【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】
軍記物の記述を真に受ける軽率さも大概だけどな。
千野原靖方氏の著書等、国府台合戦の戦闘実態について現地踏査や古地理史料に依拠した蓋然性の高い推定仮説も幾つか公刊されているのに。
>>445
史料に基けば第一次国府台合戦の敗因は北条軍が簡単に江戸川を渡河できたことだろ
実際義明が傲慢だったのか、足利将軍家の血を引く自分に云々と言ったかは知らんけど、いずれにしろ江戸川渡河中の北条軍を叩けなかったことから見るに無能であると言わざるを得ない >>446
国府台合戦の戦闘経過を具体的に詳述した一次史料は無い筈だが?
渡河云々は後世成立の軍記の記述だろう。
クラウゼヴィッツが「異なる手段による政治の継続」と喝破した通り、戦争とは「構造」であり多変数函数だ。
その勝敗を決める要因はそんなに単純なものではあり得ない。
国府台合戦は上記で議論した複雑な政治性や時代性もあるが、
そもそも両軍の数も兵装も具体的なことは何一つ確定できない「解らない戦争」でもある。
そんな戦争について、
たかだか戦場の一具象(それも虚実不明)を取り上げて「敗因はコレだ!」と判ったような気になってしまう思考停止が軽率・軽薄な軍記脳だと云っている。
ヴィトゲンシュタイン曰く、語り得ないことを語ってはならない、と。
ミリタリーかじってれば一次史料もデタラメ(本人たちはそのつもりは無い)なの当たり前すぎるんだけどな
お前らもミリタリーかじれよ
日米だけでなくドイツもイギリスもソ連も戦果過大だからよ
双方の記録照らしあわせないで片方の言い分鵜呑みにする愚かさがいかに間抜けかわかるよ
二次大戦なんかどこの国も実際より三倍以上に戦果膨らんでるから
モンゴメリーなんてインパールに匹敵する兵站無視な馬鹿な作戦やって明らかな敗戦なのに勝利宣言してるしイギリス人もそう思ってて迷惑被ったアメリカ人から脳筋馬鹿と呼ばれてる
人間なんて自分の名誉のために平気でこういう事するから
イギリス系オーストラリア軍も零戦とダーウィンで10数回戦いコテンパンにやられたのに兵士の士気下げないためと国民不安にさせないために勝利宣言してる 中国も日本の台湾征伐の時に勝ったと記念日まで建てているけど
勝ったのに台湾取られてるとか意味不明w 軍記物をベースにした通説の歴史観を無視して、独自の推論を繰り広げると大河ドラマのどうする家康みたいになるぞ 軍記物も資料として無価値ではない
一次資料の補完をするのに使えるし、当時の人達の思考パターンや価値観なども読み取れるので歴史研究をする上では必読と言える
単純に小説として読んでも面白いしね >>452
「豊臣公儀」による関東制圧に際して合戦あり、落城と伝わる。
発掘調査による出土物件もこれを証明する。
少しは手前ェで調べろ。
調べれば瞬時に解る。
スレ住人はお前のパパじゃねえんだよ。 >>451
> 当時の人達の思考パターンや価値観なども読み取れる
読み取れるのはあくまでも当該の軍記の成立時点に於ける思考や価値観であることに注意されたい。
以前からよく指摘されてきたのは、多くの軍記が成立した江戸期の武士階級の価値観と戦国期のリアルなそれとの乖離だ。
武士はもとより「村」等在地勢力と大名権力体との関係を江戸期の価値観に引き寄せた軍記の記述は結果として実態に反する「歪曲」を生み出してしまった。
これを肯定することは実事求是であるべき歴史事実究明作業について百害あって一利無き先入観を与えるものと断じ得る。
あくまでも物証や数理計算によるものを第一、一次史料記述を第二とするべきであって、
軍記の類に対しては常に批判と疑念を以て向き合う態度を基本としなければならない。
>>453
そんなのWIKIで調べればすぐ出てくるんだよ なんか面白エピソード知ってる人いないかと思って聞いただけだよバーカ 第一次国府台合戦は足利・真里谷・里見連合軍と北条軍でそれぞれやる気が違っていたんじゃないかなあ。
足利:逆らう北条は討つ必要から出陣→ただし今までの経緯から適当なところで手打ちになるだろう。
真里谷:家中争いの解決の為出陣→北条に打撃を与えて北条を倒すか有利な条件を引き出したい。
里見:今までの状況から足利方についているから出陣→自分が家督を取るために組んでいたし、手打ちできないかな。
北条:扇谷上杉を倒す為には足利を討つ必要がある→家格でも勢力でも下だから相手に相当の打撃を与え る必要がある。
そうしないとこちらの言う事を聞いてもらえない。
また古河公方方にも信用してもらえない。
と言うところじゃなかろうか?
