠は戸惑いながら帰国した。

(新東鑑)

大阪冬の陣の頃も、氏郷死去以来の蒲生騒動が未だ治まっておらず家中が混乱したままだった蒲生家についてのお話
しかし本当に蒲生だらけですね。
0248人間七七四年
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2021/12/20(月) 16:04:04.81ID:g3dHoHz9
名字を活躍した家臣に配る、やってもらった側は感無量だけど後から見る人間からは誰が誰やら
0249人間七七四年
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2021/12/20(月) 16:10:51.18ID:fHEcECu2
読み方を変えよう
がもう、かもう、がまお
0251人間七七四年
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2021/12/20(月) 19:02:54.51ID:FmAYMNPX
夜悪いことするとがおーさんが来る、みたいな伝承が滋賀だかで残ってたっけ?
0252人間七七四年
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2021/12/21(火) 02:04:50.43ID:8asVSz2+
ナボナはお菓子のホームラン王です
0253人間七七四年
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2021/12/21(火) 16:29:18.69ID:+zNGuFRY
「沈惟敬、秀吉に毒を盛る」陰徳太平記バージョン
(この前のまとめ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13304.html
のコメント欄で沈惟敬が毒を持った話が陰徳太平記にも出てるとあったので)

そもそも太閤公、御不例の御病因を聞くに、去々年九月遊撃将軍・沈惟敬来朝して太閤に謁たてまつりける時、かれ懐中より丸薬取り出して服用す。
太閤公「それは何の薬や」と尋ねさせたまえば、「これは老人の若返る良薬にて候」と申す。
太閤公「老いて二度若くなる薬は日本にかえても求めまほしきものを、われに得させよ」とのべければ、すなわち奉りけり。
その座に輝元卿、利家卿、善乗坊(善祥坊、宮部継潤)など伺候したまいけるに、太閤公この人々にも賜りけれど、
利家卿、輝元卿は「かかる薬、いにしえよりありということを聞かず、怪し」と思い、服するようにて頓に懐中したまう。
善乗房は即呑まれけるゆえ、これも太閤公と同じ年に死去せられぬ。
遊撃将軍「秀吉公長生したまわばついには大明一統に征伐せらるべし。しからばわれ一身を捨て大明国中の人を救わば大忠なるべき」と思惟して
かく鴆毒を良薬と偽りてわが身も服し太閤公にも奉りけると聞こえしが。
かれが謀の中に陥されて、はかなく成りせたまゆこそくやしけれ。
たとい、いにしえよりかかる薬ありとも、讐敵といい、異朝の者といい、彼が奉りし薬を何の思案なく服用したまうべきや。
いわんや古往今来不老不死の薬の名のみありて実はそらごとなりということをば三歳の児も知るところなり。
秦皇の蓬莱を尋ね、漢武の仙掌の露を嘗めしは愚かなる例にはいわざるや。
かくまで浅智にございましては扶桑のみならず、朝鮮大明にいたって和を乞い、腰を折りての大謀争が寸心より出生せん。
これただ宿世の業因の果報する所のみ。
0254人間七七四年
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2021/12/23(木) 14:41:39.94ID:dDjxcVds
別記に、上杉家家臣の杉原常陸介(水原親憲)は武功の者であった。

上杉景勝卿がある年、江戸より米沢へ帰城された時、常陸介を始めその他大身の輩が皆迎えに出た。
景勝卿はそれぞれに詞をかけ、常陸介の居た所を二、三十間過ぎた時、常陸介が忽ちに頓死した。
(意識不明になったということだろう)
人々は薬を与えて呼び返したがその甲斐もなく。景勝卿も早く帰って保養するよう下知したのだが、
遂に死んだ。

この知らせに景勝卿は涙を流し
「前夜の夢の中に、不識院殿(上杉謙信)が枕にお立ちに成り、『杉原常陸介を此の方に給われ。』と
宣われた。夢覚めて近習の者達に此の事を語り聞かせ、常陸が死すべき兆を夢に見たと言ったのだが、
その如く只今相果ててしまった。」
と、甚だ惜しまれたという。

(新東鑑)
0255人間七七四年
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2021/12/25(土) 10:42:29.69ID:VAMcHqsE
或る本に曰く、大阪冬の陣、今福の戦いにおいて佐竹義宣の軍が難儀に及んだ時、後陣に控えていた
堀尾山城守(忠晴)に援兵を要請した所、堀尾は「心得候」と返答した。
この時、幕府の御目付である安藤治右衛門がこの場に在り、堀尾に「(幕府の)御下知も伺わずに
人数を出す事、然るべからず。」と申し上げこれを制した。しかし山城守は

「御下知が無いからと言って、目前に味方を討たせ、見物する法があるものか!」

と、その勢二千計りを左右にして、勝ち誇っている木村重成の軍勢の所へ、会釈も無く駆け入ろうとした。
ところがその場は堀越にあり、駆け合う事は出来ず、彼等は徒に合戦を見物するのみであった。

堀尾はこの年十六歳にて、天下無双の美男であったと云われる。

(新東鑑)

堀尾忠晴、見物なんて出来ない!と言って出撃したのに結局見物してしまったというお話
0256人間七七四年
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2021/12/25(土) 14:26:31.47ID:HufBNS07
この後のイケメンが気まずそうにしてる顔が見たい
0257人間七七四年
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2021/12/25(土) 16:01:28.99ID:DGVEwEQj
木村重成「天下無双の美男とは私のことではないのか」
0258人間七七四年
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2021/12/25(土) 23:13:53.37ID:fzoKlB+k
「大友記」より「義鑑公(宗麟)御舎弟八郎殿、大内家を継ぎたまうこと」
百済国の王子林処(琳聖)王太子より二十八代の後胤、周防豊大内義隆公、安芸の毛利陸奥守元就と戦いたまうこと類度におよばれども、
大内殿大身にましませば御馬を出さるることなく、冷泉院などという侍大将に人数少々相添えあしらわせたまう。
元就公は仕出の侍、弓矢をとりて、かく器用なれば心がけ深くして大内殿の国おおかた元就が手に入り、
大軍をもって義隆居城周防山口へよせければ、義隆一戦にも及ばず深川大寧寺にいらせたまう。
元就つづいて追いかくれば、力なく天文二十年辛亥九月朔日に義隆公、父子ともに御腹召さる。
既に大内家退転しければ大内殿家老陶尾張守晴基(陶晴賢)、
「義鎮公御舎弟八郎御曹司を申しうけ奉り義隆公御跡目に仕りすべまいらせたき」よし、田原近江守を頼りにせんと申し上げる。
右の旨言上しければ、義鎮公仰せら候は
「尾張あるじの義隆をうたせ、元就という敵と合戦ならず、居城山口をさえ敵にとられ籠るべき一城もなく、義隆跡に仕えすべしと申すも無分別なり。
義隆跡に八郎まいりたりと元就聞きそろわば、時日をうつさず大軍をもって押し寄すべし。
その時尾張一身の才覚にて元就に手向かいなるまじく候。
たとい一戦に及ぶといえども、しばしもこらうべきようなければ追い崩れならん事うたがいなし」よし、何事も聞き入れるべかるずとある気配にそうらえども
八郎殿おことわりありて「義隆あとのき、元就手指国にてそうらえば、元就におそれ自ら退き仕り候と、諸人のあざけりも口惜しき次第にて御座候。
元就と一戦を遂げ討死仕り候事ならば子の上の面目にて候」とて義隆跡目に御約束なり。
尾張守よろこび安芸国厳島に城郭を構え、八郎殿を大内義長と号し厳島へいれまいらす。
元就はやりたる大将なれば、やがて押し寄せ一日一夜攻めし戦い、尾張守打ち負け周防豊国長府谷長福寺へ引き退き、
毛利つづいて追いかくれば尾張守討死いたす。義長公力なく御腹召さる。
それより中国八カ国、毛利成敗とぞなりにけり。

毛利元就が大内義隆を討った逆臣で、陶晴賢が大内家再興に努力した忠臣みたいな
0259人間七七四年
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2021/12/27(月) 13:13:00.33ID:QCMvxcki
大阪冬の陣、今福の戦いでのこと

戦場から川向うに陣していた上杉景勝勢の直江山城守(兼続)は、豊臣勢の中に、部隊を下知している
後藤又兵衛を見つけた

「茜の母衣張で、馬印に黒半月を差して下知しているのは大将分と見えたり!あれを討て!」

そう申すと、若き者共が差し詰めて鉄砲を撃ち掛けた。これに後藤又兵衛の物具にも、弾丸が五、六発
当たり、その中の弾の一つが後藤の左の腕脇を打ちかすった。しかし彼は少しも騒がず、疵を確認して

「我が君の御運は強し!」

と申した。
この言葉を諸軍勢聞いて、「大阪には後藤より他に人無しとする言い分である。」と、これを嘲る者達も
多かったという。

(新東鑑)
0260人間七七四年
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2022/01/04(火) 03:12:50.87ID:AEphEda+
(天正9年、笠原政晴の謀反の時)

小田原の老臣である松田尾張守(憲秀)の子息・松田新六郎はその頃は笠原の養子で
笠原新六郎(政晴。政尭の名で知られる)と申し、600騎の大将であったが去年より戸倉の城に在城した。

その頃の駿河国は甲州の領地なので、伊豆の堺目沼津の城に勝頼衆の高坂源五郎(春日昌元か)が200余騎で籠もった。
笠原新六郎も手勢180余騎で戸倉に在城し、互いに近所なので苅田をさせ、夜駆けの足軽競り合いが度々あった。

この新六郎は若輩の頃より武勇の道は無器用にして、欲深きことは並びなき人であった。
そのため高名もなくして官禄を望み、功なくして忠賞を願い、折にふれて不忠ばかり多いため、
小田原でも氏政と氏直(北条氏政・氏直)はさほど御馳走なく、新六郎は内々不足に思い、
「時機が良ければ謀反も起こすというのに」と躊躇っていた。

そんなところに沼津の城主・高坂源五郎は、三島の心経寺という僧をもって勝頼の御意だとして
色々新六郎を謀り、「伊豆一国の守護になされ新六郎を勝頼の婿になさるので、こちらへ降参して忠功なされてしかるべし」
と語らった。笠原は元来大欲深き男で、そのうえ内々小田原に不足もあり時機良しと存じて甲州方になって勝頼へ内通し、
甲州勢・海野組の衆200余騎にて戸倉の城へ籠もった。

(中略。政晴は北条方を攻めて笠原照重を討ち、玉縄の北条氏勝が政晴討伐に出陣)

同3月中旬、戸倉・大平の間の手白山という所まで出張ると戸倉城から出家1人がやって来て
左衛門太夫(北条氏勝)の前に畏まって申すには、

「私は笠原新六郎の使いでございます。今日の御出勢には罷り向かって一矢仕るべきですが、
主人の勝頼は図らずも信長のために自害して滅びなさったと只今告げ来たりました。それでは戦も無益であります。
ただ城を渡しましょう。御勢を向けられてしかるべし」

これを聞き左衛門太夫は「もっともだ。しかしその是非は小田原へ申してこそである」と飛脚でこれを小田原へ申し上げた。
氏政は聞こし召し、評定なされて御出馬あり。笠原新六郎不忠の逆儀は申すに及ばざる次第ながら、父尾張守の度々の忠功に
思し召し替えられて命を御許しになった。そして新六郎は出家入道して罷り出るように、また城を受け取り、
甲州勢をなんとかして討ち取ってしかるべしとの御下知であった。

左衛門太夫は承り、新六郎に出家させ城を受け取らせるようにと申し、甲州からの加勢衆にも早々に城を開けて退きなされ
との使者を遣わした。甲州勢は「是非ともこの城を枕に仕るべし!とても帰るわけにはいかない!」と申した。
左衛門太夫は重ねて申し「沼津の城も五三日以前に開けて皆々退きなされた。各々も何が苦しかろう、ただ御退きしかるべし」

すると甲州勢は「では笠原新六郎殿を人質に賜りたい。それならば退去しよう」と言う。ならば人質を参らせようと、
新六郎の名代として御宿又太郎という笠原が身を離さぬ小姓で、まことに容顔比類なき児で16歳の者を、
“またらかけ”という名馬に乗せて、「何事かあれば乗り抜けよ」と密かに申し聞かせて人質に出した。

しかしながら甲州方でも心得ており、その馬には乗せずに小荷駄に乗せて、ことさら中に取り囲んだ。
2,3町も過ぎると前後から敵が取り巻く様子となって人質をも討ち果たし、甲州衆200余人は一所に皆討たれたのである。

――『異本小田原記』

笠原新六郎は後に小田原征伐で父・松田憲秀とともに豊臣方に内通しようとして北条方に殺害される
黒田官兵衛の聞き間違いのふりで処刑された逸話でも有名かな
0261人間七七四年
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2022/01/05(水) 16:03:04.54ID:NKvNGPde
記に、豊臣秀頼の家臣である渡辺内蔵助(糺)は器量世に勝れ、力人に越えていたため、
今日の合戦(大阪冬の陣・鴫野の戦い)にも棟梁の臣と選ばれた。

彼は兵法の達人であり、人を人とも思わず、日頃から広言を吐いており、今日の合戦にも
真っ先に進んだのであるが、幕府方の堀尾山城守(忠晴)らの軍兵がこれに直に懸かって、
前後に当たり左右に激しける勇力に払われて、足を立てることも出来ず追い立てられた。

持たせておいた馬印も一番に逃げ入ったため、人々は皆、渡辺を悪しきと思ったのであろう、
一首の狂歌が書かれ、内蔵助の屋敷の門の前に押し立てられた

『渡辺が 憂名を流す鴫野川 敵に逢うては目も内蔵助』

敵も味方も、これを聞き伝えて物笑いになったという。

(新東鑑)
0262人間七七四年
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2022/01/05(水) 16:43:35.31ID:FGjiJTPV
新東鑑の凡例を読むと「記とあるは、難波戦記をいふ。」
と書かれていて
実際「増補難波戦記」にも
渡辺内蔵助糺は器量世に勝(すぐ)れ力人に卓絶たれば今日の合戦にも〜」
とほぼ同じ内容の記事があるな
0263人間七七四年
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2022/01/05(水) 17:27:01.25ID:/YWcSCEU
器量がいいのに人を人とも思わない態度を取ってるのか
0264人間七七四年
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2022/01/06(木) 18:19:38.97ID:7ZpPPo9o
「博多細伝実録」より僧高要の祟り

忠之の短慮についてであるが、天台宗の僧・高要という者が太宰府の近くの寺の別当をしていた。
この出家は破戒僧であり、十六才の寺衆の美婦を小児姓といつわって仕えさせていた。
ついに目付けにばれ、本来ならば遠島を申しつけられるところを、
忠之により、法外不仁であるということで生きながら骨を割られ殺された。
忠之は城より二里半ばかりの崇福寺に、毎月祖父如水の忌日に寺参りをしていたが
暁方に馬で向かったところ、高要法師が忽然として煙の人形のごとく馬の前に現れ白眼をむいた。
忠之が「坊主めが、推参なり」と言うや煙の如く消失した。
高要の死から一年もしないうちに、高要の破戒を見出した目付けはもちろん、その時とらえた場に居合わせた者十三人が一人も残らず死んでしまった。
そこで福岡の大工町に一社が建立されたが、色道の罪で殺されたため、誰ともなく縁切りの願いを叶えてくれる、ということになった。
0265人間七七四年
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2022/01/08(土) 19:30:00.65ID:rglBk/zP
「大友興廃記」より角隈石宗の諫言
天正六年、伊東家に頼られた大友宗麟が自ら出馬し日州高城を攻めることにした。
これに対して軍配者の角隈石宗は数条の諫言をした。
・当年は(宗麟の)四十九の厄年のため出陣は見合わせた方がいいでしょう。
・昨年より箒星(弾正星で有名なやつ)が西に尾を靡かせました。
戦場の方角に箒の柄ですので人を打つことにつながります。これまた不吉です。
などなど
しかし、一休以来と言われる如露法師により禅宗に傾倒していた大友宗麟は
「彗星が物の怪であるならば、本朝以外の唐天竺においても物の怪のはずである。
小国の日本の九か国に過ぎないこの宗麟の弓箭を告げることがあろうか」
と石宗の諫言を無視した。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2279.html
でも出てるけど出典と宗麟の返答までは書いてなかったので。
0266人間七七四年
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2022/01/09(日) 13:01:40.96ID:/2Qi0JCl
大友興廃記から日州へ御出陣を仰出る事
天正六年戊寅(1578)年九月下旬に宗麟公、老中の田原紹忍、田北鎮周、朽網宗歴、吉岡讃州、志賀道輝ならびに軍配者(角隈)石宗を召して
「当家の勇力、九州を退治し、日州表も塩見、日知也、門河、この三城にて山毛田代の武士も従わすといえども大隅・薩摩いまだ残る。
この両国を退治して九州の主とならん。みずから出馬し、まず日州高城をせむべし。
佐伯惟教入道宗天、田北相模守鎮周に先陣を仰せつく」
老中おのおの申さるるは「伊東わずかの勢と義久の勢と数年の戦いに、伊東の勢、一度のおくれにより没落することは時の仕合、運によるもの、と人びとをして見る」
その時軍配者石宗申し上げる
「薩州義久は国中の成敗正しく信義をもち天の加護をうけ五常の道を乱さぬ古来名将なり。
日州、肥後、球磨も従う上は当年は御出馬をせず治められるべし。
当年は殊に四十九の厄により弓箭は不吉なり。
明年は合戦するに座して勝利をえん」と申し上ぐるも、(宗麟)御座を立たせけり。
老中、一所に会合し、朽網宗歴いうは
「先年、当国に関東より医師下向ありて居住するを見れば何かにつけて気高きさまにみてけるが、後漢の末なり。定めて異国人なり」
石宗いわく「後漢末、霊帝丹波国矢田郡に住して丹波氏といわれけり。
六代ののち坂上の姓を賜り代々典薬となれり。
中国大内家も異国より来朝す。原田、秋月、長宗我部なども漢の高祖の末なり。
(東漢氏や秦氏だが、高祖の名前を出してるのは原田が高祖山城の城主だから?)
薩州の家は雨中の徒然に聞きしが、薩摩も、比企の藤四郎の娘は頼朝公の局なり。
(このあとこの丹後局が頼朝の御子を懐妊したため御簾中(北条政子)によって筑紫に流されたところ途中の摂津住吉で野宿中に出産、
狐が集まり加護をしてくれたため島津は今も野狐を吉例としている、
そのあと鎌倉への帰還が許され八文字民部大輔(島津忠久の祖父の惟宗忠康の気がするが)の御局となり
子供は畠山重忠の婿として奥州へ下向し秀衡一門を退治し大隅・薩摩を獲得し島津又三郎忠久を号する。
比企の乱で重忠が母の比企氏側につかなかったため離縁?といった話が続く)
当家大友能直公(大友初代)御母、刀祢の局もまた頼朝公の局にて、能直公は頼朝公の御子なり。
御先祖は連枝により今年の御弓箭はやむべし」

こうして>>265の諫言の話になる
0267人間七七四年
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2022/01/09(日) 17:47:45.92ID:lggOd2q5
或る記に、大阪冬の陣、博労淵の戦いで薄田隼人正(兼相)は博労淵を乗っ取られたことに対し、
その憤慨甚だしく、殊に大阪城中の列将が大いに嘲った事で、彼は毛利豊前守(勝永)に向かって言った

「今夜、蜂須賀安房守の陣を打ち破る。そのため足下に後陣を頼みたい。」

これに豊前守曰く
「私は新参の士であり、その勢も三百ばかりですから、先陣するのが当然です。御辺は多勢にして
本座の士であり、これは後軍を成す所以であります。にもかかわらず私がどうして後陣に
あらねばならないのか。」

と、承引しなかった事で、薄田の血気の勇も衰え、其の事を黙止したという。

(新東鑑)

薄田隼人正のかっこ悪いお話
0268人間七七四年
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2022/01/09(日) 21:23:09.42ID:iEdIKZ+J
>>266
石宗「大友も島津も初代は頼朝の御落胤で兄弟だから仲良くしましょう」

頼朝の血を引いてるならむしろ殺し合うのが普通では
0269人間七七四年
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2022/01/10(月) 01:02:57.34ID:ll8UQZEV
>>264
の僧高要の話についてまとめサイトのコメント欄で質問があったので調べたら異説があった。
「博多細伝実録」には「霊を福岡大工町浄念寺の間に社を建立の者為て高要権現と称し」
と書かれていたが、福岡市中央区大手門2丁目(かつての大工町)に存在する浄念寺について福岡市中央区のHPで見たところ、
境内には空誉上人を祀る空誉堂があり、後藤又兵衛の身代わりになって黒田忠之に処刑された、としていた(長政ではなく)
また、中央区の「今泉天神通りの3か寺」のページだと、
安養院の寺小姓を気に入った忠之が差し出させようとしたところ
住職の空誉上人が断ったため釜茹でにしたとしていた。
実際「博多細伝実録」だと「骨を刻、体?を鋳(に)こみ」と書かれているようなので名前も近いし高要=空誉と思われる。

ところでまとめサイトだと>>266の話をとばして>>267の話だけをまとめてるような
0270人間七七四年
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2022/01/10(月) 21:59:52.63ID:UGpWE7JG
或る記に、小栗又市(忠政)は、初め庄治郎と称したが、いつも一番首一番高名を遂げたことで、
大御所(徳川家康)の命によって又市と改めた。

去る関ケ原合戦に、米津清右衛門清勝が敵の首を得て小栗に見せた所、彼はそれを見て
「我も高名せん!」と、罵りながら馬を馳せ、島津の後殿に辞をかけ、馬上より突き落とし
首を得て帰るとそれを米津に見せ、たちまちその首を捨てた。これはその時の手柄が、名に
応じなかった故だという。

また曰く、この時(松平)薩摩守忠吉朝臣も敵の首を取られ、家康公の御前に出られると、
家康公を始め諸大名これを称賛したが、この時小栗又市は

「敵が弱く逃げ廻っているのを、家臣に足手を持たせて首を取らせ参られたのを褒められては、
いつでも敵は弱いものだと思し召されて、いざという時怪我あるべし。」

と申したことで、忠吉朝臣も立腹されたという。このような人物だったが故に、高禄にはなれなかったと
云われる。

(新東鑑)
0271人間七七四年
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2022/01/11(火) 01:02:57.11ID:AD0C/h+Y
小栗一族って骨ありすぎて報われないのかな
0273人間七七四年
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2022/01/12(水) 19:27:57.50ID:4OnqiQbH
高要もしくは空誉上人の異説
「寛永箱崎文庫」より紅陽法印のこと

安養寺別当の紅陽法印は実は岐井谷安芸守友房(城井朝房?)の次男であり大友宗麟にとっては孫であったが、
岐井谷滅亡の後京都智積院紅道大僧正の弟子として真言密教を修行して天満宮の別当となる。
山中での修行後に下山した際、赤子の泣き声が聞こえたため行ってみると、猟師が出てきて
「私の子供なのですが、母親が死に、乳がなくて困っております」
と答えたため不憫に思い、猟師の話をくわしく聞いてみると、かつては大友に仕えた定村種時の息子、定村種春であり、
祖父大友宗麟からの感状も持っていることがわかったため、祖父の引き合わせだと感動し引き取ることにした。
子供は女児であったため、表向きは男子ということで寺小姓としておいておいた。
十数年たち成長した後には要人(かなめ)と名付けたが美しく育ったため、いつしか男女の仲となってしまった。
あるとき黒田忠之が安養寺に来た際に、要人が茶を立てたところ忠之は気に入り、たびたび紅陽を城に召すようになった。
そのころ忠之は奇術を用いる大盤和尚という者を気に入り、折々召し出していたが
忠之の面前で紅陽と大盤が問答をしたところ、大盤は言い負かせれたうえ、切支丹であることが露見した。
栗山大膳が大盤を拷問したところ切支丹であることを白状し、獄門にかけられた。
これ以降、忠之は紅陽と大膳を恨むようになっていたが、天神の祭礼日には家中の者があちこち訪ねる習わしになっていたため
寵愛していた倉橋重太夫(倉八十太夫)に安養寺へ行かせ、定村要人の様子を見てくるように命じた。
倉橋は安養寺に行ったものの要人は出てこなかったため怪しく思い、寺の奥まで押し入り、
逃げようとする要人の胸ぐらを掴んだところ、柔らかいものがふれ、要人が女であることが露見した。
帰城した倉橋からこれを聞いた忠之は奉行に要人を捕らえるように命じたが、紅陽によって要人は父親のところに送り出されていた。
奉行は紅陽を尋問したが「要人は出奔しました、所在は知れません」というばかりであり
二の丸の裏庭をお白洲の代わりにして、煮えたぎった油をかけるなどの拷問をしたが紅陽は口を割らなかった。
そこでとうとう破戒僧ということで、四本の杭に手足を縛り、背中を反らせ刀で引き裂き、そこに塩湯を流し込み、
皮肉をひきつらせて溝を作らせ、融けた鉛をその溝に注ぎ込んだ。
奉行が「これでも白状しないのか」というと
紅陽は両眼をかっと見開き、「おのれ、忠之が無道、要人が色香に迷い、これを奪い取らんと拷問にことよせて我を殺さんとし
また我を匹夫とはもっとも慮外至極なり。そもそもわれは岐井谷安芸守が二男なり。
我は父祖重々の怨敵たる黒田家なれども昔仇を忘れ恨みもせざりしに、
さる頃、汝が帰依なせし大盤が邪法をばくじきしことを遺恨に含み、今要人のことによせ、いまだ天下に行われざる非道の責(せめ)をなしたるべし。
たとい女犯のつみあろうとも死刑にあたらんや。この恨み思いしらさでおくべきか」
と四本の杭を引き抜き悪鬼の形相で死んだ。

このあと黒田騒動の話になっていく
0274人間七七四年
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2022/01/14(金) 17:08:56.97ID:oR2DBSob
「箱崎釜破故」より麻井(浅井)四郎左衛門の妻お綱のこと
(数種類のバージョンがあるようだが広島大学図書館が往来物(寺子屋の教科書)として公開しているものを元にした)

黒田忠之には北の方(采女)という愛妾がいたが、新しく江戸から十六の愛妾を二の丸に住まわせたため、
采女の方は自身が取り立てた麻井四郎左衛門という侍に妻として下げ渡すことにした。
四郎左衛門にはお綱という妻と二人の幼少の男子がいたため断ろうとしたものの主命ということで断りきれず、お綱は離縁となった。
四郎左衛門も離縁後しばらくはお綱の元に忍んで行ったものの、お綱の嘆き繰言をするのをうるさく思うようになった。
また先妻に通っているのを後妻の采女が禁止したため、せめて二人の男児だけは引き取ろうとしたが、
「血のつながっていない子を後継にはさせません。実母に養育させればいいでしょう」という采女の意見に押され、それ以降お綱のもとに通うことはなくなった。
四郎左衛門が通わなくなり二年が経ち、援助もないため、お綱は生活も事欠くようになった。
寛永七年霜月二十七日の夜、絶望したお綱は南無阿弥陀仏と称名を唱え、短刀を二人の息子(四歳と六歳)の胸に刺した。
息絶えた二人にお綱は
「恨むなら父上と父上を寝取った女を恨みなさい。母も敵を討ったらお前たちのところに行くからね」
と言って、装束を改め、鉢巻を締め、長刀を持って四郎左衛門の屋敷に向かった。
お綱を見た門番は仰天し「夜中に何者なり?」と声を上げたが一刀のもとに切り伏せられた。
お綱が寝屋と思われる方へ進んでいくと、浪人浅野彦五郎というものが刀を持って参じ、しばらくお綱と切り結んだ。
そのうち彦五郎の刀がお綱の左肩に打ち込まれ、お綱は「口惜しや残念やただ一歩のところで」と怒りの声を上げて斃れた。
お綱の死に顔は眼を見開き歯を食いしばり、というものすごい形相であった。
0275人間七七四年
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2022/01/14(金) 17:10:45.59ID:oR2DBSob
翌日、四郎左衛門が采女に「まあ、あいつも生き恥を晒すよりは死んだ方が幸せだったな」と語っていたところ、屏風の影からさわさわという音がした。
屏風を開けるとお綱が生前の姿のまま立っており、采女は「あっ」と一声叫ぶや、舌を三寸ほど噛み切って死んでしまった。
四郎左衛門は忠之に対して采女の死因について病死であると届け出たものの、ことのなりゆきが忠之の耳に達し、
忠之は怒り、お綱の死骸を暴いて竹の串で貫き、路上に晒した。
往来を通る者で「嫉妬ゆえこのように晒されることになった」と嘲った者どもが数十人あったが、どの者も言った途端に狂ってしまった。
忠之はますます怒り「にくき女め」と穢多に命じて死骸を微塵に打ち砕き、川に流すよう命じた。
この役を行った穢多十二人は、たたまち様々な恨み言を述べて狂死したため、この十二人を一箇所に葬った。今日ではこの塚を穢多塚と言っている。
お綱の死骸を打ち砕くのを見分した役人も即時に発狂して、帰るや門の礎に頭を打ち砕いて死んでしまった。
その後、四郎左衛門は怨霊に悩ませられ痩せ衰えてしまい、これを聞いた忠之は不憫に思い四郎左衛門の元を訪れた。
四郎左衛門のあまりの変わりように忠之は驚き、詳しく尋ねると
「毎夜子の刻に前妻が苦しげな様を見せつけてきて熱が出てきます」と答えたため
忠之が「よし、われが邪気を退けてやろう」
とうけあったところ、四郎左衛門は涙を流し喜んだ。
0276人間七七四年
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2022/01/14(金) 17:12:21.01ID:oR2DBSob
こうして忠之は浅野彦五郎を含めた勇士二十四人を選び、
日光一文字の刀(北条早雲が日光二荒山から貰い受け、北条氏降伏の際に如水に贈られた)、岡本正宗の短刀(忠之の元服祝いに家康から下賜された)、
碇切(長政が朝鮮で碇ごと間者を斬った)、返切(へし切り長谷部)、安宅(如水の四国攻めの際に敵将安宅貴康を斬った)、権藤の長刀(如水が朝鮮で虎に襲われた時に権藤という武士がこの薙刀で虎を仕留めた、もしくは高橋元種の部下・権藤平左衛門が18人を斬った)
といった黒田家の名刀を持たせ、正宗の刀は四郎左衛門の枕元に置くように手配させた。
勇士たちは霊魂よ来るなら来い、と豪語していたが、夜になり、二十四、五才ほどの女がほほと笑って病人の枕元に近づいても、おのおの身の毛がよだち、腕がすくみ、身動きが取れなくなった。
四郎左衛門がしばらく熱で焼けるほど苦しんだ後に女は出ていったが、勇士たちはまたも身動きが取れなかった。
われながら情けなく思った勇士たちは翌夜、名誉挽回を期し、彦五郎は自ら正宗の短刀を抱いて四郎左衛門と寝床に臥した。
丑満の頃、生首が出現し四郎左衛門の上を通ったところ、四郎左衛門は一声うめくや、むなしく息絶えてしまった。
0277人間七七四年
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2022/01/14(金) 17:19:46.55ID:oR2DBSob
忠之は麻井四郎左衛門夫婦の追善供養をしたものの、麻井の跡目を継ぐものがなかった。
そこでお綱を殺した褒美ということで浪人浅野彦五郎に麻井の跡目二千石を相続させた。
しかし彦五郎は「悪口を言った者、死骸晒しの時に立ち会った役人までも狂死しているのだから自分も祟られるかもしれない」
と檀那の寺で相談し、六ヶ寺でお綱の仏事を行うこととした。
このことは隠密であったがなぜか忠之の耳に達し「言語道断、われの敵の女が肩を持つか」と忠之は怒った。
そのとき佞人があり、彦五郎が正宗を抱き臥した後返していない、と忠之に告げた。
忠之からの詰問に驚いた彦五郎が家中をくまなくさがしたところ、麻井家の箪笥のなかに置いたまま失念していたことが判明し
失念していたと忠之に申し上げたものの、盗人ということで平人に落とされ、五歳の男児ともども釜煎の刑に処せられた。
また六ヶ寺の住持は皆衣を剥ぎ取られ俗名に戻され流罪にされた。
一説にはお綱の幽霊が正宗を箪笥に忍ばせ、彦五郎に殺された恨みを果たしたのではないかと言われている。
(このあと黒田騒動の話になる)

なお「箱崎釜破故」の他のバージョンでは彦五郎に請われてお綱の供養を行ったのは空誉上人であり、
そのために忠之により背を割り鉛を流し込まれるという刑罰を受け、浄念寺の和尚がこっそり放置されていた死体を持ち出し自分の寺に葬ったことになっているようだ。
荒唐無稽な話でお綱自体も創作だと思われるのだが、
福岡城の扇坂門はかつて「お綱門」と呼ばれていて、その門に男が手を触れると熱病にうなされたという伝説があったとか。
福岡市中央区の「お綱さんばなし」というページによれば、大筋は同じだが四郎左衛門は登城していたため屋敷にはおらず、
浪人「明石」彦五郎に斬りつけられたあと、四郎左衛門のいる城に行こうとしたが扇坂門に手をついたところで息絶えたため「お綱門」と呼ばれたことになっている。
0278人間七七四年
垢版 |
2022/01/15(土) 16:27:52.40ID:CFXpItV1
南都(奈良)の奉行である中坊飛騨守(秀祐)・美作守(秀政)父子に仕えていた、
柴田角兵衛、田村源兵衛という兄弟の勇士があった。

ある日、兄弟は連れ立って木津川を渡ったのだが、この渡は武士からは船賃を取らない事になっていた
にもかかわらず、この時の両人の風体が春日社の禰宜に似ていたため見誤り、船賃を乞うた。
渡守は川の中程で舟を止めて、彼等に対し「船賃を出さねば渡さない!」と悪口に及んだため、
兄弟は水棹を取って一人の渡守を打ち倒すと、もう一人は水に飛び込んで遁れ、木津の町に入ると
「人殺しだ!」と叫んだ。

この町は浪人なども居住していた地であったので、鑓長刀を持って数多の者達が兄弟に向かって
出合った。兄弟は刀を抜いてこれと当たり、数箇所に傷を負い、兄弟の間も隔てること半町ばかりであった。
源兵衛は血で朱に染まり、また角兵衛は溝に踏み込んでしまい危うかったが、町の者共も彼等の勇気に
辟易し、近づく者も無かったため自ら起き上がった。そして取り囲んでいた者達も次第にまばらになったので、
彼等は木津の町へと向かった。

すると町は騒動して木戸をさし堅めて彼等の侵入を阻止しようとした。しかし潜り戸より婦人が
彼等を覗いているのを見つけるとこれを人質に取ってその家に入り込んだ。この婦人は所の長の
妻であったので、様々に扱いとなり、これは当分の難を遁れるためであったので、約を定めて
婦人を解放した。その内に彼等兄弟が奉行所の士であることが解り、木津の町の者達は却って
打ち詫び、怠状(謝罪状)を書いて出した。

死者六人、負傷者は数を知れず。兄弟は大難を遁れた。

(志士清談)

船賃を取る取らないで死者六名負傷者多数の騒ぎになったというお話。
0280人間七七四年
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2022/01/15(土) 20:58:09.72ID:ydFSr9mU
水滸伝にありそうなエピソードだな
0281人間七七四年
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2022/01/16(日) 08:47:08.92ID:6ofPMtyB
西日本新聞社編「福岡県の昔ばなし」の「お綱門」のあらすじ

大名には江戸の正妻とは別に国元に第二夫人を置くことが認められていたため、忠之が参勤交代の帰路、大坂の花街で見初めた芸者に采女という肩書きをつけて博多に連れ帰る
家老の栗山大膳が「身分の低い者を側室にするなどもってのほかです」と諌めたため仕方なく采女を浅野四郎左衛門にあずける
浅野は采女に夢中になり、妻お綱と二人の子供を馬出の下屋敷に移し、自分は大名町の本宅で采女と楽しむ
お綱には暮らしのための金銭も届かないようになり、明日は雛祭りだというのに幼い娘の支度もできないと下働きの善作を本宅に使いを出しお金の無心をさせる
浅野は「すでに絶縁!」とけんもほろろ、奥方を哀れに思った善作は遺書をしたため千代の松原で首をくくる
それを知ったお綱は逆上し、二人の子供を手にかけ子供たちの首を包み腰にさげ、薙刀を持って、下屋敷から大名町の本宅に
浅野は登城しており、留守を預かっていた浪人明石彦五郎が怪しみお綱に切りつける
重傷をおったお綱は薙刀を杖代わりにして城内にはいるが扇坂門の扉に手をかけたため死亡、寛永七年三月三日のことであった

近年、老朽化した「お綱門」を取り壊すことになり丁重な供養をした後、長宮院という寺でお綱親子の霊を祀る
長宮院は空襲で焼け、今は福岡家庭裁判所となっているが位牌は疎開させてあったため無事で
東湊町の真光院で「お綱大明神」として家庭円満、良縁祈願、水子供養で訪れる人が多かった
真光院は今は福岡県糸島郡二丈町に移転、今なお香煙は絶えない

「お綱門」の後日談
後世になりさまざまな怪談話を生み出した
太平洋戦争当時、福岡城址は福岡第24連隊の兵営となったが「お綱門」で立番をする兵士は心身の異常を訴えたという
また鬼のような上官のワラ布団の下にこの門の近くの小石をこっそり隠し入れると、上官は悪夢にうなされたり病気になったという
0283人間七七四年
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2022/01/20(木) 15:07:22.97ID:sapmit/h
一本に、(慶長十九年)十二月十六日、大阪冬の陣において大御所(家康)の下知として、備前島
菅沼織部正の寄せ口より、大銃百挺を揃え城中に打ち入れた。その他玉造口の寄場よりも、大阪城の
千畳敷を目当てに大銃を発した所、即ち淀殿の屋形の内三の間に女中多く集まって居たのだが、
そこに弾落ちて茶箪笥を打ち砕いた。女中各々肝を消し、淀殿の御居間も震え動いた。

淀殿は流石に女性であったので、その砌より御心弱くなられ、御和談の為なら江戸にも御下向あるべしと
仰せに成られたため、これを織田有楽、大野修理(治長)承り、秀頼公に段々と諌めたのであるが、
御承引無かった。この上は出頭の近臣に諫言致させるのが然るべしと、その人選をしたが、渡辺内蔵助(糺)は、
去る鴨野合戦以来不首尾であり、また薄田隼人正は日頃の広言に似合わぬと、城中の沙汰悪しきにより、
木村長門守(重成)宜しかるべしと、この趣を申したが、重成は承諾しなかった。

「今、各々の宣う所は、最初に片桐(且元)が申していた所です。只今に至って左様の儀、
この重成には申し上げることは出来ません。各々両所が股肱の臣として、左様に惑われる事に、
御運の末を嘆き入り奉る。」

との旨を述べると、両人も汗顔赤面して、重ねての言葉もなかった。

その後淀殿より色々仰せ進められたため、ようやく秀頼公も、御和談の評議を行ったという。

(新東鑑)
0284人間七七四年
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2022/01/20(木) 18:43:36.01ID:M79NcYgQ
女に口出しさせたのと、大野の無能がな・・
0285人間七七四年
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2022/01/20(木) 19:27:06.64ID:LzbtBaVD
この頃から大砲とそれにビビった淀のせいにされてるのか
0286人間七七四年
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2022/01/24(月) 20:30:23.62ID:mtcjsHOY
大阪冬の陣の和睦の時のこと

或る本に、この時真田左衛門佐(信繁)は秀頼公を諌めて

「敵味方、甲冑を脱ぎ万歳を唱えています。
今宵、敵の虚に乗じてこれを討てば勝利必然であり、両御所(家康・秀忠)を打ち取ること、
掌の中です。」

そのような事を申したが、淀殿の仰せに
「今日和議を約したというのに、言下に違変などできるわけがない。」
と、御承引無かった。真田は再々諌めたが、織田有楽、大野修理亮などは頻りにこれを制止した。

そのような中、真田は間諜を以て両将軍の陣営を窺ったが、それによると両御所も予めこれを慮って、
三軍の守りは非常に厳整であり、もし誤って城兵が夜襲すれば、たちまち粉々にされてしまうだろう、
との事であった。

これを聞いて真田も大いに感じ、豊臣家二世にして、亡ぶべき時至るを嘆いたという。

(新東鑑)
0287人間七七四年
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2022/01/24(月) 21:34:08.49ID:HJjNCmQ0
ええと、つまり真田のこわっぱ程度の悪だくみなど、
神君はまるっとお見通しだったって悪い話?
0288人間七七四年
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2022/01/25(火) 20:28:46.88ID:FAwjF8BT
貝原益軒による武将の逸話や面白話を集めた「朝野雑載」より

信長公の妾を細川幽斎に給う。松井佐渡はその妾に付いて来たる。
信長の子を懐胎せり。
そのうめる子、越中守忠興なり。よく信長に似たり。
これ人のしらざる事なり。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3578.html
倅めが、吠えをるわ。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6595.html
そんな信長の死後55年経った1637年

信長が忠興をかわいがり、忠興も信長を敬愛していたのがそんな話になったのだろうか
0289人間七七四年
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2022/01/25(火) 21:01:41.98ID:FAwjF8BT
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13304.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13318.html

「朝野雑載」を読んでたら過去にも↑で出ていた沈惟敬の丸薬の話もあった

慶長元年八月、大明より正使楊方奇、副使沈惟敬、ならびに朝鮮の両使、同じく渡海して、泉州境に着く。
九月二日、伏見の城にて大明の冊使に対面あり。
しかるに沈惟敬懐中に丸薬を持ちて常にこれを服用す。
太閤の御前へ出だし時も、紙の袋を懐中より取り出してかの薬を呑みければ、秀吉公御覧ありて
「汝は何薬を服するや」と尋ね給う。
沈惟敬がいわく「日本と朝鮮の国争いにつきて、その扱いに大唐よりはるばるここに来たる儀なれば、
もし病死仕りてはそのこと叶わず、大事の使いにて候ゆえ、養生のため唐帝より調合して与えられたり。
これは平人の調合することならぬ薬なり」と申す。
秀吉公きこし召され「その薬少し我に与えよ」とのたまう。
沈惟敬がいわく「やすき御事なり。さりながら他国より来たる我らが薬なれば、大将たる人のそこつにもちい給うべき事にあらず。
ただ誰人にてもこれをのませられ、ほど経てその様体をお尋ねありて、その後御所望と御座候えば、進上仕らん」と申す。
太閤「もっともなり」とのたまい、かの丸薬を近臣両人にのませ給う。
十日ほど過ぎて様子お尋ねありしに、
かの両人「気力はなはだ強くなり、気色ことにはれやかなり」と申し上ぐる。
さては沈惟敬が申すところ、偽りにあらずとて、件の丸薬御所望ありてこれを用い給う。
その節加賀大納言利家卿、小早川隆景卿、両人へも下されけり。
しかるに隆景は慶長二年十二月に逝去あり。
太閤は同三年八月に薨去なり。
利家は同四年三月に逝去せらる。
おのおの同じ様なる病気にて死に給いて後、筋ゆるみ骨の節々はなれ、五体崩れ損ずること、三将みな同じことなり。
はじめにこころみに呑みたる近臣両人も三年過ぎて死す。かれが死に様同前なり。
その頃諸人これを聞きて、唐人の智謀おそるべしといいあえり。
後にまた、日本に来たりし遊撃といいし者はかの沈惟敬がことなり。
0290人間七七四年
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2022/01/27(木) 10:43:06.26ID:noXl88DO
>>281
>仕方なく采女を浅野四郎左衛門にあずける
>浅野は采女に夢中になり、妻お綱と二人の子供を馬出の下屋敷に移し、自分は大名町の本宅で采女と楽しむ

殿様の女なんじゃないの?どういうこと
0291人間七七四年
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2022/01/27(木) 18:54:46.56ID:Gg747KB6
「朝野雑載」より尾藤知宣の話

秀吉公お取り立てで讃州を領していたが根白口で島津義弘を討ち取らなかったため改易となり、天下御構いとされたため秀吉に与しない小田原北条家に仕えた。
一方、柴田勝家の猶子である佐久間久右衛門安次(安政)、同源六郎実政(勝之)の兄弟も賤ヶ岳の戦いで兄の盛政が敗北し処刑されたのちは
遺恨を晴らそうと紀州の粉川(粉河)寺法師と語らい河内や南河内長野で秀吉に楯突きたびたび手強い合戦をしたものの敗れこれまた小田原に入り氏政に仕えた。
小田原落城後、金沢称名寺(金沢八景に称名晩鐘が取られている)に隠れていたところを秀吉公きこし召され
「伯父勝家が讐と思い、我らに数年楯突くといえども叶わず。
小田原へかけ入り、なおも遺恨をはらさんとせし、その志まことに大丈夫なり」
とてかの寺より召され、
「もはや四海はみな我らの手に入りたれば向後心をひるがえして降参いたし、秀吉を父と思え」
とて、兄久右衛門に一万五千石、弟源六に一万石くだされ、蒲生氏郷の与力につけらる。
尾藤「御敵柴田が一門だに御赦免あり。まして秀吉小身の頃より旧功ある我ならば御赦免うたがいなし」
と思い、剃髪染衣の姿で秀吉公が小田原から奥州へ出向く御道筋に罷りいで畠中に平伏した。
秀吉公「あれに見えたる大坊主は何者ぞ?」とお尋ねあり。
あらかじめ尾藤と打合せていた御駕籠廻り衆「先年ご改易なされし尾藤左衛門佐と見え候。
小田原にまかりありしが、かようの姿にまかりいで、お馴染みに甘え、お目通りにまかりいで候かと」
秀吉公、御気色かわり「佐久間兄弟が小田原にこもりたるは義理の至極なり。尾藤めは大罪人なり。
その謂れはまことに赦免を願わば洛外にもかくれ居て、この度小田原発向の先手へ加わり、陰の奉公をしてこそ尤もなれ。
氏政に奉公して我に弓を取り、落城以後かようの仕方、言語道断憎き次第なり」
と言って、御歩行衆に引っ張ってこさせ、備前兼光の御腰物にて、御手打ちに御成敗なり。

尾藤知宣が秀吉の前に現れ赦免を願った理由に、柴田の縁者の佐久間兄弟が赦されたから、というのもあったことになってる
0292人間七七四年
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2022/01/28(金) 11:33:29.56ID:UuGmdRex
>>290
同じ西日本新聞の昭和48年8月13日号から19日号で
「怪談 福博の夜ばなし」という連載があって
第一回が「お綱さんばなし "たたりますわョ" ナギナタ持った凄幽霊」でほぼ同じ話が掲載されているが
「采女はお側役の浅野四郎左衛門に下げ渡された。」となってる
なおお綱はひどい醜婦(箱崎釜破故でも)とされている。
ついでに後日談もあり、お綱が城に入ろうと飛びついた
「土塀のカワラは、何度ふきかえてもズリ落ちた。
お綱さんがナギナタでササを切り切り走った薬院(中央区)は、道の片方のササが生えてこないとか、タケが高く伸びないといわれる。」
このあとお綱さんを祀っていた長宮院が戦後に家庭裁判所となったことが書かれているが
「その工事中、お綱大明神のあった真上の梁から大工が落ちて死んだ。
いまも、その位置は何べん修理しても雨漏りがするそうだ。」
また、原田種夫氏(「黒田騒動」についての本を出している)に取材したところ、お綱母子の墓の近くにお綱ヶ池があったが魚を取ると祟られると恐れられた、と言われたそうだ。
0293人間七七四年
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2022/01/28(金) 12:12:33.82ID:A3SptgL0
お綱さんばなしの長宮院について

「箱崎釜破故」の末尾によれば、麻井家を継いだ浅野彦五郎が釜炒りの刑に処せられたのち、狐狸の棲家となり荒れ果てた。
その後、肥後より清戒という僧侶が貰い受けて長宮院を建立したことになっている。

貝原益軒「筑前国続風土記」の「福岡 長宮院」には
「むかしは士人の宅也しが、凶宅なりとて、是に居る人なくして、廃宅となれり。
寛永年中、肥後国より来れる清識と云ふ真言僧、此宅に寺を立んよしを願ひしかば、国主忠之公是をあたへたまふ。」
とあり、

柳猛直「福岡歴史探訪 中央区編」によればこの貝原益軒のいう「凶宅」とは
黒田長政の時代に伊藤団右衛門というものがいてこの家に居住していたが女幽霊に悩まされていた。
そこで小河内蔵允(長政臨終の際、栗山大膳とともに忠之の後見を任された)が勇士を募って団右衛門を警護していたが
丑三つ時に女の生首が現れ、団右衛門の上を通ると団右衛門は死んでしまった。
ということで凶宅とされ、あとからお綱さんばなしが生まれたことになっている。
(この伊藤団右衛門の話の出典は記載なし)

お綱さんの事件が黒田騒動直前の寛永七年で、寛永が二十一年まで続いたから、寛永年間に麻井家が荒れ果てることはあり得るけど
伊藤団右衛門の話によって凶宅扱いされたのであれば、忠之はむしろ霊を鎮めてあげようとしたのに幽霊話の元凶扱いされているような。
0294290
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2022/01/28(金) 23:30:01.37ID:ollerr9a
>>292
サンクス、そういうことか
とはいえ、殿様から下げ渡されたのなら采女を粗略に出来ないしなぁ
だからといってお綱に納得しろというのも酷だし
誰も得しなかった悲話だな
0295人間七七四年
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2022/01/29(土) 18:24:12.00ID:vPZ3C4pH
或る本に、大阪冬の陣・鴫野の戦いの時、幕府の御使番である小栗又市は合戦が終わって
本陣のある住吉に帰り、今日の合戦の次第を言上した後、御次の間に於いて各々に向い

「今日はよき討ち所があったので、上杉にその事を申したのだが、日暮れだからと言って
承引しなかった。さてさて残念であった。」

と申した。しかしこれを大御所(徳川家康)がお聞きになって

「その方の分際にて、景勝の武辺の事を申すは推参なり!」

と仰せに成り、お叱りになったという。

(新東鑑)

大阪冬の陣で小栗又市さんが叱られたお話
0296人間七七四年
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2022/01/29(土) 21:19:27.86ID:oklvys1c
推参って「差し出がましい」と言う意味もあるんだな。
いまググって知った。
0297人間七七四年
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2022/01/29(土) 21:38:50.25ID:T2tnJbxd
>>296
国語教育劣化の犠牲者だな。
お前さんの罪ではない。
0298人間七七四年
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2022/01/29(土) 22:24:03.26ID:Q0n5+Jsm
「朝野雑載」からガラシャの話

秀吉公、ある時猿楽を興行して、諸大名の奥方に見せられしに、
細川忠興の内室は病気といいて、能を見たまわず。
その故を聞くに、
ガラシャ「父日向守は秀吉と戦いて亡びたまいぬ。
しかれば太閤は父の讐なるに、まのあたりその顔かたちを見るべきようなし」
と密かに語りたまいしとかや。
0299人間七七四年
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2022/01/29(土) 23:15:12.71ID:oklvys1c
>>297
まわりから「感じ悪いヤツ」って言われてるでしょ?
0300人間七七四年
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2022/01/30(日) 00:02:33.63ID:n/d9cgnp
戦国時代舞台にした作品だと首狙われる武士が
下郎推参なり!とか言うね
0302人間七七四年
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2022/01/30(日) 11:38:46.80ID:1TwzeSfg
言葉の意味は変わっていくので昔の意味にそこまで拘泥する必要はないと思うんだけど、国語警察も多いよなあ。

役不足とかすべからくとか、もう新しい意味のほうで辞書登録してもいいと思うんだが言葉はツールでしかないのだから

古文読むときは困るけど、そんなの趣味の世界だし
0303人間七七四年
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2022/01/30(日) 13:30:31.29ID:v41rBBaP
それと、自分が知ってることを人が知らなかったからって、イヤミ混じりに小馬鹿にするのって、知識以前に人格がね・・
0304人間七七四年
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2022/01/30(日) 14:27:12.83ID:pV6TMRmU
「丁」字路と「T」字路みたく、本来の使い方を間違いと決めつけて笑うのも戒めないとならないな
0305人間七七四年
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2022/01/31(月) 17:09:50.18ID:vLS0rSyE
西日本新聞 昭和48年8月16日号より
「怪談 福博の夜ばなしC 空誉上人」

寛永年間、黒田忠之が安養寺に馬を停めて休憩し、でっかち頭、そのうえ異様に飛び出した目で秋景色を愛でていると美しい寺小姓が茶菓子を運んできた。
一目惚れした忠之が住職の空誉上人(二十代で非常な美男)に寺小姓(秀之丞)を差し出すように命じたが上人は「修行中なので」と断った。
忠之はあきらめきれず間者を放ち寺の様子を探ると、なんと秀之丞は女であった。
「おのれ女犯の売僧めが!」と怒った忠之は上人を大釜に入れ、背中を立ち割り鉛を流し、絶命させた。
秀之丞はお秀(光之の母?)という名で忠之の側室となったが、上人の怨霊が乗り移った黒田藩士・毛谷主水がお秀の方と密通。これが黒田騒動の発端となる。
釜責めが行われた場所は現県庁舎裏の知事公舎の庭にあたり、ながらく釜の形だけ草が生えなかった。

昭和初年の大塚惟精・第24代福岡県知事は胆力のある柔道家であったが夜ごとうなされて眠れず、知事の書生ももののけに取り憑かれたようになった。
そこで釜の形に草の生えない場所に小さな銅ぶきの祠を建てて怨霊を慰め、いまも毎年八月上旬には法要が営まれている。
濡衣山(濡衣を着せるの故事から)松源寺の佐々木滋寛師は「空誉上人の幽霊ばなしを黒田騒動に結びつけたのは、鍋島藩の化けネコ騒動と同じで、藩の内乱を幕府の目からそらせるために利用したんでしょう」と推測している。
一説には空誉上人は後藤又兵衛基次が送ったスパイとか。
お秀の方は黒田如水から滅ぼされた中津の豪族の娘とも伝えられている。
空誉上人は空誉さまとも呼ばれ浄念寺(中央区大手門二丁目)に墓がある。
0306人間七七四年
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2022/02/01(火) 15:53:57.91ID:4m5caflV
空誉上人が乗り移ったとされる毛谷主水について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8719.html
毛屋の本氏

で関ヶ原で西軍の物見をして東軍の士気を高めたため家康から饅頭をもらい、全て平らげた毛屋主水武久がモデルと思われる。
色気より食い気の方がふさわしい毛屋主水がなぜ美女のお相手役にされたかについては

貝原益軒「黒田家臣伝 毛屋武蔵」に関ヶ原や加増や武蔵改名の後の話として
ここに豊前国城井中務(鎮房)が家人に、鬼木掃部という者は、大剛強力の者なりしが、長政に背いてほろぼされけり。
そのむすめ、弟妹両人をつれて落人となりていたりしを、長政の命にて、武蔵これを娶る。その生まれる所の子を太右衛門という。
武蔵が妻の弟は、鬼木惣左衛門という、黒田美作に武蔵が所託にて仕えしむ。いまにその子孫あり。
武蔵、寛永五年七十五歳にして筑前にて病死す。

とあり、黒田騒動が後世脚色された際に、黒田に恨みを持つ城井氏(寛永箱崎文庫)や鬼木氏(歌舞伎や映画)や大友氏(白縫譚の蜘蛛の妖術使いの若菜姫)などとの因縁が加えられた時に
鬼木氏を妻に持っていたために毛屋主水の名前が使われたのではないかと。
0307人間七七四年
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2022/02/01(火) 16:03:14.53ID:4m5caflV
大食漢繋がりで「博多細伝実録」には元禄の頃、鍋島藩への祝賀の使いの際に「他に芸はありませんが大食で鳴らしております!」
と言い放ち、焼き物を20人分平らげ、酒を大盃で五杯飲み、鍋島から賞賛され大いに面目を施したとして、藩主から褒美をもらった星野助右衛門という人物の話がある
幕末に黒田藩士の磯野藻屑源素太皆が、おはぎを38個食べて殿様から褒められたというネタに通じるものが

ついでに「博多細伝実録」には黒田藩家老の黒田美作に仕えた鬼木氏のその後の話として、
元禄の頃、黒田美作(三奈木黒田家三代目の一貫)が佞人を重用し民が苦しんでいた。
重臣の鬼城新左衛門は諫言するも聞き入れてもらえなかったため、家族一員(老母、妻、二人の子供)白装束仕立てで首を斬り、自らも諫言の遺書を残し切腹。
鬼城家は家名断絶となったが、新左衛門の死から二ヶ月もしない間に佞人どもが狂ってたわごとを発するようになった。
こうしてそれまでの悪事が露見したため、みな悉く切腹。
鬼城新左衛門は鬼城大明神として崇められた、という話が記されている。

黒田長政に滅ぼされた鬼木掃部の子孫が黒田藩家老のために諫死し家名断絶という歴史の奇妙さ
0308人間七七四年
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2022/02/01(火) 17:31:45.03ID:zKRoxI4D
磯野藻屑源素太皆って黒田藩士だったのか
0310人間七七四年
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2022/02/02(水) 17:07:44.84ID:KOLspvc1
筒井家家中では、その臣・中坊左近秀行(秀祐)と、桃谷與太郎右衛門国之、河村與六郎正之、
松浦左内祐次等が不和となったが、去る慶長三年六月、中坊はその息・忠右衛門秀政と共に筒井家を
立ち退き駿府へ向い、
『侍従(筒井)定次は酒色に溺れ、政道に癖事多く云々』とし、河村、松浦らの奸佞の至悪等を
家康公へ訴えると、筒井定次もこの事を伝え聞いて大いに驚き、近臣である桃谷次郎国仲、その息
與太右衛門、並びに松浦、河村を召し連れ駿府に赴き、

『左近(中坊秀祐)はその勇功を誇って主君を蔑ろにし、傍輩を猜み讒訴して、筒井家より独立することを
欲している。』

と訴え、双方の対決、数日に及んだ。
このような中、伊賀守(筒井定次)は養父である順慶以来、二代共に故太閤の厚恩を蒙っており、
密かに大阪に近侍していると聞こえてきた。さらに酒色の遊に溺れ、河村、松浦と言った奸人を用い、
政道正しからざるよしに沙汰極まり、遂に定次非い陥り、同二十日、伊賀国並びに勢州、城州等の
領地悉く没収され、侍従定次、嫡子宮内少輔順定、共に藤堂(高虎)に預けられ、桃谷與次郎は、
「酒色の遊には預からざるとも、老臣職として非道を諌めざる咎」により、お預けとなった。
桃谷與太右衛門、河村與六、松浦左内の三人は誅せられた。

中坊左近は従五位下飛騨守に任じられ、息・中右衛門は左近と改め将軍家に仕え、
和州吉野郡にて三千五百石を領した。

(新東鑑)

筒井騒動についてのお話
0311人間七七四年
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2022/02/03(木) 18:32:58.06ID:mKbF+iVF
朝野雑載より
八王子の城を、秀吉公よりせめさせたまうに、攻め手は前田利家、長尾景勝なり。
落城して前田によりうちとりし首数三千、長尾はわずかに八百五十到来せしゆえ、太閤の御前にありし人々不審に思い
「景勝は承り及びたる手柄者なれども、首数前田より甚だ劣れり。前田が武功優れたる」よし申しければ
太閤きこしめして「首数の多少にこだわりて武功を評するは、各々が武道不案内の故ならんか。
景勝は士の首ばかり差し越したると見えたり。前田が三千よりは結局勝れるほどにおぼゆるぞ」とのたまいしとなり。

貝原益軒はいい話で書いたつもりなんだろうけどこっちへ
0312人間七七四年
垢版 |
2022/02/05(土) 23:07:33.73ID:kxU3JDkp
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1861.html
黒田長政と家臣たちの異見・いい話

で黒田長政の「腹立たずの会」のきっかけとなった下野九兵衛の最期を
「福岡藩 吉田家伝録」から

大坂の陣の際、長政君は大阪屋敷に下野九兵衛というものを置き、筑前から大坂へ上る米穀の管理を任せていた。
九兵衛は内々に秀頼卿に通じ、ひそかに蔵を開いて多くの米穀を大坂城に入れていた。
秀頼卿は大いに悦び九兵衛に金子と感謝の書状を渡していた。
大坂城没落ののち、長政君が米穀の勘定を九兵衛に命じたところ、露見は免れないと思い九兵衛は妻子とともに逐電した。
なお孝高君(如水)・長政君ともに秀吉公に忠義を尽くしたことは世に知られていたため、九兵衛の独断ではないだろうと言う人もあったとか。
長政君は深く憂え、吉田重成に九兵衛の捕縛を命じた。
重成は瘧を病み、まだ癒えていなかったが長政君の許可を得て無紋の帆を上げた船を出し、家臣三人とともに福岡を立った。
こうして酒樽や魚籠の商人の扮装で兵庫を探索していると下野九兵衛が長く使っていた下人がいたため村山理兵衛が尾行し、山上の小さな寺に入ったのを確認した。
病が小康に入った重成は大いに喜び、寺に行き様子を伺うと、九兵衛は臥して謡をうたっていた。
重成は直ちに庭の戸を開け入ると九兵衛は確認するや刀を取り
「吾子(ごし)尋ね来たるべしと兼ねて思いもうけたり」と刀を抜いて立ち向かってきた。
重成も刀を抜き、家臣三人も棒や刀で取り囲んだ。
九兵衛は重成に斬りかかってきたが重成も刀で受け、理兵衛は九兵衛の右腕を掴み、後の二人も前後から抑えて縄をかけた。
九兵衛の家人三人も裏から出てきて脇差を抜いて斬りかかってきたが、重成と家臣たちが立ち向かうと逃げていった。
こうして九兵衛、その妻、幼い娘、下女二人をからめとり船に乗せて筑前に帰還した。
長政君は大いに悦び、九兵衛を怡土郡高祖村に籠居させ、門番に堅く守らせ、駿府にことを告げた後、誅伐なさったという。
0313人間七七四年
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2022/02/06(日) 23:08:13.98ID:CyByi+OF
>>308
ttps://fukuoka-leapup.jp/city/202007.93
本当に福岡にいた磯野氏は元武士の町人だったようで
代々名前は礒野「七兵衛」だったそうだ
0314人間七七四年
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2022/02/06(日) 23:28:35.43ID:CyByi+OF
>>281
ttps://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/digibook/hakata/022/HTML5/pc.html#/page/6
お綱門の写真あるけど先入観もあるとおどろおどろしく見えるな
あと伝説の考察とかもあったり、忠之をくさしたりw
0315人間七七四年
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2022/02/07(月) 00:09:32.56ID:v+FyJ//b
>>312の前に出てくる話
「吉田家伝録」から浅野彦五郎・新九郎兄弟捕縛

吉田重成は捕物(罪人を生捕)を三十余度行ったという。
その昔、浅野彦五郎というものがいて長政君に千石を与えられ、財利を量る才に抜きん出ていたため、唐土との交易に携わっていた。
しかし私腹を肥やしていたことが露見し重成の家に預けられることとなった。
重成「尋問するので吾に預けられることになった。礼儀のため刀と脇差を吾に預けよ」
彦五郎「我が異国に渡った時に受け取った金銀の勘定が相違しているため、罪が行われるのは必定。
今吾子(ごし)を討ち果たそうと思ったが慇懃に礼を尽くされたため刀と脇差を預けよう」
そのあと彦五郎は菅正利に預けられたが、二、三日して長政君からまたお召があり
「彦五郎の弟の新九郎も同罪のようなので重成の家に呼んでからめとらえよ」とのことだった。
彦五郎が菅に預けられたのち、新九郎が放火して奪い取ろうとするような風聞があった。
そこで重成は家人の村山理兵衛を呼んで策を授けたあと一人で新九郎の家に向かい、
「彦五郎の尋問が終わるまで、新九郎は我が宅に預けられることとなった」と言った。
新九郎は家族へ別れを済ませたのち白帷子で雑談をしながら重成の屋敷にきた。
新九郎が重成に続いて入ろうとすると、掃除をしている用人のふりをしていた理兵衛が後ろから新九郎の足を捕らえ、
重成は振り向きざま新九郎の髻を捕まえて引き倒した。
新九郎は力量が優れ、相撲を好んでおり、力を入れて脇差を抜いたが、重成と理兵衛から縄をかけられ捕らえられてしまった。
のちに彦五郎も新九郎もともに誅されたということだ。
0316人間七七四年
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2022/02/07(月) 00:36:38.92ID:v+FyJ//b
と、これだけなら別に悪い話ではないのだが、
実はこの浅野彦五郎、お綱さん話で釜炒りにされた浪人と同姓同名?なのである。
また、お綱さんの夫であった麻井四郎左衛門だが、「箱崎釜破故」では元は「礒之丞」という名前で小姓となり四郎左衛門という名前が与えられたとされる。
(さすがにサザエさんの磯野とは関係ないと思うが)
ついでに元々の伝承では明石四郎左衛門という名前で(「黒田騒動箱崎文庫」のお綱さん話でも)、伝承の過程で浅野彦五郎と苗字が逆になった説もあるとか。
その場合、実は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13255.html
残金は後でやるぞ

この「博多細伝実録」の、黒田長政が通りに足を出している町人を斬った話で出てくる小姓の名前が明石四郎左衛門であり
「寛永箱崎文庫」ではこの話を、黒田忠之が通りに足を出していた鬼河原源蔵という暴れ者に小姓の明石四郎左衛門が代金を聞く話にしちゃっているので
(ついでに斬ったのは倉八十太夫で喜んだ忠之が八千石与えた設定)
お綱さん話に出てくる浅野彦五郎も明石四郎左衛門も実は黒田長政の時代の人物ではないか?という疑惑が
0317人間七七四年
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2022/02/07(月) 01:22:18.06ID:v+FyJ//b
考えたら「箱崎釜破故」で浅野彦五郎を処刑するための釜をつくれと命令をされたが、どの鋳物師もやりたくないもんだから
博多・甘木・芦屋の三ヶ所の鋳物師が籤を引いて、当たった芦屋の太田氏が釜を鋳造する場面があった。
博多の鋳物師の代表格が礒野家だとしたら、タイトルの「ふばこ」にわざわざ「釜破故」と「釜」をあてているし
四郎左衛門こと礒之丞が箱崎で美男と噂になるところから物語が始まっているから
礒之丞の名前を考えるにあたって博多の礒野を念頭に置いている可能性はあるか
0318人間七七四年
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2022/02/07(月) 18:24:39.04ID:v+FyJ//b
星野宗右衛門について

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5590.html
栗山大膳と『旅枕』

10年以上前に出たこの逸話で栗山大膳の親友として紹介されている星野宗右衛門
「黒田騒動箱崎文庫」や歌舞伎では栗山大膳側の勇士ということで大活躍をしているが、活躍の一つに
親友の有川駿河という軍学者が、倉橋重太夫の陰謀で三百両の借金をさせられ、幕府に禁じられている大船の図面を描いてしまった。
星野宗右衛門が河内屋にかけあって三百両を工面したことで、少なくとも有川は武士の対面を保つことができた。
しかし有川は図面を描き黒田家を危機に陥れたことを詫びて切腹、といった話がある。
「黒田騒動箱崎文庫」では上記の逸話の通り、栗山大膳がかつて利休が所持していた「旅枕」を用いて星野宗右衛門の三百両を帳消しにした、としている。
なお「旅枕」を所有している和泉の久保惣記念美術館の旅枕に関する記事には栗山大膳についての記載はないので、この逸話の真偽は不明。
ただ、星野宗右衛門のほかの活躍を見ると、
「星野の大食鍋島家を驚かす事」では星野宗右衛門が鍋島家に舐められないように、
鍋島家が用意した鯛の浜焼きを城下の魚屋全てからかき集めた分だけ食い尽くし
七合入りの盃で酒を七杯呑み、飯を15碗食い、鍋島家の者どもは大いに驚き、忠之から拝領物を賜り、「鯛喰いの宗右衛門」というあだ名がついた
ことになっている。
0319人間七七四年
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2022/02/07(月) 18:30:08.99ID:v+FyJ//b
実はこの話、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13373.html
毛谷主水について

