戦国ちょっと悪い話49
というか主が稀代の大悪人なら、家来に善人が揃うものかというのが素直なとこだよね ある本に、明石氏(全登)の子である某は、大阪落城の後、田中筑後守忠政が匿い置いていたが、
その事が上聞に達し、御検議あらん為に、その家臣一人を奉行所へと召された。
忠政はこの事を重臣である平野長門と協議したが、長門は「最大事ですから、他人を遣わすべきでは
ありません。愚臣が赴きます。」と申した。
これを聞いた筑後守は落涙して、「余人を遣わさん!」と言ったが、長門は留まらず奉行所へ出て
陳弁した。そして御疑いがあり、拷問に及んだ。しかし平野はそれを嘲笑し
「申し上げるべき事無し!たとえ又あったとしても、武夫たる者が苦を嫌い死を畏れて言うものか!」
と動ぜず、遂に責め殺された。そしてそれ故に筑後守は災いを免れ、明石の子もまたその跡を
晦ます事ができた。
(新東鑑) 「朝野雑載」から仏教と神仏批判ネタ
美濃の愚堂東寔(臨済宗の高僧)を後水尾院が仙洞御所にお召しになられた時、院はもちろん上段にお座りになっていた。
愚堂は御許可もないのに、院と同じ上段に上がってきた。
御酒が運ばれてきて、院が「まずあれへ」と愚堂の方に目をお向けになると、公家衆が御盃を愚堂の前に置いた。
愚堂は辞せずして「身どもに食べよ、と仰られるのか」とすぐに盃をとって飲み、その盃を院のもとに回した。
「沙門は王者を尊ばず(沙門不敬王者論)」と仏典にあるためこのような無礼をなしたのであろう。
秀頼公は多くの寺社を建立したが七福は生じず、七難により滅んでしまったのに、世の人は弁えないのだろうか。
前田利家公は不動山(石動山?)を焼亡し僧徒を打ち捨てられたが、武運長久で二位大納言まで昇り、子孫は繁栄している。 「大友興廃記」から「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」
大友義鑑公幕下の臣、佐伯惟治は豊後国祖母嶽大明神より二十一代の孫で家名が高かった。
また文武両道相備え、諸芸の風流人であり、豊後海辺郡佐伯栂牟礼の城主であった。
惟治は幼少の子息で御曹司と呼ばれている千代鶴に継がせ、府内に出仕させ、自分は在府も出仕もしないようになった。
あるとき惟治は山上寺の住持春好を師匠にして魔法を行う契約をなした。
こうして上半月は清浄潔斎の身となり魔法に専念したところ神変奇特があった。
身によりそう影が生じ、打てば響き、呼べば答え、あらゆることが思い通りとなった。
累代相伝の家老は何度も諌めたが、いっそう魔法に力を入れた。
また先祖の祖母嶽大明神を佐伯迫田に勧請し、金銀を散りばめた荘厳巍々たる神殿を造営した。
またその他さまざまな宮が荒れていたのを建立、再興した。
あるとき惟治は魔法の師匠の春好が穢れをなしたとして猪の肉を食らうよう命じた。
春好は「髪を剃り僧衣を着て以来潔癖の身であるのに破戒などしたらこれまでの修行も無意味になります」
と抵抗したが、惟治が刀を喉に当てて脅したため、仕方なく鹿の肉を食したところ吐血してしまった。
そののち惟治は春好を生害した。なおその討ち手はほどなく大病で死んだという。
またあるとき惟治は家臣に「あの白鷺を捕らえよ」と命じた。
家臣「弓矢もないのにどうして捕らえましょうや」
惟治「弓で射るのではない、抱き抱えて捕らえるのだ」
家臣はしかたなく白鷺に近づいたが白鷺は動くことなくそのまま捕らえられた。
それを見た家臣たちは「延喜の御代に醍醐天皇の命で鷺が捕らえられたため五位を授けられた話はあるが、このたびは魔法によるものである。
当家の行く末はいかばかりであろう」と嘆いた。 このあと大友義鑑に滅ぼされる話が続くが長いのでここまで。
この前、戎光祥選書ソレイユから出た稙田誠「寺社焼き討ち」には「栂牟礼実録」出典で同じ話があるのでたぶんそちらが元だろう。
その本にも書かれているが、この佐伯惟治の先祖とされる祖母嶽大明神は蛇で、
平家物語巻八「緒環(おだまき)」では緒方惟義の先祖が豊後の女と大蛇との間に生まれた大男の五代孫となっている。
(三輪山の神と倭迹迹日百襲姫命の伝説そっくり)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13594.html
「大友興廃記」より「遣唐使の事」
こちらの稙田玄佐(植田玄佐)も蛇の子孫で紋も佐伯惟治と同じ巴紋なのに、美濃斎藤氏だったり蛇が雌だったりしてるのは伝承の過程でオスがメスにでもなったのだろうか。 「佐伯惟治魔法の事 并・栂牟礼城攻」続き
その頃、豊後国内では苗字の騒動が起こり、人々が争うようになっていた。
佐伯の家は緒方惟栄(平家物語の緒方惟義とされる)の後裔であり、代々巴紋の旗を掲げていた。
戦の度に大友家の杏葉紋の旗と巴紋の旗が並んでおり、あたかも大将が二人いるようであったため、国中の侍が嫉妬した。
また子息・千代鶴を御曹司と呼ぶのは主君・義鑑公をないがしろにする行いであると非難する者もいた。
(これは文徳天皇の頃(850-858)より勅定で佐伯の家は御曹司と呼ぶことに定められたという)
とうとう佐伯惟治が祖母嶽大明神を勧請したのも逆心の表れであるという噂が出てきて、義鑑公の御耳に噂が達した。
義鑑公は惟治に使者を送り問い詰め、惟治は弁明の書状を何通も出したものの、讒者が書状をとりつがなかった。
そのため惟治は共に槍の名手である深田伯耆守・野々下弥左衛門尉を弁明のために府内に送り出したが、義鑑公により両人とも誅殺された。
そのまま惟治居城の栂牟礼城攻めとなったが、峰高く谷深く、難攻不落の地であった。
惟治も金の軍配で城兵を鼓舞し、また深田らの弔い合戦ということで士気が上がり、攻め手の大将・臼杵長景も苦戦した。
長景は城の堀を死人で埋め、雲梯・飛楼を造って城を攻めたがどうしても落ちるように思えなかった。
長景はかくなる上は武略で城を落とそうと使者を出して
「このたびの戦は私の本意ではありません。ただ義鑑公の御下知に従っているだけのことです。
しばらく豊後から日向に立ち退かれ、国を隔てて逆心のない旨を仰せられれば、この長景が謀叛の誤解を解くために全力を尽くしましょう」と再三申した。
惟治は疑っていたが、長景が熊野牛王宝印の神符に起請文を書いて送ってきたため、神仏を軽んずるべきではないと、小勢で御曹司千代鶴丸殿と共に日向に退散した。
残る城兵は降人となったが、中には「具足が欲しければ大将に渡そう」と長景に具足をほうり投げた直後に腹を切って死ぬ者もいた。
惟治が日向に退散の途中、黒沢というところで多田弥四郎の娘、若狭という女に水を所望したところ、若狭はわざわざ新しい柄杓で水を汲んできて馬上に捧げた。
惟治は喜び「再び帰ってきたら礼をしよう。それかお前を人に名を呼ばれるような者として取り立てよう」と約束した。
しかし惟治一行が日向に入ったところ、あらかじめ長景に内意を含められていた日向の新名党という者どもが襲ってきて、惟治一行は全員切腹した。
時に大永七年(1527年)十一月二十五日。惟治三十三歳、子息千代鶴殿九歳であった。
惟治は生前魔法を修めていたためか荒人神となって祟りをなした。
先の黒沢の若狭という女房も惟治遠行の後さまざまな奇特を現した。
そのため宮を作って惟治を富尾権現として祀り、黒沢ほか豊後のうちに十社、日向に六社建立し今に至るまで祭礼を行なっている。
日向の新名党は惟治を討って十日もしないうちに滅んだ。
臼杵長景も偽の起請文を書いた天罰のためか、惟治の祟りのためか、ほどなく死んだ。
このたび長景は才覚にはやりすぎたため、無実の惟治を殺してしまった。忠に似て不忠の至りである、と人々は言い合った。
そのため義鑑公は佐伯の家を惟治の伯父惟常に命じて継がせなさり、佐伯家は今に至るまで続いている。 加藤清正の重臣であった飯田覚兵衛(直景)は、肥後加藤家改易の後、京に引き込んで、再び奉公を
する事もなく居た。この頃の覚兵衛が物語った事によると
「我が一生は清正に騙されたり。
最初、私が武辺を仕った時、その場を立ち去ってから確認してみると、私と同じ傍輩の者達は、
皆々鉄砲に当たり、或いは矢に当たって死んでいた。
「さてさて危うき事かな、最早これ限りにして、武士の奉公を止むべし」
と思い陣へ戻ると、帰ってくるやいなや
「さても今日の働きは神妙、言葉にも出来ないほどだ」
と、清正から腰の物を給わった。
私は戦場に出る度、毎回のように武士を止めようと思ったのだが、清正は時節を逃さず、
陣羽織、或いは加増、感状を与えられた、故に諸傍輩も私を羨み、賛嘆したために、
それに引かれて引き込むことも出来ず、侍大将と言われるほどになってしまった。
一生清正に騙されて、我が本意を失いたり。」
と申したという。
(新東鑑) 投稿者です。新東鑑ソースのものもあったのですね。確認不足でした、申し訳ありません 「大分県郷土史料集成収録」の「日田郡志」から「秀頼薩摩落の事」
とある朝鮮人(李文長か)が平戸の士に言うことには
「日田三隈川の南の河原、北高瀬村の今市河原で後藤又兵衛と予は秀頼公より別れの盃を賜った。
そののち後藤又兵衛と予も散り散りになった」そうである。
そのあとの順路を考えると、秀頼公は真田・木村などの屈強の輩、十二騎を従え、北高瀬村→南高瀬村→大野村→梅野村→肥後国・穴川村→隈府と至ったのではないか。
また秀頼公一行が今市河原にくるまでに山国中摩村の真言宗明円寺で昼御膳を召されたと言う伝がある。
この路程とは外れるが、日田の五馬市には秀頼公宿泊の宿があるという。
後藤又兵衛は秀頼公と別れたのち豊前国下毛郡山国金吉村伊福に隠れ住んだと言う。
傍碑、後藤屋敷、後藤又兵衛の墓があると言う。
後藤又兵衛は伊福で隠棲すること二年、承応三年(1654年)正月二十九日の深更に村人が訪ねたところ、戸を固く閉じ、一人灯の下で古い箱から書簡とおぼしきものを取り出し、一通一通涙を流して書見し、みな火中に投じたという。
翌早朝に村人が後藤又兵衛を訪ねたところ、すでに自殺していたという。
村人は哀れに思い、近くに墓を建てたそうだ。 ついでに金吉村伊福後藤碑銘
義刃智光居士
居士。俗名又兵衛。
何処の人か知らず。往昔この邑に来たりて寓居すること二年。
其の人となりにおけるや、志気英威、武徳俊高にて眼光人を射る。
ああ諸侯大夫たる者の逆世において謫居する者かな。
承応三甲午歳正月廿九日夜、剣を旨とし自殺す。
歳をへること久しく、石碑闕落す。
これによりて里人、古を慕い新たに石碑を立つ。冥福に資助する者なり。
宝暦十三年癸未歳六月 日
願雲 金吉村伊福 茂助 「大友興廃記」より志賀親次の島津との合戦
島津義久の舎弟、兵庫頭義弘が天正十四年(1586年)の冬、豊後朽網に在陣したため、大友家の大身の将どもは大友家を背き義弘に次々と従った。
