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戦国ちょっと悪い話49
0002人間七七四年
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2021/08/31(火) 01:23:01.55ID:ik3gw1m9
細川記に曰く、永禄元年六月九日、松永弾正久秀は五千の軍勢にて将軍地蔵山に陣取り、
近江の六角義賢の勢に向かって合戦を始めた。互いに新手を入れ替え、終日戦し暮にかかった頃、
近江勢は討ち負け、五十三人が討ち死にした。

松永は勝ちに乗じて撤退する六角勢を追いかけ、「松永弾正久秀なり!」と名乗った所、
近江衆に竹林坊という、名を得た弓の上手が有り、松永を狙って丁と射た。

しかし松永の運が強かったのか、竹林坊が射た時、胸板に弦が擦れたために狙いが外れ、
その矢は松永が乗っている馬に当たった。馬はそのまま倒れたが、松永はとっさに弓手に
飛び降りて危うき命を助かったという。

『武芸小伝』

久秀の強運なのか、弓の名手も失敗したというお話
0005人間七七四年
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2021/09/02(木) 00:00:46.70ID:Sn0YtVyX
治衛門と今治城

前スレのラストに投じた今治城築城の逸話シリーズその2
下記参考サイトより抜粋。
今治城(別に吹揚城、美須賀城ともいいます。)は、慶長五年(1600)関ヶ原の戦功により、
宇和島七万石より二十万三千石に加増された天下の名将藤堂高虎が築いたものです。
この当時の城は、丘陵を利用して築いたものが普通でしたが、今治城は、台湾にオランダ人が築いた
ゼーランジャ(開国城)用式を取り入れたものともいわれ、海岸近くに平城を造り、三重の堀をめぐらし、
海水を導入した当時としては最新式の珍しいものといわれています。
本丸の天守閣についても、五層の立派なものが健造されていたようです。
(藤堂家の記録をもとに編集された『宗国史』と言う書物に書かれています。)

─慶長七年(1602)六月から、同九年(1604)九月まで、二年三か月とわりと早い年月で築城されています。─
(ここまで抜粋)

さて、この今治城が完成に至るまでの陰の功労者として石屋、小田治衛門等石工左官の者ら十二名の
存在が挙げられるという。

治衛門は豊臣秀吉の大坂城の築城の際に石垣づくりの人夫として働いて石垣づくりの技術を身に着け、
のちには西条(愛媛県西条市)の禎瑞の干拓にも貢献したという。

この功績を認められて今治城の石組みを任された治衛門と十一名の石工左官の者らであったが、
治衛門は彼らの頭領として相談を受け、城の抜け道の工事にあたった。

しかし、古今東西よりこうした城の秘密に関わる部分というのは城主と一部の人間だけの極秘情報であり、
今治城が完成を見る時、それは即ちこの抜け道の造成にあたった治衛門達が秘密の口封じのために命を
奪われる時でもあった。

治衛門ともう一人の某を除く十名の石工左官達は城の完成と時を同じくして捕らえられ、即刻処刑されてしまったという。
このことを事前に知った治衛門と某は竹で筏を組むと夜に蒼社川よりこの筏に乗って海に出、すんでのところで
難を逃れて大島(今治市の沖合)に逃れ、治衛門は同島宮窪町の余所国にある念仏山に隠れ住み、そこで処刑された十名を
弔って余生を過ごしたという。

大島の余所国には鐘撞堂という地名が残っており治衛門によって築かれたという素晴らしい組み方の石垣が残っており、
そこは治衛門の住居跡ではないかといわれている。
また、余所国に御新田踊りという踊りが今も残っているが、これは治衛門が伝え広めたかは定かではないが、一説には今治城で処刑された
十名を弔うためのものではないかとも言われているという。

処刑された十名の塚の所在はいろいろ言われているもののはっきりとした場所は定かではないが、
今治市に在住の小田通俊氏は、治衛門の十七代目の直系であるといわれ、余所国の大島石材工業株式会社の
小田満氏も治衛門の子孫に当たるという。

参考サイト:今治地方の伝説集 今治市商工会(逸話63)
https://www.imabaricci.or.jp/今治地方の伝説集/#ryuumonzanzyousyu
四国の瀬戸内側では、丸亀城にも石垣を組んだ人物が攻略法を熟知していたために井戸に落とされて
殺されたという逸話があったりするけど、こういう秘密に携わる下っ端の立場にあたる人々は何時の世も
吹けば飛ぶような命の軽さだったのだなと何かシンミリした今日この頃・・・。

生駒親正の丸亀城の石垣・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-701.html
0010人間七七四年
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2021/09/04(土) 11:53:46.28ID:8ZUaR3qE
>>9
はぁ〜住職いねぇ、檀家もねぇ(10軒)、維持費は毎年積み嵩む。お布施もねぇ、支援もねぇ、劣化は毎年進んでく。


こういう状況では止むを得んわなぁ。観光資源化もコロナ禍の昨今では厳しいし自治体も手を上げて予算付けてやろうとはよう言えないだろうしなぁ。
0011人間七七四年
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2021/09/04(土) 12:09:55.31ID:7oTGnM5e
まあ武功夜話ベースの歴史だから本当にそこに祀られてるのか怪しいけどな
0012人間七七四年
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2021/09/04(土) 12:48:45.80ID:4D3eGfWB
信長関連で稼いでる企業なり作家が支援したら良いのにね
NHKとか散々信長扱ってるけどこういう時はスルーなんだよなあ
フリー素材かあ
0013人間七七四年
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2021/09/04(土) 14:42:46.47ID:WVNsbdMX
>>11
・寺は1384年創立で生駒家の菩提(ぼだい)寺にあたる。
・寺の西側にある吉乃の墓は、生駒家歴代当主の墓と共に市文化財に指定されており
・寺を所有する宗教法人役員の19代生駒家当主、生駒英夫さん(48)
・本堂内にあった吉乃や信長の位牌はすでに別の寺などに移しており、

これで武功夜話がどうとか、本当にそこに祀られてるのが怪しいって言えちゃう?
まぁ言い出したら他の墓地が複数有る戦国時代の人物とか皆怪しいけどさ。
0015人間七七四年
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2021/09/05(日) 15:51:47.61ID:Icad6qo4
ある時、石田三成は直江山城守(兼続)と、ただ両人差し向かい、深夜まで酒宴して遊んだが、
密かに山城守に向かって申した

「侍と生まれ弓矢に携わる者で、天下に望みがないのは男子と称するに足りない。
差し当たって秀吉公は、匹夫であったと雖も天下をその掌握に帰された。
私も一度は四海を治めたいとの深い思いは止むことがない。
しかし秀吉公御在世の家は思い立たない。御他界ある上にて、旗を揚げんと思う。

御辺も景勝の逆心を勧め、旗を揚げさせ。天下を覆せば景勝を滅ぼし、御身が関東の管領と
なり給え、我等は将軍となり、京・鎌倉の如く、両人にて世を治めるべし。」

直江も大胆なる者であったので、この謀事を快く思い、

「左用思し召し立っているのならば、上杉家中のことは一向に私に任せ給え。
それについて、謀事を廻らして見るに、蒲生会津宰相氏郷は武道逞しき人であり、
御所公(徳川家康)に差し続く大将である。またこの人の子の藤三郎秀行は御所公の婿であり、
領分は奥州と下野に接している。これは御所公の後ろの強みであり、このため事なしである。

たとえ貴殿が思い立ったとしても、御所公、氏郷と指し続いていれば、中々退治するのは難しい。
先ず氏郷を殺し、そのあとに景勝を国替えさせ、東西より立ち挟んで討ち果たすことが然るべき」

と囁いた。これを三成は承引し、氏郷を毒害し、その後で藤三郎秀行の家老達をそそのかり、
蒲生家中に大いなる騒動を起こさせ、その咎にて秀行百二十万国を没収し、僅かに十八万石にて
野州宇都宮に所替させ、会津には上杉景勝を入れ替え、思いのままに謀を廻らせた。

(近世軍記)

石田三成の野望と陰謀について。まあ典型的な三成陰謀論みたいな話ですが、むしろこのくらいのほうが
魅力的な気もする。
00161/2
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2021/09/06(月) 14:57:33.61ID:rIgZ8UGP
文禄四年、秀次事件の勃発により、秀吉の嫌疑を受けた豊臣秀次は高野山に登り、法体にならせ給い、道意居士と
申された。供奉の人々もみな髻を切って、偏に後世を祈り、上使を今や今やと待っている所に、
福島左衛門大夫(正則)、福原左馬助(長堯)、池田伊予守(秀雄)を大将として、都合一万余騎が、
七月十三日の申の刻に伏見を立ち、十四日の暮れ方に高野山へ到着した。

