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戦国ちょっと悪い話49

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0101人間七七四年
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2021/10/25(月) 16:28:47.23ID:1KOF0XaZ
尼子の家は宇多源氏佐々木の一流、塩冶判官高貞五代の後胤である。塩冶高貞が讒死した時、三歳の
幼子が有り、八幡太郎と言ったが彼は母親の元から出され、密かに養育し、この時尼の弟子と成して
命を助け、その後出雲国に入り月山富田城に住し、やがて子孫が出雲、伯耆、因幡、石見、隠岐の五ヶ国を
領した。

尼の子と成って以来、家が再興された事により、氏を改め尼子と名乗り、この由緒を忘れない事を示した。
尼子家は山陰道の守護職に補任され、武威を他国に振るい、それだけではなく旗を山陽に動かし
備後、備中、安芸の大半に鉾先を傾け、関西に於いては大内尼子の両家に肩を並べる者は無かったが、
右衛門督晴久の代に至って逸遊を好み、治国撫民の徳を失い、蒙昧にしてそれまで親しかった者たちを
遠ざけ、他人を近づけ、君臣共に奢侈となり、花車風流のみにふけり、武道を忘れ文を試みず、
忠臣は志が齟齬する事で身を奉って退き、又は讒言に遭って死んだ。そのようであったので分国も
日々に侵食され、遂に家を失った。

嗚呼、尼子を滅ぼす者は尼子であった。元就には非ざる也。

(宍戸記)

尼子氏は近江国甲良荘尼子郷が名字の地とされていますが、先祖が尼に育てられたから尼子、という
話もあったのですね。
0102人間七七四年
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2021/10/27(水) 19:26:39.86ID:+Gpuuju2
「大友興廃記」より
臼杵鑑速、聴好(あきよし)を誅すること

永禄11年4月上旬、佐賀関に28歳位の禿(かむろ)が来た。
髪は長く、容姿端麗、変わった身なりだったためどこかの公家殿の上人ではないかと噂された。
男は学識豊かであったため、春日神人という富貴の巫女が興味を持ち男を住まわせ、神道や歌道や源氏・伊勢について講義させた。
巫女が男に素性を尋ねたところ「聴好(あきよし)」とだけ言った。
しばしば行方をくらましては数日後にやってくるため周りも怪しんだが、沈香・麝香の香りをたたえ、憂いを含んだ眼差しをしているため不信は消えてしまった。
佐賀関の代官からこの男の話を聞いた臼杵鑑速は
「近頃、大内義隆の領地を継いだ毛利元就が九州にも手を伸ばそうとしていると聞く。
もしかすると容姿端麗な者を間者として潜入させ、宗麟公に取り入ろうとしているのではないか?
早々にこの者を誅すべきである!」
と疋田次郎左衛門尉に申し付けた。
疋田は理由を知らせず殺すのもかわいそうだと思い「太守(宗麟)の命令で誅伐する」と述べたところ
聴好はおどろかず「理由は知らぬが太守の命令であれば仕方ない」
と「朝ニハ紅顔アリテ夕ニハ白骨トナレル身ナリ」というような内容の詩を書き、
「本望を達せられなかったか」と髪をほどき、首を疋田に差し出したため、疋田は仕方なく首を刎ねた。
周りのもので涙を流さぬものはいなかった。
本望というのはおそらく宗麟公に近づき籠絡する計略だろう。鑑速は思慮深いことであった。
その後、聴好は祟り神となり近隣を悩ませたため、春日神人は聴好の宮を立てて崇め奉った。

※九州研究会の秋好政寿氏による翻訳のまとめ
0103人間七七四年
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2021/10/30(土) 16:16:27.50ID:tQVtBhVS
天文9年(1540)、近年元就朝臣(毛利元就)には尼子民部大輔晴久に様々憤る事があると
大内義隆と陶入道道麒(興房)は聞き及び、棹させば流されると喜んで、
「大内の幕下に属されれば、これからは水魚の思いをなし申さん」と厚く礼和を言って申し越された。

元就朝臣はいかが思いなされたのかやがて了承し、
芸州にいた尼子一味の侍どもの城を一時攻めに5ヶ所乗り崩し、晴久と手切れの色を立てなさる。
これにより晴久は吉田へ発向の旨を評議し、祖父経久(尼子経久)へも聞かせ申してこその事と思い、
しかじかの由を申された。
これに経久は「吉田出張の儀は無益である。まず石備両国を従えて国人どもの人質を取り堅め、
深固の利をもっぱらとしてその後に吉田へも出張するべきだ」と理を尽くして申された。

しかし晴久は、経久は老耄なされたので「御意見至理に存じ候」と謹んで申されながらも
内心では「臆したる仰せかな」と思い、ひたすら吉田へ出張の用意をするのみであった。

(中略。以下吉田郡山城の戦いの時)

吉田勢(毛利勢)はようやく3千に過ぎないため、城中の女童下部までことごとく堀際へ差し出て
竹の先や棒の先に箔紙を付け、あるいは金銀の扇子などを結い付け持たせて置きなさった。

宮崎では吉田勢が向かうと見て、一陣に控える高尾豊前守2千余騎(尼子勢)は柵際まで出て待ち受けた。
吉田勢が少しも臆さず攻め近づき柵を押し破り切り入ると、出雲勢もここを先途と防戦するも、
ついに叶わず左右の谷へ引き退き、二陣に続く黒正甚兵衛尉の1千5百余騎が渡し合って防戦した。
一方で陶、杉、内藤の宮崎の陣(大内勢)は、「元就は容易く勝利を得られることだろう。
それならば本陣の晴久と一戦するぞ!」と、2万余騎を三段に分けて青山猪山へ押し寄せた。

尼子下野守(久幸)は思慮深き侍で、必勝の見切り無くしては危うき合戦を慎んだので、
世人は“尼子比丘尼(臆病野州とも)”と言った。この人は何と無く、怒る様子もなかったのだが、
心深い憤りがあったのか居丈高になって言われるには、
「今日の戦はこれ以上ない程の味方の大事だ。何にせよ1人踏み止まって討死しなければ、
晴久の御開陣も成り難い。内々に口武辺なさっている人々は一手際のところである!誰か彼か!」

だが答える者は1人としていなかった。その時に下野は雑言吐散し、
「尼子比丘尼は今日の討死なり!御免あれ!」と打ち立ち、手勢5百余騎程が青三猪ヶ坂へ掛け出ると、
河添美作、本田豊前、已下下野に励まされ我先にと進み出た。

そうして陶の先手深野平左衛門尉、宮川善左衛門、末富志摩守2千余騎と入り乱れて戦い、
山上へ追い上がる時もあり、周防勢が追い下され三日市まで引く時もあり、終日隙間なく攻め合えば、
陶の先手の深野と宮川は討たれ、末富は深手を負ってやがて下人に助けられ味方の陣に入った。