ただ義弘は近くの親次の岡の城には攻めあぐねていた。
それどころか志賀親次の手の者が義弘陣所に忍び入り、小屋などをたびたび焼き払った。
また天正十四年冬の初めから翌二月の末まで、親次が攻め滅ぼした城は十五に上った。当時志賀親次は十八歳であった。
また肥後国坂足は豊後の幕下にありながら早々に薩摩勢に降っていたため、志賀親次は天正十五年三月十八日に阿蘇表に出て坂足を攻めた。
このとき志賀勢は宮ノ寺に陣を張ったが、岡城の雑兵の奴ばらは釣鐘を壊し、狛犬を焼き、社壇を破り、鳥獣を殺し、肉食をするなどの邪なる振る舞いをした。
さては軍に物の怪が取り付いたのではないかと人々はおそれた。
そんな折、薩摩勢の新納忠元、伊集院肥後守、入来院、祁答院らの四大将の軍が豊後日田から肥後国小国に到着し、この豊後勢の狼藉について地元の住人から聞き知った。
翌朝、薩摩勢の四大将は宮ノ寺の豊後勢に打ち掛かった。
豊後の先陣として中尾伊豆守、大塚典薬、朝倉伊予守、中尾駿河守、朝倉土佐守などが受けてたった。
しかし前夜に神前を穢し、その身も穢れに触れた奴ばらは、眼前に霧が襲って全く物が見えなくなり、草木を敵と思って斬りかかったり矢を放ったりした。
あたかも自ら首を刎ねてくれと言わんばかりであり、雑兵かれこれ百五十人が枕を並べて討死した。
中尾伊豆守は軍兵に「このたび山谷鳴動し、煙雲が味方を襲ったのはただごとではない。
軍気をうかがって退くべきだ」と言って退却した。
そののち豊後勢はなんとか態勢を立て直し、豊後、薩摩双方とも軍を引いた。
また朝倉一玄は「このたびの阿蘇表への出兵は、親次の勇み足であり、血気の勇に似た振る舞いであった。
若気の至りとはいえ、親次には似合わぬことであった」と言ったそうだ。 黒田筑前守長政が、常々人に語られていたことによると。
「私は十四歳の松千代と言っていた頃から、手を下した手柄は度々に及んでいたが、父・如水に
高名があった故に、人はこれを賞美しなかった。
浅野幸長については、天下の上下が勇者と誉める。これはその父である弾正(浅野長政)が、
分別才覚は優れていても、さほど武辺が無い故である。」
と申された
また、小瀬甫庵が太閤記(甫庵太閤記)を作る時、諸家より書付けを遣わして、その家々の武名を
書き入れるべし、とあった。この時黒田家の老臣たちもこれを聞き伝え、
「御祖父以来の御武功、現在、天下に隠れ無しと雖も、後世に至っては埋もれてしまうことも
計り難いものです。幸いにこれらの事を小瀬甫庵に話して、足利義昭公、信長公、秀吉公より
賜った数多の御感状、その他異国本朝にて隠れなき御武功を、書物に著し給われるべきです。」
と申し上げたのだが、長政は更に承認しなかった。
「凡そ将士が武功を立てるのは主君の為であり、私の名を求めるためではない。
殊更太平の世となっては、武を隠すのが本意である、と聞いている。
今、そのような事をするのは無用である。」
そう言って、遂に甫庵に書付けを渡さなかった。それ故に、かの太閤記において黒田家の武功が
多く漏れていたのだという。
(新東鑑) 「大友興廃記」から槍に巧みなため宣教師から「豊後のヘラクレス」と呼ばれた柴田礼能の最期
天正十四年十二月上旬(1586年12月-1587年1月)に、島津家久は臼杵丹生島へ諸勢を繰り出し、大柳の裏の草木や岩陰から大友勢の様子を窺っていた。
そこへ先年南蛮国から渡来した大きな石火矢・国崩しを武宮武蔵守(武宮親実)が大手口より撃ちかけた。
大玉、小玉を二升ほど詰め込んでいたが、その響きは山、海に轟き、大柳の枝より上を打ち折った。
大小の玉に当たったり、大柳に押しつぶされたり、で若干の死人が出たものの薩摩勢は恐れず、かえって勢いを増して臼杵城に攻め込んできた。
豊後方の吉岡甚内は鉄砲を撃ちかけたのち、槍を振るい兜首を五つ討ち取った。また、利光彦兵衛、吉田一祐も高名をとった。
同じく豊後方の臼杵美濃守、柴田礼能は先陣として平清水口で薩摩勢と槍を合わせ、次々と討ち取り、互いに競うように敵を退けた。
しかし薩摩の者が町内の空き家に忍び込んでいて、柴田礼能を馬上から突き落とし討ち取った。
礼能の嫡男・柴田玄蕃丞(允?)は手勢二百騎を率い、敵を退け城中に戻ろうとしていたが、父の礼能が討死したと聞き、首を郎党に渡し「汝は城中に戻り注進申せ」と告げた。
郎党は「城中にお戻りになった方が良いでしょう」と申したが
玄蕃は言い捨てて敵陣へ取って返し、親の仇を討った後、自身も討ち死にした。
そののち薩摩勢も次第次第に引き取ったが、追軍をすると横矢がかかってきそうに見えた。
荒武者たちが追撃を望んだが、宗麟公御父子が仰られるには
「追撃で数十人討ち取ったところでたいして変わらないだろう。
味方に手負いや死人がない方が大利と言える。ことごとく引き取るように」
とのことで、戦は終わった。
そののち薩摩勢が来ることはなかった。
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柴田礼能については以前、「味方の八幡社ならばともかく、敵方の八幡社であれば敵だから焼いてもいい」と言ってた話が出ていた。 伊達政宗がある年、将軍家光公に供奉して上洛した時、東福寺大雄庵の住持の入院があった、
政宗はかの寺の檀那であったため、この儀式のために辻固めを出したのだが、これを
建仁寺の雄長老(細川幽斎の甥であるという)が聞かれて、
今日をはれと 檀那伊達して政宗が 辻片目をや光らすらん
と戯れ歌を詠まれた。これは政宗が片目であることに依ったのである。政宗はこの歌を聞き伝えられたが
ともすれば 吾名におひの固めをも 光らす身のかかる迷惑
と詠まれた。
(新東鑑)
なお、建仁寺の雄長老こと英甫永雄は狂歌で非常に有名な人物ですが、1602年に亡くなっているので
この話自体は後世に作られたものか、あったとしても家光ではなく秀吉の時代のものでしょうね。 甲斐国、武田信虎の娘を菊亭殿(菊亭(今出川)晴季)へ御祝言の御約束(婚約の約束)があった。
しかし、未だ双方の往来も行われていない以前に、「婿殿を見に」と、案内も無しに
菊亭殿の所へ信虎殿が御出になったという沙汰があり、このような一首が詠まれた
『婿入りも まだせぬさきの 舅入り きくていよりもたけたふるまひ』
(寒川入道筆記) 甲斐国、武田信虎の娘を菊亭殿(菊亭(今出川)晴季)へ御祝言の御約束(婚約の約束)があった。
しかし、未だ双方の往来も行われていない以前に、「婿殿を見に」と、案内も無しに
菊亭殿の所へ信虎殿が御出になったという沙汰があり、このような一首が詠まれた
『婿入りも まだせぬさきの 舅入り きくていよりもたけたふるまひ』
(寒川入道筆記)
悪逆をなした明智日向守(光秀)が召し使った、鑓かたげ(鑓持ち)の中間があった。
六尺ゆたか(約180センチ超)なる男で、あまりにも大きいと、人はみな「おふほとけ」(大仏という意味か)
)
と名をつけた。
この者、日向殿へ何やら不足があって、頭を剃って引き籠もった。日州これを聞いて、久しきもので
あるからと、不足を叶えて呼び返され、又鑓をかたげた。人々はこれを見て一首連ねた
「おふほとけ あたまをみれば また佛 これぞ二佛の中間といふ』
(寒川入道筆記) >>565
すいません前半コピペミスです。失礼しました にぶつ【二仏】 の 中間(ちゅうげん)
釈迦が入滅したのち、五六億七千万年を経て、彌勒菩薩が仏となって出現するまでの中間の時期。
この期間は、無仏の世であるから、地蔵菩薩が仏にかわって衆生を救うという。
検索してきた 玄旨(細川幽斎)と里村紹巴が同道して鞍馬寺に花見へ御出の時に、岸より下人が飛び降りようとしていたが、
老足で心のままにならない様子を見られて
とぼうとぼうとするぞあぶなき 玄旨
人玉は やまひの床の休らひに 紹巴
(寒川入道筆記) かくれなき藤戸石(現在京都醍醐寺三宝院の庭園の主石として設置されている名石)を、上京細川殿の御屋敷より、
室町畠山殿御屋敷へと、織田信長公が引かれたのだが(永禄12年の義昭二条城建設の時の輸送)、
これを引くのに数日間の御手間がかかった事について、京の徒者たちはこのように詠んだ
『花よりも 団子の京となりにけり けふもいしいしあすもいしいし』
※いしいしは女房詞で団子の意味
この年の御普請には、江州衆が別して精を入れられたため、その事についても又徒者たちが
『なまなりの すしとぞ見ゆる あふみ衆 おもさの石をもたぬるはなし』
(寒川入道筆記) 天文九年(1540)、この春、世上では大飢饉があり、数千万もの難民が出た。
餓死者はその数を知れず、上京下京の間には、毎日六十人ばかりの死人が捨てられていたという。
誓願寺では非人施行(難民への支援)が春の間中行われた。
また、天下には大疫病が流行り。都鄙において死亡した者は幾千万とも知れなかった。ここ七百余年以来の
比類なき事態であった。春夏秋の間、諸人はこの疫病に患い、高野山や比叡山の輩も発病したもの
数多であったという。
(寺院関係者では)上醍醐に於いては二、三人が発病したとか。淡路は五ケ庄で、疫病で山上において死去、
角坊も疫病で散々となり、東寺観智院、同正覚院も発病し死去した。大変な事である。
二上大炊介もこれにて病死し、天徳西堂も同じく病死、四辻大納言も病死した。
『嚴助往年記』
天文の飢饉とそれに伴う疫病の流行について 江戸幕府が出来た頃で人口が一千万ちょっとなのに、数千万の難民っていくらなんでも盛り過ぎ 天正十三年七月六日、秀吉は上洛中に、京の衆に風流(盆踊り)をさせるのだという。
しかしながら町人たちは、去る春の、内裏・御所の築地つきの時は、このために上下京では種々様々の
事を成し、以ての外の造作であった。それに重ねて又風流をさせるというのは、京都の人々にとって
迷惑なことであると、徳雲がお取りなしになり、風流は中止となったという。
但し内裏において、上下京の手能の衆が、御能を仕り叡覧があったとの風聞である。
(宇野主水記) 「小河内蔵之丞噺覚書写全」から
ある時、城内で栗山大膳と小河内蔵丞(小河之直)が出くわした。
二人とも乗物であったため、内蔵丞は乗物から降りて相応の会釈をしたが、
栗山大膳は乗物に乗ったまま「御免なされそうらえ」と言ったまま通りすぎた。
これを見た野村隼人(野村祐直。母里友信の甥)は、内蔵丞と対面した時に
「身代の差はあれど、小河様も栗山様も同じ家老であるのにあの態度とは、侮っているように見えます。
今後は小河様も乗物から降りて挨拶されるべきでしょう」と言った。
しかし内蔵丞は「あちらが無礼な振る舞いをしたのはあちらの過失であり、こちらは相応の礼をしたなら、こちらの一分は立ったと言えます。