三人の上使は上人の庵室に参ったが、そのころ入道殿(秀次)は大師の御廟所に詣でようと奥の院に
居られ、木喰上人よりこの旨が伝えられると、すぐに下向され三人の上使と対面された。

左衛門大夫は畏まって、御姿がすっかり変わられたのを見て涙を流したが、これを入道殿はご覧になって
「いかに汝等は、この入道の討手に来たのだな。この法師一人を討つために、事々しく振る舞うものだ」
と仰せになると、池田左馬助畏まって「さん候。御介錯仕れとの上意に候。」と申した。
これを聞くと秀次は

「さては我が首をお前が討つつもりか。いかなる剣を持っているのか。入道も腹切れば、その首を
討たせるためにこのように太刀を持っているぞ。汝等に見せよう。」と言って、三尺五寸ある
金作りの御佩刀をするりと抜き、「これを見よ」と仰せになった。
これは池田左馬助が若輩でありながら推参を申すと思われ、重ねて物申せば討って捨てようとの
ご所存のように見えた。
秀次公の三人の小姓衆は、御気色を見奉り、『上使たちが少しでも動くようなら、中々秀次公の
御手を煩わせるようなことはしない』と、互いに目と目を見合わせて、刀の柄に手を掛けて控える
その形勢は、いかなる天魔・鬼神も退くように見えた。

入道殿は御佩刀を鞘に収め、「いかに汝等、入道がこの時に至るまで、命を惜しんでいると、
臆しているように思っているだろう。これまでの路において、如何にもなるべしと思ってはいたが、
上意を待たずに相果てれば、『やはり身に誤りがあったからこそ切腹したのだ』と、それに連座して
故なき者共が多く失われる事の不憫さに、このように長らえている。

しかし、今は最後の用意をしよう。私は故なき讒言によって相果てるのであるが、仕えている者共は
一人も罪ある者は居ない。この事を秀吉公の御前に宜しく申し上げ、この入道の供養として、命を助け
得させよ。面々、頼むぞ。」
と宣われたのは、有難き御心底であると一同感じ入った。

それより座を立たれ奥に入られたが、ここで木喰上人を始め一山の衆徒会合して、三人の上使に向かい
「当山七百余年以来、この山に登った人の命を取ったこと、更に無し。一旦この事を秀吉公に言上し、
御願い申し上げる。」と、大衆一同が申したが、上使の三人はこれを聞くと
「そういう事ではあるのだろうが、とても叶うまじき事である。」と再三断り、衆徒たちと問答となった。
衆徒の意見が止まらない中、福島正則が進み出て言った

「衆徒の評議、尤も殊勝であると私も思う。さりながらこれ以上時間がかかれば我々も秀吉公の御勘気を
蒙り、切腹しなければならなくなるだろう。そなたたちが是非にも言上すべきと思慮しているのであれば、
まずこのように申している私を、各々の手にかけて殺すべし。その後は心次第にせよ。」
そう、膝を立てて申し直された。
00172/2
垢版 |
2021/09/06(月) 14:58:17.28ID:rIgZ8UGP
その夜はこの評議に時移った。翌日の巳の刻頃(午前十時頃)、入道殿は付き従っていた人々を
召されて、「汝等これまで来たる志、返す返すも浅からぬ。多くの者達のその中で、五人、三人が
最後の供をするのも前世の宿縁なのだろう。」と、御涙を浮かべられ、三人の小姓に対し
「どうしても若者であるから、最後の程も心許ない。その上私が腹を切ったと聞けば
雑兵共が入り乱れ、事騒がしく見苦しい状況になるだろう。」

そう言って、先ず山本主殿に國吉の脇差を下され、「これにて腹切れ」と仰せになると、主殿承り
「私は御後にこそと思っていましたが、御先へ参り、死出の山、三途にて
倶生神(が生まれた時から、その左右の肩の上にあってその人の善悪の所行を記録するという二神)に
路を清めさせましょう。」と、にっこりと笑い戯れた様子は、悠々とした態度に見えた。そして
かの脇差を推し頂き、西に向かって十念して、腹十文字に掻き切って、五臓をつまみだした所で、
秀次公が御手にかけて討たれた。この年で十九歳であった。

次に岡三十郎を召して、「汝もこれにて腹切れ」と、原藤四郎の九寸八分あるものを下された。
「承り候。」と、これも十九歳であったが、さも神妙に切腹すると、また御手にかけられ討たれた。

三番目は不破万作であった。これにしのぎ藤四郎を下され、「汝も我が手にかかれ。」と仰せになると、
「忝なし。」と、御脇差を頂戴した。生年十七歳。当時、日本に隠れ無き美少年であり、雪に見紛うほどの
白き肌をおし肌脱ぎ、初花が漸くほころぶ風情であるのを、嵐に吹き散らされる気色にて、弓手の乳の上に
突き立て、馬手の細腰まで曳き下げたのをご覧になり、「いみじくも仕りたり。」と太刀を上げると、
首は前に落ちた。

誠に彼等を人手にはかけないと思し召す、その御寵愛の程こそ浅からぬものであった。

そして入道殿は立西堂を召して「その方は出家であるのだから、誰が咎めるだろうか。急ぎ都に上り、
我が後世を弔うように。」と仰せに成られたが、「これまで供奉仕り、只今暇を給わって都に上っても、
一体何の楽しみがあるでしょうか。私は厚恩深き者ですから、出家であっても遁れられないでしょう。
僅かに命を永らえようとして都まで上がり、人手にかかるなど、思いもよりません。」と申し切って
居られた。この僧は博学多才にして、和漢の書に明るく、当檀那の辯を持っていたため、秀次公の御前を
去らず伺候して、酒宴遊興の伽僧となられ、最後の供まで致されたのは、他生の縁であったのだろう。

さて、篠部淡路守を召されて、
「この度、跡を慕いここまで参ったその志は、生々世々報じがたい。汝はどうか、私の介錯をした後
その供をせよ。」と仰せになった。淡路守は畏まって、
「今度、御供を仕りたいと思っている者がいかばかりも有る中に、私が武運に叶い、御最後の御供を
申すのみならず、御介錯まで仰せ付けられたことは。一生の望み、何事かこれに過ぎるでしょうか。」
と、大いに悦んだ。

これを見て入道殿は心地よさげに笑われ、その後両眼を塞ぎ、「迷悟三界誠悟十方空」と観念あって、
「では、腰の物を」と仰せになった。この時、篠部は三尺三寸の正宗の中巻きしたものを差し上げた。
秀次公はこれを右手に取り、左手にて胸元を繰り下げ、弓手の脇に突き立て、馬手へキッと引き廻し、
御腰骨に少し懸ると見えた所で、篠部淡路守が立ち廻ろうとしたが。「暫く待て」と宣ってまた取り直し、
胸先より押し下げられた所で、御首を討ち奉った。惜しいかな、御年三十一を一期として、南山千秋の露と
消え給わった。哀れと言うにも余りある。

立西堂は御遺骸を治め奉って、これも供を致した。篠部淡路守は関白殿の御遺骸を拝し奉って後、
三人の検使の所に向かい、「その身不詳に候へども、この度慕い参った恩分として、介錯を仰せ付けられた
事は、誠に弓矢取っての面目と存じます。」と言うやいなや、一尺三寸の平作の脇差を太腹に二刀差したが、
切っ先が五寸ばかり後ろまで突き通し、さらに取り直し、首に押し当てて左右の手をかけて前にふつと
押し落とすと、首は膝に抱かれ、骸は上に重なった。見る人目を驚かし、
「天晴大剛の者かな。腹を切る者は世に多いが、このような有り様は伝えて聞いたこともない。」と
諸人一同に感嘆して感じ入った。

(近世軍記)

豊臣秀次の切腹について
0018人間七七四年
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2021/09/07(火) 17:03:23.04ID:3jQ6lCF7
蒲生氏郷は藤原房前の大臣六代の嫡孫、鎮守府将軍俵藤太秀郷の後胤である。

永禄十一年に織田信長公は江州に討って入り、佐々木(六角)を攻め傾けられた時、
氏郷の父である蒲生兵部太夫賢秀が信長の味方に参り、子息鶴千代十三歳の時、証人として
信長へ進じると、近習に伺候され、奉公した。