元就朝臣の家人中原善左衛門は宮崎からどのようにして来たのか陶の手にいたのだが、
尼子下野に渡し合って大雁股を野州の眉の外れに射込み、馬から落ちるところを走り掛かって
首を取ろうとした。野州の同朋は主の首を探させまいと前に進み打って掛かるが、
中原は物の数ともせずに一太刀で打ち捨てた。しかし、その隙に下野の死骸を若党どもが
肩に掛けて味方の陣に逃げ入ったので中原は思う首を取れず、同朋の首だけを討って帰った。

――『安西軍策』

安西軍策は江戸初期成立の軍記物で陰徳記の原資料といわれる
臆病野州は前段で吉田出陣に反対した久幸を晴久が臆病と罵倒したことに由来するとされるが
尼子比丘尼は世人の評由来で、晴久が臆していると思ったのは経久になっている
0104人間七七四年
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2021/10/30(土) 20:02:55.69ID:yReS1zpI
>>102
今更ながら訂正
28歳くらいの→二八(16歳)くらいの
九州研究会→九州歴史研究会

また大正14年刊行の山田宇吉「佐賀関史」にも同じ話が書かれており、そこでは聴好の正体は長門国美祢郡秋吉の領主、秋吉清忠の嫡男秋吉左門という、毛利元就の近侍の士で
聴好(あきよし)は秋吉と同音の字を使った変名だったようだ、と書かれていた
ついでに「大友興廃記」の原文見たら春日神人は「いとわかき女房」と書かれてたから聴好も巫女も想像より10は若かった
0105人間七七四年
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2021/10/31(日) 14:07:43.95ID:HDlBXV01
天文の初めに細川晴元は王畿の兵制を定め将に命じた。まず三好筑前守長慶は河州にあって八幡表の先鋒とし、
三好入道宗三(政長)は摂州にあって山崎表の先鋒とした。これは京都に事あれば両口より攻め上り、
左右相救して功をなすためである。晴元はその権を執り中之島の城にあった。

ところで長慶の父海雲(三好元長)と同族宗三は権を争い常に不仲で、故に海雲が堺で一揆のために死亡したのも
宗三のなした事と思われていた。長慶は今また、宗三を退けて泉州河州摂州を共に自ら権を取らんとする。
しかし晴元はこれを許さず宗三と同意した。長慶は人を遣わし説いて曰く、

「我が祖が代々戦場に屍を晒したのも、わたくしの事ではありません。すべて公儀のために忠を尽くしたのです。
加えて管領澄元(細川澄元)が卒しなされて御家は滅亡なさるはずを、我が父元長入道海雲は甲斐甲斐しく
晴元を13歳になられた時に取り立て主君とし、高国(細川高国)と戦って勝ち、澄元没後の御憤を散じさせて
晴元に会稽の恥を雪がせました。

宗三は我が一族ではありますが、阿波の好みを捨て高国を輔佐して当家を滅ぼさんとしました。
その暴悪の逆徒なのですから、例え一命を御助けになることはあっても何故家臣となして国政を司らせるべきでしょうか。
これはただ、晴元が理に暗く海雲の忠を御忘れになっているのです。

私は不肖であるとも宗三の積悪を征して亡父海雲の憤りを晴らすことを望みます。
私は晴元に対して忠を忘れてはおりませんが、晴元がもし宗三に力を合わせて同意なさるならば容赦はしません。
これはまったく私の罪ではありません」

晴元はこれを聞かずに宗三と同意して長慶を敵とし、讃州に触れて軍勢を召した。讃州の諸将は議して曰く、
「晴元がもし長慶に同意されたならば事は行われるだろう。宗三に同意して長慶を敵になされたならば、
石を抱えて淵に入るようなものだ。宗三は武功があるとはいえ、大事をなすには不足である」

諸将は事を左右に寄せて遅参した。植田氏は十河一存と同意し、寒川氏も近年三好家に恩があり晴元の催促に従わない。
安富氏は去る12年11月に公儀のために淡州で死にその後は軍用に欠乏し郎従は不足して出ず、
香川氏は老衰により兵衆を出すと言いながら事寄せてこれを果たさず、各々時勢を考えて上洛する者はいなかった。

――『南海通記』

こんな直球で言ったらそりゃ絶縁だよねっていう
三好政長が細川高国を輔佐した事実はないのでそこは差し引かないといけない内容だが
0106人間七七四年
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2021/11/03(水) 04:25:21.24ID:a8wD2Kb1
読んだ史料の紹介もいいんだけど
もうちょっとこれは面白いってところで絞りこんで書いてもらえないかな
なんでもかんでも、テーマなく書かれても困る
0107人間七七四年
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2021/11/03(水) 04:58:34.22ID:3sL6nBxP
良い話悪い話スレじゃなくて史料を転載するスレになったな
0108人間七七四年
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2021/11/03(水) 05:08:48.93ID:a8wD2Kb1
>>107
うん
一応、何本かここに投下した人間として指摘させてもらった
0110人間七七四年
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2021/11/03(水) 09:42:55.24ID:CzQuy7Ia
松前藩の家史「新羅之記録」から武田信広と息子の蠣崎光広について

松前当家の家祖である鎮狄大将武田彦太郎若狭守新羅氏信広朝臣について
若狭守護の武田伊豆守信繁朝臣には三人の嫡男がいたが、長男信栄は子がないまま世を去ったため
次男の信賢が家督を継ぎ、信賢の一子・信広を弟の国信の養子として次々代の家督を継がせようとしたが、
信広は大力強盛で性格が荒々しかったため、信賢と国信は信広を義絶し、殺害しようと図った。
家老数名が哀れに思い、家来をつけて宝徳三年(1451年)三月二十八日、信広二十一の時に若狭を出奔させた。
奥州田名郡を知行する蠣崎李繁は武田信繁の親族であったが、過ちを犯し出奔。商船で当国に来て安日(安東)政季の婿となっていたため、そこに身を寄せた。
政季は十三湊の安東盛季の傍系であったが、本家が南部氏との戦で敗れたため安東氏を継ぎ、
もともと安東氏の領地であった狄之島(北海道)に向けて武田信広らを従えて康正二年(1456)八月二十八日に出航した。
長禄元年(1457年)五月十四日(康正から長禄への改元は九月)、狄之島の夷狄が蜂起し、安東氏配下の
志濃里之館、箱館、中野館、脇本館、穏内郡館、覃部館、松前(大館)、禰保田館、原口館、比石館、花澤館を襲ってきた。
蠣崎季繁は城を守り、武田信広は総大将となって夷狄の酋長・胡奢魔犬(コシャマイン)父子二人を射殺し、斬り殺すこと多数、凶賊を悉く敗北させた。
武田信広は戦功を賞され、男子のいなかった蠣崎季繁の婿となり家督を継ぎ、天河の洲崎之館に居住した。
館を建立した時、西海のはるか沖に夜間光るものが見え、調べたところ藻屑にまみれた毘沙門天像であった。
明応三年(1494年)五月二十日、六十四歳で逝去。
0111人間七七四年
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2021/11/03(水) 09:44:04.37ID:CzQuy7Ia
蠣崎光広について

