【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】
>>627
徳川は三河時代からの統治体制だよ
北条って起源説を唱える韓国人みたいでキモいね >>628
特定の意図を抱いてわざと粗雑な書き方で印象操作か。
毎度々々飽きないことだ。
北條氏の天文二十一年(1552:氏康期)以降に於ける「百姓中」即ち農村を対象とした税体系について(「町人中」「職人衆」に対しては別体系)。
【事実篇】
1. 「年貢」=地方税
直轄領は北條に、私領等は各領主に貢納する。
検地で確定された田畠の面積に対して田一反500文又は300文、畠一反165文の基準額を掛けて機械的に算定された「村高」=基準額面税額を基本とする。
但しこれが額面通り徴集された事例は少ない。
村高から「引方」=免税額が差し引かれて「定納高」=実納税額が決定される。
引方の項目は;
・夫役に対する反対給付分(日当)
・代官給料分
・灌漑施設等の維持費分
・寺社の維持費分
・荒地除外分
等が含まれる。
実例によれば結局のところ定納高は村高の65%~78%となると云う。
また当時の壊滅的な自然環境条件による生産損失分の減免が村高の50%、時には全免となった事例もある。
(続) (承前)
2. 「国役」=国税
北條氏が領国内に一律に賦課する。
2-a 「役銭」
従来様々な名目で都度徴発されていた臨時税を廃止して定額化した。
・反銭:田一反40文
・懸銭:畠貫高の6%
・棟別銭:屋敷地間口一間35文 但し対象となるのは特定の屋敷のみ
・城米銭:詳細不明
2-b 「夫役」
定例の労役徴発。
但し下記の労役に対して村高の10%が日当として北條から村へ給付される、即ち実質的な年貢控除分となる。
・大普請役:村高20貫文に就き一人/年10日
・陣夫役:村高40貫文に就き一人/一陣10~20日
2-c 臨時普請対応労役
上記以外の臨時徴発。
次年度の減税、或いは割増日当給付の対象となる。
総論として、
以上の如き税制が明文化/体系化されていたのが北條領国の特徴と云える。
なお、これらの構成は特異な産業構造を有する村に対しては臨機に最適化されたものの如くである。
(続) (承前)
【解説篇】
幕藩体制下の近世大名領国の税制と北條はじめ戦国大名のそれとの決定的な相違は、
前者が完全なる上意下達であるのに対して後者が大名権力体や私領主と村との交渉に基づく契約行為であると云う一事に尽きる。
特に年貢村高決定の為の検地、引方決定の為の減免交渉は双方納得づくで合意・契約に至った。
北條の場合この減免交渉関係書類が多数遺されているが、
そこからは極めて細密で真摯な、時には笑ってしまうぐらい「いじましい」攻防が窺える。
その結果妥結する定納高が上述の「村高の65%~78%」であって、
これは単位耕地面積当り税額にして近世大名の85%~100%に相当するとの試算が為されている。
所謂「北條善政伝説」は伊豆時代即ち伊勢宗瑞期に於ける大震災直後の危機対応政策が核事実になったものと考えているが、
これに加えて北條氏康期以降に於ける上記税制の実運用、即ち村々の実状に応じた真摯で肌理細かい減免交渉対応の印象も少なからず加味されているのではなかろうか。
以上、
黒田基樹氏著『戦国大名』及び『百姓から見た戦国大名』に多く拠る。
(続) (承前)
さて。
>>628に告ぐ。
小生は上記北條税制が他大名領国のそれと比較して「重い」か「軽い」かの評価を差し控えた。
容易に結論の出る問題ではないと考える故である。
一方、貴君は「重課税」と断定しながら以下の点に於いて意図的とも見える無視・歪曲を行っている。
・村高の22%~35%に及ぶ「引方」の存在
・「夫役」が実は反対給付即ち富の再分配システムであること
・税構成の地域差が地域毎の産業構造を反映したものであること
これらをどう考えるのかについて回答されたい。
なお「重課税」との主張を維持するのであれば他の戦国大名諸家の実例を示した上で「北條の重税」を 定 量 的 に 論証して頂こう。
(終) >>629
徳川が「三河時代からの統治体制」を関東に於いても敷いたと云う貴見の論拠を提示されたい。
管見では徳川がどうしたか以前に、
関東従来の貫高制から近世の石高制への移行の具体的工程さえ明らかではないと認識しているが。
勿論徳川が北條の旧制を承継したとの根拠も軍記類以外には無い。
が、
江戸期になって編纂された『新篇武蔵風土記稿』等によれば、
当時なお多数の北條発給文書が村々に現存していた事実がある。
これは;
・村々の実統治を担う在地有力者(家)が北條期から変化していなかったこと
・上記書類が有効性を維持していたこと
等を暗示するものと多くの研究者が考えている。
これについて貴見を伺おう。
>>627
目安制はともかくとして、
「四公六民」というような税制は少なくとも北條領国を含む中世東国には存在しなかったものとみられる。
上記に縷々述べた如く、
北條税制は「単位耕地面積当り基準課税額」を基礎とする体系であって
「収穫高の何割」というものではなかった。
戦国時代板にもスレ立てスクリプト荒らしが来襲したようだ。
当スレも勢い上位とはいかず、流されて落ちるかもしれない。
スレ住人各位に於かれてはここまでのアーカイブを。