で書いたように「博多細伝実録」に出てくる、元禄の頃に鍋島家で大食を披露した星野助右衛門の話そのままである。
どうやら黒田騒動に栗山大膳側の善玉の豪傑を登場させようと思った「箱崎文庫」系統の作者が
「博多細伝実録」の大食漢・星野助右衛門の話が印象的という事で時代を移して栗山大膳の同志にさせたらしい。
というわけで、
関ヶ原で西軍の物見をしてたくさんの饅頭を食べた毛屋主水武久と
元禄に鍋島家に使いに行った時に魚の焼物をたらふく食った星野助右衛門
百年ほど時代の違う二人の大食いが、間の寛永年間に
方や女に籠絡され主家を滅亡させようとした悪玉・毛谷主水
方や主家を守ろうと剣と知恵を振るう善玉・星野宗右衛門
として共演することになったという奇妙な話。

ついでに1936年に公開された映画「栗山大膳」には毛谷と星野の両方とも出てくるが、
毛谷主水の方は、城井一族の復讐を狙うお秀の方に籠絡され、栗山大膳の命を狙う一番の敵役となっている。
(紅陽法師も城井の若様として少し語られている)
星野宗右衛門の方はというと、図面を描いた有川を叱責する以外はたいして出番がない。
0320人間七七四年
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2022/02/08(火) 08:46:36.54ID:EhFZQJMw
「朝野雑載」より、大友宗麟、猿のために岩屋重氏を殺すこと
(「大友興廃記」にもほぼ同じ話があるのでそっちが元と思われる)

豊後国岩屋の地主岩屋五郎三郎重氏というもの、つねに猟を好み、ある時、鹿をいようと思い山に行き、岩壁に沿って鹿を追いかけたが、足を踏み外して岩上から落ちてしまった。
しかし岩の中腹の壇石に運良く落ちることができた。
岩を登ろうとしたがとりつくような出っ張りもなく、途方に暮れていると老猿が一匹来た。
老猿は重氏を見ていたが、しばらくして大勢の猿を集めた。どの猿も葛を手に取っており、重氏のもとに葛の端を下ろした。
重氏は不思議なことだ、とよろこび、葛をよりあわせ一本の大きな綱とした。
猿たちは大木に葛を絡めつけ、それぞれ葛の端を手に取り支えたところ、重氏は葛をよじのぼり、危うく命が助かった。
大勢の猿はすぐに逃げ去ったが、初めの老猿は残り重氏の方を見ていた。
重氏が帰ろうとすると老猿が後からついてきた。
重氏は恩知らずのあさましい小人だったため、その猿を一矢で殺してしまった。
宗麟公はこれを聞きたまい、重氏を呼んで仔細を問うと、翌日切腹させた。
宗麟公「重氏我に対して罪なし。子孫において仔細なし」と子供に父の領地全てを相続させた。
重氏にとって老猿は天地父母主君の次に来るほどの大恩人であるのに、恩を仇で返すとは禽獣にも劣ることだ。
そのため重氏の子孫にも老猿の精が祟りをなしたため、社をつくり、山王権現として祀ることになった。
0323人間七七四年
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2022/02/08(火) 20:31:57.01ID:Br8S5Cy5
山本勘助物見の松(またはジタジタ松)

天文22年(1553年)、村上義清ら北信濃国人衆の要請を受けた長尾景虎が川中島へ攻め入った。
信濃先方衆として下伊那の支配を任されていた秋山信友が高遠城を離れた隙に下伊那の知久頼元と座光氏は
知久氏の居城である神ノ峰に兵を集め武田方に反旗を翻した。

翌天文23年(1554年)、下伊那に戻った秋山の説得を断固拒否した反武田勢と武田軍で戦端が開かれ、敗れた反武田勢は
知久氏の居城である神ノ峰に籠城。この攻略を任された一人である山本勘助であったが、彼は城を一望できる松の木によじ登って
城の様子を伺ったが守るに易く攻めるに難い城の様子を見て彼は悔しがって松の上でジタジタを踏んだという。

このことからこの松は山本勘助物見の松とかジタジタ松と呼ばれることとなった。

この松は第二次大戦中の昭和19年に自身で倒壊し、根本は松根油として供出されたが敗戦で役に立たず、現在そこに立つ松は3代目の松であるという。
別にジタジタ峠(飯田市上久堅下平)という場所もあり、そこにも山本勘助が神ノ峰を攻略する際の似たような伝承が残っているが、
この松はまた違う場所(飯田市上久堅柏原)に生えている。

飯田市ホームページより
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/kannomine.html
0324人間七七四年
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2022/02/08(火) 20:33:32.70ID:Br8S5Cy5
>>323
>この松は第二次大戦中の昭和19年に自身で倒壊し、

自身じゃねーyo、地震だホ
0325人間七七四年
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2022/02/08(火) 21:30:09.24ID:EhFZQJMw
>>323
ここにも白米城伝説があるのか

381 本当にあった怖い名無し[sage] 2022/01/28(金) 19:56:11.34 ID:TuMMHRX/0
白米城伝説
戦国時代、城側が山城に籠城していたところ水の手をたたれてしまったため
まだ残っている米を水に見立てて敵から見える位置で馬を洗った
遠目では白く落ちる米が水に見えるため、包囲していた敵はまだ城には潤沢に水があるのかと思い撤退した

一説には馬が水甕を倒して水がこぼれてしまったため
馬に責任を取らせようとこの米浴びをしたと言われる
こうしてこの馬は「鬼か仏か、悪夢か奇跡か、米浴び」と言われたそうな
また馬が飢えていたため、かけられた白米を貪り食って敵側にばれたパターンの話もあり、その場合は「極限まで体を削ぎ落としたせいで鬼と化した」と馬が恨まれたとも
(出典:民明書房)
0326人間七七四年
垢版 |
2022/02/08(火) 22:15:24.76ID:EhFZQJMw
まともな白米城伝説を

「大友興廃記」より「城中水に渇すること」
永禄十一年十月、毛利の吉川小早川が中国兵十万余騎をもって立花の城に攻めてきた。
立花の城代は鶴原掃部助、田北民部であったが、大友宗麟は戸次道雪、臼杵田原などに筑後の蒲池などを加えて五万五千八百騎の勢力をもって中国勢の後に陣を取らせた。
こうして18余度の合戦があったが立花の城はよく持ち堪えた。
ある時、城から「五月雨では物具にもかびが生えることでしょう、笑止なことです」ということで
「五月まつ はなたちばなの 城ぜめは くさるよろひの 袖の香ぞする」と送った。
一方中国陣からは「すぐに落城の嘆きが思いやられていたわしく思います」ということで
「あはれおもふ 人は矢倉の 夜の雨に なみだをそふる 山しろのうち」と返してきた。
その後、城中は水に渇し、久しく雨も降らなかったため人馬ともに難儀であった。
中国方は金ほりにたくみなものが多く、水の手を全て掘って絶ってしまっていた。
鶴原、田原の下知で白米に灰を入れ、山城高いところで多くの馬を出して湯洗いの真似をした。
(灰が混ざった白米はそのまま馬の飼料になったという)
これはまだ城には水があると敵に見せるための謀であった。
のちには米を袋に入れ、岩根の湿気のあるところに埋め置き、とりあげ、煎って食べた。
0327人間七七四年
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2022/02/08(火) 22:33:26.16ID:EhFZQJMw
ここから先はいい話

その後、水もなくなり勇力も尽き、こうなれば討死覚悟で撃って出よう、それこそ勇士の本意であろう、しかしその前に宗麟公に申しておこうと
宗麟の元に吉田弥六兵衛という忍びの上手を遣わしたところ
宗麟「思う仔細あり、早々に降参すべし」と仰られた。
城中に戻った吉田からそのことを聞いた鶴原・田北は吉川・小早川に降参した。
なお降参兵は元就の命令でみな宗麟の陣へ送り届けられた。
その後、大内の生き残りの大内輝弘・武弘の親子が宗麟より送られた三千余の兵とともに周防・山口に打ち入ったところ国人の多くが輝弘方についたため、毛利は劣勢となった。
こうして毛利は立花城を引き払い中国に戻ることになったが、誰も後に残ろうと言い出すものはなかったため、御一門の端ということで桂能登(元澄)が残ることになった。
その時、坂田新五左衛門と浦兵部という勇士が後に残ることをかってで、都合三百余人で籠城し、ほかの兵が中国へ戻るまで大友軍の足止めをした。
毛利兵は山口の小郡というところで輝弘軍を破り、輝弘は切腹した。
こうして役目も達せられたため、城中に残った将は切腹しようとしたところ
攻めての道雪は「中国勢残り居候をうちはたさんこと、籠鳥をころすと同じ。今度残り候者は、元就以来用に立ち候ども者なり。
このたびわずかの人数にて敵国に残りし志の勇者を、むざむざと打ち果たすこと、不便の至りなり。
鶴原、田北がこともあれば、中国へ送り届けしかるべき」
と城中に「忠節の至り感じ入り候。城中の衆、城を渡し、中国へおかえりあるべき」と道雪が申したところ、城中は同意した。
こうして籠城していた兵は道雪の志に感動しことごとく中国へ帰還した。
道雪は立花の城を任せられ、それ以来、立花道雪と名乗った。
0328人間七七四年
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2022/02/08(火) 22:40:45.56ID:7DijzLVu
>>326
東伊豆の河津城には少しだけ違った白米伝説がある。

この城は伊勢宗瑞の伊豆侵攻戦で落城したと云われる。
独立した山頂に在って水が乏しい城で、伊勢軍の火矢から起きた火災を消す水が無い。
そこで代わりに大量の白米をかけて消火した、と。

なお、
河津城の考古学調査に於いて十五世紀末期から十六世紀初頭の出土遺物群に不自然なほど多量の炭化穀物粒が認められている。
0329人間七七四年
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2022/02/09(水) 05:45:50.53ID:Dw9mTBTQ
>>325
確かに白米城伝説はこの城にもあるんだけど、前にジタジタ峠の逸話を投稿した際に飯田市のホームページを見たら城内には御手洗池と天気池と言う湧水もあるし、
飲料水には苦労しそうにない感じもあるのよね。普通は山城の山頂付近に戦時以外は人が住むようなことは無いらしいけど、城主の知久氏が山頂付近に居住してた極めて珍しい山城とも書かれてるし。
0330人間七七四年
垢版 |
2022/02/09(水) 20:48:55.87ID:Dw9mTBTQ
山本勘助の神之峰攻略

>>323の続き

ジタジタ松、またはジタジタ峠にて知久氏らの籠る神ノ峰の難攻不落の堅牢さ、あるいは城兵の余裕の態度に
ジタジタを踏んだ勘助であったが、彼とて一軍の指揮を任される軍師である。このままで終わるわけにはいかない。

そんな勘助が如何様にこの城を落としたか?幾つかの話が伝わっている。

1.大鹿のおばあさんの案内。

勘助は家来を薬売りに化けさせると上久堅大鹿の民家を訪ねさせた。薬売りに化けた家来に言わせた口上はこうである。

( ゜Д゚)「私は薬売りだが知久の兵に頼まれて薬を届けに来たのだが、武田軍が城を囲んで城に入ることが出来なくて困っている。どこか城に入る道は無いものか?」

その言葉にある民家の老婆がこう答えた。

(*´∀`)「あの城は3方は険しくなっているが、東の方から行くと楽に行けるよ。」

( ゜Д゚)「婆さんありがとうね。」

城は落ちた。


2.久七の案内。

勘助ら武田軍は久七という名の老人を捕えて尋問したところこのように答えた。

(;´Д`)「あの城は西、北、南は急な道しかなく登るのが大変だが東側は平な尾根がありますだ」

城は落ちた。

現代の特殊詐欺もかくやという感じの話である。今も昔も御老人というのは人が好いというかなんというか・・・。

飯田市ホームページ
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/kannomine.html
0331人間七七四年
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2022/02/09(水) 21:03:22.07ID:BYb0sKEV
>>330
> 今も昔も御老人というのは人が好い

老人は親切にも、勘助に道を教える為に右手で絵図を描いた。
描きながら左手は掌を上に向けて人差し指と親指で意味有り気に輪っかを作りつつ勘助の鼻先に突き出していた。
老人が後に黒田如水と名乗ったのはまた別の物語である。
0332人間七七四年
垢版 |
2022/02/09(水) 21:13:26.24ID:Dw9mTBTQ
山本勘助物見の松 異聞と提灯づるね

山本勘助物見の松より南西の方向、下久堅虎岩と接する尾根筋一帯に提灯づるねとか提灯ずるねと呼ばれる公園がある。
勘助は物見の松に上って神ノ峰城の様子を偵察すると夜襲をしかけて城に火を放って一気に攻略したという。

この時、城の西側に位置するこの場所に沢山の提灯をつるして大軍が居るように見せかけて、敵の注意をこちらに引きつけ、城の東側から
攻め込んだともいわれている。

余談ではあるが同じような逸話が毛利元就にもある。

謀神の佐東銀山城攻め
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8468.html

こちらも、毛利元就が1541年に安芸武田氏が支配する堅牢な佐東銀山城を攻めるのに搦手に位置する長楽寺(広島市安佐南区)を調略したのち、
城の大手門側に位置する太田川へ地元住民に油に浸した千足の草鞋を作らせて夜に火をつけて流し、城兵の注意を大手門側に引き付けたのち、
搦手から攻め上って城を落としたというものである。
ただの偶然なのか後世にどちらかを参考に作られた逸話なのか?

面白いのは元就が作らせた千足の草鞋から来る千足、勘助が提灯を吊るさせたづるね(ずるね=尾根を意味する)
いずれも現代に地名として残っているのである。

飯田市ホームページ
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/kannomine.html
0333人間七七四年
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2022/02/10(木) 08:20:36.16ID:8EfNC8Nv
>>330
尋問された老人はともかく

_人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人_
> 若い男に道を尋ねられたら素直に答えるしかないじゃない <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄

https://i.imgur.com/RUwZ5Op.jpg
0335人間七七四年
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2022/02/11(金) 19:06:14.95ID:W8VD7UMk
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13378.html
怯者が負け勇者が勝つだけのことだ
の吉田一祐の話を「大友興廃記」から

「大友興廃記」より一祐働きの事 付、月山の長刀

さる天正十四年に薩州勢討ち入り、足軽六十人が乱妨のために臼杵の城下へ押し入り、津久見に帰ろうとした。
吉田一祐という武士は平原坂に待ち伏せを行い、長刀をふるい足軽十八人を討ち取った。
一祐の侍たちも二十三人を討ち取り、宗麟公から褒美に月山の長刀を拝領した。
大友家退散の後、臼杵佐伯は太田飛騨守(一吉)のおさめるところとなったため、一祐は前々の知行である栗山で耕作していたところ、
飛騨守家老・高橋六右衛門尉という者が一祐の月山の長刀を所望した。
一祐「一命に代えても取らせない」と断ると、高橋は一祐を恨み
年貢の取り立てがうまくいってないと飛騨守に言って兵を出してもらい
「まず人質をとってそのあとに滅ぼそう」と足軽十人に言って「事がならないようなら一祐をからめとれ」と栗山に遣わした。
兵が門の前から「百姓(一祐)の人質を出せ」と言うと一祐は「人質を出すべき理由もない、武具にてお相手しよう」と断った。
足軽が「力及ばず」と言ったところ高橋は自ら出陣すると馬で行ってみれば門の扉に矢狭間をあけて一祐がかまえていた。
高橋は不敵な者なので「この扉の矢狭間はなんだ?」と仔細を問うと
一祐「百姓の家のため武具は持たず、高田という金よき鎌を高橋殿の足にひっかけてはあしからん」とはやしたてた。
高橋「即時に討ち果たさん」と臼杵に急を告げ臼杵の家中の衆で栗山の屋敷を取りかこんだ。
一祐の一類六十余人は家に籠った。
0336人間七七四年
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2022/02/11(金) 19:11:56.68ID:W8VD7UMk
ここに豊後の住人、植田玄佐鎮定の嫡男で善三郎というものがいた。
飛騨守は善三郎に「おまえは一祐と旧情があるため話をつけよ」と命じた。
善三郎が扉を開けようとすると百姓が引き留めて
百姓「一祐は昼時に妻子を殺して、焼き草をつみ、その上に拝領の長刀を添えおいているため、入らない方がよいでしょう」と言った。
一祐に一人の甥があった。日頃不仲であったがこの度一祐に一味しようと言ってやってきた。
一祐は大いに怒って「汝は臼杵に頼まれたのであろう。さしづめ一祐の首をささげれば知行を安堵、との謀であろう」と追い返した。
甥はしばらくすると妻子を連れてきて妻と子を害した。
一祐はこれをみて涙を流し感じて屋敷に引き込んだ。
一祐の屋敷は岩壁がめぐる険阻な地形でただ一口だけあいていた。
岩壁につけてある大竹は二尺、三尺の長さで切っ先をするどくしてあった。
しばらくは屋敷を囲んでいる武士も破れず過ごしていると、一祐が扉をあけて、長刀を手にして攻めかけてきた。
寄せ手はあるいは長刀に斬られ、あるいは岩壁の竹に貫かれて三百六十人が討ち死にした。
飛騨守の伯父・通随という人も一祐の長刀に斬られ傷を負い、岩壁に砕けてうせた。
その後、一祐が門を閉じ引きこもると、夕方に裏門から人が入って火をつけ焼いた。
この火事の隙に武士が乱入してきたが、一祐に斬られ、退けられ、向かおうとする敵は一人もなかった。
高橋六右衛門尉と植田善三郎が「進みてはや一祐を討ち取れ」と下知した時、物陰から鉄砲で一祐の肩の骨をうち通した。
一祐が長刀を突き立てているところに、植田が二つ玉の鉄砲で一祐の真ん中をうち通し、脇にいた敵が「これは一祐ぞ」と首を取ろうとしたが、
一祐は伏しながら長刀で彼の者の膝を払って殺した。
そののち平左衛門尉と言う者が、一祐が伏しながら振るった長刀で片膝に傷を負いながらも、一祐の首を取った。
一祐の甥は佐藤仁右衛門尉に討たれた。
この度の戦いで一祐は八十三人を討ち取った。雑兵の討ち取った数はしれなかった。

この月山の長刀は先年、大友政親公(16代で宗麟の5代前)の御代に山伏が「出羽国歯黒山より、さる方の進上なり。御披露あれ」といってきた。
政親公は古庄八郎を奏者にして「さる方とは覚束ぬ」と言うと、この山伏は「失念申し上げるに、たださる方よりと御披露あれ」と申した。
古庄が政親に披露している間に山伏は消えるがごとく失せた。
この度、一祐が討死したのも主君の御恩賞を忘れず、長刀を他人の宝となすまい、と思い入った故だろう。
0337人間七七四年
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2022/02/12(土) 09:33:18.17ID:nZ1BKNY5
戦国時代のころ、来島城主久留島氏丹後守康吉(村上康吉)の家臣に、田坂槍之助(鑓之助)貞掾という
武芸に秀でた来島水軍切っての豪勇無双の武士がいた。

槍之助という名は主君より命名されたもので、槍之助の槍の妙技はすばらしいものであったということだ。

ある時、来島瀬戸を十反帆ばかりの船に乗った芸州・佐伯氏の家臣二十数名が、海の通行税である帆別銭を払わずに
来島海峡を強引に通過しようとしたことがもとで、槍之助と決闘になった。

小舟に乗って佐伯の船を追いかける槍之助
(# ゚Д゚)「帆別銭払えやゴルァ!天下の法を蔑ろにするんじゃねぇ!」

一人と見て舐め腐った態度の佐伯家臣
( ´∀` )「この広い海に関所を設けようとは笑止。帆別銭が欲しければどこまでもついてこい」

(# ゚Д゚)「んんんんんー、許るさーん!!」

怒った槍之助は相手の船に乗り込み遂に佐伯の家臣と決闘に及んだ。刀を抜いて応戦する佐伯の家臣達であったが舟の戦に慣れた槍之助の敵ではなく
ただちに2名が突き伏せられ、船が潮に流され潮に流されて船が桜井(今治市)の志々満が原のあたりから江口の浜辺に着いた時には、
八人が突き倒され、六人が深手を負わされるという有様、佐伯の家臣らは船上での戦いは勝ち目がないと考え、陸上で勝負をしてくれるように槍之助に頼んだという。

(# ゚Д゚)「よかろう」

義理人情に厚い槍之助は船上から砂浜に場所を変え、残った7、8人ほどの佐伯の家臣と渡り合い、
ここでも5,6人を突き伏せ手傷を負わせたがいかに槍之助が強いとはいえ多勢に無勢、最後は力尽きて
討たれ、首を取られてしまった。

とはいえ生き残った佐伯の家臣は5人、無傷の者は1人だけと言う有様だったという。

佐伯の家臣らは槍之助の首を塩漬けにして安芸の国へ持ち帰り、主人の佐伯公に槍之助の首を見せ事の次第を説明したところ・・・


(#^ω^)「天下の法を破った上にたった1人に後れを取るとか情け無さ過ぎんだろJK」

この家臣らは佐伯公に全員追放されたという。
0338人間七七四年
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2022/02/12(土) 09:47:35.56ID:nZ1BKNY5
今治の里の人たちは法を守るため、身命を顧みなかった槍之助を称えてその亡骸を桜井の入り江の浜にねんごろに葬った。

その後、槍之助の墓の前を馬に乗って通り過ぎる者があれば不思議と悶え苦しむということが相次いだため、
里人はこれを槍之助の迷える魂の祟りではないかと考え、小さな社を立てて江口八幡宮(入江の八幡宮)と呼んで
その霊を丁重に祭った。

現在、この小さな社は沖浦(旧桜井町沖浦)の江口山(俗に明神山ともいう。)の頂のながめのよい所にあり、
現在桜井の網敷天満宮の境内にも小祠が設けられていまる。またこの小さい社を設けた時に、次の一首を献納して神体としたということだ。

‟槍水の流れ涼しき田坂氏”
 末まで磨く玉鉾の道

今治地方の伝説集 43.槍の名人 田坂槍之助
https://www.imabaricci.or.jp/%e4%bb%8a%e6%b2%bb%e5%9c%b0%e6%96%b9%e3%81%ae%e4%bc%9d%e8%aa%ac%e9%9b%86/#yarinomeizin
0339人間七七四年
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2022/02/12(土) 23:28:09.16ID:nZ1BKNY5
いぬる いぬる

愛媛県今治市阿方にある延命寺は行基菩薩が開いて後、嵯峨天皇の勅願によって弘法大師が再会されたと言われているがその昔は今の延命寺より四キロほど北の近見山の山頂にあり、
現在の場所に移ったのは享年十二年(1727)のことで、都合六度目の移転になるという。

さて、そんな延命寺には寺の梵鐘と御本尊である二尊の明王像についての逸話がある。

戦国の時代、豊後国臼杵の大友の軍勢が乱入して延命寺の梵鐘と不動明王、四大明王の二童子が持ち去られたことがあった。

梵鐘は戦争の際に大友軍が相図に使っていたが、夜がくると決まって自然に「いぬる。いぬる」と鳴り出し、また一説には梵鐘を叩いた際に、
「いぬる」(帰る)「いぬる」(帰る)と言う音色で鐘が鳴ったとも言われ、いずれにせよ後難を恐れた大友方は、舟に積んでもとの所へもどしにやってきた。
ている。
ところがどうしたはずみか大友方が延命寺へ向かう途中に舟が自然に傾いて、梵鐘は海中深く没してしまった。

このため長きに渡って延命寺には梵鐘が無かったのだが、宝永年間(1704−1710年)に新たな梵鐘が作られて今日に至っている。
この鐘も松山藩が徴発して大砲の材料にしようとしたことがあったのだが、城に運ばれて片隅に置かれた梵鐘が自然と「いぬる」「いぬる」と
鳴ったため、元に戻されたのだという。

一方で大友方が梵鐘とともに持ち去った二尊の明王像であるが、こちらは城内に安置して護持を行ったところ夜が来ると奇光を放つので
恐れた大友方によって密かに延命寺のある近見山の麓にある谷へ返されたという。

すると不思議なことに、自然と近見山の山谷がひどく鳴動したり怪しげな光が天を衝くと言った奇妙な現象が重なることとなり、
怪しんだ僧侶がこの二大明王像を見つけて本堂に還座したところ、奇異な現象はぴたりと止んだのだそうだ。

そして、それから寺が火災に罹った時にもこの二大明王を祭っている本堂は火災から免れたそうである。
二大明王はその後いたみがひどく大部分は修理された様子であるが、現在も御本尊として祭られている。

34.不思議な梵鐘と二大明王
https://www.imabaricci.or.jp/%e4%bb%8a%e6%b2%bb%e5%9c%b0%e6%96%b9%e3%81%ae%e4%bc%9d%e8%aa%ac%e9%9b%86/#husigina
0340人間七七四年
垢版 |
2022/02/12(土) 23:35:40.26ID:nZ1BKNY5
さて、この話は実はこれで3度目?の投稿となる。
かつて投稿された2つの話

「いや〜ん、いや〜ん」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8422.html
「いぬ〜いぬ〜」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8397.html

この2つの話のうち、「いや〜ん、いや〜ん」の方は同じ延命寺(四国霊場五十四番札所)の話で梵鐘を盗んだのは長宗我部元親の軍である。
また、「いぬ〜いぬ〜」の方は讃岐国分寺(四国霊場八十番札所)の話で鐘を取ろうとしたのは生駒一正とされている。

この話では大友氏が盗ろうとした話になっているのだが、一体どれが正しいのやら・・・。
0341人間七七四年
垢版 |
2022/02/12(土) 23:46:40.10ID:hTHzdgBs
八十八箇所・五十四番札所の延命寺(えんめいじ、今治市)の
ひとつ前の、五十三番札所が圓明寺(えんみょうじ、松山市)でややこしい
なおその延命寺、元は圓明寺だったらしい
0342人間七七四年
垢版 |
2022/02/12(土) 23:48:14.32ID:hTHzdgBs
「いや〜ん、いや〜ん」の方を読んだら書いてあった、失敬
0343人間七七四年
垢版 |
2022/02/13(日) 09:48:53.33ID:8Njgkb2G
    __,-─-、__
   (〆-─-ヽ)
    ( ´・ω・` ) 狸じゃ、狸のしわざじゃ!四国だけに
   /  ,r‐‐‐、ヽ
    し l  x )J
   _.'、 ヽ  ノ.人
 (_((__,ノUωU. (酒)
0344人間七七四年
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2022/02/14(月) 01:22:41.38ID:pM3JFnrJ
「大友興廃記」より高城川の戦い(耳川の戦い)

(大友の軍配者・角隈石宗が「彗星が出て不吉だから、四十九の厄年だから、大友氏と島津氏は両家とも家祖が頼朝の息子で御連枝だから」
といろいろ理由をつけて島津との戦をやめるよう、大友宗麟に諫言したが、結局は日向に繰り出すこととなり、十月十一日に大友軍が高城を包囲し戦闘が始まった)

互いに日夜鉄砲を打ち合って日を過ごしていたところ、島津義久公は鹿児島で十一月七日の夜に
「うつ敵は 龍田の川の もみじかな」という霊夢を見た。
義久「これ、天のあたえたまう所なり、軍は大利あるべし」と悦び、大隅・薩摩から十五から六十の土民・百姓まで戦に駆り出した。
四万の兵で十一月十一日に高城まで押出し、佐渡原に義久公本陣をおいた。
この時、白狐が義久公の御旗本より敵方へ向かったため、薩州の家の吉兆であるとみなした。
(この後、薩摩の布陣の説明が延々と続く)
0345人間七七四年
垢版 |
2022/02/14(月) 01:25:21.38ID:pM3JFnrJ
大友軍の先陣、佐伯宗天(惟教)から御本陣に薩摩勢の援軍について注進をしたのち
宗天は「御旗本の到来を待つべし」と主張。
一方、もう一人の先陣大将・田北鎮周は「御本陣への注進には及ばず、ぜひ戦をせん」と主張。
宗天「大軍と大軍の合戦においてはさようのおもむきにては利を得ざるものなり。
まず敵の手立てを見計らい、味方の人数配置し種々の武略計略をもちいて勝ちをおさむるものなり」
また軍配者・石宗も「多勢を使うは大事のことなり。早速敵陣にかかりては勝利あるまじ。
その仔細は陣の形を見るに、この方よりかからんを待つらしくおぼゆ。
敵色を見計らい、この方にても策立てあるべし。」と宗天に同意。
田北鎮周「各々は申さるるになされよ。この鎮周においては目の前に見ゆる敵を、さようにのびのび見んような分別は一向に同心ならず。
明朝、鎮周先駆け討ち死にして見せん」とわが陣へ帰る。
石宗「鎮周、日ごろの覚悟よきとも、軍法に背く分別にてはよきことあるまじ。
人数のくばり、軍の手だてもいたずらなり。豊後にて申し上げたがごとく、当年大軍を起こすこと不吉なり。」
宗天「先陣を仰せつけられ、鎮周にわかに気を負い、無分別となる。
軍に利を失い、日ごろのほまれも水になるべし」と悔やむ。
諸軍将は鎮周に同心し、宗天の意見に従うものはわずかであった。これは不吉の相であった。
臼杵惣左衛門、柴田何左衛門、斎藤進士兵衛、この三人一同は、かくなる上はと
「鎮周、かくのごとき分別なれば、明朝討ち死にあるべし。諸軍勢も利を非に曲げてかかるゆえ、利あるまじ。
この食い違いを推し量るに、宗麟公の果報も末なり。御運かたむく端なるべし。
明日死ぬべき命ならば諸郡に先立ちて討ち死にせん」
ということで、十一月十一日申の刻のおわりに三人かけだして討ち死にした。

宗天は相備えを三段にしようと佐伯掃部介を使者として鎮周に使いを出したが、掃部介が鎮周の陣に行ってみると、かがり火をきかせて
大魚を焼き、明朝討死しようと酒宴をしていたため、掃部介は宗天の伝言を伝えず帰還した。
掃部介から鎮周の覚悟のほどを聞いた宗天は
「今度、鎮周よこしまなる分別にて討ち死にせんことのみ思い軍に勝つべきてだてなし。まばらけの軍にては利を失わん」と仰せになり、
御子息の惟真、鎮忠も「おおせのごとく、この度の軍はみな談合も不合なるものばかりにてよきことあるまじ」と賛同した。
とはいえ鎮周だけに戦をさせるわけにもいかないと、宗天軍も明朝の出陣を決意した。
0346人間七七四年
垢版 |
2022/02/14(月) 01:30:16.85ID:pM3JFnrJ
翌、十二日の卯の刻の終わりに鎮周は田北勢を率い、宗天も陣を三段構えにした。
鎮周は薩州の先手・本郷(北郷?)の軍を突き、敵陣が魚鱗であるとみた宗天の勢は偃月に陣を変え、本郷の六千余の陣を打ち破り、本郷(時久と久盛?)を討ち取った。
味方後陣の勢も続けてかかり、敵勢を討ち取り、大利を得、敵に敗軍させ、財部までおいこみ、川辺に陣取ったため、高城のおさえも豊後勢の若武者も先陣に加わろうとかかっていった。
その時、敵はもとより鳥雲の陣を奥義としていたため、島津右馬頭(以久)が川上からより横槍を入れ、また城からは山田新助(有信)を侍大将として城中の人数を出してきて、
義久公も佐土原より旗本をよせてきて、豊後勢の陣の道を取り去った。
一方には大沼、または広い池があり、敵は地理案内のため、豊後勢を沼や池に追い込んだ。
こうして豊後勢は討たれて利を失い、宗天父子三人は戦死、鎮周も討死に、田北勢の武士も過半が討たれた。
宗天・鎮周が討たれたため、薩州が大利を得た。この戦いで敵味方六万六千余が討ち死にした。
宗麟公の御旗本から卯の刻に「辰の刻に御本陣をよせる」と使者がきたが、鎮周の型破りな無分別のために豊後勢はこのようになった。
これを議すると、宗天・鎮周がこの度、先陣の両大将をたまわり、股肱の臣として命を全うすべきでありながら、鎮周の無分別のために利を失ったことは、天命だったのだろう
十一月七日の夜、義久公の霊夢に出た
「うつ敵は 龍田の川の もみじかな」というお告げのごとく、豊後勢は池川にて大勢討ち死にし、天より勝利を義久公に授けたのであろう
0347人間七七四年
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2022/02/14(月) 01:35:28.00ID:pM3JFnrJ
なおこの後「宗天の人数 戦死の侍」の条があり、

佐伯宗天は平生、家臣に対しても礼をもって接していたことご書かれており
主君とともに敵に対して一歩も引かずに討ち死した家臣
百二十人の名前が数ページにわたって記されている。

佐伯宗天(惟教)と息子の惟真・鎮忠が戦死したため
豊後佐伯氏の家督は惟真の息子の惟定が継ぐことになる
↓この前出た話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13371.html
豊後の佐伯太郎惟定は、驍勇智謀の将であった
0348人間七七四年
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2022/02/15(火) 12:28:20.72ID:mKlVt3NR
或る本に、(新井)白石先生の曰く、古田織部正は古き珍宝の全き(破損等のない状態)を、
余りに思い所無しとして好まず、されば書画のような物でも、かの所を切りこの所を断ち、凡ての
茶具をも多く損ない破り、又補い綴いで用いた。
これを世の人達は皆、興ある事に思い学んで、世に全き物は無くなる程の有様と成った。

松平伊豆守信綱の実父である大河内金兵衛久綱は、常に側の人にこのように言っていた。
「この人(古田織部)は必ず災いに罹りて死ぬべき者なり。」

その後、実際に古田織部は罪を被って誅せられたため、人々は驚き「どうして予てからそのように
見て取っていたのか」と久綱に問うた所、

「古の宝物と聞こえていても、多くは世々の乱に失せて、今有る所の物は皆、神仏が護持してこそ、
世に残ったのだろう。そのような物に対し、自分一人の好みに随って破るような事は、必ず鬼神の
悪む行為に違いない。ならばその人も又、身を全うして終わることを得ないだろうと思ったのだ。」

そう言ったという。非常に金言と言うべき、古き人の物語を承った。これは此年(現代)に於いても、
萬に付け渡って心得有るべきことではないだろうか。

(新東鑑)
0350人間七七四年
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2022/02/15(火) 13:42:27.21ID:qdlarutW
それも含めてのへうげっぷりならばよし!
0351げひひ
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2022/02/15(火) 17:02:14.55ID:MQXZMTnS
珍宝は
 玉と砕けて
  花と散る

    
0353人間七七四年
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2022/02/16(水) 11:20:01.09ID:QRrDT6wP
一説、塙団右衛門(直之)は大坂夏の陣・樫井の戦いにおいて、多胡助左衛門に射られながら駆け寄り、
多胡の弓の弦を十文字の鑓にて突き懸かったが、その時八木新左衛門が鑓を以て渡り合った。
塙直之は重傷であったが、小家の壁に寄りかかり、八木と鑓を合わせ、首を新左衛門に取らせ、
天晴なる討死をしたという。

別本に、亀田大隅(高綱)の家記に、塙団右衛門を彼が討ち取ったと伝わる。即ち直之の具足も、かの家に
有るという。しかし浅野家においては八木新左衛門が討ち取ったことに決定している。亀田方はこれを
憤ったとされるが、亀田の息子である半左衛門曰く
「父大隅一代の軍功、挙げて数えることも出来ないほどだ。それなのに塙の首一つをとやかくと
論ずるには足りない。如何様にも申されればいい。それに憤るような事は無い。」と申したという。

ある本に、団右衛門の死体を埋めた塚は、樫井村の北の方にあるが、紀伊国衆の小笠原作右衛門という人が
直之の親類で、その塚に五輪を立てたという。

別記に、この当たりの土地の者達曰く、毎年七月十五日には加州金沢の人がここに来て、墓の塵を払い、
燈籠に火を揚げるという。然れば塙の子孫は加賀国に在るのだろうかと言っていた。

(新東鑑)

塙団右衛門の討死について
0354人間七七四年
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2022/02/17(木) 03:25:59.58ID:uOKqziaB
蛸釣り陶器のいわれ

>>348で珍宝の破壊者、オリベィドの話が出ていたので盟友である有楽斎の(部下)お話を

昔、来島海峡の近くの唐津崎の沖合からは優雅な青磁や白泥の陶器が、よく引き上げられた。

これは約140年ほど前の、文政10年(1827)の夏に来島の一漁夫が蛸を釣り上げたところ、一個の陶器を抱いて上がったことから古老のいい伝えを耳にし、蛸の吸纒力にヒントをえて、
蛸の足に細い縄と適当な錘をつけて、海中の陶器を釣り上げたことにはじまると言われています。その後、他の漁夫もこれに見習っていろいろ変った陶器を釣り上げたという。

このようなことから、人々はこれらの来島海峡の海底から引き上げられた陶器を蛸釣り陶器と呼んだ。
大正の終わりから昭和のはじめにかけて潜水夫によって大量に拾い上げられたため、今は殆どなくなったとのことである。
来島海峡の海底から何故このように名品の陶器が上がるのか?それには次のいい伝えが残ってる。

1587年(天正15年)北野の大茶会があってから十年ほど経た慶長のはじめに、豊臣秀吉の命を受けた織田有楽斎が喫茶用の陶器を全国に派遣されて集めたことがあった。
事情があって九州地方は有楽斎の家来の上田藤右衛門がその任に当たり、藤右衛門は朝鮮から帰化した陶工をはじめ九州各地の窯元に命じて、新しい造形感覚を求めた素晴らしい茶器をいくらも焼かせた。
ある時、この九州各地で製造された陶器や明や朝鮮から取り入れた珍品などを、五万石積みの大船に満載して大坂をめざして帰る途中、斎灘で折り悪しく暴風雨にあい、船は今にも転覆しそうな状態になった。

乗員達の懸命の努力で沈没は免れ、船は宮崎の鼻にある唐津の磯に避難した。

陸に上がった藤右衛門はとある百姓家に泊めてもらい風雨が収まるのを待っていたところ、たまたま秀吉が病で亡くなったという知らせが伝わってきた。
これを聞いた腹悪しき船長は藤右衛門が陸に上がっている隙にこれ幸いと、めぼしい品を盗み船を沈めていずことなく姿を消した。
責任を感じた藤右衛門は、岩の上で割腹して果てた。
時に慶長3年(1598)十月九日であったという。

里人はその心情を憐み、その霊を慰めるため、小さい祠を建立して鄭重にお祭りし、その祠を唐津明神(加羅津崎神社とも)と呼んだ。
現在は近くの宮崎神社(今治市波方宮崎の御崎神社?)に合祀されている。
唐津明神の起源については西日本で焼物のことを、一般に唐津物といっているところからきたのではないかと思われる。

また、藤右衛門が割腹した場所は、唐津崎とか、唐津の磯とかいわれてその名残をとどめている。

今治地方の伝説集(今治市商工会)139. 蛸釣り陶器のいわれ
https://www.imabaricci.or.jp/今治地方の伝説集/#takoturitouki
0357人間七七四年
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2022/02/17(木) 12:20:46.09ID:tEs/oNjS
蛸壷のお話しじゃなくて蛸に陶器を採らせるお話しか

秀吉が亡くなった時にこういったちょっとした事件って各地で起こっていたりするのかな?
0358人間七七四年
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2022/02/17(木) 21:26:23.41ID:NkW8zfKw
お前ら和歌山県出身の下村拓郎様(35歳独身、元自衛隊)をご存知か、この方は将来素晴しい人物になるから覚えておいて損はないぞ
0359人間七七四年
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2022/02/17(木) 22:27:09.19ID:SFDxaC0D
大正15年の「少年少女歴史ものがたり」から「伊藤(東)満處と犬の糞」

戦国時代、都には大嵐と雷という二人の相撲取りがいて、それぞれ東西の大関として名を轟かせていた。
ある時、豊後に興行に行き、竜王山の城下の茶屋で休みながら二人で自慢話をし
「この世に英雄豪傑は数多いが、力業では俺たち二人が日本一だな」と大声で言った。
するとくすくすという笑い声が聞こえたので「俺たちを笑うか?」と雷が睨んだところ、
「だって、日本一が二人もいることからしておかしいじゃないか」と、十五、六の少年が言った。
雷も「うう」と黙ってしまうと見物人も笑って「それで、どちらが日本一なんだい?」と聞いてきた。
少年も「それなら力比べをしてごらん」と言ってきたので、力士たちもその気になり、四股を踏むと、地震のような地響きがして見物人はみな逃げ去ってしまった。
少年はまだ残っていて馬鹿にしたような顔で「さあ相撲だ、のこったのこった」と言ってきたため、
力士たちは馬鹿らしくなり「やめたやめた、俺たち二人とも日本一でいいじゃないか」と言った。
すると少年が「でもお前たちは私の友達の原大隅守にはとても及ばないよ」と嘲笑ったため、雷と大嵐は怒って、少年に案内されて原大隅守の屋敷に向かった。
屋敷の門前には立て札があり「余と力比べを望まれる方は、その姓名を黒い碁石で門柱に記されよ」
と書かれていたため、力士たちは碁石を檜の門柱に親指でポツンポツンとめりこませ、玄関に入った。
取次のものに案内されて部屋に入ると、そこには一七、八の若者が着座していた。
若者は自分が原大隅であると名乗ると、床の間の大鹿の角を握って粉々にしてしまった。
大嵐と雷は驚いたものの、自分達も鹿の角を借りてめりめりと床柱に押し込んだ。
原大隅守は「これはお見事」と言いつつ、小指でその鹿の角をほじくり出したため、力士たちは驚いたが「今度は相撲でお相手したい」と言った。
そこで原大隅守は竹藪に行き、周囲一尺はあろうかという大竹を根本から二本の指で摘みあげたため、相撲取りたちはこれは敵わぬと逃げていってしまった。
それを見た最初の少年が笑っていると、原大隅守は大竹をちぎっては捨て、ちぎっては捨て、と土俵を作っているところであったが
原「伊東氏、どうしたというのです?」
伊東少年「二人とも逃げていったのですよ、あはははは」
原「おやおや、せっかく相撲場ができたのに、どうしてくださるか?」
てっきりいっしょに笑ってくれると思ったのに、とあての外れた伊東少年はまた何か思いついたらしく
「ではこの私、伊東満處(まんしょ)が二人に代わり、日本一を決めるために立たねばなりますまい」と言った。
原「いい加減にしてください。いくら貴君が御主君の一族にせよ、承知できませぬぞ」
伊東少年「まあまあ怒るでない、それにしても腹が空いたな、幸いここに犬の糞があるから君もやらぬか?」
と言いながら伊東少年は犬の糞を拾い上げ、原大隅守に半分すすめた。
原大隅守はますます怒ったが、伊東少年は「日本一の勇士ならこのくらい食えるだろう」と全部むしゃむしゃ食ってしまった。
原大隅守も負けん気を出して「貴公に食えて、私に食えぬわけがない」と、伊東少年が新たに拾った犬の糞を我慢して食った。
「ではこちらもどうだ?」と今度はぐにゃぐにゃするやつを差し出したため、原大隅守は閉口し
「もうおぬしを日本一とするから勘弁してくれ」と謝ったので、伊東満處は笑って承知した。

さてみなさん、伊東満處は本当に犬の糞を食べたのでしょうか?
馬鹿な、後に大友宗麟の使者としてイタリアに千々石ミゲルとともに洋行し、
時のローマ法王グレゴリー三世に、「この神の如き美少年に会う、死すとも恨みなし」と賛美された程の聡明な少年であった彼です。
(なおグレゴリオ13世は謁見後の翌月に亡くなっている)
実はポルトガル人からもらった犬の糞に似た菓子を食べ、原大隅守には慢心を戒めるために本物の犬の糞を食わせたのです。
おもしろいことに、そのあと伊東満處は熱烈なキリスト教信者となり、原大隅守はまた熱心な仏教信者になって、四国遍路の旅に上ったということです。
0360人間七七四年
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2022/02/21(月) 14:35:59.50ID:hV6S0u/J
或る本に、大坂夏の陣・樫井の戦いが終わり、米田監物、御宿越前守、上条又八等は、
安松に於いて敗走してきた岡部大学(則綱)に会うと、
「(塙)団右衛門を捨て殺し、男は立つまじ!」
と悪口したが、岡部からは返答もなかった。

これによって何れも、この戦いの主将である大野主馬介(治房)に、
「臆病者を組に置くことは無用である。」と、岡部大学を追放するよう申したが、治房はこれを聞くと
「尤もなる事であるが、今に至って物頭を追放することは如何かと思う。御利運(勝利)の上にて
処分をしよう。」
と申した。これにより皆々主馬介とは不和に成ったという。

或る本に、岡部大学は塙団右衛門と古傍輩にて、加藤嘉明の甥・川村権七の母方の叔父であるという。
大坂の陣の後、城を落ちて剃髪し、愧世庵と称した。
時の人が彼に大坂の陣のことを尋ねると、

「某は隠れもなき者なるが、男のならぬ首尾にて、かかる身となった。
そのため合戦の次第は、全く存じない。」

そう答えたという。

(新東鑑)

樫井の戦い後の岡部大学について
0362人間七七四年
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2022/02/21(月) 16:31:04.82ID:1cd2BFms
今年の大河ドラマでSNS考察勢がよく書いてる、ヒャッハーな坂東武者も京の権威とのつながりが大事って話
室町戦国もそんなもんで江戸時代も同様だよなあと思うし
そもそも古墳時代の稲荷山鉄剣銘文のヲワケの臣からしてそうだったよなあと
もう国の成り立ちの始まりからの伝統なんすね
0363人間七七四年
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2022/02/21(月) 17:01:35.81ID:ZDFCkngZ
柳田國男「山島民譚集」の「河童駒引」から葦毛馬
(「濃陽志略」に書かれているそうだ)

田口氏の祖先は遠山玄蕃という武士であった(遠山友忠によって攻められている)。
かつて葦毛の馬を飼っていて、夏の日に川の淵に放置していたところ、その馬がにわかに走って厩に帰ってきた。
下人たちが見たところ、小児が馬のそばにうずくまっていたが、よく見たら河童であった。
水中から馬の足を掴んだところ、驚いた馬が一目散に厩に馳せ帰ってきたのだろう。
下人たちは河童を打ち殺そうとしたが、玄蕃は制止し、「今後は人畜を害せぬように」とさとして帰らせた。
このことからその淵の名を「あしげの淵」とよぶようになった。
葦毛の馬が高名を成したためにその呼び名がついたのであろう。

ついでにこの柳田國男の本には「博多細記」出典として、
黒田家家臣が、便所で妻の尻を触った河童の腕を落としたところ、
河童が腕を取りに来て、代わりに傷薬をもらった、という話も載っているが
この「博多細記」とは、今までも何回か黒田忠之関連で投稿されている「博多細伝実録」のことである
0365人間七七四年
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2022/02/21(月) 19:48:57.17ID:ZDFCkngZ
ついでに柳田國男は「山島民譚集」で葦毛の馬の章をもうけていて
葦毛の馬の糞が金創(刃物の傷)の妙薬になるということが、「甲陽軍鑑」の松代攻めの箇所に書かれているとしているが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3655.html
ここでうんこの話だよ。うんこうんこー!

この逸話の元になっている、「甲陽軍鑑」第三十二の
第四次川中島合戦の時に甘利左衛門尉の同心頭である米倉丹後守惣領子彦二郎が撃たれて肺出血を起こし死にかけた時に
「葦毛馬の糞水、煮立てて飲み候えば血をくだす」と言われ、
彦次郎は拒否をしていたものの、甘利が信玄公のお役に立つ方が重要であろう!と自ら飲んで見せたため
彦二郎も飲んだところ、血を吐いて快癒した話を指していると思われる。
大河ドラマ「風林火山」でも主人公の山本勘助が鉄砲にやられた時に馬糞を溶かした水を飲んで治っているので有名なネタかもしれない。
傷薬の処方にに詳しい河童が葦毛馬を持って行こうとしたのもこのためだろうか(馬が溺死したら馬糞も何もあったもんじゃないけど)。

ついでに柳田國男は葦毛の馬(白馬も含めて)が日本各地で不吉な存在として扱われていると書いているが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-223.html
この、とある三好家の忠臣が十河一存に対して「有馬権現は葦毛の馬を嫌うから、有馬温泉に行くときは乗らない方がいいでしょう」
と忠告したのに十河がそれを聞かずに行って神罰を蒙って病死した話も載っけていた。
0366人間七七四年
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2022/02/21(月) 20:08:08.43ID:ZDFCkngZ
訂正、柳田國男が十河一存の話の出典として挙げてる当代記の該当箇所を読むと行くのを止めたのは松永久秀じゃなかった

修理大夫(三好長慶)の弟、十川は松永との間柄が常に悪かった。
この十川が唐瘡をわずらっていたため、養生のために摂州有馬へ、永禄九丙寅年に湯治に行くことにした。
温泉神は葦毛馬が登山することを嫌いたまう、と人皆この旨を十川に告げたけれども、押して葦毛馬に乗って登山をした。
やがて神罰を蒙り、帰国後ほどなくして病死した。

前に出ていた逸話通り、松永久秀が止めたパターンもあるのだろうか
0367人間七七四年
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2022/02/21(月) 20:19:13.35ID:ZDFCkngZ
たびたび失礼、すぐ松永久秀が忠告したパターンが見つかった、申し訳ない

足利季世記「十川一存逝去の事」
永禄三年十二月十川民部大夫一存と松永との中あしく、常に不快を現しける。
そのころ十川殿、瘡を煩に有馬の温泉へ湯治ありける。
松永意見申しけるは「有馬温泉権現はあしげ馬を御とがめある神なり。
この御馬御無用と申す。しかれども十川殿、松永が申すことを用いたまわず。
松永もまた十川殿の宣うことを背ける事なれば十川殿是を聞きたまわず。
葦毛馬に乗り湯治して登山ありけるが、案の如く落馬ありて忽ち死去ありけるこそ不思議なれ。
運命尽くすとな言いながらあえなき事どもなり。
0368人間七七四年
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2022/02/21(月) 21:44:53.35ID:qo/EHyEy
>>363
>黒田家家臣が、便所で妻の尻を触った河童の腕を落としたところ、

尻子玉を抜こうとしたんだろうけど
それは河童というよりただのhentaiでは?
0369人間七七四年
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2022/02/21(月) 22:44:18.34ID:ZDFCkngZ
>>368
「博多細伝実録」だと
妻のことを美婦と記していて、妻がまたいだ穴から黒い手を突き出して狼藉しようとした、
と書いてるから、ただのhentai
0370人間七七四年
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2022/02/22(火) 00:31:24.55ID:V3AWK7vN
>>368
*にフィストファ○クしようとする妖怪とか日本は昔から性癖の国よな
0372人間七七四年
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2022/02/22(火) 13:58:01.99ID:I7TlitT/
女性宅の汲み取り便所でしんでた男の話思い出した
0373人間七七四年
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2022/02/22(火) 21:53:50.35ID:UEXtDzLM
>>369
まだまだヌルいな。
その種のhentaiとしては神武天皇のカミさんの親父が突き抜けてる。
そのhentaiが満更嫌でもなかった女も大概だってことになるが。
流石に始祖王の義父母ともなると格が違う。
詳しくは『古事記』で。
0374人間七七四年
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2022/02/23(水) 08:01:51.78ID:xgKiI7+q
詳しくはWebで・・みたいに言うな
0375人間七七四年
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2022/02/23(水) 15:58:31.52ID:ZuQNmClx
「大友興廃記」より「馬鬼退治の事 ならびに七不思議」

朽網に名山の九重嶽、前嶽、黒嶽があり、黒嶽は仙界で様々の奇特がある。
朽網三河守鑑康(耳川の戦いでは志賀親守とともに肥後口を担当)の代にあたって、黒嶽の麓にある八幡宮に年々神馬を奉じるに、前年に馬を広野に解き放って、翌年神馬をとらえて奉っていた。
ある年の祭りのとき、解き放った神馬が見つからず別の馬を神馬として放ったが、次の年もまた見つからなかった。
何かが馬を喰い殺したのではないかと人々が不審になっていると、樵や草刈りも帰ってこなくなり、実は辻斬りのためではないかとも言われた。
そのうち誰ということなく「先の神馬が馬鬼となって人馬を喰らっている」と流言が立った。
不審に思い、山を探してみると人馬の髑髏や舎利が多く見つかり、往来のものも先の馬が鬼となって人々を害していると噂したため、
三河守鑑康は退治を大久保蔵人と上高(しやうかう)因幡守の両人に仰せつけた。
蔵人は長刀、因幡守は弓を持ち、前嶽のふもとの屏風岩で、おびき寄せようとしたところ、常の馬より長い葦毛の馬がいきり立って歯噛みしてとびかかってきた。
因幡守は三人張りの弓で尖り矢を射たが馬には当たらず、二の矢をつごうとしたが、
蔵人は長刀の石突を屏風岩に突かせていたため、長刀がとびかかってきた馬の胸を貫いた。
明け方になり馬の死骸をみようとしたが、どこにも残っていなかった。
その馬の祟りによって蔵人の子孫に男子ができなかったため、石によって宮を造営し「馬鬼の宮」と号して年々祭った。
今成峠では、その時から今に至るまで清水が湧き出している。

朽網は希有なる所にて七不思議あり、曰く
鳴瀬川:河なき所に波の音あり
音無川:河水みなぎり、波あるが音なし
西の池:池の辺で高声する時は雨降る
念仏の池;池辺にて念仏唱えれば池に沸々と声あり
殺生石:人畜鳥獣、この石に触れて死す
雪中の青蓼:聞こえたるうそ?
仙白水:時々黒嶽より白水ふる
0376人間七七四年
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2022/02/23(水) 16:08:06.89ID:ZuQNmClx
なおこの殺生石も有名な那須の殺生石と同様、元は玉藻前が石になったもので
玄翁和尚が那須の殺生石を砕いた破片がここまで飛んできたという伝説があるらしい
0377人間七七四年
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2022/02/23(水) 18:47:48.53ID:La6fcLzt
将門の首より飛んでるなぁ、殺生石の欠片
0378人間七七四年
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2022/02/23(水) 21:50:51.84ID:eb+KOINo
そういや馬糞で思い出したけど
ウクライナのホロドモールの際、家族のなかで一人だけ生き残った女の子が
自分はコルホーズの厩舎に忍び込んで馬糞を食べてたから生き延びたって話を読んだけど
人間って馬糞食べても平気なんだな。そりゃ溶かした水も飲めるわ。
0379人間七七四年
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2022/02/24(木) 08:35:29.92ID:1vt0lxcq
いっそ殺生石で待ち伏せして殺生石に触れさせた方が楽に勝てたのでは?
大食らいの葦毛の怪物馬といえど、玉藻の前には勝てないだろうし
0380人間七七四年
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2022/03/05(土) 13:53:11.96ID:3+NMX/vT
或る記(難波戦記カ)に、伊予国の人曰く、以前に他国よし来た軍談の旅客があった。
同国道後に於いて浪速乱(大坂の陣)を談じた。当地の村人たちはこぞってこれを聴いた。

彼等は、始めは信じて群参していたのだが、最後の方にかかると「これは虚談である」として、
皆これを信じなかった。これについてかの旅客は「私は全く虚談を述べていない。どういう理由で
そのように言うのか。」と問うた所、村民はこのように言った

「後藤又兵衛については、大阪落城後に当所の温泉に来て、傷を治療したのだ。この事を所の別当が怪しみ
問うた所、その切なる事に好感をもったのか、又兵衛は実を以て答えた。別当は聞いて、その功名を崇み、
かつ、又兵衛の活気に懐き、彼を労り親しんだ。

ところが所の者共これを伝え聞き、公聞を恐れ密かに党を結び、不意に後藤を襲った。
又兵衛基次はこれに立ち向かい、奮迅して数人を斬ると雖も、大勢が打ち囲み、既に縄目の辱に合わんとするに
及び、内に駆け入って自害した。

則ちその首を取り、東武(江戸)に献じた所、御沙汰の上仰せ出された事には、『後藤又兵衛については
道明寺に於いて戦死している。然るを再び後藤の首と言って捧げることは紛らわしい。さりながら
真偽を糺すには及ばず。』との趣にて、その功空しくなった。
その後郷民たちは後藤の霊を恐れ、八幡宮の傍らに新たに祠を立て、九月十三日(八幡宮の例祭は八月十五日
である)、五斗の樽祭といって、この小祠を祀る。

であるのだから、後藤又兵衛が道明寺表において討死と講ずる事は虚事である。然ればその外の事についても
きっと虚事を入れているのだろうから、故に信ずるに足らず。」
と答えた。これに旅客は汗顔して口を噤んだという。

(新東鑑)

後藤又兵衛の生存伝説について
0381人間七七四年
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2022/03/06(日) 07:52:20.64ID:p6915eu/
>>376
那須の殺生石が割れたらしい
今度は破片は遠くへは飛ばなかったようだ
0382人間七七四年
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2022/03/06(日) 13:32:53.93ID:aEanwxFY
と言っても3年くらい前からヒビ入ってたのをなんとか繋いでたみたいだけどな
0383人間七七四年
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2022/03/06(日) 15:12:56.57ID:ipMLukOV
或る本に、神保長三郎(相茂)の部隊を、仙台(伊達政宗)勢が鉄砲にて悉く撃ち殺したが、
(別記によると被害は従者一人であり、長三郎は別状無かったともある。未詳)
後に大御所(徳川家康)よりこの事についてお尋ねが有った所、伊達家より

「奥の兵、一偏の東夷たるを以て、大和武者の美麗を見、『我が党に非ず、城兵なる事必定なり』と
思い誤り候」

と陳謝したが、重ねての台命は無かったという。

別記に、この時伊達方と水野日向守(勝成)家令・塚本弥兵衛、竹本左門、寺島助九郎の三人が
味方討ちしたとも言う。
(新東鑑)

伊達家による神保隊味方討ちについてのお話
0384人間七七四年
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2022/03/07(月) 20:13:21.67ID:o+u3g8Om
「朝野雑載」より六角義郷の話

義郷の父である六角義秀は近江国守護であったが暗愚の将であったため近江の大方は攻め取られ、家臣にも所領が奪われ、義郷が相続したのは十八万石に過ぎなかった。
しかも石田三成の讒言により義郷が死罪になりそうだったのを、秀吉公により名族ということで領地没収のみで許された。
さて三成が義郷を讒言した理由だが、義郷の家人、多良尾彦六入道道賀というものの娘、おまんというものが有名な美人で義郷の妾となっていたのを
三成がうらやみ、道賀に頼んでおまんを所望したのを、主君の妾だとして道賀が断った結果、義郷を殺して妾を奪い取ろうと思うにいたったということだ。
義郷浪人後、おまんのことを聞きつけた関白秀次公はさっそく聚楽第に呼び込んでしまった。
三成は大いにあきれ、この上はと秀次公も讒言した結果、おまんはほかの三十余人の秀次公の女房たちと共に首を刎ねられてしまったということだ。
このように三成が多良尾の娘を取ろうと、罪なき義郷、秀次、および両家一族、幕下の諸将やその家族まで幾千万人も死罪、追放、流刑にしたためその怨念が石田にかえってきて
その身はもちろん、一族縁者家人までことごとく断絶し、末世にいたるまで大悪無道の名を残した、なんとあさましいことだろうか。

※六角義郷:六角氏の子孫を称した澤田源内の偽書「江源武鑑」に出てくる架空の人物
ただし「江源武鑑」では三成が義郷を讒言した理由について、家人同士が争って三成側に死者が出たからとしている
0385人間七七四年
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2022/03/07(月) 20:25:17.89ID:o+u3g8Om
ついでに多良尾道賀(多羅尾光俊)はたしかに娘のおまんを秀次に側室として送り込んでいるが
六角氏没落時点で六角を見限って信長についている
また「江源武鑑」では義郷が秀次に連座した理由として、義郷の部下である鯰江権佐の娘のおこほ、が秀次の側室になっていたからとしていて微妙に違う
0386人間七七四年
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2022/03/08(火) 16:59:38.37ID:5bTTo9MU
>>383
>奥の兵

ところでこの表現なんだけど、過去まとめのこちらではこんな風に書かれてるんだが
奥州独特なのかな?