永正十二年(1515年)夷賊徒がふたたび蜂起。
光広は計略をなし、客殿に夷賊の酋長・庶野(ショヤ)、訇峙(コウジ)たち大勢を招き入れ
一日中、酒で歓待し、宝物を披露したため、賊徒は酒に酔い宝物をもてあそびだした。
この隙をつき、女たちに音曲を奏でさせ、音に紛れて、部下たちに鎧を装備させ
いきなり数名で客殿に乱入し、光広も太刀をとり酋長二人を斬殺した。
この刀は信広から受け継いだものであり当家の重宝となっている。
大勢の夷狄を一人も漏らさず討ち取り、夷どもの死骸を埋め、夷塚と名付けた。
その後、夷狄が敵対するごとに、この塚から鬨の声が上がるようになったということだ。
0112人間七七四年
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2021/11/03(水) 10:57:12.05ID:i7qCQ2S/
昔から史料紹介して駄弁るスレだったから変に拘らなくていいよ
興味ない話は読まないし
0113人間七七四年
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2021/11/03(水) 14:05:01.96ID:zeegsZuY
面白い人が面白いことをする

面白いから凡人が集まってくる

住み着いた凡人が居場所を守るために主張し始める

面白い人が見切りをつけて居なくなる

残った凡人が面白くないことをする
0115人間七七四年
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2021/11/03(水) 14:20:22.31ID:YPj8AzDr
気にしないでもっと投稿してくれ。何言われようが俺は読んでいるから。
0116人間七七四年
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2021/11/03(水) 15:39:23.15ID:WGjLkfyU
荒らしたいのが目立ってる投稿してる人を標的にしてるだけだから気にするだけ無駄よ
スレをより楽しくしようじゃなく、スレを荒らしてまともな人いなくさせようが目的だから
0117人間七七四年
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2021/11/04(木) 13:47:37.36ID:jq1ktg+S
今読んでる史料を訳して投下するスレなら
いい/悪いに分かれてる意味無いから統合したら?
読んでるはずなのに感想もないような「読んでる人」「まともな人」は
掲示板においてはいないも同じだぜ
0119人間七七四年
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2021/11/04(木) 19:04:58.26ID:5XO+gxv1
「新羅之記録」から蠣崎良広、蠣崎季広について
(それぞれ悪い話といい話だけど同じスレに書く)

蠣崎良広(光広の子)
享禄二年(1529年)三月二十六日、狄が和喜之館を攻めてきたため、良広は和睦をすると言って多くの財物を館から離れた平地に置いた。
狄の酋長・多那嶮(タナサガシ)が財物を受け取ろうとしたところ、矢倉から放たれた矢が百余間超えて酋長の胸板に命中し絶命。
これを見た数百の狄が逃げ出したため、館から打って出、悉く討ち取った。
この前後、夜間の風雨に紛れて狄忍が館をうかがうことが数度あったが、
そのたび良広は柵越しに怪しいところを槍で突いたり、足音が聞こえる方角を射たりした。
どちらも翌朝その辺りを探ってみると、絶命している狄忍が見つかった。
天文五年(1536年)六月二十三日、多離困那(タリコナ)という狄と和睦し、得意(アイヌ語でもtokuy=親友、日本語由来)となり酒でもてなした。
酒が回ったところでタリコナ夫妻を一太刀で斬殺した。
妻の方は先に討った酋長・タナサガシの娘であり、父の仇討ちのために数年経略を巡らせていたからである。
これにより国内の東西は安全となった。
0120人間七七四年
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2021/11/04(木) 19:06:28.50ID:5XO+gxv1
蠣崎季広(良広の子)

夷狄が喜ぶ宝物を与え、懇切に喜ばせたため夷狄から神位得意(カムイ・トクイ)と呼ばれ敬慕され、国内はおさまった。
天文十九年(1550年)六月二十三日、檜山の屋形・安東尋季の嫡男である安東舜季がこの国を見ようといらっしゃった。
いわゆる「東公の島渡り」である。
この時、舜季の二男の茂季や、津軽の喜庭伊勢守秀信(小笠原信浄?)との縁組みがなされた。
こうして近国に威勢が振るい、遠国にまで家名が知れ渡った。
また勢田内(セタナイ)の波志多犬(ハシタイヌ)を西夷の尹(統治者)、志利内(シリナイ)の知蒋多犬(チコモタイヌ)を東夷の尹となし、
「夷狄の商舶往還の法度」を定め、船舶での利益を両酋長に配分することにした。
なお光広によるショヤ・コウジ討伐の際の夷塚だが、季広の代になって鳴動することは無くなった。
(光広のところの記事だがわかりやすくするためにこちらで記載)
0121人間七七四年
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2021/11/04(木) 19:13:03.07ID:5XO+gxv1
以下私見

wikiだと「新羅之記録」出典で安東舜季が「夷狄の商舶往還の法度」の立ち会いをしたことになってるようだけど、少なくともこの箇所では不明。
祖父の光広や父親の良広のやり口を考えたら、蠣崎氏の主君である安東氏の人間が立ち会わないとアイヌも信用しなかったのかもしれない。
ついでに「新羅之記録」では蠣崎氏はもちろん神武天皇→清和天皇→新羅三郎義光→武田氏の流れであり、
安東氏は神武天皇に敵対した安日長髄(長髄彦、安日は長髄彦の弟という説もあるが本書では同一人物としている)の子孫とされている。
安東氏が蠣崎氏のアイヌへのたびかさなる騙し討ちを見て、
宴会の最中に土蜘蛛を騙し討ちにした神武天皇のことを思ったかどうかは知らない。
現在だと「古事記」といい「新羅之記録」といいわざわざ家名に傷つくことを遺さなくても、と思うが
0122人間七七四年
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2021/11/04(木) 19:31:18.48ID:hkhLJ2gv
ここ、史料を挙げるスレでも研究スレでも無いんだよね
そういう事をするならばそういうスレを立てるなり統合なりするべきだ
過疎るよりマシというがスレが過疎るなりスレ違いの話題しかないならば
そのスレはもう役目を終えたって事だ
0123人間七七四年
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2021/11/04(木) 19:52:17.41ID:BvXS4BxP
ならおまえは何スレだと思ってんだ、そんな縛りはない
0124人間七七四年
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2021/11/04(木) 21:35:14.70ID:cpE6cVmh
スレが役割を終えたと判断したなら自分が去ればいいだけの話
赤の他人に指図とか何様のつもりか?
0125人間七七四年
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2021/11/04(木) 22:30:28.48ID:hkhLJ2gv
>>123
妙な話だな…歴史の話は読めるのにスレタイは読めないんだから