相手方の無礼などどうでもいいことです」と言ったという。 訂正
×今後は小河様も乗物から降りて
◯今後は小河様も乗物に乗ったまま
すいません 豊後佐伯氏について書かれた「栂牟礼実録」「剣の巻」から「静御前の薙刀」についての話
源義経は京都堀川から緒方惟栄とともに鎮西に下った時に緒方惟栄に長刀(薙刀)を下賜した。
文治元年(1185年)に土佐坊昌俊が源義経を堀川の御所で夜討ちした時、静御前がこの薙刀をふるい敵を退けたといわれるもので、小屏風と名付けられていた。
穢れのある者がこれに触れると、身がすくむことがたびたびあった。
佐伯惟定の息子、佐伯惟重の時、元和八年(1622年)夏、少し錆び付いてきたため甚三郎という者が三日の精進の後に錆を落とした。
甚三郎は三日目に死んでしまった。
人々は薙刀のためだと言い合ったという。
なぜ弁慶ではなく静御前なのだろう 貝原益軒「朝野雑載」から小野木縫殿介(小野木重勝)の妻
小野木縫殿介の妻は島左近の娘であった。
関ヶ原ののち縫殿介が切腹した知らせが届いたため、自害する気配であった。
(縫殿介は居城である福知山城を細川忠興らに対して開城したが、助命嘆願もむなしく細川忠興により切腹させられた)
縫殿介の妻は北政所に仕えていたため、宮仕えする女房たちは自殺をおしとどめ、そのそばを去らずにいた。
夜が更け、鶏が鳴く頃ひそかに守刀で自らののどを突き刺し失せた。
その際に書き置いていた辞世の句
「とりなきて いまにこえ行く 死手の山 関ありとても 我なとどめそ」
※キリシタンであったらしい 永禄十二年の年から、翌年七月ころまで、天に煙の出る星が出た。
武田信玄公が三十一歳の御時より召し置かれていた、江州石寺の博士があった。
彼は昔の安倍晴明の流れにある易者であった。中でも判を能く占うことで、「判の兵庫」と号した。
占いも正法に仕り、内典、外典、共に携わり。その上邪気些かもない人物であったので、
信州水内郡において、百貫の知行を代々宛てがわれる朱印が、この兵庫に下されていた。
信玄公はこの兵庫を毘沙門堂のくりまで召し寄せられ、武藤三河守、下曽根の両人を問者として、
この客星の吉凶を兵庫に占わせてみせた。彼は謹んで占い、書を以てこのように言上した。
『この星は天下怪異の客星ですが、しかしながら現在に当たって何れかの大名に悪しき事がある、
というような物ではありません。
これは末代に於いて、我が朝の古き高家が次第に滅して、遂に悉く無くなってしまい、武道においても
国中の武家が作法を取り失い、昨日の下人が今日の主人となり、女が男の出立を仕り、新家が立って、
例えば舞楽に至る迄、真なる事を見知らずして、嘲られるような事を用いる故に、本侍まで一世の間に
二度三度づつ作り名字をするような世になってしまうでしょう。
侍に限らず、仏法世法とこれ有る時は、寺方も久しき正法の宗旨は次第に衰微して、新しき宗旨などと
言って繁盛するでしょう。
百姓、商人、貧民までもこの如くなるでしょう。』
と書いて、先の武藤殿、下曽根殿に渡した。そして
「然らば、数にも入らないような私も、代々判を占っておりますが、この星の上は判占いも
私までのものとし、子孫は素人にしようと思っています。ですが、嫡子は現在二十あまりですので、
これは時々占いを致します。ですが孫については全く占いを止めさせます。
幸い私は、大僧正信玄公の大慈大悲の御恵を以て、信濃国にて所領を下され、年来蓄えた物を
譲り、孫を素人に仕立て、甲府に在住するように申し付けましょう。」
そして嫡子も孫とともに甲府に在るようにと言って、柳小路に屋敷を申し請け、子と孫は商人にさせ、
自分自身は知行を返却し、近江の国にまかり帰り、五年目に死去したという。
『甲陽軍鑑』
彗星(?)と武田信玄に仕えた占い師について。 北条家は早雲(宗瑞)公、氏綱公の二代にて伊豆、相模の領国を治め、しかもその年、享禄三年には
氏綱公子息・氏康公が十六歳にて初陣として、武蔵府中に出られた。敵は両上杉(山内・扇谷)であった。
北条家の果報いみじき故か、上杉家滅却の瑞相か、その頃両上杉は再び仲が悪くなり、
北条家との取り合いの事も、例えば三方論議(三人の者が互いに譲らないで論争すること)の如くであった。
されども上杉は、北条家を小身として卑しみ、氏康公は自ら出陣し、上杉家の人数二、三万に立ち向かい、
神奈川、品川、武蔵府中で戦い、また所沢、世田谷という所でも、氏康と両上杉は都合八年の間
取り合いをしたが、この間上杉憲政公は一度も自身で出てこなかった。
上杉は北条を小敵と卑しんだが、その上杉家は大将が出てこなかったために、大合戦にも小競り合いにも、
上杉衆はみな負けて、氏康は一度も勝たないという事は無かった。
誠に北条家は弓矢の時と輝き、万事政も宜しければ、上杉家の巧者達は「さてあぶなし」と囁いた。
されども管領憲政公家臣の両出頭である菅野大膳、上原兵庫は、そのような意見に対してこう申した。
「北条早雲は元来伊豆の、いかにも小さき所より出た者であり、その族である氏康にどれほど深い
事があるだろうか。彼が伊豆、相模両国を持っても、その北条を二、三人合わせたほどの大身衆は、
越後、関東、奥羽にかけては、憲政公旗下に五、六人も在る。
上杉家に伝わる衆にも北条ほどの者は無いが、彼らがはびこるようなら、憲政公が旗を出され、
ただ一合戦で北条家を誅罰するだろう。」
菅野、上原両人の発言に、若侍共は、憲政公が出馬され北条家を誅罰するのは今日明日のように
各々沙汰したが、憲政公は未練げであり、ちと臆病であられたのか、今年来年と申しても
結局山内殿が出馬することはなかった。
「管領の御馬にて出かねる。」という言葉は、この時代より始まったのである。
『甲陽軍鑑』 「薩藩旧伝集」から大山三次の切腹
(彼を主人公とした海音寺潮五郎の短編小説「かたみの月」では大山巌の先祖・大山稲次の弟としている)
大山三次殿が江戸で何人も斬り殺したそうだ。
白昼の出来事であったため、ある御大名の長屋から「どこの者であろうか?」と見ていたところ、下手人が薩摩屋敷に入って行ったという。
薩摩の大山三次であると取り沙汰されたため、中納言様(島津忠恒)に対してある大名が
「貴殿のところに大山三次と申すものはいないだろうか?」と尋ねた。
中納言様が「どういうわけで尋ねられるのか?」とおっしゃると
大名は「その者が何人も斬り殺したそうである」と答えた。
中納言様は「そのような者はおりません」とお返事なさった。
そこでいそいで大山三次を大廻り船(貨物船)で薩摩に下そうということになった。
しかし命じられた大山三次は「理由もないのに武士たる者が大廻り船で下れましょうか。一分が立ちません」と申して切腹してしまった。
これを聞こしめした中納言様は「さても惜しいことだ。理由をきちんと申し聞かせたならば、切腹しなかったであろうに。
あたらよい武士を失ったものだ。」と御悔やみなさったそうだ。 永禄七年七月十四日の夜、武田太郎義信公が長坂源五郎を御供にて、燈籠見物にことよせて
御城を御出になり、忍んで飯富兵部(虎昌)の所に御座なされた。そして乱鳥(一番鶏、二番鶏が
過ぎた後に、鶏たちが一斉に鳴き出すこと)まで談合なされた。
この様子を不審に存じ、御中間頭(横目衆)の荻原豊前が信玄公へ報告した。それより信玄公は不審に思われ、
義信公逆心の事顕れ、翌年、飯富兵部、長坂源五郎の両人が御成敗となり、太郎義信公は牢に
入れ参らされ、その上義信衆は御成敗、或いは御改易となった。そして義信公御守りの曽根周防は
荻原豊前に仰せ付けられ、放し討ちに討たれた。
このように、御父子の間に不審の立つことであっても少しも隠すこと無く、目付、横目が言上致すのは、
甲斐の他は何れの国であっても有るまじき事である。これはただ偏に、信玄公が人を能く召し使い給い、
能く人物を目利きなされて、能く采配を取り、能く仕置の法度、無類なる故であろう。
『甲陽軍鑑』 また信長が南蛮胴着用してる・・・史実をこれでもかというぐらい盛り込んだマニアックな本は誰か書けないのか
https://twitter.com/CMeikan/status/1573603555180617733
信長名鑑_信長創作物研究@CMeikan
https://pbs.twimg.com/media/FdaPTQ0VsAAyHFf?format=jpg
「新・歴史人物伝 織田信長」読了。児童向けの伝記なのだけど、織田軍の動向、逸話、史実を
これでもかというぐらい盛り込んだマニアックな内容。歴史入門書というより、一連の流れを
把握している歴史好きな子が読んでニヨニヨするような印象でした。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 刀剣の展覧会のスレチとか貼り付けてるやつだろ
雑誌コーナーに並んでいるムックがお似合いだよ 平山優に金陀美具足サイコーって大河ムック書いてもらえばいいんじゃね? Scramble Matter? 09/25 01食20口 信長の「南蛮甲冑」について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1163.html
南蛮胴(西洋式鎧)は過去ログのこれのように、織田信長所用と伝わるものが現存するものの、後世に伝来が
作り上げられたものと考えられています。
史料上はあくまでも、1590年に帰国した天正遣欧少年使節団が持ち帰り、翌年秀吉に献上された目録上のものが
最古となりますので、信長は持ってなかっただろうというのが正直なところですね。
信長が上杉謙信に洛中洛外図屏風などと贈った西洋マントが上杉神社に現存しますが、同時に贈られた甲冑が
金小札色々威胴丸という華美だが若干古風で品の良いデザインのものです。
また最上義光には筋兜と実戦的な桶側胴を贈ったとされます。兜は最上義光歴史館に現存し有名ですけれども
この兜も古風な体裁だったものを実戦用に改造したのではないかという考察があります。
贈答品には相手があることですから、自分の趣味全開で贈ったりはしないでしょうけれども、珍奇なマントと一緒に
贈った甲冑が当時でも趣味の良いものだったというのは、信長の好みの一端が見えてこないでしょうか。
1570年代には存在したといわれている、九州中心に使用された桃型兜は、西洋のモリオン兜に似ているので
それまでに渡来したものがデザインの元となった説が有力ですが、これも確証はありません。
信長の時代までに西洋鎧が到着してそれを入手した可能性はありえますが、証拠は全くないというのが正しいようです。
実際に舶来品を愛用した証拠も遺品も豊富な徳川家康が、その点を来年大河でクローズアップされたりはするのでしょうか?