政宗の黒漆塗五枚胴は雪下胴と呼ばれ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10342.html
>奥州武者(奥士)は馬上で槍をとって戦え
>奥武者の我が家は

他の地方でも同様の呼び方ってあったんだろうか
下野で下士とか備中で備武者とか
0387人間七七四年
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2022/03/09(水) 12:47:50.32ID:1/ZuZ5BC
大浦五郎・六郎の兄弟(共に実名不詳、大浦為則の御実子)は陸奥藤崎城に在し為信公からの御信愛も厚かった。
天正13(1585)年の水無月の大暑の頃、兄弟は水浴びをしようと船で藤崎川に出たところ、故有って2人とも卒去してしまった。
為信公はお嘆きになり堪えきれず兄弟の守役と船の水主を御成敗されたという。
(津軽一統志)

津軽為信の義理の兄弟が水遊び中にどういうわけか死んでしまったという謎の話。
何があったのかは想像に難くないと思う。
0388人間七七四年
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2022/03/09(水) 12:57:26.68ID:x+DZIOFz
信愛厚い義理の兄弟を謀殺するとはと
北信愛も呆れ顔
0389人間七七四年
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2022/03/09(水) 19:38:10.48ID:eRP9GMDf
>>387
守役と水主だけは生還してるってのがなんとも
0390人間七七四年
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2022/03/10(木) 22:22:51.55ID:rUMmCTVv
宇佐美「水遊び中に溺死とな?」
0391人間七七四年
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2022/03/10(木) 22:45:20.98ID:tM0qHdAv
宇喜多「わしのように泳げるやつはおらんのか」
0394人間七七四年
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2022/03/14(月) 13:54:55.47ID:LugW9j32
井戸忠右の家に伝わる話によると、井戸若狭守は明智光秀の親族であったという。

槇島城に在った時、明智はこのように言った
「それがし、思うことあり。その願が満たされるまでは、大国は与えない。小国を一つ参らせよう。」
これを若狭守も聞き咎めぬ顔で居たが、その後光秀は遂に謀反した。然ればこれは光秀が、昔から
その謀反を考えていたという事であり、一朝一夕の思いつきでは無かったという事なのだろう。

(紳書抄)
0395人間七七四年
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2022/03/16(水) 18:28:18.85ID:W5QHGRnF
「朝野雑載」から前田利長家臣、太田但馬守について

太田但馬守(長知)は土方勘兵衛(雄久)の弟であり、前田利長卿の家臣として高禄をうけ、山口宗永の大聖寺の城攻めには一方の侍大将もして活躍し、
丹羽長重との浅井縄手の合戦でも比類なき下知をくだし前田軍を指揮した。
あるとき、但馬は狐の子を捕らえてなぶり殺しにしたところ、母狐が但馬の部下に取り憑き
「但馬はとがなき我が子をなぶり殺しにする。
この怨念、いずかたへかゆくべき。近日かくのごとくにむくうべし」と言った。
利長卿がある夜、寵妾のもとへ通ったところ、忍んでいる男の影があり、みると太田但馬の姿であった。
利長卿はこの時以来但馬を憎んでいたところ、またある夜、寵妾のところに向かったところ但馬があらわれ、姿を消した。
そのためただちに横山山城守(長知)に命じて但馬を斬り殺させた。
なお但馬はその夜饗応に招かれ、酒宴に出席していたため寵妾のところに通えるはずもなく、
その上、深閨との間には番所も多くあり、その夜に人が通った形跡はなかったということだ。
後日よくよく尋ねたところ、かの母狐の仕業だということになった。
この但馬は性格が我儘で人をそしり、偏狭でおのが功績を人に自慢し、自己の利益を欲し、人の恨みを買うような人物であったけれども
知行二万五千石で第一の老臣だったために、表立って非難する人もいなかった。
結局のところ、不善の家には必ず餘殃があるという言葉の通り、最終的には不慮の災難に遭ったと言えよう。

青地礼幹「可観小説」にもある話らしい
0397人間七七四年
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2022/03/17(木) 18:07:38.72ID:JSQj1OF4
加藤清正の股肱の臣である庄林隼人(一心)、森本義太夫(一久)は共に直鑓を好んだ。
庄林は黒鳥毛を以て鞘とし、森本は白鳥毛を以て鞘とした。時の人は彼等を並び称して、これを
「黒鳥白鳥」と云った。

加藤清正が木山弾正の居城である天草城を攻めた時、森本は清正の前での軍議の序において、
「臣は小勇なれども、組討する事は壮力によりません。ただ心を剛にしてその術を知ること、
それだけです。」と申した。

清正は、森本の勇をたのむの気を抑えようとされたのか、「組討の勝敗は偶然である。必ずという
事はない。」とその言葉を制した。
その翌日、森本は衆を離れて敵と遭遇すると、彼は馬上の達者であったので、敵を横ざまに乗り倒し、
飛び下って忽ち首を掻き落とした。そして清正に「臣が言葉、違っていたか否か!」と申すと、
清正も感嘆したという。

朝鮮の役の時、流れ矢が森本の尻に当たった。庄林がそこを駆け過ぎようとしたのを森本は呼びかけた
「矢に当たって耐えられないほど痛い!この矢を抜いてくれ!」
庄林は立ち返ってこれを抜いた。すると森本は

「大いに快きかな!」

との言葉も言い終わらぬ間に自分の馬を引き寄せ騎乗し一鞭打って
「庄林殿、跡に続かれよ!」
と即座に駆けて一番に首を獲った。

(志士清談)

加藤家三傑とも言われた森本義太夫(一久)についてのお話
0399人間七七四年
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2022/03/18(金) 15:14:49.56ID:l73Nz6xM
青地礼幹「可観小説」から「芳斎青木新兵衛の事」前半部分

青木新兵衛(方斎入道)は方々へ渡り奉公をしていたが越前少将忠直卿に仕えた。
その経緯であるが、あるとき忠直卿の家臣、永見主膳が息子の着付けを三宿勘兵衛(御宿政友)に依頼した時、一座に居合わせた若い衆が武功咄を望んだ。
以下、

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4376.html
「真の武士とは」

とほぼ同じ話で、これにより永見主膳に出入りしていた浪人の青木新兵衛が忠直卿に召し出されることとなった。

なお「真の武士とは」では
永見主膳→狛伊勢守、三宿勘兵衛→阿閉掃部
と名前が違っており、
室鳩巣「駿台雑話」の「阿閉掃部」やそれを出典としたと思われる、
神沢杜口「翁草」の「阿閉掃部(注釈では阿閉貞征の息子)」では、「真の武士とは」と両者の名前が同じであるが
主題である「真の武士」という言葉が出てこないので、ほかの出典があるのだろうか。
0400人間七七四年
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2022/03/18(金) 15:20:32.17ID:l73Nz6xM
青地礼幹は室鳩巣の弟子であり、師弟で同じ話を書いておきながら両者の名前が違う理由は不明。
青地は加賀藩士であり、青木新兵衛も最後は前田利常に仕えているため、師の間違いを青地が正したのかもしれない。
(「可観小説」では「駿台雑話」評や室鳩巣逝去についても書かれている)
また「翁草」には

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13192.html
中々鬼にて御座候

の、伊達政宗が青木新兵衛の松川での戦いぶりを褒めたところ、
帰邸後、秀康が永井善左衛門と取り違えて永井を褒め、永井が「それは青木新兵衛です」と訂正し
秀康が「まあどっちも我が家人なのだから強く穿鑿には及ばない」とごまかした話もあり、
この時点で青木新兵衛が秀康から認識されていたのなら忠直の時に無名だったのはおかしい気もする
0401人間七七四年
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2022/03/18(金) 15:23:29.67ID:l73Nz6xM
ついでに山鹿素行「山鹿語類」の「士談五 剛操」には

青木新兵衛が越前で青木紀伊守(青木一矩)に仕えていたころ、同輩の荻野河内のところで寄り合いがあり
その席で武功話をせがまれた新兵衛が、賤ヶ岳の戦いにおける余呉の湖畔での戦いで、立派な前立ての武者と槍合わせをし、
新兵衛が槍をついたところ武者が退いた、という話をしたところ
亭主の河内が「それはそれがしなり。法斎(新兵衛)の具足や指物はこのようなもので、また胴には槍跡がなかっただろうか?」
と尋ねたところその通りだったため、
河内「よい時分におおせられて満足だ、しかしそれがしは槍でつかれもせず、退きもしなかった、
それだけははっきりと言っておこう!」
新兵衛「いや、たしかに某がついて、そなたは退いた!」
と双方引かず、すっかりみんなの興が醒めたところで、河内の十七になる子供が出てきて
「推参ではありますが申し上げます。そもそも殿軍の折ですから双方とも一騎討ちをなさったわけではなく、
それぞれ味方の軍からあまり離れないように戦ったわけですから、一歩、二歩退いたかどうかで言い争っても無意味でしょう。
そのようなことで議論なさるのは、御両人には似つかわしくないと思います」
と言ったところ、新兵衛も大いに感じて穿鑿をやめ、座中も感じて興を催したということだ。

という主君が忠直ではなく青木一矩で、組み合わせた相手も荻野河内と違うが、似た話がある
時代的には山鹿素行の方が古いが、もしこちらが元の話だとすると、青木新兵衛にとってはあまりかっこうのよくない話になる。
0403人間七七四年
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2022/03/18(金) 20:07:44.51ID:WPcSNcPa
新書太閤記に同じ話あるんだけど、吉川英治の創作だと思ってたわ

「さてさて、御老人たちは、戦場からお残り遊ばした余生を、恥よとも、勿体ないとも、思し召さず、よくもまあ、退いた退かぬなどと、愚かな喧嘩がおできになりますな。
こうして、寄合い振舞いなどのできるのも、誰のためと思し召すか。
五十年来打ち続いた合戦に、どれほどな武者輩が白骨となったでしょう。
思えば、その方々へ、蔭膳の礼もせずに、今日、一杯の酒とて、飲めた義理ではござりますまいに」
0404人間七七四年
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2022/03/19(土) 09:41:17.42ID:yvHy8Bac
「可観小説」から「芳斎青木新兵衛の事」後半部分

岡部自休入道は忠直卿の時に町方・郡方・公事方様々の奉行を兼役し出世頭であった。
自休の領地の百姓の女が布施但馬の領地の百姓に嫁ぎ、夫の方は佐渡の方へ用事で行った。
三年たっても音沙汰がなかったため、妻は近所の男と再婚し子供を産んだ。
その後、先夫が佐渡から帰り、妻のことを知り代官所に訴えた。
自休は郡方奉行であったが、「今は待て」と言ったきり判決も下さず年が暮れてしまった。
翌年、舅の方が現在の婿を一族ともども招いたところ布施但馬はこれを知り、自分のところの百姓を侮辱されたと思い
夜中に舅の家の周りに焼き草を積ませて、火を放って一人も残らず殺してしまった。
忠直卿はこれを聞いてお怒りなさり、「この件について訴人あらば黄金十五枚をとらす」と立て札をあちこちに立てた。
この時、但馬の家来の中野長兵衛というもの、かねてから但馬に恨みがあったため、訴人となって恨みを晴らそうと思い、妻に話した。
妻は長兵衛に異見をしたが、長兵衛は聞き入れず自休の方へ向かった。
妻の方は、主君を訴えるのは不義であり、このままでは罪なき子供まで殺されると思い、但馬に夫のことを打ち明け、子供の助命を嘆願した。
こうして長兵衛は但馬に捕らえられ、座敷に押し込められたが、調略を使って夜中に抜け出し、塀を越えた。
そのまま近くの牧野主殿宅に逃げ込んだが、牧野の舅である竹島周防により殺されてしまった。
0405人間七七四年
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2022/03/19(土) 09:42:56.99ID:yvHy8Bac
この趣旨を聞いた忠直卿は激怒なさり、とうとう布施但馬は自殺した(原文では「事長き故略す」としている)。
このことが駿府に聞こえ、家康公は激怒なさり、ことの発端の自休の進退も極まった(切腹?)。
また周防は訴人を殺したということで但馬の一味とみなされ、駿府において詮議されることとなった。
こうして青木新兵衛に周防の護送の任務が与えられたが、新兵衛は越前府中から三里いったところで
「上意とはいえ、お歴々の方に縄をかけるのは忍びませんので」と縄をほどき、そのまま駿府に連行した。
駿府での吟味に際し、周防は
「但馬は黄門秀康公取り立てのもので、すぐれたる武功も多く、しかも国政を知るものであり、百姓千万人にも替えがたい逸材でした。
もし長兵衛が存命であれば、但馬は処せられたでしょう。
かといって長兵衛は忠直卿に忠義立ていたしたということで殺す名分もありません。
そのため私の粗忽ということにして、長兵衛の首を刎ねたというわけです」
と申し上げ、これを聞かれた家康公は「周防の申すこといちいちもっともである」と赦免された。
このころ、青木を諸人は褒めたという。
新兵衛はのちに加賀藩の前田利常公に奉公して方斎と号したということだ。
また太閤記によれば、小田原の陣の山中城陥落の折、大母衣をかけた武者が搦手から討ち入り、武将の首をとり、太閤の御本陣へ参った。
太閤御覧ありて幸先がよいと金銭を賜ったとあるが、これが青木新兵衛という名だったそうだ。
0406人間七七四年
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2022/03/19(土) 09:49:41.65ID:yvHy8Bac
というわけで百姓夫婦のいざこざが不手際のために、どんどんおおごとになってしまった話。
布施但馬の死については

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6823.html
徳川家康「その道存とは誰だ」

にも書かれているが、上の話で秀康に青木新兵衛と間違われた永井善左衛門などが暗殺したことになっている。
しかも冤罪扱いで家康は但馬を是としているようだ。
0408人間七七四年
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2022/03/22(火) 12:13:02.25ID:uwizcW1I
三好左京大夫(義継)が将軍(足利)義輝公を討ち、その祝言の連歌をしようと連衆を集め、
里村紹巴、里村心前、灰屋紹由などが参った。座を定めて、三好殿が「発句をしたぞ」と申され、
そして句を出すと

『しやくとして しかもろとある木の上に くうくうとおなきやるハ八幡殿の御使か、
やら目出度やな』

とされた。満座興を覚ましていたが、三好殿が申すには
「”しゃく”はろの木、”くうくう”は鳩なり。」と申した。
その後色々有って百韻は終わった。

その後、織田信長公上洛の時、御咄のついでに、この発句の事を里村紹巴が御咄申した。
信長公はこれを笑われると思っていたのだが、御返事もなされず、無興にして座を立たれた。
紹巴も、どうして御意に入らなかったのだろうかと思いながら退出した。

信長公はすぐに森三左衛門(可成)を召して「先程の発句の物語を聞いたか」と仰せになった。
森が「承り候」と申すと、信長公は仰せになった

「三好が是程のうつけでは、天下を取るような事はできない。これを案ずるに、松永弾正(久秀)は
天下への望みが有って、先ず三好に将軍を討たせ、しかし三好はうつけであり、天下の支配は成らない、
その時天下を取るべしと考えている佞人なのだろう。
幸いに松永は出仕して在京しているのだから、これを早々に討つべし!」

森三左衛門は承ると
「仰せ、尤もであります。さりながら御上洛早々に、最初に出仕つかまつった松永を誅殺すれば、
今後味方に参る大名は無くなってしまうでしょう。ですので、重ねての事に遊ばされるべきです。
松永弾正は佞人なのですから、次第に悪逆を顕すでしょう。その節に成敗遊ばすべきです。」

と申したため、その時は松永安穏となった。

これは先の三好殿連歌の時の連衆の中に在った、灰屋紹由の咄だという。


(川上久国雑話)
0409人間七七四年
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2022/03/22(火) 12:38:23.11ID:713ehzU1
「翁草」巻二十九から「信長公、松永久秀を励まされし事」

松永弾正久秀は三好長慶に仕えて右筆たり、経上りて長臣となる。
信長、久秀と善し。ある時信長久秀に対して
信長「御辺は智勇の士なり。恨まらくば一つの疵あり」と。
久秀そのところを問う。信長いわず。
久秀しきりに問う。さらば無人所にていわんとて、潜なるところに呼びよせて
信長「御辺、大身になる道にくらし」となり。
ここより久秀異心を生じてついに三好家を滅せしという。
0410人間七七四年
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2022/03/22(火) 13:10:30.51ID:szCojPnS
この頃にはもう奸臣松永久秀像が出来上がっていたと
0411人間七七四年
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2022/03/22(火) 14:02:32.05ID:OkHuMmoM
里村紹巴、「時は今」の歌会にもいるし小説の主人公行けそうだよな
0412人間七七四年
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2022/03/22(火) 18:52:37.48ID:9LYGOP2z
つまり原作者は引用箇所のページ数と書籍名を間違っていて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11941.html

まとめ過去で「可観小説」関連だと、「花の慶次」のこれですかw
近年だと竹島一件についての伝聞も注目されてるとか。


戦国関連だと、青地礼幹は家老本多家の一族ですね。
本多政重と直江兼続養女(大国実頼娘)の間に生まれた長男政次は母方の樋口姓を名乗り京に住まいしていたそうですが、
本多家を継ぐのに直江本家断絶後で後ろ盾がなくなった遠慮のようなものがあったのではないかとの推測があるとのこと。
子の樋口朝政は祖父に似た豪胆な人物だったそうですが、その子の定政が青地家に養子入りし、礼幹兄弟の父です。
0413人間七七四年
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2022/03/23(水) 11:11:40.99ID:7PYVe/vM
今まで何度か出ている館林城の狐の話を朝野雑載から(時代的には微妙)

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-144.html
赤井照光と狐と館林築城・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2278.html
狐の城再び
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12250.html
館林城と決定命婦荒御前
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12371.html
館林城の築城由来

大坂の陣で活躍し、老中にまで昇った松平和泉守乗寿(大給松平家第七代)が館林城を拝領し、城中八幡宮を参詣したところ、
案内に召し連れていた商家の老翁たちが
「先例として、館林の城主となる方は、まず八幡宮に参詣し、次に曲輪の稲荷に参詣した後、ほかのところを御覧あることとなっております」と申した。
和泉守は笑って「城主たるものが稲荷に参詣すべきことがあろうか。
稲荷は元々畜生で、我は人間、しかも大名で位階も高い、参る必要などあるまい」と言うと
老翁たちは「稲荷は畜生ではなく本地は弁財天貴狐天王と号し、垂迹は宇賀神と称す福神です、参詣なさってください」
と諌めたが和泉守は聞き入れず城中の他の部分を巡見して帰った。
そこへ江戸から飛脚がきて、松平伊豆守(信綱)、阿部豊後守(忠秋)、阿部対馬守(重次)の三老中連署で、
大納言様(家綱公)が痘瘡(天然痘)のようなのですぐ江戸に参府するように、とのだったので、和泉守は急いでその夜の亥の刻に早駕籠で館林を立ち江戸に向かった。
翌日には板橋に到着し、使者三人を三老中につかわし
「連署で大納言様の痘瘡についての書状が来たのでただいま板橋に到着いたしました、先に使者を遣わします」と報告させた。
三人の老中は登城の支度をしていたところでこの口上を聞き、
「大納言様は御快勝であり、連署の書状を遣わした覚えもない。館林にお帰りあれ」
と異口同音に使者たちに伝えた。
驚いた使者たちは主人にしかじかと伝え、乗寿は三老中連署の書状を確認したところ、白紙であった。
乗寿は、これはおそらく稲荷の仕業だろうと憤ったが、しかたなく館林城に帰った。

付記:松平乗寿は翌年、この尾曳稲荷神社の社殿の修築をしているようだ。
0414人間七七四年
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2022/03/24(木) 18:15:19.00ID:Uytfi1gh
「朝野雑載」より林田内膳(左門)と女幽霊

林田内膳は富田清現(勢源)の弟子であり、黒田長政の剣術の師範であった。
(以下今まで出た林田左門関連)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3278.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8750.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9402.html
しかし長政公に不足を感じ、福岡を立ち退き、細川家を頼って関東に赴こうとしたのが発覚し、激怒した長政により誅殺されることとなった。
そこで怪力の大男(ともに六尺三寸)後藤金右衛門、林仁左衛門の両人に左門をからめとるよう言い渡した。
両人は左門が自室に入ったところに押し入り、外から錠をおろさせ、左門と格闘したが、後藤・林が先に精魂尽き果ててしまった。
左門は「ここでこの二人を殺したところで、自分は外の者たちに捕まるのだから、無益な殺生をするだけだ」と思い正座し、両人に絡め取らせた。
そのとき左門は「ふだんこのような時のために懐中に大楊枝を忍ばせていたのだが、今日は見つからない。
もしあれば両人の命はなかっただろう」と言った。
その後、服を着替える時、どこからかその大楊枝が落ちたということだ。
こうして左門は宝満山の麓で籠居の身となり、外から槍で突き殺されたという。
死ぬ時の様子は不明だが、おそらく天下に名高い兵術の名人のため、世間の評判をはばかって密々に殺したのだろう。
元禄六七年の頃であろう。
0415人間七七四年
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2022/03/24(木) 18:18:51.63ID:Uytfi1gh
さて、左門が誅殺される少し前、長政のお供で江戸から伏見に参着した。
左門は京で用事があったため、伏見にいた親しい友を呼びよせ、饗応し泊まらせた。
丑の刻に障子を開ける者がいたため、友が目覚めて見てみると、十六くらいの美女が左門が寝ている姿をしばらく見つめ、また障子を閉めて帰っていった。
友「左門は一生不犯の誓いを立ててると言っていたのに、歳をとると未練が出てきたとみえる。
邪魔をしては悪いからさっさと帰ろう」
と思い、翌朝、左門にすぐ帰ると告げた。
左門「なぜそう帰るのを急がれるのだ?今夜も泊まったらいいだろう」
友は不審に思いながらも昨夜のことを伝え、今夜はその女と楽しんだらよかろうと言ったところ、
左門は笑って「一生不犯の誓いはまだ守っておる。
あの幽霊は近ごろ深夜になると必ず出るのだ。おそらく我が身がほろぶ前兆であろう。
実は昔、武者修行をしていたおり、ある里にしばらくとどまっていたところ、そこの家の娘で美人で気立の良いものがおった。
わしの男ぶりに執着し、床に入ってきおった。
一生不犯の誓いを立てておるのだ、と言って優しく追い返したのだがわずらわしいため、朝になるとこっそり里を出た。
そうすると昼になって女が追いついてきて、泣きながら袖に縋りついてきた。
そこでわしは言った。
「仕方あるまい、今夜だけそなたのために誓いを破ろう。そなたもそれで満足をしてくれ」
女は道理をわきまえたようで
「仰せの通り、武者修行の先々に参るわけにもいきません。
今宵、どこかで一泊し、わたくしの胸のくもりを晴らしてくだされば、明日必ず里に帰ります」
そして二人で近くの里にむけて歩いたのだが、そっと女を先に行かせて、後ろから抜き打ちに斬り殺したというわけだ。
それ以来その女の顔が常に頭から離れぬ」
この話は、左門が特に親しい友にだけ語っていたという。

筆者(貝原益軒)「左門も、伏見ですでに身の滅びる予兆があったのであれば、身を慎めば命を長らえたであろうに。
それにしてもその女幽霊だが、左門に殺されていながらもなお、左門の運命があやういことを知らせるとは、なんとやさしい心がけではないか」
0416人間七七四年
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2022/03/24(木) 18:51:48.81ID:79rqJTsI
メンヘラっぽい女性切ったらさすがに後味悪かったのかずっと脳裏にこびりついたと
大楊枝ってのはどのくらいの大きさの楊枝だったんだろか
0418人間七七四年
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2022/03/29(火) 13:54:38.43ID:FlGFlp8J
鹿塩石人「宇都宮釣天井漫記」の宇都宮釣り天井事件についての伝承の孫引き

鎮房が御客の座にチイーチかる。
お酒やる、御馳走が出チー、大分酔いがまわっちかる。
突然天井が墜ちて来たゲナ。仕掛ちやる綱が切れたんで、押し潰されるかつ思ふたら、ごうな力ン強い男ぢゃったき、そりユ両方の手で受けた。
そうすると隣リン室に居った松田小吉チウ豪傑ーー今ゼン村に居る松田勇吉やんの先祖ジ御座りやする。
その小吉が飛込んぢ入っち、鎮房ン身を護り近づくもんヌ十八人も切りまくった。
黒田の奴む、これにゃ困ってどうすることも出来ンかる、仕様ぐネーかる、床ドンに廻っち、短クエ柄ン槍ぜ、下ン方かるつき上ち、刺したもんぢゃき、とーとー殿様む、力がつきて天井ン下になっち死んぢしもうた。

以上、上城井村寒田出身の中野氏が語った伝承だそうな

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3689.html
黒田長政の愛刀もなかなか
この713の語ってる伝説と同一だと思われる。
鎮房信仰が高まるにつれて、その場に居合わせた小姓の松田小吉(左馬介)についても活躍の伝承が生まれていったらしい
0419人間七七四年
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2022/03/29(火) 14:02:15.41ID:w0D03uOM
宇都宮釣り天井事件じゃなくて
城井(宇都宮)鎮房謀殺事件じゃないか
というお叱りがあるこもしれないけど、そこは一足早いエイプリルフールということで
0421人間七七四年
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2022/03/30(水) 20:10:56.12ID:Uvu0HEdg
会津宰相(蒲生)氏郷は朝鮮征伐の頃、肥前名護屋に於いて下血を患い、諸医技を既に尽くしたが、堺の宗叔が
いよいよこれを治した。私(曲直瀬玄朔)はその時、朝鮮まで従って帰り、上洛した。その後、翌年の
秋に法眼(曲直瀬)正純が語ったところによると、氏郷に宗叔は養生葯(薬)を進上したという。この時私は、

「名護屋にて所労(病気)の後、脈を診る事ができなかったので顔色を見たが、終に調わず、肌は黄黒く
首の付け根あたりの肉は痩せ消え、目の下にはわずかに浮腫があった。もしこれで腹が張れ、四肢がむくめば
必ず大事となる、
葯を進上するといっても分別があるべきだ。」と言った。

その後十一月に太閤秀吉公が蒲生氏郷邸に御成をなされ、私もその供奉をしたのだが、この時顔色を観察すると、
腫れはやや甚だしかった。その後張腫は増し、十二月朔日、太閤殿下は民部法印(前田玄以)の屋敷に座されて、
葯院(施薬院全宗)と私の二人を召されて、氏郷の所労は如何かと聞かれた。二人ともに
「終に脈を診ることも出来ませんでした。」と答えた。「葯は誰が与えているのか。」と問われた。
「堺の宗叔の葯」と申した。

その後秀吉公は、左右に在った大納言(徳川)家康、中納言(前田)利家の二人に、「諸医を召して
氏郷の脈を診せるように」と仰せになった。
すぐに上池院、竹田蘆庵、盛方院、祥寿院、一?、祐安、その他九名の医師が氏郷の床下に至った。
家康、利家が左右に在って、諸医は脈を診て退いた。

同月五日、前田利家、徳川家康卿は私と一?を召して、氏郷の脈を診た上での診断を聞いた。
私は言った「十中九は大事(重体)であります。残りの一つというのは、年齢の若さと食欲のあることだけです。
しかしさらに食欲が減じ、気力が衰えれば、十は二十にもなるほど、大事となります。」

利家が言った「他の医師たち一人ずつに尋ねたが、或いは十に五つ大事、或いは十に七、八は大事と申した。」
そして宗叔を召し、「玄朔は十に二十も大事であると言う。残りの医師は、或いは十に五.六.七、八などと
云う。お前はどのように考えるか。」
宗叔曰く「十に一つほど難しいと存じます。」と申した。

その後、利家は私に対し「氏郷の所労はいよいよ悪化している。宗叔の葯を止めるべきだ。今日よりそなたが
治療をせよ。」と言われた。私は「宗叔の葯では十死であると見ておられるのなら、五日三日は葯を与えて
その様子を見るべきです。そうしなければそれぞれの治療を照らし合わせることが出来ません。」と申した。
そこで宗叔が召され、その旨を仰せられたのだが、彼は尚も「十に一つほど危ういのだ」と申した。
それ故に、翌文禄四年正月末、宗叔の葯が止められた。

蒲生氏郷は次第に気力衰え、食欲も減じた。一?の葯を与えたが、十余日にして果たして逝去した。

(医学天正記)

蒲生氏郷の病についての記録
0422人間七七四年
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2022/03/30(水) 22:07:24.76ID:f88ysiOU
>>421とは別の者ですが、文字化けが一か所あるようなので一応付け加えを。

坂浄慶、竹田定加、半井驢庵、吉田成方院浄忠、祥寿院瑞久、一鴎宗虎、祐庵

医師それぞれの名がこちらです。
秀吉は皇室や足利将軍家の侍医を番医として雇い入れ、身内の診察だけではなく味方にしたい有力者へ派遣して信頼を得ようとしたとか。


『医学天正記』は症例ごとに患者の名と治療実績が書かれていますけれども、ちょっと面白かったのが正親町天皇は正親町院で、後陽成天皇は今上皇帝ってとこですね。
0424人間七七四年
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2022/03/31(木) 17:31:47.22ID:Q9oMo27y
>>413のより詳しい話が
「徳川実紀」にも多く引用されている「寛明日記」の、正保二年閏五月廿九日から六月三日の条にあった。
(新日本古典籍総合データベースの678-686コマ)

前半は>>413とまったく同じ話で、
後半は乗寿が案内役の老人に稲荷のことを尋ねたところ
すでに既出の「赤井氏(「寛明日記」では但馬守法連)が子供にいじめられている狐を助けたところ親狐が人(小男)となって現れ、館林での築城をすすめた話」
「元亀二年、北条氏政の下知で伊勢備中守貞宗(貞運?)、山角上野介定方、山角紀伊守定勝、芳賀伯耆守綱可(垪和「はが」康忠?)が城に攻め寄せた時、
夜に風雨が激しくなり、軍勢四、五千の鬨の声が起こり、松明一、二千灯が連なり、北条勢が敗れた話」
「天正十八年に小田原の陣で石田三成、大谷吉隆、長束正家などが攻めてきた時に、石田が材木を切って沼に道を作り、夜明けに渡ろうとしたが、
夜中に松明が二、三千燈ともり、朝になると材木が悉く沼に沈んでしまった。
そこで案内をしていた北条左衛門大夫(氏勝)が「これはおそらく稲荷のなせる業です」と言って、力攻めではなく降伏をすすめた話」
を老人がした。
乗寿は奇特に思い委細を記録し、この前の無面目を晴らすために老中にこの話を送ったということだ。

とあった。残念ながら「徳川実紀」には採られていないようだ。
0426人間七七四年
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2022/04/03(日) 20:46:46.65ID:1Ul4dzbi
「続片聾記」から「忠直公御乱行の事」

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4468.html
とだいたいのあらすじは同じで
松平忠直がある時天守に登ると美人の絵姿が風に舞って忠直の所に来た。
その美人に一目惚れした忠直は家臣にこれとそっくりな美人を探せと命じたところ、関ヶ原におむにという女がいたため、
一国にも替え難い美しさ、ということで「一国」と名づけた。
しかしこの女は罪人が首を刎ねられるのを見ると悦んだため、忠直は死罪に当たらないような者でも一国の前で首を刎ね、気に入らない小姓や家臣も死罪とした。
そのうち首を刎ねるだけでは飽き足らず、平たい石で人の天窓(あたま)を叩き割る、白洲で磔にする、妊婦の腹を裂く、といった悪行を重ねた。
これに対して眉を顰めた、秀康公から仕えている武士をも死罪としたため、家臣たちは毎朝家を立つ時は最期の盃をかわして登城するようになった。
0427人間七七四年
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2022/04/03(日) 20:48:52.87ID:1Ul4dzbi
忠直の家臣に縣茂左衛門という者がいた。昔年大坂の陣で忠直に供をし、城中に入った十七騎の一人であった。
ある雨の夜、草履取りを供にして歩いていると、向こうから忠直公の駕籠が来たためあわてて平伏したが、
忠直公は「茂左衛門、供をせよ」と言ってきた。
茂左衛門は今度は自分が斬られるのか、と覚悟を決めた。
そのまま城中に行き、白洲に入ったため、茂左衛門は「もはや死は逃れられぬ」といよいよ覚悟した。
白洲は月明かりに照らされ、そこには老若男女の死骸が三十人ほど山のように積み重なっていた。
そのほか死骸がかけられた磔が林立していた。
茂左衛門が観念したところで、忠直公が「からめたる奴原を一々斬り捨て、我が慰みとせよ!」
と言ったため、茂左衛門は「案に相違し、身の逃れる嬉しさよ」とむごいことを思いつつ、連れられてきた二、三人の首を切った。
その後は忠直公に命じられるまま、あるいは袈裟懸けに、あるいは打首、と二十七人を斬った。
この褒美に忠直公から刀を授けられ、虎口を逃れた気持ちで城を出て家に帰った。
すると念仏が仏間から聞こえてきたため、茂左衛門が何があったのか聞くと、親も弟も妹も涙を流しながら
「茂左衛門が忠直公に斬られたと思い念仏を唱えていたのです」と答えた。
茂左衛門も自分の罪業のあまりの深さに恐ろしくなり、後に隠居して道甫居士と号したという。
かれから直に聞いた物語をここに記す。
0428人間七七四年
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2022/04/05(火) 11:38:08.11ID:j0gfoA8T
まとめのコメント見たら一国が褒姒や妲己扱い
褒姒も妲己も九尾の狐の化身と言われ、九尾の狐(玉藻前)が殺生石になり玄翁和尚に割られた伝説は有名だが
その破片が全国三ヶ所の「高田」という地名に飛び散ったと言われる
一つが豊後高田で
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13411.html
この朽網の殺生石も豊後高田まで飛んでった殺生石の破片が70kmほど転がったものだとか
もう一つは美作高田か安芸高田で
最後の一つが越後高田
この忠直の乱行による改易のため、忠直の息子光長は越後高田藩主となったが、41年後に地震で高田が大きな被害を受け筆頭家老、次席家老が圧死
それにより台頭した小栗美作が改革を施行したら反対派とお家騒動となり、幕府裁定によりいったん小栗が勝ったが
館林城主から将軍になったばかりの綱吉が再審して両派に厳罰、越後高田藩は没収されましたとさ

いっそ忠直乱行も越後騒動も九尾の狐のせいにしてしまおう
綱吉も狐が建てた館林城主だったし
0429人間七七四年
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2022/04/05(火) 21:33:03.97ID:pTJG6TRQ
或る本に、大坂夏の陣の時、大阪の城兵たちは、冬の陣のときと同じように、幕府方が早々に
攻め寄せてくることは無いと思っており、上下油断していたが、その中で毛利豊前守(勝永)の組の
鉄砲大将・松岡彦兵衛、雨森三右衛門らは、敵付の方を見おかんと、五月七日の未明に、両人
打ち連れて素肌(鎧をつけないこと)になり、刀を若党に持たせ、乱髪の体にて天王寺まで来た。

この時寄手は大御所(徳川家康)の仰せにより、井水、或いは溜水、また切門には、皆引裂紙を竹に
付けて立て置いていたが、松岡、雨森はこれを味方が為したものと思い、「さても早きものかな」と
語り合った。

さて、夜が明けると両人はその場を離れ、平野・岡山筋、東南五里の間に至ったところ、村里と覚しきものが
有った。霧によってそのように見えるのかと疑いながら能く見てみると、森林だと思っていたのは、
みな寄手の旗指物、長柄などであり、村里と思っていたのは、東国勢の備であった。
日が出るに従い、長柄などがきらめき渡り、八尾、若江、南は平野境へかかり、三里ほどが一面となって
押し来ていた。

松岡らはこれに驚き、毛利・真田の方へ右の趣を申し遣わした所、何れも周章てて足軽を張り出し、
備えを立てたという。

(新東鑑)

大坂夏の陣直前にも大阪方は油断していたというお話
0430人間七七四年
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2022/04/08(金) 14:12:26.88ID:8NMoyGPa
「勢州軍記」から北畠具教の最期

伊勢国司であり三瀬大御所の北畠中納言源具教入道は不智不慮であり、当家を織田に渡したことを悔いていた。
(続群書類従では「不智不慮」としているが、北畠具教の法号が「不智斎」であるため不智で切るべき?)
信長公と仲が悪く、信雄朝臣を蔑んでいた。
そのため先年武田信玄と合心し謀叛を企てていたという。
またある時、信雄の小姓が小鳥をとりに国司屋敷に入ってきたため、具教の家臣は小姓をひどく打擲したところ、信雄は憤った。
信長公は北畠具教に野心があるとみなし、織田掃部助(忠寛)に北畠具教親子、坂内入道親子を討つように命じた。
信雄が諸侍に謀ったが、天野佐左衛門尉と柘植三郎左衛門尉が城門の外でこれについて相談したのが、門の陰にいた下女に聞かれてしまい、ことが公になってしまった。
そのため急いで討ち手を招集した。
まず北畠具教への討ち手として藤方刑部少輔、奥山常陸介、滝川三郎兵衛尉、長野左京亮が命じられたが、藤方は名代として軽野左京進を出した。
彼らは領地の朱印を頂いたが、みな北畠譜代重恩の臣であり、欲のために理を捨てたのであった。
ただ奥山常陸介は心を翻し、仮病で討ち手には加わらなかった。
こうして天正四年十一月二十五日の朝、三人は三瀬御所に参じた。
北畠具教卿は炬燵に当たり、夜衣を着て、三歳と今年生まれたばかりの若君を膝においてあやしていた。
近習である佐々木四郎左衛門尉が御前に参じ、出仕のよしを言上した。
具教卿は若君を乳母に預け、出座しようとしたところで長野左京亮が具教卿御愛用の槍で具教卿を突いた。
具教卿は兵法の名人であったため、太刀を抜こうとしたが、小姓の佐々木四郎左衛門尉も企てに加わっており、あらかじめ太刀を抜けないように細工をしていた。
具教卿は徒手空拳であったが肝が据わっており、長野に対して
「わしは常々、お前がいつか裏切ると思っておったわ!」と言った。
そのとき滝川・軽野も太刀を抜いて斬りかかってきた。
具教卿は憤怒の面持ちでついに死んだ。御年四十九であった。
若君は乳母に抱えられ裏庭に向かったが追手により害された。
今年生まれた若君も乳母が懐中に入れて雪隠に隠れたが、探し当てられ殺された?(尋求奉失之)
北の方や乳母や女房たちも泣き喚きながら逃げ回り、聞く人で涙を流さぬ者はなかったという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12389.html
北畠具教の滅亡
こっちと違って刀も抜けずに殺されてしまっている
0431人間七七四年
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2022/04/09(土) 11:16:59.24ID:/cGAqrGu
ある本に、伊木七郎右衛門常紀(伊木遠雄)は幼若の時、遠雄半七と称していた。
彼の祖父は式馬大和守と称し、下総国より上って織田信秀に仕えた。
父は式馬七右衛門と言ったが、続いて信長公に仕えた。

そのような中、濃州各務郡に、木曽川を隔てて東は尾州犬山、西には濃州伊木山があった。
その頃、伊木山香川と云う将が籠城して、信長公に敵対していた。
これに対して、式馬七右衛門は先登して力戦し、かの伊木山を攻め落とした。
これに信長公は感悦斜めならず、「末代の誉れに、氏を改めよ」と有ったため、この後氏を伊木とした。
また、この白の本丸に、石の井桁があったが、その場所において働き抜群であった故に、それまでの
月に星の家紋を替えて、井桁紋にした。

又、七郎右衛門は十六歳の時、秀吉公の児小姓に召し出され、翌天正十一年、江州賤ヶ岳合戦において
太刀打ちして、新発田型の使番の、指物を差した武者を討ち取った、この働きは七本槍と左右に立ち並んだ
手柄であるとして、世に『七本槍。三振太刀』と云った。(その他の二人は石河兵介、櫻井左吉である)

同十八年の小田原陣では黄母衣を掛けた。

大坂夏の陣での落城の時に命を遁れたが、その後方々より高禄を与えるとして招いたが、所存あって
応じず、片桐氏の後見として、現米五百石、嫡子は千石を領した。
その後京極安智(高広)の招きに応じ、丹後国に赴き、父子三人にて三千石を領した。
二代目七郎右衛門は千二百石の采地にて、同丹後守の家老職を勤めたという。

(新東鑑)

「三振太刀」や大坂の陣後の話はどうも後世の創作らしいですが、
伊木半七の名で有名な、秀吉の近習で黄母衣衆でもあった伊木遠雄についての様々な伝承。
0432人間七七四年
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2022/04/11(月) 11:58:15.48ID:Tpen1w6e
「勢州軍記」から>>430の続き
「具教兵法の事」

北畠具教卿は塚原卜伝入道の弟子であり、兵法を極め、奥義・一の太刀を習得していた。
しかし用心を怠ったために、このような害を受けてしまった。
このようなことがあるから張良は漢皇を立てたのち身をひいたのだ。
これこそが武士の奥義といえよう。
さて兵法剣術については、近来常陸国住人の飯篠長威入道が天より真の伝(天真伝?)を受け、一流を起こした。
かの卜伝は長威から相伝されること四代目にあたり、秘伝をものとしていた。
その伝を新たに世間に広め、諸国を修行し、常陸に帰ってきた。
最終的に家督を三人の息子たちのうちの誰かに譲ろうと考え、
嚢連(ふすま?)の上にに木枕を置き、嚢連を開けると木枕が落ちるように仕掛けた。
まず長男を招いた。長男は開ける前に木枕を見つけたため、木枕を下ろし、入室し座った。
同様に次男を招いた。次男は嚢連を開けた時に木枕が落ちてきたため、とっさに飛び退いて手を刀にかけ、怒りながら入室し座った。
同じく三男を招いたところ、三男は嚢連を開けたら木枕が落ちてきたため、すぐに抜刀して木枕を斬った。
塚原卜伝は、次男、三男に対しては「木枕を見て驚くとは何たることだ!」と怒り、長男には感心して家督を譲ることにした。
卜伝「しかし奥義の一の太刀は伝授するのは一人だけ、ということになっておる。
すでにわしは伊勢国司・北畠具教卿に伝授してしまったから、汝は伊勢に行って習ってこい」
と遺言して死んだ。
そののち、長男の塚原彦四郎は伊勢に上り、北畠具教卿に会い
「私の父が私に一の太刀を伝授してくれたのですが、相違がないか確認させていただけませんか?」
と言うと、北畠具教卿はその意図を知らず、一の太刀を実演して見せてしまったということだ。
0434人間七七四年
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2022/04/11(月) 22:12:30.19ID:Dj17yKJA
>嚢連(ふすま?)の上にに木枕を置き、嚢連を開けると木枕が落ちるように仕掛けた。

教室の入り口に黒板消し挟むやつの由緒?
0435人間七七四年
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2022/04/11(月) 22:21:12.59ID:zwR4m/VE
七人の侍に似たシーンがあったな
0436人間七七四年
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2022/04/11(月) 22:57:48.74ID:Tpen1w6e
「勢州軍記」から北畠具教を討った面々のその後

・(藤方刑部少輔の父である)藤方慶由のこと
藤方慶由は人質として信雄の田丸城に留め置かれていたが、北畠家没落に嘆き悲しんだ。
こともあろうに子息の刑部少輔が北畠具教卿暗殺という不義の企てに加わっていたと知ると
「去年の夏、孫が長嶋城を落としてしまい家名を失ったというのに、今、お前の不義があらわれてしまい、当家の名は失墜してしまった。
主君であり、一族(藤方氏は北畠氏の分家)であるというのに嘆かずにいられようか。
報いはやがて子孫にこよう、長生きしたばかりに、このようなことを見ようとは。わしは早死にすべきだった」
息子の刑部少輔「私も本意ではなかったのですが、父上が人質に取られているため、御命をお助けするために逆意を企てたのです」
慶由「お前がそのように言うのであれば、わしは三瀬主君(北畠具教卿)に対して追腹を斬る!
これで少しは当家の面目も立つだろうし、武道の本望というものだろう。」
と言い、そののち「風呂に入ってくる」と言って部屋を出、深い淵に身を投げて死んでしまった。
その名誉と義心に対し、世の人はこぞってこれを賞賛した。
その子孫については慶由が言った通り、落魄して大津でボロ屋に住むようになり、ついに滅亡したという。

また実際に討ち手に加わった藤方家の軽野左京進は、刑部少輔に逆心を唆した張本人でもあった。
国司を討ったのちほどなく重病にかかり、五体・四肢が癰(膿瘍)や痪(「やまいだれに奐」麻痺)に侵されて死んだということだ。
末世といえども因果応報は歴然の理である。
0437人間七七四年
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2022/04/11(月) 22:59:50.89ID:Tpen1w6e
・奥山常陸介のこと

奥山常陸介は北畠具教卿を討った時の褒美として、あらかじめ信雄から三千石の朱印状を賜り、常陸介も誓紙を書いた。
しかし譜代相伝の主君を討つに忍びず、心変わりし、仮病を理由に国司追討に参加しなかった。
信雄に朱印状を返して辞去し、そのまま出家した。
具教卿暗殺ののち、信雄が奥山を召すと、剃髪染衣の姿で田丸に現れた。
信雄はその義心に感心し、三百石の朱印状を渡したが、
奥山は「もはや現世において領地の望みはありません、後生を願うのみです」と朱印状を受け取らなかった。
そののちも道心は変わらず、真盛上人の開山した摂津の西来寺の近くで庵室を構え、具教卿の後生菩提を祈った。
一生念仏を唱え続け、ついに往生を遂げたという。
0438人間七七四年
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2022/04/12(火) 17:09:59.79ID:vzpiur7t
東国武将興亡録
ハトの呪いなのか阿弥陀仏のバチが当たったのかよくわからないタマキンの話

下妻城主多賀谷政経は筑波郡福岡の阿弥陀堂に草鞋も脱かず堂上に座し其の堂に巣寵りして居た鳩を追いやったところ
急に股間の睾丸がしめ付けられて悶絶して倒る。家来の菊地勘解由が色を失って薬を与い、やっと政経は正気を取り戻し
たが、良く見れば勇猛血気の政経は弥陀の尊像惠心僧都作に腰掛けて居た、依て政経は大薬寺の慶円と云う僧を頼みて
兼定の太刀一振と永楽銭二十貫と玄米二十俵を奉納して伝意を慰め、更に黄金で五智の如来五体を鋳造して安置す。
0440人間七七四年
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2022/04/12(火) 17:27:43.49ID:lHR19+a4
しかしそのサイトの多賀谷政経の次の記事が塚原卜伝の死か
偶然だったら面白いが
0441人間七七四年
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2022/04/13(水) 16:00:40.46ID:Vd6/BRm7
本多出雲守忠朝という人は、中務大輔忠勝の二男にして、去る関ヶ原合戦でも高名あり、大御所(徳川家康)も
甚だ称賛していた。

例年、出雲守は参勤の折に、大御所に蝋燭を献上していた。大御所はこの蝋燭を「他に異なる」と褒める
仰せがあった。
ある時、忠朝が参府し、晩景に及んで出仕し、在所の鹽肴を献上した所、老中一同がこのように申した
「足下が献上した蝋燭が、御旨にお叶いになった。今回も蝋燭を献上されるのがいいだろう。」
しかしこれを聞いた忠朝は
「その事を知らざる故に、用意しておりません。」
と申した。

本多上野介(正純)はこれを聞くと
「然らば、御納戸に置いてある蝋燭で、間に合わせれば良いでしょう。」と言った。
これに出雲守大いに喜び、その蝋燭を献上した。

さて、忠朝退去の後、大御所がその献上された蝋燭を灯された所、前のものと違い大いに流れた。
これを御覧になって

「出雲の父は武勇のみだけではなく、このような小事であっても、曾て越度がなかったが、
父には似ざらる者かな」

と仰せになった。

(新東鑑)

本多正純の罠だったのかたまたまなのか
0442人間七七四年
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2022/04/13(水) 22:48:27.28ID:v2cJDMcC
広島県三原市八幡町字野串の山中に存在する宝篋印塔墓には、一つの伝説が伝わっている。

天正15年(1587年)、河野通直が二十四歳で没し、河野宗家滅亡。これに四十名余りの家臣も殉死したとされ……しかし、河野宗家の血は未だ絶えていなかった。
先代通宣の庶子、通昭。母方が荒木村重の一族である彼は、河野氏の改易後は山城の国芹川村で暮らしていたが、通直が死に遺臣一同の運動にも豊臣秀吉には河野氏再興を許す意思がないと判断するや、遂にその暗殺を決意。
当人は計画を実行する前に老齢で死去したので、これも高齢な長男通許六十二歳ではなく、次男通軌がこれを引き継ぐ。

文禄元年(1592年)4月9日、九州に下向する秀吉が備後国御調八幡宮に立ち寄って戦勝祈願をすると知った通軌は、一族の得能備後、和田左衛門、栗山因幡、土居兵庫父子、松本美濃ら河野氏の遺臣と神社の藪に潜み秀吉を狙撃しようとしたが、立ちどころに露見。
全員が秀吉が訪れる前に討ち果たされてしまったと言う。その際、討ち果たされた通軌の墓こそ字野串の宝篋印塔墓で、周囲の小ぶりは墓群は共に討ち果たされた遺臣達のものであると。

……この事は「河野家譜 築山本」や郷土史、貫心流剣術などの伝承に大同小異な異説が記されており、三原市は史実ではない伝承と市史で疑問を呈したり、史家によっては毛利家が不祥事を揉み消したのだろう等と推測したりもしていますが……。

一説に、この時に御調八幡宮の藪に待ち伏せていた河野氏の遺臣は三百人とか。
……斬り込みではなく狙撃で三桁も待ち伏せる必要があったのかと思いますが、そりゃ事前に露見しますよ。

尚、計画を何も知らされていなかった長男の通許は連座を恐れ、苗字を母方の築山姓に変えて諸国を流浪の旅に出る事で族滅を免れた。
0443人間七七四年
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2022/04/13(水) 22:52:55.72ID:v2cJDMcC
以上、「八幡の藪」事件とも呼ばれる秀吉襲撃未遂事件。

この場合、河野氏遺臣団の手際の悪い話か、六十を超えて計画は知らされていなかったのに父と弟のせいで諸国を流浪する破目に陥った長兄の運の悪い話か?
0444人間七七四年
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2022/04/15(金) 18:13:31.33ID:V3JBKu5c
或る本に、大坂夏の陣の後、大御所(徳川家康)は帰陣し二条城へと入ったが、この時水野日向守(勝成)を
召して言った。

「私は先に、お前が八方の大将を承る上は、相構えて昔のように、自ら高名しようなどと思うなと言った。
ところが五月七日の合戦(天王寺・岡山の戦い)で、明石(全登)の陣へ向かい、自ら鑓を取って
真っ先に駆けて敵四人と渡り合い、二人を追い払い二人は首を切るなどと、予ての私の命を背いて
軽々しい振る舞いばかりを仕り、奇怪の至りである!」

そのように甚だお叱りになったため、彼の手の者達も高名したのであるが、御感に預かることが出来なかった。

されどもこの年の七月二十日、三万石加増有って、大和郡山の城を賜った。これは今度の勧賞であったのだろう。

同五年、備後国福山の城を賜い、城を築いて移った。十万石であった。
慶安二年二月十五日に卒した。時に八十八歳であった。

(新東鑑)

水野勝成が家康から叱られたお話
0445人間七七四年
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2022/04/16(土) 15:34:03.94ID:pm0i4x+e
飯見大膳と一族が気の毒な話

豊田氏には飯見大膳という家臣がおり、宿敵多賀谷氏の家臣である白井金洞と婚姻関係で結ばれていたため、白井から豊田氏
を殺せばお前にこの城をやるといわれておりました。飯見大膳はその言葉に乗り、豊田治親を大膳宅で毒殺。
城を我が物にいたしました。しかし、豊田氏の遺臣たちは多賀谷氏に降伏し、その条件として豊田氏の遺児の助命と、飯見大膳
一族の引き渡しを要求いたしました。多賀谷氏はこの二つを了承。裏切り者である飯見大膳を遺臣たちに引き渡しました。
遺臣たちは飯見大膳の一族36名の処刑をすぐさま実行。子供大人関係なく殺されました。
0446人間七七四年
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2022/04/18(月) 18:51:46.68ID:F7aHokVL
「景憲家伝」より、小幡景憲が又聞きした有名な信長のパワハラ 付、権六も被害に

信長は長篠で勝ってからことのほか不行儀が増した
柴田修理(勝家)すらも主の小鼓にて柴田に熊谷(能の敦盛)の脇を申し付け、「男(主役のシテ)見事とて脇無用引込候へと呵(大声で叱る)」
甲州没落のときも諏訪にて明智光秀の陣取りが見事だったことに嫉妬し、「明智があたまを打、その上小姓ともに明智があたまを打候へと被申、榊原小平太(康政)われら所より使に行、則其次の間にて見之物語仕る也」

榊原小平太もドン引きしたのか嬉々としてしゃべったのか
権六はいらない子
0447人間七七四年
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2022/04/18(月) 18:54:43.65ID:F7aHokVL
又聞きと書きましたが、正確には家康が語ったことを小幡景憲が記した部分です
0448人間七七四年
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2022/04/20(水) 16:04:21.07ID:hRgr3lgH
大野主馬助治房は秀頼公の元で出頭し、大阪城中に於いては兄治長と共に、彼ら兄弟の上に立つ者も無く、
しかも今度の矛盾(大坂の陣)の張本人たる身の上であったのに、いかなる思慮があったのだろうか、
大阪落城の時、その混乱の中で城より落ち失せたという。

一説に、大野治房は秀頼の若君・国松丸を守護して落ちていった所に、禁野の辺りで、
主馬の郎党、塙市左衛門、松田庄太夫が心変わりして、治房を刺殺し、金銀を奪い取り、
国松君を捨てて逃げ去ったのだという。

(新東鑑)

大阪落城後の大野治房について
0449人間七七四年
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2022/04/21(木) 14:48:17.33ID:P7oGifBM
西園寺公広の最期

公家の西園寺家から分かれた伊予西園寺氏、その最後の当主である西園寺公広は元は伊予来住寺の僧侶だったが、従兄の戦死により伯父の婿養子として還俗。

長宗我部氏に降伏後は、豊臣家の四国征伐でも戦わずして小早川隆景に降伏。九州征伐には小早川勢として従軍し、降伏後も居城である黒瀬城に留まる事を許されていたのだが。

小早川隆景が九州に移封され、戸田勝隆が南予を領するようになると、情勢は一変する。

天正十五年(1587年)八月には、西園寺旧臣の過半である三十八名が城から下城が命じられ、十二月には西園寺家も土居・勸修寺・法華津の有力家臣と同様に城から去るように命じられる。

その後の南伊予の統治は、東・中予を任された福島正則と異なり東北の葛西・大崎一揆と同様の事態に。よそ者である戸田家と急遽として取り立てられた軽輩上がりの家臣により、リアル北斗の拳状態と化す南予。
土地は農家も寺社も構わず好き放題に横領され、女と見れば他者の妻でも娘でも容赦なく攫い、飽きれば捨てられたり売られたり吊るし斬りにされ、少しでも抗議すると「御公儀への謀反」と見做されて一族が磔に。

この状況下で南予の地侍達は「天下を相手に敵わないのは承知」で「座して嬲り殺されるよりは」と蜂起。

これに対して戸田勝隆、独力では鎮圧できなかったが板嶋沖の九島・願成寺で蟄居している西園寺公広の身柄と小早川隆景の傘下で九州に従軍した時の軍功で所領安堵の朱印状が出る事を仄めかして、西園寺家中で最有力な家臣であった土居清良に同朋の国人一揆を鎮圧させた。

「これでもう、西園寺公広を生かしておく理由は無くなった」

戸田勝隆はそう判断した。

十二月八日、「毛利家と小早川家を介して、九州従軍の軍功により黒瀬城と旧領を安堵する朱印状が出た」と音物を携えた使者を使わす。
翌日、旧臣十名を従えて大津城(後の大洲城)に訪れた西園寺公広。元僧侶で公家大名の五十一歳など、容易く自ら仕物にかけれると侮っていた戸田勝隆は、護衛も公広も一分の油断も隙もない事に絶句。
九日は宇和島から大洲まで移動してきた所労を労うと宴を催し、十一日に大洲城の御殿ではなく重臣・戸田駿河守の屋敷で朱印状を渡すのと偽って護衛を屋敷の玄関と次の間に控えさせ、公広単身を戸田駿河守以下で押し包んだ。

公広、二尺六寸余りに大磨上げされ無銘の安綱の佩刀を抜刀するや、即座に戸田駿河守を最初に斬り、満身創痍となりながらも同室の刺客九名を全て討ち果たすや、戸田家中の包囲する客殿で自害。次の間と玄関に控えていた小姓を含む護衛十名も五十数名を道連れにして全滅。

翌年、戸田勝隆は領内の大百姓や寺社の全てから人質を取り、武芸に秀でたと評判の者は罪状の有無に関わらず悉く殺害。
ごく一部の有力者のみ家臣に取り込み、南予支配を進めていく事になる。

以上、謀反など企んでいなくても、その実力があるだけで罪だという豊臣政権下での地元民に対する扱いが悪い話。

尚、公広の安綱は豊臣秀吉に献上された後で西園寺宗家に贈られ、今は愛知県名古屋で東建コーポレーションの刀剣ワールド財団に現存しております。
0450人間七七四年
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2022/04/21(木) 23:14:59.11ID:dsm5+nL8
立花家家臣、樺島家と壇家の断絶と復興

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利輝元と石田三成の西軍に属して戦った立花宗茂とその一族郎党であったが、 関ヶ原の戦いはご存じのとおり西軍の敗北に終わり、
立花宗茂は残兵をまとめて大坂城に戻り、そこから紆余曲折を経て 領地である柳川に戻り、そこで鍋島・加藤・黒田の軍と一戦交えたのちに開城降伏した。

関ヶ原以後の立花宗茂の紆余曲折
西国無双 吼える
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13139.html
関ヶ原の戦いにおける宗茂
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3443.html
名将の降伏 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4344.html

その後、立花宗茂は改易となるが加藤清正はじめとする諸大名からの仕官の誘いを断り、肥後の玉名郡高瀬村の清源寺に入って 加藤清正の客分として遇されることとなり、
正室の立花ァ千代は肥後国玉名郡腹赤村に寄宿することとなった。
改易された立花家に代わって柳川藩主として入ったのが田中吉政である。

慶長7年(1602年)7月11日、柳川と肥後の境近くにある面の坂にてこの前日に松風の関で 田中家の関守に捕らえられた松延村の樺島彦左衛門益義と本郷村の壇七郎兵衛忠重と
その一族の者らが磔刑に処され、 彼らの父親、松延村の庄屋・樺島式部(旧松延城主)は自宅にて切腹し、本郷村の庄屋・檀大炊介(旧松延城主)は 矢部川の川原にて斬首と相成った。

そして、樺島・壇両家は庄屋職を解かれた上で断絶となる。

何故にこのようなこととなったか?樺島・壇の両家とその一族は密かに当時は国(藩)をまたいでの 輸送は禁じられていた米と金品を塩と偽って塩俵に隠して、
味噌などと共に大八車に積んで毎月のように 旧主である立花宗茂と立花ァ千代に届けていたのである。

肥後側の南関は清正から関守を任された加藤美作が色々目溢しをしていたようであるが、何者かが密告したか たまたまバレたのかは定かではないが、田中家の領内で捕まった樺島・壇の人々は僅か一日で処刑され、
それから3カ月ほどのちにはこの事件が原因かは分からないが、立花ァ千代も34歳の若さでこの世を去ってしまうのである。

加藤清正、立花ァ千代に兵糧を送る http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13129.html
この逸話もひょっとすると、今回のこの話に絡んでいたのかも知れない。 また、樺島・壇両家の仕送りに対して宗茂は脇差を礼として送っていたとも言い、 立花宗茂が田中吉政とその家臣を毛嫌いしていた?という既出の逸話もあり、
今回の逸話のことも 一因だったのではないか?とも個人的には思う。
0451人間七七四年
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2022/04/22(金) 20:59:28.49ID:BLpusYEu
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2285.html
一条兼定、暗殺事件
では一条兼定暗殺の実行犯、入江左近は元親に殺されたことになっているが別のパターンもある。

※入江生存パターン
「大友興廃記」より
一条康政公は長曾我部元親により四国を追われ、豊後に逃れた。
このとき康政公の御台所(大友宗麟の娘)は土佐に置かれたままだったため、宗麟公は元親と交渉し、御幼少の姫君を豊後に返してもらった。
そののち康政公は豊後でわびしい暮らしをしていたため再起をはかり、伊予国の住人で法花津の城主・播磨守則延の援けで元親にしたがう三ヶ城を落とし、伊予戸島に居住した。
この時の書状
「二三年之間御弓箭を尽くし、懇意の段、悦喜浅からず候。
わけて干戈を方々に取り鎮められたるを以って、一城を預け置くべき者なり。
 三月八日 康政
  法花津播磨守殿」
そんな時、土佐において元親は康政公の侍・入江左近を近づけ、予州戸島へ入りて康政公をうつべしと言い含めた。
左近はかたじけなくも譜代の家臣でありながら元親に同心し、戸島に入って康政公に言うことには
入江「代々主従の縁を忘れがたくそうらえば、ここまで参り候」
康政公は企みとは思し召さず御喜悦して
康政「うちの侍にもうとみ果てられて、尋ね来るものなきに、入江ばかりは神妙なり」と信じてしまった。
こうして種々の物語をしているうちに夜がふけると
入江「今晩は私が番をいたしましょう」と言ったため、その他の御近習は皆宿所に帰ってしまった。
康政公が枕につき、側には児扈従一人だけとなった頃、入江は近づき康政公に一太刀浴びせた。
しかし夜着が厚く、切れなかった。
康政公は早業を習得していたため、刀を抜こうとしたところ、入江は二の太刀で左腕を打ち落としてしまった。
康政公は太刀を膝の間に挟んで、入江に一太刀入れたところ、入江は妻戸をくぐって浜に出て、船に飛び乗って逃げ延びた。
駆けつけてきた康政公の侍たちが追おうとしたが、他の船のともづなはとうに入江により切られていたため、他の船は全て流れてしまっていた。
こうして入江は難なく逃げ延びた。
そののち、康政公は法花津則延により道後に送られたが、そこで病死してしまったという。

※「大友興廃記」では一条兼定の名前を誤って、文書発給者の源康政の名前にしている。
0452人間七七四年
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2022/04/22(金) 21:03:48.02ID:BLpusYEu
※入江が狼に食い殺されたパターン

貝原益軒「朝野雑載」より
一条関白房家公の子孫にして、土佐の公方である一条頼房公は、元親の逆心により追い出され、縁続きの豊後の大友義統を頼った。
しかしここでも追い出され、伊予の栗木に要害を構えたところ、一条殿の家臣である入江兵庫太夫というものが頼房の首を斬り、元親に捧げてほうびを得た。
ある夜、兵庫が山路を通っていると、狼が数百出てきて兵庫を食い殺し、白骨さえもなく、刀脇差だけが残った。
そののち長曾我部もだんだんに滅んだということだ。

「朝野雑載」には「大友興廃記」から採ったとおぼしき話が色々あるが、この出典は別っぽい。
入江の最後も、前に出た話では元親に斬られたことになっているが、こちらだと狼に食い殺されている。
しかし一条頼房という名前はどこから出たのだろう
0453人間七七四年
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2022/04/23(土) 13:36:25.83ID:GYB7Ksye
https://twitter.com/jun_ito_info/status/1517577410828730368
伊東潤@人間発電所
@jun_ito_info
この仕事を15年続けて分かったけど、本格歴史小説は知識量で勝負が決まる。知識量と面白さは正比例する。
知っていれば知っているだけ新解釈が生まれ、それが物語を生き生きとさせ、登場人物も光彩を放ってくる。
この好循環を生むには勉強しかない。「書く前に史料や研究本を徹底的に読め」ということ。

多少バズったので、定義をはっきりさせますね。
史実 : 一次史料に記してあるもので、まず間違いのないもの。
定説 : 権威ある研究家が提唱している説で、確固たる根拠や裏付けがあるもの。
解釈 : 史実を元にした持論。根拠や裏付けは必要。
(続く)

フィクション : 史実と定説を全く無視するか、自分に都合のいいものだけを取り上げ、勝手に持論や物語を展開させるもの
この定義を確立した上で、自説を展開する余地があれば物語にして提示する。それが歴史小説。

こうした区分けをしておくと、歴史小説は書きやすくなります。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0454人間七七四年
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2022/04/23(土) 13:37:35.57ID:GYB7Ksye
歴史小説家伊東潤のツイートがわりと好評らしいんで転載

でもこのスタンスで書かれた小説で、臆病者の卑怯者扱いされた上杉景勝と直江兼続は災難だったなw
伊東は北条押しなんで、上杉景虎の勝利により北条が越後(+甲信)も勢力下に収める歴史を阻害した景勝主従は絶許だったらしい
そこで上杉ファンから批判受けた伊東は「フィクションに何マジなってんの?w」と返答してるから、しょせん歴史小説での
史実の裏付けなんてフレーバーに過ぎないということですな
0455人間七七四年
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2022/04/23(土) 17:11:30.68ID:Q++SGYnq
司馬遼太郎が地方武将を悪役扱いで登場させたら、子孫だかに責められたと溢してたのは「播磨灘物語」の後書きだったかな?