>>124
スレ違いを指摘したら指図扱いですか
人に何かを言われるのが心底嫌いなタイプなのかな
0126人間七七四年
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2021/11/04(木) 22:37:22.70ID:cpE6cVmh
まだいるのか
頭いい僕ちゃんの言うことをどうして皆聞かないのか
一生理解できないだろうし理解する気もなかろうな
消えなクズ
0127人間七七四年
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2021/11/04(木) 22:42:02.78ID:hkhLJ2gv
自分のレスにレス付けて来たから返したら
まだいるのか呼ばわりとはたまげたなぁ
おまけに一々口汚い物言いだし物言いが気に入らなくて文句を言うにしろ
もうちょっと品性はないものかね
0128人間七七四年
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2021/11/04(木) 22:48:43.37ID:cpE6cVmh
一個人に実害を及ぼすはずもないスレの存続が気に入らないなんてのは
大方スレの趣旨に反する創作投稿でも窘められて逆恨みしている奴だろう
スレタイもテンプレも読めないバカに限ってプライドだけは一人前だから質が悪い
0129人間七七四年
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2021/11/04(木) 22:50:36.68ID:cpE6cVmh
品性とかどの口が言うか、アホウが
0130人間七七四年
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2021/11/04(木) 22:53:28.46ID:hkhLJ2gv
創作投稿なんてしたこと無いですけどね
仮想の出来事を作り出して相手を攻撃するのって
危ない傾向の第一歩ですよ
しかしご指摘の中で私がテンプレも読めないというのは事実なんですが
このスレのテンプレって何処にあるんですかね?見当たらないんですが
見えないものが見えちゃう能力をお持ちの方?
0131人間七七四年
垢版 |
2021/11/04(木) 22:59:39.13ID:bNMd5sQq
>>121
> わざわざ家名に傷つくことを

土蜘蛛の件にせよ兄宇迦斯の件にせよ、
その手の騙し討ちを卑劣な行為、恥ずべき悪行とするのは武士の倫理、それも多分に江戸時代のそれだろう。
伊波礼毘古の戦った時代、その伝説が語り継がれた時代、そして『古事記』が編纂された時代、
その頃に果たして武士同様の倫理観があったかどうか。
0132人間七七四年
垢版 |
2021/11/04(木) 23:13:32.65ID:BvXS4BxP
>>130
ばかじゃねえの、お前が勝手にテンプレつくろうしてんじゃん。
0133人間七七四年
垢版 |
2021/11/04(木) 23:57:34.48ID:jq1ktg+S
この2週間投下された内容についてレスしてるのが>>131だけ
読んでる、楽しみしてる人たちが積極的に盛り上がればいいのよ
そうすれば自治論争なんて蛙の面にションベン
0134人間七七四年
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2021/11/05(金) 01:01:07.87ID:rd0Nuwmb
或る本に、文禄五年(1596)閏七月十三日の慶長伏見地震によって方広寺の大仏が破壊した時、
豊臣秀吉公は「仏の知見を以てしても、そも身の破壊を知らざるは信ずるに足らず!」
と宣われ、壊れた大仏像に向かって矢を射られ、そして信州善光寺の如来を大仏殿の本尊とされた。

そのようなある時、残暑甚だしい年があったが、俄に吹雪が天に満ち、甚だしい寒気が人々を襲った。
「これは如来の祟りである」とされ、慶長三年八月十七日(秀吉公薨去の前日である)善光寺へ、
その本尊を送り返したという。

(越後の人曰く、善光寺の正真の一寸八分の黄金仏は、現在羽州米沢に在り、毎月一日に開帳されているという。
これに限らず、上杉景勝卿は会津への国替えの時、彌彦明神の神宝、その他領国に在る旧物等を悉く
彼の国に引き取られらと言う。)

(新東鑑)

秀吉が方広寺の大仏の代わりに本尊として善光寺の如来を取り寄せた話の顛末
0135人間七七四年
垢版 |
2021/11/05(金) 10:33:36.82ID:kidI51+i
http://www.houon.org/houonji/houmotsu.html
米沢法音寺公式サイト

天文二十(1551)年、川中島の戦いの折、信州中野城主高梨政頼は戦国の兵火を避けるため、
信濃善光寺のご本尊を上杉謙信公に奉じた。謙信公は春日山に如来堂を建ててご本尊を懇ろに
奉祀するとともに深く尊信し、厳重に守護した。
慶長六(1601)年、上杉家の国替えに伴い、善光寺如来尊も米沢に移され、景勝公は米沢城本丸の東南隅に
藩祖謙信公を祀る御堂を建て、御堂本殿の中央に謙信公のご尊骸を、右に善光寺如来尊、
左に泥足毘沙門天尊を安置し、さらに、二ノ丸に御堂に勤仕する真言宗二十一ヶ寺を建立して、
守護の掟頗る厳重にして、その供養勤行は丁寧を極め代々奉祀された。
明治に入り、法音寺が歴代藩主御廟所のある現在地に移転し、明治九年本丸の御堂が解体されて
謙信公のご遺骸が歴代御廟所中央の現在地に遷座された際、善光寺如来尊、泥足毘沙門天尊は
当寺に移され奉安された。
0136人間七七四年
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2021/11/05(金) 10:46:28.92ID:kidI51+i
謙信公は現在は上杉神社のご祭神として神式のお祀りですが、江戸時代は三尊形式で脇侍を従えた仏様だったと
0137人間七七四年
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2021/11/05(金) 13:47:00.77ID:Vs68b8gw
ID:cpE6cVmh
批判の中身は勝手な決めつけと思い込みで、使う言葉は汚い
学がないよ
0138人間七七四年
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2021/11/05(金) 14:04:16.07ID:/7F8548Y
相手の口が荒くなるほど怒らせるまで何度も同じようなこと言って、ついに荒くなったらそこだけ取り沙汰して悪人に仕立て上げようとする人っているよね
0139人間七七四年
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2021/11/05(金) 14:13:12.16ID:7TzE4MpB
奥多摩銘菓へそまんじう由来記

古来へそは大切なものながら世人之れを茶目でユーモアな存在としているが、体の中央に悠然と構へ、その形も千差万別で、満月型あり、月見型あり、谷見型、藪にらみ型、稀には出臍等愉快なのがあれ共、フックラとした月見型を最も可とすると古書に見えたり。
心のひねくれしを臍曲りと例え、可笑しきときは臍が茶を沸すとか臍の宿替とか申し、又、昔漢の項羽が山をも抜く力も、へそごまをとりて力忽ち衰へたりといふ。ゆめゆめへそごまはとるべからず。
抑々弊舗特選のへそまんじうは、その昔永禄6年、当地より程近き辛垣城に構える三田弾正綱秀を小田原の北条左京太夫氏康と其の子滝山城主北条陸奥守氏照父子が昼夜を分たず攻め立てしが、中々落城せず偶々折柄の大雷雨中を隣峰その名寄しらむ雷電山口より攻め込んだ豪勇無双の十勇士により、さすが難攻不落の辛垣城も陥落したるが、この十勇士が当時この附近の茶店で購った兵糧のまんじうを腹巻に包んでおいた所、不思議や全部このまんじうの型に変り大雷雨に臍も取られず、然も勇猛果敢な働きに澤山の恩賞を授けられしとか。
依ってこのへそまんじうを常に賞味し、臍下丹田に力を入れて世に處するなら必ずその成功疑ふ可からず。