彼は他と異なるほど利根発明であったため、信長の御意に叶い、ある時宣われた、
「汝が眼晴は常ならない。おそらく只者ではない。我が婿にするぞ。」
と、契約された。

元亀元年、信長が越前国に発馬の時、氏郷は十五歳にて鑓を合わせ高名を成した。これが初陣であった。
その後濃州岐阜の城にて元服あり、その頃信長は弾正忠であったため、「忠」の字を給わって、
蒲生忠三郎賦秀(または教秀)と名付けられた。
秀吉公の代に至り、「秀」の字を憚って氏郷と改められた。
元亀元年の初陣より文禄四年まで、氏郷自身の高名は三十六度であった。

太閤秀吉の時、氏郷を羽柴飛騨守参議宰相に叙任された。初めて南伊勢五郡十二万石を領した。
その後数度の忠戦、秀吉公の感心斜めならず、その賞とりて奥州会津七十万石を給わり、また
奥州での軍功によって二十万石の加恩地が下され、それらを合わせて百二十万石となった。

しかし、石田三成が企んだ如く、関白秀次公を思いのままに亡ぼしてから、直江兼続との密談の通り
蒲生氏郷を失わせる事を図って、文禄四年の春の頃、瀬多野掃部と内通し、能く示し合わせて
氏郷を掃部の茶の会盟に招き酒を勧め、毒を飼った事によって、同年二月七日、氏郷は四十歳にして
俄に心身悩乱し逝去されたのは、いたわしいことである。

(近世軍記)

氏郷の通称の忠三郎が、信長の官途名の弾正忠から、というのは珍しいパターンの気がするのだけど、
こう言った例って他にあるのかな?
0019人間七七四年
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2021/09/07(火) 23:03:56.60ID:OiO5BSeI
山内忠義の酒豪伝説

ある時、大名達の酒宴に参加した土佐藩の2代藩主・山内忠義はひたすら飲んだ。
そして、しまいには高いびきをかいて眠りはじめたという。

また、京の二条城にて酒宴が行われた時のこと。
例によってしこたま飲んだ山内忠義であったが、宴もお開きとなって宿所に帰ることとなった。

「暑っついのう」

山内忠義は衣服を脱ぐと駕籠の上に跨り、あるいはその上に立ち忠義は駕籠をそのまま京の町中を走らせた。
京の町衆はその姿に唖然としたという。
また徳川家光に子どもが生まれた時のこと、忠義は江戸城にてその祝いの宴に参加した。

さて、山内忠義は・・・

飲む!吞む!!飲む!!!ひたすら酒を浴びるかのように吞んでいた・・・。

心配した周囲の者達であったが忠義は

「いやぁ、このような祝いの席では飲まなければ!ハッハッハッ!!(*´Д`)」

と諫める声もどこへやら、とにかく酒を飲み続けた・・・。
そして吐いた
https://i.imgur.com/FcjHWkL.png
吐いた
https://i.imgur.com/WF8H0vf.jpg
盛大に吐いた
https://i.imgur.com/KTmBP9a.jpg
https://ameblo.jp/takashi-x11r/entry-12386660858.html
↑こちらのサイトによると吐いたものの処理はお付きの小姓たちがおこなったらしい・・・。
まさにこの後スタッフが美味しくいただきました・・・。

https://i.imgur.com/cIJ57k8.jpg
大河ドラマとかになってもテレビなどでは放送できませんなこりゃ(;゚Д゚)

『流澤遺事ほか』
0021人間七七四年
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2021/09/08(水) 05:23:52.35ID:xIoK6K1r
>>19ちょっと抜けてた

>↑こちらのサイトによると吐いたものの処理はお付きの小姓たちがおこなったらしい・・・。

↑こちらのサイトによると吐いたものの処理はお付きの小姓たちが自分たちの口でおこなったらしい・・・。
0022人間七七四年
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2021/09/08(水) 16:12:46.44ID:KFLepEEM
山内忠義「俺が酒豪らねばならぬ。」
0024人間七七四年
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2021/09/08(水) 16:25:57.53ID:4f+gG7hW
>>23
こんだけ酒で問題行動起こしといてよく改易ぶち喰らわなかったよなとは思う。
0025人間七七四年
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2021/09/09(木) 00:28:08.22ID:qJf4q0oP
天文二十年十月二日(1551年10月30日)
奈良子守町にて十歳ほどの女児が石を投げたところ思いがけず鹿を打殺してしまったので
捕縛して興福寺の周囲を引き回し首を刎ねたとかなんとか。
女児の家族は即座に逃亡したので、住居を破却して処罰とした。
『興福寺略年代記』


「三作石子詰」の伝承とは別の、
春日大社神鹿を誤殺しただけで殺されたという戦国時代のお話
0027人間七七四年
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2021/09/09(木) 21:27:24.23ID:E6UdqiJF
>>25
十歳ほどの女児が投げた石で死んでしまう鹿さんサイドにも問題がある
0029人間七七四年
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2021/09/10(金) 16:24:19.47ID:Y2Q3SaZT
堀久太郎(秀治)が越前から越後へ入部した折り、家老の堀監物(直政)より国中に触れ渡し、
当年の年貢を納め取ろうとした、
この時百姓たちは言った

「時分は既に冬になっています。年貢の半分は既に、転封された上杉殿に納めていますので、
その分を納めることは罷りなりません。」

そこで監物方より上杉家の直江山城守(兼続)へ申し遣わし
『納め取られた越後の当年貢半分を、こちらに返されますように。』
と伝えた。直江はこの返答に

「久太郎殿が越前を出られる砌に、越前の当年貢半分を納め取っておくべきでした。
会津領においても、前の地頭である蒲生秀行は当年貢半分を納め取った上で宇都宮へと移られた。
そのため(上杉)景勝も会津に移って、その残り半分を納めました。
越後に於いて納めた半分を、返納するいわれはない。」

そう言って堀監物の要求に肯かなかった。
しかし監物は重ねて使者を以て、

『越前の当年貢は残しておいて蔵に納め置き、公儀へと差し上げたのです。
ですので越後半分を戻されますように。』

と乞うたのだが、直江は笑って

「越前の年貢半分を納め取らなかったのは、監物の誤りである。
左様なうつけ者の同類に、我々が成る事はない!」
(左様のうつけたる同類に、此方には罷りならず)

そう嘲り愚弄した。そのため、堀監物はこれを根深く遺恨に思ったという。

(近世軍記)

そういえば堀家が移った後の越前北ノ庄城には、当初小早川秀秋が入る予定だったな。
0030人間七七四年
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2021/09/10(金) 18:04:38.61ID:21GKIKTf
そういう決まりがあったならともかく、公儀へ年貢渡す前に上杉と調整してなかった堀のミスだな
0031人間七七四年
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2021/09/10(金) 20:14:16.94ID:0w+T8jRj
年貢については通例で国替えの時はそうするってなってた筈
ただ黒田と細川も同じ事で揉めてるし(黒田が持ち逃げ)
その時に細川から提訴受けた家康は裁定しなかったので
法で決まってた訳ではない模様