信長のビジュアルイメージに関しては、大河ドラマ「黄金の日日」(1978年)の信長は月代頭に日本甲冑、
黒澤明の「影武者」(1980年)での信長が総髪髷に南蛮胴、大河ドラマ「徳川家康」(1983年)の信長は総髪髷に
(西洋鎧に影響受けたデザイン説がある)仏胴。
影武者がネタ元と思われますが、どの段階から広まったものか。 なお東京国立博物館所蔵の伝明智光春所用の和製南蛮胴は実際には17世紀のもの、榊原康政所用の南蛮胴は舶来品改造のものと
長らく言われてきましたが、榊原のものの胴が和製と判明したために、その影響なのか明智の和製胴も館公式では安土桃山時代となってしまいました。
面倒ですよね、あったという証拠は全くないが、なかった証拠だってないでしょと言われたり。 その時歴史が動いた、で
家康はリーフデ号に積んでいた南蛮胴を持っていた
→家康は関ヶ原に南蛮胴を持ってきていた?
→家康はその南蛮胴を関ヶ原で着ていた?
→家康は南蛮胴を着たまま銃弾飛び交う戦場にいた?
(南蛮胴は銃弾に強いため)
→小早川秀秋は松尾山からこれを見て家康の勇姿に感動した?
→小早川秀秋が西軍を裏切ったのは南蛮胴のため?
→関ヶ原の戦いの帰趨を決めたのは南蛮胴?
とかやってたから家康の大河でもやりかねない 大砲撃たれて爆風で飛ぶまでかワンセットにさらにプラスがあるのか そんな番組本当にあったのかよと思ったら本当だった
2000年10月4日放送 関ヶ原合戦 家康 なぞの大突撃 ~ヨーロッパ製甲冑の威力~ 『渡辺幸庵対話』より
130まで生きた怪老人、渡辺幸庵が見た戦国武将
・家康の悪口
権現様は無筆同然の悪筆だった
三河の宝蔵寺で手習いをしたそうだが、せいぜい「いろは」くらいのものだ
自筆でないといけないときだけ「ほつほつ」(ぽつぽつ)と書かれた
それゆえ、御判も「きたなき」御判だった
・三斎様の奇抜な料理
細川三斎は中古の茶の湯者である
茶菓子に能登の「鯖刺」(シメサバか)の頭を切り、折敷に椎の葉を敷いて、「著」(箸か)を添えて出していた
塩出しと切り方に口伝がある
・大坂夏の陣秘話と家康の強がり
真田左衛門佐(信繁)は強き大将で士卒も勇壮だった
ただ、徳川の備えが敗軍したのは真田の勇気ばかりではない
寄せ手は太陽に向かって戦ったので働かず、真田は太陽を背にしてこちらをよく見分けて戦ったからだとささやいて神君も生玉まで退いた 『渡辺幸庵対話』より
怪翁が打ち明ける驚きの宇治茶由来
宇治の茶はもともと栂尾のものであった
丹波に上林峰養という者がおり、宇治の地面を見て赤土に砂が混じって茶の木に適した土地と気づいた
都にも近く販路にも適していると考え、峰養は栂尾の上林家に婿入りし、「茶を時々盗取」り宇治に植えていた
さて、育った茶を味の分かる者に試飲させてみると、味は一段といいという
ただ、苦味が少しあって「園香」は少ないという評価だった
初めてつくった茶に初と銘をつけた
この茶の種は栂尾のもので、榊という銘だった
葉の形が榊に似ていたからだ
峰養は常々「薗」(ガーデニング)を好んでつくらせていたところ、春雨が降ったので「(薗の草花に肥料として?)小便をかけなさい」と命じたが、家来は思い違いをして小便をすべての茶株に引っ掛けた
峰養は驚いたがどうしようもできず、その年の茶を試飲してみると、苦味は消えて園香はよかった
「不浄」を養分にして育てると味がよいことが分かり、すればするほどに茶の誉れが世間に広まった Sky Love Blue Murder? 09/26 21食47口 『利家夜話』より
権六と又左、不仲の内蔵介に寝転がりながら意地悪する話
越前の国を柴田修理(勝家)が拝領(した頃の話)
さて、大納言様(前田利家)と佐々内蔵介(成政)、不破河内(光治)の三人が府中にいたとき、柴田は北之庄から、佐々は五部市から、不破も(前田邸に)やってきて一日一夜、振る舞いをしたことがあった
柴田はことのほか機嫌がよく、「匍匐」(腹ばい)になって寝転がりながら上方の話や信長の手柄話を語った
柴田が言うには「又左(利家)よく聞け。最近、表裏者の明智光秀が出世してきた。(信長が)指を折って数えられたように、俺の手柄で26度まで勝利を得、信長公よりお礼を賜っている。誰が出世してきても恐ろしくはないわ。お前も指を折ってみろ」
すると利家は「『親仁』(寄親=勝家、オヤジと呼んでいたのか?)は家来が多いから先手でたびたび勝利を得ましたが、(勝家も)端武者のごとくたびたび槍を振るったのは今の世で並ぶものはいないでしょう。では、私も指を折ってみましょう」と指を折り、あちこちでの18度の手柄の話をした
柴田はいっそう機嫌がよくなり、なんやかやと色々話をし、「世間ではたまたま二、三度手柄を挙げるものは多いが、心が猛くとも合戦がなければどうしようもない。今の世は武勇を挙げたければいくらでも機会がある。俺や又左は信長公にも同僚にも恥ずかしいところはない」と笑った
柴田と利家は佐々と仲が悪かったので、柴田は佐々への当て付けで話したのだろうと(利家は家臣に)語った
佐々は涙を流して何も話さなかった
柴田と利家はさらに「繰返繰返」同じようなことを話し続けた
古織と有楽にも寝転がってしゃべった逸話がありますが、そんなほのぼの感はまったくない話 勝家派閥でも嫌われてるとか、佐々は仲良い相手いないのか? 成政も実戦経験豊富だったよね?
称賛された手柄も結構あったような 山県三郎兵衛(昌景)の同心に、北地と申す伊勢牢人が在り、身上は十六貫を取っていた。
しかし彼は「知行悪しき所なり」と山県三郎兵衛に種々訴訟をしたのだが、大場民部左衛門という
山県の取次が、「北地は他国者である。」と侮り、山県へ取り次がなかった。
そのような中、北地は仲の良い傍輩たちに申し聞かせ、置文をして腹を切ろうとした。
何故かと言えば、「他国より武田信玄公の御家を望んで来る者はあっても、出る者は一人も無し。
この御家を出るほどならば、何ぞ武道に悪しき事があるかと、余所の不審を受けるのも口惜しい。」
と考えての自害であった。
しかしこの事を知った傍輩たちは自害の直前で彼を取り押さえた。
これに北地は「腹を切るなどと言う事を侍が申出して、二度止まる事無し!」と言って
更に自害を試みたが、人々が彼に取りすがって腹を切ることが出来なかった。
そこで北地は膝の上の、『犬ほへず』という所を散々に十二、三度も切りつけ、それから三日目に死んだ。
北地の死に山県は大いに驚き、目付横目から信玄公に報告が上る前に、早々にこの事を言上した。
信玄公は殊の他に御立腹され是非に及ばず、山県三郎兵衛は困惑し、もはや改易されるかという
事態になったが、山県は原隼人佐、三枝勘解由左衛門、曽根与市助に宛てて、熊野の牛王の裏に
誓紙を仕り、「北地五郎左衛門訴訟の旨を存じない。」という内容を申し上げた。
その後、信玄公が彼らを召して話を聞き、
「ならば、その頼まれた山県の内の者、大場民部左衛門を呼べ」
と有り、先の三人、原、曽根、三枝を以て尋問させたが、さらに長坂長閑、跡部大炊に
目付衆二人、横目衆二人まで添えられて詳しく尋ねられ、その上にてもうろんに思われ、
岩間大蔵左衛門を召して「物陰でこれを聞け」と仰せ付けられ、この件を詮索された。
すると山県が申し上げた如く、何れの者からも大場が取次を成さなかったため山県へ
北地の訴訟のことが伝わらなかったとの報告を受け、これによって大場は一類尽く
御成敗された。
山県三郎兵衛が御奉公申し上げた内で、これほど迷惑なる事は終に無かったという。
『甲陽軍鑑』 大した話ではないし悪い話でもないが>>602の関連で
『利家夜話』より
当時の武将間の呼び名について
越中魚津の城を北国の軍勢が柴田修理(勝家)を総大将にして取り巻いたとき、越後の上杉景勝が後詰めの軍勢を出してきた
その日の先手を求めて柴田伊賀、佐久間玄蕃、佐々内蔵介がいさかいを起こしていたので、(前田)利家が争いを納めようとした
そこに柴田がやってきてその話を聞くと、又左(利家)が仲裁に入っているのに「倅(せがれ)供」がなにを言うのかとお叱りになった
少なくとも織田家では寄り親のことを寄り子は「親仁(おやじ)」と呼び、寄り親は寄り子のことを「倅(せがれ)」と呼んでいた様子
いまも職人や渡世人の世界に色濃く残る疑制的親族関係ですが、戦国の時代はより濃厚だったのでしょう
こういう当時の口語的な呼び方が史料に残るのは比較的珍しいので、ご参考までに >>605
利家は夜話の中で「俺は19度槍を合わせた、佐々は3度だけだ」とか散々佐々をディスってるんですが、越中攻めのときは「佐々もさすがの武将だから」みたいなことを言って、二筋ある攻め口の佐々正面側の攻撃をやめさせたりしてます
そもそも不仲になった原因は、利家が切った茶坊主(このせいで利家は浪人に)と佐々が仲良しだったから
別に佐々が信長に訴えたりしたわけでもなく、茶坊主は信長とも懇意だったので、信長自身が激怒して「犬(利家)を成敗せよ」とか口走ってるんですけどね
一方で、勝家とは関係性がよく見えます
しかし武将の評価としては「勝家は戦場で、鉄砲が飛んできても立っていて、弾なんぞに当たるわけがないから立っておけと家臣に叫ぶ。森可成と坂井政尚は当たるときは当たるんだから伏せておけ。敵陣に懸かるときになったら開き直って遮二無二突っ込めと言う。一軍を率いる大将とは後者であるべきだ」という趣旨の話もしていたようです この前諏訪湖にいったら「八重垣姫の像」というのが建っていて、碑文の説明によれば
これは歌舞伎の「本朝廿四孝 狐火の段」の主人公・八重垣姫の像です。
上杉謙信の娘である八重垣姫は武田勝頼と政略結婚の許嫁でしたが、勝頼が死んでしまったため毎日勝頼の絵図に手を合わせていました。
しかし謙信に新しく仕えた蓑作という下男が勝頼の絵図に瓜二つであったため問いただしたところ、実は勝頼本人であり、謙信に奪われた諏訪法性の兜を奪い返すために変名で仕えたということでした。