秩父多摩国立神代吊橋畔 登録商標へそまんじう本舗 主人敬白
0140人間七七四年
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2021/11/05(金) 14:21:03.44ID:POVyYTYg
「まんぢゅう」「まんぢう」ではないのか
0141人間七七四年
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2021/11/05(金) 14:23:37.85ID:/7F8548Y
北条の十勇士って誰だったんだろ
0142人間七七四年
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2021/11/05(金) 16:38:47.09ID:510z2f6l
多田満仲「嘘つけ、ただのまんじゅうだろ」
0145人間七七四年
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2021/11/05(金) 19:42:38.45ID:7TzE4MpB
>>142
審議中AA略。
0146人間七七四年
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2021/11/06(土) 03:31:54.37ID:gvVzScEM
タダノマンジュウダッテ ヒソヒソ
    ∧,,∧  ∧,,∧す
 ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U (  ´・) (・`  ) と ノ
 u-u (l    ) (   ノu-u
     `u-u'. `u-u'
0147人間七七四年
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2021/11/07(日) 00:09:16.84ID:gNLIs54R
「博多細伝実録」という黒田騒動や福岡藩内の怪奇現象など、おもに江戸前期から中期の話が載っている本から
千利休の切腹後くらいに、黒田長政が博多の街を馬で移動していると、
長政の姿を認めているにもかかわらず、両足を通りに突き出して仰向けになっている町人がいた。
長政が馬上から小姓に「あの町人めの足は売り物か聞いてまいれ」
と言ったため、小姓が町人に聞くと
町人「ああ売り物さ、値段だと?そうだな、片足百両、両足で二百両で売ってやるよ」と答えた。
長政は懐中から金三両を出し、
「あいにく今はこれだけしかないから手付金にして、残金は後でやるぞ」
と町人の両足を忽ち切ってしまった。
残金で町人が死んだ後の法事をさせたということだ。
0148人間七七四年
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2021/11/07(日) 01:56:50.17ID:5V3KtrSW
伊勢宗瑞(所謂「北條早雲」)と馬泥棒の噺は近代以後の小説等に引かれているが、出典が見つからない。
知識有る人の御教示を乞う。
0149人間七七四年
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2021/11/07(日) 04:27:34.94ID:xchxD/z8
関ヶ原前に黒田が領主の前提で話ができてるもんなそれだと
とりあえず漫画読みだと花の慶次だよねそのエピソード(切ってないけど)
0150人間七七四年
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2021/11/07(日) 07:39:58.22ID:gNLIs54R
>>148
「名将言行録」を出典扱いするのは気をひけるけどとりあえず
「一年、小田原にて馬盗人を捕らへて、之を長氏(北条早雲)の前に出だす。
其賊曰く、某(それがし)馬を盗みしことは定まりなり、
あの国を盗みたる人は如何に、と長氏を指さす。
長氏、之を見て器量ある奴なり、と言て之を免るせり。」
アウグスティヌス「神の国」のアレクサンドロス大王と海賊の逸話とか似たような話は各地であるけど
0151人間七七四年
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2021/11/07(日) 09:25:03.53ID:LMp8ggPI
文献上の初出としてはともかく、このスレなら名将言行録でいいじゃありませんか
逸話集としての取り上げ方では、書籍そのものの信憑性の良否は問題ないですし
0152148
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2021/11/07(日) 11:07:38.15ID:5V3KtrSW
>>150
ありがとうごさいます。
0153人間七七四年
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2021/11/07(日) 15:15:45.44ID:AjZrlMYF
去る慶長十七年の春、豊臣秀頼公の詰衆である津田出雲守、渡辺内蔵助(糺:此の頃は権兵衛と称すると)、
及び児小姓十人ばかりが、野田の藤の花を見に行った。終日酒宴沈酔して、或いは二、三人、或いは
四、五人づつ船を浮かべ、福島、海老江などに赴き逍遥した。
そのような中、林斎という盲人と出雲守が藤の辺りを遊観していた所に、薩摩のあぶれ者共六人、
刀の鐺(こじり:刀の鞘の末端)に小さな車を付けていたが、この辺りを徘徊していて出雲守と口論に及び、
この六人の者共は刀を抜いて切って懸かってきた、これに出雲守は十文字の鑓を取って野田の辺りまで
押し出したが、悪党たちもここで取って返しまた切懸った事で、出雲守は九ヶ所まで疵を被った。

林斎は盲人であったのでこれと戦うことは出来なかったが、浜辺に積み置いてあった割木を取って
隙間もなく悪党どもに投げ懸けた故に、悪党たちも少しく辟易して攻めあぐんでいた所に、渡辺内蔵助が
馳せ来て薙刀を以て敵三人に傷を負わせた。また出雲守の従者たちはこの時、野田近辺の在家に居たのだが、
これを聞きつるとようやくに走り来て、主の出雲守を助け出し帰宿したが、その疵が平癒せず終に死去した。

同十八年の春、大阪城内の秀頼公の寝殿と蘇鉄の間の中間、柳の間に於いて、田屋式部という者、予てより
詰合衆饗庭備後守に宿意あって殺害した。これによって営中大いに騒動して、検議の上式部には
切腹が仰せ付けられた、

またその後、渡辺内蔵助は私用あって天王寺辺りまで行った所に、その頃名に聞こえた関東の荊組という
あぶれ者の集団がここに徘徊しており、渡辺と闘争に及んだ。渡辺は奮撃して悪党どもを追い払うことは
追い払ったが、自身も這々の体で大阪へと帰った。またその砌、内藤新十郎玄忠、その他少禄の輩たちが、
生玉の社内に於いてこれも荊組と口論して刃傷に及び疵を被って帰ってきた。

去年に渡辺が野田の藤見で闘争したことから始まり、今日内藤等が喧嘩をしたのも、皆大阪城から
西南の方向であったため、大阪衆はこの方角で合戦をして敗亡するという兆しではないかと囁きあった。

このような所に、同十九年二月四日、彗星が東より出た。この時朝鮮の浪客であった李文長という者に、
焦氏易林(漢代に成立した中国最古の術数書の一種)を以て占わせた所、
『人面九口長舌為斧、劉破瑚l殷絶後』という辞に当たった。また曰く
「『集兵争強、失其貞良敗我殺卿』という辞あり。大いに凶なり」と申すにより、秀頼卿は驚かれ、
近国の諸社寺にて祈祷を仰せ付けられた。諸人これを聞いて、唯事ではないと眉をひそめた。

(新東鑑)