そういう言い方すると江戸期まで生き残った戦国大名の多くは、神のごとく崇められているどころか、本当に神格化(神社のご祭神)されてるから、口出しできなくなってしまうね。

まあ普通はつべこべ言われたりしないよ。
0456人間七七四年
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2022/04/23(土) 21:12:34.98ID:lIRAMAQF
誰だったか、話を脚色するために架空の登場人物を小説に登場させたら、その子孫と名乗る人から電話があって困ったと言う話があったな。
0457人間七七四年
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2022/04/23(土) 21:36:26.81ID:fdTJO9ha
「貴重なご意見ありがとうございます。今後の参考とさせていただきます。」で相手しなくていいと思うけどな
0458人間七七四年
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2022/04/23(土) 22:18:35.51ID:5fJXLANX
吉川英治が「鳴門秘帖」に登場させた架空人物が書いたという書状を持ち込まれて困った話があったような
あとは池波正太郎「真田太平記」の樋口角兵衛とか
0459人間七七四年
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2022/04/24(日) 09:45:23.10ID:Yv3+t1mZ
>>457
伊東潤の場合は、歴史実証主義と謳ってる割に批判されたらフィクションだから文句言うな、というとこがダサいだけですね
0460人間七七四年
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2022/04/24(日) 09:53:57.46ID:Yv3+t1mZ
景勝、兼続に辛口で、謙信の人狩りとか上杉の「義」はどこにあんだよとドヤ顔するのも、最近流行りの鎌倉武士=ヒャッハーみたいなもんで
まあ流行の一環に過ぎないというか

上杉景虎の評価に関しては、ファンタジー小説「炎の蜃気楼」が口火を切ってるわけですが、あれの作者は地元有志から米沢上杉まつりに
招待され取り込まれているので、伊東潤と乃至政彦はそういう対象に選択もされなかったということかもしれません
0461人間七七四年
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2022/04/24(日) 23:17:26.73ID:6RLowsdy
「朝野雑載」より矢崎城主・中村惟冬の妻

薩摩より島津中務少輔家久を大将として新納武蔵(新納忠元)、鎌田尾張入道寛栖(鎌田政年)、梅北宮内左衛門(梅北国兼)、河上左京(川上忠智)など三万余騎が
兵船数百艘に乗り、肥後国宇土郡の郡の浦に上陸し、阿蘇大宮司の家臣である中村伯耆惟冬の籠っている矢崎の城を取り囲み、城攻めした。
惟冬も粉骨砕身で防いだが、多勢に無勢で援軍もなかったため、過半数が討たれ、残りの多くも手負となった。
惟冬はそれでも勇気をたゆまさず、わずか七十余人で城門を開けて打って出て、数刻戦い討死した。
しばらくして惟冬の妻が緋威の鎧を着て、女二十人ばかりを左右に立て、不意にどっと打って出、敵を二、三町退けたのち、枕を並べて討死したという。


ただし「明赫記」だと中村惟冬や家臣たちは各々自らの妻子を刺し殺したのちに打って出たことになっている。
0462人間七七四年
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2022/04/25(月) 23:35:18.74ID:olvn0GDs
「朝野雑載」より賤ヶ岳七本槍の平野長泰のこと

大坂の陣の時、平野遠江守長泰は江戸に留め置かれることになった。
長泰はそのころ駿府にいたため大御所(徳川家康)へ訴え出て
「公もご存じのように、それがしは太閤の御家で身を立てた、豊臣恩顧のものであります。
お暇を賜れば大阪へ駆け上り、一命を捨てて太閤の御恩に報いたいと思います。
もとよりわたくしは小身ですので、たとえ秀頼の味方をしたとしても徳川のお妨げにはならないでしょう」
と申したところ、大御所は
「さすが賤ヶ岳の七本槍として名を上げた勇士である。
敵になって強いものは、味方になっても強いと聞く。
いまから江戸に下って将軍の留守として、不慮のことがあれば粉骨をつくすように。くれぐれも頼んだぞ」
とおっしゃったため、
長泰は仕方なく「仰せに従います」と言ったということだ。
0463人間七七四年
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2022/04/27(水) 09:46:26.24ID:qPZYMBa9
山鹿素行「武家事紀」より平野長泰の話

上記のように駿府で源君(家康)に大坂城入城を許可してくれるよう訴えたが、義心に感悦した家康により細川忠興を介して、
黒田長政・福島正則・加藤嘉明とともに江戸に留められてしまった。
不満に思った長泰は駿府から江戸の加藤嘉明の屋敷に直行し、
意気揚々として大坂方が勝利するだろうと談笑したが、嘉明は激しく叱って黙らせた。

なお長泰の弟で九左衛門尉長重というものがいて、これも賤ヶ岳の合戦で高名を挙げたが、長刀を好んで使っていたため、
槍ではないということで七本槍に入れられなかったという。
0464人間七七四年
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2022/04/29(金) 16:13:47.25ID:UtM8gOE2
福島みたいに晩節を汚すくらいなら名を挙げたいと思った奴は結構いただろうな
このまま生きてても未来は決まってるし、なら一発逆転してもいいし、玉砕して名を残してもいい
0465人間七七四年
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2022/04/30(土) 12:12:18.84ID:LMmnjRoW
或る記によると、浅井周防守(井頼)は淀殿の弟であり、大阪落城後、遁れて京極家に行き、剃髪して
作庵と称したという、

或る本では、豊臣秀次公の臣であった浅井周防守は、勇功の士であったが、秀次校に仕える少童たちの
目付けであった所、元来男色を好んでおり、ある少年を犯して通じた。
この事を秀次公が聞き召され、大いに怒り、浅井を殺すべしと命ぜられた。

これを聴いた周防守は、立ち去るべきと思ったが、
「我武勇の名を得て禄を食む。おめおめと退きては、命おしさに、などと人の誹りも口惜しい」
と、城に登り大声を上げて

「君、人をしてそれがしを殺し給うという。一体誰がその命を承れたか!?
急ぎ出て私を殺害されよ!」

と言い駆け回ったが。彼の勢いに恐れたのであろうか、敢えて手差しする者も無かったので、すぐに
立ち退いた。だが日本に在れば尋ね捜され、恥を見るのも心憂しと思い、朝鮮に渡って住んだ。
そして毎朝浜辺に出て、「日本大乱国家滅亡!」と叫びながら、薙刀を振り回したという。

秀次公御生害の後に帰国し、浪人していたが。去る年に籠城して、夏の陣の時に戦死したとも言う。

(新東鑑)
0466人間七七四年
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2022/04/30(土) 21:35:32.11ID:aWJlUSl/
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13382.html
大友宗麟、猿のために岩屋重氏を殺すこと

前に出した「大友興廃記」のこの話
薩州旧伝集(戦国から江戸初期にかけての薩摩君臣言行録)の巻五を読んだら

寛陽院様(島津光久、忠恒の子)の御代に、ある行司が鉄砲を持って吉野山に入りあちこち探索していたところ、あやまって深い谷に滑り落ち、途中の柴木で支えられた。
とうてい上がれないので困っていたところ、大きな猿がかずら縄をさげ下ろしてきた。それを引き寄せたところ手応えがあった。
そこで縄を手繰り寄せて首尾よく谷から上がると、数十匹の猿がかずら縄を引いてくれていた。
行司は鉄砲で大猿を一発で射殺し、帰ってその話をした。
それを聞いた寛陽院様が行司を召し出して話をさせたところ、寛陽院様は不機嫌になり、その行司に切腹を仰せ付けたということだ。

と、ほぼ同じ話があった。
0467人間七七四年
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2022/05/02(月) 16:15:00.81ID:vAHEkKsE
上記の「薩州旧伝集」の元となった?「薩藩旧伝集」(1908-1909年に発刊された「薩藩叢書」に収められている)の巻二には
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13210.html
関ヶ原で島津義弘の身代わりとなった長寿院盛淳(阿多盛淳)を討った者として

慶長五年九月十五日関ヶ原敗軍、義弘公も必死におきわまりあそばされ、取って返したまうを、
阿多盛淳長寿、公の鎧をひかえ
「大将軽々しく命は捨てぬ者たり、御旗と御名乗り賜り候え、私御命に代わりもうすべく。落ちさせたまえ」と諌め奉る
「島津義弘討死」と名乗り一戦して松倉豊後重政の家臣、山本七助義純に討たれもうされけるとなり

と、松倉重政の家臣の山本義純の名前が挙がっている
0468人間七七四年
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2022/05/02(月) 16:19:15.43ID:vAHEkKsE
「朝野雑載」ではこの山本義純は以下のように書かれている

新羅三郎義光の三世、遠江守兼左兵衛尉義定(安田義定?源義経と同名の山本義経の父親の山本義定は義光の孫で別人)より十九世の孫、
山本左京進義里は江州浅井郡山本郷に居住し、代々佐々木京極に仕えていた。
のちに佐々木六角の家臣となったが、天正十年(1582年)六月三日に明智光秀の兵が江州観音寺城を攻めた時に義里は討死した。
(本能寺の変と観音寺城の戦いを混同?)
義里の息子、山本七助義純は永禄十一年(1568年、観音寺城の戦いの年)に江州甲賀に澤田氏を母として誕生した。
義純は幼少だったので大和の松倉豊後守重政に仕え、重政の主人の筒井順慶が松永久秀と合戦した時には毎度戦功をあらわした。
(松永久秀が死んだのは天正五年(1577年))
中でも天正十二年(1584年)に筒井伊賀守(定次)の手に属し、伊賀国獺瀬城に一番乗りを果たした。
城の陥落後、秀吉公は豊後守に感状を賜り、豊後守は七助(義純)に刀を授けた。
また関ヶ原御陣では島津兵庫入道惟新(義弘)の家臣、阿多盛淳入道長寿の首を取った。
この合戦後、七助は豊後守の下知を受け、主人の妻が島左近の娘であったゆえ島左近の家に置かれていたのを、智計を巡らせて取り返したという。忠節莫大であった。

内容もそうだが、六角や澤田の苗字が出てくると、沢田源内の偽書出典ではないか気になる。
0469人間七七四年
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2022/05/02(月) 16:25:01.52ID:vAHEkKsE
なお、湯浅常山「常山紀談」の「山本権兵衛、功名のこと」
では山本義純の息子とされる山本義安について

松倉豊後守重政、後藤又兵衛の陣を切り崩す。
松倉が士、山本権兵衛義安、十八歳にて槍を合わせ首を取りける隙に槍を敵に取られたり。
その槍じるし、敵の中に見えしかば、
「今はこれまでなり、討死せん」といい捨て敵の中へ入り槍を取り返し、その槍にてまた敵を突き伏せ、首を取りて帰りけり

とその勇猛ぶりが描かれている
0470人間七七四年
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2022/05/03(火) 15:23:45.96ID:EacVBKZg
或る記に、大阪夏の陣での大阪落城後、蜂須賀蓬庵(家政)の使いである長坂三郎左衛門は、
八幡の茶店にて暫く休息している時、亭主に「すまないがこの辺りに、落人と思しき者があるか」
と尋ねた。亭主が申すには

「されば、不審なる者があります。いかにも忍ぶ人と見え、夜々にこちらの方に来て、食物を調え
帰る人があり、私は覚束なく思いその跡を付けて参った所、葭原の中に隠れ住んでいるようでした。」

長坂はこれを聞くと大いに喜び、茶屋の亭主を案内者として、若党・中間を葭原の中に分け入らせ、
捜し求めた所、長宗我部盛親主従の二人、飢えが迫っていたのか、疲れ伏している所を捜し当てた。
故に忽ち二人を搦め捕ったという。

(新東鑑)
0471人間七七四年
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2022/05/06(金) 22:31:17.36ID:Oy1vWUUb
「薩藩旧伝集」から島津中書(島津豊久)の死について

後醍院宗重の供のものの一人が、関ヶ原で宗重に遅れ敵中に包囲された。
そこで島津中書(豊久)が討ち死にし槍玉にあげられたのを見届け、その後しばらくして帰国した。
長命であったため宗重の孫たちの子守りをしていた時分、後醍院屋敷から頭殿の踊りを見ようと川上村に行った。
(原注:今では小山田村で踊りを行っているが昔は川上村で行っていた)
蹴合踊りの時には眼の色を変え、
「中書様がお討死にされ、槍玉に上げられ、猩猩緋の御陣羽織がさっさんに裂けた時はまさにこのようであった。
よく見ておきなさい。そして老夫がこう言ったことを覚えていてください」
と、宗重の孫を抱えて跳ねながら言ったという。
なお慶長六、七年(関ヶ原の翌年、翌々年)の頃、押川強兵衛(公近、浜田経重の娘婿で武勇の持ち主)を三虚空蔵参りの名目で中書様の行方を尋ねさせたが、
三年経っても不明だったため帰国したということだ。
0472人間七七四年
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2022/05/13(金) 16:09:47.53ID:Yo+4A1bF
(関ヶ原の折、徳川家康に断りを入れた上で中立を選択した氏家内膳(行広)であったが)
然るに上方が敗軍すると、関東方である勢州長嶋城主・山岡道阿弥(景友)が、氏家氏の桑名城を
攻めようとした。氏家内膳、並びに弟志摩守(行継)、寺西下野守(直次)等は、防ぎ戦おうとしたが、
山岡は使者を立て、
『関ヶ原において宇喜多、石田以下の諸将敗北の上は、急ぎ城を渡さるべし。然らば我ら、今後の
御恩賞に換え、本領安堵させ申さん』
と伝えたため、氏家兄弟たちは承引して、各々城を出た。

然るに、一乱程なく治まって後、その所領は没収され、内膳並びに嫡子左近、二男内記の父子三人は、
縁者であったため京極高次と羽柴(池田)輝政に預け置かれ、内膳は若狭、播磨を往来して年月を
送っていたが、去る、大阪冬の陣の勃発において、徳川家康公は「内膳を召し出されるべし」との御内意が
あったのだが、

「不肖のそれがし、殊更十四、五年の間、弓馬の道を捨てている以上、武道に於いて何ほどの事を
仕れるでしょうか。どうか御免あるべし。」

と言って仰せに従わなかったのだが、また今年の御陣(大阪夏の陣)に、両御所より
『十万石の軍勢を預け給わるべし。只々大阪へ先陣すべし。』と有ったのだが。
返答にも及ばず大阪城へ籠城し、秀頼公の御供をした。
内膳は浪人の後に男子二人が出生したが、一人は比叡山南光坊天海の弟子となし、一人は八丸といって、
未だ幼少であったが、父内膳が籠城した事により、大阪落城後、嫡子左近、二男内記とともに。
五月二十九日(或いは七月二十九日)、京都妙心寺に於いて、死罪に処された。

或る記に、氏家兄弟の切腹の模様を見た医師・斎藤玄可が語ったところによると、
虎落の中に敷皮を敷き、兄弟三人は座に並んでいた。
左近は二十四、五歳、内記は二十あまりと見え、八丸は九歳にて、いずれも美男であった。

左近は、弟幼少なる故、不覚のこともあるかと思ったのだろうか、
「八丸は我らに先立つべし」
と申した。これに八丸は

「私は未だ、切腹する者を見たことがないので、どのようにすればいいのか知りません。
先ずは御両人が、腹を切って見せて下さい。その通りに致します。」

左近は布を聞いて「実に理である。然らば私と内記の真似をせよ。」と言い聞かせ、
二人は諸肌脱ぎになり、腹一文字に引き廻して、首を討たせた。
この時八丸は顔色も変えず、身繕いをして肌脱ぎになった。

見物の老若は見るに忍びがたく思い、皆声を立てて泣きながら門外へ逃げ出た。
その時八丸は脇差しを押し取り、弓手の脇に突き立てた所を、介錯の者は引かせる前に
首を打ち落としたと云う。

(新東鑑)

氏家三兄弟の切腹について
0473人間七七四年
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2022/05/14(土) 16:10:03.34ID:4gpgNxON
「大友興廃記」から志賀道択(志賀親度)、御馬を拝領と偽り取り帰る事

天正三年乙亥二月に信長公が信濃黒という名馬をくださった。
信長公の御意には「去年遣わした鬼月毛は世に過ぎたもので、遊覧用にしかならなかったであろう。
この信濃黒はいつもはのどかな馬で、体を飾って舎人をおおく付けてもなんの反応も示さない体たらくであるが、乗ると意のままになる、足の速い名馬である。
信長秘蔵ではあるが、わざわざ使者を送ってこられたので特別に遣わす」との仰せであった。
信長公の御意よりも優れた馬であったため、宗麟公のお召しの馬の中でも第一とされた。
ここに南郡岡の城主、志賀兵部親教入道道択(志賀親度入道道益)、丹生島登城の時、宗麟公は御機嫌であったので、暇をもらい、吉光の御脇差も拝領した。
道択はすぐに御厩舎の別当・雄城無難を訪ねたが留守だったため、御厩舎の舎人に馬を案内させた。
舎人「これは薩摩鹿毛、肥前黒、龍造寺粕毛、あれは山口黒、河辺岩石落…」と二百余の究竟の逸物の名馬を見せたあと
「これは御召料第一の御馬、信濃黒と申します。この春に信長公より参った馬でございます」
と言うと、道択はしげしげと見て、この馬以上の馬はないと思いいって、
道択「やあ舎人、この馬はそれがしが今朝拝領せよと宗麟公から仰せつかった馬であるぞ」
舎人「お言葉を疑うわけではありませんが、別当の無難も留守なのであい渡すことは、わたくしの分別ではできません」
道択は大いに怒り「殿から拝領を仰せ付けられたのに、無難が留守だからと言って渡せないとは何事だ」
と責めて、鞍をかけて打ち乗って「これは心地がよい」といいながら居城の岡の城に帰ってしまった。
そののち無難が帰ったので、舎人が「しかじかで…」と申した。
無難は不思議に思い、急いで登城しこのことを皆に尋ねると
「吉光の御脇差を拝領したことは聞いたが、御馬のことはなんとも存ぜぬ」と皆が言ったので無難は仰天し、ことのしだいを申し上げた。
吉岡掃部介(吉岡鑑興)、吉弘嘉兵衛尉(吉弘統幸?)、田北新介(田北鎮周には新介の名乗りはないようだ)といった老中衆は談合の結果、
「宗麟公の御機嫌を損ねるのを覚悟でありのままに伝えよう。
十のうち一つは本当に馬を遣わされたのかもしれない、十のうち九は道択がたばかって取ったのであろうが」
ということで、無難と老中がそろって汗をかきながら宗麟公にありのままに申し上げると
宗麟公はしばらく考えたあと「古くから軍の先を駆けんとするものは龍馬を求めると聞いておる。脇差を遣わした時の折紙に、信濃黒についても拝領遣わす、と書いておけばよかったものを」
とかえって興にいったように仰せられた。
思いの外の御返答で、無難も放心したように帰った。
良将の考えなさることは、諸人の智とは違うものだ。

※志賀親度(道益)は豊薩合戦の時に大友を裏切ったため、息子(養子)の親次により自刃させられた
0474人間七七四年
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2022/05/15(日) 17:30:18.37ID:JusC5b42
元和二年(1616)六月七日、本多佐渡守政信は七十九歳にて卒した。

或る記に、政信在世の間に、嫡子上野介(正純)へ
「私が没後に、必ず其の方へ御加増があるだろう。三万石までは、下されることに成れば御請け申せ。
もしそれ以上仰せ出されれば、御請けは決して無用である。冥加に尽きる。」

と言ったのだが、後年十五万石にて、下総国宇都宮城主に仰せ付けられ、根来衆百二十人を御預けになった。
この根来衆の組頭は、大納言、少納言という同心であった。彼らは度々御陣の供奉をして手柄が有った。
故に、一騎をも勤めるほどの者であった。

この根来衆という者達は、紀州根来寺の僧の末である。秀吉公の時。下知に背くこと有って、天正十三年
三月二十三日、秀吉公が彼らを攻めたが、悪僧たちは一味うぃ、近国隣里のあぶれ者どもを招き集め、
防ぐこと甚だ疾かったため、秀吉公の軍勢は追い立て追い立て、あら手を入れ替え攻めたにもかかわらず、
悪僧達は事ともしなかった。そのため「この寺しばらく破り難し」と、攻め倦ねた所を、筒井順慶が
兵士を下知して頻りに火矢を発した故に、城中俄に火災が起って、死する者千六百余人に及んだ。

これによって悪僧たちは防ぐ手段もなく散々に成って退いたが、武勇を顕す者共であったので、
「根来寺が破却され、今更高野山に従うのも口惜し」と思い流浪していたのを、徳川家康公が
聞き召され、その中から百余人を抱えられ、御先手として定められた。これを「根来組」という。
現在徳川家にその氏族があるのは、大略この時より始まるのだという。

然るに、本多正純は自身の功に誇り、宇都宮の城普請の節、彼の御預かりになっていた根来組に対して、
壁拒の普請をするようにと申し付けた。しかし根来の者共は、「これは癖事である」と勤めなかった。
これに正純は怒り、一人も逃さず、その女房子供まで首を刎ね、塚を築いて埋めた。

この悪事により、元和八年、正純は羽州由利の地に配流されたという。

(新東鑑)
0475人間七七四年
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2022/05/16(月) 15:38:23.73ID:5/c1FEL1
2020年から新名一仁氏による現代語訳が出版されてきていることでも有名な
島津の老中・上井覚兼による「上井覚兼日記」から>>473の志賀親度(道益)裏切りについての箇所
(現在現代語訳が出版されているのは天正十二年十二月まで)

天正十四年(1586年)二月五日
…豊後の志賀道輝(親守)、近頃大友義統から勘気をこうむったため、迦住城遠方に隠遁となっていた。
そこですでに島津に内通していた入田(義実)と同心のよしを申してきた。

同年同月十六日
…志賀道益(親度)と申す者は、道輝の子息である。
かの者は大友義統に召し仕われていた一之対(おそらく妾)を盗み取り扶養していたが、
慮外の振る舞いということで義統の勘気をこうむり、菅迫というところに籠居となっていた。
そこで入田方と一味のよしを申してきて、今年の春中に島津義久公の出兵があれば豊後平定のために案内すると言ってきた。
この者に限らず、大友の国衆はまとまりがなく、統制がとれていないようだ。
そこで使者に見参し、お酒をよこして閑談した。
使者は豊前・豊後国の絵図の写しを持参し、ここかしこの情勢をくわしく話した。
拙者は道益あての書状を託し、内通を承諾したよしを使者に申して帰らせた。
使者の申したことは重要な点も含めて、昨年の入田が内通した時の情報と一致していた。
皆知っているように豊薩和平のことは(天正八年に)京都(織田信長・近衛前久)により定められたが、
昨年の冬以降、大友義統が当家に対して筋目違いが歴然であった…

志賀親度が義統の妾を奪った理由
名馬を事後承諾で貰えたから、味を占めたわけじゃないと思うが
0476人間七七四年
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2022/05/17(火) 20:41:27.78ID:FCxFjtgU
「大友興廃記」から小笠原晴定誅伐の事

古文に「筆は鋭く、墨は筆に次ぎ、硯は鈍い。しかし硯のように鈍いものは寿命が長く、筆のように鋭いものは夭折する」とある
小笠原刑部大輔晴宗というものはもとは義輝公方の家臣であったが、永禄の変で三好・松永により義輝公方が弑された時、たまたま大友家に来住していたためそのまま木付(杵築)に居住した。
晴宗嫡男大学兵衛晴定には人に勝れる大力があり、術芸に優れていた。
たとえば蛇に手縄を付けたものだとしても、馬と呼ぶようであれば乗って見せよう、と大言をはいていた。
天正十二年(1584年)の春の終わりに南郷岡の城主・志賀兵部入道※道懌(志賀親度、道益)のところに見舞いに行った。
なおこの岡の城は山の前後に大河が巡り、岩壁は四面にそびえ滑らかで、大木が盾の羽を並べたように林立し、鳥でなくては登りがたい名城であった。
(豊薩合戦のときに志賀親度の息子・志賀親次は、この岡の城で島津相手に「天正の楠木」と呼ばれるほどの籠城戦を行うことになる)
晴定は「これぞ九州第一の城郭であります」と挨拶し、道懌も晴定を馳走した。
酒宴がたけなわになった折、晴定は酔ったまま冗談めかして
「このような名城にありながら、野心がないとは心の鈍いお方ですな」と述べた。
これに対して道懌は何も発言しなかった。
悪事千里を行くのならいで、この雑言が宗麟公御父子の耳に入り、それから晴定が御前に呼ばれることはなくなった。
天正十四年には道懌に野心の風聞が立った。
そこで天正十六年の春、晴定を誅伐するための討手として臼杵美濃守が選ばれた。
宗麟公は晴定を召し、晴定が居住地の木付から臼杵に向かったところ、途中の産島の茶屋で美濃守は待ち構えていた。
美濃守「今時分に御登城とは、何の御用での御登城でしょうか」
晴定「とりあえず宗麟公のお召に従っての登城である」
その頃、晴定の家臣たちは干潟で潮干狩りをして遊んでいた。
美濃守は禿(かむろ)に茶を点てさせ、自分も飲み、晴定にもすすめて時分を見計らった後、刀をするりと抜き
「上意であるぞ!」と打ち付けた。
晴定も「心得たり!」と三尺八寸の刀を抜こうとしたが、あまりの大刀のため(または「あまりの大力」か)、刀のこじりを茶屋の腰板に一尺二尺突き通してしまい、抜くのが遅れてしまった。
美濃守は続けざまに三刀を入れて討ち取った。
さしもの名のある晴定も力が過ぎたため、かえって刀を抜く速さが遅くなり、無下に討たれてしまった。
ものごとに、過ぎたるは猶及ばざるが如し、というとおりである。
晴定は氏素性といい、骨柄といい、芸能の惜しい武士であったが若さの故このようになった。
ある人が言うには、「尾が剣に変じた牛がいた。牛はその尾を舐めると血の味で甘かったため舐め続けた。すると舌が破れて牛は死んでしまった」
晴定も舌のおもむくままに後先考えず悪言をはいてしまったため、その身を滅ぼすこととなった。牛と同じことである。
人はあまり好きたることに熱中すると過ぎたることになるため、好きでも無いことに心を寄せるべきである。

※「道懌」であれば「ドウエキ」となり「道益」と同じ読みなので、以前出てきた「道択(擇)」は「道懌」の誤字だと思われる
0477人間七七四年
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2022/05/21(土) 12:41:01.83ID:XMgqLLM/
本多三弥(正重)は天性腹悪しき人であったが、また極めて正直な人でもあった。
あり寒夜に、大御所(徳川家康)が御膳を召し上がられ、本多佐渡守(正信)にも給わった。
この時、三弥も参り、人々も御旨を伝えられた事があった。

事終わって後、鶴の羹を召され、正信に向かい給い、
「尋常の羹であれば、今ほどの時間が経てば冷えてしまうだろう。しかしこの羹はまだ温かい。
『大鳥は老人に益あり』と言うが、さもありなん。」
と仰せになった。

佐渡守は箸を納めてこれに答えようとした時、正重が進み出て
「この三弥のような小鳥を羹にしてしまえば、今の間に凍りついたでしょう!」
と言い捨てて御前を罷り出でた、
大御所は大いに呆れられ「如何に佐渡守、汝が弟は心を未だ改めていないのか。あの心では
どうして大名に成れるだろうか。」と仰せになった。

大阪御陣の後に本多三弥は、坂部三十郎、久世三四郎に賞が行われたと聞いた。
彼は激怒し「その三四、三十、いかにそれがしに超えた武功が有って賞を行われけんや!」とて、
刀を掲げて城に登った。
その時坂部、久世は帰ろうとして大門を出た所だったが、正重はその方に向かって揉みに揉んで
やって来た。久世等が「怪しい者かな」と見ていると、三弥は橋の半ばに至った時、大声で叫んだ

「御辺達は、いかなる高名して所領を給わったのか!?語れ、聞かん!!」

これに久世三四郎は素早く心得、左の手にて耳の輪(耳たぶ)を取って見せると、三弥も致し様なく
「さこそあらめ。御辺らは耳の輪大きく産まれたり!武功に於いては、何条それがしに及ぶべき!」
と言って、彼らと打ち連れて帰ったという。

(新東鑑)
0478人間七七四年
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2022/05/21(土) 15:40:17.34ID:KVP3D8+5
耳たぶで納得する意味がよく分からん
0479人間七七四年
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2022/05/21(土) 19:48:42.82ID:eLz/yr/C
武功じゃなくて福耳で貰っただけですよ(運が良かっただけですよ)ってことなんだろうが、ジェスチャーを一瞬でよく理解できたなとは思うw
0481人間七七四年
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2022/05/29(日) 22:36:06.62ID:Mz5FcVbm
「朝野雑載」より天海と豊国大明神の話

大坂の陣の後、南光坊天海が家康公に
「秀吉公を豊国大明神のままにおくことは、神だと祟るためやめた方がいいでしょう。仏にした方がいいでしょう。」
と申し上げたため、家康公は同意して
方広寺大仏殿の寺内、東南の方四廊より内に墓を築き、小堂を建て、豊国大明神の号を取り去って、国泰院雲山俊龍大居士と号した。
これより後は豊国の社を修復なさらなかったため、だんだんと朽ち果てていった。
そののち寛文二年(1662年)、大地震がたびたびあり(寛文近江・若狭地震)、大坂城に雷火があった。
(ついでに秀頼の代に再建された方広寺の二代目大仏も地震で大破)
そのころの俗説に「これはみな太閤のたたりだ」とあった。
東福門院(秀忠の娘で後水尾天皇中宮)がこれを聞こしめして、豊国の社の修復を江戸に伝達した。
そこで伊豆守(松平信綱は大地震のひと月ほど前に死去)、豊後守(阿部忠秋)が下知し、修造料として金子五千両を奉行人に渡し遣わした。
しかし昔年、南光坊の進言により家康公が豊国大明神の神号を取り去って国泰院になされたため、現在は豊国の社に神がいないと
伊豆守・豊後守がお聞きなさったため、すでに渡し遣わした金子をことごとく取り返しなさった。
豊国社を公方から御修復なく、そのまま朽ち果てるに任せているのはこのためである。
これは世の人がみな知らないことである。
0482人間七七四年
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2022/05/30(月) 20:49:17.10ID:BKEGSNvy
「朝野雑載」から徳川忠長のこと

寛永八年十一月(1631年12月-1632年1月)、駿河大納言忠長卿は駿河国浅間において猿狩をするという触れを出した。
御家人ら「浅間山はいにしえより殺生禁断のところです。願わくば御遠慮ください」
とおのおの諌め申したけれども忠長卿は御承知せず
「かの山も我らが領分なれば、なにを咎められることがあろうかあ
と同月十五日、浅間山に入って猿狩を行い、千二百四十余を狩猟した。
こうして帰路に赴かれたとき、駕籠の窓から手を出し、駕籠かきの男の上腕を削刀で突き通しなさった。
駕籠かきが驚きあわてて逃げ去ったのを、近習に申し付けてすぐに誅殺なさった。
これが卿の人殺しのはじめである。
これより後は常に心にむらが起きて、近習のともがらはもちろん、奥方の女中にいたるまで、とがなきものをしばしば打擲なさったため、人々は愁い苦しんだ。
同年十二月二十一日、狩にいでたまい、ある寺で休息なさっていると、
小浜七之介という侍が馬に乗って、眼前三丁(330mほど)あまり隔てたところを通り、この寺に来た。
(以下
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9685.html
と同じ話)
こうして酒狂か、浅間山の祟りかと噂になったが公儀を恐れて内密にしていた。
しかしとうとう上聞(家光の耳)に達したため、寛永九年九月五日、甲州に籠居を命じられたが、その後、領地を召し上げられ高崎城主・安藤右京亮重長預かりとなった。
安藤重長は忠長卿を厚遇し、御殿の外に鹿垣を廻らせて、その内は自由に歩行できるようにさせた。
しかし寛永十年九月、上使として阿部対馬守重次が高崎城に赴き、上意を申し渡した。
上意の仔細はしれないが、重次が一旦江戸に戻ってまた高崎に来たため、世に出回った話では、

阿部重次「忠長卿の御乱行が収まらないため御自害に誘導するように」
少し考えたあと、安藤重長「将軍家のお墨付きはございますか?」
重次「それがしが上使として来たからには御証文の必要はないでしょう」
重長「もちろん上意に逆らうわけではありませんが、忠長卿は将軍御連枝で、御証文もないのに御自害をお勧めするわけにはいかないでしょう。
はやくら江戸に帰って御証文をご持参してください」
そのため重次は江戸高崎を往復したという。

その後、重長が鹿垣を御殿の縁際まで狭め、御殿の外に出られないようにしたところ
忠長卿「なぜこのように鹿垣を結ぶのだ?」と尋ねられたため
重長「将軍家の御下知にてこうしております」
それ以降、忠長卿は御殿の外に出なくなり、女中たちにも暇をやり、御前には十二、三歳の童二人だけが仕えるようになった。
ある日、忠長卿は童二人に台所に酒をとりに行かせ、一人になった。
童たちが御酒と肴をとって帰ってくると、忠長卿はみずからの脇差で自分の首を半分ほど斬り、うつむいて倒れていた。
そののち、御目付衆がきて、そのままにされていた死骸を検死し、御自害ということになった。
忠長卿は十五日ほど前から、財産、宝物の整理をし、反故は全て焼き捨てていたという。
0483人間七七四年
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2022/05/31(火) 22:43:54.42ID:IFhEYclx
「朝野雑載」から穴沢外記(穴沢盛秀)のこと

穴沢外記は秀頼公の長刀の師であったが、大坂の陣の節、五月六日に傍輩に向かって
「我は明日討ち死にする存念である。ついては長刀で戦うべきか、槍で戦うべきか?」
傍輩「御辺は長刀の達人として世間に名高いのに、明日討ち死にというところで「長刀か槍か」とは、一向に合点がいかぬ」
穴沢「御辺の申さるることはもっともだ」
と翌七日、長刀を持って傍輩とともに出陣した。
ふたりいっしょに並んで敵と槍を合わせたが、穴沢の方はなんということもなく討たれて首を取られてしまった。
傍輩の方は敵に槍をつけ首を取って高名をなしたが、大坂城落城後、落人としてあちこちに隠れていたが、しばらくして大坂の陣の働きによって奉公にありついた。
そのものは穴沢について語って言うには
「穴沢が最後の戦いに長刀か槍かで悩んだこと、いまだに不審がはれぬ」
と申したそうだ。
0484人間七七四年
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2022/05/31(火) 22:53:53.38ID:IFhEYclx
ついでに「武将感状記」の「穴沢主殿助 薙刀を以て名を得る事」

穴沢主殿助盛秀は、薙刀に名を得て、豊臣秀頼の師なり。
相手に竹槍を持たせ、二人前に立てて術を試みるに、危うげもなく必ず勝ちぬ。
大坂冬陣に上杉景勝の将、直江が兵士、折下外記とわたりあう。
折下は素槍、穴沢は薙刀なり。
穴沢薙刀のそりにかけて素槍をはね、飛び入りでこれを斬る。
(折下が)肩に傷つきながら槍を捨て引き組むところを、折下が従者多くあつまりて、穴沢ついに討たれたり。

「朝野雑載」の方はおそらく穴沢を討った折下外記と名乗りを混同している。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10626.html
坂田五郎左衛門、穴沢左近と勝負之こと 付異聞

前に出ていた甲子夜話のこの話では穴沢の死について他にも異説が二つ

ついでに寛永年間に家光の御前で行われたとされる寛永御前試合には穴沢主殿助も出ているようだが、魔界転生でもしたのかな
0486人間七七四年
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2022/06/02(木) 23:19:58.24ID:NuOKPlYc
豊後国の朽網(くたみ)の歴史を描いた「救民記」から大久保蔵人のこと

大久保蔵人は、朽網家に数代仕え、忠勤に励み戦功も多かった。
あの頭に角を生やした馬鬼を殺した時の長刀は、蔵人の死後に山原八幡宮に奉納したそうだ。
(馬鬼の話は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13411.html
「大友興廃記」より「馬鬼退治の事 ならびに七不思議」
参照)
ある年に大友宗麟公は耶蘇の会主の僧を朽網に派遣しようとした。
朽網鎮則は大久保蔵人に命じて梨原で耶蘇僧を追い返した。
このとき宗麟公からはとくに咎めはなかったそうだ。
蔵人は鎮則に従って筑前・筑後の戦でも数度軍功を現した。
朽網氏が(豊薩合戦で島津に降伏し、その後の豊臣による九州平定の際に大友義統から討伐され)没落した後、
大友義統公も朝鮮の陣では、忠臣たちが新参の者どもの讒言により罪を得、戦で敗北することが多かったため、毛利輝元へ預かりとなってしまった。
関東大坂動乱(関ヶ原の合戦)のとき、大友義統公は毛利方として速見郡立石で黒田軍と合戦に及んだ。
大久保蔵人も駆けつけて義統公に拝謁し、軍奉行を命じられ、黒田如水と戦ったが鉄砲に撃たれて死んだ。
0487人間七七四年
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2022/06/03(金) 10:24:22.25ID:sDLB/S+3
寛永十二年の頃、或る人が甲陽軍鑑を畠山入庵(義春)の所に持ち来たりて、慰めに読み聞かせた所、
入庵曰く

「この書、大いに相違している。第一に上杉謙信が梶原景時の裔とあるが、謙信は元々長尾であり、
村岡勝軍忠通の三男・鎌倉四郎兵衛の孫、治郎景弘が始めて長尾を氏とし、兄弟が分かれたのであり、
別流である。

また「長尾義景」と書かれているのは、私の舅である政景の事であり、義景ではない。

また、天正三年の記録に、公方霊陽院義昭公と書き載せられているが、義昭公は秀吉公後他界の
前年まで後在世であり、慶長二年八月二十八日に薨ぜられたのを、その二十年前、天正六年に死んだ
高坂弾正が諡号を書くこと、不審である。

また天正五年十月に切腹した松永弾正の事を、天正三年六月の記事の中に書いている、松永の滅亡を
三年前に知って載せている。

また天文十六年二月十五日、武田晴信(信玄)が甲府八幡に詣で、山本勘介(勘助)を呼んで西国の事を
尋ねると、勘助はその座に於いて、大内義隆を家臣・陶尾張守晴賢が討ち滅ぼした事を語るとある。
義隆は天文二十年九月、長州深川村大寧寺に於いて生害している。これは晴信へ勘助が談じた年月から
四年後のことである。

また川越夜軍を、北条氏康が上杉と戦ったとある。川越の夜軍は氏康の父氏綱と、上杉五郎朝定との
戦いであり、天文六年七月十五日の夜である。
また両上杉に北条氏康が討ち勝った戦は九年後、天文十五年四月二十日の昼である。
(筆者注:こちらが一般的に言われる河越夜戦)
これら二つの戦いを一度に記するのは誤りである。

また十巻目の下に、松山の城主・上杉友定とある。松山城主は上杉左衛門大輔憲勝である。
憲勝は山内上杉・民部太夫憲顕より六代の孫である。また友定という人は、上杉一門の中には居ない。
朝定の事であろう。但し朝定はその一五年前、天文十五年四月二十日に討ち死にしている。

この書は偽書である。その上で謙信の時代のことは、私が直に見た事である。」

そう言われたという。

(新東鑑)

畠山義春による甲陽軍鑑へのダメ出し
0488人間七七四年
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2022/06/03(金) 10:44:29.98ID:aZoX+ODJ
日記じゃないし、昔のこと思い出して書いてるから年月日は自信ありませんと甲陽軍鑑に断りとして書いてあるのは読めてなかったのかな?
0490人間七七四年
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2022/06/03(金) 18:29:51.57ID:IglZJe0y
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7423.html
畠山義春の出奔

甲陽軍鑑に畠山義春がダメだしをした、て話は怪しいとか前に出てたな
宇佐美定祐が甲州軍学より自分の上杉軍学の方が優れていると言うために
甲陽軍鑑の誤りを畠山義春の名前を借りて指摘したとか
0491人間七七四年
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2022/06/05(日) 16:39:29.23ID:cFNiwAIg
「朝野雑野」から結城秀康と朝日重政

朝日丹波(重政)はもと菅沼に仕えていたが秀康卿の家臣となり、その息子・千助は秀康近習となっていた。
あるとき千助に粗略があったため(火事の時に物を運ぶようにと命じられたが重くて運べなかったという)、秀康卿は「汝は用にたつまじき者かな」と言ってしまった。
千助は「殿に「用に立つまじき」と言われた以上は我が運の末である。一日も長らえてはならぬ」
とたちまち自害してしまった。
それを知った秀康は大いに驚き、丹波に「愁嘆の折ではあるがまかり出よ」と仰られた。
丹波が御前に罷り出ると
秀康「我が「用に立つまじき」と言ったのは決して武のことではなかったのだが、千助がそのように受け取ったのも道理である。
我が一言であたら勇士を失った。汝に対面して罪を謝するに言葉もない。
その方はほかに男子も持たないゆえ、我が愛子・国松をその方の養子として家を継がせてはくれまいか」
丹波「千助は少年とは言いながら、かりそめの折檻を苦にして自害をした以上、それは不忠であるため愁嘆の必要もありません。
それなのにこうして御前に出られ、国松君を養子にいただけるとの御言葉、身に余る幸せにございます。
しかしそれがしは不肖の者なので、おそれながらお断りします」
と何度も断ったが、秀康卿は承知しなかったため、ついに父子の契約をなしたそうだ。
0493人間七七四年
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2022/06/05(日) 21:37:41.84ID:9WdqWwcm
加藤豊後守光正(光広)の外様の士に、広瀬庄兵衛という虚け者があった。然れども彼の先祖は、
代々武功を顕していたため、家督を継がせ置かれていたのだが、光広は普段から彼の虚気を慰みにしていた。

ある時、光広は広瀬を呼び寄せ言った
「内々一大事を思い立ち、近日挙兵するつもりだ。よって汝を一方の大将と定め、預け置くべき人数も
決定した。その支度をするように!」

これを聞いた広瀬はたちまち驚愕し、赤面して
「こは難儀なることを仰せ付けられ候。この段、偏に御免を蒙らん!」
と、慄えながら申し捨ててそのまま逃げていった。

この様子を光広は大いに悦び、その後、江戸の絵図を調え、広瀬にそれを見せ、その上で

「この間も申した通りに、近日、一大事を思い立った。然れば汝は、何れの口より攻め入るべきだと思うか、
思案せよ。」

と申した。広瀬は「私のような者を一方の大将に仰せ付けられるのでしたら、只今逐電仕らん!」
と涙を流して身を縮めた。
光広はいよいよ興に乗じ、重ねて
「この一大事、この度にわかに思い立ったことではない。先年大阪城普請の手伝いをした頃より思い立ち、
攻め入ること自在なるように、予て下知した上は近日大阪へ行き、御城を乗っ取って立て籠もり、世を奪うのだ!」
と申した

広瀬は言った
「かの御城は日本第一の要害にて、たとえ何万騎の軍勢を以て攻めても、口々を閉じていれば、天魔鬼神も
攻め入ること叶わずと承っています。ですのでこのような仰せを承っても、御前に於いて絶命してしまうでしょう。
この役儀を御免候へ!」
そう、転倒して喚いた。

光広は益々興じ、大名数十人が一味連判している謀書を認めてそれを見せ、また「誰それの書状」と、
自筆で謀書の品々を書き表し、状箱に入れて近臣に持たせ、それを広瀬の方に遣わし、口上にも

「かように大名数十人が一列している以上、以前より申す如く、汝一方の大将として、覚悟せよ。」
と申し送った。

広瀬はこの書状等を見て、肝を冷やし身震いし、固唾を飲んで思った
「これは、この事を一々御老中に申し上げ、主人の謀反を意見させて止めなければ!」
そう思い詰め、土井大炊頭利勝の邸宅に、かの状を持参して、以前よりの事共を残らず申し上げ、
「この事について意見を御申し下されますように。」
と申した。

大炊頭は多いに驚き、上聞に達した、広瀬庄兵衛は殿中に召され、御老中列座にてお尋ねの所、
彼は光広の申したことを一々に言上した。
然れども、この者魯鈍であり、三歳の童子の口上と変わらない有様であり、「彼が臆病なのを見て、
豊後守が興ある慰みにした者なのだろう。」と御評定あったのだが、自筆自判の謀反状、ことに
御城の絵図を出し、攻め入るべき方便、その他江戸中を焼き払い、将軍家、大名、町人まで途端に
迷わせる手段を考えていたことは、流石に捨て置くことは出来ないとして、この事よりいよいよ
光広の越度とされ、流刑となったという。

(新東鑑)
0496人間七七四年
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2022/06/07(火) 17:57:27.74ID:OcEhlidc
「朝野雑載」から結城秀康の死

慶長十二年(1607年)閏四月八日、中納言秀康卿、越前北の庄城において御逝去なり。(三十四歳)
御家人・永見右衛門、土屋左馬介などが殉死した。
秀康卿は御病中に、お佐の局という内府公がかねてから御存知の女中を駿河に遣わして
「私は病気を今までしたことがありませんので、この度の病で快復できるかは予測できません。
生きているうちにこの旨を申し上げたく局を差し上らせます。」
と駿河城で口上させた。
家康公「我に子供は多いが、秀康は惣領であり、たびたび我の用にも立っていたのに越前一国のみ与え置いたのは、今思うと心外であった。
このたび病気快気の祝儀として二十五万石加増して百万石にしよう。
その方は急いで帰り、この趣きを申し上げよ」と仰られた。
またお手ずから近江下野の内の二十五万石加増の書付けを佐の局にお渡しになられた。
局もよろこび急いで帰っている途中、岡崎の宿で秀康卿御逝去の報が届いた。
そのため駿河にとってかえして直ちにお城に馳せ上った。
大御所が囲碁を遊ばされていたところに局は参り
「中納言様、御養生かなわず御逝去なり」と申し上げたところ、
大御所は大いに驚きなさって、浅からぬ御愁傷のさまであった。
局は御加増の書付を懐中から取り出し、
「大切の御書付けなので差しあげます」と申したところ、
大御所は「女性の身でよく気のつくことだ」と仰られたそうだ。
このことを越前の御家人どもが伝え聞いて
「余計な気の立てようだ」と局をけなしあったという。
0497人間七七四年
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2022/06/08(水) 09:28:15.99ID:HEE/5+Yf
来年大河の家康で、(伝承とは違って)考証上は後の時代の金陀美具足を着用してるのが、SNSなんかでクレーム入ってるけど
普段、史実は史実、でドヤ顔もしがちな平山氏が、ドラマはドラマだろ?と言い切ってるのは難しいとこだねw
0498人間七七四年
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2022/06/08(水) 09:30:56.48ID:HEE/5+Yf
疑問を呈した方々は先日のドイツのサムライ博物館にも関わりのある、甲冑会のメンバーさんですな
やっぱ自分の専門分野がどうしても気になるのは仕方ない
ヲタにはよくあること
0499人間七七四年
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2022/06/08(水) 09:45:54.84ID:ickCgQwv
あの鎧は駄目だろう
いくらフィクションだからとはいえ、あの鎧を選ぶ必要はない
0500人間七七四年
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2022/06/08(水) 10:12:33.58ID:sb0TtsQJ
9歳の江が伊賀越えする大河にいまさら何を
0501人間七七四年
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2022/06/08(水) 10:16:08.42ID:2uoTH5AQ
女だてらに軍議に乱入して口出ししてたしな
0502人間七七四年
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2022/06/08(水) 10:17:17.42ID:BroiyNM6
30年以上違う時代の甲冑だからな
日露戦争で急降下爆撃機使うようなもの
平山氏は普段は史料の扱いがどうのこうのと他の学者を批判してるのにこんなもの通してるんじゃ二枚舌と言われても仕方ない
0503人間七七四年
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2022/06/08(水) 10:38:31.26ID:Lh11lRiR
本来であれば年代ごとに鎧用意したいんだろうけどな。
0504人間七七四年
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2022/06/08(水) 18:02:48.03ID:AEZ8mtAK
カネが厳しいんじゃないか。旧時代の鎧を使い回すか最新の鎧で通すかどっちが絵面が綺麗かっていう問題だったのでは。
0505人間七七四年
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2022/06/08(水) 18:22:18.04ID:TByeir/c
予算以前に家康の若いころの甲冑ってわかってたっけ?
そこは仕方がないしイメージ優先なのも当然でしょう。

でもまあ要点は、平山氏の普段の態度とそれ持ち上げてた歴クラとかいってイキってた皆さんね。
0506人間七七四年
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2022/06/08(水) 18:52:07.22ID:W8TGKZqS
金の問題ではないと思うよ
当世具足は鉄砲の普及とともに進化したもの
そこをすっ飛ばして若い家康に着用させるのは考証家として反対すべきだろう
イメージがどうとかって何十年も違うものを着させるのは違う
ほっとくと信長の南蛮胴みたいに勝手に定着してくよ
そんなのどうでも良いという人がいるのは分かるが、どうでもいいなら日本史を学校で習わせるのやめろと思うわ
0507人間七七四年
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2022/06/09(木) 16:45:21.57ID:QvziPqEU
浅野家の臣である亀田大隅守高総は、元、溝口半之丞と言い、若年より手柄高名ある大剛の兵であった。
忍・岩槻での武辺、泉州樫井にて鑓を入れた軍功、言葉に尽くし難し。

持ち鑓は下坂忠親の作にて、十文字であった。鞘は鴟(とび)の嘴にて、栗毛のなめし革、鞘は総青貝にて、
銅の金具であった。

さて、浅野家が担当する、江戸御城の石垣を築き立てて後、三度まで崩れた。徳川秀忠公が巡見の時、
亀田に対し「何故に石垣が度々崩れるのか」とお尋ねがあった。これに大隅は畏まって

「拙者が鴟の十文字を持って備えておれば、一度も崩すことなど無いと存じ奉っていますが、石は
非情の物でありまして、仕るべき様が無いのです。」
と申し上げた。

さて、御普請が終わると、亀田は秀忠公より、鹿毛駮の御馬を賜った。
亀田は土井大炊頭利勝の家来・早川団右衛門に向かって

「公方様より御馬拝領仕り、有り難く存じ奉っているのだが、二毛の馬であり、外聞も如何かと思う。
御馬は如何様でもかまわないので、御替えして頂きたいのだ。」と訴訟した。
これを早川が大炊頭に伝えたところ、「尤も至極なり」と、他の馬を下されたという。

(新東鑑)

勇者だけどわりとユーモアもあるタイプなのか
0509人間七七四年
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2022/06/10(金) 17:05:44.07ID:EdBkgJFL
「朝野雑載」から松平忠直の話
越前忠直卿、さまざまの悪行をされていたが、妊婦の腹を裂いて御覧になることがたびたびあった。
あるとき鷹狩りに出た時に、野で一人の女が摘み草をしていた。
それを見た忠直卿は岩崎大膳に「あの女は妊娠しているとみえる。様子を見て連れて参れ」と仰せになった。
大膳はかしこまって女のところに行き、改めるとまさしく懐妊であった。
大膳は不憫に思い、女に摘んだ草を全部懐に入れさせ、忠直卿の元に戻り
「どうやら摘んだ草をたくさん懐に入れていたようで、懐妊ではありませんでした」と復命した。
こうして大膳のおかげで女の命は助かった。
大膳は忠直卿お預けの後、井上河内守に招かれて客人となったという。
0510人間七七四年
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2022/06/11(土) 17:12:12.32ID:18Arr8un
久世三四郎(広宣)は、録五千石、鉄砲百挺、与力三十騎の頭であった。
元は榊原式部少輔康政の従者であったが(筆者注:実際には大須賀康高・忠政の与力)、
御旗本に召し出された。

大阪陣の時、「榊原遠江守康勝の攻め口の仕寄は如何ほど付けたか、向かいの土手は取るべきか、
見て帰れ」と命ぜられ、御使として遣わされた。

久世が行ってこれを見ると、榊原家の家臣武功の者共、三四郎が直参になったことを心に嫉み、
「その所は鉄砲厳しく候、疾く帰られよ。」と言った。
これに対して久世は、その場を馬でひろやかに乗り回して

「昔、榊原家は城と寄せ手の旗先が行き合うほどに仕寄せをしていた。ここはその間未だ遠いというのに
あなた方は危ぶんでいるのか。
昨日まで貴殿たちと肩を並べ膝を組んで親しんでいた時は、こんな事は無かったのに、
臆病神は、いつの間に付いたのか。御旗本の者共は。このような事をどう思うだろうか。」

と言った所、答える者も無かったという。

(新東鑑)
0511人間七七四年
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2022/06/14(火) 16:47:35.44ID:e2XuRu8B
「続片聾記」から松平忠直配流後の話

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13455.html
「続片聾記」から「忠直公御乱行の事」
で忠直の乱行の原因となった愛妾・一国について
元和九年(1623年)三月二十九日、忠直が越前から配流された同日、
忠直公の愛妾・一国女を何者かが駕籠の内で殺し、金子を添えて一乗寺の門前に捨て置いたという。
こうして同寺に葬られたと言われるが、大きな石の祠があり、毎年大奥の方から弔いがあるという。
法名は理性院真如観月大姉。
一乗寺の一国塚(上記の石の祠か)には蛇がいつも満ちているという。
また乱行の手先となった小山田多聞の屋敷は奇怪なことが多いため住む人もなく、寺となっている。
寺の庭の沼には石臼などがあるそうだ。石の人切りまな板も蔵の近くに埋めてあると聞く。

なお忠直公は豊後国・萩に配流となったが、ある人が近年豊後に下り、忠直公の御廟所を拝した。
海端に御石塔の辺瑞籠を結び、里人は神として崇め奉っていたそうだ。
里人は「(将軍家につながる方でありながら)なぜ御代参もないのだろう?」と申していたそうだ。
0512人間七七四年
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2022/06/16(木) 13:29:46.32ID:kiWIXeCy
徳川家康の家人である平松金次郎は、性質は驍勇であったが、外貌は実に温和であった。
ある時、彼の友人が平松の悪口を言った事があったが、平松は一言もそれに答えなかった。
そのため人々は皆、彼が柔弱であると思った。
その後、平松は朱柄の鑓を拵えたが、これを聞いた人々は皆大いに笑った。これは、白柄の鑓を以て
敵と鉾を交え、鑓に血の付くこと度々に及んだ後でなければ、朱柄の鑓を持たないというのが武夫の法であると
されていたからである。

然るに長久手合戦の時、平松は衆を離れて一人進み、一番鑓を合わせたが、その後に続く者は無かった。
これによって家康公より、新地二百石を賜った。
この時、平松金次郎は衆人の中に出て言った

「男子の勇とするは、ただ戦場の働きにあり。喧嘩を好むは下僕の業である。
私は今度の合戦に、年来出したことのない勇を顕した。そして私の後ろにそれを継ぐ者は無かった。
人は各々、能があり不能がある。私は喧嘩については誠に拙い。しかし敵と相合う時は、人より勝れている!」

これに対して答える者は、更に無かった。

然るに、羽柴秀次公は、平松が徳川家に対して不平を述べていることを聞き召され、一万石を以て招いた。
平松はこれを領掌し、徳川家を出奔した。家康公は坂部権右衛門を召され、「平松を追うて殺すべし。」と
命ぜられた。坂部は承り、直ぐに進んで金次郎を討とうとしたが、平松は却って権右衛門を殺して退いた。

この時、服部半蔵が掛川の城番を代わるため向かっていた道にてこの事を聞きつけ、そのまま鉄砲衆を引き連れ、
平松金次郎が籠もっていた村里を固めた。金次郎は遁れることが出来ないと悟ると、終に切腹したという。

(新東鑑)
0513人間七七四年
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2022/06/16(木) 23:15:06.01ID:AyjVTV65
黒田騒動の講釈の種本となった「博多細伝実録」(宝暦から明和初めに成立とされる、福岡藩内のできごとを著した書)を読んだら
これまで何度か出ていた浅野彦五郎にもちょっと触れていた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13348.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13381.html

黒田騒動で栗山大膳が幕府に黒田忠之の謀反を訴えた時、
「博多細伝実録」では忠之の不行跡・二十八ヶ条を訴え出たことになっていて
その中でも特に重い三ヶ条として
一、壱万石余の大船を造りし事
一、真言の沙門、不行跡を憎みて脊を割り鉛を鋳込し事
一、浅野彦五郎といへる者、継母を犯せるにより、油釜の死罪にする事
が挙げられている。浅野彦五郎の罪状は上記の投稿とは違うが。

また「石城志」という明和二年(1765年)成立の博多の地理誌によれば
「寛文(1661-1673)の末まで、松原閻魔堂西の川端に大なる破釜あり。
忠之公の時、家臣浅野彦五郎(食録千石)罪ありて釜烹の刑に処せられる。
この時、釜を新たに鋳させるべしとて、市中の冶工に命ありしに、おのおのこれを辞しける故、くじ取りになりし処に、芦屋釜師くじにあたりとて釜を鋳けり。
これによりその家絶えたりという」

約百年後の記録とはいえ、破れた釜が残っていた伝承があったようだ。
なお博多の鋳物師の一つに磯野家というのがあり、島原の乱でも黒田忠之に大砲や弾を鋳造させられているので「石城記」の話が事実なら、磯野家もくじに参加したと考えられる。
くじが当たって磯野家が釜を鋳ってたなら浅野彦五郎の恨みは磯野家に行ったかもしれない。
そうなると磯野家がとだえるため、磯野七平氏が1893年に二代目福岡市長となることもなく、その50年ほど後に福岡に住んでいた長谷川町子氏が磯野波平を着想することもなかったかも
0514人間七七四年
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2022/06/17(金) 18:48:21.73ID:0O2JnBVv
磯野藻屑源素太皆も居なかったわけだな
0515人間七七四年
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2022/06/19(日) 11:15:54.97ID:WtSCSbRV
時代劇で装束や甲冑の時期にいささか問題がある?

そんな人には大丈夫!、欧米では東アジア中世軍事史の権威スティーブン・タンブル(Stephen Turnbull)氏のサムライ解説本だよ!

Samurai vs Ashigaru JAPAN 1543?75
https://ospreypublishing.com/samurai-vs-ashigaru

三方ヶ原の徳川エリート騎馬武者
https://i.pinimg.com/564x/6d/3d/c4/6d3dc4a4727746f8f12339fb4b11d8a9.jpg

おっ、まるで榊原康政晩年の関ヶ原以後の南蛮胴具足のような

鉄砲足軽
https://i.pinimg.com/564x/4d/56/29/4d56290e1405eaf3edaef11403f695ab.jpg

なんかその鉄砲を持つ角度だと、日本の火縄銃は頬付けなのが理解されてない可能性が

上田原の板垣信方
https://i.pinimg.com/564x/fa/88/40/fa88405e678d5d651c16e57d894f4af9.jpg

左端の足軽がさりげなく持ってるのは中国式三眼銃ですね・・それに場面モチーフは大河ドラマ?
でも騎馬で十文字槍無双っていうと上泉先生(岩明均「雪の峠・剣の舞」)なんてわけはまさか・・・
0516人間七七四年
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2022/06/19(日) 11:18:26.75ID:WtSCSbRV
毎度のことですが国内でマウント取り合っても、海外のアレさに直接批判したって話は聞かないですなあ
0518人間七七四年
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2022/06/19(日) 16:58:08.35ID:WtSCSbRV
東京国立博物館所蔵で伝榊原康政所用の南蛮胴具足ですね
兜は舶来品改造、胴は近年の調査で和製と判明ってやつです
博物館では安土桃山時代と説明
0519人間七七四年
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2022/06/20(月) 09:24:07.03ID:yFSYqdPO
>>518
和製南蛮胴の製作年代が安土桃山は草
この界隈は厳密に甲冑研究を適用できないしがらみが多すぎる
0521人間七七四年
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2022/06/20(月) 18:02:08.03ID:Y2KrzYvm
民明書房並みだな
0522人間七七四年
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2022/06/21(火) 02:39:56.66ID:fHw8NfLA
ゴルフの創始者が中国の呉竜府・・みたいな?
0523人間七七四年
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2022/06/22(水) 18:54:24.02ID:VqxBBHif
そもそも日本史ネタを執筆して出版まで実行してくれる奇特な欧米人が西洋諸国でこの人しかいないのを大絶賛しても
史料よりも思い付きでぶちかましてくれるのをどう評価すべきか

ちなみに日本だけじゃなく東アジア史の専門家ってことだから中韓のも書いてるけど
韓国なら韓国だけの情報を優先して、他国(この場合日本)のものと照らし合わせたりはしないようだ

そこが漢字もしくは原文を読めないらしきとこと関係してるんだろうなあ
0524人間七七四年
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2022/06/23(木) 15:10:43.30ID:HyJAyFnJ
上條又八は織田常真公(信雄)の譜代の士であったが、大坂の陣で大阪城に籠城して高名をなした。
後に浪人して、森右近太夫(忠政)に仕えた。その後、浅野但馬守(長晟)の家来となり、
朋輩の和田庄兵衛という者と喧嘩して、双方暇を出されたが、江戸西福寺において千部の
法華経転読の砌、和田を討って其の身も手を負い、曽我丹後守宅に引き籠もった。

時に堀丹後守直寄は西福寺の近所であったので、人を以て和田の死骸を見させた所、彼は
鎖帷子を着けていた。また誰言うともなく、上條は素肌(防具を着ていない状態)であったと言われていたのを
丹後守聞いて、又八の元へ浪人を遣わしてこのように伝えた

「首尾よく本望を遂げられ、珍重に存ずる。承れば其方の敵・庄兵衛が鎖帷子を着していたと伝え聞くが、
其方は素肌であったという。彼を弱敵と思い鎖を着なかったというのはその意を得ない。
どうして大事の討ち物ををするのに、素肌であったのか。武士が軍陣において鎧を着るのと同じである。
御心底を聞き届けたい。」

又八はかの浪人に向かって

「丹州公の御目通りにも罷り出でていない所に、御懇ろの御意、過分に存じ奉ります。
着込みを着さなかった事を御吟味されましたが、あれはたまたま行き当たっての事なのです。
さりながら私も和田庄兵衛のように鎖を着て路中を踏み仰ていれば、いかばかり見事であったでしょうか。
素肌にて渡り合い、着込みをしている敵を思うままに討ち果たし存命仕り、このような御吟味に遭い、
面目無き仕合に候。」
と返答したという。

(新東鑑)

なんというかちょっと面倒くさい話だな
0525人間七七四年
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2022/06/24(金) 13:27:06.95ID:xQzhpBRV
大阪夏の陣、大阪落城の時、吹田の渡しでは、落人たちがこれを渡るため大勢が我先にと船に乗り込んだが、
このため転覆し、足軽などには溺死した者もあった。しかしこの時期は水が深くなかったため、
助かった者も多かった。

この時、吹田の庄屋である太郎左衛門(一説に五郎左衛門)という者、元は荒木摂津守(村重)の家臣であった、
織田信長公の為に荒木の家は断絶され、彼は吹田に引き籠もった。
そして元来慈悲深い人物であったので、船の転覆を聞いて水に落ちた者共を連れ帰り、衣類を乾かし、
数百人に食事を与えた。

しかし彼らの多くは、或いは親類に離れ、又は金銀を皮に紛失するなどして泣き悲しみ、また服が乾くまで
丸裸で居るものもあったので、道行く人達はこれを見て

「吹田太郎左衛門は、落人から物を剥ぎ取る為に、呑口を拵えた船五艘を用意し、兵船十艘ばかりを
水際に控えさせておき、川向うに屈強の者共五十人余りを楯突かせて伏せ置き、手向かい出来ないような
落人は何の仔細もなく船に乗せ、川中に至る時、川岸の双方より兵船を漕ぎ寄せて物を奪い取り、
しかし叶わないときは、船の呑口を抜いて水に沈めた。さらにこの時、水練の達者な者が乗り合わせていて
向こう岸まで泳ぎ着いたなら、伏せ置いていた者達を以て討ち取らんと用意した。
そして凡そ、落人八百余人を殺した。」

などと当時、吹聴されたという。

(新東鑑)
0526人間七七四年
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2022/06/24(金) 22:26:12.05ID:DUnRauTi
「大友興廃記」より「井田次郎(井田親氏)を討ちとる事

立花城主・戸次道雪(立花道雪)、岩屋城代・高橋紹運がある時会合して評定することには
紹運「秋月種実は宗麟公に属せず、古所の城に籠り、われらが領土を塞ぐのみならず、ややもすれば立花・岩屋に手を回し人民を悩ましておる。
宗麟公も近日中に古所の城に押し寄せ、一戦すべしと思われていることだろう。」
道雪「かねてから我もそう思っていた。
とはいえ、かの城は三方は険阻にして山が高く鳥でなければ通えぬところで、一方は平地に続くといえど道が狭小な天然の要害である。
力攻めでは利を得ることはなかろう。
近くの大日寺は後ろに石垣山があり、前は平地である。
立花・岩屋、両城の兵六千人を出し、屈強な兵三千人を石垣山の後ろに隠しておいて
足軽の者を三百人ほど出し、種実の城下のあちこちに放火をさせ、秋月勢を誘い出すのはどうであろう。
足軽たちには弱々しく逃げさせ、大日寺まで引き上げさせれば、秋月兵は勝ちに乗じて寺まで来るであろう。
そこへ石垣山に伏せていた諸軍勢で四方から攻め寄せて、一人も残らず討ち取るのがよかろう」
紹運ももっともだと賛成し、ひそかに諸軍勢を石垣山に控えさせたあと、翌日の早朝からその企てを実行した。
0527人間七七四年
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2022/06/24(金) 22:28:29.96ID:DUnRauTi
秋月種実は城下への放火の件を聞き、井田左馬之助(井田親之)の嫡男、井田次郎(井田親氏)を近づけ
「急いで道雪・紹運の雑人らの首を刎ねよ」と命じた。
井田次郎は「それがし不才でありながら弓馬の家に生まれ、十三より侍一与の頭を仰つけられ、二十の今日にいたるまで数度の高名をあげました。
これはすべて君恩の厚きによるものです。
勝敗は軍勢の多寡で決まるものではなく、時の運によるものです。
このたび敵が小勢だからといってあなどるのは良将とはいえません。
とはいえ時を急がねばならぬ時に猶予するのは臆したと思われるでしょうから、すぐ出向きます」
と千人の兵を引き連れて道雪・紹運の足軽どもに打ち掛かっていったところ、足軽どもは大日寺を指して逃げていった。
秋月兵たちが五里ほど休まず駆け、疲れたところに石垣山に伏せていた兵、四千余が襲いかかって来たため、秋月勢は驚いた。
しかし親氏は下知して軍勢を鶴翼に開き、魚鱗の敵に当たり、命を惜しまず戦った。
とはいえ秋月勢は疲労のうえ小勢であったため、次々討ち取られていった。
親氏が討ち死にの覚悟を決めたところに、道雪の従者、十時摂津守(十時連貞?)が
「御名字を名乗りたまえ、組み打ちをいたそう」と言って来た。
親氏「名は名乗らぬが、組み打ちには応じよう」
と馬上でむずと組み、ともに落馬した。
十時は老武者で(連貞は当時35歳くらいのはず)、親氏は若武者のため、十時は押し伏せられて頸を掻き切られそうになった。
そこへ駆けつけてきた十時の郎党が親氏を打ち、親氏が弱ったところを十時は頸を掻き切った。
十時が親氏の相貌を見たところ、年の頃は二十ほどで、容顔世にすぐれ、たとえれば梨花が春雨に濡れて綻びているような美しさであった。
死骸をあらためると油箪に入れられた横笛が出てきたため、顔貌といい、常人ではあるまいと道雪・紹運に横笛とともに首実検ということになった。
0528人間七七四年
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2022/06/24(金) 22:31:35.24ID:DUnRauTi
両大将とも涙を流し、誰であろうと思っているところに紹運の兵に見知ってる者がいて
「これこそ秋月種実が家老・井田左馬之助親之が一子、井田次郎親氏と申す者です。
十二、三歳の時より勇者の誉れを得て、秋月家中では文武両道の忠臣として崇敬を集めている者でありました」
と申したため、道雪・紹運とも感涙し
「人の親として子を想う気持ちは誰でも同じである。親之も不憫なことだ」
と死骸に笛を添えて丁重に親之の方へ送り届けた。
親之は道雪の使者に「弓矢を取る者のならいとはいえ、戦場では子より先に死のうと心を定めておったのに、
ただ一人の息子である親氏に先立たれるとは、跡に残れる老いぼれの身こそ口惜しいことよ」
と不覚の涙を流し、使者もともに涙を流した。
親之は「愁嘆にひたってしまい、道雪の情けに礼を言わずすまなかった」と言ったのち、主君・秋月種実に息子・親氏の訃報を知らせた。
種実は驚き、いそいで井田の私宅に駆けつけ、頸と死骸を自分の膝の上に抱き寄せ、髪を掻き撫でて咽び泣いた。
種実「ああ幼稚の頃より我が膝の上にのせ、成人後もその才を頼もしいものと思っていたのに短命で死すとは
噫天喪予(ああ、天われをほろぼせり)」
と泣いては口説き、息絶えるかのようにのたまった。
そののち種実からも道雪に、親氏の死骸を送り届けたことへの礼があった。
老父・親之は「ただ一人の息子に先立たれ、老衰の身として甲斐なき命をながらうことよ」
と明け暮れに嘆いていたが、しばらくして合戦が起きた時
「このたびの合戦にて必ず討死すべし」と思い定め、
出陣の朝、親氏を葬った寺に詣で、本尊に暇乞いをしたあと、一首の歌を仏壇の左の柱に書きつけた。
「子を思ふ、道にはよしや迷ふとも、後の世照らせ、有明の月」
親之はその日の戦において先駆けをし、比類なき働きをしたあと、戦場のうちに命を留め、名を九州の青天に挙げたということだ。
0529人間七七四年
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2022/06/25(土) 00:59:19.23ID://8OF6vi
別に悪い話ってわけじゃ無いような
0531人間七七四年
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2022/06/26(日) 22:25:54.03ID:+gE/WFp9
「朝野雑載」から曽呂利新左衛門の「死」についての話

秀吉公が家臣たちに言うことには
「我ほどの幸福者は古今おらぬだろう。
そのわけだが、国持大名が天下を取ったり、武士が国持大名になるのはもちろん幸いであろうが、
我は微賤の身より天下をとり、位は太政大臣にまで昇り、朝鮮にまで武威を振るった。
これは大いなる幸福である。
しかし人の命は限りあるもので、我はすでに老いたため長くは天下を保てまい。
この死というものを思うと、我の大いなる幸せや楽しみも尽きてしまい嘆き悲しむことしきりである」と涙ぐんだ。
家臣たちも尤もだと賛同する中、曽呂利新左衛門が出てきて
「私はそのようには思えません。死というものがあってこそ楽しみや幸いも出てくるのです。
神代や王代のことはともかく、近代は頼朝が初めて臣下の身で天下をとりました。
もし頼朝の御死去がなく、そのあとの尊氏も信長公も御死去がなかったならば、ただいま上様は天下をとってはいなかったでしょう。
そう考えると死こそ人間にとってめでたいことはございません」
と申したところ、秀吉公は喜び
「まことに汝の申したとおりである。
頼朝をはじめとして今に存命で天下を守ってなさったならば、我はこのように天下の主となり、このような楽しみはなかっただろう」
とお感じなさったということだ。
0532人間七七四年
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2022/06/27(月) 17:15:18.86ID:ubDy3UJz
最上義光、やっぱり長身だった 山形大・松尾名誉教授「奥羽永慶軍記」で確認 山形新聞2022/06/25
https://www.yamagata-np.jp/news/202206/25/kj_2022062500674.php

初代山形藩主・最上義光の身長が180センチ以上と長身だったことを具体的に記した史料が存在することを
山形大の松尾剛次名誉教授が確認した。史料は義光が生きた時代の東北地方を描いた「奥羽永慶軍記」で、
東京大史料編纂所のデータベースから見つけた。同軍記から引用して義光の容姿に触れた本はあるが、
具体的にどのページを引用しているか分からなかった。今回の発見で義光の長身伝説が裏付けられた。

同軍記は天文から元和年間の東北全般の群雄争乱の跡を書いた軍記物語。義光の容貌が記されているのは
「巻二十五」の前半で、豊臣秀吉の命令で全国の大名が朝鮮出兵のため京都をたつ場面だ。
政宗の身長は以前、埋葬されている墓の発掘調査で159センチだったという結果が残っている。同軍記の記載と
矛盾がないことから義光の記載内容も「信ぴょう性が高い」と松尾名誉教授。義光は使っていた指揮棒が
刀2本分の重さで、背が高く、怪力だったとのエピソードが残っているがこれまで裏付ける史料が確認されていなかった。

同軍記は現在も活字本が流通しているが、内容が割愛されている部分も多く、今回松尾名誉教授が確認した
義光の部分はない場合が多い。理由について松尾名誉教授は「まず自筆本が現存しない」と指摘する。

(中略)

◆奥羽永慶軍記 秋田藩(現在の秋田県)の郷土史家戸部正直が記した軍記物語。元禄11(1698)年にまとめ上げた。
当時の東北地方の史料が少なく、物語ではあるが多くの歴史家が引用している。

※山形新聞ウェブサイトはPCからなら全文無料閲覧可ですが、スマホからだと有料です
0533人間七七四年
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2022/06/27(月) 17:20:01.16ID:ubDy3UJz
一応、一番下の永慶軍記の解説の通り、軍記物というのは承知の上であえてのお話でありますので・・・
0534人間七七四年
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2022/06/27(月) 20:23:11.28ID:g8wvbc94
「両豊記」から豊後に鉄炮が来た享禄三年(1530年)に起きた「賀来の騒動」

大友家の譜代外様家臣の姓は三つに分けられる。
大友の先祖から血筋がつながっている一族を「御紋の衆」と言う。
いにしえより九州にあった丹部(田部)、漆島(辛島)、宇佐、大島の四姓や、そののち土着した藤原氏や清原氏を「国衆」と言う。
大友家先祖・大友能直に従って当国に来た諸士の系統を「下り衆」と言う。
こうして三つの衆に分かれ、それぞれ同じ衆の者と交際していた。
府内の大番役所では諸士が当番・非番で交互に勤めていた。
享禄三年の春、家臣たちの勤務状況を記した帳面に何者かが墨で線をひき「御紋の衆」の姓名がいちいち塗りつぶされていた。
さてはこれは国衆の何者かがなしたことだろうと御紋の衆の若輩の者どもは腹を据えかねた。
大友義鑑公も案じたものの、かえって騒動になってはいけないとそのままにしていた。
ここに国衆ではあるが、大友家に忠義を尽くしたために取り立てられていた本荘・中村というものがあった。
二人は御紋の衆の妬みを買っていた。
そのため清田越後守という若者に率いられた御紋の衆の若輩者、二百人が二人の屋敷を襲撃した。
本荘・中村両人とも奮戦したが、力及ばず切腹した。
0535人間七七四年
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2022/06/27(月) 20:25:57.50ID:g8wvbc94
翌朝、調子に乗った清田たちは千五百余人で賀来左衛門太輔という大身の国衆を討ち果たそうと押し寄せた。
賀来氏は大神氏であり、同じく大神氏の橋爪・大津留に加勢を頼んでいた。
清田勢が賀来の宿所に鬨をあげて突入するまさにその時、駆けつけた橋爪丹後守は三百余騎を率いて清田勢を追い散らした。
清田勢は多勢であったが驚きあわてたため、我も我もと逃げようと
増水していた川に飛び込んでしまい、溺れた者は数知れなかった。
橋爪は敵三十二人を討ち取り、川を渡った残党も討ち果たそうと追いかけたが、清田配下の加南田兵部という侍が三人張りの弓で矢数五百を次々と射立ててきたため深追いはしなかった。
賀来は橋爪のおかげで難を逃れたとはいえ痛手を負っていたため、翌日死んでしまった。
橋爪は家人たちに「このたびの働きは言語に尽くしがたいほど見事であった。
しかし君命に従ってこの手柄ならば厚恩にも預かるべきであるのに、理由もない遺恨のせいでこのような闘諍におよぶとは嘆かわしいことよ。」
と涙ぐんだところに大津留常陸介鑑康が二百五十騎を連れて到着し
「そこもとからの伝令が遅れてしまい、やっと到着した。首尾やいかん」と問うてきた。
橋爪が合戦の経過を語ると、大津留は肝をつぶし「比類なき大手柄かな」と讃嘆した。
とはいえ大友義鑑公のお怒りは大きく、大津留、橋爪とも勘気をこうむった。
ただ大津留は一戦もしていないということでほどなく帰参を許された。
この府内の騒動は国内に伝わり、ここかしこから府内にそれぞれの一族が集まってきた。
しかし古老たちが「君の御安全が一番の大事である。また国中が騒動するだけでなく、他国の嘲笑の的となろう。
姓氏について取り沙汰するのはやめよ」と申したため、
双方共にしばらく出仕を止められただけで騒動はおさまった。
0536人間七七四年
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2022/07/01(金) 18:57:25.14ID:ZLDkYfIn
大阪籠城(大坂の陣)の砌、豊臣秀頼公は篠原又左衛門という者を召し、