ちなみに黒田が移る先の小早川も持ち逃げしてたので
黒田が持ち逃げしてなければ黒田も困ってた
細川や堀の脇が甘いといえば甘いか
0032人間七七四年
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2021/09/10(金) 23:02:29.70ID:KX7wPrkn
黒田細川堀と、ガメツもといしっかりしてそうな家が被害者側なのがなんか面白いな
0033人間七七四年
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2021/09/10(金) 23:45:05.05ID:z9qVs5NZ
まぁ堀家は名人Q太郎じゃなくて若年の二代目Q太郎だし舐められてたのかも知らん
0034人間七七四年
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2021/09/17(金) 10:57:35.23ID:jXOTE7+0
この話し一年分持ち去ってたのかと思ってた
0035人間七七四年
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2021/09/17(金) 13:18:11.10ID:7XTJHesh
正直年貢持ってかれたどうこうよりも、秀吉に朱印状で全員会津へ連れてくよう言われた上杉家臣が残ってる事のがよほど堀からしたら問題よね
実際乱になった際に上杉が煽って一揆起こしてたし
0036人間七七四年
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2021/09/17(金) 16:50:23.87ID:jWvq4BOh
農民は一切連れて行くなだから帰農されるとどうしようもないし
0037人間七七四年
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2021/09/17(金) 16:58:15.14ID:9KDPLPok
いやー、家臣全員連れてくよう言われたんですけどーたまたま家臣たちが一斉に帰農しましたー
ってさすがに無理があるくない?
0038人間七七四年
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2021/09/17(金) 19:31:52.06ID:YwIdib8P
上杉の遺民一気ってだいたい越後風土記が元の記述?
堀毛の家譜とかにも載っている?
0039人間七七四年
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2021/09/17(金) 19:34:40.46ID:YwIdib8P
地元が蜂起に参加していたらしい記述見かけたんだけど
該当箇所が見当たらない
0040人間七七四年
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2021/09/17(金) 20:55:43.02ID:hllB7l4p
( ●Д`)y━・~~ 旧臣使って一揆の煽動とか酷い奴も居たもんだな
0043人間七七四年
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2021/09/17(金) 23:11:53.00ID:MGyRhaXZ
上杉謙信・山内忠義・島津義弘・福島正則「イッキ!イッキ!イッキ!イッキ!イッキ!(エンドレス)」
0044人間七七四年
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2021/09/17(金) 23:16:41.44ID:hllB7l4p
>>43
母里太兵衛「ウェーイ!」
0045人間七七四年
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2021/09/18(土) 10:21:23.91ID:heYgV3tr
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210917/k10013263731000.html
NHK 細川忠興が記した書物の裏に石田三成らの自筆書状
2021年9月17日 6時27分

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、細川家が九州の有力大名となる礎を築いた細川忠興が記した書物の裏に石田三成や古田織部の自筆の書状があることが
東京大学史料編纂所などの調査でわかりました。専門家は豊臣秀吉に仕えた武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だとしています。

細川忠興は戦国時代から江戸時代初期の武将で、豊臣秀吉などに仕え、細川家が九州の有力大名になる礎を築いたほか、茶道などにも通じた文化人としても知られています。

細川家の史料を保管している東京 文京区にある永青文庫と東京大学史料編纂所は共同で巻物になっていた忠興が記した書物を調べたところ、忠興が受け取った書状などの裏側を再利用していることがわかりました。

その中には、1586年ごろ、秀吉に一緒に仕えていた石田三成や古田織部が自筆で忠興に宛てた書状が含まれていました。

石田三成の書状では、秀吉から受け取った金の使いみちについて忠興に「自分たちは恵まれているのだから、金をため込むのではなく周りに配るよう」説いていて、
専門家は押しつけがましいともとれるほど生真面目な三成の性格や人間性がよく表れているとしています。

また、古田織部の書状は、織部を名乗る前の「左助」という名前で「刀を貸してほしい」という趣旨が記されていて、専門家はほとんど残っていない織部の若い頃の書状だとしています。

戦国時代の武将の書状は、公的なものほど書き記す家臣によって代筆されたものが多く、調査を行った史料編纂所の村井祐樹准教授は「緊密に交流する様子が
自筆の書状からわかり、豊臣秀吉配下の武将たちの素顔がうかがえる貴重な史料だ」と指摘しています。
0046人間七七四年
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2021/09/18(土) 10:22:16.34ID:heYgV3tr
今回、調査されたのは細川忠興が能に関して記し、その後、巻物にして保管されていた書物です。

調査を行った東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授によりますと、一部で裏側に書かれた文字が透けて見える部分があり、何かの裏紙を再利用したものと思われていましたが、
詳しいことはわかっていませんでした。

解体すると15点ほどの書状や記録の裏紙が使われていました。

この中には、石田三成と古田織部、それに前田玄以といった一緒に豊臣秀吉に仕えていた武将から忠興に送られた書状が5点、忠興が自分で記した書状の下書きが3点、
闘茶と呼ばれるお茶を飲んでその銘柄を当てる当時の遊びを行った際の記録が3点などでした。

石田三成の書状は、前段部分であいさつとして忠興が参加した茶会の感想を尋ねたあと、秀吉からもらった金の使いみちについて記しています。

三成の自筆の文字は黒くはっきりと記されていて、後段にいくにつれ書きたいことを詰め込むように行の間隔が狭くなっています。

また、古田織部からの書状では、忠興に対して「刀を貸してほしい」という趣旨に続いて、「あまり大きいものは困る」と細かい要望を記しています。

専門家はこの時期に行われた後陽成天皇の即位式に持って行くための刀を借りる用件だったと考えられるとしています。

古田織部からの書状は合わせて3点あり、いずれも織部を名乗る前の「左助」という名前が差出人として記されていました。

このほか、忠興が記した書状の下書きには、秀吉配下の武将である蒲生氏郷や高山右近などと連れだって京都の相国寺に行く途中に、予定を変更して秀吉のところに行ったことが記されています。
0047人間七七四年
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2021/09/18(土) 11:46:31.16ID:Y7Yr55+I
専門家もツッコんでるけど
褒美としてもらった金の使い道について横から口出しするの、まじで押し付けがましいな
0048人間七七四年
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2021/09/18(土) 12:13:26.31ID:4EEgrKPK
へうげものキャラでそのまま想像できるなw
0049人間七七四年
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2021/09/18(土) 13:55:19.49ID:0ISUQ5f6
まぁ三成の性格からして公儀から貰ったお金なんだから
公的な事(部下への褒美とか内政)に使えよって考えなのは理解できる
忠興は数寄関係でで金使ってたし
0050人間七七四年
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2021/09/18(土) 14:39:37.22ID:csadipqG
本願寺一揆(三河一向一揆)の時、賀茂郡下江知村の四至屋平太郎という者が家康公に御味方
申した。針崎表一戦で公は打ち負けて六所の宮へ入られ、敵は岡崎の城へ押し入らんとした。

この時、平太郎は公の御装束を着て、城の大手で寄せている敵に向かうと、「家康こそ、ここ
にて立腹しているぞ。見よ!(家康社爰ニテ立腹ルニ見ヨ)」と大声で腹を十文字に掻き切り、
敵はこれを見て事実と覚え、引いていった。

その後、家康公は関ヶ原より御帰陣の時に矢作へ出向かい、(平太郎の)居り申す所を御尋ね
になった。(平太郎の後家は)殿様に御不足(不満)を存じ奉り、「私こそが四至屋平太郎の
後家です」と申し上げた。

公は「そうであったか」と仰せられて、手作と70石を下された。その末裔を中根喜蔵と申す。
本多九平衛の話の覚書。

――『三河東泉記』
0051人間七七四年
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2021/09/18(土) 15:34:47.84ID:4JKoITUS
>>49
豊臣秀次からも借金が有ったと言うし、本能寺から豊臣政権下で戦も重なってたとはいえ、現代感覚だと道楽とも取れる茶の湯やその他の趣味にも三成からチクリと言われちゃうほど注ぎ込んでいたのかねぇ?
005350
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2021/09/18(土) 20:46:09.66ID:96vE791p
>>50
すみません「りっぷくするに」じゃなくて「たちばらするに」が妥当ですね
「立ったまま切腹するから見ていろ」と
0054人間七七四年
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2021/09/19(日) 01:28:08.62ID:mMAai4VO
>>51
刀貸してくれって織部に言われる辺り
見栄えの良い刀も数持ってたんだろうなって想像つくし
甲冑のデザインしてたって事は相応に色んな甲冑も所持してるだろうなって思うと
趣味に思いっきり散財してそうな感じではある
0056人間七七四年
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2021/09/22(水) 17:10:57.34ID:PS+fBYQI
ニコラス (17世紀の日本人修道士)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%B9_(17%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E4%BF%AE%E9%81%93%E5%A3%AB)
ニコラス・デ・サン・アウグスティノ(Nicolas de San Agustin、 ? - 1611年11月30日)は、17世紀のカトリック教会修道士。
ロシア・モスクワを訪れた最初の日本人(日系人)とされる。

幼時に日本人の両親と共にルソン島のマニラへ移住したという[1]。
生年は不明だが、中村喜和は、1570年代 - 1580年代とする推定を「おそらくあたっていよう」と記している[2]。
洗礼を受けて修道誓願し、1594年、ポルトガル人アウグスチノ会士ニコラス・デ・メロ(ロシア語版)(ニコラス・メロ・イ・モラン)神父(1550年-1614年)より
修道士名ニコラスを与えられ助修道士となる[3]。

