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戦国ちょっと悪い話49
0746人間七七四年垢版2023/04/17(月) 20:56:35.24ID:NRGRbG2x
甘露寺親長「親長卿記」から後花園天皇の追号が決まるまで

文明三年(1470年)二月別記

旧院(後花園天皇)の追号について「後文徳」「後花園」のうちどれがいいか協議したところ、「後文徳」を推す意見が多かったため一度は「後文徳」に決まった。
しかし一条太閤(一条兼良)が「文徳は田村帝の諡号であり、「後」の字を諡号につけた先例はないとおっしゃったため協議が続いた。

最初の申詞(発言記録)
二条太閤(二条持通)書状
旧院の御追号については、諸卿の協議で決めることではあるが、私は以前から申している通り「後文徳」が御意にかなうと思う。
 
日野前内大臣(日野勝光)
後文徳がよいと思う

右大将
後文徳、後花園、どちらもよいが、「文徳」は「史記」に由緒があるのに対し、「花園」は由緒がないので「後文徳」がよいと思う。

中院大納言(中院通秀)
どちらもよいが、旧院の御治世を思うと「後文徳」を用いるべきだと思う。
 
予(甘露寺親長)
どちらもよいが、御一流(直系の先祖)でないのに後をつけることは問題があるかもしれない。(文徳も花園も直系ではない)
とはいえ後花園でも問題はないだろう。
 
勧修寺前大納言(勧修寺教秀)
文徳天皇の継体の君は清和天皇であり吉例である。
花園天皇は響きはいいが、次代が後醍醐天皇であり吉例とはいえない。
前後も含めて当代の規範となるか判断すべきである。
また旧院は往昔、文にも優れていたため後文徳がよいだろう。
0747人間七七四年垢版2023/04/17(月) 20:58:04.70ID:NRGRbG2x
二度目の申詞

日野前内大臣
最初に申した通り、文徳で問題はあるまい

右大将
追号と諡号は趣旨が似ていて、「後」の字を諡号につけた例はないというが、同じ諡号を区別するために「後」を諡号につけるのは問題はないだろう。

中院大納言
そもそも諡号というものは周代に始まり、日本では神武から文武帝まで四十二代は淡海公(藤原不比等、実際は淡海三船)が作ったというが詳しいことはわかっていない。
そののち生前の徳行を諡号とし、院御所の地名を追号としたのだ。
子孫がどうのと言っているが、後朱雀、後冷泉、後三条帝などは直系の子孫ではない。
また柏原、深草、田村、水尾、小松帝などは桓武、仁明、文徳、清和、光孝帝といった諡号に後で追号したものだ。
また顕徳院をわざわざ後鳥羽と改めた例もある。よろしく聖断あれかし。


文徳は田村帝の諡号であり、後の字を諡号につける例は管見では見当たらない。
顕徳院を後鳥羽に改めた例があるなら、後文徳以外にするべきだろう。

勧修寺前中納言
元明天皇の勅令で国や郡名を諡号にしていることは明確である。
当然、山陵や御所名を諡号に準じることになるのだから、後文徳も問題なかろう。
0748人間七七四年垢版2023/04/17(月) 21:00:19.20ID:NRGRbG2x
三度目の申詞

二条太閤
そもそも一度決まった旧院の御追号を後に改めることは、讃岐院を崇徳、顕徳院を後鳥羽、と改めた例があるが、ともに配流にあわれた例でありよろしくない。

久我前右大臣(久我通尚)
御追号が文徳院に決まったのを後近衛、後土御門、後花園のどれかに改めるという話だが、多数決に従おう。

今出川前内大臣(今出川教季)
三つとも由緒がないが、後花園でいいと思う。

日野前内大臣
改めるとしたら後土御門にするべきだ。

右大将
改めるのが決まった以上は、後土御門がよさそうだ。

中院大納言
土御門の土地は今の皇居があるところであり、差し障りがあるので後近衛がよいだろう。


土御門は現在の皇居の名であるため、以前も申した通り後花園で問題ないだろう。

勧修寺前中納言
土御門は皇居の地であり、天下静謐(応仁の乱の最中)になったのちに還御するのであるから使いにくい。
後花園は以前申した通り、次代が吉例ではない。
かといって後近衛は直系の先祖でもなければ由緒もない。
どうとでもなされよ。

太閤(一条兼良)に重ねて尋ねたところ、後花園がよいということになった。
0749人間七七四年垢版2023/04/20(木) 15:55:48.48ID:PkBOkJ1I
『異説まちまち』からたぶん悪い話

高力小一郎は公儀からの付人だった。大阪の陣で、ある手負が苦しみに耐えかねて「もはや動かれぬ。誰か我が首を取ってくれ」と呼ばわっているところに、小一郎近づいて首を取らずに側の鉄砲を奪って戻った。

年代的には高力忠房が当てはまるけど、小一郎の名乗りがあったかは不明
0750人間七七四年垢版2023/04/22(土) 20:28:49.01ID:HFxUyFUP
「朝野雑載」から石田三成と田中吉政
(前半は有名だけどついでに)

関ヶ原での敗戦後、田中吉政は石田三成の捕縛を命じられた。
吉政は「三成は風流ゆえ、もし途中に匂いのある鼻紙が落ちていたら気をつけろ」と下知した。
石田三成は古橋村の与次郎大夫のもとに匿われていたが、近辺の村まで吉政の追及が及んでいると知った三成は与次郎に自分を突き出すよう命じた。
与次郎は拒んだが、三成は「病が重く歩行もままならぬ。このまま探し出されるようなら汝も罰せられるだろう」と説得したため、与次郎はしかたなく訴え出た。

田中吉政は石田三成を乗り物に乗せて連れて来させ、対面した。
吉政は慇懃に挨拶したため、三成は太閤から賜った秘蔵の貞宗を吉政に授けた。
吉政は三成が下痢を患っていると聞いたため、韮雑炊と薬を勧めた。
三成は「こうなっては薬を服用しても意味があるまい。田兵もおかしなことを言うものだ」と言ったが、
吉政が「命を救うためではなくお苦しみを和らげるためです」と勧めたため、三成は承知して保養した。
三成が囚人となってもいつも通り「田兵(田中兵部大輔吉政)」と言ったのは、さすが秀吉の寵臣だけはある。

しかし太閤御在世の時に伏見城で家康公と田中吉政が碁を打っていた時、家康公に助言する者が多かったのを見た三成が
「この碁は敵が多いため、田兵の負けであろう」と言い捨てたのは、おのれの権威を誇って無礼をなす悪人と言うべきであろう。

また三成が小西行長、安国寺恵瓊とともに囚人となった時、家康公から服を与えられた。
小西は「これほどのご厚情を受けようとは」と恥ずかしがり、
安国寺は何も言わなかったのに対し
石田は取次に対して「この小袖は誰から賜ったものだ?上様から?秀頼公のほかに上様がいる者か」
とカラカラと笑ったため、みな石田を憎んだという。
0753人間七七四年垢版2023/04/26(水) 00:21:10.25ID:hsBCYKEj
くずし字の解読をした上でなので、不備があったらすみません
「続武家閑談」から「江利内蔵介、広言により切腹のこと」