それを物陰から聞いていた謙信はわざと塩尻に勝頼を使いに出し、八重垣姫の勝頼助命嘆願も聞かず、討ち手を差し向けました。
八重垣姫は諏訪法性の兜を盗み出し、諏訪明神のお使い狐の狐火に導かれ、諏訪明神の霊力により氷の張られた諏訪湖を渡り、勝頼の元へとむかったのです。
歌舞伎だからいろいろ突っ込みどころはあるけど、この八重垣姫は一説には北条夫人をモデルにしたという話だとか。
ついでに長野県の塩尻には玄蕃之丞狐(玄蕃寮だから玄蕃允では?)という狐の伝承があるそうだけど、それも諏訪明神のお使いだろうか。 「笹子落草紙」から武田信茂の最期
武田信長の嫡流である真里谷の武田氏は、武田信隆の代になると上総国中が乱れた。
ある日、堀内・国吉と申す新参の近臣たちが信隆に
「笹子城主で御一族の信茂殿が、君の伯叔である信秋・義信親子と謀って謀反を起こそうとしております」と告げた。
その讒言を信じた信隆は、信茂配下の後藤・鶴見に信茂を討つように命じた。
鶴見は城の自邸に兵を隠し置き、夜半になるのを待った。
何も知らない信茂は酒宴を催していたが、夜中に少しまどろんだところ悪夢を見た。
かっぱと起きた信茂が御台所に
「おかしな夢を見た。腰の刀が二つに折れ、白い鳩が一つがい枕の上に飛び乗って、髻の髪を抜いて西東に去っていったのだ。」
と夢の内容を言うと御台所は
「刀が二つになるのは干将・莫耶という雌雄剣もあることですし瑞相でしょう。
白い鳩は弓矢の守護神である石清水の化身で、あなた様を西や東の大将にするというこれまた瑞相でしょう。安心なされませ」と言った。
思えばこれが最後の言の葉のやりとりであった。
信茂が寝所に戻り、またまどろむと三十余の兵が鬨の声を上げて取り囲んだ。
信茂が「どうしたことだ?」というと
兵たちは「後藤・鶴見の兵でござる。謀叛のことは聞いております。介錯いたすから切腹なされよ」と口々にいった。
信茂は「前後不覚の者どもに釈明したところで無意味である」
と九尺五寸の刀をするりと抜き、腹を十文字に掻き切り、五臓をつかみ出して周囲の壁へ投げつけ
「当国の滅亡」と最後の言葉を発し、俯き伏した。
兵どもは謀反人といえど主君の一族ということでみな涙を流した。
さて「逆心なき人を害すれば怨敵となって害を加える」と仏の言葉にもあるように、それからまもなく信隆は死んだ。 >>611
>九尺五寸の刀をするりと抜き
するりと抜けるもんなのか? おかしいと思ったら「九寸五分をするりと抜き」だった 『清正記』より
「男道不成者之験」清正公の怖すぎる遺言
清正は侍従に任じられ肥後守になると、その後は方々への書状などには肥後守と認めた
ただ、何か後代まで残るものには主計頭と記した
ましてや遺言には好んで主計頭と署名した
清正が家中に申し渡した七ヶ条
大身小身によらず侍どもが覚悟すべき条々
一 奉公の道は油断してはならない。朝は辰の刻(午前八時前後)に起き、兵法を学び食事をし、弓鉄砲を射って馬に乗りなさい。武士の嗜みよき者には別に加増する
一 気晴らしに出るなら鷹狩り鹿狩り相撲など、このようなもので遊山しなさい
一 衣類は木綿紬にしなさい。衣類に金銀を費やし生計が成り立たぬ者は曲事である。身分相応に武具を揃える者に助成すべきで、軍用なら金銀を与えよ
一 普段、同僚と付き合うときは客一人、亭主一人以外では話をしてはいけない。(振る舞う)食事は黒飯にしなさい。ただし武芸を行うときは大人数でやりなさい
一 軍、礼、法が侍が知っておくべきことだ。いらざることに美麗を好む者は曲事である
一 乱舞は全面的に禁止すること。大小の刀を手に取れば人を斬ろうと思うものだ。しかる上は万事は心の置き所で決まるのだから、武芸のほかの乱舞稽古を行う者は切腹に処せよ
一 学問は情を入れて兵書を読み、(また)忠孝の心がけをもっぱらにすること。詩歌句歌を詠むことは禁止である。心の賑やかしだの風流だの弱きことを言う者はいかにも女のようになるものだ。武士の家に生まれた以上、大小の刀を手にとって死ぬる道こそ本意である。常々武道を吟味していないと潔い死に方はしにくいものなのだから、よくよく心に(自分は)武士だと刻むことが肝要である
右の条々、昼夜あい守り、もし右の条を守りがたいと思う輩があれば暇を与えよ。速やかに吟味を遂げ、男道ならざる者の験(しるし)をつけて追放することに疑いがあってはならない。よってくだんの如し
加藤主計頭清正在判
侍中
男道ならず者の印、いまに続く破門状の回付なのか、はたまた焼き印かなにかなのか 『慶長年中卜斎記』より
関ヶ原前の緊迫した通信事情
(七月十九日申の刻)増田長盛から石田、大谷蜂起の風聞を知らせる書状が家康方に到来。家康は写しを先手に遣わした。また、急ぎ代官衆に命じ、百姓による一里飛脚を宇都宮まで整備した。その後も風説あり、風説は収まるなどと真偽不明の書状が何通も届き、すべて写しを先手に送った
(二十一日)家康が岩槻に渡御してから上方の飛脚と書状が届かなくなった。その子細は織田常真が敵になり、美濃関ヶ原に軍勢を置き書状と飛脚を通さなかった。天を飛ぶよりほか、地上を歩いて届けるのは無理だと取り沙汰された
(二十二日)金森法印のもとに石田から書状が届いたが、金森は書状箱を開けず封をしたまま家康に差し出した。その状の内容は誰も知らない
(二十四日)この頃、上方からの飛脚状は3、4寸(10センチ前後)四方で結った髪の中に入れてやってきたそうだ。編笠の緒により混んで来たものもあったという。この二人が誰の遣わした使者だったかは忘れた
(八月十日、江戸)家康はご機嫌がよく、料理の間に午の刻にお出になり、「俺が料理をする。鶴を料理しろ」とおっしゃったので鍋を掛け火を起こした。御前には本多忠勝、某(卜斎)、全阿弥の三人がおり、料理は忠勝にご馳走され、家康は囲炉裏の近くにおられた。どこから届いたものか、家康はいかにも細かい字で書かれた書状を目に近づけてご覧になった。そして「去る朔日(ついたち)に伏見城が落城した」と誰にいうでもなくつぶやき、西の方角を向いてはらはらと涙を流された
(二十八日)福島、池田から書状到来。去る二十三日に岐阜城を落として首を進上した。川を渡って陣取りしたので御出馬あれとの内容。家康は「首は芝口に架けろ」と命じた
(九月三日、小田原着陣)永井直勝のもとに小早川秀秋の使者が到来したので報告すると、家康は「せがれ(秀秋=年が若い者をいやしめる蔑称)の言うことは真実ではないから取り合う必要はない」と命じた 他国の家の事を聞くに、近江国佐々木殿(六角氏)の家が破れた理由について、
めがた(目賀田貞政カ)と申す重臣は、佐々木殿の御蔭にて、家中の諸侍、歴々の傍輩たちを、
皆めがたの縁類と成して時めいた。その後、おのれの寄子・麾下の争いにて、寄子の理であっても、
主人の時の権勢に任せ、主君である佐々木殿の意向も聞かなかった。
そしてめがたの居城は佐々木殿と別々と成り、家中は分裂した。
この様子を見て、浅井備前(長政)という者が、佐々木殿を押し破った。この備前は若年の頃
やうさる(幼名である猿夜叉丸の事か)と申した童であった。本来京極殿の侍であったのだが、
やうさるの父の代より、京極を捨てて佐々木殿に降参して被官となり、佐々木殿社参の時は
この浅井やうさるに太刀を持たせるほど心安く使っていた。しかし佐々木家が乱れる時勢を見て、
佐々木の知行を乗っ取って、今、浅井備前となった。
このように国持大将は、譜代の大身があまりに時めく事を押さえて、ただ主君の御為に能く在るよう
しなければならない。こういった事を万事に能く調えた大将は、信玄公にて留めたり。
『甲陽軍鑑』
甲陽軍鑑に見える、武田家における観音寺騒動についての認識 伊達政宗の生前の言葉を書き残した『命期集』より
政宗お得意のイタズラ兼話術、レジェンド一同もはしゃぐ
まとめにある話ですが、ディテールが抜けているので投稿
(政宗の)あるときの仰せでは、太閤が伏見におられたとき、城のなかに御学問所と名付けた座敷を造り、四隅に数寄屋(茶室)四つを設け、東西の諸大名に茶を振る舞った
亭主は四人で、太閤と家康公、前田利家公と私(政宗)だった
太閤も残る三人も良い葛籠を持ち寄り、自分たちで寝床を敷き、四人は枕を並べて夜もすがら、昔物語をして楽しんだ
さて、四つの数寄屋はくじ引きで決めてそれぞれ四人が受け取り、水屋以下、お勝手料理の間もそれぞれの数寄屋に設けられていたので、四人とも料理なども隠し合い、工夫をこらしていた
(秀吉から)客が誰かはまったく知らされていなかったが、次の日になると(政宗の客は)佐竹義宣、浅野長政、加藤清正、上杉景勝であるとにわかに告げられ、仲の悪い衆ばかり客に仰せ付けられた
なんとか変わった趣向を行おうと思ったものの、にわかのことでなかなかできなかった
季節が若菜の芽摘みの時期だったので若菜汁ばかりつくり、できうる限り沸かし返し沸かし返し、熱くして出した
そのため、しばらく置いても冷めずに(佐竹らが)迷惑していたところ、早々と替えの汁を出してなかなか一口も飲めなかった上に、また先のごとく汁を替えて出した
まもなく酒を出し、始めから終わりまで迷惑した
振る舞いも終わって御学問所に四人は寄り集まり、その日の亭主としての接待ぶりを順番に語り合った
私(政宗)が「今日の客は一段の日頃からの知音(親友)だったのでどのような馳走をしようかと思ったのですが、うまくいきませんでした。(寒い冬の時期が)旬だったので若菜の汁をできるだけ熱くしてお出ししたのですが、飲んで一口目で怪我をしたのでしょうか、しばらく箸を唇にくわえたまま舌打ち(現代でいう舌打ちと、舌鼓を打つのダブルミーニング)をしてございました」と話した
太閤は「さてもさてもしてやったり、してやったり。一日の亭主だがこれは古参(のようなもてなし)である」と二度も三度も躍り上がり、腹を抱えて笑ったので、伺候の人々は座敷にいかね、腹を抱えてともに大笑いした
その末に次の日の客選びの相談をした