1596年、マニラのアウグスチノ会はローマでの総会に、管区代表としてフワン・タマヨ、ディエゴ・デ・ゲパラの2神父を送ることとなった[2]。
ところが搭乗した船が漂着し、サン=フェリペ号事件として知られる大問題を起してしまう。2神父のマニラ帰還後、アウグスチノ会は改めて
ニコラス神父とその弟子ニコラス助修道士の2人のローマ派遣を決定した[2]。
事件の余波で対日感情が悪化し、ルソン各地から日本人が追放されていたという[4]。

1597年、インドのゴア経由で欧州に向かうが、この時期のゴアでは欧州渡航便を得られず、ホルムズに渡って陸路での欧州行きを目指した[2]。
1599年、イスファハーンでサファヴィー朝アッバース1世の歓待を受け[2]、その対オスマン帝国での欧州各国への外交政策のため
ローマ教皇クレメンス8世、スペイン王フェリペ3世宛て親書を預かり、1600年、イングランド人シャーリーらも参加した使節団に同行する[5]。
使節団はカスピ海を渡りヴォルガ川を遡上してニジニ・ノヴゴロドからボリス・ゴドゥノフ治下のモスクワに入る[5]。
ニコラス神父は一行のフランシスコ会士アルフォンソと仲が悪く、唆されたアンソニー・シャーリーにロシア役人の面前で殴打されている[5]。

これらから使節団を離れた2人は、ミラノ出身の高名な宮廷侍医パオロ・チタディニ宅に寄宿するが、同家で行ったカトリック式洗礼が
反カトリック気運の高いロシア宮廷に嫌悪されたともいわれ、1601年、白海オネガ湾のソロフキ島修道院に幽閉された[6]。
動乱時代の混乱で幽閉は続き、ヴァシーリー4世の命で1606年、ヤロスラヴリのボリソグレブスキー修道院に移され、1610年、ニジニ・ノヴゴロドに再度移された。
1611年、ポーランドの侵攻で反カトリック感情の高まった同市で、刑場に引き出され改宗を強要されたが、ニコラス助修道士は師を庇って処刑された。

ニコラス神父はアストラハンに流され、マリナ・ムニシュフヴナの庇護を受けたが、1614年に処刑されたという。
2人の殉教は、1623年にミュンヘンで出版されたトリゴー神父の著書『日本殉教録』の一節に掲載された[7][8]。
0057人間七七四年
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2021/09/22(水) 17:12:03.09ID:PS+fBYQI
wikipedia転載ですがご容赦ください。

サン=フェリペ号事件にこんな裏話があったとは。引用元の論文は40年前のものなのにこのネタ全然知らんかった・・・。
そして修道会各派で足を引っ張りあうキリシタン史あるあるw

ただ、近代以前の助修道士(助修士)というのは実質「寺男」だそうで、上記での師弟関係という表現がこの場合どうだったのかちょっとわからないですね。
0058人間七七四年
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2021/09/22(水) 20:23:12.03ID:DEnRlmy2
ご容赦下さいと断ってるが転載して何がしたいの?なんでもいいから書き込みしなきゃいけな理由でもあんの?
0059人間七七四年
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2021/09/22(水) 20:27:14.83ID:SRtPEcUm
へえこんな人がいたんだ、と感心したが
そりゃwikiで挙げられている参考文献にアクセスできるならその資料を自分でまとめた方がいいと思うけど
0060人間七七四年
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2021/09/22(水) 22:14:37.84ID:L9m3N/kA
1から10まで全部コピペ転載だからな
普通なら知った話を面白いと感じてスレに書こうとするなら
面白いと感じた点を自分なりにまとめて書くだろう
仮に自分が知った面白い話を人に紹介する時に丸々コピペするか?
0061人間七七四年
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2021/09/22(水) 22:19:46.07ID:RD4zVcrm
まあ従者ってことなら名前は残らなかったかもしれないが、後1、2年でローマまで行けただろうに残念だね
支倉の10年前ってとこか
0062人間七七四年
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2021/09/23(木) 21:41:32.17ID:Sox3FW2z
薩摩藩の「本藩人物誌」より伊地知周防守重興について
(いい話スレでは「本藩人物伝」にしてしまったけど「誌」が正しいので訂正)

永禄年間では肝付兼続に与党し貴久公に敵対していたが天正二年に先非を悔い大隅五箇所を進上し剃髪して降参。
その後還俗して義久公が諏方社後参詣の時には騎馬にて跡に付き従い、大友との戦の際にも従軍した。
天正八年二月十三日卒。

付記
重興は豊後より召し出した女を妾としていたが、家中の者と蜜通したため、その女を櫃(ひつ)に入れ、蛇(くちなわ)を多く入れ、垂水の池につけて殺した。
家臣の柳田某が池の岸から櫃を竹の棒で押し出したそうだ。
その恨みにより強く祟ったため、御前と敬称をつけ、赤明神という名前で氏神として祀ることとなった。
右の柳田某も禿げてしまったそうだ。
0063人間七七四年
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2021/09/23(木) 23:15:50.72ID:uA6ewj70
雨森九太夫最期の戦い

元和偃武より22年が過ぎた寛永14年10月25日(1637年12月11日)、島原の乱が勃発。
幕府は板倉重昌を上使、副使として石谷貞清を任じて九州諸藩の軍の指揮を執らせ、原城址に籠った一揆軍の討伐にあたった。

この時、九州諸藩だけではなく多くの藩が使者の名目で名代の将に少数の兵を付けて島原に派遣し、討伐軍に加わった。

土佐山内家からは先ず、先代藩主・一豊の母衣武者を務めた板坂利正が代表として派遣されることが決まったが
利正が病に罹ったため(のちに死去)、代わりに雨森九太夫が代表となり鉄砲足軽30名と小頭2名(池田嘉兵衛と鈴木彦大夫)、
さらに九太夫預かりの弓足軽を数十名随行させて現地へと向かわせた。

山内忠義はさらに参陣した諸将への慰問の使者として中老の仙谷但馬久勝父子と九州出身の馬周り・毛利久八吉次(父は豊前巌石城主の出羽守吉勝)を
後から派遣した。

12月29日に現地へ到着した雨森九太夫率いる土佐藩の部隊であったが、3日後の寛永15年元旦の板倉重昌指揮による総攻撃に参加した。

山内家資料所収の「南路志」と「御家中名誉」によって描写は異なるのだが、「御家中名誉」では三の丸まで攻め入ったところで、

そして「南路志」にては総攻撃で深く攻め入った板倉主水正(重矩)が進退ままならなくなってしまった。これを見兼ねた板倉重昌は
一揆軍へ掛出さんとした。九太夫はその鎧の袖を取って

九太夫「ここは大将が出る所ではありません。戦は駆け引きが肝要です。一旦引いて軍法を定め勝利しましょう。」

と、諫言した。しかし板倉重昌は

「その言葉尤もである。しかし、目の前で愚息の重矩が死なんとしているのを見捨てることが出来ようか!」

と叫んで九太夫の手を振り払って駆け出した。九太夫はこの老骨、力及ばずもお供申さん!と重昌に続いて駆け出した。
これを見た諸国の武士は、我劣らじと九太夫に続いて駆け出したが或は手負い或は討死し、重昌も遂に弾丸を眉間にぶち込まれて討死した。
この時、九太夫と共に参陣した山内家の鉄砲小頭池田嘉兵衛も銃弾で深手を負い、九太夫の郎党2名(若党・井澤仁左衛門と小者六助)も相果てた。

そして九太夫にも遂にその時が訪れた。

一揆軍の放った一発の銃弾が馬上の九太夫の股根を打ち抜いたのである。

幕府軍の総攻めは失敗に終わり、収容された九太夫であったがあまりの重傷であったため、翌一月二日に着陣した仙石久勝と代表を代わり、
一月七日に九太夫は土佐へ船で帰還することとなった。

だが、九太夫は徐々に容態を悪くし船が本国土佐の柏島に着く直前に船の中で亡くなり、同島にて埋葬された。

雨森九太夫氏康、享年七十五歳。戦国の世を生き抜いた男は安寧の世に突如起きた大乱で受けた戦傷でこの世を去ったのである。

参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
0064人間七七四年
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2021/09/23(木) 23:54:43.72ID:WzdF+2m1
何でそんな老人を、と思うが戦を知ってる者って事なのかね
てか仙石久勝って仙石秀久の兄か、長生きだな
0065人間七七四年
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2021/09/24(金) 10:10:52.54ID:8xw8xQ9O
>>64
当初派遣予定の板坂利正も掛川以前からの歴戦の士だったみたいだし、雨森九太夫と仙石久勝も資料には旧主の石田三成や福島正則の元での武功の評価されてるからそう言う所を期待されてのことでしょうね。
0066人間七七四年
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2021/09/24(金) 10:14:01.75ID:8xw8xQ9O
>>63
× 仙谷但馬久勝
○ 仙石但馬久勝
0067人間七七四年
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2021/09/24(金) 12:53:12.46ID:EadEZBQZ
>>64
補足として九太夫の山内家部隊はこの総攻撃の時、御家中名誉では松倉長門守勝家の仕寄りを借りた(板倉内膳重昌の仕寄りとする書もあると補足有)とされる。