薩摩やら関東やらのあぶれ者たちが彷徨きまくっていて、大阪周辺の治安が悪すぎるお話。
0154人間七七四年
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2021/11/07(日) 22:19:15.62ID:cyE0hjRp
自分のブログでやってくれよ
「私の読んだ史料たち」とか名付けて
アドレス書いてくれたらそれはそれで興味があるから読みにいくが、ここの趣旨とはずれてる
0156人間七七四年
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2021/11/07(日) 22:55:11.34ID:cyE0hjRp
>>155
ちょっと突っ込んで話すとだな、件の人はちょっと検索すれば同じネタが投稿されていると分かるのに書き込んだりするんだよ
下手すると少し前のレスにも同じ内容のがあったり
つまり、読んだものを機械的にここに記しているだけ
面白いところだけの要約もできない
よい話し、悪い話しも無関係
ある意味ではコピペ荒らしと同一だよ
0157人間七七四年
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2021/11/07(日) 23:17:49.07ID:gNLIs54R
初めの方の投稿は出典がないのが多かったから
既出でも出典を書いてくれるのはありがたい
投稿者の勝手な解釈で内容が歪曲されてないかを確かめられるし
0158人間七七四年
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2021/11/07(日) 23:25:10.50ID:BdiK2OeZ
スレが過疎るのがよく分かるレスだ
投稿者が読者に判り易く多少の脚色をしたり内容をかみ砕くのも
勝手な解釈の歪曲だみたいに取られたら投稿しようって人も減って当然だわな
0159人間七七四年
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2021/11/07(日) 23:26:24.58ID:cyE0hjRp
出典をちゃんと記して、無駄な脚色をしていないのは好感持てるんですけどね
ただ、私も史料読みますけどここに書くのはほんの一部です
これはここ向きだってのだけ見つけたら書きますし、書く前には同じ投稿がないか簡略ながら確認しますよ
0160人間七七四年
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2021/11/07(日) 23:31:15.16ID:cyE0hjRp
>>158
噛み砕くのはともかく、脚色はダメでしょうが
それはもう、ただでさえ史実性が怪しい逸話にさらに付け足して単なる二次創作
一線を越えている
0161人間七七四年
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2021/11/07(日) 23:51:50.56ID:BdiK2OeZ
AAや顔文字使った表現するのも脚色だと思うけどね
既に挙げられた最上義光や小田氏治なんか脚色まみれだ
そもそも大多数の逸話からして脚色が入ってるもんじゃないのか?
ちょっと上で出た名将言行録なんてその認識で言えばすでに二次創作では
0162人間七七四年
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2021/11/07(日) 23:58:17.88ID:xIGy4OdA
そうしてくれた方がありがたい、みたいな要望にまで噛みつく方がよほどスレの過疎に貢献してらっしゃるだろう
ちょくちょくいるが、こういう要望ですってのをまるで強制してる!みたいに言い出すのは普通に性格悪いよ
0163人間七七四年
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2021/11/07(日) 23:59:27.09ID:cyE0hjRp
>>161
名将が嘘ばかりなんて誰でも分かるじゃないですか
それをストレートに出典示して書くのはこことしてはありでしょう
そういう人たちは気持ち悪いが面白いところをより引き立てようという努力は感じる
読んだものをそのまま書き付けるのよりは少なくともサービス精神はある
0164157
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2021/11/08(月) 00:05:37.91ID:XUiLE0lA
勝手な解釈で、云々は自分が誤訳することが何度かあったので自戒も込めてのレスでした
たしかに反発を買うような言葉だったので反省します
0165人間七七四年
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2021/11/08(月) 00:14:11.10ID:nXwleecL
>>163
うん、じゃあまずあなたからサービス精神に溢れたレスをしてくれないかな
0166人間七七四年
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2021/11/08(月) 00:22:54.81ID:kqu81lnJ
>>165
ここでそこそこ話題になる史料書いてるから
暇なときに
その経験から言って、ここに書き込もうなんて思える史料は読んだものの十分の一以下だよ
たらたら垂れ流すだけなら誰でもできるんだわ
多少の知識があれば
それすらないのが批判してるようだな
0167人間七七四年
垢版 |
2021/11/08(月) 16:43:00.79ID:VPtiyG+d
>>153
個人的には饗庭備後守という人物に驚いた。ちょうど「室町幕府奉公衆饗庭氏の基礎的研究」という論文読んでたところなので。
尊氏の寵童饗場命鶴丸を中興に諸国に所領や将軍料所代官を得た饗場氏も、最後に残った丹羽の所領も明智光秀に奪われて歴史史料からは姿を消す、という話だったが。大阪状に潜り込んだ一族もいたのかな?
0168人間七七四年
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2021/11/09(火) 16:11:00.39ID:48k5m+l/
慶長十九年(1614)二月五日申刻(午後四時頃)、大阪城の天守より黒気が龍の如く立ち上って矢倉に漂った。
殿中の人々はこれを知らなかったが、城外より見つけて、天守が焼けていると諸人周章し騒いで馳せ集まった。
これに城中の諸士も騒ぎ立って、人を天守に上らせてみた所、黒雲が漂っているのみにて異事は無かった。

黒気の立ち上る事は未詳であるが、或る本に。二月五日に大阪城の天守より羽蟻多く飛び去り、四月二日の
夕日の色は銅の如く、三日朝焼けの色が銅の如し、六日霰降りて寒天の如しと云う。

また叡山に一つの不思議が有った。学林房の奴である次郎が、天狗に掴まれ行方知れずになり、十日過ぎて
かの次郎は帰ってきた。そして彼は

「私はこの間、当山の次郎坊の使者として、愛宕山の太郎坊、上野の妙喜法印、鞍馬山の僧正坊、彦山の
豊前坊、大山の伯耆坊などが叡山に参集されるべきという内容の触れを届けた。即ち天狗たち各々が
集われる。」

と言ったため、皆不思議に思い八王寺の三宮に参詣してこれを見ると、天俄に曇り、甚雨疾風して大霰が降り、
その後に奴の次郎が三宮の社壇の棟に飛び上がり、そのまま落ちたが軒端に於いて起き上がり、その後は
足を揚げたり立ったりした。その他同類の者共大勢が、社の上において色々の不思議を成し、
扇を以て歌舞を行う仕草をした。また三社の扉で、尋常では二、三十人も無ければ持てないものを、
一町(約109メートル)ほどづつも投げたり上げたりした。然れどもこの扉は聊かも損じず、ただ虚空より
大礫を数多打たれたという。

或る記に、この事はこの年□月二十二日(或いは二日)、叡山南光坊の天海が駿府に来て申し上げたという。

またこの年、伊勢踊りと名付けて、庶民衣服を飾り、練絹を竹竿にかけて唱謡し踊った。
伊勢より始まって都鄙殆どで行われ、遂にこの踊りは遠州、駿州に及んだ。そして伊勢太神宮より
飛来し給うといって、幣帛を道路に飾り、これを集い見る人市の如くであった。
家康公はこれを聞き召され、巫蠱不詳の事は王者の禁ずる所なりと、堅くこれを制された事で、
伊勢踊りは止んだ。
この後、果たして大阪の乱があった、古より民の訛言、時の童謡が史書に掲載されているものだが、
この時のことも亦奇である。

或る記に、慶長十八年九月より十月に至り、畿内近国で神踊を成すとあり、又別記に、同十九年八月九日、
伊勢において天照皇太神宮、野上邑に飛び遷り給うという託宣があり、これ兵乱の兆相であると云われた。

(新東鑑)