そうでもないと軍記に書かれてる足利方の油断の理由がわからない。
今まで古河公方に本気で対抗した奴は上杉や武田(信長)とかいたんだから。 第一次国府台合戦
北条→江戸城、葛西城へ進出し東武蔵から扇谷上杉を攻めると見せかけて、実は背後を脅かす小弓公方を討つのが狙いだった
小弓公方→国府台城まで進軍したが、北条軍の狙いはあくまで扇谷上杉と考え、千葉氏を抑えて、北の関宿、古河御所まで攻めようとしていた
→北条が千葉氏の内紛云々を口実に太日川を渡河したいとの申出を小弓公方は安易に許してしまった(里見は止めたが無視されたので戦意を失くし、合戦が始まると速攻で引き上げた)
おまけに形式上古河公方軍として戦ったので、小弓公方についた房総勢の戦意も低下して小弓公方軍は簡単に崩壊した >459
なるほど、第一次国府台合戦の経緯がわかったけど、
小弓公方は味方の扇谷上杉を切り捨てるつもりだったんだろうか?
それともどこかで両者を和睦させて主の役割を果たすつもりだったんだろうか? 小弓公方つったって古河公方に比べたら正統性のかけらもないバッタモンに過ぎないからな まぁ勝てば官軍ですよ
古河公方だって反逆者だったのが幕府が折れて和睦したからな >462
京都に認められたのは一応関東管領の山内上杉とは和睦後ではなかったっけ? 100年前の今日
横浜市史編纂のために集められた古文書が市庁舎もろとも焼けて失われた 北条100年王国の秘密
初回放送日: 2023年9月27日
https://www.nhk.jp/p/rekishi-tantei/ts/VR22V15XWL/episode/te/ZWQ3ZJXM39/
あの家康が政治の手本にしたという戦国大名の北条氏。
新参者としてやって来た関東で五代百年にわたる繁栄を誇り、唯一無二の王国を作りあげた。
その驚きの力の秘密とは。 すでに告知されてたw
話が通じないと面倒なので家康と北条に興味ある人は見よう、明日だ >>466
所詮は女子供向けの番組だから、むしろ当スレ住人にとっては;
・物足りない/浅い
・既に否定された古い通説
・軍記ベースでリアリティが無い
等々で鬱憤の溜まる番組になる可能性が高いんじゃないか。
北條の民生政策には或る程度言及するんだろうが、
その本質が気候変動(寒冷化)と地殻変動(大震災頻発)に対する危機管理の恒常化であることにまでは踏み込めないだろう。
宗瑞凄い!氏綱偉い!氏康万歳!で終わらなければ良いが…。
>>465
見た。
>>468で書いた予想はほぼ外れた。
意外にもハードウェアからの視座で製作された(一般向け教養番組としては)稍々硬派な内容で好感を持てた。
不足不満は多々あるものの総じて善戦したと云えるのではないか。
概略内容は;
イ. 小田原城惣構の解説
ロ. 寺社修造事業を通じた技術移転
ハ. 北條時代の利根川東遷事業
--と云った所で、特にハ項を取り上げたことを評価したい。
そのうちぽつぽつと所感など書いていく。
今週の歴史探偵は上杉謙信が主役で
北条が関東で勢力を伸ばしていて越後にまで侵入を企てたとか言っていたが
北条が越後に侵攻しようとした事なんてあったっけ? >>470
無い。
少なくとも謙信期には無い。
何故か謙信原理教信者は学者も素人も北條恐怖症のあまりそういう被害妄想に囚われがちのようだ。
そもそも不識庵その人が何やらそんな強迫観念を抱いてもいたらしいが、山内憲政あたりに有ること無いこと吹き込まれたか。