また、負傷した九太夫は参陣していた長崎奉行・榊原職直の医師・道與から薬を出され、一報を受けた国元の家老・野中兼山からも休齊という医師が派遣されることとなったが、帰国の船路にて亡くなったとのこと。
0068人間七七四年
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2021/09/25(土) 11:15:25.25ID:QDidupls
薩摩藩「本藩人物誌・女子伝」より「大寺氏女」

伊地知勘解由左衛門重元の妻で、重元が高麗にて戦死したという訃報を聞かされ、
重元の形見として従臣が高麗より持参した脇差を自分に刺した。
おつきのものが刀を奪うと、喉をついていたがまだ死には至ってなかった。
竜伯公(義久)がこれをお聞きになり、村田雅楽介を遣わしてこう伝えた。
「了簡もなく自害しようとしたものよ。
武士は敵に向かって戦死するのは常のことである。
医師を遣わすので養生し、遺された一子を育て上げて、お役に立てるようにせよ」
村田が声高に述べたところ、重元の妻は合掌して拝聴した。
その後、舌を切れ切れに噛み切って死んだということだ。
0069人間七七四年
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2021/09/25(土) 12:25:33.63ID:yrJbFXGK
>>68
結局死ぬんかーい
( ゚д゚c)ナンデヤ( ゚∀゚)っ))ネンッ!!
0070人間七七四年
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2021/09/25(土) 16:03:22.21ID:LfzgQiPE
(引田の戦いの時)

天正11年春、土佐の元親は阿州大窪を越して寒川郡に入り、田面山に陣して三
好存保(十河存保)の居城虎丸を疲らせんがため与田、入野に入って麦薙をなし、
早苗を返した。

元親父子が虎丸の麓に陣をおいて昼食をなし給うところ、香川信景と大西上野介
(頼包)は手勢を分けて引田の浦に発行せんとした。

仙石権兵衛尉秀久は2千余人をもって引田の浦に到着、家臣の森九郎左衛門(村
吉)を与地山の城に籠らせ、山西のやうを聞き合わせるところに、土佐の兵1万
余人が与田入野に入り香川信景と大西上野介が引田に向かうとの知らせがあった。

仙石氏は1千余人を三手に分け、仙石勘解由、仙石覚右衛門、仙石権平(森権平)
を兵将として引田中山に入れて伏せ置き、西方の兵が来るのを待った。

土佐方は引田に強兵がいると知らずに押し寄せ、山中で強兵に行き当たり大慌て
して追い返され、足並みを乱し与田口まで敗北した。仙石衆は逃げる敵を追って
競い来る。香川方と大西方は敵が少兵と見切り、自兵を遣わして戦を始めた。

一方、元親は引田表の鉄砲の音を聞きなさり「今この辺りに戦うべき敵はいない。
仙石権兵衛という者が、羽柴秀吉から讃岐国を賜うべきとの朱印を受け下向した
と聞く。きっとその仙石権兵衛だろう。桑名太郎左衛門、中島与市兵衛、行って
見て来い」と仰せになった。

2人が馳せて行くと香川信景と国吉三郎兵衛、大西上野介が合戦を取り結んでい
たので2人の使いも手筈に合わせ、元親父子の旗本も程なく押し寄られ、敵味方
入り乱れ、黒煙を立てて攻め戦う。

仙石方は少兵なので西方の猛勢に押し立てられて敗軍した。桑名太郎左衛門、中
島与市兵衛は2度の槍場にて首2つずつを取る。前田平兵衛、その弟彦六は2人
で仙石勘解由を討ち、仙石方は追い立てられ引田中山道に引き入る。敵も逃げる
のを追って山中に入り来る。

仙石権平は18歳の若武者なれども、大剛にして奇才あれば、地利を計って自兵
を下知し、返し合わせて奮戦し、敵を破って勝ちを制し引こうとした。そこへ土
佐方の稲吉新蔵人が名乗りをあげ、互いに馬上で渡し合い、両敵ともに深手を負
い、権平は続く兵なく新蔵人は味方が続き、権平はここにて討たれた。

すなわちその所に石碑を立て今の世までも隠れなし。その権平の墓に霊妙なるこ
と多く、民間の説に残される。権平は仙石秀久の従弟である。一説には仙石氏家
臣の森九郎左衛門の息男ともいう。両説を存じて知る人を待つ。

――『南海通記』
0071人間七七四年
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2021/09/25(土) 16:05:04.95ID:LfzgQiPE
権平の伝承

『讃岐国名勝図会』には権平の法名、月山宗薫居士、天正十二年甲申七月十九日、
当初日下氏その祭を司るとある。

また『翁蝋夜話』によると「権平年忌ごとに阿州舟奉行森甚五兵衛の使人日下氏
に来りその追薦を託す。今に至るもなお然り」という。現在、引田町日下氏宅に
位牌が伝えられている。

また、積善坊の過去帳にもその名が残される。その頃、夜中に通りかかった僧が
「これは誰の墓だろう」と言えば、墓の中から「森権平」と答えた。僧は驚いて
読経、回向して通り、近郷に止宿してその趣旨を記し、銘を作って板に書き付け
墓に立て掛けて通った。

また別の僧は、夜中に甲冑を帯した馬上の武士と行き向かい「この馬が執着して
進もうとしない。なにとぞ直して欲しい」と頼まれた。僧が名を尋ねてみると、
墓に向かっていた。僧は驚いて翌日来てその記を見れば「仙石権平一八歳にして
紅鴇毛なる馬に乗」とある。僧はこの誤りだと思い「紅梅鴇毛」と改めて記した。

また何人か分からないが墓に短冊が手向けてあった。「武士の二度の懸して権平
は陣の引田に名のみのこしつ」。今の世に至るまで武士たるものは、墓の前では
下馬して拝すという。若武者の健気な討死が人々の心を悼ませたのだろう。

いま白鳥町伊座に権平の墓を祠る権平庵があり、権平が深田に脚を取られて討死
したとの伝承から、脚痛に効験があるとの信仰を集める。

なお『南海通記』などでは権平の死は天正11年5月となっており『名勝図会』
と合わない。『大内町史』には天正11年の戦いは白鳥の与治山城を陥しただけ
で、天正12年に虎丸城をめぐる再度の戦いがあったとしている。

――『引田町史』
0072人間七七四年
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2021/09/25(土) 16:35:50.59ID:tSG7PRda
八十八箇所の最後の大窪寺のためか大窪には讃岐イメージがあった
八十八箇所五番目の地蔵寺には同族の森甚太夫家の墓地もあったっけ
0073人間七七四年
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2021/09/26(日) 15:40:16.03ID:mrf8lI+2
雨森九太夫と観音岩

>>63で島原の乱参陣中に銃創を受け土佐へ帰国することとなった雨森九太夫であったが、その船路で重体になった時、一条の光が船を陸へと導き、九太夫はたどり着いた柏島で亡くなった。

この時船を導いた光はこの観音岩から発せられたと言う。

https://i.imgur.com/CVW7cY6.jpg
https://i.imgur.com/cxZpaCQ.jpg


高知県観光サイトよさこいネット
https://www.attaka.or.jp/kanko/dtl.php?pcflg=PC&;ID=6759
一般社団法人 大月町観光協会
https://otsuki-kanko.jp/tourism/content5
0074人間七七四年
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2021/09/27(月) 12:55:44.38ID:RPHVWC63
徳川家康による会津征伐への発向前、藤田能登守(信吉)取次にて、御所様(家康)より上杉家中において
御存知の輩には、御内通の御書を下され、今度は沼田を限り、奥へ御働きなされることにより、
『裏切りの手を合わせ候へ』との御意があったが、上杉家中の面々は御書を反し進じた者もあり、
また有無の御返事を申さなかった輩もあった。