大坂の陣の前の、様々な怪異について
0169人間七七四年
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2021/11/10(水) 00:41:40.00ID:crVLGK3A
集団ヒステリーみたいになってたのかな
0170人間七七四年
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2021/11/10(水) 01:37:24.50ID:Ol1jRi9E
秀吉存命時から秀吉の目が届かなかったら盗難割と頻発するくらいには風紀乱れてるようだしなぁ大坂城
それにプラスして上の逸話みたいに浪人どんどん入ってくるし雇うし、治安最悪すぎてみんなヒステリックになってそう
0171人間七七四年
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2021/11/10(水) 18:23:53.08ID:5L2Ib+fa
薩摩浪人はこれまた。
伊集院の残党かな。
0172人間七七四年
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2021/11/10(水) 20:41:20.25ID:Ivq4TMV4
江戸城も元禄の頃になるまで風紀乱れまくって
そこらで立ちションするやついたしむべなるかな
0174157
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2021/11/10(水) 22:55:44.33ID:kAU9beHY
上野の妙喜法印以外は八天狗のようだ
妙喜法印は四十八天狗の一人、上野国妙義山の日光坊?
(東照大権現に日光山から追い出されて妙義山に移った伝説があるから違うかも)
なお菅原道真の師匠で、菅原道真の霊を退散させた比叡山の法性坊も四十八天狗にいるが、妙義山でも祀られてるからこちらだろうか
平田篤胤「仙境異聞」では天狗に拐われた少年・寅吉に平田篤胤が
「小田原最乗寺の道了権現、秋葉山の三尺坊、妙義山の法性房とお前の師匠の天狗は交際があるか?」と尋ねているようだし
妙義山の法性坊も天狗の中では有名だったようだ
https://i.imgur.com/3acca7H.jpg
(「北野天神縁起絵巻」を元にした漫画、坊主の方が法性坊)
0175人間七七四年
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2021/11/11(木) 14:28:38.25ID:4d0f0d9e
ある雑記に曰く、大猷公(徳川家光)の御代、老臣の面々に仰せに成られた

「豊国社が現在廃れているが、これは道理に当たらない事だ。秀吉に於いては敵と称する類に非ず、
そもそも当家(徳川家)興立の事も、彼の恩義に寄ってのものである。であるのにかの霊社を捨てるのは
いかがだろうか。頃く修理を加え、祭祀の礼を以てすべし。」

この時、酒井雅楽頭忠世が云った

「上意の趣、謹んで承りました。但しつらつら考えてみた所、神霊は人の敬に集まり、神威はこれより
生じます。これを廃する時は威が無く、威が無い時は祟りを成しません。
今、たとえ上意の如くしてこれを祭ったとしても、正しく社稷の嗣である秀頼公は御敵として亡命しており、
である以上どうして神霊が祭を受けられるでしょうか。
恣に今これを取り繕えば、これ則ち御武威の虚となって、邪気がこれに乗じて禍害を成すでしょう。
ただそのままに差し置かれるべきです。」

この意見を公も信じられ、その後これについての御沙汰は無かったという。

(新東鑑)

豊国社についての徳川家光と酒井忠世のやりとり
0178人間七七四年
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2021/11/13(土) 16:15:24.31ID:FQlv6jhO
安宅冬康は善心の名君なれども人情の薄い乱れた末の世となり、猛悪が畿内に広がった。

故に三好長慶卒しなされて後、三好氏族は集議して左京大夫(三好義継)と阿波屋形(三好長治)に
讒して曰く、「冬康は天下の執事の望みがある故に、阿波淡路の兵将を懐けて諸国に睦をなし、
義継と長治を軽んじ申しているので、すぐにでも謀を巡らしなさらねば後難はまぬがれません」と相通じ、
このため義継と長治より大兵を催し、淡路由良の城を攻めた。

冬康はこれを聞いて「愚昧の者どもの悪業なれば諭しても分別はすまい。三好家の滅亡も近年中であろう。
先祖累代勲功をなして興起した当家を、愚昧の氏族どもが集まって破滅することこそ無念である。
それでは黄泉の道に出立しよう。今生の思い出に連歌を催さん」と、表八句の連歌をなされた。

その七句目「蘆に薄の交る一村(アシにススキの交わる一群)」に、
八句目「古沼の浅き方より野となりて(古沼は次第に乾いて野となりアシは少なくなった。世は移り変わるのだ)」
と冬康は句を付けなさり、大いに喜んで「さても快し。これまでなり、いざ打って出よ!」と、
城門を開けて突き出し、ついに戦死なさると聞く。

三好家滅亡の前兆であろうか、智能の子弟生まれずして愚昧の氏族が充満し、
自らの門葉の鏡とするべき冬康を失わせたことこそ浅ましきことである。

讃州の安富筑前守が淡州の役に死すと家の記にあるのもこの時であろう。国は遠く人伝に聞いたので、
その事実を洩らすことは本意ではないが、後時によく知る人を待って記すものである。

――『南海通記』

冬康殺害を長慶死後とするのは著者香西成資の意図なのか、そう伝承されたものだろうか。
『三好別記』では最後の句を三好実休討死の報を聞いた直後に長慶が付けたものとしている。
0179人間七七四年
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2021/11/13(土) 23:23:55.82ID:xQThuIil
香西成資は讃岐香西氏の一族だが、小幡景憲に甲州流を学び軍学者として1682年黒田家に仕官、
福岡城下で四国の戦国史(南海通記)を執筆

こういう経歴見ると胡散臭いし思惑もすげえありそう
0180人間七七四年
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2021/11/14(日) 17:12:00.36ID:6NTUgv30
或る記に、太閤御在世の時、長宗我部元親は京都より国元の土佐に下り、一門衆・家老を集めて申した
「嫡子孫三郎(信親)が討ち死にしてより、未だ家督を誰に継がしむべしとも定めず、私も傾く年齢と成った。
そこで信親の娘を右衛門太郎(盛親)に嫁がせ、家督に立てようと思う。如何あるべし。」

そのように尋ねると一座の人々は、盛親が不肖であることを知りつつ、敢えて返答する者も無かった所に、
元親の婿である吉良左京進親実が進み出て言った

「信親御息女を右衛門太郎殿の奥方と成して跡継と成されるというのは、御嫡子の筋目立つに似たりと雖も、
津野孫次郎殿(親忠:吉良親実が実際に跡継として推したのは次男・香川親和とされ、ここでは
三男・津野親忠と混同されている)は、秀吉公にも知られておられ、御器量も優れておられます。
津野氏の家を別人に御相続仰せ付けられ、孫次郎殿を御家督に立てられることが宜しいでしょう。」

そのように申すと元親は聞くやいなや
「いやいや、盛親を家督に立てるのが道の正しきに叶い、家長久の基である!」と、甚だ不興げに
申された。しかし親実は重ねて
「私は何れにも親疎はありません。私の申し上げる所は国家静謐の基を固く定めたい為に
考えたところなのです。」と諫言した。すると家老である掃部助元辰(比江山親興)も、
最前よりこの座に在って控えていたのだが、進み出て

「只今吉良氏が仰せに成った事は、誰かのためというような、依怙の沙汰では有りません。
御家繁栄、子孫長久を祈る良策でありますから、是非ともこれをご了承なさるべきです。」
と諌めた。