「汝が生国は淡路であるから、能く案内を知っているだろう。また親類、好の者も有るだろうから、
それらとも語らい、同心の者があれば、由良城を攻め、かの島を固め、由良、岩屋表に番船を置き、
四国九州の往来を差し防ぐべし。」

と命ぜられた故に、篠原は内々これを謀ったが、大野修理亮(治長)がこれを聞いて

「海を隔てての働き心得ず、始めの手段を仕損じては如何なり。」

と制し、支度の船共を焼き捨てたため、篠原の謀略も徒になったという。

(新東鑑)

篠原というと、阿波三好家重臣の篠原氏の縁者なのかな?
0538人間七七四年
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2022/07/09(土) 21:34:26.58ID:2gq925Tz
「朝野雑載」から奸臣・石田三成と忠臣・浅野長政

太閤は薨ずる時に「喪を秘すように」と御遺言されたにもかかわらず、石田三成は家臣・八十島助左衛門を家康公に遣わして告げてしまった。
その後、浅野長政が「太閤口切の茶壺です」といつものように家康公に持ってきたが
家康公は顔色を変えて「茶壺は庭に捨てよ」とおっしゃった。
浅野があわてて理由を尋ねると
家康公「すでに太閤が薨じられたことは石田から聞いているので、このような策略は無駄である。
だいたい貴公は昔、太閤から御勘気があったのを、我が取り直したというのに忘れられたのか」
すると浅野長政が「ああすでに石田が申したのですか。
わたしも貴殿の旧恩を忘れたわけではありませんが、御遺言ということで近臣みなで喪を秘すべし、と誓ったのに。
すぐに破るとは神罰を省みない不義の至極であります」
と申したため、家康公も御心をやわらげた。
そののち三成が佐和山に蟄居になったのち、家康公は何を思ったのか、空き家となった大坂の石田三成の屋敷で居住なさった。
そののち、家康公は西の丸に移られるということで増田長盛・長束正家は家康公のために大広間と天守を建て奉った。
増田・長束は大広間・天守を進上しただけではなく、土方雄久・大野治長・浅野長政の陰謀(家康暗殺計画)も告げるという、一国を賜るべき大功もなした。
それなのに関ヶ原ののち、長束正家は切腹、増田長盛は流浪の身となり、土方雄久と大野治長は召し出された。
また浅野長政は五奉行とはいえ秀吉公御台所の兄弟であった。
太閤の御遺命を守って内府に知らせなかったばかりか、内府を刺殺しようとしたため、いかなる刑罰にも値するところ、かえって子孫が代々繁栄するところとなった。
これも主君に忠を尽くしたのを、内府は賢将なので御心に感じなさったゆえであろう。
もしくは忠臣に天佑が味方したゆえ、かく栄えているのであろう。
0539人間七七四年
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2022/07/12(火) 19:22:02.94ID:q/RBtAIe
「朝野雑載」から福島正則改易

秀忠公が御家中の老中におっしゃることには
「福島正則の身上を取り潰せという家康公の上意であるが、当家に対して不忠もないのに身上を潰せとはどういうことであろう」
すると本多佐渡守(福島正則の改易自体は家康と本多正信の死後のはず)が進み出て言うことには
「仰せの通り、三成への七将攻めの折には家康公の裁定に従い、関ヶ原の折には黒田長政の勧め通りに居城を家康公に明け渡して御本陣にいたしました。
また秀頼公の二条城会見の折には、秀頼公が一番に頼りにした将でありながら仮病で罷り出でませんでした。
これらは徳川家に対して二心がないゆえであります。
しかし仁心がなく、武勇一辺倒であり、悪逆無道の挙動のみ多い方です。
とくに嫡子八助(福島正之)を殺したのは不仁の至りです。八助に罪があったとはいえ骨肉分身の儀を少しは思うべきです。
また入国の時に水主に「今日の風はなんという風だ?」と尋ねたところ
水主が「地あらし、という風でございます」と答えたため
「入国の際に地が荒れるとは何事だ!」とたちまち水主を誅戮したことがありました。
また、備後名物の畳を上様に進上したところ、他の大名たちより畳表が悪かったため、畳問屋を畳の上にうつ伏せにして、大槍で諸人の前で突き殺したことがありました。
このようなことは数えきれず、家中の士も大小に関わらず、心に叶わなければたちまち殺害、あるいは自身で打擲されました。
このゆえに福島正則の領地では歴々の士や人民を問わず、みな八大地獄の苦しみを味わっているということです。
かくなるうえは正則を滅ぼして人民を救うことこそ、天命に叶っていると言えるでしょう。
徳川家に忠であるからと言って天命に背くわけにはいきません」
と申したところ、秀忠公も納得し福島正則滅亡と決まった。
しかしながら世の人はこの趣きを知らないため、「福島正則が武勇に優れたのを忌みなさって無理やり滅ぼしたのだ」と言っている。
0540人間七七四年
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2022/07/12(火) 23:28:11.92ID:QkyA8lng
戸川家の濫觴は、その祖を塀右衛門秀安と云う(幼名平助)。備後国門田という所の産まれであり、
父は門田某(姓氏不肖)、天文七年に誕生し、五歳の時父が死に、母の介抱によって備前に漂白した。

二歳の妹があり、母はこれを懐にて養育していたが、母が熟考するに、「今、乱世に男子たるものは
運を天に任せていかなる立身をもすることができる。あわれ平助を世に在らせたい。」と念願し、
先ず、この女児を携えていては足手まといになり平助の妨げと成ると、とある池に女児を沈め殺した。

それより平助は独り息子となり、作州に富川某という入道があって、彼は母の姉婿であり名の有る者で
あったので、彼を頼もうと思い作州へ頼り行き、入道に事情を話すと、入道は平助を見て、
「未だ嬰児ながらただならぬ所がある、後に家を起こさないような者では無いだろう。」と思い、
甲斐甲斐しく請け合い、養子として富川を名乗らせた。
母は悦んで平助をそこに残し、自分は再び備前へと帰った。

その頃、宇喜多興家は備前の守護(原文ママ)・浦上備前守宗景に仕え、邑久郡音湖の内に於いて、僅かに
三百貫を領し小身であったが、次男忠家が産まれその乳母を求めており、かの平助の母を召し抱えた。
この女は生来才発にて主人の心にかなったため、興家は家事を尽く彼女に任せるほど甚だ寵愛した。

そのような中、作州では干戈が起こって富川入道も死に、その妻であった母の姉も死に臨んで、姉が
帰依している僧に平助を託した。この僧も了解し、平助を連れて備前に出て実母へと渡した。
主人である宇喜多興家はこれを憐れみ、母とともに召し使う事にした。幸い嫡子直家も未だ幼かったため、
平助は直家の伽として扶助した。(平助は直家の五歳下である)

忠家が成長すると、乳母であった母は宇喜多家来の岡惣兵衛方へ、主人より嫁ぐよう命ぜられた。
ここにて彼女は男子三人、女子三人を産んだが、その後は子供のことは大抵にして、母は秀安を
取り立てる心からか、彼女は女ながら軍陣にも慣れており、子供に具足を着せ、駆け引き進退の事なども
教えたという。

ある時、夫子供が留守しているのを知って、強盗が大勢来る音がしたが、そのまま絹張の箙を取り出し
矢束ねを解く音をさせ、その後静まり返って人を呼び集める体を成した。
強盗たちはこれを外で聞いて、恐怖して逃げ失せたという。

このようなけなげなる女ゆえに、秀安を思いのままに産み立て、後年宇喜多家の長臣となり、飽きるほどの
武功を立てたのは、偏に母の功であるという。

(中略)

秀安は後年受領して肥後守と云った。また富川を戸川と改めた。
そしてこの母は長寿にて、孫の肥後守達安が備中国庭瀬城に在った頃まで存命し、諸人に尊崇され、
慶長八年、九十三歳にて死去。法名妙珠と云う。

(戸川記)

戸川秀安とその母について。全体的にはいい話なのだけど、この母エグい
0541人間七七四年
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2022/07/16(土) 10:09:10.24ID:/LXbNVQQ
宇喜多忠家(直家弟・入道後、号安心)は、小野田四郎右衛門(直家家老分の者也)を討った。
これに直家は大いに怒り、忠家はそれを恐れて富山城へ引き籠もり、直家が呼び出しても
出てこなかった。その様子はもはや謀反であると見え、これについて重臣である
岡豊前(家利)、長船越中(貞親)などは、日頃忠家との関係が悪かった事もあり、これを幸いと
直家に「御果たすべきです。」との旨を讒言した。

しかし戸川秀安は、忠家の乳母の子であった故にこれを嘆き、
「この事、それがしにお任せ下さるように。」
との旨を直家に願い、富山城へ向かった。しかし彼は忠家に対して一言の教訓にも及ばず、
偏に城攻めの用意をして、富山城の周囲に仕寄を付け井楼を用意し、夥しい攻戦の勢いを
奮い見せた。

この勢いに忠家は辟易したのか、起請文を出して降参した。
秀安はこれを取り繕って和睦を整えた。

これは秀安が、忠家が日頃から物に驚くという気質を能く知っていたためこのようにしたのだという。

(戸川記)

直家の前に出る時鎖帷子を付けていたという忠家ですが、ガッツリ後ろ暗いことやってたんですね。
0542人間七七四年
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2022/07/16(土) 13:58:17.49ID:V+56qfjT
宇喜多は上から下まで悪い話ばっかりだな
0543人間七七四年
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2022/07/16(土) 16:16:43.39ID:wL7omZe+
そりゃあ防御を万全にしないと兄貴に会えんわな
0544人間七七四年
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2022/07/16(土) 19:12:18.40ID:KA9Iku8U
というか主が稀代の大悪人なら、家来に善人が揃うものかというのが素直なとこだよね
0545人間七七四年
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2022/07/17(日) 13:02:25.89ID:2ndILS+1
ある本に、明石氏(全登)の子である某は、大阪落城の後、田中筑後守忠政が匿い置いていたが、
その事が上聞に達し、御検議あらん為に、その家臣一人を奉行所へと召された。

忠政はこの事を重臣である平野長門と協議したが、長門は「最大事ですから、他人を遣わすべきでは
ありません。愚臣が赴きます。」と申した。

これを聞いた筑後守は落涙して、「余人を遣わさん!」と言ったが、長門は留まらず奉行所へ出て
陳弁した。そして御疑いがあり、拷問に及んだ。しかし平野はそれを嘲笑し
「申し上げるべき事無し!たとえ又あったとしても、武夫たる者が苦を嫌い死を畏れて言うものか!」
と動ぜず、遂に責め殺された。そしてそれ故に筑後守は災いを免れ、明石の子もまたその跡を
晦ます事ができた。

(新東鑑)
0546人間七七四年
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2022/07/19(火) 19:34:12.24ID:RWsIYOYi
「朝野雑載」から仏教と神仏批判ネタ

美濃の愚堂東寔(臨済宗の高僧)を後水尾院が仙洞御所にお召しになられた時、院はもちろん上段にお座りになっていた。
愚堂は御許可もないのに、院と同じ上段に上がってきた。
御酒が運ばれてきて、院が「まずあれへ」と愚堂の方に目をお向けになると、公家衆が御盃を愚堂の前に置いた。
愚堂は辞せずして「身どもに食べよ、と仰られるのか」とすぐに盃をとって飲み、その盃を院のもとに回した。
「沙門は王者を尊ばず(沙門不敬王者論)」と仏典にあるためこのような無礼をなしたのであろう。

秀頼公は多くの寺社を建立したが七福は生じず、七難により滅んでしまったのに、世の人は弁えないのだろうか。
前田利家公は不動山(石動山?)を焼亡し僧徒を打ち捨てられたが、武運長久で二位大納言まで昇り、子孫は繁栄している。
0547人間七七四年
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2022/07/25(月) 17:21:07.54ID:Z+mqbH+B
「大友興廃記」から「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」

大友義鑑公幕下の臣、佐伯惟治は豊後国祖母嶽大明神より二十一代の孫で家名が高かった。
また文武両道相備え、諸芸の風流人であり、豊後海辺郡佐伯栂牟礼の城主であった。
惟治は幼少の子息で御曹司と呼ばれている千代鶴に継がせ、府内に出仕させ、自分は在府も出仕もしないようになった。
あるとき惟治は山上寺の住持春好を師匠にして魔法を行う契約をなした。
こうして上半月は清浄潔斎の身となり魔法に専念したところ神変奇特があった。
身によりそう影が生じ、打てば響き、呼べば答え、あらゆることが思い通りとなった。
累代相伝の家老は何度も諌めたが、いっそう魔法に力を入れた。
また先祖の祖母嶽大明神を佐伯迫田に勧請し、金銀を散りばめた荘厳巍々たる神殿を造営した。
またその他さまざまな宮が荒れていたのを建立、再興した。
あるとき惟治は魔法の師匠の春好が穢れをなしたとして猪の肉を食らうよう命じた。
春好は「髪を剃り僧衣を着て以来潔癖の身であるのに破戒などしたらこれまでの修行も無意味になります」
と抵抗したが、惟治が刀を喉に当てて脅したため、仕方なく鹿の肉を食したところ吐血してしまった。
そののち惟治は春好を生害した。なおその討ち手はほどなく大病で死んだという。
またあるとき惟治は家臣に「あの白鷺を捕らえよ」と命じた。
家臣「弓矢もないのにどうして捕らえましょうや」
惟治「弓で射るのではない、抱き抱えて捕らえるのだ」
家臣はしかたなく白鷺に近づいたが白鷺は動くことなくそのまま捕らえられた。
それを見た家臣たちは「延喜の御代に醍醐天皇の命で鷺が捕らえられたため五位を授けられた話はあるが、このたびは魔法によるものである。
当家の行く末はいかばかりであろう」と嘆いた。
0548人間七七四年
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2022/07/25(月) 17:23:12.83ID:Z+mqbH+B
このあと大友義鑑に滅ぼされる話が続くが長いのでここまで。
この前、戎光祥選書ソレイユから出た稙田誠「寺社焼き討ち」には「栂牟礼実録」出典で同じ話があるのでたぶんそちらが元だろう。
その本にも書かれているが、この佐伯惟治の先祖とされる祖母嶽大明神は蛇で、
平家物語巻八「緒環(おだまき)」では緒方惟義の先祖が豊後の女と大蛇との間に生まれた大男の五代孫となっている。
(三輪山の神と倭迹迹日百襲姫命の伝説そっくり)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13594.html
「大友興廃記」より「遣唐使の事」
こちらの稙田玄佐(植田玄佐)も蛇の子孫で紋も佐伯惟治と同じ巴紋なのに、美濃斎藤氏だったり蛇が雌だったりしてるのは伝承の過程でオスがメスにでもなったのだろうか。
0549人間七七四年
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2022/07/26(火) 18:06:33.78ID:4M3K0vhM
「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」続き

その頃、豊後国内では苗字の騒動が起こり、人々が争うようになっていた。
佐伯の家は緒方惟栄(平家物語の緒方惟義とされる)の後裔であり、代々巴紋の旗を掲げていた。
戦の度に大友家の杏葉紋の旗と巴紋の旗が並んでおり、あたかも大将が二人いるようであったため、国中の侍が嫉妬した。
また子息・千代鶴を御曹司と呼ぶのは主君・義鑑公をないがしろにする行いであると非難する者もいた。
(これは文徳天皇の頃(850-858)より勅定で佐伯の家は御曹司と呼ぶことに定められたという)
とうとう佐伯惟治が祖母嶽大明神を勧請したのも逆心の表れであるという噂が出てきて、義鑑公の御耳に噂が達した。
義鑑公は惟治に使者を送り問い詰め、惟治は弁明の書状を何通も出したものの、讒者が書状をとりつがなかった。
そのため惟治は共に槍の名手である深田伯耆守・野々下弥左衛門尉を弁明のために府内に送り出したが、義鑑公により両人とも誅殺された。
そのまま惟治居城の栂牟礼城攻めとなったが、峰高く谷深く、難攻不落の地であった。
惟治も金の軍配で城兵を鼓舞し、また深田らの弔い合戦ということで士気が上がり、攻め手の大将・臼杵長景も苦戦した。
長景は城の堀を死人で埋め、雲梯・飛楼を造って城を攻めたがどうしても落ちるように思えなかった。
長景はかくなる上は武略で城を落とそうと使者を出して
「このたびの戦は私の本意ではありません。ただ義鑑公の御下知に従っているだけのことです。
しばらく豊後から日向に立ち退かれ、国を隔てて逆心のない旨を仰せられれば、この長景が謀叛の誤解を解くために全力を尽くしましょう」と再三申した。
惟治は疑っていたが、長景が熊野牛王宝印の神符に起請文を書いて送ってきたため、神仏を軽んずるべきではないと、小勢で御曹司千代鶴丸殿と共に日向に退散した。
残る城兵は降人となったが、中には「具足が欲しければ大将に渡そう」と長景に具足をほうり投げた直後に腹を切って死ぬ者もいた。
惟治が日向に退散の途中、黒沢というところで多田弥四郎の娘、若狭という女に水を所望したところ、若狭はわざわざ新しい柄杓で水を汲んできて馬上に捧げた。
惟治は喜び「再び帰ってきたら礼をしよう。それかお前を人に名を呼ばれるような者として取り立てよう」と約束した。
しかし惟治一行が日向に入ったところ、あらかじめ長景に内意を含められていた日向の新名党という者どもが襲ってきて、惟治一行は全員切腹した。
時に大永七年(1527年)十一月二十五日。惟治三十三歳、子息千代鶴殿九歳であった。
惟治は生前魔法を修めていたためか荒人神となって祟りをなした。
先の黒沢の若狭という女房も惟治遠行の後さまざまな奇特を現した。
そのため宮を作って惟治を富尾権現として祀り、黒沢ほか豊後のうちに十社、日向に六社建立し今に至るまで祭礼を行なっている。
日向の新名党は惟治を討って十日もしないうちに滅んだ。
臼杵長景も偽の起請文を書いた天罰のためか、惟治の祟りのためか、ほどなく死んだ。
このたび長景は才覚にはやりすぎたため、無実の惟治を殺してしまった。忠に似て不忠の至りである、と人々は言い合った。
そのため義鑑公は佐伯の家を惟治の伯父惟常に命じて継がせなさり、佐伯家は今に至るまで続いている。
0551人間七七四年
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2022/07/31(日) 10:27:01.49ID:VOy0t9jY
加藤清正の重臣であった飯田覚兵衛(直景)は、肥後加藤家改易の後、京に引き込んで、再び奉公を
する事もなく居た。この頃の覚兵衛が物語った事によると

「我が一生は清正に騙されたり。
最初、私が武辺を仕った時、その場を立ち去ってから確認してみると、私と同じ傍輩の者達は、
皆々鉄砲に当たり、或いは矢に当たって死んでいた。
「さてさて危うき事かな、最早これ限りにして、武士の奉公を止むべし」
と思い陣へ戻ると、帰ってくるやいなや

「さても今日の働きは神妙、言葉にも出来ないほどだ」

と、清正から腰の物を給わった。
私は戦場に出る度、毎回のように武士を止めようと思ったのだが、清正は時節を逃さず、
陣羽織、或いは加増、感状を与えられた、故に諸傍輩も私を羨み、賛嘆したために、
それに引かれて引き込むことも出来ず、侍大将と言われるほどになってしまった。

一生清正に騙されて、我が本意を失いたり。」

と申したという。

(新東鑑)
0553人間七七四年
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2022/07/31(日) 11:28:36.20ID:VOy0t9jY
投稿者です。新東鑑ソースのものもあったのですね。確認不足でした、申し訳ありません
0554人間七七四年
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2022/08/01(月) 18:21:41.22ID:8IK/SbBS
「大分県郷土史料集成収録」の「日田郡志」から「秀頼薩摩落の事」

とある朝鮮人(李文長か)が平戸の士に言うことには
「日田三隈川の南の河原、北高瀬村の今市河原で後藤又兵衛と予は秀頼公より別れの盃を賜った。
そののち後藤又兵衛と予も散り散りになった」そうである。
そのあとの順路を考えると、秀頼公は真田・木村などの屈強の輩、十二騎を従え、北高瀬村→南高瀬村→大野村→梅野村→肥後国・穴川村→隈府と至ったのではないか。
また秀頼公一行が今市河原にくるまでに山国中摩村の真言宗明円寺で昼御膳を召されたと言う伝がある。
この路程とは外れるが、日田の五馬市には秀頼公宿泊の宿があるという。
後藤又兵衛は秀頼公と別れたのち豊前国下毛郡山国金吉村伊福に隠れ住んだと言う。
傍碑、後藤屋敷、後藤又兵衛の墓があると言う。
後藤又兵衛は伊福で隠棲すること二年、承応三年(1654年)正月二十九日の深更に村人が訪ねたところ、戸を固く閉じ、一人灯の下で古い箱から書簡とおぼしきものを取り出し、一通一通涙を流して書見し、みな火中に投じたという。
翌早朝に村人が後藤又兵衛を訪ねたところ、すでに自殺していたという。
村人は哀れに思い、近くに墓を建てたそうだ。
0555人間七七四年
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2022/08/01(月) 18:36:38.46ID:8IK/SbBS
ついでに金吉村伊福後藤碑銘

義刃智光居士
居士。俗名又兵衛。
何処の人か知らず。往昔この邑に来たりて寓居すること二年。
其の人となりにおけるや、志気英威、武徳俊高にて眼光人を射る。
ああ諸侯大夫たる者の逆世において謫居する者かな。
承応三甲午歳正月廿九日夜、剣を旨とし自殺す。
歳をへること久しく、石碑闕落す。
これによりて里人、古を慕い新たに石碑を立つ。冥福に資助する者なり。

宝暦十三年癸未歳六月 日
願雲 金吉村伊福 茂助
0556人間七七四年
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2022/08/02(火) 17:28:40.91ID:3Lv4miiH
「大友興廃記」より志賀親次の島津との合戦

島津義久の舎弟、兵庫頭義弘が天正十四年(1586年)の冬、豊後朽網に在陣したため、大友家の大身の将どもは大友家を背き義弘に次々と従った。
ただ義弘は近くの親次の岡の城には攻めあぐねていた。
それどころか志賀親次の手の者が義弘陣所に忍び入り、小屋などをたびたび焼き払った。
また天正十四年冬の初めから翌二月の末まで、親次が攻め滅ぼした城は十五に上った。当時志賀親次は十八歳であった。

また肥後国坂足は豊後の幕下にありながら早々に薩摩勢に降っていたため、志賀親次は天正十五年三月十八日に阿蘇表に出て坂足を攻めた。
このとき志賀勢は宮ノ寺に陣を張ったが、岡城の雑兵の奴ばらは釣鐘を壊し、狛犬を焼き、社壇を破り、鳥獣を殺し、肉食をするなどの邪なる振る舞いをした。
さては軍に物の怪が取り付いたのではないかと人々はおそれた。
そんな折、薩摩勢の新納忠元、伊集院肥後守、入来院、祁答院らの四大将の軍が豊後日田から肥後国小国に到着し、この豊後勢の狼藉について地元の住人から聞き知った。
翌朝、薩摩勢の四大将は宮ノ寺の豊後勢に打ち掛かった。
豊後の先陣として中尾伊豆守、大塚典薬、朝倉伊予守、中尾駿河守、朝倉土佐守などが受けてたった。
しかし前夜に神前を穢し、その身も穢れに触れた奴ばらは、眼前に霧が襲って全く物が見えなくなり、草木を敵と思って斬りかかったり矢を放ったりした。
あたかも自ら首を刎ねてくれと言わんばかりであり、雑兵かれこれ百五十人が枕を並べて討死した。
中尾伊豆守は軍兵に「このたび山谷鳴動し、煙雲が味方を襲ったのはただごとではない。
軍気をうかがって退くべきだ」と言って退却した。
そののち豊後勢はなんとか態勢を立て直し、豊後、薩摩双方とも軍を引いた。
また朝倉一玄は「このたびの阿蘇表への出兵は、親次の勇み足であり、血気の勇に似た振る舞いであった。
若気の至りとはいえ、親次には似合わぬことであった」と言ったそうだ。
0557人間七七四年
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2022/08/02(火) 17:33:37.41ID:3Lv4miiH
なお志賀親次は熱心なキリシタンだったそうで。
0558sage
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2022/08/03(水) 16:02:14.92ID:1Htktg65
黒田筑前守長政が、常々人に語られていたことによると。

「私は十四歳の松千代と言っていた頃から、手を下した手柄は度々に及んでいたが、父・如水に
高名があった故に、人はこれを賞美しなかった。

浅野幸長については、天下の上下が勇者と誉める。これはその父である弾正(浅野長政)が、
分別才覚は優れていても、さほど武辺が無い故である。」
と申された

また、小瀬甫庵が太閤記(甫庵太閤記)を作る時、諸家より書付けを遣わして、その家々の武名を
書き入れるべし、とあった。この時黒田家の老臣たちもこれを聞き伝え、

「御祖父以来の御武功、現在、天下に隠れ無しと雖も、後世に至っては埋もれてしまうことも
計り難いものです。幸いにこれらの事を小瀬甫庵に話して、足利義昭公、信長公、秀吉公より
賜った数多の御感状、その他異国本朝にて隠れなき御武功を、書物に著し給われるべきです。」

と申し上げたのだが、長政は更に承認しなかった。

「凡そ将士が武功を立てるのは主君の為であり、私の名を求めるためではない。
殊更太平の世となっては、武を隠すのが本意である、と聞いている。
今、そのような事をするのは無用である。」

そう言って、遂に甫庵に書付けを渡さなかった。それ故に、かの太閤記において黒田家の武功が
多く漏れていたのだという。

(新東鑑)
0561人間七七四年
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2022/08/06(土) 18:39:09.97ID:ZiJm9/Jl
「大友興廃記」から槍に巧みなため宣教師から「豊後のヘラクレス」と呼ばれた柴田礼能の最期

天正十四年十二月上旬(1586年12月-1587年1月)に、島津家久は臼杵丹生島へ諸勢を繰り出し、大柳の裏の草木や岩陰から大友勢の様子を窺っていた。
そこへ先年南蛮国から渡来した大きな石火矢・国崩しを武宮武蔵守(武宮親実)が大手口より撃ちかけた。
大玉、小玉を二升ほど詰め込んでいたが、その響きは山、海に轟き、大柳の枝より上を打ち折った。
大小の玉に当たったり、大柳に押しつぶされたり、で若干の死人が出たものの薩摩勢は恐れず、かえって勢いを増して臼杵城に攻め込んできた。
豊後方の吉岡甚内は鉄砲を撃ちかけたのち、槍を振るい兜首を五つ討ち取った。また、利光彦兵衛、吉田一祐も高名をとった。
同じく豊後方の臼杵美濃守、柴田礼能は先陣として平清水口で薩摩勢と槍を合わせ、次々と討ち取り、互いに競うように敵を退けた。
しかし薩摩の者が町内の空き家に忍び込んでいて、柴田礼能を馬上から突き落とし討ち取った。
礼能の嫡男・柴田玄蕃丞(允?)は手勢二百騎を率い、敵を退け城中に戻ろうとしていたが、父の礼能が討死したと聞き、首を郎党に渡し「汝は城中に戻り注進申せ」と告げた。
郎党は「城中にお戻りになった方が良いでしょう」と申したが
玄蕃は言い捨てて敵陣へ取って返し、親の仇を討った後、自身も討ち死にした。
そののち薩摩勢も次第次第に引き取ったが、追軍をすると横矢がかかってきそうに見えた。
荒武者たちが追撃を望んだが、宗麟公御父子が仰られるには
「追撃で数十人討ち取ったところでたいして変わらないだろう。
味方に手負いや死人がない方が大利と言える。ことごとく引き取るように」
とのことで、戦は終わった。
そののち薩摩勢が来ることはなかった。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8059.html
柴田礼能については以前、「味方の八幡社ならばともかく、敵方の八幡社であれば敵だから焼いてもいい」と言ってた話が出ていた。
0562人間七七四年
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2022/08/08(月) 21:56:34.05ID:+MRcn6H0
伊達政宗がある年、将軍家光公に供奉して上洛した時、東福寺大雄庵の住持の入院があった、
政宗はかの寺の檀那であったため、この儀式のために辻固めを出したのだが、これを
建仁寺の雄長老(細川幽斎の甥であるという)が聞かれて、

 今日をはれと 檀那伊達して政宗が 辻片目をや光らすらん

と戯れ歌を詠まれた。これは政宗が片目であることに依ったのである。政宗はこの歌を聞き伝えられたが

 ともすれば 吾名におひの固めをも 光らす身のかかる迷惑

と詠まれた。

(新東鑑)

なお、建仁寺の雄長老こと英甫永雄は狂歌で非常に有名な人物ですが、1602年に亡くなっているので
この話自体は後世に作られたものか、あったとしても家光ではなく秀吉の時代のものでしょうね。
0564人間七七四年
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2022/08/18(木) 21:22:34.43ID:VIhSpD76
甲斐国、武田信虎の娘を菊亭殿(菊亭(今出川)晴季)へ御祝言の御約束(婚約の約束)があった。
しかし、未だ双方の往来も行われていない以前に、「婿殿を見に」と、案内も無しに
菊亭殿の所へ信虎殿が御出になったという沙汰があり、このような一首が詠まれた

『婿入りも まだせぬさきの 舅入り きくていよりもたけたふるまひ』

(寒川入道筆記)
0565人間七七四年
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2022/08/19(金) 22:16:51.61ID:5B9ZDfFj
甲斐国、武田信虎の娘を菊亭殿(菊亭(今出川)晴季)へ御祝言の御約束(婚約の約束)があった。
しかし、未だ双方の往来も行われていない以前に、「婿殿を見に」と、案内も無しに
菊亭殿の所へ信虎殿が御出になったという沙汰があり、このような一首が詠まれた

『婿入りも まだせぬさきの 舅入り きくていよりもたけたふるまひ』

(寒川入道筆記)



悪逆をなした明智日向守(光秀)が召し使った、鑓かたげ(鑓持ち)の中間があった。
六尺ゆたか(約180センチ超)なる男で、あまりにも大きいと、人はみな「おふほとけ」(大仏という意味か)

と名をつけた。

この者、日向殿へ何やら不足があって、頭を剃って引き籠もった。日州これを聞いて、久しきもので
あるからと、不足を叶えて呼び返され、又鑓をかたげた。人々はこれを見て一首連ねた

「おふほとけ あたまをみれば また佛 これぞ二佛の中間といふ』

(寒川入道筆記)
0566人間七七四年
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2022/08/19(金) 22:17:36.32ID:5B9ZDfFj
>>565
すいません前半コピペミスです。失礼しました
0567人間七七四年
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2022/08/20(土) 11:53:16.25ID:09wOHaV6
にぶつ【二仏】 の 中間(ちゅうげん)
釈迦が入滅したのち、五六億七千万年を経て、彌勒菩薩が仏となって出現するまでの中間の時期。
この期間は、無仏の世であるから、地蔵菩薩が仏にかわって衆生を救うという。

検索してきた
0568人間七七四年
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2022/08/20(土) 21:02:08.00ID:bRKyMkPb
玄旨(細川幽斎)と里村紹巴が同道して鞍馬寺に花見へ御出の時に、岸より下人が飛び降りようとしていたが、
老足で心のままにならない様子を見られて

とぼうとぼうとするぞあぶなき 玄旨

人玉は やまひの床の休らひに 紹巴

(寒川入道筆記)
0569人間七七四年
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2022/08/21(日) 09:02:58.98ID:iOUIyI9Q
大(おお)は古語で「おほ」だったね。
0571人間七七四年
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2022/08/21(日) 21:39:56.39ID:2Xr6PBKW
かくれなき藤戸石(現在京都醍醐寺三宝院の庭園の主石として設置されている名石)を、上京細川殿の御屋敷より、
室町畠山殿御屋敷へと、織田信長公が引かれたのだが(永禄12年の義昭二条城建設の時の輸送)、
これを引くのに数日間の御手間がかかった事について、京の徒者たちはこのように詠んだ

『花よりも 団子の京となりにけり けふもいしいしあすもいしいし』
                    ※いしいしは女房詞で団子の意味

この年の御普請には、江州衆が別して精を入れられたため、その事についても又徒者たちが

『なまなりの すしとぞ見ゆる あふみ衆 おもさの石をもたぬるはなし』

(寒川入道筆記)
0572人間七七四年
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2022/08/22(月) 20:02:50.47ID:2PWGfWst
藤堂高虎、連続婦女暴行殺人事件
0573人間七七四年
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2022/08/25(木) 17:45:17.86ID:Yw+Dje9+
天文九年(1540)、この春、世上では大飢饉があり、数千万もの難民が出た。
餓死者はその数を知れず、上京下京の間には、毎日六十人ばかりの死人が捨てられていたという。
誓願寺では非人施行(難民への支援)が春の間中行われた。

また、天下には大疫病が流行り。都鄙において死亡した者は幾千万とも知れなかった。ここ七百余年以来の
比類なき事態であった。春夏秋の間、諸人はこの疫病に患い、高野山や比叡山の輩も発病したもの
数多であったという。

(寺院関係者では)上醍醐に於いては二、三人が発病したとか。淡路は五ケ庄で、疫病で山上において死去、
角坊も疫病で散々となり、東寺観智院、同正覚院も発病し死去した。大変な事である。

二上大炊介もこれにて病死し、天徳西堂も同じく病死、四辻大納言も病死した。

『嚴助往年記』

天文の飢饉とそれに伴う疫病の流行について
0574人間七七四年
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2022/08/29(月) 21:54:28.55ID:OWgfTKX5
江戸幕府が出来た頃で人口が一千万ちょっとなのに、数千万の難民っていくらなんでも盛り過ぎ
0575人間七七四年
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2022/08/29(月) 23:36:30.94ID:oYsYmb4W
マジレスしますと幾千・(幾)万っすよ
0576人間七七四年
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2022/09/04(日) 14:37:58.97ID:sI3KCCJ6
天正十三年七月六日、秀吉は上洛中に、京の衆に風流(盆踊り)をさせるのだという。
しかしながら町人たちは、去る春の、内裏・御所の築地つきの時は、このために上下京では種々様々の
事を成し、以ての外の造作であった。それに重ねて又風流をさせるというのは、京都の人々にとって
迷惑なことであると、徳雲がお取りなしになり、風流は中止となったという。

但し内裏において、上下京の手能の衆が、御能を仕り叡覧があったとの風聞である。

(宇野主水記)
0577人間七七四年
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2022/09/05(月) 18:57:07.57ID:ufOQ8BTK
「小河内蔵之丞噺覚書写全」から

ある時、城内で栗山大膳と小河内蔵丞(小河之直)が出くわした。
二人とも乗物であったため、内蔵丞は乗物から降りて相応の会釈をしたが、
栗山大膳は乗物に乗ったまま「御免なされそうらえ」と言ったまま通りすぎた。
これを見た野村隼人(野村祐直。母里友信の甥)は、内蔵丞と対面した時に
「身代の差はあれど、小河様も栗山様も同じ家老であるのにあの態度とは、侮っているように見えます。
今後は小河様も乗物から降りて挨拶されるべきでしょう」と言った。
しかし内蔵丞は「あちらが無礼な振る舞いをしたのはあちらの過失であり、こちらは相応の礼をしたなら、こちらの一分は立ったと言えます。
相手方の無礼などどうでもいいことです」と言ったという。
0578人間七七四年
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2022/09/05(月) 20:16:33.08ID:qLR2uyJL
小河と栗山ごっちゃになってる?
0579人間七七四年
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2022/09/05(月) 20:28:19.88ID:ufOQ8BTK
訂正
×今後は小河様も乗物から降りて
◯今後は小河様も乗物に乗ったまま
すいません
0580人間七七四年
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2022/09/08(木) 17:56:38.17ID:9uwm008Y
豊後佐伯氏について書かれた「栂牟礼実録」「剣の巻」から「静御前の薙刀」についての話

源義経は京都堀川から緒方惟栄とともに鎮西に下った時に緒方惟栄に長刀(薙刀)を下賜した。
文治元年(1185年)に土佐坊昌俊が源義経を堀川の御所で夜討ちした時、静御前がこの薙刀をふるい敵を退けたといわれるもので、小屏風と名付けられていた。
穢れのある者がこれに触れると、身がすくむことがたびたびあった。
佐伯惟定の息子、佐伯惟重の時、元和八年(1622年)夏、少し錆び付いてきたため甚三郎という者が三日の精進の後に錆を落とした。
甚三郎は三日目に死んでしまった。
人々は薙刀のためだと言い合ったという。

なぜ弁慶ではなく静御前なのだろう
0581人間七七四年
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2022/09/15(木) 17:57:23.65ID:zmxQhNy+
貝原益軒「朝野雑載」から小野木縫殿介(小野木重勝)の妻

小野木縫殿介の妻は島左近の娘であった。
関ヶ原ののち縫殿介が切腹した知らせが届いたため、自害する気配であった。
(縫殿介は居城である福知山城を細川忠興らに対して開城したが、助命嘆願もむなしく細川忠興により切腹させられた)
縫殿介の妻は北政所に仕えていたため、宮仕えする女房たちは自殺をおしとどめ、そのそばを去らずにいた。
夜が更け、鶏が鳴く頃ひそかに守刀で自らののどを突き刺し失せた。
その際に書き置いていた辞世の句
「とりなきて いまにこえ行く 死手の山 関ありとても 我なとどめそ」

※キリシタンであったらしい
0582人間七七四年
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2022/09/17(土) 20:37:18.49ID:h8b46QYO
永禄十二年の年から、翌年七月ころまで、天に煙の出る星が出た。

武田信玄公が三十一歳の御時より召し置かれていた、江州石寺の博士があった。
彼は昔の安倍晴明の流れにある易者であった。中でも判を能く占うことで、「判の兵庫」と号した。
占いも正法に仕り、内典、外典、共に携わり。その上邪気些かもない人物であったので、
信州水内郡において、百貫の知行を代々宛てがわれる朱印が、この兵庫に下されていた。

信玄公はこの兵庫を毘沙門堂のくりまで召し寄せられ、武藤三河守、下曽根の両人を問者として、
この客星の吉凶を兵庫に占わせてみせた。彼は謹んで占い、書を以てこのように言上した。

『この星は天下怪異の客星ですが、しかしながら現在に当たって何れかの大名に悪しき事がある、
というような物ではありません。

これは末代に於いて、我が朝の古き高家が次第に滅して、遂に悉く無くなってしまい、武道においても
国中の武家が作法を取り失い、昨日の下人が今日の主人となり、女が男の出立を仕り、新家が立って、
例えば舞楽に至る迄、真なる事を見知らずして、嘲られるような事を用いる故に、本侍まで一世の間に
二度三度づつ作り名字をするような世になってしまうでしょう。

侍に限らず、仏法世法とこれ有る時は、寺方も久しき正法の宗旨は次第に衰微して、新しき宗旨などと
言って繁盛するでしょう。
百姓、商人、貧民までもこの如くなるでしょう。』

と書いて、先の武藤殿、下曽根殿に渡した。そして

「然らば、数にも入らないような私も、代々判を占っておりますが、この星の上は判占いも
私までのものとし、子孫は素人にしようと思っています。ですが、嫡子は現在二十あまりですので、
これは時々占いを致します。ですが孫については全く占いを止めさせます。
幸い私は、大僧正信玄公の大慈大悲の御恵を以て、信濃国にて所領を下され、年来蓄えた物を
譲り、孫を素人に仕立て、甲府に在住するように申し付けましょう。」

そして嫡子も孫とともに甲府に在るようにと言って、柳小路に屋敷を申し請け、子と孫は商人にさせ、
自分自身は知行を返却し、近江の国にまかり帰り、五年目に死去したという。


『甲陽軍鑑』

彗星(?)と武田信玄に仕えた占い師について。
0583人間七七四年
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2022/09/20(火) 22:39:06.11ID:urt3gmbm
北条家は早雲(宗瑞)公、氏綱公の二代にて伊豆、相模の領国を治め、しかもその年、享禄三年には
氏綱公子息・氏康公が十六歳にて初陣として、武蔵府中に出られた。敵は両上杉(山内・扇谷)であった。

北条家の果報いみじき故か、上杉家滅却の瑞相か、その頃両上杉は再び仲が悪くなり、
北条家との取り合いの事も、例えば三方論議(三人の者が互いに譲らないで論争すること)の如くであった。

されども上杉は、北条家を小身として卑しみ、氏康公は自ら出陣し、上杉家の人数二、三万に立ち向かい、
神奈川、品川、武蔵府中で戦い、また所沢、世田谷という所でも、氏康と両上杉は都合八年の間
取り合いをしたが、この間上杉憲政公は一度も自身で出てこなかった。

上杉は北条を小敵と卑しんだが、その上杉家は大将が出てこなかったために、大合戦にも小競り合いにも、
上杉衆はみな負けて、氏康は一度も勝たないという事は無かった。
誠に北条家は弓矢の時と輝き、万事政も宜しければ、上杉家の巧者達は「さてあぶなし」と囁いた。

されども管領憲政公家臣の両出頭である菅野大膳、上原兵庫は、そのような意見に対してこう申した。

「北条早雲は元来伊豆の、いかにも小さき所より出た者であり、その族である氏康にどれほど深い
事があるだろうか。彼が伊豆、相模両国を持っても、その北条を二、三人合わせたほどの大身衆は、
越後、関東、奥羽にかけては、憲政公旗下に五、六人も在る。

上杉家に伝わる衆にも北条ほどの者は無いが、彼らがはびこるようなら、憲政公が旗を出され、
ただ一合戦で北条家を誅罰するだろう。」

菅野、上原両人の発言に、若侍共は、憲政公が出馬され北条家を誅罰するのは今日明日のように
各々沙汰したが、憲政公は未練げであり、ちと臆病であられたのか、今年来年と申しても
結局山内殿が出馬することはなかった。

「管領の御馬にて出かねる。」という言葉は、この時代より始まったのである。

『甲陽軍鑑』
0584人間七七四年
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2022/09/22(木) 00:11:38.00ID:lW/Xp3Cx
「薩藩旧伝集」から大山三次の切腹
(彼を主人公とした海音寺潮五郎の短編小説「かたみの月」では大山巌の先祖・大山稲次の弟としている)

大山三次殿が江戸で何人も斬り殺したそうだ。
白昼の出来事であったため、ある御大名の長屋から「どこの者であろうか?」と見ていたところ、下手人が薩摩屋敷に入って行ったという。
薩摩の大山三次であると取り沙汰されたため、中納言様(島津忠恒)に対してある大名が
「貴殿のところに大山三次と申すものはいないだろうか?」と尋ねた。
中納言様が「どういうわけで尋ねられるのか?」とおっしゃると
大名は「その者が何人も斬り殺したそうである」と答えた。
中納言様は「そのような者はおりません」とお返事なさった。
そこでいそいで大山三次を大廻り船(貨物船)で薩摩に下そうということになった。
しかし命じられた大山三次は「理由もないのに武士たる者が大廻り船で下れましょうか。一分が立ちません」と申して切腹してしまった。
これを聞こしめした中納言様は「さても惜しいことだ。理由をきちんと申し聞かせたならば、切腹しなかったであろうに。
あたらよい武士を失ったものだ。」と御悔やみなさったそうだ。
0587人間七七四年
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2022/09/23(金) 20:51:57.40ID:ReeIpMuj
永禄七年七月十四日の夜、武田太郎義信公が長坂源五郎を御供にて、燈籠見物にことよせて
御城を御出になり、忍んで飯富兵部(虎昌)の所に御座なされた。そして乱鳥(一番鶏、二番鶏が
過ぎた後に、鶏たちが一斉に鳴き出すこと)まで談合なされた。

この様子を不審に存じ、御中間頭(横目衆)の荻原豊前が信玄公へ報告した。それより信玄公は不審に思われ、
義信公逆心の事顕れ、翌年、飯富兵部、長坂源五郎の両人が御成敗となり、太郎義信公は牢に
入れ参らされ、その上義信衆は御成敗、或いは御改易となった。そして義信公御守りの曽根周防は
荻原豊前に仰せ付けられ、放し討ちに討たれた。

このように、御父子の間に不審の立つことであっても少しも隠すこと無く、目付、横目が言上致すのは、
甲斐の他は何れの国であっても有るまじき事である。これはただ偏に、信玄公が人を能く召し使い給い、
能く人物を目利きなされて、能く采配を取り、能く仕置の法度、無類なる故であろう。

『甲陽軍鑑』
0588人間七七四年
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2022/09/24(土) 22:17:53.95ID:EyRy4RWD
また信長が南蛮胴着用してる・・・史実をこれでもかというぐらい盛り込んだマニアックな本は誰か書けないのか

https://twitter.com/CMeikan/status/1573603555180617733
信長名鑑_信長創作物研究@CMeikan
https://pbs.twimg.com/media/FdaPTQ0VsAAyHFf?format=jpg
「新・歴史人物伝 織田信長」読了。児童向けの伝記なのだけど、織田軍の動向、逸話、史実を
これでもかというぐらい盛り込んだマニアックな内容。歴史入門書というより、一連の流れを
把握している歴史好きな子が読んでニヨニヨするような印象でした。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0589人間七七四年
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2022/09/24(土) 23:02:24.31ID:4sFhVE5B
刀剣の展覧会のスレチとか貼り付けてるやつだろ
雑誌コーナーに並んでいるムックがお似合いだよ
0590人間七七四年
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2022/09/24(土) 23:09:27.51ID:EyRy4RWD
平山優に金陀美具足サイコーって大河ムック書いてもらえばいいんじゃね?
0593人間七七四年
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2022/09/25(日) 09:34:51.20ID:bQiBHZfx
信長の「南蛮甲冑」について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1163.html

南蛮胴(西洋式鎧)は過去ログのこれのように、織田信長所用と伝わるものが現存するものの、後世に伝来が
作り上げられたものと考えられています。

史料上はあくまでも、1590年に帰国した天正遣欧少年使節団が持ち帰り、翌年秀吉に献上された目録上のものが
最古となりますので、信長は持ってなかっただろうというのが正直なところですね。

信長が上杉謙信に洛中洛外図屏風などと贈った西洋マントが上杉神社に現存しますが、同時に贈られた甲冑が
金小札色々威胴丸という華美だが若干古風で品の良いデザインのものです。
また最上義光には筋兜と実戦的な桶側胴を贈ったとされます。兜は最上義光歴史館に現存し有名ですけれども
この兜も古風な体裁だったものを実戦用に改造したのではないかという考察があります。

贈答品には相手があることですから、自分の趣味全開で贈ったりはしないでしょうけれども、珍奇なマントと一緒に
贈った甲冑が当時でも趣味の良いものだったというのは、信長の好みの一端が見えてこないでしょうか。

1570年代には存在したといわれている、九州中心に使用された桃型兜は、西洋のモリオン兜に似ているので
それまでに渡来したものがデザインの元となった説が有力ですが、これも確証はありません。

信長の時代までに西洋鎧が到着してそれを入手した可能性はありえますが、証拠は全くないというのが正しいようです。

実際に舶来品を愛用した証拠も遺品も豊富な徳川家康が、その点を来年大河でクローズアップされたりはするのでしょうか?



信長のビジュアルイメージに関しては、大河ドラマ「黄金の日日」(1978年)の信長は月代頭に日本甲冑、
黒澤明の「影武者」(1980年)での信長が総髪髷に南蛮胴、大河ドラマ「徳川家康」(1983年)の信長は総髪髷に
(西洋鎧に影響受けたデザイン説がある)仏胴。
影武者がネタ元と思われますが、どの段階から広まったものか。
0594人間七七四年
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2022/09/25(日) 09:37:13.66ID:bQiBHZfx
なお東京国立博物館所蔵の伝明智光春所用の和製南蛮胴は実際には17世紀のもの、榊原康政所用の南蛮胴は舶来品改造のものと
長らく言われてきましたが、榊原のものの胴が和製と判明したために、その影響なのか明智の和製胴も館公式では安土桃山時代となってしまいました。

面倒ですよね、あったという証拠は全くないが、なかった証拠だってないでしょと言われたり。
0595人間七七四年
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2022/09/25(日) 10:44:57.96ID:Zo+L+aNk
その時歴史が動いた、で
家康はリーフデ号に積んでいた南蛮胴を持っていた
→家康は関ヶ原に南蛮胴を持ってきていた?
→家康はその南蛮胴を関ヶ原で着ていた?
→家康は南蛮胴を着たまま銃弾飛び交う戦場にいた?
(南蛮胴は銃弾に強いため)
→小早川秀秋は松尾山からこれを見て家康の勇姿に感動した?
→小早川秀秋が西軍を裏切ったのは南蛮胴のため?
→関ヶ原の戦いの帰趨を決めたのは南蛮胴?
とかやってたから家康の大河でもやりかねない
0596人間七七四年
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2022/09/25(日) 12:23:09.51ID:ZWe67ssy
大砲撃たれて爆風で飛ぶまでかワンセットにさらにプラスがあるのか
0597人間七七四年
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2022/09/25(日) 20:24:41.44ID:lGuhc/xt
そんな番組本当にあったのかよと思ったら本当だった

2000年10月4日放送 関ヶ原合戦 家康 なぞの大突撃 ~ヨーロッパ製甲冑の威力~
0598人間七七四年
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2022/09/25(日) 21:47:46.27ID:2kIRZglE
『渡辺幸庵対話』より
130まで生きた怪老人、渡辺幸庵が見た戦国武将

・家康の悪口
権現様は無筆同然の悪筆だった
三河の宝蔵寺で手習いをしたそうだが、せいぜい「いろは」くらいのものだ
自筆でないといけないときだけ「ほつほつ」(ぽつぽつ)と書かれた
それゆえ、御判も「きたなき」御判だった

・三斎様の奇抜な料理
細川三斎は中古の茶の湯者である
茶菓子に能登の「鯖刺」(シメサバか)の頭を切り、折敷に椎の葉を敷いて、「著」(箸か)を添えて出していた
塩出しと切り方に口伝がある

・大坂夏の陣秘話と家康の強がり
真田左衛門佐(信繁)は強き大将で士卒も勇壮だった
ただ、徳川の備えが敗軍したのは真田の勇気ばかりではない
寄せ手は太陽に向かって戦ったので働かず、真田は太陽を背にしてこちらをよく見分けて戦ったからだとささやいて神君も生玉まで退いた
0599人間七七四年
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2022/09/25(日) 23:28:07.87ID:2kIRZglE
『渡辺幸庵対話』より
怪翁が打ち明ける驚きの宇治茶由来

宇治の茶はもともと栂尾のものであった
丹波に上林峰養という者がおり、宇治の地面を見て赤土に砂が混じって茶の木に適した土地と気づいた
都にも近く販路にも適していると考え、峰養は栂尾の上林家に婿入りし、「茶を時々盗取」り宇治に植えていた
さて、育った茶を味の分かる者に試飲させてみると、味は一段といいという
ただ、苦味が少しあって「園香」は少ないという評価だった
初めてつくった茶に初と銘をつけた
この茶の種は栂尾のもので、榊という銘だった
葉の形が榊に似ていたからだ
峰養は常々「薗」(ガーデニング)を好んでつくらせていたところ、春雨が降ったので「(薗の草花に肥料として?)小便をかけなさい」と命じたが、家来は思い違いをして小便をすべての茶株に引っ掛けた
峰養は驚いたがどうしようもできず、その年の茶を試飲してみると、苦味は消えて園香はよかった
「不浄」を養分にして育てると味がよいことが分かり、すればするほどに茶の誉れが世間に広まった
0602人間七七四年
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2022/09/26(月) 23:23:57.94ID:ESVq42kt
『利家夜話』より
権六と又左、不仲の内蔵介に寝転がりながら意地悪する話

越前の国を柴田修理(勝家)が拝領(した頃の話)
さて、大納言様(前田利家)と佐々内蔵介(成政)、不破河内(光治)の三人が府中にいたとき、柴田は北之庄から、佐々は五部市から、不破も(前田邸に)やってきて一日一夜、振る舞いをしたことがあった
柴田はことのほか機嫌がよく、「匍匐」(腹ばい)になって寝転がりながら上方の話や信長の手柄話を語った
柴田が言うには「又左(利家)よく聞け。最近、表裏者の明智光秀が出世してきた。(信長が)指を折って数えられたように、俺の手柄で26度まで勝利を得、信長公よりお礼を賜っている。誰が出世してきても恐ろしくはないわ。お前も指を折ってみろ」
すると利家は「『親仁』(寄親=勝家、オヤジと呼んでいたのか?)は家来が多いから先手でたびたび勝利を得ましたが、(勝家も)端武者のごとくたびたび槍を振るったのは今の世で並ぶものはいないでしょう。では、私も指を折ってみましょう」と指を折り、あちこちでの18度の手柄の話をした
柴田はいっそう機嫌がよくなり、なんやかやと色々話をし、「世間ではたまたま二、三度手柄を挙げるものは多いが、心が猛くとも合戦がなければどうしようもない。今の世は武勇を挙げたければいくらでも機会がある。俺や又左は信長公にも同僚にも恥ずかしいところはない」と笑った
柴田と利家は佐々と仲が悪かったので、柴田は佐々への当て付けで話したのだろうと(利家は家臣に)語った
佐々は涙を流して何も話さなかった
柴田と利家はさらに「繰返繰返」同じようなことを話し続けた

古織と有楽にも寝転がってしゃべった逸話がありますが、そんなほのぼの感はまったくない話
0603人間七七四年
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2022/09/27(火) 01:43:25.44ID:ulOgv5iB
勝家派閥でも嫌われてるとか、佐々は仲良い相手いないのか?
0604人間七七四年
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2022/09/27(火) 10:37:42.00ID:thuJaFyX
ならなんで遊びに行ったんだろう
0605人間七七四年
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2022/09/27(火) 19:51:33.44ID:X6fAHDOq
成政も実戦経験豊富だったよね?
称賛された手柄も結構あったような
0606人間七七四年
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2022/09/27(火) 20:45:31.56ID:ExuB64pl
山県三郎兵衛(昌景)の同心に、北地と申す伊勢牢人が在り、身上は十六貫を取っていた。
しかし彼は「知行悪しき所なり」と山県三郎兵衛に種々訴訟をしたのだが、大場民部左衛門という
山県の取次が、「北地は他国者である。」と侮り、山県へ取り次がなかった。

そのような中、北地は仲の良い傍輩たちに申し聞かせ、置文をして腹を切ろうとした。
何故かと言えば、「他国より武田信玄公の御家を望んで来る者はあっても、出る者は一人も無し。
この御家を出るほどならば、何ぞ武道に悪しき事があるかと、余所の不審を受けるのも口惜しい。」
と考えての自害であった。

しかしこの事を知った傍輩たちは自害の直前で彼を取り押さえた。
これに北地は「腹を切るなどと言う事を侍が申出して、二度止まる事無し!」と言って
更に自害を試みたが、人々が彼に取りすがって腹を切ることが出来なかった。
そこで北地は膝の上の、『犬ほへず』という所を散々に十二、三度も切りつけ、それから三日目に死んだ。

北地の死に山県は大いに驚き、目付横目から信玄公に報告が上る前に、早々にこの事を言上した。
信玄公は殊の他に御立腹され是非に及ばず、山県三郎兵衛は困惑し、もはや改易されるかという
事態になったが、山県は原隼人佐、三枝勘解由左衛門、曽根与市助に宛てて、熊野の牛王の裏に
誓紙を仕り、「北地五郎左衛門訴訟の旨を存じない。」という内容を申し上げた。
その後、信玄公が彼らを召して話を聞き、

「ならば、その頼まれた山県の内の者、大場民部左衛門を呼べ」

と有り、先の三人、原、曽根、三枝を以て尋問させたが、さらに長坂長閑、跡部大炊に
目付衆二人、横目衆二人まで添えられて詳しく尋ねられ、その上にてもうろんに思われ、
岩間大蔵左衛門を召して「物陰でこれを聞け」と仰せ付けられ、この件を詮索された。

すると山県が申し上げた如く、何れの者からも大場が取次を成さなかったため山県へ
北地の訴訟のことが伝わらなかったとの報告を受け、これによって大場は一類尽く
御成敗された。

山県三郎兵衛が御奉公申し上げた内で、これほど迷惑なる事は終に無かったという。

『甲陽軍鑑』
0608人間七七四年
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2022/09/28(水) 19:20:21.19ID:TRfck96B
大した話ではないし悪い話でもないが>>602の関連で
『利家夜話』より
当時の武将間の呼び名について

越中魚津の城を北国の軍勢が柴田修理(勝家)を総大将にして取り巻いたとき、越後の上杉景勝が後詰めの軍勢を出してきた
その日の先手を求めて柴田伊賀、佐久間玄蕃、佐々内蔵介がいさかいを起こしていたので、(前田)利家が争いを納めようとした
そこに柴田がやってきてその話を聞くと、又左(利家)が仲裁に入っているのに「倅(せがれ)供」がなにを言うのかとお叱りになった

少なくとも織田家では寄り親のことを寄り子は「親仁(おやじ)」と呼び、寄り親は寄り子のことを「倅(せがれ)」と呼んでいた様子
いまも職人や渡世人の世界に色濃く残る疑制的親族関係ですが、戦国の時代はより濃厚だったのでしょう
こういう当時の口語的な呼び方が史料に残るのは比較的珍しいので、ご参考までに
0609人間七七四年
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2022/09/28(水) 22:19:39.72ID:TRfck96B
>>605
利家は夜話の中で「俺は19度槍を合わせた、佐々は3度だけだ」とか散々佐々をディスってるんですが、越中攻めのときは「佐々もさすがの武将だから」みたいなことを言って、二筋ある攻め口の佐々正面側の攻撃をやめさせたりしてます
そもそも不仲になった原因は、利家が切った茶坊主(このせいで利家は浪人に)と佐々が仲良しだったから
別に佐々が信長に訴えたりしたわけでもなく、茶坊主は信長とも懇意だったので、信長自身が激怒して「犬(利家)を成敗せよ」とか口走ってるんですけどね

一方で、勝家とは関係性がよく見えます
しかし武将の評価としては「勝家は戦場で、鉄砲が飛んできても立っていて、弾なんぞに当たるわけがないから立っておけと家臣に叫ぶ。森可成と坂井政尚は当たるときは当たるんだから伏せておけ。敵陣に懸かるときになったら開き直って遮二無二突っ込めと言う。一軍を率いる大将とは後者であるべきだ」という趣旨の話もしていたようです
0610人間七七四年
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2022/09/29(木) 16:32:47.56ID:iX+uE6Pw
この前諏訪湖にいったら「八重垣姫の像」というのが建っていて、碑文の説明によれば

これは歌舞伎の「本朝廿四孝 狐火の段」の主人公・八重垣姫の像です。
上杉謙信の娘である八重垣姫は武田勝頼と政略結婚の許嫁でしたが、勝頼が死んでしまったため毎日勝頼の絵図に手を合わせていました。
しかし謙信に新しく仕えた蓑作という下男が勝頼の絵図に瓜二つであったため問いただしたところ、実は勝頼本人であり、謙信に奪われた諏訪法性の兜を奪い返すために変名で仕えたということでした。
それを物陰から聞いていた謙信はわざと塩尻に勝頼を使いに出し、八重垣姫の勝頼助命嘆願も聞かず、討ち手を差し向けました。
八重垣姫は諏訪法性の兜を盗み出し、諏訪明神のお使い狐の狐火に導かれ、諏訪明神の霊力により氷の張られた諏訪湖を渡り、勝頼の元へとむかったのです。

歌舞伎だからいろいろ突っ込みどころはあるけど、この八重垣姫は一説には北条夫人をモデルにしたという話だとか。
ついでに長野県の塩尻には玄蕃之丞狐(玄蕃寮だから玄蕃允では?)という狐の伝承があるそうだけど、それも諏訪明神のお使いだろうか。
0611人間七七四年
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2022/10/01(土) 21:26:17.40ID:3FqdchRh
「笹子落草紙」から武田信茂の最期

武田信長の嫡流である真里谷の武田氏は、武田信隆の代になると上総国中が乱れた。
ある日、堀内・国吉と申す新参の近臣たちが信隆に
「笹子城主で御一族の信茂殿が、君の伯叔である信秋・義信親子と謀って謀反を起こそうとしております」と告げた。
その讒言を信じた信隆は、信茂配下の後藤・鶴見に信茂を討つように命じた。
鶴見は城の自邸に兵を隠し置き、夜半になるのを待った。
何も知らない信茂は酒宴を催していたが、夜中に少しまどろんだところ悪夢を見た。
かっぱと起きた信茂が御台所に
「おかしな夢を見た。腰の刀が二つに折れ、白い鳩が一つがい枕の上に飛び乗って、髻の髪を抜いて西東に去っていったのだ。」
と夢の内容を言うと御台所は
「刀が二つになるのは干将・莫耶という雌雄剣もあることですし瑞相でしょう。
白い鳩は弓矢の守護神である石清水の化身で、あなた様を西や東の大将にするというこれまた瑞相でしょう。安心なされませ」と言った。
思えばこれが最後の言の葉のやりとりであった。
信茂が寝所に戻り、またまどろむと三十余の兵が鬨の声を上げて取り囲んだ。
信茂が「どうしたことだ?」というと
兵たちは「後藤・鶴見の兵でござる。謀叛のことは聞いております。介錯いたすから切腹なされよ」と口々にいった。
信茂は「前後不覚の者どもに釈明したところで無意味である」
と九尺五寸の刀をするりと抜き、腹を十文字に掻き切り、五臓をつかみ出して周囲の壁へ投げつけ
「当国の滅亡」と最後の言葉を発し、俯き伏した。
兵どもは謀反人といえど主君の一族ということでみな涙を流した。
さて「逆心なき人を害すれば怨敵となって害を加える」と仏の言葉にもあるように、それからまもなく信隆は死んだ。
0612人間七七四年
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2022/10/02(日) 00:41:09.77ID:BWfrvsk8
>>611
>九尺五寸の刀をするりと抜き
するりと抜けるもんなのか?
0613人間七七四年
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2022/10/02(日) 12:55:23.87ID:FY5nD3sY
おかしいと思ったら「九寸五分をするりと抜き」だった
0615人間七七四年
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2022/10/02(日) 19:18:16.99ID:j4G0KnUe
『清正記』より
「男道不成者之験」清正公の怖すぎる遺言

清正は侍従に任じられ肥後守になると、その後は方々への書状などには肥後守と認めた
ただ、何か後代まで残るものには主計頭と記した
ましてや遺言には好んで主計頭と署名した
清正が家中に申し渡した七ヶ条
大身小身によらず侍どもが覚悟すべき条々
一 奉公の道は油断してはならない。朝は辰の刻(午前八時前後)に起き、兵法を学び食事をし、弓鉄砲を射って馬に乗りなさい。武士の嗜みよき者には別に加増する
一 気晴らしに出るなら鷹狩り鹿狩り相撲など、このようなもので遊山しなさい
一 衣類は木綿紬にしなさい。衣類に金銀を費やし生計が成り立たぬ者は曲事である。身分相応に武具を揃える者に助成すべきで、軍用なら金銀を与えよ
一 普段、同僚と付き合うときは客一人、亭主一人以外では話をしてはいけない。(振る舞う)食事は黒飯にしなさい。ただし武芸を行うときは大人数でやりなさい
一 軍、礼、法が侍が知っておくべきことだ。いらざることに美麗を好む者は曲事である
一 乱舞は全面的に禁止すること。大小の刀を手に取れば人を斬ろうと思うものだ。しかる上は万事は心の置き所で決まるのだから、武芸のほかの乱舞稽古を行う者は切腹に処せよ
一 学問は情を入れて兵書を読み、(また)忠孝の心がけをもっぱらにすること。詩歌句歌を詠むことは禁止である。心の賑やかしだの風流だの弱きことを言う者はいかにも女のようになるものだ。武士の家に生まれた以上、大小の刀を手にとって死ぬる道こそ本意である。常々武道を吟味していないと潔い死に方はしにくいものなのだから、よくよく心に(自分は)武士だと刻むことが肝要である
右の条々、昼夜あい守り、もし右の条を守りがたいと思う輩があれば暇を与えよ。速やかに吟味を遂げ、男道ならざる者の験(しるし)をつけて追放することに疑いがあってはならない。よってくだんの如し
加藤主計頭清正在判
侍中


男道ならず者の印、いまに続く破門状の回付なのか、はたまた焼き印かなにかなのか
0616人間七七四年
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2022/10/03(月) 19:27:03.40ID:HQYAPPYE
『慶長年中卜斎記』より
関ヶ原前の緊迫した通信事情

(七月十九日申の刻)増田長盛から石田、大谷蜂起の風聞を知らせる書状が家康方に到来。家康は写しを先手に遣わした。また、急ぎ代官衆に命じ、百姓による一里飛脚を宇都宮まで整備した。その後も風説あり、風説は収まるなどと真偽不明の書状が何通も届き、すべて写しを先手に送った
(二十一日)家康が岩槻に渡御してから上方の飛脚と書状が届かなくなった。その子細は織田常真が敵になり、美濃関ヶ原に軍勢を置き書状と飛脚を通さなかった。天を飛ぶよりほか、地上を歩いて届けるのは無理だと取り沙汰された
(二十二日)金森法印のもとに石田から書状が届いたが、金森は書状箱を開けず封をしたまま家康に差し出した。その状の内容は誰も知らない
(二十四日)この頃、上方からの飛脚状は3、4寸(10センチ前後)四方で結った髪の中に入れてやってきたそうだ。編笠の緒により混んで来たものもあったという。この二人が誰の遣わした使者だったかは忘れた
(八月十日、江戸)家康はご機嫌がよく、料理の間に午の刻にお出になり、「俺が料理をする。鶴を料理しろ」とおっしゃったので鍋を掛け火を起こした。御前には本多忠勝、某(卜斎)、全阿弥の三人がおり、料理は忠勝にご馳走され、家康は囲炉裏の近くにおられた。どこから届いたものか、家康はいかにも細かい字で書かれた書状を目に近づけてご覧になった。そして「去る朔日(ついたち)に伏見城が落城した」と誰にいうでもなくつぶやき、西の方角を向いてはらはらと涙を流された
(二十八日)福島、池田から書状到来。去る二十三日に岐阜城を落として首を進上した。川を渡って陣取りしたので御出馬あれとの内容。家康は「首は芝口に架けろ」と命じた
(九月三日、小田原着陣)永井直勝のもとに小早川秀秋の使者が到来したので報告すると、家康は「せがれ(秀秋=年が若い者をいやしめる蔑称)の言うことは真実ではないから取り合う必要はない」と命じた
0617人間七七四年
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2022/10/05(水) 18:39:34.77ID:4d5Ktkl2
他国の家の事を聞くに、近江国佐々木殿(六角氏)の家が破れた理由について、
めがた(目賀田貞政カ)と申す重臣は、佐々木殿の御蔭にて、家中の諸侍、歴々の傍輩たちを、
皆めがたの縁類と成して時めいた。その後、おのれの寄子・麾下の争いにて、寄子の理であっても、
主人の時の権勢に任せ、主君である佐々木殿の意向も聞かなかった。
そしてめがたの居城は佐々木殿と別々と成り、家中は分裂した。