秀吉公の九州征伐の時、秋月家から聘使と偽って江利内蔵介というものを差し遣わした。
江利は広島で秀吉公にお目見えした。帰ったのちに主君である秋月種実に申すことには
「このたび秀吉殿下の軍勢は何十万騎と限りなく、四国中国はことごとく先手となっております。
九州の諸将からも聘使が集まっておりましたので、かくなる上は島津殿に御降参を勧めるべきでしょう」
すると種実・種長親子を始め、みな異口同音にどっと笑い
「汝は臆病か、またはよい脇差をもらったゆえに降伏をすすめるのか。
その猿冠者は下賤の者であり何ほどのことがある。
当家は漢の高祖の子孫で武勇で名高い。
(後漢の霊帝の孫、阿智王の子孫とされる。
阿智王の息子である阿多陪王が斉明天皇に三男子を産ませ、真ん中の子が大蔵氏(原田氏、秋月氏、高橋氏などの祖)となったという荒唐無稽な話も)
ことに八町坂の大切所は難所であり、日本・唐土の軍勢がひとつになって攻めてきても何ほどのことがあろうか」
とおのおの口々に申した。
内蔵助は重ねて「不肖の身で広言いたしますが、このままでは当家の運が傾きます。
もう一度同じことを申します」と言ったが
「憎き雑言をまだ言うか。腹を切れ」
と言われたため、切腹して果てた。
こうして秋月種実は八幡宮に詣でて、くじを引いたが「秀吉に従え」と出た。
すると板並左京進が進み出て「くじは三度引いてこそ吉凶が定まると申します」
とかねて用意した「一吉」「二吉」とすべて吉の字を書いたくじを取り出し、種実に引かせた。
こうして二つとも「島津に味方せよ」というくじであったため、秋月は薩摩方となることにした。
0754人間七七四年垢版2023/04/27(木) 19:31:55.77ID:mjz2t1qD
「続武家閑談」から上の続き「秀吉公九州へ発向軍略の事」

秀吉公は豊前厳石城(岩石城)を始めとして大隈城以下を攻略し、大隈の城に陣をとった。
秋月の侍どもが姑所城(古処山城、秋月氏本拠)からながめると嘉麻一帯の寺部は山川残らず兵であふれ、夜になると篝火が万も焚かれ、灯会のようであった。
夜が明け、大隈城を見ると一夜のうちに腰板がうたれ、白土が塗られていた。
これは播磨の杉原紙を壁に貼り、家屋の戸板をはずして腰板になされたのであった。
秋月勢は「さてこそ天魔の仕業であろうか」と仰天した。
秋月種実親子も、江利内蔵介の忠言を今更ながら思い出し、降参した。
そして内蔵介を厚く葬り「鳴渡の観音」とあがめたのが、今でも残っている。
0755人間七七四年垢版2023/04/30(日) 20:25:20.02ID:wzp3miEb
「続武家閑談」から「秋月居城姑取山を生駒雅楽頭に御預けの事」

秀吉公は秋月氏居城の古処山城を生駒親正に御預けになられた。
親正がたいそう険しい古処山に乗り上げると、西国武士どもは驚き
「馬に鳥が生えて白い轡をはめ、鳥も通わぬところを通るとは、稀代のことだ」と口々に言った。
これは乱世により諸国から九州に馬面・馬鐙・白轡の進呈がなく、九州の者どもがそれまで知らなかったためである。(?)
秀吉公は秋月の東北の荒平に陣を敷き、二日逗留して仕置きを申しつけ、肥後へ出発された。
鍋島直茂ら九州の軍勢が先手を勤めたが、西国衆のいでたちははなはだ見苦しかった。
また指物を請筒(受け筒)に指すことを知らず、縄で背中に指したり、肩にかたげたりする者も多かった。
それを見た上方勢が手を打って笑ったため、直茂が秀吉公に申しあげたところ
秀吉公「そのように上方勢が国ごとのならいを知らずに笑うことこそ不覚である。
今後そのようなものがいれば罰しよう」
と戒められたため、以後笑うものはなかったという。
0756人間七七四年垢版2023/05/15(月) 10:01:07.43ID:ZDewH9ua
https://image.shinmai.co.jp/web-image/20230426/CNTS2023042600087_S.jpg
NHK信州 NEWS WEB“信玄が実際にかぶった”「諏訪法性兜」特別公開 下諏訪町
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagano/20230502/1010026425.html

戦国武将、武田信玄が実際にかぶったとされる「諏訪法性兜」が、下諏訪町で特別公開されています。
下諏訪町の諏訪湖博物館・赤彦記念館では、今から450年前の1573年に亡くなった武田信玄が、
戦場でかぶったとされる「諏訪法性兜」の実物が特別公開されています。
鉄や革などでつくられたかぶとは幅がおよそ40センチで、前立には金色の角をつけた赤鬼が配され、
頭頂部から肩にかけて施されたヤクの毛が印象的です。
このかぶとは元々、諏訪大社が所有し、信玄は軍神として名高い大社の諏訪明神を厚く信仰し、戦勝祈願を
行った大社で、このかぶとを借りて戦場に向かったと伝えられています。
0757人間七七四年垢版2023/05/15(月) 10:05:37.68ID:ZDewH9ua
笹間良彦『甲冑と名将』より
諏訪法性の兜について

昭和・平成初期の甲冑研究の大家笹間良彦によれば、武田信玄は諏訪明神を篤く信仰し、陣中に諏訪南宮法性大明神の幟を立てたという。
同じく兜に諏訪南宮法性大明神の神号を刻んで、川中島以下の合戦に着用したとされる。
この兜は、現在、下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館に所蔵されるものがそれである。

月岡芳年の武者絵やこの兜にはふさふさとした白熊(白いヤクの毛)の飾りがついているが、実は長篠合戦の時期に武田勝頼が、徳川方から
鹵獲した唐の頭(同じくヤクの毛飾り)の兜を、「唐の頭を手にとったことがない故、持参して見せよ」と命じたという。

こうなると信玄の兜の飾りを実の息子が知らなかったという矛盾が生じる。
江戸時代後期の浄瑠璃・歌舞伎作品『本朝二十四孝』の中で、上杉家の息女八重垣姫が獅噛の前立に白熊の毛の兜を持って現れるが、
ここから後世誤って実像が作り上げられ、下諏訪の「諏訪法性の兜」も製作されたものと思われる。


以上は歴史研究者にはよく知られた話でありますが、時代劇の信玄と言えばこれ以外の格好は思いつかないくらいの定番なので、テレビドラマでは
なかなか外せない状況のようです。