このように太閤が遊びをされたこと、天下の諸大名を組み合わせたことは、仲違いした者同士の仲直りをさせようという奥意があったと後に知ったと(政宗は)仰せられた 尾州織田信長は日本において、上杉管領入道輝虎(謙信)に次ぐのは織田右大臣信長であると言われ、
武田信玄公が他界ましまして後は、この両大将を弓矢の花の本のように申した。中でも信長は、
六年以来都の異見であるので、武辺の強みである場数は、輝虎と言えども結局は信長に先を譲る、
と評価する者が多い。
しかしそんな信長に対しても、下郎たちはこのような歌を作り歌い申した
『一に憂き事金ケ崎、二には憂き事志賀の陣、三に野田福島の退き口』
『甲陽軍鑑』
甲陽軍鑑が書かれた段階で、金ケ崎、志賀の陣、野田福島の戦いが信長の三大苦戦と考えられていたらしい、
というお話。 天文七年正月元日に、武田信虎公は子息晴信公に盃を遣わされず、次男次郎殿(信繁)へ御杯を
遣わされた。
そのような事があって正月二十日には、板垣信方を以て信虎公より嫡子・晴信公へ仰せ遣わされた。
その内容は、太郎殿(晴信)は駿河の(今川)義元の肝入を以て、信濃守・大膳大夫晴信と名乗られた事で、
この上は義元に付き添い、万事異見を受け、心の至る者の機、作法をも学ぶように、との事であった。
晴信公はその返事に「ともかくも信虎公の御意次第」と仰せになった。
すると重ねて、飯富兵部ら二名を使いとして信虎公は仰せになった
「当三月より晴信は駿河へ行き、一両年も駿府においてよろず学問をするように。」
この事、ゆくゆくは次郎殿を惣領にするため、嫡子太郎殿を長く甲府へ返さないようにする、との
意図の模様であった。
これは晴信公十八歳の時の事である。
『甲陽軍鑑』
信玄廃嫡の危機についてのお話。 『村越道伴物語留書』より
夏の陣を控えた権現様の癇癪
慶長二十年四月六日、家康は駿府を立った
(徳川義直の婚儀で)尾張を訪ねたついでに上洛(して大坂方を討伐)する企てだった
そのころ、去年今年と両度の出陣で旗本は困窮していたので、「少しは金銀でも下さるだろうか」と各々が愚痴を言っていたところ、本多正純が内々に耳にし、「もっともなことだ。おあちゃの局様が御前でよろしく沙汰されるべきだ。そのときに我らも言上に及ぼう」と内談した
あるとき家康が御咄の間に出てきて老中を召し、いろいろ話をした
あちゃは「笹ちまきの風味がよくございます」と三方に載せて御前へ差し出し、「去年の御出陣も首尾よく終わり、誠にめでたきことにございます。御婚儀も万端奉祝も終わり、諸侍に何か拝領されてはいかがでしょうか」
すると家康はにわかに機嫌を損ね、「言いたいことは分かるが、いまさら金銀を与えれば敵に恐怖したのかと万民が口にするだろう。金銀を与えなかったからといって逼迫して供もできない輩は好きにすればよい。わし一人でも上洛するわ。長篠のときも味方の軍勢を頼らず信長の軍勢を先に立てて勝利を遂げた。あるいは小田原攻めも粉骨砕身し、関ヶ原のときだって人の力を頼らず計策を以って勝利したのじゃ」
これらの話を引いてもっての他に激怒した
あちゃは言葉なく、「めでたしめでたし」とばかり口に出して退出した
「勿論本多上野介其外の面面、言語を発っせざるなり」
あちゃも旗本も見捨てる釣り天井の悪い話 同年(天文七年)の三月九日に、武田信虎は駿河を訪問された。
嫡子・晴信について、駿河より一報があり次第来るようにと、晴信公は甘利備前の所に預けられ、
次郎殿(信繁)は御館の御留に置かれた。
信虎公が駿河に行かれるということで、晴信の衆は内々に支度をした。そうした中、板垣信方、飯富兵部(虎昌)
両人を、晴信公は御頼りになった。
信虎公が甲府を出立されて九日目、三月十七日に逆心が行われた。
この事については既に駿河の今川義元と内通されていたために、少しも手間取ることはなかった。
信虎公の御供の侍衆も皆、その妻子を人質に取られていたので。彼らは信虎公を捨てて皆甲州に帰った。
『甲陽軍鑑』
武田信虎追放について。 その頃(本能寺の変の頃)、織田三七(信孝)殿、同七兵衛(津田信澄)殿、丹羽五郎左衛門(長秀)殿、
この三人は大阪に在った。織田七兵衛殿は明智殿の聟であった。
信長公は中国の毛利の様子について羽柴筑前守(秀吉)所に遣わされた堀久太郎(秀政)殿が、備中高松より
敵陣の様子を見および罷り上がり次第、中国へ御馬を出すべしと思し召されていた。
右の三人は大阪より四国へ出船いたすべき者達であった。
ただし一旦出船を見合わせ、状況次第とすると仰せに成っていたのであるが、そのような中で日向守の謀反が
あったので、四国への渡海は中止と成った。
羽柴筑前守殿の所より、丹羽五郎左衛門殿へ密かに遣いが送られたという。その内容は
『織田七兵衛殿は日向守と、奥意は一味同心であると考えている。三七殿と話し合い、七兵衛殿を
討ち果たすべきである。』
との事であった。五郎左衛門殿も内々は筑前守の分別と同意であったため、七兵衛殿の御座所であった
大阪城本丸の外、千貫矢倉へ押し寄せ、鉄砲ずくめで攻撃し、即座に表裏無く討ち果たしたという。
このようであったからこそ、明智の叛乱は収まったのである。
(川角太閤記)
丹羽長秀たちが津田信澄を滅ぼしたのも、秀吉の示唆があったのか 6/2に本能寺の変
6/5に津田信澄が殺される
京都→備中高松城の秀吉→大阪の丹羽長秀
400kmくらいを3日で踏破? 天文十八年五月朔日に、武田晴信公と長尾景虎が、信州海野平にて五日間の対陣があり、
六日に景虎より使いを晴信公へ使わされた。その内容は
『私が信州に来たのは、自分の欲を以てではない。村上義清を本地へ返したい、との義である。
これについて御同心無いのであれば、私と有無の一戦をしよう。勝利は互いにその手柄次第である。』
そう申し越したが、晴信公はその御返事に
『その方が村上義清に頼まれ、本地へ村上を返したいがための信州へ出陣、ひとしお心馳せ優しいものだと
この晴信もそう思う、私も人も牢籠致す可能性はある。これは昔から今に至るまで有る習いである。
景虎の心ざしは尤もであるが、その村上の本意については、この晴信が生きている間は成るまじき事である。
であれば、有無の合戦とある事も最もに思えるが、晴信は村上を本地へ返さないことを、我らの働きとしている。
であるので、合戦と思われているのであれば、その方より一戦を始められよ。
もし又、日本国中において誰であっても、我が本国・甲州の内に手勢を入れられた場合は、そこにおいて
晴信は攻めかかって、有無の一戦をするであろう。』
この御返事を六日に景虎は聞き、七日、八日まで八千の人数にて出て、備を立てて一戦を待つ様子を仕り、
そして又、十日の朝に使いを出した。その内容は
『御一戦は成らないように見える。そのため、私は越中か能登の国を心がける。』
と、その日の午の刻に景虎は早々に退散した。
この様子を聞き、木曽衆、小笠原衆、或いは笛吹峠(小田井原の戦い)にて武田に負けたる人々は
「晴信は越後の景虎に会ってはへりまくれ(手出しできないということか)である」などと。面々の手では
叶わなかったことを、人を引きかけて、晴信公を罵った。
彼らは良き大将の奥意を知らず、己を以て人と比較し、餓鬼偏執は武辺不案内の故、この如くである。
『甲陽軍鑑』
天文十八年にあったとされる、海野平対陣についてのお話。 永禄五年六月吉日に、武田太郎義信公は、信玄公より飯富兵部殿、跡部大炊助、長坂長閑の三人を
御使として、『四郎勝頼を諏訪頼重の跡目と号し、信州伊那の郡代になされ、高遠に置きたい。』
と伝えられた。これに義信公も「尤も」と仰せになり、四郎勝頼は高遠城代と成った。
この時、勝頼公に付けられた衆は、跡部右衛門、向山出雲、小田桐孫右衛門、安部五郎左衛門、
竹内與五左衛門、小原下総、弟丹後、秋山紀伊守の八人であった。
しかし、この八人が勝頼公に付けられた事と、川中島合戦の様子、この二ヶ条を以て、
信玄公と義信御父子の仲は悪しくなったのである。
『甲陽軍鑑』
武田義信は勝頼が諏訪家を継承することは認めたものの、その時付けられた家臣団の人選が気に入らなかったらしい。 一応座席ありの定員制だから、そこまで群衆押し寄せはしないんじゃないかと勝手に思うけど・・
噂に聞いてたもののキムタクすげーな
当初は申し込み人数と倍率だけ聞いてたから、そこそこ集客がある刀剣乱舞や戦国ファンにしても、桁が違うんで何が人気なのかわからなかった
岐阜新聞2022年10月31日
キムタク出演・信長まつり、ソウル雑踏事故受け警戒 岐阜市長「来場者も協力を」
https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/152589
ソウルの繁華街で起きた雑踏事故を受け、柴橋正直岐阜市長は30日、俳優の木村拓哉さんらが出演し、
市中心部に大勢の来場者が見込まれる11月6日の「ぎふ信長まつり」の信長公騎馬武者行列について、
「県警と安全第一で準備を進めてきた。万全を期してあと1週間、入念に準備に取り組む」と述べ、実施する考えを示した。
柴橋市長はまつりを主催する実行委員会の名誉会長を務める。岐阜市内で本紙の取材に「安全を一番に考えている。
参加者の協力も必要。しっかり取り組みたい」と語り、事故防止に万全を期すことを強調した。
騎馬武者行列は96万6555人の観覧申し込みがあり、募集定員(1万5千人程度)の64・4倍に達するなど
関心を集めている。市はJR岐阜駅周辺で人々が折り重なって倒れる事故などを防ぐため、歩行者デッキの階段を
一時的に下り専用にしたり、帰りの客を駅の構内に順番に誘導したりする対策を県警などと確認している。 96万は申込数なんで実際はどうなるかですが、ちなみにGACKTが上杉謙信役(過去7回も)で出演した上越市謙信公祭りは、最大24万だったとか 「笹子落草紙」から鶴見の最期
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13690.html
で書かれているように武田信茂の誅殺のち、真里谷城城主・武田信隆は無実の信茂の恨みのためか死んでしまった。