横田大学は年来御所公と懇意であったので、殊更この時、御懇ろに書を下されたのであるが、
大学はつくづく考えた
「私は、古は大身であったが、秀吉公が関東に打ち入られ、その時本領を放れて浪人した。
今は僅かに二千石だが、上杉景勝に懇意にして頂いている。

只今景勝は小勢であり、御所は数万騎にてこれに取り懸かる。侍たる者が主を捨て、敵方に書を通ずる
ような事は、有るべき儀ではない。」
そう思い、御請の書状を差し上げなかった。

関ヶ原合戦の後、景勝は小身になられ米沢に移られたため、大学も浪人し、駿河へと参った。
そしてその事は城和泉守(昌茂)の取り持ちで、家康公の御耳に達したのだが、召し抱えられることは
無かった。
しかし大阪御陣の時、家康公は南光坊(天海)に対して「横田大学は現在何方に居るのか」とお尋ねに
なられた。その時分、彼は出羽に下り居た。

御所様も大学を勇者と思し召されていることを、この時紀伊大納言頼宣卿が聞き召された。
その時分は常陸介と申し奉り、未だ十三歳であったが、勇知厚き御器量にて、名のある武功の侍を
御所望の御心深く、「何卒、大学を召し抱えたい」と思し召し、板坂卜斎を以て柳生但馬守(宗矩)に
内意を仰せ入れられ、そして但馬守は伊達政宗に大学のことを尋ねた。
但馬守は、あたかも自分が聞きたいために尋ねているようにしたが、これを政宗聞いて

「この大学は人も知りたる者です。一万石ばかりにて堪忍致されるのであれば、私も望みに存じます。」
と返答した。
「奥州においては千五百、二千の大将になり、度々の合戦に勝負致し、敵城をも攻め落とし、我が城も
攻め落とされたこと数十度であり、慥かなる武士です。」と、政宗は物語した。

但馬守はこれを卜斎に語った。卜斎はこの事を常陸介頼宣も(以下欠)

(杉原彦左衛門覚書条々)

原典で最後の方が欠落しているらしく、このあとどうなったのか解らないお話。
0075人間七七四年
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2021/09/27(月) 13:30:37.94ID:AugSLeoP
>>74
https://aizufudoki.sakura.
ne.jp/zakki10.htm

こちらによると、「新編会津風土記」には最上家に仕えて例の騒動の時にお家存続のために色々頑張ったけど甲斐なく最上家は改易、結奈。「横田系譜」では62歳で病死したとか

あと、山内一豊と同一人物説を説くものもあるとか。
0076人間七七四年
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2021/09/27(月) 15:46:21.69ID:MAPLbMjJ
天海、蘆名氏つながりで蘆名家臣の横田大学(山内豊政)とも親しかった説
0077人間七七四年
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2021/09/27(月) 16:30:38.86ID:Ar19CWrU
>>75
改易、結奈。

改易。
0079人間七七四年
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2021/09/27(月) 21:49:18.14ID:8YXrZf7I
横田大学本人ではないが、
大学の孫が真田松代藩に仕官してる
重文・旧横田家住宅はその旧居
0080人間七七四年
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2021/09/30(木) 21:06:20.18ID:ZsYDNCAX
飯沼五郎兵衛(常政。香西氏の家臣)は代々武勇の家である。また自身も
阿州重清合戦で場中の高名をあらわし三好存保(十河存保)の感状を賜る。

讃州伊勢馬場合戦で予州衆の鉄砲に膝の口を撃たれ、不具の身となり隠士
となった。彼が子弟に教示して曰く、「汝らは必ず主君を求めて奉公せよ。
三代に渡り仕を求めなければ、姓氏を絶やして凡民となるのだぞ」。

実に然り。天正の乱後、家産ある者は田野に交わって身を隠し、蓄積なき
者は主君を求めて四方に走った。君主を頼った者は姓氏を継いで武士とな
り、君主を頼まざる者は姓氏を絶やして凡民となった。

人としては必ず、その家業を失うべからず。

――『南海通記(老父夜話記)』
0081人間七七四年
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2021/10/02(土) 11:49:32.35ID:0dQIK6u5
(松永久秀滅亡の時)

松永は偽兵を知らずに門を開きこれを城に入れ、後より信忠大いに進みこれを攻める。
偽兵は内より応じて鬨をあげこれに応じ、城中の兵は大いに騒動して死亡する者多し。

松永も殿守に入って相待つ。信忠より人遣わし曰く「松永降参すべし。罪を許さん」。
松永曰く、「骨になっても信長には従わぬ」として降らず。ここに平蜘蛛という釜は
天下の名物である。ことごとく打ち砕いて箱に入れ、糠詰めにして封をなし、信忠の
陣に送った。

松永曰く「これは我の所持する平蜘蛛という釜だ。日頃信長の望みあるままに送ろう
と思っていたが、先延ばししていた。これは天下の名物である。今ここで失われるの
は惜しい。よってこれを贈る」と言った。

その箱の封を切る時にあたって城中より声をそろえて一斉に鬨をあげ、城外より鉄砲
を撃って攻め寄せた。

松永久秀の女子はその年20歳。打掛して久秀の前に来て曰く「事の急ならざる内に
我が身の暇を賜りください。先立って父を待ちます」と言った。久秀の曰く「まこと
に事の忙しさに汝のことを忘れていた。20歳も70歳も同じことだ。人は必ず一度
は死ぬ。汝は先立つべし。跡の仕舞いをして今我も行くなり」と言って、それそれ某
太刀取りせよと居所に入らせた。

この女子は太刀取りに言って曰く「女の死骸は醜くからんと思い、その支度をした」
と紅の下袴を着て上に打掛をし「首はこの内に落とすべし」と言って打掛を前に敷き
太刀を受けた。

その打ち落とした後に自ら打掛の端を被ったという。(其打落シタル跡ニ自ラ打チカ
ケノ端ヲ被リヌト云リ)哀れなる世の中なり。

久秀はこれより事終わって猿楽の囃子を始めた。諷は野宮である。「きりに成り火宅
の門をや出ぬらん。火宅の門」と言い終わると等しく、天守に火を放って屍も見えず
焼失した。

まことに討つ者も討たれる者も一時である。天正5年には松永滅亡す。天正10年に
は信長害に遇い給う。ただ5年の先後なり。

――『南海通記』
0082人間七七四年
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2021/10/04(月) 01:23:04.87ID:LjREf0ve
(前略。東大寺大仏殿の戦いで松永久秀が東大寺に火を放つ)

三好家の兵威ここにおいて挫け、松永もまた孤軍となって天下の人望に違えた。

君臣の道を失って己が利をほしいままにする時は、天命に逆らって久しからず
して滅びる。道によって身を滅ぼす者は佳名を後世に伝える。利によって身を
滅ぼす者は汚名を後世に流す。

人生50年といえども明日の滅びを知らず。名は永久にして天地とともに存在
する。どうして人がこれを思わないだろうか、時の人は後世に言い伝えて曰く、
「永禄の十の十月十日の夜奈良の大仏焼ける。亥の時」という。

松永弾正(久秀)は西京の城(多聞山城)を築き四壁を惣楼にして狭間を明け、
門戸もその楼の下を通したので人力をもって攻め入るのは難しい様子になした。
溝は深く塁は高く、険要の構え城である。

兵糧は3年分あり、長き謀には稲穂を積み干飯を庫に入れ、芋莖、干菜、焼塩、
塩噌、干魚、荒布、和布、海藻、薬種など、薪は土居に築いて炭は地中に埋め、
秣、糠、藁、馬食を足らせ、木実を集めて油を調え、鉄、銅、鉛は踏石として、
掻楯、輪木、車菱、車松明、雨松明、石火砲石、飛礫石、水用の積まで細密に
詮議して欠けることのないようにした。

そして一行の札を立て曰く「この城において不足の物あらば添札をもって申し
出すように」。

ある時、添札が立ててありこれを見ると「財物で足りないものは民を貪りこれ
を取る故に不足なし。しかし、運命の不足は何を貪って取りなさるのだろうか。
これが1つの不足であろう。惣百姓中」と立てていたという。