当時の北條にしてみれば
「馬鹿野郎こちとら飢饉と大水の始末で大変なんだよサの字の付く面倒くせえ連中も絡んで来やがって忙しいんだよわざわざ山ァ越えてまで遊んでる余裕なんざあるかよ篦棒メ」
と云うのが身も蓋も無い現実だったろう。
現実には北條勢が越後侵入を果たしたのは御館ノ乱の時だから童貞和尚はもう仏になっていた。 【11/3~2025/1/14,神奈川県小田原市】
小田原城天守閣で特別展「小田原北条氏誕生500年 関東の雄 北条氏綱」開催
https://news.kojodan.jp/entry/2023/10/07/163510 関連イベント
特別講演会「戦国大名 北条氏綱を語る」
日時:
2023年12月2日(土)
13:00~17:00(開場12:00)
場所:
小田原三の丸ホール 大ホール
講師:
・黒田基樹氏(駿河台大学教授)
・浅倉直美氏(駒澤大学准教授)
・諏訪間順氏(小田原城天守閣館長)
定員:
1000名
※要事前申込
参加費:
500円(資料代)
申込方法:
11月10日より受付開始 >>472-473
告知多謝。
氏綱か。
これは是非とも行きたい。
>>475
考古学成果物や同時代文献などに依拠して実証考察なんかしてみろ、
謙信カルト信者に何をされるか分かったもんじゃねえぞ。
NHK職員だって命は惜しいし家族もいる、察してやれ。 鎌倉市・古河市が協定で公方関係かと思ったら永井路子だった >>476
まあ、それだけ現実よりも理想が好きな人が多い訳。
研究者やらの先生が力説しても無駄な事がある。
諦めた方がよいかな。 越相同盟で上杉謙信の関東での威信排除したのは大きかったね。
あれで佐竹、里見は上杉信用しなくなったわ 北条と佐竹との対立が続き、交戦中のため1578年に謙信死去の際に上杉家中の内紛に同盟者の武田勝頼を派遣させたのはよかった。しかし、勝頼が景勝に取り込まれてしまい武田上杉の同盟が成立して北条と武田が対立したのは無駄だったね。
あと、1562年3月に古河御所にいた足利藤氏と上杉憲政を襲撃したのはわかるが関白の近衛前久も滞在してたのであそこで北条が前久を拉致すれば前久を北条が支えて上杉謙信の関東進攻の大義名分を完全に失う事が出来たのに惜しかったね。
後半についてはたられば論だが、上杉側の立場だけでなく北条側の古河での関白近衛前久襲撃を考察するものってないよね。 >>476
北条早雲88歳死亡説を否定したアホも殺したいわ 典拠史料はボールペンで書かれた他家(北条家ではない)の過去帳です >>481
上杉謙信の関東侵攻の目的は越後國の飢民の救済事業だから「大義名分」などは無くても構わなかった。
そもそも山内憲政の亡命さえ単なる口実だからそれが無くても何れは越山しただろう。
他方で同じく「飢饉と災害の常態化」を前提にしながら北條の領民救済政策は上杉とは全く異なるイデオロギーに基づくものだった。
どの道、両者の激突は避けられなかった。
資源を他国の略奪に求めた上杉
領民から搾り取る事に求めた北条
悲惨なのは西関東の農民だったな
上杉に略奪されるわ残ったものも北条に巻き上げられるわで 関東戦国ヲタクからすると
謙信が義の人とか侵略しなかったとか何を寝言ふかしてんだって話だよな 謙信の関東攻めは略奪目的だったなんて
あほらしい説を信じてる人もいるぐらいだしな まあ、義があったと言えばあったけどな