最近は改めて北條氏をはじめとする関東戦国大名の植林について調べたり考えたりしているage。
戦国時代板は極過疎状態で、
先刻までは2006年に立ったスレも残っていた。
そしてどういうわけか古いスレほど良質な議論の行われている印象がある。
そうしたスレ群がこの荒らしで幾つも落ちてしまうのは如何にも惜しいage。
「関東上杉」、「鎌倉&古河公方」、「里見」、「埼玉の武将」、「東京の武将」、「明応の政変」、「水軍」、等々の良スレ群。
何とか耐えて残ってもらいたいが…age。 スクリプトは一晩中一時間置きに繰り返すと云うわけか。
冬ごとに越山して来る越後勢のようだ。
彼等に痛撃を喰らわせて何度も煮え湯を呑ませてやった佐野、成田、北條、原にあやかってage。 >>640
荒らされる気持ちが分かったろう
反省してね 北條氏は相変わらず反省してないね
独りよがりの長文解説 他人を見下した貴君
荒らしと同類と言ってるのに理解できない北條氏 北條スレで北條を論ずる者を荒らし呼ばわりして、
己は何も論ぜず他人への誹謗を稚拙かつ粗雑な片言で垂れ流すのみ。
貴君如き輩を「荒らし」と云う。
北条が悪政で民衆を苦しめていたから家康はすんなりと受け入れられて得をしたな
その後も260年間安定統治できた 扇ガ谷上杉が北から南に攻めてくる記述とか読んでると
「何で小田急が通ってないのに来るんだよ」と思ってしまう件
京王だとそんなこと思わない 扇谷の行動経路は鎌倉往還とその間道。
今の府中街道や国道16号。
鉄道には疎いけど武蔵野線(南武線)、横浜線、八高線あたりか? 江戸を奪われてからは川越街道。
鉄道なら東武東上線。 小田原の陣により関東の名門は一度滅亡し、
河内狭山1万石の小禄を食いつないでいった。
督姫との間に男子がいれば、
ひょっとしたら因州池田に次ぐ准親藩、
国主格、大廊下下之御部屋席もありえた? 史実に対して if を構えることは無意味であるばかりか不可能でさえある(本質的にはパラドクスに陥る)。
止めた方が良い。
領土全然拡張してないのに頻繁に4万~6万の大軍で4ヶ月遠征。睨み合いで終わり退散頻繁にやってたから民から凄い恨み買ってたから。謙信、信玄いたころは国内蹂躙されてるのに引き篭もって迎撃しないへたれ
普通は国境付近で迎撃するのにこのヘタレは居城まで引き込む
謙信も信玄も容赦なく放火略奪して荒らし回った
民から相当恨み買ってる
民が税収めてるのは自分たちの暮らし守ってもらうために収めてる
なのにヘタレ北条は迎撃しないで本拠地まで攻められてるのに見て見ぬふり
敵が満足して引き上げる時点になってようやく出撃
考えてみろもし中国ロシアが攻めてきてるのに日本政府は自衛隊に迎撃させず首都に集結させ民家が焼かれ略奪されてるのに敵が飽きて帰るまでシカト
こんな政府誰も支持しないだろ
徳川北条と違って受け入れられたんだ
普通は余所者拒絶反応出て一揆の一つも起こる
信長生きてる頃に信濃に入った森長可なんかも一揆には苦しめられたし越前柴田も一揆起こされしばらく対処に時間かかった
越前入った堀も肥後に入った佐々もそう
関ヶ原なんか戦する国に一揆扇動当たり前だったからな。徳川では一揆が起きてない
民は徳川の政治が北条より良かったので起こす必要がなかった
小田原征伐前に秀吉と上野問題で仲介してもらい沼田寄こさない真田を悪者にしたが秀吉からしたら自分で切り取った領土でもないのに上野は北条のものと主張して何いってんだお前。徳川は自分で今の甲信地方を切り取った。お前は徳川に負けて撤退した。何いってんのお前はと相手にされず。
そりゃ当然のことだった 北条領の年貢は4割程度だったが他にも夫役や銭の納付も強要されて総額では7割に達していたという
そして納付期限に遅れれば斬首であり妻子と牛馬は召し上げという悪代官そのものだった
だから困窮した農民の逃散が相次ぐ結果になり焦った北条家は農民を連れ戻さないと領主をも処分すると脅した
その結果領主まで農民と一緒に逃亡するという事態に陥った
北条はヘタレというより失政により領内がボロボロで決戦できるだけの力が無かったんだよ >>634
細かい事に拘るなよ
歴史はセンス
考えるな、感じろ
三河の源頼朝、三河の足利尊氏から受け継いだ伝統と歴史を継承する責務を受け継いだけなのが三河の徳川家康だ
三河が試行錯誤して完成させた日本統治システムは、徳川が編み出した物ではない
滝山寺(三河県岡崎市)
http://takisanji.net/jihou_hou_seikanx.html
源頼朝の歯と顎髭が埋め込まれた 頼朝等身大の聖観音像
全てはこの仏像に秘密がある
源義家は郎党NO1NO2が三河武士と伝え、嫡男義親の生母は源隆長(三河守)の娘であり、実は義家実子と言われる為義の生母も源隆長(三河守)の娘と思われる
そして義国の正室は三河国造家中原季成の孫娘
源義家(1039~1106)
藤原季兼(1044~1101)
生没年がほぼ同じの、この二人、三河を舞台に繋がり持ったとしか思えないのである
義家の曾孫は源頼朝、足利義兼であり、季兼の曾孫も源頼朝、足利義兼なのである
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼を生む >>664と>>666は同じ人?顔真っ赤ですごい早口でしゃべってそう
いったい何と戦ってるの?