なお、これが本物であると新庄藩戸沢家に伝来した諏訪法性兜なども、一般非公開だが失われずに実在します。こちらはごく普通なデザインの東国系兜です。



まとめサイトの関連する過去ログはこちら

八重垣姫の像・碑文
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13689.html
名高き兜を敵に取られては如何なものか
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11578.html
戦国の遺品がなんでそんなところに、「諏訪法性兜」編
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3387.html
武田信玄の「諏訪法性の兜」について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1162.html
0758人間七七四年垢版2023/05/16(火) 21:01:32.73ID:J1xtkm3W
武田信虎公の御代には、軍法も信玄公の時代の十分の一も無かった。
殊更、信虎公二十八歳の時のくしま(福島)合戦の砌、譜代衆は大方が在所に引き籠もり傍観したのだが、
信虎公はこのくしまに勝たれ、その時から甲州一国の衆を八年の間に尽く絶やそうとなさり、そのため
二百、三百、或いは五百ばかりた立て籠る城を攻め取られた。これにより矢疵、鑓疵、刀疵など
激しく手負った衆が多かった。

しかしながら信虎公家中において、普代衆、牢人衆の中で健やかなる武士を七十五人選び出された
侍衆も、信玄公の時代に大方討ち死にして、年寄りとなるまで長らえたのは、横田備中、多田淡路、安満、
鎌田織部、原美濃、小幡山城の六人だけであった。
殊更、ここ六十年は鉄砲があることで、武辺を掲げる衆は一層討ち死にが多くなった。

鉄砲は大永六年に井上新左衛門という西国牢人が信虎公に奉公申し上げたが、この侍が鉄砲を持ち来て
訓えたと申し伝わる。さりながらそれはごく一部の人々に過ぎなかったともいう。
その後、信玄公が若き頃に、かち路大膳、同又作と申す牢人親子があり、この侍が各々に訓え、
近年は佐藤一甫と申す牢人が甲州に来て訓えた。
現在は侍衆は皆、鉄砲能く上手に撃つ。その中でも横田十郎兵衛、日向藤九郎の両人は、特に
鉄砲を用に立てる者たちである。

『甲陽軍鑑』
0759人間七七四年垢版2023/05/17(水) 11:52:46.46ID:qnzlWpsu
まとめサイト過去ログ
唐の頭に本多平八
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12224.html

まとめの過去分にもあるように『甲陽軍鑑』で、三方ヶ原合戦(の前哨戦の一言坂の戦)で、徳川方の多くが舶来品の
唐の頭(ヤク毛飾り)を甲冑に付けて戦い、中でも本多忠勝が勇戦したことで、小杉右近助という信玄近習が
「家康に過ぎたる物が二ツあり 唐の頭に本多平八」と詠んで坂に立てて称賛したという。

とした話が有名ですが、小杉左近(右近助)は実在が疑われる人物でこの逸話も信憑性が疑われていました。

『大日本近世史料「細川家史料二」』に、元和八年(1622)より寛永四年(1627)までの、細川忠興より忠利宛て書簡が編纂されています。
この中の寛永四年分に以下の内容があって、現在は「信其」という人物が実際に詠んだ作者ではないかとみられているようです。
信其の詳細は不明。

「信其ノ日々記、今朝よそより帰候て只今帋(かみ、紙と同意字)一二枚見申候、事ノ外数多キ事候間、奥まて見候事成ましき間返申候、
此内ニ本田(ママ)中書之若時ノ事ヲ、信其唐ノ頭ニ本田平八とうたニよまれ候由申傳候、御入候哉可承候、」



東京大学史料編纂所  『大日本近世史料「細川家史料二」』
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/5/pub_kinsei-hosokawa-02/
0760人間七七四年垢版2023/05/21(日) 21:38:55.38ID:8ODzLh+/
貝原益軒「朝野雑載」から松平信康を介錯した天方通綱のその後
前半部分は有名だけど一応載せておく

天正七年(1579年)九月十五日、信康卿が二俣城で切腹することになり、渡辺半蔵(ママ)と天方山城守(通綱)が検使として遣わされた。
信康は両人に「いまさら申し上げても意味がないが、子供の身で親に逆心を起こすような人倫の道に外れたことがあろうか。
我が武田勝頼に心を合わせ当地に武田勢を引き入れよう話など、日本中の神々に誓っても言うが、虚説である。
我の死後、どうかこのよしを申してくれ」とおっしゃった。
両人とも承諾したため信康卿は御満悦のお顔で「半蔵は幼少の時分よりの馴染みなのでそなたに介錯を頼むぞ」とおっしゃった。
しかし腹をお切りになり「半蔵半蔵」と呼ぶも、半蔵は大いに震えどうにもならなかったため天方が介錯した。
両人が浜松に帰り信康卿の御遺言を申し上げたが、家康公は平生のお顔で何もおっしゃらなかった。
榊原康政、本多忠勝は声を上げて泣き出したため御前を退いた。
家康公は天方の脇差の銘をお尋ねになり、千鳥村正と聞くと
「我が祖父清康卿が殺害されたのも、我が幼少の時分駿河で削刀で手を切ったのも、村正であった。村正は当家に不吉である」
とおっしゃった。

そののち天方山城守は当家を逐電して高野山に遁世したという。
しかし年来天方と親しかった朋輩が有馬に湯治のついでに高野山に行ったところ天方に出くわした。
世間話をしたのち
朋輩「貴殿はどうして浜松を立ち退かれたのか?」と尋ねたところ
天方「別に理由もないが、貴殿も御存じのように若殿を手にかけ、その後世の中が味気なくなり鬱々としたためだ」
朋輩「戦国の世なのにさほどのことで無常を感じ気弱になるとは。ほかに理由があるのでは?」
天方「正直に言うと、渡辺半蔵が介錯の時に大いに震え、このままでは若殿もお苦しみだろうと見かねて介錯をした。
そののち家康公が我の脇差を見て
「千鳥村正は当家に不吉である」とおっしゃり、
そののち御近習との御雑談で家康公が
「渡辺半蔵は槍半蔵と呼ばれる武辺者であるが主人の子供の首を切る段においては腰を抜かしてふるえよった」
などとおっしゃったと聞くと、それでは我を主人の子供の首を切ったと思われるのか、と思うと御奉公もいらぬと思ったわけだ」
結城秀康卿はこのことをお聞きになり、不憫に思われたのか越前を拝領の時、高野山の天方を召し出され、高禄を与えて召し抱えられたということだ。
0761人間七七四年垢版2023/05/22(月) 17:50:40.97ID:B5XhHAMH
「続武家閑談」から「前田利長夫婦京見物に乗出し本能寺信長乱を知り勢多より帰る事」

関連話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13431.html
かかる太平の世に逢候事ハなりかたき事
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3779.html
利長が輿をかつぐ者達を見ると