この様子を見て、浅井備前(長政)という者が、佐々木殿を押し破った。この備前は若年の頃
やうさる(幼名である猿夜叉丸の事か)と申した童であった。本来京極殿の侍であったのだが、
やうさるの父の代より、京極を捨てて佐々木殿に降参して被官となり、佐々木殿社参の時は
この浅井やうさるに太刀を持たせるほど心安く使っていた。しかし佐々木家が乱れる時勢を見て、
佐々木の知行を乗っ取って、今、浅井備前となった。

このように国持大将は、譜代の大身があまりに時めく事を押さえて、ただ主君の御為に能く在るよう
しなければならない。こういった事を万事に能く調えた大将は、信玄公にて留めたり。

『甲陽軍鑑』

甲陽軍鑑に見える、武田家における観音寺騒動についての認識  
0618人間七七四年
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2022/10/05(水) 21:09:37.08ID:xyMAVVrP
伊達政宗の生前の言葉を書き残した『命期集』より
政宗お得意のイタズラ兼話術、レジェンド一同もはしゃぐ
まとめにある話ですが、ディテールが抜けているので投稿

(政宗の)あるときの仰せでは、太閤が伏見におられたとき、城のなかに御学問所と名付けた座敷を造り、四隅に数寄屋(茶室)四つを設け、東西の諸大名に茶を振る舞った
亭主は四人で、太閤と家康公、前田利家公と私(政宗)だった
太閤も残る三人も良い葛籠を持ち寄り、自分たちで寝床を敷き、四人は枕を並べて夜もすがら、昔物語をして楽しんだ

さて、四つの数寄屋はくじ引きで決めてそれぞれ四人が受け取り、水屋以下、お勝手料理の間もそれぞれの数寄屋に設けられていたので、四人とも料理なども隠し合い、工夫をこらしていた
(秀吉から)客が誰かはまったく知らされていなかったが、次の日になると(政宗の客は)佐竹義宣、浅野長政、加藤清正、上杉景勝であるとにわかに告げられ、仲の悪い衆ばかり客に仰せ付けられた
なんとか変わった趣向を行おうと思ったものの、にわかのことでなかなかできなかった
季節が若菜の芽摘みの時期だったので若菜汁ばかりつくり、できうる限り沸かし返し沸かし返し、熱くして出した
そのため、しばらく置いても冷めずに(佐竹らが)迷惑していたところ、早々と替えの汁を出してなかなか一口も飲めなかった上に、また先のごとく汁を替えて出した
まもなく酒を出し、始めから終わりまで迷惑した

振る舞いも終わって御学問所に四人は寄り集まり、その日の亭主としての接待ぶりを順番に語り合った
私(政宗)が「今日の客は一段の日頃からの知音(親友)だったのでどのような馳走をしようかと思ったのですが、うまくいきませんでした。(寒い冬の時期が)旬だったので若菜の汁をできるだけ熱くしてお出ししたのですが、飲んで一口目で怪我をしたのでしょうか、しばらく箸を唇にくわえたまま舌打ち(現代でいう舌打ちと、舌鼓を打つのダブルミーニング)をしてございました」と話した
太閤は「さてもさてもしてやったり、してやったり。一日の亭主だがこれは古参(のようなもてなし)である」と二度も三度も躍り上がり、腹を抱えて笑ったので、伺候の人々は座敷にいかね、腹を抱えてともに大笑いした
その末に次の日の客選びの相談をした
このように太閤が遊びをされたこと、天下の諸大名を組み合わせたことは、仲違いした者同士の仲直りをさせようという奥意があったと後に知ったと(政宗は)仰せられた
0619人間七七四年
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2022/10/08(土) 19:06:37.52ID:10zWzOY3
尾州織田信長は日本において、上杉管領入道輝虎(謙信)に次ぐのは織田右大臣信長であると言われ、
武田信玄公が他界ましまして後は、この両大将を弓矢の花の本のように申した。中でも信長は、
六年以来都の異見であるので、武辺の強みである場数は、輝虎と言えども結局は信長に先を譲る、
と評価する者が多い。

しかしそんな信長に対しても、下郎たちはこのような歌を作り歌い申した

『一に憂き事金ケ崎、二には憂き事志賀の陣、三に野田福島の退き口』

『甲陽軍鑑』

甲陽軍鑑が書かれた段階で、金ケ崎、志賀の陣、野田福島の戦いが信長の三大苦戦と考えられていたらしい、
というお話。
0620人間七七四年
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2022/10/11(火) 21:00:09.80ID:LIz3lhCB
天文七年正月元日に、武田信虎公は子息晴信公に盃を遣わされず、次男次郎殿(信繁)へ御杯を
遣わされた。

そのような事があって正月二十日には、板垣信方を以て信虎公より嫡子・晴信公へ仰せ遣わされた。
その内容は、太郎殿(晴信)は駿河の(今川)義元の肝入を以て、信濃守・大膳大夫晴信と名乗られた事で、
この上は義元に付き添い、万事異見を受け、心の至る者の機、作法をも学ぶように、との事であった。
晴信公はその返事に「ともかくも信虎公の御意次第」と仰せになった。

すると重ねて、飯富兵部ら二名を使いとして信虎公は仰せになった
「当三月より晴信は駿河へ行き、一両年も駿府においてよろず学問をするように。」
この事、ゆくゆくは次郎殿を惣領にするため、嫡子太郎殿を長く甲府へ返さないようにする、との
意図の模様であった。

これは晴信公十八歳の時の事である。

『甲陽軍鑑』

信玄廃嫡の危機についてのお話。
0621人間七七四年
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2022/10/11(火) 22:09:11.88ID:qTLjFlHc
『村越道伴物語留書』より
夏の陣を控えた権現様の癇癪

慶長二十年四月六日、家康は駿府を立った
(徳川義直の婚儀で)尾張を訪ねたついでに上洛(して大坂方を討伐)する企てだった
そのころ、去年今年と両度の出陣で旗本は困窮していたので、「少しは金銀でも下さるだろうか」と各々が愚痴を言っていたところ、本多正純が内々に耳にし、「もっともなことだ。おあちゃの局様が御前でよろしく沙汰されるべきだ。そのときに我らも言上に及ぼう」と内談した
あるとき家康が御咄の間に出てきて老中を召し、いろいろ話をした
あちゃは「笹ちまきの風味がよくございます」と三方に載せて御前へ差し出し、「去年の御出陣も首尾よく終わり、誠にめでたきことにございます。御婚儀も万端奉祝も終わり、諸侍に何か拝領されてはいかがでしょうか」
すると家康はにわかに機嫌を損ね、「言いたいことは分かるが、いまさら金銀を与えれば敵に恐怖したのかと万民が口にするだろう。金銀を与えなかったからといって逼迫して供もできない輩は好きにすればよい。わし一人でも上洛するわ。長篠のときも味方の軍勢を頼らず信長の軍勢を先に立てて勝利を遂げた。あるいは小田原攻めも粉骨砕身し、関ヶ原のときだって人の力を頼らず計策を以って勝利したのじゃ」
これらの話を引いてもっての他に激怒した
あちゃは言葉なく、「めでたしめでたし」とばかり口に出して退出した
「勿論本多上野介其外の面面、言語を発っせざるなり」

あちゃも旗本も見捨てる釣り天井の悪い話
0622人間七七四年
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2022/10/12(水) 21:25:04.54ID:pUCJxExe
同年(天文七年)の三月九日に、武田信虎は駿河を訪問された。
嫡子・晴信について、駿河より一報があり次第来るようにと、晴信公は甘利備前の所に預けられ、
次郎殿(信繁)は御館の御留に置かれた。

信虎公が駿河に行かれるということで、晴信の衆は内々に支度をした。そうした中、板垣信方、飯富兵部(虎昌)
両人を、晴信公は御頼りになった。

信虎公が甲府を出立されて九日目、三月十七日に逆心が行われた。
この事については既に駿河の今川義元と内通されていたために、少しも手間取ることはなかった。
信虎公の御供の侍衆も皆、その妻子を人質に取られていたので。彼らは信虎公を捨てて皆甲州に帰った。

『甲陽軍鑑』

武田信虎追放について。
0623人間七七四年
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2022/10/24(月) 20:06:31.59ID:gtM3Sfj3
その頃(本能寺の変の頃)、織田三七(信孝)殿、同七兵衛(津田信澄)殿、丹羽五郎左衛門(長秀)殿、
この三人は大阪に在った。織田七兵衛殿は明智殿の聟であった。

信長公は中国の毛利の様子について羽柴筑前守(秀吉)所に遣わされた堀久太郎(秀政)殿が、備中高松より
敵陣の様子を見および罷り上がり次第、中国へ御馬を出すべしと思し召されていた。
右の三人は大阪より四国へ出船いたすべき者達であった。
ただし一旦出船を見合わせ、状況次第とすると仰せに成っていたのであるが、そのような中で日向守の謀反が
あったので、四国への渡海は中止と成った。

羽柴筑前守殿の所より、丹羽五郎左衛門殿へ密かに遣いが送られたという。その内容は

『織田七兵衛殿は日向守と、奥意は一味同心であると考えている。三七殿と話し合い、七兵衛殿を
討ち果たすべきである。』

との事であった。五郎左衛門殿も内々は筑前守の分別と同意であったため、七兵衛殿の御座所であった
大阪城本丸の外、千貫矢倉へ押し寄せ、鉄砲ずくめで攻撃し、即座に表裏無く討ち果たしたという。

このようであったからこそ、明智の叛乱は収まったのである。

(川角太閤記)

丹羽長秀たちが津田信澄を滅ぼしたのも、秀吉の示唆があったのか
0624人間七七四年
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2022/10/24(月) 20:29:02.69ID:HhGvH5g8
6/2に本能寺の変
6/5に津田信澄が殺される
京都→備中高松城の秀吉→大阪の丹羽長秀
400kmくらいを3日で踏破?
0625人間七七四年
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2022/10/25(火) 21:20:54.82ID:M68BXVm8
天文十八年五月朔日に、武田晴信公と長尾景虎が、信州海野平にて五日間の対陣があり、
六日に景虎より使いを晴信公へ使わされた。その内容は

『私が信州に来たのは、自分の欲を以てではない。村上義清を本地へ返したい、との義である。
これについて御同心無いのであれば、私と有無の一戦をしよう。勝利は互いにその手柄次第である。』

そう申し越したが、晴信公はその御返事に

『その方が村上義清に頼まれ、本地へ村上を返したいがための信州へ出陣、ひとしお心馳せ優しいものだと
この晴信もそう思う、私も人も牢籠致す可能性はある。これは昔から今に至るまで有る習いである。
景虎の心ざしは尤もであるが、その村上の本意については、この晴信が生きている間は成るまじき事である。

であれば、有無の合戦とある事も最もに思えるが、晴信は村上を本地へ返さないことを、我らの働きとしている。
であるので、合戦と思われているのであれば、その方より一戦を始められよ。

もし又、日本国中において誰であっても、我が本国・甲州の内に手勢を入れられた場合は、そこにおいて
晴信は攻めかかって、有無の一戦をするであろう。』

この御返事を六日に景虎は聞き、七日、八日まで八千の人数にて出て、備を立てて一戦を待つ様子を仕り、
そして又、十日の朝に使いを出した。その内容は

『御一戦は成らないように見える。そのため、私は越中か能登の国を心がける。』

と、その日の午の刻に景虎は早々に退散した。

この様子を聞き、木曽衆、小笠原衆、或いは笛吹峠(小田井原の戦い)にて武田に負けたる人々は
「晴信は越後の景虎に会ってはへりまくれ(手出しできないということか)である」などと。面々の手では
叶わなかったことを、人を引きかけて、晴信公を罵った。
彼らは良き大将の奥意を知らず、己を以て人と比較し、餓鬼偏執は武辺不案内の故、この如くである。

『甲陽軍鑑』

天文十八年にあったとされる、海野平対陣についてのお話。
0626人間七七四年
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2022/11/01(火) 11:20:20.48ID:wB7vPYTo
永禄五年六月吉日に、武田太郎義信公は、信玄公より飯富兵部殿、跡部大炊助、長坂長閑の三人を
御使として、『四郎勝頼を諏訪頼重の跡目と号し、信州伊那の郡代になされ、高遠に置きたい。』
と伝えられた。これに義信公も「尤も」と仰せになり、四郎勝頼は高遠城代と成った。

この時、勝頼公に付けられた衆は、跡部右衛門、向山出雲、小田桐孫右衛門、安部五郎左衛門、
竹内與五左衛門、小原下総、弟丹後、秋山紀伊守の八人であった。

しかし、この八人が勝頼公に付けられた事と、川中島合戦の様子、この二ヶ条を以て、
信玄公と義信御父子の仲は悪しくなったのである。

『甲陽軍鑑』

武田義信は勝頼が諏訪家を継承することは認めたものの、その時付けられた家臣団の人選が気に入らなかったらしい。
0628人間七七四年
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2022/11/02(水) 14:11:51.69ID:JftvD/JF
一応座席ありの定員制だから、そこまで群衆押し寄せはしないんじゃないかと勝手に思うけど・・
噂に聞いてたもののキムタクすげーな
当初は申し込み人数と倍率だけ聞いてたから、そこそこ集客がある刀剣乱舞や戦国ファンにしても、桁が違うんで何が人気なのかわからなかった


岐阜新聞2022年10月31日

キムタク出演・信長まつり、ソウル雑踏事故受け警戒 岐阜市長「来場者も協力を」
https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/152589
ソウルの繁華街で起きた雑踏事故を受け、柴橋正直岐阜市長は30日、俳優の木村拓哉さんらが出演し、
市中心部に大勢の来場者が見込まれる11月6日の「ぎふ信長まつり」の信長公騎馬武者行列について、
「県警と安全第一で準備を進めてきた。万全を期してあと1週間、入念に準備に取り組む」と述べ、実施する考えを示した。

柴橋市長はまつりを主催する実行委員会の名誉会長を務める。岐阜市内で本紙の取材に「安全を一番に考えている。
参加者の協力も必要。しっかり取り組みたい」と語り、事故防止に万全を期すことを強調した。

騎馬武者行列は96万6555人の観覧申し込みがあり、募集定員(1万5千人程度)の64・4倍に達するなど
関心を集めている。市はJR岐阜駅周辺で人々が折り重なって倒れる事故などを防ぐため、歩行者デッキの階段を
一時的に下り専用にしたり、帰りの客を駅の構内に順番に誘導したりする対策を県警などと確認している。
0629人間七七四年
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2022/11/02(水) 16:24:34.48ID:JftvD/JF
96万は申込数なんで実際はどうなるかですが、ちなみにGACKTが上杉謙信役(過去7回も)で出演した上越市謙信公祭りは、最大24万だったとか
0630人間七七四年
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2022/11/02(水) 18:38:08.64ID:Hwy3qHHU
「笹子落草紙」から鶴見の最期

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13690.html
で書かれているように武田信茂の誅殺のち、真里谷城城主・武田信隆は無実の信茂の恨みのためか死んでしまった。
また監物河内の家中の者に信茂の残念が入り込み無実を訴えたが、とりわけ下手人である後藤・鶴見への恨みを述べたため、国中の人は二人を憎んだ。
後藤は高名な弓取りであり、また上総武田家に連なる家であったため、監物とはかって三男の亀若丸を真里谷城主にしようとした。
鶴見は後藤の義弟であったが、これを聞くや後藤に「国の混乱の元であるから欲を捨てよ」と必死に説得した。
しかし後藤は「当国にて我に弓を引くものなどいようか」と嘲笑って聞こうとしなかった。
そこで鶴見は武田信秋(武田信隆の叔父)・武田義信の父子に臣従を誓ったところ、承諾の返事が届いた。
そのため鶴見は後藤方の監物の屋敷に押し寄せ、焼き払った。
これを知った後藤は上総武田の分家の小田喜朝信に対して
「鶴見は代々恩を受けていながら、天道をはばからず御当家に対して弓を引く不届きものです。急ぎお退治あるべきです」と逆さまに申し立てた。
小田喜朝信は後藤の婿であったため、頭から後藤を信用してしまい、相模の北条氏康に援軍を申し込んだ。
こうして北条九郎氏胤?一万余騎、千葉介三千余騎が笹子城に攻め込んできた。
(笹子城は武田信茂の死後は鶴見内匠が城主となっていた)
0631人間七七四年
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2022/11/02(水) 18:41:28.92ID:Hwy3qHHU
鶴見はあらかじめ予想していたため少しも騒がす、赤銅造りの太刀を佩き、城表の櫓にのぼり、敵陣に対して言うには
「さても、鶴見は小身ではあるものの、名を後世に残すうれしさよ。
北条・千葉両大将を申し受け、潔く討ち死にすること、これ以上の悦びがあろうか。
しかし不忠の者の偽りごとを信用し忠臣を討つという小田喜朝信の行く末が見られないことだけが残念である。」
それを聞いた後藤兵庫は「はやく攻め殺せ」と命じ、四方から鬨を挙げて敵が攻め込んできた。
鶴見は櫓からさっと飛び降り、三人張りの弓に矢をつがえ、表門に来る敵を次から次へと射立てた。
これを見た朝信は盾を互い違いにさせて攻めてきたが、信仲(鶴見?)が矢を放つと十八枚の重ね盾をばらばらに破り、後藤の鎧の草摺を射貫いた。
これを見た後藤はあわてて「命あっての物種だ」と逃げて行った。
しかし北条軍により土山が掘り返されてあっというまに平地となってしまった。
こうなっては鶴見も敗北を覚悟し、いったん宿に戻って長年契約していた和尚に善知識を問うと
和尚「利剣即ちこれ阿弥陀号、という言葉があります。
敵を無明と思って剣で斬りはらい続け、雑念が入る前に討ち死にするのがよいでしょう。
愚僧も一蓮托生の身ですから、すぐ参ります」
納得した鶴見はまた表に戻ろうとしたが、女房が子供を連れてきて
「敵に無残に討たれるよりは、我々を殿の手で討ってください」と言ってきた。
鶴見は情をふりきり、母に最後の挨拶をしたのち戦に戻った。
雲霞のような敵軍を、薙刀を水車のように振り回し切り伏せていったが、戦半ばで二つに折れてしまった。
鶴見は力も尽き果てたため西方に向かって念仏を唱え、腰の刀を抜いて切腹しようとした。
そこに北条氏康の身内で萩原というものが名を名乗って前に出てきたため、鶴見はからからと笑い
「西方浄土も遠くはなかろう。来迎往生は眼前である。これもなにかの縁だ。はやく首をとれ」
こうして萩原は鶴見の首を討ち落としたが、念仏の声は首が落ちた後にも響いていた。
これを見聞きしたものはみな「弓取りはかくあるべし」と言い、ほめぬものはなかった。
0632人間七七四年
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2022/11/07(月) 14:15:59.44ID:w/hY/uup
岐阜新聞2022年11月7日
キムタク信長「出陣じゃ!」武者行列に最多46万人 信長まつり厳戒態勢、事故なし
https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/155364

俳優の木村拓哉さんと、岐阜市出身の伊藤英明さんが出演した「信長公騎馬武者行列」が6日、
市中心部の金華橋通りで3年ぶりに開催された。木村さんは織田信長役、伊藤さんは信長の
正室・濃姫の侍従福富平太郎貞家役を務め、沿道を埋めた観衆に笑顔で手を振り、一帯は
華やかな雰囲気に包まれた。

※岐阜市人口40万2千人
0633人間七七四年
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2022/11/10(木) 23:08:20.44ID:4PQ/d/mg
大功の足軽大将である原美濃守入道(虎胤)は病死した(永禄七年一月二八日)。
その遺言には、酉の年(永禄四年)に病死した小幡山城入道(虎盛)のように金言があった。
川中島合戦の時に山本勘介入道道鬼も討ち死にした。多田淡路(三八郎)も、去年亥年(永禄六年)極月(十二月)
に病死した。

武田信玄公秘蔵の足軽大将衆は、酉の年より子の年までの四年の間に四人死亡し、皆若死にだったのだが、
その子息どもは、戦場で場を引くような誉れが五度、十度づつもあり、弓矢でも、考えつもりにも功の
入った人々多く、そのために跡が空くような事はなかった。

信玄公の若い頃は、毎年のように大合戦が、年中に二度ほどもあった。しかし今では、三、四年経っても
大合戦など無い。たとえあったとしても、今より末は、御旗本にて合戦が有ることも稀であり、
故に実戦の場数も踏むことが出来ない。

昔の、度々合戦が有る中での十度の誉れよりも、現在は一度の誉れを顕す方が少ないほどだ。
しかしだからといって各々は、武士の一道を全く疎略にすべきではない。

『甲陽軍鑑』
0634人間七七四年
垢版 |
2022/11/12(土) 16:56:54.12ID:aUnd85+V
名古屋からクレームが入った模様


キムタク信長見たさに46万人が岐阜に…でも美濃といえば斎藤道三じゃないの?素朴な疑問をぶつけてみた
東京新聞2022年11月8日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/212582
俳優の木村拓哉さん(49)が出演し、46万人が集まった「ぎふ信長まつり」。あらためてキムタク人気を内外に示した形だ。
だが、「ちょ待てよ」。岐阜といえば織田信長よりあの男、斎藤道三の地ではないのか。ゆかりの人たちに聞いてみると…。

※東京新聞=中日新聞東京支社です
0636人間七七四年
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2022/11/13(日) 09:44:17.19ID:Oc4r4gLe
永禄八年正月、飯富兵部少輔(虎昌)が武田信玄公によって御成敗なされたその仔細は、以下の様なものであった。

一、信玄公の若き時分より、兵部を呼ばれることがあっても、彼は御返事をすぐに申し上げなかった。

一、弓矢の儀においても、信玄公も退去するように諸傍輩のいる中で申した。
  勿論彼は老功の家老なのだから、諌め申し上げたことを御承知されないという事は無いのだが、
  諸人の面前において家老共がそのような態度なら、諸軍が信玄を軽んずると思し召され、
  以降、良き事であっても飯富兵部が申し上げたことは取り上げられなくなった。

一、大将たる者は大敵、強敵、弱敵、破敵、随敵という五つの敵に、それぞれの対応が有るのだが、
  越後の上杉謙信は強敵でしかも破敵であり、信玄公は種々の武略、工夫をされて勝利を得ようとの
  分別を、信玄が弱いかのように申されたが、それは元々、飯富兵部一人の口から出た事であった。

一、越後の謙信に対し、信玄公の武略の分別が良かったからこそ、五年前の九月十日の川中島合戦に
  おいて(永禄四年の第四次川中島合戦)謙信は遅れを取り、十月には越後との境である
  長沼まで備えを出し、一日逗留し草創に引き上げた。その後謙信は五年ほど信濃に出て来なかったが、
  信玄公の味方は四年以降は境目を越えて、越後国内で焼き働きを仕った。
  これは高坂弾正一人の覚悟にて働いたのだが、信玄公の御力を借りずにそのような事が出来たのは、
  信玄公の弓矢が輝虎より弱くては不可能なことであった。

一、義信公が若気故に、恨みのない信玄公に対して逆心を企てさせた談合相手の棟梁に飯富兵部は成った。

この五ヶ条の御書立を以て飯富兵部は御成敗と成った。

『甲陽軍鑑』

飯富虎昌粛清について
0637人間七七四年
垢版 |
2022/11/16(水) 16:18:57.94ID:ihlR/lew
著者の小川盛弘氏は、日本で刀剣界大御所に師事した後に渡米して、ボストンやメトロポリタンでキュレーターを務めた方で、
2009年のサムライ展は過去例を見ない規模と質で、日本国内でも大層評判でしたね(もちろん依頼を受け日本からの協力もありました)

好きな人はマジで買うべきと思いますが、まあ適正な値段ではありますよ、こういうのとしてはねw

https://mobile.twitter.com/nhkpb_meito
NHK出版『名刀甲冑武具大鑑』予約受付中!@nhkpb_meito
「サムライアート」の真髄が一同に会する!『名刀甲冑武具大鑑』がNHK出版より発売になります! こちらは公式アカウントです。

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定価:66,000 円(本体60,000 円+税)
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0638人間七七四年
垢版 |
2022/11/16(水) 23:16:25.42ID:h+gKGqTL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13720.html
の「笹子落草紙」の続編と思われる「中尾落草紙」から後藤一族の最期

後藤兵庫助(後藤信安)は首尾よく鶴見内匠(鶴見信仲?)を殺し安堵していた。
いっぽう武田信秋は「鶴見は我を頼ったにもかかわらず、むざむざ討たせてしまった。
かくなるうえは後藤を退治し、鶴見の恨みをすすごう」
と里見義堯に申し出たところ、里見義堯は両正木(正木時茂・正木時忠兄弟)に仰せつけ、天文十三年(1544年)四月、一千余騎をひきつれ後藤の中尾城に押し寄せた。
折節、城には北条殿身内の足軽大将・福室帯刀左衛門七十三騎が籠っていた。
後藤は福室とともに櫓に登り、敵勢を知ろうと周囲を見渡したところ、
武田信秋(大学助):二百余騎、武田義信(大炊頭、信秋の息子):三百余騎、正木時茂(大膳)・正木時昌(将監)・正木時忠(十郎):七百余騎がそれぞれ陣取っていた。
福室は「合わせても千四百五百には過ぎぬだろう。
堀を越えてようとするときは弓矢で、木手までくるようであれば石弓で四方の堀に落とせばよい。
明日になれば嵐に遭った竜田川の紅葉のごとく散り散りに引くであろう。」と言った。
後藤は喜んで敵の陣中に「北条の方々、このわずかな堀など早く越えて攻めてこられよ。相手になろうぞ」と語り、櫓の板を叩いて愚弄した。
大将の里見義堯は北条鹿毛という駿足の馬に乗り陣を駆け巡り
「ものども、一枚板の盾を木戸に突き倒し、わき目も振らず攻め上れ。壁まで登ったならばそのまま盾を討ち捨てて攻め込め」
と下知すると、堀を渡った兵どもはわれもわれもと木戸に駆け上った。
後藤方も木戸から筒木を落としたが相手方の兵には当たらず、内側まで攻め込まれた。
覚悟を決めた後藤と福室は、ともに城内に戻って最後の戦をし、ひとところで死のうと誓った。
そのうち敵は四方から攻めてきたため、後藤の味方の兵はあるいは討ち死に、あるいは捕らえられだんだん薄くなっていった。
福室は、かつて父親が三浦の城を攻めた時に殿より拝領したという小薙刀を縦横無尽にふりまわし、力が尽きたのちは九寸五分をするりと抜き、腹を十文字に掻き切って、声高に題目を十遍ほど唱えて突っ伏した。
後藤も「福室と同じところで」と思ったものの「いや命あってこそ再起も図れようというもの」と女の衣を髪にかけ、堀を越えて抜け出そうとした。
それを見とがめた正木時忠は「怪しい者だ、とらえよ」と郎党に引き立てさせた。
後藤はつくり声で「後藤の身内のおふでと申す媼(おうな)でございます。助けたまえ」
と言ったが時忠は「おうでもこうでもつらをみせよ」と衣をはねのけてみると後藤であった。
時忠が「兵庫よ、わしが貴殿を見逃したとしてもおっつけほかのものが捕らえるだろう。
いっそ自らの手で菩提を問おうと思うが」と言うと、
後藤は「情けある人の言葉です。わたくしも城内で腹を切ろうと思いましたが、再起を図ろうとおもったために面目のないこととなりました。
平宗盛が源義経に捕らえられ鎌倉へ連行される途中、警固の武士があざけると宗盛は
「虎が深山にある時は百獣はこれを恐れるが、虎が穴に落ちるとその尾を引っ張って喰らおうとする」
と言ったそうです。その思いが今さらながらに知れました。
わたくしには五人の子供がいますが、一人でもあなたの軍勢により生け捕りにできるようであれば、どうかその子を僧にしてわたくしの菩提を弔わせてください」
と言うや、西を向かって手を合わせて念仏を唱えだした。
こうして後藤兵庫助信安は四十五の花盛りにして散り落ちた。
0639人間七七四年
垢版 |
2022/11/16(水) 23:18:39.10ID:h+gKGqTL
一方、後藤の末っ子の駒若丸であるが、乳母に抱かれて落ち延びるところ、「夏の虫」ではないが敵方の鶴見五郎(後藤に殺された鶴見信仲?の息子)の前に出てきてしまった。
乳母が「父は敵でしょうが、この子の母親はあなたの伯母、どうか命をお助けください」
と涙を流して言うと、五郎もともに涙を流した。
そこで武田信秋に助命嘆願したが「後藤の末裔はすべて滅ぼせ」とのことであり
五郎は「駒若よ、助けたいとは思うものの、ままならぬ世の習いである。覚悟を決めよ」と言うと
駒若丸も涙を流しながらも「南無阿・・・」と唱えたところで一閃。散った。
乳母は駒若丸の死骸に抱きつき「われもともに送ってください」と打ち嘆いたが、みな哀れとは思うものの希望をかなえるものはなかった。
こうして後藤方の首実検をしているところへ、北の方から黒雲が飛び来て陣の上を覆った。
その中から鶴見・後藤により殺された武田信茂の魂が歎恨鬼という鬼となり
「主に不忠のやつばらがこのようになり、今は心安いわ」と天地に響くばかりに叫び
笹子城・中尾城の両城に雷光を放ち、また北に向かって去っていった。
そののち主君に害をなした鶴見・後藤の両城を訪れるものはなく、草が茫々とおいしげっている。
0640人間七七四年
垢版 |
2022/11/16(水) 23:39:32.43ID:h+gKGqTL
義堯については、本文中には「里見」とは書かれず、あたかも「北条」であるように書かれていている。
また正木将監時昌(ときまさ)については不明。「図説 戦国里見氏」によれば正木時茂と正木時忠の間の兄弟は正木時義(大炊頭)。
ついでに正木時茂は前に出ていた後藤の婿である小田喜朝信(真里谷朝信)を天文十三年八月に討っている。
また「図説 戦国里見氏」によれば、北条・里見は武田信秋(全方)を支援していたが、信秋が亡くなったのちの天文十四年ごろ里見義堯が信秋の佐貫城を奪取。
不満に思った信秋の息子・武田義信は、天文十四年九月、北条・今川間の抗争時に里見が北条に援軍を出そうとしたおりに里見について北条に讒言。
天文十五年九月には北条氏と武田義信が佐貫城を大軍で包囲、というように情勢が目まぐるしく変わっている。
そんなこんなで紹介した両草紙がどこまで史実に沿っているかは不明。
0641人間七七四年
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2022/11/17(木) 09:22:20.07ID:EiBg5Aqx
https://pbs.twimg.com/media/Fhqa0wnUYAAOZ3_?format=jpg
https://twitter.com/tanomin/status/1592810284598853633
Kaori Ueno
@tanomin
本日の読売新聞から
筑後版なのでこういった形で紹介させてください
非常に無念ですが
今我々に出来る最善の方法と判断し
移管を決断しました
(公財)立花家史料館での展示は工夫しながら続けてゆきます

6:22 PM ・ Nov 16, 2022


九州柳川立花家史料館館長さんのツイート
収蔵庫の老朽化で今後が危ういというのは残念です

画像記事中でも先年のクラウドファンディングに触れられていますが
設備の更新は運営費とはまた違って大きいですしね・・・・


【柳川・立花家史料館への支援について】
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12790.html
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0642人間七七四年
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2022/11/21(月) 22:56:41.53ID:kbOd9V3r
戌の年(天正十四年)は天下の御普請があり、国々の大小名が洛中に満ち満ちて伺候した。
その時までに九州は(秀吉に)属しておらず、そのため毛利(輝元)殿を豊前へ渡海するよう
仰せ付けられ、御横目として黒田官兵衛。豊後へは千石越前(秀久)、長宗我部父子が派遣された。

(中略)

右の陣所より四里隔たった宇留津という城があったが、ただしこれも高橋(元種)に従っていた。
この城主は”かく”と申し、都合三千計りで立て籠もっていた。

この”かく”は野郎大将であり、その国の所々の案内をよく存じていた。そして毛利陣のはしばしへ、
毎夜夜討、強盗を隙き無く仕った故に、以ての外に陣中も騒然と成った。

この時、黒田官兵衛殿の分別には
「薩摩よりこの地の悪党ばらが、この城に立て籠もっていると聞いた。これを残らず
討ち果たせば、近国の野郎の種を断つことが出来る。」
そのように主張し、討ち果たすことに議定した。

十一月六日、毛利殿臣下の吉川、小早川、宍戸、この三人に官兵衛殿同道して小舟に乗り、
城廻りを押し回って視察した。この城は海より十間十二、三町も隔たっており、よくよく
見聞に及んでその日の内に各陣屋へ帰り、談合の次第に、その日の夜半の頃より人数を繰り出し、
明日七日の五ツ時分(午前八時頃)、この城を取り巻いた。

大手口は黒田官兵衛の寄せ口であったが、即時に大手より攻め破った。
毛利陣の者たちはこれを見て攻め掛かり、その日の七ツさがり(午後四時過ぎ頃)には、
一人も残らず撫で斬りにして討ち果たし、頸数二千あまりであった。

その頃の首実検は天下様より派遣した横目付が担当するものであったので、官兵衛殿が
これを行うようにとの挨拶があった。しかし官兵衛殿からは「ただ毛利殿が御実検されるように」と
互いに相手に対しての挨拶が果てなく続いた。
結局、毛利殿より官兵衛殿へたっての御断りがあり、これらの頸は黒田官兵衛殿が御実検された。

また、彼らの妻子どもも翌日八日に、千ばかりも浜の方で磔にされた。

(川角太閤記)

秀吉の九州征伐の序盤、豊前方面の様子。
0643人間七七四年
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2022/11/23(水) 17:45:02.57ID:FQfy/CRW
「豊筑乱記」から戸次川の戦いについて
太閤秀吉公は島津に再三上京を命じたにもかかわらず島津は聞き入れなかった。
そこで天正十四年(1586年)九月十二日、秀吉公は仙石権兵衛尉元親(ママ)と長曾我部土佐守信親を上使として豊後に下しなされた。
大友義統公を通じて島津に上意を通じられたが、島津は見向きもしなかったため、仙石・長曾我部とも島津を慮外者とののしった。
島津は大友家の武将を次々と調略し、豊後に攻め入り、戸次城も陥落間近となった。
大友義統公はこれを聞き、加勢の人数を送り出そうと思ったものの、もう代を重ねた家臣も信用できないため見過ごそうとされた。
いっぽう仙石・長曾我部は島津の逆意について知らせる遣いを秀吉公に送り出し下知を待つ間ではあったが、戸次城が危ないと聞き六千騎で向かった。
十二月十二日早朝に戸次川を渡り、一挙に島津陣所に攻め入ろうと評定した。
これを察知した島津家久は一万八千騎の軍勢に「上使両人とともに討ち死にする気構えで戦え」と下知した。
こうして十二月十二日の曙に両軍鬨の声を挙げ、矢合わせをしたのち合戦を開始したが、どうしたことか島津方の伊集院軍が上使の軍勢に攻めかかられ引いた。
上使の軍が我先にと逃げる伊集院軍を追い討ちしているところに、二番備えの新納大膳正が三千騎で高所から仙石・長曾我部本陣に攻め入り、
大将島津家久と三番備えの本庄主税軍も一軍となって上使軍に攻め込んだ。
こうしてたった一時の合戦で敵味方三千騎が討ち死にし、長曾我部信親は血気さかんな大将であったため、あまりに深入りしすぎて、数カ所に深手を負い討ち死にした。
上使軍は多勢に無勢、あまりに多く討たれてしまい、仙石元親も勇猛な大将であったがわずか五、六騎を連れ戸次川を渡って豊後の府内めざして引いた。

仙石秀久と長曾我部元親が混同されちゃったようだ
0644人間七七四年
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2022/11/26(土) 09:56:40.14ID:g5uzaKWU
天正十八年七月十二日、(小田原征伐の結果北条氏は降伏し)北条氏政は切腹、氏直は高野山へ入ると
していたが、大阪で疱瘡に罹り果てた。氏政の頸は京都へ送られ、堀川通戻橋に掛けられた。
小田原城の請取手は黒田官兵衛であった。

それより奥州へ移動する途中、秀吉公は鎌倉を御見物に成った。
若宮八幡へお立ち寄りに成った時、社人が御戸を開くと、左に源頼朝の木造があったのを御覧になり、
御言葉をかけられた

「頼朝は天下友達である。その待遇は私と同等にすべきだが、この秀吉は関白であるから、貴所よりは
位が上であるのだから、待遇は私より下げる。

頼朝は天下を取る筋の人であったのを、平清盛がうつけを尽くして伊豆へ流し置き、年月が経つ内に、
東国では父親である義朝の温情を蒙った侍共が昔を思い、貴所うぃ取り立てたのだと聞いている。
あなたは氏・系図に於いては多田の満仲の末葉であり、残る所のない(完璧な)系図である。

一方この秀吉は、恥ずかしくは思っていないが、昨今まで草刈りの童であり、或る時は草履取りなどをしていた。
故に系図も持っていないが、秀吉は心にとどまらず、目口優れていた故か、このように成った。
御身は天下取りの筋であり、目口が優れている故とは存じない。つまり、生まれ付き果報が有った故
天下を取れたのだ。」

などと御洒落事を仰せに成ったと承っている。

(川角太閤記)

有名な秀吉の「天下友達」のお話
0645人間七七四年
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2022/11/26(土) 15:07:44.73ID:x8ETrO4W
>>644
>侍共が昔を思い、貴所うぃ取り立てた

ちょっと気になって原典確認しましたが、こうですね?
×貴所うぃ 
〇貴所を
0647人間七七四年
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2022/11/29(火) 19:04:25.09ID:5dlPTUwI
これは要らぬ義ではあるが、蒲生飛弾(氏郷)殿の家は、代々癖があると言い習わされている。
飛弾殿の御父は兵衛允(蒲生賢秀)と申すが、彼は殊の外世間に疎い人物であった。
しかしその親(蒲生定秀)は殊の外利発であった。
この飛騨殿は何事にも武道第一と仕り、世に優れた利発人と聞こえている。

このように、代々(優秀な当主と無能な当主が)替るのだと承っている。

(川角太閤記)
0648人間七七四年
垢版 |
2022/11/29(火) 20:14:34.32ID:sl6A3g/j
鍋島藩もそんなこと言われてたっけ>暗君と名君が一代ごと
0649人間七七四年
垢版 |
2022/11/29(火) 20:33:47.21ID:F6uZeBw5
せめて明暗二人づつ出てから言って欲しいわ
0651人間七七四年
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2022/11/30(水) 20:04:03.92ID:Vlz34xuk
優れてるように見える当主は後継者を見る目がなく
暗愚とされる当主は後継者を見る目があるってこと?
0652人間七七四年
垢版 |
2022/12/04(日) 12:11:43.76ID:GZ91WaCM
金吾中納言(小早川秀秋)は、小早川隆景の養子となったが、隆景が相果てた後、
御行儀悪敷御座候との秀吉公の御意があり、筑前国が召し上げられ、越前に三十万石にて
遣わされた。その後さらに、丹波へ国替えをされた。越前には青木紀伊守(一矩)が入った。

またこの時、金吾殿の重臣であった山口玄蕃(宗永)は引き離され、秀吉公の直臣として
加賀大聖寺城へ遣わした。

(川角太閤記)

秀秋は越前北之庄に減知転封の時点でまだ十六歳と考えると、御行儀悪敷御座候という理由は
ちょっとかわいそうな気も
0653人間七七四年
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2022/12/07(水) 16:45:30.46ID:/LNvPK4p
山形市最上義光歴史館 特設展示/第三部「最上家ゆかりの古文書」
http://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=520014

山形市最上義光歴史館では、先日より最上義光所縁の書状の数々を展示中です。伊達政宗のあの「皆殺しにしましたよ」書状も。
まだ日にちがありますのでぜひご来館ください。入館料は無料なので。

その中でも新公開がこちら。連歌を愛好した義光は里村紹巴一門と親しく付き合っており、里村昌叱(紹巴女婿)が知人に宛てたものです。


14.里村昌叱書状/宗澗宛/年未詳玖(九)月十日

猶々、珍酒・珍味
非大方候、かしこ、

昨日者節日為
御礼義御出本望候、
殊一双 鮎十九
被持候、毎度御
懇情満足不浅候、
令他出不能面談、
御残多候、佳肴故
今朝俄ニ最上殿
申入候て、只今御帰候、
右御酒 佳肴至而
恨入候、大咲、如何
様以筆可
申述候、恐々謹言、

 玖月((九))十日 策庵
        昌(花押)

 宗澗公
   まいる
    □□□(吟意下)


知人より酒樽一双と鮎19尾を頂いたお礼の書状ですが、そこへ招待された義光が全て持ち帰ってしまったという顛末で、
学芸員諸氏のご解釈によりますと、

(最上殿が本当に全部持ち帰ってしまうとは)残念です、(これだから田舎の人は)大笑い(大咲)ですね。

というような、どうも京都人による儀礼的な問いかけに、言葉通り乗ってしまったぶぶ漬けトラップ的な案件だったのではないかとのこと。
京都人こわい。
0655人間七七四年
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2022/12/08(木) 14:18:58.13ID:nCF+it7y
薩摩藩「本藩人物誌」から福永丹波守(福永祐友)の降伏

福永祐友は日向の伊藤義祐の寵臣で、島津との境目の野尻城代であった。
そのため薩摩方は内通の手紙をつくり、わざと佐土原に落とし、伊藤義祐の目に触れさせた。
義祐は手紙を信じ怒ったが、祐友は「逆心の考えはまったくありません」と弁明し、
祐友嫡子を「ちょうど十三になるので元服のお許しをいただきたい」と佐土原に送り、二心のないことを示した。
しかし五、六十日経っても元服の許しが得られず、戻ってきた。
さらに五、六十日佐土原に送ったが、今度も元服の許しは得られなかった。
祐友は恥辱に思い、このような主君では当家の行く末も暗いだろうとついに薩摩方への内応を決意した。
祐友は、天正五年十二月七日(1578年1月14日)までに祐友嫡子を差し出すとひそかに薩摩方に約した。
十二月六日、祐友は伊東からの監視番に
「御酒や肴を差し上げたいが今城内には珍物もございません。明日子供達を城から出して山で狩猟をさせようと思います」
と言って、翌七日に子供達を外に出し、嫡子を薩摩方の小姓と取り替えた。
そして夜になると、薩摩方の巧者三十人ばかりが本丸に忍び入り、侵入経路に城外から見えるように白紙をつけた。
それを目印に続々と都合三百人が忍び入った。
祐友の妻は「極寒のみぎり、ありがたく思います」と一人一人にみずから温かい粥を差し出した。
準備が整ったため祐友は本丸の矢倉に登り、大音声で
「伊東からの監視番の方々、昨日までは伊東方であったが、遺恨により只今より島津殿を奉戴する。
すでに薩摩勢三百人が城に入り、まもなく数千騎が城に押し寄せることになっている。
かくなる上は早々に開城なされよ」
それとともに薩摩勢が天地が振動するほど鬨の声を上げたため、監視番衆は周章狼狽し、何人も討ち死にしながら道具も捨てて逃げていった。
翌八日、忠平公(島津義弘)が御馬廻り二、三十騎を連れて城の近くまでいらっしゃった。
祐友は十文字の旗を見るや郎党どもを後ろに残し、一人で忠平公のそばにより、路傍で平伏した。
こうして忠平公からありがたいお言葉を頂戴した祐友は日向攻略においてその後も大いに働いた。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7638.html
こちらによれば手紙の計略は上原長門守(上原尚近)によるものだったとか
0657人間七七四年
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2022/12/08(木) 16:54:00.58ID:lD7ByqrZ
似たような名前の調教師がいるんだね
0658人間七七四年
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2022/12/08(木) 19:23:37.95ID:n3yFMfag
祐一本人のこと?
ちょうど免許取得して来年から調教師に転身するし
0660人間七七四年
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2022/12/08(木) 22:47:20.42ID:cyuyX5mr
福永家は高知の地主だったらしいよ
その縁で祐一は何度か高知競馬にいって乗ってた
ついでに武のほうの先祖は薩摩の武士やね
親族は明治期には国会議員も務めてるし日本の近代競馬草創期の重要人物
0661人間七七四年
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2022/12/11(日) 00:15:06.60ID:KFaUSJuD
「改正三河後風土記」から森鴎外の短編にもなった「佐橋甚五郎の事」
その頃(「いい話」で紹介した踊りが流行った頃)、松平信康君の近くで召し使っていたものに佐橋甚五郎というものがいた。
いかなる恨みによるものか同役の近臣を討ち果たし、岡崎を逐電して三河の山里に逃れた。
武田勝頼が遠州小山の援兵として十七歳の甘利二郎三郎(甘利信康の息子の甘利信恒だとすると「三郎次郎」)に三百騎を率いさせて遣わした。
甚五郎はこれを聞き「甘利を討ち果たせば帰参もかなうだろう」と思い、つてを頼って甘利に仕えた。
甚五郎は怜悧で笛も上手であったため、甘利は寵愛し、笛を聴きながら甚五郎の膝枕で眠った。
甚五郎は好機だと思い甘利の首を取って浜松に帰参した。
こうして所領を得て御家人になったものの
信康からは「以前同役を討って逐電したものだ」と憎まれ、
神君(家康)も「甘利の寵愛を受けながら寝込みを襲うとは不仁極まりない」とお褒めの言葉もなかった。
こうして甚五郎は心中穏やかではなかったため、再び逐電。
朝鮮に渡り、慶長の末に朝鮮の使節に混じって帰国した。
しかし神君に甚五郎だと見咎められ、一族との文通も禁じられたため朝鮮に帰されたそうだ。

なお「三河後風土記」巻十六「佐橋甚五郎無道之事」では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3686.html
佐橋甚五郎処分
この話と同様、水野勝成の部下として戦功を立てたが阿部正勝に討たれている
(「三河後風土記」では阿部正勝が真向かいから言葉をかけて放し討ちにしたため、甚五郎も刀を抜き打ち合ったが、
両手を落とされたあとに首を切られた、とまとめの話とは微妙に展開が異なる)
0662人間七七四年
垢版 |
2022/12/18(日) 10:10:32.74ID:ZivHAIKe
関ヶ原の後(色々あって)、九州では立花左近(宗茂)殿の御城は肥後守殿(加藤清正)が接収した。

これに出兵していた黒田如水も、この扱いによって事済んだのだが、その夜に入ると同時に、立花に対した陣を
引き払うと薩摩へと取り掛かり、肥後の先、佐賀関という場所に陣を替えた所で、島津殿は居城へと入った。

この事について、如水の分別によって、金吾殿(小早川秀秋)の御国である筑前の仕置を申し付け、
三千石の金吾殿の御蔵米を借り受けたのだが、それは薩摩陣への用意であると言われた。

三千石の兵糧は早くも佐賀関に到着した。案の定、(徳川家康より)薩摩陣と仰せ出された所で、
肥後守は如水へこのように断りを入れた

「薩摩への入り口は肥後国です。如水の御国は後方ですから。先手は私が仕るべきでしょう。」

これに対して如水の返事は
「我々は(薩摩との国境に)既に到着しております。そちらがこちらに着けば、拙者の人数は
いよいよ繰り越しで先に出陣すべきでしょう。」

この返事について肥後守殿の分別は
「御所様(家康)が現状の御分別を変更し、突然扱い(和平)となる可能性もあるのに、如水は
指し争い早くも薩摩に入ろうとしている。これは指示を受ける下の立場の者が事を破るにも似ている。」

そのように考え様子を見ていた所、案の定、島津陣は来年の春と仰せ出になったために、如水も国へ引き取った。

(川角太閤記)
0663人間七七四年
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2022/12/20(火) 18:17:36.88ID:5WV1esoO
「朝野雑載」から近衛応山(近衛信尋)と本阿弥某
近衛応山のところに本阿弥某という刀剣の目利き師が出入りしていた。
ある日、応山のところに仙洞(後水尾天皇、近衛信尋の兄)が御幸された時、本阿弥の幼子を召して猿楽を舞わせた。
翌日、本阿弥が来て「昨日、我が子を御前で舞わせていただきありがとうございます」と謝すと
応山は「汝の子であるが、昨日の舞は普段よりも不出来であった」と答えた。
本阿弥が「あなた様は猿楽をなさらないのになぜ不出来とわかるのです?」と尋ねると
応山「確かにそうだ。ところで汝に頼みたいことがある。
汝に、われにあった刀を一振り作ってもらいたい。」
本阿弥「われらは刀の目利きこそしますが、刀を自分で作ることはできません。」
応山「おやおや汝が刀の目利きが上手なのは自分で作るからだと思っていた。
刀を作らないで目利きをすると言うのなら、われが猿楽を舞わずとも、猿楽のよしあしがわかってもおかしくないだろう」
本阿弥はとうとう閉口したそうだ。

ついでに過去に出ていた「寛永の三筆」の近衛信尹(近衛信尋の養父)と本阿弥光悦の話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10992.html
0664人間七七四年
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2022/12/21(水) 10:44:47.40ID:WROiu9Wo
サッカーの本並さんとは関係ないのだな
0665人間七七四年
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2022/12/21(水) 19:01:33.82ID:o5VOkXtJ
これは要らぬ義ではあるが、書き付けておく。
『信長記(信長公記)』に書かれていないと言うことなのだが、その仔細は、信長記をあらかた作った、
信長殿の家臣であった太田又助(後和泉守・牛一)が、この当時は未だ若かった故に、日帳を付けていなかった
ためだと承っている。

永禄元年午年、但し信長公二十五歳の御時、尾張一国をようやく御方に付けられたが、岐阜や伊勢などで
御競り合いがあり、尾張の内においても時々競り合いがあった。そのような時期の事である。

この時期、朝倉殿は越前より天下を望み、浅井殿は江州小谷より天下を望んだ。
同国観音寺山には佐々木(六角)承禎が、伊勢、岐阜、清須は信長殿、三州、遠州、駿河の辺り、
殊に駿河は(今川)義元、小田原には北条殿、このように方々に大きな勢力が在った。

そのような時節、信長殿は御妹を以て、江州北の郡の浅井備前守(長政)を妹聟に成されたが、
この事は浅井殿の臣下である磯伯耆守(磯野員昌の事と考えられる。なお実際には丹波守)の
分別故であると言われている。

浅井殿の家中では、この伯耆守は一大名であった故、世間にも聞こえる程の者であった。
例えば正月頃、彼が大病を煩い、もはや伯耆守はあい果てたと、東は北条家まで響き渡った。
しかしその頃、彼の大熱気、傷寒は突然持ち直した。
回復した彼は夢の覚えのような心地をしていて、何事も覚えていなかった。
「煩っていたのか?」と彼が申したことで、周りもそれに気がついた。

親、内儀達は「その事についてですが、殊の他の大熱気でありましたが、このようでは(病気のことを)
覚えておられるだろうか、と申すほどの大変な煩いでありました。」と申した所、伯耆守は心静かに分別し

「であれば、私の煩いは東にも響き渡っただろう。」と。信頼できる者たちに、物参りをする体に変装させ、
東の街道筋で情報を収集させた。彼らに「「磯伯耆守が果てたか」という話がどこまで伝わったか、
東は小田原まで聞き届けて罷り帰るように。」と申し付けて遣わした所、
「浅井殿内伯耆守は大病にて果てた。」と申す所もあり、「いやいや、思いもかけず生き延びたという。
その立願に於いては日本の神々に、『親二人が悲しむ故、立願を以て命を乞うたのだ。』」とも
取り沙汰している所もあった。

使いが帰ると、これらを伯耆守はよく聞き届けたという。

(川角太閤記)
0666人間七七四年
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2022/12/21(水) 20:02:33.26ID:6asqkaLX
「朝野雑載」から日比半右衛門と米村市之丞

片桐且元の従士である日比半右衛門は武功ある者であった。
大坂冬の陣の時、大野の属兵・米村市之丞と闘ったが、半右衛門の嫡子・半十郎が横から出てきて、父と入れ替わって米村と斬り合った。
半右衛門は勝負を見物しつつ「討つも討たれるも武士の習い。踏み込んで勝負をいたせ」と言うと
半十郎は父の言葉を力にし、米村の肩先を斬った。
一方、米村も半十郎の左の頭に切りつけ、弱るところを斬り伏せて半十郎の首を取った。
息子を討たれた半右衛門は米村を引っ立てて
「今貴殿を討つのはたやすいが、その方にも父があり、今われが感じているように不憫に思うことだろう。
その方一人を討とうが助けようが戦の流れは変わらぬのだから、早く帰って恩賞に預かられよ」
と矢立を取り出し、半十郎の姓名を書きつけて与えた。
城内に馳せ帰った米村がことの次第を報告すると、秀頼公も感動し米村に黄金十枚を褒賞として与えた。
これを聞いた人々はみな「半右衛門の計らいは勇ありて情け深い」と感嘆した。

私(貝原益軒)が思案するに、半右衛門の計らいは主人の敵を討たず、他人の子を愛して自分の子を愛さないようなものではないか。
このような異常な行いを見て世人が感動すると言うためしがあるとは。
識者の論をまって是非を判断するべきだろうか。
0667人間七七四年
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2022/12/23(金) 22:42:57.48ID:CLLYe5AS
上州は由良国繁の領地での話。
黒川谷と言う地を治めていた松島式部少輔と阿久沢能登守が武田勝頼に裏切ろうとしているという噂を聞きつけた国繁は、老臣との評定の結果、松島淡路守を使者として彼らの真意を聞こうとした。
松島は黒川谷へ向かおうとしたが、前夜の大雨によって渡良瀬川が大増水していた。急いでいた松島は無理やり渡ろうとした。
「大事の使者であるから、時刻をおくらせてはならぬ。つづけ」と共の者に下知し、川に乗り入れた。
松島自身は水練の達人ではあったが、供の者たちにすがられて自由を失い、松島を含めた使者16名全員溺死してしまった。

松島の水死を聞いた国繁は「この上は面倒だから黒川を攻め破れ」と藤生紀伊守と谷右京、金谷因幡守に銘じて千五百人ほどで攻めさせた。
金谷勢は藤生と谷と連絡を取ろうと石原与市右衛門たちを派遣した。
しかし黒川谷側へはせ参じようとした軍勢に見つかってしまい、突破しようとしたが不案内山中で道に迷ってしまい、全員うちとられてしまった。
それを知った金谷は驚き、慎重に連絡を取ろうとした結果、丸一日を費やした。

一方黒川谷側では、和を請おうと松島弥太郎を使者として、藤生の元へ派遣した。
結果的に和議はなったが、そこまでに手間取ってしまったため、不安になった黒川谷勢が金谷の陣まで押し寄せてしまった。
金谷側も「攻め手が敵に寄せられるとは恥辱である」と攻撃をしかけたため、激戦になってしまった。
その最中に和議を成立した知らせが届いたが、それを聞いて自陣まで戻った者や、それを追ってさらに攻めかかる者、逃げ散る者もあり、大混乱となった。
金谷が鐘をうたせてようやく戦が止まったが、結局使者の松島弥太郎を含め二百人ほどが討ち死にした。
最終的に松島、阿久沢の両名が陳謝し、由良の幕下に入った。

ぐだぐだな展開で無駄に死者が増えてしまったお話。新田伝記より
0668人間七七四年
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2022/12/23(金) 22:44:43.49ID:CLLYe5AS
武田信玄が長野業政が亡くなったのを機に上州を攻めた際のこと。
武田軍は一郷山城という牛伏山の東端に築かれた山城を落とそうとした。
数日にわたって偵察したところ、水の手が牛伏山の西側の見銘寺のところからとっていることが分かり、その寺をおさえ、水を汲みにくる城兵を弓、鉄砲で狙撃させた。
城主の安部中務之友は水の手を確保するべく、城兵に見銘寺の崖上から寺へ大石を落とさせて甲州勢諸共お堂を粉砕してしまった。
ところがそれによって寺から火が出てそれが北風にあおられて山の北側一帯が火事になってしまった
城兵は阿鼻叫喚の灼熱地獄に襲われた。
信玄は好機に乗じて総攻撃を命じた。その結果、城兵や女子供は皆、崖上から飛び降りたり、または火の中へ追い落とされた。
信玄は「これ皆、寺を壊した仏罰であろう」と要害が思いがけなく楽に落ちたことを喜んだという。

加沢記より
0669人間七七四年
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2022/12/24(土) 00:15:37.76ID:cWWrEB3o
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5082.html
武田信玄の西上州侵攻と見銘寺
過去に「箕輪軍記」出典(群書類従巻三百八十八・合戦部二十、上野国群馬郡箕輪軍記「長野信濃守業政卒去し事」)で同じ話が出てたから
「箕輪軍記」を読むと武田方に水を止められたということで、この話の直前に白米城(籠城側が馬の背に白米を流して、敵に水がまだあるように見せる)ネタがあった
0670人間七七四年
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2022/12/24(土) 01:29:27.04ID:LzXtJ3Ah
>>669
その米の噺、なあ…。
伊勢宗瑞の伊豆制圧戦に関する口碑伝承にもそっくり同じ噺があるんだよ。
登場人物の名前が替わっただけ。
元ネタがあるんだなと猿でも解るレベルの。
いずれ漢籍あたりに何かの原典があって様々にアレンジした上で流布された巷談俗説だろうよ。
 
と、思ってたんだが、
伊豆では考古学的証拠に近いブツが出ちまったから馬鹿には出来ねえな。
 
0671人間七七四年
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2023/01/05(木) 20:43:07.28ID:nzcqadR2
永禄十二年の初めの、五月二十六日に、今川氏真と徳川家康とは扱い(和睦)となり、掛川を家康に渡し、
その上遠州一円が家康の支配となった。そして「氏真を今一度駿河の主にしてほしい」と頼まれて、
氏真公は遠州掛川より船に乗り、小田原の北条氏康が氏真の舅であった故に、これを頼んで小田原に
御牢人となった。

さて、氏真公の元で随一の出頭人であった三浦右衛門介は、諸侍に慮外を仕った人罰が当たった。
(氏真の駿府没落後も)彼は猶も分別を違えており、高天神城の小笠原(與八郎)が、氏真公の時代と変わらず、
自分の用に立つと三浦右衛門介は考えていた。そして氏真を見放し高天神城へ走り込んだが、そこで
小笠原は彼を搦め捕り、しかも縛り首とした。以上。

『甲陽軍鑑』
0672人間七七四年
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2023/01/08(日) 23:13:42.74ID:8YxFmouY
「続武家閑談」から徳川家康と成瀬滝之助

あるとき権現様が
「召し使っている成瀬滝之助だが、近頃誰かと口論でもしなかったか?」と近侍の衆に尋ねられた
いずれも「そのようなことは存じておりません」と答えた
二、三日して成瀬が人を討って出奔した。
それを聞いた権現様は「その場の様子だが、馬手(めて)口であったか?」と尋ねられた。
「いいえ、馬手口ではありませんでした」と答えると
「大いに甲斐甲斐しいことだ」と仰られたそうだ
どうしてこのように仰られたのだろう

「紀伊國物語」出典の
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7439.html
「成瀬瀧之助は誰かと言い合いなどしなかったか?」
では「馬手口」ではなく「卑怯な振る舞い」となっている。
右から切りつけたと解釈したけど違うのかな
0673人間七七四年
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2023/01/09(月) 20:52:34.47ID:OpVMlt84
「続武家閑談」から大賀弥四郎(大岡弥四郎)と近藤某

天正三年(1575年)、権現様三十四歳の時、近藤某に加増をなされた。
この加増は大賀弥四郎の代官所の管轄内であった。
大賀弥四郎は中間であったが才覚があり、地方巧者諸事に詳しいため、奥郡の大部分の代官を仰つけられ、
岡崎城にも参って信康公の御用もなし、信康公も家来も「弥四郎は不可欠の人材だ」とみなした。
しかしいつのまにか身の程をわきまえず、驕り、武辺者でも気がいらなければ讒言したため、大勢に憎まれた。
そんな時、近藤某の加増がなされたため大賀弥四郎は近藤某を自邸に呼び
「今度の加増は我の取りなしによるものだ」と恩着せがましく言った。
近藤はそれを聞き大いに怒り、座を立ち、そのまま御家老衆のところへ直行し
「この度の加増は返上いたします」と告げた。
みなが驚きあきれ、近藤にわけを問うと
「旗本をなぶる大賀のような大悪人の取りなしで加増をされるようないわれはありませぬ」
と答えたため、御家老衆は仔細を尋ねた。
こうして弥四郎の悪事が次々と露見し、そのたしかな証拠も出てきた。
また弥四郎に仕える山田八蔵という者を詮議したところ、武田勝頼に内通して岡崎城を乗っ取ろうという計画が明らかになった。
そこですぐに大賀弥四郎夫妻と子供をからめとり、妻と子供は斬罪に、大賀弥四郎は浜松岡崎城下引き回しののち、岡崎の四辻に首より下は埋められ、竹鋸で引かれた。
0674人間七七四年
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2023/01/09(月) 20:57:30.33ID:OpVMlt84
さて右の近藤某であるが、権現様の御父上の松平広忠公の時、毎度軍忠に励んでいた。
あるとき広忠公が城下で御放鷹をなされた。
近藤は土民に混じって、自ら早苗を取って田植えの最中であったが、広忠公を見るや田の中に顔をつけて泥で顔を隠した。
しかし広忠公に「近藤ではないか」と言われたため
近藤はしかたなく顔をあげ、ところどころ破れた渋帷子という見すぼらしい有様で恥いっていると
広忠公は「主人が小身なために汝ら家中には功績に報いられず、人馬武具を備えるためにこうして苦労をさせてしまうこと、申し訳なく思う。
我も供の者も、人の前に苦労をして、人の後に楽しむべきであろう。
(「後楽園」の元になった「天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」からだろうか)
今日は我も供の者も早く帰るがよいぞ」
これを聞き、近藤はもちろん、お供のものも皆袖を濡らしたという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11040.html
かかるお情け深き主君のためには

後の話はだいたい同じ話が前にも出ていた(「三河物語」にも載っている)
0675人間七七四年
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2023/01/10(火) 23:45:44.82ID:L1ZwVHoT
永禄十二年八月下旬に、武田信玄公は甲府を御立ちなされ関東へ御発向あり、北条氏康・氏政父子の
領分を大方焼き払い、小田原へ押し詰め、侍宿地下町も少しも残らず放火するよう仰せ付けになり、
その上、同年十月八日に相州三増峠において、信玄公は勝利を得られた。

都合四十四日の御働きで北条家を鎮め、信玄公は駿河を治められた。それを妨げていた氏康が
これに手を出せなくする防戦を遂げられ、甲府に御帰陣となった。

この時信玄公は、高坂弾正を召されて仰せになった
「小田原表における、この信玄の勝利をどのように見たか」

高坂は申した
「御勝ちなされて、御怪我でありました。その仔細は、例えて言いますが、仮に数万の人数が
甲州に侵入した場合、当方の御運がよくよく尽きて五十、六十の人数に成ってしまえば
是非にも及びませんが、五百、千ほどの人数もあれば、御館である躑躅ヶ崎まで来る敵を、
間違いなく撤退させることが出来るでしょう。

この例えを用いて分別すると、今回小田原城には松田尾張を始め、その他人数八千あまり在りながら、
二万を少し越えたほどの武田勢に蓮池まで押し込まれ、さらに何事もなく引き取らせ、その上
三増峠においてあのように戦勝を得られました。
弱敵に勝たれて、大いなる御不覚かと存じ奉ります。

近年、若き者である三河岡崎の家康は今川氏真公を掛川に押し詰め、氏真公の衆、歴々の覚えの者を
競り合いのたびに討ち取り、終に氏真を関東へ押し払いました。若者であるとは言え、かの家康に
北条氏康御父子の人数のうち三分の一も預けたならば、よほど敵として御手に立ったでしょう。
また信州侍衆に対して我々は、相手が百騎、二百騎の人数であってさえ、五、六年づつ御手間を
とらされました。」

これを聞いて信玄公は
「高坂弾正は小田原陣の前に申ごとく、今に諍を怖く申し候」
(高坂弾正は小田原への出陣の前にもそう言ったが、今もこのように恐ろしい諫言をする)
と、御笑いなされたという。
若き衆は「高坂弾正の分別立ては、今に始まったことではない。」と沙汰した。

『甲陽軍鑑』
0676人間七七四年
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2023/01/16(月) 16:19:32.25ID:Z0LWwUBl
そういや管理人氏のTLで見かけたこれ、唐の頭(ヤク毛飾り)がはたして永禄年間中に三河で入手できたかってとこが
知りたいですよね?
武田信玄の諏訪法性兜(白い毛がふわふわの例の兜)は後世の創作というのが明らかになってますが、徳川家の
唐の頭の初出はいつなのか。

https://twitter.com/yX3hO9ycHeJMdcn/status/1614595498371092482
史実の本多忠勝を世に広める会
@yX3hO9ycHeJMdcn
この狂歌は今まで三方ヶ原の戦い(正確には前哨戦の一言坂の戦い)の際に武田側の武士が
忠勝の武勇を見て、「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭に本多平八」、すなわち家康には
もったいないものとして詠まれたとされていました。
実際は別の人物が若き日の忠勝を詠んだもののようです。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0677人間七七四年
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2023/01/17(火) 22:04:46.04ID:jYCDJFyo
元亀元年霜月下旬に、諸角助七郎と原甚四郎(盛胤)とが、御城(躑躅ヶ崎館)において喧嘩を仕り、
双方二ヶ所づつ負傷したが、相番の衆が彼らを引き離し、討ち果たすことは無かった。

御前狼藉の故に武田信玄公は大変御立腹されたが、原甚四郎は父である原美濃が度々の御用に立つこと
三十度に及んだ者であったので、それに免じて陣より国に帰らされ、父の武功の御奉公に免じられ、命を
御助けなされた。

諸角の父である豊後も度々の忠功ある侍大将で、その上川中島合戦の時討ち死にを仕った。
この父・豊後に免じて、諸角助七郎も命を御助けなされた。
これらは典厩(武田信豊)、四郎殿(勝頼)御両人を以て仰せ付けになられた。