しかし元親はいよいよ怒れる顔色にて、一言の答えも無く座を立ち、奥へと入った。そのため、
その日の相談は中止と成った。
然るに佞臣たちが元親の傍に在り、親実、元辰両人の事を様々に讒言したことで、遂に
天正十六年十月十四日に掃部助に切腹を仰せ付けられた。親実もこれを聞いて、同じく切腹したとか。
(吉良親実の切腹は実際には天正十七年九月以降と考えられる)

その後は誰も元親を諌める者は無く、思いのままに盛親を立て、家督としたという。

(新東鑑)

「七人ミサキ」の話に繋がる、長宗我部家盛親家督相続についてのお話
0181人間七七四年
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2021/11/14(日) 21:20:30.39ID:IQGWWaTq
悪貨は良貨を駆逐するの典型だな、ここ最近は
0182人間七七四年
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2021/11/14(日) 22:55:10.99ID:ANAH8LIg
とっくに人は駆逐されてるだろう
ひたすら機械的に逸話転載してる人がいるから
レスだけは定期的にあるけど
0183人間七七四年
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2021/11/15(月) 01:51:14.03ID:9pACqh2i
>>179
南海通記は南海治乱記を増補したもので内容はほぼ同じ
治乱記は黒田家仕官前に完成したので思惑があったとしても黒田家は関係なさそうだ
0184人間七七四年
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2021/11/15(月) 16:14:38.47ID:jIwKfpHp
或る本に、豊臣秀頼公が大阪籠城との噂があったため、京都所司代である板倉勝重は
長宗我部盛親を招き饗応の上に、

「貴殿の御事は、(関ヶ原とその後の土佐での騒動で)一旦御不審を蒙られたが、私がこのように
有る上は、宜しきように相計らい、帰国のことを執政申すでしょう。
ですので、例え大阪から召されたとしても、決して許諾されないように。」

そう懇ろに申されたので、盛親もこれに同意した。
そして勝重の邸宅より、直に大阪に下ったという。

また或る本に、無禅という人物があり、彼は七歳の時より近衛家に召し使われ、七代の間近衛殿の門を
出なかった奉公人で、百十九歳まで生きたが、相国寺門前に家があった。
また、同町の藪の中に、寺子を取って物を教え、渡世していた浪人があった。

大阪籠城の刻、ある朝、かの浪人が二、三人と共に甲冑を帯びて発足した。
この浪人が長宗我部盛親であったことは、後に知れた。
無禅は同町において、「異なる出で立ちの男かな。」と、盛親を直に目の当たりにしたと語った。

後で聞くと、寺町今出川の辻に於いて、この一行は二、三十騎ばかりになり、馬鑓等を持たせていた。
寺町三条に至ると二、三百騎になり、伏見では大方千騎にもなったと人々は言い合った。
珍事であるので町所より所司代へ訴え出ると、板倉の某は大いに怒り
「それと知っていれば討って捨てていたものを!」と言われたとか。

当時こういった物語が日々数多有り、皆実見の事だという。

(新東鑑)

長曾我部元親の大阪入城についての逸話
0186人間七七四年
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2021/11/15(月) 16:58:20.68ID:jIwKfpHp
>>184
すいません変換ミスです。最後の所、長曾我部元親→長宗我部盛親
0187人間七七四年
垢版 |
2021/11/15(月) 19:31:12.95ID:4VWoDzSk
>>182
それが悪貨でしょう
なにが面白いのか分からない長文の書き込みを連投されて
読んだ史料を書き込むスレを立てた方がいいのかな?
0188人間七七四年
垢版 |
2021/11/16(火) 04:47:44.62ID:VOQSY8ud
>>187
悪貨でスレが死に体なのは否定してないだろ
それが最近に限った話じゃないというだけで
0189人間七七四年
垢版 |
2021/11/16(火) 06:18:40.76ID:c/W8y1p0
そこであなた方良貨が率先しての出番ですよ!
いやホントに
0191人間七七四年
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2021/11/16(火) 17:21:56.14ID:pClttnhG
或る記に、上方で石田三成らが挙兵した時、真田安房守(昌幸)は息子の伊豆守(信之)を呼び寄せ、
「豊臣家に従わん」と申し聞かせたが、信之は一向に同心しなかったために昌幸は不興の顔色にて

「私は既に老年であり、立身の望みは毛頭無い。然れども海野家(真田は海野小太郎幸常の裔である)の
再興を思い、次には其の方や左衛門佐(信繁)を世にあらしめんが為ばかりに存じ立った事であるのに、
汝は内府(徳川家康)の家来である本多中務(忠勝)の縁者であることを以て、親の命に背き
不届きである!」と申した。

これに信之は、偽って答えた
「近年内府の御懇志について、一旦は私の考えも申し述べました。しかし父上が是非にも上方と
御一味するとの思し召しであるのならば、御意に従うより他はありません。」

この言葉に安房守は大いに喜び、
「其の方同心の上はいよいよ相談を遂げ、秀頼公へ一忠節無くては叶うべからず。それについて
一層熟考致すべし!」
と申すと、伊豆守も
「なるほど、心得ました。」
と言ってその座を立ち、勝手の方より密かに外に出ると、直ちに馬に打ち乗って陣所を出、
関東の味方をしたという。

(新東鑑)

信之が昌幸を欺いて徳川に味方したという、「犬伏の別れ」の別バージョン?のお話。
0192人間七七四年
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2021/11/16(火) 18:04:39.49ID:W0ajfcUM
良い悪い話スレまとめの管理人が自分のブログの為にやってるんじゃないの
勝手に私物化して動画にまで手を出してるみたいだけど
何か勝手に私物化されだした頃からもうこのスレに協力するのは止めた
0193人間七七四年
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2021/11/16(火) 18:18:34.28ID:fQObzDUl
結局なんのなんの理屈つけて
「逸話は投稿しませーん、文句だけ言いまーす」
って事か。なるほど悪貨だ。
0195人間七七四年
垢版 |
2021/11/17(水) 07:56:01.54ID:NJoySAHn
>>192
何をいまさら嘆いたところでもう遅い
そういった利己的なやつのせいで良い悪いスレはもうとっくに死んでる
勝手な振る舞いに嫌気がさして去ったやつ等も戻っては来ない
今はただ強欲管理人がスレ維持の為にコピペ貼るだけのスレになった
0196人間七七四年
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2021/11/17(水) 08:22:40.94ID:WWXSk6Hc
管理人云々というのもいるからやろうに
0200人間七七四年
垢版 |
2021/11/19(金) 13:00:05.02ID:furH5ySo
「醒睡笑」とともに落語の元祖とされる「昨日は今日の物語」から

昔、下京に道無というものがいた。
良い娘を持っていたため他人が縁談を勧めた。
道無「相手はどのくらいの身上か?」
「四国の主であったが、今は浪人じゃ」
道無「おかしなことを、十石取りにでさえ惜しむ娘を四石取りになど」
とついに承知しなかった。

四国の主、もしあの人だとしたら縁談進めなくて正解だった気がする
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