前田利長夫婦(当時数えで利長21歳、永姫(信長の娘)9歳)が同伴で京見物のために北国から上京しようと、まず安土城にいたった。
天正十年(1582年)六月二日、安土から勢田までおもむいたところ、向うから信長の奴僕がまっしぐらに来て「本能寺で信長公が弑せられました」と言った。
供のものどもは色を失った。
利長が言うには「父利家の領地である越前府中はここから遠く、一足とびには帰られないだろう。
まずは尾張にいる一族前田与十郎(前田長定)のところに妻女を預けよう」
すると六人の供が皆もとどりを切って
「尾張への御供はいたしません」とはっきり申した。
利長はこれを聞いて
「我らが妻女をおもうのも、汝らが越前にある妻子を心配に思うのも、心は同じである。
おのおの帰ってよいぞ」とことごとく帰した。
そして内室(永姫)に大小をささせ、馬に乗らせた。
恒川監物と奥村茂右衛門(奥村助右衛門永福?)が馬の口をとり、尾張へおもむいた。
一方、利長はまず安土の屋敷に入り、そこから越前に帰ろうとした。
このとき新参の武士は残らずいなくなり、譜代のみが供をしたという。
人心は今も昔も変わらぬはずだが、新参者は世上に有縁のものがあるために身を片づけやすく、
譜代はなかなか他家には縁がすくなく、また母や妻子が皆主人の領内にあり、逃れる手だてがなかったためであろうか。
0765人間七七四年垢版2023/05/24(水) 17:42:55.89ID:v+W2Lmab
成金金ピカ大好き秀吉の遺品が成金中国人に買われるのは秀吉らしい
0767人間七七四年垢版2023/05/24(水) 18:37:04.70ID:VImIPFtI
そもそも長坂釣閑斎という人物は、武辺についても数度を成した人物ではあるのだが、無分別故に海尻の城を
開いて、大いに臆病者と言われた。

釣閑斎の仕形は御家の御為を考えず、自分に取り入ろうとするものを褒める。しかし、御用に立つ者というのは
あまり人に取り入ろうとはしないものだ。私(高坂弾正)が死んだ後は、武田家は釣閑斎の仕置となるだろう。

跡部大炊の分別は、信玄公の時代にはそのような事は無かったのに、勝頼公の時代になって三ヶ年、釣閑斎の
真似をして散々悪き分別をしている。

現在の彼ら両人の仕形では、私どもが亡き後は、自分たちに取り入ろうとする者達ばかりを召し上げるだろう。
しかし信玄公の時代より誉れを取った人々で、長篠での死に残りも少しは在るだろう。
他所の国において覚えの者が沢山在ると言われるより、当家で人が無いというのはまだましである。
しかしあのようでは、御用に立つ衆を労々の有様で恐怖を持たせ、皆御用に立たぬように成してしまうだろう。

素より釣閑斎、大炊介両人が取りなした衆は、荒川、村井の如く、大事の時分では尽く逃げ散る。
三略には、『招舉姦枉、抑挫仁賢、背公立私、同位相?、是謂亂源』
(姦枉を招まねき挙げ、仁賢を抑え挫じき、公に背き私を立たて、同位相謗る。是を乱の源と謂う)
と云う。

時には方々は、この書を披見されよ。これを読んで尤もだと思し召されたならば、大事は無いであろうが、
もし腹を立てられたなら、国は崩れて、武田の御家は二十八代目と申す当家屋形・勝頼公の御代に終に
やぶれて、滅却すること少しも疑いない。
人物についての目利きを能く成されることこそ尤もである。

『甲陽軍鑑』
0768人間七七四年垢版2023/05/25(木) 09:19:00.51ID:UJbMz561
SNSで紹介されてたんで転載

山形県上山市 ふるさと散歩資料
https://www.kaminoyama-lib.jp/img/2022/furusatosanposiryou.pdf
「どっちが本物?藩の家宝すり替え事件」
上山藩主 藤井松平家には先祖代々伝わる、とてもすごいお宝がありました。
そのお宝とは、江戸時代の前の戦国の時代に、藤井松平家のご先祖(松平信一)が戦で大活躍したご褒美
として、あの歴史上の有名人 織田信長から与えられた、桐の紋章がついた立派な胴服(羽織)でした。
江戸時代の中ごろの文化年間(1804~1818の間)のある日、上山藩主の藤井松平家のもとに、信
州上田藩(現 長野県上田市)藩主で親戚の松平伊賀守から、信長からもらった胴服を貸してほしいとのお
願いがきます。
このお願いを上山藩主 松平信行は許し、城の蔵にしまってあった胴服を貸し出しました。
それからしばらくして、貸した胴服は上山に返ってきましたが、それを見た上山藩士 谷野市右衛門はあ
る異変に気づきます。
それは、胴服の襟の裏についているはずの印が無かったのです。この印は、胴服がすり替えられないよう、
貸し出す前に谷野がこっそりつけていたものでした。
上山藩主 松平信行は胴服の襟の裏に印が無いことを松平伊賀守に知らせます。
そうすると松平伊賀守は、胴服を借りた後、そっくりなレプリカ(偽物)を作り、本物とすり替えて上山
に返したといってきたのです。
その後、偽物の胴服は上田に返し、本物の胴服が上山に戻ってきましたが話はそれで終わりません。
それからしばらくして、上田藩は「我が藩主の先祖が藤井松平家(上山藩主)から分家するとき、信長か
らもらった胴服を貰い受けていた記録がある」と主張し、上田にある胴服が本物で、上山のものは偽物だと
言ってきたのです。
結局、どちらが本物か偽物かは決着がつかなかったようですが、それ以来、上山藩では、上田藩の者には
簡単に気を許してはいけないと固く決意したそうな。
【参考】上山市史編集資料28「森本家文書集」、上山市史編さん委員会、上山市、昭和54年8月
0769人間七七四年垢版2023/05/25(木) 20:23:24.93ID:WbxQTDel
「続武家閑談」から「小笠原長時流浪の事」

享禄四年(1531年)の冬、小笠原大膳太夫長時(三十九歳)は二木豊後(二木重高)を呼び、
「これ以上は武田晴信に対して城を保てぬゆえ、わしは越後に落ち延び、上杉政虎を頼むことにした。
おぬしはその間ここにとどまり、武田晴信に属し、武田軍が我が領地を切り取る間、四方の輩と連絡を取り、小笠原家再興の方策を考えよ」と言った。
二木は元来忠義の者であったため、これを了承し、流浪の助けになればと黄金百枚を長時に授けた。
二木の先祖は奥州多賀の黄金商人の橘次末春(金売り吉次)であり、牛若丸を携えて京から奥州に下向し、ついには源義経の被官となり、名を堀弥太郎景光と改めた者であった。
その子孫も金売りであり堀藤次と言っていたが、諸国動乱のため上方から奥州に帰れず、信州に寓居し娘を二木氏に嫁がせた。
藤次は男子がなく病死したため、金銀などはすべて二木氏が譲り受け、豊後の代まで富を受け継いでいたのであった。
こうして長時は嫡子又次郎長隆と次男孫次郎信定(実際は長時の弟)両人を連れて越後に行き、上杉を頼んだ。
しかし一両年のうちに三好長慶が洛中で猛威を振るった。
三好氏は分かれてからずいぶん経つとはいえ小笠原氏の支流であったため、長時は謙信に暇乞いして愛息の小曽丸を連れて長慶を頼んだ。
長慶は長時に河内高安郡の十七ヶ所を堪忍料として与え、芥川の城下に住まわせた。
しかし長慶没後、三好家が混乱したためここを去って奥州会津の星備中入道昧庵(蘆名氏の老臣)のところに寓居したが、家人に殺害された。
息子の小曽丸は後に喜三郎貞慶と称した。
甲州混乱の折に本国に帰還し、旧領を切り取って終に徳川家に仕えることとなった。
貞慶は従五位下右近大夫に叙任され、
(貞慶の息子の小笠原秀政は)故岡崎三郎君(松平信康)の末の姫君を娶って御譜代大名に加わったが、大坂の陣で落命した。
今の小笠原右近太夫ならびに信濃守、山城守等の先祖である。
0770人間七七四年垢版2023/05/26(金) 17:20:42.17ID:lClEifdb
はてさて?