しかしながら御前の狼藉であり、諸人への見せしめのためにも、原甚四郎も諸角助七郎も、知行同心を
召し上げられ、諸角同心の五十騎は一条右衛門太夫殿へ預けられ、原甚四郎の同心は今福丹波に預けられた。
また原甚四郎の家屋敷共に土屋に下され、この両人は外様のように成ってしまった。

しかし少給、少扶持にて堪忍仕り、物哀れなる体なりと言えども、御成敗有るべき所を、父の武勇、御奉公に
免じられて、御助けなされ忝なしと存じ奉ったのである。

『甲陽軍鑑』

いわゆる喧嘩両成敗の実態について
0678人間七七四年
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2023/01/20(金) 00:14:39.38ID:2hnP0MBz
「武家閑談」から結城秀康と出雲阿国の有名な話

慶長年中伏見にて、越前黄門秀康公(結城秀康)のお屋敷に、お国というかぶき女を召し、かぶきを踊らせて御見物なさった。
お国が水晶の数珠を襟にかけて舞ってるのを御覧になった秀康公は
「水晶は見苦しい」と御具足の上にかけていた珊瑚珠の数珠を与え、お国の舞を御覧になった。
秀康公は御落涙され、おっしゃることには
「天下に幾万の女がいるが、一人の女と天下にも呼ばれるのはこの女である。
我は天下一人の男となる願いが叶わず、女にさえおとっているのは無念である。」

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6502.html
こちらのウィキペディア出典の話も元は「武家閑談」のようだが、珊瑚珠の話まではなかったので
0680人間七七四年
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2023/01/20(金) 12:06:05.28ID:tNBITfCz
今なら「女にさえ」でアウトだな
面倒くさい時代になったもんだ・・・
0681人間七七四年
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2023/01/22(日) 16:37:30.54ID:Uf3aPfmT
長尾輝虎は十年以前の辛酉に、信州川中島において大きく負け(永禄四年の第四次川中島合戦か)、
三千あまりも討たれた後は、此の方(武田方)より押し詰め、この頃では信玄自身が出馬するに及ばず、
高坂弾正が越後の内で働いても、さほど危ういことも無い。

北条氏康は当年(元亀二年)十月に他界した。去る巳の年(永禄十二年)の最中度々押し詰め、すでに
小田原に日帰にした。足柄、深澤まで信玄が攻め取り、関東は氏康に掠められていたが、その氏康を
信玄が掠め取ったのである。

また佐渡庄内、加賀、越中、能登、関東までもに、輝虎が押し出したが、その輝虎も先のように押し詰めた。

この上信長、家康の二人に信玄が勝てば、西国までも弓箭において心もとないことは無い。何故ならば、
四国、九州は安芸の毛利によって仕詰められていた所、信長が都に発向して、天下を持っていた三好を絶やし、
中国の毛利をも、父(正確には祖父)元就の死後とは言いながら、早くも少しずつ掠め取っているとの
沙汰が有るからだ。

東海一番の家康、五畿内、四国、中国、九州まで響き渡る信長、彼らを一つにして信玄一方を以て
勝利を得るならば、日本国中は沙汰にも及ばぬ義である。
当時は唐国までも、武田法性院信玄に並ぶ弓取りは有るまじく候と言われていた。

遠州御発向の御備定は、午年(元亀元年)の冬中に高坂弾正の所で七重に定まり、書き付けて信玄公の
御目にかけた。

仍って件の如し

『甲陽軍鑑』

武田信玄が西上を決断した際の、外部情勢についての認識について。
0682人間七七四年
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2023/01/28(土) 23:12:19.22ID:ODKO6Zvw
「大友興廃記」から「髑髏敵を取る事」

筑前国生の松原合戦(大友宗麟に誅された原田親種の残党と立花道雪との戦)の三年ほど前、一人の中間がこの松原を通ると、道のわきに一つの髑髏があった。
中間は「これは我が昔討ち捨てた者の髑髏だ。なぜいまだにここにあるのだろう」と嘲笑って蹴回した。
ちょうど持っていた槍の石突で刺し貫いて、抜こうとしたがどうしても抜けなかった。
そこで松の枝に引っ掛けて両手で「えい」と前に引くと、槍の柄が抜けて槍の先端が、中間の肝から後ろに突き抜けたため死んでしまった。
死ぬ前に、ちょうど通りかかった人々にことの一部始終を語ったため、その頃の人たちはこれを聞き
「因果の道理は多いとはいえ、昔から今に至るまで、舎利首が敵をとったためしは少ないだろう。不思議なことだ」
と言いあったという。
0684人間七七四年
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2023/01/29(日) 10:15:22.26ID:ZWbxHB0m
自分の体の中心に向けて槍を引っ張ったのかな
不自然なような気もするが、まぁ話だからな
0685人間七七四年
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2023/01/31(火) 21:26:19.84ID:kyUmYcqb
元亀二年辛未年七月、武田家は再び家康と御取合が始まったが、信長はいつもの如くの、武田に対する
御入魂ぶりであった。
そのようであったので、家康に対して信長よりの異見は、「家康は三河の吉田まで撤退し、遠州浜松には
家老を差し置くように。」とあった。

しかしこれに対して家康は、
「浜松城を立ち退くほどならば、刀を踏み折り、武辺を捨てるという事である。
どうであっても、武士を立てる以上、遠州から立ち退くことは有るまじき。」
そう内談を定め、信長に対しての返事には
「いかさま御意次第に仕りますが、先ずは一日であってもここに在りたいと思います。」
と伝え、その上で浜松から引き下がらないということを、遠州・三河の侍衆に伝えた。

未の九月、山縣三郎兵衛(昌景)が、信州伊那より四千の人数を引き連れ西三河・東三河の仕置に罷り出でた。
これは山縣の手元の衆に加え、信州諏訪。伊那の山縣三郎兵衛同心組衆を率いての事であった。

『甲陽軍鑑』

武田信玄の「西進」が始まった時の、信長と家康の対応について。
0686人間七七四年
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2023/02/01(水) 16:48:42.94ID:MGm2S+jR
K・HIRAYAMA
@HIRAYAMAYUUKAIN
遅くなりました。大河ドラマ「どうする家康」第4回「清須でどうする」はいかがでしたでしょうか。SNSをみると、様々なご意見がみられますね。
ここで、はっきりと申し上げておきますと、全編にわたって、これはフィクションです。 #時代考証の呟き #どうする家康



金陀美具足とかで平山氏が叩かれてたのは、時代劇がフィクションだなんてことは全員わかった上の話で、
平山氏が普段は史実や史料を棍棒に他人を叩きまくっていたからだよなあ
SNS論客はどうしても攻撃的な言動、文章になるんだが、自分の過去の振る舞いが襲ってきたよね
0687人間七七四年
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2023/02/01(水) 16:53:26.78ID:MGm2S+jR
今回の大河も細かいところでは、おっと言うようなさりげない部分で注目すべきところを取り入れてるけど
実のところそういう頑張った考証は評判の悪い天地人とかでもあったんだよね

でもあの清州城の最終的な延長にある江戸・駿府・名古屋城にはどんな姿か期待してます
0688人間七七四年
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2023/02/04(土) 23:44:31.35ID:HC5xTxLS
「武家閑談」から越前少将忠直御事

松平忠直公は大坂城落城のとき、一番合戦で三千七百五十の首級をとられた。
家中の本多伊豆守富正の手は百七十三の首をとり、落合美作守の手は四十八の首をとった。
詮議の時、本多伊豆守は「首数は家中第一である」と自讚した。
そこへ落合美作守が近づき「わが手の首数は手前より多い」と相論した。
伊豆守は「われは百七十三、その方は四十八、どこが首数が多いのか」と言うと
落合「貴殿は七万五千石の身上で首数が百七十三、われは一万石の身上で四十八、計算してみたまえ、我の首数は貴殿の首数よりも多い」
御使者の諸星金右衛門はもとは武州松山浪人で、居眠りして柱に寄りかかっていたが、これを聞きくわっと眼を見開き
「美作の言うことがもっとも至極である」と言った。
伊豆守は閉口したがこの遺恨のため、美作を讒言し美作はその年浪人した。
美作はのちに紀伊大納言頼宣卿に召し出され、三百人扶持の役高で落合卜安といった。
これは江戸で浪人をしていた青木八郎左衛門から聞いた話だ。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1544.html
こちらの話では讒言のために浪人、までは書いてなかったので
0689人間七七四年
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2023/02/05(日) 21:49:48.55ID:48hh7H58
「続武家閑談」より伊賀組訴状のこと

伊賀同心の働きは莫大である上に、天正十四年に真田を攻めた時には先手に加わり、千塚というところに陣を張った。
同十八年には小田原の陣にお供し、翌年の奥州の陣の時には高館表の衣川にまでお供した。
屋敷分として一人当たり永楽銭九貫文が知行として宛てられ、きっと吟味の上に取り立てて下さると言われていた。
名護屋の陣にもお供し、関ケ原のみぎりには大田原で城を守り、上杉景勝への備えをした。
「武徳安民記」に見えるようにのちには半蔵跡目石見守(服部正就)の組となった。
石見守は三千石を領し、松平隠岐守(久松松平初代の松平定勝)の婿となり威勢をほしいままとし、昔のことを気にかけず、一向に憐憫の情がなく、家僕同然に伊賀同心をこき使った。
同心どもは「たしかに伊賀の末裔の服部であるが、御家名の武辺場数をへて大身となられたのもわれらの働きがあったからなのに、下人被官のようにされるのは奇怪である」
と書状を石見守に差し出したが石見守はたいそう立腹し、同心どもを呼んで自分の屋敷の普請の手伝いをさせ、断れば扶持を没収した。
そのため二百人の者どもは妻子を片付け、奉行所に目安を差し出し、近くの寺に弓鉄砲を持って立てこもり「訴えをかなえねば討ち死にする」と抗議に及んだ。
このよしが上聞に及び「石見守不届きなり」ということで、石見守から同心が召しあげられた。
二百人の者どもはよろこび、四組に分けられ、大久保甚右衛門(大久保忠直)、服部仲(服部保正)、加藤勘右衛門(加藤正次)、久永源兵衛(久永重勝)に預けられた。
しかし石見守の願いにより二百人のうち十人を成敗することとなった。
0690人間七七四年
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2023/02/05(日) 21:51:38.56ID:48hh7H58
切腹しなかった者もあり、妻子を質にとられたため切腹した者もあり、十人中八人が死んで二人が逐電した。
石見守は人を回して逃げた二人を狙っていたが、あるとき自邸の門前を通ると聞いて馳せつけ斬ったところ、同心ではなく、伊奈備前守(伊奈忠次)の家来が使いにきたのであった。
しかたなく陳謝したが、そのころ江戸中に辻斬りがあり、公儀から黄金の懸賞金をかけて詮議の最中であったため、これまでの辻斬りも石見守のせいであろうということで改易された。
時に慶長十年極月二日であった。人々が石見守の不仁を憎んだことは言うまでもない。
戦国の頃は永楽何貫文として宛行されていたが、天正の末にようやく国がおさまり、石高制になった。
伊賀同心も九貫文の宛行で天正の末から元和岩年までの十年の間、戦場での奉公をおこたらず努めた。
しかし公儀からは「いずれは取り立てる」と恩賞が延引するうちに権現様が薨去された。
そして奥方御奉公に召し使われ、禄の沙汰を取り次ぐものもいず、無念ながら少ない扶持で奴僕の列に入り、女中などの使われ者となってしまった。
こうして秀忠公の御時には武辺者の伊賀侍もみな死ぬか失せてしまったいう。
0691人間七七四年
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2023/02/06(月) 09:17:06.97ID:RXawWonI
訂正:
天正の末から元和岩年までの十年→
天正の末から元和元年まで三十二年
0692人間七七四年
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2023/02/07(火) 18:36:01.12ID:m1SOtcLP
続武家閑談より「洛中放火の企て顕れて悉く斬戮の事」

古田織部正は徳川方の陣から敵に内通し、味方の事情を矢文で城中に送っていた。
その事は権現様はご存じでなく素知らぬようになさっていたため、大坂方はこれ幸いと間者に用いなさっていた。
権現様が大坂夏の陣にお立ちになる時、織部は茶友の宗喜に「大坂方から洛中に放火せよとのことだ」と実行を頼んだ。
しかし法制が厳しく、尾張義直(徳川義直)の陪臣である甲斐庄三郎、金井伊兵衛両人に放火犯二人をからめとられた。
成瀬隼人正(成瀬正成)に言上させ、伊賀守勝重(板倉勝重)が五更から明け方にかけて罪人を召し捕り、七日のうちに徒党をことごとく斬刑にした、
ほかにも助力している者どもがいるだろうということで、五月三日より上杉景勝に命じ八幡山に布陣させ、遊軍させなさった。

甲斐庄三郎は「管窺武鑑」「佐久間軍記」などでは甲斐庄三平のようで(甲斐庄が苗字)
続武家閑談の作者・木村高敦か書写した人物が「甲斐庄」という苗字を知らず「甲斐・庄三郎」と思ったのかもしれない
0693人間七七四年
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2023/02/07(火) 18:50:43.34ID:m1SOtcLP
冒頭は「続武家閑談」だと
「古田織部正は吾陣より敵へ内通し味方の事城中へ矢文ありしけれども其事権現様御ぞんじなかりしが左あらぬ様になされこれを幸ひと間者より用ひ給ふ也」で

「管窺武鑑」だと
「此織部、旧冬の御陣の時、御方にて御供し、味方の事を聞いて、矢文を射て城中へ告げたるを、権現様御存なれども、御存じなき体になされ、御武術になさる。
是れ反間を用ひなさる御名将の微妙なり。」

「給うなり」がついてるから「管窺武鑑」のように反間という意味が正しいと思います。
「ぞんじなりし」を「ぞんじなかりし」と間違えたのかもしれない
0694人間七七四年
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2023/02/07(火) 20:59:36.20ID:uH6/DNEA
天正元年正月七日に、武田信玄公は遠州刑部をお立ちに成って、同月十一日、三河野田城へ取り詰められた。
この時、徳川家康より織田信長へ、小栗大六という者を使いとして、野田城救援のための後詰の
有るように、と頼み申されたが、信長は軍勢を出さず、二度目の使いでも信長が出馬することはなかった為に、
野田城を守備していた菅沼新八郎(定盈)は降参し、城を明け渡し、山県三郎兵衛(昌景)に
菅沼新八郎の身柄は預けられた。

新八郎方より家康に申し越し、奥平美作守(定能)の人質が家康の元に有ったが、これを菅沼新八郎の身柄と
取り替える事となり、奥平の人質は信玄公に家康より進上され、菅沼新八郎は家康に渡された。
その取引は三州長篠の馬場において行われた。二月十五日の事であった。

その後、信玄公は御煩いが悪化し、二月十六日に御馬入された。
この時、家康家中、信長家中諸人は、信玄公が野田城攻めの最中、鉄砲に当たって死んだのだと沙汰した。
これはみな虚言である。惣別、武士の取合いにおいては、弱い方が必ず嘘を申すものだ。
武田家と越後輝虎との御取合においては、敵味方共に嘘を申す沙汰は終に無かった。
例え信玄公が鉄砲に当たったとしても、それが弓箭の瑕になる事は無い。

『甲陽軍鑑』

野田城の戦いについて
0695人間七七四年
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2023/02/16(木) 18:52:52.58ID:7PzQHc1V
「朝野雑載」から伏見城の戦いにおける甲賀衆

名古屋丸には甲賀佐左衛門などが守備に入った。
この甲賀は瀬田の城主・山岡道阿弥(山岡景友、神君伊賀越えの協力したともいわれる山岡景隆・山岡景佐兄弟の弟)の末子であり、
道阿弥は家康公に御見方していたため、与力同心を召し連れて伏見城に上り、名古屋丸を固めていたという。
また松の丸は深雄清十郎、太鼓の丸は佐野綱正、上林竹庵(宇治の茶師)がかためていた。
小早川秀秋は鳥居元忠にひそかに書状を送り、家康公に味方したいためともに籠城したいと申したが、鳥居は承知せず
「それほどまでに意志が堅いのであれば関東へ御注進なされよ。籠城は断り申す」
とのことだったので、秀秋の家老平岡頼勝は黒田如水の縁者であったため、平岡の家来をひそかに関東に遣わし、黒田長政に秀秋の内通を申し上げたそうだ。
伏見城の東は宇喜多秀家、増田長盛、石田三成、長束正家(陣代は家所帯刀、武者奉行は伴五兵衛)などかれこれ一万人が攻めた。
周囲から昼夜の境もなく攻めたけれども、城兵堅固で持ちこたえて七、八日過ごした。
長束正家の軍勢の中に鵜飼藤助というものがいた。
彼は松の丸に籠った甲賀の者の一類であったため、松の丸に矢文を射込んで
「面々が籠城しているため、在所に置いてきた妻子をとらえ水口において磔にかけよう、と長束正家殿がおっしゃっている。
近々に妻子らを召しとる手筈である。
もし返り忠をなしてその郭を焼き立てれば妻子の命は助けられるのみならず、汝らに恩賞もあるだろう」
と伝えたところ、甲賀の者どもは大いに驚き、永原十内、山口宗助一族四十余が同意して
「それならば明夜亥子の刻に必ず火の手を上げよう。その時に攻められよ」と返答した。
こうして翌日子の刻に松の丸に火の手が上がったため、城兵は意気消沈し、寄せ手はついに城中へ乱れ入った。
松の丸をかためていた深尾清十郎は戦ったが生け捕られ、のちに大坂で誅されたという。
また名古屋丸の松平近正も小早川秀秋の家人、比奈津角助五左衛門と島田勘右衛門により討ち取られた。
松の丸、名古屋丸の攻め落とされ、三の丸の松平家忠(「家忠日記」の作者)も供とともに三度まで突き出たが討ち死にした。島津義弘の家人である別所下野が首をとったという。
(このあと内藤家長、佐野綱正、鳥居元忠の奮戦と討ち死にの記述)
0696人間七七四年
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2023/02/16(木) 19:03:21.00ID:7PzQHc1V
長束正家配下の伴五兵衛については、同名の甲賀忍者が「甲賀衆肥前切支丹一揆軍役由緒書案」によれば、島原合戦の時に敵陣を偵察している。
(落とし穴におっこちた甲賀忍者の望月与右衛門らを背負って脱出)
上ノ郷城の戦いについては大河に出ていた伴与七郎のほか(家康の感状がある)、鵜飼孫六という甲賀忍者も参戦していたとか。
伴も鵜飼も甲賀二十一家だけど、上ノ郷城攻めでは家康方として、伏見城攻めでは長束正家配下で西軍として戦ったことになる。
ついでに上ノ郷城攻めでは、神君伊賀越えの時に手助けしたとされる多羅尾光俊が甲賀忍者を派遣したと言われる。
0697人間七七四年
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2023/02/17(金) 19:32:35.76ID:GAjjKB9U
平山先生が上ノ郷城攻めについてツイートしているので
先生が言及している木村高敦による家康一代記「武徳編年集成」から該当部分を書いておく。多羅尾光俊の関与についても書かれてるし。
(木村高敦は「武家閑談」「続武家閑談」の著者でもある)

右衛門忠勝、松井左近忠次を以て上ノ郷城を囲ませらる。
この時忠次が従士石原芳心が子、三郎左衛門は江州甲賀の謀者伴中務盛景、同太郎左衛門、同与七郎と議して
兼ねて彼の国の多羅尾四郎兵衛光敏が忍の士十八人召よせ其組としけるが
今夜不意に城中へ入て焼立ければ、鵜殿父子三人逃走る所を伴与七郎伏兵としめ城外に待受。
三郎四郎氏長、其弟藤三郎氏次を虜とす。
父藤太郎は駿州へ奔る。
既上ノ郷の城陥りければ当城を神君より久松佐渡守俊勝に賜う。
0698人間七七四年
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2023/02/21(火) 21:32:02.19ID:MJ0bmBdm
南部下総(宗秀)殿は甘利備前(虎泰)、板垣駿河(信方)、小山田備中(虎満)、飯富兵部少輔(虎昌)の
四人の衆に続く地位でであり、少しは武辺の覚えも有るといっても、浮気にて常に無穿鑿なる事ばかり言い、
遠慮も無く明け暮れ過言を申され、嘘をつかれた。

無分別人であり、彼は山本勘介を憎んだ。そして国郡を持たぬ者の城取、陣取などと批判し、
また外科の医者も深い傷はないと思っているのに(外科医者もふかき事あるましきと思ふに)、勘介が負傷
することを「まして兵法使いのくせに手を負いたる」などと言って、山本勘介に対して尽く悪口した。

この事を目付衆、横目衆はすぐに御耳に入れた。武田信玄公はこれを聞かれると、長坂長閑、石黒豊前、
ごみ(五味)新右衛門を御使とされ、即ち書立を以て仰せ下された。その書立の内容は

『南部下野が、山本勘介という大剛のつわものを悪口の事、無穿鑿なる儀である

一、山本勘介という小身の者の城取、陣取りがまことらしからぬ、と言ったというが、これは物を知らぬ
申されようである。唐国(中国)周の文王が崇敬した太公望は、大身ではなかった。

一、兵法使いのくせに負傷した、などと申したことは一層武士道不案内である。兵法というものは、
負傷しないという事ではない。負傷しても相手を仕留める事こそ、本当の兵法である。
殊更、其の方の被官であった石井藤三郎が白刃でかかってきたのを棒にて向かい。組み倒したというのは、
例えこの時勘介が死んだとしても、屍の上まで誉れある事なのに、それを嫉むのは無穿鑿なる事だ。

一、其の方南部の手柄というのは、実際には家臣である笠井と春日の二人して仕ったものであったのに、
あたかも自分の手柄のように申していると聞き及んでいる。

この三ヶ状を以て成敗仕るべきなのだが、そのようにすれば、却って山本勘介も迷惑に思うだろう。
ここを勘介に免じて命を助けるので、遠き国へ参れ。』

このようにあり、南部殿は改易され、奥州の会津へ行った事で、彼は誅殺を免れた。彼の支配下に有った
七十騎の足軽、旗本、その他が方々に分けられた。後の春日左衛門、笠井備後はこの南部殿の二人の家老の
子である。

『甲陽軍鑑』
0699人間七七四年
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2023/02/26(日) 20:07:30.52ID:X2ZD+Z14
ある時、穴山(信君)殿が馬場美濃守(信春)に尋ねられた
「現代、織田信長は天下に意見するほどであるが、聞き及んで人の手本に用いるような軍法が一つも無い。
これは一体どういうことだろうか。」

馬場美濃、答えて曰く
「信長の敵は、美濃衆相手に七年にわたって手間取ったばかりで、残りは皆、信長に怯える人々です。
故に軍法も必要ありません。その上、信玄公は長尾輝虎との戦いの中で、おおかた世間で考えられるほどの
手立て、はかりごとを成しました。そのため他国の弓矢は御当家においては、さほど面白く思えないのです。

殊更、信長も当年三十八歳、天下においても三好殿を押し退け、都の事をまことに自身で意見するように
なったのは、去年七月からのことです。軍法というものも、大敵、強敵に遭遇しての行いです。
信長は国を隔て、信玄、輝虎とは終に武辺の参会が無く、そのような中に現在では、信長は嫡子の
城之介(信忠)殿を、信玄公の聟にとある、武田の縁辺となっています。そう言ったわけで、信長は
手立てすべき敵はさほどありません。

十二年前、今川義元との合戦(桶狭間の戦い)の時は、信長は二十七歳で無類の手柄を成しました。
その頃、信長は小身であり若く、大敵に対し様々なはかりごとを行って、勝利を得られました。

はかりごと、手立ての軍法が無い弓矢(合戦)は、例えば下手が集まって催す能を見物するようなものです。
しそこなわないかと思い、見ながら危なく感じます。

信長の弓矢というものも、美濃国と七年の間取り合いをしたことで、武功の分別が定まりました。
信玄公の弓矢は、村上(義清)殿との取り合いにて、武功の分別を定められました。当時、村上殿は
信州の内四郡、越後一郡ほどの、合計五郡を領していましたが、広き国なる故に、甲州と比較して一国半ほども
ある勢力でした。その上強敵でもありました。

また、徳川家康はこの頃の日本において、北条氏康、武田信玄、上杉謙信、織田信長の四大将に続いて
名を呼ぶほどの大将である十三人の中でも、殆どの者が家康の名を一番に上げる程であり、今年か明年の間には、
この家康と一戦せざるをえないでしょう。そうなった時は信長も、後を考えて、現在でこそ当家の縁辺として
無事であると雖も、家康に対して加勢を行うでしょう。その時は両家を相手になさって信玄公は合戦を遂げられ、
都まで誉れを上げねばなりませんから、これには猶以て軍法を必要とするところです。」

そう、馬場美濃は穴山殿に申し聞かせた。

『甲陽軍鑑』
0700人間七七四年
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2023/02/27(月) 20:05:01.88ID:Am4WQ7/T
17世紀後半に成立したと思われる「浜松御在城記」から「松平信康処刑時の半蔵の落涙」について

天正七年(1579年)九月十五日 三郎様(松平信康)、二股にて御生害(御年二十一)、御討手は渡辺半蔵(渡辺守綱)・天方山城守(天方通興)に仰付けらる。
渡辺は落涙し斬ることを得ずして、天方山城守討ち奉る。

△三郎様御傅役は平岩七ノ助親吉であり、権現様に諫言を申し上げた。
権現様も悲しまれたが信長公の心に背いては大敵勝頼に対抗できないと思し召し、是非なく御生害を仰せつけられたという。
説あり。害せざるとも存じ奉る。
この平岩親吉は後に薩摩守忠吉様の御傅役となったため(実際は尾張徳川家の徳川義直)、附家老として尾張犬山城に居住した。
0701人間七七四年
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2023/02/27(月) 21:08:02.84ID:Am4WQ7/T
訂正
介錯したのは天方通興の息子の天方通綱
「三河物語」では天方山城と服部半蔵に命じたことになってるから渡辺半蔵ではないはず。
ついでに享保に書かれた「柏崎物語」では
「服部鬼半蔵正成とは馴染み深かったため、三郎様も古馴染故に物語をし御伝言をなさった。
半蔵は涙に沈み頭を上げられず、三郎様が御腹を召しても半蔵は頭を上げられず嘆きいった。
そこで天方は検使であったが、御苦痛を取り除くために自分の刀で御介錯つかまつった。」
と服部半蔵も涙に沈んだとあるので「浜松御在城記」が半蔵違いをしただけ。
0702人間七七四年
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2023/02/28(火) 22:50:36.52ID:gOxpirZ4
穴山伊豆守(信君)殿が又、馬場美濃守(信春)に尋ねられた
「では、三河の徳川家康は人に優れて利根なる仁か」

馬場美濃守
「穴山殿は信玄公の御従弟であり、しかも惣領聟であられますが、失礼ながらそのような御言葉を他国の
家中の者に聞かれては、笑われてしまうでしょう。武士が武士を褒める場合、作法が定まっております。

第一に、謡、舞、或いは物を読んで受け取りの早い人を、利根と云います。また、所作の様子、又は品の良い
人を器用と申し、さらに性発とも才知とも名付けられます。

第二に、座配良く大身小身と打ち合わせや取りなしに困りあぐねる事も無く、軽薄でも無く、術でもなく、
いかにも見事に仕合せする者を、利発人、公界者と申します。

第三に、芸つきも無く、器用に座配をすることも出来ないが、武辺の方にかしこい場合は、利口者と申します。
またこの者を、心懸者、すね者、仕さう成者と名付けて呼びます。

大身、小身共に斯くの如くであり、このように分けてそれぞれに名付けて言わなければ、報告を受けた
国持大将が合点出来ません。

(中略)

このように、三河一国を持ち遠州まで手をかけた家康の事を利根と呼ぶのは愚かです。利口と褒めるのも、
その術を知らぬ仰せられようです。家康については、『日本に若手の甚だしき弓取り』と申すべきでしょう。
必ず穴山殿、御心得なされよ。」

そのように馬場美濃守が申すと、穴山伊豆守は謝り「卒爾に問うてしまった。宥し給え馬場美濃殿」と言うと、
その後どっと笑って、互いに座敷を立たれた。

『甲陽軍鑑』
0703人間七七四年
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2023/03/02(木) 16:47:03.26ID:SwTQ5Dg8
国立公文書館デジタルアーカイブの「柏崎物語」では
>>701のように服部半蔵がもともと介錯することになっていたけど
大正4年刊の日本国史研究会「東照宮御実紀附録 第1」の「柏崎物語」出典の話では

「三郎殿、二股にて御生害ありし時、検使として渡辺半蔵守綱・天方山城守通興を遣さる、
二人帰りきて、三郎殿終に臨み御遺託ありし事共、なくなく言上しければ、君何と宣ふ旨もなく、御前伺公の輩は、いづれも涙を流して居し内に、本多忠勝・榊原康政の両人はこらへかねて、声を上げて泣き出せしとぞ、
其後山城守へ、今度二股にて御介錯申せし脇差は、たれが作なりと尋給へば、千子村正と申す、
君聞召し、さてあやしき事もあるもの哉、其かみ尾州森山にて、安部弥七が清康君を害し奉りし刀も村正が作なり、
われ幼年の比、駿河宮が崎にて、小刃もて手に疵付けしも村正なり、
こたび山城が差添も同作といふ、いかにして此作の当家にささはる事かな、
此後は御差料の内に、村正の作あらば、皆取捨てよと仰付けられしとぞ、初半蔵は三郎殿御自裁の様見奉りて、おぼえず振ひ出でて太刀とる事能はず、山城見かねて御側より介錯し奉る、
後年君御雑話の折に、半蔵は兼ねて剛強の者なるが、さすが主の子の首打には腰をぬかせしと宣ひしを、
山城守承り伝へて、ひそかに思ふやうは、半蔵が仕兼ねしを、この山城が手にかけて打奉りしといふは、君の御心中いかならむと思ひすごして、
これより世の中何となくものうくやなりけむ、当家を立去り、高野山に入りて、遁世の身となりしとぞ、(柏崎物語)」

となっているので、渡辺半蔵が討ち手のバージョンの「柏崎物語」もあるようだ。
村正については家康の代では気にしてなかったようだけど。
0704人間七七四年
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2023/03/06(月) 23:10:13.65ID:h0QaWSzD
「武家閑談」から朝鮮出兵の時の加藤清正と福島正則

高麗陣中で肥前名古屋(名護屋)へ注進状を送るため、諸大名が判(花押)をすえることになった。
加藤清正の判形が細かくて手間がかかっていた。
福島正則は「清正の判はむずかしい。だいたい判というのは無造作なのがよい。
重い病となって遺言状に判を書くことになったら困るだろう」と申した。
清正は「われは戦場で国の土を枕として死のうと思うゆえ、病死の時に臨んで遺言状を書くことなど考えもしない。
この判で問題はない」と申したという。

死因が病死なので悪い話の方に投稿しておこう。
0705人間七七四年
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2023/03/06(月) 23:41:23.47ID:h0QaWSzD
ついでにいい話スレに投稿した熊野北山一揆の話で
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13841.html
「武家閑談」から大坂の陣の時の熊野北山一揆

溝口五右衛門という人物が出ているが
>>507の「新東鑑」の話のように(「武家閑談」でも同じ話が上田宗箇の後にある)、同じく浅野家の亀田大隅守高綱も元は溝口半之丞と溝口姓
「木村又蔵」という講談では柴田勝家の元にいたときに産女(うぶめ)の妖怪に会って怪力を得たことになっている。
0706人間七七四年
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2023/03/07(火) 22:57:50.86ID:7zUYzkh2
先週、二本松城を訪れたところ、本丸に「丹羽和右衛門・安部井又之丞 自陣の碑」というものがあった。
横の立て札を見ると、戊辰戦争での落城に際して自刃した城代と勘定奉行の供養塔だそうだ。

そこには、前者の割腹の様子が「床几に腰を下ろし、膝の上に広げた軍扇に内臓をつかみ置いて、前屈みのまま絶命」
と説明があって、「これ、藩祖(という言い方でいいのかな?)に倣って、ってこと?」と思わずにはいられなかった次第。

いい話なのか悪い話なのか迷ったけど、この他にも壮絶な逸話を聞いた長州人の自分がちょっとバツが悪くなったのでこちらに
0707人間七七四年
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2023/03/10(金) 18:25:14.10ID:BoWZ+Eku
「武家閑談」から庵原朝昌について

ある老人の昔話によれば、庵原助右衛門(庵原朝昌)は駿河の庵原氏であった。
兄の庵原弥平次は武者修行で小田原へ来て、金窪(神流川の戦いの前哨戦)の競り合いで北条氏邦に従っていたが、一騎で突出し土手に乗り上げて討ち死にした。
小田原衆は弥平次を捨て殺しにした。
助右衛門は駿河でこれを知り、小田原に対して遺恨を持った。
小田原の陣ではたびたび手柄があり、戸田勝隆のところで大いに働いた後、井伊直孝に仕えて大将となった。
大坂の陣の五月六日河内若江合戦の時、井伊先手の川手主水が早々に討ち死にしたため、殿軍を助右衛門が指揮した。
大坂勢を切り崩しているところに、木村長門守(木村重成)が白母衣に金の竹刀の白熊の印をつけ、踏みとどまっていたのを、助右衛門自身で十文字槍を持ち、長門と槍合わせをした。
両者の間には二間ばかりの水路で隔てられていた。
助右衛門が横手で槍を長門の母衣へ突っ込むと、長門は直槍で助右衛門の立っている岸を突き、倒れまいとした。
助右衛門が槍を強く引くと長門は横に倒れ、沼に落ちた。
0708人間七七四年
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2023/03/10(金) 18:27:57.91ID:BoWZ+Eku
助右衛門の郎党たちも沼に飛び込んで長門の首を取ったところに、安藤長三郎(安藤重勝、安藤直次の甥?)が走ってきてその首を奪った。
助右衛門は「若い御仁が殊勝なことだ。
木村長門守と名乗っていたが、長門守には恨みもないし、首になった以上は木村の名が残ることもないだろう。
大坂城も今日明日には落城するであろうし、貴殿もこれほどの首を得る機会もないだろう。その方へ与えよう」
と長三郎に長門の首を与えた。
長三郎が喜んで首を持って行こうとするのを助右衛門は呼び止め、
「この母衣絹で包んで持参されよ。
大御所様の御吟味は厳しく、母衣武者なのに母衣がなければ怪しまれるだろう」
と母衣・脇差まで与えた。
助右衛門の郎党たちは、せめて白熊のついた金の竹刀だけは残しておこうとしたため、今も助右衛門のところにあるという。
さて長門の首実検をしたところ、大御所様は大変御喜びになり、城に長三郎を召して、天下に名高い五代青江という御腰物を下されたという。
助右衛門の家来たちは悔やんだが、助右衛門は
「手前の手柄は直孝殿がよく御存知であるから、悔やまぬでよい」と言ったという。
長門の首を見た人の話によれば、四方白鍬形の兜であり、鍬形の角元は菊唐草模様だったという。
井伊家の家老、木股土佐(木俣守勝)も大剛の兵であり、その子の左京のちに清右衛門(木俣守�タ。右京のちに瑞エ左衛門)も大坂の陣で手柄を挙げた。
土佐の後家を庵原助右衛門が娶り、主税が誕生した。
よって木俣左京と庵原主税は同母異種の兄弟である。

二人の母親は新野親矩の娘だそうだ(姉妹という説も)。
新野親矩は飯尾連龍(お田鶴の方の夫)を攻めている時に討ち死にしたともいうから、直虎の大河に続いて出番があるかも。
0709人間七七四年
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2023/03/12(日) 15:33:30.91ID:fYuFhMfr
内藤修理正(昌豊)の内方(奥方)の母が死去したが、この隠居は一向宗であったので、甲州の家の
とどろきと云う寺の一向坊主が尽くその葬儀に来た。

そのような中、他宗の葬儀の折のように、死者への膳wをいかにも見事にするよう内藤が申し付けたところ、
一向宗の出家たちが申すには
「我が宗の習いにて、御阿弥陀様へ能く食を進上申せば、他には要らぬことです。」
そのように申して亡者に食膳を向けなかった。

内藤修理は尋ねた、「それは一体どうして、阿弥陀に対してはそのように法外に立派にするのか」
上人はこれに
「阿弥陀こそ肝要なのです。他に食を備えるというのは迷いの心であり、一向宗から見れば他宗の方を
おかしく存じます。」と言われた

内藤修理は申した
「亡者が飢えればどうするのか」
上人答えて
「阿弥陀様にさえ食を備えれば、それが尽くの衆生への施しと成るのです。」

これを聞いた内藤は手を合わせて「さても殊勝である。他宗と違い造作も御座無き御宗旨かな。
一尊への施しが万人に渡るとは珍しき、先ず重宝なる一向宗かな」と褒めると、上人は悦んで
「去る程に、我が宗ほど殊勝なるものはありません。」と上人は自賛した。

すると内藤修理は、自身で上人の膳を据え、残り百人余りの坊主たちへは一切膳を据えなかった。
「これはどういう事か」と坊主たちは抗議して膳を乞うた所、そこで内藤修理は

「おや、御口の違う事ではないか。上人にさえ膳を参らせれば、脇々の坊主たちも腹一杯に
なるかと存じでこのようにしたのだが。」

そのように申すと、その後は坊主たち詫び言して亡者にも膳を据え、みなの坊主も他宗のように
執り行った。これは内藤修理の理屈のために、一向宗が恥をかいたのである。

『甲陽軍鑑』
0711人間七七四年
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2023/03/14(火) 17:58:46.49ID:E2hhOYJD
「武徳編年集成」から飯尾豊前妻の奮戦
(「武徳編年集成」は「武家閑談」「後武家閑談」の作者、木村高敦による徳川家康の伝記)

永禄八年(1565年)十二月二十日
遠州引間城主、飯尾豊前守致実(飯尾連龍)の姪は今川氏真の寵愛を得ていたため、豊前守も厚遇されていた。
しかし神君に内応しているという風説があり、氏真は豊前守を駿河に召し寄せ、百騎ばかりで屋敷を囲み、攻めて皆殺しにした。
飯尾の武士二、三十騎が戦死し、寄せ手も多くが討ち死にしたという。
豊前守の妻(お田鶴の方)は無双の強力を奮った(これを駿府の小路軍と世に称す)。
豊前守の家来の江間安芸・江間加賀も引間の城を守り、神君に通じた。
しかし多勢に無勢だったため、今川に降ったという。
0712人間七七四年
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2023/03/14(火) 20:10:04.97ID:E2hhOYJD
17世紀後半に成立したとされる
「浜松御在城記」から飯尾連龍とその妻

遠州引間の城主、飯尾豊前守(飯尾連龍)は今川の先手として織田軍とたびたび戦っていたが、永禄三年(1560年)に今川義元が桶狭間で討ち死にした。
今川氏真は父の弔合戦を考えることなく、朝夕酒宴遊興に溺れたため、権現様は永禄四年に織田信長公と和議を結んだ。
遠州の飯尾豊前守、井伊谷の井伊肥後守(井伊直親)、嵩山城の奥村修理を始め大半が氏真に叛き、信長公や権現様に内通した。
これを知った氏真は永禄五年に井伊谷、引間、嵩山に軍勢を差し向けた。
井伊谷と嵩山は落ちたが、引間の城は堅固であり、寄せ手の大将の新野左馬助(新野親矩)が討ち死にした。
氏真は調略により飯尾豊前守を討つことにし、遠州二俣城主の松井左衛門(松井宗恒?)が豊前の姉婿であるため、松井をなかだちに駿府に豊前を呼び寄せ誅殺した。
引間城にいた豊前守の家来の江間安芸守、江間加賀守は城を保ち、権現様に援軍を依頼した。

永禄十一年、権現様は気賀の住人、名倉喜八郎の案内で引佐を通り、新庄に出て船に乗り、宇布見村にお着きになり、庄屋中村源左衛門の案内で小籔村の普済寺に移られた。
ここで引間城の家臣はもちろん、堀江城の大沢基胤、頭陀村の松下嘉兵衛之綱(秀吉の元主人)などが出仕した。
(原註:大沢基胤は永禄十二年に堀江城で敵対しているので堀川の誤りだろう。
また堀川の一揆の大将が原隼人という話があるが、武田軍による一揆の扇動の誤りだろう)
永禄十二年、武田信玄と大井川を境とし、駿河は武田、遠江は権現様がお切り取りなさると約した。
0713人間七七四年
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2023/03/14(火) 20:12:38.81ID:E2hhOYJD
菅沼貞盈らに菅沼忠久、近藤康用、鈴木重時(井伊谷三人衆)を調略させ、井伊谷を味方とし、権現様は安間村に御陣を取られた。
そのころ引間城の江間安芸守は江間加賀守を殺した。
江間加賀守の家来の小野田彦右衛門は安芸守を殺し、権現様に御注進申し上げた。
権現様はさっそく引間城に乗り込み静謐にされた。
なお安芸守は武田の秋山信友(秋山虎繁)に内通していたという。
加賀守はかねてから権現様に忠節を誓っていたため、子孫は紀伊大納言様に仕えているという。

一説に、浜松は豊前守後室(お田鶴の方)が保っていたため、権現様は御使者を出し「城を明け渡せば家来は本領安堵する」と説得したが後室は応じなかったため、権現様は城を攻められた。
十二月二十四日から攻め、御味方は大軍だったため翌日には二の丸三の丸も攻め破った。
しかしこの時、御味方に手負・死人が三百人に及んだという。
城兵も二百余人が討ち死にし、豊前守後室も侍士を左右に引き連れ打って出、十八人がひとつ所で討ち死にしたと、板倉家の書にはある。
しかしこれは大河内兵庫助(1517年に引馬城で討ち死にした大河内貞綱)と間違ったのではないか。
もし御味方の手負・死人が三百人もいたら、少なくとも十人、二十人は討ち死にしているはずなのにその姓名が不明なのは不審である。
また豊前守の妻は今川の親類であり、松井左衛門が媒酌となり祝言を挙げていることを考えると、人質として駿府に置かれていたと思われる。
とするとこれは江間安芸守の妻のことではないか、詮索が必要である。
0715人間七七四年
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2023/03/16(木) 23:44:52.92ID:EK9u8NFn
https://news.yahoo.co.jp/articles/c83be0a1397225d3619b430d93954fd5e7e0ee46
烏山城についての記事があったので
「続武家閑談」から那須家について、その1

下野の那須資親には娘だけで男子がいなかったため、結城の子孫である白川義永の次男を養子とし、娘を嫁がせ資永となづけた。
しかし資久という実子が生まれたため、寵愛のあまりこちらを後継にしようと、家臣の大田原胤清・大田原資清の親子に
「資永を討ち、資久を後継に立てよ」と命じた。
このため大田原親子は資永の福原城を攻めようとした。
しかし資永は闇夜に甲士七、八人を黒羽城に忍ばせ、東出櫓に放火して注意をひき、そのすきに軍兵を忍び込ませて資久を生捕にして福原城に帰った。
ところが資永は敗北したため、資久を刺し殺し、自害した。
こうして上那須家は滅び、下那須家の那須資房が永正十三年(1516年)六月七日に上下那須を統一した。

岩城守隆は千余騎で資房の息子、那須政資の山田城を囲み、攻めた。
資房は後詰として永正十七年八月十二日に烏山城を出馬し宇都宮の援兵二百騎とともに山崎にかかった。
岩城は山田城攻めをやめ、山崎にむかったが、縄釣原で資房の伏兵二百騎にら突き立てられ、川岸に追い込まれ討ち取られていった。
岩城の羽翼である志賀備中・白土淡路は奮戦したが討ち死にした。
志賀の首を獲ったのは佐竹浪人の石沢五郎十七歳であった。
この時(1520年)、鉄砲というものがあり、岩城陣中に響き、天地を動かしたという。
0716人間七七四年
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2023/03/16(木) 23:47:09.31ID:EK9u8NFn
そののち宇都宮俊綱(宇都宮尚綱)は二千ばかりで喜連川五月乙女坂に陣を敷き、旗下の那須を滅ぼそうとした。
政資の後継の那須高資は三百余で烏山城を出馬し、天文十五年(1546年)五月十日、俊綱と矢合わせののち乱軍となった。
俊綱は伊王野(那須七騎の一人)配下の鮎ヶ瀬助右衛門(弥五郎とも)に射殺され敗軍した。
笠間の家人は主人に暇を告げ
「俊綱がすでに討たれなさったが、このまま爪痕も残さず手ぶらで退却するのは後代までの恥辱です。
わたし一人戦死をとげ、永く笠間の家名を高めましょう」
とと那須の陣中に駆け入り、敵三騎と力戦し、一騎を斬り落とし、討ち死にして名を万世に残した。(本人の名前は書かれていない)
戦後、五月乙女坂に俊綱の石塔を建てた。
(五月女坂は現在、俊綱を討った鮎ヶ瀬弥五郎の名前から弥五郎坂と呼ばれている)
宇都宮国綱(国綱は尚綱の孫、尚綱の息子の宇都宮広綱(当時7歳)の誤り)は俊綱の仇を討とうと、千本常陸介(千本資俊、那須七騎の一人)を調略して那須高資を殺そうとした。
那須高資は老母の元へ行き、千本の方へ行くことを告げたが
高資の老母は「昨日、千本親子がここに来ましたが、異心が見て取れました。千本へは行かぬように」と高資を止めた。
しかし運の尽きか高資は「裏切られる覚えなど関八州にもございません。お気遣いなさらぬよう」
と天文二十年正月二十三日、千本の城へ行き、常陸介に殺された。
嗣子がなかったため弟の那須資胤が遺領を継いだ。
千本は譜代の主を弑逆したにも関わらず、文谷・市花輪を領したため、諸人はこれを爪弾きし憎んだ。
0717人間七七四年
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2023/03/18(土) 11:08:49.65ID:AlcKgmcq
「続武家閑談」から那須家について、その2


会津盛氏(蘆名盛氏)・白川義近(小峰義親?)が三千の兵で、白河・那須の境の小田倉に遠征してきた。
那須資胤と資胤の弟である弾正左衛門(那須資郡、この頃は福原氏)は烏山城を立って、両荘(上那須・下那須)の勢五百余騎を引率し、
永禄二年(1559年)三月二十六日、敵陣に寄せて鬨の声をあげ、巳から未の刻まで戦ったが、劣勢となった。
特に上那須衆は敗北した。
資胤と資経(資郡)は敷皮に座し、
資胤「わしはここで切腹する。お前は那須に帰り家を継げ」
資郡「私がここで代官として自裁するので、御帰城なさってください」
と互いに言い合っているうちに、味方の柏原勢、三百余騎が隊列を乱しながら駆けつけてきた。
三輪村の野伏五十余人も率いていたが、その中に「岡源三郎、十七歳!」と名乗り、味方の中から駆け出した者がいた。
源三郎は敵の首魁の、会津四天王随一と言われた佐野源十郎の馬の首を射て、屏風を返すが如く倒した。
そこへ内藤右衛門が走りかかり、佐野の首を獲った。
これを見た資胤はみずから太鼓を鳴らし、下知した。
こうして騎兵百余騎が一同に敵に突入していったので、会津・白河勢は大勢討たれ、見向きもせず白河の関前の道を十五里も逃げ帰った。
那須勢は勝ちに乗じて白河まで侵入し、放火した。
翌日早朝に資胤は岡源三郎を召し出し、五郎左衛門という名を与えた。
この度の戦いで勝利したといっても上那須衆は敗北し、那須資郡のみが高名をあらわしたため、上那須衆を率いていた大関高増(大田原資清の息子)は嫉妬した。
これを推察した資胤は、大関の家臣の松本某に高増を殺すよう命じた。
松本は了承した風を装い、黒羽城の高増にそのまま語ったため、大関高増は大いに憤った。
そこで高増は佐竹義昭に属し、資胤・資郡兄弟を滅ぼし、佐竹の男子を那須の当主にしようと考えた。

永禄六年(1563年)三月二十三日、大関高増は兵を発して数度合戦におよんだ。
一方で主君に弓を引くわけには行かないと、上那須衆から烏山城勢に加わった者どもも千人余いた。
0718人間七七四年
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2023/03/18(土) 11:15:25.66ID:ECgsNwLa
永禄九年(1566年)八月二十四日、佐竹軍将の東将監(佐竹義堅)勢・宇都宮勢・上那須勢が烏山城の西方の神長村の治部内山に遠征してきた。
烏山城から二百余騎が駆け出し、宇都宮・上那須勢を追い散らし、東将監を籠の中の鳥のように取り囲んだ。
千本常陸介(千本資俊)が使者となり、将監に降伏を勧めると、将監は降伏した。
こうして治部内山は「降参が峰」と呼ばれるようになった。
この度、敵の目には烏山城内に千人ばかり籠っているように見えたという。神力かと言い合ったそうだ。

翌、永禄十年(1567年)二月十七日、佐竹義昭父子は東将監が降参したと聞きたいへん怒り、上那須衆と合わせ二千余騎で烏山城より三十四町東の下境大河井山(下境大崖山)の麓まで押し寄せ、駐屯した。
ここは(佐竹勢から見て)後ろは大山、前は大河(那珂川)であった。
河を渡り船を捨てる故事は多いとはいえ、烏山勢が先に河を渡ったのは不覚であった。
とはいえ烏山勢二百騎は、一所懸命の地を捨てた者、那須家の重恩に報いようとする者、義を感じる者、と
野伏の中間に至るまで、名を後世に残そうと思うこと切なるものばかりなので、一歩でも退却する心持ちはなかった。
烏山勢は時を移さずうって出た。
佐竹勢は優勢であったが、ついに切り立てられ、大山に追い込まれ、若干討ち取られた。
佐竹側の上那須衆と長倉勢は互いに殿軍を争った。
そこで上那須衆の金丸肥前守は「こちらは烏山からは遠く地理に不案内である。
長倉勢は他国(常陸)の者であるが近辺なので地理も詳しいだろう」
ということで長倉勢に殿軍を任せ、上那須衆は先に退却した。
那須資胤は「上那須の者は一人も討つな、逃げるに任せよ。佐竹勢を討ち取れ!」
と陣中を駆け回り下知を下した。
この時、長倉勢はことごとく命を落としたという。
大将の佐竹義昭も草摺の端を射られたという。
この合戦で大崖の谷水が四、五日の間、朱に染まったそうだ。

またある時、那珂川が大洪水となったため、佐竹衆が国境に押し寄せ、放火しようとした。
しかし烏山方の五十余騎が河をさっと渡った。
中でも大久保民部、秋元豊後、森源左衛門の四騎が先陣し、民部が帰依している宗蔵坊という僧とともに河に飛び込んだ。
民部の馬がみなぎる波にさらわれ溺れるところを、(宗蔵坊が?)馬の両脚をとらえて突き上げ、民部が向こう岸に駆け上がったところ、
その勢いにおそれたのか、一矢も射ずに佐竹勢は退いたという。
こうしてその年は昨年と合わせて二年間、敵も味方も手負も死者も一人も出なかったという。
0719人間七七四年
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2023/03/18(土) 21:12:48.31ID:hUZBJPjA
「続武家閑談」から那須家について、その3
全体的にはいい話だけど、1,2がこちらのスレだったので

那須家は勝利したとはいえ、上那須衆が日夜、烏山の北城にまで攻めてきた。
このように親類や友人が名を惜しんで戦うことを、大田原の金剛寿院住職の尊瑜は大いに悲しみ、那須氏と大関氏に戦をやめるよう説いた。
こうして永禄十一年(1568年)九月上旬、資胤の長子の那須修理大夫資時(当時十二歳の那須資晴?)十三才が従士十七人で大関高増の居城に入り、主従和睦がなった。
この戦いの間、大関高増は譜代の衆と干戈を交えたことを恥じ、剃髪して味庵(未庵)と名乗っていた。

資晴はたびたび佐竹・宇都宮と戦い、勝ちに勝った。
特に、天正十三年(1585年)三月二十五日、宇都宮国綱と壬生下総守(壬生義雄)があわせて二千五百騎で那須の薄場の原(薄葉ヶ原)に出陣した。
(天正三年説もあるがその場合は父の宇都宮広綱となる。
天正十三年説の場合、壬生義雄は宇都宮配下ではないはずだが)
資晴は先立って烏山城を出、沢村に駐屯して敵陣を望見した。
すると彦星が朝日に輝き、宇都宮方の鎧の袖をひるがえすこと、雲の如く、露の如くであった。
一方で味方勢は合わせて三百余であった。
敵は鯨波(とき)の声を揚げること三度であったが、味方は静まり返っていた。
この時、味方の馬廻り衆が駆け出した。
大関高増は「軍においては法があり、抜け駆けをするならば思いがけず敵に討たれるであろう」と制した。
すると予想通り、宇都宮勢が先に川を渡った。
味方の野伏ども百ばかりが川端にひしと立ち並んでおり、宇都宮勢を射た。
味方の大将の塩谷安房守(塩谷孝信)の手勢五十余騎は川中に駆け込み、敵の見廻り平塚十郎を射落とした。
こうして指揮が混乱した敵軍は進むことができなくなった。
味方の蘆野意教斎、蘆野日向は「先駆けを討たすな」と川中にさっと乗り入れた。
これを見た敵方は川から上がり、引き返した。
味方は勝ちに乗じて、射手を前に進め、騎兵は鉾先を揃え、一同に川を渡り魚鱗となって叫びながら切り立てた。
敵はたちまちに敗北し、坂東道十五里を振り向きもせずに逃げた。
0720人間七七四年
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2023/03/18(土) 21:14:59.82ID:hUZBJPjA
宇都宮領との境まで来たところで壬生下総守の手勢二百余は東方に一町ほど退いたが、陣形はまんまるになっていた。
この様子を大関高増はじっと見て
「壬生衆の逃げる方向が誤っているにも関わらず、陣形が整っている。若武者ども、気をつけよ」
しばらく追いかけると案の定、壬生衆は鬨を挙げて反転して攻めてきた。
その間に宇都宮勢は熊下山を通り自領へ落ち延びた。
また大関高増の弟である福原安芸守(福原資孝)は、敵方の岡本右京亮(岡本氏宗?)が死を覚悟している姿を見て
「人手にかけるな」と駆け寄って討ち取った。
安芸守の鉾に当たった者はすべて命を落とした。
また牧野顕高(資晴の弟)の嫡子八郎は十八歳で熊下の麓に逃げる敵に槍を合わせ、組み打ちの功を挙げた。
もちろん牧野顕高自身もあまたの戦功があり、松野に大勢の敵が控えていたために味方は誰一人続こうとしなかったが、単騎で駆け入った。
敵を四方に追い散らし、太刀が折れたため引き返し、味方の軍勢に馳せ帰った。
「大空に塞がるほどの餅もがな 生ける一期にかぶり喰はん 蘆野の被官、藤田九右衛門」
と矢鞍の前輪に書きつけた侍は首を五つ持ち帰った。
そのほかの那須勢も、首を一つ二つ取らぬ者はいなかった。
資晴は「熊下山を越し宇都宮領に攻め込もう」と言ったが
大関高増は「宇都宮氏が今後も当家を付け狙うようなことは避けるべきです。
またこの度の戦いは味方が悪所で待ち、攻めてきた敵と戦ったために勝利を得たのです。
もし佐竹や宇都宮がこれに気づき、今度は平地で戦うようなら多勢に無勢となりましょう。まずは凱旋なさるべきです」
と諌めたため、資晴は我意を通さず帰城した。
翌日、蘆野意教斎は資晴に謁見し、昨日の功を賞された。
意教斎は「日頃の念仏を忘れ、六人斬り殺しました」と答えたそうだ。

そののち資晴は千本常陸介(千本資俊)が祖父の高資(高資は資晴の伯父)を殺したことを聞き、その仇を報ずるため
同年の十二月八日、大関高増、大田原綱清、大田原資則(福原資孝)の兄弟ら十四人と密談し、
千本常陸介とその子十郎(千本資政)を滝寺へ呼び出し、誅殺するよう命じた。
こうして千本家の跡目は茂木氏の次男が継ぎ、大和守とされた。
このほか、資晴が宇都宮氏と塩谷・喜連川・小幡にて小競り合いをしたことは数えきれないくらいである。

天正十八年(1590年)以降は豊臣の殿下に出仕したため、競り合いもなくなった。
0722人間七七四年
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2023/03/19(日) 08:52:03.01ID:E5SxN48I
以前投稿された一連の那須家関連の話と比較すると
・上那須家滅亡:以前の話では那須資親の遺言となっていたため、大田原が偽造したのでは?と取れなくもなかった
・小田倉の戦い:以前の話では大関高増の助言によって那須資胤が切腹寸前まで追い込まれていた
・大崖山の戦い:以前の話では殿軍争いとはしていなかったため大関勢が適当な理由をつけてさっさと逃げたように見える
・千本親子誅殺:以前の話では大関高増の恨みから、としていた
続武家閑談は大田原や大関高増の汚さを抑えている印象
0723人間七七四年
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2023/03/19(日) 18:40:00.58ID:3oOcadZo
津村正恭の譚海に戦国時代に連歌が流行っていた話が二つ載ってたので

その1 松永弾正

松永弾正がある人のところで連歌をしていた。「薄にまじる蘆のひとむら」という句に上手くつけられずに悩んでいると、松永の宿舎から使いが来てこっそり何事かささやくが、弾正は相変わらず上手い句をつけようと悩んでいる。そんなことが二度三度あって、やっと「古池の浅きかたより野となりて」とつけると、すぐに「火急の用ができましたので失礼します」と帰ろうとする。隣の人が「何事ですか」と聞くと、松永答えて、「先ほどより宿所のほうに野武士が蜂起して押し寄せて来たとのことで、急ぎ参って追い散らしてきます」
0724人間七七四年
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2023/03/19(日) 18:42:16.04ID:3oOcadZo
その2 政宗と小十郎と紹巴

里村紹巴が松島見物に仙台に旅した時のこと。政宗卿が城内で片倉小十郎と四方山話をしている時に、「この頃紹巴が京都より下ってきて連歌を盛んにしているそうだ。一つ、紹巴を読んで俺もやってみよう」と仰って紹巴を呼んだ。すぐに紹巴はやってきて連歌が始まった。ホトトギスが鳴いていたので、政宗卿が「鳴け聞こう身が領分のホトトギス」と発句されると、小十郎横で胡坐をかいたまま、脇を付けましょうと言うと「鳴かずば黙って行けホトトギス」とつけた。紹巴おかしく思ったのか、「どうなりと御意に従えホトトギス」と第三句をつけた。

そこまで悪い話じゃないですが。
0726人間七七四年
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2023/03/21(火) 22:11:36.43ID:U41itv3c
「続武家閑談」から小田氏治と上杉謙信の合戦

永禄二年(1559年)四月二十八日、常州信太郡小田城主、讃岐守氏治入道天庵と越後の上杉輝虎入道謙信が真壁部山王堂において合戦をした。
小田天庵は年来戦争に長けており、結城・佐竹・宇都宮をはじめ近辺の諸将どもが攻めあぐねたため
示し合わせて諸方から攻めたが、完全な勝利は得られなかった。
そこで謙信の使者が上州に来られたのを幸いとして諸将は謙信の出馬を乞い
「小田氏を退治してくだされば幕下に属する」と約束した。
謙信は早速同意されて「八幡出馬しむるべし」と自筆で短冊に書いて諸家の使者に授けた。
使者が昼夜行軍で返事を持参した時には、もう謙信の先手は宇都宮の氏家原にまで来ていた。
諸将は謙信の行軍が迅速なことに驚いた。
謙信は八千の軍で昼夜通し行軍し、四月二十八日の夜、山王堂に着陣し堂を本陣とした。
堂下の道と原との間は四町ほどの深泥であり、その向こうは三十町ほどの芦野であった。
小田天庵は二千ばかりの人数で居城よりうって出て筑輪川を渡り、背水の陣で深泥を前にして備えた。
辰の刻ごろに謙信の軍勢はしずしずと山王堂を降り、真一文字に深泥を越えて行った。
小田の先手は弓・鉄砲・槍・長刀で、打ち殺し、射殺し、突き倒ししたため謙信軍の手負、死人の人数は数知れなかった。
しかし越後勢は少しも怯まず、討たれた人馬を泥の中に埋めるように踏みつけ踏みつけし、ついに小田勢を原へ追い返した。
こうして申の刻までには小田は打ち負けて引き返した。
天庵は最前渡った筑輪川を乗馬にてわたり、居城に引き返そうとした。
しかしあまりに馬が疲れていたため、川上へ馬の頭を向ける、水を長い時間飲ませた。
越後勢は天庵を大将と見て、川端から矢や鉄砲玉を雨のように降らせたが天庵には当たらず、天庵は難なく川を渡り小田へ帰城した。
諸将は謙信の余りの迅速さと威厳を恐れ、城に引きこもっていたが、謙信が勝利ののちおいおいに参上して謝辞をのべた。
謙信は諸将たちを先手として小田城へ押し詰めた。
天庵は四、五日ほど籠城したが、大軍が名将の指揮によってとりまいて攻めてきているため、小田家老の信太鴨之介が
「防戦はもはや叶わないでしょう。
天庵様には藤沢の城へ退かれ、再起を図ってください。
それがしはこの城に残って切腹いたします」
と諫めたため天庵はひそかに退去し、鴨之助は自害した。
謙信は勝鬨を上げさせてそのまま上州に帰られた。
翌日、天庵は藤沢よりうち出て小田城を取り返し、元通りにした。
鴨之助はもともと宇都宮氏が持っていた坂戸城の城主であった。
近年小田方に攻め取られていたのを、鴨之助が切腹したのちは、小栗城にいた宇都宮家老の小宅三左衛門がすみやかに取り返し、宇都宮没落の時まで在住した。

「続武家閑談」といっても
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4877.html
で紹介されている「常陽四戦記」の文章そのままだった
0727人間七七四年
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2023/03/22(水) 12:58:52.19ID:m4SjUIWQ
次の条に山王堂の戦いの追記があった

右の山王堂の一戦を、稲川石見という当時十八の真壁の侍が、戦場である芝野の上の明神山で見物していた。
両軍が攻めあっている間は戦場はしばしば煙霞のようになり、物の色がわからないほどであった。
戦いが終わると、霧がはれるように見えたという。
0728人間七七四年
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2023/03/24(金) 19:44:43.66ID:G01vG6zG
「常陽四戦記」から真壁久幹・太田資正と小田氏治の戦い
「続武家閑談」にもあるが「常陽四戦記」とまったく同じ文だった

真壁城の氏幹入道道無(真壁久幹)と小田天庵は長年あらそっていた。
元亀四年(1573年)四月、天庵が筑波山からつづく青柳山を越して、真壁と山ひとつ隔てた小幡村に出てきたため、道無は出兵した。
道無は、小田勢は真壁の西から攻めてくると聞いていたが、実は山を越えて小幡から攻めようというのであった。
太田三楽斎(太田資正)とその子梶原源太資晴(梶原政景)は柿岡に住んでいた。
資晴は佐竹の媒酌で道無の婿となっていたため、小勢ではあるが真壁に加勢することにした。
しかし小田勢は容易ならない相手であるので、真正面から当たることを避け、小幡の近辺にあった要害無双の古屋敷に入った。
太田勢は敵を突いては屋敷に戻ることを繰り返して時間稼ぎをした。
そうこうしているうちに道無勢が山を越えて来たのが旗でわかった。
天庵は太田親子を捨てて真壁勢に向かって備えた。
小幡の地は三方が山で囲まれ、平地は十町もない狭いところであった。
真壁勢は山から下って戦ったが、弓鉄砲は用いなかった。
これは小田勢の後ろの太田勢を討たせないためであった。
こうして小田勢は後ろから崩れて退却し、真壁勢は追い討ちをかけた。
道無の息子に安芸守十六歳と式部少輔十五歳がおり、坂本信濃守という剛のものがついていた。
安芸守は敵と組みつつ、山上から転がり落ちた。
安芸守の従者は助けようとしたが信濃守は叱って助けさせなかった。
とうとう平たいところまで落ちてきたが、敵が上になって安芸守の首を取ろうとしたため、馬取が敵の右手をとらえ、
吉田というものが駆け寄って安芸守に首を取らせた。
式部少輔も組み打ちの高名を得た。
こうして敗北した小田勢は、来る時に通った道を引き返した。
そこに真壁勢が山を登って追い打ちをかけたため、天庵は一度も振り向くことなしに四里の道を退いた。
三楽は追い打ちの軍には加わらず、小田勢の先回りをして先に小田城に乗り込み、門を固めて立て籠った。
天庵は小田城に入ることがかなわず、一里ほど離れた藤沢の城に入り、幾度も小田城を奪還するために競り合った。
三楽は高楼を建て、天庵の軍の動きを見張り、近い時は早鐘を、遠い時は狼煙を上げて真壁に知らせた。
こうして合図を定めて加勢を頼んだため、小田城を堅固に保ち、太閤の小田原の陣の時まで三楽とその息子の梶原資晴は小田城に在城したということだ。
0729人間七七四年
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2023/03/28(火) 19:17:16.21ID:Kg+NQ/Y7
「続武家閑談」から「羽州庄内の城主武藤義氏(大宝寺義氏)が事」

出羽国庄内の武藤出羽守義氏と申す者は悪逆であり、郡邑からむさぼり、戦のみに年月を過ごしていた。
ある年(天正十一年、1583年)の正月のはじめに、旗下の諸士を動員して領地の境を攻めようとした。
諸士は田川郡のよな坂という所で暫く休息した。
「さても屋形の義氏の無道のために、毎年戦に苦しみ、あまつさえこのように月日も多いのによりによって新玉のはじめから従軍することになるとは。
まことにに生きてても甲斐がなく、迷惑な次第である。
幸い我々の中でも東禅寺右馬介(東禅寺義長)は大身であるし、なにか一思案ないだろうか」
と口々に申した。
右馬介は「我も左様におもうけれども、一人の方策というのもなんだから、おのおの同時に方策を申そう」
こうして諸士が異口同音に「逆心!」
と言ったため、とって返して屋形の屋敷を攻めたところ、義氏は同じ出羽の金沢へ落ち延びようとした。
しかし新山森というところまで義氏が逃げたところで、諸士が追いついて義氏を討った。
しかし誰を主君とするあてもなく、最上(最上義光)の旗下となり、義氏の弟で丸岡の押領使である丸岡兵庫の息子を迎え、義氏の娘を娶せて主君となした。
しかしまた悪逆の兆しがあったため、上杉方となり、本庄越前(本庄繁長)の息子を越後から呼び寄せて主君とした。
「最上軍記」の説も大同小異である。
ただ屋形の名前を満安としているが、これは誤りである。
庄内の寺院に彼の位牌が今でもあり、実名を義氏とたしかに位牌の表に記してあるそうだ。
0730人間七七四年
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2023/03/28(火) 19:50:17.66ID:Kg+NQ/Y7
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8680.html
鮭延落城後の鮭延秀綱

「奥羽永慶軍記」では武藤義氏と武藤「光安」を別人としているが武藤光安は実在不明
「最上軍記」で武藤義氏を武藤満安と表記しているとしたら本来同一人物だったのが別人になったのかも
ついでに「奥羽永慶軍記」の武藤光安は妊婦の腹を裂くという暴君テンプレをしている
0731人間七七四年
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2023/03/30(木) 23:47:50.84ID:wJymD5x+
「続武家閑談」から、樋口石見守(樋口知秀)武勇のこと