日本人の大半は歴史に大して興味がないし漢学も忘れてしまっているから義の意味が分からない
義がどうこう言っている人の99%以上は善の事を言っているんだよな
学者でさえも
何せ正義の対義語を悪だとみんな言うし
正義の対義語は不義であって、悪の対義語は善だ
正義と善は全く別のものであって同時に存在する訳ではない
謙信の場合で言えば謙信は義の人であり悪人であるというのが正しい評価だろう >>488
悪も善もない。
上杉謙信は小氷期の越後國の為政者として「越後の」飢民救済を図っただけ。
謙信の人格も関係ない。
或る構造の中で偶々そういう時機/立場に存在してしまっただけ。
越後人にとっては善、関東人にとっては悪と云って云えないこともないが所詮は相対的な言説に過ぎない。
ただ、客観的結果は無残なものだったから目的機能として「拙」とは云えるかもしれない。
対して北條氏康/氏政。
その意味では辛うじて「巧」と称するに足るか。
>>486
関東つか上野、下野の国人領主から見たら北条も変わらん >>490
慥かにどっちも大して変わらない筈なんだが、
正にその國衆たちが不識庵童貞和尚に不信任を突き付けて軒並み北條方になっちまったからこそ和尚は越山も出来なくなって敗退したわけだ。
>>491
その書き方だと上杉が敗けて北条が勝ったように取れるけど実際には…
って話しになるけどね >>492
正に北條の全面勝利、上杉の完全敗北。
それ以外に何がある?
戦国板に書くほどの御仁がまさか「戦争の勝敗」の定義や要件を知らないわけじゃあるまい。
それともクラウゼヴィッツ辺りを引用して説明する必要があるか?
越相同盟なんて言ってるけど実質的に上杉の降伏だもんねアレ
一方的に北条優位の内容だし >>494
あれはもう北関東戦争終了後のことだから相互に顔が立てば何でも良かったんだろう。
「戦争は、平時とは異なる手段に於ける政治の継続である。」
欧州語直訳らしい持って回った云い方をもう少し日本語らしくするならば
「戦争はあくまで政治目的を達成する為の手段である。」
北関東戦争に於いて北條と上杉の政治目的は何だったか。
それを達成したのは北條だったのか上杉だったのか。
戦争の勝敗はこの要件によってのみ判定される。
結果は明らかだ。
武田との北信戦争に於いても敗北しているが、
どうも上杉は「目的の下に行動を組織する」ことが拙劣だったように見える。
くそみたいな小理屈いらないんだよ
戦は自分達が強く偉くなる為の手段でしかない >>496
その思考自体がスレチ、否、板チだと気付け。
ここは苟くも歴史を語る板だ。
ゲームやマンガに受けた洗脳から脱して、
まともな学術研究論文の一つも読んでから出直して来い。
さもなきゃソッチ方面の板にでも行くんだな。 >>497
すまんがお前の書き込みも妄想してるやんな
学術レベルってなんの話だ?
笑わせないでw 荒れてると思ったらまた北條氏か 北条の話題だと必ず顔出すよねw
戦国板住民を馬鹿にして見下すのにいつまでもいる奴
北条擁護ばかりで子孫なのだろうか 北条氏のスレで北条の話を出すと荒れるってことはアンチが暴れているのか まあ、捏造伝説を何百年も垂れ流し続けている長尾上杉関係者の方がタチが悪いね
あれに比べたら北條君なんて可愛いもの 略奪者上杉は北条スレも自分のものだと思っているんだろうね まあ北条スレだからと言って北条有能!