https://museum.umic.jp/hakubutsukan/collection/item/0013-1.html
上田市立博物館 収蔵品
織田信長所用韋胴服

種別 国重文 工芸品
指定 昭和51年6月5日
所在地 上田市立博物館
所有者 上田市

  織田信長の遺品として、旧上田藩主の松平家〔まつだいらけ〕に伝わったもので、鹿の革〔かわ〕で作られています。
「韋〔かわ〕」とは「なめしがわ」とも読み、毛皮の毛と脂〔あぶら〕を取り除いて柔〔やわ〕らかにしたものです。
「胴服〔どうふく〕」とは後〔のち〕の羽織〔はおり〕のもとになった着物を言います。
表は全体に白い小さな模様が染め付けられていますが、これは小紋染〔こもんぞめ〕といい、
今でも和服の地〔じ〕によく用いられています。
0771人間七七四年垢版2023/05/26(金) 18:27:01.89ID:sRKV6zV6
「続武家閑談」から「太田・長野両家の事」の長野家のとこだけ

在原業平朝臣が伊勢の斎宮(恬子内親王)と密通して(「伊勢物語」第六十九段「狩の使」)もうけた子供が丹波守の高階茂範の家を継ぎ、高階師尚といった。
その後裔である長野業正は上州箕輪城に居住し、千五百騎を指揮する身上であり、太田資正入道三楽とともに上杉家無類の忠臣であったが、おのおの大功を立てられず、鬱々として病死してしまった。

長野業正が在原業平の子孫とされたのは有名だけど、業平の東下りでできた子供の子孫のはずだから高階氏とは関係ないはず。
高階氏と在原業平との話は、来年の大河で藤原定子(高階貴子の娘)の息子で藤原彰子に養育された敦康親王が春宮になれない理由で出てくるかも。
0772人間七七四年垢版2023/05/27(土) 20:29:51.25ID:0JPugDAC
文化十二年(1815年)成立の越後の地誌である
「越後野志」の「村上城」から本庄繁長の活躍

本庄繁長は幼少の時に父房長が没し、十三歳の時に一族の小川・鮎川が反逆したため討ち平らげた。
天文二十三年(1554年)八月十八日、信州川中島合戦において十九歳で謙信侯の先陣となり、武田信玄侯の軍を大いに破った。
また反逆者誅伐にも戦功が大いにあり、元亀天正年間では本庄繁長・新発田治長(新発田重家)は鬼神のように恐怖された。
永禄四年(1561年)九月十日、川中島合戦で謙信侯が甲州兵を破り休まれていた。
そこへ武田義信が兵八百ほどを率い、旗を伏せ、腰差しを隠し、草むらに潜んでいたのが来襲した。
謙信侯の旗本の軍は不意をうたれ、防ごうとしたが過半数が敗走した。
謙信侯も手に家宝の鍔槍をとって防戦された。
老臣である志駄義時、大川高重が戦死し、軍が乱れようとした。
そこへ色部長実が五百人を、宇佐美定満が千余騎を率い、武田義信を挟み討ちにし、広瀬まで追い落とした。
このとき繁長も自ら太刀打ちして人の目を驚かせた。
しかし二十六歳の血気盛りであったため、
「謙信侯の軍略が未熟なために武田義信にしばらく劣勢となったのだ」と謙信侯をそしってしまった。
謙信侯が怒り、事に及ぼうとしたのを察知した本庄繁長は、永禄十一年の秋に本庄城に引きこもり叛いた。
謙信侯は上条義春(畠山義春)をもって攻めさせた。
義春は軍略により繁長の軍を破り、繁長はついに剃髪して降伏した。
謙信侯も絶世の勇士であるため繁長を許し、厚く用いた。
景勝・景虎の二君が争った時(御館の乱)には景勝君に属した。
景虎君に属した上杉十郎憲景(上杉景信、本庄繁長の舅)が戦死したのち封禄の地を与えられたが、上杉の名は継がず家紋だけを用いて今日にいたる。
そののち次男の千勝丸を出羽の庄内の大宝寺義興に与え後継とさせ、ひそかに謀って義興を討ち、千勝丸を大宝寺義勝と改名して、秀吉公の了承を得た。
(このあとは最上軍との戦いの話だけど省略)
0773人間七七四年垢版2023/05/27(土) 20:37:28.02ID:0JPugDAC
ついでに「続武家閑談」から「武田太郎義信の事」

川中島合戦の後、武田義信は信玄に対して逆心があったため、家督を譲られなかった。
その理由であるが、信玄が川中島の戦いにおいて、名代に義信を立てて先陣を勤めさせて入れ替わったところ、慈悲がないと義信が恨んだためだという。
川中島の戦いでは信玄の旗本は義信と入れ替わっていたそうだ。
0774人間七七四年垢版2023/05/30(火) 21:07:44.23ID:cZchWjGY
甲州武田は新羅三郎(義光)公より法性院機山信玄まで二十七代なれば、その継承された大将衆は四十年、三十年、
二十年、或いは十年、五年にて変わることもあるだろうが、多少取り合わせて二十年づつとしても、
五百四、五十年ばかり、甲斐国へ他国から乱入されることは無かった。故に、神社、仏閣、町地毛、
そのほか非人までも他国よりは少々富貴である。

猿、馬、牛の皮を剥ぐ乞食が騎鞍馬(のりくらうま)に乗り、下人を連れて連雀小路の玉屋という酒屋にて
代物(代金を出して酒を飲む時、おりふし向山同心である功力左太夫と申す侍、また足軽大将の三枝善右衛門の
寄子である小宮山八左衛門という信玄公の御弓持の者、この両人がなにかの用があって、これもこの酒屋に参った。