近江国の杉の沢に樋口信濃守盛継という武士がいた。
佐々木定頼(六角定頼)の配下として細川晴元を助けるため播磨に出陣した。
入江左近将監は樋口と同家だったため、両家あい並び武威をふるった。
樋口信濃は芥川城で卒去したが、その子供が石見守知秀である。
芥川城落城の時、家来の田村与七兵衛というものが守護した。
永禄十二年(1569年)正月、公方義昭が京都本圀寺御寓居の時に三好三人衆が攻めてきた。
このとき石見守は馳せ参じ軍功を成したため、信長に召し出され秀吉公につけられた。
近江・越前でも抜群の軍功をあげた。
その弟の樋口兼継も荒木村重の反乱の折、信長公の味方として出陣したが、太田川で戦死した。
石見守はその敵勢を突き崩し、一人を討ち取った。
そのとき池田恒興から笄を賜り、今に伝来している。

石見守はそのころ有名な太鼓の名人であり、秀吉公の寵を受け従五位下に叙し山城で百二十石を拝領した。
天正十八年(1590年)の小田原の陣では鼓の筒の指物をさしてお供し、御陣場で権現様から杯を頂戴した。(今も伝わる)
名護屋の御陣中でも秀吉公に出仕し七百石の加増を賜り千石を領した。
そのほか山崎八幡の奉行や、播磨摂津の道割の監督も務めた。
慶長五年(1600年)九月に権現様が関ヶ原で御勝利された時は重病であったが山科まで参上し拝謁した。
権現様から御感の上意があったという。
翌年四月に山崎近辺の別所村で卒した。

その子、甚七知直は幼少であった。
秀吉公から賜った亀の笄、ならびに遺品である樋口肩衝を献上して本領別所村の安堵を願った。
権現様は不憫に思われ、片桐且元、大久保長安に仰せつけられ安堵を認められた。
甚七は成長後、江戸にいたって白書院で秀忠公に拝謁し、御朱印を頂戴した。
寛永三年(1626年)の秀忠公御上洛の時、土井利勝が奏者として顔合わせをした。
秀忠公から「父によく似ている」との御言葉があった。
父同様に太鼓が上手なのでそののちも芸をあいつとめ、子孫も引き続き別所村百三十五石を領し、江戸に毎年参勤して太鼓の芸を上覧にいれた。
とはいえ武士であり、猿楽の四座とは別物と若年寄衆も承知されていた。
しかし子孫の久左衛門秀植の代に至って、貞享の頃観世座の合属となってしまった。
まことに武門が嗜むべきは弓馬の道、愛するべからざるは遊芸である。
その道をもて遊び、ついに役者に落ちてしまったこと、嘆くに余りある。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13843.html
「武家閑談」から小田原の陣での家康と信雄

小田原の陣での話はこちらにもあった
0732人間七七四年
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2023/04/05(水) 16:32:14.17ID:OzRsC2U6
『異説まちまち』から松平忠輝のちょっと悪い話

忠輝公が諏訪に謫居されている時は、南ノ丸にあらせられた。厳密なこともなく、諏訪家の御家来の子供などが南ノ丸へ料理人として勤めに行くことがあるぐらいだった。昔、因幡守殿(諏訪頼水)の時代には、鷹狩にお連れして鷹を合わせる様子などもお見せしたが、憲廟(綱吉)のころ、出雲守殿(諏訪忠恒)の時代には、厳密に守護したてまつるようになった。忠輝公も因幡守の時代にはこうではなかったのに」と仰ったそうだ。
毎度のように、「政宗に騙されて口惜しい」仰っていたが、謫居されている間には、一伯公(松平忠直)のように手荒なことをされるご様子もなく、いたってご神妙にされていた。諏訪殿の末子の五郎左衛門殿(諏訪盛條、忠恒の四男)へ相撲取りの目貫を贈られ、今に残っている。「五郎左衛門、そなたは捩じ合いが好きゆえこれをあげよう」と仰って贈られたそうだ。
忠輝公に付き添いで来られた方は柾木左京と千本隼人という人で、左京が死去の時御使番が検死に来られた。それで、忠輝公がご死去のおりには、きっと厳密に検死されるだろうと諏訪では準備していたのに、思いのほか簡単な検死ですんだという話だ。
0733人間七七四年
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2023/04/07(金) 19:24:39.60ID:DDBB+4sJ
いい話スレで数日前に名前が出ていた「永禄日記」から元和元年から元和二年(1615-1616年ごろ)の大飢饉の描写

元和元年
稲穂が出てきた八月十六日(西暦では10月初旬)に大雪が降ったため国中の稲が黒くなった。
稲は残らず捨てることとなり、大飢饉となった。
殿様(弘前藩二代藩主の津軽信枚)が十二月二十七日に帰国した時、大間越の海岸筋は死人がおびただしかったため、飛び越え飛び越えして通過することになった。
これをご覧になった殿様は中村蔵之丞を急いで越後に遣わし、種籾や米を積んで戻ってくるよう仰せつけた。
元和二年、正月頃より町も在所も空き家ばかりになり、城のあたりも行き倒れの者が多く、国中に米が一切なかった。
雪中から沼の川骨(スイレン科の薬草)、草根を掘って、雪がだんだんと消えるまで、命をなんとかながらえていた。
城中でも米穀を召し上がるのは奥方(家康の姪の満天姫)だけで、そのほかの者はわらびの根餅、炒り大豆だけ食し、貴賤問わず米飯を食べないことが十四、五日続いた。
三月に入り、越後から米二百俵、商業用の米七百俵が着岸したため、四月下旬に米を給付した。
しかし久しく腹中に穀物を入れていなかったところに急に米飯を食べたことにより、死人がおびただしくでた。
城の四方の堀の近くに積み重なっている死人が数え切れず、目も当てられないほどであった。
これを餓莩(がひょう、餓死者のこと)山と言った。
同月十四日、公儀から拝領した米一万石が着岸したため、一人当たり八升ずつ救米として下した。
0734人間七七四年
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2023/04/08(土) 19:14:18.91ID:nf/qzOpj
江戸時代の北東北なんか稲作するべきじゃねえんだよな
ただ石高制を採用されたら国力を高めるためにしちゃうんだろうけど
実際津軽の実高って最終的には水戸藩越えてくるからずっと開発してたんだろうし
0735人間七七四年
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2023/04/08(土) 22:37:02.89ID:W1P9uE03
「朝野雑載」から筑紫広門、秀吉に謁見

筑紫上野介(筑紫広門)は大阪に上って太閤に謁見した。
太閤「筑紫では我のことをどう言っておる?」
上野介「西国においては、上様については人ではなく神のように申しております。
また上様のようなお方を見出された信長公は、なおさら霊妙な御知恵だと申しております」
これを聞いた太閤は
「その方の申すとおりである。しかし信長は片目であった」とおっしゃった。
上野介「信長公が片目だとは聞いたことはありませんが」
太閤曰く「信長は片方の見えている方の眼では我のようなものを見出した。
しかし見えていない方の眼では明智のような悪人を良い者として取り立てたのだ。
まさしく片目ではないか?」
0736人間七七四年
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2023/04/08(土) 23:18:26.24ID:o/hog2M4
そりゃ美味くて高い作物と不味くて安い作物のどっちを選ぶかってのは百姓自身のプライドでもあるのよ
領主の命令なんてつまらないものではないのです
東北の農民と大名たちは効率意識がなかったというのはゆとりある現代人の視点
0737人間七七四年
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2023/04/10(月) 14:46:38.62ID:7bblbaYp
リフィーディング症候群は経験的に知られてたろうけど、こんなに苦しいなら飯を腹一杯食って死んでしまったほうがよいということかな
0738人間七七四年
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2023/04/10(月) 16:05:03.98ID:qx44f/74
最近の説だと野菜(植物)からのカリウム過多症での死亡ってのも多かったんじゃなかったかというのも
現代の健康食信奉者でも陥りやすいそうですね

一見して体によさそうなメニューでもそうなっちゃうとか
0739人間七七四年
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2023/04/11(火) 19:15:38.61ID:p4iyP/gj
「朝野雑載」から大坂冬の陣の和睦の際の落首

大坂陣の時の和睦は、京極忠高の母堂の常高院(浅井初)によるものだったので、落首が書かれた
茶臼山、ひきわけになるあつかひは 京極どののふくろちゃときく

阿茶局の方が名前的にぴったりだと思うけど
0740人間七七四年
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2023/04/12(水) 19:39:00.99ID:jFJFcP+c
放し囚人(めしうど)が家の中に籠もっている場合は、粗忽にその家に押し込むべきではない。
事前にその家の内に科人が何人居て、どんな武器を持っているのかを聞き定めるべきだし、その上
こちらの人数の中に慌て者がいれば、そういった者は敵も味方も見境なく切り突きするものなのだから、
慎重になるのは尤もな事なのである。

しかしながら、無案内なる人の沙汰に、名の高い武士がそういった場で、科人の居宅にすぐに押し込まない
事に対し、良き武士はその理由を説明しない故、これを幸いと思い、悪しき悪しきと非難するのは、
臆病な侍による女の批判というべきものであろう。そういった人を”あすならふ侍”という。

その仔細は、諸木の中に名の無い木が一本あった。この木が申すには
「杉より檜の方がまし、檜もこめなるは良し」などと沙汰した。
他の木々は問うた「ではそなたは何なのか}」
かの名のない木は「それがしは檜のぢゃう(定)にあすならふ」
と言ったが、ついに何者にもならなかった。

この木を”あすならふ”と名付けたように、良き武士を妬んで、手柄のない男は”あすならふ男”あすならふと
これを名付けたのだ。

そう、内藤修理(昌豊)は笑って言った。

『甲陽軍鑑』
0741人間七七四年
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2023/04/13(木) 10:12:26.79ID:d35Cttq/
「こめなる」はどう言った意味なんだろう?
0742人間七七四年
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2023/04/14(金) 16:51:10.92ID:q22LVapy
鶴田自反「博多記」から島井宗室についての話をふたつ

島井宗室の家に名物の楢柴という茶入(楢柴肩衝)があったのを、秋月種実が所望した。
秋月が押しかけるという風聞があったため、島井一家は宗室に「秋月に譲ってしまえ」と意見した。
こうして秋月から遣いがきたため、宗室は数寄屋で饗応し、楢柴の茶入れを渡した。
使者が門外に出るやいなや、宗室は数寄屋を崩した。
秋月からは楢柴の茶入の礼として大豆百俵が参ったそうだ。
そののち秀吉公が島津征伐に御下向の時、秋月種実は嘉麻郡芥田村までまかり出て茶入を献上したという。
0743人間七七四年
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2023/04/14(金) 16:52:27.12ID:q22LVapy
秀吉公が大坂城で島井宗室をお呼びになったため、島井宗室は夜に日を継ぎまかり出た。
大坂川口で石田三成が出迎えて宗室に言うには
「このたびその方を呼んだわけだが、朝鮮征伐を秀吉公が思しめした。
その方は朝鮮にも度々渡海いたしておるため、詳細をお尋ねになるであろう。
そこでこのように申し上げよ」
といちいち申し合わせた。
さて秀吉公が御対面あそばされ
「このたび朝鮮征伐を思い立ったため、その方を呼んだ。
ついては思うことをいちいち申せ」
との御意であったため、宗室は
「朝鮮は韃靼につづく要害の地で日本とはかなり異なります。
征伐はなさらぬが良いでしょう。」
と石田三成の教えの通りに申しあげた。
ことのほか秀吉公は御機嫌を損し
「われが思い立てば、唐土四百州を押し潰すことでさえ、たなごころをかえすほどである。
商人ゆえにそれさえも知らぬようだ」
と仰せになり、奥にお入りになられた。
宗室はこれ以来、秀吉公に呼ばれなくなったという。
0745人間七七四年
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2023/04/15(土) 14:51:50.33ID:oiuiA72G
放し囚人(めしうど)を討ち取る時、家の内、或いは外であっても、これを討つ者たち各々がかかった所で、
誰であっても最初にかかって切り結び、かかりつつ引きつつ、乱れて勝負をする時、脇や後ろから別人が
寄ってきて、刀、又は長道具、弓などでその科人を殺した場合、定めてこの殺した者が、放し囚人を仕留めたのだ、
とされるのは大きな非議である。

何故かと言えば、討つ相手に対して打ち手の者たちが寄りかねる所を。抜き出てかかる心というものは
優れており、その上切り合ってるところであれば、横からでも後ろからでもかかるのはやりやすいものである。
であるので、始めに先ず切り合った人の手柄を一番とする。二番目は殺した者だが、これは始めに勝負いたした
者に続いての手柄である。

このことについて、人がかからぬ時に一人勝負を始める意地は、人に優れてやさしく、こういった人物は
合戦、競り合いの時でも、放し討ちでこのようである以上、定めて一番鑓をするであろう。
さて又、人に戦わせておいて自分はやりやすい場所に参るような者は、先の人物から、はるばると間のある
意識である。故にこれを「ほそ心ばせ」と呼んでいる。

これは昔から今に至るまで、武士の作法である。

そのように馬場美濃守馬場美濃守(信春)が申し定めた。

『甲陽軍鑑』
0746人間七七四年
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2023/04/17(月) 20:56:35.24ID:NRGRbG2x
甘露寺親長「親長卿記」から後花園天皇の追号が決まるまで

文明三年(1470年)二月別記

旧院(後花園天皇)の追号について「後文徳」「後花園」のうちどれがいいか協議したところ、「後文徳」を推す意見が多かったため一度は「後文徳」に決まった。
しかし一条太閤(一条兼良)が「文徳は田村帝の諡号であり、「後」の字を諡号につけた先例はないとおっしゃったため協議が続いた。

最初の申詞(発言記録)
二条太閤(二条持通)書状
旧院の御追号については、諸卿の協議で決めることではあるが、私は以前から申している通り「後文徳」が御意にかなうと思う。
 
日野前内大臣(日野勝光)
後文徳がよいと思う

右大将
後文徳、後花園、どちらもよいが、「文徳」は「史記」に由緒があるのに対し、「花園」は由緒がないので「後文徳」がよいと思う。

中院大納言(中院通秀)
どちらもよいが、旧院の御治世を思うと「後文徳」を用いるべきだと思う。
 
予(甘露寺親長)
どちらもよいが、御一流(直系の先祖)でないのに後をつけることは問題があるかもしれない。(文徳も花園も直系ではない)
とはいえ後花園でも問題はないだろう。
 
勧修寺前大納言(勧修寺教秀)
文徳天皇の継体の君は清和天皇であり吉例である。
花園天皇は響きはいいが、次代が後醍醐天皇であり吉例とはいえない。
前後も含めて当代の規範となるか判断すべきである。
また旧院は往昔、文にも優れていたため後文徳がよいだろう。
0747人間七七四年
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2023/04/17(月) 20:58:04.70ID:NRGRbG2x
二度目の申詞

日野前内大臣
最初に申した通り、文徳で問題はあるまい

右大将
追号と諡号は趣旨が似ていて、「後」の字を諡号につけた例はないというが、同じ諡号を区別するために「後」を諡号につけるのは問題はないだろう。

中院大納言
そもそも諡号というものは周代に始まり、日本では神武から文武帝まで四十二代は淡海公(藤原不比等、実際は淡海三船)が作ったというが詳しいことはわかっていない。
そののち生前の徳行を諡号とし、院御所の地名を追号としたのだ。
子孫がどうのと言っているが、後朱雀、後冷泉、後三条帝などは直系の子孫ではない。
また柏原、深草、田村、水尾、小松帝などは桓武、仁明、文徳、清和、光孝帝といった諡号に後で追号したものだ。
また顕徳院をわざわざ後鳥羽と改めた例もある。よろしく聖断あれかし。


文徳は田村帝の諡号であり、後の字を諡号につける例は管見では見当たらない。
顕徳院を後鳥羽に改めた例があるなら、後文徳以外にするべきだろう。

勧修寺前中納言
元明天皇の勅令で国や郡名を諡号にしていることは明確である。
当然、山陵や御所名を諡号に準じることになるのだから、後文徳も問題なかろう。
0748人間七七四年
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2023/04/17(月) 21:00:19.20ID:NRGRbG2x
三度目の申詞

二条太閤
そもそも一度決まった旧院の御追号を後に改めることは、讃岐院を崇徳、顕徳院を後鳥羽、と改めた例があるが、ともに配流にあわれた例でありよろしくない。

久我前右大臣(久我通尚)
御追号が文徳院に決まったのを後近衛、後土御門、後花園のどれかに改めるという話だが、多数決に従おう。

今出川前内大臣(今出川教季)
三つとも由緒がないが、後花園でいいと思う。

日野前内大臣
改めるとしたら後土御門にするべきだ。

右大将
改めるのが決まった以上は、後土御門がよさそうだ。

中院大納言
土御門の土地は今の皇居があるところであり、差し障りがあるので後近衛がよいだろう。


土御門は現在の皇居の名であるため、以前も申した通り後花園で問題ないだろう。

勧修寺前中納言
土御門は皇居の地であり、天下静謐(応仁の乱の最中)になったのちに還御するのであるから使いにくい。
後花園は以前申した通り、次代が吉例ではない。
かといって後近衛は直系の先祖でもなければ由緒もない。
どうとでもなされよ。

太閤(一条兼良)に重ねて尋ねたところ、後花園がよいということになった。
0749人間七七四年
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2023/04/20(木) 15:55:48.48ID:PkBOkJ1I
『異説まちまち』からたぶん悪い話

高力小一郎は公儀からの付人だった。大阪の陣で、ある手負が苦しみに耐えかねて「もはや動かれぬ。誰か我が首を取ってくれ」と呼ばわっているところに、小一郎近づいて首を取らずに側の鉄砲を奪って戻った。

年代的には高力忠房が当てはまるけど、小一郎の名乗りがあったかは不明
0750人間七七四年
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2023/04/22(土) 20:28:49.01ID:HFxUyFUP
「朝野雑載」から石田三成と田中吉政
(前半は有名だけどついでに)

関ヶ原での敗戦後、田中吉政は石田三成の捕縛を命じられた。
吉政は「三成は風流ゆえ、もし途中に匂いのある鼻紙が落ちていたら気をつけろ」と下知した。
石田三成は古橋村の与次郎大夫のもとに匿われていたが、近辺の村まで吉政の追及が及んでいると知った三成は与次郎に自分を突き出すよう命じた。
与次郎は拒んだが、三成は「病が重く歩行もままならぬ。このまま探し出されるようなら汝も罰せられるだろう」と説得したため、与次郎はしかたなく訴え出た。

田中吉政は石田三成を乗り物に乗せて連れて来させ、対面した。
吉政は慇懃に挨拶したため、三成は太閤から賜った秘蔵の貞宗を吉政に授けた。
吉政は三成が下痢を患っていると聞いたため、韮雑炊と薬を勧めた。
三成は「こうなっては薬を服用しても意味があるまい。田兵もおかしなことを言うものだ」と言ったが、
吉政が「命を救うためではなくお苦しみを和らげるためです」と勧めたため、三成は承知して保養した。
三成が囚人となってもいつも通り「田兵(田中兵部大輔吉政)」と言ったのは、さすが秀吉の寵臣だけはある。

しかし太閤御在世の時に伏見城で家康公と田中吉政が碁を打っていた時、家康公に助言する者が多かったのを見た三成が
「この碁は敵が多いため、田兵の負けであろう」と言い捨てたのは、おのれの権威を誇って無礼をなす悪人と言うべきであろう。

また三成が小西行長、安国寺恵瓊とともに囚人となった時、家康公から服を与えられた。
小西は「これほどのご厚情を受けようとは」と恥ずかしがり、
安国寺は何も言わなかったのに対し
石田は取次に対して「この小袖は誰から賜ったものだ?上様から?秀頼公のほかに上様がいる者か」
とカラカラと笑ったため、みな石田を憎んだという。
0751人間七七四年
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2023/04/24(月) 19:34:36.33ID:XQVv9F5c
ちょっと三成のこと好きになった
0753人間七七四年
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2023/04/26(水) 00:21:10.25ID:hsBCYKEj
くずし字の解読をした上でなので、不備があったらすみません
「続武家閑談」から「江利内蔵介、広言により切腹のこと」

秀吉公の九州征伐の時、秋月家から聘使と偽って江利内蔵介というものを差し遣わした。
江利は広島で秀吉公にお目見えした。帰ったのちに主君である秋月種実に申すことには
「このたび秀吉殿下の軍勢は何十万騎と限りなく、四国中国はことごとく先手となっております。
九州の諸将からも聘使が集まっておりましたので、かくなる上は島津殿に御降参を勧めるべきでしょう」
すると種実・種長親子を始め、みな異口同音にどっと笑い
「汝は臆病か、またはよい脇差をもらったゆえに降伏をすすめるのか。
その猿冠者は下賤の者であり何ほどのことがある。
当家は漢の高祖の子孫で武勇で名高い。
(後漢の霊帝の孫、阿智王の子孫とされる。
阿智王の息子である阿多陪王が斉明天皇に三男子を産ませ、真ん中の子が大蔵氏(原田氏、秋月氏、高橋氏などの祖)となったという荒唐無稽な話も)
ことに八町坂の大切所は難所であり、日本・唐土の軍勢がひとつになって攻めてきても何ほどのことがあろうか」
とおのおの口々に申した。
内蔵助は重ねて「不肖の身で広言いたしますが、このままでは当家の運が傾きます。
もう一度同じことを申します」と言ったが
「憎き雑言をまだ言うか。腹を切れ」
と言われたため、切腹して果てた。
こうして秋月種実は八幡宮に詣でて、くじを引いたが「秀吉に従え」と出た。
すると板並左京進が進み出て「くじは三度引いてこそ吉凶が定まると申します」
とかねて用意した「一吉」「二吉」とすべて吉の字を書いたくじを取り出し、種実に引かせた。
こうして二つとも「島津に味方せよ」というくじであったため、秋月は薩摩方となることにした。
0754人間七七四年
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2023/04/27(木) 19:31:55.77ID:mjz2t1qD
「続武家閑談」から上の続き「秀吉公九州へ発向軍略の事」

秀吉公は豊前厳石城(岩石城)を始めとして大隈城以下を攻略し、大隈の城に陣をとった。
秋月の侍どもが姑所城(古処山城、秋月氏本拠)からながめると嘉麻一帯の寺部は山川残らず兵であふれ、夜になると篝火が万も焚かれ、灯会のようであった。
夜が明け、大隈城を見ると一夜のうちに腰板がうたれ、白土が塗られていた。
これは播磨の杉原紙を壁に貼り、家屋の戸板をはずして腰板になされたのであった。
秋月勢は「さてこそ天魔の仕業であろうか」と仰天した。
秋月種実親子も、江利内蔵介の忠言を今更ながら思い出し、降参した。
そして内蔵介を厚く葬り「鳴渡の観音」とあがめたのが、今でも残っている。
0755人間七七四年
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2023/04/30(日) 20:25:20.02ID:wzp3miEb
「続武家閑談」から「秋月居城姑取山を生駒雅楽頭に御預けの事」

秀吉公は秋月氏居城の古処山城を生駒親正に御預けになられた。
親正がたいそう険しい古処山に乗り上げると、西国武士どもは驚き
「馬に鳥が生えて白い轡をはめ、鳥も通わぬところを通るとは、稀代のことだ」と口々に言った。
これは乱世により諸国から九州に馬面・馬鐙・白轡の進呈がなく、九州の者どもがそれまで知らなかったためである。(?)
秀吉公は秋月の東北の荒平に陣を敷き、二日逗留して仕置きを申しつけ、肥後へ出発された。
鍋島直茂ら九州の軍勢が先手を勤めたが、西国衆のいでたちははなはだ見苦しかった。
また指物を請筒(受け筒)に指すことを知らず、縄で背中に指したり、肩にかたげたりする者も多かった。
それを見た上方勢が手を打って笑ったため、直茂が秀吉公に申しあげたところ
秀吉公「そのように上方勢が国ごとのならいを知らずに笑うことこそ不覚である。
今後そのようなものがいれば罰しよう」
と戒められたため、以後笑うものはなかったという。
0756人間七七四年
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2023/05/15(月) 10:01:07.43ID:ZDewH9ua
https://image.shinmai.co.jp/web-image/20230426/CNTS2023042600087_S.jpg
NHK信州 NEWS WEB“信玄が実際にかぶった”「諏訪法性兜」特別公開 下諏訪町
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagano/20230502/1010026425.html

戦国武将、武田信玄が実際にかぶったとされる「諏訪法性兜」が、下諏訪町で特別公開されています。
下諏訪町の諏訪湖博物館・赤彦記念館では、今から450年前の1573年に亡くなった武田信玄が、
戦場でかぶったとされる「諏訪法性兜」の実物が特別公開されています。
鉄や革などでつくられたかぶとは幅がおよそ40センチで、前立には金色の角をつけた赤鬼が配され、
頭頂部から肩にかけて施されたヤクの毛が印象的です。
このかぶとは元々、諏訪大社が所有し、信玄は軍神として名高い大社の諏訪明神を厚く信仰し、戦勝祈願を
行った大社で、このかぶとを借りて戦場に向かったと伝えられています。
0757人間七七四年
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2023/05/15(月) 10:05:37.68ID:ZDewH9ua
笹間良彦『甲冑と名将』より
諏訪法性の兜について

昭和・平成初期の甲冑研究の大家笹間良彦によれば、武田信玄は諏訪明神を篤く信仰し、陣中に諏訪南宮法性大明神の幟を立てたという。
同じく兜に諏訪南宮法性大明神の神号を刻んで、川中島以下の合戦に着用したとされる。
この兜は、現在、下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館に所蔵されるものがそれである。

月岡芳年の武者絵やこの兜にはふさふさとした白熊(白いヤクの毛)の飾りがついているが、実は長篠合戦の時期に武田勝頼が、徳川方から
鹵獲した唐の頭(同じくヤクの毛飾り)の兜を、「唐の頭を手にとったことがない故、持参して見せよ」と命じたという。

こうなると信玄の兜の飾りを実の息子が知らなかったという矛盾が生じる。
江戸時代後期の浄瑠璃・歌舞伎作品『本朝二十四孝』の中で、上杉家の息女八重垣姫が獅噛の前立に白熊の毛の兜を持って現れるが、
ここから後世誤って実像が作り上げられ、下諏訪の「諏訪法性の兜」も製作されたものと思われる。


以上は歴史研究者にはよく知られた話でありますが、時代劇の信玄と言えばこれ以外の格好は思いつかないくらいの定番なので、テレビドラマでは
なかなか外せない状況のようです。


なお、これが本物であると新庄藩戸沢家に伝来した諏訪法性兜なども、一般非公開だが失われずに実在します。こちらはごく普通なデザインの東国系兜です。



まとめサイトの関連する過去ログはこちら

八重垣姫の像・碑文
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13689.html
名高き兜を敵に取られては如何なものか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11578.html
戦国の遺品がなんでそんなところに、「諏訪法性兜」編
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3387.html
武田信玄の「諏訪法性の兜」について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1162.html
0758人間七七四年
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2023/05/16(火) 21:01:32.73ID:J1xtkm3W
武田信虎公の御代には、軍法も信玄公の時代の十分の一も無かった。
殊更、信虎公二十八歳の時のくしま(福島)合戦の砌、譜代衆は大方が在所に引き籠もり傍観したのだが、
信虎公はこのくしまに勝たれ、その時から甲州一国の衆を八年の間に尽く絶やそうとなさり、そのため
二百、三百、或いは五百ばかりた立て籠る城を攻め取られた。これにより矢疵、鑓疵、刀疵など
激しく手負った衆が多かった。

しかしながら信虎公家中において、普代衆、牢人衆の中で健やかなる武士を七十五人選び出された
侍衆も、信玄公の時代に大方討ち死にして、年寄りとなるまで長らえたのは、横田備中、多田淡路、安満、
鎌田織部、原美濃、小幡山城の六人だけであった。
殊更、ここ六十年は鉄砲があることで、武辺を掲げる衆は一層討ち死にが多くなった。

鉄砲は大永六年に井上新左衛門という西国牢人が信虎公に奉公申し上げたが、この侍が鉄砲を持ち来て
訓えたと申し伝わる。さりながらそれはごく一部の人々に過ぎなかったともいう。
その後、信玄公が若き頃に、かち路大膳、同又作と申す牢人親子があり、この侍が各々に訓え、
近年は佐藤一甫と申す牢人が甲州に来て訓えた。
現在は侍衆は皆、鉄砲能く上手に撃つ。その中でも横田十郎兵衛、日向藤九郎の両人は、特に
鉄砲を用に立てる者たちである。

『甲陽軍鑑』
0759人間七七四年
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2023/05/17(水) 11:52:46.46ID:qnzlWpsu
まとめサイト過去ログ
唐の頭に本多平八
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12224.html

まとめの過去分にもあるように『甲陽軍鑑』で、三方ヶ原合戦(の前哨戦の一言坂の戦)で、徳川方の多くが舶来品の
唐の頭(ヤク毛飾り)を甲冑に付けて戦い、中でも本多忠勝が勇戦したことで、小杉右近助という信玄近習が
「家康に過ぎたる物が二ツあり 唐の頭に本多平八」と詠んで坂に立てて称賛したという。

とした話が有名ですが、小杉左近(右近助)は実在が疑われる人物でこの逸話も信憑性が疑われていました。

『大日本近世史料「細川家史料二」』に、元和八年(1622)より寛永四年(1627)までの、細川忠興より忠利宛て書簡が編纂されています。
この中の寛永四年分に以下の内容があって、現在は「信其」という人物が実際に詠んだ作者ではないかとみられているようです。
信其の詳細は不明。

「信其ノ日々記、今朝よそより帰候て只今帋(かみ、紙と同意字)一二枚見申候、事ノ外数多キ事候間、奥まて見候事成ましき間返申候、
此内ニ本田(ママ)中書之若時ノ事ヲ、信其唐ノ頭ニ本田平八とうたニよまれ候由申傳候、御入候哉可承候、」



東京大学史料編纂所  『大日本近世史料「細川家史料二」』
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/5/pub_kinsei-hosokawa-02/
0760人間七七四年
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2023/05/21(日) 21:38:55.38ID:8ODzLh+/
貝原益軒「朝野雑載」から松平信康を介錯した天方通綱のその後
前半部分は有名だけど一応載せておく

天正七年(1579年)九月十五日、信康卿が二俣城で切腹することになり、渡辺半蔵(ママ)と天方山城守(通綱)が検使として遣わされた。
信康は両人に「いまさら申し上げても意味がないが、子供の身で親に逆心を起こすような人倫の道に外れたことがあろうか。
我が武田勝頼に心を合わせ当地に武田勢を引き入れよう話など、日本中の神々に誓っても言うが、虚説である。
我の死後、どうかこのよしを申してくれ」とおっしゃった。
両人とも承諾したため信康卿は御満悦のお顔で「半蔵は幼少の時分よりの馴染みなのでそなたに介錯を頼むぞ」とおっしゃった。
しかし腹をお切りになり「半蔵半蔵」と呼ぶも、半蔵は大いに震えどうにもならなかったため天方が介錯した。
両人が浜松に帰り信康卿の御遺言を申し上げたが、家康公は平生のお顔で何もおっしゃらなかった。
榊原康政、本多忠勝は声を上げて泣き出したため御前を退いた。
家康公は天方の脇差の銘をお尋ねになり、千鳥村正と聞くと
「我が祖父清康卿が殺害されたのも、我が幼少の時分駿河で削刀で手を切ったのも、村正であった。村正は当家に不吉である」
とおっしゃった。

そののち天方山城守は当家を逐電して高野山に遁世したという。
しかし年来天方と親しかった朋輩が有馬に湯治のついでに高野山に行ったところ天方に出くわした。
世間話をしたのち
朋輩「貴殿はどうして浜松を立ち退かれたのか?」と尋ねたところ
天方「別に理由もないが、貴殿も御存じのように若殿を手にかけ、その後世の中が味気なくなり鬱々としたためだ」
朋輩「戦国の世なのにさほどのことで無常を感じ気弱になるとは。ほかに理由があるのでは?」
天方「正直に言うと、渡辺半蔵が介錯の時に大いに震え、このままでは若殿もお苦しみだろうと見かねて介錯をした。
そののち家康公が我の脇差を見て
「千鳥村正は当家に不吉である」とおっしゃり、
そののち御近習との御雑談で家康公が
「渡辺半蔵は槍半蔵と呼ばれる武辺者であるが主人の子供の首を切る段においては腰を抜かしてふるえよった」
などとおっしゃったと聞くと、それでは我を主人の子供の首を切ったと思われるのか、と思うと御奉公もいらぬと思ったわけだ」
結城秀康卿はこのことをお聞きになり、不憫に思われたのか越前を拝領の時、高野山の天方を召し出され、高禄を与えて召し抱えられたということだ。
0761人間七七四年
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2023/05/22(月) 17:50:40.97ID:B5XhHAMH
「続武家閑談」から「前田利長夫婦京見物に乗出し本能寺信長乱を知り勢多より帰る事」

関連話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13431.html
かかる太平の世に逢候事ハなりかたき事
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3779.html
利長が輿をかつぐ者達を見ると

前田利長夫婦(当時数えで利長21歳、永姫(信長の娘)9歳)が同伴で京見物のために北国から上京しようと、まず安土城にいたった。
天正十年(1582年)六月二日、安土から勢田までおもむいたところ、向うから信長の奴僕がまっしぐらに来て「本能寺で信長公が弑せられました」と言った。
供のものどもは色を失った。
利長が言うには「父利家の領地である越前府中はここから遠く、一足とびには帰られないだろう。
まずは尾張にいる一族前田与十郎(前田長定)のところに妻女を預けよう」
すると六人の供が皆もとどりを切って
「尾張への御供はいたしません」とはっきり申した。
利長はこれを聞いて
「我らが妻女をおもうのも、汝らが越前にある妻子を心配に思うのも、心は同じである。
おのおの帰ってよいぞ」とことごとく帰した。
そして内室(永姫)に大小をささせ、馬に乗らせた。
恒川監物と奥村茂右衛門(奥村助右衛門永福?)が馬の口をとり、尾張へおもむいた。
一方、利長はまず安土の屋敷に入り、そこから越前に帰ろうとした。
このとき新参の武士は残らずいなくなり、譜代のみが供をしたという。
人心は今も昔も変わらぬはずだが、新参者は世上に有縁のものがあるために身を片づけやすく、
譜代はなかなか他家には縁がすくなく、また母や妻子が皆主人の領内にあり、逃れる手だてがなかったためであろうか。
0765人間七七四年
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2023/05/24(水) 17:42:55.89ID:v+W2Lmab
成金金ピカ大好き秀吉の遺品が成金中国人に買われるのは秀吉らしい
0767人間七七四年
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2023/05/24(水) 18:37:04.70ID:VImIPFtI
そもそも長坂釣閑斎という人物は、武辺についても数度を成した人物ではあるのだが、無分別故に海尻の城を
開いて、大いに臆病者と言われた。

釣閑斎の仕形は御家の御為を考えず、自分に取り入ろうとするものを褒める。しかし、御用に立つ者というのは
あまり人に取り入ろうとはしないものだ。私(高坂弾正)が死んだ後は、武田家は釣閑斎の仕置となるだろう。

跡部大炊の分別は、信玄公の時代にはそのような事は無かったのに、勝頼公の時代になって三ヶ年、釣閑斎の
真似をして散々悪き分別をしている。

現在の彼ら両人の仕形では、私どもが亡き後は、自分たちに取り入ろうとする者達ばかりを召し上げるだろう。
しかし信玄公の時代より誉れを取った人々で、長篠での死に残りも少しは在るだろう。
他所の国において覚えの者が沢山在ると言われるより、当家で人が無いというのはまだましである。
しかしあのようでは、御用に立つ衆を労々の有様で恐怖を持たせ、皆御用に立たぬように成してしまうだろう。

素より釣閑斎、大炊介両人が取りなした衆は、荒川、村井の如く、大事の時分では尽く逃げ散る。
三略には、『招舉姦枉、抑挫仁賢、背公立私、同位相?、是謂亂源』
(姦枉を招まねき挙げ、仁賢を抑え挫じき、公に背き私を立たて、同位相謗る。是を乱の源と謂う)
と云う。

時には方々は、この書を披見されよ。これを読んで尤もだと思し召されたならば、大事は無いであろうが、
もし腹を立てられたなら、国は崩れて、武田の御家は二十八代目と申す当家屋形・勝頼公の御代に終に
やぶれて、滅却すること少しも疑いない。
人物についての目利きを能く成されることこそ尤もである。

『甲陽軍鑑』
0768人間七七四年
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2023/05/25(木) 09:19:00.51ID:UJbMz561
SNSで紹介されてたんで転載

山形県上山市 ふるさと散歩資料
https://www.kaminoyama-lib.jp/img/2022/furusatosanposiryou.pdf
「どっちが本物?藩の家宝すり替え事件」
上山藩主 藤井松平家には先祖代々伝わる、とてもすごいお宝がありました。
そのお宝とは、江戸時代の前の戦国の時代に、藤井松平家のご先祖(松平信一)が戦で大活躍したご褒美
として、あの歴史上の有名人 織田信長から与えられた、桐の紋章がついた立派な胴服(羽織)でした。
江戸時代の中ごろの文化年間(1804~1818の間)のある日、上山藩主の藤井松平家のもとに、信
州上田藩(現 長野県上田市)藩主で親戚の松平伊賀守から、信長からもらった胴服を貸してほしいとのお
願いがきます。
このお願いを上山藩主 松平信行は許し、城の蔵にしまってあった胴服を貸し出しました。
それからしばらくして、貸した胴服は上山に返ってきましたが、それを見た上山藩士 谷野市右衛門はあ
る異変に気づきます。
それは、胴服の襟の裏についているはずの印が無かったのです。この印は、胴服がすり替えられないよう、
貸し出す前に谷野がこっそりつけていたものでした。
上山藩主 松平信行は胴服の襟の裏に印が無いことを松平伊賀守に知らせます。
そうすると松平伊賀守は、胴服を借りた後、そっくりなレプリカ(偽物)を作り、本物とすり替えて上山
に返したといってきたのです。
その後、偽物の胴服は上田に返し、本物の胴服が上山に戻ってきましたが話はそれで終わりません。
それからしばらくして、上田藩は「我が藩主の先祖が藤井松平家(上山藩主)から分家するとき、信長か
らもらった胴服を貰い受けていた記録がある」と主張し、上田にある胴服が本物で、上山のものは偽物だと
言ってきたのです。
結局、どちらが本物か偽物かは決着がつかなかったようですが、それ以来、上山藩では、上田藩の者には
簡単に気を許してはいけないと固く決意したそうな。
【参考】上山市史編集資料28「森本家文書集」、上山市史編さん委員会、上山市、昭和54年8月
0769人間七七四年
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2023/05/25(木) 20:23:24.93ID:WbxQTDel
「続武家閑談」から「小笠原長時流浪の事」

享禄四年(1531年)の冬、小笠原大膳太夫長時(三十九歳)は二木豊後(二木重高)を呼び、
「これ以上は武田晴信に対して城を保てぬゆえ、わしは越後に落ち延び、上杉政虎を頼むことにした。
おぬしはその間ここにとどまり、武田晴信に属し、武田軍が我が領地を切り取る間、四方の輩と連絡を取り、小笠原家再興の方策を考えよ」と言った。
二木は元来忠義の者であったため、これを了承し、流浪の助けになればと黄金百枚を長時に授けた。
二木の先祖は奥州多賀の黄金商人の橘次末春(金売り吉次)であり、牛若丸を携えて京から奥州に下向し、ついには源義経の被官となり、名を堀弥太郎景光と改めた者であった。
その子孫も金売りであり堀藤次と言っていたが、諸国動乱のため上方から奥州に帰れず、信州に寓居し娘を二木氏に嫁がせた。
藤次は男子がなく病死したため、金銀などはすべて二木氏が譲り受け、豊後の代まで富を受け継いでいたのであった。
こうして長時は嫡子又次郎長隆と次男孫次郎信定(実際は長時の弟)両人を連れて越後に行き、上杉を頼んだ。
しかし一両年のうちに三好長慶が洛中で猛威を振るった。
三好氏は分かれてからずいぶん経つとはいえ小笠原氏の支流であったため、長時は謙信に暇乞いして愛息の小曽丸を連れて長慶を頼んだ。
長慶は長時に河内高安郡の十七ヶ所を堪忍料として与え、芥川の城下に住まわせた。
しかし長慶没後、三好家が混乱したためここを去って奥州会津の星備中入道昧庵(蘆名氏の老臣)のところに寓居したが、家人に殺害された。
息子の小曽丸は後に喜三郎貞慶と称した。
甲州混乱の折に本国に帰還し、旧領を切り取って終に徳川家に仕えることとなった。
貞慶は従五位下右近大夫に叙任され、
(貞慶の息子の小笠原秀政は)故岡崎三郎君(松平信康)の末の姫君を娶って御譜代大名に加わったが、大坂の陣で落命した。
今の小笠原右近太夫ならびに信濃守、山城守等の先祖である。
0770人間七七四年
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2023/05/26(金) 17:20:42.17ID:lClEifdb
はてさて?

https://museum.umic.jp/hakubutsukan/collection/item/0013-1.html
上田市立博物館 収蔵品
織田信長所用韋胴服

種別 国重文 工芸品
指定 昭和51年6月5日
所在地 上田市立博物館
所有者 上田市

  織田信長の遺品として、旧上田藩主の松平家〔まつだいらけ〕に伝わったもので、鹿の革〔かわ〕で作られています。
「韋〔かわ〕」とは「なめしがわ」とも読み、毛皮の毛と脂〔あぶら〕を取り除いて柔〔やわ〕らかにしたものです。
「胴服〔どうふく〕」とは後〔のち〕の羽織〔はおり〕のもとになった着物を言います。
表は全体に白い小さな模様が染め付けられていますが、これは小紋染〔こもんぞめ〕といい、
今でも和服の地〔じ〕によく用いられています。
0771人間七七四年
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2023/05/26(金) 18:27:01.89ID:sRKV6zV6
「続武家閑談」から「太田・長野両家の事」の長野家のとこだけ

在原業平朝臣が伊勢の斎宮(恬子内親王)と密通して(「伊勢物語」第六十九段「狩の使」)もうけた子供が丹波守の高階茂範の家を継ぎ、高階師尚といった。
その後裔である長野業正は上州箕輪城に居住し、千五百騎を指揮する身上であり、太田資正入道三楽とともに上杉家無類の忠臣であったが、おのおの大功を立てられず、鬱々として病死してしまった。

長野業正が在原業平の子孫とされたのは有名だけど、業平の東下りでできた子供の子孫のはずだから高階氏とは関係ないはず。
高階氏と在原業平との話は、来年の大河で藤原定子(高階貴子の娘)の息子で藤原彰子に養育された敦康親王が春宮になれない理由で出てくるかも。
0772人間七七四年
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2023/05/27(土) 20:29:51.25ID:0JPugDAC
文化十二年(1815年)成立の越後の地誌である
「越後野志」の「村上城」から本庄繁長の活躍

本庄繁長は幼少の時に父房長が没し、十三歳の時に一族の小川・鮎川が反逆したため討ち平らげた。
天文二十三年(1554年)八月十八日、信州川中島合戦において十九歳で謙信侯の先陣となり、武田信玄侯の軍を大いに破った。
また反逆者誅伐にも戦功が大いにあり、元亀天正年間では本庄繁長・新発田治長(新発田重家)は鬼神のように恐怖された。
永禄四年(1561年)九月十日、川中島合戦で謙信侯が甲州兵を破り休まれていた。
そこへ武田義信が兵八百ほどを率い、旗を伏せ、腰差しを隠し、草むらに潜んでいたのが来襲した。
謙信侯の旗本の軍は不意をうたれ、防ごうとしたが過半数が敗走した。
謙信侯も手に家宝の鍔槍をとって防戦された。
老臣である志駄義時、大川高重が戦死し、軍が乱れようとした。
そこへ色部長実が五百人を、宇佐美定満が千余騎を率い、武田義信を挟み討ちにし、広瀬まで追い落とした。
このとき繁長も自ら太刀打ちして人の目を驚かせた。
しかし二十六歳の血気盛りであったため、
「謙信侯の軍略が未熟なために武田義信にしばらく劣勢となったのだ」と謙信侯をそしってしまった。
謙信侯が怒り、事に及ぼうとしたのを察知した本庄繁長は、永禄十一年の秋に本庄城に引きこもり叛いた。
謙信侯は上条義春(畠山義春)をもって攻めさせた。
義春は軍略により繁長の軍を破り、繁長はついに剃髪して降伏した。
謙信侯も絶世の勇士であるため繁長を許し、厚く用いた。
景勝・景虎の二君が争った時(御館の乱)には景勝君に属した。
景虎君に属した上杉十郎憲景(上杉景信、本庄繁長の舅)が戦死したのち封禄の地を与えられたが、上杉の名は継がず家紋だけを用いて今日にいたる。
そののち次男の千勝丸を出羽の庄内の大宝寺義興に与え後継とさせ、ひそかに謀って義興を討ち、千勝丸を大宝寺義勝と改名して、秀吉公の了承を得た。
(このあとは最上軍との戦いの話だけど省略)
0773人間七七四年
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2023/05/27(土) 20:37:28.02ID:0JPugDAC
ついでに「続武家閑談」から「武田太郎義信の事」

川中島合戦の後、武田義信は信玄に対して逆心があったため、家督を譲られなかった。
その理由であるが、信玄が川中島の戦いにおいて、名代に義信を立てて先陣を勤めさせて入れ替わったところ、慈悲がないと義信が恨んだためだという。
川中島の戦いでは信玄の旗本は義信と入れ替わっていたそうだ。
0774人間七七四年
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2023/05/30(火) 21:07:44.23ID:cZchWjGY
甲州武田は新羅三郎(義光)公より法性院機山信玄まで二十七代なれば、その継承された大将衆は四十年、三十年、
二十年、或いは十年、五年にて変わることもあるだろうが、多少取り合わせて二十年づつとしても、
五百四、五十年ばかり、甲斐国へ他国から乱入されることは無かった。故に、神社、仏閣、町地毛、
そのほか非人までも他国よりは少々富貴である。

猿、馬、牛の皮を剥ぐ乞食が騎鞍馬(のりくらうま)に乗り、下人を連れて連雀小路の玉屋という酒屋にて
代物(代金を出して酒を飲む時、おりふし向山同心である功力左太夫と申す侍、また足軽大将の三枝善右衛門の
寄子である小宮山八左衛門という信玄公の御弓持の者、この両人がなにかの用があって、これもこの酒屋に参った。

所用が終わり酒坏が出て、暫く指しつ指されつ盃を巡らせていた所、かの皮剥も侍衆の中に混じり酒を飲んだ。
その後座を立つ時に、功力左太夫の仲間がこの皮剥を見知っていて、功力小宮山らの侍衆に
「この者は皮剥である!」と告げた

功力左太夫、小宮山八左衛門はこれに大いに腹を立て、宿の主人である玉屋権右衛門に抗議した。
権右衛門は件の皮剥に抗議した。

然れども小宮山八左衛門、功力左太夫は両人とも武道の心ばせ能き者共であった。
八左衛門は上州三ヶ尻合戦で鑓脇をよく射て信玄公の御証文一つを下されていた。
左太夫もさらに二つまで武辺場数の御証文を信玄公より給わっていた。
それ故理を以て町人などを、事を荒らげて脅すような事は聊かもなかった。しかしながら、皮剥のこつじきが、
侍の交わりに、富貴であるに任せてこのように交われば、貴賤、上下の隔たりも無く、さながら侍の作法も、
尽く皆要らざることになってしまうと、小宮山八左衛門、功力左太夫両人は書付を以て奉行衆に申し上げた。

そして奉行衆は、御蔵の前にて侍衆の訴え、町人の申し分、非人の物の言う事を確認し、公事(裁判)の
沙汰が有った。
この時、武藤三河守、桜井安芸守、今福浄閑斎(長閑斎、友清)の三奉行の中でも、今福浄閑斎は物事の
良き功者であったので、この公事を沙汰いたした。

「先ず侍衆の訴えは道理至極である。また町人も、代物の限りに於いての酒商売の事である。
殊更、武田の御分国は富貴である故、かの非人までも宜しきなりをしているが、これらは万事逆ではなく、
順義の御仕置故、尽く安堵してあり、誠につたなき非人まで、侍のように騎鞍馬に乗る。
であれば、町人が(皮剥が非人である事を)見損なったのも道理である。

さて、しかし非人が代物限りであれば、へりくだるには及ばないと、至らぬ心より存ずる事は、大非義の仕形
である。ではあるが、今まで改めて、非人の装束などに定めが無い以上、いかに乞食であっても罪科には
なり難い。その理由を教えること無く殺すのは逆である、と云うときは、功力左太夫殿、小宮山八左衛門殿、
この三人の奉行の真似事に免じて堪えて頂きたい。

さて又町人には、いかに商売代物限りであるとしても、歴々の侍たちに非人を交らわせた事を見損なった科の
代償として、二人の侍衆に巻物を一つづつ持って、玉屋権右衛門は礼に参るべし。さもなくば入牢を申し付ける。
さらに又、非人の命は三奉行の詫び言を以て、両人の侍衆が助けられた。故にこれを有り難く存じて、
おのれが家の皮で艸履(草履)をしたため、功力左太夫殿、小宮山八左衛門殿に御礼に参り、これ以後
皮剥の道服、袖広、帷子にも牛と馬と両方に、中には艸履を付けて必ず着て歩くべし。さもなければ、
よき仕合にて己等は磔物とされるか、もしくは釜にて煎られると心得よ。」

そのように申し定めた事で、それ以降は皮剥も、どんなに良き馬に乗っても、上記のように着ている道服、
帷子の形で解るように、甲州、信濃、上野までも定められたのは、この今福浄閑斎の工夫の故である。

『甲陽軍鑑』

甲陽軍鑑に見える被差別民への扱いについてのお話
0775人間七七四年
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2023/06/02(金) 16:52:39.65ID:F9+RQESR
「越後野史」の畠山義春について
畠山義春は能登守畠山義忠(畠山義続?)の末子で質として越後に来たが、人となりが武勇にして聡明なために謙信侯の寵愛を受け、幼少時からそばにおかれた。
常に謙信侯の軍略を見聞して十四歳の時から一軍の大将となり戦功を何度も立てた。
景勝と景虎の争いは二年続いたが景勝に味方し、鮫が尾城にて景虎を自殺せしめた、わ
また二本木駅において森武蔵守長可を破り、軍略をもって新発田重家を攻め、功績がすぐれていた。
景勝卿の妹婿ときて海津城主となり上条上杉氏を継いだが、直江兼続の讒言により上杉家を退転した。

>>772で宇佐美定満がでてきたり、畠山義春が直江兼続に讒言されたり、と書かれているので「越後野史」は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12369.html
雑談『松隣夜話』について
でも語られている、自称宇佐美定行(宇佐美定満)の子孫の宇佐美定祐の捏造の影響を受けてそうだ。
鬼武蔵のwiki見るとたしかに鬼武蔵が二本木まで攻め込んで上条景春を破った、と書かれているけど、これも宇佐美定祐「北越軍記」が出典扱いされてるし、どこまで本当なのやら。
0776人間七七四年
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2023/06/02(金) 17:03:31.78ID:BmMBtXp/
すいません>>775
「自殺せしめた、わ」→「自殺せしめた。」

ついでに「続武家閑談」から「徳川・北条・羽柴三家の鬼号の事」

そのころ諸国干戈を争い、武辺場数の士はいちいち数えることができないほどであった。
その中でも徳川家には服部半蔵(服部正成)、北条家には松田孫太郎(松田康郷)というものたちが、諸国において鬼半蔵、鬼孫太郎と称されていた。
また少しほど経て羽柴秀吉の元に森庄蔵(後任武蔵守)という、鬼庄蔵(鬼勝蔵)と呼ばれたものがいた。

鬼武蔵は羽柴でなく織田のイメージではあるが。
0777人間七七四年
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2023/06/03(土) 10:15:41.22ID:Y/9Fy5IV
歌武蔵は三遊亭のイメージである。
0778人間七七四年
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2023/06/06(火) 21:28:53.52ID:BK+o2M/d
元亀四年は天正元年へと替わった。しかれば天正元年四月十二日に、武田信玄公は御他界なされた。
そのため即ち、その年五月より勝頼公が御仕置を執られた。ただし、他国の諸々の敵衆、越後の謙信、
岐阜の信長、浜松の家康、その外関東の新田、足利、飛騨、越中といった、各々小敵まで含めて、
その聞こえのため、また相州北条氏政公は信玄公の旗下にあったが、法性院殿(信玄)の御他界を聞けば
即時に敵対なされるだろうと予想された。そういった方々のために、信玄公の御他界は隠され、御患いとばかり
申しならわした。

『甲陽軍鑑』

信玄の死を秘匿したことについての、武田家側の見解。
0779人間七七四年
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2023/06/10(土) 14:45:15.92ID:WMKENhuW
ここ百年来、本当の合戦(本来の合戦)というものはほとんど無い。但し二度本当の合戦があった。
それは永禄四年の信州川中島合戦、遠州三方ヶ原合戦の二つである。

北条氏康公が河越において上杉管領八万余の大軍に、氏康八千にて勝たれたが、これは夜軍であったため
敵が油断した故である。そうでなければ八万余の軍勢が、人数八千の北条家にどうして負けるだろうか。
下総の国府台において氏康公は、阿波の義広(里見義弘ヵ)に勝利されたが、義弘ははじめ打ち勝ち、
そのため油断した所に氏康が懸って利運になされた。

この如くに出し抜き、或いはふたまたにて小身となった敵に勝ち、或いは堀を掘り、柵を付け打ち、
自身が逆心、また旗下の侍が合戦の場においてにわかに裏返って敵になる。

こうして無理な勝負を負けても、負けたとあまり心の負担に成ることはない。世間においても
本当の勝負であったという評価はされない。

国持同士が、敵味方ともに二、三万の人数を以て、白昼に合戦参るべく候とて、両方ともに、
他国の加勢はあっても、大将は一人ずつで、堀も川も柵も裏切りも無く打ち合い、正面から鑓を合わせ、
勝負をして実否を付けたものを、本当の合戦と言うのである。

『甲陽軍鑑』
0780人間七七四年
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2023/06/12(月) 20:35:54.19ID:rldIlKfX
武田信玄公の御他界後、万事勝頼公へ諫言を申し上げるため、長坂長閑斎(光堅)、跡部大炊助(勝資)殿に
申し上げた。
大身小身共に、常々思し召される事について、五ヶ条を深いもの、浅いものの合計十ヶ条である

一、慈悲を深く、欲を浅く。ただし大身の乱国を取られる事、小身の人が忠節忠功の奉公にて、所領を
  取ることは欲深い行為ではない。ここでいうのは邪欲の事である。慈悲も、それは決して罪過の者を
  憐れむことではない。

一、人を深く、我が身を浅く

一、忠節忠功の心がけを深く、所望を浅く

一、遠慮して慇懃を深く、遊山或いは楽事を浅く

一、人を使うに、穿鑿を深く、折檻を浅く

一、第一に国持大名が慈悲を知らないのは、非常に欲深い。理非無く欲深ければ、その下の出頭衆、邪欲をかまえ、
  欲得にふけり、己に音信仕る者を穿鑿も無しに取り立て、諸奉行或いは諸役者に定めてしまい、さらにその
  者共は上に学び、国法軍法に背いたものであっても、自分の気に入った者については、悪事をも押し隠し、
  法外にわたくしをさばき、科なき者であっても押し倒し、慈悲少なく、その大将の危うきも知らず、
  上杉憲政の家中のごとくになって、尽く意地汚い人が多くなるだろう。

一、第二に、国持大名が他の人をあさく、我が身を深く考えれば、出頭衆を始め尽く走り廻るほどの衆は、
  身に高慢して、しっかりとした証拠もない事を互いに褒め合い、誉れとし、そうなれば国を誤るものである。
  そのうえ民の困窮も知らず、下々の迷惑も知らず、殊に凄まじい戦などが有れば、ついにその滅却が
  あるだろう。

一、第三に、国持ち給う大将の、崇敬ある侍衆が、忠節忠功の心懸けが浅ければ、その家の下々まで
  主君の御為を思わず、手柄も無いのに所領を欲しがり、大剛の武士であっても小身であれば証拠もなく誹り、
  たとえ臆病であっても、親から譲られた所領を沢山に持ち、金銀米銭を持つ分限物を、侍については
  言うに及ばず、町人地下人までをも褒めて、しっかりとした証拠もないのに、「手柄の人かな」と
  申し習わす。故に、分限さえあれば町人などまで増長し、剛の武士の居る所にても、武辺雑談を仕り、
  皆尽く慮外がはやり、大平者が繁盛し、能き武士は次第に沙汰が無くなって、その家その国の弓矢は
  弱くなるものである。

一、第四に、出頭衆の遠慮が浅くて慇懃が無ければ、その家の諸人は先の考えもなく遊山にふけり身を飾り、
  恥も知らず、朝暮不足を欠いても恥と思わず、国法に背くもの多く、言い合いがあって過ちを仕り、
  或いは死ぬまじき所にて無駄に命を捨てることもあり、又は昼強盗などを仕り、政道が機能しないのは、
  測ることも出来ないような仕置故である。そのようになるのは、走り廻る衆の遠慮浅きより起こる
  のである。

一、第五に、国持大名が人を使うに穿鑿が浅ければ、取るべきではない人が知行を取り、崇敬ある衆の
  親類の者、大身の親類、分限者の身寄りの者ばかりが幅を利かせて、彼らにしそこないがあっても、
  能き縁者の影に寄って、自分の身には何事も有るまじきと思い、その上、たとえどんな悪事を仕り、
  千に一つ、身体が破れたとしても、主君の命令にも畏怖有るまじきと思っているので、国法を背いても
  苦しからざるを、能き親類を持たない者の、しかも分別のない人々がこれを見て、「能き者の
  よしみさえ背くのに、我らごときは猶以て、大将の御為など、さほど必要ない」と心得、背くこと
  多くして、法度があっても種々の悪事が横行し、訴訟が絶えなくなるだろう。

  これら、上記五ヶ条、裏表十ヶ条なり。これをよくよく分別なさるべく候。

『甲陽軍鑑』

甲陽軍鑑に見える、武田勝頼への諫言十ヶ条
0781人間七七四年
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2023/06/14(水) 19:54:47.90ID:AbXQ1WrC
小田原の北条氏政より、「武田信玄公は御他界したのか」とあり、これを能く見届け申すために、
板部岡江雪斎を甲府へと差し寄越された。

武田の家老たちははかりごとを江雪斎を暫く留め、仕様を仕り、その後、夜に入道逍遙軒(武田信廉)を
信玄公として御対面なされた。この時、信玄公が八百枚据え置かれた御判の中でも、いかにも御判の
不出来なものを選び、江雪斎に渡した所、さすがに賢き江雪斎もまことと仕り、小田原へ帰り
「信玄公が御在世なり」と、氏政に申し上げた。故に北条家からは御他界の取り沙汰は無くなった。

『甲陽軍鑑』
0782人間七七四年
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2023/06/18(日) 15:29:30.47ID:IHoJZb3O
天正三年四月十二日、武田勝頼は武田信玄の薨去を公表し、葬儀を行った。

その後、勝頼公は御馬を出され、諏訪明神へ御社参されたのだが、この時亀の甲の御鑓が折れた。
さらに高遠へ御着されたが、この時堅固であったはずの橋が折れて、御小人衆のうち、一両名が死去した。
勝頼公もこの橋を渡っていたが、公は御馬上手であられたので、蹴り立ててこれを渡られた。
御馬の後ろの左の足が、橋の崩れに近々とかかっており、危険に見えたが御堅固であった。

この事について、めでたしと申す者もあり、堅固なる橋がかくの如くなってしまったのは物怪なりと
つぶやく者もあった。以上。

『甲陽軍鑑』
0783人間七七四年
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2023/06/21(水) 20:19:14.13ID:74/agC1t
織田信長は長篠合戦の勝利の威を以て、その年七月越前朝倉を倒し(これは天正三年八月~九月の、
越前一向一揆討伐を指していると考えられる)、すなわち越前に於いて伊勢田丸の城を取り上げ、
二番目の息子、三の介(織田信雄)をかの城に差し置くべきと定められた。
武田勝頼公が若気故にこの合戦(長篠の戦い)をなされたために、朝倉まで簡単に滅びてしまった。

信玄公が御在世の時、伊勢の国司(北畠氏)、江州の浅井、備前、丹波の赤井悪右衛門、越前の朝倉等は
甲府に使者を付け置き、信玄公が御上洛成されるようにと申していたが、信玄公が酉の年四月に御他界
されると、各々力を落とした。その上勝頼公が亥年に長篠にて遅れを取られた故に、彼らには少しも
後ろ盾が無くなり、あのように滅びてしまったのだ。

さりながら、信玄公御他界した次の戌年、遠州高天神城を勝頼公が攻め落とされた時、信長、家康は
叶わぬを聞き、国司(北畠氏)贔屓の伊勢先方衆は歌を作って歌った。その歌は

「ただあそべ夢の世に 上様は三瀬へ御座れば高天神は落」

などと申し、表面上は信長に従う風をしていても、信玄公御他界の後、勝頼公御代までも
長篠の合戦に負けられるまでの間、三年は諸方にて、武田四郎殿を後ろ盾に仕り、信長への面従腹背の姿勢を
維持していたが、長篠合戦で遅れた後は、御旗本衆の事は申すに及ばず、御譜代衆である東美濃岩村の
秋山伯耆守(虎繁)まで、亥の極月に取り詰められた。しかし勝頼公は後詰め成り難く、信州伊奈まで
御馬を出されたが、大雪によって岩村の後詰めは叶わなかった。

このため、信長は岩村の城へ扱いを入れ、『秋山伯耆守は伯母聟なのだから、助けるべし』と言ったが、
これにより彼らは出し抜かれ、伯耆守、座光寺(為清)らは搦め捕られ、機物に上げられた。
これは、徳川家康の味方となった奥平九八郎の女房を、勝頼公が機物に上げた事への返報であったと
言われた。その上、伯耆守の内儀(おつやの方)は信長の伯母であったが、強敵である秋山伯耆守の
妻になった故、伯母子をも信長は成敗した。

『甲陽軍鑑』
0784人間七七四年
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2023/06/26(月) 22:49:28.43ID:BntjdKkv
武士道の沙汰褒貶六ヶ條の事

一、敵討ちについて、親のかたきを子が討つのは順、兄のを弟が討つのは順、
  子のかたきを親が討つのは逆、弟のを兄が討つのは逆である。
  叔父のかたきを甥が討つのは順ではあるが、討たなくても問題はない。

一、合戦、競り合いにおいて相打ちは非義である。強き武士は、大方の場合はしるし(頸)を
  取ろうとするものだが、よき武士というものは、しるしを取らなくても問題としない。
  相打ちは必ず無用である。例えば鑓を合わせる時、相鑓などと言う事は無いではないか。

一、味方討ちは御大将への逆心である。これはまた。ばい頸(売頸?)より劣った行為である。

一、武士の寄り合いの時、互いに仲が悪かったとしても、乗打をしてはならない。この時たとえ
  打ち果たしたとしても、無礼は弓矢神への恐れとなる事であるのだから、そのことをよくよく考え、
  実の道理を深く守るべきである。

一、親はまた、家中に奉公している場合、御旗本に奉公している親兄弟が科をして主人に成敗させられた
  事について、無分別な人々はこれを、「敵討ちの沙汰である」と申すが、それは不案内の儀である。
  能く沙汰してみれば、科有る者は敵討ちを厭い、故に成敗なくしてはおかざるものなのである。
  であるのだから、主に成敗された事を以てかたきと受け取るのなら、御旗本に有る人を屋形様が
  御殺した場合、その子は又屋形様を狙うであろうか。それは非儀であり、あってはならない事だ。
  であれば、「主人に成敗されたのに、その主人を(敵討ちとして)討たない」などと言って
  誹謗するのは、一段の無詮索ではないか。
  もし、前々から遺恨があったというのであれば、討ち手に人を討つ事もあるだろう。
  しかしそれとても、道理に外れた事である、

『甲陽軍鑑』
0785人間七七四年
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2023/07/07(金) 21:35:31.65ID:7wWsJJNK
いまだにこのアフィカスの乞食スレもそれにせっせとネタ提供するアホもまだ存在したんだな
0786人間七七四年
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2023/07/08(土) 23:20:49.41ID:IITwcPqV
アフィってもう死システムだし死語だろ
0787人間七七四年
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2023/07/10(月) 10:21:27.16ID:6YrzPNHa
アフィってどれくらい儲かるの?
0789人間七七四年
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2023/07/23(日) 13:38:35.95ID:ccTnDEmC
例えばネコと申す獣は、取り立ての主をも知らず、キレイな囲炉裏の中にも糞をし、或いは
飼鳥を狙うような、悪儀のケダモノであるのだが、ネズミを捕る時は一段といさぎよい。

また、ネズミという物は、大事な物の本をも切り破り、障子の絵も遠慮なく食い破る。
このような時はどうにかして退治したいと思うのだが、俄に退治することも出来ない。

しかしかのネコをけしかけて悉く取り尽くした時は、ネコについてのその他の悪しき事を忘却し、
ただネコは重宝とばかり思うものである。

『甲陽軍鑑』

ネコについて
0790人間七七四年
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2023/08/01(火) 02:42:18.84ID:8PNhtesL
REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担
0792人間七七四年
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2023/09/18(月) 16:37:20.04ID:PMYDQaQC
家康が家臣にしたヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムス
どちらも、ヨーステンとアダムス、と姓だけでも呼ばれがちですが・・・

ヤン・ヨーステンのフルネームは、ヤン・ヨーステン・フアン・ローデンステイン

ヨーステンは「ヨーストの子」の意味で、姓はあくまでもフアン・ローデンステインなのでした
(ヤンの父親の名はヨースト・ヤンシュ・フアン・ローデンステイン)

なお英語名のジョンソンなどと同じく、現在はヨーステンだけで名字の家もあります
0793人間七七四年
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2023/10/07(土) 18:35:12.68ID:TQcZy2/O
質問スレよりこっちのほうが知ってる人いそうなのでちょっと質問させて

島原の乱で板倉内膳重政が戦死したあと、一揆衆(あるいは京童)がそれを嘲る狂歌があったと思うんだけど、誰か知らない?

下の句が
”いのち板倉さらに内膳”、あるいは
”何を板倉いのち内膳”
みたいな感じで、重政の戦死を官名にかけて嘲る歌だったと思う。
0794人間七七四年
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2023/10/07(土) 19:27:07.75ID:PSz8Ksh9
板倉重昌を嘲る落首なら見つけたけど
0795人間七七四年
垢版 |
2023/10/07(土) 19:33:33.72ID:PSz8Ksh9
長崎県史 対外交渉編 - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/3009885/1/110

“落城をいつまでとてか板倉や、心長門に難儀島原。
上使とてなに島原に板倉や、武道の心更に内膳。
胸板を打ちとおされて板倉や、即ちそこでいのち内膳。”
0796人間七七四年
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2023/10/07(土) 20:12:10.59ID:TQcZy2/O
>>795
早速ありがとう!! 宿便がおりてスッキリしました。
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