ってやる必要はないし、実際有能だったらあんな無様な最期にはならんと思うけどね
その無能な部分すらここでは北條氏のアクロバティックな擁護があるってだけで 最後が駄目なら低評価というのなら織田信長より六郷政乗や分部光嘉の方が有能って事になるのか
バカの理論ですね
当然落ちぶれた上杉景勝よりも領地を増やした六郷や分部の方が有能って事ですよね(笑) >>505
最後じゃなくてその過程な
やっぱりアクロバティックな擁護するには、その過程無視するんだ? 過程なら北条は地方大名最強ですね
上杉の支配領域なんて北条の半分程度だし雑魚ですよ 上杉は他所から人間拐って奴隷で稼ぐようなクズだから領地は必要最低限でいいんですよ >>502
北条を北條と書いて嘘ばっかり書く荒らしが住み着いているんやで >>509
そこまで云い切るんなら、
当スレの俺の書込を全て抽出した上で何処が嘘か説明してもらおうか。
「嘘」と云うなら解釈や価値観の違いレベルじゃ済まない。
当該各項の全てに逐一物理的事実の根拠を付けて「虚偽であることの証明」をしてみろ。
他人に対して無礼な罵言を吐くからにはその罵言に責任を持て。
>>511
北條スレで北條に関する考察を書く者を「荒らし」呼ばわりする。
これを荒らしと云う。
他人に喧嘩を売っておいて買われてしまうと恐慌を来して逃亡する。
これを卑怯者と呼ぶ。
…まあ、文面と文体で手前ェの素姓は割れた。
飽きもせずに粘着御苦労。
謹賀新年。
>>230に挙げた書籍が面白くて、もう十回以上読み返している。
道灌の江戸、北條の江戸、徳川の江戸、…、
実証研究が進めば進むほど中世(戦国)関東史に於ける江戸の重要性が増大してくる。
東京者としては素直に興趣を惹かれる。
近いうちに思う所を書きたい。
江戸はちょくちょく大地震が来ることがわかっていたわけで。
大地震のリスクを考えると江戸を大都市にしたのは疑問手と言えば疑問手。 ちょくちょくと言うほど来ないだろ
200~400年周期だし
災害が少なく江戸湾という大きな安定した海に接する江戸ほど大都市形成に適した土地はなかなかない
欠点としては地震よりも河川が集中しすぎて洪水が多発する事にあったけどそれも利根川の付け替えで改善できた 帝国陸軍の調査では、大地震が来ても被害が少ない場所として八王子と加古川がリストアップされた。 >>518
例えば。
日本列島の「火山地帯」と云う属性は大地震を頻発させる一方で温泉その他多大な利点ももたらしてくれる。
自然環境条件には必ずそういう両義性(多義性)がある。
同様に、
大河川の集中は定期的に水害を招く一方で肥沃な土壌や高度な河川水運と云う大きな強味も与えてくれる。
特に後者は現代交通の陸運偏重の色眼鏡を通すと見え難いが、
中世社会の構造を考える時には絶対に欠かせない要素だ。
江戸、河越、関宿、古河の水運を一体的に掌握運用出来たなら海に直結する江戸は正にハブとしての絶大なポテンシャルを遺憾無く発現出来る。
少なくとも氏康期以降の北條の江戸重視はそういうグランドデザインに拠って立つ施策だったと考えられる。
掘立て平屋と土の道路
地震で壊れようが洪水で壊れようが現代のような産廃は出ない >>523
西洋由来の「現代文明」なるものが如何に狂った方向へ走り続けてきたか、と云うことですな。
先人たちに顔向けできない。
系図 享禄
信玄の書 弘治
なお系図の書式は江戸時代