所用が終わり酒坏が出て、暫く指しつ指されつ盃を巡らせていた所、かの皮剥も侍衆の中に混じり酒を飲んだ。
その後座を立つ時に、功力左太夫の仲間がこの皮剥を見知っていて、功力小宮山らの侍衆に
「この者は皮剥である!」と告げた

功力左太夫、小宮山八左衛門はこれに大いに腹を立て、宿の主人である玉屋権右衛門に抗議した。
権右衛門は件の皮剥に抗議した。

然れども小宮山八左衛門、功力左太夫は両人とも武道の心ばせ能き者共であった。
八左衛門は上州三ヶ尻合戦で鑓脇をよく射て信玄公の御証文一つを下されていた。
左太夫もさらに二つまで武辺場数の御証文を信玄公より給わっていた。
それ故理を以て町人などを、事を荒らげて脅すような事は聊かもなかった。しかしながら、皮剥のこつじきが、
侍の交わりに、富貴であるに任せてこのように交われば、貴賤、上下の隔たりも無く、さながら侍の作法も、
尽く皆要らざることになってしまうと、小宮山八左衛門、功力左太夫両人は書付を以て奉行衆に申し上げた。

そして奉行衆は、御蔵の前にて侍衆の訴え、町人の申し分、非人の物の言う事を確認し、公事(裁判)の
沙汰が有った。
この時、武藤三河守、桜井安芸守、今福浄閑斎(長閑斎、友清)の三奉行の中でも、今福浄閑斎は物事の
良き功者であったので、この公事を沙汰いたした。

「先ず侍衆の訴えは道理至極である。また町人も、代物の限りに於いての酒商売の事である。
殊更、武田の御分国は富貴である故、かの非人までも宜しきなりをしているが、これらは万事逆ではなく、
順義の御仕置故、尽く安堵してあり、誠につたなき非人まで、侍のように騎鞍馬に乗る。
であれば、町人が(皮剥が非人である事を)見損なったのも道理である。

さて、しかし非人が代物限りであれば、へりくだるには及ばないと、至らぬ心より存ずる事は、大非義の仕形
である。ではあるが、今まで改めて、非人の装束などに定めが無い以上、いかに乞食であっても罪科には
なり難い。その理由を教えること無く殺すのは逆である、と云うときは、功力左太夫殿、小宮山八左衛門殿、
この三人の奉行の真似事に免じて堪えて頂きたい。

さて又町人には、いかに商売代物限りであるとしても、歴々の侍たちに非人を交らわせた事を見損なった科の
代償として、二人の侍衆に巻物を一つづつ持って、玉屋権右衛門は礼に参るべし。さもなくば入牢を申し付ける。
さらに又、非人の命は三奉行の詫び言を以て、両人の侍衆が助けられた。故にこれを有り難く存じて、
おのれが家の皮で艸履(草履)をしたため、功力左太夫殿、小宮山八左衛門殿に御礼に参り、これ以後
皮剥の道服、袖広、帷子にも牛と馬と両方に、中には艸履を付けて必ず着て歩くべし。さもなければ、
よき仕合にて己等は磔物とされるか、もしくは釜にて煎られると心得よ。」

そのように申し定めた事で、それ以降は皮剥も、どんなに良き馬に乗っても、上記のように着ている道服、
帷子の形で解るように、甲州、信濃、上野までも定められたのは、この今福浄閑斎の工夫の故である。

『甲陽軍鑑』

甲陽軍鑑に見える被差別民への扱いについてのお話
0775人間七七四年垢版2023/06/02(金) 16:52:39.65ID:F9+RQESR
「越後野史」の畠山義春について
畠山義春は能登守畠山義忠(畠山義続?)の末子で質として越後に来たが、人となりが武勇にして聡明なために謙信侯の寵愛を受け、幼少時からそばにおかれた。
常に謙信侯の軍略を見聞して十四歳の時から一軍の大将となり戦功を何度も立てた。
景勝と景虎の争いは二年続いたが景勝に味方し、鮫が尾城にて景虎を自殺せしめた、わ
また二本木駅において森武蔵守長可を破り、軍略をもって新発田重家を攻め、功績がすぐれていた。
景勝卿の妹婿ときて海津城主となり上条上杉氏を継いだが、直江兼続の讒言により上杉家を退転した。

>>772で宇佐美定満がでてきたり、畠山義春が直江兼続に讒言されたり、と書かれているので「越後野史」は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12369.html
雑談『松隣夜話』について
でも語られている、自称宇佐美定行(宇佐美定満)の子孫の宇佐美定祐の捏造の影響を受けてそうだ。
鬼武蔵のwiki見るとたしかに鬼武蔵が二本木まで攻め込んで上条景春を破った、と書かれているけど、これも宇佐美定祐「北越軍記」が出典扱いされてるし、どこまで本当なのやら。
0776人間七七四年垢版2023/06/02(金) 17:03:31.78ID:BmMBtXp/
すいません>>775
「自殺せしめた、わ」→「自殺せしめた。」

ついでに「続武家閑談」から「徳川・北条・羽柴三家の鬼号の事」

そのころ諸国干戈を争い、武辺場数の士はいちいち数えることができないほどであった。
その中でも徳川家には服部半蔵(服部正成)、北条家には松田孫太郎(松田康郷)というものたちが、諸国において鬼半蔵、鬼孫太郎と称されていた。
また少しほど経て羽柴秀吉の元に森庄蔵(後任武蔵守)という、鬼庄蔵(鬼勝蔵)と呼ばれたものがいた。

鬼武蔵は羽柴でなく織田のイメージではあるが。
0778人間七七四年垢版2023/06/06(火) 21:28:53.52ID:BK+o2M/d
元亀四年は天正元年へと替わった。しかれば天正元年四月十二日に、武田信玄公は御他界なされた。
そのため即ち、その年五月より勝頼公が御仕置を執られた。ただし、他国の諸々の敵衆、越後の謙信、
岐阜の信長、浜松の家康、その外関東の新田、足利、飛騨、越中といった、各々小敵まで含めて、
その聞こえのため、また相州北条氏政公は信玄公の旗下にあったが、法性院殿(信玄)の御他界を聞けば
即時に敵対なされるだろうと予想された。そういった方々のために、信玄公の御他界は隠され、御患いとばかり
申しならわした。

『甲陽軍鑑』

信玄の死を秘匿したことについての、武田家側の見解。
0779人間七七四年垢版2023/06/10(土) 14:45:15.92ID:WMKENhuW
ここ百年来、本当の合戦(本来の合戦)というものはほとんど無い。但し二度本当の合戦があった。
それは永禄四年の信州川中島合戦、遠州三方ヶ原合戦の二つである。

北条氏康公が河越において上杉管領八万余の大軍に、氏康八千にて勝たれたが、これは夜軍であったため
敵が油断した故である。そうでなければ八万余の軍勢が、人数八千の北条家にどうして負けるだろうか。
下総の国府台において氏康公は、阿波の義広(里見義弘ヵ)に勝利されたが、義弘ははじめ打ち勝ち、
そのため油断した所に氏康が懸って利運になされた。