また監物河内の家中の者に信茂の残念が入り込み無実を訴えたが、とりわけ下手人である後藤・鶴見への恨みを述べたため、国中の人は二人を憎んだ。
後藤は高名な弓取りであり、また上総武田家に連なる家であったため、監物とはかって三男の亀若丸を真里谷城主にしようとした。
鶴見は後藤の義弟であったが、これを聞くや後藤に「国の混乱の元であるから欲を捨てよ」と必死に説得した。
しかし後藤は「当国にて我に弓を引くものなどいようか」と嘲笑って聞こうとしなかった。
そこで鶴見は武田信秋(武田信隆の叔父)・武田義信の父子に臣従を誓ったところ、承諾の返事が届いた。
そのため鶴見は後藤方の監物の屋敷に押し寄せ、焼き払った。
これを知った後藤は上総武田の分家の小田喜朝信に対して
「鶴見は代々恩を受けていながら、天道をはばからず御当家に対して弓を引く不届きものです。急ぎお退治あるべきです」と逆さまに申し立てた。
小田喜朝信は後藤の婿であったため、頭から後藤を信用してしまい、相模の北条氏康に援軍を申し込んだ。
こうして北条九郎氏胤?一万余騎、千葉介三千余騎が笹子城に攻め込んできた。
(笹子城は武田信茂の死後は鶴見内匠が城主となっていた) 鶴見はあらかじめ予想していたため少しも騒がす、赤銅造りの太刀を佩き、城表の櫓にのぼり、敵陣に対して言うには
「さても、鶴見は小身ではあるものの、名を後世に残すうれしさよ。
北条・千葉両大将を申し受け、潔く討ち死にすること、これ以上の悦びがあろうか。
しかし不忠の者の偽りごとを信用し忠臣を討つという小田喜朝信の行く末が見られないことだけが残念である。」
それを聞いた後藤兵庫は「はやく攻め殺せ」と命じ、四方から鬨を挙げて敵が攻め込んできた。
鶴見は櫓からさっと飛び降り、三人張りの弓に矢をつがえ、表門に来る敵を次から次へと射立てた。
これを見た朝信は盾を互い違いにさせて攻めてきたが、信仲(鶴見?)が矢を放つと十八枚の重ね盾をばらばらに破り、後藤の鎧の草摺を射貫いた。
これを見た後藤はあわてて「命あっての物種だ」と逃げて行った。
しかし北条軍により土山が掘り返されてあっというまに平地となってしまった。
こうなっては鶴見も敗北を覚悟し、いったん宿に戻って長年契約していた和尚に善知識を問うと
和尚「利剣即ちこれ阿弥陀号、という言葉があります。
敵を無明と思って剣で斬りはらい続け、雑念が入る前に討ち死にするのがよいでしょう。
愚僧も一蓮托生の身ですから、すぐ参ります」
納得した鶴見はまた表に戻ろうとしたが、女房が子供を連れてきて
「敵に無残に討たれるよりは、我々を殿の手で討ってください」と言ってきた。
鶴見は情をふりきり、母に最後の挨拶をしたのち戦に戻った。
雲霞のような敵軍を、薙刀を水車のように振り回し切り伏せていったが、戦半ばで二つに折れてしまった。
鶴見は力も尽き果てたため西方に向かって念仏を唱え、腰の刀を抜いて切腹しようとした。
そこに北条氏康の身内で萩原というものが名を名乗って前に出てきたため、鶴見はからからと笑い
「西方浄土も遠くはなかろう。来迎往生は眼前である。これもなにかの縁だ。はやく首をとれ」
こうして萩原は鶴見の首を討ち落としたが、念仏の声は首が落ちた後にも響いていた。
これを見聞きしたものはみな「弓取りはかくあるべし」と言い、ほめぬものはなかった。 岐阜新聞2022年11月7日
キムタク信長「出陣じゃ!」武者行列に最多46万人 信長まつり厳戒態勢、事故なし
https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/155364
俳優の木村拓哉さんと、岐阜市出身の伊藤英明さんが出演した「信長公騎馬武者行列」が6日、
市中心部の金華橋通りで3年ぶりに開催された。木村さんは織田信長役、伊藤さんは信長の
正室・濃姫の侍従福富平太郎貞家役を務め、沿道を埋めた観衆に笑顔で手を振り、一帯は
華やかな雰囲気に包まれた。
※岐阜市人口40万2千人 大功の足軽大将である原美濃守入道(虎胤)は病死した(永禄七年一月二八日)。
その遺言には、酉の年(永禄四年)に病死した小幡山城入道(虎盛)のように金言があった。
川中島合戦の時に山本勘介入道道鬼も討ち死にした。多田淡路(三八郎)も、去年亥年(永禄六年)極月(十二月)
に病死した。
武田信玄公秘蔵の足軽大将衆は、酉の年より子の年までの四年の間に四人死亡し、皆若死にだったのだが、
その子息どもは、戦場で場を引くような誉れが五度、十度づつもあり、弓矢でも、考えつもりにも功の
入った人々多く、そのために跡が空くような事はなかった。
信玄公の若い頃は、毎年のように大合戦が、年中に二度ほどもあった。しかし今では、三、四年経っても
大合戦など無い。たとえあったとしても、今より末は、御旗本にて合戦が有ることも稀であり、
故に実戦の場数も踏むことが出来ない。
昔の、度々合戦が有る中での十度の誉れよりも、現在は一度の誉れを顕す方が少ないほどだ。
しかしだからといって各々は、武士の一道を全く疎略にすべきではない。
『甲陽軍鑑』 名古屋からクレームが入った模様
キムタク信長見たさに46万人が岐阜に…でも美濃といえば斎藤道三じゃないの?素朴な疑問をぶつけてみた
東京新聞2022年11月8日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/212582
俳優の木村拓哉さん(49)が出演し、46万人が集まった「ぎふ信長まつり」。あらためてキムタク人気を内外に示した形だ。
だが、「ちょ待てよ」。岐阜といえば織田信長よりあの男、斎藤道三の地ではないのか。ゆかりの人たちに聞いてみると…。
※東京新聞=中日新聞東京支社です 永禄八年正月、飯富兵部少輔(虎昌)が武田信玄公によって御成敗なされたその仔細は、以下の様なものであった。
一、信玄公の若き時分より、兵部を呼ばれることがあっても、彼は御返事をすぐに申し上げなかった。
一、弓矢の儀においても、信玄公も退去するように諸傍輩のいる中で申した。
勿論彼は老功の家老なのだから、諌め申し上げたことを御承知されないという事は無いのだが、
諸人の面前において家老共がそのような態度なら、諸軍が信玄を軽んずると思し召され、
以降、良き事であっても飯富兵部が申し上げたことは取り上げられなくなった。
一、大将たる者は大敵、強敵、弱敵、破敵、随敵という五つの敵に、それぞれの対応が有るのだが、
越後の上杉謙信は強敵でしかも破敵であり、信玄公は種々の武略、工夫をされて勝利を得ようとの
分別を、信玄が弱いかのように申されたが、それは元々、飯富兵部一人の口から出た事であった。
一、越後の謙信に対し、信玄公の武略の分別が良かったからこそ、五年前の九月十日の川中島合戦に
おいて(永禄四年の第四次川中島合戦)謙信は遅れを取り、十月には越後との境である
長沼まで備えを出し、一日逗留し草創に引き上げた。その後謙信は五年ほど信濃に出て来なかったが、
信玄公の味方は四年以降は境目を越えて、越後国内で焼き働きを仕った。
これは高坂弾正一人の覚悟にて働いたのだが、信玄公の御力を借りずにそのような事が出来たのは、
信玄公の弓矢が輝虎より弱くては不可能なことであった。
一、義信公が若気故に、恨みのない信玄公に対して逆心を企てさせた談合相手の棟梁に飯富兵部は成った。
この五ヶ条の御書立を以て飯富兵部は御成敗と成った。
『甲陽軍鑑』
飯富虎昌粛清について 著者の小川盛弘氏は、日本で刀剣界大御所に師事した後に渡米して、ボストンやメトロポリタンでキュレーターを務めた方で、
2009年のサムライ展は過去例を見ない規模と質で、日本国内でも大層評判でしたね(もちろん依頼を受け日本からの協力もありました)
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の「笹子落草紙」の続編と思われる「中尾落草紙」から後藤一族の最期
後藤兵庫助(後藤信安)は首尾よく鶴見内匠(鶴見信仲?)を殺し安堵していた。
いっぽう武田信秋は「鶴見は我を頼ったにもかかわらず、むざむざ討たせてしまった。
かくなるうえは後藤を退治し、鶴見の恨みをすすごう」
と里見義堯に申し出たところ、里見義堯は両正木(正木時茂・正木時忠兄弟)に仰せつけ、天文十三年(1544年)四月、一千余騎をひきつれ後藤の中尾城に押し寄せた。
折節、城には北条殿身内の足軽大将・福室帯刀左衛門七十三騎が籠っていた。
後藤は福室とともに櫓に登り、敵勢を知ろうと周囲を見渡したところ、
武田信秋(大学助):二百余騎、武田義信(大炊頭、信秋の息子):三百余騎、正木時茂(大膳)・正木時昌(将監)・正木時忠(十郎):七百余騎がそれぞれ陣取っていた。
福室は「合わせても千四百五百には過ぎぬだろう。
堀を越えてようとするときは弓矢で、木手までくるようであれば石弓で四方の堀に落とせばよい。
明日になれば嵐に遭った竜田川の紅葉のごとく散り散りに引くであろう。」と言った。
後藤は喜んで敵の陣中に「北条の方々、このわずかな堀など早く越えて攻めてこられよ。相手になろうぞ」と語り、櫓の板を叩いて愚弄した。
大将の里見義堯は北条鹿毛という駿足の馬に乗り陣を駆け巡り
「ものども、一枚板の盾を木戸に突き倒し、わき目も振らず攻め上れ。壁まで登ったならばそのまま盾を討ち捨てて攻め込め」
と下知すると、堀を渡った兵どもはわれもわれもと木戸に駆け上った。
後藤方も木戸から筒木を落としたが相手方の兵には当たらず、内側まで攻め込まれた。
覚悟を決めた後藤と福室は、ともに城内に戻って最後の戦をし、ひとところで死のうと誓った。
そのうち敵は四方から攻めてきたため、後藤の味方の兵はあるいは討ち死に、あるいは捕らえられだんだん薄くなっていった。
福室は、かつて父親が三浦の城を攻めた時に殿より拝領したという小薙刀を縦横無尽にふりまわし、力が尽きたのちは九寸五分をするりと抜き、腹を十文字に掻き切って、声高に題目を十遍ほど唱えて突っ伏した。
