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【事実篇】

1. 天正十四年(1586)五月
 佐野、結城、佐竹ら北関東反北條連合の主要構成要素に羽柴「豊臣」権力体からの停戦命令伝達。
 この段階で北條には未達。

2. 天正十四年(1586)十一月
 徳川家康が羽柴/北條間の調停開始。
 停戦命令が初めて北條まで到達。

3. 天正十五年(1587)
 北條、対羽柴戦争準備。

4. 天正十六年(1588)正月
 北條が対羽柴戦争方針を撤回。
 和平=実質的には対羽柴従属方針へ転換。

5. 天正十六年(1588)八月
 北條氏規が上洛、羽柴秀吉に出仕。
 併せて北條から沼田問題についての羽柴の裁定を要請。
 羽柴が北條に対する「御赦免」を表明、北関東反北條連合にも伝達。
 同時期、関東では足利事件勃発。
 北條氏照、氏邦着陣。
 但し羽柴「豊臣」権力体としてこれを全く問題視せず。

6. 天正十七年(1589)二月~三月
 沼田問題審議、裁定。
 沼田領の2/3を北條領、1/3を真田領と決定。
 羽柴は裁定の前提条件として北條氏政または氏直の上洛を要求。

7. 天正十七年(1589)三月
 足利事件収束、足利城破却。
 北條軍撤収。
 同時期、石田三成が宇都宮国綱に上洛催促。
 書中で羽柴「豊臣公儀」体制への北條の参入決定を明言。

8. 天正十七年(1589)六月
 北條が「豊臣公儀」に対して氏政の翌年正月上洛(十二月に小田原出立)を確約。

9. 天正十七年(1589)七月~八月
 沼田裁定執行完了。
 北條が「豊臣公儀」からの執行使を歓待。

10. 天正十七年(1589)十一月
 名胡桃城事件勃発。
 羽柴秀吉が北條に対して宣戦布告。
 「近年、北條事、公儀を蔑し…」

(【解説篇】に続)