この如くに出し抜き、或いはふたまたにて小身となった敵に勝ち、或いは堀を掘り、柵を付け打ち、
自身が逆心、また旗下の侍が合戦の場においてにわかに裏返って敵になる。

こうして無理な勝負を負けても、負けたとあまり心の負担に成ることはない。世間においても
本当の勝負であったという評価はされない。

国持同士が、敵味方ともに二、三万の人数を以て、白昼に合戦参るべく候とて、両方ともに、
他国の加勢はあっても、大将は一人ずつで、堀も川も柵も裏切りも無く打ち合い、正面から鑓を合わせ、
勝負をして実否を付けたものを、本当の合戦と言うのである。

『甲陽軍鑑』
0780人間七七四年垢版2023/06/12(月) 20:35:54.19ID:rldIlKfX
武田信玄公の御他界後、万事勝頼公へ諫言を申し上げるため、長坂長閑斎(光堅)、跡部大炊助(勝資)殿に
申し上げた。
大身小身共に、常々思し召される事について、五ヶ条を深いもの、浅いものの合計十ヶ条である

一、慈悲を深く、欲を浅く。ただし大身の乱国を取られる事、小身の人が忠節忠功の奉公にて、所領を
  取ることは欲深い行為ではない。ここでいうのは邪欲の事である。慈悲も、それは決して罪過の者を
  憐れむことではない。

一、人を深く、我が身を浅く

一、忠節忠功の心がけを深く、所望を浅く

一、遠慮して慇懃を深く、遊山或いは楽事を浅く

一、人を使うに、穿鑿を深く、折檻を浅く

一、第一に国持大名が慈悲を知らないのは、非常に欲深い。理非無く欲深ければ、その下の出頭衆、邪欲をかまえ、
  欲得にふけり、己に音信仕る者を穿鑿も無しに取り立て、諸奉行或いは諸役者に定めてしまい、さらにその
  者共は上に学び、国法軍法に背いたものであっても、自分の気に入った者については、悪事をも押し隠し、
  法外にわたくしをさばき、科なき者であっても押し倒し、慈悲少なく、その大将の危うきも知らず、
  上杉憲政の家中のごとくになって、尽く意地汚い人が多くなるだろう。

一、第二に、国持大名が他の人をあさく、我が身を深く考えれば、出頭衆を始め尽く走り廻るほどの衆は、
  身に高慢して、しっかりとした証拠もない事を互いに褒め合い、誉れとし、そうなれば国を誤るものである。
  そのうえ民の困窮も知らず、下々の迷惑も知らず、殊に凄まじい戦などが有れば、ついにその滅却が
  あるだろう。

一、第三に、国持ち給う大将の、崇敬ある侍衆が、忠節忠功の心懸けが浅ければ、その家の下々まで
  主君の御為を思わず、手柄も無いのに所領を欲しがり、大剛の武士であっても小身であれば証拠もなく誹り、
  たとえ臆病であっても、親から譲られた所領を沢山に持ち、金銀米銭を持つ分限物を、侍については
  言うに及ばず、町人地下人までをも褒めて、しっかりとした証拠もないのに、「手柄の人かな」と
  申し習わす。故に、分限さえあれば町人などまで増長し、剛の武士の居る所にても、武辺雑談を仕り、
  皆尽く慮外がはやり、大平者が繁盛し、能き武士は次第に沙汰が無くなって、その家その国の弓矢は
  弱くなるものである。

一、第四に、出頭衆の遠慮が浅くて慇懃が無ければ、その家の諸人は先の考えもなく遊山にふけり身を飾り、
  恥も知らず、朝暮不足を欠いても恥と思わず、国法に背くもの多く、言い合いがあって過ちを仕り、
  或いは死ぬまじき所にて無駄に命を捨てることもあり、又は昼強盗などを仕り、政道が機能しないのは、
  測ることも出来ないような仕置故である。そのようになるのは、走り廻る衆の遠慮浅きより起こる
  のである。

一、第五に、国持大名が人を使うに穿鑿が浅ければ、取るべきではない人が知行を取り、崇敬ある衆の
  親類の者、大身の親類、分限者の身寄りの者ばかりが幅を利かせて、彼らにしそこないがあっても、
  能き縁者の影に寄って、自分の身には何事も有るまじきと思い、その上、たとえどんな悪事を仕り、
  千に一つ、身体が破れたとしても、主君の命令にも畏怖有るまじきと思っているので、国法を背いても
  苦しからざるを、能き親類を持たない者の、しかも分別のない人々がこれを見て、「能き者の
  よしみさえ背くのに、我らごときは猶以て、大将の御為など、さほど必要ない」と心得、背くこと
  多くして、法度があっても種々の悪事が横行し、訴訟が絶えなくなるだろう。

  これら、上記五ヶ条、裏表十ヶ条なり。これをよくよく分別なさるべく候。

『甲陽軍鑑』

甲陽軍鑑に見える、武田勝頼への諫言十ヶ条
0781人間七七四年垢版2023/06/14(水) 19:54:47.90ID:AbXQ1WrC
小田原の北条氏政より、「武田信玄公は御他界したのか」とあり、これを能く見届け申すために、
板部岡江雪斎を甲府へと差し寄越された。

武田の家老たちははかりごとを江雪斎を暫く留め、仕様を仕り、その後、夜に入道逍遙軒(武田信廉)を
信玄公として御対面なされた。この時、信玄公が八百枚据え置かれた御判の中でも、いかにも御判の
不出来なものを選び、江雪斎に渡した所、さすがに賢き江雪斎もまことと仕り、小田原へ帰り
「信玄公が御在世なり」と、氏政に申し上げた。故に北条家からは御他界の取り沙汰は無くなった。

『甲陽軍鑑』
0782人間七七四年垢版2023/06/18(日) 15:29:30.47ID:IHoJZb3O
天正三年四月十二日、武田勝頼は武田信玄の薨去を公表し、葬儀を行った。

その後、勝頼公は御馬を出され、諏訪明神へ御社参されたのだが、この時亀の甲の御鑓が折れた。
さらに高遠へ御着されたが、この時堅固であったはずの橋が折れて、御小人衆のうち、一両名が死去した。
勝頼公もこの橋を渡っていたが、公は御馬上手であられたので、蹴り立ててこれを渡られた。
御馬の後ろの左の足が、橋の崩れに近々とかかっており、危険に見えたが御堅固であった。

この事について、めでたしと申す者もあり、堅固なる橋がかくの如くなってしまったのは物怪なりと
つぶやく者もあった。以上。

『甲陽軍鑑』
0783人間七七四年垢版2023/06/21(水) 20:19:14.13ID:74/agC1t
織田信長は長篠合戦の勝利の威を以て、その年七月越前朝倉を倒し(これは天正三年八月~九月の、
越前一向一揆討伐を指していると考えられる)、すなわち越前に於いて伊勢田丸の城を取り上げ、
二番目の息子、三の介(織田信雄)をかの城に差し置くべきと定められた。
武田勝頼公が若気故にこの合戦(長篠の戦い)をなされたために、朝倉まで簡単に滅びてしまった。