後藤も「福室と同じところで」と思ったものの「いや命あってこそ再起も図れようというもの」と女の衣を髪にかけ、堀を越えて抜け出そうとした。
それを見とがめた正木時忠は「怪しい者だ、とらえよ」と郎党に引き立てさせた。
後藤はつくり声で「後藤の身内のおふでと申す媼(おうな)でございます。助けたまえ」
と言ったが時忠は「おうでもこうでもつらをみせよ」と衣をはねのけてみると後藤であった。
時忠が「兵庫よ、わしが貴殿を見逃したとしてもおっつけほかのものが捕らえるだろう。
いっそ自らの手で菩提を問おうと思うが」と言うと、
後藤は「情けある人の言葉です。わたくしも城内で腹を切ろうと思いましたが、再起を図ろうとおもったために面目のないこととなりました。
平宗盛が源義経に捕らえられ鎌倉へ連行される途中、警固の武士があざけると宗盛は
「虎が深山にある時は百獣はこれを恐れるが、虎が穴に落ちるとその尾を引っ張って喰らおうとする」
と言ったそうです。その思いが今さらながらに知れました。
わたくしには五人の子供がいますが、一人でもあなたの軍勢により生け捕りにできるようであれば、どうかその子を僧にしてわたくしの菩提を弔わせてください」
と言うや、西を向かって手を合わせて念仏を唱えだした。
こうして後藤兵庫助信安は四十五の花盛りにして散り落ちた。 一方、後藤の末っ子の駒若丸であるが、乳母に抱かれて落ち延びるところ、「夏の虫」ではないが敵方の鶴見五郎(後藤に殺された鶴見信仲?の息子)の前に出てきてしまった。
乳母が「父は敵でしょうが、この子の母親はあなたの伯母、どうか命をお助けください」
と涙を流して言うと、五郎もともに涙を流した。
そこで武田信秋に助命嘆願したが「後藤の末裔はすべて滅ぼせ」とのことであり
五郎は「駒若よ、助けたいとは思うものの、ままならぬ世の習いである。覚悟を決めよ」と言うと
駒若丸も涙を流しながらも「南無阿・・・」と唱えたところで一閃。散った。
乳母は駒若丸の死骸に抱きつき「われもともに送ってください」と打ち嘆いたが、みな哀れとは思うものの希望をかなえるものはなかった。
こうして後藤方の首実検をしているところへ、北の方から黒雲が飛び来て陣の上を覆った。
その中から鶴見・後藤により殺された武田信茂の魂が歎恨鬼という鬼となり
「主に不忠のやつばらがこのようになり、今は心安いわ」と天地に響くばかりに叫び
笹子城・中尾城の両城に雷光を放ち、また北に向かって去っていった。
そののち主君に害をなした鶴見・後藤の両城を訪れるものはなく、草が茫々とおいしげっている。 義堯については、本文中には「里見」とは書かれず、あたかも「北条」であるように書かれていている。
また正木将監時昌(ときまさ)については不明。「図説 戦国里見氏」によれば正木時茂と正木時忠の間の兄弟は正木時義(大炊頭)。
ついでに正木時茂は前に出ていた後藤の婿である小田喜朝信(真里谷朝信)を天文十三年八月に討っている。
また「図説 戦国里見氏」によれば、北条・里見は武田信秋(全方)を支援していたが、信秋が亡くなったのちの天文十四年ごろ里見義堯が信秋の佐貫城を奪取。
不満に思った信秋の息子・武田義信は、天文十四年九月、北条・今川間の抗争時に里見が北条に援軍を出そうとしたおりに里見について北条に讒言。
天文十五年九月には北条氏と武田義信が佐貫城を大軍で包囲、というように情勢が目まぐるしく変わっている。
そんなこんなで紹介した両草紙がどこまで史実に沿っているかは不明。 https://pbs.twimg.com/media/Fhqa0wnUYAAOZ3_?format=jpg
https://twitter.com/tanomin/status/1592810284598853633
Kaori Ueno
@tanomin
本日の読売新聞から
筑後版なのでこういった形で紹介させてください
非常に無念ですが
今我々に出来る最善の方法と判断し
移管を決断しました
(公財)立花家史料館での展示は工夫しながら続けてゆきます
6:22 PM ・ Nov 16, 2022
九州柳川立花家史料館館長さんのツイート
収蔵庫の老朽化で今後が危ういというのは残念です
画像記事中でも先年のクラウドファンディングに触れられていますが
設備の更新は運営費とはまた違って大きいですしね・・・・
【柳川・立花家史料館への支援について】
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12790.html
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 戌の年(天正十四年)は天下の御普請があり、国々の大小名が洛中に満ち満ちて伺候した。
その時までに九州は(秀吉に)属しておらず、そのため毛利(輝元)殿を豊前へ渡海するよう
仰せ付けられ、御横目として黒田官兵衛。豊後へは千石越前(秀久)、長宗我部父子が派遣された。
(中略)
右の陣所より四里隔たった宇留津という城があったが、ただしこれも高橋(元種)に従っていた。
この城主は”かく”と申し、都合三千計りで立て籠もっていた。
この”かく”は野郎大将であり、その国の所々の案内をよく存じていた。そして毛利陣のはしばしへ、
毎夜夜討、強盗を隙き無く仕った故に、以ての外に陣中も騒然と成った。
この時、黒田官兵衛殿の分別には
「薩摩よりこの地の悪党ばらが、この城に立て籠もっていると聞いた。これを残らず
討ち果たせば、近国の野郎の種を断つことが出来る。」
そのように主張し、討ち果たすことに議定した。
十一月六日、毛利殿臣下の吉川、小早川、宍戸、この三人に官兵衛殿同道して小舟に乗り、
城廻りを押し回って視察した。この城は海より十間十二、三町も隔たっており、よくよく
見聞に及んでその日の内に各陣屋へ帰り、談合の次第に、その日の夜半の頃より人数を繰り出し、
明日七日の五ツ時分(午前八時頃)、この城を取り巻いた。
大手口は黒田官兵衛の寄せ口であったが、即時に大手より攻め破った。
毛利陣の者たちはこれを見て攻め掛かり、その日の七ツさがり(午後四時過ぎ頃)には、
一人も残らず撫で斬りにして討ち果たし、頸数二千あまりであった。
その頃の首実検は天下様より派遣した横目付が担当するものであったので、官兵衛殿が
これを行うようにとの挨拶があった。しかし官兵衛殿からは「ただ毛利殿が御実検されるように」と
互いに相手に対しての挨拶が果てなく続いた。
結局、毛利殿より官兵衛殿へたっての御断りがあり、これらの頸は黒田官兵衛殿が御実検された。
また、彼らの妻子どもも翌日八日に、千ばかりも浜の方で磔にされた。
(川角太閤記)
秀吉の九州征伐の序盤、豊前方面の様子。 「豊筑乱記」から戸次川の戦いについて
太閤秀吉公は島津に再三上京を命じたにもかかわらず島津は聞き入れなかった。
そこで天正十四年(1586年)九月十二日、秀吉公は仙石権兵衛尉元親(ママ)と長曾我部土佐守信親を上使として豊後に下しなされた。
大友義統公を通じて島津に上意を通じられたが、島津は見向きもしなかったため、仙石・長曾我部とも島津を慮外者とののしった。
島津は大友家の武将を次々と調略し、豊後に攻め入り、戸次城も陥落間近となった。
大友義統公はこれを聞き、加勢の人数を送り出そうと思ったものの、もう代を重ねた家臣も信用できないため見過ごそうとされた。
いっぽう仙石・長曾我部は島津の逆意について知らせる遣いを秀吉公に送り出し下知を待つ間ではあったが、戸次城が危ないと聞き六千騎で向かった。
十二月十二日早朝に戸次川を渡り、一挙に島津陣所に攻め入ろうと評定した。
これを察知した島津家久は一万八千騎の軍勢に「上使両人とともに討ち死にする気構えで戦え」と下知した。
こうして十二月十二日の曙に両軍鬨の声を挙げ、矢合わせをしたのち合戦を開始したが、どうしたことか島津方の伊集院軍が上使の軍勢に攻めかかられ引いた。
上使の軍が我先にと逃げる伊集院軍を追い討ちしているところに、二番備えの新納大膳正が三千騎で高所から仙石・長曾我部本陣に攻め入り、
大将島津家久と三番備えの本庄主税軍も一軍となって上使軍に攻め込んだ。
こうしてたった一時の合戦で敵味方三千騎が討ち死にし、長曾我部信親は血気さかんな大将であったため、あまりに深入りしすぎて、数カ所に深手を負い討ち死にした。
上使軍は多勢に無勢、あまりに多く討たれてしまい、仙石元親も勇猛な大将であったがわずか五、六騎を連れ戸次川を渡って豊後の府内めざして引いた。
仙石秀久と長曾我部元親が混同されちゃったようだ 天正十八年七月十二日、(小田原征伐の結果北条氏は降伏し)北条氏政は切腹、氏直は高野山へ入ると
していたが、大阪で疱瘡に罹り果てた。氏政の頸は京都へ送られ、堀川通戻橋に掛けられた。
小田原城の請取手は黒田官兵衛であった。
それより奥州へ移動する途中、秀吉公は鎌倉を御見物に成った。
若宮八幡へお立ち寄りに成った時、社人が御戸を開くと、左に源頼朝の木造があったのを御覧になり、
御言葉をかけられた
「頼朝は天下友達である。その待遇は私と同等にすべきだが、この秀吉は関白であるから、貴所よりは
位が上であるのだから、待遇は私より下げる。
頼朝は天下を取る筋の人であったのを、平清盛がうつけを尽くして伊豆へ流し置き、年月が経つ内に、
東国では父親である義朝の温情を蒙った侍共が昔を思い、貴所うぃ取り立てたのだと聞いている。
あなたは氏・系図に於いては多田の満仲の末葉であり、残る所のない(完璧な)系図である。
一方この秀吉は、恥ずかしくは思っていないが、昨今まで草刈りの童であり、或る時は草履取りなどをしていた。
故に系図も持っていないが、秀吉は心にとどまらず、目口優れていた故か、このように成った。
御身は天下取りの筋であり、目口が優れている故とは存じない。つまり、生まれ付き果報が有った故
天下を取れたのだ。」
などと御洒落事を仰せに成ったと承っている。
(川角太閤記)
有名な秀吉の「天下友達」のお話