――『南海通記』
0083人間七七四年
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2021/10/04(月) 17:51:02.06ID:6U4FoXck
「世録記」によれば
龍造寺との戦いに於いて有馬から救援要請があったため、新納刑部大輔忠尭(忠元の長男)と川上左京亮忠堅が派遣され、敵方の深江城を攻めることとなった。
忠堅は(一番槍で負った)いくさ傷を意気揚々と忠尭に見せ
「戦で傷を負う、これこそ男子の本懐というものよ」と得意になったところ
忠尭は「新納刑部大輔忠尭の名を敵軍に知らしめてやる!」
と言ってつっこみ、乱戦の中で死んでしまった。
(享年三十)

「本藩人物誌」によれば
川上忠堅の方はその後の島原合戦(沖田畷の戦い)の首途の宴会の席で家久の息子の又七郎忠豊(豊久)から盃を受けた時に
「今日は龍造寺隆信の首を取ってご覧に入れてみせます」と言ったところ
新納忠元から「今の言葉は軽率すぎる」とたしなめられたが
「妄言ではありませぬ、きっと取ってみせます」と反論したため、周りもあまりに放言がすぎるとあきれてしまった。
その日、足軽大将の簗瀬兵右衛門たちとともに敵兵に紛れて本陣に突入し、隆信に槍を入れ、簗瀬に首を掻かせて義久公のもとに送り、御実験に入れた。
その後、筑紫広門の鷹取城攻めの際、広門の弟(もしくは息子)の春門と戦って際、忠堅は春門を斬ったが春門も忠堅の右手を切り、相討ちとなった。
(享年二十九)
0084人間七七四年
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2021/10/09(土) 21:45:42.09ID:82Wlary0
767 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワントンキン MM0b-g+3k) sage 2021/10/09(土) 03:21:43.58 ID:KUrCYZSAM
氏真さんカワイソス(´・ω・`)

「駿河を失い没落した氏真は、かねて音信のあった越後上杉氏に書状を送ったものの返信が無い。そこで、上杉氏の取次(外交の担当者)に連絡を取ったところ「書札慮外」と一蹴されてしまったという。つまり、没落した氏真ごときがいつまで越後国主と対等の立場でいるつもりかとその無礼を咎められてしまったのだ。氏真の心中いかばかりか。」
0085人間七七四年
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2021/10/09(土) 22:38:28.68ID:Yey6uiW7
今川サイドの対上杉窓口は朝比奈か三浦だっけ?
まあどっちもいないんじゃしゃあない
0086人間七七四年
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2021/10/09(土) 22:48:16.74ID:l66jBKe8
大名権威の保持のためにももう大名じゃない人間を大名扱いするのは厳しいわね
まあそもそも氏真がこうなったのは
弔い合戦したいタイミングで同盟国北条に攻めかかったやつがいたり
そんなやつと同盟したのに味方になったら殆ど動かないとか
その辺もあるんで確かに心中如何ばかりか
0087人間七七四年
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2021/10/11(月) 20:41:39.46ID:kFj4sQth
植松左衛門尉(資信)が曰く、

「私は乱世に生まれて諸々の道を知らない。しかしながら武士はただ
下手でも文武の道を学んでこれを行おうとして過ぎることはあるまい。

神道仏道は至って善とはいえども、これを行おうとして禍を得る者は
多い。細川政元は飯綱の法を行い、管領の家は断絶したのだ」

――『南海通記(老父夜話記)』
0088人間七七四年
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2021/10/11(月) 23:38:24.08ID:8WidEI55
>>87
なんか前段後段で文意がつながってないような気がする・・・ 

「過ぎることはあるまい」だと「いくらやってもやり過ぎではない」→「どんどんやりなさい」って意味だよね?
0089人間七七四年
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2021/10/12(火) 02:55:09.59ID:LNSxAag1
>>87
魔法半将軍様の場合飯綱の法を行ったからというより
もっと別の因果からじゃないんですかね…?
009087
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2021/10/12(火) 08:20:11.90ID:QEbcGYk+
>>88
史料叢書版の原文は「文武ノ道ヲ学テコレヲ行ントシテハ過アルベカラズ」
武士には文武を学び実践する以上のことはなくて他の道にとらわれると家を滅ぼすってことかと
ちなみに史籍集覧版だと単に「武ノ道」とあって植松は武辺の人だからこっちの方が正しいかもしれない
0091人間七七四年
垢版 |
2021/10/12(火) 13:21:50.44ID:2E9AxWS5
過=あやまち

学テ 行ントシテ と動詞には送り仮名付けてる書き方してる以上
送り仮名がない時点で 過 は名詞と解釈するのが自然
009287
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2021/10/12(火) 20:31:59.24ID:QskEwL65
>>91
ご指摘ありがとうございますm(_ _)m
0093人間七七四年
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2021/10/12(火) 21:01:03.28ID:SVFHvk5E
>>89
南海通記の見解では
飯綱に凝る→男色に耽る→浮気を疑って無実の人間を罰する→そいつに恨まれて殺される
ってことらしい
0094人間七七四年
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2021/10/12(火) 21:53:29.37ID:LNSxAag1
>>93
あくまで南海通記の見解へのツッコミなんだけど
女人禁制で男色に耽るまでは関連性として判らんでもないけど
そこから先はやっぱこじつけでは…?

そもそも南海通記って香西氏が書いたもので
政元の暗殺って香西元長が首謀者だって言われてるよね
要因を飯綱に求める事で飯綱に凝った政元が殺されるのは仕方ない的な
祖先の所業の正当化のこじつけなんじゃ…?
0095人間七七四年
垢版 |
2021/10/13(水) 12:30:19.92ID:6rFIMn48
香西氏の自己弁護が入ってる可能性や、暗殺が個人的な恨みかは疑わしい点は同意だけど
暗殺を招いた政治的混乱の原因が実子のいないことによる養子の乱立なら、実子がいない原因になった
飯綱の法を根本原因にするのは、全くの無理筋ではないと思えるけども
0096人間七七四年
垢版 |
2021/10/16(土) 19:00:18.87ID:wxi1DICc
毛利輝元が折檻されるエピソードって本当ですか?
0098人間七七四年
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2021/10/17(日) 18:53:07.32ID:7/lhfdkL
>>97
すみませんが、ふざけないでください
0100人間七七四年
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2021/10/21(木) 16:14:26.25ID:vu/Oysxu
陶五郎長房は父入道(陶晴賢)を始め一門支葉、譜代恩顧の者までも芸州厳島に於いて
悉く討たれ(厳島の戦い)、また倉掛、沼の両城も没落したと聞いて、周防国都濃郡富田の
富田若山城に閉じ籠もるより術なく在ったが、これを聞いて毛利元就父子は、宍戸隆家、
小早川隆景は直ぐに富田表へ打ち出て若山城を囲んだ。

この時大内累代の臣である杉伯耆守重矩の二人の子、杉弾正重輔、同七郎正重は、去る天文の頃
父重矩が陶晴賢に殺されて以来、時節を以て親の仇を討つために豊前国箕島に在り、恨みを防州の雲に馳せ、
憤りを箕島の浪に漂わせ、時を窺い日を移していた所に、陶入道は厳島に於いて一族もろとも討たれ、
五郎長房も若山の城に籠もっているが、日を移さずそこも落城するだろうと聞き、杉兄弟は

「主君の讐、親の敵である晴賢を討てなかった事は心外であり口惜しい。剰え五郎に矢の一筋も射掛け
なければ天の咎もいかがであろうか。生前の面目、死後の恥、永々以て免れない。片時でも早く
打ち渡り、胸中の恨みを散じなければ。」

と、兄弟打ち連れて走るその様子は韋駄天の如くであった。すると前代報恩の者たちがここそこより
集まり、その勢百ばかりに成って、弘治三年(1557)二月二十二日、若山に駆け付け見ると、
若山城は毛利勢が取り囲み、旗幟が並んでいた。そこで杉兄弟は搦手へ廻ると、城中よりこれを見て、
彼等は下口より敵が来るとは考えていなかったため、この勢は必定大内義長からの加勢であると思い、
門を開けて彼等を入れた。杉兄弟は自身で謀る事を成さずに、安々と城に入ると、城中より切って出ると、
城を取り囲んでいた毛利勢は、城中に返り忠の者が出たのだと思い、我先にと乗り込むと、即時に城は
乘り落とされた。

五郎長房は山口に落ちようとして、徳地の庄まで落ちた所で、この地は吉見正親の領地であり、
郷民たちは蜂起して彼を通さず、よって徳地に於いて害された。こうして陶一族は根を絶ち葉を枯らした。
君を弑した悪逆の因果、不昧は臣たる者の咎である。

(宍戸記)
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