信玄公が御在世の時、伊勢の国司(北畠氏)、江州の浅井、備前、丹波の赤井悪右衛門、越前の朝倉等は
甲府に使者を付け置き、信玄公が御上洛成されるようにと申していたが、信玄公が酉の年四月に御他界
されると、各々力を落とした。その上勝頼公が亥年に長篠にて遅れを取られた故に、彼らには少しも
後ろ盾が無くなり、あのように滅びてしまったのだ。

さりながら、信玄公御他界した次の戌年、遠州高天神城を勝頼公が攻め落とされた時、信長、家康は
叶わぬを聞き、国司(北畠氏)贔屓の伊勢先方衆は歌を作って歌った。その歌は

「ただあそべ夢の世に 上様は三瀬へ御座れば高天神は落」

などと申し、表面上は信長に従う風をしていても、信玄公御他界の後、勝頼公御代までも
長篠の合戦に負けられるまでの間、三年は諸方にて、武田四郎殿を後ろ盾に仕り、信長への面従腹背の姿勢を
維持していたが、長篠合戦で遅れた後は、御旗本衆の事は申すに及ばず、御譜代衆である東美濃岩村の
秋山伯耆守(虎繁)まで、亥の極月に取り詰められた。しかし勝頼公は後詰め成り難く、信州伊奈まで
御馬を出されたが、大雪によって岩村の後詰めは叶わなかった。

このため、信長は岩村の城へ扱いを入れ、『秋山伯耆守は伯母聟なのだから、助けるべし』と言ったが、
これにより彼らは出し抜かれ、伯耆守、座光寺(為清)らは搦め捕られ、機物に上げられた。
これは、徳川家康の味方となった奥平九八郎の女房を、勝頼公が機物に上げた事への返報であったと
言われた。その上、伯耆守の内儀(おつやの方)は信長の伯母であったが、強敵である秋山伯耆守の
妻になった故、伯母子をも信長は成敗した。

『甲陽軍鑑』
0784人間七七四年垢版2023/06/26(月) 22:49:28.43ID:BntjdKkv
武士道の沙汰褒貶六ヶ條の事

一、敵討ちについて、親のかたきを子が討つのは順、兄のを弟が討つのは順、
  子のかたきを親が討つのは逆、弟のを兄が討つのは逆である。
  叔父のかたきを甥が討つのは順ではあるが、討たなくても問題はない。

一、合戦、競り合いにおいて相打ちは非義である。強き武士は、大方の場合はしるし(頸)を
  取ろうとするものだが、よき武士というものは、しるしを取らなくても問題としない。
  相打ちは必ず無用である。例えば鑓を合わせる時、相鑓などと言う事は無いではないか。

一、味方討ちは御大将への逆心である。これはまた。ばい頸(売頸?)より劣った行為である。

一、武士の寄り合いの時、互いに仲が悪かったとしても、乗打をしてはならない。この時たとえ
  打ち果たしたとしても、無礼は弓矢神への恐れとなる事であるのだから、そのことをよくよく考え、
  実の道理を深く守るべきである。

一、親はまた、家中に奉公している場合、御旗本に奉公している親兄弟が科をして主人に成敗させられた
  事について、無分別な人々はこれを、「敵討ちの沙汰である」と申すが、それは不案内の儀である。
  能く沙汰してみれば、科有る者は敵討ちを厭い、故に成敗なくしてはおかざるものなのである。
  であるのだから、主に成敗された事を以てかたきと受け取るのなら、御旗本に有る人を屋形様が
  御殺した場合、その子は又屋形様を狙うであろうか。それは非儀であり、あってはならない事だ。
  であれば、「主人に成敗されたのに、その主人を(敵討ちとして)討たない」などと言って
  誹謗するのは、一段の無詮索ではないか。
  もし、前々から遺恨があったというのであれば、討ち手に人を討つ事もあるだろう。
  しかしそれとても、道理に外れた事である、

『甲陽軍鑑』
0785人間七七四年垢版2023/07/07(金) 21:35:31.65ID:7wWsJJNK
いまだにこのアフィカスの乞食スレもそれにせっせとネタ提供するアホもまだ存在したんだな
0786人間七七四年垢版2023/07/08(土) 23:20:49.41ID:IITwcPqV
アフィってもう死システムだし死語だろ
0787人間七七四年垢版2023/07/10(月) 10:21:27.16ID:6YrzPNHa
アフィってどれくらい儲かるの?
0789人間七七四年垢版2023/07/23(日) 13:38:35.95ID:ccTnDEmC
例えばネコと申す獣は、取り立ての主をも知らず、キレイな囲炉裏の中にも糞をし、或いは
飼鳥を狙うような、悪儀のケダモノであるのだが、ネズミを捕る時は一段といさぎよい。

また、ネズミという物は、大事な物の本をも切り破り、障子の絵も遠慮なく食い破る。
このような時はどうにかして退治したいと思うのだが、俄に退治することも出来ない。

しかしかのネコをけしかけて悉く取り尽くした時は、ネコについてのその他の悪しき事を忘却し、
ただネコは重宝とばかり思うものである。

『甲陽軍鑑』

ネコについて
0790人間七七四年垢版2023/08/01(火) 02:42:18.84ID:8PNhtesL
REVELATION
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0792人間七七四年垢版2023/09/18(月) 16:37:20.04ID:PMYDQaQC
家康が家臣にしたヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムス
どちらも、ヨーステンとアダムス、と姓だけでも呼ばれがちですが・・・

ヤン・ヨーステンのフルネームは、ヤン・ヨーステン・フアン・ローデンステイン

ヨーステンは「ヨーストの子」の意味で、姓はあくまでもフアン・ローデンステインなのでした
(ヤンの父親の名はヨースト・ヤンシュ・フアン・ローデンステイン)

なお英語名のジョンソンなどと同じく、現在はヨーステンだけで名字の家もあります
0793人間七七四年垢版2023/10/07(土) 18:35:12.68ID:TQcZy2/O
質問スレよりこっちのほうが知ってる人いそうなのでちょっと質問させて

島原の乱で板倉内膳重政が戦死したあと、一揆衆(あるいは京童)がそれを嘲る狂歌があったと思うんだけど、誰か知らない?

下の句が
”いのち板倉さらに内膳”、あるいは
”何を板倉いのち内膳”
みたいな感じで、重政の戦死を官名にかけて嘲る歌だったと思う。
0795人間七七四年垢版2023/10/07(土) 19:33:33.72ID:PSz8Ksh9
長崎県史 対外交渉編 - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/3009885/1/110

“落城をいつまでとてか板倉や、心長門に難儀島原。
上使とてなに島原に板倉や、武道の心更に内膳。
胸板を打ちとおされて板倉や、即ちそこでいのち内膳。”
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