3000円 >考えられる。
長々書いて結局根拠史料も提示できない妄想か 地元・北多摩地域の北條期について調べるうちにこんな資料を見つけた。
https://adeac.jp/kodaira-lib/text-list/d100020/ht000180
https://adeac.jp/kodaira-lib/texthtml/d100020/mp000010-100020/images/025.jpg
井戸の深いことで知られる武蔵野台地。
その深さが近世まで開発を限定してきた--と、俗説ではそういうことになっている。
しかし「地下水堆」「宙水」と呼ばれる浅井戸帯も少なからず存在していて、その地上には古来集落が営まれてきた。
上図は浅井戸帯の分布図の上に『北條所領役帳』所載の被官拠点集落(図中の「〇」)を記したもので、両者には見事な相関が認められる。
そこには我が町の名前も見える。
小生は元々武蔵野の中小河川群に強い関心を持つ者だが、
そのせいか斯様な図を見ると現代の武蔵野と北條期のそれとの間にか細い、しかし確かなリアリティの糸が繋がったように感じられる。
神奈川県立歴史博物館
@kanagawa_museum
当館では特別陳列「戦国大名北条氏と西相模・伊豆」を3月16日(土)から開催するぞ。
珍しい使われ方をしている北条家朱印状、伊勢宗瑞の動向を伝える古文書や、北条氏綱時代を知るための重要資料である「快元僧都記」など約20点を展示するのじゃ。
みなが来るのを楽しみに待っておるぞ。 前に子供に聞いたら「わかった!絵描きだ!」って言われたことがある 正直自分も知らなかった
関東に上杉がいたことすら知られていない >>230に挙げた齋藤慎一氏の『江戸 -平安時代から家康の建設へ』に拠りつつ、
北條の江戸について。
巷間今なお抜き難い「江戸は家康から」なる虚構に反して、
北條は扇谷/太田から承け継いだ江戸城と城下町の拡充整備を継続的に施工していた。
先ずはその始点となった太田道灌の江戸。
城域は淀橋台の平川右岸低地に果てる突端、
今日の本丸から道灌濠の東側即ち今日の西ノ丸にかけての区域だったとみられる。
今日の北ノ丸、吹上曲輪、西ノ丸下などは未だ存在しない。
平川が城の北から東へ巻き込むように流下、
南の平川湊で日比谷入江に注いでいた。
道灌濠(人工溝渠)、平川(自然河川)、日比谷入江(海)によって四方に水面の防御線を構える実戦的な城だった。
当時の城域は台上に限られていて段丘面から平川右岸低地、今日の二ノ丸・三ノ丸に当たる区画は城外だった。
大手は今日の平川橋でこれを「高橋」と云った。
今に姿を留める梅林坂は台上の城から段丘面を高橋に下りる道の名残で、
これは西方から城内を貫いて北東へ抜ける「鎌倉大道」の一区間でもあった。
高橋の上流側と下流側、両岸にわたって展開していた城下町「上平川」「下平川」或いは「平川宿」は、
鎌倉大道と平川舟運の交差する「舟車之会」を成して大いに繁栄していたと同時代文献は記す。
(続) (承前)
北條の江戸城、ハードウェア篇。
北條期の主要な城域整備工事として確定的に把握されているのは概ね以下の如くである。
イ)城域の拡大:台地東段丘面から平川右岸低地「上平川」「下平川」区域の城内取込=寛永以後の二ノ丸・三ノ丸相当区域の形成
ロ)イ)に伴う平川の流路改修:今日の内濠東半部原形か?
ハ)城大手の変更:「高橋」=平川橋/平川門から「大橋」=大手門橋/大手門(北條期の架橋)へ
ニ)イ)に伴う城下町の移動:大手門橋前(東側)区画「大橋宿」へ
総じて城の東面の拡充強化に注力していたことが推察される。
内濠の整形、大手の位置と方向、後年の「大手前」相当区域の城下町化など、
今日の江戸城現地に土地勘のある人なら直観できると思うが、
徳川期江戸城内郭東面の祖形が漸く現れつつあったと云えるだろう。
他方、
城域南東面の日比谷入江は道灌期と概ね変わらぬ姿であったかと推測される。
大橋宿も平川宿と同様に繁華の巷となっていた由、舟が大橋まで上って来ていたことに疑いを容れない。
即ち日比谷入江が舟運通航可能な状態を留めていたことを意味する。
かつては「大橋」を常磐橋に比定して平川の流末付替--平川湊から江戸前島を挟んだ東方の江戸湊へ--を北條期の工事とする説もあったが、
これは通説通り徳川期の仕事と見て可のようだ。
(続) (承前)
明らかにならないのは西側即ち今日の吹上曲輪である。
吹上曲輪の西縁を限る内濠西半部の完成は勿論徳川期に入ってからのことだろう。
これは牛ヶ淵、千鳥ヶ淵、半蔵濠、桜田濠によって構成されるが、前三者は局沢川、桜田濠はまた別水系の小河川を原形とする。
つまり北條期までの吹上曲輪相当区域は東を道灌濠、西を上記諸河川の谷によって明確に区切られた台上の区画だったと云うことになる。
諸々の古記録や諸碩学の論考を見るに当時此処が城外であったことは間違いない。
しかし上の如く何らかの施設を構えるに究竟の一画を北條は勿論のこと太田道灌ともあろう者が原野のまま放置したとは素人目にも不可解の感を禁じ得ない。
これは全く無根拠の話になるが、
後述の理由によって少なくとも北條期に於けるこの区域は城外ながらも「準城域」とも云うべき占有地だったのではないかと想像している。
以上、北條期江戸城の物理的構成は;
・今日の本丸、西ノ丸、二ノ丸、三ノ丸に相当する城域を有する
・平川、道灌濠、日比谷入江を外郭線兼防御線とする
・今日の大手門と同じ位置に大手を構える
・大手に架橋された大橋を街区生活圏の要とする
・大橋の東側に城下町として大橋宿を擁する
・城域西側の台上区画を附帯占有区域とする(?)
--と概括される。
(続) (>>537から承前)
北條の江戸、ソフトウェア篇。
北條期に於ける江戸の位置付け・運用は概ね以下の諸点に要約される。
イ)利根川水系戦線の前線基地
ロ)大規模動員時の集合出撃拠点
ハ)関東交通網のハブ都市
ニ) 「鎌倉殿」御座所計画地
ホ)北條領国両都体制計画地
イ)については元来江戸城が享徳ノ乱初期に於いて御所方の上総武田・千葉・安房里見等房総勢力群に対する攻守拠点として築城されたものであることを考えれば当然ではある。
皮肉にも扇谷から城を奪った北條もまた同じ勢力群を主敵とする「利根川戦争」構造に引き摺り込まれて行った。
ヒトの些末な意志など無化して類型行動を強要する「利根川」に魔性さえ感じるが、それはまた別途。
齋藤氏はこの軍事状況が北條期江戸城の大手移転=房総に向かう東面の「正面」化の動機であると考察する。
(続) (承前)
両度の国府台合戦に見る如くロ)はイ)を包括するが、
その他にも関宿や岩附方面の戦争等北條宗家直率軍が動く大規模軍事行動に際しては先ず江戸城に入城、
支領勢や近隣の味方國衆勢の集合並びに戦争機材の集積を待ちつつ情勢分析や軍議を尽くしてから出撃していた。
北條の江戸重視の証左であるが、
実はこれが上述の「吹上曲輪相当区域は準城域だったのではないか」と云う私見の切掛にもなっている。
北條の盛期に於いては上記の如き動員は四桁台後半、万に迫る軍勢を集めたことだろう。
その全てが当時の城内に集合し得たとは物理的に考えられない。
少なくとも数日間、厖大な人数の集中屯営できる空間が確保されていなければならない。
推考の仔細は割愛するが、
北條勢力圏の方角や主要道路/水路の筋等も勘案すると当時の江戸城至近でこの要求に堪え得る場所は吹上と神田の台くらいしか無かったものとみられる。
戦国期である以上斯様な軍事行動は頻繁に行われたわけだがその狭間に一般住民が居住・耕作等するようでは有事の運用に支障を来す。
一定以上の制限を設けた占有地的性格の空間ではなかったかと推測する所以である。
異論は勿論あろうかと思うが。
(続) 秀長を主人公に豊臣兄弟を作るなら幻庵を主人公にして北条一族も作ってくれ >>542
伊勢宗瑞(北条早雲)は何故実現しない?
新説の幕府史僚出身は確定してるし。 戦国初期は人気がない
後の世代は見せ場ない
最後に至っては太閤記の引き立て役の存在でしかない